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未完の魂、死の予定表

Chapter 5

§ユレフ=ユアン§

 一日目
 二日目14:55□メイドから渡された物を保管庫に放つ□
 三日目15:46□書庫の本に挟まれている包み紙を紙箱に入れてプレイルームに持って行く□
 四日目
 五日目
 六日目22:06□キッチンのヨーグルトに玄関ホールの花瓶にいけられた花のエキスを混ぜる□
 七日目
 八日目19:42□プレイルームで『精神安定剤』を手に入れる□
 九日目
 十日目10:00■メイドの案内に従う■

 † † †

 よく分からない。どうしてこんな気持ちになるのか。
 自分は敬愛するアクディ=エレ=ドートによって生み出された完全なソウル・パペット。人工ソウルだけから創られたアーニーや、コールド・エッジで死んだ人間をベースとしたギーナのように不完全な存在ではない。アクディからソウル・パペットとさえ呼んで貰えなくなった彼らとは違う。
 知識として身につけられる物は全て身につけた、薬草学、美術学、天文学、地学、化学、物理学、惑星学、光闇学。そして――殺人学も。
 優良種を選別するため、ギーナと自分が競い合うように仕向けられた時も、すべて勝ち抜いてきた。アクディも褒めてくれた。これで良いのだと確信していた。
 そして今回のゲームにも勝って、またアクディに頭を撫でて貰おうと思っていた。
 勝つ自信はあった。今までのゲーム以上に。
 なぜなら自分は最初から特別扱いだったのだから。
 ゲームが始まる前夜。自分の部屋にアーニーが訊ねて来た。そして教えてくれた。
 ――招待客全員分の予定表の内容を。そして予定表の内容を教えたり喋ったりしてはいけないというルールが嘘である事を。
 ソレを聞いた瞬間全てが理解できた。このゲームの意味とアクディの考えを。
 自分はついにアクディに選ばれたのだ。このゲームで確実にギーナを殺して、アクディからの寵愛を独り占めする事が許されたのだ。
 そう信じて疑わなかった。コレまでと同じように。気持ちが揺れる事など全くなかった。
 なのに……。なのに今はどうして……。
 いつからだ。いつから自分はこんなにも脆弱な精神の持ち主になってしまったのだ。
 一日目。全く問題なかった。
 ベルグの予定表の内容から大浴場に先回りし、彼を待ち伏せた。そしてギーナの事を聞いた。怪しい反応は全く無かった。
 彼は初めて話をした時から違うと思っていた。いくら外見を変えたといっても、本質の部分まで変わるわけではない。ギーナは彼のように気さくな性格ではなかったし、ライバルである自分を思いやるような事をする奴ではなかった。
 玄関ホールでルナティック・ムーンを見ていたローアネットとも話をした。
 アクディの事について聞くと嫌いだと言った。カンに障ったので少し脅してやったら、意外にも気丈な反応が返ってきた。確定ではないが、恐らく彼女もギーナではない。ギーナはもっと卑屈で意志の弱い性格だった。
 大広間ではノアと話した。この女が一番怪しいと思っていた。
 陰湿そうな性格もそうだが、彼女からは何か漠然と自分と似たようなモノを感じた。もし彼女がソウル・パペットならば、そういう雰囲気を持っていても不思議ではない。
 だから最初から疑ってかかった。そしてハッキリ『お前が嫌いだ』と言われた。
 ほぼ確信した。
 ギーナはノアに変身していると。
 ギーナは自分との勝負に一度も勝てず、殆どアクディに褒めて貰えなかった。だからいつも自分の事を恨めしそうに見ていた。しかし、誤って殺してしまってはアクディに怒られる可能性もある。
 だからとりあえず招待客全員と話し終わるまで保留しておいた。
 二日目。この日も問題なかった。
 アーニーから渡されたネズミを数匹保管庫に放った。ローアネットの嫌いな物らしい。多分、一日掛けて調べていたのだろう。これでヲレンの死の伏線がまた一つ張られた。
 昨日、彼を探し回ったが結局会えなかった。だから予定表の内容から行動を読んで、中庭で話をした。
 正直言って完全な白とは言い切れなかった。しかしやたら生に執着した顔つきは、かつてのギーナには感じられなかった。それにヲレンなどより遙かに怪しい人物が居る。
 もう間違いない。実行しても大丈夫だ。
 そう思ってノアに会いに行った。
 リッパー・ナイフを喉に当てて脅し、無様に泣き叫ぶのを見ながら殺してやろうと思っていた。
 しかし――
 そうだ。あの時からだ。自分の中で妙な戸惑いが生まれ始めたのは。
 ――殺してくれ。
 ノアは自分にそう言った。死を望む人間など初めて見た。
 この洋館に居る時以外は、自分とギーナは王都で暮らす事が義務づけられている。外界に触れる事で生きた知識と経験を手に入れ、より能力を高めるために。
 そこで沢山の人達と話をしてきたが、ノアのような考え方をする人間は一人も居なかった。皆、頭の悪い低脳な人間ばかりだった。体だけが大きくて中身の伴わない、愚鈍な輩だけだった。
 しかし、ノアは違った。
 確か『死』とは誰もが拒絶したい恐怖の対象だったはずだ。なのにノアはソレを望んでいた。
 分からなくなった。
 これまで身に付けてきた知識や知見だけでは理解できない。あれだけ多くの書物を読みあさり、色んな人々と触れ合ってきたのに、ノアの思考を説明できる単語が思い浮かばない。
 分からなくなった。
 自分の考えている事が絶対に正しいのか。
 分からなくなった。
 本当にノアがギーナなのか。
 確かめる必要があった。もっと確実な方法で。
 招待状には『変身能力を使わない事』と書かれてあったが、当のアクディはまだ一度も姿を見せていない。この洋館のどこに隠れているのかは分からないが、きっと少しくらい使ってもバレないはずだ。
 だから姿を変えた。アクディに。
 そしてまだ僅かに疑いの余地があるヲレンとローアネットの前に現れて、二人の反応を見た。
 今度こそ間違いないと思った。
 ギーナはヲレンだ。
 アクディに『様』をつけて呼ぶ者はそうは居ない。それにあの切羽詰まった態度。普通の信者では有り得ない。間違いない。確定。そう、確定だ……。
 なのに、どうして確信できない? いつものように、絶対に自分の考えは間違っていないという強い自信を抱く事が出来ない。どうしても疑念が残ってしまう。
 理由は、分かっている。
 ノアだ。
 彼女に触れて少しおかしくなってしまった。このままではいけない。何とかして彼女の考え方を自分の中で咀嚼し、身に付けなければならない。どんな事にも例外を許してはならない。例外があればそれが隙になって考え方に揺れが生じる。
 今回のように。
 それに新しい事を理解して吸収すれば、自分は更なる高見に行き着く事が出来る。
 自分は天才だ。完全なソウル・パペットだ。どんな事でも出来るはず。他の誰も出来なくても自分だけは出来るはずなんだ。
 だからもう一度ノアと話をした。
 相変わらず彼女は自分に『殺してくれ』と言ってきた。それ以外は興味が無いようだった。
 疑問を解決するどころか、会話する事さえさせてくれない。
 何とかして気を惹かなければならない。自分と話をするように仕向けなければならない。何とかして、何とかして――

『分かっているとは思うが、お前達の変身能力は絶対に人前では使ってはならない。絶対にソウル・パペットだと疑われるような事はしてはならない。絶対にだ』

 それはアクディから何度も聞かされていた言葉。自分達がソウル・パペットだとバレれば王都どころか世界中に居場所が無くなる。そんな事は言われるまでもなく理解していた。自分より遙かに能力の劣るギーナにだけ言って欲しいと思っていた。
 なのに……。
 ノアの気を惹くために見せてしまった。変身能力を。そして自分がソウル・パペットである事まで喋ってしまった。
 どうしてここまでする必要があるのか、自分でも理解できなかった。また分からない事が一つ増えた。ただどうしても、彼女ともっと会話したかった。
 ノアは聞かせてくれた。彼女の過去を。どうして死にたいと思ったのかを。
 しかし、やはり理解できなかった。
 彼女が歌を大切に思っている事は分かった。十分すぎる程に理解できた。
 だがいくら大切な物であっても、ソレを失ったから死にたいという感情は理解できなかった。死ぬのは恐いはずだ。生命機能を遮断するためには、肉体的にも精神的にも相当の苦痛を強いられる。ノア自身、その事はよく分かっているようだった。なのに彼女は殺して欲しいと言っている。
 分からない。矛盾点が多すぎる。
 話をすれば少しは理解できるかと思っていたが逆だ。余計に訳が分からなくなった。

『じゃあ、軽はずみに『殺す』なんて言わない事だな』

 理解の近道としてノアが言った言葉。
 さっきまでは殺してくれと言っていたのに……。
 彼女の言う事はあまり難解だ。これまで読んできたどの学術書よりも。
 死ぬとはいったいどういう事なのだ? どういう気持ちになるものなのだ? 単なる恐怖の対象ではなく、まだ他に何か複雑な物が絡み合っているのか?
 分からない……。さっぱり分からない……。
 次の日、ヲレンが死んだ。死ぬべくして。
 自分が保管庫に放ったネズミで驚いたローアネットが、ノアの用意したワインの瓶を倒し、それによって出来たガラスの破片に喉を突き刺された。ベルグが床に巻いた油に足を取られて。
 ギーナはほぼ間違いなくヲレンだ。彼が死んだという事は、自分はギーナとの勝負に勝った事になる。またアクディに褒めて貰える。なのに……なのにどうして達成感が湧かない? いつものように勝利の喜びに浸れない? 胸にあるのは、ただただ空虚な思いだけ。自分の知っている言葉では説明できない、もどかしく歯がゆい気持ちだけ。
 やはり彼はギーナではなかったのか? ローアネットの方だったのか?
 ノアはヲレンの死を見て落胆したと言っていた。自分が死ぬ番ではなく残念だったと。
 まだ理解できない。彼女の考え方が。
 ローアネットの死には立ち会わなかった。見てもまた混乱するだけだ。
 彼女は『開かずの間』に入って死んだ。その鍵はノアが包み紙に、自分が紙箱に入れ、ヲレンがさらに封筒に入れて玄関ホールの花瓶の中に放り込んであった。酸度の高い水によって紙はじわじわと溶け、二日後にベルグが取り出して『開かずの間』を開ける事になっていた。
 これだけ手の込んだ事をさせるのは、紙を分厚くする事によって溶ける時間を稼ぐという意味合いもあるのだろう。だがそれ以上に、全員に死の伏線を張らせるという事の方が大きい。
 その事にどんな意味があるのかまでは分からないが、予定表の内容を見る限り全員が何かしらの形で誰かの死に関わっている。
 これはアクディからのメッセージなのか? 招待状には、これが『最後の』ゲームだと書かれていた。だから今までのように単純な内容ではないのだと捉えていた。死を取り入れた真剣勝負なのだと。
 しかし、そうではないとしたら……?
 そもそも自分やギーナはソウル・パペットだ。例え肉体的な損傷により生命機能が停止したとしても、錬生術でソウルの安定化を行えば再び復活できる。それに完全なソウル・パペットである自分を選ぶだけなら、他の招待客を呼ぶ必要はない。いつも通りギーナと二人だけでいい。
 だんだんアクディが何を考えているのか分からなくなってきた。
 他の人間の死を見せる事で、自分の優位性を再確認させているのか? 生き残っている事が能力的に秀でている事の証明だとでも?
 分からない。時間が経てば経つほど、理解できない事はどんどん増えて行く。
 これまではアクディの考えや行動は自分にとって絶対的で、疑念の余地など微塵も無かった。しかし、今は――
 分からない事は本人に聞くのが一番早い。アクディはノアとは違って、理解しやすい形で答えてくれるはずだ。
 だが、洋館のどこにもアクディは居なかった。
 代わりに地下の研究室で、永冷シェルターに収められたヲレンとローアネットを見つけた。二人とも死んでいるとは思えないくらい、安らかで綺麗な顔をしていた。
 しばらく二人を見ながら、死について考えた。
 彼らは死ぬ時、どんな事を考えていたのだろうか。恐怖で埋め尽くされていたのだろうか。やり残した事を思って、このゲームに参加した事を後悔していたのだろうか。それとも、もっと別の何かを……。
 それを知るにはどうすればいい。ノアの言う事は曖昧で理解できない。
 キッチンでベルグの死の伏線を用意していたノアにまた同じ事を聞いてみた。死とは何なのか。返ってきたのはさらに頭を悩ませる言葉。
 自分の事を誰よりも良く知っているはずのアクディにさえ言われた事のない『お前らしい』という言葉。そして一般的にけなし言葉として使用されるはずの『ガキっぽい』という言葉を褒め言葉だと言っていた。
 彼女の言っている事は、論理的な思考で理解できる範疇から遙かにかけ離れている。歌声はあんなに綺麗で澄んでいるのに、言葉はよどんでいて見通しがきかない。
 もっと分かり易い言葉が欲しい。例えば、今まさに死のうとしている人が口にする言葉のように……。
 ベルグ=シード。
 コールド・エッジに冒されてなお強固な自我を保ち、自分の事を本当に気遣ってくれた人間。
 彼は頭が良い。勘も優れている。なにより行動が分かり易い。ノアと違い、ベルグが考えている事は顔を見ただけで大体分かる。
 彼はローアネットを愛していた。だから彼女のために何としてでも生きようとしていた。そしてアクディの事を心底憎んでいた。しかしソレが分かっても、不思議と怒りはわかなかった。
 ベルグは八日目の朝食の中に、毒が仕込まれていると踏んだ。
 正解だ。朝食の中には鬼茸という毒キノコが入っている。鬼茸はまずヲレンが中庭から採取し、ソレをローアネットが粉末化した。そして昨日、ノアが香草の中に混ぜた。
 これで香草スープを食べた者は三十分もすれば、毒が全身に回って死ぬ。しかし、デザートであるヨーグルトに、自分が前もって入れておいたルナティック・ムーンのエキス。これを摂れば死ぬ事はない。
 部屋のインテリアや魔術の触媒以外に、薬草としても使用されるルナティック・ムーン。そこには鬼茸の毒素を中和する成分が含まれている。
 つまり、朝食を『食べれば死ぬ』のではなく『食べなければ死ぬ』事になる。
 そう、デザートを食べなければベルグは死ぬ。間違いなく三十分後に死ぬ。
 正直、彼には死んで欲しくない。ベルグは良い奴だ。彼の価値観には興味がある。もっと沢山会話をしたいと思う。彼しか知らない事を色々教えて欲しいと思う。
 しかし――いや、だからこそ聞いてみたい。
 死ぬとはどういう事なのか。どういう気持ちになるものなのか。
 ベルグならソレを知っているかも知れない。
 聞こう。ベルグに。死ぬ間際のベルグに。死について。だがせめて、鎮魂と謝罪の意味も込めてローアネットの姿で……。

『そ、やな……。お前との約束、破ってまうんは、恐いわ……。あの世で……何言われる、か……分からん……』

 ローアネットに姿を変えた自分に対して、ベルグが途切れ途切れに呟いた言葉。
 恐い。彼はそう言った。
 しかしこれまで自分が考えてきた意味とは違う。死ぬのが恐いのではない。大切な人との約束を破るのが恐い。ローアネットの願いを遂げられないのが恐い。
 彼は結局、それ以上は何も言い残さずに息絶えた。
 今、この部屋に居るのは自分とノアの二人だけ。
 そして彼女は自分に『死』について知りたいかと確認した後、また理解できない事を言った。
「だったら、お前が私を殺すんだ。私の死を見届けろ。その時に思いつく限りの感想を言ってやる」
「え……」
 一瞬、何の事かさっぱり分からなかった。 
「予定の順番からして今度はお前が私を殺す番だ。そんな事はとっくに知っていただろ?」
 知っている。最初から。
 自分はすでに、ノアを死に至らしめる物を手に入れている。コレを明日、タイミング良くノアに渡せば彼女を殺す事が出来る。
 恐らくアクディにとって、ノアのような人間に招待状が渡るのは誤算だったのだろう。普通の人間なら三人もの死を見れば頭がおかしくなりそうになる。だからこの『精神安定剤』を見せれば欲しくなるはずだ。
 しかし中身は超高純度のアルコール。このカプセルに収められているだけの少量であっても、泥酔状態になる。そんな体で湯船に入れば脳の血流が悪くなり、脳貧血を起こして意識を失う。そして後に待っているのは溺死だ。
「私は一人で死にたかったんだが気が変わった。お前に殺されたくなった。私を殺せば、多分お前は自分に欠けている物が分かる」
 だが、ノアは『精神安定剤』のカプセルが超高純度アルコールである事を知っている。三人の予定表を見たのだから。例え受け取ったとしても飲むはずがない。死ぬと分かっている道をわざわざ歩むような事はしない。
 普通ならば――
「ノア殿は……どうしてそんなに死にたいでござるか?」
 ノアは飲む。
 間違いないと言い切れる。そういう人間だ。自分に殺される事を甘んじて受け入れる。
 昨日の夜、一瞬だけ垣間見えた『死にたくない』という思いは、今は全く感じられない。
「さぁな」
 ノアは曖昧な返事をして、部屋の出入り口に向かった。
「ま、待つでごさるよ! ノア殿!」
 このまま彼女を部屋から出してはいけない。
 ユレフは直感的にそう思うと、慌ててノアの前に回りこんだ。
「どうした。ベルグには出来て私には出来ないのか? 死を理解したいんだろ?」
「そ、それは……そうでござるが……」
 死は理解したい。そのためにベルグの死を見届けた。同じ事をノアにもすれば、もしかしたら理解できるかも知れない。彼女自身、その事を勧めている。
 しかし、何故だろう。心のどこかでソレを激しく拒絶している。
 上手く言えないがノアは特別なのだ。最初に見た時から明らかに他の三人とは違う雰囲気を持っていた。自分に近い存在だった。
 自分に―― 
 気が付くと、ユレフは黒い表紙の本をノアに差し出していた。ソレはアクディの研究日誌。決して外に漏れてはならない情報の記されたこの本を、どういう訳かベルグが持っていた。だからノアが来た時に、ユレフは咄嗟にベッドの下に隠した。
 なのに、どうしてわざわざ……。
「コレは?」
「アクディ様の研究日誌でござる。小生やギーナ、アーニーの事が書かれているでござるよ」
 分からない。自分は何を言っている?
「アーニー? あのメイドか。やっぱりアイツもソウル・パペットだったんだな。それにしても、どうしてコレを私に? 読んでも良い物なのか? アクディの研究は極秘なんだろ?」
「小生にも、よく分からないでござる……」
 いったい、何をやっているんだ。
「は?」
「小生にも自分がどうしてこんな事をするか分からないでござる。アクディ様の研究は誰にも知られてはいけないでござる。小生がソウル・パペットである事も絶対に喋ってはいけないときつく言われていたでござる。でも……」
 分からない。分からない分からない分からない。
「ノア殿には小生の事を……小生がどうして生まれて、どんな人生を歩んできたのか、知って欲しいって思ったでござる……」
 頭がグルグルして、目の前がグラグラして、喉がカラカラになって、心臓がバクバク言って――
「そっか……お前もなかなか可愛いとこあるじゃないか」
 可愛い? ソレはどういう意味? 褒め言葉? けなし言葉? 額面通り受け取ればいい? それとも裏に複雑な思想が隠されている?
「それじゃあゆっくり読ませて貰うよ」
 読んで欲しい。読んではいけない。自分を知って欲しい。自分を晒してはいけない。誰かにすがりたい。誰も頼ってはいけない。そう、誰も……。
 自分は完全なソウル・パペットだから。完璧なまでに優秀で、唯一無二の存在だから。
 迷わない。疑わない。戸惑わない。躊躇わない。
 それが当たり前。なぜなら自分は天才だから。アクディの生み出した最高傑作だから。
 アクディに認められるには自分の能力の高さを証明し続けなければならない。勝ち続けなければならない。全てのゲームに。当然このゲームにも。
 どうすればいい。自分一人になればいい。自分は一人で何でも出来る。最初からそう言われて、その通りにしてきた。自分だけが生き残ればいい。他の奴ら全員死んで。
 死? 死ぬとどうなる? 喋らなくなる、息をしなくなる、体を動かさなくなる、笑わなくなる、怒らなくなる、悲しまなくなる――
「お前が来るのを楽しみにしてる」
 楽しまなくなる……。
 二度と……歌わなくなる。

 考えた。一晩考え抜いた。
 今まで生きてきた中で一番頭を使った。この七年間で得た、ありとあらゆる情報を総動員して問題の解決に当たった。
 そして、一部だけではあるがついに分かった。
 ノアの気持ちが。
「こんな所に居たでござるか、ノア殿」
 大広間のソファーで黒い本をめくっていたノアに、ユレフは話し掛けた。あれはアクディの研究日誌だ。どこまで読んでくれただろうか。どこまで自分の事を知ってくれただろうか。
「随分と遅かったな、ユレフ。もう十時だ。待ちくたびれたぞ」
 暗くなった窓の外と、壁の振り子時計に一度ずつ目をやりながらノアは言う。
「読んで貰えたでござるか」
「あぁ、読んだ。私の名前が出て来た時はさすがに驚いたな」
「小生の事はどのくらい知って貰えたでござるか」
 どこか力のない笑みを浮かべながら、ユレフはノアに聞いた。
「そうだな……」
 彼女はもう一度本に目を落とした後、何か面白い物でも見るかのような視線を向けて続ける。 
「アクディは自分の生きた証を残すために、お前達ソウル・パペットを生み出した事。お前が三人の中では一番完成度の高いソウル・パペットだって事。けど、あまりに『完全』すぎて、むしろ『不完全』なギーナって奴の方が可愛がられているな。何となくだが、この文面を見る限りそんな印象を受けた」
 ノアの答えにユレフは満足げに頷いた。
 そう。その通りだ。彼女の直感は正しい。自分と同じ考えだ。
 アクディの研究日誌には、ユレフの事についてよりもギーナについての方が遙かに多く書き込まれている。
 ギーナの欠点、些細な癖、滑舌の悪い言葉遣い、ゲームでユレフに勝つにはどうすればいいか、王都でちゃんとした生活を送るにはどうすればいいか、失意からの立ち直り方、頑張り続けるための気持ちの持ち方、不安定な精神の落ち着かせ方、恐怖の克服の仕方など。
 アクディは明らかにギーナの方を強く意識していた。過剰に思いを込めていた。
 ユレフは能力的には全く申し分なかった。だからギーナが心配されていたような事は、言われるまでもなく出来た。
 自分にとってはソレが唯一の誇りであり、アクディの興味を惹くための材料でもあった。
 だからギーナとの勝負には何としてでも勝ち続けた。アクディに褒めて貰うために。アクディにかまって貰うために。
 しかし、勝っても勝っても報われない。恐らくギーナは、アクディに頭を撫でて貰っている自分を妬ましく思っていただろう。自分の事ももっと見て欲しいと。
 だが真相は全く逆だ。ゲームに勝てば勝つほど、アクディは自分から離れて行った。どんどんギーナを気に掛けるようになった。それでもユレフは勝ち続けた。
 これ以外、自分を顕示する方法を知らなかったから。ギーナの真似が出来るほど器用ではなかったから。勝ち続けて、アクディを独り占めしたいと思った。ギーナを殺してでも。そして最後のゲームでソレが許されたと思った。迷いはなかった。間違いないと思った。
 なのに、分からなくなった。ノアと出会ってどうしようもないくらい混乱した。
 だが、一つだけハッキリした事がある。
 アクディは自分の事を分かってくれなかった。上辺だけの賛辞を向けられている事に、自分が気付いてないと思っていた。
 しかし、ノアは分かってくれた。
 それで十分だ。
 最後のゲーム。その幕切れに相応しい。
「ノア殿。色々とお世話になったでござる。でもこれで、サヨナラでござるよ」
 薄ら笑いを浮かべながら、ユレフは独り言のように呟く。
「決心が付いたんだな」
「付いたでござる」
 言いながらユレフは、ポケットの中から黒光りする金属製の筒を取り出した。指先と同じくらいの大きさの小さな筒だ。
「随分とクラシックな銃だな。それで私を殺すのか」
 真ん中が空洞になり、片方の出口がふさがれた筒の中には、特殊な材質の棒がねじ込まれている。僅かな温度変化によって、激的に伸長する性質を持つヨクア合金だ。
 ユレフは筒を握りしめ、ソレをノアの方に向ける。
 あと十秒もすれば筒からヨクア合金製の棒にユレフの体温が伝わり、伸長の際に生じた反動で棒は勢いよく飛び出す。
 さながら弾丸のように。
「出来れば急所は外して欲しいな。即死ではお前に何も言い残せない」
 足を組み直し、ノアはアクディの研究日誌を閉じて静かに言う。
「それは、出来ないでござる……」
「そうか。まぁお前が良いなら別に何も言わないが」
「サヨウナラ、ノア殿……」
 そしてユレフは筒を自分の額に押し当て、
「バ……!」
 大きく目を見開いたノアが立ち上がり、
(もうすぐ分かるでござる……)
 彼女の姿が視界の中で大きくなり、
(『死』がどういう物なのか……)
 甲高い声で自分を呼ぶのが聞こえ、
(もうすぐ……)
 頭に、熱い何かが走り抜けた。
 額を伝い、頬を這い、少し粘性のある温かい物が、顎先で雫となって床に落ちる。
「なに馬鹿な事やってんだ!」
 耳の側で怒鳴り声が聞こえた。
「筒を向ける方向が違うだろう!」
「違って、ないで、ござるよ……」
 筒を持っていた自分の手を捻り上げながら叫ぶノアに、ユレフは途切れ途切れに返す。
 残念ながら弾は額を掠めて、後ろの壁にめり込んでしまったようだ。失敗してしまった。せっかく身を持って『死』を理解しようとしたのに。
「小生も、ノア殿と同じ気持ちになったから……」
 理解できない事があまりにも多く蓄積され過ぎて、全てから目を逸らしたくなった。逃げ出したくなった。
 どうせこの先生きていてもアクディに構って貰えないのなら、生命機能停止の決断は早いに越した事はない。これ以上、辛い思いを重ねたくない。
「私と……同じ気持ちだと? ふざけるな! お前みたいなガキに分かってたまるか! お前みたいな……! ガキ、に……!」
 苦しそうな顔つきになりながら、ノアは強い想いを双眸に宿して声を張り上げる。
「そんなに叫ぶと……喉が駄目になるでござるよ。せっかく綺麗な歌声なのに……」
「うるっ、さ、い……! だ、まれ……ぇ!」
 顔を歪め、痛む喉を押さえながらノアは大声を出し続けた。
「私、……の! マネ、なん……か、するな! こん、な……クズ同然、の!」
 そこまで叫んでノアは激しく咳き込む。飛散する唾液の中に紅い物が混じっていた。
「確かに、そうでござるな……。もぅ、ノア殿のマネは出来ないでござるよ。今のノア殿は、死にたくないって顔しているでござる……」
「――ッ!」
 ノアは何か言おうとユレフを睨み付けるが声が出ない。 
「ノア殿……貴女こそ生きるべきでござる。いつまでも拗ねて泣いていては、いけないでござるよ」
 言いながらユレフはノアの頭を優しく撫でた。
 アクディが自分にしてくれたようにではなく、ノアが自分にしてくれたように。
 お前らしいと言って、ガキっぽいと言って、可愛いと言って、初めて自分の事を肯定的に見てくれたノアが、頭を撫でてくれたように。
 彼女は自分自身の事を否定しすぎる。これではいけないと思っているのに、そこから抜け出す手段が見つからない。だから自分を否定して、自嘲して、諦めて、それで満足してしまっている。
 誰かがもっとノアを分かってあげなければならない。自分はもうノアに理解して貰えた。救われた。アクディからは与えられなかった物を与えてくれた。
 なら今度は、自分がノアに何かをしてやる番だ。
「ノア殿は、本当は死にたくなんかないでござる。けどもう周りに対しても、自分に対しても後に引けなくなったから、死にたいフリをして無理矢理納得していたでござるよ。その方が楽だから」
「だま、れ……」
「本当に死にたいなら方法はいくらでもあったはずでござる。小生がさっきやったように、頭を銃で撃ち抜けばそれで済む話でござるよ。けどノア殿には出来ないでござる。本心からそう思っていないから」
「黙、れ……」
「ノア殿は小生が死のうとするのを見て言ったでござる。何を馬鹿な事をって。その通りでござるよ。ノア殿も自分で言って思ったはずでござる。死なせない。死にたくないって。小生も今は、死ななくて良かったと思っているでござる。ノア殿の言っていた事が、少しずつ理解できてきたから……」
「黙れぇ!」
 ユレフの胸ぐらを掴み上げ、ノアは声を振り絞るようにして叫声を上げた。
「もぅ無理をする事ないでござるよ。似たもの同士、傷を舐め合うのも悪くないでござる」
 優しい口調で言いながら、ユレフはノアの目元に生まれた雫を指先ですくう。
「……くっ」
 ノアはユレフの小さな胸に顔を埋め、小さく肩を揺らして嗚咽した。
「今日はゆっくり休むといいでござる。明日はきっと会えるでござるよ」
 アクディに。
 きっとアーニーが案内してくれるはずだ。その時に、分からなかった事を色々聞こう。分かった事を色々ぶつけてみよう。
 そう、これで終わったのだ。
 命を賭けた、死のゲームが――

 朝食に起きて来たノアの顔は酷かった。
 目は真っ赤に充血して分厚い隈が出来、緑色の髪の毛はあらぬ方向へと跳びはねていた。
「よく眠れたでござるか?」
 ナプキンをお行儀よく胸の前に巻きながら、ユレフは意地悪く聞く。
「……ああ、おかげさまでな」
 皮肉っぽく言って、ノアはユレフの正面の席に腰掛けた。そしてタバコを取り出して火を付けるが、一口だけ吸ってすぐに銀の燭台でもみ消す。
「……酷い悪夢だったよ。この私がお前みたいなガキに泣き顔見せるなんて」
「夢じゃないでござる。本当の事でござるよ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて返しながら、ユレフはアーニーが運んできてくれたコーンスープに直接口を付けた。そして下品な音を立てて飲み干していく。
「……昨日、アイツらが私の夢に出てきたんだ」
 深く溜息をつき、ノアは疲れた顔でフォークを手に持った。
「よくも殺してくれたなって……。死にたくなかったのにって……。ずーっと、耳元で叫んでるんだ……」
「ソレは正常な反応でござる」
 即答して、ユレフは香辛料のよくきいたパスタを頬張る。
 ノアは手にしたフォークでサラダを弄びながら、いつもと変わらぬ調子で食事を進める自分の方をじっと見つめた。
「……お前はどうなんだよ」
 そして低い声で聞いてくる。
「小生はよく眠れたでござるよ」
「……頭の怪我は大分深かったみたいだな」
 揶揄するような口調で言いながら、ノアはタバコに火を付ける。しかし一口も吸う事なく、銀の燭台に押しつけた。
「やってしまった事はもうしょうがないでござる。だからこれから何とかして償うでござるよ。取り合えずローアネット殿の弟君のコールド・エッジを治すところから始めようと思っているでござる。ココにはお金が腐るほどあるでござるからな。小生はもう、アクディ様の事がよく分からなくなってしまったでござるよ。けど親は親でござる。小生の大切な人でござる。その不始末は子供が何とかするでござるよ」
「……お前、強いな……」
 怠そうに頬杖を付きながら、ノアは少し感心したような声で言った。
「小生は天才でござる。迷いさえなければこんなモンでごさるよ」
「悩みのない奴は気楽でいいな……」
 少し肩の力が抜けたような柔らかい表情になって、ノアは微笑する。
「ノア殿のおかげでござる」
 ユレフの答えにノアは片眉を上げて返し、フォークで突き刺したサラダを口に運んだ。
 また一晩考えて落ち着いた。
 今度は一部ではなく、ノアの気持ちの大半を理解する事が出来た。
 死ぬ事の愚かさが分かった。殺す事の卑劣さが分かった。

『じゃあ、軽はずみに『殺す』なんて言わない事だな』

 ようやく、この言葉の意味が理解できた。
 生きる事の大切さが分かっていなければ、死を理解する事など出来ない。
 アクディから教えて貰った事や、本から手に入れた知識だけでは理解できなかった事を自分の中で納得させる事が出来た。
 全てノアのおかげだ。
「ところでノア殿。今日の予定はどうしたでござるか?」
 赤カビから作られたチーズをパンに乗せて食べながらユレフは聞いた。
「……もぅ消したよ。まだ石が残ってたんでな」
「それは良かったでござる。途中退場は面倒臭いでござるからな」
 言いながら時計を見る。
 九時五十八分。
 もうすぐ最後の予定の時間だ。
「何の事だ?」
 ノアは目を細めて怪訝そうな顔つきで言ってくる。
「ノア殿にアクディ様を紹介するでござる。この洋館のどこかに居る事だけは間違いないでござるよ」
「アクディ、か……。まぁ、アイツが何を思ってこんな手の込んだ殺人劇をやらかしたのか、聞くのもいいかも知れないな」
 ノアはポケットからタバコを取り出し、火を付けようとするが途中で止めて足下にあるダストボックスに箱ごと放り込んだ。
「タバコはもう止めるでござるか」
「……あぁ、死んだ奴らに取り合えず歌を捧げようと思ってね。それが私に出来る、最初の償いだ」
「とっても良い事だと思うでござる。小生も聞きたいでござるよ」
 髪を掻き上げながら言うノアに、ユレフはにこやかな顔で返す。
 ノアも考え方を変えてくれた。生きたいと思うようになってくれた。またあの綺麗な歌声を聞けるようになった。
「ユレフ=ユアン様」
 胸の中に何か温かいモノを感じたユレフに、いつの間にか隣りに立っていたアーニーが声を掛けた。どうやら時間のようだ。
「さぁノア殿。小生達に付いて来るでござるよ」
 ノアは無言で頷くと、重そうに腰を上げた。

 連れてこられた部屋は、今まで来た事のない場所だった。
 暗い通路を抜けて来たのでよく分からないが、高さ的には二階と三階の間くらいだろうか。
 窓は一つもなく、明かりと言えば舞っている数匹の光輝蝶くらいのものだ。二人も入れば窮屈さを覚える程の狭い部屋には、家具らしき物は何一つとして無い。ただ無機質な黒い壁が、薄暗い空間を四角く切り取っている。
 その中央。地面から僅かに離れて静止している浮遊車椅子。そこに老人が一人、コチラに背を向けて座っていた。ココからでは体を包み込む大きめの黒いローブと、白く染まり上がった髪の毛しか見えない。
「アクディ様! 小生が来たでござるよ!」
 元気良くユレフが声を掛けるが、老人は何も答えない。
「アグディさ……!」
「アーニー……」
 再び声を掛けようとした時、しゃがれた声が聞こえた。
「後は……お前に任せる……」
 そして消えてしまいそうな程の小さい声が続く。
「アクディ様?」
 老人はそれ以上何も言わない。浮遊車椅子に身を沈め、背中を丸くしている。
「アクディ様こっちを向くでござるよ! 色々聞きたい事があるでござる!」
「アーニー……」
 しかし老人はさっきと同じ調子で口を開き、
「後は……お前に任せる……」
 全く同じ言葉を零した。
「アーニーは関係ないでござる! 小生はアクディ様に……!」
「待て、ユレフ。様子が変だ」
 怒ったような顔で食い下がるユレフを、ノアが静かに制した。そして足音も立てずに浮遊車椅子に近付き、老人の顔を覗き見る。彼女はその首に手を沿え、何かを確認し終えると首を横に振った。
「駄目だ。死んでる」
「え……」
 ノアの言葉に、ユレフは掠れた声を漏らす。
 死んでいる? どうして? なぜ? だってちゃんと喋っていたではないか。
「どういう仕掛けかは知らないが、同じ言葉を機械的に繰り返すようになっているみたいだな」
 ノアが言い終えた直後に、再び老人の口から『アーニー……』『後は……お前に任せる……』と紡がれた。
「嘘で、ござるよ……」
 そんなはず無い。アクディが自分を置いて死んでしまうなど。確かにアクディは体が弱かった。致死性の病にかかったと言っていた。だがソレは治したのではなかったのか? 自分が最も得意とする技術で。もう心配ないと言っていたはずなのに……!
「ユレフ=ユアン様。アクディ様よりお預かりしていた物がごさいます」
 感情の籠もらない口調で言いながら、アーニーは手の平に乗るくらいの小さな水晶球を差し出した。
「メモリー……スフィア……」
 声や映像を一時的に記録しておく事が出来る特殊な球体だ。特定のキーワードを言う事で、記録された内容を再生できる。
 アーニーはメモリー・スフィアを胸の高さくらいまで上げると、短くキーワードを言った。
「『最後の言葉』」
「……っ」
 最後。最後のゲーム。最後の言葉。
 いつの間にか全てが終わりに向かってしまっている。自分の知らないところで。自分を置いて。
『ユレフ。そこに居るのはユレフだけか? もしお前の側に誰か一人でも居てくれれば、この最後のゲームに込めた私の思いは果たされた事になる。お前は理解できたはずだ、生の重さと死の深さを』
 約一年ぶりに聞くアクディの声。先程の潰れた声とは似ても似つかない。それは懐かしくて、嬉しくて――寂しくて。
『もしお前が一人だけなら、私は最後までお前をソウル・パペットから“人間”にしてやる事が出来なかった。お前に唯一欠けていた物を与えてやる事が出来なかった。本当にすまない』
 どういう、事だ。このゲームが自分を“人間”にするために行われた?
『お前は完全なソウル・パペットではあったが、ギーナのように人間になる事は出来なかった。誰かを思いやる気持ちを、他人の痛みを知る事は出来なかった。ソレを教えてやれなかったのは私の責任だ。お前という完璧な研究成果に浮かれすぎて、一番最初に教えなければならない大切な事を忘れていた。気付いた時には手遅れだった。言葉の説明だけでは受け入れられないくらい、お前の精神はすでに完成していた。揺らぎ無いモノになってしまっていた。だからギーナと競い合わせた。そうする事で、もっとギーナに歩み寄って欲しかった。アイツの不完全さと弱さを体で知って欲しかった』
 不完全さと弱さ。それはかつてのユレフにとって、最も不必要だった物。勝負に勝つためには邪魔な物。ギーナの中に見出した嫌悪するべき部分。ソレが全く無い自分は選ばれた存在なのだと信じて疑わなかった。どんな事にも揺れない完全な強さこそが、自分の優秀性の証であると。
 しかし、ノアと接してそうではない事が分かった。
 彼女からは色んな事を学んだ。そして昔の自分より強くなった気がした。自分に足りなかった部分を自覚出来たから。新しい事を沢山学べたから。
『そして出来れば、ギーナを大切な存在として見て欲しかった』
 今の自分にとって大切な存在――それは生みの親であるアクディ、そしてノア。
『大切な物が出来れば、ソレを失った時の恐さも同時に覚える。生の重さと死の深さを感じ取れる。しかし、私は最後までお前に大切な物を与えてやる事が出来なかった。本当にすまない』
 やはりアクディは自分の事を何も分かっていなかった。自分がどれだけアクディの事を大切に思っていたか、全く理解してくれていなかった。
 そして、それは自分も同じだった。
 自分もアクディの事を何も分かっていなかった。ギーナばかり気に掛けていると思っていた。自分の事など殆ど見てくれていないと思っていた。勝負に勝てば勝つほど、アクディは自分から離れて行くと思っていた。
 だがソレは違った。ちゃんと自分の事を気に掛けてくれていた。見てくれていた。想ってくれていた。
 他の人の内面は敏感に読みとれていたのに、大切な人からは表面的な事しか感じ取れていなかった。
 愚鈍すぎる。無能すぎる。
 かつての自分が見下していた輩と、今の自分は同じだ。
『だからこの最後のゲームに全てを掛けた。ユレフ、お前はこのゲームの仕掛けをアーニーから最初に教えられたはずだ。全員分の予定表の内容を知る事によって』
 教えられた。
 『露骨な死』の後に『本当の死』が待っている事。そして『本当の死』には、必ず全員が何らかの形で関わっている事。
『誰かの死のために用意された予定は、他の全員が予定表通り行動しないと成立しない。つまり、誰か一人でも予定に逆らって行動すれば生き残る事が出来る。最初からこのゲームの仕掛けを知っていたお前なら、予定表に行動を束縛されないお前なら、ソレが可能だったはずだ』
 確かに、ユレフは予定表からの拘束を受けない。元々半分が空白な上に、予定の時間になっても体が勝手に動き出すような事はなかった。
『あの予定表は契約によってソウルを束縛できるようになっている。そして身体系のソウルを操る事によって、予定表の内容通りに行動させている。お前の予定表はどこにでもある普通の羊皮紙。他の四人のように契約が交わされる事はない。だから自由に行動できたはずだ。誰かの死の予定を狂わせる事が出来たはずだ』
 例えば、保管庫にネズミを放ったりしなければヲレンは死なずに済んだ。包み紙にくるまれた鍵を紙箱に入れてプレイルームに持っていかなければ、ローアネットは死なずに済んだ。ルナティック・ムーンのエキスをデザートだけではなく香草スープにも混ぜておけば、ベルグは死なずに済んだ。
 そして超高純度アルコールの入ったカプセルをノアに渡さなかったから、彼女はこうして生きている。
『お前にそれだけ特別な権限を与えたのは、自分が誰かの生死を握っている事を恐れて貰うためだ。そして出来れば他の招待客にも同じ事を感じて貰いたかった。生の重さを知る事で生きる希望を持って欲しかった。だから招待客の二人にコールド・エッジの患者を選んだ』
 二人? いまアクディは二人と言ったのか?
 自分と、ギーナ――ヲレン――はソウル・パペット。そしてベルグとローアネットの弟がコールド・エッジ。なら、ノアはどうして選ばれたのだ? コールド・エッジの患者のカルテからランダムで抽出したのではないのか?
『そしてノア=リースリーフ。彼女はお前が人間らしくなる手助けをするのに最適だと思ったから選んだ』
 何の前触れもなく名指しされたノアは、怪訝そうに眉を顰めた。
『彼女と会った時、お前は自分と似た何かを感じたはずだ』
 感じた。しかしそれはノアがギーナと思っていたから。同じソウル・パペット同士、知覚出来るのかと思っていた。しかしギーナはヲレンだ。例え違ったとしても、少なくともノアではない。
『ユレフ、お前を完全なソウル・パペットとして生み出せたのは、人工ソウルに彼女のソウルを混ぜ合わせたからだ。お前の中にはノアのソウルの一部が入っている』
「ノア殿の……」
 意識せずに呟いていた。そしてノアの方を見る。彼女も自分の方を見ながら、何かを感じ取るかのように胸に手を当てていた。
『彼女ほど感受性に満ちた人間らしい人間を私は知らない。そしてコールド・エッジの治療の際に埋め込んだ人工ソウルによって、ノアの感受性はさらに助長された。お前とノアはソウルの性状が非常に似ている。だから同調し合える。お前が彼女から何かを感じ取ってくれれば、お前もノアと同じくらい人間らしい人間に近づく事が出来るはず。だから、彼女の死に直接関わるお前の予定は曖昧にしておいた。最後の砦として』
 ――精神安定剤を手に入れる。
 予定表にはそこまでしか書かれていなかった。食事に混ぜるわけでも、寝ている間に飲ませるわけでもない。ただ手に入れるとしか。
 それは自分に悩ませるため? ノアの事を強く感じ、彼女を大切に思い、生きて欲しいと願わせるため? 人間らしい思考をさせるため?
『ユレフ。お前は今、どんな気持ちで私の声を聞いている? 私の死をどう受け止めている? 皆の死をどう感じている? 生き返って欲しいと思ってくれているか? 自分のした事をやり直したいと思ってくれているか?』
「思ってるで、ござるよ……」
 やり直したい。生き返って欲しい。みんなにも、そしてアクディにも。そしてまた頭を撫でて欲しい。ギーナの事を見ていてもいいから、また褒めて欲しい。『よく頑張ったな、ユレフ』と声を掛けて欲しい。
 大切な物を失った時の悲しみはもう充分感じたから。ノアの気持ちも完全に理解できたから。戻って来て欲しい。
『今回の事で死んだ者は全員、問題なく生き返る』
「え……!?」
 あまりに予想外の事に、ノアとユレフは同時に声を上げた。
 生き返る? 一度死んだ者が生き返る? ギーナだけではなく全員? 
『予定表はソウルを拘束する道具だ。例え肉体が死んだとしても、ソウルの一部は無傷で予定表に拘束されたまま残る。肉体はソウルの入れ物に過ぎない。ソウルさえ無事ならソレを戻す事で生き返らせられる。足りない部分は人工ソウルで補完すればいい。その作業をユレフ、お前がやるんだ。お前の手で皆を生き返らせろ。例え生の重さを感じていなくても、お前の手でやってくれ。私からの最後のお願いだ』
 最後。またこの言葉が出て来た。ユレフの嫌いな。
 アクディはまだ自分を置いて行こうとしている。なぜ。他の者が生き返るのなら、同じ方法でアクディも生き返るはず。これだけの知識を持っていて、自分のソウルを保管していないなどという事はないはずだ。
『その作業を行えば、生き返ると同時にコールド・エッジも治る。自分のソウルと人工ソウルを混ぜ合わせて体に戻す。それがコールド・エッジを確実に治す方法だ』
 確実に。五パーセントという非常に低い確率だとされていたコールド・エッジの治療が確実に出来る。
『人工ソウルだけで患者から失われたソウルを補完しようとした場合、着床が不安定になる。恐らく体の拒絶反応の一種なのだろう。だが、元々体にあるソウルと融合させればその心配はなくなる。間違いなく体の中で安定化する。それでコールド・エッジは完治する』
「なるほど、そういう事か」
 ノアはどこか馬鹿にしたように鼻を鳴らして、アクディの声が発せられるメモリー・スフィアに鋭い視線を向けた。
「ユレフを人間らしくするためだけに他の奴らを殺したっていうんなら鼻で笑い飛ばしていたところだがな。予定表の事を喋ってはいけないとかいうデタラメなルールを作ったのも、より確実に殺してコールド・エッジを治すっていうのが目的なら辛うじて納得がいく」
 予定表の内容を他の者に喋ったり見せ合ったりしてはいけない。それはノアの言うとおり嘘のルールだ。ユレフ以外の予定を確実に進めるための。もし早い段階で見せ合えば、ベルグやノアなどの勘の良い者ならすぐに予定表の仕掛けに気付き、ユレフの行動と関係なく『本当の死』を回避できてしまうかも知れない。
 それでは意味がない。ユレフを人間らしくする事も、コールド・エッジの患者に生きる事について考え直させる事も出来ない。アクディはそう考えた。
『この事は私が言っても誰も信じてくれないだろう。しかし、実際に体験した彼らならば。ユレフ、ギーナ、アーニー。この洋館にある財産は全てお前達に引き渡す。その金で一人でも多くのコールド・エッジ患者を救ってくれ。そして、お前達の人間らしい生活に役立ててくれ。お前達は私の全てだ。特にアーニー、お前には私のソウルを埋め込んである。このゲームで彼らと接する事で、お前も人間になっている事を切に願う』
「な……」
 アクディの言葉にユレフは驚愕に目を見開いてアーニーを見つめた。
 アーニーの中にアクディのソウルが? 自分の中にノアのソウルがあるのと同じように? それでは、アクディのソウルはもう……。
『長年研究してきた錬生術。私は人形ではなく人間を創りたかった。自分の生きた証を残すために子孫を生み出したかった。ギーナは勘違いをしていたようだからお前から伝えて欲しい。私がアイツの事をソウル・パペットと呼ばなくなったのは、立派な人間になったからだ。言語障害もちゃんと克服した。少しくらい精神が不安定なのは人間なら当然の事だ』
 ギーナは独り言を言ったり、考えている事を口に出したりしてしまった時は、たどたどしい喋り方をするが、誰かと会話する分にはまったく問題の無いレベルまで上達した。そして自分とは違い、全く精神が揺れないという事は有り得なかった。
 だが、少しずつでも成長していくところや情緒不安定なところが、アクディに言わせれば『人間らしい』という事なのだろう。今ならユレフにもそれが分かる。
『アーニーは私が初めて生み出した存在。愛娘といってもいい。そしてお前がコレを聞いている時には、彼女は私のソウルの大半を持っている。私の分身そのものだ。だからソウル・パペットなどではない。そしてギーナと同じく人間らしくなりつつある。ソウル・パペットを確実に生み出し、ソレに感情を持たせる方法にもっと早く確信していれば……。ユレフ、お前にも私のソウルを与えられたのに……。だが、その時にはもう遅かった。お前を捜し出して呼び戻す時間は無かった』
 アーニーはアクディが創りだした最初のソウル・パペット。しかしアクディは彼女に感情を持たせる事を半ば諦めていた。だから自分達のように外界で生活させる事で人間性を刺激するという手法に不安を感じ、常に身の回りに置いた。そして彼女への想い入れは一層深まっていった。
 さらに今のアーニーにはアクディのソウルが宿り、人間らしくなりつつある。アクディにとってアーニーは特別な存在なのだ。
 だが、自分は――
『ソウル・パペットを確実に生み出す方法。それは人工ソウルと人間由来のソウルを融合させた物を安定化させる事だ』
 コールド・エッジの完全な治療法と同じ。
 錬生術とコールド・エッジは真逆の現象。だがソウルが深く関与しているという、根本の部分は同じ。だから成功のための根幹も同じ。
『魂の相乗作用、とでもいうのか。人工ソウルだけでは魂としては未完成なのだ。人間由来のソウルと混じり合う事で初めて完全な魂となる。ギーナを生み出した時には、コールド・エッジで死んだ患者に人工ソウルを埋め込んだ。あの時に成功した理由は、人間という“型”の中に埋め込んだからだと思っていた。しかしソレは違った。死体の中でまだ残っていたソウル。それと人工ソウルが融合する事で完全な魂となり、ソウル・パペットとして蘇ったのだ。子孫を残したいという、私の身勝手な欲望で』 
 意図しないところで、ギーナは最初から人間由来のソウルを持っていた。だからソウル・パペットとして安定した。そしてすぐに人間らしい感情に開花した? ならば自分は? ノアのソウルを持っているのではなかったのか?
『ギーナが人間らしい感情をすぐに持てたのは、人間由来のソウルの質や量も関係しているのだろう。お前を生み出すために使ったノアのソウルは確かに少なかった。しかし、それ以上にギーナの不完全さが私の接し方を決めた。ユレフ、お前はギーナと違ってソウルのみで構成されている完全なソウル・パペットだ。その完全さが私の目を眩ませた。そして、それがお前とギーナとの決定的な差になった』
 自分は生まれた時から完璧だった。言葉もちゃんと喋れたし、揺れない精神を持っていた。ギーナほどではないがある種人間的な一面も持ち合わせていた。だからアクディは放任しても大丈夫だと思った。構わなくとも、一人で自然と人間らしく成長してくれると思い込んでしまった。ソレが大きな間違いだとも気付かずに……。
『すまない、ユレフ。全て私の責任だ』
「もう……いいでござるよ……」
 ユレフは放心しながら、力無く呟く。
 もういい。そんな事を何度も謝らなくとも。もう十分に分かった。アクディが自分の事を、ちゃんと気に掛けてくれていたという事が。
 ただ、気付くのが少し遅かっただけだ。お互いに。
 どちらも悪いし、どちらも悪くない。ソレはある意味しょうがない事。だからそんな事はもういい。もういいから、返って来て欲しい。アクディを生き返せる方法を教えて欲しい。死んだなどいう悪い冗談はすぐに取り消して、また頭を撫でて欲しい。
『私は、お前の事を心から褒めてやる事が出来なかった。ギーナに向ける冷たい視線を見て、いつもこのままでは駄目だと思っていた。あの非情さを私が受け入れてしまっては、お前は生の重さも死の深さも知らぬまま成長してしまうと思ったから』
 だからアクディはノアのように『お前らしい』とは言ってくれなかった。肯定的に見てはくれなかった。それは正しい。言わなくて正解だ。
 アクディは正しい。一瞬でも疑ってしまった自分が愚かだった。その罰がアクディの死だというのなら、悪いのは自分なのか……? 自分がアクディを殺した事になるのか……? 心配を掛けたまま、心残りを作ったまま。
『ユレフ、お前が立派に人間として成長した姿を見たかった。だがもう駄目だ。私のコールド・エッジを治療するため、埋め込んだ人工ソウルの効果がもうすぐなくなる』
「コールド・エッジ? アクディが?」
 メモリー・スフィアからのアクディの声に、ノアが低い声で聞き返す。
 そう、アクディはコールド・エッジを患っていた。発病したのは自分が生まれる前だった。しかし、アクディには治療できる技術も材料もあった。だから自分で自分のコールド・エッジを治した。人工ソウルを埋め込む事で。そして完治したと言っていた。
『人工ソウルを埋め込んでも、ソレが着床しなければ意味がない。自分の体の事だ。自分が一番良く知っている。分かるんだ。日に日にソウルの抜け穴を塞いだはずの人工ソウルが、緩くなって行くのが。今思えば、アーニー以来ソウル・パペットの錬生に成功しなくなったのも、私がコールド・エッジを治療してしまったからだった。コールド・エッジが発病するとソウルが徐々に漏れ始める。アーニーは、その時に漏れた私のソウルと人工ソウルが融合する事で生まれたのだろう。しかし量が少なすぎて感情を持つには至らなかった。決してビギナーズラックなどではなかった。ちゃんと理由があったのだ。私がソレを見逃していただけだ』
 アーニーは人工ソウルだけから生まれた存在ではなかった。最初からある程度、アクディのソウルが混ざっていた。コールド・エッジのもたらしたソウルの漏出によって。だからその漏出を治療してしまってからは、ソウル・パペットを生み出せなくなった。
 しかし、アクディのコールド・エッジの治療は不完全だった。人工ソウルの効果が無くなり、再発した。だからアクディは死んだ? そんな馬鹿な。アクディは完全にコールド・エッジを治す方法を見つけたと言っていたではないか。どうしてソレを自分に適応しない! どして死に急ぐ! 自分に生の重さを! 死の深さを教えたかったのではないのか!?
『ユレフ……お前が私の死をどう捕らえてくれているか。今の私には分からない。だが、コールド・エッジが発症しなくとも私の命は長くはなかった。これだけ生きられただけでも奇跡に近い。事故ではなく寿命で死んだ者は、いくら人工ソウルを適用しても生き返らない。元々保有していた生命維持に必要なソウルが完全に枯渇してしまうから。だからそうなる前に、アーニーに全てを託した。彼女がソレによって人間としての感情を持ってくれるなら、これほど嬉しい事はない。我が愛娘が自慢の息子達と一緒に笑ったり怒ったりしてくれるなら、ソレは私への最高の手向けだ』
 アクディは自分の体を存続させる事よりも、アーニーを人間らしくする事を優先させた。
 彼女はアクディが命と引き換えに残した子供。彼女の体にはアクディのソウルが宿っている。アクディの遺志が込められている。
『今、お前が見ている私の体はただ同じ事を繰り返すだけの死体だ。僅かに残した声を司るソウルを機械的に作動させているに過ぎない。アーニーは私の死を理解するにはもう少し時間が掛かる。だからお前達が来るまでは生きているフリをしていた。しかし、このメモリー・スフィアの内容を聞いているという事はその必要が無くなったと言う事。皆を生き返らせる時、一緒に私の体からソウルを抜いて楽にして欲しい』
「嫌で、ござる……」
 ユレフは顔を俯かせたまま、絞り出すように声を発した。
『ああ、久しぶりに長く喋ったから少し疲れたよ。今、アーニーにお前達の居場所を探して貰っている。彼女には明日にでも私のソウルを注ぐつもりだ。ソレが私の最後の仕事になる』
 最後。また、この言葉が出てきた。
 この言葉が、自分から大切な物を奪って行く。
『ユレフ、最後にもう一度だけ言わせて欲しい。本当にすまなかった。お前には親らしい事を何一つしてやれなかった。だから許してくれとは言わない。私を憎んでもいい。それが人として当然の反応だ』
「許すで、ござるよ……。憎まないで、ござるよ……。だから……」
 両手を固く握りしめ、ユレフは肩を震わせる。
「『最後』なんて、言わないで……欲しいでござる……」
 胸が痛い。目の奥がチリチリする。心が壊れてしまいそうだ。
 こんな事は初めてだ。初めて感じる。
 これが、大切な物を失った時に感じるモノなのか。
 これが、『死』というモノなのか。
『ユレフ、ギーナやアーニーと仲良くやってくれ。兄さんや姉さんの言う事を、ちゃんと聞くんだぞ。お前達は私の宝だ。三人とも愛している。人間らしく生きて、それぞれの幸せを掴んでくれ。ユレフ、ギーナ、アーニー』
 アクディはそこで少し言葉を句切り、
『さよならだ』
 迷いのない声で言いきった。
 そしてその言葉を最後に、メモリー・スフィアから声は聞こえなくなった。
「アクディ様……?」
 顔を上げ、ユレフは小さく呟く。
「嫌でござるよ……小生はこんなの認めないでござる! 黙って死ぬなんて卑怯でござるよ! 死ぬのは愚か者のする事でござる! また……また頭を撫でて欲しいでござるよ!」
 ユレフはかつて無いくらい声を張り上げて、メモリー・スフィアに向かって叫んだ。
 狭い室内に甲高いユレフの声だけが響き渡る。アクディの名前を何度も呼びながら、ユレフは声が割れんばかりに泣き叫んだ。何度も、何度も……。
「ユレフ……」
 大粒の涙を流してしゃくり上げるユレフの背中を、温かい感触が包み込む。
「正直、こんな時お前に何て言えばいいかよく分からないけど……」
 ノアは両腕を自分の前に回し、胸を背中に密着させてユレフを後ろから抱きかかえていた。そして優しく、綺麗な声で慰めの言葉を掛けてくれる。
「私じゃ役不足かも知れないが、頭を撫でるくらい何回でもしてやる。お前が泣きやむまでずっとそばに居てやる。だから元気を出せ。な」
 細長い指先をユレフのブロンドに滑り込ませ、ノアは柔らかい髪の毛をほぐすように撫でてくれた。
 胸の痛みが少しだけやわらぐ。
 それはアクディがしてくれたのとは違っていたが、ユレフの心に僅かな落ち着きをもたらしてくれた。
「お前は自分で言ったはずだ。もう済んでしまった事はしょうがないって。大切なのはこれからだって」
 諭すような口調で言いながら、ノアはユレフを抱く手に力を込める。
「お前は天才なんだろ? しっかりしろ。私が付いててやるから」
「ノア殿……」
 泣くのを止め、ユレフは鼻を啜りながらノアを見上げた。
「一つだけ、お願いがあるでござる……」
「何だ?」
「歌を、歌って欲しいでござる」
 ユレフの願いにノアは微笑する。そしてすぐに頷いて、ゆっくりと口を開いた。
 頭の上で紡がれる、透明感のある美しい音色。ソレはまるで子守歌のようにユレフの耳に届き、瞼を重くして行った。
「アクディ様……」
 目を瞑り、ユレフは消え入りそうな声で呟く。
「さよならで、ござる……」
 そして心地よい睡魔に身を任せ、ユレフはノアに体を預けた。

 ユレフが目を覚ましたのは正午を少し過ぎた頃だった。
 場所は大広間のソファー。そこでノアが膝枕をしてくれていた。自分が眠っている間中、ずっと側に居てくれたようだった。
「ヲレン=ラーザック様の体からはガラスの破片を全て抜いて、傷口は治癒術でふさいでおきました」
 ユレフとノアはアーニーに付いて、死んでしまった三人の遺体が安置されてる地下室に向かっていた。アクディの遺言通り、自分の手で三人を生き返らせるために。
「暖炉で死ななくて良かったでござるよ」
 ギーナは自分と違い人間をベースにしている。いくらソウルが無事でも、ソレを受け入れる肉体が無くなっていたら、元通りには生き返らせられなかったかも知れない。
「焼身は大変辛いと聞いております。差し出がましいとは思ったのですが、私が炎烈宝玉を一時的に止めました。あの予定で死ぬのはアクディ様のご意向に逆らう事になりますし、ヲレン=ラーザック様がどういった事を予定表に書き込まれたのかは想像できましたから」
 光輝蝶の放つ光を幻想的に反射させるクリスタル製の階段を下りながら、アーニーは事務的な口調で言う。
 自分が知っているアーニーでは考えられなかった行動だ。恐らく、あの時すでにアーニーは人間としての感情に目覚めつつあったのだろう。
「ローアネット=シルフィード様は骨折した箇所を元通り修復して、お召し物も変えさせていただきました」
「あの化粧はアーニーがしたでござるか?」
 アクディの考えている事が分からなくなり、本人に会って再確認しようと探していた時、ヲレンとローアネットの眠っている永冷シェルターを見つけた。そこに居たローアネットの顔には、うっすらとではあったが化粧が施されていた。
「はい。余計な事とは思ったのですが」
「全然余計な事じゃないでござるよ。凄く綺麗になってたでござる」
「お褒めにあずかり光栄です」
 相変わらずアーニーの喋り方は淡々としている。だがどこか違う。以前のアーニーではない。以前のアーニーなら命令されていないような事をしたりはしなかった。ただ人形のように、言われた事を言われた通りに実行するだけだった。
「ベルグ=シード様は体内の毒素を中和して、破壊された血管は人工血管で補っておきました。あと一週間もすれば体に馴染んで、すべて元通りになると思います」
「ベルグは良い奴でござる。アイツを一番最初に生き返らせるでござるよ」
「そうですね。私もそれが良いと思います。ベルグ=シード様は非常に男らしい方でございました」
 無表情でベルグの事を褒めながら、アーニーは全く同じ歩幅で階段を下りていく。
「ノア殿」
 ユレフは後ろを振り返り見ながらノアに声を掛けた。彼女はどこか気恥ずかしそうな顔つきで、自分達とは少し間を開けて付いて来ている。
「ちゃんと三人の予定表は持っているでござるか?」
「ん? あぁ、大丈夫だ。それより前見てろ。転ぶぞ」
 そして照れたように顔を紅くして、ユレフから視線を逸らした。
 膝枕をして貰ってからというもの、彼女はずっとあの調子だ。多分、自分らしくない事をしてしまったと思っているのだろう。
(ノア殿もまだまだ子供でござる)
 そんな事を考えていると、足下が階段から急に平坦な床へと変わった。突然の事に危うく転びそうになる。
「ほら見ろ」
 微笑しながら、ノアはユレフの体を後ろから支えてくれた。
「どうぞ」
 ノアの手を借りて体を起こし、前を向くと、アーニーが黒い壁の前で立ち止まって招き入れるかのように手を奥に差し出していた。
「何もないぞ」
 困惑するノアに、ユレフは得意げになって壁に駆け寄る。そして躊躇う事なくソコに体を沈めた。
「隠し部屋でござる。ここにはこういうのが沢山あるでござるよ」
「……なるほどね」
 ノアは半眼になり、納得したように浅く頷いて見せる。そしてユレフに続いて部屋の中へと足を踏み入れた。
「これは……凄いな……」
 部屋に入ってすぐに、ノアは感嘆の声を漏らす。
 思わず見上げてしまうほどに高い天井には、血管のように入り組んだ無数のチューブが張り巡らされていた。その真下には楕円球が浮かび、光沢のある固い鱗のような物で覆われている。ソコから針のように突き出た受信部には天井からのチューブが根を下ろし、得体の知れない気体を行き来させていた。
「ここは亜次元空間になっているでござる。だから空間の概念が外とはちょっと違うでござるよ」
 言いながらユレフは、呼吸するかのように明滅を繰り返す楕円球に近寄る。そしてその隣で安置されている、巨大なカプセル状の永冷シェルターの前に立った。
 シェルターの数は三つ。左から順にヲレン、ローアネット、ベルグが入っている。
「ノア殿、予定表を渡すでござる」
「あ、あぁ……」
 ノアは戸惑いながらも恐る恐るユレフの方に足を進ませ、持っていた三人の予定表をコチラに手渡した。その中からベルグの物を取り出し、楕円球の表面に張り付かせる。予定表はまるで楕円球と一体化するようにして吸い込まれていくと、チューブの一本を小刻みに震わせた。
 どういう作業をすれば良いのかは分かっている。アクディの後ろで何度も見ていた。ソウルを抽出する方法、人工ソウルの合成法、ソウルの安定のさせ方、ソウルの注入方法。
 人間由来のソウルと人工ソウルの融合はやった事はないが、同じリアクター内に入れてやれば自然と融合するだろう。ソウルはとはそういう性状の物だ。この作業が煩雑な物なのであれば、アクディは自分に託したりはしない。
 ユレフの見ている前でベルグのソウルの一部がリアクターに注がれる。楕円球のコントロールパネルを操作して、そこに予め合成されていた人工ソウルを加えた。霧状となった二種のソウルが互いに絡み合ったのを確認して、ユレフはその先から伸びるチューブをベルグの永冷シェルターに繋ぎ変える。そして弁を解放した。
 すぐにベルグの体が霧に包まれ、ソレはやがて空気に溶け込むようにして薄くなっていった。
「これで、良いはずでござる……」
 作業は滞り無く終了した。アクディの言った事が正しいのならば、これでベルグは生き返るはず。
 広大な室内に訪れる静寂。楕円球の発する光が透明な音を放っているようにも聞こえた。
「あ……」
 後ろに見ていたノアの声が漏れる。
 今、ベルグの瞼が動いた。続いて唇が、頬が、鼻が。
「やったでござる!」
 ユレフは歓声を上げて、ベルグの永冷シェルターを開放する。中の冷気と外気が急速に交換され、見る見るベルグの顔に赤みが差して行った。
「ぁん……?」
 そして、ベルグの声が聞こえる。
「ベルグ! 分かるでござるか! 小生でござるよ! ユレフでござる!」
「っぁー……なんや、自分も死んでもーたんかい……」
 ベルグは怠そうに後ろ頭を掻きながら、よろよろと前に進み出た。
「まーほんならしゃーないのー。あの世で一緒に面白可笑しく……」
「いつまで寝ぼけているでござるか! お前の国の『くいだおれ人形』に核弾頭ぶち込むでござるよ!」
「なにー! 国の象徴にケンカ売る気かぃ! エエ根性しとるやないか!」
 力強く開眼して、ベルグはユレフの胸ぐらを掴み上げる。
「よかっで、ござる……本当に、生き返ったでござる……」
 小さな声で途切れ途切れに呟くユレフに、ベルグは当惑した顔つきになって眉間に皺を寄せた。
「な、なんや自分……なに笑いながら泣いとんねん。キモイで……」
 そしてユレフの体を解放し、キョロキョロと周りを見回す。
「お、ノアちゃんやんか。メイドちゃんも……みんな揃ってどないしたんや」
「詳しい事は後でゆっくり話してやる。今はユレフのする事を黙って見てろ」
 声に笑いを含ませながら、ノアは楽しそうに答えた。
「次はローアネット殿を生き返らせるでござるっ」
「は? 生き返らせる?」
 素っ頓狂なベルグの声を背中で聞きながら、ユレフは先程と同じ作業をしてローアネットの体にソウルを注ぐ。そして彼女の顔に反応があったのを確認して、永冷シェルターを開放した。
「おお!? 何やコレ!? 何がどないなっとんのや!?」
「いいから静かにしてろ」
 歓喜の声を上げるベルグをノアが冷静にたしなめる。
「ローア! おっほー! ホンマにローアや! この柔らかい感触、間違いないでー!」
 しかしベルグは文字通りローアネットに飛びかかると、彼女の体を力一杯抱きしめた。
「え……ちょ、ベルグ……?」
 自分の体とベルグを交互に見ながら、ローアネットは戸惑いも露わに早い間隔でまばたきする。
「あーもー何か細かい事どーでもええわ! 夢なんやったら死ぬまで覚めんといてくれ!」
 全身を喜色に染め上げ、ベルグはローアネットの豊満な胸元に顔を埋めた。
「ベ、ベルグ! 何するのよ!」
 顔を真っ赤にしたローアネットは、少し体を反らして手を振り上げる。直後、小気味良い乾いた音が広い室内に響き渡った。
「痛い……」
「当たり前でしょっ!」
「おおぉ! 痛い! 痛いでローア! 夢なんかやない! もっとぶってくれ!」
「ちょ……!」
 怯むどころか更に体をすり寄せるベルグを、ローアネットは全力で引き剥がす。
「アブナイ悦びに目覚めた、か……」
 くっく、と喉を震わせて低く笑いながら、ノアは二人のやり取りに興味深そうな視線を向けた。
「次は、ヲレンでござる……」
 意を決したような表情になって、ユレフはヲレンの――ギーナの予定表を取り出した。そして楕円球に貼り付ける。
 彼には色々と言いたい事がある。謝りたい事がある。聞きたい事も、一緒に考えて欲しい事もある。
 今まではゆっくり話す機会など無かった。話そうとも思わなかった。ユレフにとってギーナは敵以外の何者でもなかった。
 しかし、今は違う。自分とアーニー、そしてギーナはアクディの生み出したソウル・パペット。世界中、どこを探しても代わりなど居ない、唯一無二の大切な存在だ。
 いや――
(小生達は“人間”でござる……)
 自分達は兄弟だ。ギーナが兄で、アーニーが姉。その事を、深く深く認識しなければならない。
 ギーナの永冷シェルターにソウルが注がれる。そして彼の目が動いたのを確認して、ユレフはシェルターを解放した。
 冷気を纏い、ギーナはゆっくりと前に歩み出る。
「ギーナ……久しぶりで、ござる」
 ユレフの声を聞いて、ギーナは諦めたような顔つきになって小さく頷いた。
「そう、か。僕は負けたんだ、な」
 滑舌の悪い口調で言い終えたギーナの体格が少しずつ変わっていく。二メートルもの長身は徐々に背を低くし、頭にはストレートの黒髪が生えそろっていった。大きなコートは収縮して動きやすそうなニットシャツとなり、底の厚いブーツは子供用のスポーツシューズになった。
 数分後、ようやく体が安定したギーナは、ユレフと同じくらいの少年だった。
「アクディ様は? 生き返らせてくれたお礼をしたい」
「……アクディ様は、死んだでござるよ……」
 呟くように言うユレフに、ギーナは一瞬驚愕の眼差しを向けるが、すぐに悲しげな表情になって溜息をついた。
「……そう、か。ついにその時が、来たの、か」
「お前は悲しくないでござるか?」
 意外にもあっさりとアクディの死を受け入れたギーナに、ユレフは思わず聞き返す。
「アクディ様の体が弱っている事は、前々から知っていた。だから覚悟は出来ていた。勿論、悲しくない訳ではないが、な」
 ギーナはすでに死という物に関して、自分より遙かに深く理解していた。その事に僅かな劣等感と、ギーナに対する尊敬の念が生まれる。どちらも初めて抱く感情だ。
「今、アクディ様はどこに居る?」
「二階の三階の間の隠し部屋に居るでござるよ。アーニーが知っているでござる」
「そう、か」
 短く言ってギーナは足早にユレフの前を去ろうとする。
「ま、待つでござる!」
 叫び声を上げて、ユレフはギーナの腕を掴んだ。
 まだ何も言っていない。ギーナが自分の事を嫌っているのは当然だ。自分は今までギーナに酷い事ばかりしてきた。見下して、馬鹿にして、嘲笑って。
 それをいきなり許してくれとは言わない。でもせめて、一言謝りたい。謝りたいのに……。
「何、だ」
 言葉が出ない。
 ついさっきまであれだけ言いたい事が沢山あったのに、いざギーナを前にすると何一つとして出てこない。
「その、小生は……」 
 ギーナの腕を掴んでいない方の手を握りしめ、ユレフは握り拳をポケットに突っ込んだ。
 出てこない。口から何も。だったら――
「これ……」
 ギーナから目を逸らし、ユレフはポケットの中に用意していた物を取り出して渡した。
「……『ルナティック・ムーン』?」
 それはルナティック・ムーンの花弁だった。ソコには曇りなど一点もなく、光の反射が無ければ存在自体分からない程の透明感を誇っていた。
「お前に、やるでござる……」
 ルナティック・ムーンをプレゼントとして渡した時、そこに込められたメッセージは『仲直りがしたい』。ココに来る前、ユレフが玄関ホールで二時間張り付いてようやく手に入れた真に透明な花弁。
 情けない事に、今はコレでしか自分の気持ちを表す事が出来ない。
「お前……」
 ユレフの手から花弁を受け取り、ギーナは少し声を高くして言う。
「意外だ、な。お前がこんなマネをするなんて……」
 ギーナの中での自分は、いまだに性格の悪い頭でっかちの子供だ。ソレは分かっている。だからすぐに仲直り出来るなんて考えていない。でも少しずつ、少しずつでも歩み寄れれば……。
「悪いが、要らない」
 駄目、か……。
「コイツの花言葉は、今のお前が一番似合ってる、な」
 そして一方的に言って花弁をユレフに押しつけると、ギーナはアーニーを連れて部屋を出て行った。
(コレの、花言葉……)
 『人間らしい人間』
「ちょっとは……認めて貰えたでござるか……」
 ははは、と力無く笑いながら、ユレフはその場に座り込んだ。
「お、おぃ! ユレフ! 大丈夫かい! 今の奴なんや!? 自分のイトコか!?」
「まぁ、そんなモンでござるよ……」
「ねぇ、お願いだからいい加減ちゃんと説明して欲しいわ」
「はは……分かってるでござる……」
 二人仲良く詰め寄ってくるベルグとローアネットに曖昧な笑みで返しながら、ユレフは助けを求めるようにノアに視線を向ける。
「ユレフ、次はアクディの弔いだな」
 その言葉に、ユレフは顔を引き締めて頷いた。
 もう迷いはない。アクディの遺志はしっかりと受け継いだ。きっと自分達は大丈夫だ。上手くやっていける。
「なぁ、ユレフ。私から一つ、お願いがあるんだがな……」

 外は雲一つない見事なまでの蒼穹だった。
 そしてソコにいる者達も皆、開放感に包まれた顔をしている。
 王都からは何百キロも離れた場所にある広大な森林地帯。その一角を切り開いて作られた敷地に、アクディの洋館は建てられていた。
「っくー! なーんか何十年も穴ぐらん中におったみたいやわー」
 ベルグが大きく伸びをしながら、空を見上げる。
 彼の体はもうコールド・エッジには蝕まれていない。抜け落ちてしまったソウルは人工ソウルで補完してある。元々明るい性格だったが、今はそれに輪を掛けて快活に見えた。
「ほんならな、ユレフ。なんかややこしい事色々あったけど、終わりよければ全てよしや。楽しかったで、ココでの十日間」
「小生も楽しかったでござる。ベルグとは良いケンカ友達になれそうでござる」
「あーほ。お前みたいなガキが俺にケンカ売るなんざ百億光年早い……と、言いたいところやけどな。今のお前とやったら、ええ漫才コンビになれる思うで」
 鼻の頭に乗せた眼鏡の位置を直しながら、ベルグは大口を開けて豪快に笑った。
 彼が最初ココに来た時は生きる事を諦めていた。死ぬためにゲームに参加した。しかし、今の彼の体からは溢れんばかりの生命の胎動を感じる。全身にエネルギーが漲っている。見ているだけで元気が出てきそうだ。
 アクディの事はちゃんと理解して貰えた。もう憎んではいないと明言してくれた。それどころか感謝していると。
 それは、ユレフにとって最高の返事だ。
「そうね。最初に見た時は随分と偉そうなボーヤだなんて思ってたけど、今は結構良い男になったじゃない。後もう十年、早く生まれてたらねー」
 艶笑を浮かべて言うローアネットの手には、大きめのスチールボックスが握られていた。一抱えほどもあるボックスの中には、目一杯の金貨が詰め込まれている。重力遮断装置を内蔵していなければ、大の男二人掛かりで持ち上がるかどうかと言ったところだろう。
 弟のコールド・エッジを治療しても、なお有り余る金額だ。
「小生には変身能力があるでござるよ。ローアネット殿に合わせるのも訳無いでござる」
「おーい、ローア! あんまりお子様からかったらあかんでー。コイツすぐ本気にするからなー」
「あら、アタシは本気よ? 彼ならどこかの誰かさんみたいに欲望剥き出しで襲いかかったりしないでしょうから」
 半眼になって意地悪そうな笑みを浮かべ、ローアネットは横目にベルグを見た。
「あほー、エエ女見てムラムラって来るんは男として当然の反応やないかー。三大欲求には逆らえんでー」
「どうかしらねー」
 情けない声を出してすがりついてくるベルグに、ローアネットは楽しそうに笑いながら曖昧な答えを返す。
 この二人は本当にお似合いだ。一週間ほどの短い時間で、もう相手の事を殆ど知り尽くしているように見える。
 ローアネットは強い女性だった。弟のコールド・エッジを治すために自分の命を賭けていた。自分のためではなく、他の人のためにあそこまで一生懸命になれる人間はかつて見た事がない。皆、自分の事で精一杯だ。しかしソレは当然の事。自分の事も満足に出来ていないのに、他の人の事にまで気を回す余裕など無い。ローアネットも本当はもっと自分に気を回したかったはずだ。あれだけの事を自分の身に強いておいて、辛くないわけがないのだから。
 しかし、それでも彼女は他の人を優先させた。
 これが慈愛という物なのだろうか。きっとベルグもそこに惹かれたはずだ。だから生きようという気になった。そしてローアネットがどうしようもないくらい崩れてしまった時、彼女を支えたのはベルグだった。
 互いに相手を補い、支え合い、励まし合う。
 これ程相性のいい男女はそう居ない。この先ずっと、幸せに暮らしていけるだろう。
「……なぁ、ユレフ。本当にこんな大金、いいのか?」
 緑色の髪の毛を梳きながら、少し困ったような仕草でノアが話し掛けてきた。
「勿論でござるよ。ノア殿はこのゲームに生き残ったんでござる。当然受け取る権利があるでござるよ。遠慮せずに歌手としての活動に役立てて欲しいでござる」
「けど、もぅ十分すぎる報酬を受け取ったんだがなぁ……」
 言いながらノアは喉を触って、軽く歌声を発して見せる。
 それは今まで聞いてきたどの歌声よりも澄み渡り、聞く者に安らぎをもたらした。ここに演奏が加われば、どれほど素晴らしい音楽になるのか。正直、あまりに高域の事で想像も出来ない。
 ノアがユレフに願い出た事。それはアクディの体に残った声を司るソウルを自分に移植して欲しいというものだった。
 もしかするとまた元の声が出るようになるかもしれない。
 そう思っての試みだった。
(上手く行って本当に良かったでござる)
 今の彼女の体にはアクディのソウルが宿っている。そして自分の体にはノアのソウルが宿っている。彼女を感じる事が出来れば、ソレは同時にアクディを感じた事にもなる。
 ユレフにとって、これ程嬉しい事はない。
 アクディは生き続ける。ノアの中で。そして自分の心の中で。
「ノア殿はこれからどうするでござるか。またプロを目指すでござるか?」
「いや、それはないな」
 苦笑しながらノアは返す。
「取り合えず家に戻るよ。相当親不孝な事してきたからな。それで落ち着いたら、また気ままに歌を歌おうと思う。自分が楽しいと思える歌をな」
「それがいいでござるよ」
 ノアもベルグと同じく、死ぬためにこの洋館を訪れた。しかし彼と決定的に違うところは、絶対に笑わない事。ありとあらゆる事を負の方向に考え、自分で自分を追いつめて行く。人並み外れて高い感受性があったからこそ、彼女は傷付き、疲弊していった。
 だが、それ故にユレフの心の中に入り込んだ。
 常人とはかけ離れた思考の持ち主だったからこそ、ユレフの内面を大きく揺さぶった。そしてソレをキッカケに自分は変わる事が出来た。
 もし彼女に出会わなければ、自分は今頃どうなっていただろうか。ギーナを殺し、アーニーを殺し、アクディの死体に寄り添って狂った自己満足に陥っていたかも知れない。
 本当に、彼女にはいくら感謝してもし足りない。
「また、どこかのライブハウスで歌う事があったら、必ずお前に特等席のチケット送るよ」
「楽しみにしてるでござる。絶対に聞きに行くでござる」
 ユレフの言葉に、ノアは少女のように晴れやかな笑顔で返した。
 落ち着いて大人びていた彼女が、初めて年相応に見えた。
 死にたがっていた頃の面影は全くない。本当は死にたくないのに、死ぬべきなんだと自分に無理矢理言い聞かせていた頃の雰囲気は微塵もない。
 彼女も生まれ変わったのだ。自分と同じように。
「ユレフ、お前はコレからどうするんだ?」
「まずは、コールド・エッジの患者の数を正確に把握するでござる。そしてアクディ様の遺言通り、一人でも多くの人を治すでござるよ」
「おー! ええ事ゆーた!」
 突然後ろからベルグの大声がしたかと思うと、首筋に腕が絡みついてきた。そして息の根を止めんばかりの勢いで、締め上げていく。
「俺はまさにその生き証人やからな! いちゃモンつけてグダグダゆー奴おったらすぐ呼べや! 俺が直々に気合い入れに行ったるわ!」
 耳元で下品に笑うベルグの声がだんだん遠ざかって行く。
「ちょっと! ベルグ! やりすぎ! やりすぎ!」
「ん……? おお! スマン! ユレフ! 大丈夫か!?」
 ベルグの腕から解放されて、白み始めていた意識が戻り始めた。
「っとにもー、ホントに貴方は無神経なんだから」
「ちゃうんねん。悪気があったわけやないねん」
「その言葉で済めば教会は要らないのよ!」
「すんまへーん……」
 ローアネットの怒声に、ベルグは肩を狭くして小さくなる。これからどちらが主導権を握るかは、今ので決まったような物だった。
「じゃあな、ユレフ。いつまでもこうしていると、ずっとココから離れられそうにないから私はそろそろ行くよ」 
 お金の入ったナップサックを肩に掛け、ノアは少し寂しそうに笑いながら言った。
「そーやな。ヲレ……ギーナとアーニーちゃんにもよろしくな」
 ベルグもユレフに隣りに立って別れの言葉を口にする。
「三人仲良くね」
 ユレフの頭を優しく撫でた後、ローアネットはベルグと腕を組んだ。
「みんな、元気でやるでござるっ」
 一瞬、目の奥に熱いモノが生まれそうになるが、ソレを何とか堪えてユレフは自分に出来うる最高の笑顔を浮かべた。
 ノアが背を向け、ベルグとローアネットも――
「あー! せや! 忘れとったわ!」
 何かを思い出したのか、ベルグはローアネットから腕を放してコチラに駆け寄ってくる。そして顔を付き寄せて聞いてきた。
「ユレフ。お前自分の予定表、まだ持ってるか?」
「予定表? まぁ、あるでござるが……」
 何をするつもりなのかは分からないが、取り合えずポケットから取り出してベルグに渡す。
「あとペンや。出来たらこの予定表専用の例のペンがええな」
 言われて、胸ポケットから取り出したペンも渡した。
 この期に及んで何を書き加えるつもりなのだろうか。しかし自分の予定表は他の人達のとは違い、行動を束縛する力はない。
「……っと。よっしゃ。これでええやろ。この予定はなー、絶対に叶うで。俺かてローアに同じ事してもらったんたや。間違いない。効果バツグンや」
 ソコに下手くそな字で書かれた文章を見て、ユレフは思わず笑いを零す。
「ほんならな! 今度こそサイナラや! おねしょすんなよ!」
「ベルグこそローアネット殿のお尻に押しつぶされないようにするでござるー!」
 ノアとローアネットの所に駆けていくベルグに向かって、ユレフは大声で叫んだ。そしてローアネットの鉄拳がベルグに突き刺さるのを見て、ユレフは皆とは反対の方向に歩を進めた。
「もぅ、いいの、か?」
 洋館の大きな扉の前で、ギーナとアーニーが自分を迎えてくれた。
「いいでござる。思い残す事は何も無いでござるよ」
「そうか……」
 ギーナは少し長く伸びた黒い前髪をいじりながら、躊躇いがちな視線をコチラに向けてくる。
「お前、変わった、な。以前はそんな風に笑ったりはしなかった。全くの別人、だ」
「変わったでござる」
 変わった。生まれ変わった。
 みんなのおかげで、アクディのおかげで。
「もう、今までのユレフは死んだでござる。今日この時から新しいユレフの『始まり』でござるよ」
 自分の名前の持つ意味の通りに。
 ここからが始まり。まだやっとスタート地点に立っただけに過ぎない。
 ――人間として。
「皆様、大変晴れ晴れとしたお顔をしてらっしゃいました」
 肩口に掛かった黒髪を風になびかせながら、アーニーは感情を表に出さないまま呟くように言う。
「そうでござるな」
「いつかアクディ様も、あんなお顔をして下さるのでしょうか。最近はずっとお部屋に閉じ籠もってらして。お外に出れば気分転換になりますでしょうか」
「……っ」
 アーニーの言葉にギーナは苦々しく顔を歪めた。
 やはり、アーニーはまだアクディが死んだという事を理解していない。
「アーニー」
 ユレフは彼女の正面に立ち、真剣な表情になって声を掛ける。
「アクディ様は、死んだでござるよ」
「死んだ……? 『死んだ』とはどういう意味ですか?」
 彼女は少し不思議そうな顔つきになりながら、聞き返した。
「もう、この世には居ないという事でござる」
「『この世』とは何ですか? ソレが不具合なのだとしたら、どうすれば解消されますか?」
 彼女の青白い顔からは全くと言っていいほど内面が読み取れない。
 だが、それでもいい。今はまだ。
「これから小生が時間を掛けてゆっくり教えてあげるでござるよ」
 アーニーの中にはアクディのソウルが宿っている。いつか理解できる日が来る。
 彼の死を。
 だから自分はその時まで、出来る限りの手助けをしてやらなければならない。ノアが自分にしてくれたように。いつまでもこのまま、アクディが話し掛けてくれるのを待っているのは悲しすぎる。
「ユレフ=ユアン様……」
「何でござるか?」
「少し、お優しくなられましたね」
 微かだが。
 本当によく見ていなければ気付かないほどの微細な変化だったが。
 今確かにアーニーの口元が笑みの形に曲がった気がした。
「みんなのおかげでござるよ」
 みんなのおかけで自分は変われた。みんながココに来てくれたから今のような気持ちになれた。ならば、アーニーも同じ事が出来るはずだ。
「また、あの方達とお会い出来ますでしょうか」
 心なしか、アーニーの口調に感情が混ざり始めた気がした。
「勿論でござるよ。間違いないでござる」
「随分と言い切るんだ、な。お得意の根拠の無い自信、というやつか?」
 微笑を浮かべながらギーナは聞いてくる。
「違うでござるよ」
 根拠ならある。
 今、自分のポケットの中に。
 ベルグが自分の予定表に書いてくれた。

『またいつかどこかで、六人揃って会える日が来る』
 
 この予定は必ず実現する。
 彼らと、心が繋がっている限り。
「さー、明日から忙しくなるでござる! 頑張って前向きに生きるでござるよ!」
「なんだ、それは」
「私もお手伝いさせていただきます」

 三人の声が風に溶け込んで消える。

 それに混じって、どこからかアクディの声が聞こえたような気がした。

 ―終幕―





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