ひらきなおりのド天然、してくれますか?

★色葉楓の『なんでやねーん、そらちゃうやろー』★
 真宮寺最強探偵事務所から徒歩で十分程の場所にある小さな神社。朱色の鳥居をくぐり、五百段ほどの石階段を上った先で待っているのは二本の灯籠。そしてその先にあるのは社務所と寂れた社が一つ。
 ココ、水比良神社は地元の人間以外は殆ど足を運ばない。それだけに境内はいつも静かで、落ち着いた佇まいをしていた。
 楓がこの神社に来た理由は一つ。
 今の自分にはなく、太郎が喜んでくれそうなモノを身に付けるためだ。
「あー、やっぱりいましたー」
 境内を歩き周り、社の裏手で竹箒を動かしている巫女服姿の女の子、天深憂子を見つけて楓は嬉しそうな声を上げた。
「あら、色葉さん。いらっしゃい」
 憂子は掃除の手を止め、コチラを向いて明るく言う。
 百五十あるかないかといった低い身長に、耳の下で切り揃えたオカッパ頭。柔らかそうに膨らんだ頬は生まれたての子供のように血色よく赤みがかり、大きくクリクリとした目は幼い雰囲気を遺憾なく醸し出している。
 一見すれば小学生に見えないこともないこの幼女の実年齢は二十六歳。太郎より二つも年上だったりする。
 しかしその座敷ワラシのような外見とは裏腹に、年齢以上にしっかりしており、何よりも他の追々を許さぬ類い希な才能を持っている。
「えーっと……あの非常識野郎は一緒じゃないの?」
 用心深く観察するかのような視線をコチラに投げかけながら、憂子は警戒心もあらわに聞いてきた。
「たーくんは今、お家でお昼ご飯の用意を……」
 そこまで言って、楓は顔を青くする。
「ああー! 忘れてましたー! お買い物ー!」
 脳内を埋め尽くす『失敗』の二文字。
 またやってしまった。
「え? え?」
 突然大声を上げた楓に、目をパチパチとさせる憂子。
「す、すいませんー! またきますー!」
「え、ちょ、待って色葉さ……」
「まったくだ」 
 石階段の方に振り向いて駆け出そうとした楓の背中に、呼び止めようとする憂子の声と、ソレを遮る形で男性の低い声が届く。
「もう少しゆっくりしていこうじゃないか楓」
 慌てて振り向くと、憂子の真後ろに立って大きな皿に盛られたカレーを頬張っている太郎がいた。
「た、太郎! イツからソコに!」
「イツからと言われれば、お前が豊胸パットの位置を直……」
「やかましい!」
 マイペースでカレーを口に運びながら淡々と言う太郎に、顔を真っ赤にした憂子の怒声が突き刺さる。
「やれやれ、お前が聞くから答えてやったのに。ああそうそう、夏場はムレるからナプキンかガーゼを挟んだ方が……」
「そんなこと聞いてない!」
 ぜーぜー、と肩で荒く息をしながら、憂子は低い位置から太郎を睨み付けた。
(すっごーい……)
 息がぴったり合った二人の掛け合いを見ながら、楓は感嘆の溜息を漏らす。やはり自分の目に狂いはなかった。求めていた人物が今まさに目の前にいる。
「憂子さーん。あのー、折り入ってお願いがあるんですがー」
「な、なに……?」
 疲れた顔付きでコチラを見ながら、憂子は肩を落として言った。
「私にツッコミを教えて頂けませんかー?」
「は?」
 楓の言葉に、憂子は目を丸くして声を裏返らせる。
「あのー、私ー、たーくんのお役に立ちたいんですー。それでー、憂子さんみたいにー、ズバーっとツッコめたらなーって思いましてー」
 そう、コレが楓の導き出した結論。太郎を喜ばせるための新たな技能。
 ツッコミ。
 今日の昼に皿を割ってしまったあの時。あの時の会話で見た太郎の照れたような表情がヒントになった。
 噂には聞いたことがある。あそこで自分がやってしまったのは『ボケ殺し』という名の大罪だ。ボケた人間を放置し、照れ笑いを浮かべて誤魔化すしかない状況に追い込む極悪な辱め。関西圏ではコレをやると実刑が課せられるらしい。
 太郎のボケを瞬時に理解し、的確なツッコミを即座に入れる。
 コレこそが太郎の役に立ち、必要とされることへの第一歩だ。
「と、言うわけでー。ご享受ねがえませんかー?」
「あ、ああ、ゴメンなさい。最初から話して貰っていいかな。アタシ太郎と違って心読めないんだ」
「あらあらー、そーなんですかー。残念ですー」
 頬に手を添えて溜息混じりに言い、楓は順を追って最初から事情を話した。迷惑が掛かるかもしれないので蘭乱のことは話に出さなかったが。

「――と、言う訳なんですけどー。ご理解いただけましたかー?」
 竹箒を杖代わりにして立っている憂子に、楓は確認の声を掛けた。
「……え、えーっと……つまり。太郎の役に立ちたい、と。要約すると、こーゆーわけね……」
 まるで何時間も空気椅子を続けた後のように足をケイレンさせながら、憂子は震える声で言う。
「はいー。ところでーどうしてそんなにお疲れなんですかー?」
「話長すぎるのよ!」
 ガバッと勢いよく顔を上げてツッコむ憂子。
 言われてみると夕日が沈みかけている。『そのー』、『あのー』、『えっとー』といった不必要な言葉を挟みすぎたせいかもしれない。
「すいませんー。どうも人に説明するのは苦手でしてー」
 いつもは太郎が自分の心を読んでくれるから何も言わなくても分かってくれるのだが。
「説明が苦手って……色葉さんってアタシ達の小学校の教師だったんでしょ?」
「まぁ、あの時はそれなりに苦労しましたー……。あ、でもそのおかげで今、憂子さんからロリツッコミしていただけましたー」
「誰がロリか!」
 鼻にシワを寄せて再度ツッコむ憂子。
「感激ですー。またツッコんで貰えるなんてー」
「いや、お願いだから感激しないで……」
 額に手を当て、憂子は沈んだ声で返す。
「コレからビシビシ特訓して下さいー。先生ー」
「先生はアンタだろ!」
 目を血走らせて三度ツッコむ憂子。
 ソレを受けた楓はまた感動し、胸の前で銀色のトレイをきつく抱きしめて瞳を潤ませる。
「……ねぇ、貴女わざとやってるでしょ」
「そんなとんでもないですー。単なる気まぐれですー」
「余計悪いわ!」
 四度目の憂子のツッコミが華麗に飛来した。
「……く、憎い。体に流れるツッコミの血が憎い……」
 ほとんど条件反射のように動いてしまう体と口がイヤなのか、憂子は両手を固く握りしめて体を小刻みに振るわせる。
「胸の方はちっとも“肉く”ないのにな」
「ボソっとトラウマ抉るなあああぁぁぁぁぁ!」
 憂子が振り向きざまに放った竹箒の横薙を、太郎はカレーを食べていたスプーンで軽く受け止めた。
「で、どうすんだ? ツッコミの先生。楓にお前の神技を仕込んでやるのか?」
「ホント……だ・れ・の・おかけでこんなにツッコミが上手になったのかしらねぇー。何かお礼でもしたいところだわぁー」
 三白眼になり、呻くように言いながら、憂子は凄絶な視線を太郎に叩き付ける。
「ふ……随分と謙虚じゃないか憂子。おかげでたださえ小さな体がさらに小さ……」
 言葉を途中で切り、顔を横に傾けた太郎の頬を裂いて霊符が夕焼けの空へと飛び去った。直後、周囲のあらゆる音が止んだかと思うと、派手な大爆発が太郎の背後でまき起こる。
「ちぃ、外したか……」
「ナルホド。『お礼』と『お札』を掛けたわけか。ヤルじゃないか」
「アンタもね」
 不敵な笑みを浮かべ、頬を伝ってくる血を舐め取る太郎に、憂子もまた好敵手をたたえるかのように口の端をつり上げた。
「わー、キレー」
 爆発で濃い紅へと染まっていく空を見上げながら、楓はパチパチと脳天気に手を叩く。
「で、太郎。アンタは色葉さんの話聞いてどう思うのよ」
 溜息を一つついて気を取り直し、憂子は立てた竹箒に体を預けながら太郎に聞いた。
「どう、とは?」
「色葉さんはアンタの役に立ちたいってガンバってるのよ。何かアンタから言うことあるんじゃないの?」
「そうだな」
 太郎は手に持っていたカレーの皿を、いきなり真横に現れた黒い穴の中に投げ入れてコチラへと近づいて来る。そして目の前まで来たところで楓の胸の辺りをジッと見つめ、
「楓」
「はいー」
 振り向いてさらに憂子の胸の辺りを見つめた後、また楓の胸へと視線を戻して極上の笑顔を浮かべ、
「ガンバる必要なんて全然ないぞ」
「どこ見て言っとるかあああぁぁぁ!」
 憂子のとび蹴りが太郎の後頭部に突き刺さった。
「でもー、私もー、憂子さんみたいにツッコめたらー、たーくんも嬉しいですよねー?」
「ううむ難しい質問だな。憂子、お前どう思う」
「何でアタシに聞くのよ」
 眼球の位置を直しながらたずねる太郎に、憂子は腕組みして拗ねたような顔付きで返す。
「まぁせっかく楓がこうしてヤル気になっとるんだ。俺としてはその気持ちも大事にしてやりたい。お前がいいんなら楓に付き合ってやって欲しいんだが」
「付き合うって言ってもねぇ……」
「ああ、別にレズになれとかそういう意味じゃないぞ?」
「アタシは別に意識してやってるわけじゃないしなぁ……」
 太郎の言葉を華麗にスルーする憂子。
「楓、今のが放置プレイというやつだ」
「奥が深いですー」
 短い紅髪を掻き上げて自慢げに言う太郎に、楓は真剣な表情になり、感心したように何度も頷いた。
「アタシはテレビとかネットとかで勉強した方がよっぽどタメになると思うんだけど」
「でもー、たーくんへのツッコミは憂子さんが一番合ってると思うんですー」
 憂子の言うとおり、ツッコミを勉強するなら教材はドコにでもある。しかしソレは一般向けにすぎない。そして太郎は一般や普通などという位置からは最対極にいる。ソレでは意味がない。どれだけガンバっても太郎の喜ばせられない。
「そう言われてもなぁー……」
「ダメですかぁー……?」
 うーん、と呻りながら難しそうな顔で考え込む憂子に、楓は泣き出しそうな声を出す。
「しょうがないな。ここは俺が一枚皮を脱ぐか」
「絶対やめてよ」
 顔の皮膚をマスクのようにはぎ取ろうとした太郎に、間髪入れず憂子が待ったを掛けた。
「憂子。お前、しばらく俺ンチに泊まりにこい」
「はぁ!?」
 突然の太郎の提案に、憂子は信じられない物を見るような顔で甲高い声を上げる。
「な、ななな、何、何言ってんのよ! いきなり!」
 そして竹箒を無茶苦茶に振り回しながら、夕焼けよりも紅く顔を染めた。
「何をそんなにキョドっとるんだお前は。お前が無意識にやってるってんなら、コッチでソレを引き出してやればいいだけのこと。俺の近くにいればお前は四六時中ツッコミ続けるだろ。ソレを楓に見せてやればいい」
「で、でで、ででででも! なんで、何でアンタの家に……!」
「見せる回数は多ければ多いほどいい。かといって毎日ココまで通うのは面倒だしな」
 どこからか取り出したタバコに火を付けながら、太郎は眉を軽く上げて言う。
「そ、それは、そうかも、し、しれないけど……。い、色葉さんに、悪いじゃない」
「どうしてですかー? 私はもー大歓迎ですよー」
 視線を泳がせて声をドモらせる憂子に、楓は子供のように喜びながら嬉しそうな声で返した。
「だそうだ」
 くっく、とノドで笑いながら、太郎は紫煙をくゆらせる。
「で、でも、と、父さんとか母さんとかに確認してみないと分からないけど……太郎、アンタもソレで本当にいいのね?」
「ま、たまにはこういうのも悪くないさ」
 太郎は肩をすくめて他人事のように気楽に言った。
「じゃ、じゃあ、ホントに行けるかどうか分かんないけど……あ、あんまり期待しないでよねっ」
 それだけ言い残すと憂子は竹箒を投げ捨て、ダッシュで水比良神社を出て行ってしまう。どうやら今夜から泊まりに来てくれるつもりらしい。
「あらあらー、そんなに慌てなくてもー」
「袴のすそを踏んづけて転んでくれたりすると非常にポイント高いのだが」
 小さくなっていく憂子の背中をマジマジと見つめる太郎に顔を向け、楓は人差し指を下あごに当てて小首をかしげた。
「ところでたーくん。カレーのお皿、他にあったんですかー?」
「ああ。待ちきれなくなったんで空気中の微粒子から生成した」
「そうですかー。よかったですー」
「まだ沢山残ってるから晩飯も“楓カレー”だな」
「憂子さんと一緒に食べましょー」
 そんな会話をしながら、楓と太郎は家路についた。

 楓カレーを食べ終え、三人で異次元テレビを見ながら談笑した後、憂子と一緒にナイアガラ風呂に入ってポカポカ気分。いつものように就寝前の恐竜ミルクを飲んでから、触手ブラシで歯を磨いていると少しウトウト。
 でもセミダブルのベッドで憂子と同じ布団に入ると、何だか修学旅行みたいでまた目が覚めてきた。
「今日は色々とありがとうございましたー。また明日もヨロシクおねがいしますー」
「……ア、アタシの体が持てばね……」
 二階にある太郎の部屋。壁や天井には所狭しと女の子キャラクターのポスターが貼られ、キレイに磨き上げられたショーケースには色んなポーズを取ったフィギュアが並べられている。
 部屋の角にある四十型のプラズマテレビの下には沢山のゲーム機とソフトが置かれ、その隣りには太郎が自分で組み立てたPC。詳しくは知らないが、幽霊界ともメールのやり取りができるようにカスタマイズされているらしい。
「……ねぇ、色葉さんって毎日こんな生活してるの?」
「んー? どこか変でしたかー?」
「そりゃあ……食べた途端いきなり脱力感がくるカレーや、男に性転換したアタシのドキュメントしてるテレビや、死なない程度に溺れ続けるお風呂や、体が化石になりそうになるミルクや、胃の中まで磨いてくれる歯ブラシはね……」
 げっそり、とした表情で、憂子は虚ろな視線を天井に張り付かせている。
「でもー、おかげで色々と勉強になりましたー。憂子さんのツッコミは天下一品ですー」
「……多分、誰でもツッコむと思うわ」
「そんなことないですー。憂子さんが一番ですー。特にー、一番最初のが迫力あってスゴかったですー」
 あれは夜の七時過ぎ。憂子がこの家に来てすぐのことだ。
 何日か分の着替えやら身の回りの物が入っているだろう大きなバッグを、憂子はリビングの隅に置きながら、

『ねぇ、ココに置かしてもらっていい?』
『フ……お前も大胆になったものよ。まさかココで犯して……』
『“に”ー!』

 と叫んで膝を入れたのがもの凄く印象的だった。
「私も早く憂子さんみたいになりたいですー」
「……いや、色葉さんはいつまでも純粋なままでいて欲しいわ」
 心底疲れた声で憂子は漏らす。
「それから、あの、さ……」
 そして少し恥ずかしそうに呟き、憂子は布団で顔の下半分を隠しながら声を掛けてきた。
「やっぱり、このまま一緒に寝るの?」
 消え入りそうな憂子の言葉に、楓は不思議そうな顔付きで小首をかしげる。
「どうしてですかー? 変ですかー?」
「いや、だって、普通は別々に寝ない?」
「でもー、たーくんとはいつもこうして寝てますよー?」
 ガバッ、と上半身だけをベッドの上に起こし、憂子は血走った視線をコチラに向けてきた。
「ね、ねねね、ね、寝てるって、たたた太郎と一緒に!? その格好で!?」
 今の楓の衣装はイヌビキニ。ネコビキニよりは柔らかい素材なため、寝ていても苦にならない。上下はもちろんセパレート。布の量は下着と殆ど変わらない。
「はいー、今日はーリビングで寝てますけどー、いつもは憂子さんのいる場所にたーくんがいますー」
「た、たた、太郎が、いつもは、ここここここに……」
 まるで泥酔したかのように頭をグラグラと大きく揺らしながら、憂子は歯の根の噛み合わない口調で言う。何をそんなにうろたえているのだうろか。
「じゃ、じゃあ、あの変態に、その……変なことされてるわけ……?」
「んー……特に何もー。たーくん、いつも私より早く寝ちゃいますからー」
「あ、そう……」
 人差し指をあごの下に当てて返す楓に、憂子は空気の抜けていくバルーン人形のようにシオシオと脱力した。
「アイツ、ドスケベなのか紳士なのかよく分からないわ」
 半眼になって言いながら、憂子はかなりダブついているパジャマの袖をまくり上げる。どう見ても憂子の体の大きさには合っていない。
「たーくんはとっても優しいですよー」
「そりゃ色葉さんには優しいでしょーよ。いっつもアタシのこと、ちっさいちっさいってバカにして……」
 ようやく袖の先から顔を出した手で髪を整えながら、憂子は機嫌悪そうにボヤく。
 このサイズの合っていないパジャマは、体が大きくなるようにとのおまじないなのだろうか。
「そんなことないですよー。たーくん、憂子さんことも褒めてましたー」
「え? アタシの……?」
 どこか期待に満ちた声で、憂子は意外そうに聞き返す。
「はいー、『アイツの背や胸は小さいがソレだけじゃない。心やケツの穴も十分に小さい』ってー」
「……太郎、殺す」
 低い声で短く言い、憂子は三白眼になったまま枕へと顔を埋めた。そのまま何度か拳を叩き付けた後、憂子は顔を半分だけコチラに向ける。
 その表情は怒っているようにも、諦めているようにも、そして――どこか羨やんでいるようにも見えた。
「色葉さんは、さ……。太郎のこと、好きなんでしょ?」
 くぐもった声で確認する憂子の顔はなぜか、否定して欲しいと言っているようだった。
「だから、あんなヤツの役に立ちたいって思うのよね?」
「はいー」
 しかし楓は間髪入れずに肯定する。
 その言葉に憂子は納得のいかない様子で顔をしかめて続けた。
「でも、さ。太郎と同じ意見でシャクなんだけど、色葉さんは今のままでいいんじゃない? そんな無理してガンバんなくたって、太郎はずっと貴女のこと見てくれてるんだしさ」
 憂子の言葉の端々にトゲのような物を感じたが、楓は気にすることなく首を横に振る。
「そんなことないですー。こう見えて私だって、不安になる時もあるんですよー。もしかしたらたーくんが私に愛想つかして、どっか行っちゃうんじゃないかってー」
 最近の失敗続きで、特にソレを強く感じるようになってきた。
 自分などいなくても太郎は何でも一人でできる。むしろ足手まといだ。だからいつか必要ないと思われて、見放されてしまうのではないか。
 気が付けば、そんなイヤな感情が心の中を埋め尽くしていた。
「ちょっと意外だったわ。色葉さんっていつもノホホンとしてるから、何でもあんまり深く考えないのかと……」
「あー、ヒドイですー。私だって普通の人の一割くらいは悩んでるんですよー?」
「……まぁ、そんな感じよね」
 苦笑しながらも心底納得したような顔で言う憂子。
 また何か変なことでも言ってしまったのだろうか。
「でも太郎が色葉さんを見捨てるなんて、明日アタシが太郎の身長追い抜くくらいありえない話よ。アイツ根は変態だけど、おかしなトコで真面目だから」
「んー、でもー……」
 太郎に必要とされていたい。いっぱい役に立って、いっぱい必要とされて、そして安心したい。
「だいたいさー、あの二次元にしか興味なかった人間嫌いのド変態が、こんな同棲みたいな生活するなんて、ちょっと前まで考えられなかったんだから」
「それはー、私がたーくん好みの衣装に着替えられるからでー……」
「関係ないって。いくら自分の変態妄想満たしてくれるからって、ちょっとでも色葉さんのこと嫌いだったら何が何でも追い出す。太郎はそういうヤツよ。昔から付き合ってるアタシが保証するわ」
 確かに、出会った頃の太郎ならそうしていただろう。
 しかし、今の太郎は二年前とは随分変わってしまった。比べ物にならないくらい優しくなった。ソレは自分だけではなく、周りの人間――憂子や蘭乱に対しても同じことだ。
 だから逆に不安になってしまう。優しくなったことで不満を素直にぶつけられなくなったのではないかと。本当は怒りたいのに我慢しているのではないかと。
「それにさ、もし色葉さんが邪魔なんだったら、例の『十メートル・ルール』とかいうヤツ。とっくに何とかしてるはずよ。あの変態トコトン非常識だから、幽霊界の法則だの何だのなんて絶対通用しないわよ」
 十メートル・ルール。
 それは太郎と楓をつなぐ目に見えない紐のような物。被守護者と守護霊の間に存在する決まり事。
 太郎が被守護者であり、楓が守護霊である以上、二人は十メートル以上離れることはできない。もしそれ以上離れた場合、第三者の目には決して不自然とならない形で、楓の方が太郎の近くに引き寄せられる。
「そう、ですねー……」
 忘れていた。その法則の存在を。
 太郎と一緒にいることが、あまりに当たり前になってしまっていたから。
 だから、いつそれが消滅していたとしても気付かない。
 例えば今日の午後、太郎から離れてデパートまで買い物に行った時には、すでになくなっていたとしても。
 あの時、自分は確実に太郎から十メートル以上離れて歩いていた。蘭乱の車にも乗った。
 もっとも、太郎なら周りに全く気付かれることなく後を付けたり、車より速く走ることなど訳ないだろうが。
 それにしても太郎はどうしてお使いになど行かせたのだろう。大きめの皿を作り出すなど太郎なら平気でやってのけるのに。事実そうしていた。
 ひょっとして十メートル・ルールの効力がなくなったのを確認するため?
「ソレをしないでほっといてるんだモン。色葉さんは太郎に気に入られたのよ。もっと自信持ちなさいって」
 明るく笑いながら言って、憂子は自分を精一杯はげましてくれる。
 だが、どうしてだろう。その声が悲しそうに聞こえるのは。
 どうしてだろう。ちっとも明るい気持ちになれないのは。
「もしー……」
 楓は天井を見つめながら、思い詰めた声で呟いた。
「もしー、憂子さんがー、私の立場だったらどうしますかー?」
「え……?」
 楓の問い掛けに、憂子は少し掠れた声を漏らす。
「もしー、憂子さんがー、ドジばっかりしてたーくんの足引っ張ってー、『ロリなアタシって必要とされてないかもー』って、すんごく思っちゃったらどうしますかー?」
「いや、ロリは関係ないから……」
「それでー、私が憂子さんにー、『気にしないでー、貴女のそんなロリなところがいいのよー自信持ってー』って言われてすぐに『そうねー』って言えますかー?」
「だからロリは……」
「ですよねー」
「今なに納得した!」
 音速を超えた憂子のツッコミ手が音の壁を叩き、パァン! と小気味よい烈音を部屋に響かせた。
「あー、憂子さんにツッコんでもらえてー、なんだか元気が出てきましたー。スゴイですー」
「あ、そ……」
 憔悴しきった顔で、憂子は赤くなった自分の手の甲をさする。
「私はー、これからもずっとたーくんのそばにいたいんですー。だからもっとガンバってー、たーくんに楽させてあげたいんですー。それでいっぱいツッコんでー、たーくんにもいっぱい元気になって欲しいんですー」
 そして自分のことを必要として欲しい。必要とさていることを楓自身が実感できるくらい必要とされたい。
「アイツがあれ以上元気になったら国際問題だと思うわ」
 布団に入り直しながら、憂子がボソッと呟く。
「憂子さんはー、たーくんのことどう思いますかー?」
「は!?」
 何の脈絡もない楓の質問に、憂子は弾かれたように上体を起こして大声を上げた。
「な、なによ。急に」
 そして咳払いしながら視線を宙に泳がせ、もう一度布団の中に体を潜り込ませる。
「ですからー、憂子さんはたーくんのこと、好きですかー?」
「す、好きなわけないでしょ! あんなド変態!」
「小さい時からずっと一緒にいるのにー?」
「く、腐れ縁ってヤツよ。別に一緒にいたくているわけじゃないわ。たまたまよ、たまたま」
「そうですかー」
 憂子の言葉に楓は安堵の息を吐き、口元に布団を引き寄せた。
「ちょっと安心しましたー」
「あ、安心? 何よ、ソレ」
「だってー、もし憂子さんがその気になったらー、私じゃ勝てませんからー」
 憂子と自分とでは太郎と一緒にいた年月に差がありすぎる。ソレは今からでは埋めようのない絶対的な違い。
 憂子は同年代の中で、太郎のことを『太郎』と呼ぶことができる唯一の存在。つまりそれだけ特別ということだ。もし憂子が本気で太郎と親密になり始めたら、自分の居場所などすぐになくなってしまうだろう。
 だからこそガンバらなくてはならない。精一杯ガンバって、太郎に必要とされなければならない。そして自分の居場所を確保しなければならない。この先ずっと、太郎と一緒にいるために。
「……色葉さんて、前から抜けてる抜けてるって思ってたけど、やっぱり抜けてるわね。すごく肝心なところまで」
「ふぇー? なんですかソレー?」
 憂子の言葉に楓は悲壮感に満ちた声を上げる。
 また知らないところで、自分は何か重大なミスをしているのだろうか。
「教えてあーげないっ」
 憂子はイラズラっぽい笑みを浮かべて見せると、枕元のリモコンを操作して部屋の電気を消した。目の前が黒一色に染め上げられ、何も見えなくなる。
「教えてくださいー、憂子さーん……」
「太郎は、さ。アレで結構細かいトコまで気が回るのよ」
 楓の嘆きには答えず、憂子は独り言のように呟いた。
「つまらない心配しなくても、太郎はいつも色葉さんのこと気にかけてくれてるから。アタシを家に呼んだのも、別にツッコミの練習とかそういうんじゃなくて、単に色々と話させたかっただけだと思う。ほら、太郎抜きじゃないと話せないこととか、女同士じゃないと言えないこととかってあるじゃない。例えば、さっきみたいな話とかさ……」
 真っ暗なせいで憂子の顔色は読みとれないが、なんだか声が沈んでいるように聞こえる。
「ま! アイツはそういうヤツだからさ! ホント、色葉さんにしてる気遣いの一割でもいいからアタシにもしろってことよ! ね! アハハ!」
 急に大声を出し、憂子は自分を励ますかのように暗闇の中で笑い声を上げた。
「……ホント、色葉さんが羨ましい」
 布団で顔を覆っているのか、こもった小声が憂子から漏れる。
 ――羨ましい。
 同じ思いを楓も憂子に対して抱いている。
 何も言わなくても太郎のことをそこまで分かってやれる憂子が。太郎が本当は何を考えて行動しているかなど、自分では到底思いつかない。
 それに憂子という最高のツッコミ手を得て、今日の太郎はもの凄く活き活きとしていた。自分の前では絶対に言わない言葉や、見せない表情をいくつも出していた。
 二人のやり取りを見ているとハッキリ感じる。憂子は太郎に必要とされているということを。
 だから憂子に負けないように自分もガンバらなければならない。せめて憂子の一割くらいは、太郎から必要とされるようにならなければ。
「憂子さん。明日からまた、色々教えてくださいねー」
 だが憂子からは何も返ってこない。
 不規則な寝息だけが静まりかえった室内に広がる。
 布団ごしに憂子の体を少しなでた後、楓は太郎のことを想いながら目を閉じた。

 次の日は朝から大雨だった。
 大粒の雨滴がリビングの窓ガラスに叩き付けられ、鈍い音を立てている。
「やまないわねー」
「うむ。確かにお前の胸は山な……」
「雨がよ!」
 キッチンで楓と一緒に昨日のカレーの残りを食べている太郎に、リビングのソファーから憂子がツッコんだ。今日は巫女服ではなく、薄桃色のワンピースというラフな格好をしている。
「なるほどー。今のはそう言う意味だったんですかー。勉強になりますー」
「せんでいい!」
 スプーンを動かしながら感心したような声を出す楓に、間髪入れず憂子は叫んだ。
「今のがツッコミ・エコーというヤツだ。あれだけ鋭いツッコミを連続して入れられるのは、並はずれた肺活量を持つ憂子ならでは技」
「小さく見えて大きな肺をお持ちなんですねー、憂子さんてー」
「アンタら……ホントにいいコンビね……」
 疲れた声で小さく言って、憂子はソファーのクッションに身を沈ませる。そしてブツブツと文句を言いながらテレビを付けるが、昨日のドキュメンタリーの続きが始まったのを見て乱暴に消した。
「楓、憂子が随分とお疲れのようだが――」
「なんでやねんー!」
 太郎の言葉を途中で遮って、楓が間延びした声でツッコミの声を上げた。
「ど、どうした、楓」
「え? だって今ー、『お疲れ』と『カレー』を掛けたんでしょー? 私でもそのくらいは分かりますよー」
 得意げな顔になり、楓はエッヘンと豊満な胸を張る。
「……ニュータイプ、か。コレはコレで新鮮だな」
 コチラを真剣な表情で見つめる太郎に、楓は誇らしげな顔を返した。
 どうやら成功したらしい。コレでツッコミの名手への第一歩を踏み出せた気がする。
「時に憂子。お前、朝飯は食わんのか? せっかくの楓カレーを」
「……悪いけど、遠慮しとくわ。今日は……ちょっとダメなの」
 青い顔をして、憂子は呻くように声を発した。やはり普段とは生活のリズムが違うからなのだろうか。
「そうか。まぁ『あの日』ならしょうがないな」
「食欲がないのよ!」
 憂子のツッコミに口の端をつり上げ、何か満たされたような笑みを浮かべる太郎。やはり本家はレベルが違う。
「どうやら憂子の口には合わないらしい。隠し味にタワシを入れたのがまずかったかな」
「かもしれませんねー」
 太郎と楓は残念そうに声を合わせる。
「今なんて言った?」
 その声に反応して顔を上げると、さっきまでリビングにいたはずの憂子が、いつの間にか太郎の胸ぐらを掴み上げていた。
 気のせいかもしれないが、憂子もだんだん常識を踏み外し始めているように思える。
「なにって……ああ、お前のカバンの中から黒いショーツが出てきたから、ペロちゃんのキャラパンティーと交換しておいたぞ」
「人のカバンあさるな!」
「しかしなぁ、お前があんなアダルティーな下着を付けるのはいくらなんでも非常識だろ」
「お前が言うな!」
 腕組みし、真顔で言う太郎に憂子が怒鳴り散らした。直後、部屋の中が圧倒的な光量で白く染め上げられたかと思うと、落雷の轟音が響き渡る。
(スゴイですー。ツッコミ・エコー・サンダーですー。新技ですー)
 憂子のツッコミに新たな技名を付け、楓は二人の掛け合いを見逃すまいと目を大きく見開いた。
「なぁ憂子、一つ聞きたいことがあるんだが」
「なによ」
 困ったように顔をしかめ、太郎は心底納得いかない声で続ける。
「お前、なにをそんなに怒ってるんだ?」
「今さら不思議そうな顔して聞くな!」
「そりゃ豊胸パットの他にシークレットブーツも欲しい気持ちは分かるが……」
「なんでそうなる!」
「違うのか。じゃあやっぱり『あの日』だからだとしか……」
「他の選択肢出せ!」
 楓は自分の体の中で、言いようのない昂奮が生まれるのを感じた。
(ツッコミ・トリプルですー! スゴイです、スゴイですー!)
 憂子に付いて行けば、いつか自分もこんな風に太郎とやり取りできるようになるのだろうか。
 いや、ならなければならない。なんとしても。
 そして今太郎が浮かべている幸せそうな表情を引き出さなければならない。
「あーらあらあらあらあらあら。憂ちゃんじゃなーい。まー、ピンクのワンピースなんて可愛らしい。このままお持ち帰りしたいわー」
 突然、リビングの方から聞こえてきたハスキーな女性の声に、憂子が全身を大きく震わせて振り向いた。そしてギギギ、と油の切れたような音を立てて、恐る恐る首を後ろに向ける。
「たか、な、し、さん……」
「ハーイ。お久しぶりね。相変わらずロリロリしてて嬉しいわ」
 吃音のように途切れ途切れの言葉を発する憂子に、蘭乱は扇で口元を隠しながら上機嫌で返した。そしてなまめかしい視線を憂子に注ぐ。
「な、な、な、なんであの人がイキナリ出てくるのよ」
 太郎の後ろに身を隠し、憂子はガチガチと上下の歯を打ち付けながら怯えた表情で聞いた。
「まぁ一応クライアントの一人だからな」
「じゃなくて! どっから入ってきたのか聞いてるのよ!」
 的外れな太郎の答えに、憂子は震えながらもツッコむ。
「小鳥遊、お前どこから入った」
「窓からよ」
「じゃあ仕方ないな」
「仕方なくない!」
 肩をすくめて半笑いになる太郎に、憂子は声を荒げて叫んだ。
 そして蘭乱から放たれる熱い目線に耐えかねたかのように、半泣きになりながら太郎の後ろへと潜り込んでしまう。どうやら蘭乱という人種がよほど苦手らしい。
「で、今日はどんな依頼をしに来た。七色に輝くナタを見たいというなら、もう少し待って貰おうか」
「そんな物に興味ないわ。ま、『憂ちゃんの一日自由券』をオマケに付けるっていうんなら考えてもいいけど」
「五千万」
「買った」
「売った」
「売るな!」
 テーブルの下でうずくまりながらも、ツッコむべきところは外さない憂子。彼女の勇姿からは学ぶべきことが沢山ある。
「まぁいいわ。今日、用事があるのは色ちゃんの方だし」
「私、ですか?」
 突然話をフラれて、楓は自分を指さしながら裏声を上げた。
「心配しなくてもネコならちゃんと探してやる」
 低い声で言い、太郎は自分の下で丸くなっている憂子の背中に黒い視線を落とす。
「それとはまた別件でね。依頼したいことがあるのよ」
「そらちゃうやろー!」
 と、蘭乱の言葉に被せて楓が間延びツッコミを入れた。
「今のはー、『依頼』と『したい』を掛けたんですよねー」
「『い』しか合ってない!」
 恐怖で見境がなくなっているのか、所構わずツッコむ憂子。
「気にするな。先を続けてくれ」
「……分かったわ」
 真顔で冷静に言う太郎に、蘭乱はセミロングの黒髪を梳きながら頷いた。そしてソファーに腰を下ろして脚を組み、持っていた大理石のケースから煙管を取り出して火を付ける。
「依頼の内容自体は簡単よ。ぬいぐるみを百体作って欲しいの。期限はなし。できるまでいくらでも待ってあげるわ。ただし――」
 そこまで言って言葉を切り、蘭乱は紫煙を吐き出して目を細めた。
「この依頼は色ちゃん一人だけでやって欲しいの。真宮寺、貴方の出番は今回はなしよ。ただ見てるだけ」
「わ、私、一人ですかぁ……?」
 予想外すぎる依頼内容に、楓は心細そうな声を上げる。
 これまで受けてきた依頼は全て太郎と一緒にやってきた。どんな時も、別々に行動したことなどなかった。
 太郎が一緒にいてくれる。
 その安心感があったからこそ、楓はカンバることができた。しかし――
「どう? 成功報酬は五十万。悪い話じゃないと思うけど」
「たーくーん……」
 挑発的な笑みを浮かべてくる蘭乱。虚空を見つめて思索に耽る太郎の横顔を、楓は不安げな視線で見つめる。
 できれば受けて欲しくない。まったく自信がない。自分一人でやる仕事など、どれだけの失敗をするか分からない。ますます太郎に迷惑を掛けてしまう。
「いいだろう」
 しかし数分の熟考の末、太郎は蘭乱からの依頼を引き受けた。
「ホントですかー……?」
「ただし、この依頼には俺が関与しない以上、例え達成できなかったとしてもお前との勝負には全く関係ない。つまり、楓ができないと言ったら、ためらうことなく即座に中止する。いいな」
 情けない声を出す楓の隣で、太郎は強い意志を瞳に宿して言い切る。
 この依頼は達成できなかったとしても文句は言わせない、と。
「いいわ、それでも」
 しかし蘭乱は別に気にした様子もなく、なぜか快くその条件を承諾した。
「それじゃあコレ、前金の二十万。それと必要経費の百万。もし余ったらあげるわ」 
 さらに気前よく、前金とぬいぐるみの材料費まで胸の谷間から取り出す。
「できたら連絡ちょうだい。ま、気長に待ってるから」
 それだけ言うと、百二十万の札束をガラステーブルの上に置いて立ち上がった。そして庭へと続く窓を開けたところで、もう一度コチラに振り向く。
「ガンバってねん、色ちゃん。それから、真宮寺はダメだけど憂ちゃんにならちょっとくらいヘルプして貰ってもいいわよん。バァーイ」
 蘭乱は鼻につく甘ったるい言葉を残し、扇をヒラヒラと振って別れを告げた。
「やれやれ、相変わらず妙な依頼をする女だ」
 すっかり冷めてしまったカレーを吐息で温め直し、太郎は再びスプーンを突き刺して食べ始める。
「あのー、たーくん、私ー……」
「ガンバるん、だろ?」
 楓が何かを言い終える前に、太郎は片眉を上げながら確認するように言った。
「聞いての通り、時間は無制限だ。何回失敗してもいいからできるトコまでやってみろ。で、どーしても無理だって思ったら言え。俺から小鳥遊に言ってやるから」
「あ、はいー……」
 暗い表情のまま、楓は元気なく返す。
 太郎はどうしてこの依頼を受けたのだろうか。達成できる見込みは極めて薄いというのに。それは太郎自身もよく分かっているはずだ。だからあんな約束を前もって取り付けた。
 前金やかなり大目に渡された必要経費が欲しかったから?
 いや、しかしお金を渡されたのは太郎が受けるということを明言した後だ。あらかじめ分かっていたわけではない。
 太郎の真意が掴めない。こんな時、憂子ならどう思うだろう。太郎が何を考えているか、すぐに分かってしまうのだろうか。勘の悪い自分では思いつかないような何かを。
 聞いてみる? イヤ、ダメだ。それではいつまで経っても太郎のお荷物のままだ。何も言わなくても意思疎通できるようにならなければならない。
 考えよう。ガンバって考えよう。幸い、太郎からは機嫌の良い感情が伝わって来ている。少なくともムキになってこの依頼を受けたわけではない。そのことをヒントにガンバって考えよう。
 そうだ。ガンバる。とにかくガンバる。ひたらすガンバる。
 少し前に自分で言ったことではないか。
 太郎の役に立つためにガンバる。太郎を喜ばせるためにガンバる。
 認めて貰わなければならない。そして必要とされなければならない。
「たーくん。私、一生懸命ガンバりますー!」
「ほーかほーか」
 胸の前で握りこぶしを作って力強く発した楓の言葉に、太郎は優しい笑みを浮かべて頷いた。

 ぬいぐるみ、というのは布を縫い合わせてその中に綿を詰め込めばできる。
 ただソレだけのことだ。実に簡単な作業。
 言葉で表現するだけならば――
「いたぁー!」
 雨が降りしきる中の昼下がり。いつもより薄暗いリビングの中に楓の声が響き渡った。
「針に糸を通すまでに十二回、五センチ縫い進めるまでに更に十回、か……。さすがは楓、期待を裏切らんな」
 ソファーに腰掛けてタバコを吹かしていた太郎は、感心したように言いながらパチン、と指を鳴らす。まるでその音に癒しの効果でもあるかのように、さっき針を突き刺してできた指の傷はウソのように消えてしまった。
「たーくん、ありがとうございますー……」
 痛みの引いた指をさすりながら、楓は太郎に頭を下げる。そして再び顔を引き締めると、布と針を持ち直した。
 太郎が超次元通販で取り寄せてくれた『ぬいぐるみキット・百体コース』。材料から道具、説明書まで全てが詰まった巨大な箱を前にしてやる気満々になった楓だったが、説明文が全て超次元言語で書かれていたため太郎でしか解読できず、さらに箱を開けると同時に素材が溶けて腐ってしまい、一度持ち上がったテンションは一気に急降下した。
 結局、憂子が昔使っていたというソーイングセットと、あり合わせの布と綿で練習がてら作ってみることになったのだが……。
「ぁー!」
「十一回目、か……」
 作業は遅々として進まなかった。
「ねぇ太郎。ミシン使った方が早いんじゃない?」
 楓の危なっかしい手つきを、隣でハラハラと見ていた憂子がもっともらしい意見を述べる。
「お前、フランケン楓を見たいのか?」
「遠慮しときます……」
 あっさりと引き下がる憂子。
「もぅええっちゅうねんー!」
 そこに楓のツッコミが突き刺さった。
「今のはー、さっきの『腐った素材』と『腐乱犬』を掛けたんですねー」
 そっと肩に置かれる憂子の手。
「色葉さん、この短い期間で随分と成長したわね。でも、今はぬいぐるみに集中しましょ?」
 優しく喋り掛けられているのに、気持ちが沈んでいくのはどうしてなんだろう。
「時に憂子、お前ぬいぐるみ作れるのか?」
「え……? まぁ、ちょっとくらいなら」
 急に話をふられて、憂子は何かを思い出すように目線を上げながら答えた。
「ちょっと手本を見せてやってくれんか。小鳥遊もお前ならいいって言ってたしな」
「ア、アタシがぁ?」
「憂子さんー、ぜひお願いしますー」
 二人にお願いされ、憂子は少し困った顔付きで息を吐いたが、楓から布と針を受け取ると慣れた手つきで縫い進めていく。
 二枚の布は見る見る縫い合わさって行き、あっと言う間にネコの胴体の外布部分が完成した。
「ほぉ、大したもんだ」
「わぁー、すごいですー」
 左右から感嘆の声を浴びせられ、憂子は恥ずかしそうに小さく笑みを浮かべる。
「体が小さいから、こういう細々としたこともお手の物ってわけか」
「上手なのはツッコミだけじゃなかったんですねー」
「……アンタら、ホントに最凶のコンビだな」
 唸り声のように低く言いながら、憂子はできた胴体部分を裏返して綿を詰めていった。そしてキレイに膨らんだところで、入り口を縫い止めて楓に手渡す。
「後は一緒よ。同じ要領で足と尻尾と顔を作って、最後にソレを胴体にくっつければ完成」
「分かりましたー。やってみますー。どうもありがとうございましたー」
 ふわふわとした手触りの胴体を受け取り、楓は憂子に深々と頭を下げた。そしてネコの顔の形に切られた布を取り上げ、楓はさっきの憂子の手つきを思い返しながら針を突き刺し、
「ったー!」
 甲高い悲鳴がリビングに響き渡った。

★小鳥遊蘭乱の『そんなことは絶対にありえないわ』★
 リムジンの中でワイングラスを傾けながら、蘭乱は雨の音に混じって真宮寺最強探偵事務所から聞こえてくる楓の叫声を、うっとりとした表情で聞いていた。
(ガンバルのよ、色ちゃん)
 そしてもう片方の手で持った煙管を優雅にくゆらせながら、楽しそうに目を細める。まるで我が子の成長を見守る母親のように。
「出して、阿部野橋」
「は」
 蘭乱の声に応えて、リムジンがゆっくりと走り始める。
「貴女様もなかなか陰湿な依頼を思いつきますデスねー」
 直後、サイドテーブルの上が暗くなったかと思うと、夜水月が声を弾ませて現れた。途端に気分が悪くなり始める。
「この方がアンタも動きやすいでしょ?」
「はいデス」
 吐き捨てるように言った蘭乱の言葉に、夜水月は黒いシルクハットに手を掛けて慇懃に礼をした。
 夜水月の目的は楓に失敗を重ねさせ、太郎のそばに居づらくすること。しかし決して太郎に見つかってはならない。見つかれば抹消させられる。だから太郎と楓が一緒にいる時は大きな動きはできない。ほんの少しの痕跡でも残せば、たちまち太郎にさとられてしまうから。だから少し前、楓を追って憂子のいる水比良神社に行った時は手出しできなかった。太郎が亜空間から突然姿を現してしまったから。
 ならば、最初から太郎の存在を楓から遠ざけてしまえば。
 勿論、完全に離れるわけではない。楓を見守るくらいは許可した。しかし直接関わってはいけないことにしてある。自然と、これまでよりは共有できる時間が少なくなるはずだ。
 その隙をついて夜水月が楓の失敗を引き起こせばいい。
 今回の依頼はそのための物。
 ――表向きは。
「楓君には今回の依頼で自分の無能さを噛み締めて貰うデス。今回でキメるつもりで行きますデスよ」
「そ。まぁワタシを失望させないようにガンバってね」
 冷めた口調で言いながら、煙管から吸い込んだ煙を夜水月の顔に吹きかけた。
「えほっえほっ。わ、分かってますデス」
「それじゃあさっさと行きなさい」
 煙管で窓の外を指しながら、蘭乱はどこか投げやりに言う。
「ああ、そうそうデス。もしこの件が無事終わったら、貴女様が真宮寺様との勝負に勝てるように少し手を貸しても良いデスよ」
 リムジンの扉を半分ほどすり抜けたところで夜水月は動きを止め、イヤらしい笑みを浮かべて声を掛けてきた。その言葉に蘭乱の表情が固くなる。
「……考えておくわ」
「貴女様とは今後も良い関係を保ち続けたいものデス」
 上機嫌で言い残し、夜水月はリムジンから姿を消した。エンジン音と、ルーフに打ち付ける雨音だけが耳に届く。
 蘭乱はワインを一気に飲み干して少し気分を落ち着かせた後、鼻にシワを寄せて舌打ちした。
(無事、ね……。アンタが無事で終わるわけないのよ)
 そう。絶対に無事では返さない。不幸のどん底に突き落としてやる。今回の依頼に含めた真の目的の一つがソレだ。
 太郎は今まで常に楓と一緒にいた。しかし、あまりに距離が近すぎると逆に視野が狭くなる。そばにいるはずの異端分子に気付かないことがある。
 だから今回は太郎を楓から少し離した。見張りに徹させた。
 一歩遠ざかって楓を見ることで、彼女を取り巻いている不幸の黒い塊が見えるはず。
 今回の依頼で夜水月が調子に乗って楓に嫌がらせを続ければ、間違いなく太郎にバレる。太郎は楓に害なす者には容赦しない。夜水月の希望通り抹消されるか、あるいはもっと酷い目に遭うか……。
 どちらにせよ無事ではすまない。無事、幽霊界に帰したりはしない。
(あのクロスケは、ワタシの初めての勝利を台無しにしたヤツ……)
 許すことはできない。絶対に。
 太郎が自分の依頼で初めてしたミスらしいミス。しかしソレは夜水月が仕組んだことだった。
 至福の昂揚から、暗闇の落胆へと。蘭乱は自分でも驚くほどの深い悲哀に苛まれた。
 太郎に勝つということへの執念がそれだけ肥大化していたのだろう。思えばこの二年間、そのことだけを考え続けていたような気がする。
 ――太郎を不幸にする。
 余計な思いを振り払い、そのことだけで頭を一杯にしていた。
 何かを追い求めるように。何かに駆り立てられるように。そして、何かから逃げ出すように。
「ワタシも暇人だわ……」
 窓ガラスに映し出された外景をぼーっと見ながら、蘭乱は誰に言うでもなく呟いた。
 金もある。時間もある。名誉もある。欲しい物は望みさえすれば殆ど手に入る。
 だが、スッポリと抜け落ちた心の穴を埋めることだけはできない。
 しかし、太郎と勝負をしている時だけはそのことを――
「バカバカしい……」
 ふと、頭に思い浮かんだことを振り払うようにして、蘭乱は自嘲めいた笑みを浮かべながら首を左右に振った。
 自分は今、何を思った? 何を考えた? ありえない。そんなこと絶対にありえない。自分が太郎のことを――
「奥様」
 運転席の方から掛けられた阿部野橋の声で、蘭乱は我に返る。
「何?」
「最近、お一人で話されることが多くなられましたね」
 蘭乱は何も返さない。ただじっと窓の外を見つめている。
「やはりまだ、亡くなられた旦那様のことを……」
「阿部野橋」
 彼の言葉を遮るようにして、蘭乱は鋭い声を飛ばした。
「ちゃんと運転に集中なさい」
「……は」
 阿部野橋の声をどこか遠くの方で聞きながら、蘭乱は静かに煙管をくゆらせた。

★色葉楓の『分かりましたー! やっと分かりましたー!』★
 深夜。午前二時。
 楓は太郎の父親と母親が使っていた部屋で一人、小さく灯した電灯の下で布と格闘していた。太郎と憂子が寝静まってからベッドを抜け出し、見つからないようにコッソリとぬいぐるみを作っているのだ。
 二人とも優しい。昼も夜も、ずっと楓のそばにいて見守ってくれていた。だから楓が夜更かしして作業を続けると知れば、いつまでも一緒に起きていてくれるだろう。
 しかしそこまで迷惑を掛けるわけにはいかない。これは元々、自分が一人でやるように言われた依頼だ。苦労するのは自分だけでいい。
「はふぅー。もーちょっと……」
 チクチクと針で縫い進めながら、楓は小声で漏らした。
 丸一日掛かって、ようやく小さなネコのぬいぐるみのパーツが完成しようとしている。すでに四本の足と顔はできている。そして胴体は憂子が作ってくれた。あとは尻尾の形に切った布を縫い合わせて、綿を詰めれば全てができあがる。
 ソレで一段落だ。そこまでやり遂げたら寝よう。明日、全てを縫いつなげてネコのぬいぐるみの完成だ。
(憂子さんて、すごいなぁー……)
 自分の作ったネコの顔と憂子の作ったネコの胴体を見比べながら、楓は心の中で溜息をついた。憂子が縫い合わせた布は縫い目がキレイに揃い、綿を入れた時に均等に膨らんでいる。対して自分が縫い合わせた顔は形自体がいびつで、ネコというよりはヒトデに近い。
 きっと憂子なら、こんな依頼などあっと言う間にこなしてしまうだろう。
 太郎のことをよく知り尽くし、ツッコミが上手く、手先も器用。 
 今のところ唯一勝てるものといえば、胸の大きさくらいだろうか。
(でもー、小さい方がいいって人も沢山いますしー……)
 あご先に人差し指を当て、楓は小首をかしげて難しそうな顔になる。
(たーくんは、どーなんでしょー)
 そんなことを考えながら手を布に戻した時、待ちかまえていたように針が楓の指を突く。
「っ……」
 気を抜くとすぐコレだ。本当に何度やっても学習しない。何度も何度も同じ失敗をする。
 だが、それでもガンバっていれば。ガンバり続けていれば。太郎はいつか自分のことを必要としてくれるようになるだろうか。

『楓ができないと言ったら、ためらうことなく即座に中止する。いいな』

 自分のことを思っての太郎の発言。
 もしできなかったとしても仕方ない。だから必要以上に無理をするなという、太郎の気遣い。

『太郎は、さ。アレで結構細かいトコまで気が回るのよ』

 本当にその通りだ。太郎は本当に細やかな気配りができる。『水晶ボンデージガール』を壊してしまった時だって、蘭乱から最初に受けたネコを探してくれという依頼をしくじった時だって。いつだって自分のことを気に掛けてくれていた。
 いつだって自分の気持ちを察してくれた。
 しかし、その心遣いに甘え続けているわけにはいかない。今回の依頼だって、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
 太郎に気を遣わせているうちは、自分がまだまだ役に立っていないということの証拠だ。
 ガンバらなくてはならない。太郎が安心して自分に仕事を任せてくれるようになるまで。一人でも大丈夫だということを証明できるようになるまで。
 確かに、太郎と一緒にやればどんなに難しい依頼でも達成することができる。根拠もなくそう思える。言いようのない自信が満ちあふれてくる。
 だが、その安心感に甘え過ぎていたのかもしれない。
 自分が少しくらい失敗しても太郎が何とかしてくれる。
 無意識にそう思っていたのかもしれない。
(でもー……)
 なぜだろう。いつからだろう。
 こんなにも失敗が恐いと思うようになってしまったのは。こんなにも失敗に臆病になってしまったのは。
 教師をやっていた頃には、それこそ失敗することが当たり前だった。どんな仕事でも一度で上手く行くことなどまずなかった。
 生徒達と一緒に大掃除をしていたら、みんなが一生懸命作った課題工作の花瓶を落として壊してしまったことがあった。でもあの時は破片を全て強力接着剤で付けて復元し、つや出しスプレーを掛けてヒビを誤魔化し、なんとか修復した。
 ……一ヶ月分の給料が全てなくなってしまったが。
 イジメっ子を見つけた時、どうしてこんなことをするのかと一日掛けて問いつめたことがあったが、実はその子がイジメられている方だったというオチが待っていた。しかしあの時は、さらに丸二日掛けてちゃんとイジメっ子の方も叱りつけた。
 ……イジメられっ子の母親がPTAの会長で、危うく教員免許を取り消されそうになったが。
 プールの授業で、足をつって溺れそうになった生徒を助けようと飛び込んだまではよかったが、水を飲んでしまって自分まで溺れそうになったこともあった。確かあの時は、ひらきなおって水を鼻と口から飲み込みながら、犬かきで生徒を助けた気がする。
 ……運ばれた病院で、足の届く深さしかないということを告げられたが。
 何をやってもまず最初は失敗から入った。どれだけ簡単で、どれだけ単純なことでも必ず一度は失敗した。
 しかし何とかしてソレを乗り切り、最後はちゃんと成し遂げられた。
 ――ヤル気さえあれば挽回できない失敗などない。 
 決して胸を張って言えることではなかったが、それは楓にとっての誇りであり、自慢であり、自信でもあった。
 なら今失敗が恐いのは、昔はあった自信がなくなってしまっているからなのか?
 太郎のことを考え、失敗しないようにと思った時、ドンドン大きくなってくるモヤモヤとしたイヤな気持ちの原因は、ミスを取り返すだけの自信がないという心の弱さなのか?
 もしそうならば、どうすればいい。どうすれば自信を取り戻すことができる?
 どうすれば――
「この、依頼を……」
 ネコの尻尾の部分を縫っていた手を止め、楓は顔を上げて暗い天井を見上げた。
「一人で、最後まで、できればー……」
 そして何かに心を奪われたように呆けたまま、楓は途切れ途切れに呟く。
 自分一人でやるように言われた依頼を本当に自分一人だけでやり遂げる。そうすれば昔の自信を取り戻せるかもしれない。失敗しても失敗しても、絶対に諦めなかったあの頃の自信を。
 ソレが、太郎がこの依頼を受けた意味……?
「たーくん。私、一生懸命ガンバリますー」
 誰もいない空間に向かって熱のこもった声で言うと、楓は再び作業に没頭していった。

 次の日。楓が目を覚ますと、壁に掛けられたアニメキャラ地の時計は十二時を回っていた。昨日はちょっと夜更かしし過ぎた。本当はパーツを作ってソコで終わりにするはずだったのに、結局最後まで完成させてしまった。そして気が付くと朝日が昇り始めていた。
 だが達成感の方は一塩だ。
 形は悪いがちゃんとネコのヌイグルミを完成させることができた。
(今日はー、全部一人でやりますー)
 やる気満々になって、楓は二階の部屋から一階のリビングへと向かう。
 昨日は胴体の部分を憂子に作ってもらってしまったが、今日は最初から全部自分一人で作ろう。何となくだがコツは掴めてきた。あとは実戦あるのみだ。
「おはようございますー」
 元気良く挨拶の声を上げて、楓はリビングの扉を開けた。
 中にはすでに太郎と憂子が揃っている。しかし何やら様子がおかしい。
 憂子はどうしていいか分からないといった様子で挙動不審になっているし、太郎は空中で座禅をしたまま瞑想に耽っている。
 ……まぁ、太郎の方はある意味いつも通りなのだが。
「あらあらー、お二人ともどうしたんですかー?」
 楓は小首をかしげ、不思議そうな表情で聞いた。
「あ、あの、その……」
 丈の短いプリーツスカートを揺らしながら、憂子は胸に何かを抱いて救いを求めるように左右を見る。そして瞑想から目覚めた太郎と目が合うと、両手を顔の前で合わせて小声で『お願いっ』と言った。
「楓……実はな、とんでもない大事件が起こってしまった」
「なんですかー?」
「うむ。コレを見てくれ」
 太郎は神妙な顔付きで憂子を引き寄せると、何かを隠すように胸に当てていた両手を前に出させる。そして手を開かせ、持っていた物を楓の方に差し出した。
「コレってー」
「よく見てくれ楓。憂子の生命線の図太さ、そしてチビっ子貧乳線の濃さを」
「すごいですー」
「ドコを見とるか!」
 怒声と同時に、憂子の後ろ回し蹴りが太郎の後頭部に突き刺さる。その拍子に、憂子が持っていた物が手からこぼれ落ちた。
 それは昨日、楓が徹夜して作り上げた小さなネコのぬいぐるみだった。
 しかし、首からは綿がはみ出し、尻尾は取れかけ、前足は二本ともどこかへ行ってしまっている。昨日完成させたはずネコは、まるで原型を留めていなかった。
「ご、ごめんなさい! あ、あの、色葉さんが昨日ガンバってるの知ってたから……その、どんなのができたのかなーって思って。それで、何となく持ち上げたら、いきなり……」
「あらあらー」
「な、なおそうとしたんだけど、材料とかドコにもなくて……。太郎に何とかしてもらおうと思ったんだけど、コイツ、話しかけても何も言わないし……」
「そうだったんですかー」
「ホントにごめんさない! 全然壊すつもりなんかなかったんだけど壊しちゃった! 全部アタシが悪いの! だからホントにごめんさない!」
 叫ぶように言って憂子は深々と頭を下げた。
「別にいいんですよー。そんなのー。きっと私の縫い方が下手っぴだったんですー。それにー――」
 楓は間延びした声でのんびりと言うと、ボロボロになってしまったネコのぬいぐるみを憂子の手から取り上げ、太陽のように明るい笑顔を浮かべて続ける。
「また直せばいいだけじゃないですかー。ねー?」
「色葉、さん……」
 憂子は呆然とした表情のまま、掠れた声を漏らした。
 そう、失敗してもやり直せはいいのだ。一回失敗したら二回。二回失敗したら三回。百回失敗したら百一回。
 失敗の数より一回だけ多くやり直せば、最後はちゃんとうまく行く。間違いない。昔はいつも、そうしてきたのだから。
「よかったな、憂子。楓が寛大で。俺ならお前を男として育て直しているところだ」
「アンタみたいに心の狭い人には、色葉さんみたいな観音の境地には一生たどり着けないわね」
「そらちゃうやろー!」
 太郎と憂子のやり取りに、楓がすかさずツッコミを入れる。
「……え? い、今のは何と何が掛かってた?」
 憂子はこちらを向き、どことなく遠慮がちに聞いてきた。
「さー、どこでしょー」
 えへへー、と笑って楓は曖昧に返す。
 今のはツッコミなどではない。単に思ったことを言っただけだ。
 もし太郎が自分の立場なら、絶対に許してくれていたはずだ。なぜなら『水晶ボンデージガール』を壊してしまった時、太郎は全く怒らなかったのだから。
(そっかー……)
 太郎と同じ立場になってみてようやく分かる。
 あの時、太郎が自分のことをあっさり許してくれたのは、別に見放したからでも、愛想を尽かされたわけでもない。
 またやり直せばいいと思ったからだ。
 取り返しのつかないミスではない。だからチャンスはまだある。
 きっとそう思ってくれた。
(なるほどなるほどー)
 憂子ほどではないにせよ、だんだん自分も太郎の気持ちが分かってきた。
 守護霊と被守護者という関係だからではなく、もっと別のところで繋がっている。何だかそう思えてきた。
「あ……」
 楓が幸せな気分に浸っていると、憂子が窓の外を見て声を上げた。
「やんできたんじゃない?」
「うむ。確かにお前の心は病んで……」
「雨がよ!」
 迅雷の如く飛来する憂子の的確なツッコミ。聞いているだけで元気とやる気が出てくる。
「よしっ! それじゃ材料買いに行きましょう! お金はたっぷりあるんだし!」
「しょうがないな。それじゃお前のために吸入式豊乳器の材料を……」
「作るな!」
 分厚い雲の間からのぞく陽光は、まるで自分の行く先を照らしてくれているかのようだった。

 それからはほぼ順調な毎日だった。時々なぜか、用意していたはずの布がどこかへ行ってしまったり、針が折れていたり、綿が湿っていて使い物にならなかったり、完成したはずのぬいぐるみがどこかへ行ってしまったり、唐突に眠くなってその日の目標を達成できなかったりしたが、ソレらに目をつむれば極めて順風満帆な日々だった。
 憂子は神社の仕事があるからと、三日ほど泊まって帰ってしまったが、たまに遊びに来ては楓の進み具合を見てくれた。
 そしていつもより沢山のぬいぐるみを作れた日には、

『へぇ、今日は随分と多いじゃない』
『憂子、『あの日』なら安静にしておいた方が……』
『いい加減その話題からはなれろ!』

 と、元気印のツッコミを披露してくれるなど、実にサービス精神旺盛だった。
 
 そして依頼開始から約二ヶ月が過ぎ――

「終わりましたー!」
 記念すべき百個目に太郎のぬいぐるみを作り上げ、楓は満たされた表情で大きく伸びをした。
「すごいわー色ちゃん。良くできましたー」
「えへへー」
 リビングのソファーに腰掛けた蘭乱から送られる拍手に、楓は恥ずかしそうに顔を紅くする。
 依頼から一ヶ月ほどが経った頃から、蘭乱は頻繁に顔を出すようになった。そしてぬいぐるみ作りに没頭する楓のことを鼻血をすすりながらじっと見つめ、満足したら帰っていった。
 おかけで憂子は殆ど寄りつかなくなってしまったが。
「それじゃコレ、残りの報酬。三十万」
 ガラステーブルを挟んでコチラに身を乗り出し、蘭乱は胸の谷から取り出した札束を楓に手渡した。
「ありがとうございますー」
「そ・れ・と」
 さらにもう一つ、帯の巻かれた分厚い札束を胸の奥から引っ張り出す。
「最初の依頼達成も同時達成ってことで出血大サービス」
 上機嫌で言いながら蘭乱は楓の手を取り、半ば強引に百万円を握らせた。
「なんですかー? コレー?」
「忘れたの? ワタシのネコちゃん探してっていう依頼。アレの報酬よ」
 小首をかしげて不思議そうに聞き返す楓に、蘭乱はウィンクを一つして言う。
「でもー、アレはまだー……」
 蘭乱が欲しがっているネコはまだ見つけていない。だから依頼達成には……。
 ソコまで考えて楓はハッとした。
(は、鼻、目、みぞおち……!)
「だーいじょーぶよー……色ちゃん貰う訳じゃないから……」
 険しい表情で身構える楓に、蘭乱は半眼になって少し寂しそうな声で呟く。
「ワタシが欲しいネコちゃんはコレ」
 言いながら蘭乱がリビング一杯に広がるぬいぐるみの海から取り上げたのは、楓が最初に作ったネコのぬいぐるみだった。
 首のところはやたらと頑丈に縫いつけられ、取れかけていた尻尾は不自然にくっつき、なくなってしまった前足は別の布で作ったために胴体とは柄が違う。
 およそ『ネコ』と形容するには、かなりほど遠い姿になってしまった。
「色ちゃんが一番苦労して作ったネコのぬいぐるみ。コレこそ、ワタシが探していたネコちゃんよ。一生大事にするわ」
 嬉しそうに言いながら、蘭乱はぬいぐるみに頬ずりする。
「でもー、それはもう小鳥遊さんのものですー」
「あら、どうしてー?」
「だってー、小鳥遊さんに依頼された物なのにー」
「ワタシは確かに『作って』とは依頼したけど『作った物をちょうだい』って言った覚えはないわよ?」
 確かに、蘭乱から依頼された内容は『ぬいぐるみを百体“作って”』という物だったが……。
「だからこのぬいぐるみは全部色ちゃんの物。で、その中からワタシがコレちょうだいって言ってるの。貰っていーい?」
「はいー、ソレは別にー……」
 いまいち状況が呑み込めない様子で楓は困った顔になるが、すぐに頭を切り替えて取り合えず納得すると、天使のような笑顔を浮かべて蘭乱に言う。
「それじゃー私だと思って可愛がって下さいねー」
 そして紅い水芸が始まった。
「す、すごーい色ちゃん……。じ、自分の仕事だけじゃなくて、真宮寺の仕事まで片付けちゃった……。さすがねー。もうこれで立派な敏腕助手だわ……」
 だくだくと大きな音を立てて鼻から流れ落ちる鮮血を手で押さえつけ、蘭乱は扇で口元を隠しながら息も絶え絶えに言う。
「え……いや、そんなー……。私なんてまだまだでー……」
「け、謙遜することなんてないのに……」
 ズビーッ! と荒っぽく鼻をすすり上げて流血を止め、蘭乱はソファーに座り直した。
「で、どう? 自分の力見直した感想は」
「感想ー?」
「ほら、前に話したでしょ。今の仕事と昔の仕事、どっちが合ってるのかって。やっぱり色ちゃんが正しかったのよ。色ちゃんは今の仕事が一番合ってるわ」
「あー……」
 そういえばそんなことも言っていた。もうすっかり忘れてしまっていた。だって、そのことに関してはとっくに答えが出――
「……んー?」
 いつになく難しい顔付きになって楓は考え込んでしまった。
「どうかしたの?」
 意外そうな表情で蘭乱は柳眉を高く上げる。
 本当に、あの時出した答えであっているのだろうか。
 太郎のことを考え、失敗しないようにと思った時、ドンドン大きくなってくるモヤモヤとしたイヤな気持ち。
 その正体が。
 ――ミスを取り返すだけの自信がない弱い心。
 確かにソレもあるだろう。だがもう今回のことで克服できた。失敗を続けても何回もやり直せば上手く行くのだということを実感できた。自信がついた。
 なのに、まだモヤモヤは晴れない。
 昔の自分と今の自分。その決定的な違い。何か他にまだ……。
「あら、真宮寺。どこ行くの?」
 キッチンの方で一人静かにタバコを吹かしていた太郎は、いきなり立ち上がったかと思うとリビングの出入り口に向かった。
「タバコが切れた。ちょっと買ってくる」
「あ、たーくん私も行きますー」
「いやいい。すぐに戻るから待っててくれ」
 楓の申し出を断り、太郎は部屋から出ていってしまう。
 閉められたドアに蘭乱は細くした視線を向けていたが、しばらくしてなぜか苦笑を浮かべると、溜息混じりに立ち上がった。
「色ちゃん。ぬいぐるみ、どうもありがとう。言われたとおり色ちゃんだと思って大切にするわ」
「あ、はいー……」
 そして太郎の後を追うようにして蘭乱まで出ていってしまう。
 リビングに残されたのは楓だけ。
 家の中で自分一人など、こんな寂しい状況も珍しい。いつもは太郎が一緒にいてくれるのに……。
(私ー、何かまた知らないところで変なことしちゃったのかしらー)
 最後に作り上げた太郎のぬいぐるみをギュッと抱きしめながら、楓は深く溜息をつく。
 そしてモヤモヤはまた大きくなり――
「あ、そっかー……」
 突然、何か閃いたように楓は声を上げた。
「分かったー……」
 分かった。分かってしまった。このモヤモヤの正体が。その原因が。
 昔の自分と今の自分。その決定的な違いが。
 もう間違いない。疑いようがない。だって自分は今こんなにも――
「分かりましたー!」
 晴れ晴れとした声で叫び、楓は太郎のぬいぐるみを更に強く抱きしめた。





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