キミの口から腹話術、してくれますか?

★天深憂子(あまみ ゆうこ)の同棲★
 今、目の前で起こっていることを一言で言い表すとすれば。
 『幼児退行』?
 『頭脳腐敗』?
 『子供ナイズ』?
 『となりのガキはよく牡蠣(かき)食ってあたった』?
 ダメだ。
 混乱している頭では上手い表現など思いつかない。
「おおおおお! 憂子殿! いきなりの抱擁とは感謝感激! この九羅凪孔汰(くらなぎ こうた)! まさに感無量の極みですぞ!」
 自分の腕の中。ブンブンと左右に首を振りながら感涙を流しているのは、まだ五歳くらいの可愛らしい少年。
「ふぇ……ゆーこタン? ふ……うぅ……びええぇぇぇぇぇぇぇ!」
 少し離れた場所。板敷きの間にうつぶせになって号泣しているのは、分厚い眼鏡をしたオタクっぽい青年。
 二人を交互に見ながら、巫女服に身を包んだ背の低い女性――天深憂子は愕然とした表情で呟く。
「い、入れ替わっ、た……?」


 事の発端は一時間ほど前だった。
「お祓い……ですか」
 一月一日。快晴。絶好の初詣日和。
 憂子の父親が神主を務めるこの水比良(みずひら)神社も、大勢の参拝客でかつてない賑わいを見せていた。
 この時期は年に一度の稼ぎ時。
 破魔矢や絵馬、『合格祈願』『安産祈願』のお守りは飛ぶように売れ、少し小さめのお賽銭箱はあっと言う間に一杯になった。
「そうなの。この子、ちょっとおかしくして……」
 神社の階段を上りきり、大きな鳥居をくぐったすぐ左手にある社務所。
 そこで会計の仕事をしていた憂子を訪ねて来たのは叔母だった。
 目を細くして笑顔を浮かべるたびに、口元には皺ができる。ソバージュにした髪の毛には白いモノが混じり始めていた。
 板敷きの上に白い絨毯を敷き、古い石油ストーブを置いただけの簡素な造りの小部屋。
 叔母は憂子の出した緑茶を啜りながら、隣りに座っている自分の子供の頭を心配そうに撫でた。
「おかしいって言うのは?」
 憂子は白い袖長白衣の襟元を正し、朱袴の上の方を軽くつまみ上げて正座し直す。
 身長が百五十に届かない憂子。頬の辺りで切り揃えたおかっぱ頭を整えながら、叔母を少し見上げて聞いた。
「一升瓶をジュース感覚であけるのよ」
「へ?」
 素っ頓狂な声を発して、憂子は目を大きくする。
「ね、ゆーこタン。信じられないでしょ? でもホントーなのよっ」
 あらヤダっ、とばかりに叔母は手招きするように片手を軽く振った。
「今日もココに来る前に二本もあけちゃって。困ってるのよ」
「た、確かに困りましたね」
「でしょでしょー? おかげでかなり家計ピンチなのよっ」
「いや……問題はソコじゃない気が……」
 どこかズレた答えを返す叔母に、憂子は頬をヒクつかせながら苦笑する。
「まー確かに。寝かしつける時、ちょっとブランデー飲ませてたおばさんにも責任はあるんだけど」
「は?」
「でもおかけで一日二十時間くらい寝ててくれたから、あの時は大助かりだったんだけどねー」
 耳がおかしくなったのだろうか。イマイチよく聞こえなかった。
「え、えーっと、昴君……。体と頭は大丈夫?」
 憂子は叔母の隣で大人しくしている自分の甥、東雲昴(しののめ すばる)に視線を落として声を掛ける。
 少しウェイブの掛かった柔らかそうな黒髪。大きくパッチリとした瞳は愛らしく、母親でなくとも母性本能をくすぐられる。
 襟を立たせた白のフリースに顔を半分ほど埋め、昴は自分の両足を抱き込んでダルマのようにゴロゴロと転がりながら憂子を見上げた。
「ぅん? スーちゃん元気だよっ」
 にぱっ、と平和そうな笑みを浮かべ、昴は叔母にもたれかかる。
「で、でも。小さい時からそんなにお酒飲んじゃ……」
「お酒なんて飲んでないよ。スーちゃんが飲んでるのはお水」
「でも、一升瓶に入ってるんでしょ?」
「いっしょうびんって何?」
「一升瓶っていうのは、こーゆー形した……」
 言いながら憂子は両手で一升瓶の形を空中に書いて見せた。
「ぁあ、ほ乳瓶のことね」
「ほ……」
 思わず絶句する。
「まー、昔に色々あったから」
「おばさん!」
 さらっと言う叔母に、憂子は無意識に声を荒げていた。
「やーん。ゆーこタン怒っちゃイヤ。おばさん恐いの苦手なの……」
 口元で両手を当て、イヤイヤと左右に首を振る叔母。
 アンタ今年でいくつになった。
 胸中でツッコミを入れながら、憂子は疲れた顔を上げた。
「……おばさん。このままでいいと思ってるんですか?」
「そーなのよ。おばさんもこのままだと自分のオヤツまで圧迫されちゃうからキキカン感じて」
 感じる場所が違う。
 憂子は軽い頭痛を覚え始めた。
「でね、色々調べてみたの。昴の体のこと。そしたらピッタリの症状見つけちゃって」
「そんなのわざわざ調べなくても分かって――」
「ゆーこタン、酒呑童子って知ってる?」
 いったいどこを調べたんだ。
 憂子は頭を押さえて俯いた。
「もー、名前からして酒好きよね。だからおばさん、昴がこの酒呑童子に取り憑かれてるんじゃないかって思って」
「……おばさん。頭、大丈夫ですか?」
 得意げに喋る叔母に、憂子は溜息をついて返す。
「あらやだ。しつれーね。ハゲるならダンナの方が先でしょ」
「あの……話の流れ読んでくれます?」
 ダメだ。この人と話していると、自分を名前で呼ばれたがらない、どこかの誰かさんを否が応でも思い出してしまう。
「それでね。ゆーこタンに昴をお祓いして欲しいの」
 ココでようやく最初に戻る訳か。
「いや、あの……アタシ思うんですけど昴君はただ単にアル中なんじゃ……」
「それは違うわよ。アル中って言うのは正式名称はアルコール依存症。自分の意思で飲酒行動をコントロールできなくなった人が強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患でしょ? 昴の場合は別にお酒あげなくても禁断症状とか出ないから、この症状には当てはまらないわよね」
「そ、そうですか……」
 突然真顔になり早口でまくし立てる叔母に、憂子は気圧されて言葉を詰まらせた。
 確かにそう言われればそうだが……いきなり正論を喋らないで欲しい。真面目なのか、からかわれているのか、よく分からなくなる。
 まぁ、憂子がよく知っているあの男の場合は間違いなく後者なのだが。
「だからお願いっ。昴なんとかして。でないとおばさんの大好きな、『ででれけぐぐんぱ』食べれなくなっちゃう」
 なんだ、その宇宙外生命体は。
「は、はぁ……まぁ、やってみますけど……」
 手の平を自分の前で合わせてお願いする叔母に、憂子は気のない返事をする。
 酒呑童子うんぬんはともかくとして、このまま昴を放っておけないのは確かだ。お祓いでも何でも、今の病気が治るなら全力を尽くしてやりたい。可愛い甥っ子のためだ。
「ホントっ!? アリガトー! もー、ゆーこタンに断られちゃったら、おばさんやけ酒にでも走ろうかと思ってたところだわ」
「ひょっとしてソレが原因なんじゃ……」
 憂子の言葉を最後まで聞くことなく、叔母は隣でじゃれている昴を抱き上げて憂子の前に座らせた。
「はい、昴。あなたからもちゃんとお願いしなさい。『ゆーこタン、ヨロシクお願いします』って」
「ゆーこタンヨロシクお願いします」
 昴は叔母に言われたとおりの言葉を復唱した。
「……あの、おばさん。アタシ今年で二十七になったんで、その呼び名やめて欲しいんですけど……」
 口元をヒクつかせながら、憂子は引きつった笑みを浮かべた。
「えー!? どうしてー!? こんなにちっちゃくて可愛らしいのに! 中学生でも十分通じるわよ!?」
「……あの、一応気にしてるんですけど……」
「分かった! お年玉あげてないからフクれてるのね!? もー、それなら早く言ってくれればいいのに!」
「……いや、もういいです」
 結局、話しは最後まで噛み合うことはなかった。

 東雲昴とは少なくとも年に三回は顔を合わせている。
 ゴールデンウィーク、夏休み、そして正月。叔母が憂子の父のところ、つまり自分の家に遊びに来るからだ。
 おしめ替えや、ミルク作り、時には夜泣きの寝かしつけまで、憂子はかいがいしく昴の世話をした。手間はかかったが、それだけ情は深まっていった。
 面倒見のいい憂子に昴もよく懐いてくれて、二人は本当の姉弟のように、そして時には親子のように接して来た。
 憂子にとって昴は、まさに目に入れても痛くないほど可愛い存在だった。
「昴君、ちょっとの間じっとしててね。お姉ちゃんがすぐに治してあげるから」
「はーい」
 小さな昴の体を後ろから抱きかかえ、憂子は優しく声を掛ける。
 本宮の真後ろにある裏参道を通り、少し歩いた場所にある別宮。その更に裏手には関係者以外立ち入り禁止の小さな鳥居があり、先には祈祷殿が建てられていた。
 本宮や別宮より遙かに小さい造りだが、釘などの金属類が全く使われておらず、全て神木から削り取った木だけでできている。
 ココは憂子がいつも年始の仕事始めに使う場所。参拝客達が持ち込んだ『ケガレ』を清める神聖なる空間。
 彼らが一年間溜め込んだ『ケガレ』を自分の体で受け止め、憂子はココで浄化の儀式を行う。そうすることで参拝客から悪い気の流れを取り除き、運気を向上させるのだ。効果は上々で、毎年リピーターも多い。
 コレが水比良神社の目玉であり、小さいながらも多くの参拝客を呼び寄せている理由であった。
 祈祷殿の中央。
 板敷きの間の上には、鈴懸草(すずかけそう)を燃やしてできた炭を使って円方陣が書かれている。その中心に憂子は正座し、膝の上に昴を乗せていた。
「降魔滅砕、万物浄化、我が身に宿る聖なる力。彼の者が内包せし邪悪を祓い、清めたまえ。光、砕、浄、滅……」
 憂子は目をつむり、『ケガレ』を清める時と同じ詞を口の中で唱える。
 別に叔母の言ったことを信じたわけではない。ただ可能性としてあるというだけだ。極めて低いと思われるが、他に確かな原因が分かっていない以上、できるところから一つ一つ潰していくしかない。例えできなくとも、ダメだったと分かれば叔母も無茶な考えを改めるだろう。
 それに毎年『ケガレ』を祓い続けている者して、そういう超常的なことを全く信じない訳にはいかない。
(ま、身近に変態超人がいるせいもあるんだけど……)
 憂子は詞を続けながら、自分の守護霊と同棲している非常識の塊のような男のことを思い浮かべる。
 もし自分だけで昴を何とかできないようであれば、彼に相談してみるのも一つの手かも知れない。ずば抜けて研ぎ澄まされた勘だけで、探偵事務所を経営しているような人間だ。きっとなんとかしてくれるだろう。
 それに三年前の事件の時、彼は自分に借りができたからいつか返すと言ってくれた。恐らく断りはしないはずだ。
「……蓬、籠、麗」
 憂子は詞を最後まで言い終え、細く息を吐き出して肩の力を抜いた。
 体の内側に温かいモノが生まれる感覚。ソレを外に放出するイメージを頭の中で描く。
 熱は肌に移行し、巫女服の内側が青白い燐光を放ち始めた。光は徐々に強さを増し、憂子と昴の体を覆っていく。
「うわぁ……きれー」
 腕の中から、昴の感激したような声が聞こえた。
 光は更に明るく温かくなり、青から黄に変色し始めた時、
「憂子殿!」
 バン! と大きな音を立てて、祈祷殿の観音扉が荒っぽく開かれた。
 憂子は何事かと目を開け、扉の方を見る。立っていたのは知った顔の男だった。
 薄い茶色に染め、背中まで長く伸ばしたストレートの髪。牛乳瓶の底のように分厚い眼鏡を掛け、無意味に大きく開かれた口は裂けんばかりに笑みの形に歪められている。
 この寒い時期だというのに、地肌に甚平を一枚羽織っただけの男は、ぞうりを脱ぎ捨てて高々と叫んだ。
「今助けますぞ!」
 外から差し込む光を後光のように背中で受け、突然の乱入者はいきなり憂子めがけてダイブする。
「ちょ、アンタ……!」
「とおおおぉぉぉりゃあぁぁぁぁぁぁ!」
 分厚い眼鏡を輝かせ、彼は雄叫びと共に宙を舞った。そして――
「な……」
 ご、という低い音が殿内に響く。
 飛んだはいいが僅かに飛距離が足りず、彼は昴の頭に自分の頭を激しくぶつけた。
「だ、大丈夫!? 昴君!」
 そのまま崩れ落ち、頭からシューっと煙を上げている大バカ者は無視して、憂子は昴の体を自分の方に向ける。いきなりの強い衝撃に目がゆらゆらと揺れ、しばらく焦点が合わないようだったが、それもすぐに収まった。
「昴君、アタシの声聞こえる!?」
 しかし昴は憂子の問いかけには答えず、自分の体と憂子の顔を交互に見た後、カッ! と大きく目を開く。
「おおおおお! 憂子殿! いきなりの抱擁とは感謝感激! この九羅凪孔汰! まさに感無量の極みですぞ!」
「は……?」
 自分の腕の中で上がった奇声は間違いなく昴のモノだった。しかし口調は……。
「ふぇ……ゆーこタン? ふ……うぅ……びええぇぇぇぇぇぇぇ!」
「へ……?」
 さっきまでうつぶせになって気絶していたバカ男は、目覚めと同時に号泣し始める。
「い、入れ替わっ、た……?」
 二人を交互に見ながら、憂子はただ呆然と呟いた。
「む! 拙者の体があんなところに! コレは面妖な!」
 昴は後ろでした泣き声に振り向き、そして自分の体を見下ろす。
「おぉ!?」
 手を自分の目線の高さまで持ってきて、握ったり開いたりを繰り返した。
「ち、縮んでる……。しかもアルコールが抜けて……」
「ねぇ、昴、君……?」
 目の前でかつて見せたことのない表情を次々としてみせる昴に、憂子は恐る恐る声をかける。自分の考えが間違いであることを願って。
「は? 拙者のことか? 拙者の名前は九羅凪孔汰。おかっぱのよく似合う手乗り人形のように小さくて愛らしい憂子殿のことを世界中で最強に愛する男児でありまする」
 残念ながら、憂子の推測は正しいようだった。


 九羅凪孔汰との出会いは、今からさらに一週間ほど前まで遡る。
 まだ年が明ける前。初詣の準備に大忙しだった年末。
 境内の掃除をしていた憂子にいきなり抱きついてきた男。
 ソレが九羅凪孔汰だ。
 そして彼は叫んだ。
『拙者と結婚してくだされ!』
 問答無用でしばき倒した。
 すぐに警察に突き出してやろうかと思ったが、彼はこの水比良神社で働きたいと言い出した。しかも無給で。
 サンショウウオの手も借りたいほどの大量の業務。しかしバイトを雇うだけの余裕はない。無理を頼めそうな友達は、みんな旅行や帰省でいない。時間をもてあましていそうな暇変態超人に頼むこともできたが、余計手間が増えそうだった。なにより三年前に作った貸しをこんなところで使いたくなかった。
 仕方なく身内だけで朝から晩まで働いていた。
 だが背の低い憂子では力仕事の方はろくにできない。太い縄で編まれた巨大なしめ飾りの準備、おみくじやお守りを売る仮設小屋の組み立ては全て父任せだ。
 男手は今まさに、喉から触手が出るほど欲しいと思っていたところだった。
 九羅凪孔汰と名乗った男は言動や外見こそ異様だが、それなりに背は高く、力もありそうに見えた。
 取りあえず二度とさっきのようなことはしないと誓わせ、憂子は孔汰を父に紹介し、この神社で働かせたいと申し出た。
『ヨロシクお願いしまする! お義父さん!』
 父からも鉄拳を一発貰った後、孔汰は神社で働くことになった。最初、住み込みで働かせて欲しいと言われたが、勿論却下した。
 孔汰は根は真面目な男だった。物覚えはお世辞にもいいとは言えなかったが、一生懸命働いてくれた。憂子としても、仕事はすぐ覚えるがやる気のない男よりも、孔汰のような性格の方が世話の焼きがいがあった。
 力や体力も思ったよりあった。そして意外なことに、立ち振る舞いが堂に入っていた。
 背筋を伸ばし、体の中心がずれないようきびきびと歩くさまは美しく、神楽を舞わせればこの神社のウリの一つになるのではないかとさえ思わせた。
 だが――
『憂子殿おおおぉぉぉぉぉぉ!』
 決まってお昼を少し過ぎたあたりから、孔汰の脳味噌は腐敗し始める。
 午前中無理矢理押さえつけていたモノが一気に噴出するのか、孔汰は憂子の後ばかり付いて求愛し続けてきた。
『おお麗しき童女のような容貌! 慎ましき背丈! この九羅凪孔汰の至高の宝あぁぁぁぁぁ!』
 これでは仕事も何もあったモノではない。
 そして一昨日。
 憂子がおみくじを一枚一枚、筆で書いていた時。孔汰が後ろから抱きついて墨をぶちまけ、何十枚もの完成品を台無しにしたことを理由にクビにしたのだ。


「あ、アンタ……何てコトするよ!」
 そして今日。
 昴を祓う儀式を邪魔したばかりか、余計に面倒なことを引き起こしてくれた。
「な、何を……僕は……」
 どういうわけか昴の体に入り込んでしまった孔汰は、遠慮がちに言いながら憂子の腕の中で身をよじらせる。逆鱗に触れてしまったことを恐れてか、孔汰はなんとか脱出すると、泣きじゃくっている自分の体に這って行った。
「待ちなさい!」
 憂子は叫んで立ち上がり、短い孔汰の足を捕まえる。
『孔汰さんは悪くないわ! 貴女が危ないと思ったから助けに入っただけよ!』
 昴とも孔汰とも違う、甲高い女性のような声がした。
「ア・ン・タ、はぁー! まだアタシを怒らせる気なの!?」
 憂子に似たおかっぱ頭の市松人形の口をパクパクさせ、孔汰は腹話術で抗議の声を上げる。
 神社で働いていた時も、孔汰はこうして腹話術で話すことがよくあった。午前中、まだ仕事を真面目にやっていた時にして見せた腹話術だった。だから憂子の方も珍しがって楽しんでいた。
 しかし、今の状況でやられると腹が立つだけだ。
『落ち着いて憂子さん! 怒るとせっかくの童顔が台無しよ!』
「ガー! 関係ないでしょ!」
 市松人形は木でできた手をブンブンと左右に大きく振りながら、さらに憂子を挑発する。
「何でアンタはアタシの邪魔ばっかりするのー!」
 憂子は孔汰の足を引っ張って自分の方に寄せると、背中を向けさせて後ろから抱きかかえた。そして前に回した左腕で孔汰の右肩を固定し、右手で彼の右腕を後ろ手に捻り上げる。
「ぃひでででででで!」
 肩の関節を無理な方向にねじ曲げられ、孔汰は涙目になりながら悲鳴を上げた。
「アンタ、クビになったはずでしょ! なんでココにいんのー!」
『そ、それは勿論、貴女のことが忘れられないからよ! 孔汰さんは今でも貴女のこと愛し続けているのよ!』
 ねじ曲げられ、憂子の目の前まで上げられた右手で市松人形の口を動かしながら、孔汰は求愛の言葉を吐く。
「そーゆーのを余計なお世話って言うのよ!」
 言いながら憂子は、孔汰の腕を更に高く上げた。
「お、折ほれるぅ!」
『ゆ、憂子さん! これは孔汰さんの体じゃないわ! それ分かってるの!?』
「あ……」
 市松人形に指摘され、憂子は今回の最大の被害者である昴の体を痛めつけていることに気付く。
「ああ、もぅ! ホントにストレスたまる!」
 悔しそうに孔汰の体を解放し、憂子はいまだに泣き続けている昴の方に駆け寄った。
「昴君、大丈夫? どこか痛いトコある?」
 憂子が優しく言いながら頭を撫でてやると、昴はぐしぐしと鼻をすすらせながら泣きやむ。取りあえずホッとするが、体が孔汰であるだけに複雑な心境だ。
「ゆーこタン……。スーちゃんの体、変になっちゃったよぉ……」
「大丈夫、大丈夫よ。お姉ちゃんが絶対に何とかして上げるからね」
 憂子は昴から分厚い眼鏡を外してやり、顔を自分の胸元に抱き寄せながら背中をさすった。昴の方も憂子の背中に腕を回して、ぎゅっと抱き締める。
『ゆ、憂子さんが孔汰さんの体にこんなにも密着して……ああ! デジカメ持ってくればよかった!』
「ぃやかましい!」
 孔汰と一緒に頭を抱えてうずくまる市松人形を後ろ目に見ながら、憂子は果てしない不安に包まれた。

「……で、俺のところに来たって訳か」
 リビングのソファーに腰掛けながら、真宮寺太郎は長い足を組み替えて紫煙を吐き出した。
 クセのある紅い髪の毛。攻撃的につり上がった瞳。通った鼻筋と、引き締まった唇、そして整った白い歯を合わせ持つ精悍な顔立ち。
 確実に百八十以上ある長身に、モデルのようにスリムな体つき。更に頭脳明晰で勘が鋭く、おまけに運動神経も抜群。
 まるで三文小説にでも登場しそうな完璧超人設定。だがそれら全てを、Tシャツにプリントされたブルマ姿の萌えキャラが台無しにしていた。
「そうなのよ太郎。アタシ一人じゃ手に負えなくて……」
 孔汰と昴を自分の両隣りに座らせ、憂子は出された紅茶を一口すする。ほのかな甘味と、豊潤な香りが口の中に広がった。
「大変なことになりましたねー。でもー、たーくんならきっと何とかしてくれますよー」
 太郎の隣りにちょこんと腰掛け、色葉楓は間延びした口調でのほほんと喋る。
 彼女は太郎の守護霊、らしい……一応。
 ポニーテールに纏めた長い髪。二重でパッチリとした優しそうな目。長い睫毛と薄紅に染まった健康そうな頬、そしてピンクの唇は化粧などしなくても彼女の魅力を十分に引き立ててくれる。
 ただし、太郎の趣味に合わせてメイド服にネコ耳ネコしっぽを身に付けていなければ、の話しだが。
 三年前の事件以来、楓は太郎の運気を吸い続けながらこうして実体化している。
 人嫌いな太郎が常に自分のそばにいることを許した唯一の女性だ。
「どう、太郎。アンタの非常識パワーで何とかなんない? 三年前の借りを返すって意味合いで」
「三年前の借り、ね……」
 何か思い出すように顔を上げ、太郎はタバコを灰皿でもみ消す。
 太郎がまだ大学生だった頃、楓の代わりに自分の命を差し出しそうになったことがあった。それを思いとどまらせてくれた憂子に借りができたと言って、太郎の方から返させてくれと申し出たのが三年前だ。
「ああ、いいぜ。ま、夜水月のヤローをからかうのも飽きてきたとこだし。暇つぶしにはなるだろ」
「夜水月って……色葉さんの上司とか言う?」
「そ。俺のせいで降格処分くらって天然不幸霊課にまわされたらしくてな。逆恨みして俺を殺そうとしやがったから、『一生土下座』と『死んでも服従』の秘孔突いて追い返してやった」
「ふ、不幸ね……」
「今の課なら丁度いいだろ」
 幽霊相手にこういうことを平然とやってのける変態。
 それが真宮寺太郎だ。
「けどよ、お前がその怪しげな儀式やってこんなことになったんなら、もう一回同じことやったら元に戻るんじゃねーのか?」
 新しいタバコに火を付けながら、太郎は思いの他もっともな意見を言った。
「うん。私もそう思って試してみたんだけど……」
 太郎の言ったことは真っ先にやってみた。
 しかしできなかった。
 あの儀式は元々、昴のお祓いをするためにやったものだ。人格を入れ替えるためではない。偶然起こってしまったものを完全に再現するのは、最初から意図していたことを再現するより遙かに難しい。
 本当に必要な条件がいったい何だったのか分からないからだ。
 例えば、時間、日にち、向く方角、太陽の位置、もしかしたら温度や湿度、ぶつかった時の衝撃の度合いまで必要条件に含まれているかも知れない。
「なるほど。それでそいつらデカイたんこぶ作って気絶してんのか」
「そーなのよ」
 太郎はタバコをふかしながら半眼になり、白目を剥いて座っている孔汰と昴を見た。
 何度も試行錯誤した結果だ。
「たーくん何とかなりそーですかー?」
 楓が太郎の顔を覗き込みながら聞く。
「アタシもこんなの初めてで……」
 膝の上で組んだ両手をぎゅっと握り込み、憂子はすがるような視線を太郎に向けた。
「それじゃ初体験ってわけか」
「そ、そうね……」
 キラッと目を輝かせて言う太郎の言葉に妙な違和感を覚えたが、考えないことにしておく。
「で、どう? 正直なところ」
「うむ。正直、初めては痛かったと思う」
「だからそうじゃ……!」
「お前の心がな」
「く……!」
 やられた。
 勝ち誇ったような顔で、『なに想像してんだ?』と言わんばかりにへらへらしている太郎の顔が憎たらしくてしょうがない。
「そ、そうね。確かに心が痛んだわ。昴君をこんな目に遭わせてしまって何もできないだなんて」
目を閉じて数回深呼吸し、憂子は平静を取り戻して言った。
「なーに気にすることはない。すぐに元通りになる。ちょっと待ってろ」
 太郎は途中まで吸ったタバコを灰皿に置き、ソファーから立ち上がる。そしてリビングから出て行ってしまった。
「……なに、するつもりかしら」
「さぁー?」
 しばらく待つが太郎が帰って来そうな気配はない。
 黙ったままというのも気まずいので、憂子は楓に太郎のことを聞いた。
「最近どう? 太郎と上手く行ってる?」
「はいー、それはもー。たーくんとってもよくしてくれますよー。昨日の夜もビンビンで楽しかったですー。最近絶好調なんですよねー」
「え……!?」
「ネットゲームの通信速度ー」
「そ、そぅ……」
 大分太郎に感化されてしまったなと、憂子は軽い頭痛を覚える。
「それに私が色々着替えると子供みたいに喜んでくれますしー」
 楓は頬に片手を添え、顔を紅くしながら嬉しそうに言う。
 楓は今も完全な人間体ではなく半分は幽霊のままだ。だから衣装を頭に思い浮かべるだけで、それに着替えられるらしい。
「そう……」
 本当に幸せそうな顔をする楓から目を逸らし、憂子は少し寂しそうに言った。
 憂子は楓よりも遙かに多くの時間を太郎と一緒に過ごして来た。なのに太郎が心を完全に開いたのは楓の方だった。
(ちょっと、悔しいな……) 
 最近になってよく思う。
 自分は太郎の世話を焼きすぎたのではないかと。
 太郎はちょっと変なところはあるが非常にしっかりしている。
 ちゃんと一人で生活し、探偵という不安定な職業も立派にこなしている。料理の腕だって自分より上だ。だから別に憂子が何か手助けをする必要はなかった。しかし、それでも世話をしたかった。
 昔、山で迷子なった時に助けてくれた恩を返すために。
 だが太郎にとっては鬱陶しかっただけかも知れない。だから自分ではなく、どこか頼りなくて抜けているところのある楓に傾いた。
 この頃、そんなことをふと思うようになった。
 そして思うたびに自己嫌悪に陥る。
 楓はいい人だ。誰かを疑うことを知らず、一生懸命で真っ直ぐ。太郎を助けるために命まで張った。自分にはそこまでできるかどうか、正直分からない。
 そんな素晴らしい人を悪く言うなんてどうかしている。
 楓と太郎はお似合いのカップルだ。たまに腕を組んで歩いているところを見かける。
 もし自分と太郎が一緒に並んだとしても兄妹くらいにしか見えないだろう。
(アタシ幼児体型だもんね……)
 昼間、叔母に中学生でも通用すると言われたことを思い出す。それは昔から憂子自身、抱き続けて来たコンプレックス。
 精神的な面だけではなく、肉体的な面でも自分と楓には決定的な差があった。身長は勿論のこと――
(おっきい、わね……)
 楓の胸元を見ながら憂子は思わず唾を飲み込んだ。続けて自分の胸元に視線を落とす。
(ない……)
 白くゆったりとしたカットソーの上からでは、憂子の膨らみは感じられない。
 やはり男の人は胸の大きい女性に惹かれるのだろうか。
「どーした憂子。貧相な顔して」
「貧乳じゃない!」
 後ろから掛けられた太郎の声に反応して、憂子は思わず大声で叫んだ。
 太郎は少し身を引いて大袈裟に驚いたような仕草を見せた後、顔を上げて目元を押さえる。そして、うんうんと頷きながら憂子の肩に優しく手を乗せ、哀れみの視線と極上の笑顔を向けてキラリと歯を輝かせた。
「そーだったな。お前のは貧乳じゃなくて虚乳だったな」
「やかましい!」
 どこから取り出したのかスケッチブックに文字を書いて説明する太郎に、憂子は間髪入れずツッコむ。
「ま、そんな下らんことはどーでもいい。別に憂子のアイデンティティーを否定するつもりはないしな」
「下らん言うな! アイデンティティー言うな!」
 憂子の怒声をさらりと聞き流し、太郎はソファーに座り直した。そして持ってきた物をゴトリ、と目の前のガラステーブルの上に置く。
「……なに、コレ?」
 ソレを見た瞬間さっきまでの怒りは一気に吹き飛び、憂子は唖然とした表情で太郎に聞いた。
「コレか? コイツは『エクスカリバー』という聖剣だ」
 煌びやかな宝石類で装飾された鞘に収められている、刃幅五十センチ、刃渡り二メートルほどの大剣を片手で軽々と弄びながら太郎は事も無げに言う。
「えーっと、太郎? ちゃんと順を追って説明してくれるかしら?」
 眉間に寄った皺に片手を当て、憂子は頭を軽く左右に振りながら呻くように聞いた。
「うむ。そもそもコイツは中世ヨーロッパにて架空の人物として描かれたアーサー王が所持していた剣で……」
「そんなこと聞いてない! なんでアンタがそんな大層な物持ってるのか聞いてるのよ!」
「実はこの前、迷いネコ捜索の依頼が入ってな。その時偶然入り込んでしまったらしい異次元空間にあった岩にコイツが刺さってたんだ。まあ、せっかくなんで土産がてら引き抜いて持ち帰ったと。こういうわけだ」
 はっはっは、と腕を組んで笑いながら説明する太郎に、憂子は溜息をつくしかなかった。
 まったく、いったいどれだけ常識を踏み外せば気が済むというんだ、この男は。
「色葉さん……貴女も大変ね。こんな奴の面倒見なきゃならないなんて……」
「そんなことないですよー。とっても楽しいですー」
 疲れた顔で言う憂子に、楓は相変わらずのほほんと返す。
 太郎と一緒にいるには、彼女のような極太の神経が必須だということが身に染みて理解できた。
「分かった、分かったわ。アンタが凄いのはよく分かったから、それ使ってどうするつもりなの」
 とにかく太郎のやることなすこと、いちいち疑問に思っていたのでは話が進まない。自分では受け入れ不可能な部分が多々あるということを前提に会話するしかないだろう。
「うむ。この『エクスカリバー』は邪悪な心を持った者しか斬れないと言われている」
「それで……?」
「つまり逆に言えば心の清い者の体は素通りしてしまうわけだ」
「だから……?」
「この剣で二人を串刺しにし、精神チャンネルを一時的に繋げる。上手く行けば精神が入れ替わって元に戻るという寸法だ」
「失敗したら……?」
 言われて太郎は何故か得意げな顔になり、口元を邪悪に歪めて小さく鼻を鳴らす。
「死、あるのみ!」
 目を輝かせ、力強く答えた太郎に、憂子は額を押さえながら首を横に振った。
「心配するな。事故の隠蔽工作はお手の物だ」
「犯罪を隠すな!」
「今なら私のコネで、突然死亡霊課にご案内できますよー」
「失敗前提で話を進めるな!」
 ダメだ。この二人と話していると頭がおかしくなってくる。
 やはり自分の力だけで何とかするしかないのだろうか。
「……太郎、それじゃ何とかする方法はアタシの方でもうちょっと調べてみるわ。昔の本とかひっくり返せば何か出てくるかも知れないから。それでアンタには別のことお願いしたいの」
「ほぅ」
「昴君をしばらく預かって欲しいのよ」
 自分の隣で気を失っている孔汰の体を見ながら、憂子は静かに言った。
「まさかおばさんに、こんなになっちゃった昴君返すわけにも行かないでしょ。だからアタシが調べてる間、ここに置いて欲しいの」
 言われて太郎は、昴の人格が入った孔汰の顔をまじまじと見つめる。
「けどその九羅凪って奴の親には何て言うんだ?」
 昴を預けるということは、孔汰の体はココにしばらく拘束されるということだ。当然自分の家には帰れない。
「このバカはなんか一人暮らししてるみたいだから。別にしばらく戻んなくても平気でしょ」
「なるほど。で、ソッチは?」
 どこか面白そうに顔をニヤけさせながら、太郎は孔汰の人格が入った昴の体に視線を移した。
 太郎が何を言いたいのかはよく分かっている。自分だってできることなら避けたい。しかしいくらなんでもソレは無理だ。
「このバカは……アタシんチで預かるわ」
 憂子は血でも吐きそうなくらい辛い顔になって、苦しそうに言った。
 考えてみれば当然のことだ。
 今、自分の叔母、つまり昴の母親は憂子の家に泊まっている。昼間、憂子に預けた昴が戻って来なければ、どうなったのかと責め立てられるのは憂子だ。
 問題は、孔汰がちゃんと昴として演技をしてくれるのかということと……。
「お前が襲われないか、だな」
「お願いだからアタシの心読まないで……」
 太郎の指摘に、憂子は溜息混じりに呟いた。
 コレまでの孔汰の言動から考えれば、襲われるのは目に見えている。しかし昴の体でそんなことをすれば、おかしいことがすぐにバレるだろう。
 両親や叔母に心配を掛けないためにも、それだけは避けたい。みんなに打ち明けるのは、ある程度問題を解決できる見込みが立ってからか、自分一人では本当にどうにもならなくなってしまった後だ。
 こんなことになってしまった責任を取る意味でも、自分だけでできる限りのことはしなければならない。
「ま、お前がそれでいいって言うんなら別に俺は何も言わねーけどよ」
「それじゃ昴君のこと、お願いね」
「ぁあ、なんならこのまま一生目覚めないように……」
「するな!」
 こうして、憂子と孔汰の同居生活が始まった。

★九羅凪孔汰の失恋★
 これは夢か? 自分は雲の上の楽園にでも来てしまったのか?
 いや、楽園と呼ぶにしてはあまりにもこざっぱりし過ぎている。
 八畳ほどの畳敷きの部屋。真ん中にはコタツが置かれ、すぐ隣で頭にヤカンを乗せた石油ストーブがしゅーしゅーと湿った声を上げていた。湯気の立ち上った先には複雑な意匠の欄間が外気を取り入れ、その横には神棚が備え付けられている。
 ココは憂子の家の居間。
 一月二日の朝。
 孔汰は憂子の両親、叔母と同じ食卓を囲み、目の前に持って来られた紅白カマボコを口に入れた。
「よかったねー、昴。ゆーこタンに食べさせて貰って」
 憂子の叔母が、コタツ布団を少し引き寄せながら楽しそうに言う。
「昨日ずっと寝てたから心配したけど、きっとお祓いのせいねー」
 孔汰はそれに緊張した表情で頷きながら、市松人形を取り出そうとした。
「関節技、かけられたいの?」
 自分の耳元でする憂子の低い声。
 それに従い、孔汰は震える手で市松人形をコタツの中に隠した。そして孔汰の口を塞ぐように差し出された酢レンコンを、機械的に口へと運ぶ。
(僕は今、至福の一時を味わっている……。なのに何故、こんな時に何故、アルコールが……)
《大丈夫よ孔汰さん、チャンスはきっと巡ってくるわ》
(うん、分かってるよ弁天町。僕、頑張るから)
《その意気よ孔汰さん。ステキだわ》
 心の中で命の次に大切な市松人形――弁天町と会話しながら孔汰は、左手をグッと握りしめる。
 孔汰は今、憂子の膝の上に乗せられていた。
 それは勿論、孔汰が変な言動を取る前に憂子が押さえるためであり、決して憂子が孔汰に心を許したわけではない。
 しかしそれでも体が密着しているのは事実。
 どれほど堅牢な要塞も、アリの開けた穴から崩壊することもある。この絶好の機会に何らかのアクションを起こし、キッカケを作ることさえ出来れば、元の体に戻った時に憂子との関係が変わるかも知れない。
 が――
(で、できない……)
 憂子が後ろから回した手で運んでくれるおせち料理を胃に流し込みながら、孔汰は自分の不甲斐なさに内心ほぞをかんだ。
 今の自分では無理だ。アルコールを摂取してテンションを上げなければならない。そうしないと、まともに話すことすらできない。
(お、おとそ、おとそ……)
 孔汰は憂子の父親の前に置かれているとっくりに手を伸ばす。
「お、昴君。一杯やるかー?」
 それに気付いたのか、長い顎髭と猛禽類のような視線、そして頬から顎先の掛けての深い傷跡を持った、厳つい風貌の男が上機嫌で話しかけてきた。
 憂子が母親似で本当によかったと思う。
「父さん」
 しかし憂子に鋭いガンを飛ばされ、父親はすぐにしゅんと小さくなってしまった。一人娘なだけに、憂子には弱いのだろう。
「あら、昴ったらまだ治ってなかったのねー」
 憂子の叔母はかずのこを箸先でもてあそびながら、残念そうに言った。
「す、スイマセン……まだ本調子じゃないモノで。もーちょっと時間貰っていいですか?」
「けど、いくら何でも酒呑童子っていうのはねぇ……」
 憂子の母親がバカにしたような視線を叔母に向ける。
 低い身長に張りのある肌、丸みを帯びた顔の輪郭、そして背中で三つ編みに纏めた髪の毛。憂子に似て童顔で、どう見ても二十代前半くらいにしか見えない。
「なによ義姉さん。文句あるの?」
 叔母と母親の間で火花が散り始めた。
「べっつにぃ〜。ただアンタがそんなアッパラパーみたいな調子で太郎ちゃんに接して来たから、あの子がおかしくなったんだなーってしみじみ思っただけよ。あーあー、昴ちゃんが可哀想」
「義姉さんこそ、ゆーこタンに貧乳属性と幼女属性継承させたからこんな風になっちゃったんじゃないの」
 バキッ、と憂子が持っていた割り箸が、音を立てて真っ二つに割れる。
「そんなの仕方ないでしょ! 遺伝しちゃったんだから! それとも何? 私のピチピチお肌に妬いてるの? オ・バ・サ・ン」
「うっさいわね! 五十過ぎてるってのに、ゆーこタンが中学生の時の制服コッソリ着てるような変態ロリ年増に言われたくないわよ!」
 ボキィッ! と割り箸はさらに四つに割れた。
「なんでアンタがそんなこと知ってんのよ! 監視カメラでも仕掛けてるんじゃないでしょーね!?」
「ついでに盗聴器も一緒にね!」
 粉レベルまで粉砕された割り箸が、サラサラと机に降り積もる。
(な、何なんだ……この家族は……)
 憂子と同居初日から、早くも命の危険を覚えた孔汰だった。

 最初、東雲昴という少年と体が入れ替わった時には、本当にどうしようかと思った。
 受け入れがたい現実。常軌を逸した非現実。だがおかげで憂子と一つ屋根の下で暮らすことができるようになった。そしてそのことが、何とか孔汰に現状を受け入れさせていた。
 いつまでこの状態が続くのかは分からないが、コレはまたとないチャンスだ。あの時の自分の願いが叶ったのだ。
 神社でのバイトをクビになり、孔汰は憂子と触れ合う機会を失った。しかし居ても立ってもいられず、昨日は憂子の後を付けて祈祷殿まで行った。
 そこで目にしたのは、憂子に抱きしめられている昴の姿。
 できることなら代わりたい。代わって自分が憂子に抱きしめられたい。
 気が付けば体が勝手に動いていた。そして、昴と入れ替わった。
 自分の体は今、真宮寺太郎という憂子の友人の家に預けられているという。そこには昴という少年の人格が入ってるはずだ。
 この街には自分のことを知る人間は誰もいない。例え昴が自分の体で妙な行動を取ろうと、さしあたり問題はない。よほど度を超えたモノでない限りは。
 つまりそちらの心配はあまりすることなく、落ち着いて憂子との親睦を深めて行けばいいのだ。
「分かってる? ちゃんとみんなの前では昴君の演技するのよ」
 二階にある憂子の自室。
 憂子は気分が悪くなったと朝食を途中で抜け出し、孔汰と二人だけでモノトーンの部屋にいた。
(こ、ここが憂子さんの部屋……)
 弁天町と一緒に顔を動かしながら、孔汰は座布団の上に正座して部屋の中をきょろきょろと見回す。
 壁には『先手必勝』の掛け軸。その下には日本刀が飾られている。
 ペンキも何も塗っていない無愛想な木製の本棚には、柔術や体術、関節技などの本がぎっしり詰まっていた。かなりの年期の入った木の机の上は綺麗に整頓され、白木の棒の先に紙垂(しで)を取り付けた祓え櫛やお札が整然と並べられている。
 そして隣には憂子がいつも身に付けている巫女装束。
 今、憂子は白いカットソーに、短い黒のプリーツスカートというラフな格好をしていた。
「あんまジロジロ見ないの」
 ベッドに腰掛け、憂子は恥ずかしそうに顔をしかめる。
『随分と古そうな部屋ねー』
 弁天町が独り言のように言った。
「うっさい! アタシはコレが落ち着くのよ! それからアンタ。その人形は没収。ちゃんと自分の口で喋りなさい」
 言いながら憂子は、孔汰から弁天町を荒っぽくひったくる。
「あ、ああー……」
 思わず情けない声を上げてしまう孔汰。
 アルコールの力が宿っていない今の自分は、弁天町の助けなしではろくに喋ることができない。そんなことはお構いなしに、憂子は命令口調で続けた。
「喋り方は可愛らしく。それから、あ、アタシのことは、ゆ、ゆーこタンって呼びなさい」
「ゆ、ゆーこ、タン……?」
 恥ずかしそうに言った孔汰に、憂子は顔を真っ赤にして怒ったような表情になる。一瞬殴られるかと思ったが、憂子は大きく息を吸い込んで自分を抑え付けたようだった。
「そ、それでいいわ。それじゃ今からちょっと練習してみましょう」
「ぁ、ぁのー、憂子さん……」
「『ゆーこタン』!」
 遠慮がちに声を掛けた孔汰に、憂子は再び顔を真紅に染め上げて怒鳴る。
「ゆ、ゆーこタン……その……できればー、お酒をー……」
「お酒? 何言ってんの。そんなの飲ませられるわけないでしょ、ふざけないで。そうでなくても昴君の体は酒浸りになってるってのに」
 ほっぺを膨らまして、ブツブツと苛立ちの声を上げる憂子。
「でも僕ー……アルコールがないとー、そのぉー……」
「ダメったらダメ!」
「じゃあせめて弁天町をー……」
「もっとダメ!」
 腰に手を当て、有無を言わせぬ強い口調で言いきる憂子。
 孔汰は溜息をついてガックリと項垂れる。
(そんな……アルコールも弁天町もなしで、僕はこの先どうやって生きていけばいいんだ……)
 憂子と二人きりの甘い生活。ピンクに染まった脳内妄想は、瞬く間に漆黒へと塗りつぶされていった。
「あぁ、もぅ。ほら、そんなに落ち込まないの。アタシだって苦労してるんだから、お互い様でしょ」
 両手を床について沈む孔汰の頭を、憂子は優しく撫でながら言う。
「へ……? 憂子、さん……?」
 自分を気遣う憂子の意外な行動に、孔汰は少しビックリして顔を上げた。
「って、てゆーか、元はと言えばアンタが全部悪いんじゃない! それにアタシを呼ぶときは『ゆーこタン』! 分かったわね!」
「は、はぃ……」
 一瞬垣間見えた憂子の優しさは、すぐに消え去ってしまった。

 一月三日。
 一般に正月と呼ばれる期間の最終日。
 しかしたった一日で何か進展するはずもなく、時間だけが過ぎて行った。そして焦りだけが積もって行く。憂子の叔母が、いつ帰ると言い出してもおかしくないからだ。
「ありがとう、ございましたー」
 憂子は目の下にクマを作り、張り付いたような笑顔で接客していた。
 夜、八時五十分。あと十分ほどで憂子の売り子としての業務が終わる。その後に巫女としての業務をこなし、さらに古い文献と格闘しなければならない。
 昨日、憂子は一睡もしていなかった。
 皆の目を盗み、物置や父親の書庫を探してはそれらしい文献を読みあさった。だがそんなに都合よく解決策が落ちているはずもない。それどころか書き記されているかどうかも怪しいのだ。
 憂子の仕事はそれだけではない。『ケガレ』を祓うための準備もしなければならない。
 毎日決まった時間に祈祷殿に足を運び、水垢離(みずごり)を行って身を清め、祓え櫛を持って神楽を舞うことで内在する力を高めていく。
 まさに体力勝負。
 体の小さい憂子がこんな激務をこなしている姿を見せつけられると、さすがの孔汰も何とかしなくてはという気持ちになってくる。
「ゆ、ゆーこ、タン……」
 店の中で憂子の隣りに座り、孔汰は小さな声で話しかけるが憂子には届かない。
(くぅ……弁天町かアルコール……どっちかがあれば……)
 自分の無力さをひしひしと感じさせられる。
 好きな人がこんなに近くで頑張っているというのに、今の自分には何もできない。
 憂子を業務を手伝うことも、心を支えることも。憂子は自分のためにこんなにも必死になってくれているというのに。
「さ、終わったわ。次、行くわよ……」
 ふぅー、と大きく息を吐いて憂子は立ち上がった。
 気付けばもう九時を回っている。お店の終了時間だ。
「あの……休んだ、方が……」
 孔汰は恐る恐る言った。
 これから憂子は祈祷殿に行って体を清める。それから家に戻り、また朝まで文献を読み続けるのだ。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。明日おばさんが帰るって言い出したら、アンタしばらく九州で生活しなきゃなんないのよ?」
 憂子の叔母が住んでいる家は九州にある。孔汰自身はまだいい。昴の演技をしていればそれで済む話だ。しかし今孔汰の体にいる昴は、次に叔母が東京に遊びに来るまで母親と離ればなれになってしまう。さすがに五歳児には耐えられないだろう。
「まぁ、そん時はさすがに全部話すけどね。でも余計な心配かけさせないに越したことはないわ。今が頑張り時よ」
 気丈に言って憂子は店を閉める。そして孔汰の手を引いて祈祷殿へと向かった。
 孔汰は黙って憂子の後ろを歩くことしかできなかった。

 結局、その日憂子が家に戻ったのは十一時を少し過ぎた頃だった。
 娘のあまりに疲弊した様子に、父親が明日は休んだ方がいいと声をかけたが、今が稼ぎ時だからと憂子は断った。
 そして皆が寝静まった後、憂子は一人で行動を開始する。
 孔汰は憂子の叔母と同じ布団で横になりながら、今自分にできることを考えていた。
『いいから。アンタは変なこと考えないで、大人しく昴君の演技だけしてればいいのよ。後はアタシが何とかしてあげるから』
 眠そうに目を擦りながら、憂子は孔汰にそう言って叔母のところに行くように命令した。
 だが憂子一人に任せるわけには行かない。彼女一人では負担が大きすぎる。それにここで憂子を助けておけば、元に戻った時にコレまでとは違った目で自分を見てくれるかも知れない。
(アルコールだ……)
 そのためには力が必要だ。酒の力が。
 今の自分は五歳児の体。ほんの少しでも舐めれば、あっと言う間に酔いは回るだろう。そうなればコチラのものだ。
 孔汰は憂子の叔母を起こさないようにそっと布団から抜け出すと、音を立てることなく静かに襖を開けた。
 部屋の外は真っ暗だった。壁に手を突き、台所目指して抜き足差し足で前進する。
 古い板張りの廊下は歩くたびにギシギシと軋んだ音を立たが、そればかりはどうしようもない。誰にも気付かれないことを祈るだけだ。
 短い歩幅ながらも確実に進んで行き、孔汰はようやく台所にたどり着いた。
 もうすでに目は暗闇に慣れている。明かりを付けなくとも大体の位置は分かった。
 孔汰は年経た食器棚の横を通り過ぎ、流し台の下まで来る。そして隣にある、すでに生産中止になってしまったであろう冷蔵庫の取っ手を握りしめた。
 後ろに体重を掛け、全力を持ってあきにくくなった扉を開く。少し遅れて冷蔵庫内の明かりが薄く灯り、中に入っている物を照らした。
(あった……)
 最初に見つけたのは缶ビール。
 孔汰は背伸びして缶ビールを取り出し、プルタブを起こして口を開ける。
 他人の体なのでどれだけ飲めば、どのくらい酔うのかサッパリ分からないが、取りあえず一口すすってみた。冷たく苦い感触が喉を通って胃に流れ込む。
 ウィスキーやブランデーなどの濃いアルコールと違い、比較的即効性のあるビール。
 しかし少し待っても酔う気配はない。
 孔汰はもう一口、喉に流し込む。が、効果はない。
 さらにもう一口。そしてさらにもう一口。
 あっと言う間に一本開けてしまったが、体が火照ることも、頭がクラクラすることもなかった。
(おかしいな……)
 意外に強いのかも知れないと思い直し、孔汰は缶ビールをもう一本空ける。
 さらにもう一本。そしてさらにもう一本。
 だが依然として体に変化はない。しかも、もうお腹が一杯になってしまい、これ以上ビールは入らない。
 しかたなく孔汰は日本酒に手を伸ばした。
 だがソレも効果が薄いと見るや、今度は焼酎に。次はウォッカ、その次はジン。豊富に取り揃えられているアルコールを片っ端から試していく。
 自分の体ですらここまで飲んだことはなかったが、これだけアルコールを取ってようやく気持ちよくなり始めた。
「ふ、ふふ……憂子殿……待っていて下され」
 妖しげな笑みを口の端に張り付かせ、孔汰は二階にある憂子の部屋へと向かう。
(夜這いじゃ、夜這いじゃっ)
 くふふと含み笑いを漏らし、孔汰は軽快なステップで階段を上って行った。すでに当初の目的など忘れ、自分の欲求に突き動かされるまま憂子の部屋の前に忍び寄る。
 扉の隙間からは明かりが漏れていた。どうやら中にいるらしい。部屋で文献を読んでいるのだろう。
「ゆーうーこーどーのーっ」
 脳天気な声を上げながら、孔汰は部屋の扉を開けた。
「んー……?」
 中から怠そうな声が返ってくる。
「男、九羅凪孔汰! ただ今参上つかまつっ……た……?」
「何よ、アンタ……ンなとこで何してんのよ」
「ゆ、憂子、殿……?」
 いまだ巫女装束のままベッドにあぐらをかき、憂子は据わった目でコチラを睨み付けた。
 右手には古い書物。そして左手には缶ビールを持って。
「ゆ、憂子殿。ひょっとして飲んでおいでか」
「なによ。アタシが飲んじゃ悪いっての? 疲れてるんだからちょっとくらい別にいいでしょ」
 言いながら缶ビールを一気飲みする。
「い、いやしかし……疲れている時というのはアルコールのまわりが早く……」
「カンケーない! アタシが飲むって言ったら飲むの! お前も飲め!」
 叫んで憂子はベッドの下に置いていた缶ビールを孔汰に投げ付けた。
「ど、どうかしたんでありまするか?」
「同化したのはお前の方だろぅ! とっととその体から出て行け!」
 ダメだ。完全に酔っ払ってる。
 しかしさっきまであんなに強気で頑張っていたのに……。本当に何かあったのだろうか。
「まったく……踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。これを見てみろ!」
 男言葉になり、大声で言いながら憂子は持っていた書物を突き出した。
「はぁ……」
 孔汰は気圧されながら、憂子が開いていたページに目を通す。

『精神転換の呪法』

「見つかったんでありまするか!?」
 最初に飛び込んできた文字を見て、孔汰は思わず声を上げた。
「続きを読んで見ろ」
 言われたとおり、その下に書かれている詳しい説明欄を見る。

『効果:二者の精神を入れ換へる。
 方法:不明』

「ふ……?」

『備考:他の儀式を行つた際、偶発的に発生した物である。このやうな現象は至極希であり、狙つて発生させることは困難をきはめる』

「ちょ……」
「そういうことだ。昔のエライ坊さんも、アタシと同じような失敗をして、同じようなことが起こった。ただそれだけだ」
「それじゃ昔はどうやって解決したんでありまするか?」
「そこまで知るか」
 知るかって……。
 では自分は一生この体のままなのか?
「まったく笑えるじゃないか。血眼になって探した結果、分かったことと言えば『分からない』ってことだけだ。三文芝居のネタにもならん」
 投げやりに言いながら憂子は新しい缶ビールを一本開ける。
 そうか。それで憂子はこんなにも崩れていたのか。
「オマケに今日の水垢離で分かったことがある。何だと思う?」
「さ、さぁ……?」
 取りあえずいい知らせでないことだけは確かだ。
「今年の『ケガレ』はいつもと違って強力だ。このまま準備を続けても、アタシ一人でどうにかなるか分からん」
「あの……『ケガレ』を祓うとは具体的にどうするんでありまするか?」
「何だ貴様。そんなことも知らんのか」
 孔汰を心底バカにしたような視線で見下し、憂子は小さく鼻を鳴らしてビールを一口あおった。
「『ケガレ』を祓うには、まず前準備としてソレを自分の体に蓄積させ、水垢離や神楽舞いで清めてある程度弱体化させる。ソレが進んで自分の技量で祓えるくらいにまでなったら実体化させ、この祓え櫛であの世に送るんだ。分かったか」
 右手に持った愛用の祓え櫛を片手で器用に回しながら、憂子は熱っぽい息を吐く。
「ただ……今年のは少し手に余る。浄化よりも『ケガレ』の蓄積の方が速い。今もアタシのキャパを越えつつある。おかげで運気も下がってしまった。だからせっかく見つけた文書もそのザマだ。まったく……こんなことは初めてだよ」
 潤んだ瞳で言いながら、憂子は喉を鳴らしてビールを一気に飲み干した。
「そう……」
「『初体験だな』とか言うなよ!」
 孔汰の言葉を遮って、憂子は祓え櫛でコチラをビシィ! と指しながら声を荒げる。
「べ、別にそんなこと言ってないでありまするよ」
「そうか……。けどな、アイツはすぐにそういうことを言いたがるヤツなんだ」
「アイツ?」
「太郎だよ。真宮寺太郎」
 確か今の自分の体を預かってくれている人の名前だ。
 憂子の幼馴染みらしいのだが。
「アイツは人が真面目な話をしていてもすぐに茶化す。ありとあらゆる言葉を、ソッチ方面に結び付ける変態だ」
 暑くなってきたのか、巫女装束の前を少しはだけさせながら、憂子はベッドの上で壁にもたれた。
「人の言うことは聞かない、すぐに無責任な行動を取る、勘で誰かのアラ探しをするのが趣味、おまけに二次元オタクで人間嫌いな最低ヤローだよ」
 なにやらいつの間にか完全な愚痴へと変わっていた。
 そうこうしている間に孔汰の体から酒が抜けてくる。憂子に貰ったビールを一気飲みしてみるが、ミジンコの涙ほども足しにならない。
(くそ……あれだけ飲んだのに)
 この東雲昴という子供の体は、どれだけ酒に強いんだ。
「けど……肝心なところで鈍感で……時々ビックリするくらい、純粋で誠実なことをするヤツだった……」
 自分の足下をジッと見つめ、憂子は溜息混じりに呟く。
「だから、アタシはアイツのそんなところに惚れたんだ」
「え……?」
 思わぬ急展開に孔汰は自分の耳を疑った。
「バカでスケベで変態で、非常識が怪電波まき散らしながら闊歩してるような人畜有害なヤツだけど……アタシは太郎のことが好きだった……」
 酔いが、一気に覚めた。
「なのにアイツときたらポッと出の守護霊なんかとくっつきやがって! アタシはあのバカのこと幼稚園の時からずーっと見てきたってのに!」
 憂子の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「ずーっとそばにいて……アイツの世話することだけ考えて……アタシに振り向いてくれなくても、太郎が他の女の人と一緒にならないんなら、別にそれでもいいかなとか思ったりして……」
 しゃくり上げながら憂子は鼻をすすった。 
「一生懸命……頑張ってきたのに……」
 憂子の手から祓え櫛とビール缶が抜け落ちる。ソレと一緒に、憂子もベッドに突っ伏した。そしてそのまま寝息を立て始める。
 よほど疲れていたのだろう。この二日間、憂子は一人で頑張りすぎた。
 しかし頼みの綱は切られ、いつもより強力な『ケガレ』が取り憑き、運気も落ちた。
 実らない努力。そこにフラれた男のことを思い出し、酒に溺れた。
「僕、は……」
 完全に酒が抜けてしまった孔汰は、しばらく呆然と憂子の寝顔を見つめていた。
 自分は憂子の力になることもできず、真宮寺太郎という憂子の想い人に勝つこともできない。
 このままでは憂子に嫌われたままで終わってしまう。
 何かしなければ。自分が憂子のためにできること。ソレを全力でしなければならない。
「……ぅん」
 孔汰は一度頷いて憂子の部屋を見回す。
 目的の物は憂子の机の上に無造作に置かれていた。
「弁天町……僕に、勇気を……」
『何言ってるの! 水くさいわね! 勿論よ!』
 孔汰は机から弁天町を取り上げると、憂子の部屋を飛び出した。

 真宮寺太郎の家はすぐに見つかった。
 『真宮寺』なんて名字は珍しい。この近くには一つしかないだうろ。
 彼の家は憂子の家の隣りにあった。
 時刻は午前二時。チャイムを押すには極めて非常識な時間だ。
『孔汰さん! 鉄は熱い内に尖らせて殺れ、よ!』
「うん……分かってるよ、弁天町」
 弁天町からのエールを受け、孔汰は太郎邸のチャイムに手を伸ばした。そして弁天町の腕で押そうとした時、いきなりチャイムが上下に割れて、中の鋭い牙が孔汰の手首に狙いを定める。
『ひええぇぇぇぇぇぇぇ!?』
 とっさに手を引き、何とか事無きを得たがもう少しで弁天町ごと喰われてしまうところだった。
【捕獲失敗シグナルを受信。第二トラップ起動】
「……へ?」
 どこからか機械音声が、抑揚のない口調で告げる。
 直後、孔汰の足元のアスファルトがバクン、と大きな音を立てて開いた。
『どーなってのよコレえええぇぇぇぇぇ!』
 孔汰は弁天町ごと穴の中に呑み込まれる。
 そして体を上下左右に振られながら、暗い世界の中を滑り降りた。
 延々と黒いチューブの中で振り回され続け、このまま地球の中心まで落ち続けるのかと思った次の瞬間、突然目の前が明るく開ける。
『わぷっ!』
 全身に縄が食い込む感覚。
 孔汰が出たのはどこかの部屋だった。太い縄で作られた巾着形の網が天井から吊されており、孔汰はそこに閉じこめられていた。
 壁には所狭しと『明らかに狙った』女の子キャラクターのポスターが貼られ、それらに関連するフィギュアがガラスケースの中に整然と陳列されている。
「たーくん。誰が引っかかったみたいですよー?」
 四十型のプラズマテレビの前に座っているナース服を着た女性が、顔だけをこちらに向けて隣の男に話しかけた。
「第二トラップを回避できた不審者はいまだに現れんな。実につまらん」
 ダルそうに言いながら、紅い髪の男はゲームのコントローラーを置いて孔汰の方を見る。
「さて、と。楓、どう料理するか」
「んーと。とりあえず恥ずかしい写真を撮るのがいいかとー」
「ほぅ、実は俺もそう思っていたところだ」
「奇遇ですねー」
「いやまったく」

『あっはっはっは』

 二人はなにやら恐ろしい会話で盛り上がりながら、吊し上げられて身動きのとれない孔汰に近寄って来る。
 彼らが自分の目の前まで来た時、女性の方がこちらを指さして間延びした声を上げた。
「あ、でもー。私この人知ってますー」
「ほぅ、実は俺もそう思っていたところだ」
「奇遇ですねー」
「いやまったく」

『あっはっはっは』 

 よく分からない笑いのツボで盛り上がりながら、二人は観察するかのような視線を孔汰に向ける。
「お前、東雲昴とか言うガキの体に入ってる九羅凪孔汰ってヤツだろ? こんな時間に何の用なんだよ」
「せっかくネットゲームで結婚式あげてましたのにー」
 この男、自分のことを知っている。しかもこの体に起こった異常事態を、何の疑問もなく受け入れている。最初どこの異空間に飛ばされたのかと思っていたが、もしかすると……。
『貴方、ひょっとして真宮寺太郎?』
 孔汰は弁天町の口から彼の名前を確認した。
「楓」
「はいー」
 突然真顔になり、男は険しい表情で言いながら女の前に手を差し出す。彼女はどこからか巨大な剣を取り出すと、笑顔で男に手渡した。
「俺のことは『真宮寺様』と呼ぶように」
 気が付くと剣の切っ先が孔汰の喉元に押し当てられていた。いつの間にか縄の牢獄からも解放されている。
 まばたき一つする間の出来事。何が起こったのか全く分からない。
「で、何の用だ」
 男は流麗な動きで剣を鞘に収めると、不機嫌そうに聞いた。
 ――非常識が怪電波まき散らしながら闊歩してるような人畜有害なヤツ――
 憂子の評価は実に当を得ていると、心の底から思った。
 間違いない。彼が真宮寺太郎だ。とすると隣の女性は太郎の恋人、色葉楓か。
『あ、貴方に言いたいことがあって来たのよ』
「ほぅ。なら自分の口から言うんだな。そんなくだらない芸、披露してないでよ」
 半眼になり、剣呑な光を両目に宿して太郎は言う。
 孔汰は尻餅を付いたまま「う……」と小さく声を上げ、何か言おうと口を開いたが、すぐに閉ざしてしまった。代わりに右手にもった弁天町の口を動かす。
『べ、別にいいでしょ! 誰かに迷惑掛けてるわけじゃないんだから!』
「ふん……。で、何だよ。要点だけ簡潔に言え。どーせコッチで預かってるお前の体のことだろ。心配すんな。今のところ楓になついて大人しくしてる」
 バカにしたような笑みを浮かべ、太郎は小さく鼻を鳴らした。
『そ、それもあるけど、もっと大事なことよ!』
「ほぅ?」
『単刀直入に言うわ! 憂子さんを解放しなさい!』
「あん? 憂子?」
 弁天町の言葉に太郎は眉をひそめる。
『そうよ! 憂子さんは貴方のこと好きなのよ! なにの貴方ときたらそんな女とイチャイチャして! 憂子さんが可哀想だと思わないの!?』
 孔汰の喉元に、光速で抜き放たれた剣の先が少し食い込んだ。
「……お前、自分が憂子に相手にされないからって、いい加減なことヌカしてんじゃねーぞ」
 ドスの利いた低い声。だが孔汰も引かない。
『ウソじゃないわ! ちゃんと憂子さんの口から聞いたのよ! 小さい時からずっと好きだったって! 今でも貴方が好きだって!』
「やっぱり……そうだったんですかー」
 殺気立つ太郎の隣で、楓が静かに言った。
「何となく、そーじゃないかと思ってましたー……」
 楓の言葉に、太郎の眉間に寄った皺が深さを増す。
「マジで……?」
「私も勿論、直接聞いたわけじゃないんですけどー、憂子さんがたーくんを見る目が、その……時々……」
「ふん」
 口をへの字に曲げ、納得のいかない表情で太郎は剣を鞘にしまった。そしてズカズカと大股で机に歩み寄り、椅子の背もたれを派手に軋ませて座る。
「で、お前はどうしたいんだ。聞くだけ聞いてやるよ」
 長い足を組み、太郎は野獣のような視線をコチラに向けた。
『ど、どうしたいって……。だから憂子さんに貴方のことを諦めさせたいのよ!』
「ソレはさっき聞いた。具体的には」
『ぐ、具体的……?』
 言われて孔汰は言葉を詰まらせる。
 そこまで考えてなかった。ただ憂子の力になりたくて。苦しんでいる憂子を楽にしてやりたくて。
 とにかく太郎という男のことを諦めさせたかった。忘れて欲しいと思った。
 そしてできれば、自分を見て欲しいと思った。
「この無能」
 何も言わずに押し黙ってしまった孔汰に、太郎は吐き捨てるように言う。
「お前、憂子のこと好きなんだろ? だったら俺より自分の方がいいって憂子に思わせりゃ済む話じゃねーか」
『そ、ソレがなかなかできないから貴方に頼んでるんじゃないっ』
 弁天町の言葉に、太郎は舌打ちして苛立たしげに頭を掻きむしった。
「じゃあ何か? 俺に憂子の前でカッコ悪いトコでも見せろってか? ドンくさくて、ドン引きするようなマネしろってか?」
『や、やってくれるんなら……』
「逆効果だよ」
 短く言い切って太郎は机に置いていたタバコを取り、火を付ける。
『ど、どーゆー意味よ』
「そのくらいテメーで考えろ」
 ふー、と紫煙を孔汰の顔に吹きかけ、太郎は嘲笑を浮かべた。
『そ……』
「太郎! アイツココに来てない!?」
 弁天町が何か言いかけた時、バターン! と、けたたましい音を立てて部屋の扉が開く。
「いたぁ!」
 怒鳴り声を上げながら飛び込んできたのは、おかっぱ頭の背の低い少女、憂子だった。
「アンタこんなトコで何やってんのよ!」
 憂子は顔を真っ赤にしながら孔汰の肩に飛びかかり、自分の股で挟んで固定する。そして背中を反らして孔汰の腕を逆関節にひねり上げた。『腕ひしぎ十字固め』という関節技の一つだ。
「ヒィデデデデデデデデ!」
 弁天町の口を借りる余裕すらなく、孔汰はあまりの激痛に泣き声を上げた。ミシミシという嫌な軋み音が、体の内側から聞こえてくる。
「太郎! アンタコイツから何か変なこと聞いてないでしょーね!」
 バンバン! と床を叩いてギブアップを訴える孔汰を無視して、憂子は血走った両目で太郎を睨み付けながら叫んだ。
「いや、別に。自分の体が無事か確認したかっただけみたいだぜ」
 タバコを吹かしながら、太郎は涼しげな顔で答える。
「そう……よかった……」
 どっと疲れが出たような顔で息を吐くと、憂子は孔汰を解放した。
「何か聞いちゃマズいことでもあんのか?」
「べ、別に! そんじゃ昴君のことお願いね!」
 早口で言い捨てると、憂子は孔汰を小脇に抱えて部屋を出て行った。

 ★☆★☆★

 憂子が出て行った後、楓は顎先に人差し指を当て、「んー」と小首を傾げながら太郎に声を掛けた。
「たーくん、どーしてあの子に憂子さんの好きなタイプ、教えて上げないんですかー?」
「ん?」
 太郎はタバコをもみ消して楓の方を向く。
「教えるとわざとらしくなるだろ。そのくらい憂子だって分かるさ。このままほっときゃいいんだよ。そしたら自然にくっつく」
「そんなモンなんですかー」
 よく分からないといった様子で、楓は浮遊して太郎の肩に寄り添った。
「そんなモンなんだよ。ま、アイツが酒の力も人形の力も借りずにいられたら、の話だけどな」
「お酒ー? 人形ー?」
 ネコ手の肉球で太郎のほっぺたをぺしぺしと叩きながら、楓は顔に疑問符を浮かべる。
「そう。今、一階でグースカ寝てる九羅凪孔汰ってヤツの体。預かった時、僅かだが口から酒の匂いがした。で、憂子の話だと神社で仕事してる時、午前中は真面目で人形使って喋る。昼過ぎてからは、やたらハイテンションなストーカー。つまり、だ。アイツは朝酒飲んで来るけど酔いは回らない。だから恥ずかしくて腹話術で喋る。けど昼くらいになると酔っ払ってきて理性がなくなる。人形なしで喋れるけどラリっちまうってわけだ。ま、どっちにしろ何かの助けがないと、一人じゃ何もできないヤツってわけだな」
「ふーん。よくそこまで分かりますねー」
「勘だ」
 新しタバコに火を付け、楓のネコ尻尾をいじりながら太郎は得意げに言った。
「だから放っておけば何とかなる。ま、それ以前に体が元に戻らないとダメなんだけどな」
「そっちの方が重要ですねー」
「いや、もっと重要なことが他にある……」
 いつになく真剣な顔つきになり、太郎は憂子の出て行った扉に鋭い視線を向ける。
「憂子のヤツ……夜間イタズラ対策用に仕掛けた異次元トラップ、全部突破しやがったな」
「あ……そ、そうですねー」





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