一緒に孤立、してくれますか?

春日亜美かすがあみの憂鬱◆
「別れましょう」
 春日亜美は毅然とした態度で、目の前の男にキッパリと言った。
 文学部棟の裏にある閑散とした狭いスペース。風に揺られてざわめく枝葉の声を背に、亜美は腕組みしながら悠然と男を見上げていた。
「……え?」
 突然別れ話を持ち掛けられた男は呆然とした表情のまま呟くように言う。
「な、何でだよ、いきなり。俺達旨く行ってるだろ?」
 しかしすぐに我に返ると、間の抜けた顔のまま抗議の声を上げた。
「ワタクシが貴方に別の彼女がいることを知らないとでも思って?」
 凛と張った通る声で言いながら、少し前までこの男のために毎日手入れを欠かさなかった長い黒髪を僅かに掻き上げる。一本一本が絹糸のような光沢を放つ艶やかな髪の毛が、風に煽られて中空を舞った。
「な、何言ってんだよ。勘違いだって。アイツとは別にそんな関係じゃねーよ」
 バツの悪そうな顔を無理矢理作った不自然な笑みで誤魔化しながら、男はすがるように言う。
 往生際が悪い、と亜美は顔をしかめた。
 この男が亜美が貢いだ物を別の女にあげたり、お金に換えたりしている事を知った時には愕然とした。所詮この男にとって亜美は金づるでしかなかったのだ。その事を問いただしても良かったのだが、泥沼になるだけなので亜美は伏せておくことにした。
 春日財閥の御令嬢。今まで付き合ってきた何人もの男と同様、この男も亜美を下らないフィルターを介してしか見てはくれなかった。
「別れましょう」
 もう一度、少し声を低くして言う。
 これまで何度も何度も言ってきた言葉。だが、未だに慣れることなどない。亜美の後ろにある莫大な資産を抜きにして亜美自身を見つめてくれる男性を探すため、これまで何人もの男に声を掛けてきた。そして同じ結末を向かえて来た。
「……チッ。わかったよ。じゃーな、お嬢様」
 亜美の決意が揺るぎない物だと知ったのか、男は忌々しそうに舌打ちして捨てゼリフを吐く。そして小さく鼻を鳴らして踵を返し、それ以上は何も言わずに亜美の前から姿を消した。
「……はぁ」
 独りになり、亜美は重い溜息をつく。
 今まで張りつめていた物が体の中で急速に弛緩していくのが分かった。
(終わっちゃい、ましたわ……)
 目元に熱い塊が生まれる。限界だった。さっきの男がもう少し話を引き延ばしていたら、今の無様な姿を晒していたかもしれない。
 それからは免れた事への安堵感と、また一つ大切な出会いを壊してしまった事への虚無感。相反する二つの感情が、亜美の視界を急速に潤ませていく。そして頬に生暖かい線が引かれるのを感じた。
 ――大切な出会い。そう。亜美にとってはあんな男でも大切な存在だった。
 もう少し長く一緒にいれば自分を見てくれるかもしれない。
 その一心で亜美は男に貢ぎ、尽くし、自分を磨いて輝かしい時が訪れるのを待っていた。だが、結局男の心が亜美に傾くことはなかった。
 面白みがなかったのかもしれない。同年代とはいえ、幼い頃からお姫様のように扱われて来た亜美とは価値観が違う。当然、金銭感覚も。
 しかし亜美はコレしか知らないのだ。例え不器用ではあっても今の自分が出来る範囲で精一杯やるしかない。
(……また、独りになってしまいましたわ)
 寂しい。誰かの温もりが欲しい。一緒に側にいて欲しい。
「まぁ、男なんて他にも掃いて捨てるほどいますわ」
 涙を拭い、気丈な顔を無理矢理作って自分に言い聞かせる。
 自分の弱さを露呈させるわけには行かない。それこそ男の思うツボだ。自分の弱点を明かすのは、本当に自分だけを見てくれる男性だけでいい。
 高校の時、ほんの数ヶ月の間だけ付き合っていた北条一弥(ほうじょう かずや)のように。
 彼もまた、不器用な人間だった。だが馬鹿が付くくらい正直な人だった。それ故に亜美のそばから離れていった。
「次のターゲットの選定開始ですわ」
 涙で震えそうになる声を大きく息を吸い込んで押さえつけ、亜美は大学のキャンパスに戻った。

 大学という場所は本当に不思議な場所だった。
 高校とは違い、全国から集まってきた人間が同じキャンパスにひしめき合っている。日本人だけではない。肌の色が違う人達も沢山いる。それならば多種多様な思想を持った人間が個性的な行動に出ても良いと思うのに、そういった人種は極一握りでしかない。
 マスメディアやティーン向け雑誌の影響が強いのだろうか。
 何故か皆、群れて行動すること好んでいた。ソレも二人や三人ではない。少なくとも五人以上。まるでそうすることがキャンパスライフを充実した物にしてくれると言わんばかりに。
 彼らが楽しそうに談笑しながら歩いていくのを、亜美はカフェテリアにある屋外席に腰を下ろし、遠くの方から羨ましそうに眺めるだけだった。
(やれやれ、ですわ……)
 鍔の広い純白の帽子をかぶり直し、嘆息混じりに目を伏せて手元の恋愛小説に目を落とす。白地に水玉模様の入ったノースリーブのワンピースを着て、亜美は周囲から浮いたように一人でメロンソーダを口に運んでいた。
 亜美の不評は大学内で有名だった。
 男を次々に食い物にしては自分が飽きたら捨てる。恨みを抱こうものなら春日財閥に報復される。
 恐らく亜美がこれまでフッてきた男達によってバラ撒かれた噂は、まことしやかに流布され、今や確固たる真実として定着していた。
 勿論違う。
 亜美が男達を拒絶する理由は、自分のことを財布としてしか見てくれないから。金の力を使って男達に復讐など考えたこともない。
 だが、その噂を訂正するだけの気力は亜美には残っていなかった。どうせしたところで不評が加速するのは目に見えている。それよりも新しい恋愛にエネルギーを投じたかった。
「あー、アチー。今日の秋葉原はきっと常夏の国だぜ、こりゃ」
 亜美一人しかいなかった五人がけの白いウッドテーブルに、予期せぬ来客者が訪れる。そして無遠慮に亜美の隣りに腰掛けると、わざとらしく今更気付いたような素振りを見せた。
「おや、キグーですな春日。一人ってことは、ようやく孤独の素晴らしさが分かったのかい?」
 茶化した口調で言いながら、彼は軽薄な笑みを浮かべてみせる。
「……何か、用ですの? 真宮寺た――」
「ストーップ!」
 異様なまでに巨大な目を持つ女の子キャラクターがプリントされた扇子で亜美を指しながら、彼――真宮寺太郎しんぐうじたろうは叫んだ。
「俺を下の名前で呼ぶんじゃない」
 紅く染めたクセの強い短髪を掻きむしり、太郎は目を大きく見開いて強く言う。
 亜美と同じ文学部の二回生だ。自分の名前に妙なコンプレックスを持っているらしく、『太郎』と呼ぶと激昂する。亜美に対して普通に接してしてくれる数少ない存在だ。その分、変わり者ではあるのだが……。
「……分かりました。分かりましたから、不必要に声を張り上げないでくださる」
 太郎の大声により一瞬にして周囲の視線が自分達に注がれるのが分かった。熱を帯びていく顔を、亜美は恥ずかしそうに帽子で隠す。しかしそんな状況をまるで意に介した様子もなく、太郎は平然と長い足を組んで無意味に胸を張った。
「フ……自分の世界を構築しきっている俺様に恐い物など無い」
 目を細めて遠くの方を見つめながら、自分に酔ったようにキザっぽく額に手を添える。
 意味不明な言動を取り除き、この様子だけを切り取れば太郎は間違いなくモテる部類に入るだろう。
 百八十はある長身。彫りが深く、小さめの顔立ち。低く重みのある声。燃えるように紅い髪は否応なく注目を集め、均整の取れた体つきと相まってビジュアル系のアーティストの様な風貌を醸し出している。
 ただし、着ているTシャツにメイド猫耳娘がプリントされていなければ、の話だが。
 大学に入ってすぐ、まだ太郎の正体を知らなかった時に亜美も一度声を掛けていた。その時に付き合いを断られた理由があまりに鮮烈すぎて未だ色褪せず、昨日の事のように思い出される。
『悪いな。俺は二次元にしか興味がないんだ』
 オタク。
 秀麗な容姿とはあまりにかけ離れた彼の本性。まさかそんな理由で拒絶されるとは思いもしなかった亜美は、しばらくこの世の二次元産物すべてに拒否反応を示していた。
「……貴方って、相変わらずイタいですわ」
「大丈夫。痛いのは最初だけだ。すぐに良くなる」
 亜美の苦言に意味深な言葉で返す太郎。頭痛と目眩さえ感じて頭を軽くふる亜美の目の前で、太郎は持っていた紙袋からピンクの水筒を取り出し、ストローからチューチューと吸い始めた。
 ストローの根本には女性キャラの口が描かれている。間接キスでもしている気分に浸っているのだろうか。太郎の口元が恍惚とした物に変わっていった。
「せ、正視に耐えかねますわ……」
 思わず顔を逸らせながら言った亜美の言葉に反応し、太郎は水筒をテーブルに叩き付けて勢いよく立ち上る。
「せ、精子に耐え……!? まさか春日の口からそんな言葉が……」
 太郎は唖然と口を開けたまま呆けたように言った後、突然脱力したかのように椅子に座りなおした。
「いやいや、春日だって女の子だ。女は男なんかよりも精神的に進んでいるのは確か。ならば、ならば、確認すべきなのか……いや、しかし……」
 一人でブツブツと言い始めた太郎。亜美が声を掛けようか迷っていると、遠慮がちな視線を太郎の方から向けてきた。
「じゃ、じゃあ……お前、ら、卵子、は……? やっぱり……?」
「乱視? 確かにワタクシは乱視ですけど、どうして貴方がそんなこと知ってますの?」
 亜美の言葉に、太郎はまるで高圧電流を流されたかの如く弾かれ立ち上がる。
 これまでの常識が全て覆され、壮絶な価値観を垣間見たかのような表情。底の見えない奈落に突き落とされ、助けを求めて絶叫を上げているようにも見えた。
「そ、んな……。まさか、自分の事を卵子と言い張るとは……」
 太郎はガックリとウッドテーブルに両手をつき、生まれたての仔馬の様にガクガクと全身を震わせる。
「さっきからアクセントが微妙に違っているようなんですけど……いったい何なんですの?」
 訝しげな視線を向ける亜美。太郎はしばらく俯いたまま肩をわななかせていたが、突然覚醒したかのように顔を上げると、亜美の目を真っ正面から捕らえた。そして目には涙すら浮かべながら叫ぶ。
「感動した!」
 散り散りになり始めていた周囲からの視線が、より強くなって再び亜美達に注がれ始めた。
「子を成す尊い儀式をそこまで大胆に受け入れている女性は、春日亜美! お前の他にはいない!」
 ウッドテーブルの上に片足を載せ、亜美の方をびしぃ! と力強く指さして太郎は熱弁を振るう。
「ちょ……! ば、馬鹿なこと言わないでくださる!」
 亜美は完全にキレた太郎を残し、羞恥と怒りで真っ赤に顔を染めてその場を足早に後にした。

◆真宮寺太郎の橋渡し◆
 亜美が肩を怒らせて、大股で立ち去っていく様子を太郎は満足げに見つめていた。
「任務完了、と……」
 そしてもう随分と小さくなった彼女の背中に小声で呟きかける。
「ん?」
 自分の方に何人もの視線が向けられている感じ、太郎は周囲を見回した。皆、一様に奇異の目を太郎に投げかけている。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうな口調で言い、太郎は堂々とした仕草で立ち上がった。そして自分を見ている一人一人に鋭い眼光で返し、全てをはねつける。
 太郎と目があった者は一度顔を逸らして自分達の仲間に目で意見を仰ぎ、ある者はそのまま立ち去り、ある者は再び仲間全員で太郎を見返した。
 だが、誰一人として単独で太郎に挑む者はいない。
(そんなに群れるのが好きかねー。俺には分かんねーな)
 一人の時間を過ごすことに至上価値を見いだ出す太郎には、常にグループで行動する他の人間が理解できなかった。
 太郎も最初から一人でいることが好きだったわけではない。小学生の頃はよく大勢で遊んだ。しかし年齢を重ねる毎に、『一緒にいる』という意味合いが幼い頃の物より希薄になっていくのを感じたのだ。
 成長すれば自分一人で出来ることが増えていくし、しなければならない事とそうでない事の取捨選択も効率的になって行く。ならば別に無理に仲間意識を持つ必要はない。下らない人間関係を保つために労力を費やすならば、その力を自分に向けた方がよほど建設的だ。
 いつの間にか太郎は、その考えを当然の事として受け入れていた。
(ま、人それぞれだ。別にいいけどな……)
 口笛を吹きながらお気に入りの扇子で涼を取り、太郎は機嫌良さそうにカフェテリアを出た。
(しっかし随分とやる気が出たぜ。まさか春日があんなに面白いヤツだったとは)
 レンガを埋め込んで作られた学内の大通りから離れ、木陰が多く人気のない裏通りを歩きながら太郎は亜美の言葉を思い返す。
『確かにワタクシは卵子ですけど』
(素晴らしい!)
 胸中で快哉を上げ、太郎は扇子でペシ、と頭を軽く叩いた。
 自分のことを卵子と明言する卓越した価値観。耐えかねないほどの精子を受け入れる勇気と覚悟。小子化が懸念される現代社会にとって、彼女はきっと救世主になるに違いない。
 そんなことを真剣に考えていると、太郎は次の講義のある法学部別棟に着いていた。
 文学部といえ二回生のウチは一般教育の科目が多くある。法律の勉強もその一種だ。
(ま、結構面白いけど)
 予習で暗記してきた条文のいくつかを頭に思い描きながら、美術館すら彷彿とさせる建物の中に入った。曲線を主体的に取り入れた前衛的な構成だ。三階まで吹き抜けになっており、汚れ一つない窓ガラスから多くの陽光が差し込んでいる。一階の休憩室には観葉植物が多く飾られ、鮮やかな緑が生徒達の目を和ませていた。
「お……」
 授業が始まるまであと十分。喫煙スペースで煙草でも吹かそうかと思っていた太郎の目に、よく見知った人影が飛び込んできた。
 多くの友人に囲まれ、幸せそうな笑顔を浮かべている。
 黒岩剛一狼くろいわごういちろう。その厳つい名前に負けず劣らず、逞しい体つきをしている。身長百八十ある太郎よりさらに頭一分大きく、関取のようにがっしりとた巨躯を誇る。太郎とは小学生の時からの付き合いだった。
 今回、彼からの頼みで太郎はしかたなく亜美に近づいたのだ。そしてこっそり彼女の鞄に手紙を入れておいた。剛一狼からのラブレターとやらを。
 煙草に火を付け紫煙をくゆらせていると、こちらに気付いたのか剛一狼と目があった。
(うまくやっといたぜ)
 そして煙草を持っていない方の手を軽く振ってみせる。
 その仕草を見た剛一狼は、開いているのか閉じているのか分からない猫目を薄く開けて輝かせ、周りの友達に頭を下げて何か断った後、太郎の方に小走りに駆け寄って来た。
「し、真宮寺君っ。旨く行ったッスか?」
 本当に変声期を経験したのかと思うほどの甲高い声で、剛一狼は喜色に染まった声を発する。
「ぁあ。俺様に不可能はない」
 ソレとは対照的に、変声機でも内蔵しているんじゃないかと思えるほどの低い声で、太郎は自信に満ちた口調で言った。
「すごいッス。さすが真宮寺君ッス。頼りになるッス」
 まるで子供のようにはしゃぎながら、剛一狼は人の良さそうな笑みを浮かべてみせる。外見からは想像も付かない、幼く温厚そうな反応だった。
「次からは自分でやれよー。大体こんなまどろっこしい事、俺の性にあわねーんだからよ」
 旧友である剛一狼の頼みでなければ太郎は決して引き受けはしなかった。そんな暇があれば一人の空間で妄想にでも浸っている方がよほど有意義だというのが彼の信条だ。
「も、申し分けないッス。真宮寺君にはいつもお世話になりっぱなしッス。いつか必ず恩返しするッス」
 眉をハの字に曲げて何度も頭を下げる剛一狼。なすびのヘタのような黒髪が、そのたびに縦に揺れる。
「恩返しならちゃんと結果出してこいよ。春日のヤツのロンリーハートをお前のラブアイズでドキューンしてこい」
 そんな剛一狼の肩を力強く叩き、太郎はハッパをかけるように何の臆面もなく死語を連発した。
「わ、分かったッス」
 周りをしきりに気にしながら顔を紅くして頷く剛一狼。
「なーに照れてんだよ。そういうところは相変わらずだな、あっはっは」
 その理由が自分の言葉にあるとはつゆ知らず、太郎は鷹揚に頷きながら満足げに笑う。
「シロイワー。何やってんだよ、遅れるだろー」
 二人の会話を中断するように、剛一狼の後ろから声が掛かった。
 剛一狼と一緒にいた友達だ。昔は友達など殆ど出来ず、よく太郎と二人で遊んでいた剛一狼だったが、高校に入った辺りから交友関係が徐々に広がり、大学ではかなり多くの友人に囲まれて過ごしていた。
 ソレと同時に太郎との付き合いは薄れていったが、太郎の性格上大した問題ではなかった。
(いつもベッタリってのは息が詰まる。つかず離れずってのが丁度良いさ)
 完全に割り切った考えを巡らせながら、剛一狼に戻るよう目配せする。
「じゃ、ボクは戻るッスから。どうもアリガトウッス」
 剛一狼がもう一度丁寧にお辞儀をしたところで、また後ろから「シロイワー」と不満そうな声が上がった。
「お前、『白岩』って呼ばれてんの?」
 剛一狼の肌は陶磁器のように白い。恐らくはそれに由来して付けられたあだ名なのだろうが、どうもあまり親しみを込めて呼んでいるようには思えなかった。むしろ馬鹿にしているようなニュアンスが強い。
「う、うん。それじゃ、ボク頑張るッスから」
 どこか気まずそうに言い残した後、剛一狼は友達の所に戻った。
 何人もの友人が、戻って来た剛一狼の首に手を回して高い彼の頭を自分達の目線に会わせる。そして何度か太郎の方をチラチラと見ながら、小声で何かを喋っていた。
(なんだぁ?)
 どう見ても好意的な会話をしているようには見えない。片眉を上げ、不快感を露呈させた太郎を見てか、剛一狼の友人達は逃げるように去って行った。
 彼らの姿が完全に消えたのを見て、太郎は残った煙草に口を付ける。もう随分背が低くなってしまっており、最後に大きく吸い込んで灰皿でもみ消した。
「ま、いっか」
 どうせ自分には関係ない。後は亜美と剛一狼の問題だ。
 授業が終わったら電気街にでも足を伸ばすかと考えながら、太郎は教室に向かったのだった。

◆黒岩剛一狼の小心◆
「……で、何話してたんだよ」
 法学部別棟の三階にある無人の教室。立てられたばかりで空き部屋の多いこの建物は、未だ使用の決まっていない教室がいくつかある。剛一狼達が今いるのもその一つだった。
 剛一狼を取り巻く友人達は主のいない机に腰掛け、探るような視線を向けてくる。
「べ、別に何も無いッス」
 びくびくと大きな体を振るわせながら、剛一狼は怯えた口調で返した。
「なーにも無いって事ないだろ。俺達親友じゃん。隠し事は止めようぜ」
 言いながら剛一狼の肩に腕を乗せ、軽薄そうな口調で尋問してくる。
 ただ嘘を付けばいいだけだった。今度の休み、一緒に遊びに行くのに待ち合わせの場所を確認していたとでも言えば済む話なのかもしれない。だが太郎が漏らした『春日』という言葉を聞いていたとすれば、すぐにばれてしまう。その事がキッカケで、せっかく築き上げた交友関係にヒビが入ってしまうかもしれない。
 そう思うと、どうしようもない恐怖が剛一狼を包んだ。
「ちょ、ちょっと個人的な相談に乗って貰ってただけッス」
 苦渋の末、剛一狼は殆ど致命的とも言える言葉を発した。
 周りから興味深げな声が上がる。時間をもてあます大学生が持つ悩みと言えば、九割方恋の悩みでしかない。
「そっかー、シロイワちゃんもついに好きな人ができたのかー」
 カマ掛けのように発せられた何気ない友人の一言に、剛一狼はビックリして顔を上げた。
「ど、どうして……」
 細い猫目を精一杯大きく見開いて驚愕の声を漏らす。後ろから茶化すような口笛が響いた。友人の一人が鼻を鳴らして剛一狼の前に立ち、品定めでもするかのように下からねめ上げる。
「で、誰?」
 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
 静まりかえった教室に、別の場所から教鞭を振るう声が聞こえてくる。窓の外に映る青々とした木々を、どこか遠くの世界の物のように見つめながら剛一狼は視線を泳がせた。
「誰って聞いてんの。俺達が恋愛成就の手助けをしてやっからよ。教えろよー」
 何も言わない剛一狼の後頭部を肘でつつきながら、後ろの友人が催促する。それに触発されて他の友達もニヤニヤ笑いながら頷いた。
「手、助け……?」
 『手助け』。その単語に反応して剛一狼は我に返った。
 自分を助けてくれる? 亜美と親密な仲になるのを友人達が助けると言ってくれている。こんな言葉を掛けて貰ったのは何年ぶりだろう。中学の時、太郎に期末考査の勉強を見て貰って以来かもしれない。しかも今度は一人ではない。大勢の友人が自分の為に力を貸すと言ってくれている。
「か……」
 その気持ちに応えないわけには行かない。
「『か』?」
 剛一狼の一言一句を聞き漏らすまいと、友人達が体を乗り出す。剛一狼は大きく息を吸い込んで、意を決したように口を開いた。
「かす、が……さん」
 蚊の啼くような小さな声で言い終え、剛一狼は脱力して溜息をつく。すぐに顔が紅潮していくのが分かった。耳にまでその熱が伝わってくる。
 今日、太郎に頼んで亜美の鞄に手紙をコッソリ忍ばせて貰った。文面は、夜九時に水比良(みずひら)公園で待っていてくれと言うものだ。キャンパスで直接言えばいいのだが、フラれた時や、誰かに見られた時のことを考えると、とてもそんな勇気は湧いてこなかった。
「『かすが』ってお前。まさか春日亜美の事か?」
 聞き返す友人の一人に、剛一狼はうつむいたまま小さく首を縦に動かした。
 自分と違い、周囲から完全に孤立しているのに毅然とした態度を崩さない。あれだけの不評を受けながらも平然として、すぐに次の恋愛を探せる活力を持っている。
 カッコイイと思った。
 そして自分なんかではとても釣り合わないとも思った。なにせ相手は春日財閥の御令嬢だ。存在からして高嶺の花であることは間違い無い。
 しかし、最近付き合っていた男と別れたという話を聞いた。不謹慎だとは思ったが、今なら少しくらいチャンスはあるかもしれない。ダメで元々だ。当たって砕けるのならばそれまでのこと。
「おい、冗談だろ?」
 自分の目の前で半笑いになって言う友達の声が、少し低くなったように聞こえた。こちらを見据える視線に、どこか剣呑な物が混じる。
「え……い、いや。僕は、本気ッス」
 剛一狼の言葉に周囲の空気が一変した。
 先程までの浮ついた物ではなくなり、明確な嫌悪感を帯びて漂い始める。
「シロイワちゃーん。俺らの知らない間に面白いジョーク言えるようになったじゃないのー」
 一気に温度の下がった雰囲気を敏感に感じ取り、剛一狼は弱々しい視線を後ろの声の主に向けた。
「俺ら、あのバカ女に散々な目に会わされてんだよねー」
 背筋を冷たい物が通り抜ける。ようやく自分の犯した失態に気付いた。
 彼らは全員、亜美にフラれた男達の集まりなのだ。同じ傷を持った者同士が癒しあい、共感しあい、後ろ暗い友情を深めていく。例え陰湿な精神の持ち主ではなくとも、よくある話ではないか。
 そんな彼らがどうして剛一狼を受け入れてくれたのかは知らないが、今や剛一狼にとって無くてはならない存在だった。
 また一人になるのは嫌だ。ココは中学や高校の時とは比べ物にならない程の人がいる。数多くの決定を迫られる。そんな場所に一人取り残されるのは嫌だ。自分の行動が正しいのか、自分の取った選択肢が間違っていないのか、その正否をすぐに相談できる相手が欲しい。自分だけ特異な事をするのは嫌だ。
 昔は周りに人が少なかったから損な事ばかりしていた。何でも気兼ねなく聞けたのは太郎くらいなものだった。それじゃ足りない。もっとみんなと相談して、自分より頭の良い人の言うことに従って生きていけば絶対に良いことがある。
 中学校二年生のあの時、そう悟ったのだから。
「シロイワ」
 横手からの声で剛一狼は我に返る。
「お前まさか……本気で、あの春日亜美の事が好きな訳、ないよな?」
 それは疑問というよりも一方的な要求だった。返すべき言葉は最初から一つしか用意されていない。剛一狼に選択の余地など与えられていなかった。
「な、何言ってんッスか。当たり前ッス。ちょ、ちょっとからかうだけッス」
 そして剛一狼の口から出た言葉は周囲の期待に添った物だった。
「だよなー」
 前から掛けられた明るい言葉に、さっきまでの緊張感が嘘のように霧散する。そして剛一狼は胸中で安堵の溜息をついていた。
 明らかに答えの分かっている選択を投げかけられたことに。そして、今の人間関係にヒビが入らなかったことに。
(い、意地張って春日さんに告白しても、どうせフラれるだけッス。だったら……)
 だったら友達の意向に会わせておけば、少なくとも今の関係が壊れることはない。現状は維持できる。後ろには下がっていない。周りに合わせておけばとりあえず間違いはない。
 ――あの時と同じだ。
 不意に幼い頃の嫌な思いが想起される。まだ周りと足並みを揃える事を知らなかった愚かしい自分が。
「じゃぁ早速聞かせて貰おうか。シロイワちゃんの考えた、おもろしーい計画を」

 夜の八時半。
 水比良公園のベンチで背の高い街灯に照らされながら、春日亜美は一人佇んでいた。彼女の目の前にある噴水から飛び散る水滴が、人工灯の輝きに晒されて闇夜に光点を穿つ。
「おっ、もういるじゃねーか」
「待ち合わせの三十分も前に来るたぁ、殊勝な心がけですこと」
 亜美から二十メートル程離れた場所にある茂みに身を隠し、剛一狼とその友人達は亜美の様子を窺っていた。
 遠すぎて表情まではハッキリと分からないが、そわそわしているのは確かたっだ。犬の散歩で公園を訪れた人達を待ち人と勘違いして、僅かに腰を上げては恥ずかしそうに座り直すという行為を繰り返している。
 とても何人もの男を食い物にしてきたとは思えないほど純情な反応だった。
「しっかしシロイワちゃんも悪だねー。こんな面白い遊び一人でやろーってんだからよー」
「そーそー。自分の名前書かないって所がミソだよなー」
 今回、亜美に宛てた手紙には場所と時間を指定しただけで、剛一狼が差出人であることは明記していない。それは亜美が本当に来てくれるかどうか分からなかった事への不安の表れであり、いざとなったら出ていけないかもしれないという恐怖の象徴でもあり、そして過去に味わった辛酸を乗り越えるための勇気の源ですらあった。
 匿名性。それは時に人を大胆にさせる力を持つ。
「俺、アイツが十分以内に帰るに千円」
「じゃ俺は五分以内に千円」
 周りから囁くような声で、亜美の忍耐力を対象にした賭け事が始まった。
「で、シロイワはどーすんだよ」
 そして一通り回り終えた後、自分に話がふられる。
「え? ぼ、僕、は……」
 断りたかった。
 好きな人が苦しむ姿を、愉悦としてして受け入れる事など出来るはずがない。しかし、ここで拒めば大切な友情に亀裂が走るかもしれない。
「すぐに帰るに、五千円……」
 それは剛一狼の願いだった。思わぬ大枚に周りから小さく口笛が吹かれる。
(春日さん。どうか、すぐに帰ってください……)
 賭などどうでもいい。ただ亜美の悲しい表情を見たくない。どれだけ怒っても良いからすぐにでも帰って欲しかった。亜美の貴重な時間を浪費させたくない。
 明日全てを話そう。そうすれば亜美は当然のように剛一狼を罵倒するのだろう。ならばコレで晴れて友達の仲間入りだ。
 自分も亜美に『酷い目に合わされた』者として。
(最低だ……)
 ようやく、そんな考えが剛一狼の頭に浮かんだ。
 自分は今、最低な事をしている。自分で呼び出した者が待ちぼうけを食らう様を、傍観しているなど最低の人間がする事だ。ならば今周りにいる友達も同じように最低なのだろう。少なくとも一人ではない。
 ――一人ではない。今この選択をしているのは自分の一人ではない。
 そのことが剛一狼に奇妙な安心感をもたらす。
(春日さん、ゴメンナサイ……)
 心では謝罪しつつも、剛一狼に今のぬるま湯を抜け出す力は無かった。




空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。
Copyright 2006 All rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system