玖音の苦悩

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 僕の記憶が正しければ、昨日は一人でベッドに入ったはずだ。
 確か十時過ぎに寝る前の青汁を飲み、十時半には歯を磨き、その後は十二時近くまで新年度の塾講習の準備をしていた。そして自然と襲って来た睡魔に身を任せ、ベッドに潜り込んだはずだ。
 そう、確かに一人だった。間違いない。
 なのにどうして――
「えへへー、オハヨー。兄貴ー」
 美柚梨が僕の隣に居るのだろう。
「……何やってんだ、お前」
「兄貴の寝顔見てたー」
 別段悪びれた様子もなく、美柚梨は満面の笑みを浮かべて返してくる。
 軽くパーマ掛かった紅いセミロングの髪の毛。丸みを帯びた幼い顔立ち。愛嬌のある大きな瞳。健康そうな薄桃色の頬。ぷくっと膨らんだ小鼻。ピンクの唇。
 間違いない。コイツは僕の妹、芹沢美柚梨だ。
 美柚梨は僕の隣で枕に頬杖を付き、幸せそうに微笑んでいる。
「……いつから居た」
「一時間くらい前かな」
 い、一時間……。
「……その間ずっと、僕の布団に?」
「そ」
 疲れていたのだろうか。眠っていたとは言え、全く気配を感じなかった。
「美柚梨……こう言うのは心臓に悪いから止めてくれないか?」
 眉間に寄せた皺を揉みほぐしながら、僕は静かに言う。
「分かった。それじゃー今度からは最初っから一緒に寝てるー」
「いや……だからそういう事じゃなくて……」
「いいじゃん、いいじゃんっ。兄妹なんだからこのくらい当たり前だよ」
 嬉しそうに言いながら、美柚梨は僕に抱きついて顔をすり寄せて来た。
 コイツ……分かって言ってるな。
 僕と美柚梨は確かに兄妹という事になってはいるが、血の繋がりは無い。十鬼神『月詠』の能力『精神干渉』で記憶の操作を行い、そういう間柄になっているだけだ。だから父親や母親、そして美柚梨とは全くの赤の他人。
 『精神干渉』のおかげで、両親は未だに僕が本当の息子だと思ってくれているが、美柚梨は違う。
 荒神冬摩が『月詠』の事も含めて全て喋ってしまったために、美柚梨は僕と本当の兄妹ではない事を知ってしまった。
 そう、あれからだ。美柚梨の行動が大胆になり始めたのは。
 それまでは一緒に買い物に行ったり、勉強をしたりする事はあっても、ここまで迫って来る事はなかった。あくまでも仲の良い『兄妹』だった。
 しかしその枠が取り払われ、美柚梨は変わった。
 変わってしまった。
 いや、歯止めが利かなくなったと言った方が適切かも知れない。これまでは『兄妹』であったため無意識に引いていた線を、今では完全に消し去ってしまっていた。
 さらに三日前、無事第一志望の高校に合格できた事への開放感が拍車を掛けている。
 だから今みたいに抱きついたり、
「兄貴の寝言ってカワイーね」
 冷や汗が出るような事を言ったり、
「ねーねー、ところでさー。『兄貴』より『お兄ちゃん』って呼んだ方がグッと来る感じー?」
 もっと自分を意識するようにしむけたり、
「何とか言ってよー。じゃないとチューしちゃうぞー?」
 唇を寄せて――
「わー! コラー!」
 息が掛かるくらい接近して来た美柚梨の顔から逃れるため、僕は這うようにして後ずさった。しかし後ろに伸ばした手がベッドから外れて空を切り、そのままバランスを崩して床に転げ落ちる。
 ……っくー。何というお約束を……。
「だ、大丈夫!? 兄貴!」
 強く打った後頭部を押さえてうずくまる僕に、美柚梨が心配そうな声を上げて駆け寄った。
「もー、ドジなんだからー。ほらほら、打ったとこ見せて」
「いいって、別に何でもないから」
「ダーメ。もう兄貴の体は兄貴だけの物じゃないんだから」
 どういう意味だ、それは。
「と、とにかくだ。一端部屋から出てくれ。朝飯でも食べながら落ち着いて話そう。な?」
 打った部分を覗き込もうとする美柚梨から体を離し、僕は平静を装いながら言う。
 とにかく今は一人になって冷静にならなければならない。目覚めと共にいきなり不意打ちを食らった体勢では不利だ。
「うん。分かった。じゃー行こー」
 僕の手を引っ張って立ち上がらせ、美柚梨は元気良く言う。
 いや、それはまずい。僕の頭から血が下りきっていない。それでは今と状況が変わらない。
「と、取りあえず。先に行っててくれよ。僕もすぐ行くから」
「何で? 一緒に行こーよ」
「いやだから、ほら、着替えとかもあるし……」
「なーんだ」
 顔を明るくして至福とも呼べる顔つきになる美柚梨。
「アタシは別に気にしないよ」
「僕が気にするんだ!」

 そして十分後。
 ようやく美柚梨を説得して部屋から出させ、僕は一人ベッドに座って大きく溜息をついた。背中にある出窓から差し込む朝日が、自分の影を長く映し出している。
 影の先には先程美柚梨の出て行ったドア。そこには美柚梨が小学二年生の時にクレヨンで書いた僕の絵が飾られていた。ドアの隣には僕の背丈と同じくらいの本棚。その上には美柚梨が小学三年生の時、図工の授業で作った紙粘土の僕が置かれている。本棚とベッドの間には勉強用の机。机の上には美柚梨が小学六年生の時、僕の誕生日にプレゼントしてくれたお手製のマフラーが置かれていた。
「まずい……」
 美柚梨の暴走はどんどん加速して行っている。このままでは身が持たない。
 昨日など「マッサージしてあげる」と言って変なところまで触られそうになった。この先どんな事をして来るのか、考えただけでも気が重くなる。
 そして一番問題なのは、僕がだんだん美柚梨の行動に慣れ始めてしまっている事だ。いずれ今の環境を、当然の事だと受け入れてしまっていそうで恐い……。
「『月詠』……どうすれば良いと思う」
 僕は疲れた声で絞り出すようにして言った。
 そうだ。こんな時はいつだって『月詠』に頼ってきた。
 彼女は僕の使役神鬼であると同時に、母親のような存在でもある。彼女が居たからこそ、今の僕があると言っても過言ではない。
『何か問題でもあるんですか?』
 頭の中に直接響く『月詠』の声。その返答に僕は軽い頭痛を覚える。
「どう見ても大アリだろ。いいか。僕と美柚梨は世間的には兄妹なんだぞ?」
『仲が良いのは素晴らしい事じゃないですか』
「どー考えても限度を超えてるだろ! あれが妹の行動か!?」
 思わず大声で叫んでしまった自分の口を慌てて塞ぎ、深呼吸をして強引に落ち着かせる。
 いかんいかん。落ち着け。冷静になるんだ。血の上った頭で考えても、良い答えは導き出せない。
『まぁ確かに。兄妹と言うよりは恋人同士のような雰囲気ではありますね』
 はっきり言われて、また頭に血が上っていく。
 そう。そうなのだ。
 最初はふざけているのかと思っていたが、どうもそれだけでは済ませられない行動が多い。
 一昨日、塾講師のバイトに行く時に美柚梨がお弁当を作ってくれた。深夜特訓の日だったから、晩ご飯持ちだった。
 そしてお弁当の内容は、ご飯に梅干しの果肉でハートマーク。まぁ、それ以外におかずも何も無いというのは美柚梨らしいのだが……。
 五日前、一緒に買い物に出かけた時は、ずっと僕と腕を組んでいたし、一週間前に僕がリビングで将棋の本を読んでいた時は、ずっと膝の上でじゃれついていた。
 これがまだ小学校低学年の頃なら別にいい。僕によく懐いているで済ませられる。しかし美柚梨はもうすぐ高校一年生。はっきり言って大問題だ。
『きっと、美柚梨さんも貴方を失いかけて、今そばに居る事の嬉しさを噛み締めているんですよ』
 僕は一ヶ月程前、死ぬつもりだった。
 自分に絶望し、生きる事に絶望し、目に映る物全てに絶望した。
 しかし、美柚梨がソレを止めてくれた。
『それに、貴方も美柚梨さんの事が好きなんでしょう?』
 今、自分がこうして生きているのは美柚梨のおかげだ。美柚梨が生きる希望をくれた。美柚梨のために生きようと思った。美柚梨が居るからこそ、自分の命に価値を見出す事が出来た。
 美柚梨は掛け替えのない大切な存在だ。
 それは認める。この先ずっと、美柚梨のそばに居てやりたいと思う。美柚梨が僕の事を必要としてくれている間は。
 しかし――
「僕は美柚梨を妹として大切に想ってるだけだ。今みたいな度を超えた関係は望んでいない」
『でも美柚梨さんは望んでいますよ?』
 く……。それを言われると何も言い返せない。
 あの一件で美柚梨の大切さを改めて思い知らされた。だから美柚梨の望む事は何でもしてやりたいと思う。思うのだが……。
「せ、せめてこれまで通りの関係に戻す方法はないか?」
 このままでは本当に身が持たない。まさかベッドの中まで侵入を許す事になるとは……。
『まぁそれなら、私の力で美柚梨さんの記憶を改変すればいいだけですけど……』
「いや、ソレはダメだ」
 美柚梨は出来る限り使役神と関わらせない。ソレはもう決めた事だ。この前のように危険な目に遭う可能性が高くなる。もう二度とあんな事はあってはならない。
『そうですか……。それなら、私から助言できる方法は一つだけですね』
 やはり『月詠』は頼りになる。僕が困っている時には必ず力になってくれる。これまでの経験からして、『月詠』の言う事に従っていれば間違いない。
『それではまず、少し距離を置く事から始めましょうか』
「距離、か……」
 そうだな。地味かも知れないが、それが一番効果的だ。今のままではあまりにも距離が近すぎる。
「で、その後どうするんだ?」
 『月詠』は『それではまず』と言った。口振りからして、続きがあるようなのだが……。
『まぁ、それは追々話していきますよ』
「そうか……」
 よし、『月詠』を信じよう。
 僕はこれからしばらく美柚梨と距離を取る!

 湯気の立つ白ご飯に、ワカメとシラタキの入ったみそ汁。スクランブルエッグの隣りには瑞々しいレタスとカリカリのベーコンが添えられ、僕のコップにだけは麦茶の代わりに青汁が注がれていた。
 家族全員でのんびり食卓を囲む、朝の平和な一コマ。
 そして一週間後に控えた入学式までの、春休み後半戦。
 心地よい気怠さと、新しい鋭気が同時に迫り来る時期。
「兄貴は醤油よりも青じそドレッシングだよねー」
 僕の隣りに座った美柚梨が、スクランブルエッグの上にドレッシングをかけてくれる。
「ああ、すまんな……」
 言いかけて僕はハッとした。
 いかん、これからは美柚梨と少し距離を取るんだ。
「い、いや、今日から醤油派になったんだ」
 少しどもって言いながら、僕は青じそドレッシングの上から醤油をかけた。
 綺麗なシソの緑色が、ドロリとした褐色へと変わる。なんとも不味そうだ。
「ふーん。ところでさっきのたんこぶは? 結構痛む?」
 美柚梨はもぐもぐと口を動かしながら背を伸ばし、僕の頭の上を覗き見た。
「ああ、そんなには……」
 言いかけてまたハッとする。
 そうだ。簡単に近寄らせてはいけない。距離を取らねば。
「だ、大丈夫。大丈夫だ。このくらいお前が心配する事じゃない」
 慌てて美柚梨から体を離し、逃げるように椅子ごと移動させる。
「どしたの? 兄貴。なんかキョドってる?」
 す、鋭いな。いや、僕があまりに無様なだけか。
「べ、別に何でもない。コレが普通。そう、コレが普通なんだ」
 まるで自分に言い聞かせるように、同じ言葉を繰り返す。
 そう、これで良い。この調子で少しずつ離れていけばいい。そうすれば変な気苦労をする事もなくなる。これで良いんだ。
「んー? なーんかオカオカシーぞー?」
 美柚梨は不審気に目を細め、茶碗を置いて僕の方に顔を寄せて来た。
「ひょっとして、寝顔見られた事まだ気にしてるーの?」
 妙な喋り方で言いながら、美柚梨は僕の肩を両手で掴む。
 ば、バカ……そんなに顔を近づける……。
「美柚梨、お行儀悪いわよ。ちゃんと座って食べなさい。お兄ちゃん困ってるでしょ」
 僕の正面に座っている母親が、箸を休める事なく少し怒った口調で言った。
「はーい……」
 母の言葉に美柚梨は不満そうだが、素直に返事をすると僕から離れる。
 な、ナイスフォローだ。母さん。
「それと美柚梨。お兄ちゃんの洗濯物だけ自分で洗うの何とかならないの?」
 なにいぃぃぃぃぃ!?
「ダーメ。洗濯機なんかで乱暴にしたら痛むでしょ。ちゃんと手で洗ってあげないと」
 て、手洗いって……。
「お、お前……それはいつから……」
「ん? 半年くらい前かな」
 ま、全く気付かなかった……。
 僕の知らないところで距離が縮まっていたとは。これは本当に気合いを入れて掛からねば。
「あ、そーだ兄貴。十時になったら一緒に買い物行こっ」
 早速来たか。しかし甘いぞ美柚梨。僕はたった今、心を鬼にしたばっかりだ。
「悪いな。今日は用事があるんだ」
 咳払いを一つして心を落ち着つかせると、僕は勝ち誇ったように言った。
「えー、なんでー? だって兄貴の次のバイトは十日後の夜七時からだし、遊び相手になりそうな友達はまだ確認してないし、月水金でする散歩は三時からだし、いつも見てる将棋講座は今日やっていないよ?」
 お前は僕のストーカーか。
「と、とにかく、だ。今日は別の用事があるんだ。お前一人で行ってくれ」
「えー、つまんないー。兄貴と一緒でなきゃヤダー」
 ほっぺたを可愛く膨らませ、美柚梨は眉を寄せて不平顔になる。
 そ、そんな顔しても駄目だぞ。僕の決意は固いんだ。
「ねぇ、兄貴ぃー。どうしてもダメー?」
 美柚梨は上目遣いになり、甘えるような声色で言って来た。
「そ、それは……」
 早くも固い決意に亀裂が生じ始める。
「だ、ダメだ!」
 しかしなんとかソレを修復し、僕は自分を鼓舞するように大声で叫んだ。
 突然の事に美柚梨は目を大きくして驚いた後、鼻を少しすすってテーブルに向き直る。
「……分かった。じゃ、アタシも行かない……」
 消え入りそうな声で呟くと、美柚梨は黙々と箸を動かし始めた。同時に、どんよりとした重苦しい空気がキッチンを支配する。
 う……なんだ。この底知れない罪悪感は。
 僕は物理的な痛みさえも感じる胸を強く押さえつけ、絞り出すように声を発した。
「い、一時間……」
 僕の声に反応して美柚梨が振り向く。
「一時間だけなら、付き合っても良い……」
「ホント!? やったリぃー! だから兄貴好きー!」
 さっきまでの沈痛な面もちはどこへやら。美柚梨は後光さえ伴いそうなほどの笑顔になると、上機嫌で言った。そして僕の両手を掴み、ぶんぶんと上下に振り回す。
 は、ハメられた……。コイツ、絶対に狙ってた……。
「アンタは美柚梨の事になるとホントに甘いからねー」
 まるで全てを予見していたかのように、母親が平然と言う。その隣で父親が女性週刊誌から目を離す事なく、梅昆布茶の催促をした。
 ま、まさか、二人ともこうなる事が分かっていたのか? ひょっとして僕の事を一番知らないのは僕自身なのか?
『あらあら。優しいお兄さんですね』
 頭の中で『月詠』の声を聞きながら、僕は軽い自己嫌悪に陥った。

 最寄り駅から電車で三駅。美柚梨が買い物の場所に選んだのは、以前も一度来た事のある総合デパートだった。
 まぁ、あの時は買いたい物を見つけるために買い物に来るという本末転倒な事をやらかしてくれたのだが……。
「お前、確認するけどちゃんと目的があるんだろーな」
 美柚梨の編んでくれたお手製のマフラーに顔を半分ほど埋めながら、僕は半眼になって聞いた。三階まで直通になっている巨大エスカレーターが、ゆっくりと僕達を階上へと運んでくれる。
 眼下に広がる一階には大容量の屋内噴水。その周りには観葉植物が円形に並べられており、白いウッドベンチが外周を囲っている。客達の休憩スペースとして利用されているその場所を中心として、様々な種類の飲食店が軒を連ねていた。
「だいじょぶ、だいじょぶぅ。今回は兄貴に選んで欲しい物があるんだー」
 美柚梨はエスカレーターの手すりに寄りかかり、徐々に小さくなっていく一階の光景を楽しそうに見ながら言う。
「僕に?」
 蒼いハーフジャケットのポケットから手を出し、僕は落ちそうになった美柚梨のニットキャップを押さえつけた。
「にへへー。そ」
 頭の上に乗せた僕の右手を、美柚梨は自分の両手で押さえつけ、嬉しそうに目を細める。
 ああ、くそ……。何をやってるんだ僕は。これじゃますます美柚梨との距離が縮まるだけじゃないか。
 ……いや待てよ。そうか。
 この買い物で僕のセンスの無さを見せつける! コレしかない!
 今度こそ確かな決意を胸に、僕はジャケットの中の左拳を固く握りしめた。

 そして五分後、僕が居たのは女性用の水着売り場だった。
 スチール製のリフトハンガーには色とりどりの水着が並べられ、艶っぽいポーズを取ったマネキンには紅いビキニが着せられている。フィッティングルームから出てくるのは当然女性ばかりだ。
「ねぇねぇ兄貴ー、これなんかどーぉ?」
 さっきから足下の安定しない僕の前に、美柚梨は次々と際どい水着を持ってくる。
 ……あれ? おかしーなー。僕はどうしてこんな所に居るんだっけ?
 僕の記憶が確かなら、今日の予定は家でのんびり詰め将棋だったはずだ。
 それがどうして店員や他の客達に温かい目で見守られながら、妹の水着選びに付き合っているのだろう。
「兄貴ぃー、これスンゴイよ。殆ど隠すトコナシ!」
 美柚梨が紐のような物体を見せびらかしながら、何か言っている。
 ルールルー、ルールルー、ベントラベントラ、アーアー、ホンジツハセイテンナリ。
 やばい、電波障害だ。このままここに居るのは危険だ。可及的速やかに、この被爆区域から離脱しなければならない。さぁ皆さんご一緒に。
『玖音。落ち着いて下さい。そんなだらしない顔では、百年の恋も冷めてしまいますよ?』
 クスクスと笑いながら、『月詠』が頭の中で言うのが聞こえた。
 そ、そうだ。こんな時こそ冷静にだ。
 穴熊囲いより、四間飛車。守りよりも攻めだ。
 よし……。
「美柚梨。水着とは本来体の一部を隠す物であり、突き詰めていけば弱点を補強する防具にも通ずる。事の発端はローマのコロセッオであり、力の弱い者が技で相手を打ち負かすために、己のハゲ頭を磨き上げ、太陽光を乱反射させる事で目を眩ませたという。つまりワシントン条約とは動物愛護団体の陰謀に過ぎず、恵まれない子の募金と偽って私腹を肥やす七福神ヨロシク、最後には忘れ去られてしまう運命と言うわけだ」
「兄貴、言ってる事よく分かんないよ」
 うん。僕もサッパリ分からない。
『く、玖音。落ち着いて、落ち着いて』
「なに!? もうオチが付いてしまったのか!? まだボケてもいないのに!」
『いや……もう十分にボケボケです』
「あ、兄貴……?」
 いや分かってる、分かってるんだ美柚梨、『月詠』。
 僕は今、どうしようもなく混乱している。言う事なす事、全てが支離滅裂だ。酔っぱらいと小学生レベルの計算問題で勝負しても勝てる自信がない。
 こうなったら残された道はただ一つ。
 買い物自体を早く終わらせるしかない。
「コレが欲しいんだな」
 僕は美柚梨の持っていた水着をひったくると、全力疾走でレジへと向かった。

 帰り道。大通りに面した人通りの多い歩道。
 もう春先だというのに、外気は肌が切れるように冷たい。
 しかし今の火照った頭を冷ますには、このくらいで丁度よかった。
「えっへへー、兄貴ってばこーゆーのが趣味だったんだー。そっかそっかー」
 さっきから隣を歩いている美柚梨が幸せそうに顔を緩めている。
 どうやら買ってやった水着が相当気に入ったらしい。どんな物を買ったのか全く覚えていないが、美柚梨が幸せそうだからまぁ別にいいか……。
 僕は美柚梨の頭を撫でようかと手を伸ばし、
 って違う! そうじゃない!
 脳に直接シップ薬を塗り込められたかのように、もの凄い勢いで我に返った。我ながら最低の比喩センスだ。そう、最低のセンス!
 ――兄貴センスわるーい。
 僕が欲しかったのは、こういう反応じゃなかったのか!?
 美柚梨と距離を取るんじゃなかったのか!?
 今のヤバイ関係を打破するんじゃなかったのか!?
 ああくそ………またしても……。
 僕は額に手を添えて、頭を軽く左右に振る。
「兄貴ー、実はアタシからもプレゼントあるんだー。もうすぐ出来るから楽しみにしててねー」
 どうする。どうすればいい。どうすれば自然と距離を置く事が出来る?
「ホントはさ、クリスマスにあげる予定だったんだけど全然間に合わなくて」
 いっその事もう思い切り突き放すか? いや、しかしさすがにソレは……。今朝みたいな美柚梨の顔は見たくない。僕も無理せず、美柚梨も悲しまないで元の兄妹の関係に戻るには……。
「でもよかったよ。前みたいに一日で身長五センチも伸びるとかじゃなくてさ。あんときゃ兄貴の成長ピークまっただ中だったんだねー。いやー、参った参った」
 何かないか。何かあるはずなんだ。いや、絶対にある。
 考えろ。考えるんだ、玖音。距離を取るには……そう、僕と美柚梨の接点を無くす事だ。僕に出来て美柚梨には出来ない事。僕には出来なくて美柚梨には出来る事。ソレを探せばいい。
「ねぇ兄貴、聞いてっかい?」
 ハーフジャケットの袖口を引っ張られて、僕は思考を中断させられた。
「ん? あ、ああ。その水着、気に入ったか?」
 取りあえず適当に返す。
「もー、兄貴ってばエロいんだからー」
 手袋をした両手を口元に持って行き、美柚梨は意味ありげな含み笑いを漏らした。
 何だ? 何か変な事言ったか?
「そーだ兄貴。この前オープンしたばっかの温水プール知ってるんだー。今から一緒に行こっか」
 猫なで声で言いながら、美柚梨は僕の右腕を抱え込むようにして体を寄せて来る。
 その時、僕の頭に天啓の如く閃く物があった。
「……無理だ」
 自然と言葉が発せられる。
 美柚梨と距離を取ろうと、意識して出した言葉ではない。本当に無理だから無理だと言っただけだ。
「えー? なんでー?」
 やはり美柚梨が不満の声を上げてくる。しかしコレばかりはどうにもならない。
 どれだけおねだりされても一緒に行く事は出来ない。
「僕は泳げないんだよ。お前も知ってるだろ?」
 そう。そうなのだ。
 この年になってまだ、水に浮く事すら出来ない。全く情けない話だ。
 しかし、今はその事に心の底から感謝する。
「えー!? 兄貴ってば、まだカナヅチのままだったんザンスか!?」
 美柚梨が驚愕に目を見開いた。
「……悪かったな」
 僕は拗ねたように口を尖らせて顔を逸らす。
 あれは僕が芹沢の家に来て最初の夏だった。家の近くに大きな自然公園が出来たんだ。ソコに遊びに行った時、人工川で溺れそうになった美柚梨を助けようとして僕も溺れた。
 結局、親に助けられて事無きを得たが、あの時初めて自分が泳げない事を知った。学校のプールの授業は拷問のような物だったのを覚えている。
 まぁ、『朱雀』の『瞬足』を使えば水の上を走る事も出来るから、泳ぐ努力はしなかったわけだが、今はその判断が大正解だったと心底思える。
「そっかー、泳げないんだー」
 美柚梨は何か考え込むように、うーんと呻る。
 よし、これでいい。この調子で美柚梨との接点を無くしていけば、自然と距離が開いていくはずだ。
「じゃ、アタシが教えてあげよー!」
 ……は?
「いつもお兄様にはお世話になっておりますから、今日はその恩返しで御座いますわよ、オホホのホのホー」
「ちょ、待……」
 美柚梨は僕のジャケットを引っ張って今来た道を引き返そうとする。本当にこれからプールに行くつもりだ。
「お、お前、正気か? 大体用意も何もしてないだろ」
「でーぃじょーぅぶ。要る物は全部向こうでレンタルすりゃいいのだよ」
 くそぅ! 最近の世の中は便利すぎるぞ!
「さー、プールへ向けてしゅっぱーつ」
 断れ、断るんだ玖音! ここが正念場だぞ! このままズルズル行くのはマズい!
『そう思いつつも、妹想いの優しい優しいお兄さんは、結局断れないのでした』
「変なナレーション入れるなー!」
 『月詠』へのツッコミは、春晴れの大空に虚しく溶け込むだけだった。

 マズい……。本当にマズい……。
 新年度のスタートを明日に控えた日の昼下がり。
 僕は自室に一人で籠もり、精神を集中させるためにプロ棋士の棋譜に従って将棋の駒を進めていた。
 この局面でどうしてこの選択をしたのか。更なる良手はないのか。二十手先の盤面はどのような配置になっているのか。それらを丁寧に頭に思い描いて行く。
 実戦に置いては、戦術よりも戦略が勝負の明暗を分かつ。
 それが僕の持論だ。
 例え一つ一つは小さな力でも、組み合わせて使えばどんな強敵をも撃ち負かせる。持ち駒を出す順番さえ間違えなければ、勝機は必ず訪れる。
 だが勿論、例外もある。荒神冬摩のようにこちらの戦略に全て嵌った上でなお、強大な力で押し切ってしまうタイプ。
 そして、予定していた戦略を根底から覆してしまうタイプ。
 ――美柚梨のように。
「だ、ダメだ……」
 僕の震える手から、持っていた駒が盤面に落ちる。
「ダメだぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そしてちゃぶ台返しの要領で、盤面ごとひっくり返した。乾いた音を立てて、全ての駒が部屋中に散乱する。
 全く集中できない! あの光景が網膜に焼き付いて離れない! 他の事を考えられない! まともに睡眠もとれない! インポッスィブル!
『玖音……貴方最近キャラ違ってきてますよ?』
 『月詠』のツッコミに、僕は肩で荒く息をしながらベッドに座り込んだ。
「分かってる。分かってるんだ、そんな事は」
 悲しいくらいに。
 本当に男というのは悲しい生き物だ。
『まぁ、貴方の気持ちも分かりますよ。美柚梨さんって思ったより着痩せ……』
「言うなぁぁぁぁぁぁぁ!」
 思い切り叫んだ後、僕は枕に顔を埋めて南無妙法蓮華教を唱える。
 しかし、暗いの世界の中で読経しても気持ちは一向に静まる気配を見せない。それどころか視覚を遮断した事で、想像力に余計拍車が掛かる。
 「兄貴ー」と嬉しそうに手を振りながら泳いでいる美柚梨。僕の手を持ってバタ足のやり方を教える美柚梨。お手本に華麗なクロールを披露する美柚梨。そしてプールサイドから上がった美柚梨が身につけていた物は……。
「誰が買ったんだ、あんなモン!」
『貴方ですよ』
 目を血走らせて顔を上げた僕に、『月詠』が即ツッコミを入れる。
 そして僕はまた深い自己嫌悪に陥り、ベッドの上で脱力した。直後、鼻腔をくすぐる甘い匂い。
 これは――美柚梨の匂いだ。
 あれからも何度か、美柚梨は僕のベッドに潜り込んで来た。勿論追い出したが、すでに匂いが浸透してしまっている。いや、僕が美柚梨の匂いに敏感になっているだけかも知れない。
「修行の旅に出る」
 僕は短く言い切ると、確かな決意を胸に立ち上がった。
 このままでは距離を取るどころか、どんどん近くなって行く。やはり生半可な方法では駄目だ。ここは心を豪鬼にして、美柚梨から物理的な距離を取る。
『く、玖音、冷静になってください。塾や大学はどうするんですか?』
「帰ってきた時に、『精神干渉』で他の奴らの記憶を書き換えれば問題ない」
『ほ、本気ですか?』
「僕はいつでも本気だ」
 僕の意志が揺るぎ無い事を知ったのか、『月詠』はそのまま押し黙った。
 そして旅の準備をしようとクローゼットを開けた時、沈んだ声で再び話し掛けてくる。
『……じゃあ、美柚梨さんにも私の能力を使うつもりですか?』
「う……」
 思わず返す言葉に詰まった。
 いや、考えるまでもないではないか。
 それは出来ない。それだけは駄目だ。美柚梨を使役神と関わらせる事は出来ない。美柚梨をあんな危険な目に遭わせるわけには行かない。
『いいんですか? 貴方が居なくなったら、美柚梨さん……きっと悲しみますよ?』
 『月詠』の追い打ちに早くも決意がぐらつき始めた。
「い、いいんだ!」
 僕は心を豪鬼にしたんだ。やると言ったらやる! 絶対に美柚梨と距離を取る! 取ってみせる!
 心の中で何度も繰り返しながら、僕は最低限の衣類をショルダーリュックに詰め終える。そして霊刀『夜叉鴉』を入れたスポーツバッグを肩に掛けた時、机の上に置いていた携帯から単調なビープ音が流れた。
 嫌な予感……。
 恐る恐るディスプレイを見てみると、着信の相手は美柚梨だった。
 出るべきではない。今、出てしまえば決意が崩壊する恐れもある。それに美柚梨から掛かって来たという事は、アイツは今外に居るという事だ。朝ご飯を食べたきり姿を見ないと思っていたら、出かけていたのか。
 これはまたとないチャンスだ。出かける前に美柚梨の顔を見て、気が変わる事もない。このまま携帯を置いて出かけてしまえば、すべは丸く収まる。そう、このまま着信を無視して……。
「もしもし」
 気が付くと僕は電話に出ていた。
 ああ……もぅ。
『あ、兄貴? アタシー、美柚梨ー』
 手の平サイズの小さな機械を通じて、美柚梨が目の前にいるかの如く鮮明な声が聞こえてくる。本当に最近の世の中は便利すぎる。
『さて問題です。アタシは今どこに居るでしょうか』
 美柚梨の声の後ろから、水の流れる音が聞こえて来た。微かではあるが、葉と葉が擦れ合うような音もする。
「……ヒントは?」
『ヒント? ヒントはねー。兄貴とアタシの最初の思い出の場所』
 なら、決まりだな。
『そこでプレゼント用意して待ってるからなー。早く来いよー』
 一方的に言い終えると、美柚梨は携帯を切った。
 ……どうしよう。
 行くべきか。行かざるべきか。
 理性に従うべきか。本能に従うべきか。
 理性は『行け』と言っている。本能も『行け』と言っている。
「…………」
 ……あれ? 選択の余地無し?
「こ、これが最後だ。本当に最後だからなっ」
 僕は自分に言い聞かせるように言って部屋を出た。
 頭の中で『月詠』の小さな笑いが聞こえた。

 家から歩いて二十分程の場所にある自然公園。
 ちょっとした競技場ほどの広さを持つこの公園は、囲いが木製の柵だけで構成され、それが巨大な長方形を描いている。入り口は四つの辺のほぼ中央に設けられ、レンガの敷き詰められた道が中へと誘ってくれた。
 山林エリア、河原エリア、草原エリアの三つに大別され、各エリアに合った動植物や昆虫を見る事が出来、一度に色んな自然の風景の体感できるのが特徴だ。
 入場無料という事もあり、都会の中のオアシスとして近くの住民達に愛用されていた。僕の散歩コースの一つでもある。
「思い出の場所、ね……」
 ハーフジャケットのポケットに両手を入れ、美柚梨の編んでくれたマフラーに顔を半分埋めながら僕は河原エリアを目指して歩く。
 あれは美柚梨が小学一年生、僕が六年生の時だ。
 両親に連れられて、僕達はこの自然公園を堪能していた。それまで真田家の座敷牢に閉じ込められていた僕には、見る物、聞く物、触れる物、全てが新鮮だった。僕は美柚梨と二人ではしゃぎ、追い掛けゴッコをしながら河原エリアまで来た。
 そこにあったのは丸い石の敷き詰められた、大きな人工川。水は澄み渡り、川底で揺らめく藻の動きまでもはっきり見る事が出来た。周りには背の低い草が生い茂っており、そこに寝そべって川の流れを飽きもせずにじっと眺めていた。
 しばらくして、僕達は水の上をスイスイと動くアメンボを見つけた。好奇心に駆られ、美柚梨と二人でアメンボを追って川の上流の方に行った。川幅はどんどん狭くなり、アメンボは僕達の手の届く距離まで近づいて来た。
 美柚梨はアメンボを捕まえようと、短い手を精一杯伸ばした。
 あともう少しで手が届きそうになった時、アメンボは美柚梨の手から逃げるように移動した。美柚梨は反射的に逃げたアメンボの方へと顔を向けた。
 しかし無理な体勢から顔を動かしたために、大きくバランスを崩し、美柚梨は足を滑らせて川の中に落ちた。
 上流の方の川は狭く、そして深くなっていた。
 美柚梨は川底に足が着かず、手を無茶苦茶に振り回して泣き叫んだ。
 僕は何も考えずに川に飛び込んだ。服が水を吸い、重くなった体は言う事を聞かず、川底に足は着かなかった。
 それでも美柚梨だけはなんとか抱きかかえ、川縁目指して必死に手を動かした。
 だが、全く前に進まなかった。『月詠』が何か言ってくれていた気がするが、そんな物を聞いている余裕はなかった。
 口から大量の水を飲み込み、意識が遠のきかけた時、父親が飛び込んで助けてくれた。美柚梨は恐怖から解放された安心感で泣きじゃくった。僕はなんとか堪えたが、その日は神経が高ぶって眠れなかった。そして自分が泳げないのだと言う事を、悲しいまでに自覚した。
 あれ以来、川の上流域には柵が設けられた。
 僕達が事故にあった時は、まだ夏だった事が幸いした。もし冬の寒い時期だったら、心臓麻痺で死んでいてもおかしくはなかった。
 まぁ、今となっては苦くも懐かしい思い出だが。
 恐らく美柚梨はその場所で待っているのだろう。そこでプレゼントとやらを受け取ったら終わりだ。その足で僕は修行の旅に出る。しばらくは美柚梨ともお別れだ。
 澄んだ水の流れる人工川に沿って、僕は上流を目指す。
 昔はもっと大きく見えたこの川も、今では驚くほどに小さい。これでは溺れろと言う方が無理だ。
「ん?」
 足下の草を踏みしめながら歩いていた僕の足が止まる。
「な――」
 そして驚愕に目を見開いた。
「美柚梨!」
 確かに美柚梨はソコにいた。
 上流域に設けられた柵にロープの様な物を結びつけ、それを持って川の方に大きく身を乗り出した美柚梨が。
「何やってんだお前!」
「あ、兄……!」
 僕の方を見た美柚梨の顔が固まる。
「おわぁ!」
 その拍子にバランスを崩し、美柚梨は派手な音を立てて川の中へと呑み込まれた。
「っのバカ!」
 僕は一瞬にして『瞬足』に乗り、川の上を駆けて最短距離で美柚梨に近づく。そして美柚梨の手を掴み上げ、靴の底を力一杯水面に叩き付けた。コンクリートを踏み抜いたような衝撃が足に掛かり、その反動で一気に跳躍する。そして川縁に着地したところで、美柚梨を草むらの上に下ろした。
「ふっわ……スゲー、兄貴……」
 紅い髪の毛から水を滴らせながら、美柚梨は呆けたように呟く。
「何やってんだ! 何のために柵が出来たと思ってんだ!」
 アレは僕達のしたような失敗を、他の人がしないために作られた物。それなのに当の本人がもう一度同じ失敗をしてどうする!
「……ごめん、なさい」
 美柚梨は僕の怒鳴り声に項垂れ、元気のない声で言った。
「もぅいいから、じっとしてろ」
 とにかく今は美柚梨の体を温めるのが先だ。春先と言っても水温はまだ低い。このまま、服が濡れた状態で居るのは危険だ。
 僕は両手を美柚梨の体から少し離れたところで固定させ、力を込めた。
「あ、あったかい……」
 『朱雀』の『火焔』の出力を可能な限り落として暖気を生み出す。調整は難しいが、今はそんな事を言っている場合ではない。服を焦がさないように気を付けながら、僕は両手に神経を集中させた。
「こんな事出来るなんて……やっぱ兄貴は凄いね」
 美柚梨は余り驚く事なく、僕のする事に身を任せている。
 美柚梨はすでにこの前の一件で『月詠』の事や、使役神の事もある程度知ってしまっている。だからこそ、出来るだけ美柚梨の前でこの力は使わないでおこうと思っていた。巻き込まないように気を遣っていたつもりだった。
 なのに……。
「兄貴ぃ……」
 美柚梨が恐る恐る話し掛けて来る。
「あの、怒っ、た……?」
「当たり前だろ」
 僕が美柚梨のそばにいてやれば、こんな事にならずに済んだ。こんな力を使わずに済んだ。
「ごめん……」
 やはりそれしかないのか。僕がそばに居て、守ってやるしか。
「もぅ、あんまり心配させるなよ」
 距離がどうのとか言ってる場合ではない。
 美柚梨は僕の大切な存在。僕の存在意義そのもの。照れや恥じらいで遠慮して、危ない目に遭わせるわけには行かない。
「美柚梨……」
 僕が決意して口を開いた時、下の方から何かの鳴き声が聞こえた。
 声のした方を見ると、まだ眼も開ききっていない雛鳥が一羽、美柚梨の膝の上で鳴いている。
「いや、その……兄貴待ってたら、コイツが木の上から落ちて来て、さ。それで、助けようと……」
 見上げると、確かに川の真上に覆い被さるようにして、川縁から太い枝が伸びていた。あそこのどこかにこの雛鳥の巣があるのだろう。雛鳥は美柚梨の膝の上を自分の巣だと勘違いしているのか、小さなくちばしを上に向けてしきりに動かし、エサの催促をしてくる。
「コイツを、守ってやろうとした訳か……」
 親鳥は一度巣から落ちてしまった雛鳥は見捨ててしまい、助けには来ない。たがら美柚梨が助けた。なら、その美柚梨を助けるのは僕の役割だ。
「優しいのは良いけど、あんまり無茶するなよ。今度何かあったらすぐに僕を呼ぶんだ。いいな」
「うんっ」
 美柚梨は屈託のない笑顔を僕に向ける。
 やれやれ……これで距離を取るなど有り得ない話になってしまった。やはりどうにも美柚梨には通じないな。僕の戦略は。
 内心苦笑しながら、僕は美柚梨から手を離す。もう殆ど乾いたはずだ。
「それにしても、よくロープなんか転がってたな」
 僕は言いながら柵の方を見た。そこには美柚梨が体を支えるために使っていたロープがくくりつけられている。
 ……ん? ロープじゃない?
 よく見ると妙な形をしていた。
「あ、ちょ、ちょっとタンマ! コレはね、コレは違うの!」
 美柚梨は雛鳥を手に持って立ち上がると、慌てて柵に駆け寄った。そしてくくりつけていた物を外し、体の後ろに隠す。
 今ハッキリと見えた。あれは……。
「ソレってひょっとして、例のプレゼントか?」
 美柚梨が隠した物。それは毛糸のセーターだった。恐らくは手編みの。柄が以前にくれたマフラーと全く同じだった。
「いや、えーっと、その……」
 美柚梨は気まずそうに視線を逸らす。
「も、もーちょっち待ってて貰っていっかなー、プレゼント渡すの。多分、今年のクリスマスまでにはなんとか……」
「ソレはダメなのか?」
「だ、だって……」
 美柚梨は隠していたセーターを、申し訳なさそうに前に出した。
 緑と白のチェック地で編まれたセーターは、両方の袖が不自然に長くなっている。
「こんなになっちゃったんだもん……」
 雛鳥を助けるためのロープ代わりにしたせいで、伸びきってしまったのだろう。
「で、でも大丈夫だよ。セーターはもう何回も編んでるから、絶対にクリスマスまでには間に合わせてみせるから!」
 美柚梨はセーターをぎゅっと握りしめながら、必死の顔になって叫ぶ。
「何回も?」
 父さんや母さんに編んでいたのか?
「……うん。小学生の時から兄貴にあげようと思って編んでたんだけど……」
「失敗し続けたって訳か」
「ち、違うモン!」
 少し笑いながら言った僕の意地悪なコメントに、美柚梨は顔を真っ赤にして反論した。
「兄貴がすぐにデッカクなるから悪いんじゃないかー! アタシ編むの遅いから、出来た時にはサイズが全然違っちゃってるんだよ! 全部兄貴が悪いんだー!」
 恥ずかしそうな怒ったような顔つきで、美柚梨は一気にまくし立てる。
「そっか。悪かったな」
 僕は微笑しながら歩み寄り、美柚梨が力一杯握りしめているセーターをそっと持ち上げた。
「じゃ、これで丁度良いんじゃないか? またすぐに大きくなって、コレがピッタリになるさ」
 美柚梨の頭を優しく撫でてやりながら、僕はセーターを受け取る。そしてジャケットを脱いで美柚梨に着せ、伸びきったセーターに袖を通した。
「兄貴……」
「お、あったかいじゃないか。手が出ないから手袋もいらないな」
 ははは、と笑いながら僕は両手を広げて、美柚梨にセーターの出来映えを見せる。
 うん、袖の長さ以外はピッタリだ。
「大好き……」
 美柚梨は小さな声で言いながら、僕の胸に飛び込んできた。そして背中に手を回して、僕の体を抱き寄せる。
「ここで溺れて助けてくれた時から、兄貴の事ずっと好きだったけど。今はあの時とは比べ物になんないくらいに大好きっ」
「そ、そうか……」
 顔を上げて大きな瞳を潤ませ、はっきりと言ってくる美柚梨から僕は堪らず顔を逸らした。
 あー、くそ……。可愛いじゃないか……。
 もうダメだな、これは。距離を取るどころか、逆に縮まってしまった。せっかく『月詠』に貰った助言が台無しだ。
『そんな事ありませんよ。ちゃんと私の計画通りに事は運びました』
 頭の中で『月詠』の声がする。
 どういう事だ?
『貴方は本当は美柚梨さんの事が大好きなのに、なかなかそれを認めたがらない。けど一度距離を取ろうとして分かったはずです。貴方の中で美柚梨さんの存在がどれほど大きいかが。距離なんて取れないという事が』
 ま、まぁ、確かに、な……。
『貴方が本当に距離を取ってしまったら、私が方向修正しようと思っていましたが、その必要も無かったみたいですね』
 クスクスと『月詠』が頭の中で笑う。
『お二人とも本当にお似合いですよ。貴方の相手が美柚梨さんなら、私は素直に身を引きます。ま、他の女性に浮気するのでしたら、全力で邪魔させていただきますが』
 色んな意味で恐い事をさらりと言う『月詠』。
 くそ……。僕は美柚梨にも『月詠』にも頭が上がらないのか。
「にへへー、兄貴スキー」
 僕の体に頬をすり寄せながら幸せそうに言う美柚梨を見て、まぁそれも悪くないかと思ってしまう今日この頃だった。

 僕の記憶が確かなら、ベッドの布団はこんなに盛り上がっていなかったはずだ。
 塾の深夜特訓を終え、まだ起きてくれていた母さんと少し話した後、僕は軽くシャワーを浴びて自室に戻った。あとは布団に入って寝るだけだった。
 しかし、自室の様子が塾に行く前と明らかに異なっていた。
「まさか……」
 僕は恐る恐るベッドに近付き、布団を捲り上げる。
 盛り上がりの原因は、予想通り美柚梨だった。
 フリル付きの可愛らしいパジャマを着て、くーくーと安らかな寝息を立てている。
『玖音、これはチャンスですよ』
 『月詠』が危ない助言をしてくる。
 勿論却下だ。
「おい、美柚……」
「兄貴ー」
 声を掛けて起こそうとした時、美柚梨は寝返りを打って僕を呼んだ。一瞬起きたのかと思ったが寝言らしい。
 ……まったく、しょうがないな。
 こんなに気持ちよさそうに寝られると、起こすのも気が引ける。
 今夜はリビングのソファーで寝るかと部屋を出ようとした時、
「兄貴ぃー」
 美柚梨がまた寝言で僕を呼んだ。
「そんなに引っ張ったら伸びちゃうよー」
 やれやれ、僕にくれたセーターの夢でも見てるのか?
「紐ビキニなんだから乱暴にしちゃダメー」
「美柚梨ぃぃぃぃぃ! 起きろ! 起きてくれ! 僕はそんな変態じゃないぞおおぉぉぉぉ!」
『あらあら。美柚梨さんの夢の中では随分と積極的なんですね』
 この先、僕は美柚梨と『月詠』に振り回される運命なのだろうか……。
 出窓に置かれた鳥かごの中から、美柚梨が助けた雛鳥がピーと甲高い声で一鳴きする。
 なに? それも悪くないって?
 そうか、お前もそう思うか。

 【終】





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