ロスト・チルドレン〜Slaves of the Nightmare〜

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Inner Space #4.
Dark Quarter 5th Street. Secret Shelter.
2nd floor in underground.
Life Space Block. Private Room.
PM 4:26
View point in ユティス=リーマルシャウト.

 爆炎が上がる。怒濤の如き圧倒的な火力が、何人もの兵士を呑み込んでいった。悲鳴を上げる暇もなく、彼らは消し炭と化して絶命する。その死を無表情のまま黙って見届けているのは、まだ年端もいかない少女。
『ギャアァァァァ!』
 カメラの視点が遠くで上がった悲鳴に反応して切り替わった。ゆっくりと右の方へとスライドしていく視界が映し出したのは、いびつな方向に腕をねじ曲げられている別の兵士。その前には虚ろな表情をした少年。兵士は両腕の関節をあり得ない方向にねじ曲げられ、悶絶していた。直後、今度は首の関節を半回転させられ、声を出すことも出来ずに最期を迎える。
『死ねぇ! このクソガキ共!』
 再び、カメラの視点が切り替わる。ショットガンを携えた数名の兵士が、小柄で華奢な少女に向かって怒声を浴びせながら、戸惑うことなく引き金を引いた。
 全身にくまなく穴を開けられ、無数の小さな傷口から血を噴水のように吹き出して絶命したのは、兵士達の方だった。
「…………」
 俺は目の前で繰り広げられる惨劇の映像を、暗い自室で見入っていた。
 兵士達が撤退していく。しかし、それに追撃をかける者はいない。
『くそっ! もうスクラップかよ!』
 今度は随分と近くで声がした。どうやら、この映像を撮影している者の声のようだ。
 映像は最後に地面に倒れていく数名の子供達を映し、そこでダークアウトした。
「ロスト・チルドレン、ね――」
 独り言のようにそう言い、手元にあったリモコンで中空に浮かんだ半透明の黒いモニターを消す。音と光が消え、俺は金属で囲まれた無機質な自室の中央に取り残された。
 陰鬱な気分だ。どれだけハードコアな非日常を見ても、体の中で澱(おり)のように淀んだどす黒い腐敗物はいまだに異臭を放ち続けている。
「……ヤルか」
 短く言ってソファーから立ち上がった。ベッドの横の金属壁に張り付いてるタッチパネルを決められた動きで数回叩く。
 かちゃ、という小さな音と共に壁が開き、小さな空間がポッカリと空いた。中にあったアンプルと注射器を取り出す。アンプルの先をへし折って中身を注射器で吸い出すと、左手の浮き出た血管に突き刺し、ゆっくりとシリンジを押し込んだ。
「う、はぁ……あ、あ……」
 効果はすぐに現れた。この『グレムリン・サーカス』は即効性のアッパー系麻薬だ。
「――!」
 世界が揺れ始めた。直線は曲線に、曲線は波となって、視界に映る物質の輪郭をおぼろげにしていく。皮膚を剥がれ体組織に直接、香草を塗り込められたかのように、体温が一気に低下していく錯覚に襲われた。
 体中の感覚が麻痺し、俺はそのままベッドに倒れ込む。次の瞬間、下腹部に熱い塊が生まれた。それはマグマの如き灼熱を帯び、ゆっくりと上に移動していく。さっきまで俺の中でくすぶっていた澱(おり)が一瞬で昇華していった。
 同時に、狂気という名の毒物が体中を蹂躙し始める。意識が遠のき、理性が駆逐されていく。日頃の憂慮や鬱屈が、取るに足らない雑事のように思えてきた。
「っはぁ!」
 体内で生じた人工太陽が喉を駆け上がり、体外へと排出される。理性という檻から解放された本能が、渇望していた自由を手に入れ、一瞬で俺の思考を呑み込んでいった。
 そして――世界が変わった。
 全身の感覚が異常に研ぎ澄まされる。この世の有りとあらゆる仕組みが映像となって、次々に頭の中で構築されていった。思考などまるで追いつかない。感じることしかできない。
 疑問はわかない。理由も必要ない。ソレはそうであることが当然であり、必然であるのだ。この世の存在事象に無駄な物など1つもない。すべてが繋がっている。
 音が見え、色が聞こえた。非常識が常識に、異常が正常に塗り替えられていく。
「ククククク……」
 視界が動いた。俺は歩いているのか?
 気が付くと、目の前に誰かが居た。
 手入れのされていない長い黒髪。薄く開いた目は紅く、不気味な笑みを浮かべるその容貌は荒(すさ)みきっていた。
「お前は何がしたい? 何が欲しいんだ?」
 俺がそう言うと、眼前の長身痩躯の男も全く同じ口の動きをした。
「言ってみろよ! この意気地無しが!」
 そいつに向かって拳を繰り出す。相手の顔が割れ、朱に染まった。だが、そいつは薄ら笑いを浮かべたままだ。
 拳をもう一度振りかぶろうとした時、突然言いようのない悪寒が背中を走り抜けた。続いて黒い蟲が全身の穴と言う穴から這い出てくるような、おぞましい感覚に襲われる。
「くそ! もう終わりか!」
 始まった。甚大な多幸感からの引き戻し。バッドトリップ。
 この薬を初めて使ったのは12歳の時だ。体の耐性も相当強くなってしまっている。
「まぁ、いい……」
 俺は目の前の割れた鏡と、裂けた自分の拳を見ながら、少し自嘲気味に笑みを浮かべた。
 最近はこのバッドトリップも楽しめることが分かってきた。

『ねぇ、ユティス。ママの事、好き?』
 来た。あの忌々しい声だ。ウンザリだ。虫酸が走る。

『ユティス。ママのご飯、パパにもちゃんと残しておいてくれよ?』
 クソが。こんなブタの飯なんざ全部くれてやる。

『ごめんね、ユティス。ママ、仕事が忙しくて遊んであげられないの』
 気にするな。俺は一人で大丈夫。だからその薄汚いツラを向こうへやれ。

『ユティス、お前は優秀な研究者だった私の父をどう思う?』
 ゲスの親はゲス。くだらないことを聞くなよ。

『ユティス……もう、昔みたいに仲良くできないの?』
 勝手なことを! こうなったのはお前らが原因だろうが!

『ユティス、貴様はもう私の子供ではない』
 やめろ。

『ユティス、もう戻れないのね……』
 やめろ、やめろ、やめろ。

『ユティス、お前は救いのようない奴だ』
 やめろヤメロやめろヤメロやめろヤメロやめろぉぉぉぉ!

「がああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 悪夢からの覚醒は自分の絶叫。昔から相場は決まっている。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 荒く息をしているのが自分だと気付くのに数分かかった。心臓の音が耳元で聞こえる。早くなった血流が強く脈打ち、俺の体を揺さぶった。
 汗で張り付いた長く黒い髪を、裂けていない左手でかき上げながら、俺は壁に掛けられているダーツの的に視線をやった。そこには、一枚の写真が何本ものダーツで縫いつけられてある。
 俺がガキの頃の写真。昔は両隣に人間が居たが、今は顔も体も黒く塗りつぶされて、誰だかを判別することは出来ない。
「俺は生まれたときから一人だ」
 俺に親は居ない。俺はずっと一人でやってきた。そして、これからもずっと一人だ。
 そっちの方が気楽でいい。面倒くさい物を背負い込まずにすむ。
 気ままに飯を食って、気ままに女を抱いて、気ままに薬をキメる。それの繰り返し。ボロクズみたいな未来だ。サイコーだね。ウンザリする。
「ロスト・チルドレン……」
 さっきの映像に出てきた、虚ろな目をした子供達。
 戦うために生まれた意志を持たない存在。
 この地下研究所でジュレオンが生み出した対政府軍用の超兵器。
「あいつらよりは、ましか……」
 そう呟き、口の端に小さく笑みを浮かべると、俺はシャワールームに向かった。
 
――Lost Children〜Slaves of the Nightmare〜――
Welcome to crazy world...

「よぅ! ユティス! 相変わらずしけたツラしてやがんな!」
 俺が食堂で少し早い目の夕食を取っていると、背中から野太い声が名前を呼んだ。白を基調にした清潔感溢れる空間に、汚物が進入してくる。視界の隅の観葉植物が悲鳴を上げているように見えた。
 ふぅ、と小さく溜息をつき、首だけを後ろに向ける。そこにいたのは予想通りの人物。
「ゴル……頼むから大声で名前を呼ぶのはやめてくれ。恥ずかしい」
 片手を目元に当て、半眼になりながら俺は不満の声を上げた。スパゲッティーの皿にフォークを置き、丸く白いテーブルに肘を突く。
「まー、そう言うなよ! 別に人もいねーしよ!」
 言いながらゴルは、無精ひげの伸びきった浅黒い顔を俺の方に近づけてきた。そして筋肉質の発達した太い腕を肩に回してくる。
「おっ、その拳どうしたんだよ。怪我してるのか?」
 ゴルは俺の右拳に巻かれた包帯を指さしながらそう言った。
「チキン野郎に噛み付かれただけだ、気にするな」
 右手を隠すようにポケットに突っ込む。
「で、何のようだ?」
 すっかり食欲の無くなった俺は、椅子を回転させゴルの方に向き直った。
 そこには二メートル近い身長を持つ大男が、人なつっこい笑みを浮かべていた。例えるなら愛想の良いクマ、と言った感じだ。
「いや、用はねぇ」
 ゴルは真顔に戻ると、俺にそう言った。
 コレだから筋肉バカは……。
 俺は黙って席を立つ。
「ま、待てって! 冗談だよ、冗談! お前に用事があったんだ、ほら、えーっと、なんだ、……そうだ! バイオドール!」
 バイオドール、の前に余計な単語がいくつかあったようだが。
「それがどうかしたのか?」
「いまいちあいつらのこと良くわかんねぇんだよ。一応、俺達テロ組織の主戦力として活躍してくれてる奴らだからよ、ちゃんと理解しておきてーんだよ」
「で?」
 ゴルが俺に何を求めているかは分かったが、あえて聞いてみた。
「今から培養室で詳しく教えてくれねぇか?」
 ウンザリだ……。
「俺がお前に教えるの、コレで何回目だ?」
 頭上にあるゴルの顔を見上げながら、俺は半眼になってそう聞いた。
「えーっと、3回目、くらいか?」
「1桁目はソレで合ってるな」
 申し訳なさそうに言い淀むゴルに、俺は容赦なく追い打ちをかける。
「授業料、3000ベルグだ」

「バイオドールってのは、いわば人工生命体だ。ジュレオンが発明したミクロチップと、全能性細胞を融合させた人工受精卵を、母胎の代わりとなるウテラス・シールに着床させた後、この無菌リアクターの中で培養して創られる」
 研究棟の培養室の中。かなり地位の高い者にしか入室を許可されないこの部屋で、俺は壁沿いに並べられた10数本のリアクターを軽く叩きながらゴルに13回目の説明をした。
 ゴルの顔色が悪いのは、青白い光で満たされたこの部屋のせいだと願いたい。
「ミクロチップは生体金属から出来た分化司令塔だ。プログラミングされた命令に従って細胞増殖とアポートシスを繰り返し、わずか1週間で胎児を形成する。ミクロチップはそのまま脳の前身となり、自らを分解して金属元素をとばす。それによってシグナル伝達を助長することで急速なシナプスの形成を促すわけだ」
 ゴルの目から光が消えた様な気がした。
「その後、外部チューブと連結されたウテラス・シールから3次構造を改変したタンパク質と、30種類の特殊アミノ酸、それに電子スピンを超多重共鳴させて活性を強化した金属イオンが供給され、胎児は約1年で成体になる。人間の年齢で言うと大体6歳児くらいだな」
 ゴルの口から泡が出ている。どうやら限界のようだ。
 俺はヤレヤレと額に手をやって頭を振ると、ゴルの後頭部を常備しているハンドガンのグリップで思い切り殴りつけた。
「ぐぉ!」
 ゴッ、という低い音と共に形のいいスキンヘッドが前方に大きく揺れる。
「授業中に寝てんなよ、タコ」
「ううー、ひでーことしやがんなー」
 後頭部を痛そうにさすりながらゴルは涙目になって俺の方を見た。
「えーっと、だな。つまり、だ。バイオドールってのは……」
 ゴルは視線を上げて、しばらく考えた後、
「バイオな人形って事だなっ」
 爽やかな笑みを浮かべてそう言った。
「……ああ、その通りだ」
 もう何も言う気になれない。
「けどよー、こいつら本当に俺達そっくりだよなー。言われないとわかんないぜ」
 言いながら、ゴルはリアクターの中で成長を続けているバイオドールをまじまじと見つめた。
「馬鹿言うな。こいつら木偶と俺達人間は全く違う」
 俺は少し苛立ちながら息を吐いた。
 外部チューブから供給される栄養で育つ、その人工生命体は、まるで子供が眠っているようだった。
 無垢で安らかな寝顔。外見だけは俺達と全く同じ。しかし本質は全く違う。
「こいつらはな、空っぽなんだよ」
「カラッポ? なにが?」
 リアクターから視線を外し、俺の方に向き直ってゴルは不思議そうな顔をした。
「さっきも言ったろ? こいつらはたった1年ちょっとで6歳児並のでかさになる。だが、当然精神面はそれに追いつかない。本来俺達が6年間かけて培う、知識や知恵、記憶や感情といったものがこいつらには無いのさ。
 その後も、手術や薬で俺達の3、4倍の早さで強制的に成長させられるから、遅れを取り戻す機会すら与えてもらえない。哀れなもんさ」
 大げさに肩をすくめて、おどけてみせる。ゴルは俺の言葉を聞いた後、何か考えるように天井に視線をやった。
「けどよ。俺が知ってるバイオドールは結構、愛想良いぜ?」
「それは人工的に刷り込まれた感情だ。お前が見たのはかなり適合したタイプなんだろ。普通は話しかけても条件反射みたいな答えしか返ってこない」
 ゴルはそれを聞いて更に視線を上げ、そして首を傾げる。
「あのよー、俺ぁ、こんな事言いたく無いんだが……何でわざわざそんな事するんだ? 兵士に感情なんて必要なのか?」
 コイツは……何年ジュレオンの研究を見てきたんだ……。
「兵士にするために感情がいるんだよ。出来のいいロスト・チルドレンを創るためにな」
 苛立ちを隠すこともせず、侮蔑の意を込めてゴルにそう言ってやる。しかしゴルは俺の言葉を聞いても何も反応せず、ただ中空に視線を投げたしたまま首を傾げ続けていた。
 ダメだ……この筋肉バカにこれ以上詰め込んだら、カリカリのトーストみたいに頭が黒焦げになっちまう。 
「なぁゴル……お前はこの研究をどう思う」
 俺は質問に答えるのが面倒くさくなって、逆に質問してやった。
「どうっ、て?」
「ジュレオンやアミーナは、この研究を『悪魔の行為』と罵られて政府の研究機関から追放された。俺はそれが正しいと思っている。こんな研究、スラムの掃き溜めほどの価値もない」
 そんな事よりも、あいつらには他にするべき事があったはずだ。
「ユティス」
 ゴルはいつになく真剣な眼差しで俺の方を見ていた。
 リアクターから離れ、俺の前まで来る。
「自分の父親と母親をそんな風に呼ぶもんじゃない」
「チッ」
 俺はそのゴルの視線に耐えきれずに目をそらした。
 ジュレオン=リーマルシャウトは俺の父親。優秀な研究者だ。だが溢れすぎるその才気は己を焼いた。
 絶対的な階級制度により生まれた差別が引き金となり、勃発した死滅戦争。
 それによって土地の大半が死んだこの世界で、バイオドールの生産はまさに画期的だった。ジュレオンはこの技術を使い、人で溢れた世界を再構築しようと考えていた。しかし、政府の反応は冷たかった。
 彼らは再び差別が起こることを懸念したのだ。バイオドールだと言うだけで必ず奴隷のように扱う人間が出てくる。そして、そういった諍(いさか)いはいずれまた大きな戦禍に発達してしまう。
 結局『悪魔の行為』という負の烙印を押され、二度とそんな研究をする者が現れないための見せしめとして、ジュレオンとその助手だった妻のアミーナは追放された。
「ユティス、お前ももう17だ。そろそろ、許してやっても良いんじゃねーのか」
 俺の頭に、巨大な手を置きながらゴルは優しい口調で言った。
「イヤダね。あんなクズ共。地獄に堕ちろっ」
 ゴルの手を振り払うと俺は金属の床に唾を吐いた。
 当時俺がまだ7歳だった頃、ジュレオンとアミーナはこのテロ組織にスカウトされた。政府の元関係者。それだけで優遇された。そしてそれ以上に、ジュレオンの持ち込んだ研究データは、兵力の不足していたテロ組織にしてみれば喉から手が出るほど欲しい技術だった。
「あの二人も別に悪気があった訳じゃないだろ?」
「『悪気があった訳じゃない』? ずいぶんと知った風な口聞くじゃないか、ゴル。そう言えば何をしても許されると思っているのか?」
 二人の研究は、ここに来て更に進められた。ジュレオンが政府にいた頃に行っていた研究はバイオドールにとどまらなかった。
 アイツは新兵器を極秘で研究していたんだ。常識を覆すような新兵器、ロスト・チルドレンを。
「ユティス……お前の気持ちは俺にもよく分かる。俺はお前の世話役だったからな」
「ハッ! 俺をよく分かった奴が言うようなセリフじゃないな。お前は何も分かってない! だからそんな綺麗事が言えるんだ!」
 二人は研究に没頭した。そして、俺はいつも一人だった……。
「俺はあいつらを絶対に許さない。特にジュレオンのクソッタレだけは絶対にだ!」
「ユティス……」
 ゴルが悲しそうな目を俺に向ける。
 同情の視線だ。ウンザリする。そのたぐいの視線は今まで掃いて捨てるほど見てきた。
「どいつも、こいつも、最初は『お前の気持ちはよく分かる』だ。そして次には必ず『けどな……』が続く! 結局はジュレオンの研究成果が一番大事なんだ。偽善者面下げて心配されるくらいなら、いっそのこと思いっきり突き放してくれた方がよっぽどましだ!」
 吐き捨てるようにそう言うと俺は培養室を飛び出た。
 そして、廊下に一歩踏み出したところで、胸を締め付ける激しい苦痛に襲われる。耳の奥でキィンという金属的な音がした。
「がっ、はっ……!」
 堪らず床に膝を突く。心臓が早鐘を打ち、体が異様な熱を帯びてくるのが分かった。目の前の景色がぼやける。頭痛と吐き気、脱力感が俺の体を襲った。
「があぁぁぁぁぁ!」
 まるで眼窩に直接、焼け火箸を差し込まれたような激痛。たださえ紅い視界が深紅に染まっていく。自分の悲鳴が、頭の中で反響して耳鳴りのように聞こえた。そして体が自分の意志とは関係なく激しい痙攣を始める。腹の中に巣喰った何かが、無理矢理這い出ようとする様なおぞましい感覚が全身を支配した。
「ユティス!」
 後ろからゴルの声が聞こえる。
「……い! ……しろ! ユ……ス! お……!」
 遠くの方からゴルの声が聞こえる。しかし、その声に何かを返す前に、俺の意識は途絶えた。

「う……」
 小さな痛みで俺は目を覚ました。
「くそっ」
 まだ、頭が少し痛む。気分も悪い。胸の痛みは大分おさまったみたいだが、吐き気は残っている。
「また発作か」
 俺は長い黒髪をクシャっと乱暴にかき上げながら、溜息をついた。
 最近、よく分からない発作に襲われる。特にさっきみたいに感情が昂ぶった時にだ。放っておけば治ると思っていたが、症状は日増しに悪化し始めている。
 培養室の前で俺を襲ったあの激痛は、以前にはなかったものだ。
「ここは……」
 辺りは真っ暗だったが、感触で俺がベッドに寝ていること、そしてこの嫌な薬の匂いから医務室に居ることは分かった。
「ユティス? 気が付いたの?」
 ベッドから這い出ようとしたとき、不意に名前を呼ばれた。
 綺麗なソプラノ・ボイス。俺が良く知っている声だ。
 部屋が明るく照らされる。飾り気のない白い部屋に押し込められた、10ほどのベッドに寝ていたのは俺だけだった。視線を出入り口の方に向ける。
 扉の側で照明のスイッチを押したのは、ジュレオンの妻だった。
 光に照らされ美しく輝く、長いブロンド。透き通るようなスカイブルーの瞳。均整のとれた体つきは、白衣を下から押し上げて見事なボディーラインを描いていた。とても、42の女性には見えない。
「チッ」
 俺は小さく舌打ちしてアミーナから視線を外した。
 何でここに……。あの状況からして俺はゴルに運ばれてきたんじゃ……。
 考えながら、俺はすぐに気付いた。
 あの筋肉バカ……余計な気回しやがって。
「心配したわ、ユティス。大丈夫? どこも痛いところ無い?」
 アミーナは心配そうな声を上げて俺の方に駆け寄る。
 ウンザリだ。虫酸が走る。
「うるさいな。俺なんかに構っている暇があれば、とっととジュレオンのところへでも行って研究の手伝いでもしたらどうだ」
 嫌悪感を露骨に含ませてそう言うと、俺はまだ痺れの残る体に鞭打って強引にベッドから這い出た。
「うぁっ……」
 床に足をつけ、立ち上がろうとした俺の体を強烈な目眩が襲う。脳が揺れ、遠近感が大きく狂った。前のめりになる体を支えようとするが、下半身が言うことを聞かない。
 ――倒れる!
 そう思ったとき、柔らかい感触が体を覆った。甘く、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「大丈夫? ユティス」
 俺がアミーナに支えられていると理解するまで数秒かかった。アミーナはその華奢な体で俺を必死に抱きかかえると、ゆっくりとベッドに寝かせてくれた。
「まだ寝てないとだめよ。ねっ」
 人差し指を立ててそう言う仕草は子供っぽかったが、それほど違和感は無かった。

『ユティス、恐い夢見たの? わかった。ママが一緒に寝てあげるわ。ねっ』

 なんだ! 今のは!
 何の前触れもなく脳裏に蘇った映像を、俺は頭を振ってかき消した。
「どうしたの? まだどこか痛む?」
 心配そうに俺の顔をのぞき込み、アミーナはさり気なく俺の手を握った。
 暖かい感触。それは俺が忘れかけていた何かを思い起こさせる。

『寒いの? じゃあ、こうしましょ。ほーら、あったかい』

「どけ!」
 俺はアミーナの手を振り払うと、力任せに彼女の肩を押しのけた。
「ユ、ユティス……」
 アミーナは俺の方を驚いた顔で見ていたが、すぐに悲しげな表情に変わる。彼女からの視線が俺の心に突き刺さった。とてもじゃないが目を合わせていられない。
 まるで心臓に杭を打ち込まれたような精神的苦痛。それが筋肉を収縮させ、物理性を伴った痛みへと変化する。
「すまない……一人にしてくれ……」
 俺は絞り出すような声でそう言った。それが今の俺に出来るすべてだった。
「……わかったわ。それじゃ、ゆっくり休んでね」
 アミーナの気配が俺から離れていく。俺は彼女を見ることが出来ず、ただ黙ってうつむいているしかなかった。

 大切な何かを徐々に失っていく。そんな空虚な感覚が俺の中に広がった。頭の一部が麻痺し、緩慢な変遷を経て腐敗していく。その異質な侵入者は、俺が壊れていくのをどこかで嘲り笑っているようだった。




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