モドル | ススム | モクジ

● 記憶の施術者 ◆第五話『告白! 運命の相手は貴女です!』◆ ●


刀w必要な記憶、不必要な記憶。必要な思い出、不必要な思い出。
  あったとしても、おかしくないのかもしれない』

 いない! どこにもいない!
 あの血色不良好な勘違いナルシストが! 枯れ枝体型の使いっパ軍人野郎が!
(クソ……!)
 しばく! 絶対にしばくって決めたのに!
 新幹線の改札を抜け、コンビニや軽食店の立ち並ぶコンコースを走り回りながら真夜はひたすらラミカフの姿を探し続けた。だが見付からない。
 まだそんなに遠くまでは行っていないはずなのに! この近くにいるはずなのに……!
(い、や……)
 足を止め、牛丼屋の横の壁に背中を預けて真夜は荒くなった呼吸を整える。
 今の自分の認識は改めなければならない。プラクティショナーの身体能力は人間よりも勝る。走る速さにしろ跳躍力にしろ、アリュセウですら自分より上なんだ。だったら彼よりも肉体的に成熟しているラミカフならば、もっと……。
(逃げ、られた……)
 やかましい呼吸音と心音を耳の奥で聞きながら、真夜はフードシャツの袖で汗を拭う。そこだけシミでもできたかのよう、べっとりと水気を吸った。
 コンコース内に冷房が効いているとはいえ、今の体には文字通り焼け石に水だ。嫌な湿り気が内側からどんどん溢れ出てくる。
(くそ……)
 もう一度シャツで汗を拭き取り、真夜は大きく息を吐きながら顔を上げた。僅かに熱が引き、激情に呑まれていた思考が戻り始める。
 とにかく、こうなってしまった以上しょうがない。相手を甘く見すぎていた自分にも落ち度はある。このまま闇雲に探し回っても踊らされるだけだ。
 なら今はアリュセウと合流しなければ。アイツの意見を聞かなければ。さっき悲鳴が聞こえたとか言っていたが、一体どこまで……。
(ん……)
 辺りを見回す真夜の視界に、妙な人の流れが映った。
 カップルが慌て気味に喫茶店から出てきたかと思うと、二人とも同じ方向を指さして駆けていく。駅員と昂奮気味に会話していたサラリーマン風の男が、さっきのカップルに続いて走って行った。かと思うと、ソチラから戻って来た女子高生三人組が、携帯で撮った写真を互いに見せ合って盛り上がっている。
(なんだ……)
 あの方向に何かあるのか。東口の方で、何か事件――
(まさか……!)
 脳裏に何か確信めいた物が閃き、真夜は重くなった体を無理矢理動かしてコンコースの中をまた走りだした。逆流してくる人にぶつかりそうになりながら、真夜はドラッグストアの角を曲がり、エスカレーターを駆け下りて――
(デカイ)
 隣りの上りエスカレーターに乗っていた巨乳に釘付けになった。
 まるでその魔性に惹き付けられるようにして下りエスカレーターを逆走し、乗り合わせた他の人の迷惑も考えずにコンコースへと舞い戻る。
(デカイ)
 そして胸中でもう一度繰り返し、視線をその巨乳の主の顔へと移して――
「どうかしたの?」
 美人だった。とびきりの熟女だった。もうソレだけで飯をどんぶり、いや鍋で五杯いけるほどの上物。バター犬として一生仕えたくなるほどのお姉様だ。
 細い眉。長い睫毛。二重の瞳は大人の落ち着きを宿し、左頬に添えられた泣きぼくろが艶麗な雰囲気を演出している。綺麗なショートシャギーに仕立て上げられた栗色の髪はワイルドで、黒紫色に塗られた厚めの唇と相まって奥深い魅力を醸し出していた。
「この先は行かない方が良いわ。危ないみたいだから」
 体には黒のノースリーブシャツ。光沢のあるタイトカートは鴉の濡れ羽のよう。そこに深く刻まれたスリットから覗く純白の美脚ライン。足元には鮮やかな真紅のハイヒール。
「人も沢山集まってるし。それとも、貴方もその野次馬の一人なのかしら?」
 そして特筆すべきはやはりその胸!
 巨乳! いや爆乳! いいや超乳! いいいいいいいいいや凶乳!
 そう! コレはまさしく芸術という名の凶器! 男を誘い! 惹き寄せ! そして殺す誘蛾灯の如く!
 黒いシャツを下から押し上げ、痛々しいほどに盛り上がった豊満な美肉。鎖骨の僅かに下から始まり、完璧な曲線美を描いて第五肋骨の上で収束している。
 ずばり! 102のJカップと見た!
(じぇ、ぢぇ、J、だと……?)
 自分ではじき出した答えに立ちくらみすら覚える。もしこの胸に顔を埋めて眠れたら、そのまま永眠してもいい。
「正直な子ね。でも一過的な感情の昂ぶりは身を滅ぼすわ。馬鹿な考えを実行に移す前にちゃんと自制なさい」
 真夜の露骨すぎる視線に彼女は嘆息しながら言い、
「でないと、死ぬより辛い目に遭うかもしれないわ」
 声に冷たい響きを持たせて続けた。
「ココにはね、不必要な奴等が沢山いるわ。死んで当然の奴等が平和そうな顔して図々しく生きている。おかしいと思わない? 人殺しが死刑にならないなんて。強姦者が結婚できるなんて。窃盗者が普通の生活送ってるなんて」
 瞳には獲物を品定めするかのような凍える輝き。口元には底冷えするような危うい笑み。
 だが――
(パーフェクツ)
 ソレがまたいい。
 このよく切れる刃物のようなオーラが彼女の魅力を何百倍にも引き上げている。
 あの白くて細い指を顎先になまめかしく這わされて、『貴方の血の色が見たいんだけど』とか言われたら、自分で胸骨開いて心臓を差し出したくなりそうだ。
 行くしかない。
 もうどう考えてもココは行くしかない。選択の余地も、考える必要も、心の葛藤も、脳味噌の自由民権運動もない。
「貴方はどうかしら? 例えば、自分の恋人を殺されて、殺した奴は幸せに暮らしていて、ソレがどこの誰かも分からないで。貴方ならどうするのかしらね」
「ずっと前から愛してました」
 相手の瞳を真っ正面から射抜き、真夜は彼女の手を固く握りしめて低く言う。
「……殺すわよ」
「お姉様になら殺されてもいい。この命、貴女様に捧げ尽くします。ですから僕を男にし……!」
 彼女の左手が横に薙がれた。
「……て、くれるワケないッスよねー」
「病院に行った方がいいわ。もう手遅れだと思うけど」
 指の爪先に付いた紅い液体を舌で舐め取りながら、彼女は艶笑を浮かべて言う。
(切れた……?)
 痒みにも似た疼痛。真夜は右頬を軽く手で押さえ、ソレを目の前に持ってくる。手の平に紅い筋が細く引かれていた。
(なんと……)
 爪が刃物のように。オーラだけではなく本当に……。コレはまさしく全身凶器!
(スんバラシイ!)
「あの! できればお名前を! そしてできれば電話番号を! おまけにできれば住所を! も一つできればスリーサイ……!」
 右手が薙がれた。
「懲りない子ね。元気があるのは良いことだけど、もう少し相手を選んだ方が良いわ。でないと一生物の怪我をすることになるわよ。特に頭の方のね」
 また右頬に手を添えて傷を見てみる。バッテンになっていた。
「それにしても、どうして貴方とこんなこと話してるのかしらね。不思議だわ。初対面なのにね。ぼーやが妙に目立つからかしら?」
(ぼ、ぼーや……!)
 ソレは脳髄をとろかし、血流を逆転させ、そして理性を滅砕する一言。
 頭の中でガシャパリーンという音がハッキリと――
「生まれた時から愛してましたあああぁぁぁぁぁ!」
 絶叫を上げて飛びかかる真夜。
「じゃあ最初から生まれてこなかったことにしてあげるわ」
 その喉元に彼女の爪が食い込んだ。
(あぇ……?)
 目の前が白くなる。体から力が抜け、自分の意思とは関係なく膝が落ちて――
(何、だ――)
 まるで空気が粘性を帯びたようにまとわり付き、視界がゆっくりと地面に引かれて――
「じゃあね」
 彼女の声がどこか遠くの方から――
(コレは……)
 なくなっていく。ありとあらゆる物が。
 自分の中にあった物が小さな穴からこぼれ落ち、その穴はどんどん大きさを増し、吸い出し、噛み砕き、呑み込んで――記憶が、意識が、全てが無へと――
「何やってるですかー」
 耳元でした声に真夜は顔を上げた。
「お腹でも痛いですかー? 酔っ払いの真似事ですかー?」
 ソチラを目を向ける。
 ブロンド喪服高下駄ショタが、自分の膝を抱え込むようにしゃがんで憐憫の視線をコチラに向けていた。
「えーっ、と……?」
 いつの間にか四つん這いの体勢になっていた真夜は身を起こし、辺りを見回しながら立ち上がる。
「お姉、様は……?」
 そして先程の奇跡の美女を探すがどこにも見あたらない。
「エロい夢でも見てたですかー? オレが来るのがもうちょっと遅かったら今頃大騒ぎですよー。飯ちゃんと食ってるですかー?」
 下から馬鹿にしたような声で言ってくるアリュセウを無視して、真夜は体ごと回転させてもう一度確認し直す。しかし結果は同じ。あのフェロモンの塊はどこにも……。
「ごぅぁーん……」
 再び四つん這いになり、真夜は全身に濃厚な影を落として深くうなだれた。
 何てことだ……。せっかく確信できたのに……。もうこの人しかいないと根拠のない自信を傍若無人に振りかざす覚悟ができたというのに。
 あんまりだ。まだ名前すら教えて貰っていないというのに。もう、二度と会えないかも知れないなんて……。
(いや待て――)
 と、脳裏に痛烈な閃き。
(そんなことはない)
 そうだ。あるじゃないか。彼女の居場所を知る方法が。
「アリュセウ!」
 腕で地面を押した反動だけでガバァ! と起き上がり、真夜はアリュセウの両肩を固く掴み上げて顔を寄せる。そして――
「頼む! お前を男と見込んで俺を男にしてくれ!」
 なぜか空気が冷たくなった。
「……お前は自分で何言ってるか分かってるですかー?」
 半眼になり、身を後ろに引きながらアリュセウは白々しい声を出す。
「もう決めたんだよ! 二度と後悔しないって! だからお前が必要なんだ! 今すぐに! 一刻も早く! お前の竿で俺を男にしてくれ!」
 なぜか周囲から色が失せた。
「……殺人級に勘違いされるから、そういう曖昧な表現は控えた方がいいですよー」
 すすすす、と足音も立てずに体を離し、アリュセウは冷め切った声で呟く。
「ワケの分かんねーこと言ってんじゃねーよ! コレが俺の正直な気持ちなんだよ! 真実の愛なんだよ!」
「新しい被害者ですよー。多分、ストロレイユですよー。少し手口が荒いのが気になるですが、かなり意識を削られてるですよー」
「だからあのフェロボインの記憶を――何!?」
 凄絶な剣幕でアリュセウに詰め寄る真夜。しかし断片的に耳に入ってきた言葉に、思考が切り替わる。
「なんで早く言わねぇ! どこだ! ヤラれた奴はどこだ!」
「もうとっくに運ばれたですよー。大体お前が来るのが遅すぎですよー。女の尻追い掛けすぎですよー」
「やかましい! 女の尻ってのは追い掛けるためにあるんだよ! ソレが狩猟民族に生まれた者の大和魂だ!」
「……お前の持論なんかに興味はないですよー」
 溜息混じりに言いながらアリュセウはエスカレーターの脇にあるベンチに腰を下ろし、
「ストロレイユがもうココまで来たってことは、二、三日中にはお前のすぐ近くですよー。せいぜい気を付けるですよー」
 蒼い瞳に怜悧な輝きを宿して言った。
 ――二、三日中。
 その言葉に、真夜の体温が一気に低下する。浮ついた気持ちが急速に収まり、代わって怒りにも似た焦燥が精神を覆い始める。
 そうだ。今は女などを追い掛けている場合ではない。彼女のことは自分がその容姿を覚えてさえいれば、アリュセウに頼んでいつでも軌跡を使って追えるんだ。
 だからソレよりも今は、ストロレイユを見つけ出すことに専念しないと。
「やっとまともな顔付きになったですよー。携帯を確認するですよー。着信か留守電は入ってないですかー?」
 ベンチから立ち上がり、アリュセウは銀の釣り竿を肩に担ぎなおしながら言う。
(目撃者の情報……)
 眉なしの顔を思い出し、真夜はイージーパンツの尻ポケットから携帯を取り出してディスプレイを見た。しかしビキニ姿の巨乳モデルが待ち受け画面に映っているだけで、何の変化もない。
「ま、さすがに早すぎですかー」
 コチラの表情を読み取ったのか、アリュセウは残念そうに息を吐きながら歩き出す。
「どこ行くんだよ」
「帰るに決まってるですよー。もうこんな所に用はないですよー」
「見たのかよ。目撃者の頭ん中。似たような顔の女はなかったのかよ」
 コンコースを引き返していくアリュセウに、真夜は僅かな怒気を混ぜて聞いた。
 ストロレイユはついさっきまでココにいた。つまり、自分達が朝から探し回っていた昨日の犯行現場よりも、よっぽど情報が転がっていることになる。
 もし目撃者がいたとすればまだ密集しているだろうし、ストロレイユ自身が近くにいる可能性だってあるんだ。なのにどうして―― 
「いなかったですよー。だから帰るんですよー」
 そんなにすぐ諦める? たかだか数分の確認だけで済ませる?
 また何時間も掛けて、広い範囲をねばり強く探せば見付かるかもしれないのに。自分達が今この場所に居合わせられたことは、とてつもないチャンスなのに。どうして――
「待てよ。もう少し探すぞ。疲れたんならおぶってやるからよ」
「いらないですよー。もう今日は帰るって決めたんですよー」
 アリュセウは真夜の言葉に足を止めることもせず、更に歩く速さを上げて、まるで何かから逃げるように――
「おぃ! いいから待てよ! アリュ――」
 その肩を掴んで強引にコチラを向かせた真夜の言葉が途中で止まった。
「何するですかー。痛いですよー」
「わ、わり……」
「全く、がさつな男ですよー」
 機嫌悪そうに言って真夜の腕を振りほどき、アリュセウはコンコースを行き交う人混みの中に紛れた。通路の両サイドに立ち並んだ色鮮やかな店看板が、妙に寒々しく映る。
(なんだ……)
 人の流れに取り残され、その場に呆然と立ちつくして、真夜はアリュセウの消えていった後をただ見つめる。
 さっきの表情。
 バカっぽく見えて裏では何か企んでいる。いつもはそんな明るくも狡猾そうなアリュセウの表情。その裏側に一瞬垣間見えた、どこか怯えたような――
「――って」
 そこでハタと我に返り、
「だから待てよオイ!」
 真夜は全速力でアリュセウの後を追った。

 目立つ服装というのもたまには役に立つ。
 ロングブロンドに喪服、身の丈に合わない釣り竿に高下駄などいうイカれた格好、そうそう他でお目に掛かれるモノじゃない。無賃で改札の中に入ろうとしているところを、駅員に取り押さえられたバカを見つけるのは簡単だった。
「あークソ。イテェ……」
 新幹線の中。自由席車輌のデッキで壁にもたれ掛かり、真夜はサイフの中身を確認しながら肩を落とした。
 ただでさえ予定外の出費なのに、一回ホームの外に出たせいでチケットの二度買いになってしまった。行きはともかく帰りは鈍行にするべきだったか。千円ちょっとの特急券がこれ程までに家計に響くとは……。しかも……。
「お前な……ちったぁ遠慮しろよ」
 隣でシロップの山盛り入ったアイスティーを飲んでいるアリュセウを見下ろし、真夜は疲れた声でぼやく。
「指定席を要求しなかっただけでもありがたいと思うですよー」
 悪びれた様子もなく、流れていく外の景色をじっと見ながら返すアリュセウ。
 くそ……さっきのあの顔は気のせいだったのか? まさか腕を振りほどくための演技?
 あり得る。コイツなら十分にあり得る。そのくらいのこと平気でやってのける。
 失敗した。まんまとどんぶりで一杯食わされた。ぅおのれ……次からは絶対に騙されんぞ……。
「ところでお前、そのほっぺたどうしたですかー?」
 夕日の差し込む扉の窓から目を外し、コチラを向いてアリュセウは聞いてくる。
「これか? ふ……コレはな。俺が運命的な出会いを成し得た証だ」
 長い前髪をキザっぽく掻き上げ、真夜は芝居がかった調子で自慢げに言った。
 そう、この十字傷がある限り絶対に彼女のことは忘れない。鏡で自分の顔を見るたびに思い出す。鮮明に、克明に、黎明に、亡命に……。願わくば、一生消えませんように。
「……気持ち悪い奴ですよー」
 傷を愛おしそうに撫でる真夜にジト目を送り、アリュセウはまた外に顔を向けた。 
「どこの通り魔にやられたのか知らないですが、切られたのがお前の顔でよかったですよー」
「ふん、男のクセに女々しいことを。そんなセリフ、せめてあのお姉様の毛乳頭くらいの魅力を持ってから……」
 少し拗ねたように言ったアリュセウに、真夜は勝ち誇ったような声色で言い返して、
(ん……?)
 心に引っかかりを覚えた。
 何か忘れている。自分は今、大切な何かを忘れている気がする。はて、何だったか。
 お姉様の言葉か? ソレなら一字一句思い出せる。確か世の中腐りきっていて、不必要な奴は大勢いるとか。うんうん。全くその通りだ。
 特に通り魔とかはホント勘弁して欲しいよなー。いきなりナイフで切りつけられたりとかしたら防ぎようがないからなぁ。『誰でも良かった』とか『むしゃくしゃしていた』とか何だよソレって感じだし。そういう奴等は何とかして排除してほしいモンだ。
 だからストロレイユみたいな奴は絶対に許せないし、ましてやあの軍服の――
「ラミカフ」
 頭に浮かび上がった名前を、真夜は感情を込めないで呟く。
「ラミカフ……」
 そしてもう一度繰り返し、
「ラミカフ! あの野郎! あの軍ヲタ下等生物野郎だ! そうだ! すっかり忘れてた! 何なんだ! 何なんだアイツは! あの玉なしガリヒョロ・イカレポンチは!」
 溜まりに溜まった感情を爆発させた。
「アリュセウ! 出た! 出やがったんだよ! お前がこの前言ってたラミカフって野郎が! お前が消えた後で! 手からオレンジ・ビーム出して! 何なんだ! 何で俺があの変態に狙われる! 何の怨みがあるんだ!」
 解放された勢いは止まらず、真夜は八つ当たり気味に叫び付ける。
「あーもー! 思い出しただけで腹立つ! チョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロと! せーせーどーどー真っ正面から来いってんだ! したらしばき倒してやんのによー! なぁ教えろ! ちっとでも心当たりあんなら教えろ! 何だアイツは! どういう奴なんだ! 通り魔グセのあるクソ変態なのか!?」
 歯を剥いて一息にまくし立てる真夜。しかしアリュセウは何も返さない。じっと前を向いたまま、小刻みに体を震わせている。体を、小刻みに――
(え……?)
「真夜……」
 そしてアリュセウの口から自分の名前が呼ばれる。
 ――初めて。
「ストロレイユ探し、やっぱり……やめられないですか?」
「……は?」
 一瞬、何を言ったのかよく分からなかった。
 やめる? ストロレイユを探すことをやめる?
 ココまで来て? 学校をズル休みして、貴重な生活費を割いて、朝から動き回って、もう少しで決定的な情報が入るかもしれないのに?
 冗談……冗談じゃない。なぜ今になって。そんなことできるはずがない。そんな選択肢は有り得ない。誰が何と言おうと。自分の周りで被害者が出る前に、絶対にストロレイユは捕まえる。絶対にだ。
「無理、ですよね? やっぱり……」
「意味分かんねーよ。何なんだよ。理由言えよ」
 コチラに顔を向けようともしないアリュセウに、真夜は少し喧嘩口調で言った。
 新幹線の奏でる機械的な音が静かなデッキに響く。その無機質な音色だけがしばらく辺りを支配し、それでも何も言おうとしないアリュセウに真夜の我慢も限界に達して――
「なーんてっ」
 にっぱーとアホ明るい笑顔を浮かべて、アリュセウは軽く跳び上がりながらコチラを向いた。
「お前は単純すぎてホント騙し甲斐がないですよー。もっと人を疑うことを覚えた方がいいですよー」
 そしてやれやれと嘆息しながら、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「てンめー……」
 真夜は目元をヒクつかせながら拳を高々と振り上げ、
「イッタイですよー! 何するですかー!」
「るせー! やって良い冗談と悪い冗談の区別くらいしやがれ!」
 アリュセウの脳天に怒りの鉄拳を叩き付けて叫んだ。
 全く何てことだ。数分前に詐欺ショタ警戒警報を発令したばかりだというのに。
 情けない。自分の甘さ加減が情けない。ここぞという時の判断力がお粗末すぎる。やはり思考回路の九割強を煩悩に割くのはいけないことなのか。いいやそんなはずはない! 十代後半の性欲真っ盛りの時期に、妄想力とチャックを全開にせずしてイツするというんだ!
 とにかく、こんなヤツ次に何があろうと二度と心配なんかしてやるものか。ったく……。
「で、ラミカフはなんで俺を狙うんだよ」
「そんなモン知るかですよー。きっとお前の交友関係が無駄に広すぎるからいけないんですよー。知らないところでいっぱい恨み買ってるですよー」
 涙目になって頭を押さえながら、アリュセウは怨みがましい声で返す。
 この野郎、さっきから腹立つことばかり言いやがって……。
「ほんじゃアイツがぶちかましてきたレーザービームは何なんだ。アレも軌跡なのか」
「見てないのに分かるわけないですよー。このボケっ」
「何なんだと聞・い・て・い・るッ!」
「あーいゃぁ! ったたたたたぁぉ! ぅへーぇぁあああああ!」
 こめかみをグリグリと圧迫されて悲鳴を上げるアリュセウに、真夜は三白眼になって下からねめ上げた。
「ら、ららラミカフ様はしししし執行部ですよー! ぽぽぽポジションは【記憶の施術者】ですが、オレとはレベルが違うででででですよーぉっひぃあ! きききっときききき軌跡を打ち出すこともでででできるきるきるきるるるででででですよぉ!」
「そうか」
 その答えに真夜は軽く頷き、白目を剥きかけているアリュセウを解放する。
「お前は釣り竿で誰かを釣って初めて軌跡が出る。けどあの変態は最初から軌跡を出せる。ソイツで記憶をごちゃごちゃにできる、か」
 独り言のようにブツブツと言い、真夜は頭の中で考えを纏めていった。
「けどアイツは確か、俺に何かを思い出させようとしていた……なのに今度は消そうと……? どいうことだ?」
 分からない。
 色々と気になることを言っては消え、消えてはまた訳の分からない登場のしかたをする。自分の命が目的、というワケではなさそうだが……少し考えが甘いか? 変態に常識は通用しないしな。
 とにかくアレが軌跡だと分かった以上何も恐れることはない。プラクティショナーではない自分に対して殺傷能力はないし、仮に記憶を消されたとしても、この特異体質とやらのおかげですぐに思い出す。アイツの身体能力がどの程度なのかは知らないが、一対一なら勝てる自信はある。もっとも、相手が向かってきてくれればの話だが……。
「前にも言ったと思うですが、オレ達は記憶を消すだけじゃなくて、復活させたり、改変したり、結合したりもできるですよー。ポイントを使うからオレはやりたくないですけど」
「復活……」
 真夜はアリュセウの言葉を反芻するかのように繰り返した。
 自分の中に眠っている記憶を呼び起こす? 赤ん坊の頃の? 忘れ子だった頃の? その原因を、思い出させる……?
 何のために。一体何が目的で。
 分からない。やはり分からない。分かれば分かるほど分からなくなっていく。
 『『個』を望む者』ってのは何なんだ。『施術者殺し』とどう関係がある。どうすれば『大規模な記憶の錯乱』に結びつく。
 精神異常者がほざいた単なる戯言だと割り切れれば楽なんだが……。
「そのうちまた来るですよー。その時に返り討ちにすればいいですよー」
 下から聞こえるアリュセウの声。
「ああ……」
 そうだ。確かにその通りだ。そういう考え方も一理ある。だが――
「なぁアリュセウ、電車下りたら……」
「ダメですよー」
 真夜の言葉を途中で遮って、アリュセウは素っ気なく言った。
「お前の中からラミカフ様の記憶を消して、その軌跡を追おうって作戦は無意味ですよー」
「何でだよ」
 考えていたことをズバリ言い当てられ、真夜は少し仏頂面になりながら聞き返す。
「相手は執行部ですよー。さっきも言ったですけどレベルが違うですよー。軌跡を打ち出せるんですから、はじき返すこともできるですよー」
「そんでも大体の位置が分かればそこから……」
「目の前にいたのに逃げられたのはどこの誰ですかー」
「ぐ……」
 半眼になって意地悪く言うアリュセウに何も返せず、真夜は鼻に皺を寄せて奥歯を噛み締めた。
「……なぁよ、プラクティショナーってのは、バカみたいに走るのが速かったり、アホみたいにジャンプ力があったり、ボケみたいに腕力あったりすんのか?」
「お前のいうバカとかアホとかボケがどのくらいのレベルなのかは知らないですが、普通の人間よりはそこそこ優れてるですよー」
「つまりプラクティショナー全員がオリンピック選手を強化人間に改造したレベルってワケか……」
「……例えがいまいちよく分からないですが、大体そんなモンですよー」
 呆れたような視線で横見に見ながら、アリュセウはやる気のない声で言う。
 そうか……強化人間、か……。となると一対一でも……いいや、大丈夫だ。今までタイマンのケンカで負けたことは一度もないんだ。どれだけ相手がデカかろうが、筋肉マンだろうが必ず勝ってきた。だから今回も絶対に勝つ。弱気になる必要など全くない。
「ま、取り合えず今はストロレイユのことに集中するですよー。ラミカフ様のことはその後でゆっくり考えるですよー」
 窓の外に顔を向け直し、アリュセウは釣り竿で肩を叩きながら言った。
 まぁストロレイユのことを最優先に考えなければならないのは確かだ。時間もだんだんなくなってきたし。
 だが火の粉が降りかかってくるというのなら、ソレは振り払わなければならないだろう。とにかくあのラミカフという男はヤバい。児童養護施設の職員達よりも、チンピラどもよりも、ずっと危ない目つきをしている。だから――
(次は絶対にしばく)
 そして目的を聞き出す。手遅れに、なる前に……。

 自宅の最寄り駅についた時には七時近くになっていた。まだ十分に明るいが、人通りは少なくなり始めている。もし今ストロレイユが現れれば、きっと簡単に新しい被害者が……。
(ま、今すぐはないと思うが……)
 スーパーのタイムセールスで買った惣菜を揺らし、真夜は辺りの気配を警戒しながら歩を進める。
 恐らく今日埼玉に入ったばかりだから、ココに来るのは明日か明後日くらいだとは思うが……油断はできない。それに一度は東京まで来ているんだ。ひょっとするとすでに潜んでいたりするかも……。例えば、この住宅街のどこかの塀に隠れて……。
「あー!」
「いいいいいたか!? いやいやイヤがったのか!?」
 前を歩いていたアリュセウが突然上げた大声に、真夜は首を大きく振り回して人影を探す。
「デザート買うの忘れたですよー」
 拳。
「痛いですよー……」
 殴られた脳天を押さえ、アリュセウは涙声を漏らした。
 全く、紛らわしいマネを……。少しは空気読めってんだ。
「お前、そのすぐに手が出るクセ何とかならないですかー?」
「やかましい。男がこのくらいでガタガタぬかすな」
「……何度も襲おうとしたくせに」
 激拳。
「だから痛いって言ってるですよー!」
「当たり前だ。痛みを与えてるんだからな」
 ロングブロンドを振り乱して抗議の声を上げるアリュセウを、真夜は冷め切った視線で睥睨しながら言う。
 余裕だ。
 今まではコイツが男だと知りつつも、その外見と仕草から、あわてん坊な煩悩細胞がゴーサインを出してしまうことがあったが、ソレももうなくなった。神が定めたもうた出会いの掟を違えることは今後一切ない。
 全てはお姉様のおかげ。彼女との出会いが自分を正常域に引き戻してくれたんだ。
 そうだ。やはりこうでなくてはならない。
 デカい乳や、デカい尻に欲情してこその漢魂。健全なる性年のあるべき姿。
 絶対に見つけてやるぞ。ストロレイユを見つけて、ラミカフをしばいて、時間がたっぷりできたら真っ先に――
「あ……」
 超拳。
 アリュセウがアスファルトに沈んだ。
「まだ何も言ってないですよー!」
 しかしすぐに復活して飛び上がると、フードシャツの襟元を掴み上げてくる。
「何も言わんでいい」
 ソレを適当に払いのけ、真夜は何事もなかったかのように歩き出して――
「あ……」
 今度は自分の口から同じ言葉が漏れた。
 大きなアーチになっている自宅マンションのエントランス。そこから見知った顔が出てきていた。
 胸元に大きな紅いリボンのあしらわれた白のフレアブラウス。チェック状に走った青と紺のラインが鮮やかなスクールスカート。自分と同じ青蓮学園高校の、女子生徒用の制服。
「おんや」
 向こうもコチラに気付き、オカッパの緑髪を揺らして小走りに近付いてきた。
「部屋にいなかったからどうしたのかと思ったら、夕食を買いに出ていたのか」
 そしてスーパーのレジ袋を見ながら、納得したように頷く。
「具合の方は大丈夫なのかい? あまり顔色は良くないようだがね」
 二重の瞳を少し細めてコチラを見ながら、朝顔は確かめるような声で聞いてきた。
「な、なんで……」
「ん? どうかしたのか?」
 少し後ずさりながら漏らす真夜に、朝顔はきょとんとした表情で眉を上げる。
「何で、お前がココに……」
「ああ、見舞いだよ。見舞い。昨日キミがしてくれたからそのお返しというヤツさ。ひょっとして風邪をうつしてしまったかと思ってね。薬と、それから見舞いの品を持ってきた」
 言いながら朝顔は、布でできた小さめのポシェットを差し出してきた。黄色と黒の複雑なコラボレーション……。どう見ても『危険物のため取り扱いに注意』だ。
「急ごしらえだからこんな物しかできなかったが、取り合えず頑丈にはできたと思う」
 どうやら朝顔のお手製らしい。そう言えば手芸部だったな。相変わらず奇抜なセンスだ。見た目よりも耐久性に重きを置くところが特に。
「中に解熱剤と痛み止め、それから下剤を入れておいた。必要な時に飲んでくれ」
 最後のはどういう意図が込められているんだ……?
「まぁそれほど重傷ではないようだからひとまず安心したよ。明日には復帰できそうだな」
「あ、あぁ……」
 危険な色の薬袋を受け取りながら真夜は曖昧に返し、
「ところで、その子はどうしたんだ? 迷子が何かか?」
 口から喉仏が飛び出しそうになった。
「もしそうなら私が引き継ごう。キミは早く部屋に戻って養生するといい」
 言いながら朝顔は柔らかい笑顔を浮かべ、手を軽く前に出す。
 どうする。どうすればいい。どうすればこの局面を切り抜けられる。
 どう見ても、こう見ても、ああ見ても、完全に女の子にしか見えないアリュセウ。そして髪と目の色からして日本の生まれでないことは明らか。そんな奴と一つ屋根の下で生活しているなど、スーパーモデルの生着替えを見せられても言えない。
 現在の客観的事実から容易に連想される言葉はただ一つ。
 援助交際。
 コレだ。しかもマニアック・コスプレのおまけ付き。
 学校をサボり、昼間から喪服ロリータとアヘアヘ……。もしそんなことが他人の耳に入ろうものなら――
(終わりだ)
 絶望だ、破滅だ、崩壊だ、轟沈だ、更迭だ、アッチョンブリケだ。
 自分は今、火サスばりの断崖絶壁に立たされている。一歩間違えればあっと言う間に失墜。人間的にも社会的にも。
 避けなければならない。何としてでも回避せねば。そのための言い訳。正当なる理由付けを行わなければならない。
 親戚の子? ソレはない。自分は生まれた時から一人で、他に血の繋がりなど知らない。
 ならば同じマンションの住人というのはどうだろう。親が病気で一日だけ面倒を見てくれと言われたとか……。……ダメだ。バレ易いし、バレた時に致命的に危なくなる。
 もういっそのこと本当に迷子を拾ったということにしておくか。だがコイツを朝顔に引き渡して、その後どうやって嘘を突き通すんだ。
 大体今考えた作戦はすべて、アリュセウが今の状況を察して口裏を合わせてくれることが前提。しかしそんな離れ業、このウソ泣きあまのじゃくカマ野郎にできるとは思えない。だからもっと根本的なところで……。
(待てよ)
 ココで一番の問題はアリュセウが女に見えるということなんだ。コイツが男であることが分かれば、ひとまず通報されるようなことはないはず。男同士なら一緒に食事をしようが、風呂に入ろうが、寝ようがオールオッケーなんだ。
 そうだ。そうじゃないか。何だ簡単なことだ。コイツが男だということを――
(どうやって?)
 どうやって知らせればいい。一番分かり易いのは脱がせることだが……アリュセウは当然嫌がるだろう。そこを押して強引に掛かれば……。
(ヤバい)
 絵的に非常にヤバい。犯罪臭、撒き餌状態だ。ならどうすれば……。
「どうした村雲。左目と右目がバラバラに動いているぞ」
 ああああああ分からない分からない分からない。考えれば考えるほどハマっていく。
「やれやれ……。で、キミは? 迷子かな? 日本語は分かるかい?」
「分かるですよー」
 もっと、もっと頭の回転が速ければ。普段煩悩に回している思考能力を寄せ集めて。
「そーかそか。では自分の家、どこか分かるかい?」 
「あそこですよー」
 脱がせるのがマズいのなら触らせるか。朝顔に。事故を装って。コレなら朝顔が痴女になるだけで自分に被害はない。
「ん? 村雲と同じマンションなのかい? じゃあ問題ないか。お隣さんかな? ひょっとして部屋は三〇五号室かい?」
「三〇六ですよー」
 ならどうする。どういう事故を生み出す。自然に、極めて自然に股間に手を導くには……。
「ソレは村雲と同じ部屋だな」
「当然ですよー。一緒に住んでるですよー」
「ほぅ……」
 まずこのポシェットを落とす。ソレを朝顔に拾わせる。そして持ち上げようとした手の軌道上にアリュセウの股を配置する。コレだ。
「確か彼は一人暮らしだと聞いていたが」
「つい最近同棲を始めたですよー。将来を誓い合った仲ですよー」
「ほーかほか。コイツにそんな趣味があったとはな。まぁ恋愛には色んな形があってしかるべきだから、個人的には別段問題ないと思われるが」
 よし、じゃあコイツを上手く落とさないとな。自分と朝顔の中間ポイントからややコチラ寄りがベストポジションだ。
「良かったな村雲。少し意外だったがキミの幸せは私も望むところだ。これから色々と苦労するだろうが頑張ってくれ」
 よーっく狙いを付けて……ええぃ邪魔するな朝顔。肩から手をどけろ。いいからどけろっ……って、え?
「ほらほら。早く愛の巣に帰るですよー、ご主人様ー」
 コチラの左腕を抱きかかえるようにして持ちながら、猫なで声を出すアリュセウ。
 え? えっ? えっ? えっ……?
「見せつけてくれるじゃないか。私が見舞いに来る必要などなかったな」
 はっはっはっ、と鷹揚に笑いながら緑髪を額に撫でつける朝顔。
 何? 何ナニなに? この空気はナニ? 一体なんなの?
「それじゃあ私はこの辺で失礼するとしよう。コレ以上は無粋だからな」
 何故か満足そうに言いながら、朝顔は自分の横を通り過ぎて――
「ちょおおおおぉぉぉぉっと待ったあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 彼女の肩を後ろから押さえつけるように掴んだ。
「痛いんだが」
「お前! 巨大な勘違いしてるだろ!」
「何のことだ?」
「コレのことだコレの!」
 肩越しに振り返って顔をしかめる朝顔に、真夜は左腕にくっついて離れないアリュセウを振り回しながら叫ぶ。
「いいか! コイツは男だ男! 正真正銘の野郎! 下にしっかり付いてる女装趣味のホモ野郎なんだよ!」
「そんなことは見れば分かる」
「だから……!」
 ……え?
 喉元近くまで上がってきていた言葉が、発せられることなく消え散った。
「お前……今、何て……?」
「彼が男だということは一目瞭然だと言ったんだ」
 一目瞭然? イチモクリョウゼンってーとアレか。いわゆる『ンなモン見りゃ胎児でも分かんだよ、このダボがぁ』ってヤツか。
「じゃ、じゃあ、何で……」
「だから恋愛には色んな形があっていいと思ってるんだ、私は。別に男同士だろうが女同士だろうが、動物が相手だろうがマネキンが相手だろうが、好きなものは好きなんだからしょうがないじゃないか。私はそういうカップリングはもっと広く認められるべきだと思う。そもそもだな、男女同士の恋愛という、いわゆる普通で常識的で一般的な慣習が、あまりに長くはびこりすぎたのではないかと思うんだ。そろそろ対抗勢力が出て来ても良いのではないかと私は常々考えている。最初は非常識だと言われるだろうが、そこは虚も突き通せば真実となる、だ。非常識が蔓延すれば、ソレは常識に取って代わる。つまり歴史は繰り返すという概念はココから来ているわけで……」
「ちょオオオぉぉぉぉっと待った! ソコまで! ソコまでだ!」
 持論を語り始めた朝顔の言葉を遮り、真夜は彼女の両肩を押さえつけて顔を近付けた。
「じゃあ何か!? お前の中で俺は男色で異常で非常識な変態野郎ってことになってんのか!?」
「今のところはな。だが心配しなくていい。もう少し時代が進めば必ず社会に浸透す……」
「ンなこたどーでもいい! 俺は正常だ! 年がら年中、暇を見つけては女の裸を妄想しているような性欲の権化なんだよ! 脳細胞の十割以上が煩悩でできてるんだよ! だから超大な勘違いしてんじゃねぇ!」
「んーむ。その痛々しいキミの主張はまぁ聞き入れてやるとして、だ。彼の方は随分とキミを恋い慕っているようなんだが」
「テメーはいい加減離れやがれ!」
「ダメですよー、もう一心同体ですよー。身も心もずっと一緒ですよー」
「があああああああぁぁぁぁぁぁ! 気色悪いことヌカすなああああぁぁぁぁぁ!」
 悪魔的な笑みを浮かべて左腕にしがみついているアリュセウをブン回しながら、真夜は腹の底から叫び散らす。だが離れない。まるで瞬間接着剤で塗り固められたかのように。
 何だか風景がモノクロになってきた。視界がボヤけているのは目元の生温かいヤツのせいなんだろうか。
「ま、イヤよイヤよも何とやら、だな。キミもまだ若いんだ。今のうちにそういう経験ができるというのは案外幸せなことかもしれないぞ? じゃあ、お幸せにな」
 口の端を釣り上げて男前に笑い、朝顔は背中を向けて歩き出す。
「違うんだ朝顔!」
 真夜は自分の意思とは関係のないところで自分の声を聞き、
「待ってくれ! 俺が好きなのは――」
 口が勝手に動いて、
「お前なんだ!」
 知らない人の知らない言葉を聞いた。

 死のう……。
 昼休み。教室で自分の机に突っ伏し、真夜は虚ろな瞳で窓の外を見つめていた。
 何だか全てのことがどうでもいい。体を動かすのも、頭を使うのも、呼吸をすることさえ億劫だ。このまま全身の細胞が活動をボイコットして、眠るように死んで行けたらどんなに幸せだろう。
 今は本気でそう思う。
 真夜は顔の向きを変え、何気なく教室を見渡した。
 いつもは何人かで固まり、弁当を食べながら下らない話に華を咲かせている生徒達。だが今は普段の半分くらいしかいない。より具体的には男子生徒が全員いない。どうしてだろう。
(ああ、そうか……)
 自分が保健室送りにしたからだ。ダテ眼鏡も禁煙パイポもYMCAも道祖神もモンチッチも下駄の鼻緒が切れたも。みんな今は死んだように眠っている。一部の連中は本当に死んでいるかもしれない。羨ましい限りだ……。
 みんな人を挑発するのは上手いのに、なぜケンカは弱いんだろう。実に不思議だ。

『よぉ村雲。今日も愛妻弁当なのか?』

 一限目が始まる前に一人沈んだ。

『昨日さ、見たって奴がいるんだよ。お前が駅前のスーパーいるの。例の喪服美少女とさ。相手いるってホントだったんだなー』
『マジ誰なの? マジ恋人? マジ同棲? 見付かんなよーオイー』

 二限目の休み時間に二人沈んだ。

『ったく休んで何してるかと思ったら羨まし……』

 三限目の授業中に五人沈んだ。

『言っとくけど、お前がしてることは明らかに犯ざ……』

 そして誰もいなくなった。 
 別に朝顔が言いふらして回っているわけではない。アイツはそういうことをむやみやたらと吹聴するような性格ではない。
 では何が問題だったのか。
 一昨日アリュセウが作りやがった弁当だ。アレをダテ眼鏡に食わせたのがいけなかった。
 愛妻弁当。
 その内容を端的に表すのに、これ程ふさわしい言葉は他にない。
 タコさんウィンナーにウサギのリンゴ。ピーマンにスクランブルエッグを詰め込んだヒマワリに、カリフラワーに黒ごまをあしらえたヒツジさん。極めつけは鮭フレークで白米の上に描かれたハートマーク。
 わざわざ携帯で撮った写真を見せて丁寧に説明してくれましたよ。あの虚言癖持ちの自殺願望者は。
 噂の発端が奴であることは間違いないので、他の奴等よりも丁寧にしばいておいた。向こう一ヶ月、一人でまともな生活を送ることは不可能だろう。
 帰ったらアリュセウにも相応の罰を与えて、一万字以上の反省文を書かせる。ソレを公式発表して、必要とあらば本人の口から否定させる。
 そして後はひたすら耐える。このおぞましい噂が消えてなくなるまで耐え続ける。ソレしかない。
 だからコチラはまだましなんだ。具体的な解決手段や自分の中での心づもりがちゃんとできている分、ほんの僅かではあるが希望が見出せる。迷うことなく前に進める。
 だが、もう一つの方は……。
(朝顔の野郎……)
 顔をまた窓の外に向けなおし、真夜は昨日のことを思い出す。
 朝顔との別れ際。アリュセウとのことを誤魔化すために、彼女に対して吐いてしまった暴言。
 アレが咄嗟に口から出てしまった世迷い言だということは、朝顔も十分承知してるんだろう。だから――

『ゲェレヘヘヘヘヘヘヘヘヘ! ぶへっッ! ボハハハハハハハハハ! どぅわぁらハハハハハハハハハ! ヒッ、ひっ、ヒぃ! ぎょんんんんんんんんん! デベヘヘヘへへへへへへ! どはは! ダハ! でぃはははははははは!』

 人目もはばからずに笑い転げたんだ。
 時間にしてゆうに五分間。殆ど息継ぎすることなく、笑いたい放題笑ってくれた。
 そして一通り笑い終えた後、満ち足りた表情で帰っていった。
 今でも忘れない。あの時の顔付き。
 まるで鬼の首を取って塩漬けにし、小さくなったソレに金具を付けてピアスにした時のような……。
 今日はまだ朝顔に会っていない。会わないよう意識的に避け続けている。できることなら今後ずっと会いたくない。次会う時にどんな顔をすれば良いのか分からない。
 気まずい? ソレは違う。似ているが少し違う。
 別に朝顔のことが好きだったわけじゃないんだ。だからフラれたとか、拒絶されたとか、そういう感情は一切ない。
 そう、何というか……ただ純粋にショックだったんだ。
 あそこまで正面切って笑い飛ばされる逆に気持ちよくなりそうなもんだが、そうではなかった。
 例えば、合コンで全く狙ってなかった女の子と一緒に残って、すぐにでも帰りたいけど、ソレはあまりに露骨すぎるから『次、何か飲む?』とか言ったら『酔わせて何する気?』ってイヤそうに返された時の気分というか……。
 例えば、まだ幼稚園児の女の子とオママゴトで遊んでいて、『パパのことすきー?』ってじゃれながら聞いたら『ウザいからきらいー』って無邪気に返された時の気分というか……。
 例えば――
(やめよう……)
 際限なく落ち込んでいく気分に、真夜は自分の口から呼気以外の何かが出ていくのが見えた。
 しかもアイツは自分がアリュセウと本当に付き合っていると思い込んでいる。アリュセウが男だと知った上で。
 昨日はアレから放心し続け、気が付いたら朝になっていたから何もできなかったが、今日は帰ったら速行であの悪ふざけの過ぎる変態ショタに折檻を……。
(ん……)
 制服ズボンのポケットから振動を感じ、真夜は思考を中断してソレを取り出す。二つ折りの携帯が着信を告げていた。ディスプレイに表示されたのは見たことのないナンバー。
「……もしもし」
 通話ボタンを押し、慎重な声で出てみると、
『よぉ、俺だ』
 どこかで聞いたことのあるような、ないような……。
『取り合えず集められるだけ集めた。今日コッチに来れるか? 無理なら俺の方から出向いてもいいが』 
 椅子を蹴って立ち上がる。
 携帯を握る手に自然と力が込められていた。血管の中に冷水でも通されたかのように、体温が急激に下がっていくのが分かる。
「何人だ」
『十人ちょっとってとこか。昨日のヤツの目撃者もいる』
「俺が行く。四時の例の自然公園で」
『分かった。待ってる』
 短いやり取りを済ませ、真夜は通話を切った。
(……来た)
 そしてゆっくりと深呼吸をしながら思考を切り替えていく。
 もうアリュセウのイタズラだ朝顔の反応だと、浮ついたことを考えている場合ではない。気持ちを引き締めて精神を緊張させなければならない。
 今から行く場所で、ついに分かるかもしれないのだ。
 ストロレイユの居場所が。いや、必ず分かるはず。
 十人もいれば十分だろう。彼らから犯人の人相を聞いて、アリュセウが記憶の中からその人物を特定して、釣り竿で記憶を消して、軌跡を生み出して。
 もし十人が見たという犯人が本当に同一人物であれば、十本もの橙色の筋が一箇所に向かうことになる。ほぼ確定だ。ストロレイユに間違いない。そしてアリュセウがストロレイユの顔を直に見れば、例え今回逃がしたとしても次からの捜索は格段に楽になる。
 今度からはストロレイユを見たという人物を、アリュセウの目だけで見分けることができるようになるのだから。そして彼の中からストロレイユに関する記憶を消せば、また軌跡は発生する。
 追い続けられる。捕まえるまでずっと。いや――
「ワリ、俺ちょっと今日早退するわ」
 鞄を持ち、真夜は声を掛けた女子生徒の返事も待たずに教室を出た。
 そんな甘い考えではダメだ。今回で勝負を付けるつもりでいないと。
 ストロレイユは【意識の施術者】。アリュセウより一つ上のポジション。当然、軌跡は見えているだろう。なら十本もの軌跡を向けられれば、自分を誰かが探していると考えるのは当たり前のこと。いや、『誰かが』ではない『プラクティショナーが』だ。
 次からは間違いなく警戒する。何らかの対策を打とうとする。
 なら二度目はないと考えるべきだ。 
 それになにより、ストロレイユはもう近くまで来ている。自分達がチンタラしている間に、周りから被害者が出たのでは何のために頑張っていたのか分からない。
(決める) 
 一回で終わらせる。今日で終わらせる。
 最初で最後のチャンスだ。

 背の低い木々が柵のように立ち並んでいる自然公園。その名の通り、自然の景観を損ねることなく様々なアスレチックが用意されている。
 約束の時間の二十分前に着いた時には、相手はもうすでに来ていた。
 眉なしを筆頭に、相変わらず個性的な連中が顔を揃えている。そのせいか辺りには他に人がいない。まぁ今の自分達には好都合だが。
「よぉ、早かったな」
 切り株のベンチから腰を上げ、眉なしは昨日同様威圧的な視線を向けてくる。今は協力者だが、やはりどうしても好きにはなれない。
「コイツらだ。知ってることは全部話して、聞かれたことには嘘を付かずに答えるよう言ってある。好きなだけ事情聴取してくれ」
 眉なしが親指で指した方に顔を向けると、比較的普通の顔をした奴等が集まっていた。中には昨日会った関西弁とその連れの男もいる。どうやらアリュセウの最初の勘は正しかったようだ。
「おい、行くぞ」
 木の枝だけで作られた滑り台の上でじっとしているアリュセウに、真夜は鋭い目線を向けて声を掛ける。
「……なんか体調不良ですよー。絶対お前のせいですよー。お腹イタイですよー」
 だがアリュセウは応じず、膝を抱え込むようにして丸まってしまっている。
 全く情けない奴だ。挨拶代わりの復讐として、下剤入りイチゴオレを飲ませただけなのに。言っておくがこんな物はまだまだ序の口だぞ。
「お前が来ねーと始まんねーだろ。お前しか見えねーんだからよ」
「知ったこっちゃねーですよー。お前一人で何とかしろですよー」
「ポイント欲しくないのかよ。とっととストロレイユ捕まえて」
「もーどーでもいいですよー」
「終わったら甘いモン一杯食わせてやるから」
「今は食べ物の話なんか聞きたくないですよー」
 この野郎……人が下手に出てやれば……。
 だがコイツがあの目撃者達と問答して、ストロレイユの人相を特定してくれないと始まらない。ゆっくりしてたら日が暮れてしまう。そうなると面倒だ。
(しゃーねぇな……)
 真夜は面倒臭そうに息を吐き、長い前髪を触りながら集まった目撃者達の所に行って、
「あのさ、悪いんだけど一人ずつ滑り台の上に行ってくんない? そんでアイツと話してきてよ」
 一番近くにいた関西弁に声を掛けた。
 彼は一瞬、嫌そうな表情をして眉なしの方を見たが、顎で「行け」としゃくられると素直に滑り台へと上り始めた。
 どうやらこの眉なし、かなりの支配力があるらしい。たった一日でコレだけの目撃者を集められることからしても支配域の広さが分かる。ひょっとして地元ではかなり有名なグループなのか?
 にしても、この目撃者の数は凄いな。こんなに躍起になって犯人探しに協力してるんだから、被害者の大多数は自分達の仲間なんだろう。
 ……何か、ストロレイユにピンポイントで狙われているとしか思えない。
「俺が見たんは一昨日のヤツや。エライ乳のデカいネーチャンでな。髪の毛は短かった思う。黒、やったかな。狐見たいな目で人相は悪かったわ。年は……ちょっと分からん。ちょっとポチャっとした感じでな、二重顎とまでは言わんけどソレに近かった思うわ。服は白いワンピースみたいなん着とったな」
「……分かったですよー。もういいですよー。次来るですよー」
 少し顔を青くして、アリュセウは苦しそうに返す。
 うーむ、さすがにちょっと悪いことしたかな。今度からはもう少し時と場所を選ぼう。
 関西弁と入れ替わり、ツンツン頭が滑り台の階段を上がっていくのを見ながら、真夜は胸中で反省した。
「俺はさっきの奴の一個前。栃木で会ったんだ。コンビニの前でダベってる時にさ。俺が酒買いに店ん中入ったら連れがやられてて。体型は普通だったな。髪は茶色……だったと思う。暗くてよく見えなかった。肩くらいまではあったかな。鼻がちょっと高めだった。唇が厚目だったのは良く覚えるんだけど……」
「……オッケーですよー。次ー」
 アリュセウに言われてツンツン頭が下がり、今度は見た目五十代が上がって行った。
「一昨日に見た。ドエラいべっぴんさんでな。最初、相方が声掛けられた時は羨ましいな思ーとったんじゃ。で、ぼーっとしてたらヤラれててな。情けない話じゃけども。その分、よー覚えとるよ。髪は長目で背中くらいまではあったかの。波打っとった。目は大きくて二重。睫毛は長かったな。あと左の頬にホクロがあったわ。唇は薄紫。ほっそりした体つきじゃけども、肉の付いとるトコはしっかり付いとった。キャリアウーマンみたいなスーツ着とったよ。多分、三十半ばくらいじゃな、アレは」
「……いいですよー。はい次ー」
 適当な声で言ってアリュセウは次の目撃者を呼ぶ。
 本当に大丈夫なんだろうな。聞いてる限り殆ど別人じゃないか。まともな共通点は女ってことくらいしかないんじゃないのか? こんなあやふやな目撃情報ばっかりじゃ警察も犯人像を特定できないわけだ。テレビで詳しいことは何も分かっていないと言っていた理由が分かった。
 けど、アリュセウの目にはハッキリ見えているはずなんだ。一人一人が思い描くストロレイユの人物像が。違う人間の違う価値基準で見れば全くの別人でも、その情報を一人が集約して見れば――
「アタシはさー、昨日の犯人なんだけどさー」
 見た目五十代に代わり、すでに絶滅したと思われていたガングロ女がアリュセウに話し掛けた。
「男だったよ。背が高くて、ヒョロッとしてて、インテリっぽい眼鏡掛けてた。でさー、軍隊の制服みたいなの着てて。白い手袋なんかしててさ。でも超カッコ良かったよ。できる男って感じで。クールなフインキが最高」
 一瞬、自分の耳を疑った。
 似ている。あまりにも特徴的な部分が似すぎている。
「な、なぁ!」
 滑り台を逆走して駆け上がり、真夜はガングロ女に詰め寄った。
「ソイツ! 軍服ってボタンが付いてなくて茶色じゃなかったか!? 目ぇ金色じゃなかったか!?」
 凄まじい剣幕でまくし立てる真夜に、ガングロ女はやや気後れしながらも小さく頷く。
「ラミカフ……」
 そして無意識に真夜の口からその名前が漏れた。
 いたんだ。あの時、アイツがあそこに。
 アリュセウが被害者の悲鳴を聞いた後に、ラミカフは自分の前に現れた。ラミカフは犯行の後で自分の前に現れた。そして自分も被害者の仲間入りにしようとした。
 そうだ。間違いない。
 色々と思わせぶりなことを言っておいて、結局のところ目的はそこなんだ。
 つまり無差別殺人。もうコレしかない。
「アリュセウ! 聞いただろ! 犯人はラミカフだ! アイツがストロレイユって奴になりすましてたんだ! きっと変装がその時々で違うから情報が食い違ってくる! アイツを探してしばき倒せばお終いだ!」
 自分とガングロ女とに挟まれて小さくなっているアリュセウに、真夜は熱を帯びた口調で叫ぶ。
「……違うですよー。犯人が二人いるってことですよー」
「だとしてもだ! まだストロレイユって奴の方は見たことがねぇ! ホントにいるのかどうかも分からねぇ! ならハッキリしてるラミカフの方を叩く! まずはアイツからだ!」
「……薄々は、分かってたですよー。【記憶の施術者】と【意識の施術者】……。前にも言ったですが能力に決定的な差があるですよー」
 アリュセウは俯いたまま体を小刻みに震わせ、独り言のように呟く。
「アリュセウ……?」
 様子がおかしい。ただの体調不良ではない。もっと他の何か……。
「……最後の忠告ですよー。大怪我しないウチに手を引いた方がいいですよー」
「な……!」
 か細い声で漏れたアリュセウの言葉に真夜は切れ長の目を大きく見開き、
「だから昨日から何なんだよ! 急に! ちゃんと理由言えよ!」
 アリュセウの華奢な肩を強く掴んで顔を上げさせ、
「……恐いんですよー」
 思わず声を呑み込んだ。
「お前……」
「……また、殺される……ですよー」 
 途切れ途切れに紡がれる弱々しい言葉。
「泣いて、んのか……?」 
「え……」
 言われて初めて気が付いたのか、アリュセウは自分の目元に指を持っていく。そして透明の雫を掬い取り、しゃくり上げながら鼻をすすった。
「ちっ、違うですよー……コレは……」
「ラミカフってのはそんなヤバいのか」
 自分で言ってて馬鹿だと思う。どんな奴なのかは身を持って体験しているではないか。
「……ヤバいですよー」
「さっき『また殺される』って言ったよな。アレ、どういう意味だ」
「え……」
 真夜の問い掛けにアリュセウは放心した表情で漏らす。そのまましばらくコチラを見つめた後、
「分から、ないですよー。殺されてたらココにいないですよー……」
 また少し俯いて曖昧に言った。
「まぁな」
 その言葉に真夜は苦笑しながら頷き、アリュセウの頭を軽く撫でる。
「分かった、ラミカフは後回しだ。お前の言う犯人二人説を信じて、まずはストロレイユを探そう」
 そして極力柔らかい口調で言う真夜に、アリュセウはくすぐったそうに小さく呻き、
「あ、ありがとう、ですよー……」
 上目遣いでコチラを見ながら言った。
 とにかく、この怯え方は尋常じゃない。昔に何かあったんだ。
 殺されてはいないにしろ、殺されそうになったことがあった。そして恐らく、アリュセウの記憶はソレが原因で途切れてしまった。
 自分の精神を守るために。忘れることで正常を保つために。
 確かに、不必要な記憶や思い出というのは、あるのかもしれない……。
「……で、何してるですかー?」
 一転して冷め切ったアリュセウの声。
 いつの間にか彼の体を抱きしめていた腕は、そのまま喪服の中へと滑り込んで――
「さ! さぁ! 続き! 情事聴衆の続きだ!」
「……ソレを言うなら事情聴取ですよー」
 無意味に胸を張って高らかに宣言する真夜に、アリュセウはジト目を送りながらボヤいた。
 嗚呼……もう反応しないと思っていたのに……。
モドル | ススム | モクジ





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。
Copyright (c) 2008 飛乃剣弥 All rights reserved.
 

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system