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● 記憶の施術者 ◆第七話『覚醒! コレが本当の自分だ!』◆ ●


刀w記憶喪失の特効薬は精神ショック。昔から相場は決まっている。
  そしてろくでもないことが起こる。こちらも相場は決まっている』

 教室の中の雰囲気はまさに異常だった。
 三十人くらいいる生徒の半分以上が気を失っている。
 机に突っ伏したままの奴もいれば、床に転がっている奴、廊下に出ようとしたところで倒れ込んでいる奴まで。
 周りは、ウィルスだ、電磁場だ、宇宙風だと好き勝手に喚き立てながら、半狂乱になって教室から出て行こうとしている。しかし心に体が付いていかないのか、まともに逃げられている奴は殆どいない。
 だがしょうがない。
 何の前触れもなく突然なんだ。自分だっていきなり周りの人間がバタバタと気絶しだしたら、きっと彼らと同じ行動を取っている。
 しかし、今はそうなるわけにはいかない。自分が何とかしなければならないのだ。この事態を辛うじて理解できるのは自分だけなのだから。
「おい! おぃ! おおい!」
 真夜は一番近くに倒れている女子生徒のそばにしゃがみ込み、肩を揺らしながら大声で呼んだ。
 だが反応はない。
 全身を弛緩させ、仰向けのまま目を閉じている。完全に意識が落ちてしまっていた。
(ストロレイユ……!)
 アイツか。アイツがあの伸びる爪で意識を。
 だがどうして。アイツの狙いは自分だったはず。なぜかラミカフが守ろうとしている自分に興味を持って、取り引きの材料にしようと……。
 ならコレはそのための伏線? 騒ぎを起こしてソレに自分を巻き込んで、ラミカフを釣り上げようしている? それとも……。
(ラミカフ!)
 アイツがやっていることなのか。今まで色々と自分の周りで鬱陶しく動いていた、その延長で。刺激を与えて自分に何かを思い出させるために。
「クソ!」
 真夜は忌々しく叫んで女子生徒を寝かせ、倒れている別の生徒の元に走り寄った。
 コレを引き起こしたのがラミカフだろうがストロレイユだろうが関係ない。今重要なのはそんなことではない。今しなければならないことは、一分一秒でも早くこの状況を何とかすることだ。
 彼らは自分のせいで巻き込まれてしまった。責任は十分すぎるほどにある。
「おぃ! 起きろよ! いいから目ぇさませって!」
 抱き起こした男子生徒の肩を強く揺さぶりながら、真夜は彼の耳元で声を張り上げる。だがやはり反応はない。頬を叩いてもピクリともしない。まるで全身麻酔でも打たれたように昏睡している。
(どうする……!)
 どうすればいい。こんな時、頼りになるのは……!
「アリュセウ!」
 そうだ。どうしてすぐに思い付かなかったんだ。
 アイツは【記憶の施術者】。ポイントだかなんだか知らないが、ソレを使えばなくなった記憶を蘇らせることもできると言っていた。なら意識だって……!
 自分が学校に行く時はまだ寝ていた。今もきっと家にいるはず。電話すればきっとすぐに――
「……ぅ」
 下から呻くような声が聞こえた。
「あ、……あぁ?」
 そして腕の中で男子生徒が気怠く呟き、
「……お前、何やってんの?」
 コチラに嫌そうな視線を向けながら顔をしかめた。
「俺さ、そーゆー趣味ないんだけど」
 そして真夜の腕を振り払って立ち上がる。
「……え?」
 一瞬、何が起こったのか理解できない。ついさっきまで確かに意識がなかったはずなのに。何をやっても目を覚まさなかったはずなのに。どうして、急に……。
「あれ? 何? なんで私こんなんなの……?」
「うっそー、服汚れてるじゃんー」
「イチチ……何だコレ……?」
 声に反応して周りを見回す。
 ほんの数秒前まで人形のように横たわっていた生徒達が一斉に起き始めていた。
 意識を取り戻した彼らに抱きついて泣き声を上げる者。安堵して床にへたり込む者。先生を連れて教室に飛び込んでくる者。
 静まりかえっていた室内に一気に騒がしくなり、喧噪とも取れる異様な雰囲気が広がり始めた。
(どう、なってんだ……)
 呆然としながら立ち上がる真夜。そして切れ長の目を所在なさげに泳がせて――
「お……」
 緑のオカッパに目が止まった。
 朝顔は床の上であぐらを掻いて腕組みし、しきりに首を傾げながらうんうん唸っている。
 彼女も意識を失っていた者の一人だ。だが今は平気そうに見える。本当によかった。
「どしたよ。気分でも悪いか?」
 真夜は嘆息しながら朝顔に近付き声を掛ける。
「ん?」
 彼女は二重のパッチリとした瞳でコチラを見上げ、
「キミに一つ質問がある」
「おぅ」
「私は誰だ」
「……はへ?」
 今……コイツは何と言った?
「んーむ。どうやら記憶が綺麗サッパリ消えてしまっているようなんだが。もしキミが私のことを知っているのならぜひ教えて欲しい」
 待て。待て待てマテ。
 落ち着け。落ち着くんだ俺。こんな時こそしっかり落ち着いて、目を瞑ったままゆっくりワン・トゥー。
 ……よし。
「で? 何だって?」
「だから私が何者かを教えて欲しい。制服を見るに、取り合えずこの学校の生徒であることは間違いなさそうなんだが……」
「HAHAHA。なかなか面白いジョークだ。いつものオヤジギャクより数十倍はイケてるぜベイベ。けどもちっと空気を読んだ方が良い。今はそーゆーのシャレになってないからよ」
「キミが知らないと言うのなら他に人に聞くとしよう」
 朝顔は素っ気ない喋りで言って立ち上がり、近くにいた女子生徒に――
「おい待てって。俺なんかしたか? お前が機嫌悪くなるようなことしたか?」
 その肩を掴んでコチラに振り向かせる。
「随分と変なことを聞く男だね。私はキミのことを何も知らないのに、気分を損ねるも何もないと思うのだが。それとも心当たりがあるのかい?」
 コイツ……冗談じゃないのか? まさか本当に?
 朝顔は色々と変な奴であることは確かだが、こんな悪ふざけをするような性格ではなかった。というよりいつも真面目なんだ、コイツは。真面目にふざける奴なんだ。だからこんなことで人をからかうような真似はしない。シャレにもならないようなことを奴じゃない。なら……。
「分かった、五月雨。協力しよう。俺が付き合う。俺にやらせてくれ」
 真夜はいつになく真剣な表情で朝顔を見つめ、固い決意を乗せて言い切った。
 朝顔がこうなった原因は自分にある。自分がラミカフだかストロレイユだかを呼び寄せてしまったためにこうなったんだ。
 それに以前、コイツが記憶喪失になってくれればなんて馬鹿なことを考えた時もあった。きっとコレはその罰なんだ。だからなおのこと自分が何とかしなければ。
「五月雨……ソレが私の名字か。して名前の方は?」
「朝顔……さみだれ、あさがお……」
 真夜は聞き取りやすいようにゆっくりと朝顔のフルネームを口にする。
「どうだ。思い出しそうか?」
「最近髪が“さーみだれ”て“あさがお”っくうなんだよねー……ぶべっ! ぼぉははははははははははははは!」
 ……この野郎。
「では私の好きな食べ物は?」
 ひとしきり笑った後、朝顔はピタリと真顔に戻って聞いてくる。
「生野菜全般」
「生野菜とは……」
「なんなら何か持ってきてやろうか?」
「んむ。しかしキュウリ(急に)言ったんジャガイーモ(だがいいの)か? キミもなかなかニンジン(人情)深い、な……ゲヘッ! どぅははははははははははははははは!」
 ……本当に記憶喪失なんだろうな。
「では私の長所と短所を聞こうか」
 異常にメリハリよく表情を戻し、何事もなかったかのように朝顔はまた聞いてくる。
「長所ぉ? そんなモンは知らん。短所はそのオヤジギャクと一人SMと色気がないこと……上げだしたらきりがないから以下略だ」
「では私はキミから見て短所の塊という訳だな。んんむ、なるほど。ところで歩道と車道、どっちが暗いと思う?」
「あぁん? 何だよイキナリ」
「答えは車道だよ。シャドウなだけに、影が多……ぎゃひっ! ぶればははははははははははははははははははははははははははは!」
 ……帰ろう。
「まぁ待ちなよ。キミのおかげで思い出せそうなんだ。こうやってバカ笑いをするたびに何かが戻りつつある気がする」
 背中を向けた真夜の制服を引っ張り、朝顔は必要以上に慇懃な声で言ってくる。
 ……本当かよ。何だか果てしなくウソくさい気がするが……。
「そこで、だな。一つ閃いたんだ」
 嫌そうな顔で振り返る真夜に、朝顔は器用に片目だけを瞑って続けた。
「ここ数日で私が大笑いした時のことを再現して欲しいんだ。キミの知っている範囲で」
 コイツの怪笑を再現だぁ?
「そうすれば全部思い出せそうな気がする。そんな予感がするんだ」
 真っ直ぐで真摯な眼差し。そこからは偽りや嘘などは一切感じられない。
「頼むよ」
 声のトーンを少し低くして、朝顔は目を逸らすことなく言ってくる。
 ……しょうがないな。ここまで言われたんじゃ受けないわけにはいかない。元々は自分で撒いた種だ。それに過去の記憶がないことへの不安感はよく分かる。
 自分も今、似たような状況だから……。
「わーったよ」
 大袈裟に息を吐いて見せ、真夜は長い前髪をいじりながら返した。
「有り難う」
 ソレに朝顔は微笑で応える。
 ……なんか、面と向かって言われると照れるな。この『有り難う』って言葉は。
 とはいえ、コイツがバカ笑いするのなんていつものことだし。その中でも特にインパクトの強かったものと言えば……。
「うーん、と……」
 真夜は教室の天井を見上げながら思考を巡らし、順番に過去へと遡って――
(あ……)
 一つ、思い当たった。いや、ブチ当たってしまった。
 朝顔が死ぬほど大爆笑したシーン。ソレが鮮明な映像と音声を伴って頭の中で再現される。二度と思い出すまいと心の奈落に葬り去ったはずの、今世紀最大の羞恥。
「どうだい? 何か良いのが“あったかい”? ソレは“暖かい”思い出か……い、もへぇ! でーっほヘヘヘへはヘヘヘへヘヘヘヘヘへ!」
 ……やるしかないのか。
 コチラの胸板をバンバンっと叩きながら笑い転げている朝顔を見下ろし、真夜は嫌々ながら決意を固めた。そして目を瞑り、頭の中でゆっくりとワン・トゥー。
 ……よし。
「朝顔」
 下の名前で彼女を呼び、真夜はその肩を両手でしっかりと持って目を合わせ、
「俺は――」
 唇を小刻みに震わせ、喉の奥で往生際悪くもがいている言葉を一息に、
「お前が好きだ」
 吐き出した。
 そして時間が止まった。
 オ゛エァァァッ! という空気の悲鳴が聞こえる。音が、色が、匂いが、煩悩が。自分の中で当たり前のように存在していた物が次々と破壊され、見たこともない世界を再構築していった。
 常識が非常識に、巨乳が貧乳に、魅惑のお姉様が女装変態ショタへと置き換わっていく。自分は女嫌いで男にしか興味を示さない、さすらいのプラトニック・ラバー。それも喪服の金髪釣り師であればなおグッド。さぁ、未体験ゾーンに破滅の第一歩を踏み出そう。レッツゲーイ!
(……は!)
 い、いかん。自分の言葉があまりに痛々しすぎて、意識が三途の川ハローってな具合になりかけていた。
 だが、ソレなりの成果はあったはず。コレで朝顔は大怪笑して……。
 ……笑い声が聞こえないなぁ。というか妙に教室内が静まりかえっているのは何でだ? ひょっとしてみんな帰ってしまったのか? ああそうか。無事だったとはいえ病院には行くわな、一応。何の異常も見付からないと思うが。
 真夜は前世に飛んでいた焦点を戻し、辺りを見回した。
 ――いる。
 みんなちゃんといる。勢揃いでいる。ガン見でいる。
 何だ。何だこの雰囲気は。何なんだその何かを期待するような、それでいて精神的虐待を受けた珍獣を観察しているような目つきは。
 おい。お前ら超絶に勘違いしてないか? 自分はただこのイカレ女の記憶喪失を治すためにしかたなくだなぁ……。
 って、朝顔。お前何やってんだ。早く笑っちまってこの嫌すぎる空気を何とか――
「村、雲……」
 顔が紅い。心なしか瞳が潤んでいるようにも見える。
「あの……五月雨、さん?」
 朝顔は何も言わない。ただコチラをじっと見つめている。
 お、おいおい……。
「真、夜……」
 そして自分のことを下の名前で呼び、
「だーッしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃ! ワーッしゃっ! ワーッッしゃ! わーしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃしゃ!」
 バシバシバシィッ! と平手を力一杯叩き付けながら、かつてない絶笑を繰り広げた。
 ……変な汗掻かせやがってこのアマぁ。
 周囲から落胆とも安堵とも侮蔑とも取れる溜息を聞きながら、真夜は居心地悪そうに舌打ちする。
「思い出した! 思い出したよ村雲真夜! キミがおぎゃあと生まれた時から発禁のポルノにかじりついているような奴だということをしっかりと思い出したよ! 無論、私のこともな!」
 ……よけいなお世話だ。取り合えず笑うか殴るか叫ぶかどれか一つに絞れ。
 ま、何はともあれ元通りになったわけだ。ひとまずはよかったよかったと言ったところだが……両手放しで喜ぶわけにもいかない。
 また同じようなことをやられるかもしれない。いや、今度はもっと大規模に来るかもしれない。そうなる前に何とかしないと。
 ゆっくりと気持ちの整理をしている時間もなさそうだ。
 ラミカフとストロレイユ。速行で両方を見つけ出してしばき倒す。
 二人の顔は覚えているんだ。軌跡を使えば居場所くらいすぐに分かるはず。
 だが、見つけてどうする。その後どうやって対抗する。腕力には自信があるが、昨日の二人の戦いぶりを見る限り、そういう次元の話じゃない。
 ストロレイユは、あの眉なしをあっさり殺した。
 そう……殺しやがったんだ……。アイツが持っていたナイフを使って……。ソレを目に突き刺して……何の躊躇いもなく……。
 ナイフ……か。眉なしは最初からストロレイユを見つけて殺すつもりだったんだろう。仲間の仇をとるために。ストロレイユに意識を奪われた仲間の怨みを晴らすために。
 だが、眉なしの仲間達も怨みを買っていたんだ。
 ストロレイユは自分で言っていた。ターゲットとしている者達のことを。
 ソレは犯罪者。
 人を殺したり、性的な暴力を振るった者達を対象にしている。新幹線の駅で最初に会った時も言っていた。

『ココにはね、不必要な奴等が沢山いるわ。死んで当然の奴等が、平和そうな顔して図々しく生きている。おかしいと思わない?』

 恐らく法で裁かれていない、あるいは例え裁かれたとしても軽い罰で済まされている犯罪者を狙っているんだ。そういった者達が、たまたまあの眉なしのグループに多くいた。だから彼らの中には目撃者も沢山いた。
 動機は分からないが、ストロレイユが今まで意識を刈り取ってきた者の共通点はハッキリした。警察も彼女一人の犯行ならすぐに分かっただろう。
 しかし、そこにラミカフが関わっていたからややこしくなった。
 アイツは理由なんかない。ただ無差別に選んでいるだけだ。ストロレイユがやったように見せかけて、世間の混乱を影から見て笑っているだけだ。
 完全な愉快犯。彼こそストロレイユに狙われるべき存在なんだ。そして二人が潰し合ってくれれば……。
(潰し合い、か……)
 頭に浮かんだことを、真夜はもう一度心の中で繰り返した。
 昨日、アリュセウも同じことを言っていた。二人がぶつかり合って消耗してくれるならそっちの方が良いと。
 確かにその通りだ。卑怯な戦法だが正攻法でどうにかできる相手ではない。
 なら、その方向で考えを進めていけば……。いや、自然とそうなるか。
 ストロレイユは自分を狙っている。そしてラミカフはどういうわけか自分を守ろうとしている。だからストロレイユが仕掛けてくれば、自ずと二人が戦い合う構図が生まれる。
 あとは、ストロレイユが自分を狙ってくれさえすれば……。今回のように周りを巻き込むのではなく、自分だけを攻撃してくれれば……。
「なーに一人でブツブツ反省してんだよ、む・ら・く・も・クンっ」
 後ろから首筋に腕を回され、真夜は大きく前につんのめった。無意識に手が前に伸び、未だに笑い転げている朝顔の肩を掴んで体を支える。
「まーそう落ち込むなよ。人生色々あるさ。大体お前には可愛い可愛い喪服新妻が……」
 床と一体化した。
 物の言わぬ肉塊と化したダテ眼鏡の頭を踏みつけながら、真夜は朝顔から体を離し、
「じゃあ気を付けて帰れよ。最近は特に物騒だからな。くれぐれも一人で帰るなよ。いいな。分かったな」
 念を押すように言って彼女に背を向けた。
「ならキミが一緒に帰ってくれればいい」
 そして後ろからまたすぐに声が掛かる。
「コンクールに出す作品も終わりが見えてきてね。放課後残って頑張らなくても、昼休みの作業だけで間に合いそうなんだ。だから今日は今から帰るつもりなんだが、どうだろう? まぁキミさえよければだがね」
 振り返る。
 片目だけを瞑り、朝顔は緑色の髪の毛を額に撫でつけながらコチラを見ていた。
「……何だよ、急に」
「ただ何となくなんだがね。ちょっとキミとゆっくり話でもしたくなった。もしできるならキミの部屋も見てみたいと思ってね」
 周りから好奇に満ち満ちた声が上がりまくる。
「むら、くも……リカバるチャ……」
 深々とめり込んだ。 
 全く、この馬鹿共が。脳天気に騒いでる場合じゃないんだぞ。
 ストロレイユもラミカフも自分が目的なんだ。だから自分の側にいるということは、それだけ巻き込まれやすいということ。命を落とすかも知れないってことだ。
「ダメかな? 私のように色気のない女とでは、一緒にいるだけ時間の無駄かな?」
 自虐的な言葉を恍惚とした表情で言い、朝顔は口の端を釣り上げて見せる。
 くそ……そんな言い方をされたら断りにくいじゃないか。一緒に帰りたいとか、部屋に来たいとか、全く本当にどういう風の吹き回しなんだよ。
 コレは新種のイヤガラセか? 攻めっ気が次世代の花を咲かせたのか? 今まさに真境地を開拓しているのか? まさかすでにクラスチェンジ済みとか? ならリセットボタンは親知らずの奥か。それじゃ手が出せないじゃないか。くそぅ……。
「……わーったよ」
 しばらく考えた後、真夜は観念したように言った。
 まぁ軌跡は自分にも見えるんだし、朝顔一人くらいなら守れるだろう。そうすればラミカフも必然的に朝顔を守らなければならなくなるわけだし……。
 それに、自分から離れているからと言って必ずしも安全だとは限らないしな……クソ。
「そうか。ソレはよかった。なら早速帰ろう」
 妙に弾んだ朝顔の声。
 ホント、何がそんなに嬉しいのやらさっぱり理解できない……。

 強い日差しが降り注ぐ通学路。アスファルトから照り返してくる熱が、うっすらと陽炎を生み出している。歩道に植えられた木が青々と葉を茂らせ、僅かに陽光を遮ってくれた。しかしセミの声からくる暑さがソレを見事に打ち消している。
「で、どうだい? 捜査の進捗具合は。犯人は見付かりそうかい?」
 閑静な住宅街。道が僅かに上り坂となったところで、朝顔はいきなり聞いてきた。
「な、何の話だよ」
 さっきまで編み物や生野菜の話しかしてなかったのに、突然何を。
「頑張って探してるんだろう? 喪服を着たあの可愛らしい男の子はキミの助手といったところかな?」
 顔をコチラに向け、朝顔は得意げに鼻を鳴らして言ってくる。
「ふふーん。まさか私が知らないとでも思っていたのかい? キミの行動は単純で分かり易いからな。昔からそうだった。いつもふざけているクセに、妙な正義感だけは人一倍あるんだ。それで似合わないことをして一人で突っ走る。で、最後は大怪我して帰ってくる。ケンカっ早いのはあの時から全く変わってないな」
 口の端を軽く持ち上げ、微笑を浮かべる朝顔。
 くそ……どうする、このまましらばっくれるか。勝手な妄想だと決めつけて誤魔化すか。
 どこまで勘づいているのかは知らないが、間違っても朝顔に害が及ぶようなことだけは……。
「それにしても暑いな……。まぁ後一週間ほどで夏休みになるわけだが、何か予定でもあるのかい?」
「……別に」
「それまでに犯人を何とかしないと羽を伸ばせないし、女の子と会う約束をするわけにもいかないということか」
「だからさっきから何の話なんだよ。俺が警察ゴッコしてるって証拠でもあんのか?」
「キミが犯人と一緒にいるところを見た」
「な……!?」
 思わず足を止め、真夜は吃音を上げて朝顔の顔を覗き込む。
 まさか、昨日のあの場所に朝顔が……!?
「――と、言ったらキミはさぞかし驚くだろうな。例えば今のように」
「な……!?」
 そしてまた同じ声を発する。最初よりも大きく。
「本当に分かり易くていいねぇ、キミは。隠し事なんか絶対にできないな」
 くっく、と意地悪く喉を鳴らして笑いながら、朝顔は制服のリボンを取って胸元を緩めた。
 は、ハメられた……。馬鹿馬鹿しいくらい単純なカマ掛けに引っかかってしまった……。
「キミが初めて私の家に来た時のこと、覚えているかな?」
 眉間に皺を寄せ、露骨に悔しがる真夜を余所に、朝顔はリボンで髪を後ろに纏めながら独り言のように続ける。
「私はハッキリと覚えているよ。祖母に手を引かれて、挨拶に来たキミの顔を。何かに怯えていて、いつも誰かの顔色を窺っていて、自分に言いようのない劣等感を抱いている。今のキミからは想像もできない、実にしおれた姿だった。喧嘩すればきっと私が勝っていたな」
「けっ……」
 楽しそうに昔話を語る朝顔に、真夜はバツ悪そうに顔を逸らした。
 あの時はまだ児童養護施設から出てきたばっかりで、大人はみんな恐い生き物なんだと思っていたんだ。自分を虐げる悪者だと……。
「けど、何て言うんだろうな。初めて会ったはずなのに不思議と親近感が湧いてな。キミが自分達の家族になったんだということをすんなりと受け入れられた。まぁ生まれた時にいた病室が同じだったからかもしれないがな。私はその時にキミのことを見ていて、すでに記憶していたという可能性も十分ある」
 白のフレアブラウスをぱたぱたとさせて風を取り込み、朝顔は暑そうに息を吐いた。
 全く、相変わらず無防備な奴だ。変わってないのはお互い様だろうに。
 小二の時くらいまで一緒に風呂に入っていたし、小四になっても全裸で家中走り回っていたこともあったし、小六ですら平気で同じ布団に寝ていた。
 そういう恥じらいのなさが色気をなくすんだ。もっと普通にしていればそれなりなのに……勿体ない。
「腐れ縁というのは何とも不思議な物だな。コレだけ長く関係が続いているのはキミくらいのものだ。キミのことを良く知っている人間は恐らく沢山いるだろうが、私のことをキミくらい知っている人間はそういない。両親くらいだろう。肉親を除けばキミだけだ」
 少し俯き、声を陰らせて朝顔は呟く。
「何だよ、急に。妙に改まりやがって。そのドタマで光合成し過ぎて脳味噌やられたか?」
 どこか居心地の悪い空気。ソレを押しやるため、真夜は軽い口調で茶化すように言った。
「かもな。自分でも、おかしなことを口走っていると思う。ただ、十分に気を付けて欲しいんだ」
「あぁん?」
「キミが今やっているのは子供の喧嘩じゃない。ガキ大将が上級生から低学年の子を守っているのとはわけが違うんだ。下手をすれば命を落とす。そのことを、もう一度肝に銘じていて欲しい」
 立ち止まり、朝顔は体をコチラに向けて強い語調で言ってくる。
 一瞬、セミの声がやんで周囲の音に穴が空く。ソレを近所の子供達の声が埋めていき、坂の上から下ってくるトラックの排気音が上書きしていった。
 自分達の周りの時間だけが切り取られ、過ぎ去って行くはずの流れの中で孤立して――
「ま、要するにあまり根を詰めすぎるなと言いたいんだ。昔、一週間で学校中の女子のスカートを捲ると豪語して酷い目にあったことがあっただろう? アレと同じだよ」
「バ……! アレはどっかの誰かが、先生も含めないと意味がないとかぬかしやがるから……!」
「とにかく」
 声を荒げて反論しようとする真夜の言葉を遮り、朝顔は再び歩き出して続ける。
「無茶なことはしないでくれ。私を良く知る人間がいなくなってしまうのは辛いものだ」
「……死亡前提かよ」
 げんなりとした表情で漏らし、真夜は朝顔の後ろをとぼとぼと付いて歩いた。
「さっき教室のみんなの意識がなくなったことや、私の記憶が途切れたのも、今キミがしていることと何か関係あるんだろう? あの時キミは『自分の責任だ』って顔をしていたからな。あの顔はあまり良くない。切羽詰まってる感じがプンプンしていた」
 全部お見通しかよ……。ま、朝顔の記憶が途切れるなんて大事件、そう起こるもんじゃないからな。今の怪事件と結びつけてもおかしくはないか……。
「私はね、自分を囲んでくれている人達も含めて自分だと思っている。周りとの色んな繋がりがあって初めて、私という人間が形成されているんだと考えている。そしてその繋がりが濃ければ濃いほど、私は人間的に強くなれる。いざという時、支えてくれる人がそれだけいるということだからね。だから私は自分が関わった人のことを忘れない。一度でも見聞きしたことは二度と忘れない。そうすれば私の周りにいる人達が強くなってくれるから。周りが強くなれば、私も強くなれるから。私が生まれ持ったこの記憶力はそのためにあるんだ。最近、そう考えるようになってきた。ソッチの方が受け入れやすいからね。ま、物は考えようだよ。キミはこういうこと、あまり考えないんだろうな。まぁ真剣に考えられても気持ち悪いがね」
 コチラに背を向けたまま、朝顔は苦笑混じりに言う。
 彼女が持っている異常記憶力。ソレは一度で全てを覚えられるということであり、そして二度と忘れることができないということ。
 恩恵と弊害、どちらが多いのかは朝顔の反応を見ていればよく分かる。だがそれでも朝顔はちゃんと向き合っている。咀嚼して、理解して、受け入れようとしている。
 なのに、自分は……。
「ま、本当はキミを止めるのが筋なんだろうな……。危ないことは止めて、警察に任せてくれと頼むのが普通なんだと思う。けど、どうしてなんだろうな。そうやって頑張っている方がキミらしい気がしてね。止めようにも本気では止められそうにないんだ。むしろ応援したくなる。ああ……さっきと言ってることが矛盾してるな。そのつまり……上手くは言えないが、キミはキミでいて欲しいんだ。この先ずっとな」
「何だそりゃ」
 歯切れ悪く言った朝顔に、真夜は半笑いになって返した。
 全く、さっきから何を恥ずかしいこと面白可笑しく喋っているかと思えば、オチはソレか。ご立派なような的外れなようなところが実にコイツらしい。
「周りを守ろうとする気概は非常に素晴らしいことだが、まずはその前に自分をしっかり守ってくれよ」
「へいへい。ご忠告どーーも」
 長い前髪を掻き上げながら、真夜は語尾を不必要に伸ばして言う。
 自分を守る前に、まずは自分と向き合う所から始めないとな。自分の、過去と……。
「……なぁ、五月雨」
 しばらく無言で歩いた後、真夜は少し思い詰めた表情で切り出した。
「お前、さ。自分が生まれた直後のことって、覚えてるか……?」
「ある程度はな」
 コチラに顔を向けて即答する朝顔。
「なら、同じ病室にいた……俺の、ことは……?」
「さっきも言ったがその辺りは曖昧だ。覚えていたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「じゃあ、よ。俺達が寝ていた病室の中全体で、おかしなことはなかったか?」
「全体……?」
 一つ一つ言葉を確かめるようにして並べる真夜に、朝顔は僅かに訝しんだ顔付きで返した。
「例えば、だな。おかしな連中が大挙して押し寄せて来ただとか……。その……誰かが……殺された、だとか……」
「キミは何が言いたいんだ?」
「覚えて……ないか?」
「残念ながらそういった記憶はないな。それにそんな派手なことが起きれば、私でなくとも覚えているさ。一緒にいた母とかな。いやそれ以前に警察沙汰になって新聞にでも記録として残っているだろう」
 滑舌の良い喋りで朝顔は整然と答える。
「そっか……。そだよ、な……」
「何だ。ソレが今回の事件と関係あるのか? その時のことが詳しく分かれば犯人逮捕に繋がるのか? そいうことなら協力は惜しまないが」
「ああ、いや……。コレは違う。コレは、単に個人的な問題だ……」
 少し顔を近付けて聞いてくる朝顔から距離を取り、真夜は声をどもらせて返した。

『貴方自身、すでに気付いているんじゃないんですか? 自分の正体に。自分の持つ力に。貴方が本来成すべきことに』

 『個』を望む者。大規模な記憶の錯乱。そして――施術者殺し。

『ポイントは生命の源ですよー。人間の輪廻転生だけじゃなくて、オレ達の生命維持にも使われているですよー』

 アリュセウの言うポイントを自分達の最も良く知っている言葉で言い表すとすれば、ソレは“魂”だ。

『ソレでは魂を穢しているに過ぎない。いつまで経っても同じ場所を堂々巡りしているだけだ。この負の連鎖は断ち切らねばらない。だから貴方が生まれた』

 自分の役割。自分が生まれた意味。
 もしソレが、本当にラミカフの言う通りだとすれば。『個』を望む者が断ち切る負の連鎖というのは――
「まぁ、人は誰でも他人に言えない悩みを持っているものさ。もし、キミが誰かに相談したくなったら、その候補者の一人として私を思い浮かべてくれて構わない。最も、こんな色気のない女がキミのお眼鏡にかなうかどうかは甚だ疑問だが」
 自嘲めいた笑みを浮かべて言いながら、朝顔は軽く肩をすくめて見せる。
 ……ったく、このドMが。まぁ否定はしないが。
「で? マジに部屋来んのかよ」
「何のために電車賃を払ってココまで来たと思っているんだ?」
 今更何を言ってるんだとばかりに返す朝顔。
 ……まぁ、ソレはそうだが。てっきりうっかりホントに冗談なのかと。
「心配するな。男として見られたくない物が部屋に転がっていることくらい熟知している」
 ……面と向かって言うなよ。
「だから今回は何としてでもソレを見つけて、キミが羞恥に沈む顔を拝もうと思う」
 ……このドSが。
「そしてその“羞恥”を辺りの“私有地”に“周知”させることで今“週血”みどろにし、よ……どへぁ! ほばーはへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ!」
 ……このド変態が。

 部屋の鍵を開けた時、奇跡的に何事もなかった。
 こういう場合は大抵、『お帰りですよーご主人様ー!』とか、『オレというものがありながらそんな女とー!』とか、まるでコチラの行動を監視しているかのようなリアクションが飛んでくるのだが……。
 ……まぁ、実際にどこかで監視しているんだろうが。
 とはいえ、まだ油断はできない。アイツの悪ノリには刮目するものがある。一回肩すかしさせておいて、その奥によく研いだ刃を仕込んでおくのは、罠を仕掛ける手段として常套だ。だから気を緩めるどころか、逆に絞め殺して掛からなければならない。
(どっからくる……)
 真夜は朝顔を手で制して部屋の外で待たせ、音を立てないようにゆっくりと扉を開いた。
 電気のついていない狭く暗い室内。遮光カーテンが僅かに通す陽の光で、内装がぼんやりと浮かび上がっている。
 壁に沿って鎮座しているローデスク、その上に置かれたブラウン管テレビ。部屋の中央には白いカーペットが敷かれ、ガラステーブルの下地になっている。すぐ左手には簡易キッチン、隣りにユニットバス、その横に一人用の小型冷蔵庫。
(いない……)
 どこにも潜んでいる気配はない。
 となれば残る場所はあと一つ。
 部屋の一番奥に置かれている寝具。出窓の真下に位置する、青いクッションの敷かれたパイプベッド。
(いた……)
 そこに黒い膨らみがあった。間違いなくアリュセウの着ている喪服だ。
 ひょっとしてまだ眠っているのだろうか? 確かに昨日は酷い一日だったが、そんないつまでも落ち込んでいても……。
(フン……)
 そこまで考えて真夜の中に邪悪なイタズラ心が芽生える。
 そうさ。いつまでもやられているだけではない。たまにはやり返さなければ。そして居候としての身分を体に教え込まなければ。
(そう、躰に……。その肢体で覚えて貰おうか)
 真夜は口を三日月の形に曲げ、足音もなくベッドの方に近付いて、
「おーっとイキナリここで貞操の大ピンチだー!」
 大声を上げながらアリュセウに飛びかかった。そして彼の喪服の帯に手を掛け、
「むははははは! 良いではないか良いではないか!」
 一気に引っ張って――
「減るモンで、も……なし……?」
 千切れた。
 殆ど何の抵抗もなく、帯の欠片が真夜の手の中に残る。
「う……ぁ……」
 苦しそうなアリュセウの声。
(違う)
 頭で焦燥を孕んだ確信が閃いた。左手が勝手に出窓に掛かり、右手でカーテンを引き裂くように開けて――
「アリュセウ!」
 喉の奥から叫び声が上がった。
 明るくなった視界に映し出されたのは、全身を無惨に切り刻まれたアリュセウの姿。
 長く美しかったブロンドは土と泥で煤け、見る影もなく変わり果ててしまっている。喪服は方々が破れて白い肌を露出させ、悲惨なほどに痛々しく映った。苦痛に歪められた顔は蒼白で汗が滲み、力なく開けられた口からはか細い呼吸音が微かに漏れ出ている。
 だが、コレだけ弱っているのに傷らしい傷は一つもない。血も滲んでいない。
 奇跡的に服を切られただけで済んだのか、それとも――
「どうした!」
 背後から朝顔の声がすると同時に部屋の中が明るくなる。
「救急車だ! 早く!」
 真夜は反射的に叫び返し、
「無駄……です、よー……」
 下から腕を掴まれた。その手はあまりにも華奢で、あまりにも弱々しく……。
「オレ、のは……人間には、治せ、ない……」
 そこまで言ってアリュセウは真夜の腕から手を放した。いや、抜け落ちた。
「何だよソレ! どういうことだよ!」
「……ポイン、ト」
 アリュセウの唇が震えるように動き、その一言だけを残して閉ざされる。
 ポイント……生命の源……プラクティショナーにとって、生命維持に必要な……。
 アリュセウを治すには、ポイントが必要。だが、そんな物どうやって……。
「お、おぃ……村雲」
 横からコチラの顔を覗き込み、心配そうに言い淀む朝顔。
「ポイントが、いるんだな……」
 呟くような真夜の言葉に、アリュセウは目を瞑ったまま小さく頷いた。
「分かった」
 真夜は短く返し、立ち上がって部屋を見回す。
「む、村雲……?」
 目的の物はすぐに見付かった。ベッドのすぐ下に転がっていた。
 銀色の輝きを放つ長い釣り竿。アリュセウのオペレーション・ギア。
 ソレに手を伸ばし、真夜は持ち手を握り締める。手の平に伝わってくる確かな感触。
 今まで触れることなどできなかったはずの釣り竿は、しっかりと手の中に収まっていた。
 不思議と疑問は湧かない。こうできることが当然のように。こうすることは当然の義務のように、自分の中ですでに納得してしまっていた。
「ちょっと待ってろ」
 言いながら真夜は釣り竿の中央を掴み、逆手に持ち変える。そして先端を自分の方に向け、
「すぐ楽になる」
 体の中に突き入れた。
 痛みはない。まるで溶け込むようにして、銀色のオペレーション・ギアは体内に潜りこんでいた。
(不要な、記憶……)
 胸中で呟きながら、真夜は何かを探り出すように釣り竿を動かす。
 自分にとって要らない過去。残しておく価値のない思い出。
 まず真っ先に浮かんだのは、生まれて間もない時のこと。
 忘れ子だった自分は乳児院に入れられ、そして児童養護施設に移され、孤独と恐怖を味わった。罵声を浴びせられ、疎外され、虐げられる毎日。
(そんな物は、いらない……)
 消えてしまえばいい。もう顔など思い出せない、アイツらの記憶などいらない。不要だ。
 友達などいなかった。誰も自分に近寄ろうとしなかった。繋がりなど持てなかった。
 だがそれでも彼らのことは覚えている。一方的に。コチラから一方的に手を伸ばしていた。
 声を掛けて欲しかった。仲間が欲しかった。痛みを分かち合える誰かが欲しかった。
 しかし、叶わなかった。結局ずっと独りぼっちだった。みんな自分の世界だけに閉じこもって、自分を守るのに必死だった。
(だから、いらない)
 向こうは自分を知らないのに、自分が向こうを覚えている必要などない。そんな物はただの重荷だ。相手にとっても、自分にとっても。
 一人だった。ずっとずっと一人だった。
 肉体的にも精神的にも、誰にも寄り掛かることもできずに過ごし続けてきた。
 触れたかった。ほんの少しでも触りたかった。でもできなかった。
 頭がおかしくなりそうで、気が狂いそうで、叫びたくて暴れたくて死んでしまいたくて。
 でもできなくて、できなくて、できなくて。
 吐き出すこともできなくて呑み込むこともできなくて何もできなくて。
 ずっとずっとずっとずっと我慢しているしかなくて。
 ずっとずっと……ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢ばかりしていて――
(いらない)
 その時の辛い記憶など、いらない。
 弱い者から金を巻き上げていた近所の不良の記憶もいらない。全身にバクチを巻き付けられて死んでいた仔猫の記憶もいらない。無抵抗のホームレスに暴力を振るっていた奴等の記憶もいらない。白昼にナイフで人を刺した奴の記憶もいらない。その被害者を携帯のカメラで撮影していた奴等の記憶もいらない。
(なんだ……)
 いらない物ばかりじゃないか。
 自分は今まで何を意地になっていたんだ。何を必死になって守ろうとしていたんだ。
 その気になればこんなにもあっさり捨てられるんじゃないか。考えればまだまだ出てきそうだ。自分からの一方通行ではなく、互いに繋がり合っている記憶だって。
 ……そうだ。アレもいらない。アイツらとの記憶だっていらない。
 あのストロレイユに目を付けられていた、裁かれない犯罪者……眉なしのグループの奴等の記憶など――
「もぅ……いいですよー……」
 か細い声に反応して、真夜はそちらに視線を向ける。
「もぅ、後は一人でなんとかできるですよー……」
 アリュセウがベッドの上に体を起こし、呼吸を整えながらコチラを見上げていた。
 確かに顔色は幾分ましになったように見える。だが本当に……。
「無理すんな。寝てろ」
「そう、悠長なことも……言ってられないですよー」
 辛そうな声で言いながら、アリュセウはコチラに手を伸ばす。そして銀の釣り竿を掴み、自分の元に引き寄せた。
「だんだん、分かって来た気がするですよー。お前のことも……オレの過去のことも……」
 そして力なく笑いながらベッドから立ち上がる。が、すぐにバランスを崩し、シーツの上に尻餅をついた。
「少なくとも……お前は“コチラ側”の奴ってことですよー」
 どこか眠そうに目を半開きにし、アリュセウは落胆したような安心したような複雑な表情で呟く。
 ――コチラ側。
 昨日、ラミカフに言われたことと同じ……。
「俺が、プラクティショナーってことか?」
 真夜の問い掛けに、アリュセウは無言で頷いた。
「そっか……」
 ソレにただ、真夜は短く返す。何の違和感も持たず。何の感情も込めず。
 予め決められた台詞を言うようにプラグロラムされている、機械人形のように。
 どうしてだろう。どうして自分はこんなにも落ち着いているのだろう。
 こんなにも――腹立たしいほどに。
「で、何があった」
 動揺してもしょうがないから? 大袈裟に否定したところで何かが変わるわけではないから? 今はそんなことよりも知らなければならないことがあるから?
「ストロレイユと、やり合って来たですよー……」
「そっか……」
 ――違う。
 もう分かっていたんだ。ラミカフの言うとおりだ。
 ずっと前から分かっていた。最初から分かっていた。今までずっと、そのことから目を逸らしていただけだ。
「絶対にまた……お前を狙ってくると思っていたですよー。ラミカフ様との取り引きに使うために。だからソレを逆に利用して、ストロレイユが出てくるのを待っていたですよー……」
「そっか……」
 驚いた“フリ”をするのは簡単だ。今初めて聞いたように自分に“思い込ませる”のも訳ない。
 けど、今更そんなことをして何になる。楽しい記憶で上書きした“気になった”ところで何の意味もない。
「……勝てる、と、思ってたですよー。相手は【意識の施術者】、オレは【記憶の施術者】なのに、アイツには勝てる。そんな気がしたんですよー」
「そっか……」
 もうそろそろ止めなければならない。その時が来ているんだ。
 自分を偽ることを止めて、自然な姿に戻る時が。本当の自分を受け入れる時が。
「でも……アイツも大分ヘコませたですよー。きっとオレと同じくらい深手を負ってるはずですよー。でもオレはお前おかげで大分動けるようになったですよー。だから次は――」
「大丈夫」
 アリュセウの言葉を途中で遮り、真夜は何かを含ませたような笑みを浮かべた。
「次は、俺がやる」
 そして彼の蒼い瞳を真っ正面から射抜いて言い切る。
 まるで時間が止まったかのような、不自然な間が室内を支配した。
「……は?」
 十秒近い間を空けて、アリュセウは甲高い吃音を上げる。
「次にストロレイユが来やがったら、今度は俺があの女と戦う」
 ソレに真夜は冷静な口調で丁寧に繰り返した。
「だからこの釣り竿、ちょっと貸してくれ」
 続けて言いながら、彼の持っている銀の釣り竿に手を伸ばし、
「な、何言ってるですかー!」
 慌てて体に抱き寄せたアリュセウの両腕に阻まれる。
「そんなことできるわけないですよー! この前のストロレイユの動き見てなかったですかー! 見えるわけないですよー! お前はただ腕力だけが自慢のしょぼくれた人間ですよー!」
「大丈夫。何とかなるから」
「そんなんで何とかなるなら犬のお巡りさんはいらないですよー! も、もっと身分をわきまえるですよー!」
「大丈夫。そのへんも分かってるから」
「全然分かってないですよー! お前なんかストロレイユに掛かったらすぐに死んじゃうですよー! アイツみたいになってもいいですかー!」
 アイツ……。ストロレイユに殺された、眉なし……。自分達を除き、彼のことを知っていた人達全員の記憶の中から消えて……死んでしまった。だからきっと誰も悲しまないだろう。彼は最初から、この世に存在しなかったことになってしまったんだから。
 なら、自分も――
「オレならもう平気ですよー! 今からだってストロレイユと戦え……!」
「お前、何で俺のことそんなに庇ってくれるんだ?」
 真夜の呟くような問い掛けに、アリュセウは少し目を大きくして言葉を詰まらせた。
「べっ、別に庇ってるわけじゃないですよー! 最初に言ったようにお前は大量ポイントゲットのための単なる道具ですよー! こんなつまらないことで死なれたら大損ですよー!」
「つまらなくはないさ。重大なことだ。コレは極めて重大な問題だ」
「お前にとっては重大でもオレにとってはどーでもいいことですよー! ストロレイユみいたな小者オレ一人で十分ですよー!」
「でもできなかったんだろ? しかもその戦いで、持ってたポイント全部使ったんだろ? それじゃ意味なくないか? 出世コースもパァじゃないか」
 真夜の指摘にアリュセウはまた目を大きくして歯を噛み締める。そして仇でも睨み付けるかのような視線をコチラに叩き付けて来た。
「いいから任せてみろよ。大丈夫。きっと俺にも……」
「だからダメって言ったらダメなんですよー! とにかくお前には生きてて貰わないと恩返しが……!」
 凄まじい剣幕で詰め寄りながら叫び上げた声を、アリュセウは途中で呑み込み――
「恩返し?」
 彼が最後に言った言葉を、真夜はもう一度口にする。
「恩返、し……?」
 そしてアリュセウも戸惑ったような表情で繰り返した。
「何のことだ?」
「何のことですかー?」
 いや……コッチが聞いてるんだが。
「あー……まぁとにかく、だ。今はゆっくり休め。明日は日曜だし、俺が一日ついててやるからよ」
「……お前が勝手にどっか行かないように、オレもしっかり見張っててやるですよー」
 ベッドに座り直し、アリュセウはしゃがれた声で言いながら怨みがましい目を向けてきた。
 ったく、コッチは善意で言ってやってるのに……。
「……あー、すまない、村雲。もしできれば、私にも分かるように説明してくれると助かるんだが」
 一旦会話が落ち着いたのを見計らって、朝顔が横から申し訳なさそうに声を掛けてくる。
 まぁ、そりゃコイツには何のことなのかサッパリ分からないわな。
 だがソレで良いんだ。コレ以上コイツを巻き込むわけにはいかない。コレ以上、沢山の奴等を自分に付き合わせるわけにはいかない。
「ワリィ、五月雨。ちっと、説明するワケにはいかねーわ。まぁその……色々、あってな……」
 自分は“アチラ側”の存在なんだ。ソレが分かってしまった以上、今までのように普通に接するわけにもいかない。
 元々、自分はそういう風にはできていなかったんだ。これまでがおかしかったんだ。
 大丈夫。きっとすぐに慣れるさ。それに高校を卒業すれば嫌でもバラバラになる。だから、きっと――
「まぁ無理に聞き出すような真似はしないさ。自分だけで解決しなければならない問題もある。ただ少し、寂しい気はするがね」
 緑色の髪の毛を額に撫でつけながら、朝顔は苦笑混じりに言う。
「ワリィな……」
 ソレに居心地悪そうな表情で返し、真夜は切れ長の目を更に細めた。
 最初は自分が巻き込まれているんだと思っていた。訳の分からない格好をした、イカレ野郎に振り回されているんだと思い込んでいた。
 だが違う。逆だ。
 自分がアリュセウを巻き込んでいたんだ。自分の問題にアリュセウを付き合わせていた。本来ならば一人で何とかしなければならないことにアリュセウを関わらせてしまった。
 アリュセウはもう抜け出せない。きっとこのまま最後まで一緒にやることになる。
 だが朝顔は違う。コイツにまで目を付けさせるわけにはいかない。ただでさえ、さっきのようなことがあったばかりのに……。
「じゃあ私は場違いなようだから今日はコレで帰らせて貰うよ。部屋の探索はまた次の機会に取っておくとしよう。それから念のために聞いておくが、警察には連絡しなくて良いんだな?」
「ああ」
「そうか」
 最初からそう言われることが分かっていたかのように、朝顔は僅かな間も開けることなく頷いた。
 コイツなりにコチラの事情を把握してくれているのだろう。この聞き分けの良さは本当に助かる。
「じゃあ送ってくよ」
「いや大丈夫だ」
 真夜の申し出を朝顔は片手で制して断る。
「この辺りがいかに物騒かということは彼を見て良く分かった。帰りは人通りの多い道を選んで行くとしよう。それにキミがどうやったのかは知らないが、彼もまだ回復したばかりだ。一緒にいてあげた方がいい。と、いうよりソレ以外の選択肢はないんじゃないのか?」
 朝顔に言われて視線を戻す。唇を尖らせ、目を半月形にしたアリュセウが「うー……」と呻き声を上げていた。
 ……どうやら、本当にずっと監視するつもりのようだ。コッチは本当に聞き分けがない。
「最後に一つだけ聞かせてくれ」
 髪を後ろに結わえていたリボンを解き、また胸元に結び直しながら朝顔は続ける。
「さっき言ってたストロレイユというのが、この事件の犯人なのか?」
 だが真夜は何も返さない。ただ口を真一文字に結んだまま俯いている。
「分かった、十分だ」
 その反応を返答と取ったのか、朝顔は明るい声で言うと部屋の出入り口まで歩を進めた。スニーカーに足を入れて軽く爪先を打ち付け、朝顔はドアノブに手を掛ける。
「じゃあな。よい週末を」
 そして肩越しにコチラを振り返り、にこやかな表情で別れの言葉を告げた。
「気を……付けろよ」
「キミの方こそな」 
 ドアが開かれて外気が一瞬室内に入り込み、重い金属音と共に遮断される。コンクリートを叩く足音が徐々に小さなり、階下へと呑み込まれて消えた。
「はぁ……」
 朝顔の気配が完全になくなり、真夜は大きく息を吐いて床に腰を下ろした。自然と体が後ろに引かれ、背中をパイプベッドの縁に預ける。
 なんだか妙に疲れた。明日が日曜日に本当に良かった。とにかく、まずはアリュセウをどうにかして、自分の頭をもう少し整理して、それからストロレイユを……。
「オペレーション・ギア……」
「ん?」
 頭上から掛けられた声に、真夜は目だけ動かしてソチラを見る。
「お前、いつの間に触れるようになったですかー。どうして使い方を知ってるですかー」
 双眸に疑惑の色を濃く宿らせて、アリュセウが渋面を向けてきていた。
「その髪の毛、勿体なかったなぁ。また伸びるのに時間、結構掛かるだろーなー」
「質問に答えるですよー」
「しかしまぁ半裸の喪服姿ってのもなかなか趣があって良いなぁ。ま、お前が女ならの話だけどよ」
「質問に答えろですよー」
「昼飯、まだだろ? 何か作ってやるよ」
「真夜!」
「お前の方こそ、何で俺が何とかできるって思ったんだ?」
 アリュセウから銀の釣り竿を取り上げ、真夜はソレで肩を叩きながら言う。 
「何でプラクティショナーでもない俺が、お前にポイントを与えられると思ったんだ? コイツにポイントを蓄えられると思ったんだ?」
 右手で釣り竿の真ん中辺りを握り、真夜は先端を左手に突き刺した。釣り竿は何の抵抗もなくすり抜け、手の甲から頭を出す。ソレを抜き取り、また同じようにして刺す。今度は鋭い痛みと共に止まり、それ以上は食い込まなかった。
 どうやら持ち手の意思によって透過できたりできなかったりするらしい。
 なるほど。こうやって記憶をいじる場合と武器として用いる場合を使い分けているのか。
「なんとなく、ですよー……」
 しばらく間を空けた後、アリュセウは歯切れ悪く呟く。
「あの時はオレも必死だったから、自分でも何言ってるか良く分かんなかったですよー……」
「お前の方も何となくは戻って来てるんだろ? 記憶。俺と関わることで」
 自分がラミカフと関わったことで記憶を取り戻したように。いや、目を逸らすことを止めたように。
「さっきの恩返しとか、前に言ってた『またラミカフに殺される』とか」
 言葉は何も返ってこない。だが何か悔しそうな雰囲気だけは伝わってくる。
「そーいやお前も五月雨と同じで異常記憶力なんだろ? 大変だよなぁ。嫌な記憶でも一回思い出しちまったら二度と忘れられないんだもんなぁ」
 釣り竿を適当に振り回しながら、真夜は軽い口調で言う。
「……『お前の方“も”』ってことは、お前は自分が何者か、分かったんですかー……?」
「まーな」
 そりゃあ誰だって分かるさ。もう今まで何度も語られてきたんだ。何度も示されて来たんだ。ソレに気付かないフリをしていただけで。
「俺とお前が出会ったのって実は運命だったりしてな。ほら、親指と親指が黒い荒縄でー、とか。ねーか」
「……色々気持ちの悪いことを言うなですよー」
「教えて欲しくねーか? 俺が誰なのか。お前知りたがってたもんなぁ。ソレが分かれば連鎖しまくりで大量ポイントゲットですよー、とかよ」
 真夜の言葉に合わせてリズム良く振られる釣り竿。その先が小さな手に掴まれ、あっけなく動きを止める。
「……さっきから何でそんなに明るいですかー」
 そして訝しがるようなアリュセウの声。
「お前、さっきから何かおかしいですよー。一体何考えてるですかー。ちゃんと言うですよー」
 ベッドから下りて真夜の正面に回りこみ、アリュセウは真剣な顔付きで言ってくる。
 真夜は彼からすぐに目を逸らし、しかし平手打たれて溜息と共に戻した。
 やれやれ……だよな。アレだけ否定していたのに、一回でも本性見せつけられたらこんなにもアッサリと、か……。百聞は一見に如かず。よく言ったものだ。
「真夜」
 コチラを真っ向から射抜き、アリュセウは自分の名前を呼ぶ。ソレにもう一度溜息で返し、真夜は重く口を開いた。
「やっぱ……いらない記憶とか思い出とかって、探せばいくらでもあるモンなんだな」
 長い前髪をいじりながら、真夜は朴訥に続ける。
「本人だけが必要だと思っていて、周りから見ればどう考えてもいらない記憶だってある。ケンカ別れして結局そのままになっちまった奴のこととか、下らない意地とかプライドが原因で口を聞けなくなった奴のこととか。女々しいだけだ。そんでもって本当は必要な記憶でも、お別れしなきゃならない物もある。もう二度と会えない顔も知らない両親のこととか、そんなの持っててもしょうがないものな。虚しいだけだ」
 釣り竿から手を離し、真夜は両腕をベッドの縁に掛けて天井を見上げた。
「お前、前に言ってたよな。いらない記憶、いらない繋がりは沢山あるって。ただ惰性だけで関係を保とうとしてるのが殆どだって。ああ、その通りだ。ホント、特に俺の場合はそういうのが多いと思う。なんての? 物持ちが良いって言うか、捨て時を見つけるのが下手クソっていうか。なんか色々とメンド臭そうだから全部後回しにしてきたって言うか……」
 そこまで言って言葉を切り、真夜は薄ら笑いを浮かべながら首を横に振る。
「……いや、違うな。そうやって誤魔化してないと不安だったんだ。一方的にでも何でも、コイツと自分とは友達なんだ。ちゃんと繋がってるんだって思ってないと、恐かったんだ。また、一人ぼっちに戻りそうな気がして。ソレから必死になって逃げてたんだ」
 そうやって、目を逸らし続けてきた。
 本当の自分から。自分のあるべき姿から。
「なんつか、殆ど奇跡に近かったんだよな。今の俺があるのは。色んな偶然が色んな所で重なり合って、たまたま運良くこんな感じになれた。けど、そろそろ潮時みたいだぜ? ま、来年高校卒業でキリもいいし、そろそろ再デビューしてもいいかなー、なんてよ」
 人と人との繋がりを無作為に断ち切る、残酷な死神の姿に。
「この事件にケリ付いたら俺の記憶、全部お前にやるよ。どーやら俺が意地張らなきゃちゃんと消せるみたいなんでな。ま、ソレでお前が今まで溜めてきたポイント取り戻せるかどーかまでは知らね――」
「いらないですよー。そんなモン」
 飄々と並べ立てる真夜の言葉を、アリュセウは低い声で遮る。
「そんな下らない同情を掛けられるほど落ちぶれてないですよー。見損なうなですよー」
 露骨に剣呑な声色が孕んでいるのは、怒気、悔恨、そして侮蔑。
 かつて見たことのないアリュセウの負の表情が、何か物理的な威圧感さえ伴ってのし掛かってきた。
「交友関係が広い狭い以前に、今のお前は単なる負け犬ですよー。負け犬の腐ったポイントなんか貰っても何にも使えないですよー。純度が低すぎてクソの役にも立たないですよー」
 双眸には殺意とすら取れる強烈な感情。意識を引き裂かれそうなほどの鋭利な雰囲気。
「やっぱりお前なんかがどうにかできるほどストロレイユは甘くないですよー。ガキは家に引きこもってじっとしてろですよー」
 乱暴な口調で吐き捨てるように言い、アリュセウは銀の釣り竿を固く握りしめて立ち上がる。
「お、おぃ……」
 そしてコチラに背を向けた彼に真夜は慌てて手を伸ばし――
「――ッ!」
 体ごと床に叩き付けられた。
 気が付けば視界は天井を映し出し、肺に溜まった空気が強引に気道を通って外に出る。
「な……ぐ……」
 何をされたのか全く分からなかった。あんな、傷だらけの体なのに……。
「もう二度と会うこともないですよー。お前には興味がなくなったですよー」
 何とか起きあがろうとする真夜の前で、アリュセウはコチラを一瞥して嘲笑混じりに言う。そしてすぐに前を向き、玄関の高下駄を履いてドアノブに手を掛けた。
「おぃ……待て、よ……」
 咳き込みながら言う真夜を無視して、アリュセウはドアを開き、
「……一人で全部分かったような顔してないで、お前はいつも通りやっていればいいんですよー」
 足早に部屋を出て行った。
 最後の言葉に、何か物寂しい響きを残して……。
モドル | ススム | モクジ





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