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● 記憶の施術者 ◆第九話『終結! コレが答えだ!』◆ ●


刀w“最初から分かっていれば苦労しない”“知っていれば上手くできた”
  ソレは無様な負け惜しみ。そして勝ち組への第一歩』

 憎い! コイツが憎い! 殺したいくらいに憎い!
 なぜ自分に付きまとう! どうして自分に不快な思いをさせる! 何のためにそんなことを思い出させる!
 忘れていたのに! 忘れようとずっと努力してきたのに! ずっと前をだけを見てココまで来たのに! 今になって……! なんで……!
「おやおや。こんな力任せの拳、掠りもしませんよ?」
 殴られたいんだな!? 顔面が原形を留めないくらいにされたいんだな!?
「さぁ見せて下さい。貴方の力はもっと素晴らしい物のはずだ。迷える魂を浄化し、新しい生命種を生み出す架け橋となるべき力なんだ」
 ああそうかい。分かったよ。捨ててやるさ。
 どうせいらない物ばかりだ。情けない思い出ばかりだ。腹の立つ記憶ばかりだ。
 そんな物全部捨ててやる。ソレでテメーをぶん殴れるなら……!
「今の世の人間は『繋がり』過ぎている。だから他者に期待を抱く。そしてソレが裏切られた時、妬みや憎しみが起き、果てには絶望する。そして課題の解決は先送りにされる。また期待できる時が来るまで。だがその時が来たとしてもやはり期待は裏切られる。期待とはそういう性質の物だ。時が経てば経つほど肥大化していく。人の欲によって。他者を通じて自らの幸福を得たいという傲慢な考え方によって。人が人に依存している限り、この負の連鎖は延々と繰り返される。それではだめだ。魂の冒涜だ。だからもう一度『個』に戻す。そして全く違う道を歩む。実に興味深いと思いませんか? 貴方は人命の新しい進化を特等席で見られるのですよ」
 うるさい! うるさいウルサイうるさい!
 もう喋るな……! テメェは……!
「消え失せろ!」
 固く握り込んだ拳をラミカフの鼻先に打ち出す。しかしラミカフは顔を横に倒してかわし――
(あ……)
 頭の奥で高く澄んだ音が響いた。ソレはまるできつく張られた金属糸を爪弾いたかのような……。
「良い表情になってきました。その調子で頑張って下さい。でいないと、あそこで意識を取り戻しかけているお嬢さんが死ぬことになる」
 誰だ? 誰のことだ?
 いや、そんなことはどうでもいい! 今はコイツを! コイツを殴ることだけを考えろ!
「こんなことを考えたことはありませんか? この世で一番最初の生命体はどうして一人でいることを拒んだのだろうか、と」
 屋上のフェンスを蹴り、ラミカフは三角飛びの要領で真夜の後ろに降り立つ。左脚を軸にして体を半回転させ、その勢いに乗せて真夜は左の裏拳を放った。
(――ッ!)
 また、あの高い音が頭の中で反響する。
「自分一人では生きられないと思ったから? 大勢いた方が効率的だから? それとも孤独に耐え切れなくなったから?」
 上体を大きく逸らしてラミカフは拳をやり過ごし、バックステップで真夜との距離をとった。そして余裕の笑みを浮かべながら眼鏡の位置を直す。
「多分、そのどれもが間違いでしょうね。最初からそんな複雑なことは考えない。もっと単純で、もっと本能的な好奇心。きっと彼はこう考えたんですよ」
 軽快な動きで大きく飛び、ラミカフはフェンスの上に降り立った。
「“もし増えたらどうなるんだろう”ってね」
 高い位置からコチラを見下ろして言うラミカフに、真夜は走り寄る。だが右脚の傷のせいで思うように動けない。
「人……いや、全生物の歴史は『繋がり』の歴史。皆、互いに依存し合い、補完し合い、繋がり合って生きてきた。では『個』の歴史とはどのようなものなのだろうか。生物はどのような進化を遂げて、どのような道を進むのか。興味はありませんか?」
「いいから――」
 地面に落ちていた銀色の釣り竿を拾い上げる。
「テメーは死ね!」
 その切っ先をラミカフの喉元目掛けて突き出した。
(――ッァ!)
 痛みすら伴う残響音が耳の奥で木霊する。その拍子に釣り竿の狙いは大きくずれ、標的の遙か横を通り過ぎた。
(なんだ……)
 さっきから。この鬱陶しい音は。一体何が起こっている。
「人は……いや、生物は皆、考え方一つで全くの別な存在になれるのです。余計な繋がりを捨て、『個』として生きていくことを選べば彼らは解放される。不必要なしがらみがもたらす、不透明な恐怖から解き放たれる」
 演説でもするかのように悠々とラミカフは語る。
 確か、前にも似たようなことを聞いたことが……。

『人は人に依存しすぎですよー。不要な繋がりを増やして、ソレを無駄に保とうとするですよー。だから余計なことで悩むですよー』

 誰、だったか……。コレは誰に言われたんだったか……。
 最近知り合ったのに、もうずっと前から知っているような……そんな奴が、凄く身近にいたような……。
「今の世の中は不要な物で溢れかえっている。不要な記憶、不要な繋がり、そして不要な命。これらは人と人との依存から発生した物。人が人を意識する際の“濃度差”が生み出した物。貴方はこれからソレを浄化しなければならない。平坦にするのではなく、消失させなければならない」
「う――ルセェ!」
 悲鳴をあげる頭を片手で押さえながら、真夜は銀色の釣り竿を力任せに振るう。
 手応えはない。ラミカフには掠りもしない。
 なのにどうして。どうして頭の痛みだけが……不愉快な音だけが、大きく……。

『ココにはね、不必要な奴等が沢山いるわ。死んで当然の奴等が、平和そうな顔して図々しく生きている。おかしいと思わない?』

 誰だ……コレは誰の言葉だ……。

『貴方だって、一度は思ったことがあるでしょ? 犯罪者なんて、みんな死んでしまえばいい。罪の大小に関わらず、見せしめに殺してしまえばいい。そうすれば世の中はきっと良くなる。全く、その通りだと思うわ。ねぇ?』

 聞いたことがある。ソレを言っていた奴を見たことがある。
 そしてその言葉に――頷いたことがある。
 ああそうさ。世の中にはいらない物が沢山ある。
 忘れていい記憶、断ち切っていい繋がり、関心を払わなくていい命。
 そんなモン全部抱え込んでいられるか。適当に間引いていかないと押し潰されてしまう。
 思い出は美化されていくものなんだ。嫌なことは全部忘れて、明るく楽しかったことだけで埋め尽くされていくものなんだ。
 児童養護施設でのことだって。柄の悪い連中との一時的な繋がりだって。あんな物はさっさと忘れて捨て去ってしまえばいい。
 そうすれば楽になれる。下らないことをいつまでも抱えて、心にしこりを残さずに済む。
 二度と思い出せない本当の両親のことだって、交通事故で失った義父のことだって。
 みんな忘れてしまえばいい。自分の精神を守るためには当然のことだ。誰だってそうしている。みんな――

『私はね、自分を囲んでくれている人達も含めて自分だと思っている』

 いや、いた……。一人だけ、いた……。

『だから私は自分が関わった人のことを忘れない。一度でも見聞きしたことは二度と忘れない。そうすれば私の周りにいる人達が強くなってくれるから。周りが強くなれば、私も強くなれるから』

 一度覚えた物は二度と忘れない。二度と、忘れることができない……。
 目を逸らすことも、別の何かで上書きすることもできない。
 それでも、ふてくされず、自棄にならず、ちゃんと前を見ている奴が……。

『キミはキミでいて欲しいんだ。この先ずっとな』

 そんな言葉を掛けてきた奴が。
「思い出してきたでしょう? 『個』を望む者としての意識、そして使命を取り戻してきたでしょう?」
 誰だ? あの言葉を言ったのは誰だ。
 なぜだ。どうして思い出せない。絶対、どうしても思い出さなければならないのに。
 コレはいらない記憶ではない、不要な繋がりでもない、ましてや無視していい命などではない。
「もう少しですよ。もう少しの我慢です。そうすれば楽になれる。雛鳥が重力の鎖を断ち切って大空を我が物とするように、貴方ももうすぐ解き放たれる。自分自身の力で。何の迷いも、妬みも、憎しみも、絶望もない世界へと羽ばたける」
 楽に……? 断ち切って……自分で……解き放……。
「うるせぇ……ウルェんだよ、テメェは……」
 視界が揺れる。足元がおぼつかない。平衡感覚がない。遠近感もない。なのに、意識だけが異様に研ぎ澄まされて――
「さぁ見せて下さい。貴方の本来の姿を。限りなく空腹となった貴方の力を」
 自分は何をしているんだ? どうしてこんなにもムキになっているんだ? 何のためにこんな場所で、こんな棒を振り回して――

『お前はいつも通りやっていればいいんですよー』

「――ッ!?」
 脳髄に焼け火箸を差し込まれたような錯覚。まるで全身の体液が沸騰し、管の中を逆流してくるような――
(もう一人……)
 もう一人いた……。
 二度と消せない記憶を持った奴が。
 ソイツは突然現れて、好き放題引っかき回して、泣いたり怒ったり、喜ばせてくれたり落胆させてくれたり忙しい奴で、最後は勝手なことを言って勝手に出て行って――
「何とか間に合ったですよー」
 そう、こんな子供っぽい声で――まるで女の子のような――
「さぁラミカフ! 観念するですよー! 昔の怨みキッチリ返してやるですよー!」
 キンキンと鼓膜に響いて鬱陶しいことこの上ない――
「ほらとっとと返すですよー! お前は五月雨朝顔とどっか隅っこでじっとしてろですよー!」
 手に軽い衝撃があった。反射的にソチラを見る。
 さっきまで持っていた銀色の釣り竿がなくなっていた。代わりにそばには、自分の胸くらいまでしか背丈のない、ミドルブロンドの喪服少女。いや……少年……? しかしどう見ても女の子……。
「何見てるですかー。シリアスモードなんだからテキパキ動くですよー!」
 高下駄の一本歯が右脚の傷口を抉った。
「ーーーーーーーーーーーーーーーッッ!?」
 声にならない声を上げる真夜。目の前をキャンプ・ファイアー掲げた、巨乳で巨根のボディービルダーが通り過ぎていく。
「テメェ! アリュセウ! しばき倒すぞ!」
 じと目を向けてくる変態少年の胸ぐらを掴み上げ、真夜は涙目になって叫んだ。
「相手が違うですよー。お前が怒りをぶつけるのは、あのスカしたイカれ宗教軍人ですよー」
「……けっ!」
 言われて真夜はアリュセウを解放し、驚愕の表情でコチラを見ているラミカフを睨み付けた。
 ラミカフは完全に硬直していた。金色の双眸を大きく見開き、眼鏡をずらしたまま口を半開きにしている。ソレはかつて見たことのない崩れきった彼の表情。
「おぃ、何でアイツあんな顔してんだよ」
「知らないですよー。お前がまた奇行に走ったんじゃないんですかー?」
「テメーと一緒にすんな、このマニアックショタ竿師が」
「お前に言われる筋合いはないですよー、この超広守備範囲両刀使いが」
「あ・ん・だ・と!」
「あ・ん・で・す・かー!」
 二人は額を擦りつけながら火花を散らし合い、
「……で、今まで何で寝てたんだよ」
「寝てたんじゃなくて狙ってたんですよー」
 またすぐにラミカフの方に視線を戻して言葉を交わす。
「狙うだぁ?」
「早い話が死んだフリですよー。ソレで不意打ちですよー」
「よくバレなかったな。アイツも相当マヌケなのか」
「オレが超弩級に上手いんですよー。取り戻した力の見せ所ですよー」
「けどあんなに堂々と現れたら不意打ちもクソもねーわな」
「お前がオレのオペレーション・ギア取るからですよー! おかげで綿密な計画が台無しですよー!」
「テメー! 人のせいにしやがんのか! コッチだって色々ギリギリだったんだよ!」
 互いの首を絞め合いながら怒声を撒き散らし、
「……お前とはまた後で決着付けるですよー。どっちが上かハッキリさせるですよー」
「あぁ、また後でな」
 表情を引き締め直してラミカフの方に集中した。
「今は取り合えずこの野郎を何とかするぞ」
「了解ですよー」
 そして二人が同時に身を低くした時、ラミカフは小さく肩をすくめて鼻で笑った。
「これはこれは……驚きました。まさかあそこから持ち直すとは。すでに『個』を望む者としての力を発揮していたのに。自分自身に対して、ね」
 言いながら眼鏡の位置を直し、ラミカフは口の端を皮肉っぽく釣り上げる。
「それからソチラの出来損ないプラクティショナーさんも。まさかこの土壇場に来て私を騙すとは。いやはや、なかなか度胸がおありで。見直しましたよ」
「出来損ないだったのはちょっと前までの話ですよー。今はこの変態バカのおかげで全部思い出したですよー」
 横にした釣り竿を胸の位置で固定し、アリュセウは油断なくラミカフを見据えながら言った。
「『繋ぐ』力、ですか……。まさかそんな記憶まで取り戻してしまうとは。コレは何としてでも反転させたくなりましたよ」
「そんなことは絶対にさせないですよー。コイツは今のままでいいんですよー」
 確かな決意を内に秘めたアリュセウの言葉。何か、今までとは全く違った力強さを感じる。そう、まるで生まれ変わったかのような……。
「真夜」
 ラミカフから目を外さずにアリュセウは言ってくる。
「もう馬鹿な考えは捨てられたですかー。ちゃんとスッキリしてるですかー」
 確認するような、それでいて半ば押しつけるような声。
「さぁな」
 ソレに真夜は小さく笑いながら返し、
「まだ頭がこんがらがってるんでね」
「相変わらずの単細胞ですよー」
「で、どう攻めるんだ?」
「お前は例の指輪を回収するですよー。あとできれば付け爪も。丸腰じゃ話にならないですよー」
「分かった」
 短いやり取りを終え、真夜は横目にストロレイユの方を見ながらラミカフから距離を取る。
 とにかく今はアイツをしばくのが最優先だ。心の整理なんて平和なことをするのはずっと後の話。頭を切り替えて目の前の敵だけに集中していればいい。あのラミカフを倒すことだけを――
「物を取ったらお前は五月雨朝顔のそばにいろですよー。人質とかに取られると厄介ですよー」
 その言葉が終わるか終わらないかの内にアリュセウは地面を蹴っていた。
「お、おぃ……!」
 瞬きする間にラミカフとの距離が縮まり、銀色の線が中空を激しく飛び交う。その一撃一撃をラミカフが素手で弾くたびに、強振動が大気を襲った。
 右上から袈裟切りに。振り抜いたところで真横に薙ぎ、三角形を描くようにして逆袈裟に振り上げる。間髪入れず真下に叩き付け、その動作に合わせて釣り竿を引き寄せた。そして片手に持ち変え、半身を引きながら大きく突き出す。
 次々と繰り出されていく雷光のようなアリュセウの連撃。目で追うのがやっとのソレらを、ラミカフは紙一重でかわしきっていた。
(すげぇ……)
 コレがプラクティショナー同士の戦い。
 ストロレイユとラミカフの時以上に手が出せない。ましてや右脚を負傷している今の自分では、足手まといどころか邪魔な置物くらいにしかならない。
 アリュセウに言われたとおり、自分は朝顔を守ることに専念しているしかない。こんな無茶苦茶な戦いにアイツを巻き込むわけにはいかない。
 右脚からの痛みを堪え、真夜はストロレイユの元に走り寄った。そして無惨な姿になった彼女を見下ろす。
 胸に穴が開いていた。まるで切り取られたようにぽっかりと。
 血は出ていない。黒のノースリーブシャツに破れたような跡はない。一見しただけでは傷など何も負っていないように見える。
 ただ片方の膨らみだけが不自然に消失し、シャツが風に押されて内側に大きく窪んでいた。
 本来そこにあるべき肉体がないのだ。
 ラミカフの放った軌跡に灼かれたのだろう。コレではひとたまりも……。
「く……」
 下唇を噛み締め、真夜はストロレイユのそばに膝を付く。そして弛緩しきった彼女の手を持ち上げ、そこにはめられている指輪に手を掛けた。
 できれば話し合いで何とかしたかった。ソレがどれだけ愚かしい考えなのかは分かっていたが、こんな結末だけは避けたかった。
 同じだった。自分はストロレイユと殆ど同じことを考えていたんだ。義父を殺した犯人を見つけて殺そうとしていた。
 だが朝顔のおかげで立ち直れた。周りと、繋がっていたから……一人じゃなかったから何とかなった。
 ストロレイユも……一人じゃなかったら、もしかしたら……。
「悪かったな……」
 自然と口から言葉が出る。頭で何か考えたわけではなく、勝手に口から。
 そして真夜は彼女の指から、紅い宝石の付いた指輪を抜き取り――
「……甘いわね」
 すぐ下で掠れた声がした。
「な――」
 視界が激的に入れ替わる。体が引き寄せられる。
 いつの間にか、指輪をしていない方の手が背中へと回され、
「ぼーや」
 紅い爪が伸びて――
「真夜!」
 アリュセウの叫び声が聞こえて、
「え……」
 目の前にあったのは緑色のオカッパだった。
「あさ、顔……」
 彼女の体には紅い爪が巻き付けられ、フレアブラウスの一部が引き裂かれていた。しかしソレは傷付けるためというよりは、むしろ――
「ちゃんとお守りしてなさい」
 ストロレイユの言葉と同時に爪が解かれる。そして彼女は体をふらつかせながらも、爪を支えにして立ち上がった。
「おやおや、コレは驚きですね。貴女の考え方には非常に共感できたので生かしておいてあげたのですが……裏目ですか。まぁソレはソレである種の面白みがありますが」
 からかうようなラミカフの声に後ろを向く。
 長さを半分ほどにした銀の釣り竿が、コンクリートに深々と突き刺さっていた。
 そしてその場所は、さっきまで朝顔が倒れていた……。
「何やってるですかー! このボケー!」
 先の折れた釣り竿を振り回しながらアリュセウが叫んでくる。
「前見ろバカ!」
 アリュセウの細い首筋に伸ばされるラミカフの手。しかし横手から入り込んだ爪がソレを弾く。
「アイツが……殺した……」
 まるでうわ言のように呟きながらストロレイユは一歩踏み出し、しかしすぐにバランスを崩してうずくまった。
「とんだ茶番劇ですねぇ。もう終わりにしましょう。時間の無駄だ。まだ彼とは大切な話の途中なんですよ」
 金色の双眸を爛々と輝かせ、ラミカフは屋上の出入り口がある壁に手を付く。直後、ソコから発生した橙の光が弧を描いてアリュセウに急迫した。
「舐めんなですよー! まだまだコレからですよー! このクサレ外道がー!」
 背後からの軌跡を短くなった釣り竿ではじき返し、アリュセウはラミカフを睨み付ける。
「貴方の力は強い。さすが【命の施術者】まで上り詰めただけのことはある。ですが貴方はその力を私に対して活かしきれない。なぜなら、恐怖で躰がすくんでいるから」
 跳ね戻った軌跡はラミカフが触れた壁に戻り、そして――弾け飛んだ。
「くっ……!」
「彼と接することで『繋がり』を取り戻し、すべて思い出したのならあの時のことも当然記憶として蘇ったはずだ。私に殺されかけた時の記憶が」
 何十にも枝分かれした軌跡はフェンスや地面に突き刺さって跳ね返り、ある物は直線的な、そしてある物は放物的な軌道を描いてアリュセウに牙を剥く。
「そんなモンはカンケーねーですよー!」
 アリュセウは橙の檻に捕らわれながらも慌てることなく弾き、二つをぶつけて相殺し、一つずつ丁寧に潰していった。
「強がっても無駄ですよ。他に仲間はいない。貴方は一人だけだ。たった一人でどうするというのです」
「ウルサイ黙れですよー!」
 軌跡の森を真上に抜けて、アリュセウはラミカフの脳天に釣り竿を振り下ろす。
「それに今の彼は『個』を望む者ではない。貴方を庇うことはできない。もう貴方はあの時のように運よく助からない」
 その一撃を交差させた腕で受け止め、ラミカフは冷笑を浮かべて言った。

『……また、殺される……ですよー』

 やはり、そうだった……。
 自然公園でラミカフの存在に怯え、漏らした言葉の意味はそういうことだったんだ。
 ――あの時。
 自分が『個』を望む者として生まれ、大勢のプラクティショナー達に殺されそうになっていた時。
 あの時いたんだ。アリュセウもその場に。
 討伐隊の一員として。
 アリュセウも自分を殺すために送られて来たプラクティショナーの一人だったんだ。
「冷静になって考えてごらんなさい。あの時、貴方達は十人がかりでも私に敵わなかった。なのにどうして一人で勝てる道理があるのです」
 しかし返り討ちにあった。自分を守ろうとしたラミカフの手によって。他の大勢のプラクティショナー達同様。
 だがアリュセウは死ななかった。

『とにかくお前には生きてて貰わないと恩返しが……!』

 自分が助けたから。
 あの時、何をどうやったのかなど覚えていない。だが声が聞こえたんだ。音だったのかもしれないが。
 何人も自分を殺しに来るなか、一人だけ本気ではなかった。明らかに違う気配が伝わってきたんだ。
 ――別にいい。
 ソイツはそう考えていた。ソイツは自分の存在を邪魔だとは感じていなかった。
 だから、助けようと思ったんだ。
 しかし完全には無理だった。助ける代償として……取るに足らない者だとラミカフに認識させる代償として、それまでの記憶を奪った。アリュセウの過去の繋がりを全て断ち切った。その後、何年も意識が戻らなくなるくらいにまで。
 あの時、アイツは言わば赤ん坊に戻ったんだ。だから朝顔と同じく異常記憶力になった。
 精神形成が未熟で、周りのことを何も知らない状態で施術されてしまったから。ひょっとするとブロンドもその時の影響なのかもしれない。
 アリュセウは『個』を望む者のことを何も知らなかった。討伐隊によって殺されたんだと思い込んでいた。プラクティショナーが五十人も殺された大事件だったはずなのに。ストロレイユは生き延びていることを知っていたのに。
 ソレは自分が消し去ってしまったから。そしてその後で誰も教えてくれなかったから。
 他の者にとって都合が良かったんだろう。
 『個』を望む者を容認するという異端の考え方を持っていた、アリュセウの記憶が戻らない方が。【命の施術者】として上に立って先導されるよりも、【記憶の施術者】として自分達の駒にしておいた方が。
 ラミカフとまでは行かないまでも、アリュセウもかつてソレに近い考え方を持っていたんだ。
「まぁその諦めない精神は大した物だと思いますが……私もいつまでも遊んでいるほど暇じゃないのでね」
「コッチだってダラダラやるつもりはないですよー!」
 ミドルブロンドを振り乱しながら叫び、アリュセウは銀の釣り竿を足元に突き立てる。音も立てず、何の抵抗もなく吸い込まれたオペレーション・ギアの先から軌跡が生じ、ソレが直線的にラミカフへと飛来した。
「根性論の次は猿マネですか」
 しかしラミカフは涼しげな表情で言いながら片手で軌跡を弾く。そして橙の発光線は元の地面へと舞い戻り――
「え……」
 沈黙した。ラミカフの時のように枝分かれすることはない。
「記憶が生物だけにあるとするのは人間中心的の極めて利己的な考えです。この世の全てには目があり、耳があり、そして意思がある。土にも、水にも、大気にすらも。勿論、この石にも存在する」
 ラミカフはフェンス近くまで跳んで距離を取り、釣り竿の上半分が砕いたコンクリートの破片を取り上げた。
「ただし、『繋がり』はない。彼らはまさしく完全なる『個』として存在する。他に依存することなく、それ単体のみで成り立っている。だから軌跡も繋がらない。単発で終わる。コチラが意図的に繋げてやらない限りはね」
 言いながらラミカフはフェンスに軽く触れる。
 直後、そこからアリュセウに軌跡が放たれ――アリュセウは反射的に釣り竿で防ぎ――軌跡はまた跳ね返り――
「クソ!」
 気が付けば体が動いていた。痛む右脚を強引に前に出し、真夜はラミカフとアリュセウの間に割って入る。
「お前……!」
「伏せてろ!」
 右手でアリュセウの頭を押さえつけ、左手で指輪を盾状に展開させながら腕に力を込めた。
「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 連続的に突き刺さる軌跡の束。一発一発の振動が肩の骨まで響き、気を抜けば関節が外れそうになる。だがこの腕を下ろすわけにはいかない。自分はともかく、アリュセウに軌跡の一本でも当たれば即致命傷になる。ソレだけは……!
「く……」
 気の遠くなるような時間。
 ようやく腕への衝撃がなくなり、体内に不快な揺れを溜め込んだまま真夜はゆっくりと顔を上げて――
「困りますね。もっとご自分を大事にしていただかないと」
 呆れたような、それでいて挑発的なラミカフの声が降ってきた。
「な――」
「貴方との話し合いはコレが終わった後でゆっくりと」
 いつの間にか目の前に来ていたラミカフの腕が、自分の後ろに伸び――
「逃げろ!」
 真夜は反射的にアリュセウの体を突き飛ばして――
「――ッ!?」
 眼前を紅と白の物体が舞った。
 ラミカフが舌打ちして後ろに跳ぶのが見える。
「貴方の負けね」
 そして横手から聞こえる大人びた女性の声。
「……何のつもりですか? 死に損ないさん?」
 軽くウェイブ掛かった髪を掻き上げ、ラミカフは眼鏡の奥の金色の瞳をストロレイユに向けた。その顔には苛立ちの色が濃く見える。
「いくら弾を持っていても……ソレを打ち出す銃がなければ意味がないわ……」
 右の爪をコンクリートに突き刺して体を支え、ストロレイユは苦しげな表情でか細く言った。そして左の爪を上げ、その先に掛かっている物を顔の前まで持ってくる。
 ソレは手袋だった。ラミカフが両手に付けていた白い手袋。
 ストロレイユは二つの手袋を握り締め、口元に薄ら笑いを浮かべた。
「貴方のオペレーション・ギア……でしょ? コレ……」
 彼女の勝ち誇ったような言葉にラミカフの顔が不快に歪む。
 ラミカフはずっと手で軌跡を出したり弾いたりしてきた。指輪のような物が手袋の内側に仕込まれていれば話は別だが、どうやらそういった類の物はない。完全な素手だ。
 なら、あのいつもしている白い手袋がオペレーション・ギアである可能性が高い。いや、彼の表情を見る限りその通りなんだろう。
 これでもうラミカフは軌跡を出せない。そしてオペレーション・ギアがなければコチラからの軌跡を打ち返せない。圧倒的に不利だ。
 しかしストロレイユ……立っているのがやっとの傷なのによく……。凄まじい精神力だ。コレが、復讐の呼ぶ執念か……。
「ソレは私のお気に入りの手袋なんですよ。返していただけると嬉しいのですが」
「は……」
 近付いてくるラミカフにストロレイユは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ――
 自分のすぐ後ろから橙の閃光が走り抜けた。
「勝ったですよー……」
 アリュセウが地面から生み出した軌跡は真っ直ぐラミカフへと向かい――彼は避ける暇もなく――左手で顔を庇って――
「な……」
 その甲であっけなく弾かれた。そして軌跡は釣り竿の根元へと舞い戻る。
「やれやれ、ですから自分で繋げないと無理だと言ったのに。ああ、そんなことにポイントを回している余裕などありませんでしたね」
 苦笑混じりに言いながらラミカフは右手を上げ、
「ぁ……」
 中空から生まれた発光線がストロレイユの腹を貫いた。
 その力に押され、彼女の体はゆっくりと後ろに傾いていく。まるで録画映像をコマ送りにして見せられているように、緩慢な動きで、地面に吸い寄せられて――
「では、確かに返していただきましたから」
 何十もの軌跡がストロレイユを串刺しにした。
 倒れ込んだ彼女の体に、後から、後から。途切れることなく。同じ傷口を何度も抉るように、次から次へと――
「ごゆっくり」
 やがてソレらは太い墓標となり、ストロレイユの体をコンクリートに上に縫い止めた。
 軌跡は消えない。突き立てられたままだ。
「さて」
 ストロレイユが動かないのを確認し、ラミカフは明るい声で満足げに言いながらコチラに体を向けた。
「おや、何を驚いているのですか。貴方も同じことをしたでしょう?」
 そして白い手袋をはめ直し、意外そうな声で言ってくる。
「生まれてすぐに、ね」
 人差し指で眼鏡の位置を直し、ラミカフは柔和な笑みを浮かべた。
「『個』を望む者としての貴方の勇姿には惚れ惚れしました。貴方の体にプラクティショナーが触れた途端、“食って”しまったんですから。言ってみれば全身がオペレーション・ギア。さすが、若い人の食欲は違いますね」
 諭すような、誘うような、そして丸呑みにするような声。
「今更ですが、貴方は特別な存在なんですよ。生命種の未来を百八十度変える、特別な力を持った存在だ。貴方は何も私の意思のみで生まれてきたのではない。他の執行部や上層部達……いや、もっと上位の……。そう、この星の意思が貴方を生んだんですよ」
 一歩一歩、確かめるように近付いてくるラミカフ。その金色の双眸に危険な光が灯る。
「どのような事情も一定の方向に力が掛かりすぎれば、やがてソレを押し返そうとする力が発生する。そうすることで均衡が保たれる。貴方自身が、『個』を望む者から『繋ぐ』者へと反転したようにね。この世界の者達は繋がりすぎた。だから貴方か生まれた。切り離すために。今、貴方は二度目の反転の機を迎えている」
 ソレは自分の言葉に酔いしれる狂信者の気配。陶悦の輝き。
「実に素晴らしい気分ですよ。特別な存在になるというのは。何も難しいことはない。ただ少し考え方を変えればいいのですよ。貴方が『繋ぐ』者でありながら『個』を望んだように。私がプラクティショナーの身でありながら、その身を支えるポイントを否定したように」
 口の端から舌が這い出し、蛭が蠢くかのように唇を舐め取っていった。
「貴方の力で『繋がり』を断ち切れば、プラクティショナーが得ることのできるポイントは著しく減少する。やがて枯渇すれば、プラクティショナー達の助力で成り立っている輪廻転生がなくなり、生命は次世代に引き継がれなくなる。ですが心配ありません。『繋がる』ことを止めれば、子孫を残すという発想自体生まれなくなる。今いる中、今ある生命種の中で完全なる『個』を作り出そうとする。そしてソレが真に強い魂を持てば、彼はきっと別の種族に生まれ変わる。ではプラクティショナー達はどうなのか。生命種からポイントを刈り取れなくなれば、当然体を維持できなくなる。朽ち果ててしまう。そうならないためにはどうすればいいのか。共食いですよ。プラクティショナー達の間で共食いすればいい。ポイントを奪い合い、真に生き残るべき者以外は淘汰されればいい。そうすれば今度はプラクティショナーの中で完全な『個』が生まれ、ソレはまた別の種族へと転生する。畑がなくなり、餌がなくなれば、その状況に適応しようとする。そして完成する。そもそも人類の歴史が似たような物ではありませんか? 進む方向は真逆ではありますが」
 両腕を大きく広げ、まるで演説でもするかのようにラミカフは悠々とした口調で語る。
「私や貴方は新種族の一員なんですよ。特別な存在なんですよ。この先を生きる特殊な能力を身に付けた選ばれた存在。考え方一つでその者の性質が一変したように、全ての生態系が考え方を変えて別の道を歩む時が来ている。今まさに、超規模での反転期が訪れようとしているのですよ。さぁ共に眼下に収めましょう。新世界の幕開けを」
 流麗な喋りで一息に言い終え、ラミカフはコチラに手を差しのばしてきた。
 真夜はしゃがんだ状態で下からラミカフを睨み付け、
「……なるほどなぁ」
 小さく鼻で笑って目を逸らす。
「テメーの言うことももっともだ」
 そして長い前髪を怠そうにいじりながら返した。
「そーゆー世界も悪かねぇ。人間関係ゼロなら何の悩みごともねーだろーからよ」
 左脚に体重を掛けて立ち上がり、真夜はズボンに付いた埃を払いながらラミカフに顔を向ける。
「テメーの言うとおり、俺はどっかでそういうの望んでた。一人だったら楽だろーなってよ」
 最初は大勢仲間ができて良かった。みんなに囲まれているだけで嬉しかった。楽しかった。けど、だんだん多くなってきて、百を越えた辺りから疑問が生じるようになった。
 本当に必要なのか?
 面倒臭い気苦労を重ねてまで保たなければならない関係なのか? 相手が自分のことをどう思っているのか。そんなことを常に頭の中でちらつかせながらも、付き合っていなければならないのか?
 コレでは同じじゃないか。
 児童養護施設で相手の顔色ばかり窺って生きていた時と全く変わらない。
 ソレなら……ソレなら一人の方が気楽でいい。
 最初から全部なかったことにしておいた方が――
「テメーが色々とちょっかい掛けてくれたおかげで、ホント色んなこと考えさせられたよ」
「それはそれは。大変失礼いたしました」
「確かにムカツクことが多かった。つーかムカツキっぱなしだった、けど……今は分かる部分がなくもない」
「真夜! お前また何かされて……!」
「アリュセウ」
 後ろから激しく掛けられたアリュセウの言葉に、真夜は顔だけをそちらに向けて静かに返し、
「最初の頃、お前も言ってたよな。人の中にいらない記憶は山ほどあって、すっげー大切な恋人だろうが大親友だろうが、最初から知らなければ何の問題もないって。初めから“そういうモノなんだ”って思ってりゃ違和感も何もないってよ」
 人の記憶とは元々、そういう曖昧で朧気な物。だから――
「ラミカフ」
「はい」
「創ってみるか、『個』の世界をよ」
 言いながら真夜はラミカフの手を取り――
「きっとつまんねーと思うけどよ」
 力一杯自分の方へと引き寄せた。そして間髪入れず両腕をラミカフの背中に回し、体を密着させて固定する。
「捕まえたぜ」
「こんなことだろうと思っていましたよ」
 慌てた様子もなく平然と返すラミカフ。
「へぇ、知ってて嵌ったワケか」
「半分は期待していましたが」
「余裕じゃねーか」
「ええ。貴方達の考える浅知恵など知れてますから」
「ああそーかい」
 低い声で返して真夜は両腕に渾身の力を込め、爪先で地面を軽く叩く。
 コレは合図だ。
「じゃあおっぱじめるか」
 我慢比べの。
(――ッ!)
 不意に全身を襲う怖気にも似た脱力感。意識の一部を持って行かれた時の反動。
 やはり、もうあまり残っていない。この短い間で一気に使いすぎた。
 『繋ぐ』力を。だが――
「考えましたね」
 耳のすぐ側で聞こえるラミカフの声。だがソコに焦りの色はない。
「コレなら確実に当てられる、ということですか」
 自分の体から放たれた軌跡をまともに受けたはずなのに、声の調子は変わらない。
「ですが無駄ですよ。私は全身で弾くことができる」
 今、自分の背中にはアリュセウの釣り竿が刺さっているんだろう。感触は全くないが。
 そして自分の中から記憶を消し、生じた軌跡でラミカフを撃った。
 離れていては避けられる。手で弾かれてしまう。だがゼロ距離からならそんなことはできない。まともに食らうしかない。
「だろうな……」
 しかしソレだけで何とかなるなど思っていない。たった一発当てたくらいでどうにかなるんなら苦労はしない。
「いくら貴方が『繋げ』られるとはいえ、私の記憶を何度消したところで――」
 ラミカフの言葉が止まった。
「テメーの記憶が、何だって?」
「かっ……」
 乾いた声がラミカフの口から漏れる。
「ボディーブローの連続は効くだろ?」
 そしてずり落ちそうになる彼の体を抱き起こし、真夜は拘束の力を強くした。
 今、アリュセウに消して貰ったのはラミカフの記憶ではない。ダテ眼鏡の記憶だ。
 ラミカフの記憶ではその後に繋がらない。単発で終わってしまう。だが自分が良く知っている者の記憶なら。
 ラミカフの体で跳ね返り、再び自分の元へと戻って来た軌跡は大きく分岐する。自分とダテ眼鏡の関係を知っている奴等全員の所へ行こうとする。
 何十本出たのかは知らないが、ラミカフはソレら全てを至近距離で受け止めた。しかも腹で。
 手で弾くのは簡単だろう。手に上手く角度を付けて方向をずらせば、自分への衝撃は最小限に抑えられる。
 だが腹ではそうはいかない。例え同じ力であっても手で受けたのと腹で受けたのとでは、体に掛かる負荷は雲泥の差だ。
 貫けはしない。そう易々とは。だが同じ場所を繰り返し撃てば、あるいは――
「アリュセウ!」
 真夜は喉の奥から叫び上げる。ソレに呼応して、またラミカフの体が痙攣した。
 最初は小さな揺れ。だが数呼吸の間をおいて全身を大きく揺さぶられる。
 今、禁煙パイポの記憶が一瞬とんだ。だがすぐに『繋ぎ』寄せる。
「ふ……ふふっ、ふはははははっ……」
 不気味なラミカフの嗤い声が耳朶を侵蝕した。
「全く、無茶なお人だ……。そうまでして……」
 そして細く長い腕が自分の背中に回される。
「そうまでして、完全なる『個』を望むのですか……。空っぽになって、また奪い取るために……」
 喜悦を帯びた囁くような声。
 空っぽ。そう、今の自分はもう空っぽになる寸前だ。
 一週間前、アリュセウが自分の前に現れた時には、すでに大分取られていたんだろう。さらに同居を始めてからはアイツの過去を今と繋げるためにも使った。
 ストロレイユと新幹線の駅で出会った時、彼女に奪われた意識を繋ぐためにも使った。
 朝顔の教室の奴等が気を失った時、彼らを繋ぎ戻すためにも使った。念入りに記憶を奪われていた朝顔には特に沢山使った。
 この場所を、ストロレイユの居場所を突き止めるためにも使った。彼女を退けるためにも使った。
 そして今、コイツを――全ての元凶を沈めるためにも――
「いいでしょう、互いに欲しい物が目の前にある……。後は、どちらの意志が勝るか。まさに我慢比べと言うわけですね……」
 声を震わせながらゆっくりと言うラミカフ。
 その震えの源は苦痛からなのか、あるいは悦びからなのか――
「アリュセウ!」
 余計な思考をかなぐり捨て、真夜は再び吼える。
 皮膚の下に手を這わされたような悪寒。気を緩めれば文字通り意識を持って行かれそうになる。今またダテ眼鏡と、そしてYMCAの顔が白みかけた。
「いぃ……いいですねぇ……。たまにはこう言うのも、悪くない……」
 喉の奥で低く笑いながら、ラミカフはどこか恍惚とした声で呟く。
「ケッ! ドMなのは朝顔だけで十分なんだよ!」
「ッククク……」
「オラァ! アリュセウ!」
 叫びながら真夜は爪先で何度もコンクリートを叩いた。
 もっとだ。もっと撃て。もっと連続して。喋る暇なんか与えずに。コイツにはまだ余裕がある。そんな邪魔なもの全部刈り取ってしまえ!
「どぅ……しました? 期待はずれ、ですよ? この程度では……」
 体の一部が剥がれ落ち、そこから何かが零れていくような感覚。まるで心のどこかに穴でも開いたかのように、一つずつ、確実に失われていく。
 だがそのたびにラミカフの体が跳ね上がる。最初よりも大きく。そして手の力も緩んで……。
 効いている。ちゃんと効いているんだ。このまま行けば、最後には――
「人を絶望させるのに最もよく用いられる方法……ご存じですか?」
 ラミカフの腕にまた力が戻った。
「希望の縁から叩き落とす……。落差があればあるほど、効果的だ……。果たして、貴方はいつまで希望を持ち続けられるでしょうか……」
 嘲るような、そして心の底から愉しむような声色。
 効いて、ない……? 今のは芝居……? 自分に撃ち尽くさせるための……空っぽにするための……。
(いや……!)
「相当参って来てるみたいだなぁオィ! 言っとくけどなぁ! コッチの弾はまだ腐るほどあるんだよ!」
 ハッタリだ。こういう駆け引きはケンカでもよく使う。先に苦しい顔をした方が負けなんだ。先に諦めた方がやられる。気持ちで押された奴が地べた這いつくばるんだ。
 体力がなくなったら気力! 気力がなくなったら根性! ソレで今まで勝ち続けて来た! 今回だって!
「そうですか……? 残念ながら、【記憶の施術者】の目には、その人物が記憶している者の顔が見えていることをお忘れなく……」
「アリュセウ! ペース上げろ! ブチ抜け!」
 抜け落ちた記憶を気合いの声と共に引き戻し、真夜は肩越しに後ろを向きながら叫ぶ。
「ま、真夜……」
 ソコには銀の釣り竿をしっかりと握り締めているアリュセウの姿。しかし持っている手が小刻みに震えている。
「アリュセウ!」
 再び叫ぶ。
「くっ……!」
 苦しそうに顔を歪ませながらアリュセウは釣り竿を突き出した。
(――ッ!)
 目眩にも似た虚脱感。体が浮かび上がったような錯覚に捕らわれ、気が付けば膝が落ちていた。
 もう、本当に残り少ない証拠だ……。
「っはははは……。どう、しました……? もう降参ですか……?」
「誰――が……!」
 奥歯を砕けんばかりに噛み締め、真夜は腕に力を込めてラミカフの体に食らいつく。
「貴方は、よく頑張りました……。大した物だ……。正直、尊敬しますよ。ただ、私の方が一枚上手だった。ソレだけです……」
「フザッ……! けんな……!」
「さぁ、もうお休みなさい……。そして再び目を開けた、時……きっと素晴らしい世界が、待っていることでしょう……」
「アリュ――セウ……!」
 素晴らしい? 素晴らしいだと!? あんな石ころみたいな生活が……! 独りぼっちでいるのが……! あんなモンは……!
「もう沢山なんだよ! アリュセウ!」
 叫ぶ。だが何も返ってこない。
「アリュセウ……!」
 もう一度叫ぶ。やはり返事はない。
「テメ……!」
 後ろを向く。
 睨み付けていた。銀の釣り竿をきつく握り締めて。吸い込まれそうな蒼い瞳に一杯の涙を溜めて。
「後は……オレがやるですよー……。お前はさっさと、どくですよー」
「いいからヤレよ! 今しかねーんだよ!」
「早く、どけですよー……」
「ヤレよ! とっととヤレ!」
 何考えてんだコイツ! こんな時に! もう、力が……!
「アリュセウ!」
「オレはまだお前にちゃんとお礼言ってないですよー! こんなのズルいですよー! 変態のクセにカッコつけんなですよー!」
 コイツ……!
「今はンなこと言ってる時じゃ……!」
「もう……お終いのようですね……。さぁ、貴方の無力さを噛み締めなさい……。絶望しなさい……」
 ラミカフの体が離れていく。まるで、最後の希望が抜けていくかのように……。
「そして、反転の時が訪れる……」
 こうなったら自分で……。指輪の、オペレーション・ギアで……。
(力、が……)
 入ら――
「ようこそ……『個』を、望む……」
「私は……手加減なんかしない、わよ……ぼーや」
 すぐ横で声がした。落ち着いた、女性の声が。
 殆ど無意識に顔がソチラへと向けられ――
「ストロレイユ……!」
 狼狽したラミカフの声。金色の双眸が驚愕に見開かれる。
 そして彼の眼鏡に映っていたのは狂気的な笑みを浮かべた黒い服の女。彼女の腹部には、淡い光を放つ何十本もの槍が突き刺さり――
「貴様まだ、生きて……!」
 明らかに動揺していた。
 さっきまで得意げに講釈していた目の前の男が、初めて焦りの色を見せていた。ソレだけで、十分だった――
「へっ……」
 両腕を自分の体に引き寄せる。
 なんだ。まだ残ってるじゃないか。気力はまだ、残ってる。なら――
「クソッ! 放せ! 放せ貴様ァ……!」
「馬鹿が……」
 逆効果だ。コイツが嫌がれば嫌がるほど力が漲る。希望が膨らんでくる。
 誰が放すか。死んでも、この腕の力は緩めない。
 コイツだってもう引き剥がせない。ソレだけの力が残ってないんだ。やはり、はったりだった。ちゃんと効いていた。
「せいぜい……頑張ってね、ぼーや」
 視界の隅で走る紅い線。
「ストロレイユ……!」
 後ろからする幼い声。
「コノ……! クソ虫共ガァ!」
 すぐ耳元で聞こえる罵声。
「――ッ!」
 そして自分の内側で叫びを上げる、声にならない声。
 目の前が暗くなり、一瞬にして上下の区別が消失する。
 精神を抜き取られたかのような喪失感。魂を打ち砕かれたかのような虚無感。
 空白の感情が体の最深から湧き出し、生命の光を嘲笑うように内面を蹂躙していった。
 もって行かれる。自分の中に大切にしまって置いた物が全て。
「貴……サマらァ!」
 育ててくれた親との繋がり。その親の家族との繋がり。下世話な話で盛り上がっていた奴等との繋がり。いつもテストで赤点とっていた奴等との繋がり。
「まだ、元気みたいね」
 連れ立ってナンパに行っていた奴等との繋がり。一緒にケンカしていた奴等との繋がり。
「ストロレイユ……! もう……!」
「そっちのボクちゃんも気を付けてないと、怪我するわよ?」
 手芸部の奴等との繋がり。放送委員の奴等との繋がり。
「やめろ! ストロレイユ……!」
 いきなり目の前に現れて、散々引っかき回してくれた奴。おかしな格好をして、おかしな喋り方をして。男のくせに、女みたいな格好をした――
「が……ぁ……」
 意地っ張りなんだか、弱虫なんだかよく分からずに、結局最後まで自分を困らせてくれた奴との――
「終わりね、ラミカフ」
 奇抜な緑色の髪をした、全く色気のない奴。好きな物がおかしければ、言動もおかしい、趣味もおかしい、全てがおかしい。
「こ……の……ッ」
 だがどこか憎めない、なぜか切り離せない腐れ縁。常に自分自身と真っ直ぐ向き合ってきた強い奴。
「死になさい。貴方の理想を抱いて」
 そして自分が生まれた時からずっと巻き込み続けてきた、一番の――被害者。
「舐め、るなァ……!」
 放さないさ。絶対に。そんな奴との繋がり、手放すわけにはいかない。自分はこれから償わなければならないんだ。
 他の全てをなくしたとしても、コイツだけは――
「ッハハ……」
 声がする。誰の声だ。
「コイツ……! まだこんな、力……!」
 まぁ別に誰でもいいさ。アイツでないことは確かだ。
「なぁ、朝顔……」
 昔から思ってたんだ。
 運命的な再会を果たした幼馴染みがどうして恋に落ちないのかってな。
 お前に色気がないから? 俺の理想が高すぎるから? 互いに相手のことを知りすぎているから?
「ガッ……!」
 違うなぁ。そうじゃない。
 きっと最初から決まってたんだ。俺達はもっと高いところで結ばれてたんだよ。生まれた時から。
「……まぁ、最後は貴方に譲ってあげるわ」
 だからほら、何度消そうとしてもお前との繋がりだけは消えない。腐れ縁もココまで来れば大した物だ。つまり、そういうことなんだよ。
「頑張ったご褒美と、人違いだったお詫びにね」
 お前は俺の一番の被害者だったし、一番の家族だったし、一番の親友だったし、一番の恋人だった。とっくにな。
 好きとか嫌いとか、いるとかいらないとか。そういう低次元の話じゃなくて、ただ気付けば良かったんだ。
「……ぁ……こ、んな……」
 俺が欲しかった物、お前が最初から全部持ってたんだな。けどあまりに身近にありすぎて気付けなかった。“偶然”が“必然”だったとは考えなかった。そんな全部持ってる奴がいるなんて思いもしなかった。
 だから周りを大勢の奴で固めてた。欲しかった物を持ってそうな奴等全員、集めてきてた。繋がることにこだわり続けてきた。
「真、夜……?」
 けどもういいや。今、凄くスッキリした。
 何か、自分の半身でも見つけたような気分だ。
 他には何もいらない。
 俺はもう、気付くことができたから。
「おやすみなさい、ぼーや」
 あぁ、おやすみ。
 それから……ありがとう。
モドル | ススム | モクジ





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