傷痕の思い出と鬼ごっこ、してくれますか?
【鬼ごっこ編 ―起―】
◆東雲昴の『自分でコツコツやるのが一番なのです』◆
結局、分かったことは何も分かっていないということだった。
千冬に言われたとおり、昴は図書館に行って過去の新聞記事を片っ端から当たった。全国紙だけではなく、地方紙もあるだけ全てだ。
しかし、姫乃を傷付けた犯人に関することはほとんどが『不明』。
確かなことと言えば、残虐で冷酷な犯行の手口だけ。
被害者は例外なく小学校低学年の女子生徒。全身を無数に切り裂かれ、失血死しないように傷口を包帯で手当された状態で見つかっていた。傷痕の具合から凶器は同じ刃物で、大振りのナイフであると推測されていた。
専門家が分析した犯人像は様々で、十代の医者を目指す青年だという見解から、退役軍人の老人だという説まであり、果てには十にも満たない子供達の集団犯行であると主張する学者もいた。
ソレらすべてが的外れなのか、それとも単に警察が無能なだけなのか。あれから十年以上たっても手掛かりらしい手掛かり一つ見つけられないのは、もしかすると犯人が思いもよらない人物だからかもしれない。
「で……? アタシの学校にいるって、どういうこと……?」
学校の制服も着替えないままベッドの上に座り、千冬は大きめの枕を抱きかかえながら聞いてきた。
――取り合えず落ち着いて話をしよう。
そう提案してきたのは千冬の方からだった。
桜空高校から歩いて二十分ほどの場所にある、オートロック式の十階建てマンション。その七階に千冬の部屋はあった。
「僕なりに、色々と考えてみたのです。犯人のこと……」
丸いクッションの上に正座し、昴は頭を垂れて呟く。まるで千冬が昴を叱りつけているようにも見えた。
「何か分かったの?」
「……絶対に、許せないということが」
膝の上で拳を握り込み、血管が浮き出るほどに固くする。
被害にあったのが姫乃だから、というのではない。千冬だって楓だって憂子だって。少しでも自分と面識がある人が、こんな目に遭わされているのを知ったら……いや、例え全くの他人だったとしても冷静ではいられないかもしれない。
こんな卑劣な行為をしておいて、自分達と同じように生活していると考えただけで虫酸が走る。
「そりゃアタシだってそうよ。犯人を呪い殺せないかって、本気で考えてた時もあった。けど気持ちだけじゃムリ。でも、スーは違ったんでしょ? 誰なの?」
千冬はベッドから身を乗り出して、昴の言葉を促した。
「僕の力では……ソコまでは分からなかったのです……」
「でもアタシ達の学校にいるってトコまでは突き止めたんでしょ? どうやって?」
「だから、僕の『力』でなのです……」
昴はイントネーションを少し変えて、どこか気まずそうに言い直す。
「スーのって――あぁ……」
千冬はそこまで言っていきなり呆れ口調になり、
「例の、『服の上からおっぱい見る力』ってヤツね」
大きく溜息をついて壁にもたれた。
「う……ソレを言うと思ったのです……」
昴は肩を縮こまらせ、居心地悪そうに背中を丸くする。
「ナルホド。昨日徹夜でBLゲーやるのに付き合わせたからねー。ソレで目に疲れが溜まっちゃったんだ」
「まぁ、そういうことなのです……」
昴は後ろ頭を掻きながら曖昧に返した。
魔王との同居時代、昴が身に付けた特殊能力。
ソレは『疲労』を『力』に変えること。
肩こりになれば鋼鉄の双肩を手に入れ、腰痛は不動の中心柱と化し、棒になった足は韋駄天足となる。
つまり、全身に溜まった乳酸が、昴に超人的な力を発揮させるための起爆剤として働くのだ。そんな力を身に付けなければ生き延びられなかった子供時代。
疲れて気を抜けば即、死へと繋がった……。
したがって目が疲れれば視力は激的に増し、百キロ先で行われているアリの子作りすら見通すことができる。その他にも透視や念写、さらに失明寸前まで疲れれば『目から怪光線』という大技を出すこともできるのだ。
……魔王にとってはチョイ技でしかないのだが。
昴が楓を越える福乳を求めて旅立った当初は、いいおっぱいを見抜くために徹夜で妄想にふけり、眼精疲労を引き起こすしかなかった。
しかしあれから十七年。自分に課した厳しい命題を果たすべく、肉体は自然と改造されていき、ついに疲れがなくとも服の上から『おっぱい利き』ができるまでに成長したのだ。
コレぞまさしく執念の力。
「で? どうやって見たの? 学校が見えたってことは、もっと疲れた目で同じことすれば犯人まで行き着くってことよね」
静かな口調の中に期待を含ませ、千冬は再び身を乗り出してくる。
「ソレは……確かにそうだと思うのです……。でも、限界があるかもしれないのです……」
「どういうこと?」
「今回僕が見たのは、言ってみれば残留思念のようなモノなのです。なので追う力をいくら強くしても、手掛かりとなる元の匂いが薄いと途中で追えなくなってしまうかもしれないのです……」
「元っ、て……?」
言われて昴は言葉を選ぶかのように少し間を開け、
「鮎平さんの、傷痕、なのです」
一言一言を重く押し出した。
「あ……ああ」
その答えに千冬は僅かな戸惑いを見せながらも、納得したように頷く。
昴が追ったモノ。ソレは姫乃の腕の傷にこびり付いていた残留思念。
犯人がなんらかの思いをもって姫乃を傷付けたのであれば、ソコには強い思念がわだかまるはず。
相手は小さな女の子だけを狙って、死なない程度に全身を切り刻むような奴だ。当然、思いは残っている。狂気という名の邪悪な思いが。
昴はソレをたどって探し歩いた。
『本体』がこの街の中にいると分かった時には震えが走った。恐怖と喜びの震えが同時に。しかし桜空高校の前に来たところで、思念の気配はボヤけてしまった。
ソレは単に目の疲れが回復してしまったからなのか、それとも追うべき思念の形がまだ曖昧すぎるからなのか。
昴き後者だと踏んでいる。
昴が姫乃の傷を見たのは、昨晩のレンタルビデオ・ショップで一瞬だけだ。その時はまさか、ナイフで切られた痕だなどとは思ってもみなかった。
偶然見えてしまったモノを頭の中で必死になって思い出し、ソコから思念を感じ取って『本体』を追う。かなり無茶な作業だ。自分でやっておいて、よく桜空高校に行き着けたなと思う。
だが傷痕の実物をもう一度間近で見た後、目を疲れさせれば、あるいは……。
「それであの時、あんなイキナリなこと言ったのね」
「……なのです」
千冬の言葉が胸に刺さる。
「ほとんど初対面でアレはキツいわ。フラれちゃったも同然ね」
「……なのです」
心を抉る。
「一応アタシからフォローしとくけど、期待しない方がいいかもね」
「……です」
精神を蹂躙する。
ああ、苦節十七年。ようやく巡り会えた奇跡の福乳が……。
でも仕方ない。あの時はああ言うしかなかった。
千冬は姫乃と十年間付き合ってようやく、傷を見せてもいいと思われた。しかし今からそんな関係を築き上げてはいられない。そんなに待てるほど昴は我慢強い人間ではない。第一、そんなことをしていては犯人がどこかへ行ってしまう。
ソレだけは避けなければならない。だから何としてでも――
「まぁ、そんなに落ち込まないでよ。きっとすぐに別のいいおっぱいが見つかるって。その間、取り合えずまたアタシで手ぇ打っとく? なぁんてね」
いつの間にか目の前まで来ていた千冬が、昴の頭をポンポンと軽く叩きながら明るく笑った。
落ち込んではいない……つもりだったのだが、そう見えてしまったのだろう。そして千冬は自分を慰めようとしてくれている。一年前、彼女に別れの言葉を告げたこの自分を。
昴は千冬を見上げた。深い藍色の瞳と目が合う……が、すぐに逸らして視線を下へとずらす。そして制服のふくらみにロックオン。
「……ソレは、ちょっとできないのです」
「どこ見て言ってんだ、コラ」
「おっぱい」
悪びれた様子もなく返して、昴は千冬のおっぱいを凝視した。
左78.6、右79.2のDマイナス。つきあい始めた頃と比べて二センチも大きくなっている。きっとまだまだ伸びるだろう。形も良いし、将来性に関しては何の心配もない。
ただ、昴が一点だけ気に掛かっていること。
ソレはおっぱい色。
(相変わらず不思議な色なのです……)
福乳か否かの判断基準に昴が用いているモノ。
勿論、常人には見えない。恐らくあの魔王でさえも。千以上のおっぱいを利いてきた昴にのみ開眼を許されたパイズアイ。
昴の目には、まだ未熟なおっぱいは青く霞がかって見え、成熟とともに桃色になっていく。そして橙を経て赤に染まった時、そのおっぱいは完成しきった見なされるのだ。
昴が求めている福乳とは、眩い真紅の光を放つおっぱい。
姫乃のおっぱいは光どころか太陽そのものだった。両膝を付いて崇め奉りたくなるのを堪えるのに必死だった。
しかし、千冬のおっぱいは――
「……僕がこんなことを言ってしまうと怒られるかもしれないのですが、千冬は僕じゃない気がするのです」
真っ白だった。
昴は最初、かつて見たことのないその色に惹かれた。そして千冬に声を掛けた。答えはあっさりオッケーだった。
昴は決心した。この何色にも染まっていないおっぱいを自分の色で満たして、理想の赤に仕立て上げるのだと。元から用意されているものを探し求めるのではなく、自分の手で育てて掴み取る。ソレこそが真のおっぱい道なのだと昴は見つけた。
「……本当に自分勝手で申し訳ないのですが。千冬には僕よりも他に一緒になるべき相手がいると思うのです」
だが、千冬のおっぱいはいつまで経っても白のままだった。どんな色にも染まるはずなのに全く変化のない白は、まるで変えられることを拒んでいるかのようにも見えた。ソレはおっぱい色以外についてもそうだった。
一緒にやわらか食事巡りをしている時も、バストサイズ当てをしている時も、BLゲーム十本抜きに付き合った時も。
何かが違う。何かが噛み合わない。
常にそういう違和感が付きまとった。
そして半年後、お互いにそう思い合っていたことを確認して別れた。
しかし別れたと言ってもケンカが原因ではない。だから今でも――
「千冬が僕にとって大事な女性であることには変わりないのです。ぜひ新しい恋に邁進してほしいのです。ソレを助けるための労力は惜しまないのです」
「いい加減、目ぇ疲れない?」
「全然」
「まばたきくらいしたら?」
「勿体ないのです」
眼球に激烈な熱が走った。
「とにかく、どうやって犯人を見つけるか、ね……」
「目が! 目があああああぁぁぁぁぁ! 僕のパイズアイがああぁぁぁぁぁ!」
「ヒメに事情全部話して傷見せてくれるように頼むのが一番の近道かもしれないけど……あの反応見る限りじゃ最終手段ってトコね。犯人見つけても、ヒメのトラウマ掘り起こしたんじゃ何やってるのか分かんないわ」
「赤いいいぃぃぃぃ! 全てが赤いいいいいぃぃぃぃ!」
「となれば次に手っ取り早いのは……やっぱスーに頑張って貰うしかないわね。取り合えず貫徹で三日。その間、エロ本なりAVなりでテキトーにおっぱい見続けて貰って、死ぬほど目ぇ疲れさせて、犯人の後追って貰うしかないわね」
「エロ本ではダメなのです! AVでもダメなのです! ナマの三次元にしか興味ないのですううううぅぅ! そんなワケで千冬! 親友を助けるために一裸ぬいで……!」
「まぁアタシも探り入れてみるわ。学校ん中にいるんでしょ? ソレが分かっただけでも大した進歩よ。全国中からたったの一高校に絞られちゃったんだからね」
「あああぁぁぁぁぁ! 黒いいいぃぃぃぃぃぃ! 全てが黒いいいいいいぃぃぃぃ! なんにも見えないいいいいいぃぃぃぃぃ!」
「スー、今週の土曜日にね。とっても素敵なイベントがあるのよ。しあさって。スーがアタシの学校に大手振って入ってこられる絶好の機会が。アタシはそのための根回ししておくから、三日間みっちりチャージしてくるのよ。いい?」
痛む両目をグシグシと擦りながら、昴は声のする方に顔を向ける。千冬は窓際の机の側にいた。スチールパイプで組まれた足の上に、木目調の丸い合板を乗せた温かみのあるデザインだ。その上にはマンガやBLゲームのパッゲージにノート型のPC、そして学校で配られたであろうプリント用紙が数枚。千冬はそのプリントを持ち上げ、どこか儚げな笑みを零していた。
「わ、分かったのです……」
昴は涙声になって返す。
千冬のおっぱいが期待できない以上、残るはアレで何とかするしかないだろう。ココまで上り詰めてしまった自分を、たまに悲しく感じる。
「千冬……ソッチでも探してくれるのは嬉しいのですが、絶対に無茶はしないで欲しいのです。とにかく見つからないように気を付けるのです」
自然と流れ出てきた鼻水をずびーっ! とすすりながら、昴は千冬を見た。
おっぱい色は白。パイズアイは正常だ。よかった……。
「大丈夫よ、アタシが探してるなんて分かりゃしないわ。向こうは時効で油断しきってる」
「犯人は勿論そうなのですが、鮎平さんにも。桜空高校に犯人がいるということは絶対に知られてはならないのです」
知ったところで姫乃には何のメリットもない。それどころか極めて身近にそんな人物がいると分かれば、パニック状態に陥って精神に異常をきたすかもしれない。そこまで行かなかったとしても、引きこもるのは恐らく間違いないだろう。
もし会わせるとすれば、ソレは犯人を特定して捕まえた後だ。
「そう、ね……。確かにその通りだわ。うん、分かった。気を付ける」
「じゃあ健闘を祈るのです。繰り返すのですが、くれぐれも無茶なことはしないで欲しいのです。無茶するのは、僕の力をもう一度試した後でも遅くないのです。それから無茶するのは僕でいいのです」
「ん……アリガト」
「三日後にまた会うのです」
言いながら昴は心の中で千冬と千冬のおっぱいに別れを告げ、部屋の出入り口に行こうとして、
「あ、そーだ!」
千冬が閃きの声を上げた。
「魔王!」
「へ……?」
「ほらほら、前に話してたじゃん。スーに『力』くれた人のこと」
正確には『力』を付けざるを得ない状況に追い込んだ、なのだが。
「その人に頼むっていうのは? なんか聞いた感じだとスーより凄いんでしょ?」
「凄い……とか、そういうレベルじゃないのです……」
思い出しただけでも魂を持って行かれそうになる。
「じゃあなおさら良いじゃん! しかも探偵なんでしょ? 頼もうよ! 犯人探してくださいって!」
「……残念ながら、留守だったのです」
千冬の言ったことはすでにやってみたのだ。
この犯人は絶対に許さないと姫乃のおっぱいに誓ってすぐ、昴は体の奥底から来る悪魔的な震えに耐えながら魔王の家に電話したのだ。
ツーコール目で出たのは楓だった。
いや、楓の声だった。留守番電話につながったのだ。
『真宮寺さいきょー探偵事務所をごりよー下さいまして、どーもありがとうごさいますー。まことに申し訳ありませんがー、ただいま太陽系の外にいますー。ご用の方は怪音波の後に――』
そこで切った。
命の危険を感じて。
「呼べないの? 携帯は?」
「携帯は持ってないのです……。そういう主義のようですから。でも多分、呼ぼうと思えば今すぐにでも目の前に呼べると思うのです……」
そう。例えば、魔王の下の名前を大声で叫ぶとかすれば、まず間違いなく……。
「だったら解決じゃない! なーんだ、色々考えて損しちゃった。ねぇねぇ、早く呼んでよ。アタシも会ってみたい。魔王に」
「地球がなくなったら会えないぞ」
いつもとは全く違う昴の語調に、千冬は何かを期待する笑顔のまま固まった。
「ま、まーた……そんな大袈裟な。いくら何でも……」
「目覚め運動といって、恐竜時代にタイムスリップさせられたことがあるか?」
千冬の頬が引きつる。
「人生ゲームをしていて、止まったマスに書かれたことを現実化させられたことがあるか?」
千冬の目が光を失った。
「トイレに行こうと扉を開けたら、そこは魔界だったという経験があるか?」
千冬が掠れた声を上げて白くなった。
「魔剣レヴァーティンを喉元に押し当てられて――」
「すとおおおぉぉぉぉっぷ!」
加速する昴の言葉を途中で遮って千冬は叫んだ。
「分かった、もう分かったから……。どうしてスーが魔王なんて呼んでるのかよく分かったから……。それ以上アタシを別世界に引きずり込まないで」
「賢明な判断なのです」
昴はいつもの喋り方に戻り、疲れたように肩を落とす千冬の頭を優しく撫でた。
「じゃあ、三日後に。もう一度言いますが――」
「無茶なことはしないわよ」
そして互いに頷き会った後、昴は千冬の部屋を後にした。
◆北条千冬の『今は犯人探しに集中するのよ!』◆
姫乃の体をあんな風にした犯人がこの中にいるかもしれない。
一番後ろの自分の席で千冬は目を細め、教室内をぐるりと見回した。
笑顔で英語の授業を進める隣のクラス担当のハンサム先生、攻撃的な視線で黒板を射抜きながらノートを取る生徒会長、姫乃の方をチラチラと見ている男子生徒。
貧乏揺すりをするパーマ生徒に、早弁するデブ生徒、窓の外をぼーっと見つめている空気生徒。
目に映る者全員が怪しく思えてくる。
つい昨日まではあくびが出るような何気ない日常だったのに、たった一晩にして全身が震え上がる戦場へと変わってしまった。
確かに恐怖はある。だが今は怒りの方が上回る。
大切な姫乃をあんな目に遭わせておいて、その近くでのうのうと生活しているなどと……。
(誰……誰、なの……)
教科書から顔の上半分だけを覗かせた状態で、千冬は改めて一人一人を見つめ直す。そして最後に、自分の隣にいる姫乃に視線を向けた。
昨日、昴に傷痕のことを言われたせいか朝から元気がない。周りから声を掛けられても生返事で、ずっと何かに耐えるように下唇を噛んでいる。いつも綺麗な深茶色の髪の毛が、今日は何だかくすんで見えた。
(ヒメ……)
見ているコッチが辛くなってくるほどの落ち込んだ表情。
もしこの学校内に犯人がいると知ったら、いったいどうなってしまうのだろう。昴の言うとおり、姫乃にそのことを絶対に気付かれるワケにはいかない。これからの行動は慎重に慎重を重ねなければ……。
まず、自分がやるべきこと。ソレは聞き込みだ。
昨日の夜、お風呂上がりにスタンガンを磨きながらずっと考えていた。
どうすれば犯人に繋がるような情報を得られるのか。例え直接は繋がらなくとも、せめて容疑者を限定するには何をすればいいのか。
答えは一つだ。
姫乃の体のことについて聞いて回るしかない。
犯人なら過剰に反応するか、上手く行けば致命的なボロを出してくれるかもしれない。
そもそも傷のことを知っているというだけで容疑を掛ける理由としては十分だ。姫乃がどうしてこんな格好をしているのか、その理由すら知らない人の方が断然多いはず。
だからこの聞き込みで、上手く行けば十分の一くらいに絞り込める。絞り込めるはずなんだ。
後はとにかく、犯人と姫乃に気付かれないようさり気なく振る舞わなければ……。
この学校に十年前の凶悪犯が潜んでいるということを。
そしてソレをどういうワケか、平凡な女子学生でしかない自分が知っているという事実を。
一人だ。一人ずつ聞いていくしかない。あまり大々的にやると、調査していることがすぐにバレる。自分が聞いて回っていることを悟られないように、探りを入れる相手をうまくバラけさせなければならない。ソレにはスポット的に動いた方が都合が良い。それに一対一の方が相手の反応を見やすいし――
「北条!」
「はひ!?」
突然名前を呼ばれて、千冬は椅子の上で飛び上がった。明るい栗色のセミロングが、ソレに合わせて宙を泳ぐ。
「お前さっきから傷だとかボロだとか、なーに一人でブツブツ言ってるんだ」
「え……え……えェ!?」
やばい……また悪いクセが……。どのくらいみんなに聞かれてしまっただろうか……。
「北条、授業中は先生の方を見るモンだ。お前が鮎平のこと好きなのはよーっく分かったから、そのくらいにしておいてやれ。鮎平も困ってる」
「あ……」
言われて初めて、自分が姫乃を凝視していることに気付いた。
「そのくらい教科書も熱心に見てくれれば、先生も余計なことしなくて済むのにな」
そして教室内で笑いが巻き起こった。ハンサム先生も調子に乗ってワックスでバッチリキメた髪を、わざとらしく撫で上げる。
この先生の人気の秘密は容姿だけではなく、授業の途中でこういう息抜きを挟んでくれるところにもある。
……もっとも息抜きのネタにされた方たまったものではないが。
「御堂筋先生から話は聞いてる。明後日、覚悟しておくよーに」
「はーい……」
千冬はガックリと項垂れて溜息を付き、すぐにまた顔を上げる。
「あ、先生。そのことでちょっとご相談があるんですけど……後で時間、いいですか?」
丁度いい機会だ。約束を取り付けてしまおう。
「密室以外なら、かまわんぞ」
また爆笑。
授業中というのはどうしてこうも笑いの沸点が低いのか……。はぁ……。
一限目が終わって休み時間。
千冬はハンサム先生と一緒に職員室に行って先程の相談事を持ち掛けた。
返事はなんとかオッケー。頑固者の御堂筋なら一日中拝み倒さないと首を縦に振らないだろうが、このハンサム先生ならちゃんとコチラの『事情』を察してくれる。
うんうん、いい先生だ。
ならついでに――
「先生」
千冬はハンサム先生に少し顔を近づけ、周りには聞こえないように気を付けながら小さな声で言った。
「ヒメのあの服装、どう思います?」
幸い、職員室の机は一つ一つがちょっとしたパーティションで区切られている。一見すればオフィスビル内のような雰囲気だ。だから音的にも視野的にも、死角になる場所は沢山ある。
加えて殆どの先生の机の上は、プリントやら教科書が小高く積み上げられている。自分の巣にでも引きこもっているような感じだ。遮蔽物には事欠かない。
「ヒメって……鮎平のことか?」
「はい」
聞き返したハンサム先生に、千冬は即答した。そしてどんな細かな表情の変化をも見落とすまいと、針先のように目を細める。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「気になるからです」
「そうか……」
沈痛な面もちで言って口を閉ざし、ハンサム先生は切れ長の目を鋭く見開いて、
「先生、同性交友は不純だと思う」
「違ぅ!」
思わず大声で突っ込んでしまった。その拍子に周りからの視線が集まってくる。
あああああああ、昴と同じノリでついやってしまった……。コレはもうダメだ、出直しすしか――
「北条」
逃げるようにして職員室から出ていこうとした千冬の背中に、ハンサム先生の声が掛かった。
「何でイキナリ聞いてきたのかは知らないが、あまり気にしないでやってくれないか。鮎平もお前とは仲良くしたいと思ってるはずだから」
――コイツ知ってる。
千冬の直感が告げる。
遠回しな表現だが、姫乃の傷痕を知らないとできない発言だ。
姫乃ができるだけ普通に学校生活を送るため、一部の先生達には姫乃の親から傷のことを伝えてある。だから犯人だと断定するには無理があるが、容疑者の一人であることには違いない。
また時間をおいて他の先生にも探りを入れてみよう。
「失礼しました」
千冬は職員室の出入り口で一度頭を下げ、ハンサム先生をもう一度だけ見た後、静かに廊下へと出た。
二限目は体育だった。
この炎天下の中、男子と女子に分かれてマラソンだ。体にぴったりフィットしたスパッツがムレて気持ち悪い。もはや完全なイヤガラセだ。
姫乃はいつも通り、トラックの隅の方にある倉庫の木陰で見学。
ずるい……。
いつもはそう思っているのだが今日は違う。
チャンスだ。
姫乃が近くにいない今は、同じクラスの生徒にさぐりを入れる絶好のチャンス。コレを逃すわけにはいかない。いかないのだが……。
「ね、ねぇ……超会長……」
ぜぃはぁひぃ、と口をだらしなく開けて千冬は必死に呼吸しながら、前を走る生徒会長に声を掛けた。彼女は長い黒髪を靡かせ、綺麗なフォームで機械のように正確なリズムを刻んでいる。何でもかんでも完璧にこなしてしまうところが、いつ見ても気にくわない。
「ちょっと……聞きたいこと、あるんだけど……」
「走り疲れている時に喋ると舌を噛む」
……もう少し早く言って欲しかった。
「あ、あのひゃぁ……」
舌からの痛みを堪えながら、千冬は何とか言葉を絞り出す。
「ヒメの、ことなんらけろ……」
「授業中だ。話なら休み時間にして貰おうか」
ええい、このカタブツ女は……。
「あの子ろ服……どう、思ふ……?」
コチラを見もせずに拒絶する生徒会長を無視して、千冬は強引に聞いた。
「暑そうだな」
ソレに一言返して、生徒会長はペースを上げ始める。あっという間に女子の集団からは離れて行き、少し遅れて走っている男子を追い抜いてしまった。とてもではないが追い掛ける気力はない。
(くっそー……)
はぐらかされてしまった。コレでは黒か白かの判別はできな――
「なんか傷みたいなの、あるんでしょ?」
後ろから掛けられた声に千冬は慌てて振り向く。
「そーそー、あたしも聞いたことあるー。ソレ隠すためにあんな暑苦しそうなカッコしてるのよねー」
な……ちょ……。
「結構、昔からって話よ。虐待ってヤツ?」
ど、どゆこと……?
自分と生徒会長の話を後ろで聞いていたらしい女子三人組が、顔を見合わせながらお互いの情報を確認するように喋っていた。
どうして、この三人がそんなことを……。姫乃と親しくしているところなど見たこともないのに……。
「あ、あの、さ……」
たまらず千冬は口を開く。
「そのことって、実はワリと有名……?」
言われて三人はまた顔と顔をくっつけ、
「じゃない?」
「千冬、あの子と仲良いんでしょ? ひょっとして知らなかった?」
「言ってくれれば教えてあげたのにー」
衝撃の新事実を口にした。
――同じクラスの根暗な剣道部員。
「鮎平、さんの服……? ああ、結構深いんだって? 傷。消えないくらいに……」
――いつもニコニコ掃除のオバチャン。
「可哀想にねぇ、あの子。ナイフなんて怖いわぁ……」
――放浪癖持ちの校長先生。
「ああ、聞いとるよ。小学生の頃、だったらしいな……。君は親友なんだろう? 支えてやってくれ」
――そして完璧超会長。
「耳にしたことはあるな。傷のこと。真偽の確認はしてないが。人の暗い過去を詮索したり吹聴したりする趣味はないんでね」
みんな知ってんじゃん……。
どうやら自分のところに姫乃の噂話が回ってこなかったのは、とっくに知っていると思われていたかららしい。随分と余計な気を回してくれたものだ。
(ふりだし、か……)
千冬は顔をしかめて箸を動かしながら、呻くような声を漏らした。
コレでかなり容疑者を絞り込めるはずだったのに、ただ自分が混乱しただけだ。午前中に聞いて回った人は殆どが姫乃の傷痕のことを知っていた。
でも一体なぜ……。
先生達の何人かはまぁ、姫乃の親から直接聞いているとして……。クラスに何人かは情報通の人がいるとして……。
それでも他の学年の人達まで知っているというのは異常だ。正直信じられない。いくら姫乃の服装が周りと違うからといって、そこまで注目されるようなことではないはずだ。
――誰かが意図的に言いふらしでもしない限りは。
「……って、聞いてる? 千冬ちゃん」
「え!?」
突然隣から声を掛けられ、千冬は痙攣でもするかのように体を震わせた。
「っもー、やっぱりまたアッチの世界に行ってた……」
自分のお弁当を膝の上に乗せ、姫乃はぷくっとほっぺたをふくらませながら不満の声を漏らす。その横で青々と茂った背の低い木が、風に吹かれて枝葉を揺らしていた。
(しまった……)
ココは自分達がいつもお昼ご飯を食べている校内庭園。
姫乃と一緒にいる時は、犯人のことを考えないようにしようと決めていたのに気を抜くとコレだ。ひょっとして、また考えていることが口に出てしまって……。
「どーせまたゲームの中の男の子、どーやって攻略するかなんて考えてたんでしょ」
大丈夫のようだ。
「そ、そーなのよ。ほらほら、ヒメの裏ルートで買った例のBL。どーしても落とせない子がいてさー」
「う、裏ルートって……人聞きの悪い。ただ知ってるお店案内しただけじゃない」
「いやー、でもあの時は助かったよー。どーしてもあの日に手に入れたいゲームだったからさー」
あっはっはー、と作り笑いを浮かべながら、千冬は髪の毛をうなじに撫でつける。
「でもさ、千冬ちゃん。ソレってもう大分前の話じゃない? まだ終わってないの?」
マフラーを巻き直しながら言って、姫乃はお弁当箱を閉じた。いつの間にか食べ終わっていたらしい。コッチはご飯とおかずの位置が変わっただけだというのに……。
「手に入ったら何かホッとしちゃってさ。もういつでもできるって思ったら延び延びになっちゃって。買う前まではあんなに頑張ってたのに不思議よねー」
「……千冬ちゃんって、試験前にノートコピーして満足するタイプでしょ」
「な、なぜソレを!」
「一回も開いたことない参考書とか、本棚に沢山埋まってるでしょ」
「いつ確認したの!?」
「ぜーんぶ顔に書いてある」
「え!? エぇ!?」
慌てて自分の顔を押さえつけ、変な表情になってないか調べる千冬。
「千冬ちゃんってホント、子供みたい」
言いながら姫乃は明るく微笑んだ。
よかった、もういつもの姫乃だ。朝方は結構沈んでいたからどうしようかと思っていたが、なんとか持ち直してくれたらしい。とにかく、姫乃には絶対に負担を掛けてはいけない。姫乃に落ち込まれるとコッチまでヘコんでしまう。
だから早く、ちょっとでも早く犯人に繋がる手掛かりを探さないと。
でもどうしよう、姫乃の傷のことをみんながみんな知ってたんじゃ……。
――いや、ちょっと待て。
「あらら」
そんなことを考えていると昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。
「お昼、食べ損なっちゃったね」
全く食べていないのにグチャグチャになってしまったコチラのお弁当箱を覗き込みながら、姫乃は柔和な笑みを浮かべる。
「これで午後の授業は寝ないですむねっ」
ハハハ、と苦笑いで返しながら、千冬は姫乃に続いて校舎へと戻っていった。
一つ、閃いたことがある。
姫乃の傷痕のことを殆どみんなが知っているというこの不自然な状況。どうしてこうなってしまったのか。恐らく、誰かが言って回ったからだ。
ならソレは誰か。
犯人だ。
先生がそんなことをするはずがない。だから学校のどこかに潜んでいる犯人が皆に知らせた。もしくは口の軽そうな生徒の誰かに言って、その人に広めさせた。
だから姫乃のことを誰に聞いたのかと問い続ければ、必ず犯人に行き着くはず。
(完ッ璧! 完璧じゃない! 今日のアタシって超冴えてる! 感度抜群よ!)
「完ッ璧! 完璧じゃない! 今日のアタシって超冴えてる! 感度抜群よ!」
でもどうして犯人がそんなことをしたのか。さすがにそこまでは分からない。
だが一つだけハッキリしている。ソレは犯人が異常者だということ。
小さい女の子の体を切り刻むことに快楽を覚え、その子のそばで毎日生活しているような頭のおかしな人間だ。ひょっとしたら、この状況を楽しんでいるのかもしれない。姫乃の近くにいて、また何か悪いことでも考えているのかも知れない。
とにかく常識は通じない。だから犯人を追うにはコチラの頭も非常識にしなければならないのかもしれない。
例えば昴のように……。
(でも所構わず、おっぱいおっぱい垂れ流しじゃあねぇ……)
「でも所構わず、おっぱいおっぱい垂れ流しじゃあねぇ……」
まぁきっと今もどこかでおっぱいと睨めっこしているのだろう。
そうやって昴が疲れ目になり、この学校の中を調べればもっと重大な手掛かりが見つかるかも知れない。だがその前に自分が犯人を特定できれば。
(きっと凄く気持ちいいに決まってるわ!)
「きっと凄く気持ちいいに決まってるわ!」
「あー、オホン!」
校舎の出入り口近くにあるシューズボックスの前。校内用スリッパから下靴に履き替えようとした時、後ろからわざとらしい咳払いが聞こえて千冬は振り向いた。
立っていたのは紺色のスーツに身を包んだ、小柄な中年男。ハゲてはいないものの頭はすっかり白くなり、顔にはいくつもの深いシワが刻まれている。人の良そうな外見ではあるが、全身から苦労のオーラがにじみ出ていた。
「校長、先生……」
「確か朝も会ったね。二年四組の北条千冬さん」
フルネームで呼ばれてしまった。学年もクラスも合っている。ひょっとして生徒全員の顔と名前、学籍を把握しているのだろうか?
「休み時間、元気なのは大変結構なことだが、その……なんだ。言葉には……気を付けるように」
なぜか顔を赤くしながら口ごもる校長先生。明らかに様子がおかしい。
「言葉って何ですか?」
ワケが分からず、千冬は真顔で聞き返した。
「あー、いや。何でもない。ま、まぁ若いウチは色々経験した方がいいかもしれんな。打ち込む対象が何であれ、一生懸命になるのはいいことだ」
ひょっとして犯人探しのことを言っているのだろうか……。
そうと分からないよう、なるべくバラバラに聞き込みをしてきたつもりだが、いつもウロウロしている校長にはあまり効果がなかったらしい。
(いや……)
それとも犯人は校長で、自分が今していることを暗に止めようと……?
ちょっと探ってみるか。
「先生、アタシ……」
千冬は体を後ろに向けて校長と目を合わし、
「どうしても、許せない人がいるんです……。人を傷付つけて、ソレを遠くから面白そうに眺めている人が」
真剣な声で言った。
もし校長が犯人なら、普通とは違った反応をするかもしれない。ひょっとしたら大胆な行動に出てくるかもしれない。
だがそうなった時はそうなった時だ。
昴には気を付けるように言われたが、自分を囮にして手っ取り早く……。
「そうか……」
しかし校長は短くそう返しただけだった。
「そうか……」
そして同じ言葉をもう一度言う。最初よりも少しだけ気落ちした、暗い声で。
何か、自分の中で思い当たることでもあったのだろうか。
(怪しい……)
決定ではない。決定ではないが――
立派な容疑者の一人だ。
あとは噂の発信源を探って、それでもし校長に行き着けば確定だ。
そう、楽観的に考えていたのだが……。
――隣りのクラスの男子生徒。
「え? 鮎平さんのこと? ああ、それならあの人だよ、あの人。噂好きの掃除のオバチャン」
――学校の美を司ってます、掃除のオバチャン。
「あなた聞いたー? 御堂筋先生の不倫疑惑。なんでも十歳年下らしいわよ。若い子に手ぇ出しちゃあねぇ。あなたのクラス担当でしょ? 大変ねー。そう言えば今日はまだ見てないわね。詳しく聞こうと思ってたのに。え? 何なに? 姫乃ちゃん? ああ、あの子ねー。ホントに可哀想よねー。小学校の時にやられたっていうじゃない。それも体中を。ああ、恐い恐いイタイイタイ。ソレでさー、ほらほら『洋風屋』っていうビデオ貸してくれるお店あるじゃない? そうそう、あそこの店長。遠くから見ただけだけどいい男だわー。シブわよねぇ。仕事してる姿なんかもぅたまらないっ。ミステリーオタクらしいから最近オバチャンもソレに合わせて色んな本読んでるところなのよー。今度一緒にお茶でもしながら、お話を……え? なに? 姫乃ちゃんの噂? 誰から聞いたかって? えーっと確かねー、ちょっと待って……今思い出すから。……あ! そーそー! ホラ! あの剣道部の! あの子もちょっと変わってるわよねー。いっつもくらーい顔してさー。もっと背中伸ばしてシャキっとすれば結構いい男なのに。練習も真面目で、朝早くからエィ! とぉ! って素振りやってるのよー。朝練ってヤツ? 毎日大変よねー。冬とかだと、火照った体から立ち上る湯気が何とも言えない色気でねぇ。あっ、そーそー、ソレで思い出したんだけど――」
――いつもドンヨリ、根暗な剣道部員。
「オレ、は……。えっと、確か、生徒会長、だったかな……」
――シャカリキパワーはこの人の代名詞、超会長。
「鮎平? またその話か。そんなこと聞いてどうするんだ? ……言えない? ならしょうがないな。私も言えな……ってコラ! 離せ! 気持ちの悪い! 私にソッチの気はないぞ! あー、分かったよ! 言うから離れろ! 全く……生徒会則を強化しないとな。言っておくが私が聞いたのはたまたまだ。図書館で一年の連中が話してるのをな。顔? ああ、よーっく覚えてるぞ。私語はするわ、不愉快な内容だわで、私が直々に処罰したからな」
――群れてないと不安でしょうがないお年頃、あどけなさの残る一年生。
「あ、はい。腕立てと腹筋、スクワットをそれぞれ百回。ソレを毎日十セット、一週間連続で……。死ぬかと思いました。……ああ、その時してた話、ですか。えっと、同じ部活の先輩なんですけど……」
――ちょっと強面でフケ顔の三年生。
「あァ? あぁー、二年のアイツのことか。お前は? 友達!? 親友!? マジで!? あの、な……俺、あの子のこともっと知りたいんだけどよ……。交換日記、頼んで貰っていいか? ……条件? おおー、そんなことかよ。別にいいぜ。確か……お前と同じ学年の三組にいる……」
――で、隣のクラスの男子生徒。
「お、どした。面白い顔して。『ムンクの絶叫』って感じだな」
なんで一周してんだよ……。
放課後、千冬はぐったりとして自分の机に突っ伏していた。窓から入ってくる橙色の西日が疲れた体に降り注ぐ。
噂の発生源を探るはずだったのに……ソレで校長に行き着くはずだったのに……事件解決の予定だったのに……。
余計にややこしくなってしまった。
出発点が悪かったのか? また別の人から聞き始めればちゃんと犯人にたどり着けるかも。ならまた明日……。
いや、違う。そうじゃない。それよりも、こうして噂の元がループしてしまった原因を考えるのが先だ。
ありえないことなんだ。一周するなどということは。それじゃあ一番最初に姫乃の噂を知っていたのは誰? ということになってしまう。
つまり考えられることは――
「ちーふーゆちゃんっ」
横手から声を掛けられ、千冬は頭を上げた。そしてソチラを見る。
「ヒメ……」
「帰ろっ」
カバンを後ろ手に持ち、姫乃がコチラに笑顔を寄せていた。
「ああ、うん。そだね……」
教室にはもうほとんど人がいない。みんな帰るなりクラブに行くなりしてしまった。残っているのは学級日誌を付けている生徒会長と、お喋りに興じている数人の女子生徒くらいだ。
「なんか疲れてるねー、今日。休み時間もずーっとどこか行ってたし……」
マフラーの位置を上げながら、姫乃は小動物のような可愛らしい瞳で見つめてくる。百万円くらいの価値はあるかもしれない……。
「ああ……まぁ、ね。ちょっと色々と」
「調べごと? 手伝おっか?」
「い、いいっ、いいっ。ヒメの手を借りるほどじゃないから」
椅子から勢いよく立ち上がり、千冬は顔の前で両手を振って力一杯拒絶した。
「ふぅん、そう……。でも困ったことがあったらいつでも言ってね。何でも協力するから」
「あ、うん。アリガト……」
この子は本当に優しい。だから余計に苦しい。
姫乃に隠れてコソコソと動いていることが。
でも打ち明けるわけにはいかない。相談するわけにはいかない。姫乃にこれ以上、つらい思いをさせるわけにはいかない。
これまで、自分はいつも姫乃を頼っていた気がする。
最初は頼られる立場で付き合い始めたはずだった。周りから疎外され、一人ぼっちでいる姫乃に声を掛けて、友達になって、親友になって。
自分の後ろを「千冬ちゃん、千冬ちゃん」と言いながら付いてくる姫乃を毎日見てきた。
その距離がだんだん近くなり、いつの間にか隣りに並んで歩くようになって、そして気が付けば自分の前にいた。
時間の流れが姫乃の傷を心身共に癒してくれて、向こうから明るく話し掛けてくれるまでになってくれた。
いや、元に戻ってくれた。
姫乃は元々、元気で活発な女の子だったんだ。みんなに慕われて、勉強もスポーツも何でもできた姫乃が戻って来てくれた。
でも、完全には戻らなかった。
かなり人見知りをするようになったし、みんなの輪の中に入っていこうとはしなくなった。他の人から遊びに誘われても断ってるし、勉強のことを聞かれても機械的に教えるだけだ。
姫乃はいつも自分の体を気にして、周りをうかがいながら生活している。人の目から逃げるように生きている。
けど、千冬はソレで良いと思った。いや、むしろその方が嬉しかった。
『みんなに』人気の姫乃ではなく、『自分だけに』人気の姫乃でいてくれる方が千冬にとっては好ましかった。
初めから千冬はずっと、姫乃とそういう関係を築きたいと思っていたのだ。
自分だけが姫乃にとっての特別な人で、ずっと独り占めしたいと考えていた。
そして今、ようやくソレが現実になった。姫乃は自分だけに特別な視線を向けてくれるようになった。何でも話してくれて、どんな相談にも乗ってくれる大切な親友に。
歪んだ想いだということは分かっている。でもソレが正直な気持ちだ。
そしてそんな感情が肥大して、自分は姫乃に依存するようになってしまった。
一人でできることでも姫乃と一緒にやった。
宿題をするのも、買い物に行くのも。部屋の掃除をするのも、集めているBLゲームを探し歩くのも。学校の登下校や、ちょっとお手洗いに行く時でさえも。
できないフリをして姫乃と一緒にいる理由を作りたかった。
一人暮らしをしたいと親に言ったのも、姫乃と一緒にいる時間を少しでも沢山持つためだ。
姫乃は自分にとって、特別で大切な女性。そんな彼女にもたれ掛かっているのは気持ちいい。
けど何でもかんでも頼るわけにはいかない。たまには自分が姫乃に肩を貸さなければならない。恩返しをしなければならない。
だから、今回の犯人を特定するのだけは――
「ねぇ、千冬ちゃん……」
姫乃は持っていたカバンを自分の机の上に置き直し、少し目を伏せながら言葉を零した。
「私、東雲さんに謝った方が、いいかな……」
「へ?」
いきなり飛び出した昴の名前に、千冬は甲高い声を上げる。
「あの時は傷のこと言われてビックリしちゃって……おっきな声出しちゃって、それにほっぺたまで叩いちゃって……。やっぱり、謝った方が良いよね」
どこか焦ったような切羽詰まった表情。ひょっとして、朝落ち込んでいたのはそのことを考えていたせい?
「べ、別にいいんじゃないのー? ほっとけば。スーはスーで悪いことしたんだし、当然の報いよ」
「でも……」
「だーいじょーぶだって。あんなことくらいでヘコむようなヤワな男じゃないからさ。むしろ向こうが謝るべきなのよ。アタシからもキツーく言っとくからさ」
「う、ん……でも……」
「ヒメはなんにも悪くない! だから謝る必要なんてない! ね?」
「でも、どうしてあの人、傷を見せてくれだなんて……」
「さ、さぁねぇ。ヒメのこと好きみたいだし、何でもいいから知りたいんじゃないの?」
「そう、なのかな……」
小さな声で言って、姫乃はコチラの顔を見つめてくる。
い、いけない。平静を保たなければ。自分は何でもすぐ顔に出てしまうみたいだから、こういう時は特に気を付けないと。
不可抗力とはいえ、まさか姫乃の傷痕のことを自分が昴に喋ってしまったなんて絶対に言えない。そんなこと言ったら姫乃に嫌われてしまう。ソレだけはイヤだ。
「ねぇ、千冬ちゃん」
「な、何?」
「千冬ちゃん、東雲さんと付き合ってたんでしょ?」
「う、うん……」
「ちょっと、東雲さんのこと……教えてもらってもいい?」
(あー、ヒメってばなーに考えてんだろ……)
お風呂上がり。バスタオルを首に掛け、下着姿で部屋の中をウロウロしながら、千冬は帰り道に姫乃と話したことを思い返した。
『東雲さんって大学生? 社会人?』
『どんな人が好きなの? 私のどこを気に入ってくれたの?』
『千冬ちゃんと付き合ってた時は一緒に何してたの?』
『優しい性格? おっちょこちょい? 結構、放っておけない?』
『今のバイトは何でしてるの?』
『……どうして、別れちゃったの?』
昴のことを根ほり葉ほり。
まさか、あんなことを言われたのに付き合う意思が残っているのだろうか……。
(でもなぁ……)
手を大きく広げ、大の字になってベッドに寝そべる。
(自分で『断る』って言ってたしなぁ……)
白い天井を見上げながら、姫乃が昴に会う前に言っていたことを思い出した。
そう、姫乃は自分に気を遣ってくれて昴との交際を断るつもりだった。が――
(気が変わった……?)
ありえない話ではない。世の中一目惚れというのは往々にして起こりうるものだ。自分の母親がそうだったというのを、聞いてもいないのにベラベラと喋り続けられたことが何度もある。そして聞くたびに話の内容はエスカレートしていき、ある時は見るからに悪そうな不良から助け出して貰ったと言い、ある時は雪山で遭難し掛けたところを救出しに来てくれたとのたまい、またある時は時限爆弾を解除する時に『青いコードを切るんだ。保証はできないが』と力強く助言してくれたとほざきやがった。
母親が作り上げた妄想だということは最初から分かっているのだが、なぜか最後まで聞いてしまうのは自分にも同じ血が流れているからなのだろうか。
(一目惚れ、ねぇ……)
確かに、昴は普通にしていればそれなりカッコいいし、性格も穏やかで優しい。あの二言目には『おっぱいが好き!』と主張する致命的な欠陥から目を逸らせば、レベルの高い男性の部類には入ると思う。
まぁ、緊張感漂う首脳会談の席に全裸ネクタイで堂々と居座っているような奴を無視できる度量が本当にあれば、の話だが。
(ヒメとスーが、付き合う……)
元カレが、姫乃と……。
「あーもー、何考えてんのよ、アタシは!」
頭に浮かんだ嫌な気持ちを強引に振り払い、千冬はベッドの上に体を起こした。そしてバスタオルで、まだ少し濡れている髪の毛をぐしゃぐしゃと激しく引っかき回す。が、唐突に動きが止まった。
(まだ、未練……あるのかな……)
それでいいはずなのに。昴は姫乃が好きだし、姫乃も昴を気に入ったのなら何の問題もないはずなのに。
なのに、この気持ちは何だ……。この、胸の中に爪を突き立てられたような痛みは……。
やっぱり、自分はまだ昴のことを……。
「なわけないってー! あっはっはー!」
大声で叫んで千冬はバスタオルを投げ捨てた。そしてタオルケットの中に頭から潜り込んでしまう。
(寝よ寝よ)
こういう変なことを考えてしまう時は、さっさと寝てしまうに限る。
明日になれば綺麗サッパリ忘れているはずだ。明日になれば犯人探しに追われて、そんなことを考えている暇などなくなる。
犯人探しに……変なことを……。
変なこと――
(誰が、嘘言ってんだろ……)
ループしてしまった噂の発生源。本来起こりえないこと。でも実際に起こってしまった。考えられる原因は一つ。
聞いた六人の中の誰かがウソを言っている。
(もしかしたら、その人が犯人……)
誰だ。
何かないか。手掛かり。考えるヒント。抜け道。
何でもいい。どんな些細なことでも。どんな小さなことでも。何でも。
六人の中で、誰かが不自然なことを言わなかったか。よく考えなければ聞き逃してしまいそうな妙なことを――
(あ……)
そうだ。
いた。いたじゃないか。
あの人のあの言葉、多分おかしい……。
いや、絶対におかしいはずなんだ。彼女の性格からしてウソを言うとは思えない。
確かめなければ。明日。すぐに。できるだけ早く。
千冬はベッドから飛び出して目覚ましをいつもより早くセットすると、部屋の電気を消して再びベッドに潜り込んだ。
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