廃墟オタクは動じない
第一話 『座敷わらしと不思議な声』
――ねぇ、アレってやっぱりホントらしいよ?
――また旧校舎? B組の子が見たってやつ? 石の顔した看護婦のこと?
――違う違う。
――軍隊の医療施設だったって話?
――そうじゃなくて、取り壊しの方。
――え? 日程決まったの?
――いや、やっぱりまた延期みたいなんだけど、さ。
――まーだお金でもめてんのー?
――じゃなくて、あれやっぱり呪いらしいよ? だから解体業者と話つかないんだって。どこも嫌がってやらないみたい。
――……ホントに?
――担当者が急病でとか、その日いきなり大雨になってとか、重機が壊れてとか。
――先輩の話だと、人死んだこともあるらしいじゃん。あこそで。
――やっぱ相当ヤバいよね。旧校舎……。
素晴らしく磨きぬかれた窓。
そこから見えるのは、奇跡的なまでに恵まれた天候と、趣きに満ち溢れた建造物。
「あれが、さっきお話しした旧校舎です。あいにくの天気で、良く見えないかもしれませんが……。今日は秋晴れだって言ってたんですけどねー、天気予報」
職員室の片隅。
真っ白に染まった毛を撫でながら、初老の教師は呟くようにして言った。
「ほぅ。あれが例のハニーですか」
「は?」
感嘆混じりの私の言葉に、彼は目細めて首をかしげる。
「ああいえ。こちらの話です」
私は適当に流しながら百均で買ったネクタイを締めなおし、窓の向こうを凝視した。
叩き付けるようにして舞い降りる豪雨。なだらかな斜面の頂上で、雑木林に囲まれて霞んで見える建造物。時折鳴り響く雷鳴が刹那的に浮かびあがらせるシルエットは、まるで誘蛾灯に照らされた胡蝶のよう。
「素晴らしい……」
意識せず、私の口からは言葉が漏れていた。
まだあの校舎が残っていると知った時の胸の高まりを思い出す。
「あの……天草先生? ではそろそろ、実習のほうに……」
「ええ、参りましょう」
少し曲がった初老の教師の背中に続き、私は荒ぶる鼻息と共に職員室を後にした。
――◇◆◆◇◆◇◆◆◇――
「天草 終一朗(あまくさ しゅういちろう)と申します。二週間という短い期間ですが、皆さんと共に学び、励み、全力で教職の本分を経験したいと思っています」
そんな気はさらさらないが。
「どうぞよろしくお願いします」
二分もかけて考えた口上を詰まることなく言い終え、私は教壇から降りる。それに代わるようにして、初老の教師――私の担当教員――が黒板の前に立った。
「えー、天草先生はこの学校の卒業生です。まぁ皆ともそんなに年は違わないし、仲良く……えー、そうですね……やってください。はは……」
なぜか最後の言葉を詰まらせながら、彼はホワイトボードに書かれた私の名前を消した。
「では、天草先生。今日はそちらの席へ」
言いながら初老の教師は、教室の一番奥に用意された椅子を手で案内する。
「……っ」
一瞬の間を開け、私は示された椅子に歩を進めた。
おお、いかん。いきなり自分の立場を忘れてしまうところだった。
私は母校である夕霧高校に教育実習生として来ている。最初はものすごい勢いで断られたが、ゼミの教授のコネをふんだんに使って無理やりねじ込んでもらった。
担当科目は国語総合。教える相手は高校一年生。期間は二週間。
その間に旧校舎という名の廃墟を堪能しつくすのが目的だ。
まぁ私にとっての母校は、こんなオシャレな香のにおいがする新校舎などではなく、今や湿気とカビが充満する旧校舎なのだから、卒業生としてのあるべき姿なのは言うまでもない。ぬぇへへへ。
「ふぅ……」
息を吐きながら席に腰を下ろし、私は最後列から教室を見回す。
ここを卒業した時から身長がさらに十センチ伸びたせいか、なんだか視野が広い気がする。これが百八十センチから拝む授業風景か。
いや。
それだけではないな。教室全体が明るいんだ。
天井には長い棒状のLEDライトが二つ、教室の前後に取り付けられている。明るい木目調のフローリング床に、花の彫り絵刺繍が施された白い壁紙。真っ白な天板の生徒机に、赤いクッションの敷かれた椅子。窓ガラスは当然のように二重構造で、表面を何かでコーティングしているのか傷一つない。そして教師が握るのはチョークではなく太い油性マーカー。それで文字を書くのは黒板ではなくホワイトボード。
実に清潔感あふれる、実に現代的な内装だった。
私の学び舎だった旧校舎も、まだ築二十年ほどだったが、築五年が相手では白旗を上げざるを得ない。
生徒達も勤勉そのものではないか。
誰一人として私語などせず、皆熱心に授業を受けている。
うむ、感心感心。この分なら私もより多くの労力を、廃墟探索に割くことができ――
「――っぁ!」
ガタン! と悲鳴混じりの大きな音が響いた。
皆、一斉にそちらを見る。目元に手を当て、誰かが蒼白な顔つきで立ち上がっていた。
「め、女霧(めぎり)さん……。どうか、しましたか……?」
初老の教師は恐る恐る声をかける。
しかし女霧と呼ばれた女子生徒は何も返さず、赤みがかった長い髪を揺らして教室から出て行ってしまった。
きっと緊急を要する何かだったのだろう。女の子は色々と大変だと聞く。
私は彼女から視線を戻し、再び教室を――
「例の発作よ!」
「何か視えたんだわ!」
「今度はなんだよ。次のかまいたちかぁ?」
「狐の方じゃね? 最近来てなかったし」
「やっぱスゲェよな! 女霧さん!」
一変していた。
先程までの優等生的な授業風景はどこへやら。皆、席を立ち、好き勝手に動き回り、はしゃぎ、大笑いして騒ぎ散らしている。教師が静かにするように言うが、まったく効果がない。それどころか他のクラスからも声が聞こえ始め、熱気は連鎖的に広がっているようだった。
「ねぇねぇ先生!」
耳元で女子生徒の大声が聞こえる。
「先生ってば!」
ほら呼んでるぞ先生。早く対応してくれ。
「先生!」
――ああ、私のことか。
三度目の呼びかけに、私はようやく彼女が自分のことを呼んでいるのだと認識した。
「先生はどう思う!?」
熱病にでも浮かされたような、どこか恍惚とした表情で早口にまくし立ててくる女子生徒。
「どう、とは?」
「怪奇現象のこと! 何か聞いてない!?」
目には理性的な輝きがあまり見られない。興奮で自分を見失っているようだった。
「いや、別に」
「でも卒業生なんでしょ!? 昔の話とかで!」
どうでもいい。
が、この手のタイプは突き放すと余計にテンションが上がる。仕方がない。
「昔か……まぁ、君達で言うところの旧校舎のことなら少しは」
「旧、校舎……?」
適当に話を合わせながら教師による事態収拾を待とうかと決めた時、彼女の勢いが突然止んだ。
「えーっと……それは、いいや。そっか……先生、そっちの方だったんだ……」
私から視線をはずし、後ずさりながら彼女は席に戻る。
「あたしは、そっちはいいや……。ガチだから……。いいゃ……」
そして誰に言うでもなく、独り言のように呟き続けた。
何か理由はよく分からないが、とりあえずおとなしくなった。どうも“旧校舎”、というワードが効いたようだ。
そう言えばあの初老の教師も、旧校舎にまつわるエピソードをやけに詳しく語っていたように記憶しているが……。
『一年生、一年生。直ちに騒ぐのを止めて授業に戻りなさい』
天井近くに設置されたスピーカーから、大音量で声が流れ出す。
『繰り返す。一年生、騒ぐのを止めて授業に戻りなさい』
声の感じは怒鳴る、というより呆れや諦めが強い。またか、という心の声が聞こえてきそうだ。恐らくこういう騒動は珍しくないのだろう。
「はいはい、分かりましたよ」
「せっかく盛り上がったのに」
「チッ……」
すっかりしらけた雰囲気で、生徒達は自分の席へと戻っていった。そして何事もなかったかのように、授業が再開される。
いや、正確には小声で話をしているグループがいくつか。儀式用だの、プールの排水口だの、クモの藁人形だのといったワードが飛び交っている。多分、オカルト系のキーワードなのだろうが、それが何を意味するのかは分からない。
こういうヒソヒソ声というのは耳に入りやすいのだが、初老の教師はまるで気に留めるでもなく淡々と授業を進めている。
あの女霧とかいう女子生徒が声を上げてから、どうもおかしな雰囲気だ。そしてそのおかしな雰囲気を当たり前のように受け入れている感じがまた妙だ。
……まぁ、実習生の立場にある私が気にすることでもないのだろうが。
「ふぅ」
私を気を取り直してネクタイの位置を直し、首筋までの伸ばした黒髪を百均の髪ゴムでまとめる。左右に分けていた前髪を寄せて目元を隠し、腕と足を組んで授業の内容を聞き流すことに集中した。
結局、女霧という出て行った女子生徒が戻ってくるとことはなかった。
『あの旧校舎の場所はね、むかし軍事病院だったんですよ』
朝、初老の教師から新校舎を一通り案内してもらっていた時、唐突にそんな話をされた。
『まぁ病院と言っても名前ばっかりでね。もう助からない人の収容所みたいに使われていたらしいですよ』
彼の話によると、第二次世界大戦中に多く建てられたいわゆる“目隠し施設”の一つで、医療行為は一切行われていなかったらしい。当時は、止まない叫び声とひどい腐臭で、関係者でも近づきたくなかったようだ。
『そこは土葬が一般的だったみたいでして』
運ばれてくるあまりに多く兵士達を見て、燃やす、という発想は出なかった。まとめて埋める――いやフタをするという作業を淡々とこなしていた。中には手違いで、まだ息のあるうちに埋められた人間もいたとか。
『そのせいか色々と噂がありますので、先生も気をつけてください』
三年間、その校舎で高校生活を送っていたが、そんな話は初耳だ。
『ああ、今までずっと隠して来たんですがね。どういう経緯でかそれが漏れてしまって……。それ以来、色々と変な噂が飛び交うようになりまして』
確かに、私がいた時もその手の噂はあったが……。狐憑きがどうとか……。
『先生もご存知でしたか。今、新校舎の方でも騒ぎが起きてましてね。たぶん、旧校舎の噂を生徒たちが面白おかしく流してるんだと思いますが……』
ところで旧校舎取り壊しの話はだいぶ前からあったと思うのだが。
『ええ。ただ、金銭的なことで業者との折り合いがなかなつかなくてね』
経営に関しては色々あるんだろう。新校舎を建てたばかりだし。
『こうやって延び延びになってると、また生徒達が騒ぎだすんですよ。呪いだとか、そういう類のことを。好きなんですかね、その手の話が』
まぁ夕霧高校の敷地は自然の真っ只中だし、特に旧校舎は山を半分きり崩した上に建てられているから、怪奇話の作り易さもあるんだろう。
『とにかく、今年の盛り上がりは去年よりひどいんですよ。なので天草先生、もし実習を続けるのが辛くなったら、決して無理はしないでください』
これは暗に、“帰ってください”と言っているのだろう。基本的に教育実習生を取るつもりはなかったらしいから。
『あと、もう分かっているかと思いますが、くれぐれも旧校舎には近づかないように』
「ふぅ」
そんなわけで旧校舎にやって来た。
昼休み。
学食で百五十円のとろろ昆布うどんをかき込んだ後、本能の勢いに任せて愛しのハニーに会いに来た。百均の折りたたみ傘では、二着で一万円のスーツを完全に守りきれなかったが、まぁいい。些細なことだ。
百均ネクタイを少し緩め、私はかつての学び舎を見上げる。
「五年、か……」
短いようで長い、長いようでやはり長い年月。
私たちの代が最後の卒業生となったこの校舎は、思った以上に様変わりしてしまっていた。
頑丈なだけがとりえの鉄筋コンクリートでできた、直方体の無愛想な建物。外壁に塗られた漆喰はすっかり変色して褐色がかり、ところどころ剥がれ落ちて内部を露出させている。一階部分の窓ガラスは、ほとんどが割れてなくなってしまっていた。鳥につつかれたような跡や、植物の蔦が覆いかぶさっている箇所が散見される。放置された室外機も似たような有様だ。
山の中に投げ込まれたようにして建っているせいか、自然による侵食が予想以上に早い。街中なら十年以上は要する仕込みが、ここではわずか五年たらずで成し遂げられてしまっている。
「いいね」
理想的だ。
近くで見ると、想像以上に理想的だ。
私は校舎の裏手に回りながら、現役だったころの古巣を思い起こす。
廃墟探索をするにあたり、雰囲気作りは非常に大切だ。廃墟との会話はここから始まる。
この校舎の取り壊しは私が卒業する前から決まっていた。正確には二ヶ月ほど前か。そして私たちが旧校舎の最後の卒業生となった。ずいぶんと急な話だ。新校舎は旧校舎解体決定の発表と同時に建設され始めた。
あの時の説明では校舎の老朽化が理由だった。しかし築二十年という数字だけ見るとまだ若い。だから何か建物に欠陥でも見つかったのかと思っていたが……。
「おお」
裏手に回ると草木の密度が増していた。
自然に覆われているというより、取り込まれている感じだ。足元の雑草の背丈もひざ上くらいまで来ている。こんなこともあろうかと百均で長靴を買っておいてよかった。
……まぁ、子供用しかなかったので、守備範囲はそれなりでしかないのだが。おまけに常に爪先立ちだし。
裏手には勝手口のような扉が一つだけある。ここを通って柵を一つ越えればグラウンドへの近道になったので、よくお世話になった。
安いアルミサッシでできた扉。そのノブに手をかけ、回す。ザリザリとした錆び付いたような手応え。五年もの間ため込まれた抵抗に逆らい、私はノブを回しきった。そして引く。
ガン、という硬い手応えを予想していた。
まさか、すんなり開くとは思ってなかった。
鍵ごと壊してしまったかと思った。
だがそんな心配事はすでにどうでもよかった。
「おおぉ」
廊下。
灰色のピータイルが敷かれた、横一直線の廊下。一定間隔で教室の扉がならび、壁には画鋲だけになった掲示板。消火栓と書かれた埋め込み式の金属箱は、半開きになって中の消火ホースを露出させていた。
元々、この辺りには殆ど物が置かれていなかったせいか、自分の記憶の中の光景とあまり差がない。同じ五年でも、外と中ではずいぶんと時の進み方が違うものだ。
こういう感覚を味わえるから廃墟探索はやめられない。当時と今。両方の建物の姿を思い描き、同化させ、差を浮かび上がらせてその場に立つ。まるでその間の歳月を一瞬にして感じ取れるかのような錯覚。時間と空間の跳躍。
月日は残酷にして慈悲深い。
その二面性を、廃墟を通じて体感することができる。
「素晴らしい……」
無意識につぶやきながら子供用長靴を脱ぎ捨て、傘をたたむ。そして一歩踏み入れ、校舎内の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
湿ったカビの匂い。土や草の匂いもする。
それに――
「ん?」
甘い、匂い……。
気のせいか? 今、廃墟らしからぬ妙な香りがしたような……。
私はもう一度鼻だけから息を吸い込み、注意深く鼻腔を刺激する。
建物の内壁が持つ化学的で無機質な匂い。そこに混じる、停滞感あふれた埃と黒かびの香り。人工物が少しずつ排除され、その隙間に入り込むようにして息づき始める土と草の存在臭。
そして足元から沸いてくるような甘い芳香……。
気のせいではない。確かに何か異質な匂いの発生源がある。
この廃墟探索歴十五年、訪れた廃墟数は千を下らないと自称しているこの私をもってしても、経験したことのない香り、だと……? 腐敗からくる、すえたような香りなのか……? いやしかしそれほど不快な匂いではないような……。
まぁもっとも、そこまで腐敗の進んだ物を、私自身がかいだことがないのだから、なんとも判別できないのだが……。
「腐敗臭……」
別に廃墟ではさほど珍しくもない。カラスについばまれたネズミや野犬の死骸など、いままで何度も見てきた。だがそれは建物自体の崩壊がかなり進み、自然に対してよりオープンになった場合のみ。壁や天井の一部崩壊により、中と外との境界があいまいになり始めてようやく、そういった現象が見られる。
対してこの旧校舎は壁も扉もまだしっかりしている。小動物程度の力では、強引に突破するのは困難だ。
……ひょっとすると、これほど原型をとどめている廃墟を訪れるのは初めてかも知れないな。
ネズミや野犬とは違う腐敗臭を放つ何か――まだ建物自体の造りがちゃんとしていて――つまり元々ここにいた存在――
「ふぅ」
まぁいいか。
私は甘い匂いへの考察をやめ、廊下を歩く。
この手の思考に耽るのは後だ。今は探索優先。そのために、教員免許など取る気もないのに教育実習に来たのだから。
すべては廃墟への飽くなき探究心のため。
旧校舎などとっくに潰されていると思っていた。
まだ残っていると知ったのは一年ほど前。廃墟オタクが集うネット掲示板に書き込みがあったのだ。そこに“夕霧高校”の文字を見つけた時には、戦慄が走った。
スレッドを立てたのは、『光トカゲ』というハンドルネームの新参者。彼(仮)によると、取り壊し予定だったのが延び続けて、未だに実行される気配がないとか。
私が卒業した年に取り壊されるはずだったから、すでに四年も延期が続いている計算となった。そういう曰く憑きの物件は大歓迎だ。色々想像できた方が、廃墟探索に厚みが出る。
それがかつての学び舎ともなればなおのこと。
――そういえばあの時、私はこの場所であんなことをしたり、見たり、考えたり――
そうやって当時の出来事に思いを馳せているだけで、恍惚感が舞い降りてくる。
『光トカゲ』の立てたスレッドを見た瞬間、すでに私の行動は決まっていたのだ。
彼(仮)とは個人的なメールアドレスも交換し、旧校舎の状況を確認し続けた。そして一方で、教育実習を受ける資格要件を満たすために、教育学部の必要単位をそろえた。まぁ殆どの必要単位は、私の文学部のものと重なっていたから楽ではあったが。
“教員免許を取るための単位”ではなく、“教育実習を受けるための単位”だから、取得数はそんなに多くはない。
夕霧高校はここ数年、実習生を断ってきたらしかったが、ゼミの教授の権力の前ではそんなものは意味をなさない。だから実習生は私一人だ。数年ぶりに無理やり受け入れさせた一人。
とにかく関係者になってしまえばこっちもの。例え見つかったとしても、ちょっとしたアクシデントですませられる。建造物侵入罪は適用されない。
そして本日! 午後零時十三分!
ついに私はこの場所にたどり着いたのだ!
「ぬぇへへへ」
自然と含み笑いが漏れる。よだれまで出てきそうだ。
静かな廊下をゆっくりと端まで歩ききり、私は二階へと続く階段を一段一段踏みしめながら上る。ところどころめくれ上がったピータイルが、一足千円の合成革靴に引っかかる感じが心地よい。木造ではないから軋み音は聞こえないが、代わりに砂利をすりつぶすような音が新鮮だ。
二階には二年生が使っていた教室と、音楽室や図書室などがある。
百均のデジタル腕時計に目を落とす。
十二時三十五分。
時間はまだある。
「ぬぇっへへへへへ……」
眼前に広がる、色あせた希望の大地。まずはどこに行こうかと目移りしていると、視界の隅に人形が映った。それは精巧に作られた人間のようで、まるで人間のような外観と動きを――
「ぬ……!」
ヤバい。
私はとっさに階段の陰に隠れる。
音楽室にいた人影。あれは人形じゃない、人間だ。
私の他にも誰かがこの旧校舎に入り込んでいる。
「……」
壁に背中をつけ、こんなこともあろうかと百均で買っておいた小さな手鏡に向こうの様子を映し出す。
この階段から二年生の教室を二つはさみ、そのさらに向こう側。非常口の手前にある音楽室。部屋の前後にある二つの扉はどちらも開け放たれており、私に近い方の扉から誰かの姿が見える。
何をしているんだ……。
鏡の角度を変え、人影がより大きく写る位置に固定する。
「ここの女子生徒……」
白のブレザーにライトグレーのプリーツスカート。胸元には紺と赤のチェック柄のリボン。
夕霧高校の女子生徒が着用している制服だ。これがセーラー服ベースの旧校舎仕様だったらホラーなんだろうが、その路線は否定された。力いっぱい、今日ここに来て初めて見た制服だ。
「ぬぅ……」
謎の女子生徒は何か身振り手振りを交えながら、誰かと会話している様子だ。残念ながら相手の姿はここからでは見えない。だがとりあえず、こちらのことは気づかれていないようだ。
さて。今、私には二つの選択肢が与えられている。
一つはこのまま何事もなく立ち去り、午後の授業に戻る。
もう一つは、この二階以外の階を散策して回る。
そして最後は、堂々と名乗り出て彼女を注意する、だ。
……考えている途中で閃いてしまったのだからしょうがないだろう。
「ふっ」
そうさ。何を臆する必要がある。立ち入り禁止の旧校舎にいるという条件は、私も彼女も同じでないか。そして私は教師(仮)。彼女は生徒。
どちらに分があるかは、百均の食品は百円の価値がないのと同じくらい明らか。
私は口元をゆがめ、堂々と一歩を踏み出そうとした時、
「そ、そそ、それじゃあ。まま、また、ね……」
彼女の方が音楽室から出てきた。
女性にしては低い声をどもらせ、手を音楽室の中に振りながら廊下に出る。そして異様に大きな黒い傘を、多少手こずりながらも何とか広げた。
……いや、傘が大きいんじゃない。彼女が小さいんだ。
今まで遠目にしか見てなかったから気付かなかったが、対比材料が近くにあると良く分かる。
傘の長さ、そして彼女が出て行った非常口のドアノブの高さ。
身長にして百五十……いや百四十センチあるないかといったところか。
「座敷わらし」
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
黒髪で、髪型もおかっぱっぽかったし、あれに着物を着せれば間違いなく妖怪。
廃墟と妖怪。オーソドックスだが、バズレのない素晴らしいコンビネーションだ。
「うむ」
満足感と共にうなづき、私は階段の影から出る。
さて、彼女は一人で先に行ってしまったが、話し相手の方は音楽室に残ったままだ。何かまだ用事があるのか、それとも彼女が薄情なのか。
どちらにせよ私が遠慮することはない。
彼女の口ぶりからして、残った方も同世代。つまり生徒と考えるのが自然。ならば教師(仮)にかなう道理はない。ここは堂々と姿を拝み、よろしければ廃墟友達になろうではないか。
「御免」
低い声で言い放ち、私は音楽室の中に入る。
「……」
無骨な木の天板があしらわれた生徒机。まだ綺麗に並んだままの列もあれば、倒れて床に転がっている物もある。グランドピアノは新校舎に運び込まれたのか、かつてそれがあった場所だけは床の色がわずかに違っていた。
防音用に無数の穴の開いた壁。天井近くには、古くなった偉人作家の肖像画がかけられたままになっている。
「……」
中には誰もいなかった。
隣の楽器室も見てみたが、人どころか物一つなかった。
「これは……」
百均ネクタイをすこし緩めて、思考をめぐらせる。そして数分前の状況を思い出す。
座敷わらしがここで誰かと喋っていた。彼女はサヨウナラと言って先に出た。私はすぐにここに来た。誰かが出て行く姿は見ていない。
「まさか……」
音楽室にも、楽器室にも人はいなかった。隠れられるような場所はない。そして音楽室には窓がない。
「密室トリック」
それしか考えられない。
しかしいったい何のために……。
「いや待て」
おっと危ない危ない。一つ大きな可能性を見落としていた。
私は最初から、彼女が“誰か”と喋っていたことを前提に話を進めていた。その前提が落とし穴。そう思い込ませることが、彼女の狙いだ。つまり――
「演劇の練習」
これだ。
スターを目指して、人知れず日々研鑽を積む座敷わらし。
将来、夢がかなった時の美談になりそうなエピソードではないか。
よーしスッキリした。もう昼休みの時間はそれほど残されていないだろうが、ほんの少しでも楽しんで――
「ぬ……」
唐突に違和感を覚え、私は顔をしかめた。
何だ……? 体が、妙に重い……。
少し息苦しい気がする。胸元が締め付けられるような――
「く……」
人の気配。誰かに、見られている……?
誰だ?
辺りを見回す。しかし視界に人影は入らない。
気のせいか? だがこの不気味な感じは……。
――ぇ
……何だ? 今、何か音が……。
――ねぇ――
いや、声か? 耳の奥で共鳴しているかのような、限りなく音に近い声――
――ね――ぇ――
ヤバい。何かがヤバい。
具体的にそれが何なのかは分からないが、とにかくヤバい。これ以上ここにいるのはヤバい。
私に与えられた選択肢はたった一つだけ。
「出よう」
よし。
胸中でうなづき、私は非常口から外に出る。そして百均傘を広げると同時に、新校舎の方からチャイムが響いた。
滑りそうになりながら非常階段を下り、雨にぬれるのもかまわずに新校舎への斜面を駆け下りる。
背後から感じる何かの視線は、旧校舎を出た後もしばらく続いた。
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