廃墟オタクは動じない
第十二話『聞きたい声』
「落ち着いたか?」
窓際の壁に背中を預け、私は微笑を浮かべながら七ツ橋に声を掛ける。
「は、はぃ……」
すぅはぁ、と胸に手を当てながら呼吸を整え、七ツ橋は痙攣するようにコクコクと頷いた。それに合わせて、長くの伸びた前髪が小刻みに揺れる。
「す、すす、すいま、せん……」
そして上目遣い気味にこちらを見ながら、七ツ橋は申し訳なさそうに言った。
「なぜ謝る」
「とっ、とと、取り乱して、し、しまって……」
「感情表現豊かな証拠だ」
私の返答に七ツ橋はまた目を丸くし、僅かに後ずさる。
「お、おお、おとといは……すっ、すいませんっ、でした……」
「保健室でも言ったが、あれは私にも責任がある。気にする必要はない。それより調子はもういいのか? 昨日はゆっくり休めたのか?」
「きっ、昨日、は……」
そこまで言って七ツ橋は口ごもり、何かを探すようにキョロキョロと目を動かした。しばらくそうしていたが、やがて私から完全に目を逸らすと、
「ちょ、ちょっと……」
歯切れ悪く小声で呟いた。
「そうか」
感情表現豊かな分、非常に分かり易いというか、恐ろしいほどに素直すぎるというか。
適当に『具合が悪くて』と言っておけばそれで済む話なのに、探りを入れてくださいと言わんばかりなリアクションをするあたり、口下手な七ツ橋らしいというか。
もっとも、探りを入れるまでもなく、今の反応で十分なのだが。女霧の言っていたことは真実だったようだ。とはいえ、軽々しく私がどうこうする問題ではないのだが……。
「どっ、どうして……っ?」
「ん?」
「ここ、ここで、わたしが、しゃべる、練習を……っ?」
なぜ自分がここで喋る練習していることを知っていたのか。
そう聞いているらしい。
「初日にここで君が話しているのを見た。独り言にしては妙に生々しかったからな。誰かがいるのを想定して会話しているようだった。で、さっき君自身の口から練習をしていると聞いて確信した」
「そっ、そう、だったん、ですか……」
七ツ橋は少し表情を緩ませて、嬉しそうな声で呟く。会話に聞こえた、と言われたことが嬉しかったんだろう。
……まぁ、実際は女霧から事前に情報を聞いていたからなんだが。
「練習は必要なのか?」
私の言葉に、七ツ橋は弾かれるようにしてこちらを見上げる。
――一体何を言っているのか分からない。
漆黒の両目には、動揺の色がありありと表面化していた。
「君はもう十分喋れているじゃないか」
続けた言葉に、七ツ橋は下あごを弛緩させるようにして口を半開きにした。
「こうして私と会話しているだろう。何よりの証拠だ」
そう言い終えた直後、七ツ橋の表情に陰りが差す。先ほどまでの喜びにも似た気配は鳴りを潜め、泣き出しそうな渋面が顔全体を覆っていく。
しばらくうなだれていた後、七ツ橋は奥歯をかみ締めるようにして話し出した。
「ほっ、ほほ……他の人は、せ、先生みたいに……まっ、まっ、待ってくれ……ませんから……」
無理やり絞り出すような、かすんで枯れた声。
「どっ、どん、どん、先に……っ、いっちゃいますからっ。わ、わたっ、わたしだけっ、ついて……いけなくて……取り残されて……」
首に巻かれた紺と赤のチェック柄のリボンをいじりながら、七ツ橋は小さな声で続ける。
「で、でっ、でもみんなとっ……一杯、お、お話、したくて……。たたっ、楽しく……したくて……。そっ、それでっ……ずっと、一人で、れ、れ練習、して……いつか、み、みんなと……ふっ、普通に……お、お話しっ。はなっ……話せたら、なって……」
何度も途中で詰まりながら、小さな声を更にか細くしていきながら、それでも七ツ橋は言い切った。
白いブレザーの袖口に包まれた指先を所在無さげに動かながら、七ツ橋はすぅはぁと浅い呼吸を繰り返す。弱々しく、はかなげな姿。
我々が普段、当たり前のように行っている日常会話。特に意識せずとも、気が付けば飛び足している言葉の数々。それが彼女にとっては、息を切らすほど負荷のかかる作業となっている。
「でっ、でも……ひ、一人じゃ……よ、よく……分からなくて……」
だが頑張っている。
その状況を諦めとともに流すのではなく、改善しようと必至に努力している。
しかし、中にはその努力を滑稽だとあざ笑い、陰口を叩く奴らがいる。
「でっ、で、ですから……っ、せ、せせ先生が、いっ、一緒に、お、おは、お話してくれると……すっ、凄く、心……強いです」
それだけでは飽き足らず、直接的な力を行使しようとする奴らがいる。理不尽な理由や言いがかりを突きつけて、七ツ橋を傷つける糞野郎がいる。
絶対に許せないと思う。何とかしてやりたいと思う。七ツ橋を救ってやりたいと思う。
だが私が手を出したところで変化は一時的なものだ。七ツ橋自身の行動が重要だということもあるが、何より――
「……私はあと一週間でいなくなる」
教育実習が終われば私はここからいなくなる。もし私が彼女への被害を止めたとして、一週間後にその堰が無くなれば、またこれまでと変わらない光景が繰り広げられるだけだ。もしかすると加速するかもしれない。
だから出来ない。軽々しくは。
生半可な気持ちで首を突っ込んでいい状態ではない。だからせめて、
「……わ、分かって、ます。だっ、だから……っ、そ、そそ、それまで、たく、さん……」
「そうだな」
彼女が変わる手助けをしたい。
外的な環境ではなく、内的な心境を変えられるように。
「沢山話をしよう」
それにきっと、私の方も七ツ橋から学ぶべきことがあるはずなんだ。
「取り合えず昼休みはここにいる。よほどの事がない限りな。放課後は……私の授業への質問という名目で、七ツ橋の方から来てくれるとやりやすいかな」
私の方から接触しようとすると、また学校を休むハメになるかも知れないからな。七ツ橋が特別扱いされているような状況を作り出すのは、彼女にとって良くない。
「はっ、はっ、はい……っ! あっ、ありがとうございます……っ!」
肺の中の空気を全て吐き出す勢いで、七ツ橋は叫ぶように言って頭を下げた。小さな体が深く折れ曲がり、まるで小動物が丸くなったように見える。
しばらくその体勢でいた後、七ツ橋は弾かれたように顔を上げて、口元を笑みの形に緩めた。それは気をつけて見ていなければ分からないほど、微細な表情の変化だった。
しかし明らかに雰囲気が変わっていた。
喜びの感情があまりに大きすぎて、彼女の小さな体では受け止めきれず、外へとあふれ出ているかのように。
屈託など一片もなく、純粋で純然とした明るい気持ちだった。
「……君は、実に前向きだな」
いつの間にか見入ってしまい、私は会話がないことに気付いて短く言った。
「尊敬に値する」
そして言葉が自然と口から滑り出る。
七ツ橋ともっと話がしたい。七ツ橋のことをもっと良く知りたい。
彼女と一番最初に会話した時も同じことを言ったが、意味合いは全く違う。
七ツ橋は明らかに、私が持ち合わせられなかった物を持っている。
――どうしてそんなに笑っていられる。
私も五年前、似たような状況を味わったことがあった。あの時、私も何とかこれまで通りの自分を保とうと努力した。
だが長くは続かなかった。
何の後ろ支えもなく、そうやってい続けるのは想像以上に辛い時間だった。
なりたくてなっているわけじゃない。なのにそれを理由に責められて、それでも平和的な思考を保つのは並大抵の労力じゃないんだ。
だから私は攻撃した。
母子家庭であることを、貧しい家庭環境であることを、ヘラヘラと笑うやつに。
例え狐憑きが原因だったとしても、それを理由にして我慢し続けていられるほど、私は出来た人間ではなかった。
――『いやいや。あんなウザいオヤジだけどよ。お前見てると、あんなでも必要なんだなって良く分かるよ』
殴った。
顎を、頬を、鼻を。
――『いやー、お前よく変なことするからさ。何でなんだろーって思ってたんだよ。つまりあれだろ? 半分ないから、歯止めが利かないって事だろ?』
拳が血で染まり、赤黒い斑点が床に飛び散り、鈍い痛みが腕にわだかまってきた頃、後ろから羽交い絞めにされた。耳元で何か叫ばれた気もするが、よく覚えていない。ただその時に思ったのは、
――どうして私だけ止められる?
そいつの――前日までは親友だった男子生徒の暴言は、私が殴りかかるまで誰も止めようとしなかったのに。ただ遠巻きに見ているだけだったのに。なぜ、私だけ。
だが理由は次の日に分かった。
顔を包帯まみれにして登校して来たそいつを見て、私はゾッとした。
彼の重症度合いに。そして――本気で殺そうとしていたことに。
もし止められなければ、私は今頃殺人者として刑に服していたかも知れない。
頭が冷えれば冷えるほど、私の中には殴っていた時の思考が鮮明に蘇った。
――コロス。骨を砕いてコロス。目玉を抉ってコロス。脳を引きずり出してコロス。
コロスコロスころす殺す殺すコロス殺スこロす殺スコろすコろスコロす殺ス。
かつてない激情。
原始的な本能とでも言うべき憤怒が脳髄を焼いて、殺すこと以外何も考えられなくなっていた。これが本当に自分の頭の中を埋め尽くしていたのかと思うと、心底怖くなった。
高校一年から親しく付き合っていた相手を、こうも簡単に壊したくなるものかと。
それから周りは当然のように私から離れ、私の方からも距離を置いた。
紫堂茜の死亡事故が起こり、美術室が閉鎖になり、新しいニュースで皆の記憶が上書きされ始めても、私の後ろ暗い気持ちが晴れることはなかった。
事の発端は相手だ。向こうが私に対して喧嘩を仕向けてきた。私はそれを受けた。そして暴力で片をつけた。
決して褒められた解決策ではないが、あの時はその方法しかないと思っていた。完全に思考を支配されていた。
だが七ツ橋なら、どうしていただろうか。
言葉だけで解決の糸口を探っただろうか。なぜそんな酷いことを言うのか、原因を突き止めようとしただろうか。
それとも無言で笑って流していただろうか。こんな無意味なことをしても誰も得はしないと、雰囲気で醸していただろうか。
あるいは、もっと他の何かで……。
「あっ、あのっ……」
七ツ橋の声に我に返った。
どうやら無意識のうちに彼女を見つめていたらしい。自分の世界に入ると周りが見えにくくなる。悪い癖だ。
「ああ、すまない」
半笑いで言って私は彼女から一旦視線を逸らせ――
「――ん?」
服の柄に違和感を覚えた。
制服であるライトグレーのプリーツスカート。七ツ橋の足先まですっぽりと包み込むほどに長い生地――いや、彼女の体格ゆえにそう見えるだけだが――に、不自然な黒い膨らみがある。
いや、膨らみではない。これは――
「七ツ橋、いいか落ち着け」
私は両手を前に出し、なだめる仕草をしながら彼女に近づく。
「そのままじっとしていてくれ。動かないで」
そして軽く身をかがめ、手を横に薙いで七ツ橋のスカートを払った。そこに付いていた物は軽快なバックステップで後退すると、そのままの勢いで床に降り立ち、物陰に隠れてしまう。
「スカートに蜘蛛が付いていた」
私は身を起こし、端的に説明した。
例の魚蜘蛛だ。胴の長さだけで五、六センチはあっただろうか。結構な大きさだ。女霧あたりが見ていたら、卒倒していたかもしれない。まぁ女霧でなくとも、大抵の女子生徒は嫌がるだろうが……。
「あっ、あっ、ありがとうっ、ござい、ます……」
七ツ橋に動揺は見られなかった。
言葉だけ聞けば酷く狼狽しているように見えるが、これは彼女の素だ。何より表情に変化が見られない。女霧のように嫌悪感を露呈させるわけでも、ましてや悲鳴を上げるわけもない。
ただじっと魚蜘蛛が隠れた場所を見つめている。
「怖くないのか?」
私の問いかけに七ツ橋は向き直り、小首をかしげて不思議そうな顔つきをした。
「虫は平気なのか?」
「く、くっ、蜘蛛は、え、益虫、ですから……」
ようやく私の質問を理解したのか、七ツ橋は少し慌てながら返す。
蜘蛛は益虫、ね。どうやら生理的な拒絶感はないらしい。
「だが怖がる女子生徒は多いと思うぞ」
含みを持たせて言い、私は七ツ橋を真っ直ぐに見つめる。
「上手く使えば、君が持っている悩み事を解決できるんじゃないのか?」
例えば、相手に蜘蛛を差し向けて怖がらせ、それを追い払って助ける、とか。単純極まりない自作自演だが、人間関係に僅かな波紋を生じさせるくらいは期待できそうだ。
「そっ、そんなことは……っ」
スカートを両手でぎゅっと掴み、七ツ橋は困惑気味に視線を泳がせる。
「そんな、ことは……かっ、か、可哀想、ですっ、から……」
「誰が?」
「りょっ、りょう、両、方……」
両方? 蜘蛛も相手も両方、ということか。
なるほど。同情対象に蜘蛛も入っているあたり、七ツ橋らしい仏心というか。まぁ“可哀想”を加害者だけに向けて自分に言い訳しないところを見ると、現状を良しとしない気概は残っているということか。少し安心した。
「あっ、あっ、あああれ……? せ、せせ先生……っ、ど、どど、どうして、そそそんなこと……っ、しっ、しっ、知ってるん、ですか?」
普段よりさらに言葉を詰まらせながら、七ツ橋はありありと困惑の色を浮かべて聞き返してくる。
いかんな。この件に関しては積極的に関与するつもりはないのに、つい助け舟を出したくなってしまう。
「ああ。この前見せてもらった包帯の傷、な。君はかまいたちの仕業だと言っていたが、その……何となく、他の可能性を想像してしまってな」
「そっ、そ、そう、ですか……」
私の返答に目線を下げてうつむく七ツ橋。
しまったな。もっと言葉を選ぶべきだった。七ツ橋にしてみれば、想像だけで決めてかかられているんだ。普段からそんな偏見にまみれた見方をされているのかと、不快になっても仕方がない。どうフォローすべきか……。
「せ……っ、せ、先生は、……なんでも、わ、分かるん、ですね……」
少し明るみを帯びた七ツ橋の声。そこには悲壮な類のものは含まれていない。
「すっ、すす、すごい、です……っ」
ただ真っ直ぐに顔を上げて、前へと向かおうとする意思。
ああ……。
なんとなく、分かった気がした。
そうか。これが七ツ橋のやり方なんだ。どんな環境でも、どんな状況でも、決してめげることなく、くさることなく、前へ前へと。
それはある種の儚さと背中合わせの強さ。磨き上げられる前の原石。
だからこんなにも保護欲を掻き立てられるのだろうか。だからこんなにも心を乱されるのだろうか。
始めて見た時からそうだった。普段、殆ど動じることのない私が、彼女の言動でいとも簡単に自分を崩される。
何だろう、この感じは。
その廃墟然とした外見ゆえなのか、薄いダイヤのような内面ゆえなのか、それとも、この郷愁にも似た……。
「そう」
私の足は自然と七ツ橋の方へ向かっていた。
何か、妙に懐かしい感じがするんだ。以前にどこかで会ったことがあるような……。いや勿論、そんなはずはないんだ。こんな特徴のある容姿を忘れられるはずがないからな。
だとすれば、これは――
「匂いだ」
彼女にある程度近づいたところで、私の脳内に閃きが走った。
匂い。七ツ橋の体から発せられる香り。これだ。これだけかどうかは分からないが、例えばこれだ。
「七ツ橋、香水か何か使ってるか?」
私の問いかけに七ツ橋は顔を赤くして首を横に振る。
まぁそうか。これは芳香の類ではないんだ。他の人間がかいでも、特に気にも留めないかもしれない。何と言うか……昔のこの場所を思い出させる。
そう。言うなればこれは――夕霧高校の匂いだ。
この旧校舎ではなく、ましてや新校舎などでもなく、これは“私が現役だった頃の校舎の匂い”だ。
間違いない。かぐたびに訪れる懐かしさと妙な安心感。まぁ多少、思い手補正も入っているんだろうが……。
……あれ?
妙だな。匂いがしなくなった? さっきまで確かに七ツ橋から発せられていたのに……。消えた? 突然? そんな馬鹿な。
私は目的の香りを求めて嗅覚に神経を集中させる。目を閉じ、耳をふさぎ、鼻の奥を鳴らして匂いの筋を手繰り寄せる。
――あった。
匂いは少し下に移動していた。ちょうど七ツ橋の膝下あたりにわだかまっている感じだ。
しかし下降は止まらない。香りは膝下から足元へ、足元から床上へ。そしてついには消え去ってしまう。
もう一度嗅覚を研ぎ澄ます。
七ツ橋が立っている場所を中心に、円を描いて移動しながら香りを探し求める。黒い視界の中、見えない尻尾に何度も何度も手を伸ばそうとして、しかし掴み損ねる。何度も、何度も――
だが結局、指先に何かが触れることはなかった。
「駄目か……」
嘆息し、長く伸ばした後ろ髪を首筋になでつけながら立ち上がる。
何だったんだ。匂いを捕らえたと思ったら、まるで逃げるようにして消えてしまう。
旧校舎の怪奇現象の一つなのか? それとも、また先入観がもたらす幻臭なのか……。紫堂茜の声の時と同じように、当たり障りのない匂いを自分のかぎたいようにかいでいるだけなのか? もしくは――
私は改めて七ツ橋を見つめる。
彼女の魔力、か。
霊的なものを視る能力がある。私を悩ませる声や目眩が、彼女には効かない。そして私を望郷の念に駆り立てる力。これはまるで、
「なぁ七ツ橋、君は――」
魔女のようだな、と言おうとして私は言葉を呑んだ。
七ツ橋の様子がおかしい。うつむき、スカートをぎゅっと掴み、全身を小さく震わせている。
「ど、どうした。気分でも悪いのか」
まさか彼女にも異変がと、私は片ひざを付いて下から顔をのぞき込んだ。
両目を力一杯開き、僅かに瞳を潤ませ、病的なほどに顔を紅潮させている。目の下の濃いクマが完全に消え去ってしまうほどに。この反応は……。
思い当たる節があり、私は少し前の自分の行動を俯瞰的にトレースする。
誘われるようにして七ツ橋に近づき、鼻を動かして貪欲に匂いを求め、そのまま足元にひざまずき、そして犬のように周囲を嗅ぎまわる……。
……。
変態だな。
疑いようも弁護のしようもなく、完全無欠に究極無比に変態だ。この世のゴミと罵られようと、死刑順のシード権を押し付けられようと、第一種社会不適合者の烙印を押されようと、それらを甘んじて受け入れるしかないほどの見事な変態だった。
「すまないっ! 七ツ橋ッ!」
謝って済むのなら最高裁判所はいらない。
「わざとではないんだ!」
無意識だったで済むのならFBIはいらない。
「つい懐かしい匂いがしたものだから!」
意味不明な供述で済むのなら大陸間弾道ミサイルはいらない。
全ては無意味な行動。しかし取らずにはいられない。本能の雄叫びには抗えない。
「わ……っ、わかって、ます……」
消え入りそうなか細い声。
「せっ、せ、先生が……そ、そそ、そんな……っ、ひ人じゃな、いって……知って、まま、ま、ます、から……」
とどめの一言だった。
辛辣な言葉で罵倒された方が、どれだけ楽だっただろうか。身を引き裂く思いとは、きっとこのことを言うんだろう。魔女は無慈悲な儀式を執行する。それはこの世の摂理だ。
「あり、がとう……七ツ橋……」
声を絞り出す。動揺を隠せない。
彼女は本当にいい子だ。社会的に抹消される危機から私を救ってくれた。もしこれが他の女性相手だったら、全く違う結末を迎えていただろう。軽いにしろ重いにしろ、犯罪者として祭り上げられていたのは間違いない。
物静かで、真面目で、努力家で、前向きで――
本当に、いい子なんだ。なのに、どうして……あんな……。
分かっている。部外者が易々と関与していい問題ではないことは分かっている。ましてや二週間程度の付き合いでしかない、教育実習生などが。
七ツ橋自身が何とかしなければ、根本的な解決にはならない。そんなことは十分に分かっている。しかし、それはあくまでも最終的な話だ。途中の過程であれば、多少の手助けは何かの転機になるんじゃな――
――……ら――…てみな……よ――
何だ。
――な――……ってみなさ――よ――
聞こえる。例の声だ。
――できる……なら――やっ――なさいよ――
待て、慌てるな。冷静になれ。
「七ツ橋」
私は声を低くし、出来るだけ落ち着いて声をかける。
「何か聞こえないか。声か、音か」
視界の中で七ツ橋が歪んでいくのが分かる。背景の直線部分が根こそぎ曲線へと入れ替わり、劇的に現実感が失われ始めた。
目眩だ。このままだと私はきっと倒れてしまうだろう。最悪、また気絶してしまうかもしれない。だがその前に確認しなければならないことがある。
『七ツば ―― 聞…… いか――
くそ。自分の声も曖昧になってきた。
――できるも…なら――やって…なさいよ――
それに取って代わるようにして、耳元で鳴り響く声はどんどん鮮明になっていく。
だが辛うじて間に合った。
七ツ橋が何を言っているのかはもう分からないが、首を大きく横に振っていることだけは分かる。
『聞こえない』
彼女はそう言っている。それが分かれば十分だ。
そしてもう一つ。
――できるものならやってみなさいよ――
この声は違う。紫堂茜の声ではない。
だが知っている。声の主の名前は知らないが、聞いたことがある。
――出来損ない――
ああそうかい。じゃあ遠慮なくそうさせてもらうとしよう。
本人が解決しなければならない?
そんなものは下らない綺麗ごとだ。偽善者が自分の臆病を正当化するために用意した、吐き気を催す詭弁だ。実害を伴っていないだけで、やってることは加害者と変わらないんだよ。
自分で何とかなるんなら最初からやってるだろ。出来ないから、こんな風になっちまってんじゃねーか。どんどん相手に舐められて、付け上がらせて。自分一人じゃ収集できなくなってんだろ
――出来損ない同士、庇いあってさ――
見てろ。
殴られてた方がましだったって思わせてやる。
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