廃墟オタクは動じない

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  第十五話『絶対、誰にも言うなよ』  

 七ツ橋ひなたへのイジメが始まったのは、ゴールデンウィークが明けてしばらく経ってからのことだった。理由は彼女の喋り方だ。
 たどたどしく、何度も何度も詰まりながら発せられる彼女の言葉は、最初は周囲に好意的に受け入れられたらしい。個性的だと。聞いていて面白いと。他のクラスからも見に来る人がいたほどに。
 しかし一ヶ月も経った頃、誰かがこう言った。

 ――いい加減、めんどくせぇ。

 その一言以降、彼女への評価は真逆のものへと塗り替えられる。
 喋るのが遅い。声が小さい。結局何言ってるのかよく分からない。キャラ狙いすぎてて寒い。何かわざとらしくて耳障り。
 まるで遊び飽きたおもちゃを捨てるかのように、七ツ橋の周りから人は離れていった。
 それだけならまだよかった。
 だが流れはより陰湿な方向へと進み始めた。

 ――喋り方、教えてあげようか?

 誰かが七ツ橋に提案した。彼女は喜んでそれを受け入れた。思いもかけず一時的な人気を博したものの、七ツ橋本人は改善したかったのだ。他の人とは違う、この喋り方を。

 それが、イジメの始まりだった。

 最初から七ツ橋の手助けをするつもりなど全くなかった。行われたのは、暴力と誹謗中傷を交えた一方的な虐待。単にストレスのはけ口としてしか見ていなかった。
 ――一回詰まったら、こっちも一回ね。
 頬を叩かれた。スパルタの方が効果が出るのが早いと言われた。
 ――きっと脳に異常があるのよ。
 頭を叩かれた。まるで映りの悪くなった古いテレビでも扱うかのように。
 ――だからそんなに背低いんじゃないの?
 ――頭の発達障害が体にも伝染しちゃった?
 ――そりゃあ声もおかしくなるわよ。だってあんたの全身、どこもやる気ないんだもの。
 心を叩かれた。何度も、何度も。
 理由も根拠もないようなことを口にして、七ツ橋が傷つくさまを見て嗤っていた。
 『練習』は続けられた。そして内容は加速した。
 七ツ橋の性格からして、真正面から断る勇気はない。
 そんなことが一ヶ月も続けられた頃、『視える者』が現れ始めた。先輩からの噂や、旧校舎で実際に起こった死亡事故を元情報として、『狐憑き』や『かまいたち』などの怪奇現象が一年生の間でも騒がれ始めた。
 その波にいち早く便乗できた者は、『視える者』としてクラスの中心となった。彼らの言葉は自然と影響力を持ち始め、その口から出る『狐』や『かまいたち』との“やりとり”は常に話題の中心だった。そしてその“やりとり”の過程で出来た物も、怪奇現象の騒ぎをより大きく広める一端となった。
 つまりは『傷』だ。
 『狐』や『かまいたち』と駆け引きをすることで生まれた『傷』。無論、そんな物はただの自傷でしかない。話を大きく見せる見せるための小道具だ。
 だが異様な盛り上がりを見せていた周りの雰囲気が、その自作自演を霊的な儀式の跡だと錯覚させる。
 『傷』はいつしかステータスの一つとなっていた。 
 より深く、より多い傷を持った者が、話題性の高い人間としてクラスの中心に立ち始めた。
 ある時、誰かが七ツ橋の傷に目をつけた。一時期の七ツ橋の治療跡は、かなり目立つ量になっていた。『練習』は完全に、七ツ橋を傷つけることが目的になっていた。
 だが七ツ橋は誰からも相手にされることはなかった。
『最初の一ヶ月で自分は人気者になれると勘違いした七ツ橋が、もう一度人気を取り戻すために、自傷行為を行っている』
 そんな噂が出回っていたからだ。
 そう。実に奇妙なことに、すでに誰もがそのことを知っていたのだ。
 誰もが知っていた。
 すでに。
 実に奇妙なことに。
 それから、七ツ橋の傷跡は少しずつ減り始めた。クラスの皆は、自演がバレたから傷を作るのを止めたんだと、七ツ橋を責めた。無言のまま、冷めた目で彼女を蔑み続けた。
 七ツ橋への風当たりは最悪なものとなった。
 まともに話をしてくれる生徒は誰一人としていなくなった。
「……」

 ――許されるはずがない。

 女霧から聞かされた話を心の中で思い返し、私は決意をもう一度確かめる。
 こんな非道な行為は、決して許されてはならない。
 七ツ橋の喋り方や低い背丈。それを障害などと罵った奴らは罰せられなければならない。
 自分ではどうしようもないこと。努力や気力ではどうやっても改善できないことが世の中にはある。だがそれでも諦めずに抗い、理不尽に立ち向かい、前へ進もうとしている者はいる。
 そのことを面白半分にからかい、あざ嗤うような人種を私は絶対に許せない。許さない。
 私の時は自分で何とかできた。
 だが七ツ橋は――
 このことが最低の自己満足だろうと、結果として七ツ橋のためにならなかろうと、私はやる。
 今日の昼休み。音楽室で聞いたA子の幻聴。あれは本当にドラッグによるものなんだろう。ドラッグによって、偽善に覆われていた私の本心が露出したんだ。

 ――できるものならやってみなさいよ――

 ああ、やってやるさ。
 これが私の本心だ。
 ドラッグによって別の心境に達したわけではない。元々あったものが増幅されたに過ぎない。 
 なら、問題はないさ。
「はァ!?」
 さっきまで携帯で機嫌よく話していた紫堂明良が、突然大声を上げた。
「そいつぁ、どこまで本当なんだよ……?」
 眉間に皺がより、額の傷が深くなる。
「ああ、そういうことか。分かったよ。どーせいつものハッタリだろ。別に問題ねーと思うが……ああ、分かってる。一応そっちに行くよ」
 どうやら急用が入ったようだ。いつぞやの時のように、その場逃れのためではなく、本当に。
「残念だ。これからゆっくり色んなトコ見て回りたかったんだがよ」
 携帯を折りたたんでコートの内ポケットにしまい、紫堂明良はいつになくあせった様子で言ってくる。
「お前さんのリクエストは向こうにバッチリ伝えてある。けど二、三日余計に時間がかかるかも知れねぇ。すまねぇな」
「十分ですよ」
「出来れは週末も会って話したかったんだが、ちょっとこっちの都合で無理そうだ。次は早くて月曜の放課後になると思う」
「分かりました」
「こっちから電話してよかったよ、ったく。あの野郎。何が、『ついでに耳に入れておきたいことが』だ。そっちから連絡してきやがれってんだ」
 どうやら紫堂明良が、イジメ問題解決に向けての“穏便な指示”を出した後、電話相手から補足的な感じで聞かされた情報が重大だったらしい。
「ああ、悪ぃ。お前さんに言ってもしょうがねーのにな。じゃあ、ちょっと急ぐからよ。またな」
 慌ただしく言い残すと、紫堂明良はトレンチコートのすそを翻して、かつてない俊敏な動きで走り去ってしまった。
「お大事に」
 なんとなくそんな言葉を残し、私は一人で嘆息する。鼻孔を刺激するのは湿気を多く含んだ空気と、分厚く堆積したカビの匂い。
 思わぬ形で時間ができてしまった。まさかこんなにも早く紫堂明良との用件が終わるとは思っていなかった。
 窓の外を見る。朝から変わらずの曇天で、すでに陽の光はない。が、代わりに月明かりが雲間から顔をのぞかせている。なかなかの風情だ。
「ふぅ……」
 長くまとめた後ろの髪を片手で軽く払い、息を吐く。
 この状況。やることは一つしかない。
 旧校舎めぐり。
 突然のめまいやら幻聴やら、刑事の登場やらで、実はまだ一度もゆっくり堪能できてないいという、悲しい現実がある。
 いい機会だ。
 まぁ紫堂明良とした話の中で色々と調べてみたいことはあるが、気分転換も必要だ。どうせ来週からは調査地獄と質問ラッシュ。こちらが何か思い出すまでやる気満々らしいから、今のうちに英気を養っておかないとな。
 そうと決まれば話は早い。
 確か、まだ三階には行ってなかったな。まずはそのあたりを流しますか。
 私は振り返り、スーツの胸ポケットからLEDライトを取り出して前方を照らし――

 ――ッザ!

「……」
 何やら分かり易い物音と共に、赤っぽい色をした毛先が教室内に入り込むのが見えた。
 おいおい……まさか……。
 私は図書館の前を離れ、彼女が隠れたであろう教室に足を踏み入れる。そしてLEDライトで一通り室内を照らした後、ため息をついて髪留めのゴムをはずした。
 ライトを消す。辺りは完全な暗闇となった。
 私はしばらく目を瞑り、ゆっくりと開ける。若干、暗闇に慣れた視界。それを黒板の前にある教卓へと移し、私は鉄砲の形にした右手の指にゴムをかけた。そして教卓の下からはみ出している二本の足に向け――
「ッっぃいッキひァアアアぁぁぁァァあアア!!」
 未だかつて聞いたことのない悲鳴と共に彼女がそこから飛び出してきた。
 それを私は受け止め――るまでもなく向こうから抱きついてくる。
「何!? 何なに何何なななナニなナに!?」
 腕の中で暴れる彼女の頭を押さえ込み、静かにさせようする。が、
「何か! 何かが今! 今何かが! 何か今がアアアァァ!」
 余計に大声を張り上げて、頭突きをかましてきた。それが腹部に命中し、うかつにもうめき声が漏れてしまう。
「はひゃっ! ヒッ! はふェ!? ふまスろ!?」
 もはや完全に錯乱状態だ。ゴムが命中した時の衝撃が予想以上に凄まじかったらしい。こんな場所に来るくらいなんだから、もう少し心の準備しとけよな、クソ。
「落ち着け、私だ。天草終一朗だ」
 腹に抱え込むようにして彼女を拘束し、私は出来るだけ優しい口調で声をかける。
「一週間前に教育実習生としてここに来た」
 私の声に反応したのか、彼女の動きがやんだ。そして手探りで私の体をたどりながら顔を上げ、こちらを見る。
「ライト、つけるぞ。いいな?」
 彼女が頷く動作をしたのを確認して、私はLEDライトのスイッチをオンにした。
 私たちの周囲だけ暗がりが取り払われ、二人の体が光に晒される。
「で、お前はこんな場所で何をしているんだ? 女霧」
 赤み掛かった長い髪は少しだけクセがついて跳ね、切れ長だった目を大きく見開いてこちらを凝視していた。
「せん……せ、い……」
 か細く漏らした声と連動するようにして、女霧の瞳が潤みを帯び始める。それはすぐに厚みを増し、表面を僅かに波打たせて、まなじりから零れ落ちた。
「お前な……」
 あまりに突発的な現象に、呆れと不平を込めた声を漏らす。
 泣きたいのはこっちなんだが……。
「こ、は……かっ、た……」
 かすれて聞き取りにくい声でそう言うと、女霧は私の胸に顔を埋めて嗚咽し始めた。
 あのなぁ……。
 まぁ、取りあえず落ち着いてくれただけでも良しとするか。あのままだと他の先生が来て騒ぎになりかねなかったからな。しかもこんなところを見られたらもうお終いだ。
「取り合えず座るか、女霧。な?」
 肩を軽く叩いて励まし、私は女霧を抱えたまま少しずつ移動する。そして黒板の前の、教師用に一段高くなっている場所まで歩を進めると、そこに座るように促した。女霧はいったん私の体から離れ、弱々しい足取りで進むと、崩れ落ちるようにして教壇の上に座り込んだ。そしてレースのあしらわれたハンカチで目元を押さえ、無言で肩を震わせる。
 くそぅ、どうして私がこんなことをしなければならんのだ。今頃、旧校舎めぐりを堪能していたはずだったのに……。
 落ち込んで憔悴しきっている女霧の横顔を見ながら、私はそんなことを考え、
 ……。
 ……まぁ、こいつの存在に気付かなかった私にも落ち度はあるか。
 ため息をついて自己嫌悪に陥った。
「で、女霧」
 彼女がすんすんと鼻を鳴らし終えるのを待ち、私は改めて声をかけた。
「お前、後つけてただろ」
 びくん、と彼女の体が小さくはねた。
 相変わらず分かり易い奴。
「どうしてこんなことをする。嫌がらせか? 興味本位か?」
 いずれにせよ、紫堂明良との会話を聞かれてしまった。これは大きな失態だ。まさかこんな奴の尾行にも気付かないとは……。
 紫堂明良が持ちかけてきた会話の内容が重過ぎて、そちらに気をとられ過ぎたか? あるいは、こんな時間、こんな場所に誰もいないだろうという先入観のせいか。
 多分、その両方が原因だな。女霧の尾行スキルがこんな短時間で急上昇するはずがない。
 先入観、か……。
 最近この言葉をよく聞くようになった気がする。
 ま、いつまでも落ち込んでいてもしょうがない。あの紫堂明良だって女霧の尾行を見破れなかったんだ。なら自分ではもっと無理だ。悔しいがな。
 それよりも今はどうフォローするかだ。もっと言えば、女霧が今ここで見聞きしたことを、どうやって口止めするか、だ。もし女霧が聞いていたことを紫堂明良が知ってみろ。それこそ何をされるか分かったものではないぞ。
「せ……」
 女霧の口から漏れた一言に、私は目だけ動かしてそちらを見る。
「せ、先生もライト持ってたなんて、思わなかったんですよ……。それでビックリして、見つかっちゃって……。あれさえなれば完璧だったのにぃ……」
 時折言葉を詰まらせながら、不機嫌そうに言ってくる女霧に、私はまた一つため息を付いた。
「女霧、私は尾行が失敗した理由を聞いてるんじゃない。尾行の理由そのものを聞いてるんだ」
 女霧の顔を覗き込みながら、私は再度問い直す。
「び、尾行なんてしてないですよ。別に。わ、私は、ただ。子供の霊を見つけようとしていただけで……」
 お前ついさっき自分で、『尾行が失敗した理由』を口にしたばかりだろうが。
「ほぉ、子供の霊、ねぇ。で? 会えたのか? そいつと」
 とにかく、だ。こいつをこのまま帰すわけにはいかない。今日ここで見聞きしたことを絶対に口外しないと、固く誓わせなければならないのだ。強引に脅しても逆効果なのは目に見えている。さてさて、どう言いくるめたものか……。
「い、いいぇ……。き、きっと媒体を持ってくるのを、うっかり忘れたからですよ。あれさえあれば、きっと……」
「媒体?」
「な、長靴ですよ。子供用の」
 おい待て。
「……女霧、お前ひょっとしてそれ。ここの裏手で見つけなかったか? 結構長い雑草が伸びていて、胸くらいの高さの柵がある場所で」
「しっ、知ってるんですか!?」 
 私の物だからな。
「じゃ、じゃあ先生も“視え”たんですね。ひょっとして先生はもう逢ったんですか!?」
「あー、……まぁ。そぅ、だな……」
 適当に返しながら、私は胸中で深々と何度目かのため息をついた。
 またややこしい話になってきたぞ。
 あの長靴を女霧が拾った。つまり、こいつがあの場所をウロウロしていたということだ。
 怖がりのこいつが意味もなく旧校舎の周りを徘徊していたとは到底思えない。何か目的があった。そしてその目的とは恐らく私の尾行だ。
「何か言ってましたか!?」
「あー、なん、だったかなー……」
 今日の昼休み。七ツ橋との待ち合わせ前に探した時には、すでに長靴はなくなっていた。つまり女霧が見つけたのはそれよりも前になる。
 恐らくは昨日だ。昨日、紫堂明良と会っていた時も後をつけられていた。
 確かあの時、紫堂明良は少し遅れてきた。私が旧校舎の正面入り口前で待っていた時、女霧は裏手に隠れてこちらを見ていたんだ。そしてその時に長靴を見つけた。
 ああ、なんということだ。女霧ごときのちょこざいな尾行を、二度も許してしまうとは……。不覚も甚だしい。
「あの、私ちょっと気になってたことがあったんですよ。あの長靴、すごく新しかったんですよね。まるでつい最近百均ショップで買ってきたみたいな感じで」
「そ、そうか……? そーいやー、そんなんだったかなー……?」
 まぁあの時は七ツ橋が受けているイジメの話を聞いて、少し頭に血が上っていたからな。平静を欠いて、周囲への気配りが疎かになってしまったか……。
 ああ、とにかく。そんな反省や後悔や無かったことにする作業は後回しだ。今はこいつの口止めを考えないと。だがいったいどこまで聞かれたんだ? 最悪のケースを想定して、やはり全て聞かれていると見た方が……。
 ……。
 ……いや、待て。
 確か女霧は、尾行失敗の言い訳をした時こう言っていた。

『せ、先生もライト持ってたなんて、思わなかったんですよ……』

 確かに、今日に限って言うならついさっきが初めてだ。LEDライトを使用したのは。しかし昨日の段階ですでに使っている。女霧はそのことを知らなかった。これが意味するところは、昨日の尾行は不完全だったということだ。
「でも子供用の長靴を大人があんな場所で使うなんて状況、どうしても思いつかないんですよ。あるとすれば、ものすごくお金に困ってて、水からの守備範囲もそれなりしかないけどまぁいいや、なんていい加減な性格の人が、子供用のサイズを強引に爪先立ちになって履いて使った、くらいの光景しか思い浮かんでこないんですよねー」
「ず、随分と具体的だな……」
 こいつ……実は初日から尾行していた、なんてことはないよな。
 ああ、まぁそんなことはいい。とにかく、恐らくは子供用の長靴を見つけた時点でビビッてしまったんだろう。そして旧校舎の中までは付いて来られなかった。だから私がLEDライトを持っていることを知らなかった。
 つまり、昨日私が紫堂明良とやり取りした内容を女霧は知らない。
 今日、さっきまでしていた会話についてのみ、口止めすればいい。
 まずはドラッグのことだ。紫堂茜の体からドラッグが検出されたということと、同じドラッグによって狐憑きが引き起こされている可能性が高いということ。
 それからもう一つは――
「どうしてあそこまでして七ツ橋さんを助けようとするんですか?」
「……ん?」
 突然会話の内容が変わった気がして、私は思考を中断した。
「今日の昼休みの時だって。二人で何かしてましたよね。旧校舎で」
 気絶して女霧に叩き起こされた時のことだな。
「お二人は何か特別な関係なんですか?」
 どうしたんだ急に。さっきまで訳の分からないくらい、無駄なところで鋭く話をしていたのに。
「ただの新入生と教育実習生ではないのですか?」
 この暗がりでも、彼女の目に好奇の色が浮かんでいるのが、はっきりと分かる。
 ああ、そういうことか。
 落ち着いてゆっくり話をしたいのは向こうも同じ、という訳か。
「先生。ここなら誰も来ません。見られる心配はありません。聞かれる心配もありません」
 いつの間にかスーツの裾を、ぐっ、ときつく握り込んでいる。絶対に逃がさないという意思表示だ。これ振りほどくのは簡単だろうが、その後タックルしてでも止めてきそうな気迫を感じる。
 まぁ、こちらとしても、逃げる気はさらさらないのだが。今はまだ。
「『視える者』としての率直な意見を聞こうか」
 まずは相手が把握している情報を引き出す。
「……私、思っていたことがあるんです」
 何やら神妙な面持ちになり、女霧は口元を固く結ぶ。そして思いつめたような表情でこちらを振り向き、少し荒い息遣いで興奮気味に口を開いた。
「先生って某国の特殊エージェントですか!?」
 明々後日の方向から飛来した言葉の砲丸が、灼熱を帯びて私の脳髄に抉りこんだ。
「やっぱりそうなんですか!? その反応! 本当にエージェントなんですか!?」
 私は今、いったいどんな顔をしているのだろう。皆目見当が付かない。付きたいとも思わない。
「今日、刑事さんと二人でしてたお話はソレがらみだったんですね! ドラッグが見つかったとか! 狐憑きの原因はドラッグで一年生の女子に多いとか! 揮発性が高くて空気より重いとか! 吸いすぎると気絶するとか! 昔、旧校舎で死んだ二人もドラッグがらみだとか! あと、先生も服用してるとか! あとあと、何十人ものヤクザを指一本で動かせるとか!」
 ここで見聞きした情報を丁寧に全部打ち明けてくれる女霧。なんて良い子なんだ。まぁ、最後の方は随分と脚色されていたが。
 しかしまぁ、これだけベラベラ喋って昨日の内容が一つも混じってないということは、女霧が尾行に成功したのは今日のみと考えてよさそうだな。
「先生黙ってないで答えてください! どうなんですか!?」
 殆ど叫ぶようにして聞きながら、私のスーツの裾をつかむ力を強める。
 どうあっても事の真偽を明確にしたいらしい。女霧がどうしてそこまで固執するのかは知らないし、こいつの望む答えを正直に返してやることはできないのだが――
「……そのことを聞いてどうする」
 この『設定』、使えるぞ。
「聞けば後戻りできなくなるかも知れないんだぞ?」
 女霧を口止めする道具として。
「そういうリスクはちゃんと考えているんだろうな?」
 顔を横に向け、私は女霧の目を正面から見て訊く。
 案の定、女霧はさっきまでの勢いを一瞬で失い、言葉を詰まらせた。
 さぁ、次にどう来る。あまり引き下がられすぎても困るんだが……。
 女霧はいったん私から顔をそらし、静かにうつむく。そのまましばらく何も言わずに黙っていたが、
「……私、言いませんから」
 思い出したかのように、ぽつり、とこぼす。
「私! 絶対に誰にも言いませんから! ここでのこと! 絶対に!」
 そして突然向き直ったかと思うと、力強い言葉で宣言した。
「ここでのことは絶対に秘密にしますから!」
 さらに繰り返し、自らの強い意思を表明した。
 あまりに拍子抜けな展開に、思わず肩の力が抜ける。まさかこんなに簡単に事が運ぶとは思ってなかった。もっと探り合い的な駆け引きを想定していたんだが……。
 自分の知っている情報を片っ端から話してくれたことといい、秘密保持契約を向こうから自動的に交わしてくれたことといい、こいつ本当はもの凄く良い奴なんじゃないのか?
 何というか……根が真面目で素直というか。少々間が抜けていて隙だらけなんだが、そこが愛嬌というか。付き合ってみると第一印象とは全く違う、というのはよくあることだが、こいつの場合は一応強大な力を持った『視える者』らしいしなぁ……。こんな性格でつとまるものなのか? 最強の『視える者』というのは。
 まぁいいか。そんなこと、私が気にすることではない。
 取り合えず重大な問題は自然解決したし。良いことなんじゃないのか。
 じゃあ後は適当にそれらしい作り話をして帰るだけだな。
「女霧、お前の覚悟は分かった」
 細く息を吐きながら女霧から目をそらし、私は瞑想に耽るようなしぐさで目をつむる。
「お前の推察通り、私はただの教育実習生ではない」
「っ……」
 やはり、という気配と共に、息を呑む音が聞こえてくる。
「お前は知らないだろうが、この夕霧高校は教育実習生をここ数年、受け入れていなかったんだ。だが今年、私が来た。一人だけだ。私一人だけ。この意味が分かるか?」
 鋭い角度から女霧を見据え、私はそこで思わせぶりに言葉を切った。
「まさか、呼ばれたんですか……? ドラッグの調査をするために……」
「あぁ」
 女霧からの返答を受け、私はゆっくりと首肯する。
「じゃあ、あの刑事さんは……?」
「元々は彼一人で片をつけるはずだったんだが、思いの他時間が掛かってな。それで私が呼ばれたんだ」
「協力者同士ってことですか。でも、あんまりそんな雰囲気には見えませんでしたけど……。それに昨日、私に刑事さんのことについて聞いてましたよね」
「向こうにしてみれば、自分の尻拭いに二回りも年の離れた若造が派遣されてきたんだ。良い気分はしないさ。協力者同士とは言っても、相手に出す情報の絞り込みはするだろ。お互いにな」
「な、なるほど……確かに。じゃ、じゃあ、七ツ橋さんとは……?」
「彼女とは初対面だ。だが事前調査で、彼女のイジメに関与している奴等の中に、ドラッグを横流ししてる奴がいると踏んだんだ。私が個人的にな。あの刑事はそれになかなか納得してくれなくて、今日まで時間がかかった」
「じゃあ七ツ橋さんがイジメられてること、私が言わなくても最初から知ってたんですね……。そういえばあの時……先生が七ツ橋さんのこと聞いてきた時、なんか不自然でしたもんね。焦ってるみたいな感じで。あれ、私に話を合わせようとして、必死になって考えてたんですね。おかしいと思ったんですよ。先生があんな風に動じるなんて」
「あぁ……。まぁ、な」
 適当に言葉を濁して、女霧から少し目をそらす。
 七ツ橋のことになると動転しやすくなるんだよっ。どういう訳かっ。
「なるほど。大体の事情は掴めてきました。初日から無茶苦茶なことをする人だとは思ってましたが、そういうことでしたか。納得です」
 女霧は得心した様子で、ふんふん、と何回か頷いた。
 よし。このくらいで十分だろう。長く話すとボロが出る可能性が高くなる。
「いいか女霧」
 私は勢いよく立ち上がり、隣に座っている女霧の正面に立って彼女の肩を掴む。
「このことはお前を信用したからこそ話したんだ。絶対に他言無用だぞ。いいな」
 そして強い語調で念を押した。
「分かってます」
 真剣な表情で頷き返す女霧。
 多分、これで大丈夫だろう。誰にも言わない、という言葉は女霧の方から言ってきてくれた言葉だしな。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
 言いながら私は女霧に背を向け、教室の出入り口へと歩く。
 向こうはまだまだ色々と聞きたいだろうが、こっちはそんな面倒なことはごめんだ。今日のところは、さっさと別れてしまうに限る。
「あ、あの、先生……!」
 廊下に出たところで、女霧の声が掛かった。
「どうした」
 振り向いて聞き返しながらも足を止めることはない。
「あ、あの……!」
 慌てて私の後を追いかけ、女霧は先ほどと同じくスーツの裾を持って私を止めようとする。が、歩く速度は落ちない。
「先生!」
 そのことに焦りを感じたのか、女霧はひときわ大きな声を出し、
「ひ、非常階段の方から出て……良いですか……?」
 尻すぼみに縮んでいく声で、お願いするように言った。
「非常階段?」
 そこで私は初めて足を止め、彼女の言葉の一部を繰り返す。
「なぜだ?」
「それは……その……」
 私の足が止まったことに安堵の息を吐きながら、女霧はきょろきょろと周りを見回す。所在なさげな様子で、しばらくそうし続けること数秒。その後、まるでいたずらが見つかった子供のように情けない表情で、上目遣いに視線を投げかけてくる。
「早く……外……出たい、から……」
 そして裏返った声をかすれさせて言った。
 早く外に出たい? 非常階段?
 彼女が言わんとしていることの本質が掴み取れず、私はしばらく思索に耽り、
「ああ」
 頭の中でポン、と音が聞こえた気がして、改めて女霧を見た。
「旧校舎の中にいるのが怖いのか」
 図星だったらしく、女霧はびくんっ、と小さく体を震わせて押し黙ってしまう。
 要するに旧校舎の一階を通るのではなく、二階の非常階段から直接外に出たいと。その方が旧校舎内にいる時間は短くて済むからな。
 こんな場所まで尾行しておいて、今さら何に怯えているのやら……。
「分かった分かった」
 嘆息し、私は直進するはずだった廊下を曲って非常階段の方に向かう。肩越しに後ろを見ると、女霧は相変わらずスーツの裾を掴んだまま、しゃがみ気味の姿勢で付いてきていた。
「なぁ女霧」
 非常扉の前に着いたとこで声をかける。
「な、なん、ですか……?」
 すっかり震え声だ。
「お前、長靴見つけた後、どうしたんだ?」
 ドアノブを回し、扉を開ける。冷たい夜風が頬の隣を通って中に入り込んできた。
「え……? すぐ、帰りましたけど……」
 やはりか。
 本当はその後尾行する予定だったんだろうが、子供用の長靴を見つけた時点で怖くなって、逃げ帰ったんだな。賢明な判断だ。あの日も遅くまで話していたし、おまけに外は雨だったからな。
 これで間違いなくなった。女霧が私と紫堂明良との会話を聞いたのは今日だけだ。
「ちがっ、あっ、あれはっ、すぐに色々と調べたかっただけで……っ。べ、別にっ、怖かったからとか、そ、そういうんじゃ……っ、ないっ、ですからねっ」
 私の雰囲気から何かを察したのか、女霧は口の中でごにょごしょと言い訳する。
「で、何か分かったのか?」
 足音が響かないよう、非常階段をゆっくりと下りなが私は聞く。
「今のところは、何も……」
「そうか」
 悔しそうに言う女霧に、私は短く返した。
 ま、何か分かられても困るのだがな。
 そんなことを考えながら、私は非常階段を下りきる。
「じゃあ女霧、お前先に戻れ。一緒に帰ったところを、万が一誰かに見られでもしたら、変に勘ぐられるかもしれない」
 LEDライトを胸ポケットにしまい込み、私は後ろにいる女霧に声を掛ける。
「あ、は、はい。そう、ですね」
 旧校舎から無事出られたことに安心したのか、少し余裕の戻った声で女霧は言った。
「で、では。また……」
 そして私の前に出て軽く頭を下げ、新校舎への緩やかな下り坂を歩き――
 ……。
 …………。
 ――ださないな。
「どうした?」
 一歩を踏み出そうとして固まったままの女霧の顔を覗き込み、
「く、く、暗い、ですね……思った、より……」
 頬の筋肉をぎこちなく痙攣させている彼女がそこにいた。
 暗い、か。それはまぁ、この辺りには外灯が一本立っているだけだし。あとはせいぜい頼りない月明かりが、足元をおぼろげに照らしてくれている程度だ。
 しかし新校舎の光は見えているし、あそこまで行くのに戸惑いを覚える程ではないと思うんだが……。
 こいつ、まさか……。
「女霧、ひょっとしてお前が未経験かもしれない可能性を考慮して言っておいてやるが――」
 私はできる限り優しく女霧の肩に手を置き、
「この辺りは駅前までこんな感じだぞ」
 彼女の震えでその手が跳ね上げられた。
 こいつ……この時間帯に一人で帰ったことないのか……。
 まぁ、今まではこうして一人で行動していることの方が、珍しかったんだろうからな。この大物の『視える者』様は。
「だ、だ、だ、だいじょう、ぶ、ですから……このくらい。はい……はは……」
 ギ、ギ、ギ、と言葉の節々に錆びた音を響かせながら、女霧はぎこちなく一歩を踏み出す。ギ、ギギ、とまた一歩。ギギギ、ギと、また一歩。ギギ、ギ、ギ、ギと、また……半歩。
 この分だと、新校舎にたどり着くのは明日の朝になりそうだ。
「女霧」
 息を吐き、私は彼女の前に立つ。
「裾、持ってろ」
 言いながらスーツの端を差し出し、女霧に握らせた。
「いいか、誰にも見つかるなよ」
 そして周囲へ警戒を最大にして、新校舎の方へ歩き出す。
 まったく、何をやってるんだ私は。旧校舎めぐりが潰れただけでなく、このような奇行極まりない行為まで。もし誰かに見つかったらどうするつもりなんだ。そうだ、その時は女霧は幽霊ということにしとくか。今は顔色も相当悪いだろうしな。そうすれば私が憑かれてると思って、相手は逃げてくれるかもしれない。よし、この作戦で行こう。
 ……馬鹿か私は。
 まったく、こいつにおかしなことを聞かれ過ぎて、頭がどうかしてしまったんだな、きっと。
 だからこれからこいつに掛ける私らしからぬ言葉も、その悪影響が残っているせいなんだな、きっと。
「女霧、鞄を取り戻ったら少し教室で待ってろ。私が駅まで送ってやる」
 まったく、何をやってるんだ、私は。
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