廃墟オタクは動じない

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  第十六話『遠い帰路』  

 駅までの帰り道。
 思い出したかのような間隔で、街灯が孤立して生えている薄暗い一本道。住宅も立ち並んではいるが、道の両端に時折田畑が顔をのぞかせることもあり、都会からの距離を十分に感じさせてくれる。
 今まで特に気にしたこともなかったが、この時間帯の女性の一人歩きは危ないと言わざるを得ない。
 部活動で残っている場合は、ある程度の人数で固まって帰るから問題ないんだろうが、それ以外はちょっとなぁ……。まぁだからこそあれだけ厳しくに、放課後に居残っている生徒を見回っているのか。なるほどねぇ。
 いつもと少し違う帰り道は、実に下らない発見をもたらしてくれた。
「あの……ありがとう、ございました……」
 隣を歩く女子生徒の声に、私は目だけ動かしてそちらを見た。
「わざわざ、送って、もらって……」
 前髪を何度も何度も整えなおしながら、女霧はどこか拗ねたような声で呟くように言う。
「気まぐれだ、ただの。帰る方向がたまたま同じだった。それだけだ」
「まぁ、夕霧高校に通っている人は、大体同じ方向になっちゃいますけどねー。駅までは」
 小さく笑いを含ませ、女霧は面白がるように返した。
「悪かったな。恋人と一緒に帰るはずだったのを邪魔して」
「いっ、いませんよ! そんな人!」
「まぁそうムキになるな。それだけ目鼻顔立ちの整った美女で、しかも全校生徒の知る有名な『視える者』だ。一人や二人ではあるまい。で? 今日は誰と帰る予定だったんだ? ここだけの話ということで言ってみろよ」
「だっ……! だからいませんよ! そんな人!」
「まぁこのくらいで喋るようでは、関係は長続きしないか。よし、ではこうしよう。私が今からいくつか質問するから、それに答えてくれないか。そこから推理して、お前の恋人の名前を見事的中して見せようではないか。もしできなかった場合、こしあん入りおしる粉ジュースを一パックプレゼントしよう。どうだ?」
「いい加減しつこいですよ……! 先生!」
「あー、悪かった悪かった。調子に乗りすぎたよ。すまなかった。反省してる」
 キィーッ! と切れ長の目を吊り上げて激昂する女霧に、私は両手を前に出して冷静を促した。
 学校から駅までは徒歩で十五分ほど。この調子で下らない会話を続けて、時間を潰す。ドラッグや紫堂明良のことに触れられないために、だ。今の私は寛容だ。女子トークでも何でも受けてやろうではないか。
「先生の方こそどうなんですか? カプセルホテルで寝泊りしてるって、言ってましたよね。そんなんじゃ神様が奇跡の機会を恵んでくれたとしても、ちゃんと活かせませんよ?」
「ふ……独身こそ至高。結婚なぞ人生の選択肢を大幅に狭める愚行に過ぎんわ」
「モテない人の典型的な言い訳って感じですよね」
「つい先ほど激怒していた奴に言われても説得力がないな」
「わっ、私は先生よりも将来性があるからいいんですよ。まだ……」
「行き遅れる人の典型的な言い訳って感じだな」
「ヅラの噂、積極的に広めますよ。先生」
「よーし、落ち着け。この話はなかったことにしよう」
 うむ。良い感じだ。実に軽快に時間が流れていく。
「ふーん……いないんだ。彼女とか……。そっか……」
 ぼそっ、と女霧の口から何か聞こえたが、会話のファールボールのようだ。さすがにわざわざダイビングキャッチしてまで返すことはできないな。
「にしても、カプセルホテル暮らしに徒歩通勤って……なんかちょっとイメージと違うなー」
 雲に覆われた夜空を見上げながら、女霧は独り言のように言葉を零した。
「もっと、こう。格好良いの想像してましたよ。セーフハウスとか、多機能搭載の車とか、凄くセクシーな協力者とかっ」
 さっきの話をちゃんと信じきってくれているようで何よりだ。
「目立つだろ。そんなことしたら。こういうどこにでも居そうな男のプロフィールの方が動きやすいんだよ」
「でも先生は、そういうタイプじゃないですよねー」
 いたずらっ子のような口調で、女霧はこちらを少し覗き込みながら言ってくる。
「あの学校の環境が特殊なだけだ。私はいたって普通な平凡人だよ」
「えー? それはないんじゃないですかー? だって自分で言ってたじゃないですか」
「何か言ったか?」
「“視える”、んですよね? 先生も」
 こちらを覗き込んだ姿勢のまま、女霧は期待に満ちた目を輝かせた。そして薄紅色の唇を僅かに曲げて笑みを形作る。それは屈託のない自然な表情で、初めて見る彼女の仕草に思えた。
「“視える”?」
「長靴のこと。子供用の。知ってたじゃないですか。私が見つけた場所とか」
 ああ、そういえばそんな話もしたか。
「まぁ、それなりにはな」
「嘘」
 迷いのない否定。
「あれ、先生の長靴でしょ? なんとなく、分かっちゃいました……」
 相変わらず変なところで鋭いな、こいつは。
 まぁそれがバレたところで、特に実害は無いんだが。
「私、ね。昔は本当に視えたんですよ」
 私の真横に立って歩きながら、女霧は静かに話し始めた。
「小学校の四年生くらいの時かなー。一番良く視えてたのは。次の日のテストの問題が分かったり。友達が転んで怪我するのが視えて、その子を助けられたり。ずっと口利かないでケンカしてる子達がいて、二人が意地張ってる理由が視えたから、仲直りさせてあげられたり。母親がすんごい熱出した時、近くで小さな虫みたいなのが何匹も視えたんです。それ全部退治したら熱が下がったり。それからはクラスの子達のちょっとした病気とかも治しちゃったりなんかして。色々と、ね。本当に大活躍してた時期もあって、自分で言うのもなんですけど、クラスの中心だったんですよ? 私」
 その喋り方はどこか寂しげで、まるで『今は違いますけどね』と言っている様にも聞こえた。
「中学に上がってもそんな感じで。まぁちょっとだけ視づらくはなってきましたけど、別にそんなに大したことじゃなかったんです。でもね、全然視えなくなっちゃったんですよ。あの時から……」
 うつむき、何かを蹴とばすような仕草を混ぜながら歩いて、女霧は続けた。
「二年生の時にね、恋愛相談をたくさん受けてたんですよ。誰ちゃんが誰くんを好きー、とか。誰くんが誰さんに気があるー、とか。ほら、そういうのに興味出てくる年じゃないですか。別に無作為に視える訳じゃないんですけど、頑張って意識して視ようと思えば、そういう繋がりも視えるのが分かっちゃって。流れ、見たいなのが見えるんですよね。色の付いた流れ。誰が誰に好意を持っているのか、逆に悪意を持っているのか。好意は暖色で、悪意は寒色。その濃さで度合いが分かるんです。で、そういうのが分かっちゃうもんだから、私の恋愛占いは百発百中なんですよ。相談の内容としては、自分に気がある人は誰なのか、とか。何人か好きな人がいるんだけど、自分が一番好きになってるのは誰なのか、とか。今は特に好きな人はいないんだけど、今後好きになったりすることはあるのかどうか、とか。でもまぁ一番多い相談内容は――」
 軽いため息と共に言葉をそこで止め、大きく深呼吸して再開する。
「好きな人がいるんだけど、相手はどう思っているか、でしたね」
 口にした言葉には、どこか自嘲めいた響きが込められているような気がした。
「色んなタイプの人がいて面白かったですよ。向こうも好きだって言ってあげたのに、何もせずにいる人とか。逆に脈なしだよーって言ったのに、告白して玉砕する人とか。この人が好きなんだけどって持ちかけてきたけど、実はそんなに好きじゃないってことが視えて、本当はこっちの人の方が好きなんじゃないですかーって、別の人紹介したら上手くいったり。色々ありましたよ。私も、楽しかった……」
 うつむきの角度をさらに深くし、女霧の口調から笑いが消え始めた。
「ある時、ね。冬の手前だったかなー? 今くらいの季節だった気がします。私の親友が相談に来たんですよ。この人のこと、最近好きなってきたんだけどって。でも、ね。その好きになった人っていうのが……私も、」
 言葉から温度が消える。
「私の――好きな人だったんですよ」
 親友が同じ相手を好きになってしまった。視えるが故に相談を受け、そのことを知ってしまった。
 完全に下を向いた女霧の表情はここからでは見えない。だが、きっと――
「頭が真っ白になるって、あの時初めて経験しましたよ。ホントに、しばらく何も考えられなかった。でも、あの子はずっと待ってた。私が何か言うのを。何でって、思いましたよ。いつまでいるの? って。でも、そりゃあそうですよね。そりゃあいますよね。だって相談しに来たんですから。私から答えを聞きに来たんですから。やっと、そのことが分かって。だから視ましたよ。その、人のこと。きっと、変な作り笑いになってたと思います。だって、こんな形で視るの初めてでしたから。好きな、人のこと……」
 女霧はすでに何度も視ていたんだ。彼のことを。
 何度も何度も視て、すでに知っていた。
 自分へは、特別な感情を抱いていないことを。
 そして恐らく、彼が想いを寄せている女子生徒のことも――
「言いましたよ、ちゃんと。大丈夫、両想いだよ、って」
 確認せずとも知っていたんだろう。
 ずっと視てきた、彼の気持ちなんだから。
「喜んでました。すごく。それで次の日、告白してました。勿論……上手くいきましたよ。だって両想いでしたから。今でもまだ付き合ってます……。彼女とは高校で別々になりましたけど、たまに、メールとかくれるから……」
 尻すぼみに言葉を言い淀ませ、吹けば消えそうな声量で最後に付け加えた。
「……せっかく、別々の高校になったのに」
 そしてはじかれたようにパッ、と顔を上げると、堰を切ったようにまくし立てた。
「でもすごいですよねっ。次の日に告白ですよ? 私だったら、絶対に無理ですよ。そんなの。だって、いくら良く当たるからって所詮は占いですよ? そんなの自分の時には外れるかもって、考えるのが普通じゃないですか。それで、そんな考えがちょっとでもよぎっちゃったら、絶対に出ないですよ。そんな勇気。告白なんて……」
 自分の方が、ずっと前から好きだったのに。ずっとずっと好きだったのに。言うチャンスは何度もあったのに。もしかしたら自分が視たものが違っていて、本当は向こうも少しは想ってくれていた可能性だってあったのに。告白すれば、違った結果になったかもしれなかったのに。
 できなかった。
 女霧には、その勇気が出なかった。
「それからです。視えなくなったのは。それまであんなに色んなことが分かったのに、全部消えちゃいました。何にも視えなくなって……恋愛相談もそれで終了。ま、そんなことやる気分じゃなかったんですけどね」
 ハハハ、と照れ隠しでもするように乾いた笑いを浮かべ、女霧はこわばった表情で精一杯笑顔を作ってみせる。
 失恋がトラウマになって、女霧は視えなくなった。見たくないものを視たくないという強い感情が爆発し、自ら眼を閉ざした。拒絶し、殻に閉じこもり、その力を放棄した。身に余る力だったのかも知れない。だが――
「正直に言えたお前は凄いと思うぞ」
 それでも、彼女は素晴らしかった。
「伝えられた女子生徒も、お前を信頼していたから告白できたんだろう。それだけお前は立派な存在だったんだ。正直に両想いだと伝えられたお前は、もっと自分の勇気を誇るべきだと思う」
 嘘をつくことなどなく、言葉をはぐらかすこともせず、真っ直ぐ正直に言った女霧の勇気は、尊敬に値する。
「だから――」
 言葉を続けようとした時、隣に女霧がいないことに気付いた。
 少し後ろを見る。彼女はいつの間にか立ち止まり、下を向いてただじっとしていた。その体は、少し震えているようにも見えた。
「女霧?」
 声を掛ける。だが彼女は応えない。
「どうした。具合でも――」
 そして私の方から一歩を踏み出した時、女霧は急に走り込んできた。そのままタックルでもするかのように私の体に一瞬だけ顔を埋め、またすぐに離れてしまう。
「『だから――』、何?」
 すぐ近くで顔を上げた女霧は満面の笑みだった。
「『だから――』の続きは何? 先生?」
 少し鼻をすすらせながら、女霧は今まで見たこともないご機嫌な表情で、私の言葉の先を促してくる。
「あ? あー、だ、だから、だな」 
 えーと、私は何と言おうとしていたんだったか……。くそ、完全にペースを崩されてしまったではないか。我ながら不甲斐ない。
「だから、その勇気があれば、次の出会いくらいすぐに見つけられる」
 数秒前の記憶をたぐり寄せ、何とか言葉にした。
「そうだねっ」
 そう返した女霧の表情はやけに晴れやかで、それはまるで憑き物でも落ちたかのような横顔だった。
 しかし、ま。誰にでもそういう時期があるんだな。
 私にも確か経験があった気がする。いくつの時の話だったかは忘れてしまったが、廃墟でそういう物が見えていたような……。そういえば、私が廃墟を好きになったのはどうしてだったか……?
「あ、でも。今も、たまーには視えるんですよ? まぁ、昔に比べれば全然ですけどっ」
 小刻みにステップでもするように歩きながら、女霧は声を弾ませる。
 全く視えなくなった訳ではない、と。時間が少しずつトラウマを癒してくれているからか? まぁそれは何よりなんだが……。
「そんなこと、私に言っていいのか?」
 お前を盲信している大勢の信者達が聞いたら、またこの前のように孤立するぞ。
「もう気付いてるんでしょ? あんなの、ただの子供だましだって。みんなそういう雰囲気を楽しんでるだけですよ。退屈な退屈な日常から逃げ出して、神秘とロマンに満ち溢れた非日常に憧れを抱いているだけですよー。痛い思いしてこんなの作るのは、もうこりごり」
 どこか芝居がかった口調で言いながら、女霧は左腕をまくって傷跡を見せる。
「先生が来た初日の放課後、あったじゃないですか? 私が水占いしてた時のこと。覚えてます?」
 初日……。あぁ、こいつらの儀式を見て昔の嫌な記憶がよみがえり、思い切り八つ当たりをしてしまった時のことだな。あれは九割方、私怨だったからな。少々悪いことをした。
「みんなで一緒に先生に怒られた時、ああこの人には通じないんだろうなって、なんとなく分かりましたから。だから先生にネタバレしたとこで、今更って感じでしょ?」
 ただ、『視える者』や『かまいたち』はともかく、『狐憑き』はどうか分からんがな。
「例えば、私が他の奴らにそのことを言うかも、とは考えないのか?」
「言わないでしょ? 先生は」
 自信たっぷりに即答する女霧。
 いつの間にか随分と信用されているようで何よりだ。
 ならひょっとすると、このことは言わない方が良いかも知れないが……。
 ……。
 ……まぁ、すでに巨大なおせっかいをしてしまってるんだ。言ってしまおう。こいつになら大丈夫だろう。
「女霧、七ツ橋は今でも視えるらしいぞ」
 片足でぴょんぴょん飛び跳ねていた女霧の両足が地に着いて止まる。
「七ツ橋、さん……?」
「ああ、彼女もお前らの言うところの『視える者』らしい」
「それは先生の事前調査で分かったことですか?」
「いや。ここに来て彼女と何回か話をして、その中で打ち明けてくれたことだ」
「先生はそれを信じたんですか?」
「ああ」
「根拠は?」
「明確な物はない。だが彼女は面白半分でそんなことを言う人間ではない」
「ふぅ、ん……随分と仲がよろしいんですね」
 どこか拗ねたような喋りで、口先を少し尖らせながら言ってくる。
「だから、彼女のことはさっき言っただろ」
「七ツ橋さんをイジメてる人の中に、ドラッグを横流ししてる人がいるとお考えなんですよね? だから先生の中では重要人物だと」
「お、おいっ」
 私は慌てた素振りをして、辺りを何度も見回す。
 一度作った『設定』は大事にしないとな。
「ホント、すぐに取り乱しますねっ。七ツ橋さんのことになるとっ」
 私のうろたえる姿がそんなに愉快だったのか、女霧は目を細めて明るく笑う。
「じゃあそういうことでしたら私からも七ツ橋さんに接触してみますね。『視える者』同士という建前で。それで何か有用な情報を引き出せたら、先生にお知らせしますね」
「へ?」
 いや、ちょっと待て。今変な方向に話が進んだ気がするぞ。私はただ、七ツ橋の話し相手になってくれればと……。女霧が七ツ橋に興味を持てるようにと言ったつもりだったのだが、別の意味に取ってしまったようだぞ。
「絶対に変なことは言いませんから。あくまでさりげなく会話しますから」
 ああ、やはり軽率過ぎたか……。というより、おせっかいをやきすぎた。もう少し慎重にならなければ。七ツ橋のことになると、どうしても先走った行動になりがちだ。
「大丈夫。秘密は厳守します。今日のことは誰にも言いません」
 ……まぁ、私との間で秘密を共有しているという、女霧の意識は高まったようだが。
「あっ」
 街灯下の曲り道にさしかかった時、女霧が少し高い声で言った。
「見えましたね」
 駅だった。
 駅名の書かれた大きなボードが、バックライトで煌々と照らされている。他にも多くの電飾が駅までの道を明るく示し、そこだけライトアップされているように見えた。コンビニやファミリーレストラン、ファーストフード等が、それに沿う形で建ち並んでおり、さすがに駅前はそれなりの賑わいを見せていた。
「ありがとうございました。本当に送っていただいて」
 女霧はもう一度お礼の言葉を口にして頭を下げる。それはたどたどしい物ではなく、流れるように自然な仕草だった。
「ん? ああ、いや。別にこのくらい」
 まぁ、根は真面目で素直なんだよな。幹から上は知らないが。
「タクシー呼ぼうかと思ってましたけど、おかげで助かりました」
 ……。
「……ぇ?」
 一瞬、思考回路がフリーズする。女霧の言葉を耳は聞いているのだが、頭が理解できていない。
 今、何と言った……?
 もう一度。もう一度リプレイだ。私の脳内メモリーよ、時間を巻き戻せ。
『タクシー呼ぼうかと思ってましたけど、おかげで助かりました』
 もう一度! 最初の方を重点的に!
『タクシー呼ぼうかと――』
 後半のフレーズは要らない! 最も重要な単語だけを抽出しろ!
『タクシー』
 “タクシー”……。
 彼女は確かにそう言った。
 タクシー……。あれだろ? 知ってはいるさ。金を払って車で運んでもらうサービスだろ? バスの小型版だが、別に走るルートが決まっているわけじゃなくて、乗客の都合に合わせて融通を利かせてくれる、とっても便利な移動手段のことだろ? 頼めば迎えに来たりもしてくれる、実に誠実な交通機関のことだろ? 知ってるさ。そのくらい。ただし最大の欠点は――
 ――高い。
 運賃が八百円くらいから始まり、その後時間や距離に応じて青天井に跳ね上がっていくという、恐ろしいシステムを採用していると記憶している。しかも、例え最短距離を走らなくとも、謝罪一つでキャッシュバックはなく、海外においてはチップという名の使途不明金まで要求してくる始末。
 そんなセレブ御用達の乗り物を、一介の高校生が使用するつもりだった、だと?
 発想自体、存在しなかった。
 そのような宇宙学的飛躍論は、この天草終一朗の頭脳が天文学的に受け付けない。
 侮りがたし、女霧雪穂。以前、食堂で見せ付けられた一万円札はハッタリだと思っていたが、これは認識を改めざるをえないようだ。
 この女! 本物の上流階級!
 よし、これで今後は抜かりない。
「あの、先生……?  左右の目が別々に動いてますけど……」
 狼狽することもない。
「なんか髪の毛、逆立ってません……?」
 威嚇することもない。
「どうして、泣いてるんですか……?」
 劣等感にまみれることもない。
「女霧、私の方も良い勉強になった。今日はありがとう」
 だが次からはそうはいかんぞ! 不意打ちで一本取ったからといって、いい気になるなよ!
「えっ……? いや、私は別に、何もしてませんけど……。先生の方こそ、歩く早さを合わせてくれたり、私を怖がらせないように、わざとはしゃいでくれたり。色々とありがとうございました。結構、気が利くんですね」
 そうか。駅までの距離が長く感じると思っていたら、そういうカラクリがあったのか。無意識に認識操作を受けていたというわけだな。こいつ、実は忍者の末裔とかじゃないだろうな。
「それと、元気付けたりもしてくれて、ありがとう、ございました……」
 ふ……今更そんな見え透いた術を。技に溺れるとはこのこと。
「純朴な乙女のような表情をして、容姿端麗な外見をさらに際立たせようとしても無駄だぞ」
 お前がくノ一の血を引いていることは、完璧に裏付けられたんだ。
「じゅ、純朴……? よう、し、た、端れい……? 私が、ですか……?」
「そんなものはとっくにお見通しだ」
「え……」
 ほーら、顔が真っ赤になった。だまし討ちを見抜かれた時の恥ずかしさは辛かろう。所詮は付け焼刃よ。己の愚行を省み、修行し直してくるが良いわ。
「ではな」
 スーツを翻して去る私。これで一対一。互角だ。勝負の行方はまだ分からん。
「えっ……? あ、あの……! 先生のカプセルホテルって、この辺りじゃないんですか!?」
 後ろから慌てた声が飛んでくる。
 何を愚かな。こんな駅前周辺の、好立地条件な場所に、私の住処がある訳がなかろう。
 首を横に振って否定する私に、女霧は一歩詰めより、
「じゃ、じゃあ、どこなんですか……?」
「フ……聞いて驚け――」
 お前のような、くノ一セレブでは到底想像も付かん場所よ。しかも移動手段は徒歩のみだ。
「そ、そこって……ここから、車でも三十分はかかりますよ!? 本当なんですか!?」
 私が答えた場所に、驚愕全開で聞き返してくる女霧。少し気分が良い。
 ……ん? 言ってもよかったのか?
 まぁ、特に問題は無いはずだが、果てしなく嫌な予感がするのはなぜだ。
「本当に……歩いて帰るんですか……?」
「さらばだ」
 女霧の質問には答えず、颯爽と帰路に付く私。んんー、優雅な足取りだ。
「あの、タクシー、呼びましょうか? 勿論、お金は私が出すんで……」
 足が止まる。
 が、すぐに歩みを再開する。妙に体が重い気がする。
「楽ですよ? すごく」
 もう足は止まらない。だが何かに引っ張られているような感じがするのはなぜだ。
「速いですよ? とっても」
 足を動かす。前へ、前へと。引きずるようにして。
「そ、そうですか……。それじゃあ、また……」
 遠ざかっていく女霧の軽い足音。
 その一歩一歩を耳にするたび、私の足首には枷がはめられていくような気がした。
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