廃墟オタクは動じない
第三話 『認定。廃墟系女子』
――昨日さ、凄かったらしいよ?
――え? 何が?
――教育実習の先生。
――あっ、聞いた聞いた。女霧さんの儀式、台無しだったって。
――それもそうなんだけどさ、その後も。職員室で。なんか男子も完全にビビり入っちゃって。
――そんなヤバかったの? 見えなかったけど。
――キレたらヤバいってやつ? 犯罪者予備軍じゃん。
――まぁ二週間くらいだし。大人しくしといた方がお利口じゃない?
――言えてる言えてる。……あれ?
――どしたの?
――あれ、女霧さんじゃない?
――ホントだ。朝から職員室って……何かあったのかな?
――質問じゃないの?
――あの学年トップが? 違うでしょ。絶対何か視えたのよ。次何するんだろうねっ。楽しみー。
――じゃー続きは食堂でしない? まだ一限まで余裕あるしさ。
今日は一限目から授業をすることになった。
担当クラスはD組。
例の座敷わらしとヤンキー優等生がいる教室だ。
まぁ、昨日勢いあまって柄でもないことをしてしまったから、多少の雰囲気の変化は予想していたが……。
「あー……そういうわけで、だ。我々が知らないだけであって、ヤクザというのは比較的身近なことにも絡んでいるというのが、この作者の伝えたかったことの一つと解釈できるわけだ」
ザッ、と一斉にうなづく生徒たち。
なんか怖いんだが……。
まぁ座敷わらしは最初から真剣に聞いてくれていたし、ヤンキー優等生は変わらずに斬れそうな鋭さで睨んでくる。が、その他の生徒はほぼ全員、態度が百六十度くらい変わっている。
私語はもちろんのこと、よそ見すら一切しない。どこの洗脳教室ですかと、テレビ局がドキュメンタリー企画でも持ちかけてきそうな勢いだ。
多分、昨日のうちにメールが一斉送信されたんだろう。便利な世の中になったものだ。
「ふぅ」
……まぁ分からんでもないか。
今までどれだけ騒いでも適当に流されていたのに、いきなりあれでは面も食らうか。しかも昨日初めて見た教育実習生が相手だ。
――すぐにキレる危ない奴。
そう思われてもしょうがない。
私が逆の立場なら、極力かかわりあいにならないように努める。どうせ二週間の間だけだし。ただ……。
「では、チャイムがなったので今日はこの辺で……」
「きりーつ!」
ガタンッ!
「礼!」
ザッ!
「ちゃくせーき!」
ガタタンッ!
そんなに真剣になられると手を抜きにくくなるから勘弁してくれ。
――◇◆◆◇◆◇◆◆◇――
どうやらあの時の私は、相当な形相だったらしい。それは周りの教師陣ですら声をかけるをためらうほどに。
「いやー、わたしが帰った後にそんなことがー」
「ホントすごかったんですよ、天草先生。教師よりも教師らしいというか。我々も見習わないと、と思いましたね」
一限目終了後の職員室。
前の席では初老の教師とデブマッチョが目を輝かせながら語り合っている。
まぁ授業風景があれだけ一変したんだ。何事かと思うのも無理はない。特に昨日の一件を知らない初老の教師にしてみれば、一体どんな魔法を使ったのかといった感じだろう。
「いやー、天草先生ー。感動しましたよ。生徒と真正面からぶつかり合うなんて、そうそうできるもんじゃない。これも若さのなせる技ですなっ」
こちらに身を乗り出し、初老の教師は大きくうなづきながら言ってきた。
「あ、はぁ……」
私はあいまいな返事をすることしかできない。
あれは別に生徒を注意しようと思ってやったわけではないのだ。個人的な苛立ちと、その八つ当たり。ただそれだけだ。
「ですが、あまり無茶はなさらないように気をつけてくださいね。近頃の生徒は逆恨みして、何をしてくるか分かりませんから」
逆恨みどころか、正当な仕返しだと思う。
「では、そろそろ次の授業に行きましょうか。残念ながら見学の方ですが」
笑顔でそう言いながら初老の教師は立ち上がる。私は手近に置いてあった湯飲みの中身を飲み干し、彼の後に続いた。
まぁ程度の違いこそあれ、感触はどのクラスも似たようなものだった。
皆、常にこちらを警戒している。私が授業を行っている時はもちろんのこと、見学している時もだ。
それでもD組ほど酷くはなく、昨日見たような騒ぎは何回か起った。
その中で気付いたことが一つ。
騒ぎは必ず一人の先導者によってもたらされる。先導者は何の前触れもなく突然席を立ったり、声を上げたり、物を投げたり。そして数秒の間を開け、クラス全員がそれに便乗する。
すべてこのパターンに集約される。クラス中がじわじわと盛り上がってきて、ある程度になったところで爆発するといったグラデーションのようなものはない。ゼロから一気にマックスだ。
あと、先導者はクラスに一人というわけではないようだった。昨日と今日で別の生徒が先導者になっているクラスもあった。
……正直、そんなことはどうでもいいのだが、向こうから意識されると、こちらも向こうを意識してしまう。おかげで実に下らないことに気付いてしまった。
まぁこんなこともあろうかと、百均で耳栓を買っておいたから、この程度の勘ぐりで済んでいるのだろうが。
そんなこんなで待ちに待った昼休みタイムだ。
空には分厚い雲がかかっているが、雨が降っているわけではない。昨日、旧校舎から出る時、子供用長靴を回収し忘れていたことを考えると、これはなかなか幸先が良い。
……ちゃんと見つかってくれればの話だが。
旧校舎裏手には背の高い雑草がやたらと生えているせいか、足元の視界はゼロにひとしい。文字通り手探りで探さないといけない状態なわけだが、これがなかなかに至難の業だ。
「くそ……」
ここは保留だ。また時間のある時にゆっくり探そう。
私はロスした時間を取り戻すため、昨日と同じく裏口から旧校舎へと入った。
それがいけなかったのかもしれない。
昨日と全く同じ場所からの侵入。
その後はまるで何かに吸い寄せられるかのごとく、昨日の自分の行動をトレースしていく。
一階で校舎内のかび臭い匂いを堪能し、そこに僅かに混じる甘い香りを意識的に無視し、そして二階へと続く階段を上る。上りきったところで壁に背中をつけ、私は百均の手鏡に音楽室の方を映し出した。
「いる……」
丸く切り取られた小さな鏡の世界。その中には、誰かと喋っている座敷わらしの姿が。やはり昨日と同じく、相手の姿はここからでは見えないが。
「確かめなくては」
つぶやくと同時に階段の影から飛び出していた。
昨日はここでためらったからタイムオーバーになってしまった。昼休み終了間際だったから、彼女が戻ってしまった。
だが同じ失敗は二度もしない。さっき時計を確認した。十二時二十五分。まだ時間はある。いや仮になくなったとしても、声をかけて強引に引き戻す。
なんだ。
「くそ」
いつの間にか早足になっている。
「くそっ」
どうしてこんなにも気になるんだ。
旧校舎に入った時からすでにそうだった。七ツ橋ひなたという名前の座敷わらしのことが、私は無性に――
「ぃよおし動くな!」
助走をつけて音楽室に入り込む。
そして間髪いれず座敷わらしに対して両手をかざし、動くなという意思を着払いで送りつけた。
あたりを見回す。
乱雑に並んだ机。窓のない穴あきの壁。グランドピアノが置かれていたスペースはぽっかりと空き、五線の書かれた黒板には品のない落書きが走っていた。
昨日と同じ光景だ。
座敷わらしがいることを除いては。
「ふぅ」
私はネクタイの位置を直し、長い前髪を適当にかき上げた。
「座し……七ツ橋――」
驚愕のせいか、濃いクマの張り付いた目を大きく見開いている。しかし私は構うことなく、低い位置にある彼女の顔をまじまじと見つめ、
「お前、幸のうすそーな顔してるなぁ」
感嘆のため息混じりに正直な感想を述べた。
彼女はびくんっ、と小さく痙攣した後、体を震わせながらうつむく。そこから漂う筆舌に尽くしがたい哀愁が、私の琴線を激しく刺激した。
そ、そうか……。
「ここに似合いすぎだぞ」
なんとなく分かってきた。
「この旧校舎がお前のためにあるようだ。いやお前がいるからここが引き立つのか?」
彼女のことがこんなにも気になる理由が。
それは――
「あっ!」
何も言わずに走り出す七ツ橋。私は反射的に手を伸ばし、彼女の腕をがっちりとつかむ。本当は手を狙ったのだが、全体的にスケールが小さすぎて勢い余ってしまった。
「待て! 待ってくれ。落ち着いてくれ。今のは決してお前の悪口を言ったわけではないんだ」
どう聞いても悪口だが。
「お前を見て自然に言葉が出てしまったんだ」
彼女の抵抗する力が強くなる。
ああ! いかん! 全くフォローになってない!
「つまりお前にはそれだけ類まれな才能があると言いたいんだ!」
さらに強くなる。
くそ! イヤミにしか聞こえないぞ! もう面倒だ! はっきり言おう!
「お前には廃墟的な魅力が備わっている!」
とどめの一言だった。
抵抗は逆になくなってしまい、七ツ橋はその場に座り込んでしまう。腕だけを私の方に預けて背を向け、鼻をすするような音を立て始めた。
まずい。
非常にまずい。
私としては初志貫徹して褒めちぎっているつもりなのだが、彼女には全く伝わっていない。それどころか罵倒されたと勘違いしてる。いや第三者的な視点から見れば、決して間違った解釈ではないのだが。
「七ツ橋、聞いてくれ……」
もはやこの場で、何をどうつくろっても無駄だろう。今の私の気持ちを正確に伝えるには、一言二言では到底足りない。だから――
「私は、君ともっと話がしたい」
これが精一杯だ。
私も戸惑っているんだ。ここまで廃墟と一体化できそうな人間を、未だかつて見たことがないから。
「ほ……」
小さな声。しかし確かに七ツ橋の方から聞こえた。
「ほ、ほ……ほ、ほほ……」
吃音のような、それでいてあえぐような声。
「ほ、本当……で、ででで、ですか……?」
ギギギと、錆びた鉄格子のような動作でこちらを振り向きながら、七ツ橋はかすれた声で言った。
「も、勿論だ!」
正直、まさか食いついてくれるとは思っていなかった。だが上手くいった以上、ここでのがすわけにはいかない。
「私は君のことがもっと知りたい」
どうすればそんな雰囲気を醸し出せるのか。その秘密を。今にも廃墟と会話しそうな勢いの。その訳を。
「ん?」
私は自分で考えた言葉に閃きを覚える。
まさか、彼女はすでにその域に――
「七ツ橋」
私は一歩彼女に詰め寄り、真剣な顔つきで聞く。
「君は、ここで誰かと話していたな」
昨日だって。ついさっきだって。まさかあれは……。
「君はこの校舎と――」
「い、いい、痛い、でです……」
私の言葉を遮るようにして、七ツ橋は顔をしかめながら言った。
はっ、と気がつく。彼女の腕を持つ私の握力は、いつの間にか全開近くになっていた。
「す、すまない」
慌てて放し、七ツ橋から一歩下がる。もう逃げ出しそうな気配はなかった。
「……ぅ……ん」
七ツ橋は何かうめき声のような物を漏らしながら、私に握られていたところをさすっている。どうやら相当痛かったらしい。申し訳ないことをした。
しかし――
私は改めて彼女の姿、その全身を視野に入れて見つめる。
鼻上あたりまで伸びた前髪はぞんざいに切りそろえられ、飾ろうという意思が微塵も感じられない。ボブカットにまとめようとして途中で面倒くさくなってやめたかのような深化型のおかっぱ頭にツヤはなく、寝癖のようにはねている箇所も散見された。
長い黒髪の下では、漆黒の巨大な双眸が爛々と輝き、まるで術的な何かで睨み殺そうとしているようにも感じる。そして両目の下には、例え影になろうとも自己主張してくる深いクマが敷かれ、さながら怨霊のごとき雰囲気を醸し出していた。
おそらく百四十センチないであろう低い背丈。細く、短い手足。赤子のように不器用に動く指先。
可愛いデザインの白いブレザーとライトグレーのプリーツスカートも、彼女が着ればあっという間に馬子の衣装へと早変わり。着ている、というよりは包み込まれているかのような長い袖口――最小サイズでもこれなんだろう――が、その偉業を可能にしていると思われる。胸元の紺と赤のチェック柄のリボンも、大きな首輪へと大変身だ。
素晴らしい……。
やはり彼女のことはこう称さねばなるまい。
――廃墟系女子――
あまり存在感がないのに、その退廃的な外見や言動により、一部の人間からは逆に注目を集めてしまう存在。容姿、雰囲気、吐く息吐息、すべてが廃墟を連想せざるを得ない、特異な生命体。意図してなれるものではない。神より選ばれし一部の者だけが、生まれながらにして持ち合わせた究極性能。
これだ。
これが七ツ橋ひなたのことを気にして止まなかった理由だ。
すっきりした。実にすがすがしい気分だ。
旧校舎との再会のみならす、このような邂逅が待っていよ――
「ん?」
視界の隅で何かがひらひらと動き、私は思考を中断した。
そちらに目を向ける。
「七ツ橋」
私の声にびくん、と一度体を震わせ、彼女は顔だけをこちらに向けた。
「その腕どうしたんだ?」
私が握った腕を確認しようとしたのか、七ツ橋はブレザーの袖を捲り上げていた。今までは隠れて見えなかったが、手首から肘にかけて包帯が巻かれている。自分で処置したのか端が上手く止まっておらず、腕の動きに合わせてそれが揺れていた。
「こっ、こここっ、これ、これはっ……」
しゃがれた声を裏返らせながら言い、七ツ橋は慌てて隠す。
「大丈夫なのか?」
制服のサイズが合っていないせいか、体の露出が少ない。そのせいで今まで目に付かなかったが、足にも怪我をしているような痕がある。こちらには包帯は巻かれていない。擦り傷のようだが、どこかで転んだのか……?
「かっ、かまっ……かまいっ、たちっ、です……っ」
「かまいたち?」
その単語は何度か耳にしたことがある。新校舎の怪奇現象の一つらしいが……。
「本当なのか?」
全く信じていない。
だがこの七ツ橋ひなたという生徒が――廃墟系女子が言うなら本当なのだろう。
「ほ、ほ本当、ですっ……」
「そうか」
信じよう。
他でもない彼女がそう言うんだ。きっとかまいたちなんだろう。ならこの話はもう終わりだ。
「ところで七ツ橋」
そんなことより私はもっと他に聞かなければならない。
廃墟と会話するにはどうすればいいのかを!
「七ツ、橋……」
それによってもっと高みにたどり着ける!
「七ツ――」
あれ?
おかしいぞ。どうして彼女はあんなにも遠くにいるんだ? どうしてあんなにも、ぐにゃぐにゃしてるんだ?
―― ……ぃ! せん……生……!』
七ツ橋の声が遠くからする。そうか先に帰ってしまったのか。そろそろ昼寝休みも終わりだからな。しょうがない。
ところでどうして私の目の前に床があるんだ? なぜ私は手の甲を見ているんだ?
―― しっかり……ぃ! 先せ――ぃ! セん生……!』
倒れた? そうか、ひざまずいているのか。どうりで七ツ橋の声が頭の裏からするはずだ。それにしてもこれは……。
「くそ……」
無理やり腕に力をこめ、私は床から体を突き放す。
――寒気。
何だ。さっきまでの昂揚感が一気に消えうせ、文字通り冷水を浴びせられたようなこの感覚は。
――ねぇ――
聞こえる。何かが聞こえる。七ツ橋の声とは違う、金属のようなノイズ混じりの声が。
――、は……――……しん、だ……?――
男なのか女なのか、それすら判別できない
――、は……どうして……しんだ……?――
なんだ。何なんだこれは……。
「出よう……」
声を絞り出して言い、私はなんとか立ち上がった。そして七ツ橋の方に手を伸ばしながら、一歩一歩前に進む。
「だ、だい、だ大丈夫っ、でで、ですか……?」
「ああ……大丈夫だ……」
さっきよりは彼女の声が鮮明に聞こえる。逆にあの金属質な声はもう聞こえない。体の感覚もだいぶ戻ってきた。
音楽室から廊下へ、そして七ツ橋が開けてくれた非常口から外に出る。冷たい物がいくつか顔に当たった。どうやら小雨が降り始めたらしい。だが少し熱を帯びた体にはちょうどいい。このまま濡れながら新校舎に帰ろう。
「っと……」
七ツ橋のことを忘れていた。彼女まで濡れる必要はない。
「七ツ橋、これをかぶって行け」
私はスーツの上着を脱ぐと、彼女の頭にかぶせた。私のサイズに合ったそれは、七ツ橋の全身を覆ってしまいそうな勢いだ。
「ぇっ? ぅ、あ……?」
状況を把握できないのか、七ツ橋はとぎれとぎれに声を漏らす。
「よし行こう」
言いながら非常階段を下りる。少し間を置き、後ろからは短い間隔の足音が付いてきた。
もう体に異常はない。だが誰かに見られているような感覚は、昨日よりも長く続いた。
そんなわけで下痢気味だ。
ちょうど旧校舎から戻った後ぐらいから急に始まった。少し水分を摂取しただけで、下腹部の辺りに不穏な雰囲気を感じる。まぁ行動を制限されるほどでもないし、元々便秘体質なので、むしろ丁度良いくらいだが。
授業は六限目の半ばに差し掛かったあたり。私は見学で、後ろから教室をながめている。クラスはE組。ここでも生徒は私を意識してくるが、七ツ橋や女霧がいるD組ほどではない。
かまいたち、ね……。
昼休みに七ツ橋の口からその言葉を聞いて以来、妙に意識して見てしまう。
生徒たちの治療痕を。
それは絆創膏だったり湿布薬だったり包帯だったりするのだが、確かに言われてみると普通より多い気がする。とくに騒ぎの時の先導者に。
仮に生徒全員が運動部員で、毎日朝早くから練習に励んでいるということになれば納得もできるのだが、所詮は帰宅部が大半の健全なる高校生ども。逆立ちでもしながら登下校しない限り、こうはならないだろう。
となると……。
「ふぅ……」
またごろごろと音を立てて活動を開始した大腸部分に手を当てながら、私は息を吐く。
本来ならこんなこと考えもしない。ただひたすら愛しの廃墟に思いを馳せ続けるだけだ。しかし今回はどうやら、その廃墟たる旧校舎に問題があるようなのだ。
一度だけではなかった。二度も奇妙な感覚に襲われた。そして耳の奥で聞こえたあの言葉……。
あれは気のせいなんかではない。確かに自分の身に起ったことなんだ。
怪奇現象。
そうとしか言いようのない出来事が。
あの音楽室が問題なのか、それとも旧校舎全体が問題なのか。しかし七ツ橋は全く平気のように見えた。廃墟系女子は廃墟に祝福されているから、全然問題ありませんよー、などという一部にしか説得力を発揮しない理由でないことは確かだ。
ううむ分からん。時間を見つけて、少し彼女に相談してみないとだな。聞くことが一つ増えてしまった。
旧校舎での怪奇現象。かまいたち。治療痕の多い生徒たち。
そして突然の下痢。何か悪い物を食べた覚えはないのだが……。まさかこれも旧校舎の呪いか何かなのか? 下痢程度で済めばいいのだが、重篤な疾患に発展してしまっては、今後の廃墟ライフに大きく響く。そういえば初老の教師が、元々は軍事病院だったとか言っていたが、あれも本当のことなのだろうか。
旧校舎探索……今すぐに中止する気はないが、その可能性は視野に入れておいたほうがよさそうだ。
……。
……いや、そういう訳にもいかないか。
この旧校舎は、他の廃墟とは違うんだ。
ただ楽しんでいればいいという訳ではない。気持ちを整理して、区切りをつけなければならない。
まさか戻ってこられるとは思っていなかった、かつての学び舎。この貴重な機会を無駄にするわけにはいかない。
放課後。
職員室で実習日誌を書き終え、私は大きく伸びをした。
すぐにでも旧校舎に飛んで行きたいが、初老の教師がまだ戻ってこない。私の担当教師である彼の許可なく帰ることはできない。
さっき七ツ橋の姿を探しにD組に行ったのだか、すでに帰ってしまった後だった。色々と聞きたかったのだが残念だ。明日は時間を取ってもらえるよう、事前に話しておこう。
「にしても……」
まだか。まだ戻らないのか初老の教師は。
六限目終了後に別れたきり、もう三十分は経つぞ。まさかトイレにこもってるなどということはないだろうな。そういう理由なら大いに理解できるぞ。
「ふぅ」
きっとそうなんだろう。人に言えない理由なんて蓋を開けて見ればそんなものだ。
私はため息混じりに手を伸ばし、机隅の湯飲みを取る。中身はすっかり冷え切ってしまっているのか、掌に熱は伝わってこない。
「ん?」
おい待て。
湯飲みを引き寄せ掛けて私は一時停止をかける。
私は注いだ覚えなどないぞ。誰かが置いてくれたのか? そんな古き良き風習が突然の復活を果たしたというのか?
いや。いやいやいやいや。
落ち着け。
私はぐるりと辺りを見回す。
マイカップやマイ湯飲みを持っている者もいれば、給茶機に付属している紙コップを使用している者もいる。誰かが配っている様子はない。かといって今のタイミングで都合よく誰かが自分で茶を取りに行くこともない。実際に見たのは初老の教師が注ぎに行こうとした場面くらいか。あの時は結局、蜘蛛にびっくりして達成できなかったわけだが。しかしまさか、あの後特定の場所に置いておけば、誰かが自動的にお茶を注いで席まで届けてくれる、なんていう便利なシステムが構築されているわけではないだろう。
「むう……」
教育実習生だけへのサービスという可能性も考えられるな。その場合はどうしようもない。ありがたく受け入れるのが礼儀というものだろうが、今は私の本能が待ったをかけている。
このお茶のこと、他の教師に聞くか? そうすると当たるまで全員に聞いて回らなければならないわけだが、それは非常に面倒くさい。
何か妙案は……。この湯飲みの中のお茶が安全で、かつ私のために注がれたものであるかどうかを確認する良い方法は――
「ぬっ!」
閃いた。
と同時に私は動いていた。
「先生」
昨日、一緒に放課後の見回りをしたデブマッチョ教師の机の前に立つ。
「はい? どうかしましたか?」
「あちらの先生からこれをもっていって欲しいと頼まれました」
キツそうな眼光をした女王様タイプの女教師を指差し、続けて私は例の湯飲みをデブマッチョに差し出す。
「え? そ、そうなんですか? そうなんですかー。それは、それはどうもご丁寧に」
デブマッチョは予想通り何の疑いも無く湯飲みを受け取り、そして一気に飲み干した。
お前がエロい目つきであの女教師を見ていたことは知ってるんだよ。お前には何か“お礼”をしないと、と思っていたからなぁ。
「では私はこれで」
笑顔で言い残し、私は自分の席に戻る。そしてブックスタンドに立てられた本と本の隙間から、デブマッチョの方をじっと観察した。
変化はすぐに訪れた。
デブマッチョは「おっ、おっ、おっ」と餌に釣られたオットセイのようにして、腹と尻を押さえながら出て行ってしまった。
やはりか……。
一つうなづき、私は自分の仮説が正しかったことを確信した。
つまりこういうことだ。
まず、あそこに入っていたのは下剤。見たところかなり強力な物のようだ。
そして同じ物を一限目終了後に私も飲んでいる。あの時は昨日のことを褒めちぎられて気まずがったから、何も考えずに口に入れてしまったが。
だが私が便秘症なこともあって、効果はいまいちだった。そこで犯人はもう一度、下剤を盛りに来たという訳だ。他の先生に質問でもするフリをしながら。
私にここまで明確な恨みを持っている人間など一人しかいない。
女霧雪穂だ。
それは一限目の授業態度から見ても明らか。
となれば旧校舎での怪奇現象も彼女が関与していると考えるのが至極自然。
そういえば昨日のおかしな儀式でも柑橘系の匂いを辺りにばら撒いていた。おそらく旧校舎でかいだ甘い匂いも彼女が何か仕込んでいたのだろう。
女霧はD組の先導者だ。たとえば旧校舎の現状を言い当てるなどの芝居で、信者を引き寄せるといった工作をしても不思議ではない。
音楽室での立ちくらみや、不気味な声の演出はどうやったかは知らないが、いずれしめ上げればはっきりすること。
「ぬへ。ぬぇへへへへ」
ネタが割れてしまえばこちらもの。
やはり怪奇現象など存在しない。すべては愚かしい人間の作り上げたまがい物よ。
「いやー、天草先生すいませんね、お待たせして」
そこにいいタイミングで初老の教師が戻ってくる。
「日誌は書き終わりました。帰ってもよろしいでしょうか」
「ええ、勿論。昨日は申し訳ないことをしましたから、今日こそは早く帰ってください」
「では」
いい流れだ。
心なしか雨雲が晴れてきている気がする。この分なら、今日は夕日が拝めるかもしれない。旧校舎を朱色に染め上げる、黄昏の自然光を。
「よし」
旧校舎の正面に立ち、私は気合を入れなおした。
目を覆う長い前髪をかき上げ、後ろ髪とまとめて百均髪ゴムで縛る。
時刻は四時四十五分。まだ一時間以上は明るいはず。
その時間すべてを旧校舎探索に捧げる。
「いざ」
私は栄光への第一歩を踏み出し――
「お? ここは立ち入り禁止だろ?」
――たその先はなんと落とし穴だった。
「ぬっ」
慌てて声のした方を見る。
さっきまで誰もいなかったはずの場所に、無精ひげを生やした中年の男が立ってた。年季の入ったトレンチコートに身を包み、目深にかぶった紫色のニットキャップの下から鋭くこちらを見上げている。口にはくわえタバコ。左手には軍隊で使うような大きなフラッシュライト。
ここの教師ではない。事務員でもない。いやそれ以前にこの雰囲気は、ただの一般人ではない。
「あなたは?」
「お前はどうなんだよ」
口の端を意地悪そうに吊り上げ、男は何かを面白がるようにこちらを見ている。
人に物を尋ねるならまずは自分から、というわけか。良いだろう。
「教育実習生」
男を真っ直ぐに見下ろし、私は短い言葉で返した。
「ああ、どうりで。先生にしては若いと思った。教育実習生、ね……」
言いながら男はタバコを一息ふかし、さらに品定めを続ける。
嫌な感じだ。関わり合いになりたくないタイプだ。
「ま、それなら大丈夫だろ。別に教育実習生に隠せとは言われてないからな」
ふん、と鼻を鳴らし、男はかぶっていたニットキャップを取った。
「これは失礼。生徒には身分を隠せって校長に言われてるもんでね。感じ悪かったら謝るよ」
その下から出てきたのは、短く切り揃えられた白髪交じりの黒髪。そして――
「紫堂明良(しどう あきら)」
額に深く刻まれた、大きな傷跡。
「警察だ」
黒い警察手帳をこちらの目線に上げ見せながら、厳つい風貌の男はにっこりと笑って言った。
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