廃墟オタクは動じない

モドル | ススム | モクジ

  第五話 『人も建物もいずれはメッキが剥がれる』  

 頬に感じるかすかな痛み。耳元で繰り返される誰かの声。
 目を開ける。
 濃いクマの敷かれた大きな両目で、座敷わらしがこちらを見下ろしていた。
「く……」
 腹に力を入れ、両手で床を押しながら上体を起こす。
「……七ツ橋か。どうした、こんなところで」
 頭に残っている僅かな違和感を振って追い出し、私は立ち上がって彼女に聞いた。
「だ、だ、大丈夫、ででで、すか……?」
 こちらを見上げながら、七ツ橋は心配そうな視線を向けてくる。
 百均のデジタル腕時計を見る。十二時四十分。どうやら二十分ほど気を失っていたらしい。場所は変わらずの図書室。倒れた時に打ち付けたのか、背中と後頭部が少し痛む。
「心配するな。業務用の袋ラーメンだけで半年過ごした経験がある。体は丈夫な方だ」
「い、い、いや……そそ、そういうこと、では……なな、なくて……」
 少し先の余ったブレザーの袖を掴んだり放したりしながら、七ツ橋はどんよりとした黒目を激しく動かしている。
「な、なな何か、あったん、でで、すか……?」
 まぁ、そうだよな。
 それに関しては私も同意見だ。なぜ私は気を失ったんだろう。
「七ツ橋、君が私を見つけた時、私はどんな状態だった?」
「えっ……?」
 言われて七ツ橋は挙動不審にうろたえながら、それでも必死に何かを思い出しているようだった。
「わっ、わたしが、き、きき来て……お、おっきな音がして……き、来たら、せ、せせ先生が……」
「そうか」
 七ツ橋が旧校舎に来るのとほぼ同時に私は気を失ったらしい。その時に倒れた音を聞いて、何事かと思った彼女はここに来た。そして二十分もの間ずっとそばにいたという訳か。なるほど。
「誰か呼んだか?」
「い、い、いえ……」
「そうか。いい判断だ」
 見られていたら色々と面倒なことになっていた。実習中止のいい口実になるし、ゆっくり考えをまとめることもできなかっただろう。
 ――あの時。気を失う直前。
 私は確かに声を聞いた。
 紫堂茜。この図書室で亡くなった同級生の声を。そしてこう言っていた。
『私はどうして死んだの?』
 確かにそう聞こえた。聞き間違いではない。はっきりと聞こえた。
 幽霊……?
 ここにそんな物はいないと自分で結論づけたばかりだというのに? 下剤の時と同じように、どうせ女霧が何か仕込んでいるに違いないと確信したばかりだというのに?
 まぁいい。本人に聞いてみれば済む話だ。簡単に白状するとは思えないが。
 それよりも今は少し休んだ方が良いな。何事もなかったかのように午後を過ごさねばならない。この後の五限目と六限目は、どちらも私が授業をすることになっている。
「ありがとう、七ツ橋。助かった」
 私は手近にあった椅子に腰掛け、いまだ落ち着かない様子の彼女に声をかける。
「だ、だい、じょうぶ、なんですか……? ほ、保健室に、行った方が……びょ、びょ病院の方が、ですか……? だ、だって、きき昨日も……」
「心配ない。ちょっと休めば問題ない」
 ネクタイ緩めながら言うが、七ツ橋は納得できないといった表情でこちらを見つめている。
 これはこちらから何か質問した方が良いな。誰かを呼ばれる訳にはいかない。
「ところで七ツ橋、君は実に勇気があるな。怖くはなかったのか? ここに来るまで」
 ふぅ、と息を吐き、可能な限り平静をよそおいながら彼女に話を振る。
 何かと曰くつきらしい旧校舎。建物への恐怖心は、生徒たちの間でかなり確固たる物になっているようだ。ならば普通、そんな場所に乗り込むだけでも、それなりの勇気が必要になるだろう。しかし七ツ橋は平然と通っているばかりか、大きな物音にも全く動じることなく私の元へと駆けつけた。なぜだ。
 ふとした好奇心で浮かんだ疑問。何か他に聞くべきことがあった気がするが、まだ頭の中がもや掛かっていてはっきりしない。話しながら思い出そう。
「べ、別に……こっ、ここ、怖くは、なな、ない、です」
 相変わらずのどもり口調だが、七ツ橋ははっきりと否定する。
 小さな好奇心が少し大きくなった。
「なぜ?」
「こ、ここには、そ、その……ゆゆ、幽霊とか、い、いませんから……」
 鈍色の瞳をきょろきょろと動かしながら彼女は言い切った。
 幽霊がいない。だから怪奇現象などあるはずがない。だから自分は旧校舎に来ることに恐怖など感じない。
 七ツ橋はそう言っている。
「分かるのか?」
「えっ……? ぁ……あ、はぃ……」
 長い袖先に隠れてしまった両手の指を組んだり解いたりしながら、小さくうなづく七ツ橋。
 その自信なさげな動きとは対照的に、彼女の言葉は異様なまでに断定的だ。
「この旧校舎に幽霊のたぐいは存在しない。君にはそれが分かるから恐怖を感じない。例え大きな音がしたとしても、それは何か人為的な物に違いないから、迷わずここにやってこられた。そういうことなんだな?」
「は、ぃ……」
 消え入りそうな声。だが決して否定はしない。
「そうか。なるほど」
 私は長い前髪をかき上げ、七ツ橋から少し視線を逸らして考えをめぐらす。
 彼女の言葉は真実である可能性が高い。なぜなら否定する側に立っているからだ。
 もし仮に自分が霊能者であることをアピールしたいのであれば、“いる”ことを述べた方が効果が高い。その方が後の展開を派手に演出できるし、聞く側にとっても容易に納得できるからだ。ましてこんないかにもといった雰囲気。“いる”と言われれば、大半の人間は受け入れるだろう。
 しかし七ツ橋は“いない”と言い切った。
 あることを証明するよりも、ないことを証明する方が、はるかに難しいにも関わらずだ。
 加えて言うなら、七ツ橋は目立ちたがるタイプの人間ではない。あの女霧とかいう女子生徒ならともかく、彼女がそんな打算を踏まえた発言をしているとも考えがたい。
 さらに言うなら七ツ橋は私が認めた廃墟系女子だ。
 だから彼女の“いない”という言葉は、かなり信用できる。
 ならばついでだ。他のことも確認してみるか。
「七ツ橋」
「は、はは、はぃぃ……」
「ここが昔は軍事病院だったと聞かされたんだが、それについてはどう思う」
「ぐ、軍事……びょ、病院、ですか……? こ、ここ、が……?」
 挙動不審に聞き返してくる七ツ橋に、私は真剣なまなざしを向けながらうなづいた。
「ほ、他のせ、先生や……みみ、みんなは、そ、そう噂……してます、けど……そ、それ、は……な、ない、ですよ……。だ、だって、ここが、で、できる前は……じじ神社、だった、はず、で、ですから……」
「神社?」
 軍事病院の話も初耳だったが、神社という話も聞いたことがない。
「こ、この校舎の……う裏、に、ある、おっきな石は……鳥居、の頭の、ところだと、思い、ます……」
 喋りすぎたのか、はぁはぁと息切れしながら七ツ橋は言い切った。
 大きな石……。
 ああ、あれか。裏口からグラウンドに近道する時、柵を一つ越えるんだが、その時の踏み台としてよく蹴っていた岩があった。言われてみれば、鳥居の端のそり上がった部分に見えなくもない。後で確認しておこう。
「つまり七ツ橋、君が言うには、神社だった場所を土砂で埋め立てて平坦にして、その上に旧校舎が建っていると」
「は、はぃ……」
 息を整えながらうなづく七ツ橋。
「た、多分……ご、ご神木が、この、あ、あたりに立っていたと、おお思います……」
 さらに彼女は短い両腕を伸ばして何かを抱えるようにしながら、今私達がいる場所をぐるりと一回りする。
 多分、このくらいの太さの樹ががここに立っていましたよー、と伝えたいのだろう。
「そんなことまで分かるのか。凄いな七ツ橋」
 “いない”と言っておきながら、神社というまさに霊験あらたかなワードを持ってくるあたり、彼女の言い分には妙な信憑性がある。昔の建物とか、そういう物が見えると伝えておきながら、今もっぱらの噂である軍事病院のことは全否定するあたり、流行り物にあやかりたいという姑息な思考は微塵も感じない。
 やはり本物なのか……。
 少なくとも教師や生徒らの噂話よりは、よほど信じるに値する。普段、自己主張からは縁遠い存在なだけに、なおのこと。
「せ、せせ、先生は……」
 少し咳き込みながら、七ツ橋はかすれた声で言ってきた。そこで二呼吸ほど間を空け、さらに深呼吸を一度はさんで続ける。
「わ、わたしの言うこと……し、し、信じて、く、くれるん、で、ですか……?」
 不安げな、そして何かを期待するような視線。目は激しく泳ぎ、全身は痙攣するように震えている。彼女のクラス内でのポジションが、より一層理解できた気がした。
「ああ、そうだな」
 だがそれに対しての同情や憐憫が理由なのではない。
 私の価値基準から見て、七ツ橋の言葉は信用できると判断しただけだ。勿論、百パーセントではないが。
「あ、あ……あり、ありが、とう……ござい、ます……」
 かしこまった様子で、深々と頭を下げる七ツ橋。
 この言動が芝居だとは思えないし、芝居ができるほどの器用さを持ち合わせているとも思えない。そして私に対して芝居をしたところで、彼女に何かメリットがあるとも思えない。
 色々とひっくるめて、八割がた本当のことなんだろう。彼女の言ったことは。
 ここに幽霊のたぐいはいない。しかし神社の跡地に建てられている。
 ならあの声は――
 ……。
 ……分からないな。
 超常的なものの可能性と、人為的なものの可能性。両方とも同じくらい疑わしい。つまり何も分からなくなったということだ。
 ……いや待て。そうじゃない。
 七ツ橋は超常的なことに関して、少なくとも私よりは鋭い感性の持ち主らしい。なら彼女に色々と聞けば何か分かるはず。
 そうだ。とにかく私は七ツ橋に聞かなければならないことが他にも――
「七ツば――」
 言いかけた私の言葉を遮るようにして、遠くの方からチャイムの音が聞こえてきた。
「あっ……!」
 七ツ橋が驚いた表情で顔を上げる。
 まずい。授業が始まる時間だ。つまり今ここにいるということは、どうあがいても遅刻は確定だ。
「せ、先生……!」
 ならばそんな確定した事実に対して焦ってもしょうがない。それよりも――
「七ツ橋、放課後少し話をしたいんだが。時間、あるか?」
「えひぇっ……?」
 私の提案に、しゃがれた声をひっくり返しながら目を大きくする七ツ橋。瞳の動く速度だけで三半規管を粉砕できるんじゃないかと思うくらい、上下左右に激しく目が動いている。
「昨日も言ったと思うが、私は君ともっと話がしたい」
 そして知りたい。
 旧校舎との会話方法を。私を悩ませる、謎の怪奇現象についての見解を。
「どうだろうか」
 七ツ橋から目を逸らすことなく、私は真っ直ぐに見据えながら彼女の答えを促す。
「……っ、ぃっ……ぃっ……!」
 彼女の口からは、かすれたような吃音が漏れるだけで声は聞こえない。だが脳震盪を起こしそうな勢いで首を縦に振っているので一目瞭然だ。
「では、放課後教室に迎えに行くから、少しだけ待っていてくれ」
 微笑を浮かべてそう言った私に、七ツ橋はひたすらヘッドバンギングで応え続けた。

 五限目の授業は五分ほど遅れて開始された。
 下痢気味でトイレにこもっていて遅くなったと適当に言ったら、特に大きなお咎めはなかった。ただ私がそう言った時、女霧の形の良い眉毛が僅かに上がったのをしっかり捕らえた。例の下剤の犯人は彼女ということで、まず間違いないだろう。
「……つまり、ヤクザというのは響きだけで敬遠されがちだが、利害が一致した付き合い方をすればこれほど心強い味方は他にいない」
 ホワイトボードに赤の油性マーカーで『ヤクザ』と書き、大きな丸で囲む。ちなみにこれに特に意味は無い。ただなんとなく書いてみたかっただけだ。
「まぁどんな物でも使い方しだいという教訓が、この段落内には含まれていると解釈できる訳だ」
 だが教壇上で生徒たちの方を振り返ると、みんな一斉にノートを取っている。その光景は申し訳ないようで面白い。ちょっとした教祖様気分を味わえて、なかなか気分がいい。
 よーし、この調子で欺瞞と偏見に満ちた超解釈をさらに斜め北西に展開させて――
 ガタン!
 と、私の純粋な黒い思考を打ち破る存在が降臨した。
 ああ、そう言えばいたな。このクラスの本当の教祖様が。
「あー、どうかしたか、女霧さん」
 表情を引き締め、極めて紳士的かつ冷静な態度で、私は彼女に声をかける。近くから「せんせー凄くいやーそうな顔してるー」という妄言が聞こえるが気にしない。
「先生……」
 幽鬼のごとく立ち尽くした女霧は、どこか焦点の定まっていない瞳でこちらを見据える。
「先生、顔に……」
 そして何かに吊られるような動作で腕を上げ、小刻みに震える指でこちらを指した。
「ヒビが……」
 下からねめ上げるように睨み、女霧は怨嗟のごとく吐き捨てる。
 私は何も言わず、そんな彼女をただじっと見つめる。
「ヒビが!」
 それが気に入らなかったのか、女霧は威嚇でもするように甲高い声を上げた。
 だが私はただ待つ。この後、何が起るかはすでに分かっている。そしてこの手の相手にリアクションをしてはいけないということも。いくら馬鹿騒ぎしても、見ている者が何の反応もしなければ熱はすぐに冷める。
 ……まぁ、結局は校内放送が入って収拾するんだろうが。
 胸中で嘆息をつき、私は目だけを動かして他の生徒を見る。特に女霧の前後左右にいる生徒たち。彼らは女霧の発作的な行動にいち早く反応し、彼女を見上げている。さて、どんな便乗の仕方をするのやら……。
 ……。
 …………。
 沈黙。
 静まり返った教室だけが気まずそうに鎮座している。誰も何も言わない。誰も動かない。女霧も、他の生徒も、初老の教師も――
 ――お前はちょっとは動けよ。
 と、一人でツッコミを入れた時、僅かなざわめきとともに変化があった。女霧の方を見ていた生徒たちはお互いに目配せすると、なにやら迷惑そうな顔つきになり、姿勢を戻して前に向きなった。そしてホワイトボードの適当な内容をノートに書き写す作業に戻ってしまう。
 少し、驚いた。
 それは初老の教師も同じのようだ。教室の一番後ろの席で、顔をきょろきょろさせながら今起ったことを再確認している。
 だが一番驚いているのは女霧だろう。
 私に向けられた指先は行き場なさそうに中空を泳ぎ、大きく見開かれた両目の焦点はどこかおぼろげだ。意識的にか無意識的にか、背中はゆっくりと丸くなり、その動きに合わせる形で腕も徐々に降下を始める。
 多分、今起っていることをまだ受け入れられていないんだろう。
 今までは自分が何かアクションを起こせば、必ずそれに追従する形でみんなが騒いでくれていた。他のクラスでも何度か見てきたが、ああいう馬鹿騒ぎを起こしてそのたびに授業を中断させてきた。しかも教師陣は本気では怒らない。
 ある種の優越感。
 そういった物を過度に感じ続けてきた。自分は選ばれた人間なんだということを、ずっと確信し続けてきた。
 しかし今、完膚なきまでに否定された。噂でも妄想でもなく、目の前で打ち砕かれた。
 ごまかしも言い訳もきかない状況で、きっぱりと突きつけられたのだ。
 ショックでないはすがないだろう。
 ……まぁ、こちらとしては下らない騒ぎに労力を割かずにすんで、まさに願ったりの展開なのだが――
「先生」
 一番前の列の生徒が軽く手を上げながら言って来る。
「授業を進めてください」
 そしていかにも優等生ぜんとした口調で言った。
 ――こいつらの手のひらの返しっぷりには、呆れを通り越して僅かながら嫌悪感を覚える。
 よく言えば合理的なんだろうが、根性が無いというか薄情というか。なにも全員で女霧を取り残さなくてもいいだろう。ついこの前まで神様のように崇拝していたのに、ちょっと手に余りそうな奴が現れると躊躇なく見捨てて平然としている。
 事なかれ主義。平和第一。やっぱり自分が世界で一番可愛い。
 あー、そういえば私の時もこういうのあったなー。狐憑きの時、こっちが困ってるのに後ろで我関せずって奴が。まー、そいつにとっては最善の選択なんだろーが、こっちはなーってやつ。あぁ、あったあった。
「先せ――」
「わーってるよ」
 もう一度かかった声に、私は低い声で返した。
 おっといかん。ひょっとしたら軽く睨んでしまったかもしれない。こんなことをしていたら、また変な噂が立ってしまう。
 事なかれ主義。
 実に結構なことではないか。不必要な世話を押し付けられるよりよっぽどいい。大体今の私だって似たようなものだ。旧校舎探索という大目的のためなら、他がどうなろうと知ったことではない。誰だってそうやって折り合いをつけて生きていくんだ。目に入るものに片っ端から関わっていたらキリがない。
 だから遅かれ早かれ、女霧にだって今のような試練が訪れていたんだ。
 ただ、今回のはあまりに唐突で、強烈で、そしてお粗末な内容だったから――
「女霧さん」
 フォローしてやろう。
「君がどうやって私の顔の秘密を知ったのかは分からないが、そいうことを堂々と言われると困るんだよ」
 女霧に対する印象は良くないし――と言っても私の勝手な思い込みが大半だが――そもそもこんなことをするのは本意ではないんだが。
「だからそれ以上具体的な発言は控えてもらえると助かる」
 表情を崩すことなく真顔で言い放ち、私は教壇の上で頭を下げた。
 潮騒のようにざわめきが広がるのを確認し、私は頭の位置を戻す。一番驚いていたのは、やはり女霧だった。
 未だ突き出したままの指先で「の」の字を書きながら、女霧は赤みがかった長い髪を小刻みに痙攣させている。顔面は蒼白になり、だらしなくあけられた口の中で歯が上下に揺れていた。
 どうやら相当動揺しているようだ。まぁ不測の事態を連続で突き付けられればこうなるか。いかんな。このままでは他の奴らにバレてしまう。
「よし分かった、女霧。なら少しだけ話をさせてくれ。みんな、五分だけ自習しててくれ」
 言いながら私は女霧の席に歩み寄ると、宙で漂う彼女の腕を掴む。
「ふぇっ……?」
「女霧、頼む。これは私にとって重要な問題なんだ」
 呆けた返事をする女霧を無視して、私はそのまま廊下に連れ出した。そしてとりあえず教室から離れる。
 全く何をやってるんだろうな、私は。

「落ち着いたか?」
 誰もいない食堂で女霧と向かい合わせに座り、私はコップの中の水を口に含む。
「……はい」
 こしあん入りおしる粉ジュースのパックを一口すすりながら、女霧は元気のない声で返す。
 まさかこんなところで百三十円を浪費してしまうとは……。今日の夕食のグレードダウンは確定だな。
 食堂はカフェテリア方式で、沢山のショーケースが並んでいる。今は空だが、サラダや揚げ物などの一品料理から、肉や魚といった主采はもちろん、麺類も汁を注ぐ前の状態で沢山並んでいた。天井は中二階ほどまである高めの設計で、壁はほぼガラス張りとなっている。天気の良い日はさぞかし陽光が心地よいことだろう。
 テーブルは基本四人がけだが、二人がけや八人がけの物もあり、レイアウトは単調にならない。ところどころに配置された観葉植物がアクセントとなり、高級感を漂わせていた。
「じゃあ戻っても大丈夫か?」
 水を飲み干し、私は息を吐きながら訊く。
「……同情ですか?」
 しかしその問いかけには答えず、女霧は怨めしそうな声で聞き返してきた。
「同情? 私が? 君に? そうだな。そう言われればそうかもしれないし、そうじゃないと言えば、そうではないような気もしなくはない」
「なんですかそれ。馬鹿にしてるんですか?」
「どうなんだろうな」
「もぅいいです」
 ふてくされたように言って、女霧はこしあん入りおしる粉ジュースを一気にすすり――そして咳き込む。
「はっきり言いますけど、私は先生のこと嫌いでした」
「“でした”?」
 過去形?
「今回のことでますます嫌いになりました」
「……だろうな」
 お前はそういう面倒くさい性格だと思っていたよ。
「では失礼します。ジュース、どうもありがとうございました」
 言いながら紙パックを握りつぶし――ストローから飛び出たおしる粉が手について、女霧はあわてて舌で拭い取る。
「一つだけ質問したい」
 自爆で挙動不審になっている女霧に、私はできるだけ声を落ち着かせて言う。
「な、なんですか」
「“紫堂茜”、という名前を知ってるか?」
「知りません。知ってたとしても、そのことを言う義理はありません」
 ぷい、とこちらからは目を逸らし、女霧はポケットから取り出したハンカチで手を拭く。
「そうか」
 今の反応。知らないと解釈して間違いないだろう。
 さっきの教室での分かりやすい反応からしても、全く顔色を変えないまま嘘をつく技量があるとは思えない。
 まぁ、一応念のため、
「下剤を使うなら遅効性の方がバレにくいぞ」
「えっ?」
 よし間違いないな。
「じゃあ戻るか」
「ちょっ、何なんですか! 何の意味があるんですか!」
 図書室で紫堂茜の声がした時点で彼女は関与していないと思っていたが、予想通りだったか。立ちくらみはともかくとして、紫堂茜の声を使うとなると、もっと旧校舎になじみの深い人間でなければならない。彼女があそこで死んだことを知っていて、それを怪奇現象に使おうという下卑た発想の持ち主。
「先生! こちらの質問にも答えてください!」
 旧校舎から生徒を遠ざけるために、よりリアリティを持たせるため、か。旧校舎に近付きたがるということは旧校舎に興味があるということ。興味を持って調べれば、そこで誰かが死んだことや死んだ人の名前にも、おのずとたどり着く。つまり旧校舎のことを知れば知るほど、この怪奇トラップは効果を増すという仕組みか……。
「下剤って何なんですか! 私そんなの使ってませんよ!」
 となると怪しいのはこの学校の古株……初老の教師と、教頭……それと校長くらいか。いや待て、部外者の可能性も考えられるな。昨日会った紫堂明良とかいう、胡散臭い刑事。あいつは旧校舎に自由に出入りできるようだし、私達の代の狐憑きのことも知っていた。何気に一番怪しいか……。
「使ったとしてもそんなすぐに分かるようなヘマはしませんから!」
 ……いやいや待て待て。違う、そうじゃない。
 仮に好奇心旺盛な生徒が、紫堂茜の名前までたどり着いたとして、声はどうするんだ? さすがに録音記録はないだろう。あの声が紫堂茜の物と知らなければ、せっかくの仕掛けが意味をなさない。
 そうするとこれは、紫堂茜の声を知っている者がターゲットということになるのか? 古株による古株への嫌がらせ? となると一番可能性があるのは、校長からエセ刑事へのけん制。
 普通に考えて、警察関係者が学校に出入りしているという事実は、校長からすれば不愉快以外の何物でもない。学校の名前を落とすことに直接繋がるのだから。かといって強引に追い出すわけにもいかない。そこで警察の方から自主的に撤退するように仕向けている。
 なるほど……そう考えれば辻褄は合うな。
 つまり私は内輪もめのとばっちりを食らったと。
「先生!」
 勿論まだ可能性の段階を出ないが、今日の放課後はその線で調べてみるか。このままだと、まったり思い出にも浸たれやしない。一番怪しいのは放送室なんだろうが、七ツ橋には何か聞こえたような雰囲気はなかった……。
 トリックでもあるのか……それとも、七ツ橋が聞こえないフリをしているのか……。しかし何のため――
「ひぃ!」
 ん?
 すぐ後ろでした女霧の悲鳴じみた声に、私は思考を中断した。
「どうした」
 振り向くと、何か小さな物体が女霧の足元を通り抜けていくところだった。
 蜘蛛……。
 胴体が大きく足の短い蜘蛛だった。体の色は黒で、腹の部分に鱗のような赤い模様が刻まれている。通称『魚蜘蛛』と呼ばれている、この辺りでは特に珍しくもなんともない種類の蜘蛛だ。旧校舎が山の中に建てられているせいか、私も現役時代は良くお目にかかっていた。自然に囲まれるということは、土地が安い以外に、まぁそういうことでもある。最初は驚くかもしれないが、一年もすれば平気で触れるようになる。
「さ、最近、良く見るんですよね。ちょっと前まではそんな……虫とかも、殆ど見なかったのに」
 どこかの隙間に消えて行った魚蜘蛛のあとをじっと見つめながら、女霧は独り言のように不満を漏らしている。
「なんだ。怖いのか」
「べっ、別に! い、いいいつも儀式に使ってるから、へ、へへ、平気ですよ! い、いーざいりょーになるんですよねー、くもってー」
 七ツ橋みたいな喋り方になってるぞ。
 まぁ女子には少し厳しいかもしれないな。もっとも、紫堂茜は全く気にしていなかったようだが。
「さ、さいきんはほんとー、よくみつかるからー、たすかりますよー」
 最近は、ね……。
 ようやく新校舎のメッキが剥げてきたのか? 旧校舎から離れた場所に建っているとはいえ、都心に比べればここも十分自然に囲まれた場所。虫を全く見かけない時期があったということの方が、私から見れば不自然なんだ。まぁ新築独特の匂いが虫を遠ざけていたんだろうが。
「新築の匂い、ね……」
 そういえば新校舎全体を包んでいる、このオシャレな香の匂い。嗅ぎようによっては、化学的な薬品の香りを感じなくもない。まぁベンゼン系の試薬を芳香化合物というくらいなんだ。良い匂いというのは、そんなものなんだろう。
 そんなことを考えながら、私は女霧とともに教室に戻った。
モドル | ススム | モクジ





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