廃墟オタクは動じない
第六話 『明日は来ないと狐がのたまう』
人から褒められる、というのは決して悪い気分ではない。むしろ何かをするための動機として、これほど分かりやすいものはない。他人に認められたという事実は、自分の器が広がったように感じるからだ。
それは分かっている。分かってはいるのだが……。
「いやー、天草先生が来てからというもの、なんだが雰囲気が変わりましたな!」
全くの無自覚のうちに、周りだけが勝手に盛り上がるというのはどうも、
「まだ三日目だというのに。これからも新しい風は、どんどん取り入れるべきでしょう!」
歯がゆくもあり、
「まさかあの女霧を変えるとは!」
面倒くさくもある。
「ふぅ……」
職員室。
私は苦笑交じりに息を吐きながら、周りに集まってる教師陣から目線を逸らした。
どうやら彼女は、私が考えていた以上に大物だったらしい。
曰く、授業を邪魔されなかったことがない。
曰く、他のクラスにも信者は沢山いる。
曰く、目が合うとその日一日は不幸が続く。
曰く、今の怪奇現象は彼女の力によってむしろ抑えられている。
曰く、精神が新校舎と一体化しており、あらゆる現象を自在に操れる。
……正直、聞くに堪えないおとぎ話だが、真剣に考えている教師もいるという事実がまた笑えない。そういうのは学生の間に卒業しておけ。
あと、女霧を始めとするいわゆる先導者は、生徒らの間では『視える者』と呼ばれているらしい。その『視える者』たちの間でも、女霧は抜きん出た存在だとか、なんだとか。
他にも凝った設定を色々と聞かされたが、もう殆ど忘れてしまった。
まぁ要するに、だ――
「あの授業! 僕は絶対に忘れませんよっ!」
六限目の女霧があまりに無口だった、と。
ただそれだけのことだ。
しかしそれは他の教師からしてみれば衝撃的なことらしく、一体なぜなのかを議論していたら初老の教師が私のことを語った、という流れだ。
結局、あの時女霧を連れ出した時間は十分以上になっていた。だから当然怒られるものと覚悟していたんだが……。
「時には強引な手段も必要ということですかね」
柔和な笑みを浮かべながら、初老の教師は私の前の席で茶を一すすりした。
「これも若さ、ですか。わたしたちでは、こう上手くはいきませんからねぇ」
言いながら他の教師陣の顔を見る。目での問いかけに、次々と頷き返す教師たち。
……どうやら、ここの連中は女霧を絶対的な存在として扱いたがっているようだ。
しかし所詮はまだ一年生。入学して五ヶ月ほど。その偶像崇拝がいかに表面的なものなのかは、五限目の生徒たちの反応を見れば明らかだ。
あの清々しいまでの変わり身。多分、誰でも良かったんだろう。自分以外の誰かがきっかけを作ってくれれば。自分以外のところで根本の責任が生じてくれていれば。
怪談騒ぎで生徒たちが楽しみたいのは、安全な危険、クラスメイトとの一体感、どういうわけか教師すら圧倒してしまう征服感。
そんなところだろう。
かまいたちだか狐憑きだか知らないが、あんなものはきっと自作自演だ。自分の方が恐い目にあっているとアピールしたいだけなんだ。
……まぁ、七ツ橋はそんなことをするように見えないから、彼女の傷だけは気になるんだが……あれは多分――
七ツ橋?
「――いかん!」
七ツ橋の名前が頭をよぎると同時に、私は立ち上がっていた。
「すいません。席をはずします」
言いながら私は誰からの返事も待たずに職員室を出る。
こんな場所で下らない話に付き合っている場合ではない。やるべき重要項目があった。
一年D組。
六限目が終わってから、すでに三十分ほどが過ぎてしまっていた。
私は力任せに教室の扉を開け、七ツ橋の席に視線を叩きつける。
「く……」
しかし彼女はそこにはいなかった。何も置かれていない白い机が、ただ静かに鎮座している。
しまった……完全に私のミスだ。放課後に話を聞かせてくれとお願いしたにもかかわらず、必要以上に待たせてしまったから帰ったんだ。明日一限目が始まる前に来て謝らなければ。
「誰かお探しですか? 先生」
自責の念とともに教室を出ようとした時、後ろから声をかけられた。そちらを振り向く。
女子生徒が三人、教室の隅で固まってこちらを見ていた。特に印象に残っていない顔ぶれ。名前も覚えていない。女霧の儀式の時にいたような……いなかったような……。
「ああ、七ツ橋に用があったんだがな」
何か情報を得られるかもと、とりあえず正直に返す。
「仲いいんですね」
三人のうちの一人――A子が微笑しながら言ってきた。
「七ツ橋さんとはお知り合いだったんですか?」
笑顔を崩すことなく、自然な喋り方で続けるA子。質問の意味が分からず、私は無言で眉間にしわを寄せた。
「だってほら、ねぇ?」
「お昼ご飯も一緒に食べて、帰りも一緒なんて」
A子から話を振られ、隣にいたB子が嬉しそうな口調で答える。
全く身に覚えのない話しだったが、彼女たちが誤解しているということだけは理解できた。恐らく今日の昼休み明けに、二人揃って遅刻してきたことを言っているのだろう。
「偶然だ。それに今日は昼を食っていない」
「えー? 言い訳にしては、ちょっと説得力なくないですかー?」
C子が私と他の二人の顔を見比べるようにしながら、軽い声であおるように言う。
「そーそー、今だって七ツ橋さん探しに来てるし」
「あの子暗いから、絶対そーゆーのないと思ってたのに」
それにかぶせる形でA子とB子が続く。
やれやれ……下らない女子トークが始まってしまった。
「あんまり遅くならないうちに帰れよ」
一方的に会話を切り、私は廊下へと足を進める。
「あー、そーやって逃げるところが怪しいですよ、先生」
「もっと色々聞かせてくださいよー」
「あの子のどこがいいんですか?」
背中に飛び交ってくる実のない言葉の数々。残念がら時間を下水に流すほど暇ではないんだ。今からあのエセ刑事に見つからないように、旧校舎を探索する方法を考えなくては――
「あの子、きっと明日は来ませんよ」
私は足を止めた。
ちょうど体が半分ほど教室から出たタイミングだった。
「多分、ね」
付け足すように言ったA子の言葉が終わるころには、私は再び教室内に向き直っていた。
「どういうことだ」
「さっき帰る時、具合悪そうにしていましたから」
残念そうに言うA子の言葉に、B子とC子が合わせるようにして頷く。
具合が悪い? 少なくとも五限目の時はそんな風には見えなかったぞ。まぁ体調不良など突然やってくることはあるから、何とも言えないが、今はそれよりも――
「どうしてそんなことを言う」
なぜ唐突に話題の方向性を変えたのか、だ。
少しでも私の気を引いて足止めするためか? そんなに他人の事情に首を突っ込みたいのか?
ゴシップネタに飢えた、ただの噂好きな生徒。それだけで終わっていれば、特に気にも留めなかったんだが、今は妙な含みを感じる。悪意に近い何か。勿論、まだそうだと決めつけるのは早いが。
「え? だって、先生が――」
そこまで言ってA子は言葉を止めた。そして細く息を吐き、首をかしげるような仕草をする。
雲間から顔をのぞかせ始めた夕日。その光を背に受けた逆光の中、A子は口元を微笑の形に歪めた。
「先生が――」
口の端は深さを増し、虚仮にするような冷笑へと変わる。胸の前で腕を組み、近くの机に腰を下ろして彼女は不遜な態度で言った。
「ムカツクから」
分厚い感情を内包させた、混じり気のない断定。
明らかに雰囲気が違っていた。
さっきまでの思わせぶりな物言いは鳴りを潜め、曲解しようのない直接的な暴言を浴びせてくる。
「せっかくこっちが楽しんでやってるのに、つまんなく仕切ってくれちゃって。先生もどきの実習生が何様? 新人らしく大人しくできないわけ? シラけんのよ」
なんだ? この変わり方は。一体何でスイッチが入った?
七ツ橋は明日は来ない。その理由を聞いたことか? だったらこいつは七ツ橋に個人的な恨みを? ならこいつらが……?
「ちょ、ちょっとあんた……」
「何言ってんのよ、いきなり……」
B子とC子が慌ててA子の自制を促す。
「なーにイイ子ぶってんのよ。あんただって言ってたじゃない、コイツのこと。“犯罪者予備軍”だって」
据わった目つきでB子を睨みつけながら、A子はケラケラと声を上げて笑う。言われたB子はありありと焦りの表情を浮かべ、私とA子の顔を交互に見ながら後ずさった。
この反応からしても、A子の様子が普段と違うのは明らかだ。そしてクラスの総意に沿っているのはB子の方なんだろう。
――すぐキレる危ない奴とは関わらない。
――二週間の我慢。
恐らく、そういうことで結論づいているはずなんだ。授業風景から察するに。
だがA子は、いわゆる『思っていても言ってはいけないこと』を口にしている。
まるで判断能力を喪失した泥酔者のように。
「おまけにあんな根暗チビとつるんじゃって」
自分の本心を――
「救ってあげてるつもり? 庇おうってわけ。ダッサ」
包み隠すことなく――
「なんかもー、どっかで変なことでもしてんじゃないのー? 出来損ない同士さ」
「オイ」
否応なくフラッシュバックする、かつての記憶。
――『母子家庭ってのは気楽そーだな、えぇ? ムカツク親父がいなくてよ』
ああ……あいつもそうだった。気の合う奴だと思っていた。一緒にいて楽しかった。
――『片親ってことはよ、つまりお前の中身は半分だけってことだろ?』
親友だと思っていた。
だがある時、突然――
――『ま、よーするに出来損ないってわけだ』
「言って良いことと悪いことがある、ってのは知ってるよな。さすがに」
誰にだって触れて欲しくないことの一つや二つある。それを土足で踏みにじった以上、相手には覚悟してもらわなければならないんだ。
「私のことはともかくとして、だ。七ツ橋のどこが出来損ないなんだ? あ?」
例え何をされたとしても、決して文句を言わない覚悟を。
「ハッ、何それ。凄んでるつもり? 危ない目ぇしちゃって。殴れるもんなら殴ってみなさいよ。それでアンタがどうなるか分かってんならね」
――『ほら、殴ってみろよ。この出来損ない!』
ああ、そうかい。お前もこっちが殴れないって思ってんだな? こりゃあいい。
あの時は途中で周りが止めたからあんなモンで済んだが、今回は――
「どこがいい?」
ネクタイを緩め、彼女の体を品定めしながらゆっくりと近づく。
「リクエストに応えてやるよ」
一歩踏み出しただけで他の二人は逃げてしまった。だが残った彼女だけは不敵に構えたまま、動じる気配はない。肝が据わっているのか、どうせ殴れないと決め込んでいるのか。いずれにせよ愚かしいことに変わりはない。
「どこでもいいんだな?」
「顔」
眼前に立った俺に向かって、彼女は短い言葉で吐き捨てるように言った。
「思い切りぶん殴ってみなさいよ。ここを」
そして自らこぶしを作り、軽く頬に当てて見せる。さらにこちらが殴りやすいように、首を軽く傾けて顔を寄せてきた。
どうやら覚悟はできているらしい。
私は無言で手を硬く握りこむ。そして彼女の目を見た。
――何だ。
これだけ至近距離にいるにもかかわらず、こちらを見ていない。目の焦点が合っていないどころか、輝きその物が失われてしまったかのように。うつろな視線は全く方向性を定めることなく、虚空へと投げ出されていた。
同じだと思った。
五年前の時の――あいつの顔つきと、口ぶりと、雰囲気までもが――
「おぉい先生。そりゃあマズいぜ。さすがによ」
頭の中が白み始めた時、後ろから野太い声がした。
「行き過ぎた指導ってやつだ。なぁ?」
どこか人をくったような、無駄に挑発的な口調。
「……なら、逮捕でもしますか?」
「まぁそいつも面白そうだが、今はいいや。まだ色々とやりたいことがあるんでな」
肩越しに声の主を見ながら、私は振り上げていたこぶしを下ろした。
「どちらにせよ、あなたの期待には応えられないと思いますよ」
「この前はいきなりで悪かったよ。すまなかった。謝るからよ」
片目をつむって顔の前で両手を合わせるエセ刑事に、私は大きく息を吸ってため息をつく。
教室の扉に背中を預け、ベージュのトレンチコートを着た厳つい風貌の男が立っていた。気配を断って人の背後から近寄るのが趣味な変態オヤジ。紫堂明良という名前と、警察という職業と、警部補という役職を持っているらしいが、全く信用できない。今は紫色のニットキャップの下にあるが、額に刻まれた深い傷跡が明らかにかたぎではないと告げている。
「どうしてここに?」
さっきまでとは違う神経を尖らせ、私は鬱陶しさをありありと声に乗せて聞いた。
「つれねぇなぁ。あんたを探してたんだよ、天草終一朗先生。今日はあっちの校舎には行かねぇのか?」
「どうしてここが?」
僅かに語感を変えてもう一度聞く。
「さっき二人が血相変えて出て来たからなぁ。そりゃあ気にもなるさ。中で暴力事件が行われていないか、とかな」
B子とC子か。
「運が良かったよ先生。目撃してたのが俺じゃなかったら、今頃大問題だ」
「手を出してはいない」
五秒前だったがな。
「ところが」
火の付いていないタバコをくわえたまま微笑し、エセ刑事は私の方を指差した。いや、指先は私を通り抜けて――
「な……」
突然、体に掛かった重みに、私は反射的に向き直った。
A子が頭から倒れこみ、ぐったりとした様子で私に体を預けていた。両腕は力なくだらりと下がり、糸が切れたように弛緩している。そしてそのまま床に落ちそうになるA子を、私は慌てて支えた。
何だ? 何が起きた? どうして気を失っている? 不意の闖入者のせいで、緊張が一気に解けたからか? いやそれにしても……。
「心配しなさんなよ、先生。すぐに目は覚める」
こちらの胸中を見透かしたように、エセ刑事は面白がるような口調で言ってくる。そして「すりー、つー、わん」と適当なカウントを始めたかと思うと、パチンと指を鳴らした。
「ん……」
その合図に合わせるにようにして、A子の口から声が漏れた。まさか、と思い、私は彼女の体を起こして顔をのぞき込む。
目が合った。
驚愕に見開かれ、はっきりと光を宿した双眸と。
「えっ!?」
跳ね飛ぶようにしてA子は私から体を離し、呆けた表情で辺りを見回す。
「な……な……な……」
そして意味を成さない吃音を並べながら後ずさり、
「えぇ!?」
もう一度声を上げて、恐怖の色に顔を染め上げた。
「連れの二人なら先に帰ったよ、お嬢ちゃん。詳しいことはそっちで聞いてみな」
エセ刑事は柔和な声で諭すように言うと、背もたれにしていた教室の扉を開けて帰宅を促す。A子は無言で何度もうなづくと、私から最大限の距離を取るようにして離れ、壁伝いに回り込む。そして意味不明な声を上げながら廊下へと飛び出した。
「なかなか面白いマジックショーだったろ?」
その様子を見届け、エセ刑事はふふん、と得意げに鼻を鳴らす。
「ま、あんなに上手くいくとは思ってなかったけどなぁ」
そしてA子が出て行った方に視線を流しながら、ゆっくりと扉を閉めた。
簡単には逃がさない、そういう意思表示なんだろう。全くもってぞっとしない。
「さぁて、これで落ち着いて話ができるな。天草終一朗先生」
「とりあえずフルネームで呼ぶの、やめてくれませんか?」
「あんたが心の中で俺のこと、ちゃんと名前で呼んでくれたらやめてやるよ」
……いちいち見透かしたことを言ってくれる奴だ。
「着信前に携帯をとる裏技教えてくれたら考えますよ」
エセ刑事が立っているのとは逆側にある扉に歩を進めながら、私は投げやりな口調で言う。
「紫堂茜」
目の前が突然白くなった気がした。
「知ってるよな。クラスメイトだもんな」
気が付けば足は止まり、体ごと紫堂の方を向いていた。
「じゃあ当然知ってるよな。あいつが死んだことも。五年前に。旧校舎で。図書室でぶっ倒れて」
心臓の鼓動が内側から叩きつけられる。手の平が汗ばんでくる。喉の奥がからからに乾いて張り付く。
「事故死ってことになってるだろ? まぁ客観的に見て妥当な線だと思うよ。遺体に外傷はなかったし、あいつは元々体も弱かったしな。心臓病だったんだよ。虚血性心疾患ってやつでな。じじぃばばぁが良くなるモンなんだが、あいつの場合五歳でやっちまってなぁ。先天性なんだとよ。冠動脈のバイパス手術ってヤツも何度か受けてるんだが、完治ってことにはならなくてな。薬でだましだまし散らしてたんだが……まぁついに来ちまったんだなぁ、お迎えが」
淀みなく喋る紫堂に、私の視線は完全に縫いとめられていた。大きく見開いた目はまばたきを忘れ、表面に痺れたような痛みが走り始める。だがそれでもなお、私は彼への凝視をやめようとは思わなかった。紫堂に対して抱いていたある種の可能性が、事実として頭の中で構築され始めていた。
「世間一般ではそうなってるだろ? つーか、もう世間は覚えてないだろ。こんな辺鄙な高校で起こった事故死なんざ」
覚えている。今でもはっきりと脳裏に映像として焼きついている。
今日の昼休み、その輪郭がさらに鮮明になった。
「けど違うんだよ。これは事故なんかじゃねえ。あれは断じて自然死なんかじゃねぇ」
そう。その通りだ。紫堂茜は――
「殺されたんだ」
殺されたんだ。
「この五年間、俺はずっとあいつを殺した奴を探してる」
ここで。この学校で。
この学校に犯人が――
「茜は俺の娘だ」
聞きたいことが沢山あった。
問い詰めたいことが雪崩のように押し寄せてきた。
色んな言葉が頭の中で渦を巻いて、組み合わさって、変化して――どうして自分が――なぜ今になって――殺されたのは――突然暴言を吐いて――気を失って――狐憑きに?――初めてではない?――こいつは原因を知っているのか――犯人は本当に――紫堂茜――やはり校長が――その名前が出たのは――まさか自分の気持ちが――
「……明日、どうですか?」
結局、最終的に口から出てきたのは、その短い言葉だけだった。
それを聞いただけでは殆ど意味をなさないような。聞きようによって、どうとでも解釈できるような。そんな曖昧で、ぶしつけで、他力本願な言葉。
「ぁあ、いいぜ。明日の放課後、ゆっくりと情報交換といこうや。今日はお疲れみたいだからな、天草先生。場所は旧校舎前でいいか?」
だが紫堂はこちらの意図したことを全て読み取ってくれたようだった。
「えぇ」
私は小さく頷き、教室を出る。
とにかく頭の中を整理したかった。このまま会話を進めても、いいように踊らされるだけだと思った。いや、もう手遅れなのか? 彼の放った釣り針は、すでに心の奥深くまで食い込んで二度と抜けないまでになっている。
なんとなく、そんな気がした。
廊下を歩き、職員室へと向かう。
遠くの方から怒鳴り声のようなものが聞こえた気がした。続けて金切り声、そして何かが壊れるような音。様々な波が重なり合い、ぶつかり合い、物理的な力すら帯びたような烈波となり、放課後の校内を揺さぶっていた。
明らかに普段とは違う、異様な雰囲気。
しかし不思議と気にはならない。脳髄が痺れて、あらゆる感覚が麻痺してしまったような錯覚。いいから今は一人になりたい。
「……」
気が付くと職員室の扉を開けていて、私は自分の机に向かっていた。
誰もいなかった。
見回すまでもなく分かる。物音一つしない。ついさっきまで、それなりの人数がいたはずの空間は完全に静まり返り、無機質な静寂が広がってる。外の喧騒との間に生み出されたコントラストが、どこか滑稽に感じた。
……まぁ、いいか。
まるで他人事のように現状を処理してしまう脳細胞が、少し恐ろしくもあり心強くもある。
「あっ! 天草先生!」
机の下に置いていた鞄を取り上げたところで、後ろから名前を呼ばれた。
「ちょっと手伝って貰えませんか!? 数が多くて! 手が足りないんですよ……!」
何だ? 何の話だ?
「いやー、似たようなことは何度もあるんですが、今回はちょっと……。またこの前みたいに、ビシッと指導してやってくださいよ」
……ああ、例のおかしな儀式のことか。外の騒ぎはそれが原因か。
「一階が多いみたいなんで、一緒に回って貰えますか?」
悪いが今はそんなことをする気分じゃないんだ。
私は近づいてくる声に振り返り、
「天草先せ――」
声の主の顔が引きつった。
「だ、大丈夫、ですか……?」
そして心配そうな表情で聞いてくる。
一瞬、何のことか分からず、私は黙って眉をひそめる。
「顔、蒼白ですよ……?」
帰る前にトイレで鏡を見て納得した。
血の気がないとはこういうことを言うんだろうと、感動すら覚える顔色だった。そんなかつて見たことのない自分の表情があまりに爆笑モノで、逆に平静を取り戻すきっかけになってくれた。
一旦、冷静になると、色んなものが聞こえて見えてきた。
儀式は確かに行われていた。内容に細かな違いはあるものの、数名が集まってヒートアップしているという点は変わらない。
驚いたのは私が紫堂と会話していたすぐ隣の教室でも、それがあったということだ。全く気が付かなかったのは、自らの類まれな集中力の賜物だと言わざるを得ない。
結局、私は儀式の鎮圧には参加せずに帰路に付いた。
建前は体調不良、本音は対岸の火事。
面倒くさい、どうでもいい。
……まぁ、建前の一言で片付けられない程度には疲弊しているようだが。
――殺されたんだ。
紫堂茜は。
そう思っていたはずだった。勿論、確信があるわけではない。だが強くそう思った瞬間もあった。校長のことを疑っていた。
しかし紫堂明良の口からその言葉が出た時、私の胸にあったのは、同じ考えの者がいたことへの安堵でも、真相が分かるかもしれないことへの好奇でもなかった。
得体の知れない不安感。
まるで底の見えない真っ暗な崖を覗き込んでいるかのように、私の意識は冷たい腕で絡め取られていた。
否定の余地が全くない正論を真正面から突きつけられるかもしれない。
紫堂茜の死は事故ではなく、殺人によって引き起こされたものである。その事実を否応なく受け入れなければならない。
そう考えた瞬間、私は紛れもなく立ちすくんだ。
無様な話だ。気持ちの整理をつけると息巻いておきながら、いざその時が迫ると怖くなる。事を曖昧なまま残しておいて、都合のいい解釈で自己満足に浸っていたいと思う。
ようは『逃げ』だ。
紫堂明良が「娘は殺された」と言った時、私は逃げ出したんだ。怖くなって逃げた。保留して、理解を先延ばしにしたんだ。
――紫堂茜は事故で死んだ。
そう無理やり納得することが私の望みなのか……? 旧校舎ではっきりさせたいことなのか? 強引に教育実習生になった理由なのか?
「……まだだ」
まだ結論付けるのは早い。落ち着け。
まだ旧校舎を全部回ったわけじゃない。例えば美術室だ。図書室の真下にある、突然立ち入り禁止になった場所。それに三年の時の自分の教室もまだだ。あいつと殴り合いの喧嘩をした場所。
まだ時間はある。実習期間も半分以上残っている。
決断の先送り。大いに結構じゃないか。ろくに考えもせず、安易に妥協してしまうより余程ましだ。
とにかく明日、紫堂と放課後会うことになっている。それまでにもっと考えを整頓して、聞くべきことをピックアップしなければ。
その前に腹ごしらえだな。
今日は奮発してカップラーメンにもやしを一袋つけよう。値引き品なら二十円くらいで入手できるはずだ。それを電子レンジで調理するとして、もやしに合うカップ麺の味は――
「む?」
胸ポケットからの砂嵐音に、私は思考を中断した。メールを受信したらしい。携帯を取り出し、内容を確認する。
――……
【送信者】:光トカゲ
【件名】:実習三日目お疲れ様です。調子はどうですか?
【本文】:
旧校舎めぐりは順調ですか? 教育実習は楽しめてますか? 体調はいかがですか?
教師や生徒、色んな人がいると思います。変わった性格の人や、強引な人もいると思います。少しくらい嫌なことがあっても、気を落とさずにがんばりましょう。みんな色々事情かあると思うので、もう少しお話すれば分かり合えるかもしれませんよ。
……――
……なんだ、この哀れみと同情に満ちた文面は。まるで私の教育実習が上手くいっていないみたいではないか。
……まぁ、決して胸を張れる状況でもないが。確かに、変な奴や強引な奴は沢山いるからな。
しかし鋭いと言うか何と言うか。前回のメールでは、ただの入力ミスかと思っていたが、今回のメールもまるで私のことを見ているかのような内容だな。考えすぎだとは思うが。
まぁ一歩引いて読めば、当たり障りのない挨拶文にも取れるしな。
ただ、やはり一箇所引っかかる。
『もう少しお話すれば分かり合えるかもしれませんよ』
この“もう少し”という表現。
すでにある程度会話が進んでいるのは知っていて、あともう一押しすれば事態は好転するかも、とアドバイスしているように取れる。
もしこの“もう少し”がなければ、特に気にも留めないメールだが、妙に引っかかる。
このタイミングで受信したからか?
――明日、紫堂明良と会話すると約束した直後だから?
……仮に、だ。もしも仮に、『光トカゲ』が紫堂明良だとする。
彼は私を夕霧高校に呼ぶため、ネットで餌をまいた。
彼は教育実習中ずっと私を監視しており、それを臭わせるメールを送って逃げられないぞと暗示している。
彼は明日の話し合いで私からより多くの情報を引き出すため、アドバイスするフリをしてこんなメールを出している。
……。
……よし。
「考えすぎだな」
一連の思考を振り払い、私はメールに返信する。
――……
【送信者】:廃墟定食
【件名】:Re:実習三日目お疲れ様です。調子はどうですか?
【本文】:
わたしはとってもげんきです。
……――
送信、と……。
「ふぅ」
と、息を吐き、私は携帯を閉じる。
カップラーメンの味はサバミソに決めた。
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