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ファントム・クライム

《我は十人目の管理者なり。一ヶ月以内に、空位となった紅坂久遠の座を我に渡すべし。我が要求を素直に受け入れる場合は、紅坂久遠のIDとパスワードをこのメールアドレスまで返信せよ。要求を無視した場合、『ナイン・ゴッズ』は崩壊する》

「……で、お前の方はどんな感じや。何か進展あったか?」
 穏やかな海辺の景色が映し出された丸いガラステーブルに片肘を付き、夜崎倖介は面倒臭そうな表情でサングラスの位置を直した。
 腰まで伸ばした長い黒髪。皺の寄った黒いウールズボンと、地肌の上に直接まとった白いカッターシャツ。怠惰で横柄な雰囲気を醸し出しているこの男は、超巨大仮想空間『ナイン・ゴッズ』の管理者の一人。
「残念ながら」
 その向かいに座った九綾寺水鈴は、注文したパープルティーを一口含んで静かに返す。
 肩口で切り揃えた茶色のストレートヘアー。完璧にコーディネートされた蒼のスーツ。
 倖介とは対照的に、気品と風格に満ちたこの女性も管理者の一人だ。
「なぁー、水鈴ー。俺こんなしょーもないトラブルに構ってる暇ないんやけど……」
 重力緩和装置の内蔵された椅子に背中を預け、倖介は店内を浮遊している小型のビジョン・スフィアに目を向けた。淡い白に輝く球面には、露出度の高い水着を着た美女の立体画像が映し出されている。
「トラブルにしょーもないもしょーもなくないもありません。『ナイン・ゴッズ』を管理する者として全力で当たるべきです。それにコレはテロ行為の宣言です。軽視はできません」
 毅然とした態度を崩すことなく、水鈴は二重の大きな目に底知れぬやる気を漲らせて言い切った。
「テロの一つや二つほっといたらええやん。たまには何か事件でもあったほーが、プレヤーかて喜ぶやろ」
「いいえ。そういう訳にはいきません。政府の威信に関わってきます。それにまだ規模は小さいとは言え、この犯行声明を送りつけてきた犯人の仕業らしきトラブルが起こっています」
 ――『ナイン・ゴッズ』が崩壊する。
 そんな挑発的な内容のメールが、倖介の元に直接送られてきたのが今から一週間前。それ以来、一部のエリアで思考具現化端末デモンズ・グリッドの調子がおかしくなったり、コンプリートしたはずのクエストがコンプリート扱いになっていなかったり、デバイスの内容が変わっていたりと様々なトラブルが立て続けに起こっている。
 だが『ナイン・ゴッズ』は、今や人間とミュータントの両方が利用できるようになったバーチャルワールドだ。それに二十時間以上ログインしている者の数も六割を上回った。これだけの利用者と利用率が揃えば、それこそ数え切れないほどの異端分子が生まれたとしても不思議なことではない。むしろ当然と言える。
「こんなん他の管理者に任せといたらええやん。なんで俺が自分の管理者補佐システム・エージェント出さなあかんねん。おかけで仕事全然でけへんわ」
 紅坂久遠が謎の失踪を遂げてからというもの、このドーム内での最高責任者は暫定的に倖介となった。かつて久遠の右腕として働き、管理者歴が最も長いというのがその理由だ。
 だから倖介には最も重要な仕事が割り振られている。
 管理者を管理するという仕事が。
「夜崎さんの所にメールが届いたからです。自分のことを自分でするのは当たり前でしょう。それに――」
 パープルティーの注がれたカップを音も立てずにテーブルに置き、水鈴は目を細めて鋭い眼光で倖介を射抜いた。
「女性管理者だけを集中的に監視するとはどうかと思いますが」
「な、何ゆーとんねん。俺はか弱い女性を優先して保護するためにやなぁー……」
「女の尻を追いかけ回しているようにしか見えませんが」
「そ、そら偏見ゆーもんやで。俺は常に紳士な気持ちで……」
「管理者は『ナイン・ゴッズ』内では無敵です。それにアレはあくまでもバーチャル体。リアル体が女性だとは限りませんよ」
 管理者や管理者補佐システム・エージェント達の接点は基本的に『ナイン・ゴッズ』の中にしかない。
 理由は極めて単純。知る必要がないからだ。
 会話は勿論のこと、食事や睡眠までもが『ナイン・ゴッズ』の中でできるようになってきた今の時代。すべてがバーチャル世界の情報だけで事足りる。『ナイン・ゴッズ』はドーム内に住む者にとって、生活の一部と言うよりは生活その物だ。
 それでもリアル世界に価値を見出すとすれば、デジタルでは表現しきれない微妙な人肌の温もりや、『ナイン・ゴッズ』内では遮断される痛覚といった部分にだろうか。
「フ……心配せんでええ。俺の最高権限使ってちゃーんとホームアドレスは割り出しとる。顔も確認済みや」
 倖介はツヤのある黒髪を自慢げに掻き上げながら、気取った様子で鼻を鳴らす。
「今の言葉、ちゃんとレコードしておきましたので。今度の定例会議で議題の一つにしましょう」
「水鈴ちゃーん。軽いジョークやんかぁー」
 泣きそうな声で水鈴にすがりつく倖介。
「同じ事です。最高責任者である以上、軽はずみな言動は大問題です」
「……ホンマ頭の固い女やで。ンなことやから『ピンピン・ミドル』なんかゆーニックネーム付けられんねん……」
「それは夜崎さんが広めた物でしょう!」
 強化曲面窓ガラスの外を見ながらぼやく倖介に、水鈴はダン! とテーブルに拳を叩き付けて声を荒げた。店内にいた客全員の集中がコチラに向けられる。
 確かに、『ピンピン・ミドル』というニックネームは倖介が最初につけた物だ。水鈴がいつもトゲトゲしていて、三十過ぎても独り身《ピン》であるということに由来する。
「ま、まぁ、そんなこともあったなぁ……」
 ハハハ、と誤魔化し笑いを浮かべながら、倖介は巡回していたキューブ型サービスロボットのタッチパネルを操作して食べ物を注文した。
「夜崎さん。私は、この犯人がブラック・スキームを書き換えられる者だと見ています」
 咳払いを一つして水鈴は自分を落ち着かせると、真剣な表情になって話を進める。
「夜崎さんの所に直接メールを送信できたことといい、トラブルの内容といい、私達管理者のサーチをかいくぐる技能といい、少なくとも一般的なユーザーの行為ではありません。『ナイン・ゴッズ』についてかなりの知識を持ったクラッカーか、あるいは特殊なデバイスを手に入れた者の仕業だとしか……」
 『ナイン・ゴッズ』におけるバーチャル体の『存在』その物を制御するブラック・スキーム。外見や基本的なステータスを制御するレッド/ブルー・スキームと違い、ソレを書き換えられるということは、最悪の場合ロスト――すなわち『ナイン・ゴッズ』内での消滅を意味する。
 故にブラック・スキームを書き換えられる権限は管理者と管理者補佐システム・エージェントにしか与えられていない。
「いくら何でも、そら考えすぎやろ。俺にメール送るくらい可愛い女の子やったら誰でもできるで」
「真面目に答えてください」
 倖介の目をジッと見つめ、水鈴は声のトーンを下げて言う。
「あー、せやったら真剣に答えたるわ。この手の愉快犯ゆーんはしょーもない自己顕示欲満たしたいだけやねん。せやから俺らが派手に動いたら動いただけ犯人は喜びよる。向こうからしてみたら管理者を手玉にとっとる訳やらな。はっきりゆーて今俺らがやっとることは逆効果や」
「なら、どうすれば良いんですか?」
「なーんもせん」
 神妙な顔で聞く水鈴に、倖介はサービスロボットから納豆茶漬けを受け取りながら返した。
「何も、しない……?」
「せや。何もせん。ほんで向こうが痺れきらして、俺らの目の前に出てきたところをドツく。それで一件落着や」
「出て来るという保証は?」
「約束の一ヶ月経ってもコッチが犯人の要求のまへんかったら、何かのアクション起こしてきよるやろ。出てけーへんかっても足跡くらいは残すはずや。そっからも一回調査し直したらええ。っちゅーより、そっちの方が効率的や」
 ずずず、と音を立てて茶漬けの湯だけをすすりながら、倖介は淡々と話す。
「その時には手遅れになっていたら?」
「その辺のプレイヤー一人になにビビってんねん。久遠やったらともかく、『ナイン・ゴッズ』壊すなんちゅー大それた真似できる訳ないやろ。俺でもできんのに」
「ではもし仮に、紅坂久遠が関与していたとしたら?」
 水鈴の言葉に、納豆茶漬けをかき込んでいた倖介の手が止まった。そして湯気で曇ったサングラスを外し、カッターシャツの袖で拭いてもう一度掛け直す。
「紅坂久遠は以前、一般のミュータントに特殊なデバイスと管理者権限を与えて駒として使っていたことがありました。もし、今回もソレと同じ手口だとしたら」
 三年前、久遠は漣鏡一朗というミュータントに『ソウル・ブレイカー』という凶悪なデバイスを使わせ、『ナイン・ゴッズ』内でプレイヤー・キラーをさせていた。
 『ソウル・ブレイカー』の効力はブラック・スキームの抹消。ソレに伴う痛覚情報の付加とリアル体への情報フィードバック。
 すなわち、『ソウル・ブレイカー』でバーチャル体を殺された者はリアル世界でも死を遂げることになる。
「……それこそ考えすぎや。今さらンなことして久遠に何のメリットがあるゆーねん」
「復讐。自分の計画を破綻させられたことへの。だから全てを壊す」
「ガキやあるまいし……。大体今のドームの環境は久遠の思い通りに進んどる。なんでわざわざ邪魔すんねん」
「しかしソレは紅坂久遠が理想とした環境ではない」
 久遠が提唱していた『リバース・アピス計画』。
 ソレはドーム内の住人全てを『ナイン・ゴッズ』に用意された超巨大仮想大陸『アピス』に移り住まわせること。そして自分だけの独裁による、自分だけの王国を築き上げること。
 だが久遠はもう一人の同類に破れ、計画は破綻した。しかし、今のドームの現状を見ると『ナイン・ゴッズ』に住人全員が移住するのも時間の問題だ。
「ほんならなんで久遠が自分のIDとパス知りたがっとんねん。おかしいやんけ。それに管理者モードでログインするんやったらソレ以外にいるモンあるやろ」
 言いながら倖介は自分の人差し指を振って強調した。
 管理者モードで『ナイン・ゴッズ』に入るには、IDと三つのパスワード、ソレにマスターキーという人差し指からの生体情報が必要になってくる。
「ソレ知らんゆーことはド素人の証拠や。気にすることない」
「ですが……」
「ホンマ心配性なやっちゃのー」
 納豆茶漬けを奇麗に平らげ、倖介は嘆息混じりに胃の中の空気を外に出す。
「ンなことやから『ブルー・チキン』なんかゆーニックネームで呼ばれんねん……」
「ソレもアンタが広めた物だろーが!」
 ガガン! とガラステーブルを下から蹴り上げ、水鈴は声を張り上げた。
 『ブルー・チキン』というニックネームは、水鈴がいつも着ている蒼いスーツに青ざめた表情を掛け、そこに臆病者《チキン》であるという意味合いを加えて付けた物だ。
「そ、そーやったかなぁ……はは、は……」
 語調の変わった水鈴に心底怯えながら、倖介は冷や汗を拭って返す。
「そ、そんなに心配なんやったら、もーアイツの手ぇ借りるしかないんちゃうか? アイツの電子トラップやったら何とかなるやろ」
 倖介の言葉に水鈴の顔が強ばった。
 まるで痛い所を指摘されたかのように。
「……コレは私達政府の仕事です。民間の者に助けを求めるのはどうかと」
「アイツかて管理者や」
「しかし正規ではありません」
「正規やろうとはぐれやろうと同じや。管理者権限持っとることには変わらん。しかも俺らなんかよりはずっと長いこと管理者やっとった。久遠と一緒にな。俺らの知らん『ナイン・ゴッズ』の細かいトコまでよー知っとるかもな」
 言われて水鈴は口ごもる。
 そして倖介から視線を逸らし、戸惑いの色を浮かべながら窓の外に視線を向けた。
「……なんや、お前らケンカでもしたんかい。仲良さそうに見えたけどな」
「べ、別にそんなんじゃありません。わ、私は単に……」
 意外そうに聞く倖介に水鈴は少し顔を赤らめ、普段見せないような恥じらいの表情で熱っぽい息を吐く。そんな水鈴を見て倖介はイヤらしく顔を歪め、粘着質な視線を絡みつかせた。
「単に、なんや?」
「た、単に……」
 からかうような倖介の口調。ソレに煽られる形で水鈴は更に顔を朱に染め上げていく。
「た、単に、私の管理者としてのプライドが許さないだけです!」
 大きな目を一層大きくして、水鈴は半ば自棄気味に叫んだ。
「ちょ、お、おま……! 声デカ……!」
 突然の水鈴のカミングアウトに、周囲からの視線が再び集中する。
 『ナイン・ゴッズ』で絶対的な力を誇る管理者とは言え、リアル体では一般人と変わらない。管理者というクラスがバレれば、ソレを欲しがる輩が実力行使に出てくるかもしれない。
 管理者や管理者補佐システム・エージェントが、基本的に『ナイン・ゴッズ』でしか接点を持たないのはそういう不測の事態を避けるためでもある。
「ま、まー、アレやなー。おさわりバーの管理者ママも大変やなー」
「誰がだ!」
 水鈴を強引に立たせ、倖介は乾いた笑いを浮かべながら半弧状に湾曲したサービスカウンターまで行く。
「そんな目くじら立てて怒らんでもー、今日は俺が同伴出勤したるからなー」
「気易く触るな!」
 そして円錐状にせり出した銀色の突起を握り締め、フィンガー・クレジットで会計をすませると、そそくさと店を出た。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: A地区 マンション自室 PM3:56■
「あークソー! また負けたー!」
 頭に付けたアクセスバンドを八つ当たり気味に壁へ投げ付け、うがー! とわめき散らしながら沙耶はソファーの上で力一杯飛び跳ねた。
 ボブカットに切り揃えた黒髪と、白の絹糸で羽根の線画が刺繍された紅い着物がフワフワと舞う。
「あーあー、沙耶。落ち着いて落ち着いてー。下の階の方にご迷惑ですからー」
 座敷わらしを彷彿とさせる沙耶の小さな体を抱きかかえ、神薙秋雪は駄々っ子をあやすかのように彼女の背中を優しく叩いてやる。
「ええぃ離さんか秋雪! ワシを子供扱いするでない!」
「じゃ、じゃあもう暴れたりしませんか?」
 眉に掛かる程度に伸ばした自分の銀髪を掴んで叫ぶ沙耶に、秋雪は鈍色の瞳を痛そうに瞑りながら聞いた。
「……分かった。もう暴れん。じゃから離してくれ」
「はいはい」
 唇を尖らせて不満げに漏らす沙耶をゆっくりとソファーの上に戻し、秋雪はついさっきまで『ナイン・ゴッズ』に接続されていたノート型のログイン端末に目をやる。
「またこのクエストに挑戦してたんですか。頑張りますねー」
 そして履歴の内容を見て、感心したような声を上げた。
 沙耶が挑んでいたのは『真の覇者』というタイトルのクエスト。
 クエスト内容は至って単純。プレヤー同士が一対一で戦う勝ち抜き戦だ。
 バトルタワーと呼ばれる五階層の塔に入った時点でクエストのエントリーがなされ、定員数が規定値となると塔の門が閉じる。続いてサーバーがランダムで対戦相手を決めて行き、最後まで勝ち残った者には思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクアップポイントと、特殊デバイスが与えられる。
「でも沙耶、まだちょっと早いんじゃないですか? もう少し簡単なクエストで思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクを上げてからの方が……」
「イヤじゃ! ワシは今すぐに勝ちたい!」 
 ソファーの上で大きなあくびをしていた白と黄色の縞柄模様の仔猫――シロキー――を抱きかかえ、沙耶はふくれっ面になって憮然と返す。ちなみにシロキーというのは『白黄』をそのまま読んだだけだ。
「でも……」
 沙耶が持っている思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクはE。
 辛うじて最低のFではないものの、まだまだ低い部類に入る。それに沙耶は自分の持っているデバイスを完全には使いこなせていない。思考具現化端末デモンズ・グリッドも沙耶自身も経験不足だ。なのにどうしてそれ程までに……。
「そんなに欲しいんですか? この特殊デバイス」
 沙耶の向かいにある、光を内部に固定化させた椅子に腰掛けながら、秋雪は優しい声で聞いた。
 『真の覇者』をクエスト・コンプリートした者に送られるのは、特殊デバイス『ボディ・エクスチェンジ』。『ナイン・ゴッズ』内で自分の体型を自由に変えられるデバイスだ。
 どちらかというとレアアイテムで、リアル世界でもそれなりに高額で取り引きされてはいるが、本当に姿を変えられるだけのアイテムで、プレイヤーの強さには全く影響しない。
 実用性というよりは、趣味の分野に特化したデバイスだ。
「べ、別にそんな物が目当てなのではない! どうしても勝ちたいヤツがおるだけじゃ!」
 シロキーが苦しそうな声を上げるのも構わずに胸の中できつく抱きしめ、沙耶はムキになって声を荒げる。
(分かり易いですね……)
 苦笑しながら秋雪は椅子から立ち上がり、沙耶の隣りに腰掛けた。そしてシロキーを救出し、柔和な笑みを浮かべながら続ける。
「僕が取ってきてあげましょうか?」
 沙耶がこうやってムキになっている時は嘘を付いていることの方が多い。
 どういう理由かは知らないが、何としてでも『ボティ・エクスチェンジ』を手に入れたいのだろう。秋雪自身あまり戦闘は好きではないが、沙耶のためとあらば話は別だ。持ちうる技術を全て使って全力を尽くす。
「い、いらん! 秋雪に助けて貰っては意味がない!」
 しかし沙耶はソレを拒否すると、秋雪からシロキーを取り上げた。そしてソファーから飛び降り、リビングを出て行ってしまう。
「そう、ですか……」
 音もなくスライドして閉まるベッドルームのドアを呆然と見ながら、秋雪は誰に言うでもなく呟いた。
(女の人の心は分かりませんね……)
 外見だけで年齢を判断するならば十歳くらいの幼女なのだが、沙耶はミュータントだ。あの大きさで成人しているということも十分に考えられる。本当は自分より年上だという可能性すらある。
「うーん……」
 呻りながら銀髪をいじり、秋雪は所在なさげに視線を室内に泳がせた。
 出窓に置かれた、局所重力反転装置を用いて下から上へと流れ上がる虹色の小さな滝。中空に浮遊し、窓から差し込む光量を自動計算して室内の明るさを一定に保つライティング・スフィア。壁に直接埋め込まれた大型の立体ビジョンモニター。エントランスとリビングの間に置かれているのは、時間と共に葉の色を変えていく観葉植物。
 ――静かだ。
 自分の部屋だというのに妙に落ち着かない。
 沙耶という騒音と激情の塊のような存在がいなくなってしまうだけで、こんなにも雰囲気が変わってしまう物なのか。
「やれやれ……」
 秋雪は溜息混じりに漏らし、さっきまで沙耶が座っていた場所に移動する。そして改めてノート型のログイン端末のモニターを見た。そして慣れた手つきでコンソールを操作し、画面の内容を別の物に切り替える。

【ハンドルネーム:サヤ
 思考具現化端末デモンズ・グリッドランク:E
 保持デバイス:"Huge_Flame"[ヒュージ・フレイム]、"Clear_Blade"[クリア・ブレード]、"Rock_Wall"[ロック・ウォール]。
 ライフポイント:4633。
 最終コンディション:強制ログアウト
 ○詳細:クエスト『真の覇者』での敗北。勝ち抜き数は四人】

(四人……)
 モニターに映し出された数字を見て、秋雪は大きく目を見開いた。
 『真の覇者』をクエスト・コンプリートするために勝ち抜かなければならないプレイヤーの数は五人。つまり、沙耶は決勝ラウンドまで進んでいたことになる。そしてそこで惜しくも敗退した。
(頑張ってるじゃないですか)
 自分は少し沙耶のことを過小評価していたようだ。
 いつの間にか沙耶はデバイスを使いこなし、思考具現化端末デモンズ・グリッドのランク以上の力を発揮できている。自分よりランクが上のプレイヤー相手に勝利を収めているのが何よりの証拠だ。
 秋雪はログに保存されている沙耶の戦歴を見ながら、感心したように何度も頷いた。
 一戦目はランクD、二戦目と三戦目はランクEだが、四戦目はランクCだ。
 大した物だ。自分より二つもランクが上のプレイヤーに勝つなど。地形を上手く利用し、数少ないデバイスを色々と組み合わせたのだろう。
 なら沙耶が最後で勝てなかったのはそれ以上のランクのプレイヤーということなのか?
(……ん?)
 履歴の最後に出てきたランクを見て、秋雪は眉を顰めた。
(ランクF?)
 それは思考具現化端末デモンズ・グリッドにおける最低ランク。
 最初から持ち込めるデバイスの数は一つだけ。後はその場でサーバーからダウンロードしなければならない。しかも処理速度は最低でダウンロード速度も遅く、アクセスできるサーバーもレベルの低い物でしかない。
 そんな初心者に沙耶が負けた? そもそもランクFなどで『真の覇者』の決勝ラウンドまで勝ち進めるものなのか? 沙耶が二つ上のランクのプレイヤーに勝てたくらいだから、不可能ではないのだろうが……。
(調べてみるか)
 ソファーに座り直し、秋雪は目を細めてモニターに集中した。
 沙耶がログアウトしてきた時、『“また”負けた』と言っていた。単に『真の覇者』で何度もしくじっているだけだとも考えられるが、その後『どうしても勝ちたいヤツがいる』とも言っていた。
 沙耶はムキになるとすぐに嘘を付く癖がある。
 だから口から出任せで適当に言ったという可能性の方が高いが――
(同じヤツ、か……)
 端末の中に残っていた沙耶に関するデータ。その中から今回のように強制ログアウトを受けた履歴だけを抽出してみると、見事に『真の覇者』での敗北だけが記されていた。
 沙耶は一回戦で負けることもよくあるが、決勝まで行った時には必ず同じIDのプレイヤーに負けている。ランクはやはりFだ。
 コイツがどれだけの戦闘テクニックを持っているかは実際に戦ってみないと分からない。だがソレ以前に不審な点が多い。
 まず、どうして一つのクエストを何度もコンプリートするのか。
 決勝まで行った沙耶に毎回勝っているのだ。つまり、少なくとも沙耶に勝った回数だけ『真の覇者』をコンプリートしているということなる。しかし二回目からは特殊デバイスは貰えない上に、手に入るランクアップポイントも通常の十分の一になってしまう。これは一人のプレイヤーが一つのクエストを独占してしまわないようにするための措置だ。
 次に、どうやって毎回沙耶と決勝で当たることができるのか。
 恐らく、一回たりとも逃すことなく『真の覇者』に参加し、その全ておいて決勝まで駒を進めているのだろう。ランクFでそこまでやるだけでも神業なのに、途中まったく沙耶と当たることなく、決勝ラウンドでのみ当たる確率となると天文学的に低くなる。
 最後に、どうして管理者や管理者補佐システム・エージェントから警告が出されていないのか。
 このプレイヤーのしていることは殆ど嫌がらせに近い。確かにルール違反をしているわけではないが、こういうマナーの悪いプレイヤーは大抵通報される。そして行動を限定され、このエリアには近づけないようにされるか、最悪の場合IDを剥奪されることもある。
 しかし沙耶の敗戦歴を見る限り、期間にして二ヶ月以上、回数にして十回以上はこの行為を続けていることになる。管理者サイドの反応があまりに遅い。
(けど……)
 もし仮に、このプレイヤーが管理者側の干渉を無効化することができるとすれば? もし仮に、『真の覇者』の決勝ラウンドのみ参加することができるとすれば?
 例えば、ブラック・スキームを書き換えて――
「……秋雪。そこで何をしておる?」
「え?」
 突然、ベッドルームの方から聞こえてきた声に秋雪は反射的に顔を向けた。ソコには暗いオーラを身に纏い、ジト目でコチラを睨み付けている沙耶の姿。
「い、いヤ、ソの、コレはデスね……」
「……ワシの端末をイジって何を見ているのかと聞いておる」
 シロキーを頭の上に乗せたまま、沙耶はしゃがれた声でユックリと歩み寄って来る。
「え、えーっと……あーそうそう! この前、沙耶のために買ってきた洋服! また着る気になってくれましたか?」
「質問に答えんかー!」
 沙耶の強烈なドロップキックが、秋雪の顔面に突き刺さった。

 赤くなった鼻をさすりながら、秋雪はA地区のメイン・ストリートを一人トボトボと歩いていた。ドームの天蓋に貼り付けられたウェザー・シートが夕暮れの情報を映し出し、尖塔の如くそびえ立つビルの外壁に茜色の光を落としている。
 ――勿論、秋雪の背中にも。
(女の人って、ホント気難しいですね……)
 ヒーリング・レイが内蔵された街灯の横を通り抜け、秋雪は足下の発光歩道を何とはなしに見つめる。
 自分は沙耶のためを思って行動しているのに、どうしていつも裏目に出てしまうのだろう。少し前に洋服を買っ帰った時もそうだ。
 いつも同じような和風の着物だけでは飽きるだろうと思って、自分なりに気を利かせたつもりだったのだが……。しかも給料の一ヶ月分を丸々つぎ込んだ上質の生地の。
 なのに沙耶は一度着たきりで、二度と着てくれなくなった。
(まぁ、ちょっと間の悪い奴が出てきたのが全部悪いんだけど……)
 沙耶も最初は嬉しそうにしていた。秋雪が買ってくれた物とあって、喜んで着てくれた。そして二人で一緒に散歩に出かけた。
 マンションから歩いて数分。
 ソコでなぜか夜崎倖介に出会った。
 倖介は洋服姿の沙耶を見るなり、両目に大粒の涙を浮かべて――大爆笑しやがったのだ。
 それから沙耶は絶対に洋服を着てくれなくなった。
(オノレ……)
 鼻に皺を寄せ、秋雪はジーンズのポケットに入れた拳を固く握りしめる。
(あのバカ、もし今度会ったら――メイン・ストリートのド真ん中で裸踊りさせてやる……!)
 あの時は沙耶のご機嫌を取るので頭がいっぱいだった。笑い転げる倖介に気を割く余裕などなかった。しかし、次に会ったら自分の持つオリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドで――
「あ、あら。神薙君」
 目の前から、鈴を鳴らしたような奇麗な声で自分の名前を呼ばれた。
「へ?」
 少し俯き加減で歩いていた秋雪は、慌てて顔を上げる。
「こ、こんなトコで会うなんて。奇遇じゃない」
 ソコにいたのは自分の会社の副社長であり、直属の上司であり、そして『ナイン・ゴッズ』の管理者の一人だった。
「九綾寺さん……」
 セミロングに伸ばした光沢のある栗色の髪を風に靡かせながら、九綾寺水鈴は腕組みして秋雪の前に立っていた。休日であるにも関わらず、体にフィットとしたタイトなブルースーツを来てるところは、さすが三十二歳という若年で副社長にまで上り詰めたヤリ手のキャリアウーマンといったところか。
「一人でお出かけ? 沙耶ちゃんは?」
 水鈴はドコかぎこちない喋り方で聞いてくる。
 顔色が妙に紅く見えるのは、夕日の光を浴びているせいだろうか。
「……ハハ。それが、ちょっと今ご機嫌斜めでして……。どうやって挽回しようか考えていたところです」
「そうなの。貴方も色々と大変ね」
「いや、九綾寺さんほどじゃないですけどね」
 曖昧に笑いながら、秋雪は銀髪を撫でつけた。
 水鈴とこんなにフランクに話せるようになったのは最近のことだ。
 三年前の久遠失踪事件以来、自分の中にいた刃というもう一つの人格を気に入ってしまった水鈴は、何かにつけて秋雪を飲みに誘った。そして刃のことを色々と聞いてきた。
 だが、水鈴が気に入っているのは好戦的で自信に満ちあふれた刃であり、保守的で優柔不断な自分ではない。だから周りからは親しげに接しているようには見えても、自分は何かすれ違いのようなモノを感じていた。少なくとも秋雪はそうだった。
 しかしここ半年くらい、水鈴の接し方が変わった。忙しくなって飲みに行く回数は減ったが、刃よりも秋雪本人について触れることが多くなってきた。
 休日は何をして過ごしているのか、趣味は何なのかといった当たり障りのない物から、沙耶との関係はどうなのか、久遠のことを今ではどう思っているのかなど少し突っ込んだことまで。
 かつて水鈴から感じていた刺々しい雰囲気はすっかりなりを潜め、今や何でも話せる気さくな上司になりつつある。
「お休みなのにお仕事ですか?」
「まぁ、ね。副社長と管理者の兼任は楽じゃないわ」
 立体ホログラムによって、色鮮やかな花々が形作られている擬似花壇。その縁に腰掛けながら、水鈴は含み笑いを漏らして言った。
「僕もできる限りサポートしますよ。お役に立てるかは分かりませんけど」
 水鈴の隣りに腰を下ろし、秋雪は黒いタートルネックの襟元を少し直す。
「貴方はちゃんと役立ってくれてるわ。夜崎さんなんかよりよっぽど、ね」
 コチラに目だけを向け、水鈴は苦笑混じりに言った。
「夜崎、ね……。でも、アイツが九綾寺さんを管理者に推薦してくれたんでしょ?」
 急にイヤなヤツの名前が出て半眼になりながらも、秋雪は気を取り直して聞く。
 水鈴の今のハンドルネームはロゼ。かつて漣鏡一朗というミュータントが持っていた管理者のIDだ。しかし彼は久遠に利用するだけ利用されて――消された。
 適格者がなかなか見つからず、空位となっていた管理者の座に水鈴が抜擢されたのが今から一年ほど前だ。倖介の力によって。
 そう言えば、どういう理由で推薦されたのか聞いていない。飲みに行った時は水鈴が一方的に秋雪のことを聞いてくるので、水鈴本人の話は殆どしない。やはり卓越した個人能力を買われたのだろうか。
「推薦って言うか……厄介払いって言うか……」
 風に揺れる髪を手で梳いて横顔をコチラに向け、水鈴は笑みを零しながら続けた。
「ほら、私って昔は夜崎さんの管理者補佐システム・エージェントやってたでしょ。それで夜崎さんの仕事手伝いながら、『ナイン・ゴッズ』の環境についても色々と提案とかしてたのよ。もっとみんなが気持ちよく使えるようにするにはどうすればいいだとか、不正なアクセスをなくすためにはドコのセキュリティーを固めるべきだとか、まぁ会社の仕事の延長みたいなノリでね」
 実に仕事熱心な水鈴らしいと、秋雪は感心しながら頷く。
「そしたら、さ。ある時急にキレられて。『ほんならお前やれや!』って。その一声で私は管理者になれちゃったってわけ。笑えるでしょ?」
「……は?」
 倖介の喋り方を真似して言う水鈴に、秋雪は放心して虚ろな視線を向けた。
「……ホントに、ソレ、だけですか?」
「そうよ。ソレだけ」
 信じられない。無茶苦茶にも程がある。
 そんないい加減な男が今のドームの最高責任者かと思うとゾッとする。
「ま、夜崎さんの気まぐれのおかげで私は副社長に就任。神薙君も私の専属の秘書になったからお給料アップ。そういう意味じゃ、あの人のいい加減さには感謝しないといけないんだけどねー」
「……ちょっと複雑な気分ですね」
 水鈴と秋雪の勤める会社は『ナイン・ゴッズ』を介して様々なサービスをプレイヤー達に提供している。だから『ナイン・ゴッズ』内でのランクは、直接会社の地位に反映される。
 管理者と言えば、ランクSの思考具現化端末デモンズ・グリッドを保有する存在。
 就任が世襲制になってる社長にはなれなかったものの、会社における最終的な決定権は殆ど副社長の水鈴にあると言っても過言ではない。
「ねぇ、神薙君」
 水鈴は秋雪から目を逸らして前に向き直り、神妙な顔付きになって続けた。
「もし仮に、とある人から無茶な要求があって、でもその要求は飲めなくて、なんとか別の手段で解決しようとするんだけど思うように事が運ばない時、貴方ならどうする?」
「……『ナイン・ゴッズ』でまたトラブルでもあったんですか?」
「仮の話よ。仮の」
 水鈴は気軽そうに言って片眉を上げて見せる。
 言われたことが曖昧過ぎて詳しくは分からないが、今喋った内容が仮などではなく水鈴が抱えているトラブルの一つだということは分かる。
「僕も手伝いますよ」
「貴方の仕事は?」
「……九綾寺さんの秘書」
 間髪入れずに聞き返してきた水鈴に、秋雪は納得行かない声で答える。
「正解。明後日からまたバリバリ働いて貰うから、今の内に鋭気養っておきなさい。それに、貴方には沙耶ちゃんのご機嫌取りっていう大切な仕事があるでしょ」
「はぁ……まぁ……」
 明るく言って笑う水鈴に、秋雪はそれ以上何も返せなかった。
 確かに、沙耶を今のまま放置して別のことに専念などしたら、しばらく口を聞いて貰えなくなるかもしれない。ソレだけで済めばいいが、『目ンたまグルグルのパー』の刑に処される恐れもある。
「で、どう? さっき言った仮のトラブル、貴方ならどう対処する?」
「そうですねぇ……」
 視線を少し下げ、自分のスニーカーを見つめながら秋雪は頭をひねった。
 実務で役に立てないなら、何か知恵を絞り出さなければならない。
「要求の内容をもう少し詳しく教えていただけますか?」
「期間以内にある物をよこせ」
「でもソレができなくて、しかも犯人はどこにも見つからない。そういうことですね?」
「まぁね」
 なるほど。だんだんトラブルの全容が見えてきた。
「何もせずに待つ、っていうのも一つの手ですね。相手にアクションを起こさせて何かの手掛かり残させる」
「夜崎さんと同じ意見ね」
 口元に手を当てて笑う水鈴に、秋雪はムッとした顔を向けた。
 気に入らない。自分が倖介と同レベルなどとは。
 認めない。沙耶をバカにしたヤツと同じ発想などとは。
「そうですね――」
 目を細め、秋雪は頭をフル回転させる。
「もし仮に、そのトラブルが『ナイン・ゴッズ』で起こっているモノだとして、犯人が管理者のサーチにも引っかからないとすれば……」
 自分に説明するように言いながら低い声で呻った。そしてついさっき考えていたことが脳裏によぎる。
「相手はブラック・スキームを書き換えられるのかもしれませんね。つまり、管理者補佐システム・エージェントか、あるいは管理者本人なのか、もしくは……」
「ブラック・スキームを書き換えられるようなデバイスを手に入れたプレイヤーなのか、ね」
 水鈴も同じ考えだったのか、秋雪の言葉に繋げるようにして言った。
 ブラック・スキームは『存在』を現す。一般プレイヤーがサーチから逃れるには、ブラック・スキームを強固なレッド/ブルー・スキームで覆うしかない。
 しかし、ブラック・スキームその物を書き換えられるとすれば話は別だ。理論的には管理者のサーチにも引っかからないように改造することもできる。だがそのためには管理者のサーチの特性について余程詳しく知っていなければならない。
「九綾寺さん。やっぱり僕も協力しますよ。僕の電子トラップなら捕まえられるかも。何か要求してきたってことは、犯人とコチラの接点はあるんでしょう? ソレを教えてください。ソコから犯人のIDくらいすぐに割り出してやりますよ」
 ハンドルネーム『レノンザード』の管理者権限を使って。
 秋雪は未だ『ナイン・ゴッズ』の管理者の一人として残されている。ただし非公式の。
 どうしてこんな中途半端な状態で放置しているのか、倖介に聞いたことがある。
 返ってきた答えはいたって単純。

『久遠のアホが帰ってきた時、そばにおれるんはお前くらいなモンやろ』

 だから管理者として拘束はしない。その時が来たらすぐに動けるように。
 だから管理者の権限は取り上げない。久遠と同じステータスを維持するために。
 オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドを持つ『ナイン・ゴッズ』の管理者。ソレが久遠の近くにいるための必要条件。
 倖介はそう考えたらしい。
 気が利き過ぎているのか、最初から大きく的が外れているのか。
 どちらにせよ、秋雪がソレを拒絶する理由はどこにもなかった。
「気持ちだけで十分よ。管理者歴は私の方が浅いけど、すぐに追いついてみせるわ。だからこのくらいのトラブルさっさと解決しないとね」
 水鈴はプライドの高い女性だ。思ったように事が運ばないからといって、すぐに誰かを頼るようなことはしない。
 それに秋雪にはかつて、水鈴のプライドを粉々にしたという前科がある。そのことが彼女を意地にさせているのだろう。
「……じゃあ一つだけ」
 しかしそれでは自分の気が収まらない。水鈴には色々と世話になっている。せめてアドバイスくらいは残したい。
「サーチレベルを下げてみてください」
「え?」
 秋雪の言葉に、水鈴は意外そうな顔でコチラを見た。
「管理者のサーチは最高クラスでどんなモノでも見つかるように思いがちですが、意外と穴はあります。バクなのか、ありとあらゆる物をサーチできるようにした弊害なのかは分かりませんが、あまりに重要度の低い情報は自動的に排除されるようになってるみたいなんです。ですから、サーチレベルを管理者クラスから一般プレイヤークラスに……そうですねランクFかEくらいに落としてもう一度探してみると何か見つかるかもしれません」
 水鈴は軽く頷きながら、秋雪の話を熱心に聞いている。
 透明感のある澄み切った双眸には、水鈴が滅多に見せない尊敬の光が灯っているように見えた。
「少しはお役に立てましたか?」
 話し終えて聞く秋雪に、水鈴は弾かれたように顔を上げ、恥ずかしそうに咳払いして口を開いた。
「さ、さすが、『ナイン・ゴッズ』で随一の電子トラップの使い手と言われただけのことはあるわね」
「それはどうも」
「ありがとう。さっそく試してみるわ」
 言いながら水鈴は擬似花壇の縁から腰を上げる。そして蒼いスーツの皺を伸ばし、毅然とした態度でコチラを見ながら続けた。
「それじゃあ私からも一つアドバイスをあげるわ」
「へ?」
「女ってね、ホント些細なことで怒ったり意地になったりするものなのよ。でも些細なことだからって軽く見ちゃダメ。放っておくと取り返しが付かないくらいこじれてるかもしれないわ。だからできるだけ早く気付いて、原因を取り除いてあげて。沙耶ちゃんがどうして機嫌悪いのかは知らないけど、そうやって感情を表に出してくれてるだけありがたいと思いなさい。管理者の中には根暗で何考えてるのか分からない人とかもいるけど、そんなのに比べたら遙かにマシよ」
 完全に自分の上司に戻り、水鈴は上から目線で断定的に言ってくる。
 一瞬、水鈴自身のことを言っているのかと思ってしまった。ひょっとすると遠回しにSOSを投げかけてきているのだろうか。自分は今意地になっているから、もっと強引に『ぜひ協力させてください!』と言って欲しがっている? ココで出会ったのも偶然ではなく、トラブルのことを相談するために自分のマンションに向かっていたから?
(……まさか、な)
 胸中で小さく笑みを零し、秋雪はその考えを振り払った。
 水鈴は強い女性だ。そんな彼女が簡単に弱音を吐くはずがない。
「分かりました。僕の方も頑張ってサーチしてみます」
 冗談交じりに言う秋雪に、水鈴は微笑して返した。
「じゃあね。有意義な時間をありがとう」
「いえ、そんな。とんでもないです」
 踵を返し、高いヒールを鳴らしながら去っていく水鈴の背中は、相変わらず自信と威厳に満ち満ちている。人の上に立つ者としての貫禄が、熱いオーラとなって滲み出ているようにも見えた。
(僕も頑張らないとな)
 水鈴の後ろ姿を見ているだけでそんな気にさせられる。
 一日でも早く知らなければならない。沙耶が『真の覇者』に固執する理由を。二ヶ月前に何があったのかを。沙耶の機嫌が悪くなり始めたのはこの頃からだ。そしてそのクエストで負けが込み始めて、ますます不機嫌になった。
(二ヶ月前、ね……)
 茜から緋色へと。朱を濃くしていくウェザー・シートを見上げながら、秋雪は自分の記憶を探った。
 二ヶ月前。その時に、いつもとは違った何かが起こった? 普段はしない何かをした?
 こうして改めて考えてみると、ありとあらゆることが怪しく思えてくる。
 いつもより朝ご飯が美味しくできなかった気もするし、仕事が忙しくて帰りが遅かったような気もする。沙耶の飼っているシロキーの機嫌が妙に悪かった気もするし、『ナイン・ゴッズ』で別のクエストをミスしていたような覚えもある。
(些細なこと……)
 ソレを考え始めるときりがない。ならもう少し絞り込むしかない。
 例え同じ些細なことであっても重要度に違いはあるはず。何とかソレを元にフィルタリングして候補を絞りこなまいと。
 今の沙耶により直接的に関係していること。クエスト『真の覇者』により関連性の高い物。
 何だ、ソレは。
 思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクか? ランクEであることに負い目を感じている? もっと強くなりたいと思っている? だったら別に『真の覇者』にこだわる必要は全くない。ランクアップポイントを稼ぐのに適したクエストは、他に沢山ある。
 なら、あのランクFのプレイヤーにどうしても勝ちたいのだろうか? 自分より下のランクの者に負けてしまったことが余程悔しいのか? それならば納得できる。負けん気の強い沙耶だ。意地になるのは分かる。
 しかし期間があまりに長すぎる。
 沙耶は熱しやすく冷めやすい。だから二、三日頑固になって、何も受け付けなくなることはあっても、二ヶ月もの間ソレが続いたことはかつてない。つまり、ただ負け続けたからというだけではなく、何か他に理由があるのだろう。
 例えば、そのプレイヤーから酷く腹の立つ挑発を受けたとか、大切にしていたデバイスを奪われたとか、あるいはもっと素直に――
(あ……)
 どうして忘れていたのだろう。あまりに腹立たしいことと重なってしまったために、忘却の彼方へと葬り去ってしまいたかったのだろうか。
(まさか……)
 繋がる。そういうことであれば一応繋がる。
 いや、間違いない。それ以外に考えられない。
(分かった……分かりましたよ沙耶!)
 メイン・ストリート脇の発光歩道で一人、右腕を高々と掲げながら、秋雪は自分が取るべき明確なる道筋を見出していた。

 ――On Line――
■Viewer Name: 九綾寺水鈴 Place: アピス・シティ PM6:56■
 『ナイン・ゴッズ』に用意された中心都市、アピス・シティ。そこは文明の異常発達した常闇の大都市。最上階が見えないほどに高く長く伸びた円柱型の建造物が、重力の束縛を無視して幾本も乱立している。
 その間を縫うようにして空中に敷かれたスカイ・ウェイを歩きながら、水鈴は秋雪からのアドバイス通りサーチレベルを落として周りを探っていた。
(ま、こんなモンよね……)
 そのあまりに程度の低い情報の質と量の少なさに、思わず溜息が出る。
 今、水鈴の目に見えているのはプレイヤーのIDとハンドルネーム、それと建造物やクエストの基本的な情報くらいだ。視界に映っているプレイヤーの思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクさえ、ろくに知ることができない。
(落としすぎたかしらね……)
 ランクC以上のプレイヤーのサーチレベルに合わせ直そうとして、水鈴は思いとどまる。
 秋雪がアドバイスしてくれたのはランクFかEだ。もう少しこのまま探してみよう。すぐに元に戻してしまっては、これまでと同じだ。もう少し秋雪を信じて頑張ってみよう。
(にしても……)
 先程、秋雪が自分にアドバイスしてくれていた時の顔を思い出しながら、水鈴はどこか嬉しそうに微笑する。
(男の子の顔になってきたじゃない)
 中途採用で初めて会った時に見た、頼りなく捕らえどころのない茫漠とした雰囲気は、今の秋雪には殆ど感じない。陰惨な過去と決別し、守るべき者をはっきりと自覚した男の顔になりつつある。

『九綾寺さん。やっぱり僕も協力しますよ』

 この言葉を聞いた時、正直嬉しかった。一瞬、決意がグラつきそうになった。

『犯人のIDくらいすぐに割り出してやりますよ』

 実に頼もしい言葉だ。あの時の秋雪の目からは確かな決意が汲み取れた。
 しかし秋雪の手を借りるまでもなく、水鈴はすでに送られてきたメールから犯人のIDは割り出せている。そしてIDさえ分かれば、『ナイン・ゴッズ』のどこにいようと管理者の権限でサーチできる。
 だが見つからないのだ。
 どういう訳かは知らないが、すでに削除扱いになっている。IDその物がなくなってしまっているのだ。これでは仮に久遠のIDとパスを犯人に教えようとしても、情報は送信できずに戻って来てしまう。
 分からない。犯人が一体何をしたいのか。コチラに何をして欲しいのか。
 倖介の言うとおり、単なる愉快犯だと割り切ってしまうのも一つの手かもしれない。しかしIDを消してしまう、もしくは管理者側に消えたと思い込ませるなどという芸当、そう簡単に出来る物ではない。
 これは単なる愉快犯などではない。もっと高域の策謀が関与している。
 そして、水鈴の中ではすでに犯人の目星はついている。
(葛城那緒……ハンドルネーム、ブラッド……)
 久遠の管理者補佐システム・エージェントであり、オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドによって生み出された擬似生命体。
 彼女なら当然、ブラック・スキームも書き換えられるし、IDを一時的に消したり、消去されたメールアドレスから情報を引き出したりすることもできるかもしれない。それになにより、十分すぎるほどの動機がある。
 葛城那緒にとって、自分の創造主である紅坂久遠は絶対的な存在。そして久遠が作り上げた『ナイン・ゴッズ』という超巨大仮想空間と、ソレを使って実現させようとした理想世界も。
 しかし、今ではもうソレを再び軌道に乗せるのは難しくなった。久遠は秋雪に敗れてしまったのだから。なら、もう用はない。そして要らなくなった物は壊す。
 恐らくコレは那緒の独断だ。だから久遠のIDとパスを欲している。そして久遠が生み出した那緒は、久遠と同じマスターキーを持っているのかもしれない。
 仮説が多いが、そう考えれば全てに置いて辻褄が合ってくる。
(させない……)
 そんなことは。絶対に。
 久遠のIDとパスを要求してくるということは、裏を返せばソレがなければ次の行動に移れないということ。なら時間はまだある。
 『ナイン・ゴッズ』の管理を他の六人の管理者に任せ、自分と倖介の二人で犯人の割り出しに専念すればきっと見つけられるはずだ。
 ――秋雪の手を借りなくても。
「何、やってんのかしらね……」
 アピス・シティの真上にある暗い空を見上げながら、水鈴は溜息混じりに呟いた。その小さな声が、クエストを求めてプレゼンテーション・エリアに集まるプレイヤー達の声に混じってかき消される。
 どうして最初から秋雪を頼らないのだろう。彼のサーチ技術は他の管理者とは比較にならない。秋雪の電子トラップを使えば、自分では見つけられない犯人もすぐに捕まえられるかもしれないのに。
 管理者としての責任感? 上司としての意地? 副社長としてのプライド?
 確かにそういう意味合いも少なからずあるだろう。だが、そんな格好の良いものだけではない。
 なぜなら自分は迷いつつも、秋雪に助けを求めて彼のマンションに足を向けていたのだから。
 ばったり出くわした時には本当に驚いた。不意打ちでも食らった気分だ。
 心の準備ができていなかったから、あやうく本音で話しそうになった。なんとか理性で食い止めたが。
(私もまだまだね……)
 水鈴はどこか落ち着かない様子で周りに視線をやる。何人かでパーティーを組んだプレイヤー達が、テレポート・ゲートをくぐってアピス・シティを出ていくのが見えた。水鈴も何となくソチラに足を向ける。
 最近、秋雪の顔付きに刃の表情が混じることが増えてきた。
 刃――それは秋雪の中の凶暴性だけを集めて生み出したもう一人の人格。両親をミュータントに殺された秋雪の精神が崩壊してしまわないよう、あえて憎まれ続けることで生きる糧を与えた偽悪者。
 水鈴は、そんな刃にある種の特別な感情を寄せていた。
 そこまで身を削って秋雪に献身できる刃と自分を比べて、まるで悲劇のヒロインでも気取っていた自分の思い上がりをへし折られた。
 ソレは一つの言葉だけでは語り尽くせない複雑な感情。
 憧憬、羨望、畏怖、安寧、瓦解。
 正と負のありとあらゆる思いをない交ぜにした何か。今は水鈴自身、上手く言い表すことができない。
 だが、刃の顔を見せる秋雪と長く話し続けてきて、彼を一人前の男して見ている自分がいる。足りていない部分を彼に補って欲しいと思っている自分がいる。
 ――恋心。
 このことを誰かに打ち明ければ、自分の気持ちの正体はソレだということを言われるだろう。しかしそんな単純な物ではない。そんな簡単に割り切って言えるようなことではないのだが――
(ま、それもあるんでしょうね)
 否定はしない。
 いくつもの気持ちの一つが恋心だということは、多分当たっている。
 だから素直になれない。他の感情が――責任感や意地やプライドといった、水鈴がこれまでずっと抱き続けてきた感情が邪魔しているから。
 リアル世界の仕事で秋雪を当てにし、プライベートでのお酒にも付き合わせ、その上『ナイン・ゴッズ』のトラブルまでも秋雪に助けを求めてしまうと、自分はますます秋雪依存症になってしまう。
 ソレは決して悪い感情ではなく、むしろ早くソレを受け入れろという自分もいるのだが、今までベースとなってきた人格の方がまだ勝っている。理性がなんとか感情を支配している。
(時間の問題かもね……)
 感情が理性を上回るのが。
 水鈴は苦笑しながら、薄暗い闇の中に立てかけられた何も映さない姿鏡の前に立った。

【ようこそ。テレポート先を指定してください】

 そして思考具現化端末デモンズ・グリッドからテレポート先を入力する。行き先は犯人の仕業だと思われるトラブルが起きた場所。コンプリートしたのにコンプリート扱いにならないクエストのあるエリア。
(我ながら呑気だわ)
 自嘲めいた笑みを漏らしながら、水鈴は砂漠エリアの映し出された姿鏡に身を沈ませる。すぐに睡魔にも似た浮遊感が体を包み、気が付くとオアシスが近くにある砂漠の中心地帯に移動していた。
 今、自分は秋雪のアドバイスに従い、サーチレベルを落として再調査している。極めて地味で地道な作業を繰り返している。
 もっと多くの管理者を掛ければ効率よくできるかもしれないのに、倖介にやる気を出させるのが先かもしれないのに、秋雪の手を借りれば即解決するかもしれないのに。
 ――『ナイン・ゴッズ』が崩壊する。
 極めて低いとはいえ、その可能性が僅かでもあるというのにどうして自分はこれほど落ち着いているのだろう。なぜもっと躍起になって探そうとしないのだろう。
 そういう意味では、自分はこの状況を軽く見ているのかもしれない。
 『ナイン・ゴッズ』の崩壊など起こりうるはずがない。どうせ下らないイタズラだと決めつけているのかもしれない。
 焦ったところで事態が好転するはずもない。
 そう言いきるのは簡単だ。しかし実際はなかなかできない。
 余程大きな後ろ盾でもない限りは。
(やっぱり、神薙君なんでしょーね……)
 嘆息しながら誰もいない砂漠エリアで、水鈴は一人思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げる。
 肌に突き刺さるような灼熱の太陽をバックに、厚みを持たない黒い半透明のモニターがすぐ隣りに現れた。

【アシスト・デバイス "Blue_Eyes"[ブルー・アイズ]を常駐。ターゲットを指定してください】

 モニターに無機質な白い文字でそう記された次の瞬間、水鈴の視界が緑に染まり、黄色の線が格子状に走る。そして自分の視線の動きに合わせて移動する紅い光点を移動させ、オアシスで行われているクエストに合わせた。そしてその内容のサーチを開始する。
 サーチレベルを落としているせいか、結果が表示されるまでも時間がかかる。
 その間を埋めるようにして、秋雪の顔がまた頭に浮かんだ。
 ――神薙秋雪。
 彼の存在があるからこそ、自分はこうして落ち着いていられる。緊急時かもしれないというのに、下らない意地やプライドを掲げていられる。
 最悪の事態になったとしても、きっと秋雪が何とかしてくれる。オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドを持つ彼なら、きっと力になってくれる。
 何の根拠もなく水鈴にはそう思えていた。そして妙な安心感を得られた。
 水鈴にとって今や秋雪という男の存在は、安住の地になりつつある。
 本当にどうしようもなくなった時、自分は絶対秋雪に頼り切ってしまう。刃のような頼もしさを持ち始めた彼に依存してしまう。だから、せめてそれまでは……。

【クエスト名:『灼熱の守護神』
 クエスト内容:砂漠エリアに潜む守護神を見つけ出して勝利すること。
 コンプリート・ボーナス:ランクアップポイント五万、ソード・デバイス"Killing_Chaser"[キリング・チェイサー]、裏クエスト『地下聖地の財宝』への挑戦権】

 思考具現化端末デモンズ・グリッドに表示され始めたサーチ結果に、水鈴は思考を中断して顔を上げた。そしてモニターの内容に見入る。

【クエスト作成日:D6623/11/25
 クエスト最終更新日:D6623/11/25
 クエスト作成者:マオル】

(また、『マオル』……)
 最後に現れた名前を見て、水鈴は訝しげに目を細めた。
 マオル、それは夜崎倖介のハンドルネーム。
 彼の名前がココにあるのは当然のことだ。クエストは管理者が作成するのだから。水鈴も『ロゼ』の名前で多くのクエストを生み出してきた。倖介のように単純明快で戦闘中心の物ではなく、知性を必要とする沢山の解決手段を用意した内容の物を。
(これで五つ目……)
 水鈴はモニターの内容に、目を鋭くして思慮深げな視線を向けた。
 マオルの文字がココにあるのは何も不思議なことではない。しかし、今再調査に掛けている、犯人が関わったと思われるクエストやデバイスの情報の殆どにこの名前があると、さすがに違和感がある。
 秋雪の言うとおり、管理者のサーチモードではクエストの作成日、最終更新日、作成者に関する情報は得られなかった。あったのかもしれないが、他の膨大な情報に埋もれて目に入らなかった。
(他のも確認する必要があるわね)
 意外な所で見つかった犯人への手掛かり。倖介にも話を聞いてみる必要がある。何か自分に隠していることがあるかもしれない。
 まさか自作自演などということはないとは思うが……。
 トラブル解決へ一歩進んだことへの充足感と、身近な物への不安感を胸に抱いて、水鈴は他のエリアへ移動した。

■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: バーチャル・ブティック『ローレライ』 PM10:32■
 『ナイン・ゴッズ』内でも、かなり先進した文明の部類に入るシティ・エリア。ソコにあるブティック『ローレライ』。そこは怪しげな光彩色の壁で円形に切り取られた、独自性溢れる空間。
 店主から渡された洋服を手に、秋雪は満足気に顔を緩ませていた。
(素晴らしい!)
 黄色いフリルを花弁に見立て、全体でヒマワリを表現した洋服を優勝トロフィーのように高々と掲げながら、秋雪は思わず鼻息を荒くする。
「お気に召されましたか?」
「勿論です!」
 モノクルを付けた執事風の老人からの問い掛けに、秋雪は大声で返した。周りにいたプレイヤー達から不審な視線を向けられるのも構わずに、熱の籠もった目で洋服を見ながら何度も頷いている。
「それではコチラ、バーチャル化料金になります。ご確認下さい」
 店主の言葉と同時に、目の前の空間に現れた文字を見て秋雪は目を丸くした。
 ソコに記された金額は、一ヶ月の給料の半分以上。しかしソレも仕方のないこと。洋服を構成していた糸の一本一本に至るまで丁寧にバーチャル化して貰ったのだから。
(間違ってない! 僕は正しい!)
 自分に言い聞かせるように胸中で叫びながら、秋雪は店主からのお礼の言葉を背中にブティックを出た。そして持っていた洋服に圧縮を掛けて一時的に手元から消す。
 沙耶が『真の覇者』に固執し始めた理由。二ヶ月前に起きた普段とは違うこと。秋雪が思いついたのはこの洋服のことだった。
 二ヶ月前、秋雪は明るく快活な沙耶に似合うだろうと思ってこの洋服を買った。そして散歩に出て倖介に大爆笑され、二度と着てくれなくなった。そのことがあまりに忌々しくて、極力思い出さないようにしていた。だからこんなに印象的なことだったのに、今の今まで結び付けられなかった。いや、結びつけたくなかった。
 だが水鈴と話をして少し頭が冷めた。
 確かその直後くらいだ。シロキーと戯れていることの多い沙耶が、『ナイン・ゴッズ』にやたらと没頭しだしたのは。『真の覇者』にこだわり始めたのは。

『秋雪に助けて貰っては意味がない!』

 沙耶は一人だけでやり遂げたがっていた。つまり、自分には内緒で何かをしたいのだろう。『真の覇者』を密かにコンプリートして手に入れたい物があるのだろう。
 ――『ボティ・エクスチェンジ』
 『ナイン・ゴッズ』内で自分の体型を自在に変えることの出来る特殊デバイス。
 沙耶はきっと、秋雪の買った洋服を『ナイン・ゴッズ』で着るつもりなのだ。『ボティ・エクスチェンジ』で洋服が似合う体型になって、倖介に見せつけるつもりなのだ。
 そういうことなら話は繋がる。自分に内緒でやりたがっている理由も分かる。
 もし言えば、手伝うと言われるのは分かっているから。
 しかしソレでは意味がない。自分一人の力で倖介を見返さなければ意味がない。
 沙耶とはそういう女性だ。
 だから秋雪は、沙耶が無事『真の覇者』をコンプリートした時に備えて、早々と洋服をリアルからバーチャルへと移しておいた。
 お金さえ出せば、リアルの物は殆どバーチャルに移行できる。なぜならバーチャル世界は全てが数値だけで構成された空間なのだから。
 専用の機械で洋服の情報を数値化すれば、アイテムと一つとして持ち込むことが可能だ。今回は洋服を忠実に再現するため、構成している糸を全てほどいて完璧に数値化して貰った。おかげでかなり手痛い出費をくらった上に、リアル世界での洋服は失われしまったが、ソレに見合うだけの物は出来た。
 バーチャル世界ならサイズの変更くらいは容易だ。沙耶がどんなプロポーションを選ぼうとも柔軟に対応できる。さらに、洋服のデータを圧縮して手元から無くすこともできれば、ソレを解凍して再び出現させることもできる。
 これで沙耶を驚かせる準備は整った。後は、沙耶が無事『真の覇者』をコンプリートしてくれることを祈るだけなのだが……。
(ココ、か……)
 シティ・エリアを抜け、青々とした草原地帯に敷かれた街道を歩くこと約二十分。
 無骨な岩肌に囲まれた五階層の塔がコチラを見下ろしていた。黒光りする正六角形の外壁で構成されたこの塔の名前は『バトルタワー』。
 クエスト『真の覇者』が行われる場所だ。
 正面に見える鉄製の頑丈な扉をくぐった時点で、このクエストにエントリーしたと見なされ、サーバーが指定したプレイヤーとの勝ち抜き戦が始まる。
 時間は無制限で、どちらかのライフポイントがなくなった時点で終了。そして負けた者は強制ログアウトさせられる。この処理をすることで死亡判定とはならず、次のログイン時のライフポイントが一桁になる以外は何のペナルティもない。だから負けを気にすることなく何度でも挑める。
(なるほど、ね……)
 思考具現化端末デモンズ・グリッドで『真の覇者』の基本情報を読み取り、秋雪は納得したように軽く頷いた。
 このクエストの作成者はマオル。つまり夜崎倖介だ。ムカツク奴だが、こういう後腐れのない処理の仕方は実にアイツらしい。水鈴が管理者になる前のロゼとは大違いだ。
 秋雪は少し口の端をつり上げながら、バトルタワーの門扉をくぐった。
 全く視界の利かない真っ暗な中、秋雪の体だけにスポットライトが浴びせられる。

【ハンドルネーム:フォールスノー
 思考具現化端末デモンズ・グリッドランク:D
 保持デバイス:"Cosmic_Layer"[コズミック・レイヤー]、"Marvelous_Magnum"[マーベラス・マグナム]、"Gravity_Ruler"[グラビティ・ルーラー] "Another_Gaze"[アナザー・ゲイズ]
 ライフポイント:8513】

 続けて秋雪のステータスが読み上げられ、周りの色が蒼く染まった。

【種別『一般プレイヤー』。適合と見なしクエストへの参加を許可します。
 エントリー者が揃うまでしばらくお待ち下さい。
 なお、このエリアはログアウト可能です。バトルが始まる前であれば、いつでも退場できます】

 抑揚のない機械音声が終えると、突然視界が開けた。
 秋雪が立っていたのは、むせ返るような熱気が立ちこめる火山エリア。どんなプログラムを組んでいるのかは知らないが、バトルタワーの外観から想像できる広さを遙かに上回っている。ココが第一回戦の場所らしい。しかし相手はまだいない。
 『真の覇者』は五回戦までの勝ち抜き戦。つまり、三十二人のプレイヤーが集まるまで待機しなければならない。
 中空に浮かぶようにして存在するカウンターが示しているのは二十九の数字。あと三人だ。
(多分、何とかなる、はず……)
 手頃な岩に腰掛け、秋雪は細く息を吐きながら集中力を高めていった。そしてこれから始まるバトルへのイメージトレーニングを開始する。こういう荒っぽいことは久しぶりだからかなり体はなまっているはず。それに今は一般プレイヤー。少しでも気を抜けば負けてしまう。
 秋雪が持っているIDは二つだ。
 一つは管理者『レノンザード』のID。そしてもう一つは管理者権限を用いて作成した即席のID、ハンドルネームは『フォールスノー』。思考具現化端末デモンズ・グリッドのランクはD。
 このIDは元々自分が管理者であることを隠すために作った物だ。『ナイン・ゴッズ』で必要最低限のことができればそれで良かった。だからあまり成長はさせていない。
 コレでどこまで勝ち抜いていけるかは分からないが、贅沢は言っていられない。管理者のIDが使えない以上、選択の余地はないのだから。
 管理者は『ナイン・ゴッズ』を管理するのが仕事だ。楽しむのが目的でない。だからクエストに参加できない。考えてみれば至極当然のルールだ。そのために管理者には特別な権限が与えられている。
(スイマセンね、沙耶……)
 秋雪は圧縮していた洋服を再び解凍し、その肌触りを確かめながら沙耶に懺悔した。
 沙耶は自分の力を借りずに一人でやると言った。だからできればその考えを貫かせてあげたい。自分はただ見守ることに徹していたい。 
 しかし、このクエストは少し妙だ。不可解な点が多すぎる。
 管理者による管理ができていないのか、すぐれた技術を持つプレイヤーが悪巧みを働いているのかは分からないが、とにかく普通ではない。
 確認する必要がある。このクエストの中身を。そして、例のランクFのプレイヤーの正体を。
 そう、ただ確認するだけだ。別に自分がこのクエストをコンプリートして、沙耶に『ボティ・エクスチェンジ』を渡すわけではない。断じて違う。ソレは絶対にない。
(……まぁ)
 ……もし仮に、事が偶然上手く運んで、たまたまコンプリートして、知らぬ間に『ボティ・エクスチェンジ』を手に入れてしまったら、自分ではないもう一人の自分がそっと沙耶に渡している可能性がなくはないかもしれないが……。
 この洋服を着て嬉しそうに遊び回る沙耶の姿を想像しながら、秋雪は一人で幸せな気分に浸りきっていた。
 今のところ、沙耶の行動は完璧に把握できている。この時間に沙耶が『ナイン・ゴッズ』にログインしてきて、ばったり鉢合わせなどということは起こり得ない。
 なぜなら沙耶は今、リアル世界のベッドの中でシロキーと一緒に上機嫌で寝てるはずなのだから。
 水鈴と別れた後、秋雪はシロキーの餌として超高級キャットフードを買って帰った。ソレを口にした瞬間、尻尾を高々と立て、甘い声で鳴きながら頬ずりしてくるシロキー。そしてそんな超機嫌のシロキーを見て頬の緩む沙耶。
 『将を得るには馬を射よ』
 ヘソを曲げた沙耶本人を直接なだめても効果は薄い。ならば、沙耶が毎日可愛がっているシロキーを懐柔すれば。
(フ……ちょろいモンですよ)
 昔は色々と苦労したが、最近はだんだんと沙耶のご機嫌取りも上手くなってきた。水鈴の下で長年積んできた下っ端キャリアは伊達ではない。
 自虐的に口の端をつり上げながらも、秋雪が誇らしげな顔でいると、突然頭上から機械音声が振ってきた。

【プレイヤー、全員揃いました。
 クエスト『真の覇者』スタートです。持ちうる限りの力を出し切って頑張って下さい】

 声が止んだと思った直後、秋雪から少し離れた場所に、タンクトップとカーゴパンツを身に付けた性格の軽そうな女性が現れる。
(久しぶりのバトル、か)
 自分の知りたいことを確かめるには決勝ラウンドまで残らなくてはならない。こんな所でやられるわけにはいかない。
(絶対に、勝ち残ってやる)
 どこか好戦的な表情で顔を引き締めながら、秋雪は思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げた。



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