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ファントム・クライム

 ――Off Line――
■Viewer Name: 九綾寺水鈴 Place: 政府官邸 AM10:22■
 徹夜で『ナイン・ゴッズ』での確認作業を終え、ログアウトしたのが今から一時間ほど前。それから熱いシャワーを浴びて軽く食事をし、仮眠を取ろうかと思った時、水鈴のイヤリング型携帯電話が着信を告げた。
 相手は倖介。
 重大な相談があるから今すぐ自分の仕事部屋まで来て欲しいと言うのだ。
 眠かったがタイミング的には丁度良い。自分の方も倖介に聞きたいことがあった。
 例の犯人が原因と思われるトラブル。その元をたどっていくと、なぜか倖介が作ったクエストやデバイスに行きあたる。もはや偶然の一致と呼べるレベルではない。明らかに意図的に仕組まれた物だ。
「……九綾寺水鈴です」
 倖介の仕事場となっている政府官邸。その一番奥まった場所ある、ドクロのペイントが施された大きなドア。水鈴のDNAをセンサーで感知し、真上にスライドしたソレをくぐると中は別世界。
 かつて久遠がココにいた時には、インテリアなど何もないひたすらに白い空間だったらしいが、今では何に使うか分からないゴミで溢れ返っていた。
「よう来たな、水鈴」
 宙に浮かんだウォーターベッドの端に腰掛け、倖介はいつになく神妙な面もちで話しかけてきた。
「俺がお前になに相談したいか、もう分かっとるやろ」
「……ええ、まぁ」
 ベッドから飛び降り、壁に掛けていたクラシックギターを爪弾きながら倖介は言う。弦が緩いせいか変な音しかでない。
「実に……実に深刻な問題なんや」
「……ですね」
 自動的に足元へと戻るボールを壁に向かって蹴りつける倖介に、水鈴はどこか突き放したような口調で返した。
「なぁ、何でこないなことになっとるんやと思う?」
 水鈴は何も言わない。ただココに来るまでに見てきた凄惨な光景を思い返して、痛みを増していく頭を押さえ付ける。
「何で……何で俺の立体ホログラムが全地区で裸踊りしとるんや?」
「え? アレって夜崎さん流の支持率獲得法じゃないんですか?」
「ちゃうわボケエエェェェェ!」
 どこからか取り出したマイクに向かって怒声を放ち、倖介は長い黒髪を振り乱した。音声エネルギーから変換され、マイクの尻から出たレーザー光線が壁に突き刺さって黒い穴を開ける。
 水鈴が自宅からココに来るまでに見てきた物。
 ソレは両手に桶を持って大声で鼻歌を歌い、全裸でハイテンションな踊りを見せる倖介の姿だった。最初見た時には本人かと思ってしまった。
 それだけクオリティの高いホログラムだったのだ。
 ……まぁ、倖介であればやりかねないという先入観も多分にあったのだが。
「で、アレっていつからなんですか?」
「ホンマついさっきからや! ガードロボットが映像送って来たんや!」
「もう止めさせるように指示は出したんでしょうね」
「当たり前や! せやけどなかなかプロテクト解けへんねん!」
 立体ホログラムやビジョン・スフィアといった公共の設備は全て政府が管理している。ごく一部の者しか知らない施設にある、幾十にもプロテクトが掛けられた並列式超巨大コンピューター。ソレを操作し、更に別のプロテクトまで掛けたということはもう疑いようもない。
 犯人は政府関係者だ。
 そこまで間違いない。だが理由が分からない。
 もしバレれば当然タダではすまない。最悪ドームからの追放も考えられる。ソコまでのリスクを背負って一体何がしたいというのだ?
 ……いや、何も悩むことなどないか。
 倖介の弁を借りるわけではないが、これこそ完全な愉快犯だ。倖介に個人的な恨みを持つ者の手による。それ以外に考えられない。大体何が悲しくて倖介の裸踊りなど……。
「頼む水鈴! 一緒に犯人探してくれ! こんなん相談できんのお前しかおらんねん!」
「こんなん私に相談しないでください! 大体今、別件で忙しいんです!」
 泣きすがってくる倖介をヒールで足蹴にしながら、水鈴は声を張り上げた。
「ほんなら『ピンピン・ミドル』か『ブルー・チキン』でええから出してくれ!」
「どっちも私のことだろーが!」
「み、認めおった……」
 口に手を当てて少し身を引く倖介に、水鈴の顔から表情が消える。
「いい加減にしないとリアル体に裸踊りさせますよ?」
「ご、ごめんなさい」
 無慈悲な視線で見下ろす水鈴に、倖介は土下座して謝った。
(まったく……)
 どうしてこの男の周りには、こうもトラブルが付きまとうのだろう。比較するのは申し訳ないが、ほぼ完璧に統治していた紅坂久遠の手腕は大した物だと思う。
「とにかく、まずは立体ホログラムを何とかして、色々考えるのはそれからですね。解けないプロテクトなんてないんですから、私達も行ってさっさと終わらせてしまいましょう」
「お、おぅ……」

【メールを一通受信。登録されているIDには該当しません】

 顔を上げて倖介が立ち上がった時、彼のリストバンドから無機質な機械音声が発せられた。緊急を要する内容のメール、あるいは不審だと思われるメールを受信した場合、音声案内で告げられるようになっている。
「なんやぁ? こんな時に」
 面倒臭そうに顔をしかめながらも、倖介はリストバンド・タイプの携帯型ログイン端末を立ち上げた。そして宙に映し出された白いモニターに目を通し、
「おい、水鈴……」
 語調を変えて声を漏らす。
「どーやらこの事件、全くの別件って訳やなさそうやで」
「え……?」
 水鈴は倖介の隣りに立つと、モニターを覗き込んで送られてきたメールの文面に目を落とした。

《我は十人目の管理者。約束の期限まであと三週間。我を見つけだそうなどという愚行は即刻止め、要求を呑むことだけを考えるべし。今回の騒動は軽い警告である。もしロゼと共に我を不愉快にさせる行為を続けた場合、警告の内容はさらに重くなっていくと心得よ》

「例の奴やな。ご丁寧に名乗り出てくれたで」
 忌々しげな表情でモニターを見ながら、倖介は小さく舌打ちした。
 倖介の端末に直接メールを送れるのは管理者か管理者補佐システム・エージェントだけに限定されている。だから彼らのIDは端末に登録され、それ以外のIDは全て弾くように設定されている。
 しかし、今回のメールはその設定を無視して送られてきた。機械音声でそう言われた時から、まさかとは思っていたが……。
「けど、おかげでかなり限定できましたね」
「まぁな」
 犯人は政府関係者。それもかなり上位の。
 となるとますます濃厚になってきた。
 葛城那緒犯人説が。
 動機もある。そして今のトラブルを引き起こすだけの力もある。今回の事件はその力を見せつけるための物だろう。
 自分には公共設備を自由にできるだけの力があると言って来ている。
 さらに、コチラの動向を探る能力もあると。
 自分達が犯人を見つけるために動いていることを推察するのは簡単だ。犯罪を前にして取るべき当然の行動なのだから。しかし、倖介と自分の二人で探しているという情報は、そうそう得られない。倖介一人でもなく、もっと多くの管理者を使っているわけでもなく、二人で捜査しているということを見破って来ている。
 つまり、犯人はそれだけ正確な情報を得られるだけの優れた能力を持っている。
 オリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドで生み出された葛城那緒にどんな力があるのかは知らない。しかし、決して低い能力でないことだけは確かだ。普通の管理者補佐システム・エージェントの力と同じだとは考えない方が良いのかもしれない。
「もー、ココまで来たら片っ端から縛り上げた方が早いんちゃうかー? 直接は手ぇ下してへんかもしれんけど、身内の奴が関っとることは明白やろ。何かにかこつけて全体会議でも開いて、それとなーく聞いてみよか」
(身内、か……)
 確かに倖介の言うことにも一理ある。自分は最初の先入観から葛城那緒だけに限定してしまいそうになっていた。
 彼女が犯人である確率は高い。しかしソレだけに絞るのは危険だ。手掛かりがなくなって行き詰まった時、身動きがとれなくなってしまう。
「いや、全体会議はやめましょう。もしその中に犯人がいた場合、警戒心を無駄に煽るだけになってしまいます。ま、夜崎さんがそういう場を定期的に設けてくれていたら別でしたが」
 最後のワンフレーズを強調して水鈴は皮肉たっぷりに言った。
 雰囲気や言動から十分予想される通り、倖介は会議などという堅苦しい場を嫌う。だから倖介が久遠の後任に付いてからというもの、管理者と管理者補佐システム・エージェントが一堂に会するということは全くなくなってしまった。
 普段しないことをいきなりされては、誰だってその裏を勘ぐってしまう。特に犯人であれば、絶対に尻尾を出すまいと警戒を強めるのは目に見えている。
(いや……)
 警戒するとかしないとか、そういう場所はとっくに通り過ぎているのかもしれない。
 今回の立体ホログラム騒動の犯人が自分だと言った時点で、コチラが政府関係者を疑うのは当然のこと。容疑者が絞りこまれ、自分の身は危うくなる。
 どうしてわざわざ自分の首を絞めるような真似をする?
 犯人の目的はあえて疑わせることなのか?
 政府関係者に絞り込ませておいて、カヤの外から犯行を続ける?
 となればやはり葛城那緒か? それとも、クラッキング能力に長けた一般プレイヤー?
 ダメだ。
 考えれば考えるほど混乱してくる。
 とにかく、今はっきりしている情報を整理しよう。
 犯人は久遠のIDとパスのみを欲し、マスターキーは要求していない。犯人にはIDをある程度操作できる力がある。公共設備を操作できる力もある。そしてコチラの動向を正確に探れるだけの能力を持っている。
 揺らぎようのない事実としてあるのはこの四つだ。
 最初の二つからはまだどこか素人っぽい雰囲気も滲み出ているが、後の二つからは政府関係者であることが濃厚に読みとれる。
 特にコチラの動きに関しては、相当近くにいなければ把握できないところまで掴んでいる。
(相当近く……)
 その言葉を胸中で反芻し、水鈴は深く思索を巡らせながら倖介の方をジッと見つめた。
「お、何や。悪いけど俺に発情してもあかんで。今の俺のプライベートは他の女で充実しきっとるからな」
「夜崎さん。一つ、お願いがあるのですが」
「しゃないなー。せやったら一回だけデートしよかー」
 強烈なかかと落としを脳天に見舞う。
「もし上手く行けば、犯人を割り出せるかもしれません」
 気絶してゆっくりと沈み込んでいく倖介に、水鈴はいつにもまして冷静な口調で言った。

 ――On Line――
■Viewer Name: 神薙秋雪 Place: バトルタワー五階 AM10:54■
 『真の覇者』最終戦。
 深い森に覆われた森林エリア。ソコが決勝ラウンドの舞台だった。暗天には真円を描いた月が輝きを放ち、狂気的な光を青々と生い茂る常緑の葉に落としている。まるでこの狂った戦いを象徴するかのように。 
 相手は予想通り、沙耶の端末で見たIDを持つランクFのプレイヤーだった。

【マジック・デバイス "Cosmic_Layer"[コズミック・レイヤー]の読み込みを開始します。終了まで20……19……18……】

 思考具現化端末デモンズ・グリッドで始まったカウントダウンを横目に見ながら、秋雪は息を殺して茂みに身を隠していた。
(クソッ! 強い!)
 そして悔しそうに顔を歪めながら残りのライフポイントを確認する。
【ライフポイント:4509】
 バトルが始まってまだ二十分くらいしかたっていないというのに、もうすでに半分近くまで減らされていた。強力なオフェンス系のデバイスを持ち込むメモリ容量を確保するため、ヒーリング系のデバイスを削ったことが完全に裏目に出てしまった。
 必要になればサーバーからダウンロードすればいい。
 その考えが甘かった。
 いや、このような事態、あらかじめ予測などできるはずもない。 
(まさか、ダウンロードを禁止されるなんてな……)
 バトルが始まった直後は秋雪の方が優勢だった。ランクFのプレイヤーらしく、たった一つだけのソード・デバイスで挑んできた。特に動きが鋭いわけでもなく、デバイスが特殊な物であるということもなかった。
 ――弱い。
 五分ほど戦って秋雪が抱いた印象がソレだった。
 ココに来るまで戦ってきたどのプレイヤーよりも弱い。
 間違いなく勝てる。秋雪はそう確信した。
 しかし今回の一番の目的は相手の力量を見極めることだ。どんな手段で沙耶に勝ったのかを調べなければならない。
 相手の思考具現化端末デモンズ・グリッドに表示されるコマンドラインを読み取り、秋雪は常に先手を取って優勢を築き上げてきた。
 そして向こうのライフポイントを三分の一くらいにまで削った時、異変は訪れた。
 突然、コマンドラインが見えなくなったかと思うと、ラグタイムなしで上級の火炎ソーサリーを放ってきたのだ。更に、二つ以上のデバイスを組み合わせて別の力を生み出す“コンバイン”を使ったり、最上級ソーサリーを顕現させるなど、およそランクFのプレイヤーが行使できる権限とはほど遠い力を発揮してきた。
 殆ど不意打ちに近い攻撃をまともに食らい、一気に二千以上のライフポイントを奪われた。そして一度身を隠して回復しようとした時、今度はダウンロードまで封じられたのだ。
 ここまで来ると明白だ。
 断じて相手はランクFのプレイヤーなどではない。
 ブラック・スキームを書き換えられるとすれば、自分のランクを偽るなど造作もないこと。そして恐らく、このクエスト自体も書き換えている。自分に都合の良いように。
(これじゃ沙耶も勝てないわけだ)
 この理不尽なバトルには納得行かないが、沙耶がランクFのプレイヤーに負けたことに関しては納得行った。 
 ここまでの実力を見る限り、相手のランクはAだ。そして――

【……2……1。
 読み込み完了。メイン・メモリーに常駐しました。いつでも発動可能です】

 思考具現化端末デモンズ・グリッドに映し出された文字列を確認して、秋雪は茂みから飛び出した。
「やっと出てきやがったか」
 背後から低い男の声が掛かる。
 慌てて振り向くと、迷彩模様のつなぎを着た筋肉質な男が腕組みして立っていた。
 今、秋雪の目に見えているのは相手のIDとハンドルネームだけだ。少し前まではっきりと読みとれた思考具現化端末デモンズ・グリッドのコマンドラインは、真っ黒に染まってしまって何も見えない。
(『ガラック』……。多分、あのハンドルネームも偽名だな)
 相手プレイヤーのハンドルネームを読み上げ、秋雪は油断なく出方を窺う。
 さすがにIDを変えることは出来ないが、ブラック・スキームを書き換えられるのなら名前くらいどうとでもなる。
「じゃあそろそろ死んでくれや」
 褐色の短髪を書き上げながら気取った様子で言い、ガラックは右手に自分の身長の倍以上もある槍を生み出した。続けて小さな炎の塊が左手から無数に放たれたかと思うと、ソレらは槍に絡みついて一つになり、赤銅色の鈍い光を放ち始めた。
("Wild_Pike"[ワイルド・パイク]に"Salamander_Egg"[サラマンダー・エッグ]をコンバイン、か……。まともに食らったら残りのライフポイント全部持ってかれるな……)
「一つ聞かせてくれ。どしてこんな意味のないことをする」
 ガラックの持つ槍から目を離すことなく、秋雪は用心深い声で聞いた。 
「意味がない?」
「同じクエストをコンプリートし続けても意味がない。それどころか下手したら通報されるぞ」
 秋雪の言葉に、ガラックは鼻を鳴らして馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ンなこた別にどーだっていいんだよ。今楽しけりゃな」
 ガラックは槍の矛先をコチラに向け、子供のように目を輝かせながら口の端をつり上げる。
「なるほど。そうやって自分の絶対的な力を振りかざして快感を覚えるタイプか。僕の大嫌いな人種だな」
「そーかよ!」
 落ち葉が分厚く降り積もった足場を蹴って突進を掛け、ガラックはその勢いに乗せて槍を突き出してくる。鋭く迫る槍撃を身をひねってかわし、秋雪は思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げた。

【常駐アシスト・デバイス "Gravity_Ruler"[グラビティ・ルーラー]を用いて重力地場を制御します】

(真下!)
 重力の掛かる方向を逆転させ、秋雪は上空へと舞い上がる。

【中級天星ソーサリー "Cosmic_Layer"[コズミック・レイヤー]Run】

 そしてチャージしていたマジック・デバイスを解放した。
 次の瞬間、暗い空が一瞬昼間のように明るくなったかと思うと、拳大の彗星が秋雪を避けてスコールのようにガラックへと降り注いだ。
「へっ! 食らうかよ!」
 ガラックは秋雪を追って飛翔すると、槍で彗星を打ち砕きながら急迫してくる。光を帯びた細かい石つぶてが周囲に飛散し、粉となって消失した。
(よし!)
 予想通りの行動を見て、秋雪は"Gravity_Ruler"[グラビティ・ルーラー]による制御を解除する。重力に引かれて体は急降下し、視界の中で樹の大きさが激的に増していった。
「ち……」
 ガラックとすれ違いざま、小さく舌打ちするのが聞こえる。
 あれだけ長い槍だ。射程範囲は広いかもしれないが小回りが利かない分、懐に入られると即座に攻撃はできない。
 秋雪は太い枝に着地する直前、重力地場を一瞬だけ足下に発生させて勢いを殺すと、音もなく降り立った。そして頭上のガラックを見上げる。

【ガン・デバイス "Marvelous_Magnum"[マーベラス・マグナム]を常駐。顕現します】
 
 右手に現れた銀色の片手銃を構え、照準をガラックに合わせた。
 "Cosmic_Layer"[コズミック・レイヤー]はいわば目くらましだ。ガラックの槍で砕かれた彗星の細かい破片は宙を舞い、黒い霧のように漂っている。これで向こうからはコチラの正確な位置は把握できない。攻撃の出所は掴めない。
 しかし、月光をバックにしているガラックの位置は、石の霧に落ちた影のおかげではっきりと分かる。薄い紙の上に光で落とし込んだ影絵のように。
(食らえ!)
 ガラックの眉間に狙いを定め、秋雪はトリガーを引き絞った。
 肩まで伝わる重い衝撃と共に、無色透明の弾丸が射出される。ソレは冷たい夜気を突き破り、一直線にガラックへと飛来した。
 クリーンヒットはしなくていい。少し掠めてくれればソレでいい。ソレだけで十分確認できる。この攻撃は相手を倒すための物ではない。

【アシスト・デバイス "Another_Gaze"[アナザー・ゲイズ]を常駐。読み取りを特化させるステータス情報を選択してください】

(『ライフポイント』)
 針先のように目を細くし、秋雪はガラックのいる位置に全神経を集中させた。
 ガラックの思考具現化端末デモンズ・グリッドのコマンドラインはもう読み取れない。ただ半透明の黒いモニターしか映らない。見える物と言えばIDとハンドルネームくらいのものだ。
 しかしソレらの情報さえも切り捨て、ある一つのステータスを読み取ることだけに力を注げば、あるいは――
(見えた……!)

【ライフポイント:49565】

 ガラックの影に重なるようにして映し出された数字を、秋雪は目を大きく開いて見続けた。
 五万近いライフポイント。自分の五倍以上。
 さすがはランクAプレイヤー。なるほど、これでは勝てるはずがない。
 だが、重要なのは数字ではない。確認したいのはこの後だ。
「――て、メェ!」
 大気を揺るがす派手な効果音と共に、ガラックの怒声が頭上から降ってくる。
 どうやら銃弾がクリーンヒットしたようだ。しかし――

【ライフポイント:49565】

 変わっていない。
 ――予想通りに。
 もう間違いない。これではっきりした。
 アイツは管理者補佐システム・エージェントだ。
 『ナイン・ゴッズ』を管理する立場である管理者補佐システム・エージェントには、一般プレイヤーの攻撃は通用しない。そして管理者と違い、管理者補佐システム・エージェントなら粛清目的でクエストに参加できる。
 多分、アイツも最初は仕事だったのだろう。以前、このクエストにどんな悪質なプレイヤーがいたのかは知らないが、ソイツにペナルティを与えるためにガラックはココに来たはずだ。そして自分は必ず決勝ラウンドに出られるようにクエストを書き換え、ターゲットとしたプレイヤーを葬ることで管理していた。しかし、だんだんと弱者をいたぶることに快感を覚え始め――暴走した。
 邪推かもしれないが、大方そんなところだろう。
(ミイラ取りがミイラに、か……。笑えないな)
 今まで通報されなかったのは、自分以外のプレイヤーがガラックのことを管理者補佐システム・エージェントだと見抜けなかったのか、それとも何か通報できない仕掛けでも用意してあるのか、どちらかは分からないが、そんなことはもうどうでもいい。
 ――自分がこの目で見てしまったのだから。
 クエスト自体に直接手を出すのは難しいかもしれないが、やり方は他にも沢山ある。
「なかなかオモシレーことしてくれんじゃねーか」
 灼怒に顔を歪ませ、ガラックは秋雪の目の前に降り立った。痛みの情報は遮断されるし、ライフポイントは全く減っていないはずだが、自分よりも格下プレイヤーに一撃を食らって苛立っているのだろう。
「別にお前を楽しませるためにやった訳じゃない」
 おどけたように肩をすくめて見せ、秋雪は挑発的な笑みを浮かべて眉を上げる。
「いい気になってんじゃねーぞテメー!」
 叫んでガラックは手にしていた槍を消し、思考具現化端末デモンズ・グリッドを立ち上げた。そして十秒以上かけて何かの処理をした後、黒いモニターは姿を消す。
 ソレと入れ替わるようにして、直径五メートルはある巨大な火炎球がガラックの頭上に顕現した。その業炎に少しでも触れた樹々は一瞬にて消し炭となり、黒い塊へと姿を変えていく。凄まじい火力だ。
(最上級火炎ソーサリー "Galfes_Ilter[ガルフェス・イルター]、か……)
「どうした。逃げねーのか?」
「遅いな」
 勝利を確信した顔付きで言うガラックに、秋雪は冷めた表情で短く返した。
「あん?」
「遅いって言ったんだよ。最上級ソーサリーとはいえ、処理時間にそれだけ掛かってるようじゃ使い物にならんぞ」
「コ……!」
 眦が裂けんばかりに両目を大きく見開き、ガラックは奥歯をきつく噛み締めて秋雪を睨み付けた。
「コマンドラインの使い方がお粗末だな。お前に管理者補佐システム・エージェントは向いてない。今すぐ止めろ」
「死ねコラアアアァァァァ!」
 秋雪の罵声に耐えかねたかのように、ガラックは絶叫を上げながら両手を前に突き出す。ソレに応えて、甚大な熱量を持った力の凝集体が秋雪の体を呑み込んだ。
「じゃあな、無能」
 捨て台詞を言い終えた時点で、秋雪は自分のライフポイントがゼロになったのを確認した。

 ――Off Line――
 ゆっくりと目を開けると、ソコは見慣れた自室だった。精神的な癒し効果があるという星形の小さな物体が、淡く明滅を繰り返しながら浮遊している。
「ふぅ……」
 頭にしていたアクセスバンドを外し、秋雪は頭を軽く振りながら息を吐いた。
(雑魚だな……)
 ガラックのことを思い返し、秋雪は余裕の笑みを浮かべる。
 事は順調に運んだ。コッチが知りたかった情報は全て得ることができた。
 あとは、管理者モードでログインし直して――
「あーきーゆーきー……」 
 背後から突然掛けられた恨めしい声に、秋雪はビクンッと体を大きく震わせて椅子から立ち上がった。
「なーにーをーしーてーたーんーじゃー……」
 そして恐る恐る顔を後ろに向ける。
 オカッパ頭の上に乗せたシロキーと一緒になって、沙耶がどんよりと暗く曇った目をコチラに張り付かせていた。中途半端に開けられた口からは、恨みがましい言葉が呪詛のように流れ出ている。
「い、いや、その……これはー、ですね、えと……」
 慌ててノート型のログイン端末を閉じ、秋雪は部屋の隅に視線を泳がせながら意味を成さない言葉をつなげた。
 気が付けばもう昼近い。どうやら徹夜で『ナイン・ゴッズ』をしていたようだ。あまりに夢中になりすぎて気付かなかった。沙耶はいつから自分のプレイを見ていたのだろうか……。
「まさかとは思うが、例のクエストはやってないじゃろーな」
「は、はは……ま、まさかそんな。僕が沙耶との約束、破ったことありましたか……?」
 ぎこちない作り笑いを浮かべる秋雪に、沙耶は背伸びをして顔を近づける。そして先程までの病的な表情を一変させ、不気味なくらい満面の笑みを浮かべて口を開いた。
「そーじゃよなー。秋雪はワシに嘘を付いたり、隠し事をしたりするような男ではないからのー」
「そ、そりゃそうですよー。僕が沙耶を裏切るなんてそんな、ありえないじゃないですかー」
「うむうむ。さすがは秋雪じゃ。ワシは秋雪のそーゆー素直なトコは大好きじゃぞ」
「いやー、なんか照れますねー」
 そして二人で声を揃えて朗らかに笑い、
「で、決勝ラウンドで負けた感想はどうじゃ」
 体温が一気にマイナスまで下がった。
「いや、その、それは……」
「ワシは言ったはずじゃぞ。秋雪に手伝って貰っては意味がないと。どうしても勝ちたいヤツがおると」
 高い地声を力一杯低くして、沙耶は下からねめ上げるように秋雪を睨んで言う。ソレに合わせてシロキーもフーッ! と鼻息を荒くして牙を剥いた。
「は、はい。聞いておりました……」 
「ならばなぜ手を出した」
「いや、それは、その……沙耶がこだわっている例のプレイヤーに不審な点が……」
「言い訳は聞きたくない!」
(……何て言えばよかったんだ)
 秋雪は項垂れながら、理不尽な怒声に耐えた。
「よいか! とにかくコレはワシが一人で何とかすると言ったら何とかする! ワシがあのガラックとかいうふざけた奴を叩きのめす! じゃからもう絶対に手伝うでないぞ! もし次に同じようなことをしたら『頭グシャグシャのキー!』の刑じゃ! 分かったな!」
「い、いや、アレは頭皮に深刻なダメージが……」
「イヤなら大人しくしておれ!」
「はい……」
 沙耶からの一方的な要求に、秋雪はただただ頷くしかなかった。
 せっかく重大な情報が得られたというのに。あとは管理者モードでログインしてケリを付けるだけだったのに。
 とにかく沙耶には見つからないように何とかしなければならない。
 相手はブラック・スキームを書き換えられる管理者補佐システム・エージェントだ。一般プレイヤーである沙耶には絶対に勝てない。かといって沙耶にこのことを伝えても鬱憤が溜まるだけで、スッキリはしないだろう。
 沙耶はとにかくガラックというプレイヤーに勝ちたいのだ。なのに『絶対に勝てない』などとは最後通告を突きつけるようなもの。例えアゴを外されても言えない。管理者補佐システム・エージェントの持つ特殊な権限を解除するかして、勝てる状況を作り出さなければ。
「まったく、困ったヤツじゃ……」
 口の中でブツブツと文句を言いながら、沙耶は秋雪の膝の上によじ登る。そしてシロキーを自分の膝にのせて座り込み、着物の袖口から取り出したアクセスバンドを頭にはめた。
「あの……何をなさっているんでしょうか?」
「見れば分かるじゃろ。『ナイン・ゴッズ』に行くんじゃ」
「いや、ソレは勿論分かりますけど……ちゃんと座った方が……」
「今回の罰として、次に戻ってくるまで秋雪はワシの椅子じゃ。一歩も動くでないぞ。よいな」
「え……」
 ふてくされたような顔で言う沙耶に、秋雪は顔を引きつらせる。
「いや、でも、そろそろ寝たいかなー、なんて……」
「駄目じゃ」
「お腹もちょっとすいて……」
「知らん」
「トイレにも……」
「許可せん」
 短い言葉のやり取りを終えた後、沙耶はクリクリとした愛くるしい目でコチラを見据えた。そしてフンッ! と言って顔を逸らすと、ノート型のログイン端末に向き直る。
(こりゃそーとー怒ってるな……)
 秋雪は諦めたように肩を落とすと、沙耶に聞こえないように溜息をついた。
 こういう時はとにかく逆らわないにかぎる。
「秋雪、ワシが入ったらすぐにモニターを閉じるんじゃぞ」
「え……見てちゃいけないんですか?」
「あ・た・り・ま・え・じゃ。次はどんなお節介をされるか分からんからの」
 もう一度コチラに振り向き、沙耶は語調を強めて言い切った。
「よいな。シロキーが秋雪のことをずっと見張っておるからな。嘘を付いてもすぐに分かるぞ」
 沙耶の言葉に応えるように、シロキーは顔だけをコチラに突き出して碧色の瞳を輝かせる。この二人、言葉は通じなくとも心で通じ合っているようだ。
(羨ましいことで……)
 猫に嫉妬する自分を情けなく思いながら、秋雪は力なく頷いた。
「では行ってくる」
「……お気をつけて」
 ノート型ログイン端末に向き直ると、沙耶は人差し指一本を一生懸命動かして、自分のIDとパスワードを打ち込む。直後、沙耶の体が脱力したかと思うと、背中を秋雪の体へと預けてきた。
(ま、たまにはこういう静かな沙耶を見ているのも悪くないかもしれないな)
 『ナイン・ゴッズ』へと旅だった沙耶の頭を撫でてやりながら、秋雪は言われたとおり端末のモニターを閉じる。
 きっと沙耶はまた『真の覇者』に挑むつもりなのだろう。
(どうする……)
 自分も撫でて欲しそうに頭を突き出してきたシロキーの毛並みを、もう片方の手で整えてやりながら秋雪は視線を上げて考えを巡らせた。
(こうなったらオリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドでなんとか……)
 やったことはないが、多分できなくはないだろう。『ナイン・ゴッズ』の世界は、久遠がオリジナルの思考具現化端末デモンズ・グリッドを用いて創りだした物だ。ログインしなくてもデータを書き換えることくらい――
「う……」
 そこまで考えて、秋雪はシロキーがコチラを睨んでいることに気が付いた。

『動けば殺す』

 縦に開いた瞳孔から放たれる鋭い眼光がそう言っている。
(ぼ、僕は猫にすら頭が上がらなくなってしまうのか……)
 心の涙を流しながら、秋雪は深々と嘆息した。

 ――On Line――
■Viewer Name: 沙耶 Place: 砂浜エリア AM11:45■
 海風に乗って潮の香りが鼻腔をくすぐる。
 遠くの方から運ばれてくる波の音が、誰もいない砂浜で静かに揺らめいていた。
 馴染みのシティ・エリアからは、かなり離れた場所に位置する砂浜エリア。テレポートゲートに入り、沙耶はクエスト『真の覇者』のために随分と長く居着いてしまった街を抜け出した。
(秋雪のヤツめ……)
 落ち込んだような顔付きで物思いに耽りながら、沙耶は足下の白い砂を蹴飛ばす。サラサラと星屑のように流れていく光砂を目で追いながら、沙耶は柔らかい地面に腰を下ろした。
 着物の裾が乱れるのも気にせず、沙耶は豪快に足を投げ出して後ろ手に体を支える。そして温かい光を落とす太陽を見上げた。
 決して照りつけるでもなく、かといって曇るでもなく、包み込むような優しい光を沙耶に浴びせてくれる。
 まるで、秋雪のように。
(秋雪は優しすぎる……)
 細く息を吐きながら、沙耶は目の前に広がる澄み切った海を見つめた。
 秋雪はとにかく優しい。自分がどんなわがままを言っても、何でも聞き入れてくれる。どれだけ迷惑を掛けても、笑って済ませてくれる。
 秋雪に何かをしなければならないのは自分なのに。恩返しをしなければならないのは自分の方なのに。
(昔からちっとも変わらん……)
 自分も、秋雪も。
 沙耶は昔、人間の孤児院にいた。物心付いた時から人間と一緒に暮らしてきた。しかしひょんなことから自分がミュータントだと分かり、叩き出された。そして他の凶暴なミュータントに追われ、殺されそうになった。
 家族だと思っていた人間にも、同族だと思っていたミュータントにも見放され、全てに絶望していたところを秋雪に救われた。
 秋雪は自分に清潔な衣類と、温かい寝床と、美味しい食事を分けてくれた。安心できる時間と空間を与えてくれた。
 素性も分からないミュータントに優しく接してくれた。
 沙耶はすぐに秋雪のことが気に入った。そして好きになった。この恩は絶対に返さなければならないと思った。
 しかし――

『ああ、いいですよ沙耶。無理しなくても。怪我でもしたら大変ですからね』

 自分が何か手伝おうとすると、秋雪はすぐに待ったを掛けた。危なっかしくて見ていられないといった様子で。
 確かに、掃除をするにせよ、洗濯をするにせよ、料理を作るにせよ、自分の低すぎる身長が足枷になっていることは沙耶自身よく分かっている。だがそのことを理由に、まるでお客様のように扱われるのは納得いかない。秋雪に更なる気苦労を掛けているかと思うと我慢できない。
 しかし気持ちだけが先走り、やることなすこと空回りしてしまう。
 掃除をすればインテリアまで一緒にゴミ処理場直通のダストシュートへと放り込んでしまう上に、高い場所の仕上げは結局秋雪が手を動かすことになる。
 洗濯をすれば衣類と共に自分まで機械の中に入ってしまい、漂白レーザーで脱色されそうになっていたところを秋雪に救われた。
 料理をしようと思えば、調理器具が重くて持ち上がらず、腕が短すぎて少しの材料しか扱えず、少し焦れば着物の裾を引っかけて転んでしまう。そしてひたすら不味い食事は秋雪が平らげることになる。

『僕は沙耶から十分に恩返しして貰っていますよ。沙耶を見てるだけで癒されますから』

 自分が何もできないと落ち込んでいると、秋雪はそうやって励ましの言葉を掛けてくれた。沙耶には沙耶にしかできないことが沢山あると言って元気付けてくれた。
 秋雪はいつだって自分を気遣ってくれた。
 だから気が付けば甘えてしまう。
 こんなことをしていては駄目だと思いつつも、楽な方へ楽な方へと体は動いていく。
 このままではいつかまた見放されるかもしれない、捨てられるかもしれない。
 昔、全てに裏切られたことのトラウマに苛まれながらも、沙耶は秋雪に寄りかかり、愛情を貪り続けた。そして沙耶の要求の全てに、秋雪は丁寧に応えてくれた。
 そんな生活を二、三年も送っている内にソレがだんだんと当たり前になり、現状に甘んじることへの違和感を沙耶から取り除いていった。

『沙耶は僕のそばにいてくれるだけでいいですから。それだけで十分ですから』

 自分は秋雪に気に入られているのだと思った。そしてその頃には、沙耶自身も秋雪のことを他の誰よりも好きなのだと確信できていた。秋雪がいてくれれば他には何もいらないとさえ思えるようになっていた。
 お互いに隠し事や嘘など一切持たず、相手に全幅の信頼を置いて全てのことをさらけ出しているのだと思っていた。
 少なくとも沙耶はそうだった。秋雪にはどんなことも包み隠さず話した。
 嬉しいことや楽しいことは勿論、気に入らないことや不満なども全てそのままぶつけた。
 しかし、秋雪は違った。
 たった一つ、自分に重大な隠し事をしていた。
 ――刃。
 ミュータント・キラーの異名を持つ、秋雪のもう一つの人格。凶暴で残忍な性格をした殺戮者。
 彼の存在を秋雪は自分に黙っていた。 
 ――ミュータントである沙耶にそのことが知れれば、沙耶は自分の元から逃げしまうかもしれない。
 秋雪はまるで懺悔でもするかのように話してくれた。
 それが今から三年ほど前のことだ。
 あの時は悔しさと歯がゆさで一杯だった。
 そんな大事なことを今まで黙っていたことに。そんな秋雪の過去を知ったくらいで、自分の心が離れてしまうと思われていたことに。
 だが、ソレも秋雪の優しさなのだ。
 自分に不安や疑念を与えまいとする秋雪の気遣いなのだ。
 最近になって、ようやくそう思えるようになってきた。相手のことを想うが故の嘘や隠し事は、あってしかるべきなのかもしれないと。
 だから今回は沙耶も、秋雪に隠れてクエスト『真の覇者』に挑戦していた。
 コッソリ『ボティ・エクスチェンジ』を得るために。そして秋雪が自分のために買ってくれた洋服を着て、ビックリさせるために。
 もう二度と着ないと言った洋服を再び着て秋雪の前に現れれば、きっと喜んでくれるはず。
 クエスト『真の覇者』への挑戦は最初は順調だった。トライするたびに自分の腕が上がっていくのを感じ、初めて『ナイン・ゴッズ』にやり甲斐のような物を覚えた。他の簡単なおつかいクエストでも、時間さえ掛けていくつもコンプリートすればいずれ自分の目的は達成できただろうが、沙耶は『真の覇者』にこだわり続けた。
 一人倒し、二人倒し……。あと一人でコンプリートできるというところまで上り詰めた時、大きな障害が立ちふさがった。
 そいつは何度挑んでも、どんなに戦略を練ってみても、絶対に倒せなかった。
 しかも相手のランクはF。自分よりも格下だ。だが勝てない。
 そしてそのことが沙耶の闘争心に火を付けた。
 絶対にあのガラックとかいうプレイヤーを倒して『ボティ・エクスチェンジ』を手に入れると誓った。
 しかしどうやってもソレは達成できず、ムキになっていたところを秋雪に見られた。

『僕が取ってきてあげましょうか?』

 秋雪なら絶対にそう言ってくれると思っていた。
 だがソレでは意味がない。秋雪の手を借りてしまってはコッソリやっていることにならない。今回の目的は最後まで隠し通すことで、秋雪に驚きと喜びを同時に与えることだ。驚きが加われば、喜びはより大きな物になるはず。
 三年前、初めて刃のことを知った自分の苛立ちが、驚きによって助長されたように。
 そう。これは秋雪のための隠し事だ。だから許される。
 秋雪もまさか自分が洋服を着るために頑張っているとは思っていないだろう。倖介などに笑われても胸を張って堂々としていられるように、お揃いの洋服をもう一着買うつもりなどとは――
「あら? 沙耶ちゃん?」
 急に後ろから自分の名前を呼ばれて、沙耶は少し体を震わせて振り返った。
「やっぱり。奇遇ね、こんなトコで」
 立っていたのは秋雪の上司だった。
 自分と同じく、『ナイン・ゴッズ』内でも彼女の外見は全く変わらない。いつものように皺など全くない、目の覚めるような蒼いスーツを完璧に着こなしている。
「み、水鈴か。な、何のようじゃ」
この広大な『ナイン・ゴッズ』の世界で偶然出くわしてしまった知り合いを見て、沙耶は慌てていつもの勝ち気な顔に戻る。そして極力平静を保ちながら言った。
「まー、今ね。色々あって全エリアを調査してるのよ」
「管理者も大変じゃな」
「出来の悪いトップ持つと苦労するわ」
「あーの天然ゲイか……。アヤツの頭はしょーもないことで一杯じゃからの」
 半眼になって呆れたように言う沙耶の隣りに腰を下ろし、水鈴は潮風に揺れる髪を掻き上げた。
「気が合うじゃない。ホント、おかげでコッチはしなくていい苦労させられっぱなし。まぁそんなわけで気晴らしに静かなトコでも行ってみようかと思ったのよ。そしたら沙耶ちゃんがいたってわけ。私も昔は落ち込んだ時とかに、よく来てたわ。ココ」
「ワ、ワシは別に落ち込んでなんかおらんぞっ」
「別に誰も沙耶ちゃんのことだなんて言ってないわよ」
 含み笑いを漏らしながら、水鈴はコチラの顔を覗き込んで言ってくる。
「神薙君と何かあった?」
 そして沙耶から目線を外し、海の方に向かって聞いた。
「な、なんじゃ、いきなり!」
「ん? 何となくそんな気がしたんだけど、違ったかしら?」
 いつものお堅い雰囲気とは違い、母性のような包容力を漂わせながら水鈴は優しい笑みを浮かべる。
「よかったら相談に乗りましょうか?」
「い、いらんっ。別につまらんことじゃ」
「つまんないことで怒るのは女の特権ってヤツよ」
 分かったような分からないようなことを口にしながら、水鈴は楽しそうに言った。
 どうもこの女と喋っていると調子が狂う。まるでコチラの全てを見透かされているようで。これが大人の女性の余裕というヤツなのだろうか。
 自分はもう随分昔に、精神的にも肉体的にも成長が止まってしまったような気がする。
 水鈴と話していると、そんな劣等感にも似た錯覚に捕らわれる。
「……秋雪のヤツが、ワシに節介をやきすぎるんじゃ」
 観念したかのように、沙耶は唇を尖らせて漏らした。
「良いことじゃない。愛されてる証拠よ」
「良くない! そのせいでワシは! ワシはまた秋雪に……!」
 勢いよく立ち上がってそこまで叫び、沙耶は一旦言葉を呑み込む。
「神薙君に?」
「秋雪に……」
 そして脱力したように座り込み、溜息混じりに呟いた。
「……甘えてしまいそうになる」
 寄りかかってしまう。楽な道を選んでしまいそうになる。
 自分のために何でもしてくれる秋雪を頼り切ってしまう。コチラからは何の恩返しもできないというのに。
「別にいいじゃない。好きなだけ甘えれば。きっとその方が神薙君も喜ぶわ」
 喜ぶ? 秋雪が? 苦労を掛けるだけだというのに?
「なぜじゃ」
「そりゃあ沙耶ちゃんが可愛いからに決まってるじゃない。こんなちっちゃくてお人形さんみたいな子が甘えてくれるなんて、神薙君も幸せ者だわ」
「ワシは真面目に聞いとるんじゃー!」
 恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にして立ち上がり、沙耶は両手をブンブンと振り回しながら大声で叫んだ。
「私は至って真面目よ。神薙君は沙耶ちゃんのこと、ちゃんと好きだから。好きな子に頼られるっていうのは男として最高の名誉よ」
「しかし……」
 納得行かない。一方的に頼り続けているだけなど。
「沙耶ちゃんは神薙君のこと、嫌いなの?」
「そんなわけなかろう!」
「じゃあ好き?」
「当たり前じゃ!」
 鼻息を荒くし、肩を怒らせて怒鳴りつける沙耶に、水鈴は少したじろぎながらも言葉を続けた。
「それじゃあ何の問題もないじゃない。お互いに好き合ってるんなら、相手に甘えるのは愛情表現の一つみたいな物よ」
「……今は、ワシの方が秋雪に頼ってるだけじゃ。秋雪はソレを受けるだけでワシには何も言わん」
 ソレが気に入らない。少しの恩返しもできないのに、秋雪に苦労だけを掛けて自分ばかり楽している。そしてその状況に慣れてきている自分がまた気に入らない。
「何も言わないっていうのが、イコール何も頼らないってのとは、またちょっと違うわよ?」
 またよく分からない水鈴の表現に、沙耶はしかめっ面で返した。
「例えば、神薙君は沙耶ちゃんがいたからこそ刃君を抑え付けられていたわ」
「ワシが……? 刃を……?」
 そんな話は聞いていない。ただ、刃のことを知られたら自分が秋雪の元を離れてしまうかもしれないなどという、ありえない思いこみに怯えていたとしか。
「もし刃君の人格を表に出してしまったら沙耶ちゃんを襲うかもしれないって。だからそうさせないように頑張っていたのよ」
「ソレは……秋雪がワシのためにしてくれていたことではないか」
 また知らないところで自分は秋雪に迷惑を掛けていたというのか。
「でも神薙君も救われてたはずよ。あの時はまだ、刃君のこと嫌ってたみたいだから。その嫌いな奴の手綱をちゃんと握れてるって思ってたはずよ。自分は過去を乗り越えられたんだって。沙耶ちゃんのおかげでね」
「……物は言いようというヤツじゃ。ワシは別に何もしておらん」
「何もしてないってのいうのが、イコール何のためにもなってないってのとは、またちょっと違うんだけどね」
 水鈴の答えに、沙耶は「あー?」と声を上げてその場に座り込んだ。
「お前の言うことはサッパリ分からん。全然理解できんぞ」
「ま、よーするによ。神薙君は昔も今も、ちゃーんと沙耶ちゃんを頼ってるわ。沙耶ちゃんがいるから、神薙君はああやって明るくしていられるのよ。さしずめ沙耶ちゃんは神薙君の元気の源って感じね」
 何も言われなくても頼られている?
 何もしていないけどためになっている?
 自分が気付いていないだけで秋雪を元気付けている?
 ちゃんと恩返しになっている?
「っだーッ! 分からん! サッパリサッパリ分からん! 脳味噌がゲルゲルのピーじゃ!」
 ムキーッ! と頭を掻きむしって沙耶は叫び、白い砂を蹴って立ち上がるとダッシュで水鈴から離れる。
「どこ行くのー?」
「ワシの勝手じゃ!」
 吐き捨てるように言い残し、沙耶はココに来るのに使ったテレポートゲートの場所を目出して全速力で駆け出した。
 こんな時は思いきり体を動かすに限る。
 もう一度例のクエストに挑戦しよう。ソレをコンプリートできれば、こんな訳の分からない思いからは解放される。目に見える形で秋雪を喜ばせられれば、恩返しができれば納得できる。
(絶対に勝つ! 何としてでも勝つ! 勝つ勝つ勝つ!)
 自分に強く言い聞かせ、沙耶は砂浜エリアを後にした。

 ――Off Line――
■Viewer Name: 九綾寺水鈴 Place: 副社長室 1 week later AM9:45■
 淡いヒーリング・レイの照射されている球形の無重力装置に身を預け、水鈴は朧気な眼差しを本社ビルの外に向けていた。他のビルディングの隙間を縫うようにして走るクリアパイプの中を、様々な色形をしたエアカーが高速で走り抜けていく。
(なーんか、やる気おきないわね……)
 今日は週の最初の日。
 倖介の裸踊り事件を鎮めるのに先週まるまる費やしたせいか、全く疲れがとれていない。
 やっかいなプロテクトの解除作業から始まり、セキュリティを強化するための修正パッチの開発、そして全地区の住民への事情説明。ソレに勿論、犯人の手掛かり探しが付いてくる。
 今回もやはり、犯人のメールから割り出したIDは削除されていた。しかも最初に送られてきたメールのIDとも違っていた。見えそうで見えない犯人像。山積みと仕事といい、頭が痛くなってくる。
(最近はろくに休みも取れないんだから……)
 頭を下に向けたまま両膝を抱えて丸くなり、水鈴は深く溜息をついた。
 副社長室の隅にこういう便利な機械を用意してくれた秋雪に感謝しなければならない。コレがなければいつ過労で倒れてしまっていてもおかしくない。
 とはいえ、大好きなお酒を飲んで一晩ぐっすり眠れば次の朝には全快しているのだが……。
(一人じゃね……)
 あいにくと今日は秋雪は休暇を取っていていない。滅多に休まない彼がどうしても取りたいと言ってきたのだ。何か特別な事情でもあるのだろう。
 昔はよく一人でも飲みに行ったりしていたのだが、秋雪と一緒に色んな店を回るようになってからはソッチの方がずっと楽しくて、とても一人で飲む気にはなれない。
 『ナイン・ゴッズ』で沙耶と話をしてから一週間。まだ彼女の機嫌は直っていないのだろうか。

『沙耶ちゃんは神薙君のこと、嫌いなの?』
『そんなわけなかろう!』
『じゃあ好き?』
『当たり前じゃ!』

 あの時のやり取りを思い出して、水鈴は一人苦笑する。
 自分の思っていることを何一つとして包み隠すことなく表に出せるのは、一種の才能だ。沙耶の一割でも良いから、自分も素直な物言いができるようになれればと最近よく思う。
 そうすれば――
(神薙君のこと、もっと分かるかしら)
 無意識に自分の頭に浮かんだことに、水鈴は頬を赤らめて顔を振った。
 仕事中に何を考えているのだろう。今は体力の回復に集中しなければならないというのに。本当ならこんなことをしている暇などないのだ。
 大体いつもなら秋雪が自分のスケジュールを管理――
「あー! もー!」
 怒鳴り散らすように大声を上げて、水鈴は無重力装置のスイッチを切った。
「ひぁ!」
 そして背中から下に叩き付けられる。
 打ち付けた箇所を痛そうにさすりながら、水鈴はヨロヨロと外に出た。
 まったく。自分は一体何をやっているのだ。
 疲れているからといって少し気を抜けば秋雪秋雪と。彼が一日いないだけでどうしてこんなにも調子を狂わされなければならないのだ。自分らしくもない。そんな弱い女に育った覚えはない。
 確かに、秋雪にはちょっとした恋心のようなモノを抱いてはいるが――
「さー、仕事仕事!」
 両頬を手の平で叩いて気合いを入れ、水鈴は思考を一旦リセットして副社長のデスクに向かった。
 壁から突き出たアームによって支えられた十ものモニター。ソレらに囲われるようにして浮遊している円形のフライング・チェア。自分の意思だけで自由に高さを調節できるその椅子に座り、水鈴はモニターに映し出された情報に目を通し始めた。
 そしてモニターの真下にあるホログラム・タイプのコンソールを叩き始めた時、イヤリング型の携帯電話が着信を告げた。
「なによ!」
 出鼻をくじかれ、水鈴は八つ当たり気味に声を荒げてコールに出る。
《ロゼ様。ご指示を仰ぎたくて連絡させていただきました》
 相手は水鈴の管理者補佐システム・エージェントの一人だった。
「何かあったの!?」
《はい。実は、『ナイン・ゴッズ』のメイン掲示板に妙な書き込みが》
「どんな!?」
《マオルという管理者に酷いセクハラ行為をうけた、と》
 血管が内部爆発を起こすかと思った。
《そのような内容の書き込みが大量にありまして、どうしようかと……》
「とっとと消しなさいよ! そんなもんイタズラに決まってんでしょ! なんで私に電話してくんのよ! そのくらい自己判断で処理なさい!」
 苛立ちが頂点に達し、水鈴は副社長室の外にまで響き渡る大声で叫び散らす。
 まったく。一体なにを考えているのだ。
《い、いや、それが、その……そうしたいのは山々なんですが……》
「なによ!? 消せないほど能なしなんじゃないでしょーね!」
《いやその、実はその通りでして……》
「はぁ!?」
《ど、どうやっても消せないんですよ。私の権限では。もっと上位からのシステム介入があるみたいで……》
「はぁ……?」
 怒鳴り声から一転し、水鈴は声を裏返らせて素っ頓狂に返した。
「上位? 貴方より上位っていったら……」
《管理者の誰かかと……》
 そうなる。そうとしか考えられない。
 そしてこの手口は――
「書き込んだ人のIDは全部同じ?」
《いえ、同じ物は一つもありません》
「分かったわ。連絡してくれてどうもありがとう。後は私の方で対応するから、貴方は『ナイン・ゴッズ』の管理に戻って。それから他の管理者と管理者補佐システム・エージェントに伝えといて。この件はロゼが責任を持って解決するからって」
《で、でも管理者の誰かが犯人なんじゃ……》
「いいから」
《わ、分かりました……》
 ソレだけ言って水鈴は通信を切った。
(さぁて、いよいよ大詰めね)
 面白そうに口の端をつり上げながら、水鈴は副社長室を飛びだした。
 取り合えず倖介と連絡を取らなければならない。倖介がちゃんと仕事をしていれば政府官邸にいるだろう。携帯でのやり取りだけで用を済ませてもいいが、この後すぐに犯人のいる場所に乗り込むことになるかもしれない。なら最初から倖介と一緒にいた方が早い。それにいい気分転換になる。
 今頃彼の端末にメールが届いているはずだ。コチラが仕掛けた罠に掛かってくれていれば、かなり絞り込めるはず。

 流線型のフォルムをした真紅のエアカーを飛ばすこと十分。
 途中通りかかった秋雪のマンションの近くで倖介を見つけた。
 ――倖介は見知らぬ女性とイチャついていた。

「今度あんなことしてたら本気で再起不能にしますよ」
 助手席に倖介を乗せ、水鈴は猛スピードで政府官邸に向かっていた。
「ほ、ほんなら聞かせてくれ。今のコレは、なんや……」
「半殺しです」
 掠れた声で息も絶え絶えに言う倖介に、水鈴は冷淡な口調で返す。
 いったいこの男は何を考えているのだろう。仕事中だというのに、それも白昼堂々と。
 沙耶の純粋さの一パーセントでもいいから分けてやりたい。
「私には夜崎さんの行為が信じられません」
「……俺にもお前の馬鹿力が信じられへんわ」
 頭に大量に巻かれた治癒包帯の隙間から片目だけを僅かに覗かせ、倖介はか細い声で力なく言う。
「そんなことよりさっさと確認してください。メール」
「……お前に端末壊されたから見られへん」
 原形をとどめていないリストバンド型の端末を、震える手で持ちあげて倖介は呻く。
 まったく。安物を使っているからだ。
「それじゃ私の貸しますから。とっとと自分のIDでログインしてください」
「……さっきから指先が冷とーて動かん」
 言いながら倖介は、紫色に染まった手をコチラに向けた。
 まったく。貧弱な体をしているからだ。
「ほら、着きましたよ。今度は抜け出そうなんて思わないでくださいね」
「……そこまでの気力が戻るのに、どんだけかかるかな」
 虚ろな視線を遠くの方に向けながら、倖介は這うようにしてエアカーを出た。そして堅牢な要塞を彷彿とさせる、白い壁だけで直線的に形作られた政府官邸に向かって、ナメクジのようにノロノロと進んでいく。
 途中、超硬金属の門扉の前に立ったガードロボットに両脇を支えて貰いながら、倖介はたっぷり五分掛けてようやく敷地内に足を踏み入れた。
「あ、そうそう。言い忘れていましたが『ナイン・ゴッズ』のメイン掲示板に大量の書き込みがありまして。全て夜崎さん宛てです。しかも書き込み主は全員女性と思われます」
 地響きと大量の砂煙を残して、倖介は雄叫びと共に官邸内に駆け込む。跳ね飛ばされたガードロボットがシステムエラーを起こして倒れていた。
「ま、嘘じゃないわよね」
 冷めた目つきで言いながら、水鈴は高いヒールを鳴らして倖介の後に続いた。


《マオルという管理者に暴行されそうになりました。絶対クビにして下さい》

《マオルさん酷いです。私というものがありながら他に十人もの女性と付き合ってるなんて》

《私、ようやくマオルさんの子供作る勇気が出のに……ヒドい。バーチャル体の命だからって粗末してもいいと思ってるんですか?》

《テメーマオル! ふざけんじゃねーぞ! アタシにプロポーズしたのは何だったんだよ!》

「なんっ、じゃこらああああぁぁぁぁ!」
 ワーキングデスクに内蔵された固定端末の前で、倖介は胃の奥から絶叫を上げていた。頭に巻かれた治癒包帯を掻きむしるようにしてはぎ取り、両拳をデスクに叩き付ける。
「夜崎さんモテモテですね」
「こんなん全部デタラメに決まっとるやろ!」
「だといいですね」
 水鈴は部屋の隅で腕組みしながら冷徹に返した。
 つい先程あんな姿を見せられては、何を言っても虚しく響くだけだ。
「なんで早よ消せへんねん! お前も他の管理者も何しとんのや!」
「私が消すのを止めさせました」
「何でや!」
「夜崎さんに見て貰うためです」
「あてつけか!」
「いやがらせです」
 顔を真っ赤にして激昂する倖介の怒声を涼しい顔で流しながら、水鈴は淡々と言う。
「そーかいそーかいそーですかぃ! ほんなら今度からお前のニックネームは『マッド・――」
 そこで倖介の言葉が止まった。
 水鈴のイヤリングが倖介の指と指の間を縫ってデスクに刺さっていたからだ。
「『マッド・』……なんですか?」
「マッ、ド……」
 額から大量の冷や汗をかきながら、倖介は手元で狂おしい輝きを放つイヤリングを凝視する。しばらくその体勢で固まっていたが、急に露骨な愛想笑いを浮かべると、病的に明るい表情になって続けた。
「まっ、どーでもええやん。もっと建設的な話ししよかー」
「賛成です」
 頷きながら短く言うと、水鈴は倖介のワーキングデスクに歩み寄って固定端末のモニターを見る。
「先程の話ですが。この書き込み、消したくても消せないんです。少なくとも管理者補佐システム・エージェントの権限では」
「どーゆーこっちゃ」
「管理者権限で書き込まれた物だと思われます」
「管理者? そーか! お前が……!」
「して欲しいんですか?」
 虫ケラを見下ろすかの如く無慈悲な水鈴の視線に、倖介は残像ができるほどの高速で首を横に振った。
「それと見てください。コレを」
 言いながら水鈴はコンソールに手を伸ばし、慣れた手つきでコマンドを打ち込んでいく。そして数秒後、モニターには『該当者なし。存在しない、あるいはすでに削除された可能性があります』というメッセージが記された。
「今、この書き込み者のIDの一つを夜崎さんの権限で検索に掛けました。ですが結果は『ナイン・ゴッズ』のどこにも存在しない。つまり――」
「削除した。管理者権限で」
「そうです」
 管理者には新しいIDを作ったり、そのIDを抹消したりする権限が与えられている。例えば、秋雪がレノンザードの他にもう一つ持っているフォールスノーというハンドルネームのIDも、彼が管理者権限を用いて生みだした物だ。
 犯人はその権限を何回も使って大量のIDを生み出し、そして書き込むと同時に消した。
 そうすれば書き込み者のIDが全て違うのも、そのIDがどこにも見つからないのも納得できる。
「手口いっしょやな。久遠のIDとパス要求してきとるヤツと」
「ええ。まず間違いなく同一犯でしょうね。ですからもう来ているはずですよ。夜崎さんに直接、催促のメールが」
 水鈴の言葉に倖介は軽く頷きながら自分のメールフォルダを開ける。
 ソコには『二度目の警告』というタイトルのメールがあった。受信時間は一時間ほど前だ。
「私が夜崎さんの携帯端末を壊す前ですね。気付かなかったんですか?」
「……ちょっと、修羅場やったんや」
 沈痛な面もちで言いながらメールを開く倖介。取り合えず今は何も言わないことにする。

《我は十人目の管理者。約束の期限まであと二週間。早々に要求を呑むべし。もしあと一週間経ってもコチラの要望がかなわぬ場合、次は掲示板で管理者マオルのリアル体の名前が『夜崎倖介』であるということを写真付きで公開する。もはや警告ではない、強制だ。ロゼだけではなく、アーヴァリウスまでも使って我を不愉快にさせた罪は重い。貴様は常に監視されている。これ以上の軽率な行為は早急に慎むべし》

「なかなか過激な文面ですね」
「そーとーバレん自信あるんやろーな。自分が管理者やーゆーことくらい分かっても全然平気ゆーツラしとんで」
 掲示板への書き込みを自分がしたと認め、さらにマオルの正体まで知っていると言ってきている。
 自信過剰なのか自己顕示欲過剰なのかは知らないが、どちらにせよコレで終わりだ。ココまでの情報が出そろえば一人に絞り込めるだろう。
「アーヴァリウスの名前を出したのはいつですか?」
「二日前や」
 即答した倖介に水鈴は目を細めながら何度か頷いた。
 面白いくらい見事にコチラの仕掛けた罠に掛かってくれたものだ。
 一週間前、水鈴が思いついたトラップ。それはあえて犯人にコチラの捜査情報を開示すること。
 犯人は自分達の動きを正確に把握している。それこそすぐ隣で聞いているかのように。
 だから水鈴は思った。もしかして犯人は普段自分達が何気なく接している誰かではないのか、と。そして会話の中からトップシークレットの情報を得ているのではないかと。
 勿論、自分はそんなこと一言も喋ってはいない。秋雪や他の管理者にもだ。
 だとすれば倖介しかいない。
 彼の口の軽さは厚さ数ミクロンの電子部品級だ。二週間前、最高権限を乱用して他の女性管理者のホームアドレスを割り出したという大問題を、アッサリ口にしたのがそのことを雄弁に物語っている。
 案の定、倖介は会話を盛り上げるためのネタとして何度か使っていた。本来なら再起不能にするところだが、今ソレをやってもしょうがない。むしろ利用できる。
 水鈴が倖介に出した指示は、今までと同じ調子でコチラの捜査状況を吹聴するという物。
 ただし、一部にニセの情報を混ぜて。
 その一部が現在捜査に当てている管理者の名前だ。
 自分と倖介、それとあともう一人。
 この三人目の名前を日ごとに変えていく。例えば一日目ならティレイユ、二日目ならドーリー、三日目ならオッドフェルトといった具合に、毎日三人目の管理者の名前を変えて話のネタにして貰う。
 そしてこのニセの情報に踊らされた犯人は、前回のメールと同じく自分の力を見せつけるためにコチラの捜査人員を正確に言い当ててくる。罠だとも知らずに。
 後はその名前を出したのがいつだったのかを倖介が記憶していれば、その日に倖介が会話した人間に犯人が絞り込まれるというわけだ。
 犯人が知らせてきた三人目の管理者の名前はアーヴァリウス。そして倖介がその名前を出したのが二日前。
「……そん中で、俺が『マオル』やーゆーこと知っとる管理者、か」
 管理者であり、倖介のハンドルネームを知っており、そして二日前に会っていた人物。
 それは――
「……アイツしか、おらんな」
「分かったんですね?」
 水鈴の言葉に倖介は静かに、そしてどこか戸惑いの表情を浮かべながら頷いた。



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