玲寺は見た!

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壱『相手にしない』


◆主役は見た ―篠岡玲寺―◆
 ソレは異様な光景だった。
 奇妙で珍妙で怪奇で凄絶な惨状だった。
「ばっか、久里子ー。こういうのは一声掛けてくれよー。そしたらいくらでも手伝ってやるからよー。力仕事は大得意。な? 長い付き合いなんだからよ。助け合いってのは大切にしないとなー」
 あの冬摩が愛想笑いを浮かべている。
「そーだよ久里子お姉ちゃん。ボクらの間でそんな水っぽい事、言いっこ無しだよー。『司水』で蒸発させちゃうよー? もー」
 あの麻緒が年相応に見える。
「んー? そーぉ? それはスマンですねー。ウチかて別にアンタらの事、邪険に扱っていた訳じゃ御座りません事なんやけどなー。おほほほほー」
 あの久里子がエセ関西弁を喋っている。
(何だ、コレは……)
 何の冗談なんだ。自分は昨日、何かおかしな物でも食べてしまったのだろうか。夕食のメニューの中に、密林地帯に生えていた名称不明の植物が混入していて、ソレが重度の幻覚作用を有していたとか……。いやいや、ひょっとすると自分の魂はすでにあの世に召されていて、今見せられているのは地獄の番人が用意した拷問の一つ、とか……。
(分からない……)
 全くもって理解不能だ。
 だが、一つだけはっきりしている事がある。
 ソレは尋常ならざる異常が、目の前に惜しげもなく晒されているという事実。
 玲寺は思う。
 ――何とかしなければ。
 玲寺は切に思う。
 ――時空間が歪みきってしまう前に。
 玲寺は切に願う。
 ――自分が笑い死ぬ前に。
(そのためには――)
 記憶を少し遡らなければならない。こうなった原因を明確にして、ソレを補正しなければならない。
 冬摩への愛に誓って。
 そう、今思えば、事の発端は久里子のあの一言から始まった――

 ■□■□■

「なぁ、玲寺さん。冬摩と麻緒の部屋、な。二つ纏めよーか思ーとるんやけど」
 太陽の恵みが心地よく包み込んでくれる、うららかな午後の一刻。
 土御門財閥の洋館の中庭にある、三人掛けの木製ベンチ。
 日溜まりの中でラベンダーのハーブティーを楽しんでいた玲寺に、久里子は雑誌から目を離す事なく言ってきた。
「冬摩と麻緒の?」
「そうや」
 言いながら久里子は顔を上げてコチラを向き、ウェイブ掛かった栗色のロングヘアーを軽く梳く。
「冬摩はトモちゃんとラブラブのべったべた。麻緒の方もちょっとは落ち着いたみたいな感じや。カナちゃんとも……まぁまぁ何とか。この先絶対暴れへんとは言い切られへんけど、ココに戻ってくる事はまずない思うんや。二人ともな」
 ノーフレームの眼鏡の位置を直し、久里子はふくよかな胸の下で腕を組みながら言った。
 冬摩と朋華の仲は、もう自他共に認めるバカップル。二人で居る時は完全に自分達の世界を構築しきっていて、まともに見る事すら憚られる。あのピンク結界は水鏡魎をもってしても、容易に破る事は出来ないだろう。
 まるで何かの抑圧から解き放たれたように身を寄せ合う二人は、さながら年中七夕状態の織姫と彦星。もう毎日のように、何かしらの記念日が生まれそうな勢いだ。愛は盲目とはよく言うが、二人の場合『盲目』どころか、いつ『絶命』してもおかしくない。そのくらいの愛し合い方だ。戻ってくる事など有り得ない。宇宙で逆方向に飛ばされたナノレベルの粒子が、再び出会うくらいの超低確率だ。
 そして麻緒の方も随分丸くなったように思える。
 あの最後の戦い。冬摩の体を乗っ取った龍閃との戦い。その常軌を逸した力に、麻緒は本物の恐怖を感じていた。混じりけなど微塵も無い、純粋な恐怖を。そして打ち砕かれた。
 無邪気な好奇心を。無謀なまでの自信を。
 今まで九重麻緒という人間の殆どを構成していた物が、あの一瞬で瓦解してしまった。
 麻緒は苦しんだはずだ。自分の中で何とかして決着するために色々と考えたはずだ。だが納得のいく答えなど浮かぶはずもない。閃く事も無い。
 力以外の方法で何かを解決した事の無い麻緒とって、大きな試練と成るはずだった。
 しかし麻緒は見事にソレを乗り越えた。新しい自分を獲得した。
 夏那美の力を借りて。
 実際にその場に立ち合った訳ではないが、今の二人の和やかな雰囲気を見れば明白だ。アレから一ヶ月に一回くらいのペースで様子を見に行っているのだが、麻緒のあんな表情はかつて見た事がない。上手い表現は見付からないが、妙に“安心しきっている”。
 以前の麻緒は、表向きはニコニコしつつも、裏では猛毒を塗り込めた刃物を隠し持っていた。幼さ故の非情さを多大に内包していた。
 だが今の麻緒からはソレが感じられない。完全に押し殺しているのではなく、最初から持ち合わせていない。少なくとも夏那美と一緒に居る時は。
 今後も麻緒にとって、夏那美は間違いなく大きな存在になり続ける。麻緒は夏那美から学ぶべき事が沢山ある。
 だから少なくともその“教育”が終わるまでは、ココに戻って来ないだろう。そして終わったら終わったで、もっと戻りたくなくなるはずなんだ。東宮夏那美とはそういう女性だ。だから麻緒はもう二度と戻ってこない。
 ただ個人的には……またどこかで歯車が狂って、修羅道を歩み始めた麻緒を見てみたい気もするが……。
「玲寺さん、どない思います?」
「え……?」
 久里子の声に玲寺は思考を止め、白いジャケットシャツの襟元を正しながら視線を上げた。そして上質な琥珀色の輝きを持つ、洋館の壁に瞳を泳がせる。
「ま、まぁー、なかなか面白いカップルになるんじゃないでしょうかね。麻緒相手だと、あのくらい押しが強いので丁度良いと思いますよ?」
「……玲寺さん、人の話聞いてました?」
 どこかたどたどしい喋りで返した玲寺に、久里子は眼鏡の奥からジト目を向けてきた。
「えーっと、ですから、その……。冬摩と麻緒の事、ですよね?」
「そーなんですわ」
 フード付きの青いタンクトップシャツの裾を揺らして、風を取り込む久里子。なんとか話が繋がった事に、玲寺は取り合えず安堵の息を吐く。
「なーんか、あのスペース勿体ないかなー思ーて。帰る見込みの無い主ずっと待たしとくより、ウチらで有効活用したった方がええんちゃうかな思うんやけど……玲寺さんどないです? やっぱ思い出の空間として残しときたいですか?」
 両腕をベンチの後ろに回しながら言い、久里子は大きく胸を逸らして天を仰いだ。
「そうですねぇ……」
 玲寺は人差し指で眼鏡のブリッジをつつき、目に少し掛かる辺りで切り揃えた黒髪をいじる。
 冬摩と麻緒の部屋を別の事に、か……。
 確かに、誰も使っていない空間をそのまま遊ばせておくのは少し惜しい気もする。効率だけを考えるのであれば、久里子の言う通りリフォームしてしまった方が良い。
 しかし、だ。
 麻緒の方はともかく冬摩の部屋は自分にとって至高の場所。彼が出て行ってから三年経った今でも、冬摩の残り香は未だに濃く鎮座している。ソレは彼の姿を寸分の狂いも無く思い描き、目が痛くなる程の鮮明さで再現できる程に。
 が、その卓越した自分の異能が、大いなる哀しみを生み出している事もまた事実。
 もう冬摩の心は手に入らないと分かりつつも、延々と偶像だけを追い続けているのは苦行に等しい。まさしく修羅の道。今までずっと温めてきた想いを断ち切るという意味でも、コレは良い機会なのかも知れない。
 かつての自分の気持ちを真摯に貫き通すか、あるいは新しい明日に向かって勇気ある第一歩を踏み出すのか。
 重大な選択だ。あまりの重圧で躰が裏返りそうになるくらい大切な岐路だ。
 どうする。何と答えればいい。
 後悔しないためには。自分が正しいと信じ、真にやりたい事なのだという確証を得るためには、どうすれば……。
 こんな時、きっと冬摩なら……。いや、今は麻緒もそうかも知れない。
 自分の決断を完全に委ねられる程に信頼し、信用し、心から大切だと思う女性が側に居て、その人が一切の紛れも無く導いてくれる。絶対の安心を与えてくれる。そんな存在が、自分には――
「ど、どないしたんですか玲寺さん。エラい汗ですよ。また腰痛ですか? 誰か噂してるんですか?」
 久里子……。
「ああいや、別に今すぐ決めろゆーてる訳やなくて。ぼちぼちこんな事も考えてもええんちゃうかなー、っていう一意見ですわ。せやからそんな人格崩壊寸前みたいな顔で鬼気迫られても、ウチもちょっと……」
 彼女は、自分を受け入れてくれた。龍閃の死肉が完全に着床する事により、魔人の体となってしまった自分を迎え入れてくれた。
 その事には感謝している。大変深く感謝している。だが――
「久里子、例えばココに大きな湖があったとしましょう」
「は……?」
 突然始まった玲寺の話に、久里子は甲高い声を発する。
「その湖の水はとても綺麗で、人々の喉の乾きを潤し、豊かな土地を築き上げ、そして永遠の繁栄を約束してくれました」
「はぁ……」
「が、その湖の近くに住んでいた一人の男は、ある日旅立ってしまったのです。何故だか分かりますか?」
「さぁ……」
「合わなかったんですよ。美しすぎる水も、肥沃な大地も、大自然の庇護も。彼は普通ではなかった。だから自分の安住の地を求めて、別の土地へと移り住んでしまった。そこで彼は運命的な出会いをし、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「あー、つまり……」
 玲寺の例え話に、久里子は前髪を掻き上げながら声を漏らし、
「玲寺さんは男好き、と」
(いきなり読まれた!?)
 しかも極めて端的に。最重要点だけを的確に押さえて。
「そんなん今更言われんでも分かってますよ。ウチが女である以上どー頑張っても、冬摩にとってのトモちゃんにはなられへんし、麻緒にとってのカナちゃんにはなられへん。要するにそういう事でしょ?」
 コイツ……どうしてそこまで……。まさか『天空』にも『月詠』と似たような力が?
「そのひょっとこみたいな顔見ると、図星ゆー感じやな。男ってホンマ単純やわー」
 黒のブーツカットパンツを履いた足を組み替え、ベンチに座り直しながら久里子は呆れたように言う。そしてやれやれと溜息を漏らし、
「ま、そんな迷ってるんやったら、こーしませんか? 取り合えず部屋の持ち主の意見を聞いてみる。ほんで残しといて言われたら手ぇ付けへんし、いらん言われたらリフォームする。玲寺さんも冬摩本人の口からはっきり言われたんやったら、踏ん切り付けやすいでしょ」
 恐ろしい……なんと恐ろしい……。一体どこまで見通しているのか……。コレが俗に言う女のカン……いや悪寒……むしろオカン、というヤツか。自分は少し前まで、こんな女の敵に回っていたというのか……。
「まぁ何にせよ、あの二人にはちゃんと話通しとかな思ーてたし。今すぐ連絡付くかは分からんけど、ひとまずその方向で行くゆー事で。玲寺さんもソレでええな?」
 言いながらパンツのポケットから携帯を取り出し、慣れた手つきで操作し始める久里子。
「そう、ですね……」
 何となく、今後彼女に頭が上がらなくなりそうなのは気のせいだろうか……。

 連絡は付いた。驚く程あっさりと。
 本人に直接という訳にはいかなかったが、二人のパートナーと繋がり、そしてそのすぐ近くに居た冬摩と麻緒に代わって貰った。
 ――面倒臭いからそっちで適当に処理しといて。
 きっとそういう類の答えが返ってくると思っていた。あの二人なら間違いなくそう言うだろうと思っていた。
 余程の理由でもない限りは。
「あと、十分くらい、か……」
 洋館内の大ホール。その中央で構える、シルバークロスに包まれた縦長のテーブル。
 出入り口から一番近い椅子に腰掛け、久里子は落ち着き無く振り子時計の針を見ていた。扉のすぐ隣りに立て掛けられた古風なデザインの精密機械からは、重厚なリズム音が鳴り響いている。
「さっきから随分とそわそわしてますが、大丈夫ですか?」
 久里子の斜め前の席に座り、玲寺は眼鏡のグラスを拭きながら聞いた。
「へっ? あ、ああ。勿論や。いやホラ、意外やったからなー。まさか来るなんか思ーてへんかったから」
「ソレは確かに」
 頷き、玲寺はカモミールのハーブティーを少し口に含む。
 久里子の言う通り、二人がこの洋館に来るとは予想外すぎた。そんな選択肢があっただなんて夢想だにしなかった。
 久里子が冬摩と麻緒から受けた答えは全く同じ内容だった。
 すなわち、別にリフォームしても良いが少し待ってくれ。どうせなら自分も手伝いに行く。
 今から。
 一体誰がこんな返事を想像できただろうか。自分の胸中をあれ程正確に言い当てた久里子でさえ、この狼狽っぷりだ。誰にだって出来やしないさ。ソレが神であったとしても。
 あの面倒くさがりコンビが、わざわざ自分から協力を申し出るなど。そこには莫大な矛盾が抱え込まれている。
 例えるなら、高齢の夫を寿命で失い悲しみに暮れるお婆さんが、通夜で養命酒をあおるようなものだ。更に例えるなら、ギリギリのバイトで生活を成り立たせている苦学生が、『それならケーキを食べればいいじゃない』と言うようなものだ。おまけに例えるなら、自分の履歴書の所持スキル欄に、『漢“学”検定一級』と書くようなものだ。
 有り得ない。インポッシブル。
 何かある。絶対に何かある。いや、あらざるを得ない。でなければこの世の因果律が狂ってしまう。
 あの二人は部屋に何かを隠している。人には決して見られたくない……いや、見たところで分からないかも知れないが本人が極めて嫌がる物。にもかかわらず容易に忘れてしまう物。そうでなければココを出る時に持ち去っているはず。
 重要であると同時に不快。それ故に忘却の彼方に押しやりたい。もう二度と見たくない。
 そういう物が二人の部屋には存在している。
(面白い)
 実に面白い。
 一体ソレが何なのか。個人的な興味は勿論の事、もし突き止める事が出来れば今後強力な武器になるかも知れない。少なくとも知っておいて損は無い。
(……だんだん魎に似てきましたかね)
 カモミールの甘い香りを肺一杯に吸い込みながら、玲寺は内心苦笑する。
 自分は確実にあの多重人格ペテン師の影響を受けている。だがソレだけではない。きっと元々こういう性格なのだ。そして麻緒のおかげで頭の靄が晴れた。
 今の自分はもう――
(『観客』じゃない)
 役者の一人だ。
 なら当然舞台に上がらなければならない。そして自分に与えられた役を演じなければならない。だから――
「おっ……」
 エントランスの方から聞こえた音に、久里子が貧乏揺すりを止めて顔を上げる。そして小走りに扉へと駆け寄った。どうやら、どちらかが到着したらしい。
(さて、と)
 そんな久里子の背中を見つめながら、玲寺もティーカップを置いて立ち上がる。
 いよいよご対面だ。どんな表情をして、どんな口調で、どんな事情説明をしてくれるのか。もうさっきから楽しみでしょうがない。こんなにも心が躍るのは久しぶりだ。
 いつ以来だろうか。
 冬摩と真剣勝負をするために龍閃の側に付いた時から? 念願だった冬摩との愛の記録を手に入れた時から? それとも、この館で初めて冬摩と出会った時から?
 まぁいい。何にしろ今のこの昂揚感は本物だ。なら楽しまなければ。自分のやりたい事を思う存分やらなければ。
 今日だけは魎や龍閃の事は忘れられそうだ。たまには良いだろう。少しくらい息抜きをしても。そう、少しくらいは……。

 ■□■□■

 そして、現場の状況は自分の予想を遙かに超えていた。
「いやー、にしてもやっぱ落ち着くなー、ココは。ま、見た目は色々変わっても、何百年も居座った場所だからなー。うーん、ホーム感」
 うなじの辺りでくくりつけた長い黒髪を揺らし、冬摩は玄関ホールを挙動不審に見回しながら上擦った声で言う。
(ほ、“ホーム感”て……)
 冬摩の口から飛び出したあまりに違和感のある表現に、玲寺はずり落ちそうになる眼鏡を辛うじて上げ直した。
「にしても相変わらず若々しいねー、久里子お姉ちゃん。プロポーションもバッチリだしさー。腰のくびれ具合とか超サイコー。今からだって全然スーパーモデルとか狙えちゃうよー」
 組んだ両手を頭の後ろに回し、ブリッジしそうな勢いで麻緒は胸を仰け反り返らせる。
(お世辞!? まさか今のはお世辞か……!?)
 どこかに超小型のスピーカーでも取り付けられていて、遠隔操作を受けているのではないかと、玲寺は思わず麻緒の体をまじまじと見つめる。
「どないしたんどすかー、玲寺はん。冬摩はもう無理だから、麻緒に鞍替えでもしようっちゅー魂胆で御座いますかー?」
(ッてなんでやねん!)
 もはや何語なのかすらも判別できなくなってしまった久里子の言葉に、玲寺は心の中で力一杯ツッコミを入れた。
 予想外だ。
 自分が想定していた範囲を大きく逸脱している。
 特に久里子。彼女は一体どうしてしまったんだ。
 確かに冬摩と麻緒の言動はおかしい。何か裏がある。何か企みがあってココに来ている事は間違いない。
 だがその点に関する意外性はもう済んでしまったはずだ。二人が土御門財閥に来るという話を電話で聞いた時点が驚きのピークであり、今はとっくに落ち着きを取り戻していても良いはず。
 二人の奇天烈さを目の当たりにして動揺が加速した? 冬摩が朋華を連れていない事に激しく動転した?
 無論、そういう事が全く無いとは言い切れない。だが顔に出す程の事ではない。久里子のように理知的な人間なら尚の事。
 むしろどんな隠し事を秘めているのか、そちらに向けて虎視眈々と牙を輝かせていてもいいはずなんだ。悪戯心をくすぐり倒されていてもいいはずなんだ。
 ――自分のように。
(面白い)
 実に実に面白い。
 冬摩と麻緒に訪れた内面の破綻。そしてソレに伴う久里子の変調。
 なんとかしなければならない。
 こんな面白すぎる物を放置していては、いずれ自分の精神が異常をきたしてしまう。
 その前に何としてでも原因を暴かなければならない。そしてソレを取り除かなければならない。今から自分がする事は、まさしく四人全員のために行う事なんだ。
 決して、他人の恥ずかしい記憶を覗き見て、あまつさえソレを何かに悪用しようなどという、不埒な考えに基づいての行動ではない。自分の中で確実に息づいている正義の心が、この身を突き動かし、真実を探求する情熱を燃やしているのだ。
(私は『観客』ではない)
 そう。今回は――主役だ。

◆悟ったはいいが ―荒神冬摩―◆
 朋華の携帯に久里子から連絡が入った時、“またか”と思った。
 最近、妙にアイツから声が掛かる。隣りで話の内容を聞いている限り、ファッション系の物らしいのだが詳しくは知らない。知ったところで自分が何か意見できるような事などない。有るとすれば、朋華との時間を邪魔するなという苦言を呈する事くらいだ。
 勿論、そんな事をすれば朋華が悲しむ。だからしていない。
 この数ヶ月で我ながら随分と落ち着いてきたと思う。かなり気持ちをコントロール出来るようになってきたと思う。昂ぶった感情を抑えるすべを身に付けられてきたと実感できる。
 全ては自分の中に居る龍閃を押し鎮めるため。そして魎の思惑を挫くため。
 おかげで、朋華と楽しくお菓子作りをしているところを邪魔されても何とか堪えられたし、久里子から言われた内容にも辛うじて平静を保つ事が出来た。一時的にとはいえ、朋華と離れ離れになってしまう事に対しても何とか自分を納得させられたし、ココに来る間の破壊活動は最小限に留めてきた。
 だが――だが――
「あの、野郎……やっぱり……」
 漆の光沢を放つワードローブ。かつて冬摩が着ていたTシャツやジャケット、シーンズなどが乱雑に詰め込まれた暗い空間。
 ソレら衣類をかき分けて到達した一番下の段に、目的のブツは置かれていた。
「クソッタレ!」
 ご丁寧に用意されたガラスケースを叩き割り、冬摩は中に入れられていたポスターサイズの巨大な写真を取り出す。そして盛大な音を立てて細切れに引きちぎり、持参したビ布袋に押し込んだ。
「あんの……! ガキィ!」
 目を血走らせて服を全部外に放り出し、他にも残っていないか徹底的に調べ上げていく。
 コレばかりは無理だ。コレばかりは抑える事など出来はしない。
 こんな羞恥、屈辱、汚辱を味あわされて冷静で居られる程、自分はまだ悟り切ってはいない。
「オラ次ぃ!」
 全ての衣服のポケットを引き裂いて中まで丁寧に確認した後、冬摩は弾け跳ぶようにしてベッドの下に潜り込んだ。
 とにかく全てだ。この部屋に残っている写真は全て見つけ出して抹消しなければならない。未来永劫、誰の目にも写してはならない。
 あの、玲寺とのツーショット写真だけは。
 あの世にもおぞましい内容の異次元物質だけは。
 不覚だった……いくら寝込みを狙われたとはいえ……例えあの時はまだ味方同士だったとはいえ……あそこまでの接近を許してしまうとは……。
 不快な獣を挟んでいるとはいえ、あんな……肌と、肌が……。
「あああああアアァァあァアああぁぁぁアアアァァアぁぁ!」
 ぞわぞわぞわぞわぁ! っと骨髄の内側からせり上がってきた、吐き気を伴う怖気に冬摩は身悶えする。一瞬、散り散りになりかけた自我を気合いで繋ぎ合わせ、冬摩は眼に力を込め直してシーツを引き剥がした。
「あ……」
 今度こそ駄目かと思った。
 全身からありとあらゆる力が抜け、膝が情けなく折れる。
「クッ……!」
 だが不屈の本能で倒壊を拒み、『白虎』の『断空爪』をシーツ下一面に敷き詰められた写真に放った。
「あの……野郎……」
 凄絶な視線を巨大な一枚窓ガラスの外に向けながら、冬摩は地獄の底から声を出す。
 玲寺。篠岡玲寺。紳士の仮面を被った無尽蔵変態同性愛者。
 性懲りもなく、部屋のあちこちに汚物をばら撒きやがって……。どうしても意識させたいのか、何回破り捨ててもいつの間にか復活させてやがる。意識させたいにもかかわらず、ぱっと見ただけでは分からない場所に忍ばせていやがる。
 自分の気を引くためにこんな事をしているんだろうが、全くもって真逆の事をしている。しかも逆効果だという事を自覚した上で続けている。
 理解できない。理解したくもないが。
 とにかく、リフォームだか何だか知らないが、こんな物が他の奴の目に入ったら……。
 いっその事『餓鬼王』の『大喰い』で片っ端から喰らってしまうか。この部屋ごと。この洋館ごと。玲寺ごと。そうすれば何も心配しなくても……。
(ああ、いかんいかん……)
 自分の悪いクセだ。すぐにそうやって事を大きくしようとしてしまう。ソレでは昔と何も変わっていない。もっと自分を抑えて被害は最小限に、だ。そういう事を日常から心がけていれば、自然と自制心が身に付く。そして龍閃と魎の邪魔に繋がる。
 そう。コレで良いんだ。昔の、気に入らない事は片っ端から潰していた頃の自分とは違うんだ。
 とにかく、すでに元は断っている。ネガはあの時消し炭にしている。
 だからココにある分を無くしてしまえば、全てに決着が付く。全てに――
(本当に?)
 本当にそうなのか? 本当にココにある分だけでいいのか? そもそもあの時に処分したネガが全てだと言い切れるのか? 他にも沢山隠し持っていたとしてもおかしくない。
 大体今日日、ネガなんか無くても簡単に複製出来るんじゃないのか? 詳しくは知らないが、機械とか色々いじって、データとか使って……。
(駄目だ……)
 考えれば考えるほど悪い方向に行ってしまう。元々自分の頭はこういうややこしい事には向いていない。頭脳労働は久里子か玖音の担当だ。しかし相談できるはずもない。したくもない。情けなさ過ぎて……。
 となれば取るべき道は単純痛快な一方通行。
 すなわち、玲寺を叩く。
 大元を根絶してしまえば恐れる物は何も無い。力ずくで黙らせて、その後でゆっくり回収作業に掛かれば――
(馬鹿か、俺は……)
 溜息を付き、ベッド横に置かれているサイドテーブルに冬摩は腰を下ろす。そしてレザーパンツのポケットに左手を突っ込み、右手の指先で龍の髭を解いた。纏めていた髪が宙で踊り、背中に狼がプリントされた黒シャツの肩口へと舞い降りる。
(もうちょっと考えろよ……)
 サイドテーブルの引き出しを開ける。そこには刃渡り二十センチ程の大振りのジャックナイフ。ソレを取り上げ、冬摩は片手で弄んだ。
 コレを使っていた頃は本当に血の気が多かった。血の気しかなかったと言ってもいい。
 このナイフで左腕を傷付け、自分から未琴を奪った龍閃への怨みを忘れないようにしていた。
 気に入らない物はブッ潰す。気に入らない奴はブッ殺す。
 その血生臭い信念を貫き通して、あの時は痛い目にあったんだ……。

 ■□■□■

 殺す。絶対に殺す。コイツだけは殺す。とにかく殺す。
「ブッ殺す!」
 力任せに放った右腕の一撃が空気を焦がし、正面にあった玲寺の背中を捉えた。
 が、手応えは無い。爪は白いコートだけを虚しく引き裂き、密林の姿を途切れ途切れに映し出す。
「やーん、冬摩ちゃんコワーイ」
「ッのガキぃ!」
 声のした方に振り向きざま、冬摩は裏拳を叩き付けた。
 冷たい感覚。そして力が逃げていく。
「こんなのがお顔に当たったらタイヘーン」
 コチラの打撃を常に斜面で受け止められるよう、複雑に組み上げられた氷壁の向こう側で、玲寺は両手を頬に添えながら言った。
「チョロチョロ――」
 氷のアスレチックに右腕を埋め込んだまま、冬摩は力を込める。
「してんじゃねぇ!」
 そして内側から熱の塊を暴発させた。
 『貴人』が形作っていた氷城は溶け落ち、蒸発し、空気と一体化して周囲に霧散する。
「死ねオラァ!」
 たわめた脚を爆発させ、冬摩は怒声と共に玲寺との距離を一気に詰めた。濃密に圧縮された空気の森を突き抜け、叫声を上げて右腕を振り上げる。
(殺った!)
 逃げられない。逃げられる間合いではない。
 どこにどう動こうと、このまま振り下ろせば終わりだ。
「クタバレ!」
 殺戮の悦びに口元を歪ませ、固く握り込んだ右拳を真下に突き出す。破壊の力は玲寺の胸板を貫き、そのまま勢いを殺す事なく地面に埋め込まれた。
 全く、何の抵抗も無く――
「な――」
「人の目という物は存外いい加減な物です」
 声は真上からした。 
「目が映し出すのは光の反射が生み出す鏡像。光は密度の高い場所を好んで進む。ソレは水だったり、冷たい空気だったり。まぁ、簡単に言えば蜃気楼のような物ですよ」
 水だけで構成されたエイのような外観を持つ浮遊体――『貴人』に抱きかかえられ、玲寺は悠然とコチラを見下ろしていた。
「でも困りましたねぇ。こんなに大きなクレーターを中庭に作ったのでは、久里子に怒られてしまいます」
「この……!」
 深く抉られた地面から右腕を引き抜き、冬摩は玲寺に向かって跳んだ。ソレに合わせて玲寺は『貴人』の体を蹴り、冬摩から距離を取る。
「待ちやがれ!」
「ほーらほらほらっ! コッチよー! 冬摩ちゃーん!」
 片手をヒラヒラと振りながら走り、玲寺は首元の蝶ネクタイを少し引き伸ばして強調した。
「貴方の欲しがってるネガはコ・コ。私を捕まえられたらプレゼントしてあげるわーん」
「ブッ殺す!」
 土御門財閥の洋館の外周に沿って走る玲寺を睨み付け、冬摩は蹴り脚に力を込める。一歩前に踏み出すたびに大きくなっていく玲寺の体。
 馬鹿が。そんなパーティー衣装みたいな恰好で逃げ切れると思っているのか。
 大体ひ弱な人間の分際で、魔人に喧嘩を売る事自体間違ってるんだよ。
 お前らは所詮道具だ。龍閃を見付けるための道具でしかない。道具は道具らしく、黙って自分の役割を果たしていれば良いものを――よりによって……!
「ああー幸せっ。幸せだわー。冬摩ちゃんにこうして追い掛けられる日がやってくるなんてっ」
 よりによって!
「この幸せ、他のみんなにもお裾分けしたいキ・ブ・ンっ」
 よりに! よって!
「あそーれ写真吹雪ー」
「ちょ……!」
 中空に舞い散る無数の白いカード。その光沢のある面が返した陽光は、冬摩の血液を凍り付かせ、足止めするには十分すぎた。
「し、使役神鬼! 『鬼蜘蛛』召来!」
 あと少し手を伸ばせば玲寺に届くというところで、冬摩は苦渋に満ちた詞を叫ぶ。
「喰え! いいから喰え! とにかく喰え! 全部喰えええぇぇぇぇ!」
 眼前に現れた鰐の頭部を有する巨大な黒蜘蛛。ソレに一方的に命じ、冬摩は自らも回収に奔走する。洋館の壁と樹々のしなりを最大限に活かし、不規則に揺れるカードの動きを的確に捉えていく。そして視界に映る全ての写真を手の中に収めた時、玲寺の姿はどこにも無かった。
「なかなかやるわね。と・お・ま・ちゃんっ」
 耳元で聞こえる吐息混じりの高い声。冬摩は魂の絶叫を上げ、後ろに肘を打ち出す。
「まぁ、逃げ回るのにも少し飽きてきました」
 固い手応え。
「たまには貴方と力比べ、というのも面白い趣向かも知れませんね」
 体が前に押し返され、冬摩は数歩たたらを踏む。
「ケッ」
 が、すぐに反転して体勢を立て直し、腰を低く落として構えた。
「死ぬ覚悟できてんだろうな」
 持っていた写真を丸めて『鬼蜘蛛』に喰わせ、冬摩は射殺すかのように睨み付ける。その身から立ち上る殺気に反応してか、遠くの方から動物の啼き声が聞こえてきた。
「最近、低級の邪霊ばかりが相手でしてね。体がなまってきていたんですよ」
 柔和な笑みを浮かべて言いながら、玲寺は右脚に体重を掛けて背中を伸ばす。そして左半身を引いて両手を僅かに広げ、眼を大きく開いた。
「ああそうかい。それでこんな下らない真似してくれたって訳か」
「まぁいわゆる出来心というヤツですよ。貴方もあるでしょう? 新しい玩具を手に入れたら、ついつい色々遊んでみたくなる。ソレが禁断の類であれば尚更、ね」
「じゃあ死ねぇ!」
 叫びながら冬摩は地面を蹴り、真っ正面から玲寺に突っ込む。四半呼吸で距離は無くなり、冬摩の拳が玲寺の鳩尾を抉って――
「ソレは困ります」
 受け止めていた。
 両腕を交差させ、冬摩の右拳の勢いを殺していた。 
「私にはまだやりたい事があるので――ね!」
 上体を引き、後ろに倒れ込みながら脚を蹴り上げる。硬い革靴の先は冬摩の顎を捉え、そのまま止まる事無く振り抜かれた。
「こ……!」
 冬摩の顔が大きく跳ね上がる。が、脚は地面から離れない。
「――の、ガキィ!」
 吼えると同時に拳を眼下に放つ。甚大な力が地面を穿ち、土煙を巻き上げ、冬摩の視界を覆っていく。
「素晴らしい力ですね。ですが――」
 背後からの声。
「貴方は力はそんな物じゃない」
 反射的に両腕で後頭部を庇う。
「貴方はまだ手を抜いている」
 意識が体から飛び出そうな衝撃。遅れて激しい鈍痛。
 腕のガードを介してすら目の前が一瞬白くなりかけた。
「馬鹿な事言ってんじゃ――」
 気力で踏ん張り、冬摩は玲寺の足首を鷲掴む。
「ねぇ!」
 そして渾身の膂力をもって地面に叩き付けた。
 重く低い音。玲寺の体が半分ほど大地と一体化し、生まれた振動が肩まで伝わってくる。苦しそうな単音。ソレが玲寺の口から漏れ出たのだと頭が認識して、冬摩は手を放した。
 入った。まともに入った。これでもうろくに動けないはず。
 骨……いや、下手をすれば内臓まで――
「私達が味方同士だからですか?」
 土の中に身を沈めたまま、玲寺は平然と言ってくる。
「だから貴方は本気を出せないでいるのですか?」
 両肘を下に突き出し、顎が胸に付くほど顔を上げてコチラを見据えていた。
(受け身、だと……) 
 舌打ちし、冬摩は玲寺を睨み返す。
 正直、信じられない。まさかそんな行動を取るなど。
 そんな事をする余裕があるのなら、他にも対処法はあったはずなんだ。『青龍』の風か『貴人』の氷、あるいはその両方を使えば、もっと被害を抑えられたはずなんだ。
 なのにどうして、そんな自ら傷付くような事を……。
「両腕真っ赤にして言うセリフじゃねぇな」
 最初の一撃で袖が破れ去り、剥き出しになった玲寺の腕に目を向けながら冬摩は言う。
「本気を出せば折れたんじゃないですか?」
 だが玲寺は涼しげに流して立ち上がり、肩をすくめておどけて見せた。
(この野郎……)
 見定めているのか? 自分の力を。
 それとも、まさか本当に殺せないとでも?
「命懸けの戦いは全てが濃密だ。だから真剣勝負には意味がある」
 まるで何かを迎え入れるように両腕を広げ、玲寺は不敵に笑う。
「極限まで凝縮された時間を、貴方も味わってみたくはないですか? ほんの一瞬でいい、本気の気持ちを――」
 その体が僅かにブレたかと思うと玲寺の姿が四方に分かれ、ゆっくりと広がっていった。
「本気、ねぇ……」
 五人になった玲寺達に半眼を向け、冬摩は薄く笑う。そして右腕に力を込め、
「オラァ!」
 咆吼して斜め上方に突き上げた。
「――ッ!?」
 息を呑む切迫した気配。続けて落下音。
 放たれた力の塊は洋館の一室に突き刺さり、爆煙と轟音を撒き散らせる。
「気に入らねぇモンはブッ潰す。気に入らねえ奴はブッ殺す」
 砂塵の中、シルエットだけ映し出す玲寺を見下ろしながら、冬摩は大股で近寄った。
「けどな、下らねぇ目眩まししか芸の無い野郎に、本気なんざ出せるか。面倒臭ぇ」
 やがて視界は晴れ、冬摩は胸中で舌打ちする。
 そこにあったのは上着の前部を焼かれた玲寺の姿。首元から腹部に掛けて軽い火傷を負ってはいるが、致命傷には程遠い。
(避けやがった)
 苛立たしげにもう一度舌打ちし、冬摩はジーンズのポケットに入れた手を握り込んだ。
 頭を狙ったのに。確実に決まったと思ったのに。
 命までは奪えなくとも、もう二度と自分を見られない程の恐怖を植え込むつもりだったのに。ソレを……。
「あらら、ネガが台無し。コレじゃもう焼き増しできないわねぇ。ざーんねん……」
 蝶ネクタイがあった位置をぱんぱんと叩きながら、玲寺ははにかんだような笑みを浮かべる。
「ま、今回は冬摩ちゃんの勝ちって事かしら。さすがねー」
 言いながら立ち上がり、両手を頭に添えて乱れた髪の毛を整え始めた。
 戦いはもう終わり、という事らしい。勿論そんな一方的な休戦を受け入れる義理など無い。このまま追い打ちを掛けて半殺しにしてやれば、下らない事をする気も失せるだろう。
 だが、何故だ……。どうしても気が乗らない。面倒臭いとかそういう事ではなく、直感がコレ以上仕掛けるなと言ってきている。妙に不気味なんだ。コイツは……。
「でもどうして分かったの? 確率は五分の一だと思ったんだけど……」
「ケッ」
 不機嫌そうに唾を吐き、冬摩は腕を組んでそっぽを向いた。
 とにかく苦手だ。こういうタイプの輩は。どうしてもアイツの事を思い出してしまう。あの大嘘つきの女ったらし野郎の事を。
 手札を何枚も巧妙に隠し持ち、相手の出方を窺いながら好機を待っている。そういう駆け引きが大嫌いな自分にとっては、忌むべき存在であり、天敵と呼んでも良い。
 特に玲寺の場合は色んな意味で……。
「ま、何はともあれ。また知恵を絞って考えないといけませんねぇ。貴方を本気にする方法を」
「ケッ」
 何か本気に、だ。ソチラも全力には程遠いクセに。自分だけ楽しようなんざ、虫が良すぎるんだよ。わざわざ受け身なんか取って挑発しやがって。そんなモンに乗ってたまるか。
 それに、今はまだ一応味方という立場に居る。龍閃を捜し出して打ち倒すという使命を抱いている。利害は一致している。
 まぁ自分とコレだけまともに渡り合えるんだ。いざという時には、そこそこ使えるかも知れない。龍閃の足止めくらいにはなってくれるかも知れない。だから今回のところは特別に見逃してやるさ。軽い火傷くらいで済ましておいてやる。
 だがもし、敵に回ったら。その時は――
「テ、メェ……」
 横手から来た衝撃を咄嗟に肘で受け止め、冬摩は怒りに全身を震わせながら玲寺を睨み付けた。
「うふっ。本気にならない? ダメ?」
 コチラの脇腹を狙った拳を引いて口にあて、玲寺は小首を傾げながら目を輝かせる。
「ブッコロス!」
「ほーっら! オーニさーんこーちらー! 写ー真撒ーく方ーへー!」
「待ちやがれ!」
 そして、壮絶な追い掛けごっこが再開された。

 ■□■□■
 
 とにかくアレは酷い一日だった。
 いや、あの日だけじゃない。その後で何度も何度も、自分の怒りを買うような事を仕掛けてきた。
 ある時は夕食の肉にことごとく口付けし、ある時は『無刃烈風』で服だけを切り刻まれた。またある時は『声』の振動で内臓を愛撫され、更にある時はラジオの周波数を『声』でジャックして自分への愛を語りだした事もあった。
 大浴場に入っている時に乱入して来たかと思えば、いきなり湯を凍り付かせた事もあったし、朝起きたら自分の真上の天井で、『青龍』を体に巻いた玲寺が寝ていた事もあった。
 そのたびに怒り、叫び、発狂して玲寺の後を追いかけ回した。
 適当にはぐらかされる事もあれば、正面から力と力をぶつけ合った事もあった。数時間で決着する事もあったし、数日に渡って戦い続けた事もあった。
 とにかくアイツとは色々あった。
 悪い思い出ばかり、自分に自分で同情するくらい背負わされた。本気で殺そうとして殺せないもどかしさに、皮膚の下を蟲が這い回る幻覚に襲われた事もあった。
 そしてある時、ついに悟ったんだ。
 玲寺の挑発には絶対に乗ってはならないと。乗れば乗った分だけ、玲寺を喜ばせる事になると。
 アイツは自分と追い掛けごっこをしたいだけなんだ。鬼面になって暴走する自分を見ているのが、楽しくて楽しくてしょうがないんだ。
 からかうのが趣味なのか、憂さ晴らしをしたいだけなのか、あるいは歪んだ愛情表現なのかは知らないが、感情的になればなるほど馬鹿を見る。
 約半年間の月日を掛けて、その事を悟った。
 そしてさらに半年を掛けて効果的な対処法を見出した。
 則ち、“相手にしない”。
 玲寺が何を仕掛けてきても本気になってはならない。本気で相手をしてはいけない。
 きっと一番最初から分かっていたんだ。だからあの時、玲寺に追い打ちを掛けようという気が起きなかった。軽い火傷だけで済ませようとした。直感が最善の指針を示してくれていたんだ。
 例え玲寺がちょっかいを掛けてきても、ひたすら無視を決め込んで気が萎えるのを待つ。飽きて興味が無くなってくれるのを切望し続ける。ソレが最善で最良で最高の対策なんだ。
 ――そう、頭の中では分かっていた。
 だが果たして、何回ソレを実行に移せたか……。
 まだ朋華と出会っておらず、今より数段凶暴で凶悪だったあの時の自分に、そんな消極的な作戦を行えという方が無理な話だ。
 しかし、今なら……!
 魎と龍閃の野望を妨げるため、常に自制を心がけている今の自分であれば……!
「よし! 大丈夫! 大丈夫だ俺! 今なら絶対に抑えられる! 自分に克てる!」
 左の手の平に右の拳を打ち付け、冬摩は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
(見ていてくれ朋華! 俺はココで一周りも二周りも成長してお前の元に戻る! ちゃんと後先考えて行動して玲寺の陰謀を打ち砕いてみせる! 挑発には一切乗らず、冷静な行動を取ってみせる!)
 大丈夫。きっと大丈夫だ。自分なら出来る。今の自分なら。
 大体玲寺に手を上げるという事は、写真に気付いたという事をわざわざ教えているようなもの。そんな無駄極まりない自殺行為、死んでも行う訳にはいかない。
 写真はこの部屋だけだ。きっとコレで最後だ。
 今決めた。たった今そう決めた。誰が何と言おうと、そういう事に決定した。
 いつこの部屋に隠したのかは知らないが、玲寺だって写真の事など忘れ去っているに違いない。なら今ココで大人しく、ひっそりと、究極の静技でこのおぞましい物体共を抹消してしまえば、全て終わるはずなんだ。
 なんだ。簡単な事ではないか。分かってしまえばソレだけの事。
「うっし!」
 俄然やる気が出てきた。
 さっさと終わらせて、とっとと帰ろう。急げば夕食には間に合うはず。
 戻ったら朋華を食事に誘って、今日の疲れを取ろう。彼女の笑顔を見れば嫌な事は全て吹っ飛ぶ。ソレだけで心が癒される。活力が漲ってくる。そして明日は――
「朋華! 愛してるぜ!」
 熱い言葉を胸に抱き、冬摩は写真の発掘作業を再開したのだった。

 ◆◇◆◇◆

 ――その頃、冬摩の様子を扉の隙間から見つめる人影が一つ。
(うっふっふ〜ん。そーゆー事ねー)
 篠岡玲寺である。
(冬摩ちゃんたら可愛いんだからっ)
 口元に手を当て、玲寺は笑いを堪えながら部屋を離れた。
 無論、写真はアレだけではない。ベッドシーンを写した物はまだ沢山ある。
 量も、そして種類も。
 冬摩は自分にとっての生き甲斐だ。生きている証だ。そんな彼との思い出は、いくらあってもコレで十分という事はない。 
 多ければ多いほど、濃ければ濃いほど良い。
 罵声であれ雑言であれ、冬摩と会話するのは楽しい。そして戦っている時はもっと愉しい。ぶつかり合って自分の力を試すというのは、想像以上に昂奮する。
 そして今、自分は魔人となった。龍閃の力を完全に我が物とし、冬摩と同じ肉体になった。『貴人』は失ってしまったが、ソレを補って余りある収穫があった。
 いつかまた行いたいものだ。
 冬摩との真剣勝負を。
 いや、必ず行うつもりだ。そのために久里子達と協力していると言っても過言ではないのだから。
(ま、ソレはと・も・か・く)
 とにかくコレで冬摩の事情は分かった。
 なら次は、麻緒か――







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