玲寺は見た!

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弐『深く考えない』


◆あの頃は若かったなぁ ―九重麻緒―◆
 夏那美が携帯相手に怒鳴り声を上げているのを見て、“きっと”と思った。
 一体どこで彼女の番号を知ったのだろう。全く、土御門財閥の情報収集力には頭が下がる。
 けどまぁ自分には関係の無い。そんなどうでもいい事より、今すぐに何とかしなければならない物がある。
 ソレは夏休みの宿題。
 問題集は別にいい。どの教科もそんなに難しくなかったから、一週間くらいで全部片付いた。
 感想文も意外と楽に終わった。読んだ本は『赤ずきんちゃん』だけど。
 そして自由研究。理科と社会はすでに完了している。
 理科は『宿題のはかどり方と気温・湿度の相関性』。気温も湿度もネットですぐに調べられるから楽だ。
 社会は『日本各地の空の風景』。空なんてどこでも似たような物だし、画像はネットに腐るほど落ちてるから楽だ。
 が、最後に一つ。どうしても残ったのがある。
 それは自由研究ならぬ『自分研究』。
 今まで生きてきた中で、特に成長したと思われる出来事について纏めなければならない。
 “生きてきた中”って……。やっと小学校を卒業したばかりの奴等を捕まえて、その課題はないんじゃないのか?
 確かにある事はある。精神的な成長ならつい最近したばかりだ。
 だがソレをどうやって纏めろと? 色んな奴を殺しまくって自分の力に自信を持てていたが、逆に殺されそうになって少し大人しくなったとでも書くのか?
 それとももっと前の話? セミを踏み潰した事で罪悪感を感じていたが、もの凄く強い人に出会い、力が有れば何をしてもいい事を知りましたとでも書くか?
 馬鹿馬鹿しい。例えそんな血みどろレポートが許されたとしても、自分の事を夏休みの宿題などでさらけ出す気にはとてもなれない。
 作り話をでっち上げるにしても、自分の場合これまでの生活スタイルが特殊だったから、“普通”というのがどういうレベルなのかよく分からない。ネットで“精神的な成長”というキーワードを入れて調べても、『子供が出来ると』とか『親を亡くすと』とかいった類の物が引っかかってきて、中学一年でどうこうという内容は見付からない。
 それで仕方なく、やむを得ず、渋々、極めて気は進まないが、夏那美に話を聞く事にしたのだが――
「何で捕まるかなぁ……」
 土御門財閥の洋館。三年ぶりに訪れた自分の部屋。
 窓枠に頬杖を付き、外の景色を見つめながら麻緒は呟いた。
 久里子が夏那美に電話を掛けてきたのは自分と連絡を取るためだった。まさか『千里眼』で見通した訳ではないだろうから、完璧に偶然だ。いやひょっとすると予知能力か? 神通力に開花した? 意表を突いてダウジングとか?
 ……別に何でも良いが、こんなタイミングで電話を掛けてこられると、まるで自分と夏那美がいつも一緒に居るみたいではないか……。
 まぁ、例の『パーティー』は定期的にしているし、何度か宿題を一緒にやったりもした。成り行きで買い物に付き合った事もあったし、家に遊びに来た事もあった。あと……無理矢理引っ張られて遊園地にも一度だけ行ったか……。
 だがソレだけだ。他は一切会っていない。それに殆ど全部、夏那美の方から一方的に押しつけてきた誘い事だ。断じて自分から望んだ訳ではない。
 だからつまらない勘違いはして欲しくない。
 夏那美は単なるクラスメイト。ソレ以上でもソレ以下でもない。特別な感情は抱いていない。平たく言えばどうでもいい存在だ。
 そう、どうでも――
「よかったんだけどなぁ……」
 夏那美も。そしてコイツも。
「はぁ……」
 麻緒は深く溜息を付き、足元に転がっている歪な物体を見下ろす。
 上質のカーペット生地の上で寝ていたのは、巨大なトカゲのぬいぐるみだった。
 頭が燃えカスとなった。
 クローゼットの奥に隠しておいたのを引っ張り出してきたのだ。トカゲは昔と変わらぬ姿のまま、幾重にも折れ曲がって押し込められていた。

『アンタのおった部屋な、リフォームしよ思ーて』

 リフォーム。
 その一言が忘却の彼方に葬りさっていた悩み事を掘り返した。体温を絶対零度近くまで下げた。声をセブンスヘブンまで上擦らせた。

『まぁ空間の有効利用やな。そんで中のモン一回全部出さなあかんねんけど、こっちでテキトーに進めてええか? 見られたら困るモンとかあるか?』

 見られると困る物。
 多分久里子は、早熟な少年に対して別の心配をして言ったんだろう。まぁその思い込みを逆手に取って、『本は探すな』とは言っておいたが。時間稼ぎのために。
 すっかり忘れていた。いや、努力して忘れようとしていた。そしていつか久里子も忘れて、この事は闇に埋もれるはずだった。なのに……。
(正直に謝るか……)
 腰履きしたブラックジーンズの尻ポケットに両手を突っ込み、麻緒はしゃがみ込んでトカゲのぬいぐるみを見つめる。
(いや、でもなぁ……)
 ピンク色の生地で作られたメルヘンチックな造形のトカゲ。頭があった頃は、澄み切った大きな瞳が特徴的だった。そして麻緒もソレが気に入っていた。
(ボクのせいじゃないしなぁ……)
 短い両手を持ち、麻緒はぬいぐるみを持ち上げる。そして懐かしい匂いに誘われ、そのまま胸の中に軽く抱き入れた。
 昔はよくこうやって一緒に眠ったものだ。今はもう恥ずかし過ぎて、とても人には見せられないが。
 コレは元々、久里子から半ば強引に貸し与えられた物だった。

 ■□■□■

「っへぇ〜、こらまたエラい可愛らしい覚醒者さんが来たモンや」
 土御門財閥の洋館に初めて来た時、見上げる程もある大きな扉を開いてくれたのはサングラスをした関西弁の女だった。白い薄手のチュニックブラウスに、アルファベットの刺繍された茶色のストレートパンツ。シックで涼しげな服装だった。
「アンタが来る事は知っとった。『天空』の『千里眼』で『玄武』が観えたからな。ウチは嶋比良久里子。一応ココの仕切りやっとる。アンタの名前は?」
 嶋比良久里子。そう名乗った女性は、明るい笑顔を浮かべて聞いてきた。ウェイブ掛かった長くて綺麗な黒髪が特徴的な、快活で行動力がありそうな女性。ソレが久里子の第一印象。
 彼女も自分と同じ覚醒者。自分と同じ、特別な力を持った……。
「九重、麻緒……」
 麻緒は赤いノースリーブベストのポケットから手を出し、上目遣いに久里子を見ながら小声で返す。
「麻緒君かー。名前も可愛らしくてええやないのー」
 猫なで声で言い、久里子はコチラの頭を優しく撫でてきた。その行為が麻緒に妙な自信をもたらす。この人も自分の事を認めてくれたんだという気にさせる。
 かつて母親が、自分にそうしてくれたように。あの、セミの時に――
「一つ、お願いがあるんだけど」
 ベストのポケットに手を入れ直し、麻緒は少し悪戯っぽく口元を曲げた。そして眉上で切り揃えた髪を揺らし、身を乗り出しながら久里子を見上げる。
「ん? なーんや?」
「ボクが死んだ事にして欲しいんだ」
「へ?」
 口を半開きにして間の抜けた声を漏らす久里子。さっきまでの朗らかな表情からは一変し、思わず吹き出しそうになるくらいの狼狽色が取って代わる。
「ねぇ、出来るんでしょ? 『玄武』に聞いたら出来るって言ってたよ」
「そ、そらまぁ……出来ん事ないけど……。なんで?」
「勿論、退魔師に専念するためさ。龍閃を殺すためには、家族とか友達とかそういうの邪魔なだけだからね。もう決めたんだ。ボクはこの先ずっとこの世界で生きていくって。ご先祖様の仇を取るためにね」
 本当に便利な建前だと思う。こう言えば簡単に断る事は出来ないだろう。自分が今口にした事は、退魔師としての理想的な心構えを綺麗になぞったような物だ。
「ち、ちっちゃいのにエラい事言うなぁ、自分……」
「年は関係無いよ。気持ちの切り替えの問題。心配とか捜索とかされると面倒だし。誘拐されて体の一部が見付かったとか、海に沈められて土左衛門になったとか、そーゆーすぐに忘れられそうなテキトーなヤツでいいよ。そうなるとこれからは街で偶然ばったりっていうのにも気を付けないと……あ! そーだ! 髪染めよう! 派手なの! 金が良いかな! うん! 金髪! それから目も変えよう! カラーコンタクト! 色はブルーが良いな!」
「ちょ、ちょっと待ち待ち、タンマタンマ。アンタ、自分がゆーてる事ホンマに分かってゆーてる?」
 昂奮気味にまくし立てる麻緒をなだめるように両手を動かし、久里子は声をどもらせながら待ったを掛けてくる。
「モッチロン」
 ソレに満面の笑みで返し、麻緒は組んだ両手を頭の後ろ回して胸を張った。
「普通だった九重麻緒はたった今死んだ。ココに居るのは、『玄武』に覚醒した退魔師の九重麻緒さ」
 そして鋭くした視線で久里子を見据えながら言う。
 そうさ。もう以前の自分は死んだ。今まで生き物を色々と殺して来たけれど、ついに自分自身を殺してしまった。
 別に何て事はないな。これまでと全く同じだ。
 イラつく。
 モヤモヤしてムカムカしてムシャクシャして……。もっと無茶苦茶にしたくなる。原形を留めないまでに壊したくなる。
「あと忘れてた! 顔! 整形! コレやんなきゃバレちゃうよね! ちょっと大人っぽい感じでいいよ! ボク精神年齢高いし!」
 何だ。何なんだこの気持ち。どうすれば収まるっていうんだ。
 もっと殺せばいいのか? 生きてる奴等を片っ端から殺していけばいいのか?
 他人を。人間を。ソレでも駄目だったら、特別な人間を。力を持った、特別な……この女のように――
「えーっとな、麻緒君? 多分、今自分はごっつテンパってるんやと思う。覚醒したてで周りが見えてへんゆーやっちゃ。ウチん時もそうやった。せやから一回落ち着こ。な? 暴走しっぱなしやったら、こんなアカン大人になってまうっていうエエ見本もあるから、ソイツ見てよー考えよ。な?」
 難しい顔付きでサングラスの位置を直し、久里子は諭すような口調で言った。
「いいよそんなの。ボクもう決めたんだ。退魔師になるんだったら、このくらいするの当たり前でしょ。オバさんの考え方がヌル過ぎるんじゃないの?」
「あー、その言葉……。アンタくらいの子はみんなそう呼ぶって分かっててもグサッとくるわー……」
 大きく膨らんだ胸元に手を当て、久里子は心臓でも射抜かれたように顔をしかめる。
「ま、まぁエエわ。とにかく中入り。外は暑いやろ。何か冷たいモンでも用意するわ。森ん中は迷わんかった? ひょっとして走ってきたん?」
 麻緒の背中に手を回し、久里子は洋館の中に招き入れながら言った。
(なんだよ……)
 まどろっこしい。余計イライラする。
 龍閃を見付けたいんだろ? 殺したいんだろ? だったらストレートに行こうよ。なりふり構わずにさぁ。もっと無茶しようよ。どうして立ち止まろうとするんだよ。ワケ分かんないな、ホントに……。
(けど……)
 ひょっとすると――
(間違ってるのか?)
 この方向は。
 このまま進んでも何も解決しないのか? ずっとイライラが積もっていくだけなのか? もしかしたらこの女の人の言ってる事が正しいのか?
 言われてみればずっと走り詰めだった。脇目もふらずにずっと走り続けてきた。この苛立ちを何とかしたくて、ひたすら走ってきた。落ち着いて辺りを見回した事なんか一度もなかった。
 そうではないのか? ソレでは駄目なのか? もっと自分自身と向き合う必要があるのか? 殺すだけではなく、話し合いをしなければ――
 分からない。よく分からないよ……。

 広い洋館の中を一時間近く掛けて案内された後、麻緒は久里子の部屋に通された。
 そこは目が痛くなる程のピンクで覆われたメルヘンワールド。猫やら犬やらパンダやらのぬいぐるみが無数に並べられ、どことなく甘い香りが漂っている。クローゼットも机もベッドも本棚も、部屋に置かれている物全てから角が排除され、曲線だけ形作られた丸い物体ばかりが居座っていた。
「何、コレ……」
 さっき見た、これからの自分の部屋となる空間とは別物だ。一体どこをどうリフォームすればこうなるのか、教えて欲しいが知りたくもない。
「どや? 麻緒君やったらこのくらいの方が落ち着くやろ。他んトコはビジネスホテルの部屋みたいで味気ないからなぁ」
 出窓に飾られていたネズミのぬいぐるみを取り上げ、ソレに頬ずりしながら久里子は言う。
(ひょっとしてからかわれているのか?)
 久里子の真意を見定められず、麻緒は何も言えずにただただ立ちつくすしかなかった。
「ウチがアンタくらいの時はなぁ、こーやってよー遊んだモンや。ぬいぐるみって可愛いやろー? いつでも側に居てくれるからなぁ。ウチ大好きや」
 言いながら久里子は、ネズミの腹を撫でたり髭を真っ直ぐに伸ばしたりして楽しそうに笑う。
 外観から判断するに、彼女の年齢は恐らく二十台後半。二十七……いや二十八か? そこまで成熟しきった大人が、ぬいぐるみ相手に……。
(頭おかしいんじゃないか?)
「なぁ麻緒君、アンタの考えはよー分かる。覚醒者としての自覚をそんだけ持ってんのは大したモンや。尊敬に値するわ。けどな、ソレはアンタの意思やない。『玄武』からの記憶の逆流で、そうせなあかん思い込んでるだけや。特に麻緒君くらいの年齢やと、あんま自分で重大な判断した事無いやろーから尚更や。ガッて強よ言われたら、そうなんやーって信じ込んでまう。疑う事せーへん。まぁソレは素直ゆー事でええんやけど、今はちょっとちゃう」
 声のトーンを下げ、ベッドの縁に腰掛けながら久里子は脚を組む。
(馬鹿にされてるのか?)
「あんなぁ、家族ゆーんはそーゆーモンやないで。確かにアンタは退魔師になった。これからはアンタの言う通り、打倒龍閃掲げて頑張って貰おー思ーてる。けどな、ソレが終わったら次どないする? そら今はエエで。あの直情バカみたいに、何も考えんと暴れ回るのも一つの方法やろ。そうしてる間はココに居座ったらええ。けど、いつか、ホンマに帰るんは家族んトコや。ココやない。ココはあくまでも通過点や」
 通過点。今は通過点……。
 ならココで退魔師に専念したところで鬱憤は晴れない?
「まぁ、アンタくらいの年でそんな難しい事考えるんも、どうかゆう話なんやけど。それでもちょっとは考えてみてくれ。『玄武』の言いなりになってるだけやなくて。それにな、別に死んだ事にせんでも他に方法はある。例えば、や……うーん、アンタの年やったら友達んチに泊まるゆー訳にもいかんし……例えば、全寮制の中学に行くとかな。コレやったらまだ家におる時よりは自由な時間できるやろ。まぁあと何年かは辛抱して貰わなあかんけど……。あとは、自分探しの旅に出るとかやな。最悪、家出か……。とにかく、や。なんも死なんかて――」
「じゃあオバサンはどうしてココに居るのさ」
 久里子の言葉を途中で遮り、麻緒は純粋な疑問をぶつけた。
 ただ式神の言う事に流されているだけでは駄目。自分の意思も必要になってくる。
 なら久里子は一体どんな考え方をしてココに居るというんだ。
 それに自分がココに来たのは『玄武』の影響だけではない。半分以上は自らが望んだ事だ。たまたま利害が一致しただけで。
 ならどう違うというんだ。自分と久里子の考え方は。
 式神の言った事にどんな思考を重ね合わせれば、ココに居ても良いという事になるんだ。
「ん……んー、せやなー……」
 麻緒の問い掛けに久里子は少し言葉を詰まらせ、腕組みしながら呻き、
「オバチャンの場合はなー、麻緒君みたいには帰るトコが無いんや」
 よく分からない事を言った。
 帰る所が無い? ソレはどういう……。
「みんな死んでもーたんや。一人残らず。覚醒の余波でな。ウチが――殺した」
「あ……」
 自分の失言に、麻緒は掠れた声を漏らした。
 式神への覚醒。その余波。
 確かに自分の時もそういうのがあった気がする。
 学校の帰り、一人で捨て猫を見ていた。ダンボール箱に入れられた、小さな小さな猫だった。可愛らしい声で鳴く猫だった。この子はどうやって死ぬんだろうと考えていた。
 見てみたいと思った。
 あのセミの時みたいに。動かなくなったところを、今すぐ見たいと思った。
 手を出そうか迷った。少し考えてやっぱり止める事にした。けどまたすぐに引き返して迷った。
 勝手に死んでくれたらいいに。そう思った。
 自分が直接触れなくても殺せるんだったら迷わないのに。そんな魔法みたいな力があればいいのに。そうすればきっとイライラしないのに。
 迷った。考えた。戸惑ったフリをしてみた。
 でもやっぱり――
 そう思った瞬間、頭の中で何かが弾けた。目の前が真っ暗になって、耳の奥がすーっとして、体が浮かんだようになった。
 そして自分が自分でなくなっていた。全く違う自分になっていた。
 知らなかった事が分かっていて、出来なかった事が出来るようになっていた。
 疑問は無かった。ソレが当然だと思った。
 猫は死んでいた。
 手も何も触れていないのに、勝手に死んでいた。
 イライラは収まらなかった。だからココに来た。
 あの時、周りに人間は誰も居なかった。自分一人だった。けどもし、居たのなら。人間の死を目の当たりにしていたのなら――
「あー、何も麻緒君が気にする事はないんや。難しい事考えさせたウチが悪いんやから。……そう、全部ウチが悪いんや」
 低い声で独り言のように言い、久里子は手に持っていたネズミのぬいぐるみをベッドに置く。そして深く溜息を付き、息苦しそうに口を真一文字に結んだ。
 そうか。それで彼女はこんなにも家族の事を……。
 ぬいぐるみがこんなにもあるのは、ひょっとして寂しさを紛らせるためなのか?
 家族……家族、か……。龍閃と家族……通過点――
「分かったよ」
 重苦しい沈黙を先に破ったのは、麻緒の明るい声だった。
「うん。じゃあちょっと考えてみるよ。今言われた事」
 久里子が言った事。
 理解できない部分もある。納得できない部分もある。ソレらを全部ひっくるめて、もう一度自分の中で整理してみる。そして自分自身と向き合う。
 良い機会かも知れない。
 自分は今まさに岐路に立たされている。ずっと一本道を真っ直ぐに進んできたけれど、ココに来て別の道がある可能性が出てきた。ひょっとしたらソレを見付けてソッチに行くのが正解かも知れない。ソッチに行けばイライラせずに済むかも知れない。今はまだ、ソレが何なのか分からないけど……。
「そっ、そーかそーか。考えてくれるか。よっしゃ。ホンマ有り難う。ウチで力になれる事あったら何でも言ってくれてええで」
 項垂れていた顔を上げ、久里子は弾んだ声で言いながらベッドから立ち上がる。そして部屋の隅に歩み寄り、
「ほんならコレお近づきの印な。麻緒君、これからヨロシク頼――」
 固まった。
 ピンク色の大きなトカゲの形をしたぬいぐるみの前で硬直した。
「……おかしい」
 サングラスの位置を直し、久里子は渋面を浮かべる。
「なんでトッド君の位置変わってんねんやろ……」
 どうやらぬいぐるみの置かれている場所がずれているらしい。
「二センチも……」
 極めて微少に。
(……やっぱ、この人頭おかしいのかな)
「ま、えーか。ほんならはい、麻緒君。この子な、クリクリした目がごっつキュートやねん。可愛がったってなー」
 言いながら久里子はトカゲのぬいぐるみを持ち上げ、コチラに差し出してくる。
「えっ……いいよ。別に、そんなの。ボク女の子じゃないし、子供でもないし」
「まーまーまーまー。麻緒君やったら抱き枕にもなるやろ。この子ふっかふかやから、一緒に寝たら気持ちエエでー」
 一歩身を引いて嫌がる麻緒に、久里子はぬいぐるみを押しつけるようにして持たせた。顔全体を包み込む柔らかい感触と、鼻腔をくすぐるお菓子のような甘い香り。ソレはまるでマシュマロに抱かれているような――
 ……確かに、この感じはクセになるかも知れない。
「おっ、気に入ったみたいやな。そら良かった良かった。まー、この洋館におる間は友達に会う事も無いし、ずっと連れて歩いてくれてもええでー」
「……しないよ、そんな事」
 縦長のぬいぐるみを横にして両腕で持ち、麻緒は口を尖らせて拗ねたように言う。
「あーもー可愛いなー! そーゆー仕草たまらんわー!」
「ちょ……!」
 そしていきなり久里子が飛びかかって来て――
「――ッ!」
 洋館が揺れた。
「な、何!?」
 反射的にぬいぐるみを片腕で抱き直し、麻緒は警戒しながら辺りを見回す。
 何だ今の振動は。地震なんかじゃない。そんなものよりずっと危険な何か。例えば、この建物に大砲でも撃ち込んだかのような……。
「またかぃ……」
 言いながら久里子は額に手を当てて軽く首を振り、怨嗟を滲ませた息を吐いた。
「テメー! 玲寺! 待ちやがれ! ブッ殺す!」
 そして外から聞こえてくる野太い叫声と、
「オーッホホホホホ! コッチよ冬摩ちゃーん! 貴方の下着は右ポケットのな・か! ブリーフ派だったなんて嬉しいわー! 一緒ねー!」
 怪音波。
「何、アレ……」
 げっそりとした表情で呟く麻緒。
「アカン大人の見本や……」
 ソレに沈痛な面もちで返す久里子。
 いや、そんな事は聞かなくても分かってるけど……。
 でも今“冬摩”って……。『玄武』からの記憶によれば、確か龍閃の血を引く魔人。千年以上も生きている。けど……。
(ダメだな、アレは……)
 ソレだけ生きてあの程度では底が知れている。きっと魔人の血がもたらす破壊衝動に身を委ね、そのまま何も考えずに過ごしてきたんだろう。
 そんな奴の人生観なんて参考にならない。聞いても余計にイライラするだけだ。中身がスカスカなのは目に見えている。
「じゃぁ、ボクそろそろ……」
「あぁ。まぁゆっくり考えたってや……」
 お互いに疲れた声で言い合い、麻緒は久里子の部屋を後にした。

 あれから色々と考えた。
 平日はいつも通り家で過ごしながら悩み、休日の昼間は土御門財閥の洋館に行って頭を捻った。自分と向き合った。何度も何度も自問自答した。
 どうしてこんなにもイライラするのか。その原因を探るために。どの方向に進めば解消されるのか。その道を見付けるために。
 事の発端は分かっている。あのセミだ。
 この感情はあのセミを踏みつぶしてから湧き出てくるようになった。
 好奇心。興味本位。その場の思いつき。なんとなく。
 あの時の感情を言い表す言葉はいくらでもある。だがその後の気持ちを表現出来る物は何一つとして無い。
 朧気で、曖昧で、モヤモヤで、だからイライラで。
 ココに来れば何とかなると思っていた。全部綺麗さっぱり解決すると思っていた。
 だって自分は選ばれた人間なんだから。退魔師となるために覚醒した、特別な人間なんだから。それも単なる特別ではない。九歳で覚醒した超特別な存在なんだ。テレビに出てくるヒーローなんて目じゃない。あんな物よりずっとずっと上だ。天才級の人間なんだ。雲の上の地球の上の、そのまた上の宇宙の上の存在なんだ。
 なのに前と変わらず、こうやって苛立ちを積もらせたまま悩み続けている。
 おかしい。絶対におかしい。納得いかない。
 力だって知識だって何十倍にもなったのに、どうして肝心の所だけは同じなんだ。どうしていつまでもこんな悩み事に苦しめられなくてはならないんだ。
「クソッ……」
 完璧にメイキングされたベッドの上に身を起こし、麻緒はあぐらを掻いて前を睨み付けた。そしてすぐ隣りで寝ていたトッド君を引き寄せ、ソレを抱きかかえるようにして背中を丸くする。
(相談するか……)
 嶋比良久里子に。
 このままでは埒が明かない気がする。いくら洋館に通い続けても一人で考えていたのでは、多分この先何も変わらない。だったら何でも色々と知っていそうなあの女性に助言を仰ぐか。
(でも何て……)
 セミを踏み潰した時からずっとイライラしてるんですけど、どうすればいいですか?
(……馬鹿馬鹿しい)
 誰がそんな事を真剣に考えてくれるというんだ。鼻で笑われるか軽蔑されるかの二つに一つしかない。大体今のタイミングでそんな事を聞けば、ソレがココに来た動機なんだとすぐに気付かれる。
 そうなったら久里子は何と言うだろう。
 ――そんな下らん理由で退魔師やるような奴、置いとく訳にはいかんな。
 最悪、追い出されるかも知れない……。嫌だ。ソレだけは絶対に駄目だ。
 せっかく今までとは違う方向に進みつつあるのに、また元に戻ってどうする。ココでどうにもならない事が、以前の環境で何とかなるはずがない。なんとしてでも踏みとどまらなければ。
「はぁーぁ……」
 深く溜息を付き、麻緒はトッド君を両腕で抱えたまま横になった。
 やっぱりコレは一人で何とかしなければならない問題なんだ。そしてそのためには、この洋館に居なければならない。居てこれまでとは違う道を探さなければならない。
 そうすると必然的に家を出なければならなくなる。家を出で親元を離れて、この退魔師という役割に集中しなければならない。
 ……いや、そうでもないのか。今みたいに週末通うだけでも、何とかやっていけるか?
 いや――いやいやいや。そんな中途半端な事は駄目だ。そんな微妙な変わり方じゃなくて、もっと激的に行かないと。そうしないとイライラがダラダラ続く事になる。そんなのは嫌だ。
 ……しかし、まぁ。なにも死んだ事にする必要はないか……。取り合えず久里子の言う通り、家出とか適当な理由を付けて……。
「けーどなぁ……」
 ソレもまた邪道な気がする。片足だけ突っ込んでいるというか、逃げ場を残しているというか。
 最後に帰る場所が無いというのは、やっぱり辛い物なのか? 今は別に何ともないが、そういう場所は大切に取っておくべきなのか? ココが単なる通過点に過ぎないんだとするならば、確かに……。
 けど今からそんな先の事を考えてもなぁ……。今はとにかくこのイライラを何とかしたいんであって、通過点とか最終点とかはどうでもいい。
 そして何とかするためには一人では埒が明かず、かといって相談する訳にもいかず、この洋館には居たいけれど、家族との繋がりを全く無くすというのも……。
「あー駄目だ……」
 疲れた声で言いながら麻緒は起きあがり、トッド君の背中にまたがってその口を激しく開閉させた。
 何だかいつも同じ事を考えて同じ所で詰まっている気がする。前に進まず同じ場所をずっとグルグルしているだけのような気がする。ソレじゃ駄目なんだという思いが焦りに拍車を掛ける。
 どうすれば良いんだ。こんな時、一体どうすれば――
「――ッ!?」
 突然部屋を襲った揺れに、麻緒は一瞬硬直して目だけで辺りを見回した。
 が、すぐ原因に思い当たると、半眼になってトッド君の背中に身を沈める。
「ッのガキィ!」
「ざーねんっ。はっずれー」
 そして予想通り、遠くの方から聞こえてくる乱暴な怒声と楽しそうな奇声。
(またか……)
 呆れたように息を吐き、麻緒は目を瞑って全身の力を抜いた。
 全く毎度毎度、飽きもせずにお気楽な事だ。こっちは心底真剣に悩んでいるというのに。
 週末の昼間しかココに来ていないのに、もう二人のやり取りに慣れきってしまったという事は、この追い掛けゴッコが限りなく毎日繰り返されているという証。
 荒神冬摩と、あともう一人は篠岡玲寺という覚醒者なのだと久里子から紹介された。
 まだどちらともまともに話した事はない。久里子も自分が『玄武』の覚醒者なのだとは伝えていない。二人に正式に話すのは少し待つらしい。恐らく、自分の心の整理が出来るまでは。 
 けど篠岡玲寺の方は気付いているような雰囲気はあった。一応今の所は、雇われの一般退魔師という事になっているが、彼の目には大体見透かしたような色があった。そして裏の事情を察してソレ以上は何も言ってこない様子だった。
 聡明そうで落ち着いた物腰だった。初顔合わせの時に軽く挨拶した時は普通だった。もし、ソレが彼の事を知る初めての機会だったら、相談を持ち掛けていたかもしれない。人生の先輩として意見を賜っていたかも知れない。
 だが、あのイカたれ変質愛を露骨に見せつけられた後では……。
 多分、どんなご立派な忠言を並べられたところで心には届かない。裏の顔が頻繁に垣間見えてしまって説得力を感じない。だから何も聞いてないし、話し掛けようとも思わない。普通に話していて、知らない間に“汚染”されていたら最悪だ。異常を異常と認識しているうちに、しっかり距離を取っておかなければならない。
 そしてもう一人の方、荒神冬摩。彼は論外だ。

『こんなガキがねぇ……。使えんのか?』

 見下し、侮りきった表情。他人を外見で判断する浅い思考。
 声だけを聞いた時に抱いた印象と全く同じだった。
 力はあるんだろうが、ただソレだけ。ソレ以外は何もない。相手の内面を推し量る洞察力も、広い心で受け止める包容力も、困難を打開する解決力も。
 きっと今まで悩み事らしい悩み事なんてして来なかったんだろう。全て力任せに打ち砕いて無かった事にするか、適当に流して無視していたんだ。気に入らない物とはまともに向き合わず、壊すか知らないフリをしてきた。そんな事を千年間も続けていたんじゃ……。
 だから会話したところで、きっとまともな物は成立しないだろう。精神年齢が離れすぎていて。
(ホント、ガキだよね……)
 怠そうに頭を掻きながら、麻緒はトッド君の上に体を起こした。そして何気なく窓の外に目をやる。
 二階にあるこの部屋から見えるのはただただ森。鬱蒼と繁茂する濃厚な密林地帯。ソレはまるで出口の見えない迷路。
「ブッ殺す!」
「やーん、冬摩ちゃんコワーイ」
 なんだか今の自分を遠くから見ているようだ。
 遠くから……自分自身と向き合って……客観的に……。
「ッのガキぃ!」
「こんなのがお顔に当たったらタイヘーン」
 人から見た自分はどんな姿なんだろう。大人びているとか、落ち着いているとは良く言われるが……。でも多分、今考えなければならないのはそういう事じゃないんだ。もっと自分の本質を見抜かなければならない。
「チョロチョロ――」
 つまり……。
「してんじゃねぇ!」
 だから……。
「死ねオラァ!」
 要するに――
「クタバレ!」
「っだー! ウルサ――ッ!?」
 体が浮いた。
 今、ほんの数センチだけど確かに体が浮いた。そして体を浮かせたのは、外から伝わって来た振動。
 いや振動なんて生易しい物じゃない。噴火だ、地核変動だ、化け物の地団駄だ。
 何だ。今外で一体何が起こっているんだ。こんな桁外れな力、一体どこから――
「な――」
 無意識に単音を漏らし、麻緒の視線は眼下の異様な光景に縫い止められた。ソレは文字通り、一部だけ削り取られたかのような歪なスナップ写真。
 何だアレは。あの大きな穴は。穴の中心にいる男は。
 うなじの辺りで纏められた長い髪。攻撃的に吊り上がった野性的な双眸。薄手のTシャツの下から押し上げる隆々とした筋肉。まるで血肉が闘争本能だけ出来ていると言わんばかりの荒々しい雰囲気。
「この……!」
 男は叫んで地面から腕を引き抜き、もう一人の男に向かって跳ぶ。
(速い)
 残像さえ生じさせ、その大きな体躯からは想像も出来ない程の速さで相手に肉薄した。が、対峙していた男もソレと同等とスピードで間合いを計る。
「待ちやがれ!」
「ほーらほらほらっ! コッチよー! 冬摩ちゃーん!」
 叫声と悦声を交わらせながら、神速の動きで遠のいていく二人の姿。
 その影が洋館の外壁の角を曲がって消えるまで、麻緒は目と口を大きく開けているしかなかった。
「なん、なんだよ……」
 そして完全に見えなくなったところで、麻緒は震えた声で呟く。
 いや、震えているのは声だけじゃない。脚も、手も、顔も。体全体に伝播している。
 今まで二人のやり取りを遠くの方で聞いている事は何度もあった。揺れを感じる事もあった。しかしこんなにも間近でも見たのは初めてだった。
 別に見たいなどと思わなかった。出来るだけ騒音から離れたかった。考え事をするのに邪魔なだけだから、とにかく関わり合いになりたくなかった。
 けど今の……今のは……。
 追われていたのは篠岡玲寺だ。間違いない。人畜無害な仮面を被ったオネエ系同性愛者。なよなよとした喋り方をする、動きのトロそうな変態野郎。
 そして追っていた方。冗談かと思うくらい巨大な穴を地面に穿った男、荒神冬摩。底の浅い単細胞の乱暴者。無駄に長生きしているだけの、話す価値も無いペラペラ野郎。最強の魔人であり退魔師の存在意義でもある龍閃、その血を引く者。
 気性が荒くて、乱暴で、横暴で、直情的で、自己中心的で。粗野で破壊的で傍若無人で鉄拳制裁で――そして無情。
 敵対した者には一切の容赦がない。動かなくなるまで殴り続ける。殴り殺す。
 命を踏みにじり、生を蹂躙し、死を押しつける。
 話の中で聞いているだけだった。何百年も昔の記憶の中で、そんな鬼神像を見せられているだけだった。
 どうせ大袈裟に伝えられているんだろうと思っていた。自分だって本気を出せば似たような事くらい出来ると思っていた。そんな愚かしい妄想をしていた。
 だが違った。頭の中にいた荒神冬摩と、今こうして自分の目で見た荒神冬摩とでは、地底と天上ほどの開きがあった。
 あんな力、自分ではとてもではないが振るう事など出来ない。あんなクレーターのようにはならない。せいぜい腕が地面に刺さる程度だ。
 一体どれ程の腕力を叩き付ければあんな風になるのか。どんな鍛え方をすればその力が身に付くのか。押し潰し、一瞬で消し飛ばせる程の。
 教えて欲しい。今すぐにでも。
(何だ……)
 この気分は。この昂揚感は。
 ついさっきまであんなにもイライラしていたのに。ウンウン呻って悩んでいたのに。今はソレが全く無い。あるのは詰まっていた異物が流れて行く清涼感だけ。
「じゃあ死ねぇ!」
 また冬摩の声が聞こえて来た。洋館の周りを一周して戻って来た。
 麻緒は窓から身を乗り出し、吸い寄せられるようにして冬摩達の姿を視界に収める。
 玲寺が交差させた腕で受け止めていた。冬摩の拳撃を。
 踏ん張った足が地面に潜り込み、土片を大きく捲り上がらせる。一体どれ程の圧力が玲寺の腕に掛かっているのか、想像しただけで骨が折れそうになる。
(凄い……)
 あの女々しい姿からはとても想像出来ない頑強さと勇気だ。クレーターを穿つ拳を止めようなどという発想、自分にはとても出来そうにない。
「こ……!」
 玲寺が下から放った蹴りで冬摩の顎が跳ね上がる。仰け反り返る全身。だが怯まない。それどころか――
「――の、ガキィ!」
 拳を真下に突き出した。そして巻き上がる土柱。小石や芝生が周囲に飛散し、その一部が麻緒の顔に直撃する。
 だが痛みは感じない。当たった感覚すら無い。
 魅入っていた。完全に心を奪われていた。
 一度目の拳より遙かに力の乗った、異常なまでの破壊力に。
(凄い……本当に凄い……)
 もうソレしか言えない。そう表現する以外に方法が思い付かない。そしてその言葉を胸の中で言うたびに体が熱くなってくる。心音が激しくなっていく。
 視界が晴れた時、玲寺は地面に叩き付けられていた。そのすぐ側で冬摩が威圧的な視線で睥睨している。何の迷いも躊躇いも無い、無慈悲な表情。ソレはまさしく勝者が敗者を俯瞰する姿。
(カッコイイ……)
 自分もあんな風に出来たなら。あんな顔が出来たなら。ああやって割り切る事が出来たなら。
 玲寺が身を起こす。そして軽く両腕を広げた。直後、五つに分かれていく玲寺の体。
 コッチも凄い。アレだけ打たれてまだ戦おうとするなんて。『青龍』と『貴人』、二体もの式神を保持しているのは伊達ではない。そしてソレを扱う技術も普通ではない。
 体を分けるなんて能力、『青龍』にも『貴人』にも無いはずなんだ。けどどちらかの力を応用して、もしかしたら両方使って今の現象を生み出している。自分では思いもつかない発想だ。
(けど……)
 自分が求めているのはそういう物ではない。今すぐに欲しいのは――
「オラァ!」
 冬摩の叫び声。力強く突き出された右拳は麻緒の視界の中で大きくなり、玲寺の頭部を捉え、そのまま――
「――ッ!」
 焼け焦げた臭いがすぐ隣でする。目だけを動かしてソチラを見る。
 頭が無くなっていた。脇に抱えていたトッド君の頭が、綺麗さっぱり消え失せていた。黒い断面を晒し、首から下だけの物体になっていた。
 玲寺を貫通した何かが、そのまま自分の方に……。
 一体どうやったんだ。あの位置から何をすればこんな事が……。
 分からない。ソレは聞いてみないと分からない。けど――
(凄い!)
 その事実だけは揺るがない。揺るぎようがない。
 力。圧倒的なまでの力。他者の命を平然と刈り取る非常識なまでの力。
 今、頭を狙っていた。殺すつもりだった。玲寺の命を奪うつもりだった。避けなければ玲寺は死んでいた。
 敵は勿論の事、例え味方であっても関係無い。
「気に入らねぇモンはブッ潰す。気に入らねえ奴はブッ殺す」
 そう。そういう事だ。
 冬摩の中にあるのはたったソレだけのシンプルで分かり易い思考。
 アイツは何も考えていないんじゃないんだ。考える必要がないんだ。全部力だけでどうにかなってしまうから。粉砕できてしまうから。
 アイツには力しか無いかも知れない。ソレ以外は何の取り柄もないかも知れない。けど唯一ある力が桁外れに凄ければソレで十分なんだ。ソレ一つだけで他の物を全部補えるんだ。
 千年以上もそのポリシーを押し通して生きてきたって事は、その方向で間違いないって事だ。ココまで来ればちょっとやそっとじゃ揺らがない。いや、絶対に揺らぐ事なんて無い。揺らいだら荒神冬摩じゃない。アイツは気に入らない物をブッ潰して、気に入らない奴をブッ殺して、自分勝手に、自由奔放に、自己完結していればいいんだ。ソレが千年以上も生き抜くための考え方なんだ。細かい事でいちいち悩んで、そのたびに立ち止まっていたのでは気がおかしくなる。生きる気力なんてすぐに萎えてしまう。
 ややこしい事を考えないから迷いが無い。迷いが無いから力を存分に振るえる。力を存分に振るえるから苛立ちも無い。苛立たないからややこしい事を考えない。
 好循環だ。まさに理想的だ。
 コレだ。コレでいいんだ。
 見付けた。ついに見付けた。自分が進むべき道を見出した。
 もうイライラなんて無い。これっぽっちも無い。完全に消え去った。
 あのセミは死んで当然だったんだ。力を持っていない奴は殺されて当然なんだ。そして力を持っている奴には殺す権利が与えられるんだ。
 そうか。そういう事か。その事が分からなかったから、ずっとイライラしていたんだ。下らない事で悩んでいたんだ。
 強くなればいい。理屈なんかいらない。昆虫も動物も人間も、あっさり葬り去れるくらいの力を身に付ければいい。そうすれば荒神冬摩のようになれる。そうすれば死ぬまで悩まなくて済む。
 彼が千年間もそうして来たんだ。そうして迷わずに生きてきたんだ。千年に比べれば、たかが八十年程度の自分の人生など知れている。
 とにかく彼に付いて行けばいい。どこまでも付いて行って彼のようになればいい。彼のしている事は何でもかんでも取り入れて、全部自分の物にしてしまえばいい。第二の荒神冬摩になればいいんだ。
 ああ、震えが止まらない。脚も、手も、顔も、そして心も。
 もう迷いは無い。完全に晴れ渡った。
 友達なんか要らない、家族なんか要らない、今までの自分を取り巻いてきた奴等は全員要らない。邪魔なだけだ。
 帰る場所はココでいい。いや、ココしかない。自分が今居るのは通過点なんかじゃない。紛れも無く最終点なんだ。
 かつての九重麻緒は死んだ。完璧に死んだ。塵も残さずに消え去った。
 今ココに居るのは、荒神冬摩の意志を強く心に宿し、力という物に至上価値を見出した新しい九重麻緒だ。
 良い気分だ。まるで生まれ変わったかのようだ。
 久里子に知らせなければ。今すぐにこの気持ちを伝えなければ。そして一日でも早く冬摩に追い付かなければ。

 洋館中を探し回り、エントランス前の大ホールで久里子を見付けた。
「決めた! 決めたよ! ボクもう決めたんだ!」
 そして全速力で駆け寄り、麻緒は熱を帯びた声でまくし立てる。
「なっ、なんやっ。どないしたんや……」
「決めたんだ! ボクやっぱり退魔師に専念する! ずっとココに居るよ! だから死んだ事にして! 龍閃を殺す事だけに集中したいんだ!」
 眉を大きく上げて困惑の色を浮かべる久里子に、麻緒は一息に叫び上げた。
「ちょ、ちょい待ち。なんや急に。何があったんや……」
「急にじゃないよ! ボクずっと悩んでたじゃん! それで閃いたんだ! あの二人が戦ってるの見て吹っ切れたんだ! 龍閃を相手にするのに中途半端な事言ってちゃ駄目だよ! もっと強くならないと! もっともっと強くなっていかないと!」
「わ、分かった分かった。分かったから、ちょっと落ち着き。顔離し。喋られへんやろ」
 抱きつかんばかりの勢いで詰め寄る麻緒に、久里子は椅子を引きながらなだめる。
「あー……まぁ、アンタが悩んでた姿はずっと見てたし、ホンマ真剣に考えてたんは知ってる。んで、今すっきりしまくってるんも、その顔みたらよー分かる。けど、よりによって冬摩と玲寺さんが……。こらエライ悪影響やで……」
「いいじゃんいいじゃん! 関係ないよ! 良いか悪いかなんて人の見方によって違うんだからさ!」
「まぁ、そらそうやけど……」
「それにボクもう絶対に考え変えないよ! 意地でもココに居座るからね!」
「せやから別にアカンゆーてる訳やないやん。ウチかて麻緒君がココに居てくれる事は大歓迎やし、正直、麻緒君が自信持ってそういう決断してくれたんは嬉しいんや」
「ホント!?」
 てっきりまた家族の事を持ち出して説得される思っていただけに、麻緒は驚嘆と歓喜の声を上げる。
「あぁ。アンタの言う通り、龍閃仕留めんのにそんな生ぬるい事言ってられへん。他の全部を断ち切るくらいの心構えはあってしかるべきやと思う。けど麻緒君には一回よー考えて欲しかった。で、ここ二、三週間考え続けて、それでも結論が変わらんゆーんやったらソレでええ思う。なんか一回り成長したみたいな顔付きしてるしな」
「うん! したした! すんごく成長した!」
「そうか……」
 飛び跳ねながら言う麻緒に、久里子は腕組みして少し考え、
「よっしゃ! そういう事やったらウチかてもう何も言わん! 麻緒君の望み通り、アンタを死亡扱いにしたる! 顔とか髪の毛とか全部変えたる! ほんで退魔師の道、ゴリゴリ歩んでもらうで!」
 パン、と太腿を叩いて立ち上がり、麻緒の両肩を力強く掴んで言い切った。
「うん! 超バリバリに走り回るよ! この道! それで強くなりまくるよ! 久里子“お姉ちゃん”!」
「そうかそうか! よっしゃよっしゃ! アンタも色々分かって来たみたいやな! ほんならもう一回あの二人に紹介や! 『玄武』の覚醒者としてな!」
「ああ、やはり『玄武』でしたか。九重という名前から恐らくとは思っていたのですが」
 後ろから優しそうな声がしてソチラを振り向く。
 ボロボロに破れた西洋風のスーツを身に張り付かせ、玲寺が柔和な笑みを浮かべながら近付いてきていた。
「おー、玲寺さん。丁度ええトコに。まぁ玲寺さんは気付いてる思ーてたけど、改めて紹介するわ。『玄武』にたった九歳で覚醒した天才児、九重麻緒君や」
「篠岡玲寺です。久里子から聞いているとは思いますが、保持式神は『青龍』と『貴人』。四聖獣を宿す者同士、仲良くしましょう」
 聞く者の心を癒すような声で言いながら、玲寺は手を差し出してくる。
「うん! ヨロシクね!」
 麻緒はその手を握り返し、元気良く声を上げた。
 この人も自分なんかよりずっと強くて凄い人なんだ。致命的な一部を除けば十分尊敬に値する。けどやっぱり――
「テメー! 玲寺! こんな所に!」
 大ホールの扉が蹴破られる。
「ブッ殺す!」
 そして殺気に満ち満ちた力の権化が突っ込んで来て、
「お兄ちゃん!」
 麻緒は喜色に染まった声で叫んだ。
「お、に……?」
 その言葉に冬摩は動きを緩め、そして麻緒の前で立ち止まって困惑の表情を浮かべる。
「ボク九重麻緒って言います! 今日から正式に退魔師になりました! これからお兄ちゃんを目指して頑張っていきますので、どうぞヨロシクお願いします!」
 腹の底から声を出し、麻緒は一気に言い切って深々と頭を下げた。
「何だよ、このガキ」
「せやから今自己紹介したやん。麻緒君や、麻緒君。ちょっと前にウチからも紹介したやろ?」
「知るか、ンなモン」
 不機嫌そうに言う冬摩に、麻緒は顔を上げて更に一歩近寄る。
「魔人の力って凄いですね! 初めて見ました! 感動しました! ボクもいつかああなりたいです!」
「あ、あぁ……?」
 長い髪を乱暴に掻きむしり、戸惑いの声を漏らす冬摩。
 最高だ。最高の気分だ。この腕があの力を。地面を抉って、土砂を巻き上げる甚大な力を――
「さ、触んじゃねぇ! 気持ちの悪い! テメーもアレか!? この変態野郎と同類か!?」
「やーねー冬摩ちゃんっ。こんなお子様と同じ扱いにしちゃあ」
「ッだー! 触んな! 寄るな! 見るな! 息すんな! ブッ殺すぞ!」
 いつか絶対に手に入れる。冬摩と同じ力を手に入れてみせる。
「ええなぁー冬摩。アンタ、麻緒君にエライ気に入られたみたいやん。ウチにもそのくらい甘えて欲しいわー。そしたらお姉ちゃん、何でも教えたるのにー」
「ココは変態の巣窟か! 退魔師ってのは変態だらけなのか!」
 力があれば何をしても良いんだ。何をしても許されるんだ。
 他を圧倒できる、絶対的な力さえあれば。
 やってやる。やってやるさ。必ず手に入れてやる。
 もうあんな風にイライラするのはごめんだ。もう二度と悩まない、二度と迷わない。その為には――
「テメーら纏めて――」
『ブッ殺す!』
 冬摩と声をはもらせ、麻緒は心の底から強い決意を吐き出した。

 ■□■□■

(懐かしいねぇ〜)
 黒地に白いストライプが細く入ったメッシュシャツの胸元をはだけさせ、外に息を吐きながら麻緒は感慨に浸る。
 とにかく力の代名詞とも呼べる冬摩に心酔しまくり、一日中一緒に居た。部屋も当然冬摩の隣りに移して貰った。そして観察し続けて真似をしまくった。
 戦い方は勿論、物の考え方、捉え方、価値観、人生観、そして生死感。
 気に入らない物はブッ潰す。気に入らない奴はブッ殺す。
 このフレーズを呪文のように唱えていた時期もあった。
 ――敵には確実にトドメを刺せ。
 初めて一緒に仕事をした時、一番最初に教えて貰ったのがコレだった。
 その後はソレを愚直なまでに実行し続けた。邪霊や妖魔が相手の時は当然として、ソイツらに影響され人間も。とにかく自分に牙を剥いてくる奴は、片っ端から息の根を止めていった。
 冬摩が一人殺したら自分も一人殺したくなった。冬摩が面倒臭がったら自分も面倒臭くなった。冬摩が紅月の影響で凶暴になれば、自分の血も騒ぎ立てられた。
 冬摩のように強く、冬摩のように非情に。毎日その事だけを考えて過ごした。冬摩の背中を追い続けた。
 ただ、全裸で寝るスタイルは翌日確実に下痢を引き起こすので出来なかったし、朝から血の滴るレアステーキにかぶりつくには、丸二日くらい断食しなければならなかったのでパスさせて貰った。
(あの頃は若かったねぇ〜)
 弟が兄の真似をしたがるように、冬摩と一緒でありたくてしょうがなかった。自分にとって冬摩は本当の兄以上の存在だった。冬摩と同じ事をしていれば安心できた。そしていつか必ず冬摩と同じになれると信じていた。しかし――
(だからまぁ、若気の至りってヤツかなぁ〜)
 そうではなかった。自分がしていた事はただ逃げていただけだった。
 荒神冬摩という大きな隠れ蓑に身を潜ませて、『死』と向き合う事を放棄していただけだった。あの時のイライラの原因は、『死』という物とどう接すれば良いか分からず、ただ戸惑い、焦り、恐怖するしかなった自分の弱い心だ。
 ソレを力で誤魔化し続けてきた。つまり自分が強ければ――相手を圧倒的な強さで屠る事が出来るのであれば、『死』など気にする必要はない。靴の裏で踏みにじってやればいい。
 そう考えて冬摩の後を追う“フリ”をしていた。冬摩が教えてくれた都合のいい考え方で自分を無理矢理納得させていた。ソレがどれだけ薄っぺらい行為かも知らずに……。
 けど今はソレを自覚したから一歩だけ、いや半歩だけ前に進めた。冬摩の後ろではなく、自分自身の道を歩め始めた。陣迂が、その事を考えるキッカケを作ってくれたから……。
(陣迂、ね……)
 水鏡魎が怨行術で延命処置を施している、冬摩の実の弟。いくら強く望んでも、自分には冬摩との血の繋がりが無い以上、本物には勝てないか……。
 今頃どこで何をしているのか、気にならないはずがない。アイツとはもう一度話さなければならない。口か、拳かは分からないが。
 だが今は――
「コッチが問題だなぁ……」
 独り言のように呟き、麻緒は足元に転がっている首無しトッド君に視線を落とす。
 あの時は丁度良いと思っていた。久里子の考えを頭から否定するという意味合いも込めて、余計な事を吹っ切る助けになってくれた。冬摩の放ったエネルギー塊が、上手い具合に命中してくれたと思った。
 だからずっと忘れていた。雑念を振り払って強さを求める事に集中して、忘れようと努力してきた。そして久里子も忘れて、トッド君は最初から存在しなかった事になってくれればと思っていた。しかし、そうは千里眼屋が下ろさなかった。
(全部見透かしてるんじゃないのか……?)
 頭の回転が速く、何より勘の良い久里子の事だ。全て知った上で自分を泳がしているという可能性も……。そしていつまで経っても謝りに来ない事に痺れを切らして、ついに行動に出た。
(……な訳ないか)
 久里子はそんな執念深い女性ではない。過去の事をずっと根に持って、今まで引きずるような人間ではない。気に入らない事があれば、その場ですぐに言ってくる。基本的には穏やかな性格だが、関西系の気質は健在だ。
 コレはただの偶然だ。単なる数奇な巡り合わせだ。気まぐれな運命の女神様が、退屈しのぎにした悪戯なんだが――
「謝るか」
 浅く嘆息し、麻緒はトッド君を抱き上げた。
 本当は冬摩のせいなんだか、そんな言い訳じみた事は口にしたくない。それに冬摩の責任にもしたくない。悪いのはトッド君の事を忘れて、二人の戦いに魅入っていた自分なんだ。
「でもなぁ……」
 全てが自分のせいだと認めてしまうのは癪だし、久里子が忘れているだろう事をわざわざ思い出させてまで謝罪するというのも……。
 ただせっかくこの館に来たんだから、何かアクションは起こしておきたいところだが……。
(このまま帰るのも手か……)
 コレを持って帰って、完璧に無くしてしまうというのも……。
(きっと、お兄ちゃんなら――) 
 そんな事を考えながら、麻緒はトッド君をもう一度胸の中に抱き入れた。

 ◆◇◆◇◆

 ――その頃、麻緒の様子を扉の隙間から見つめる人影が一つ。
(麻緒、貴方がそんなに立派な葛藤をするなんて……)
 当然、篠岡玲寺である。
(オジさんは嬉しいですよ。いつの間にそんな……)
 うっう、と嗚咽しながら、玲寺はカシミヤのハンカチで目元を拭った。
 確かあのぬいぐみは久里子のお気に入りの一つ。自分も以前、お世話になったから良く覚えている。ソレがあんな変わり果てた姿に……。
 見せられた久里子は激怒するかも知れない。しかし麻緒が正直に、そして誠意を込めて謝ったのならきっと許してくれるはずだ。嶋比良久里子とはそういう女性だ。
 頭が切れて理知的な部分もあるが、感動屋で義理人情を重んじる人間でもある。きっとこういう展開には弱いはず。
 だが麻緒の性格からして、素直に謝るとも思えない。きっとあーだこーだと色々考えたあげく、『メンドクサ……』で終わってしまう可能性の方が高い。だからここは一つ――
(私が盛り上げないと、ねぇ)
 ニンマリ、とイヤらしい笑みを浮かべ、玲寺は音も気配も無く麻緒の部屋から離れた。そして口元に手を添えながら、紅い絨毯の敷かれた廊下を進む。
 楽しくなってきた。やはりイタズラというのは、いくつになっても気分が昂ぶるモノだ。小学生の頃、好きな子のブリーフを隠して遊んでいたのを思い出す。
(ま、ソレはい・い・と・し・て)
 これで麻緒の事情も分かった。
 最後は久里子、か。







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