貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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十一『殺す。殺せ』


◆血意 ―荒神冬摩―◆
 日が完全に落ちた頃、ようやく辿り着いた館の中は惨澹(さんたん)たる状況だった。
 表の出入り口は無残に壊され、原型をとどめていない。大理石製の廊下には大きな亀裂が無数に走り、生々しい爪痕を刻んでいた。そして所々に飛散している、まだ乾ききっていない血……。
「久里子!」
 冬摩は叫び声を上げながら廊下を蹴った。そして正面の大広間に飛び込み、一番近くに居た白スーツの男の胸倉を掴み上げる。
「オイ! 何なんだ! 久里子は!? どうなった!? 何やってる!? 他の奴らは!?」
 断片的な言葉で詰め寄る冬摩に、館の使用人らしき男は目を白黒させながら顔を青くした。
「と、冬摩さん! 落ち着いて! お、落ち着いて……!」
 冬摩と使用人の間に割って入り、朋華は二人を引き剥がしながら申し訳なさそうな口調で続ける。
「す、すいません、突然。あの、コレって何があったんですか? 嶋比良さんはどこ……」
「魎か! 魎だな!? あの野郎が来やがったんだな!?」
 朋華の言葉を遮るようにして叫び、冬摩は再び大きく詰め寄った。
「と、冬摩さん……!」
「穂坂様、です」
 そしてまた冬摩をなだめようとした朋華の後ろから、使用人が静かに言う。
「え……?」
「穂坂様が急に暴れられて……ソレを止めようとしたのですが、力及ばずこの有様です。嶋比良様は皆様を連れられて、穂坂様を追われました」
 冷静な喋りで要点だけを端的に述べる使用人に、冬摩は疑わしげな視線を向けた。
 穂坂が暴れた? どうして……。しかもこの暴れようは普通ではない。
 館に残されたこの気配、そしてこの匂い……。コレはアイツの……。
「――ッ!?」
 背中に嫌な気配を感じ、冬摩は反射的に後ろを向いた。
 嫌な気配? 違う。そんな生ぬるいものではない。
 怖気がして吐き気がして、そして怒りで発狂してしまいそうな程の邪気。コレは――
「オラァ!」
 後ろを向く回転に乗せて冬摩は右の裏拳を放つ。大気を引き裂く拳撃に乗せて打ち出された力の塊は、大広間の扉を突き破り、激しい轟音と烈風を巻き上げて館の出入り口を跡形もなく吹き飛ばした。
「と、冬摩さん!」
「下がってろ朋華。すぐに終わる」
 静かに、しかし抑えきれない怒気を内包させて冬摩は低く言う。
「出て来い!」
 そして殺意を剥き出しにして叫び、冬摩は床を踏み抜く程に強く蹴った。爆発的な瞬発力で一気にトップスピードに乗り、気配との距離を半呼吸で詰める。
「オラァ!」
 怒気を込めて叫び、冬摩は血管が破裂するくらいに握り込んだ右拳を相手に叩き付けた。
 固く、重い手応え。だがソレも一瞬の事。
 館の外で冬摩の拳を受け止めた男はその力を殺しきれず、両腕を不自然な方向に曲げて崩れ落ちた。
「言えコラァ! 魎の野郎はどこに居やがる!」
 前のめりになって沈んで行く男の胸ぐらを掴み上げ、宙吊りにして冬摩は凄む。
 だが男は何も言わない。不敵な笑みを口元に張り付かせ、龍閃と全く同じ波動を撒き散らしたまま全身を脱力させている。
「ッの、野郎……!」
 男の挑発的な行為に冬摩は両目を大きく見開き、相手の首を締め上げようとして――
「く……っ!」
 脇腹に鋭い痛みが走った。
 目だけをソチラに向け、相手を確認すると同時に足を蹴り上げる。だがその一撃は空を切り、冬摩の体勢が少し崩れて――
「チィ!」
 背中で生じた強い圧迫感に、冬摩は肘を後ろに放った。しかし当たらない。
 直後、今度は腹部に痛烈な熱が走る。さっきまで両腕を垂らしていた男がコチラの鳩尾を蹴り、その反動で後ろへと跳んでいた。
「テ、メェら……!」 
 灼怒に顔を染め上げ、冬摩は夜闇へと身を隠そうとする正面の男を追う。重心を低くして突っ込み、下から掬い上げるようにして放った右手で男の脚を掴んだ。
「ッラァ!」
 そのまま足首の骨を握り潰し、背後から覆い被さって来たもう一つの気配に男の体を投げ付ける。しかし彼は飛んできた男の体を踏み台にすると、空中で更に高く跳び上がった。そして両手を鉤状に曲げ、奇声を上げながら突き出して来る。
 上空からの男を見上げて構える冬摩。だが嫌な何かを感じ取り、反射的にその場を跳び退いた。
 一瞬遅れて眼前にそそり立つ土柱。
 さっきまで冬摩が居た場所に、深い穴が穿たれていた。
(コイツら……!)
 舌打ちし、冬摩は龍閃の波動を放つ三人を見る。
 両腕と左足首の骨を折られ、ソレでも薄ら笑いを浮かべながら立つ短髪の少年。上空から降り立ち、体をゆらゆらと揺らして不気味に構える口髭の男。そして先程、地面を深々と抉ったハイヒールを履いた細身の女。
 魎が自分に差し向けてきた、龍閃の死肉に侵蝕された者達。
 一番最初に川沿いの土手で会った男のように。麻緒の通う学校のグラウンドで出くわした大勢の男達のように。
 だが、彼らと違い、コイツらは……。
(ただの雑魚じゃねぇ)
 比べ物にならないくらいに動きが切れている。連携の息も腹立たしいほどに合っている。
「へっ……」
 冬摩は首の骨を鳴らしながら口の端をつり上げ、両の拳を固く握り込んで身を落とした。
 実力だけではない。体から放たれる龍閃の波動の濃さも段違いだ。
 ――そして殺意の度合いも。
 魎の奴が近くで見ているのか、それとも遠くで成り行きを見守っているだけなのかは知らない。よこしたのがこの三人だけなのか、まだ他に沢山居るのか。
 だがそんな事はどうでもいい。コイツらが魎の駒である事に変わりはない。
 駒を使う事に何か狙いがあるのか、ただ自分を挑発して遊んでいるだけなのかは分からない。
 だが一つハッキリしているのは、コイツらが魎の居場所を知っているという事。
 もう今でのように失敗はしない。絶対に逃がしはしないし、殺しもしない。
 捕らえて、必ず魎の居場所を聞き出す。
 そしてアイツが言っていた『仮説』の事を。この『左腕』の力の正体を――
「ッシ!」
 冬摩は強く息を吐き、地面を蹴った。三人はすぐソレに反応し、冬摩の力を逃がす方向へと分散する。
「ケッ!」
 だが冬摩は突進の力を一瞬にして殺し、直角に軌道を変えて口髭の男の背後を取った。横から繰り出される細身の女の蹴りを低身してかわし、伸び上がりざま男の体に拳を突き出す。瞬時にして男は体をコチラへと向け、両腕を体の前で折り畳んで身構えた。
「オラァ!」
 しかし構う事無く冬摩は拳を振るう。
 コチラの拳撃が男の腕に着弾すると同時に、腹へと突き刺さる女のヒール。そして背後からのし掛かってくる灼熱の圧力。
 だが全く火線を揺るがす事なく、冬摩は拳を振り抜いた。
 朽ち木がへし折れるような乾いた音、そして生温かい迸り。冬摩の拳は男のガードを易々と突き破り、奥にある胸の肉を刮ぎ落とした。
「次ぃ!」
 吹き出す鮮血を横顔で受け、冬摩は半身を後ろに向ける。そして背中に蹴りを食い込ませていた少年に肘を放った。が、少年は一瞬早く飛び退き、片足だけで綺麗にかわす。
 しかしその着地点を狙って肘から放たれた『真空刃』が、少年の残った右脚を切り裂いた。
「ガキはソコでじっとしてろ!」
 地面にうずくまり、体を震わせる少年を睥睨しながら冬摩は体を横に流す。
 直後、脇腹のすぐ隣りを女のヒールが突き抜けた。無防備に晒された細長い脚を腕で挟み込み、冬摩は力を込めて固定する。
 次の瞬間、冬摩の触れた女の脚が冷たい石へと変質していった。
「女は黙ってな」
 言いながら体をその場で反転させ、冬摩は振り上げられた女の腕を捻り上げるようにして掴む。そして『天冥』の『石化』が、その腕にも根を這わせていった。
「へっ」
 面倒臭そうに息を吐き、冬摩はシーンズのポケットに手を入れた。
 確かに『ただの雑魚』ではなかった。『普通の雑魚』よりは強かった。
 だがソレでも所詮は雑魚だ。いくら龍閃の死肉で人間離れした力を身に付けているとは言え、たった三人で自分に向かって来ようなどと自殺行為に等しい。
 冬摩は口髭の男の方にゆっくりと歩み寄り、低い声で――
「ち……」
 体をふらつかせながらも立ち上がった男に舌打ちした。
「もうその辺にしとけよ。コレ以上はマジで死ぬぞ」
 月明かりの元、鋭い眼光で男を射抜きながら言う冬摩に、彼は口元を異様に歪めて胸を仰け反らせる。傷口が更に開き、赤黒く染まった肉の断面が晒された。
(コイツ……)
 まるで自ら死を望むかのような男の行動に、冬摩は訝しげに目を細める。
 魎は何がしたいんだ。この駒で自分の何とかできる見込みなど、もう微塵も残っていないというのに。それとも、用無しになったから自爆覚悟で捨てるつもりなのか……。
「ッエヒャアアァァァ!」
 冬摩の思考を中断するようにして、口髭の男は両腕を下げたまま突進してくる。
「っのガキ……」
 不快に顔を歪め、冬摩は『真空刃』を男の足元に放った。だが男はソレを横に飛んでかわすと更に上空へと飛び上がり、体を真横に倒して太い樹の幹に着地する。そして樹全体を大きくしならせ、男はその反動に身を任せてコチラに飛来した。
 冬摩は鬱陶しそうに右手を持ち上げ、
「な――」
 目の前の異様な光景に目を大きく見開いた。
 男はぶら下がっていた自分の腕に歯を立て、そのまま激しく顔を動かして噛み切る。そして千切れた右腕を口にくわえ、凄まじいスピードで急迫してきた。
「クッ……!」
 予想だにしなかった男の行動に、冬摩の反応が僅かに遅れる。
 男は口に溜まった自分の肉片を腕と共に吐き出すと、体を丸めて小さくなった。視界の中で二つの物体が全く違う動きを取り、一つは目隠しに、そしてもう一つは――
「クソッ!」
 腰から肩に掛けて、対角上に熱が走る。
 一瞬。まばたき一回にも満たないほんの一瞬だが、男の全身がコチラの視界から消えた。そして次に現れた時は足のすぐそば。ソコから飛び上がると同時に、男は爪先でコチラの体を抉った。
「っのガキいいぃぃぃ!」
 その脚を左手で掴み、冬摩は男の頸部を握り潰す。そのまま地面に叩き付け、右拳を繰り出して――
「――ッ!」
 男の残った左腕が眼前に晒された。
 まるで風に吹かれて舞う柳の様に。頼りなく、そして儚げに……。
 コレで防ぐつもりなのか? こんな棒きれ一本で、コチラの拳を。
「フザッ――」
 冬摩は苛立ちと激憤を拳に込め、
「――けんなコラアアアァァァァ!」
 咆吼を上げて右拳を突き出した。
 ソレは何の抵抗も無く男の腕を切断し、血肉を撒き散らし、
「ック……!」
 顔面に埋め込まれる直前で力を解放した。だが完全には止まらない。そして冬摩の体に宿る『鬼蜘蛛』の力。紙一重で避けたくらいでは相手を逃さない必中の力が、男の顔を破壊へと誘っていく。
『オオオオオオォォォォォ!』
 大気を激震させる獣吼を上げ、冬摩は自分の右腕に左拳をぶつけた。下への力が真横からの力で弾き飛ばされ、血飛沫と共に跳ね上げられる。そして冬摩の肉片が宙を舞い――
(丁度良い……!)
 冬摩は自分の肉片が男の顔に付着したのを見て、口の端を大きく吊り上げた。
 願ってもない展開だ。今コイツが龍閃の召鬼だか魎の召鬼だかは知らないが、自分の支配力の方が上なんだ。圧倒的に。
 なら、コイツを自分の召鬼にして、口を割らせれば――
 男の顔が爆ぜた。
「え……」
 突然の、あまりに突然の光景に、冬摩の耳から音が消える。目から色が無くなる。全身の感覚が失せる。思考が全く付いて行かず、しかし視界に映る光景だけはいつもと変わらずに……。
 異様に陥没した顔、そこに突き立てられた細い腕、滴る鮮血、張り付いた肉塊。ソレらが自分を置いて勝手に、どんどんと……。
 何だ? 今何が起こった?
 右腕の力は確かに殺したはずだ。男の顔からずらして、確かに違う方向へと……。
「ガ……!」 
 胸元に生じた灼痛に、冬摩の意識は強引に引き戻された。
 目線を下げる。女の細い腕が、自分の胸に刺さっていた。ソレは今目の前で、男の顔を潰した腕で――
「テメェ……!」
 その腕を引き抜いて捻り上げ、冬摩は『石化』を放とうとして、
「な……」
 その女の姿に再び硬直した。
 女には左腕が無かった。そして右脚も。自分が『石化』したところだ。
(まさか……)
 『石化』が全身に行き渡る前に切り離した? 完全に身動きが取れなくなってしまう前に、『石化』した箇所を取り除いた……。
「くっ……!」
 下から振り上げられた女の左脚を、冬摩は体を仰け反らせてかわす。
 そして、急に自分の左腕から抵抗が消えた。
 さっき左手で女の右腕を捕らえたはずなのに。今もまだ手は握り込まれたままのはずなのに。一瞬前までは引きの力が掛かっていたはずなのに。
 目線を上げる。確かに冬摩の左手には女の右腕が握られていた。
 ――女の右腕“だけ”が。
 肘から先の部分のみがソコにあった。
 下から来た蹴撃。アレはコチラに対する攻撃ではなく、自分の腕を切り落とすため。そして束縛から逃れるため。
 何だ、この戦い方は。この破滅的な戦い方は。
 普通の思考ではない。自分の腕や脚をあっさり放棄するなど。情報を与えぬ為に、味方を躊躇う事なく殺すなど。コレではまるで、魔人そのものの――
「――ッ!?」
 鼓膜を激しく揺さぶる轟音が辺りに鳴り響いた。直後、冬摩の頬に何か柔らかい物が付着する。
 ソレは、顔を潰された男の“破片”だった。
「何のつもりだ、テメェ……」
 片足だけで立った細身の女は、口に紅黒い呪符をくわえて冷たい笑みを張り付かせている。
 今、アレで男の体を爆発させたのか。完全に抹消するために。死体すら残らないようにするために。
「ふざけてんじゃねーぞコラァ!」
 そして冬摩の怒声に反応するように、女は片足で横っ飛びに地面を蹴った。
「待てオラァ!」
 冬摩もすぐさま後を追う。
 逃がさない。絶対に逃がさない。こんなの胸クソ悪い戦いのまま終わらせるなど、絶対に――
「――ッ!」
 また爆音が轟いた。自分の足元で。
 あの紅黒い呪符はすでに仕込んで置いたのだろう。その場所に自分を誘導して……。
 だが姑息な作戦だ。こんなつまらない術で自分の体に傷を付けようなど――
「へっ……そーゆー事かい……」
 冬摩は足を止め、さっきの爆発があった場所にどこか冷めたような視線を向ける。 
「そういう……事か……」
 ソコにあったのは短髪の少年だった物の成れ果て。両腕と両脚の自由を奪われ、身動きの取れなかった彼は、今や跡形も無く……。
「一石二鳥って訳かぃ……」
 冬摩は危ない薄ら笑いを零し、しかしソレはすぐに明確な殺意へと昇華し、
『ブッ殺すぞコラアァァァァァ!』
 裂帛の凶声が暗天を突いた。
 そして目の前の女を睨み付け、真っ正面から突っ込んできた彼女の腹に腕を深々と突き入れて――
 爆ぜ飛んだ。
 口髭の男と短髪の少年同様、細身の女も口にくわえた呪符の力を解放し、自ら細切れとなった。
 後に残ったのはまだ温もりの残る肉片、断片と化した骨、爛れた臓物。
 血の通った人の気配は欠片も無く、ソコにあるのはただの『物』。
「何だこりゃ……」
 顔にこびり付いた血や肉を乱暴に拭い去り、冬摩はまた力無く笑みを零した。
 今まで必死に抑えていた何かが、邪魔くさい縛鎖を断ち切って行くのが分かる。
「オイ、何なんだよ……何のつもりなんだよ……」
 そして誰に言うでもなく独り言のように呟いた。
 言葉を紡ぐたびに、一つ、また一つと枷が取り払われて行く。
「魎……まさかこんなモンで何とかなるなんて、考えてる訳じゃねーだろーなぁ、オイ」
 虚ろな視線を暗い空に向け、冬摩は下唇を血が滲む程にきつく噛んだ。
 だが痛みは無い。そんな物を感じている余裕が無い。今自分を支配しているのは、解放の悦びに狂喜の雄叫びを上げる獰猛な野獣だけ。
「テメーが何考えてんのかは知んねーけどよ……ついに堕ちるトコまで堕ちちまったなぁオイ……。テメーも龍閃の野郎と同じだ。もぅ同じだよ……なぁ? 魎……」
 そして爪の先が手の平を食い破るまで、冬摩は固く拳を握り締めた。
 もう迷う事など無い。一切の躊躇いも要らない。ただ、自らの獣欲に身を任せていればいい。
「お前は――殺す!」
 叩き付けるように叫び、冬摩は殺意の視線で光を増し始めた月を睨み付けた。

◆おやすみ ―九重麻緒―◆
 着いた場所は、厳つい岩肌が無数に晒され河原だった。かなりの上流域なのか、幅五メートル程の川の流れは随分と速い。見上げると半円を描きかけた月をバックに、吊り橋が夜風に揺れていた。
「ココで良いだろ」
 巨大なダムを背に、陣迂はポケットに手を入れたまま低く言う。
「オラ坊主、手加減しねーでやってやるから掛かって来いよ」
 そして怒気を孕んだ声を発しながら、コチラを挑発するかのように人差し指を軽く曲げて見せた。
 余裕たっぷりにコチラを見下ろす陣迂に、麻緒は露骨に不愉快な顔で舌打ちする。
(気に入らない……)
 長く伸びた前髪を右手で払いのけ、鋭い視線で陣迂を射抜いた。
 ココに来るまでの間、陣迂は自分の力の発生点、作用点、そして保持神鬼の事をわざわざ説明した。

『後で負け惜しみ言われても困るからな。ま、コレでまた不意打ちだなんて言われる心配も無くなった訳だ』

 鼻で小さく笑いながら、陣迂は小馬鹿にしたような表情を浮かべていた。
 アイツの力の発生点は『肉体的冷感』と『精神的冷感』。それぞれに対応する力の作用点は『右腕』と『呼気』。保持神鬼は魎が新しく生み出した『影狼』。能力は『認識乱』と『凍刃』。
 ソコまで説明し終えて、陣迂は更に実演までして見せた。
 自分の気配を完全に絶ち、前に居ながらにして後ろから話し掛け、そして空気さえも凍結させた。
 コレが力の全てだと言い、陣迂は何事も無かったかのようにまた前を走り出した。
 無防備な背中をコチラに向けて。
(気に入らない……)
 その正面切った態度だけではなく、この地形も。
 陣迂の力が本当に言われた通りだとすれば、何もこんな水が沢山ある場所を選ぶ事はない。人気が無い場所なら山奥でも良かったんだ。『凍刃』なら水分が無くても氷を生み出せるんだし、『認識乱』を活かすなら障害物の沢山ある山中の方が都合が良い。
 なのにわざわざ『玄武』の『司水』を使い易そうな場所を……。
 そして一番気に入らないのが、アイツが急にやる気を出した理由。
「オイ坊主、一つだけ聞かせろ。テメー、何であの時手ぇ出したんだよ」
 ――あの時。
 夏那美が自分を止めようと飛び掛かってきた時。自分はソレを振り払うために手を出した。もし『獄閻』の『金剛盾』が無ければ、夏那美は一生消えない傷を顔に負っていた。そして最悪の場合、死に――
 反射的に? 咄嗟の事でつい? 頭に血が上ったせい?
(いや……) 
 違う。アレは……あの時は明らかに――
「あん時言ったろ? 邪魔、だったからだよ」
 “邪魔”の部分を強調して言い、麻緒は不敵な笑みを浮かべた。
「テメェ……ソレ本気で言ってんのかよ」
「当たり前じゃん。ボクこう見えて実は結構優等生なんだよ」
「……反吐が出る」
「別にアンタが気にする事じゃないだろ? むしろ敵陣でのトラブルは大歓迎って感じじゃないの?」
 そう。ソレが一番気に入らないんだ。
 自分が夏那美に拳を向けた事に対して、どうして陣迂が不快になる? 何故こんな説教じみた事を言われないといけないんだ。
 他人の事など知った事では無いではないか。ソレが敵対している相手となれば尚更。
 なのにコイツは――
「敵とか味方とか、そんな下らねーモンはどーだっていいんだよ。俺は単にテメーがやった事が気に入らないだけだ」
「あーそー。そりゃ超キグーだねー。実はボクもなんだよ。ボクもアンタが気に入らない。特にその上から目線がね。魔人だかお兄ちゃんの弟だか知らないけど何様なんだよ」
「気に入らねー気に入らねー。気に入らねーモン同士って訳だ。戦う理由としては分かり易いわな」
「ならついでに勝った方が正しいって事で良いんじゃない?」
「へっ、ずっと兄者の小判鮫してたのは伊達じゃないって事か」
「さっきからいちいちムカツクんだよ! テメーは!」
 殺気を剥き出しにして叫び、麻緒は陣迂の立っている岩場へと飛んだ。
「鼻息の荒い坊主だ」
「オラァ!」
 一気に陣迂の前まで距離を詰め、鉤状に曲げた爪を打ち出す。
 陣迂はソレを避ける事なく右腕で受け止め、間髪入れずに左の拳撃を放った。ソレが麻緒の右頬を捕らえる直前、陣迂の拳を迎え入れるようにして正六角形の白い枠が現れる。
 『次元葬』は陣迂の腕ごと呑み込むと、対となったもう片方の枠から吐き出した。
 ソレは後ろから陣迂の頭部を狙い、
「ガキの浅知恵だなぁ」
 そうなる事を読んでいたかのように、陣迂は首を曲げる。そして拳は再び麻緒の眼前に突き出され、その先から氷柱が生えた。
「っとぉ!」
 咄嗟に陣迂の腕から爪を放し、麻緒は自然落下に身を任せて鋭い一撃をかわす。だが、その先にはすでに陣迂の蹴撃が待ち構えていた。
「ち……」
 体を丸め、麻緒は両腕と両脚を交差させてソレを受け止める。
 数百キロの鉄柱で振り抜かれたような錯覚。全身の骨が悲鳴を上げ、四枚のガード越しですら内臓を大きく揺さぶられた。
(っの、馬鹿力が……!)
 苦痛に顔を歪めながら麻緒はそのまま後ろに吹っ飛び、背後で待ちかまえていた『次元葬』に全身を入り込ませる。そして次に麻緒が吐き出された先は、陣迂の真っ正面だった。
 蹴り出された時と全く同じ速度で、麻緒は背中から陣迂に急迫する。
「オォォォォッラァ!」
 そして中空で体を半回転させ、裏拳を陣迂の顔面に叩き込んだ。
「見え見えだなぁ、坊主」
 だが、陣迂は嘲るような声を出しながら腕を上げ――
 その直前でもう一組の『次元葬』を展開した。
「な……」
 陣迂の口から漏れる狼狽した声。
「クタバレ!」
 麻緒は三枚目の『次元葬』に右拳を突き入れ、その逆側に配置した四枚目から陣迂の左頬を狙った。
 肩まで伝わる確かな手応え。陣迂の顔の挟んで向こう側に生えた右拳は、完全に標的を捕らえていた。
「オラァ!」
 麻緒は拳を振り抜いたところで爪を立て、同じ軌道を逆から突き上げる。渾身の力を込めた爪の先が、不意の一撃を食らって体の泳ぐ陣迂に肉薄し、
「っとぉ……!」
 上体を大きく仰け反らせた陣迂の目の前を通り過ぎた。 
 直後、右手の感覚が一瞬にして無くなる。
「な……!?」
 反射的に腕を引き抜き、麻緒は陣迂の体を蹴って一旦距離取った。
 今のが『凍刃』? 陣迂の『呼気』から放たれた氷結の力……。
(早い……)
 麻緒は陣迂から離れた岩場に降り立ち、変わり果てた自分の右手を見つめる。皮膚、血液、骨に至るまで完全に凍り付いてしまっていた。
 空気さえも氷にしてしまう力なのだから、かなり凄まじい事は予想していたがこれ程までとは……。
 『司水』で血液温度を上昇させ、内側から徐々に溶かしながら麻緒は陣迂を見上げる。
「まさかそんな裏技隠してやがるなんてなぁ」
「手の内を自分から明かすなんて馬鹿のする事だよ」
「馬鹿、ねぇ……。下衆に罵られちゃあお終いだな」
「下衆なのはアンタの方だろ? 確か自分でも認めてたよなぁ」
「減らず口叩きやがる……」
「口で言い返せない奴はみんなそう言うのさ」
 得意げに笑い、麻緒はおどけたように肩をすくめた。
(大体二十秒、か……)
 そして感覚の戻り始めた手の握り開きを繰り返しながら、麻緒は胸中で舌打ちする。
 『凍刃』によって一瞬で氷らされた手を、『司水』で元に戻すのに必要な時間が二十秒。
 この時点ですでに力の差は圧倒的だ。少なくとも何かを凍り付かせるという作業に関しては歯が立たない。
 そして最初に爪を突き立てた陣迂の右腕。水分を全部蒸発させるつもりだったのに殆ど変わってない。まさか『司水』への抵抗力そのものが強いというのか……。
「どーした坊主。さっきまでの威勢は」
「ソッチこそ。もう年で動けないの? ボクをブッ殺すつもりでやるんじゃなかったっけ?」
 挑発的な陣迂の言葉に、麻緒はソレを鼻で笑いながら返した。
 まぁいい。他にもやりようはいくらでもある。何も敵の得意分野でやり合う必要などないんだ。
 『凍刃』は凍らせる事は出来ても、熱を発する事は出来ない。ソコに付け入る隙がある。
「あーそーかい。そんじゃそうさせてもらうかな。コッチもいい加減ムカついてるんでね!」
 陣迂は苛立たしそうに早口でまくし立てると、足場を蹴って大きく跳躍した。
 接近戦は圧倒的に不利だ。相手の『呼気』が届く範囲で戦えば、今度は手ではなく頭を凍らせられるかもしれない。それに『認識乱』で位置や距離感を乱してくるだろう。しかし――
「ッハァ!」
 麻緒は陣迂の接近に合わせるようにして飛んだ。そして真正面から突っ込む。月明かりに照らされて、陣迂の意外そうな顔が一瞬見えた。
(このボケが!)
 さっきの『凍刃』は牽制のつもりだったんだろう。接近戦は不利だと知らせるための。
 だがそんな事は関係ない。遠距離戦? ハッ! そんなちまちまとした削り合いなど戦いとは呼べない。緊張感を保てない。命のやり取りを実感できない。最高の気分になれない!
「死ねオラァ!」
 口元を凶悪に曲げ、麻緒は右の爪撃を横手から大振りに薙いだ。しかし陣迂の体はまだ射程距離の外。普通なら当たるはずがない。回避行動を取るまでもない。だがそれでいい。そのまま――
「避けんなよ!」
 麻緒が口元を歪めて叫んだ次の瞬間、右の爪が大きく伸びる。ソレは一瞬にして陣迂の体を呑み込む程の長さになると、鋭い輝きを持って振るわれた。
 玲寺に対しては相手と自分を繋ぐ氷鎖として使った。だが、体内の水分を鎖ではなく刃として氷結させれば……!
「多芸だな、坊主」
 しかし陣迂は全く慌てた様子もなく静かに言うと、何もない空間を蹴って麻緒の氷爪を綺麗にかわす。
「ちぃ……!」
 足元の空気を凍結させてソレを足場に……!
 だがその氷爪は『司水』で生み出した氷爪だ。一撃目をやり過ごしただけで、避けきったつもりになるな!
「オオオオォォォォ!」
 麻緒は喉の奥から声を上げ、体の中の水分を限界まで放出する。皮膚の表面と同時に、意識までもが枯れ果てていくような感覚。だがコレでいい。コチラの命を削らずして、どうして相手の命を削れる……!
 麻緒の叫声に応え、陣迂の足元を通り過ぎた氷爪から新たな角が生える。刹那、ソレは急激に成長して背後から陣迂の首筋を狙い――
 高く澄んだ音が辺りに響いた。
「テメーのは軽いんだよ、坊主」
 首の後ろに回した右腕で氷爪を易々と砕き、陣迂は冷たく言う。そしてまた何も無い空間を後ろに蹴り、コチラとの距離を一気に詰めた。
「オォォラァ!」
 コチラに向かって振るわれる陣迂の太い腕が何重にもブレて見えた。
 首から上を跳ね飛ばされたような錯覚。視界が横に激しく揺れ、地面が真上に来て――
「――ッハ!」
 背中から固い岩場に叩きつけられ、麻緒は口腔に溜まった物を全て吐き出した。眼前に黒い飛沫が舞い散る。
「その程度で寝てんじゃーぞコラァ!」
 大きな影が多い被さって来たかと思うと、内臓を押し潰されたような圧迫感が襲った。
「ご……ォ――ェア!」
 自分の意思とは関係なく口から声が漏れ、黒い飛沫が濁流へと変わる。
 不快な浮遊感。もう何を見ているか、どちらが地面でどちらが空なのか、そして自分がどこに居るのかすら朧になっていく。
「オラァ!」
 そして耳元で鳴り響く怒声。肺が叩き潰されたような感覚と背中への激烈な衝撃が、同時に肉体を蹂躙した。
「オイ坊主、テメーが殴ろうとしたあの女。アイツはテメーを俺から庇いやがった」
 何だ? 一体、何がどうなった? 自分の体どうなってしまったんだ? 骨がバラバラになってしまったのか? それとも頭を壊されてしまったのか?
「テメーが無様に地面這いつくばってる時、アイツは俺の前に立ってテメーを守ろうとしやがったんだよ」
 いや、まだ指は動く。腕も曲げられる。少しボヤけているが頭も働く。
 どうやら自分は今、岩の中に埋め込まれているらしい。陣迂の馬鹿力によって。
「そんでテメーはさっき、あの女に何しやがった。えぇオイ。まともに当たってたらどうするつもりだったんだよ」
 痛みは勿論ある。アレだけの強撃を立て続けに食らったんだ。骨は何とか繋がっているようだが、ヒビくらいは無数に入っているだろう。内臓も完全には潰れていないにしろ、何かしらの破損はあると考えるのが妥当だ。
 だが、我慢できない程ではない。いや、むしろ心地よい。
 やっとココまで来た。ようやく躰の奥から熱くなって来た。今自分は生死の境に立たされているのだという事を、頭ではなく体で、細胞の一つ一つに渡るまで実感できた。
「オイ坊……」
「ボクはまだ死んでないよ?」
 陣迂の言葉を途中で遮り、麻緒は危ない笑みを張り付かせて体を起こした。
「あぁん?」
「ボクをブッ殺すんでしょ? でも出来てないよって言ったんだ」
「テメェ……」
「ボクの攻撃が軽いだって? そりゃ貴重なアドバイスどうも。だったら――」
 そして潤いを取り戻した右腕を顔の前に持ってくる。
「別の方法考えないとね」
 次の瞬間、麻緒の五本の指から氷鎖が伸びた。ソレは先程の氷爪とは比べ物にならない太さにまで成長すると、蜘蛛の巣のように複雑な網を周囲に張り巡らせる。
「死ぬ気か、テ……」
 陣迂の言葉がソコで止まった。
 コレだけ大量の水分を放出しているのに、麻緒の体に変化は無い。それどころか氷の網はより太く、より立体的になって陣迂を囲んで行った。
「ッハハ! 何驚いてんだよ! この程度でよ!」
 狂気的に目を見開いて叫び、麻緒は二組の『次元葬』から両足を引き抜く。そして真上に跳躍し、自らが生み出した氷の巣に飛び乗った。
 体の中の水分だけで足りないのであれば外から補充すればいいだけだ。『次元葬』を介して両足を川の中に入れ、足の爪から体内に取り込んだ水を右手の爪先から吐き出せば――
「馬鹿力の限界ってヤツを教えてやるよ!」
 血と狂気と痛みに酔いしれ、麻緒は口元を三日月状に曲げて氷の足場を蹴る。左から右上へ。真下から正面へ。そして頭上から背後へ。陣迂の周りに形成された氷結の森全てを使い、麻緒は氷の枝を蹴るたびに加速して行った。
「オラァ!」
 そして最高速に乗って陣迂へと急迫し、正面から拳を打ち出す。ソコに『次元葬』が割って入ってきて――
「また同じパターンか」
 陣迂の後ろに回りこんだ対の枠から麻緒の拳が打ち出され――ソレに合わせて陣迂は顔を横に倒し――
「な――」
 『次元葬』が消えた。
 直後、再び真正面から麻緒の腕が生えたかと思うと、陣迂の鼻先に着弾する。
「が……!」
 渾身の拳をまともにくらい、大きく仰け反る陣迂。
「ァァァァッラァ!」
 その隙を逃す事なく、麻緒は立てた右の爪を陣迂の左胸に突き入れた。
(勝った!)
 そして体の奥で『司水』を――
「――ッ!?」
 刺さらない。確かに皮膚の表面は抉っているが、ソコで止まっている。奥にある肉には至っていない。コレでは『司水』を発動させても――
「ち……!」
 麻緒は舌打ちして反射的に陣迂から距離を取る。
(そうか……)
 氷の枝に着地し、麻緒は目を細めた。
 『右腕』が力の作用点であるなら、『凍刃』の力を肩で使って自分の体に及ぼす事だって出来るはず。
 だから陣迂は、皮膚の真下にある筋組織を凍結させてコチラの爪を防いだんだ。恐らく、最初に右腕で受け止めた時も同じようにして。
「ッククク……」
 思わず笑いが漏れる。
 『凍刃』は確かに強烈な凍結能力を誇る。コチラの渾身の爪を受け止めるくらいの硬度を一瞬で作り上げるほどに。
 だが凍らせる事は出来ても溶かす事は出来ない。つまり、普通そうに見えるがあの右腕も体の前面も、内側はもう使い物にならないって訳だ。
「随分タフじゃねーか坊主。それに瞬間移動とはね。多芸ぶりもソコまで行くとさすがに頭が下がる」
「龍閃の方がよっぽどキツかったからね。言っとくけど、今さら謝っても許してあげないよ」
 好戦的に口の端を吊り上げ、麻緒は体の周囲で『次元葬』を飛ばして見せる。
 二組四枚の白い枠は、『線』の軌道を取らずに『点』での移動を繰り返していた。すなわち、瞬間的な空間転移を。
 枠の広さと二対の距離の関係は依然として反比例したままだが、コレでもう『次元葬』の出現位置を目で追う事は出来なくなった。
「あくまで接近戦で来やがる事といい、力で強引に押し込んでくるところといい、悪かねぇ。兄者の教えを忠実にって訳かい」
「ああ、それから手加減もしてあげないよ」
「だから余計に気に入らねぇんだよ! テメーは兄者の背中見て育ってきたんだろーが! なのに何であの女を見捨てやがった!」
 静かな口調から一転し、陣迂は感情を剥き出しにして激昂する。
「兄者兄者って、さっきから煩いな……」
 ソレとは対照的に、麻緒は冷めた口調で返し、
「いつまでもお兄ちゃんの真似っこっていうのもおかしいだろー? そろそろ卒業の季節なんだよ」
 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて続けた。
 そう、あの時。自分に飛びついて来た夏那美を引き剥がそうとした時、口から飛び出した言葉。
 ――『邪魔なんだよ!』
 アレは紛れも無く、本心からの叫びだった。
 心の底から邪魔だと思い、本気で跳ね飛ばそうとした。
 そして多分、別に死んでもいいとさえ思っていた。
 あの時、自分の中で何かが吹っ切れたんだ。
 ――女には手を出さない。
 今までずっと、自分にそう言い聞かせ続けてきた。
 まだ凶暴だった頃の冬摩でさえ、その一線だけは踏み越える事なく自分を抑え続けてきた。だから自分もそうしなければならないと、無意識に思い込んでいた。
 だが、もう――
「卒業、だぁ……?」
「いや、卒業じゃないね。超えたんだ。ボクはその点に関して、お兄ちゃんより強くなった」
 不愉快そうに眉を寄せながら言う陣迂に、麻緒はまるで自分の言葉に酔いしれるかのように大げさに両腕を広げて言った。
 そうだ。もう相手が誰でも手加減無く力を振るえるという点において、自分は冬摩を超えた。
 女には手を出さない。
 そう言えば聞こえはいいが、ソレは明らかに心の弱さだ。戦いの中では邪魔なだけの代物だ。相手の生存が自分の死を意味する極限の戦いにおいて、そんな不純物はただの足枷でしかない。
 しかし今、自分はその重荷を捨て去った。何にも束縛される事なく、自由に戦えるようになったんだ。
「女を殴る事が……強さ、だと……?」
「そうさ」
 唸るような声で低く言う陣迂に、麻緒は軽い調子で返す。
「テメェ、俺は下衆野郎じゃなかったのかよ。無関係の女を戦いに巻き込むようなよぉ」
「そんな昔の事はもう忘れたよ」
「あぁそうかい。テメーがそんな鳥頭だったとはな。アリガトヨ。おかげでコッチも吹っ切れたぜ」
「また超キグーだね。ボクもだよ。だからコレ以上アンタの時間稼ぎに付き合うつもりは無い。そろそろ――ブッ殺す!」
 叫んで麻緒は足場を蹴った。
 今の会話はただの時間稼ぎ。体の中の氷を少しでも溶かすための。だが、アレはそう簡単に溶けるものではない。その事は自分でも最初に確認した。
 右腕も胸部も、筋肉は凍りついたままだ。だから力は入らない。確かに硬いかも知れないが脆い。一度亀裂が入れば、あっけなく崩れ去る。例え爪では壊せなくても、拳なら――
「オラァ!」
 麻緒は右の拳を握り締め、渾身の膂力と共に打ち出す。陣迂は避けようとはせず、右腕を上げて受け止めようとして――
「時間稼ぎ、だぁ?」
 眉を吊り上げ、怒気を孕んだ声で言った。
 手応えは、固い。
 だが、“硬く”はない。
「何、勘違いしてんだ? 坊主。ん? 爪はどうした?」
 腹に穴が開いたかのような錯覚。
 次の瞬間、陣迂の姿が急激に小さくなったかと思うと、背中を冷たい圧迫感が襲った。
(クソ……!)
 氷の大樹にもたれ掛かるようにして身を起こし、麻緒は痙攣する足を強引に押さえつけながら立ち上がる。
「げ、ぅ……!」
 熱いモノが喉の奥からこみ上げ、堪らず麻緒はソレを吐き出した。
「ボーっとしてんなよ!」
 背後からの叫声。麻緒は反射的に身を低くし、頭を下げて――
「ご……!」
 顎下を打ち抜かれ、体ごと跳ね上げられた。
(『認識乱』……!)
 気配だけではなく声までも……!
「オラァ!」
(右!)
 麻緒は殺気を感じた方に目だけを向け、反射的に右腕を上げる。
「……ッァ!」
 だか熱を帯びたのは左頬だった。そのまま抵抗する事もできず、麻緒は右に大きく吹き飛ばされて川原の巨岩に体を埋める。
(チィ……!)
 胸中で舌打ちし、麻緒はその場を飛んで離れた。直後、巨岩は内部爆発を起こしたかのように、粉々に砕け散る。
 最初に学校で食らった時と全く同じミスを。我ながら情けない。
 だが陣迂のこの力、どんどん強くなってきている。今までは手加減をしていたから? いや違う。コチラの腹を抉った時からは、もうそんな下らない考えは持っていなかったはずだ。だったら……。
 動きを止める事なく、氷の枝を蹴り続けながら麻緒は目を細めた。
 腹に受けた拳は左、そして今頬を殴られた拳は右。つまり陣迂の力の作用点。そしてアイツの力の発生点は――
(そういう事か)
 右腕と胸部の筋肉が凍結しているはずなのに、どうしてこんなにも力を出せるのかようやく分かった。
 確かに『凍刃』には熱を発する能力は無い。だが、『肉体的冷感』を受ければ右腕の力は増す。そしてその力からは熱が発生する。冬摩が『痛み』を源にして、右腕で力を暴発させられるように。
 ソレを利用して体内の凍結を解いたんだ。
(『影狼』、ね……)
 魎が陣迂に合わせて創っただけあって、やっかいな使役神鬼だ。ソレで攻撃すればする程、自分の力が増してくなど。
「ホントにタフな野郎だな!」
 背後でした陣迂の声に、麻緒は氷の枝から跳んで川原に降り立つ。半呼吸遅れて、前から飛来した氷の塊が頭上を通り過ぎた。
「テメーの拳も軽いんだよ! 龍閃に比べたらな!」
 叫び返して麻緒は高く飛び、一気に氷の樹の頂上まで上り詰める。そして追ってくる陣迂を不敵に睥睨した。
 確かに陣迂の攻撃は龍閃に比べれば軽い。だが、自分のソレよりは遥かに重い。なかなかダメージが抜けず、いつまでも体の奥で鎮座し続けるタイプの拳だ。
 しかし今は感じない。そんな下らない物を感じる思考など持ち合わせていない。
 楽しくて愉しくてしょうがないのに、ソレを痛みなどに邪魔させる訳にはいかない。
 麻緒は危なく顔を歪め、右拳に力を込める。そしてソレを足元の氷塊に叩き付けた。砕けた氷が大量に舞い、月光を反射して煌びやかな光景を生み出す。それは冷たく儚くも、どこか幻想的で……。
「何のつもりだコラァ!」
 足元から陣迂の声が迫る。麻緒は足場の氷を蹴って完全に破壊し、別の枝へと飛び移った。そしてまた叩き壊し、次の枝へと場所を変える。
「チョロチョロ逃げ回ってんな!」
 正面から聞こえる陣迂の声。
 しかし麻緒は薄ら笑いを浮かべながら上を向き、
「オラァ!」
 鉤爪のように曲げた拳を突き出す。
(掴んだ)
 そして目を大きく見開き、麻緒は狂気的な笑みを張り付かせ――
「オオオオオオオォォォォォォォ!」
 耳をつんざき、夜気を鳴動させる獣吼。爪の先に力を込め、更に深く食い込ませる。
「な、ァ……!」
 驚愕に満ちた陣迂の声。ソレはまるで自分を讃える賛美歌のようで――
「クソ……!」
 ようやく視界に写った陣迂の顔は、苦痛と狼狽に満ちていた。
「ッハァ! どうした! お得意の雲隠れは!」
 喜悦に満ちた声を上げ、麻緒は陣迂から体を離す。直後、掴んだのとは逆の左腕が眼前を通りすぎた。
「っのガキ!」
 灼怒に顔を歪め、陣迂は真上から拳を振り下ろしてくる。だが当たらない。もう体のバランスが取れていない。
 潰した。
 陣迂の右腕を。力の作用点の一つを。
「無様だなぁオイ! 殺せる時にしっかり殺さねーからこうなるんだよ!」
 陣迂を罵りながらバックステップを踏んで距離を取り、またすぐに地面を蹴って再び急迫する。目の前で立ちつくしている陣迂の右腕からは完全に水分が無くなり、原形など見る影も無く萎縮しきっていた。まるで骨の上に直接皮が張り付いているようにすら見える。
 アレではもう使い物にならない。力など入ろうはずがない。二度と振るう事は出来ない。
「エラソーにクソツマンねー説教なんざ垂れてんな!」
 麻緒は正面から陣迂に突っ込み、そして寸前で真横に方向を変える。その勢いに乗せて、右の裏拳を“音”のした方に突き出した。
「チィ……!」
 確かな手応え。
「ヒットォ!」
 目を向けた先では、陣迂がコチラの拳撃を左腕一本で受け止めていた。だが爪を立てる前に陣迂は後ろへと飛んで距離を取る。
「逃がすと思ってんのか!」
 叫んで脚に力を込め、麻緒は“音”を頼りに陣迂を追った。
 氷の破片がもうすぐ全部落ちきる。さすがに同じ手は二度通用しないだろう。だからココで決める。ココで――
(コロス!)
 麻緒は目の前に『次元葬』を生み出し、握り込めるくらいにまで小さくする。そして指輪のようにはめ込み、もう一対の『次元葬』から小指だけを出した。
 耳に全神経を集中させる。さっき自分で叩き壊した氷の樹の枝。周囲に飛散しているのは冷たい破片。そしてソレが“何か”にぶつかって跳ね飛ばされる音。
 その音の軌道を頭の中で鮮明に描き上げていく。
 『認識乱』はコチラの視覚や聴覚を攪乱して、自分の居る位置を分からなくさせる能力。
 だが分からなくなっただけで消えた訳ではない。ソコに居る事に変わりはないんだ。
 なら追える。陣迂の姿を見て捕らえるのではなく、陣迂の声を頼りに仕掛けるのでもなく、陣迂がソコを通った“音”を聞き分けて狙えば。
 本来、重力に引かれて真下に落ちるはずの氷の破片が、“何か”と接触して不自然な“音”を立てたのなら――
「ソコだぁ!」
 左斜め上を睨み付け、麻緒は小指だけをソコに転移させた。そして両腕で顔を庇いながら後ろに跳び、小指の先で空気中の水分子に干渉する。
 拳が軽いというのなら、ソレ以外の物をくれてやるしかない。小指一本と引き替えだが、相手に致命傷を与えられるなら悪くない取り引きだ。
 上手くすれば、この一撃で殺しうる。
「死ねぇ!」
 分子から原子へ。そしてバラバラになった原子を崩壊させて――
「やーれやれだ。まさかここまで手こずるとはな」
 頭上から陣迂の涼しげな声がした。  
(爆発しない!?)
 何故だ。『司水』が不発など。そんな事は有り得ない。
「正直、ここまでヒヤッとしたのは初めてだ。まさか、ホントにまさかだな。こんなクソガキによ」
 爆風に備えて交差させていた両腕のガードを解き、麻緒は陣迂の居る方を見上げる。
「な……」
 宙に立つ陣迂の周囲を、いくつもの巨大な氷の塊が取り囲んでいた。一つ一つが、小さな家くらいなら呑み込めそうな程の大きさを誇っている。氷塊は落ちる事もなく動く事もなく、まるでその場所に固定化されたように浮かんでいた。
 何だコレは。あの一瞬の間に何が起こったというんだ。
「この指一本で何をするつもりだったのかは知らねーが……直感的に思ったよ。コイツはヤバイってな」
 氷塊の一つを左腕で小突きながら、陣迂は小さく笑みを浮かべて言う。
 ソコには氷の中に閉じ込められた、正六角形の白い枠と自分の小指。
 麻緒は『次元葬』を戻そうとイメージを送り込む。だが動かない。全く何の反応もない。
 瞬間移動が出来るとは言え、消えて無くなった後に別の地点に移動する訳ではない。超高速移動の過程を不可視にするだけだ。原理は玖音の『空間跳躍』と同じ。だから捕らわれてしまうと動かせない。
「まともに食らってたらくたばってたかもなぁ。まぁそのくらいでないと、ここまで低くはならなかっただろうけどよ」
 片眉を吊り上げ、陣迂は苦笑しながら言った。
(そうか。コレが……)
 もう一つの力の発生点の使い方。
 『呼気』の力を増強する『精神的冷感』由来の――
(絶対零度、か……)
 苛立たしげに顔を歪め、麻緒は中空に浮かぶ氷塊を睨み付けた。
 絶対零度。ソコでは全てが停止する。原子の運動も。崩壊によって発生したエネルギーの振動も。
 恐らく、あの氷塊の温度はそこまで下がりきっているのだろう。だから爆発は起きなかった。
 死を覚悟する程の『精神的冷感』によって、飛躍的に力の増大した『凍刃』が丸呑みにしてしまったから。
(けど……)
 所詮は苦し紛れだ。
 『精神的冷感』はそう長くは続かない。一度落ち着いて平静を取り戻せば、その力はもう使えなくなる。アレだけの氷結力を発揮できる悪寒など、そう簡単に感じ取れる物ではない。
 生み出された氷は消えないだろう。そして一気に下がりきったこの気温は『右腕』の力を大きく引き出す。だが、今その『右腕』は――
「最後に貴重な体験が出来て良かったね。自分の力の限界が見えたろ?」
 口の端を皮肉っぽく吊り上げた麻緒の目の前で、浮いていた氷塊が落ち始める。
 多分、『凍刃』の力が弱まってきているのだろう。もしくは『呼気』そのものの力が。
 どちらにせよ『精神的冷感』が薄れてきている証拠だ。
「限界だぁ?」
「そうさ」
 短く言って麻緒はもう一組みの『次元葬』を左足の小指にはめ込み、
「コイツで終わりだ!」
 陣迂の目の前に転移させた。
 次の瞬間、暗天が白く染め上げられる。
 空が割れたかのような爆音。視界を焼き尽くす灼熱。
 夜の静寂を狂乱の宴へと塗り替え、指先から現れた暴君は辺りを蹂躙しつくしていった。
(勝った……!)
 同じ物を見て同じ冷感を受ける事はできない。例えソレが生命を喰らい尽くすような危機だったとしても、一度見れば次からは慣れが生じる。二度目の体験だという事実が、精神を落ち着かせてしまう。
 だから凍り付くよりも先に原子崩壊が起きた。もしくは崩壊を停止できる程の超低温を生み出せなかった。 
 だがまだ殺しきった訳ではない。魔人なら直撃しても耐えきれるかも知れないし、そもそも陣迂はさっきの場所には居なかったかも知れない。『精神的冷感』は『呼気』の影響範囲も広げる。あれだけ離れていても『認識乱』は自分に及んでいるかも知れない。
 しかし別にソレで良い。最初からこの原子崩壊で仕留めるつもりはない。
 コレはあくまでも陣迂をいぶり出すための布石だ。
 どれだけ『呼気』の範囲が広がろうが、この爆風の中では意味が無い。使い物にならない。そして『右腕』はすでに殺した。
 つまり、陣迂はもう『認識乱』も『凍刃』も使えない。
 だから次に出てきた時が――
(見えた!)
 爆炎の中に黒い影を見つけ、麻緒は地面を蹴った。
 とどめは自分の手で刺す。ソレでこその戦いだ。命のやり取りの幕引きにふさわしい。相手を殺す事で自分の生を実感できる。果てしない充実感を得る事が出来る。
「ッハァ!」
 麻緒は拳を固く握り込み、喜声と共に突き出した。
 当然、一撃では殺せないだろう。魔人なだけあってコイツのタフさは異常だ。
 だが逆にソレがいい。相手が死に行く過程をゆっくりと、そして長く感じ取れる。長く至福に浸れる。あの最高の気分に、より長く――
「だから言っただろ、坊主」
 コチラの拳を受け止め、陣迂は静かに言う。
 だが麻緒は構わない。狂ったように哄笑をあげながら何度も拳撃を浴びせ続ける。肩まで伝わる固い手応え。一撃ごとに至上の悦楽が全身を駆け抜けて行く。
 ――コレだ!
 頭のどこかで誰かが叫んだ。
 ――コレだ!
 揺るぎようのない確信が意識を駆り立て、狂喜の世界へと誘っていく。
 視界を襲う圧倒的なディテール。脳天を突き破る漆黒の快楽。
 殺戮が神聖へ、破滅が創造へと上書きされていく。
 ――コレだ!
 コレでたどり着ける。ようやく最高の気分に上り詰められる。自分が本来居るべき場所に戻れる。自分の居場所を掴み取れる。
(コロス!)
 拳撃に蹴撃を混ぜ、麻緒は際限なく沸き上がる殺意を無心で叩き付けた。
 どれだけタフだろうと撃ち続ければ絶対に倒れる。いつかは必ず限界が来る。最初の余裕がなりを潜め、焦りに転化し、そして最後は恐怖へと昇華する。その時を想像しただけで――
「テメーの拳は軽いんだよ」
 麻緒の拳が止まった。いや、止められた。握り込まれ、完全に固定されている。そして手の甲には骨ばんだ歪な感触。
 爆煙が晴れてくる。黒く塗りつぶされていた影が露わになり、
「な――」
「テメーの限界は見れたか?」
 悠然と構える陣迂がコチラの拳を受け止めていた。
 ――右手で。
(馬鹿な……!)
 右腕は完全に潰したはず。力など込められるはずがないんだ。あんな骨と皮だけの腕で……!
「コレがテメーとの格の違いってヤツだ」
 『認識乱』? なら自分はずっと陣迂に幻を見せられていたのか? 右腕が干上がった幻覚を……。
(違う……!)
 そんなはずがない。そんな事は有り得ない。あの手応えは本物だった。確かに右腕を捕らえて、『司水』を叩き込んだはずなんだ。だったら、今目の前で起こっているのは……!
「ゴ……!」
 腹部への強烈な圧迫感。
 陣迂の左腕が鳩尾を抉ったかと思うと、頭上から打ち下ろされた右拳が麻緒の体を地面に埋め込んだ。
 この力。どうして、こんな……。動かす事すら難しいはずなのに……。
 右腕で受け止められたように見えた事が幻? 実際は左手で受けている? しかし風はまだ収まっていない……。
 なら『呼気』ではなく『右腕』から『認識乱』を? もしそうだとしても右腕を自由に動かせるという事に変わりはない……。
「どうした坊主! えぇオイ! 打って来いよ! ブッ殺すぞ!」
 陣迂の両拳が弾幕のように背中を襲う。異常な圧力が無数に覆い被さってきて――
(本当に、効いてないのか……?)
 より深く地面へと埋没していく中、麻緒の頭の隅で茫漠とした思考がよぎった。
(効いていない……)
 致命傷だと思っていたのに。あの右腕はもう使えないと思っていたのに。力の作用点の一つを殺したと確信していたのに。
 なのに、その右腕で自分の拳は止められて、今、打ちのめされて――
(ボクの拳は、軽い……)
 だから効かない。どれだけ食らっても相手は意にも介さない。
 だから止められる。干からびた腕などで、軽々と。
(そんなはずない……!)
 地面の中で大きく目を見開き、麻緒は右拳に力を込めて――
「……っ!」
 全身に激痛が走った。
 同時に壮絶な重圧がのしかかり、全神経が麻痺してしまったかのように体が言う事を聞かなくなる。
(コレ、は……)
 陣迂から受け続けてきた重厚な一撃。体に蓄積していた膨大なダメージ。昂揚と集中力が困惑によって断ち切られ、ソレが一気に噴出してきた。そして決壊した防波堤はもう役には立たず――
「フザ……ケルナ……!」
 加速度的に重くなっていく体を無理やり突き動かし、麻緒は顔を歪めて地面を押し返す。
「ブッ殺す!」
 そして絶叫を上げ、陣迂の拳撃を跳ね除けて飛び上がった。
 ――つもりだった。
 しかし視界に写っていたのはコチラを高い位置から見下ろす陣迂の姿。
「オラァ!」
 だが構わずに麻緒は右拳を突き出す。
「だから何回も言わせんなよ」
 冷め切り、嘲るような陣迂の声。麻緒の拳は真正面から受け止められていた。右手によって。
 コチラの右拳を、左手ではなくわざわざ右手を持ってきて。皺枯れ、細くなった右腕を不自然に伸ばしてきて。
(コイツ……!)
 見せ付けているのか。力の差を。
 どうあがいても結果は同じだという事を力づくで刷り込むつもりか。
「ァ――ァァァァァアアアアアア!」
 咆吼し、麻緒は足に力を込める。右拳を陣迂に受け止められたまま、強引に押し込もうと気力を振り絞る。
 だが動かない。びくともしない。不動のまま、陣迂は薄ら笑いすら浮かべている。
「テメーの拳は軽い」
 そして、体はまた地面の中へと舞い戻った。
 ――拳が、軽い。
 その言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。
 ――どれだけ打ち込んでも効かない。
「ク、ソッタレ……」
 ――どれだけ立ち上がっても意味が無い。
「最初に会った時と同じだなぁ」
 ――どれだけ力を出し尽くしても――
「あん時もテメーはそーやって這いつくばってやがった」
 ――陣迂は強い。
「そんで女に庇って貰ったって訳だ」
 ――勝てない。
「情けねぇ」
 ――情けない。
 最悪だ。最低だ。勝てない。ボクはコイツに――
(勝て、ない……だと?)
 自分から負けを認める?
 ふざけるな。冗談じゃない。そんな事をするくらいなら――
「クッ……!」
 麻緒は両腕に力を込め、体を地面から離す。そして強く突き返し、その反動で一気に身を起こして――
「ち……」
 眼前には固く冷たい地面が広がっていた。
 体は一ミリも動いていない。ただ顔が少し上がっただけだ。
 頭の中でのイメージと、実際の行動とに剥離がありすぎる。コレではもう戦うどころか、まとも動く事すらろくに……。
「殺せよ……」
 力なく地面に倒れ込み、麻緒は危ない笑みを浮かべた。
 いや、本当に笑っているのかなど分からない。もしかしたら声すら出ていないのかも知れない。ただ無表情のまま身を横たえているだけなのかも……。
「さっさと、殺せ……」
 もう体が動かない。指一本動かせない。本当に最低で情けなさ過ぎる。余りにも無様で吐き気がしてきた。
 こんな格好、一秒でも長く晒したくはない。だから――
「嫌だ」
 頭の上から陣迂の忌々しい返答が降ってきた。
「何で俺がテメーのいう事聞かなきゃなんねーんだよ。ま、命乞いするなら殺してやってもいいけどな」
「誰が……」
 吐き捨てるように麻緒は呟く。
 命乞いだと? それこそ冗談じゃない。死んでも嫌だ。
 あと少しだけ力が入れば。最後の力で『司水』を使えれば。そうすれば全ての指を犠牲にして……この男を巻き込んで……。
「俺は自分の為に無関係の女を利用するような下衆野郎なんでね。坊主が嫌がるような事なら喜んでやるぜ」
 突然、全身を妙な浮遊感が包む。ソレが陣迂に持ち上げられているのだと理解するまで数秒の時間を要した。
「な……」
 何をするつもりだ。
 そう言おうとするが声が出ない。
 直後、視界の風景が大きく入れ替わる。川幅が急激に狭くなり、周囲の空気の温度が一気に上昇した。陣迂が自分を掴んだまま飛んだのだ。
(どうする、つもりだ……)
 陣迂は無言で自分を運ぶ。
 何も言わず、何の感情も見せず。内面を完全に消し去って、決められた作業でもするかのように淡々と。
(まぁ……どうでもいい……)
 今はもう何も考えたくない。全てが億劫で面倒臭い。
 何もかもがどうでもいい。どうなろうと知った事ではない。
 例えこの目が、二度と開かれる事が無かったとしても……。
(おやすみ……)
 胸中で自嘲めいた笑みを漏らし、麻緒は暗い海の中に意識を投げ出した。





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