貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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十八『うつろいゆく』


◆真の卒業か ―九重麻緒―◆
 ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 適当な挨拶を済ませ、担任の教師が教室を出て行く。ソレを一瞥し、また黒板の方をぼーっと見ながら麻緒は気のない息を吐いた。
(だっる……)
 窓際にある一番後ろの席で突っ伏し、顎を机の上に乗せて麻緒は視線を斜め前に向ける。
 そこは夏那美の席。周りにはいつものように人だかりが出来、にぎやかに談笑していた。きっと放課後どこに寄って行こうかとかそういう話をしているんだろう。
(よくやるよ……毎日毎日さ……)
 この一ヶ月、毎日のように見せられてきたからもう慣れた。
 今まで気付かなかったが、夏那美はクラスの中でかなりの人気を誇っていた。そういえば小学生の時もそんな感じだったような気がする。彼女の周りには自然と人が集まり、自然と楽しそうな空気が生まれる。そしてソレがまた他の人を呼び、輪はどんどん大きくなっていく。男女を問わず、際限なく、より広く、より親密に……。
(才能、だな……)
 長く伸ばした後ろ髪を面倒臭そうに掻きながら、麻緒は鞄を持って席を立った。
 自分にはこの先ずっと縁のない物だ。まぁ別に欲しいとは思わないし、あやかりたいとも思わない。とゆーかどうでもいい。人付き合いなんて鬱陶しいだけだ。
 麻緒は背中を丸め、話に華を咲かせる他の生徒達の間を通って教室を出る。
 自分に声を掛ける者は誰も居ない。それどころか皆避けるようにして距離を取ろうとする。
 無意識に放つ排他的な雰囲気がそうさせてしまうのか、それとも自分になど興味が無いのかは分からないが、ソレも別どうでもいい。
 とにかく今は何もする気が起きない。早く帰って寝よう。
「よぉ、九重。待ってたぜ」
 シューズボックスの前で靴を履き替えていた時、横から声が掛かった。
 麻緒は嫌そうに唸り、やる気のない半眼をソチラに向ける。
 そこに立っていたのは二メートル近い長身と、学生服をはち切らんばかりに異常発達した筋肉の持ち主。頭には立派なソリが入り、顔には無数の傷跡が刻まれている。
 目は細く、口元は皮肉っぽく吊り上がり、これでもかというくらいに人相が悪い。ただそこに居るだけで補導されてもおかしくないような悪党面だ。
「なんスか。先輩」
 確か入学式早々、靴を舐めさせてやった奴だったと思う。ちょっとボコっただけですぐに泣きを入れるヘタれな雑魚という印象しかない。
「九重……」
 彼は仁王立ちになって腕組みし、威圧的な視線でコチラを見下ろしながら口を開いて、
「頼む! お前の力を貸してくれ! このとーりだ!」
 コンクリートの床を頭突きで叩き割るつもりかという勢いで土下座した。
「最近ウチの勢力がヤバいんだ! このままだと他の中学に舐められる! 今俺達にはお前の力が必要なんだ!」
『お願いするっス!』
 デカ先輩の声に応えるようにして、どこに隠れていたのかワラワラと湧いて出てくるチンピラもどき共。その数二十は下らない。
 何なんだコイツらいきなり……。
「ボクそーゆーの興味無いんで」
「こーこーのーえええぇぇぇぇぇぇ!」
 にべなく突っ張ねる麻緒の足にすがりつき、デカ先輩は情けない声を上げて懇願の眼差しを向けてきた。
「頼むよ! お願いだ! この状況を救えるのはお前しか居ない!」
「知らねーよ」
「よし分かった! 何でもする! 無事勢力を広げられたあかつきには……そうだ! 俺が知ってる綺麗どころを毎日とっかえひっかえ出来るように……!」
「興味ねーよ」
「九重君! キミは自分の母校がどうなってもいいのか! 愛すべき学舎が他校の鬼畜共に侵されてもいいのか!」
「別にどーでもいいよ」
 冷めた口調で言いながら、麻緒は暑苦しく迫ってくるデカ先輩の脳天に踵を振り下ろした。ご、という鈍い音を立てて、デカオはあえなく轟沈する。
 全く、相変わらず根性のない……。
 履き直したスポーツシューズの爪先でトントンと軽く床を叩き、麻緒はデカオの背中を踏みつけて校舎出口へと向かう。そして二つに割れるにようにして、道を空けるチンピラもどき共。
 後ろからは自分の行為に賞賛を向ける者と、迷惑そうに不平を漏らす者達の声が聞こえる。ただし後者の声の方が圧倒的に多いが。
 ああそうか。自分の周りに人が寄り付かないのはこういう理由もあったんだな。まぁ別にどうでもいいが。
 そんな事を何となく考えながら麻緒は校舎を出て、
「い、いいケリだ……。この俺をたった、一撃で……。さすがは……俺が認めた男……」
 デカオに足首を掴まれた。
 ホントしつこいな。いい加減ムカついてきた。
「だがしかし! こうなる事は十分に予測できた!」
 デカオは涙目になって叫び、這いつくばったまま合図でもするかのよう片手を上げる。
『合点だ!』
 ソレに応えてチンピラもどきが数人、教室の方へと雪崩れ込む。そしてすぐに戻って来たかと思うと彼らの手の中には……。
「さぁ九重。大事な大事な彼女を守りたければ俺達に手を貸すんだ」
 突然の事態に戸惑いの表情を浮かべる、おさげ髪の女子生徒を横目に見ながら、デカオは立ち上がって自分の方に顔を近付けた。
「ダッサ……」
 長く伸びた前髪を面倒臭そうに払いのけ、麻緒は侮蔑に満ちた声を漏らす。
「な、なになに? 何コレ? え? え?」
 訳も分からず祭り上げられた夏那美は、二人の男から後ろ手に拘束され、助けを求めるような視線でキョロキョロと辺りを見回している。
「お前らが二人で二週間もの間、愛の逃避行に走っていた事は周知の事実! さぁ! コレでどうだ九重!」
「ナニソレ……」
 愛の逃避行とか有り得ない……。
 自分達が同じ時期に姿を眩ませていたのは事実だか、いつの間にそんな尾ひれが……。
「まだ関係ないなどと言い張れるか!」
 自信に満ち満ちたデカオの声。
「あぁ……」
 麻緒はソレに気怠く口を開き、
 ――関係ないね。
 そう言ったら多分、陣迂は怒るんだろうな……。
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 夏那美を殴った自分に対して本気の怒りをぶつけてきた陣迂。そして完膚無きまでに叩きのめされた……。完全に負けたと納得できるくらい。もう死んでも悔いはないと思えるくらいに。
 だが、アイツは自分を生かした。わざわざ土御門財閥の館まで運んで、二度と消えない程に深く刻んでくれた。あの、嫌な感情を。
「あのさ」
 麻緒は自虐的に口の端を歪め、
「言っとくけど、ボク弱いよ?」
 鞄を持っているのとは逆の手でデカオの首筋を掴み上げる。
「ソレでもいい? 情けなく這いつくばって負けちゃうかも知れないけど、ソレでもいい?」
 そして手にゆっくりと力を込めていきながら、麻緒は冷たい笑みを顔に張り付かせた。
「が……ぐっ……」
「ねぇ、ちゃんと返事してくんなきゃ分かんないよ。聞いてるんだ。ソレでもいいの? ボクきっと負けちゃうよ? 弱っちいからさ。泣きべそかいちゃうよ?」
「ご……ぅ……」
「ねえってば。答えてよ。ねぇ」
「……ぇ……ぁ」
 白目を剥き、口から泡を吹くデカオに、麻緒はいつもと変わらない口調で平然と話し掛け続ける。だが声は返ってこない。
 デカオの全身から力が抜け、床に倒れ込みそうになり、しかし麻緒は彼の巨体を片手で軽々と支え、より強く手に力を込めて――
「麻緒君ダメェ!」
 解放した。
 何の抵抗もなく、物が自然落下するように崩れ落ちるデカオ。ソレに何か汚い物でも見るかのような視線を向け、麻緒は溜息をついて踵を返した。そして何事も無かったかのよう校舎を出る。
「麻緒君!」
 が、すぐに後ろから声を掛けられて足を止めた。
「何?」
 男達の拘束を強引に解き、コチラに駆け寄ってくる夏那美に麻緒は冷淡に言う。
「だ、大丈夫だった?」
 肩で荒く呼吸しながら発した夏那美の言葉に、麻緒は呆れたような表情を浮かべた。
「キミ、何言ってんの?」
「え? な、何って……?」
「倒れたのはあのデカいの。立ってるのはボク。この意味分かる?」
「あ……うん。そりゃあ」
「だったらさっさとお友達のトコに戻りなよ。ボクは全然平気だからさ」
 まるで台本を棒読みするかのように、麻緒は何の感情も込めずにただ言葉を並べ立てる。そして夏那美に背中を向け、校門まで続くグラウンドを歩き始めた。
「ま、待って!」
 ソレをまた夏那美は呼び止め、
「一緒に帰りましょう! 鞄取ってくるからちょっと待ってて!」
 一方的に言い残すと校舎の中に戻って行った。
 しかし麻緒は面倒臭そうに溜息を付き、夏那美を待たずに歩き始める。
(…………)
 が、すぐに足を止めると小さく舌打ちしてまた深く溜息をついた。
「お、お待たせ!」
 そして程なくして、夏那美が校舎の中から鞄を胸に抱いて出てくる。麻緒はソチラにジト目を向け、
「あのさ、ボクみたいなのと一緒にいると友達無くすよ? 止めときなって。良い機会なんだからさ」
 素っ気なく言って足早に歩を進めた。
「ちょ……ま、待ってよ!」
「もうソレが分かったんじゃなかったの? あんな目に遭って懲りたんでしょ? だから口きかないようにしてたんでしょ? うん、お利口な選択だと思うよ。周りの人からも散々言われたでしょ? ボクに構わない方が良いってさ。正しい忠告だと思うから素直に受け入れときなよ」
「何よ、ソレ……」
 慌てて追い付いて来た夏那美は不満そうに言って口ごもる。
 あの戦いに取り合えずの区切りがついてしまい、また退屈な日常に戻って一ヶ月。その間、自分は一言も夏那美と会話していない。たまに目が合ってもお互いすぐに逸らし、廊下ですれ違っても何も言わずにそのまま通り過ぎる。
 そんなぎこちなくも、どこかスッキリした関係。
 まぁ今までは会話というより、向こうから一方的に話し掛けてきただけだったし、今更ソレが無くなったところで何の問題もない。むしろ邪魔臭いのが消えてせいせいした。きっとこのまま何事もなく卒業して二度と会わなくなって、そういや昔そんな奴居たなとか、言うか言われないかのどうでも良い存在になるんだと思っていた。
 なのに……。
「あ、あたしそんな事全然思ってないし、みんなからもそんな事言われてないモンっ」
「へー、そー」
 生返事を漏らし、麻緒は背中を丸めてスタスタと歩き続ける。
 校門を出てすぐ右に曲がり、平凡でどうでもいい、いつもの通学路を引き返して行った。
「あ、あのね……さっきはどうも、アリガト……」
 夏那美は小走りになって自分の隣りを付いて歩き、少し俯きながら小声で話し始める。
「助けて、くれて……」
 買い物帰りの主婦が自転車に乗って横を通って行く。ミニバンがコチラに接触しそうになりながら狭い道を走り抜けて行った。
「それから、カッコ良かったよ。麻緒君……」
 コンクリートで固められた塀。立入禁止の看板が立てかけられた工事現場。西に沈んでいく夕日がもたらす投げやりな暖色。生気を吸い取っていくような、間の抜けたカラスの声。
 いつもと同じ、退屈で変わり映えのない平和な日常。
「やっぱり強いよね。さすがだよ。何かクラブとか……」
「あのさ」
 麻緒は足を止め、夏那美の言葉を遮って重く口を開いた。
「ボクはキミにお礼を言われるような事なんかしてないし、強くもない。単なる負け犬。口ではデカい事言う割に全く中身の伴わないハッタリ屋さん。分かった? 変なのがうつるかも知れないから、もう近付かない方が良いよ。キミはボクなんかと口をきいちゃいけないんだ。これからの自分を思うのならね。ソレだけ。じゃあね」
 夏那美の方に顔を向けないまま言い、麻緒は怠そうな足取りでまた歩き始める。
 さすがにコレだけ言えば諦めるだろう。せっかく取り留めた命なんだ。大切にした方がいい。こんな奴に付き合って、また血まみれになる事なんか無い。
 ――あの時。
 冬摩が放った左腕の力を魎が跳ね返し、その余波が自分を呑み込もうとしたあの時。
 夏那美は自分を庇った。
 『情動制御』によって闘意を根こそぎ奪い取られ、無様に地面に沈んでいた自分を夏那美は庇った。 
 
『麻緒君、大丈夫……?』

 そして、か細い声を掛けて来た。
 彼女自身の方がよっぽど大丈夫じゃないのに、コチラの心配をしていた。頭から血を流して、顔を紅く染めて、それでも笑って――
 ――死ぬ。
 何かが告げた。
 ――死んでしまう――死んでしまった――
 誰かが言った。
 ――殺してしまった――自分が――この手で――

 あの時と、同じように。

 恐かった。たまらなく恐かった。
 叫んで滅茶苦茶に体を動かして暴れて、暴れて、とにかく暴れて。
 この恐怖を振り払えるのなら、もうこのまま壊れても良いとさえ思えて。
 死んでもいい。いや殺してくれ。今すぐに。この得体の知れない束縛から解放してくれ。
 懇願した。
 心の底から狂い求めた。
 だがソレが叶え入れられる事はなかった。
 そして結局残ったのは、絶対的な力に対する畏れと、自分は弱いのだという後ろ向きな自覚。馬鹿馬鹿しくて、全ての事がどうでも良くなるような虚脱感。
 しかし唯一の救いは夏那美が生きていたという事。
 自分を庇った夏那美を『羅刹』が庇ってくれたから、彼女は辛うじて命を繋ぎ止めた。そして玖音が傷口を『再生』してくれたおかげで、夏那美は後遺症も無くすぐに元の生活へと復帰できた。
 そのおかげで精神を呑み込まれそうな恐怖に苛まれる事はなかった。龍閃から感じた畏れとは全く別物の負の感情は、自分の心を絡め取る事なく霧散してくれた。
 だから夏那美は自分のそばに居てはいけないんだ。
 またあんな気分になるくらいなら――死を望んでも殺してくれないのなら――
「なによソレ!」
 突然上がった金切り声に、麻緒は半眼になって後ろを肩越しに振り返り見た。
「なんなのよ勝手に決めつけて! さっきからなに拗ねてんのよ!」
「はぁ……?」
 肩を怒らせ、掴みかかってきそうな勢いで詰め寄ってくる夏那美に、麻緒は疲れた声を発した。
 拗ねる? 自分が? 何言ってんだコイツは……。
「だってそうじゃない! 一人でさっさと納得して全部分かったみたいな顔しちゃって! あたしが何したって言うのよ!」
 おさげ髪を上下に振りながら激しく飛び跳ね、夏那美は全身で怒りを表現しながら一気にまくし立てる。
 あーもー、うるさいな。いちいち説明するのが面倒だからこうして突き放してるのに……。
「そ、そりゃあ今までろくに口きかなかったけどさ……。あたしだって、色々考える事があって、心の整理とか、これからどうしようとか……。麻緒君に相談できない事が一杯あったの!」
「ふーん」
 興味など全く無いといった様子で返す麻緒。ソレに夏那美は一瞬呆気にとられていたが、すぐに鬼面の如き表情になると感情を爆発させた。
「『ふーん』って! 『ふーん』って何!? 『ふーん』って! ソレだけ!? たったそれだけなの!? 可愛い可愛い彼女と一ヶ月も喋れなかったのに『ふーん』だけ!?」
 誰が彼女だよ。
「ムッキー! あーもー腹立つ! いいモン! 今ので完っ全ッに吹っ切れた! コレからは今まで以上に付きまとうからね!」
「あぁん……?」
 だから何でそうなるんだよ。普通に行けば愛想尽かしてハイサヨナラって路線なんじゃないのか?
「あたしがこの一ヶ月で考えてた事! ハッピョーします!」
「いいよ……」
 心底鬱陶しそうに漏らし、麻緒は歩速を上げて夏那美から逃げるように家路を急ぐ。
「ハイ! まず第一! 黒魔術のウデを上げます! 色々ショーカンします! コレによって麻緒君の精神を健全に保ちます!」
 しかし夏那美は自分の前に回りこみ、後ろ向きに早歩きしながら叫び続けた。
「第二! 筋トレします! 走りこみします! ダイエット……し、します! 自ぶ、ん……自身、を高め……ます! 麻緒クん……に! 付いて……! 行けるよう……! になります!」
 ぜぃぜぃと息を切らしながら夏那美は必死の形相で声を張り上げる。
 全然ダメじゃん……。
「第三……! 陣迂、を倒し……ます! にっくき、敵にフクシューしまっ……す!」
 陣迂……。
 その名前を夏那美の口から聞き、麻緒は無意識に立ち止まっていた。
「第四っ!」
 ようやく訪れた休憩に夏那美は塀にもたれ掛かりながら呼吸を整え、
「陣迂は……」
 夏那美の言葉を遮って、麻緒は独り言のように呟く。
「どんな、奴だった……?」
 そして続けられた言葉に夏那美はきょとんとした顔付きになり、
「だから敵よ敵! 大ッキライな敵! 麻緒君をあんな風にして! ボッコボコよ! ボッコボコ! だからコッチもボッコボコのボッコボコボコボコにしてやるの!」
 激しい口調で言い散らしながら、握り込んだ両拳を不器用に何度も突き出した。
 陣迂……確かに、ムカツク奴だった。勝手に怒って、圧倒的な力を見せつけてくれて、叩きのめされて……。
 そう言えばアイツはどうしてあんなに怒ってたんだっけ。
 陣迂が本気で怒っていた理由、アレは確か……自分が……。
「麻緒君……?」
「うん。敵だね。アイツは敵だよ。だからいつか絶対にブッ潰す。その点に関してはサンセーかな」
 不思議そうな声で首をかしげる夏那美に、麻緒は真っ直ぐに前を見たまま朴訥に返す。ソレを見て夏那美は少し呆気にとられ、
「そ、そうよね! ぶっつぶすわよね! ボコボコよね! うん、サンセー! アタシも大サンセー! だったら今から――」
「ゴメンネ。殴っちゃって」
「――アイツを探す旅に出……!」
 言葉を詰まらせて、
「え……?」
 麻緒はまた夏那美を置いて一人で歩き出した。
「ちょ、ちょっと! 今なんて!? なんて言った!?」
「別に」
 またすぐに追い付いて聞き立てる夏那美に、麻緒は素っ気なく言う。
「も一回! もー一回! あと一回だけで良いから言って! さっきの言って!」
「だから別に何も言ってないって」
「ウソ! ウソウソウソウソ! 言った! 確かに言った! ドサマギで『ゴメンネ』って!」
「言ってない」
「言った!」
「言ってない」
「言った!」
「言った」
「言ってない!」
「じゃあそーゆー事で」
 スタスタスタと……。
「エ……ちょ……ちょおおぉぉぉぉぉぉっとォ!」
 そしてまた夏那美が隣りにズンズンズンと追いついてくる。
 そのまましばらく無言で……一方的に無言の重圧を放ちながら歩いていたが、やがて諦めたのか夏那美は大きく息を吐くと、
「麻緒君、雰囲気変わったよね」
 体の力を抜いて穏やかな調子で話し掛けてきた。
「だからちょっと、声掛けづらかったんだ……。なんか、邪魔しちゃ悪い気がして……」
 じゃあ今のコレは何なんだ。
「でも今日やっぱり思った! 麻緒君にはあたしが必要よ!」
 だから何でそうなるんだよ……。
「あたしが居てあげないと麻緒君どんどんダークになって行っちゃうからね!」
 余計なお世話……。
「それであたしにも麻緒君が必要! コレでおあいこ!」
 もう好きにしてくれ……。
 どんどん肩を落としていく麻緒を全く気にする事なく、夏那美は自分の喋りに酔いしれるかのようにテンションを上げていく。
 全く、本当に何なんだこの女は……。その自信は一体どこから湧いてくるんだ。出来れば教えて欲しい物だ。
 どうすれば、そんなにも前向きに、明るく……。
(自信、ね……)
 ソレは今の自分に最も必要な物。
 自分は強いんだ。コレで間違っていないんだ。このまま行けばパッピーになれるんだ。
 そう確信できる気持ちが、今の自分には致命的に欠けている。だから何もする気になれない。ただ漫然と平和の毒に身を沈めて、ソレが精神を喰らい尽くすのを待っている。別にどうでもいいと投げやりになって、愚かしくも悟った気分でいる。
 多分、夏那美の言う通りなんだ。
 自分は今、拗ねているんだろう。
 事が思い通りに運ばなくてふてくされて、まぁ関係の無いところで適当にやってよなんて斜に構えて。無関心、無感動を装って逃げているんだ。現実から目を逸らして、都合の良い空想や絵空事に浸っている。
 体が大きくなっただけで、根本のところはその辺の幼稚園児と変わらない。きっと自分の心は三歳のあの時から止まったままなんだ。
 あの時、悩み事が解決したように感じたのは、たまたま置かれた環境が恵まれていただけ。『玄武』に目覚めて冬摩と出会って、吹っ切れてひたすら戦いの中に身を置いて、そして考える事を放棄して。
 天才児だなんて言われても、ちょっと壁にぶつかればこの様だ。
 陣迂を見つけてブッ潰すなんて言っても口先だけで、実際にどうしようとか、どうしたいとかいう考えは全く無い。
 取り合えず目標を立てて、自分は少しずつでもそこに向かっているんだと言い聞かせているだけだ。僅かずつでも前進しているんだと、自分に言い訳するための呈のいい材料として使っているだけなんだ。
 どうする。どうすればいい。どうすれば自信を取り戻せる。どうすれば昔の自分に戻れる。
 そんな事を考えてみても簡単に答えが見つかるはずもなく、コレもまた少しは進展しているのだと思い込むための道具でしかない。
 そして結局最後に行き着くところは――
(もぅいいや……)
 救いのない妥協案。先の見通せない無限ループ。
 一年後も、五年後も十年後も。自分は延々とこんな事を考えている気がする。
 ならいっそ――
「死んだ方がいい」
 下の方から声を掛けられ、麻緒は少し驚いて顔を上げた。いつの間にか夏那美が覗き込むようにしてコチラを見つめている。
「当たってたでしょ。今、麻緒君の考えてた事」
 大きな目を期待に輝かせ、夏那美は満面の笑みを浮かべて言った。
「別に……」
「コレ、覚えてる?」
 短く返してそっぽを向いた麻緒の目の前に、古くさいお守りが差し出される。袋はほつれて茶色く変色しており、見るからに曰く付きといった雰囲気を出していた。しかし邪悪な物は何も感じない。
「何ソレ?」
「ほらー、この前あたしが骨董品屋で買って、麻緒君に見せた」
 骨董品? 自分に? そう言えばそんな物が……。
「ああー」
 記憶を繰り寄せ、麻緒は辛うじて思い当たる物を見つけて浅く頷いた。
 確か陣迂と初めてこの学校で会った日に、夏那美が持ってきた『お遊び』だ。しかしあの時はまだそれなりの邪気を感じたはずだが……。
「でもさ、ソレ……」
「そう! 実は先日! あたし一人での徐霊にセイコーしましたー!」
 夏那美はまた一人で盛り上がりながら自分で自分に拍手を送り、
「さぁ! 遠慮せずに惜しみない賞賛を! 割れんばかりの声援をあたしに!」
「バカじゃないの」
 両腕を大きく広げてハイテンションに叫ぶ彼女に、麻緒は冷め切った視線と凍える声を送った。
「ムッキー! ホントカワイクないわねー! ちょっとくらい褒めてくれてもいいでしょー!」
「なんでそんな危ないマネしたのさ」
 自分の居ない所で徐霊するなど、下手をすれば死んでいてもおかしくないのに……。
「別に死んでも良いと思ったから」
「馬鹿じゃないの」
 即答した夏那美に、麻緒は言葉に剣呑な物を混ぜて言う。
 死んでもいいだと? それではせっかく庇ってくれた『羅刹』はどうなるんだ。瀕死の重要を負っているのに、傷を癒してくれた玖音の立場はどうなると言うんだ。全部無駄ではないか。
 全く、無茶な事を……。
「嘘よ。ウ、ソ。そんな事思うはず無いでしょ。コレはニセモノのお守り。ホントに悪霊が憑いてるのはまだ家にあるわ」
 ……ひょっとして、自分はからかわれているのか?
「でも今馬鹿って思ったよね? 死んでも良いって言ったあたしの事、本当に馬鹿だと思っちゃったよね?」
 ……いや、どうやらハメられたようだ。
 声を弾ませながら言う夏那美に、麻緒は深く溜息をついて顔を逸らした。
「誰だって失敗はある。でも運の良い人間は失敗しても取り返しが付く。そして反省して力を高める。運も実力の内ってね。コレ、誰の言葉か覚えてる?」
「知らない……」
 適当に返す麻緒の隣りに立って夏那美は歩き、
「麻緒君があたしに言ってくれた言葉だよ。小五の時にね。いやー、キザだったなー。コイツなんでこんなカッコ付けてんだろって、あの時真剣に思っちゃったわ」
 うんうんと派手に首を上下させながら頷く。
「……悪かったね」
「でも、あの時。麻緒君のあの言葉がなかったら、あたしは今みたいなあたしじゃなかった。きっと今の麻緒君みたいにドヨーンて根暗くなってるよ」
「……悪かったね」
「あの時さ、麻緒君言ってくれたんだよねー、あたしに。『ボクには東宮さんが必要だ』ってさー。ホント一瞬プロポーズ!? とか思っちゃたわよ。ったく、このマセガキはー」
「……悪かったね」
「あの時に麻緒君があたしに自信くれなかったら黒魔術なんてソッコーでやめてたなー。だってホラ、黒魔術の基本は自信だもんねー」
「……悪かったね」
「だからさ、麻緒君ももっと胸張って自信持ちなよ。あたしがこうやって麻緒君の事必要としてるんだからさ。ホラホラ、いつものあのポーズ」
 言いながら夏那美は自分の両手を取り、頭の後ろで組ませて背筋を伸ばさせ――
「やめてよ」
 嫌そうに言って麻緒は夏那美の手を振り払った。
 今はとてもそんな気分になんかなれない。上辺だけの元気を貰ったところで何の解決にもならない。いや、もう解決しようという気すら起こらない。だから、当分はこのままで……。
「あたしさ、尊敬する人が出来たのよね」
 夏那美はやれやれといった様子で嘆息し、また麻緒の隣りに付いて歩く。
「仁科さん」
 そして嬉しそうに笑いながら言った。
 仁科朋華……冬摩にとっての最愛の女性。自分の命より、余程大切な……。
「あの人、全然目も逸らさなかったのよね。荒神の力から。あの凄い力が来ても真っ直ぐ荒神の方見てた。きっともー完璧に信用してたんだよね。荒神は絶対に自分を傷付けないって。何とかなるはずだって。そしたら本当にそうなってさ。無傷で助かったのよー。実際に何がどうなったかは分からないけど。アレ見て無理だなーって思った。あたしにはまだ出来ないって。麻緒君に殴られそうになった時、思っ切り目ぇ瞑ってたしコリャ死ぬわって思ったしねー、あはははー」
 少し恥ずかしそうに乾いた笑みを漏らしながら、夏那美はおさげ髪を所在なさげにいじった。
 ソレが普通だ。あの二人の信頼関係が特別なんだ。
「だからね! あの人はあたしの目標なの! いつかああいう風になるんだって! 麻緒君とあんな感じになれたらいいなーっていうキボー的観測!」
 そう言えば、少し前までは自分もそうだった。
 今の夏那美のように目を輝かせて、冬摩のようになるんだって意気込んでいた。だが――

『テメーが気に入らなかった。そんだけだ』

 いつの間に自分は道を踏み外していたんだろう。冬摩と全く違う方向に進んでいたんだろう。あんなにも憧れて、あんなにも背中を追い掛けてきたのに……。
 女を殴る事に抵抗が無くなったと思った時から? いや違う。あんな物はもう末期的な段階だ。それよりもっと前。
 龍閃と戦っていた時か? 冬摩が朋華を連れてきた時? まだ一緒に仕事をしていた時?
 いや――ソレも違う。

『だから余計に気に入らねぇんだよ! テメーは兄者の背中見て育ってきたんだろーが!』

 多分、最初からだ。自分は最初から、冬摩の背中など見ていなかった。後ろなんか付いて歩いていなかった。
 冬摩の事を深く知ろうとはせず、自分にとって都合の良い部分だけ抜き出して、こういう人が居るんだから自分もこうなったって問題ないはずと安心させる材料にしていただけだ。
 冬摩の表面だけを切り取って貼り付けただけの薄っぺらな人格。
 それが九重麻緒という人間。だからこんなにも脆い。ほんの少しの事で際限なく崩れてしまう程に弱々しい。
 土台がしっかり出来ていないから。しかも上に乗っている物が自分の物ではなく他人からの借り物だから。
 そりゃそうだ。何か今、妙に納得出来てしまった。驚く程スッキリと現状を受け入れる事が出来た。
 ハハ……やれやれだ。マネっこばかりしていたツケが回ってきたのか? それとも天罰か何かか? 心当たりなら腐る程ある。他からの憎しみは、それこそ山のように買ってきた。
 お似合いだ。マネし損ねた挙げ句に出来損ないの人間になった自分にはお似合いの――
「でもね、きっと全く同じにはなれないと思うの」
「え……」
 夏那美の言葉に麻緒は小さく声を上げ、呆けたように口を開けたままソチラを見た。
「だってそうじゃん。あくまでも仁科さんは仁科さん、あたしはあたしだもん。いくら望んだって同じ性格にはなれないわよ。でも別にソレで良いと思うのよ。てゆーかそうあってしかるべきなんだわ。あたしはあたし、仁科さんは仁科さん」
 楽しげに話す夏那美の子供っぽい表情が視界一杯に映る。ソレが息が掛かるくらいに顔を近付けられたのだと理解するまでに数秒の時間を要した。
「だから麻緒君は今の麻緒君で良いじゃん! 根暗で友達居なくて後ろ向きで破滅的思考で自殺願望ありで! もーこれからはその路線で突っ走っちゃいなさいよ! ね!」
「……あのね」
「もっと自分に自信持ちなさいって! コレも昔、麻緒君があたしに言ってくれた言葉! 今はそっくりそのまま返しちゃう!」
 自分が夏那美に言った言葉……。
 昔の自分は、今の夏那美のように自信に満ち溢れていて、活き活きとしていて……。
「ソレが成長ってヤツよ! いつまでもハイテンションなままだと疲れるじゃん? だから自分の弱いところ沢山見て、沢山向き合って、沢山考えて、少しずつ落ち着いて大人になっていくのよ」
「……キミが言うと説得力ゼロなんだけど」
「だってあたしまだ子供だモン。でも麻緒君は早熟っぽいしー。なんたって小五でプロポーズだもんねー」
「はいはい……」
「まーそんな訳だからさ! ここは麻緒君の成長記念に一つ、ぱーっと『パーティー』やりますか! あのお守りでさ!」
「何でそうなるんだよ……」
 丸くなったコチラの背中をバシバシバシィ! っと叩きながら、夏那美は上機嫌で発奮する。ソレに麻緒は軽く咳き込みながら、今日一番の深い深い溜息をついた。
 成長、ね……堕落の間違いだろ?
 でも、まぁ……お似合いか。そうやって自分を誤魔化して無理矢理納得させるのは、いつの間にか大得意になったし……。コッチの方が少しは楽か……。
「言っとくけど、今は返してるだけだからね」
「返す?」
 無意味に胸を張って言い放った夏那美に、麻緒は怠そうに後ろ頭を掻きながら聞いた。
「そ。あの時麻緒君から貰った元気と自信を返してるの。二、三倍にしてね。だから次は麻緒君の番だよ? もしこの先あたしがヘコむような事あったら麻緒君が励ましてよね。当然、十倍返しで」
「えー……」
 そして露骨に不満の声を上げ、
「励ましてね!」
「ヤダ」
 顔を逸らして突っぱねた。
「チョットー! 何よソレー!」
「貸してた物返して貰っただけじゃないか。何でソレをまた返すのさ」
「二、三倍にして返したって言ったでしょ! あたしの方が多い!」
「利子だよ利子」
「ムッキー! 何そのヘリクツ! そんなのがまかり通ると思ってるの!?」
「屁理屈も立派な理屈の一つ。論破できない以上キミの負けなんだよ」
「ッキー! 荒神なら絶対にそんな事言わないよ! もっと正々堂々勝負するわ!」
「だってボクはお兄ちゃんじゃないモン。当たり前じゃん」
 キーキーと甲高い声を上げながら悔しそうに地団駄を踏む夏那美を見ながら、麻緒は口の端に小さく笑みを浮かべた。
 まだいまいちピンと来ないが、多分夏那美の言う事は正しいんだろう。
 冬摩は冬摩。自分は自分。
 近付く事は出来ても、全く同じにはなれない。だから――
「やるんでしょ? 『パーティー』。いいよ。今日は特別に付き合ってあげる」
「ムッッッッッキィィィィィィィ! 何よ何よ何よ! その上から目線! すンごくムカツクわ!」
 ――今日この時が、本当の卒業だ。

◆真の悟りとは ―荒神冬摩―◆
「――と、まぁ。以上が俺の考えな訳だが……どう思う? 朋華」
 大学からの帰り道。西日がその身を緩やかに沈めていく黄昏時。
 いつもの川沿いの土手を歩きながら、冬摩はいつになく真剣な表情で、隣を歩く朋華に話し掛けた。
「……間違いないですね」
 朋華は小さく頷いて返し、唇を真一文字に結んでじっと前を見つめる。ギラリ、と鈍く光る瞳からは、壮絶な集中力と観察力、そして異様なまでの好奇心が放たれている事は容易に見て取れた。
 ソレはまるで相手の一挙手一投足、そして息遣いの一つ一つに至るまで把握仕切るかのような……。
「正直、私も薄々は感じてたんですよ。ただ何て言いますか、そーゆーのよりはどちらかというとお世話係とゆーか、子供の面倒を見る母親というか……」
 確かに。朋華の言う事もよく分かる。自分もまさかアイツがそんな感情を抱くなど夢想だにしなかった。しかし――
「でもそういう母性愛が発展して……というのは十分にあり得る事ですから。間違いないですよ。冬摩さん」
 『天冥』を抱く手に力を込め、朋華は力強く言ってもう一度頷く。
 そう。もはや間違いない。
 自分だけではなく、朋華もそう言っているのだから。
(よし……)
 冬摩は胸中で気合いを入れ直し、夕日の煌めきに見とれている『獄閻』を鷲掴みする。そして後ろ手に大きく振りかぶり、
「あー! 手が滑ったー!」
 ボーリング球を打ち出す要領で、『獄閻』を前方に放り投げた。
 一抱えもある巨大な黒球は、荒く舗装されたアスファルトの道を大きく外れて猛進し、狙い通り土手下の真っ白なピンに激突する。
「ッシ!」
 頭の中で派手なストライク音を鳴り響かせ、冬摩は拳を固めてガッツポーズをとった。
「ああ! 『羅刹』! だ、大丈夫か!?」
 そして『死神』の叫声が届く。
 ソレを満足そうに聞きながら、冬摩は万感の思いを込めて息を吐いた。
「何をたわけとるか『獄閻』! とっととどかんかー!」
 動きづらそうな袴を物ともせず、『死神』は高々と右足を振り上げると、目を回している『獄閻』をサッカーボールよろしく蹴り出す。黒玉は激烈な勢いで小さくなり、あっと言う間に見えなくなってしまった。
 うーん。凄いキック力だ。きっと明日は晴れだな。
 そんな事を考えていると、コチラを睨み付ける『死神』と目が合う。
「冬摩! 何のつもりじゃ!」
 『羅刹』を抱きかかえ、『死神』は柳眉を逆立てながら険しい剣幕で詰め寄って来た。
 ふ……コレでまた動かぬ証拠が一つ。
「『死神』、悪いな。もう分かったんだよ」
 口の端を吊り上げて鼻を鳴らし、冬摩は確信に満ちた声で言う。
「じゃから何のつもりじゃと聞いておる!」
「お前、『羅刹』が好きなんだろ」
 長く艶やかな黒髪を振り乱して激昂する『死神』に全く動じる事なく、冬摩は涼しげな顔付きで続けた。
「は?」
「とぼけんなよ。まさかテメーがそーゆー趣味だったとはなぁ。いやー、意外すぎて全然気付かなかったぜー」
 白髪の頭の上に見事なこぶを作っている『羅刹』を見ながら、冬摩は勝ち誇ったように言う。沢山のファスナーが取り付けられたルーズネックシャツと、黒のタイツパンツからは色素の抜けた四肢がダラリと垂れ落ち、さながら着色前の蝋人形のように投げやりな視線を泳がせていた。
「お主……何を言っとる。唐突に」
「さっきだって仲良さそうに昆虫観察に耽ってたじゃねーか。草むらの中でよ。いつ押し倒してもおかしくない感じだったぜ?」
「……で?」
 いやらしく目を細めて言う冬摩に、『死神』は扇子で口元を隠しながら冷めた調子で聞き返す。
「今思い返してみりゃテメーはやたらと『羅刹』にくっつきたがってたからなー。あん時もそーだ。玖音の案でテメーを一端体に戻した時、最初はギャーギャー喚いてたのに、『羅刹』も一緒にした途端大人しくなりやがった。ありゃなんでだ?」
 魎の『閻縛封呪環』を警戒して『死神』の具現化を解き、さらにコチラの意図を悟らせないためのカムフラージュとして『羅刹』も戻した時。
 あの時は外でも中でも静かになって丁度良かったとしか思っていなかったが、今考えると異様だ。一瞬前まで頭の中で「出せ出せ」と叫んでいた『死神』が、『羅刹』の帰還と同時にピタリと収まった。
「まだある。館で夜中にテメーと酒飲んだ後だよ。あん時も妙だなとは思ってたんだ。やれ『契り』だやれ『一夜逢瀬』だ言ってたテメーが、話が終わったらなんも無くお休みなさいってのは有り得ねーんだよ」
 土御門財閥の館で久里子の帰りを待っていた時。固くなって眠る朋華を残して部屋のバルコニーに出た時。
 『死神』と酒を飲みながら会話し、悔しい事にほんの少しだけ元気付けられた。だから以前までの『死神』なら、コレを好機にと『見返り』を求めてきてもおかしくなかった。
 いや、絶対に求めて来たはずなんだ。例えソレがあっさり断られたとしても。まるでそうする事が通過儀礼であるかの如く。
 しかし――

『では妾もそろそろ寝るとしよう。お主も早く仁科朋華の元に行ってやると良い』

 有り得ない。どう考えても有り得ない。
 あの『二言目には“妾と子作り”女』がそのまま大人しく帰っていくなど。
 だが、帰った先に『羅刹』が居たとなれば……。
 ひょっとするとやるべき事はすでに済ませてある、とか……。いやさすがにそこまでは……うーむ。淫らな事を軽く口走ってはいても、ちゃんと最低限の節度はわきまえている女かと思っていたが……。
「……で?」
 調子を崩さぬまま冷ややかに聞いてくる『死神』に、冬摩は思考を中断して真っ直ぐに見返した。
「認める気になったか?」
「すまんが話が見えんのぅ。妾と『羅刹』の関係が特別な物と勝手に思い込んで、お主に何の得がある?」
「ふん、知れた事……」
 『死神』の問い掛けに冬摩は薄ら笑いを浮かべて鼻を鳴らし、
「全力で邪魔してやる!」
 大威張りに胸を反り返らせて声高に言い切った。
 コイツら……いや主に『死神』のせいで自分と朋華の間には鬱陶しい壁がそそり立ってしまった。例えその場にいなくとも彼らの存在を意識してしまい、大切な雰囲気を自ら粉砕してしまう程の重病を患ってしまった。そして恐らく、その傾向はこれからも増す一方だろう。
 自分の中にある果てしない殺意と憎悪から一時的に目を逸らすためには、彼らの存在は無くてはならなくなってしまった。
 このお邪魔虫共は今の自分に取って必要。
 ソレはある程度までは受け入れた。自分なりに悩み、考え抜いて納得出来た。
 毒をもって毒を制す。果てしなくタチの悪い毒同士だが、片方の方がいくらかましだ。
 だからその事に関してはもう何も言わない。ある種の臨界点突破して自分の中で何かが壊れない限り、不平不満を実力行使で叩き付けるつもりもない。
 しかし、ただ憎しみから目を逸らすだけではなく、鬱憤を晴らす事まで出来るとなれば、コレ以上の精神健康は無い。
 『羅刹』と二人きりになりたいと思っている『死神』をからかい、揶揄し、罵倒し、完膚無きまでに引き剥がす。そして悲嘆にくれる『死神』。暗く翳(かげ)り、苦悶に歪んだ表情。
 快感だ。
 絶対に快感だ! 誰が何と言おうと絶対に!
 今までの仕返しを思う存分にできると考えただけで溜飲が下がっていく。
 そぅ! ついに来たのだ! 万年の恨み辛みを晴らす時が!
 今まさに掴み取ったのだ! 後ろ向きな栄光がもたらす甘美なる瞬間を!
「勝手にすればよかろう」
 凍てついた『死神』の声。
 際限なく盛り上がっていくコチラの気持ちとは裏腹に、落胆と失望をない交ぜにしたような侮蔑に満ちた表情。更には哀れみの視線まで向けてくる。
「妾はそんな物になど興味ないわ」
 そして『羅刹』を無造作に放り投げ、『死神』は背中を向けた。そこからは何の感情も感慨も読みとれない。あるのはただ儚げな雰囲気と、諦めにも似た達観。
 コイツ……。まさか読み間違えたか? いやしかし……。
 『羅刹』の小さな体を片手で受け止め、冬摩は眉を寄せて眼を細める。
「ふ……甘い、甘いですよ『死神』さん。そんな事くらいで私の目は誤魔化せません」
 が、隣で静かに成り行きを見守っていた朋華が、自信に満ちあふれた声を発した。
 ソチラを向く。そこには双眸を好奇の色でギラギラに染め上げた朋華の姿。
 も、燃えている……。朋華がいつになく燃え盛っている……。
「貴女は致命的な証拠を二つ残しました。私の鋭い観察眼がソレを見逃さなかった」
 半身を引き、朋華はチェリーピンクのヘアバンドを取って頭を軽く振った。栗色のセミロングが茜の光を反射して、黄金色に輝く。
 こ、コレは朋華の本気バージョン! ついにリミッターを外した!
「一つ。ソレは『羅刹』クンのたんこぶ。貴女は彼を胸に抱いている間、ずっとたんこぶを撫でていましたね?」
「――!」
 一瞬、『死神』が小さく震えたように見えた。
「二つ。傍目からでもハッキリと分かるほど大量に掻いた額の汗。夏の到来はもう少し先のはずですが?」
「――ッ!?」
 見えた。完全に。『死神』の動揺がはっきりと。
「『死神』さん……いい加減、素直になりましょうよ。その方が楽ですよ?」
 そして朋華は先程までの厳しい口調からはうってかわり、包み込むような声で優しく言いながら『死神』の両肩にそっと手を置いた。ラフブラウスの胸元にあしらわれたフリルが、風に揺られてそよめく。まるで天使の微笑みのように。
 ……凄い。凄すぎるぜ朋華。さすがは俺の女。たんこぶとか汗とか、よく見逃さなかったものだ。恐ろしいまでの観察力。脱帽だ。
「わ、妾は……」
 コチラに横顔を向け、俯いて口ごもる『死神』。その表情に差す影の密度が僅かに増し、
「妾は『しょたこん』などではなーーーーーーーーーぃ!」
 負け犬の断末魔を残して明々後日の方向に飛び去ってしまった。
「あ……! ヤロ……!」
「待って冬摩さん!」
 真横に右腕を突き出し、朋華は『死神』を追い掛けようとする冬摩を制する。
「今は、そっとしておきましょう……。自分の気持ちと正直に向き合うには、時間が必要です」
 そして極上の笑みを浮かべてコチラを振り返った。
 眩しい……。神々しいまでの眩しさだ。まるで後光が差しているようにすら見える。
 冬摩はそんな朋華の頬にゆっくりと手を伸ばし、
「悪ぃな。変な気ぃ遣わせちまってよ」
 彼女の温もりを手の平で感じ取りながら言った。
「いやー、ココまで乗ってくれるとはな。ありがとよ。お前も、『死神』もな。まぁ『獄閻』と『羅刹』には可哀想な事したか。後で何かしてやんねーとな。これからペットショップと銀食器専門店にでも行くか?」
 そして苦笑混じりに言いながら朋華から手を離し、何かを誤魔化すかのように後ろ頭を乱暴に掻いた。
「え……? 何が、ですか……?」
「だから付き合ってくれたんだろ? おバカな大バカ騒ぎによ」
 自分の気持ちを誤魔化すための。
 魎への殺意を押さえ込み、『鬼蜘蛛』を孵化させないための。
「え? えーっと……そうだったん、ですか?」
 目をパチパチさせながら言ってくる朋華に、冬摩は一瞬固まった後、
「ひょっとして……素、だったのか……?」
 呆れたように聞き返し、
「えと……え、と……」
 朋華が恥ずかしそうに顔を朱に染めて、
「あっははははははははははは!」
 冬摩は弾かれたように笑い出した。
 まさか演技でも何でもなく、普通にしていてああいう雰囲気になるとは。なら『死神』も? いやまさか。それこそまさかだ。アイツはそんな性格ではない。
 しかし仮に。もし仮に『死神』も朋華同様あの状態が普通なのだとすれば、自分はとてつもなく恵まれた環境に居る事になる。
「そ、そんなに笑う事ないじゃないですかー。べ、別に素っていうか……楽しそうだから何となくああなっちゃったって言うか――」
 そして冬摩は朋華を抱き締めた。
 強く、それでいて悲しいくらいに脆い物を扱うかのように優しく。
「え……」
 耳元で掠れた声がする。
 朋華の鼓動を胸で感じながら、冬摩は更に彼女の体を引き寄せた。
「有り難う」
 そのまま心からの言葉を述べる。
「有り難う、朋華。愛してる」
 もう一度繰り返す。永遠の誓いを添えて。
 今、自分の体には破滅が巣喰っている。とてつもなく凶悪で、途方もなく凶大な。
 絶対にソレを喚び覚ます訳にはいかない。卵を孵化させる訳にはいかない。
 龍閃に肉体と精神を明け渡すなど、絶対にあってはならない。
 そのために久里子と玲寺が主体となって動いてくれている。魎を見つけ出すために尽力してくれている。
 悔しいが、二人には感謝している。
 元々コレは自分の問題だ。自分が過去から持ち込んだ因縁だ。
 だから本来、自分一人で決着しなければならない。
 しかし、どうやら今回はそんな意地だけでどうにかなる問題ではなさそうだ。闇雲に探し回って見つかる相手でもないし、なにより感情に身を任せて動き回っていたら確実に喰われる。
 魎への殺意という極上の餌によって卵が孵化し、あの時のように龍閃の意識が表面化する。
 ――あの時。
 自らが放った左腕の力をまともに受けたあの時。
 自分の体は一度、全てが消失した。
 核も、肉体も、精神も。意識の一片に至るまで全てが無へと帰した。
 当然、そこから先の記憶はない。気が付けば自分は“内側”に居た。
 視界に映し出された景色は遠くの方でぼやけて見え、周囲の音が耳鳴りに聞こえた。まるで暗い牢獄に捕らえられ、壁に穿たれた小さな穴から外界を覗き見ているような……そんな閉鎖的な感覚だけが横たわっていた。
 叫ぼうとしてもやり方が分からず、身を動かそうとしてもそこに感覚は無く。押し潰されそうな不安と恐怖だけが漂い、ソレがどんどん大きく、強くなり……。
 ただ呑み込みれまいと必死になって堪えていた。
 何をどうすればココから解放されるのか。そんな事は全く分からなかった。とにかく抵抗し続けた。このまま流されては駄目だと、ひたすら言い聞かせ続けた。
 そして――声が聞こえたんだ。

『喰らうか。貴様の大切な女を』

 嫌な声だった。鬱陶しい声だった。

『無惨に散らしてやろうか』

 忌々しくて、消し去りたくて、葬り殺したくて――

『かつて、未琴にそうしたようにな』

 また、そこから先の記憶は無い。
 次に覚えているのは視界一杯に映る朋華の顔。手に残る生温かい肉の感触。殺意の引き潮。
 彼女のすぐ後ろには玲寺が居て、久里子が居て、陣迂が居て、玖音が居て……。
 朋華の両手が自分の頬を優しく包み込み、そして――

『冬摩さん、お疲れさまでした』

 その一言に救われた。朋華が笑顔で言ってくれたその言葉のおかげで、また自分を取り戻す事が出来た。辛うじて、龍閃の意識に競り勝った。
 玖音の話では、卵が孵化する直前で何とか持ちこたえたらしいが……どこまで本当の事を言っているのか分からない。
 ただ一つ確実なのは、次は無いという事。
 次にもう一度同じ状況に陥れば、今度こそ間違いなく龍閃の意識に体を乗っ取られる。そして自分は第二の龍閃となる。
 絶対にソレは避けなければならない。だから今回ばかりは頼らざるを得ない。
 久里子は口こそ悪いものの、根は姉御肌で面倒見の良い女だ。アイツは基本的に何にでも前向きで一生懸命で、感情家で。自分と似たような部分があるから、それなりに信用している。それに頭のキレや土御門財閥の情報網などを考えると、今最も頼りになる人物である事は間違いない。
 そして玲寺も、取り合えずは信頼しておいてやる。
 気色の悪いクセと裏切り行為を趣味に持つイケ好かない野郎だが、実力は確かだし、なにより魎と比較的近い考え方をする。魎が次に何を狙っているのか、アイツなら察せるかも知れない。理屈ではなく、直感で。
 朋華だってアイツは味方だと言い張っている。朋華がそう言うのなら、自分はソレを信じ通すだけだ。朋華の言う事に従っていれば、何があっても後悔しない自信だけはある。
 それにアイツは朋華を守ってくれた。
 自分の左腕の力の余波から。麻緒が仕掛けた超爆発から。
 あの激しい戦いの中で傷らしい傷を殆ど負う事無く、ただ少しの間気を失っていただけで済んだのは玲寺の功績だ。
 コレは後で久里子から聞いた話だが、多分その通りなんだろう。
 あの中でまともに動けたのは、玲寺くらいのものだった。
 だから玲寺は信頼する。まだ信用はしないが、信頼はする。
 そして二人と連携して動いている玖音にも、また実に悔しいが少なからず期待を寄せてしまっている。
 アイツの頭のキレ方は久里子のソレとはまた少し違う。理論的なようで飛躍的。何の脈略も無さそうで、後になって繋がっている事が分かる。そんなある種独特の思考回路を持っている。きっとアイツの考え方は誰にも真似できないだろう。
 だから今回の事についても何か重要な事を掴んでいるか、勘づいているはずなんだ。ただソレを口にしないだけで。最初はその事にいちいちイラついていたが、もう慣れた。
 アイツが隠し事をするのはそれなりの理由があるんだ。コチラの性格や行動、突発的な感情まで全て計算に入れ、その上で黙っているのなら仕方ない。ソレを無理矢理聞き出したところで、自分にプラスになるとは思えない。どうせアイツの考えている事は理解できない。
 それにアイツは今必死だ。魎を見つけ出して始末する事に関して、久里子や玲寺などより遙かに必死になっている。
 美柚梨を巻き込んでしまったから。大切な妹……いや、最愛の女性を危険に晒してしまったから。一秒でも早くその不安やしがらみを取り去ってやりたいと切望している。
 だからもうなりふりなど構っていられない。ソレは自分に頭を下げて頼み込んでくる程に。
 妹を召鬼のままにしておいてくれと。自分の身を守る力を与えてくれと。
 もしかするとアイツが一番魎の居場所に近いのかもしれない。
 勿論、獲物をくれてやるつもりなどさらさら無いが。
 陣迂は……あの正義感が強くて、やたらと格好付けたがる大馬鹿野郎は今頃どこで何をしているのだろう。
 アイツとはまた戦いたい。
 敵味方や利害といった下らない枠は全て取り払い、ただ本能に身を任せてひたすら力をぶつけ合ってみたい。アイツの力はまだまだあんな物ではないはずなんだ。自分はまだ本気のアイツと戦っていない。
 だが、ちゃんと生きてくれているだろうか。
 アイツは一度死んだ身。ソレを魎が召鬼として黄泉還らせ、怨行術によって延命させた。だから魎が何かの気まぐれで陣迂の召鬼化を解けば、アイツは死ぬ。そして自分が魎を殺しても、死ぬ。
 しかしアイツはあの時、ソレを望んだ。戦いの足を引っ張るくらいならと、自ら命を絶とうとした。そして今、陣迂は一人で魎を探している。
 ――殺すために。
 自分の手で片を付け、自分を終わらせるために……。 
 納得など出来ない。出来るはずがない。そんな結末、絶対に認めない。
 絶対にあるはずなんだ。陣迂の生きる道が。魎だけを殺す方法が、何か。
 今は思い浮かばなくとも、明日には、明後日には。自分では無理でも、久里子や玲寺、そして玖音なら……。
 いや、もしかすると……麻緒が……?
 麻緒……。アイツは変わった。陣迂と戦った事で心に異変が生じた。
 アイツは自分の弱さを知ったはずなんだ。ソレを誤魔化す事も出来ず、真っ正面から向き合わざるを得なかった。
 自分の弱さを知り、咀嚼し、そして受け入れる。
 ソレは間違いなく次の強さへと繋がる。肉体的にも、精神的にも。
 麻緒の中で陣迂の存在は大きな物となっただろう。必ず突き崩さなければならない、巨大な壁として。いつか登り切り、踏み越えていく階段として。
 そのためには陣迂には生きていて貰わなければならない。でなければ、麻緒は一生傷を負う事になる。いくら強くなってもソレを自覚出来ずに、その先ずっと引きずる事になる。
 だが恐らくまだソコまでは考えていない。考えるだけの余裕がない。
 今、アイツは眠っている状態だ。力を蓄えるために冬眠に付いた。
 次に目が覚めた時、麻緒はまた少し変わっているはずだ。
 ソレが自分で思っているところの正しい方向なのか、それともより深い負の方向なのかは分からないが……。
 だがアイツのそばには夏那美が居る。あの気が強くて意地っ張りで、真っ直ぐで一途な想いを持った女が近くに居る。彼女こそ麻緒が護らなければならない存在なんだ。
 その事に気付けば、麻緒は道を違える事はない。間違いそうになったら夏那美が修正してくれる。
 そう、三年前。朋華が自分にそうしてくれたように――
「朋華……」
 自分の背中に両腕を回し、胸に顔を埋めている女性の名前を呼ぶ。
「冬摩さん……」
 そのまましばらく体温を交換し合い、相手の鼓動を求め合った後、互いに少しだけ身を離した。
「冬摩さんこそ、有り難うございます。ちゃんと、言ってくれて……」
 朋華は僅かに顔を俯かせ、恥ずかしそうな表情になって上目遣いに言ってくる。ソレに冬摩は微笑んで返し、また朋華の体を抱き寄せた。
 ――魎は、殺す。
 あの時、最後まで言う事が出来なかった。
 何度も決意したのに。朋華だけには伝えなければならないと決心したのに。
 結局、口にする事が出来なかった。
 恐かったのか?
 もしかすると否定されてしまうかも知れない。悲しい顔になってしまうかも知れない。
 そんな考えがしぶとく残っていたのか?
 真剣に悩んで考え抜いて、その上で出した結論ならソレで良いと、朋華自身の口から聞いていたのに。それでも自分は……。
 いや、恐かったんだろう。愚かしい程に怯えていたんだ。
 また昔の自分に戻ってしまうかも知れないと。残忍で冷酷な自分に……あの時の、麻緒のように……。間違っているとハッキリ分かっている者になってしまうのではないかと、畏れていた。
 そしてその事が敗北に繋がった。
 生死のやり取りをする場での躊躇い。ソレは例え一瞬だったとしても致命的な空白となる。決定的な時の間を生み出し、相手に付け入る隙を与える。
 もし朋華に言っていれば。もし朋華が頷いてくれていたら。もし朋華が、ソレでも笑ってくれていたら。
 そんな終わりの見えない後悔と懺悔を繰り返していては勝てるはずがない。あまり認めたくはないが、あの戦いは負けて当然だった。殺されて当然の心構えしか持っていなかった。しかし、自分は生き残った。
 ――龍閃の力によって。
 皮肉だ。壮絶な皮肉だ。
 フザケルナと罵声を浴びせて、自分で命を踏みにじってしまいたい。そう、考えた事もあった。
 だがソレは違う。
 自分は生き残ったんだ。殺されるべくして挑んだ戦いに生き残った。そして再び朋華の元に帰ってこられた。
 その事をもっと重く受け止めなければならない。その重要性を身に染み込まさなければならない。
 朋華を哀しませないためにも。二度と同じ思いをしないためにも。
 だから打ち明けた。
 魎を殺す事も、自分の体内で龍閃の意識が眠っている事も、そしてソレを必ず消す事も。
 何も隠す事なく、思いのままの全てを。
 魎は殺す。皆と協力し合って見つけ出し、確実に殺す。無論、自分の手でソレを果たせるに越した事はないが、今回ばかりはこだわり続けるつもりはない。
 魎を心底憎んでいる奴は他にも沢山居る。とりわけ玖音の怒りは凄まじい。だから一番近い奴が殺す。ソレで良いと思う。あの道化師を仕留めるには力だけではどうにもならない。
 しかし、龍閃は別だ。
 自分の体を乗っ取ろうなどと下らない考えを抱き、意識だけでしぶとく生き残っている龍閃だけは誰にも譲るつもりはない。
 かつて未琴を……自分の全てを喰らい尽くした龍閃だけは、絶対にこの手で消し去る。例えこの先、また何百年掛かろうとも。
 最初、久里子から提案された。
 『鬼蜘蛛』を具現化し続ければいいのではないかと。そうすればどれだけ精神苦痛を抱こうとも卵に栄養は行き渡らず、龍閃の意識は孵化できないのではないかと。
 しかし、すぐに断った。
 保持者と使役神は基本的に繋がっている。だから具現化しているからといって、精神苦痛が『鬼蜘蛛』に全く影響を与えないという保証はどこにもない。
 ソレについては玖音も同意見だったし、魎の生み出した『三番目の方法』の事を考えると極めて危険だとも言われた。
 だがそんな事より、もっと恐ろしいのは左腕の力だ。
 『鬼蜘蛛』を具現化させれば、左腕の力は解放される。ほんの少しの『精神的苦痛』で、あの異常に研ぎ澄まされた凶刃が牙を剥く。そしてもし、ソレが朋華を――
 駄目だ。絶対に駄目だ。
 そんな事、絶対にしてはならない。何があってもさせてはならない。
 だから『鬼蜘蛛』はもう二度と外には出さない。自分の中で押さえ込み、自分自身でケリを付ける。
 コレは自分の獲物だ。自分が過去から持ち出した宿命なんだ。コレばかりは自分の手で何とかしなければならない。
 全てを打ち明け、朋華は最初何とも言えない表情をしていた。
 じっとコチラを見つめ、無言のまま、口を真一文字に結んで。まるで何かを堪えているかのように……。
 そして――
「冬摩さん……」
 微笑みかけてくれた。
 優しく笑って、頷いてくれたんだ。
 ――ソレで良い。
 そう、言ってくれた。
 もう何も要らなかった。全てが満たされた。万能になったような気さえした。
 迷いは――無くなった。
「それで……決まりましたか?」
 抱きついたまま顔を上げ、朋華は明るい表情で聞いて来た。

『これから、どうするつもりですか?』

 決心を伝え終えた後、朋華は少し躊躇いがちな口調で尋ねてきた。
 魎は殺す。龍閃は消す。
 その気持ちはもう揺るがない。なら次はソレを成し遂げるために具体的にどうすればよいか。自分が取るべき行動は何なのか。
 やはり、すぐに答えは出なかった。
 魎への殺意を増大させれば龍閃を黄泉還らせてしまうという板挟みの中、納得のいく最善の答えは導き出せなかった。
 その時以来、ずっと考えてきた。朋華や『死神』、それに御代とも話しながら考え続けてきた。久里子の方からアドバイスのような物を掛けてくれた時もあった。
 しかしなかなか出せなかった。自信の持てる答えにたどり着けなかった。そして日に日に焦りと苛立ちは積もり、そうなってはいけないという思いが苛立ちを怒りへと昇華させ、怒りはまた焦りに繋がり……。
 気の狂いそうな毎日だった。コレがいつまでも続くのかと思うと……。
 だが、何か吹っ切れた気がする。
 今日のバカバカしいやり取りと、朋華から感じる真っ直ぐな想いで、何か得た物があった。心が少し、柔らかくなった。だから――
「ああ」
 微笑み返し、冬摩は余裕さえ浮かべて言い切った。
「ほ、ホントですか?」
 嬉しそうな、それでいて驚き、信じられないような朋華の表情。
「待つ」
 冬摩は両手を朋華の肩に置き、頷きながら低い声で言った。
「待、つ……?」
「ああ。ただ感情に任せて突っ走るだけじゃなくて、ソレを制御する努力をする」
 小首を傾げて聞き返す朋華に、冬摩は少し自嘲めいた笑みを浮かべながら続ける。
「今回の事で、俺が闇雲に走り回ったから魎の野郎の思うつぼって事が何回もあった。久里子とか玖音の言う事、最初から素直に聞いてりゃ上手くいったかもしんねーって事が、きっと山のようにあったはずなんだ。けどどうしても我慢できなかったから、俺は自分勝手に動き回ってた。今までは別にソレで良いと思ってた。チンケな企みなんざ力で丸ごとブッ潰せばいいって思ってた。けどその結果がコレだ」
 小さく息を漏らし、冬摩は片眉を軽く上げた。
「俺はよ、少なくともあの二人は信用してる。ちゃんと周りの事を考えて言ってくれてるんだと思ってる。だから次からは出来るだけアイツらの言う事を聞いてやろうかと思ってる。アイツらならきっと俺の力を存分に発揮させてくれると思うからよ。ま、すぐには無理かもしんねーけどな。でも、やらないとな。このまま魎の思うがまま龍閃の望むがままってのは気に入らな過ぎるからな」
 そう。魎の事にしろ龍閃の事にしろ、共通する部分はソコなんだ。
 自分の激情を利用して、ソレを糧にしようとしている。だからすぐに暴走してしまうこの感情を制御できれば、二人の思惑は一気に潰せるはずなんだ。
 そのために、待つ。この状況に慣れ、自分をコントロール仕切れるようになるまで待つ。
 今までは考えも付かなかったが、コレも立派な戦いだ。
 自分一人では到底無理だろうが、皆がそばに居てくれればきっと――
「なんか冬摩さん……凄い事、悟りましたね……」
 目を丸くしてどこか呆れたような調子で朋華は言う。
「ちょ、ちょっと正直……ビックリしました。冬摩さんの口から、そんな……」
 そして世にも希な珍獣を見つめるかのように、口をポカンと大きく開け、
「あ! あぁ! イヤ、その……! わ、分かってましたよ、勿論! 冬摩さんが本当は凄く優しくて仲間想いな人だって事は! えぇ! 勿論! 当然の事として! 未来永劫語り継がれるべき伝承として!」
 意味不明な事を口走り、
「で、でも、その……何ていうか……。ちょっと、素直じゃないトコがあって……」
 縦横無尽に目を泳がせて、
「で、ですから! 別にソレが悪いとかじゃなくて! そんな冬摩さんも可愛くていいなーとか! 拗ねてるみたいな顔が子供っぽくていいなーとか! 勝手にそんな事を考えるのが楽しくて……! 何かクセになったって言うか……! その……! 素直じゃないけど素でいいじゃん! みたいな!」
「まぁ落ち着け」
 両腕を振り回して錯乱する朋華に、冬摩は溜息混じりに言った。
 いや、思っている事を話してくれるのは嬉しいんだが……。
「す、スイマセン……」
 顔を紅く染めて項垂れる朋華の頭を、冬摩はそっと撫でて、
「行くか」
 明るい声を掛けた。
 自分だってこんなにも素直に言えた事に少なからず戸惑いを覚えているんだ。ソレを朋華が聞いて取り乱したとしても別段不思議ではない。むしろそうしてくれた方が安心する。自分が変わってきたんだという事を、しっかり自覚できるから。
 ココまで来られたのは全て朋華のおかげだ。自分に変わるキッカケをくれたのは全て朋華だ。
 朋華を護りたい、朋華に笑っていて欲しい。そういう想いが自分を変えさせる。そして距離が近くなれば自分に訪れる変化も大きくなる。
 抱き締めても気を失わなくなってくれたし、最近は一緒居る時間も増えた。
 今こうして歩いている道は朋華の家の方向ではない。自分のマンションまで送ってくれているのだ。勿論、送ってもらうだけではない。明日は自分が朋華の家まで送る日。つまり交代でお互いの家まで行くようになった。
 朋華は自分の女で、自分は朋華の男。その事を認識し合った仲なら当然だ。やはり何でも自覚するというのは大きい。ただ、そこから先はまだ未到達なのだが……。
 あと、御代が一緒帰る事が殆ど無くなってしまった。
 アレ以来、彼女は体育会系の部活やサークルをいくつも掛け持ちし、毎日遅くまで色んな場所で練習に励んでいる。
 召鬼になって手に入れた力を自慢したいのか何なのかは分からないが、コチラにとってみれば好都合だ。おかげでこうして朋華と二人きりで――
「冬摩さん、これから頑張りましょうねっ。私、いっぱい応援しますから。何でもしますから」
「あ、あぁ……」
 二人きりで……? ん? 二人……?
「でも……何て言うのか、その……」
 おかしい。何か忘れている。
「感情的な冬摩さんも……」
 何か、重要な事を。
「素敵……ですよ」
 何か、嫌な予感が――
「ってもー! 何て事言わせるんですか冬摩さ――」
 朋華の表情が固まった。
 どうして、今まで気付かなかったんだ。この異変を感じ取れなかったんだ。
 お互いの愛ゆえ。
 その一言で片付けるのはたやすい。
 だが、コレはあまりにも――
「交尾、楽しんだか?」
 背後から掛かる冷たい声。冬摩はゆっくりと肩越しに振り返り、そして見た。
 巨大なこぶを作った白髪緋眸の少年。彼の頭の上には、碧色の両目でコチラを見据える銀毛の猫。
 忘れていた。完全に忘却の彼方へと葬り去っていた。
 『羅刹』を持っていた自分の手は空で、そして『天冥』を抱いていた朋華の胸もまた空で……。いつの間に“落とした”のかも気付かずに……。
「ちょ……」
 『羅刹』は『天冥』を頭に乗せ、相変わらずの無表情のままあぐらを掻いていた。
 ――コチラの目線の高さで。
「な、ぁ……」
 冬摩は思わず後ずさる。そして視線が釘付けになった。
 『羅刹』を支える、黒い土台に。
 大量の昆虫が作り上げた、異質な尖塔に。
 何百? 何千? とにかく信じられない数の昆虫が垂直に密集し、その頂点に王座を形作って『羅刹』を迎え入れていた。そのあまりにおぞましい光景に、冬摩の首筋を嫌な汗が伝う。
 コレはまさか……。いつの間に『虫ダンス』を……。あんな目立つ儀式を見逃すとは……。
「じゃあ、もう、いいな?」
 そして、『羅刹』が僅かに笑ったように見えた。
 次の瞬間、『羅刹』の体が大きく持ち上がったかと思うと、西日を遮って黒いカーテンが立ち昇る。その先端が頂点に達して放物状の丸いカーブを描き、まるで大波のように押し寄せて来た。
「オ、オラァ!」
 冬摩は戸惑いながらも、朋華を庇うようにして右腕を大きく薙ぐ。が、拳は何の手応えも無く黒い波に呑み込まれた。
 当然だ。コレは虫の集合体。複数の個体の塊である以上、力は自ずと分散される。
 だが――
(躊躇うな!) 
 胸中で叫ぶ。自分に強く言い聞かせる。
 戦いで心に隙を作れば死ぬ! 果てしない後悔を抱いて死ぬ!
 ソレは駄目だと思ったところだろう! 二度としないと誓ったばかりだろう!
 ……しかし、この躊躇いは何か違――
 いや! 同じだ! 自分の決心を試そうと早速試練が襲ってきたんだ!
「オオオオオオオォォォォォォォォ!」
 一切の迷いを振り払わんと、冬摩は咆吼を上げて右腕に力を込めた。
「と、とーま、ひぁーん……黒い一番星さまー、みーつけー」
 後ろからは朋華の呆けた声が聞こえる。
「あっ、はっ、はっ、はっ、はー」
 そして『羅刹』の抑揚のない笑い声。ソコに『天冥』の甲高い啼き声が入り交じり、
「全部まとめてブッ飛ばす!」
 上から冬摩の決意の叫びが重なった。

 それは初夏の涼やかなひととき。夕凪の時間。
 昼と夜の狭間。陽と月の逢瀬。

 無常の貌を見せたまま、刹那の時経てうつろい続ける。

 まるで、冬摩の心のように……。

 【終】





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