貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

BACK NEXT TOP


四『拭えぬ憂慮』


◆用意された失態 ―真田玖音―◆
 駅から車を飛ばして一時間程の場所に、麻緒が入院していただろう夕薙病院はあった。
 そこは広大な敷地に五十台の駐車スペースが確保された、十階建ての大きな総合病院。白い壁がコチラを威圧するかのように見下ろし、太陽の光を遮って巨大な影を生み出していた。
「おっきーぃ」
「城みたいじゃのう。ココの大名は誰じゃ」
「……虫、居ない」
 朋華、『死神』、『羅刹』が病院を見上げながら、思い思いの感想を述べる。
「行こう」
 そんな三人を置き去りにするかのように、玖音は早歩きでエントランスへと向かった。
「でも真田さんって運転お上手なんですね。私乗り物酔いとか結構する方なんですけど、今回は全然平気でした」
「それは何よりだ」
 セミロングの髪を揺らしながら隣りに並んで歩き、朋華は少しはしゃいだ声で言う。
「妾は初めて乗ったが、ちと性に合わんかったのぅ。『じゅーたい』や『しんごー』とやらで理不尽に止められるのが好かん。『羅刹』、お主はどうじゃった?」
「……虫、居なかった」
 うずくまって蟻でも探そうとしてる『羅刹』をそのまま運びがら、『死神』は不満そうに柳眉を顰めた。
「やはり妾は電車がいい。あんな場所に呼び出すからてっきりそうかと思っておったのに……」
 駅前を待ち合わせ場所にしたのは、分かり易いしロータリーが広いからだ。
 電車ではなく車なのは万が一の被害を最小限に抑えるため。一車両破壊されるより車一台の方が、金額的にも人命的にも小規模ですむ。かといって走りは論外だ。目立ちすぎる。相手に見つけてくれと言っているようなもの。ソレに体力も使う。 
 まぁ、相手はあの水鏡魎だから無茶な事はしないと思うが……。 
 思索を巡らせながら玖音は自動ドアをくぐる。
 ハーブ系の香りが漂う、清涼感溢れるロビーだった。壁も柱もカウンターも、殆どが曲線だけで形作られ、中央付近には円筒型の大きな水槽が置かれている。待合い用のソファーの両端には背の高い観葉植物。カウンター横に掛けられた大型液晶テレビの中では、熱帯魚が南国の海で気持ちよさそうに泳いでいた。
「あの、真田さん」
 中に一歩踏み入れた時、朋華が何故か上目遣いで話し掛けてくる。
「何だ」
「昨日、妹さんと何かありましたか?」
 ――ブッ!
「ゲッホゲホ! ゲッヘンゲッホッ!」
「だ、大丈夫ですか? 丁度ココ病院ですし、お医者さんに看て貰いますか?」
 ……コイツ、ワザとやっているのか?
『なーにをそんなに照れてるんですか、玖音。起こった事をそのまま包み隠さず喋ればいいじゃないですか』
 ……イヤらしく目元を歪めている『月詠』の顔がハッキリ見えるのは気のせいか?
「別に、何でもない」
「何でもないという反応ではなかったのぅ」
 ……『死神』も『月詠』と同じ表情をしてやがる。
「一緒に食事をして、風呂に入って寝ただけだ」
「一緒にお風呂に入って!?」
「一緒に寝たじゃと!?」
「間に読点入っとるわ!」
 ぜーはー、ぜーはー、と肩で息をしながら、玖音は凄絶な視線で二人を睨み付けた。
『美柚梨さんの事を聞かれているのに自分の事を混ぜるからですよ』
 的確な『月詠』のツッコミ。
 い、いかん……この三人の悪女にペースを持って行かれている。早急に立て直さねば。
「あのー、院内ではもう少し静かに……」
「あ、スイマセン……」
 カウンターの方から掛けられた看護婦の言葉に、玖音は片手をうなじの辺りに回して頭を下げた。
 クッソー、どうして自分が……。
「じゃー気を取り直して行きましょうか」
 隣で朋華が明るい声で言い、白のロングパーカーを揺らしながらカウンターの方に寄って行く。
 何故お前が仕切る……って、オイ!
「あの、すいません。九重麻緒って人の病室を教えて頂きたいんですけど」
「え? あの患者さんのお知り合いですか?」
 カウンターの向こうで看護婦は予想通り目を大きくし、
「その……実は昨日ですね、夜……居なくなりまして……」
「あ、はい。知って――」
「え!? そ、そうなんですか!?」
 朋華の言葉を遮るようにして、玖音は大袈裟に聞き返した。
「ええ……ソレでちょっと、警察の方に探していただいているところなんですけど……」
「そうなんですか……。でも居なくなったってどうしてまた」
「ちょっと、まだハッキリした事が分かってないので何とも……」
「分かりました。それじゃあの、お見舞いに持ってきた物だけでも置いて来たいんですけど、病室教えて頂いてもよろしいですか?」
「え? あ、はい。そうですね。ではコチラにお名前と今の時間をご記入頂いてよろしいですか?」
 看護婦はすぐ隣りにあった記入用紙を、ペンと一緒に差し出してくる。玖音はソコに二人分の偽名と現在時刻を書き、看護婦に返した。
「えー、では。八〇三号室になります」
「ありがとうございます」
 そして朋華の背中を軽く押し、カウンターの前を離れてエレベータホールに向かう。
「あ、そっかー。居ないの知ってて訊ねて来るなんて怪し過ぎますもんね」
「そういう事だ」
 自分の隣りを付いて歩きながら、朋華は何故か感心したように頷きながら言った。
 全く……冬摩のお目付役なんだから少しは考えて行動して欲しいものだ。
 ……いや、冬摩とずっと一緒に居たせいで、感化されてしまったと考えるのが自然か。
(女冬摩……)
 いずれ『オラァ!』とか言ったり……。
『玖音』
「何でもないです」
 冷ややかに言う『月詠』に、玖音は短く返してエレベータのボタンを押した。

 ――『九重麻緒』。
 そうネームプレートの掲げられた病室の前は静まりかえっていた。
 当然だろう。中には誰も居ないのだから。警察が来たのも恐らく昨日一日くらいのモノで、後は壊された街の方を捜索しているはず。直接的な手掛かりがあるとすればソチラだろうから。
 だが自分達は別だ。ほんの少しでも『玄武』の気配が残ってくれていれば、彼の後を追える。そしてもし、この一キロ圏内に居てくれればすぐにでも場所を特定できるんだ。
「入りまーす」
 朋華が一応ノックし、ドアノブを回して内側に押し開ける。そして中に入って――
「え……?」
 朋華の声が漏れた。
「どうした」
 彼女の後ろから病室に入り、玖音は困惑したように目を細める。
 中には女性が一人、ベッドに腰掛けてコチラを驚いたように見ていた。
 背中に少し掛かる程度まで伸ばした黒髪を、おさげに纏めた中学生くらいの女の子だった。快活そうに大きく開かれた目、健康そうな桃色の唇、まだ丸みを帯びた幼い顔立ち。
 多分、麻緒と同年代くらいだろう。しかしココの病院服を着ている事から、自分達のように見舞いに来た訳ではなさそうだ。
『誰?』
 彼女と朋華が同時に聞いた。そしてしばらく沈黙が流れ、
「僕達は九重麻緒のお見舞いに来た。ココは彼の病室だと思ったんだが」
 とぼけた声でソレを打ち破った。
「あ、そう……麻緒君の知り合いなんだ」
「そういう君は? 同級生か?」
 言われて彼女は眉間に皺を寄せて少し考え、
「……恋人」
 ボソリ、と喋った。
「何?」
「恋人! あたしは東宮夏那美! 麻緒君の恋人! で、将来のお嫁さん!」
 ……また変なキャラ出てきたな。
『あらあら玖音、先を越されましたね』
 何の話をしとるんだ。
「で、だ。ソコの自称恋人さん」
「どうして分かるのよ!」
 あんな不自然に力説されたら誰だって分かるわい。
「君はココで何を?」
「麻緒君が帰って来るの待ってるの!」
「そうか。で、悪いんだがちょっとソコをどいて貰って良いかな。調べたい事があるんだ」
「イヤ!」
 コイツ……。
「でもほら、ココは君の病室じゃない訳だし。見たところ君も病人だろ? だったら自分の部屋で大人しくしていた方が……」
「イヤったらイヤ!」
 このガキ……。
『玖音、貴方の方が冬摩化してきてますよ』
 さっきからツッコミ厳しいな。
 でもどうする。ゆっくり説得する時間が有る訳じゃないんだ。昨日、土御門財閥に確認したら予想通り白原家と繭森家の保持者も消えていた。だからすでに九重麻緒も向こうの手中にある可能性が高い。
 こうなったら、取り合えず『朱雀』を喚び出して啼かせるか。大きく体力を消耗するがこの際……。
「ねぇ、東宮さん。麻緒君の事、好き?」
 朋華は少し前屈みになり、夏那美と目線の高さを合わせて話し掛けた。ソレに若干の戸惑いを見せながらもコクン、と夏那美は頷く。
「あのね、私達。東宮さんの好きな麻緒君の事、どうしても探さないといけないの。それであんまり時間もないんだ。協力してくれないかな」
 言われて夏那美な「う〜」と呻り声を上げた後、
「……どうして探してるの?」
 訝しむような視線を向けて聞いてきた。
「ソレは勿論、私達にとっても大切な仲間だから」
「……探して乱暴したりしない?」
 乱暴、だと?
 夏那美が漏らした一言に、玖音は目を細める。
「しないしない。そんな事するはずないよ」
「でも……」
「顔を見たのか」
 俯く夏那美に顔を寄せ、玖音は真剣な眼差しで彼女を射抜いた。
「う、ん……」
「どんな奴だった。髪が長くて飄々とした雰囲気の男だったか」
 重ねて聞く玖音に、夏那美はぎこちなく首を横に振る。
 魎本人ではない……? あの時間、玲寺は自分と一緒に居た。なら連れ去った保持者を召鬼にして?
 いや、いくら魎の召鬼だからといって、未覚醒の保持者に九重麻緒が後れをとるとは考えにくい。例え三年間のブランクを考慮しても、だ。しかも病院送りにまでされている。
 やはり、玲寺の他にも誰か……。
「髪は、長かったわ。後ろで縛ってた。けど目つきが悪くて、体が大きくて、恐い感じの人だった」
「何か……冬摩さんみたいですね」
「それで、麻緒君は『お兄ちゃん』って呼んでた」
 夏那美の言葉に玖音と朋華は同時に顔を合わせ、そしてまた同時に視線を戻した。
「どうやら、また訳の分からない事が一つ増えたな」
 冬摩本人でない事は間違いない。なら、冬摩にソックリな……? いや、魎が身を変えたという可能性もある。だが、彼の持っている使役神の中にそんな能力を持った奴はいない。『擬態』を使えるのは冬摩の保持している『大裳』だけだ。それに怨行術の中にもそんな術は……。
「ソレは何時くらいの事か覚えてるか」
「放課後すぐだから……四時前くらいかな」
 自分が玲寺におびき出された時間とほぼ一致する。
 少し整理しよう。
 麻緒は冬摩ソックリの人物と出会い、恐らくは不意打ちを食らった。そしてろくな抵抗も出来ないまま打ちのめされ、気を失い、病院送りとなった。麻緒は彼に仕返しするために部屋を抜け出し、街の中で出くわして戦闘を始めた。その後また行方不明。
 ここまでで致命的におかしい点が一つある。
 冬摩ソックリな男はなぜ麻緒を連れ去らなかった。どうしてみすみす見逃すような事をしたんだ。何のメリットも無いはずなのに……。それにわざわざ麻緒の居場所を知らせるかのように、あんなテレビ沙汰になるような騒ぎまで。いったい何のために……。
(いや――)
 そうか。一つだけある。
 とてつもなく大きなメリットが。
「よぉ、やっぱココに居たか。朋華」
 夏那美のすぐ後ろ。
 窓枠に脚をかけ、不敵な笑みを浮かべている冬摩に、玖音はスポーツバッグから抜き放った夜叉鴉の切っ先を向けた。 

◆因縁の再会 ―荒神冬摩―◆
「俺にソックリな奴だぁ?」
 冬摩は公園のベンチに腰掛け、目の前の小さな噴水で水浴びをしている麻緒に聞き返した。
 麻緒の学校から五キロほど離れた所にある自然公園。ベンチの周りを常緑の木々が丸く囲い、赤銅色のレンガが地面に敷き詰められている。中央にはロールが三段重ねられた噴水があり、その中心から伸びた鉄柱には鳩時計が取り付けられていた。
 割と大きな公園だが殆ど人気はない。
 ……まぁ、冬摩達にあまり近寄りたくないだけかも知れないが。
「そ。見た目はモチロン、喋り方とか雰囲気とかもねー」
 上半身だけ裸になった麻緒が屈託の無い笑みを浮かべて言ってくる。右手には指先を出した革手袋。どういう訳かアレだけは取ろうとしない。まぁ、どうでもいいこだわりか何かあるんだろう。
 結局、麻緒が回復するのに昼近くまで掛かってしまった。自分でした事とは言え随分と時間を食ったものだ。
「ま、ソレでも完璧じゃなかったから最後は別人だって分かったけどねー。だからもー大丈夫。次からはちゃんと見分け付くから」
 学生服に付いた泥や血を適当に水で流し、麻緒はソコに爪を立てる。液体が急激に蒸発するような音を立て、ずぶ濡れだった詰め襟は一瞬にして乾き上がってしまった。液体なら何でも自由に凍結させたり蒸発させたりと、『玄武』の『司水』というのは便利なモノだ。
「俺のニセモノ、ね……」
 魎の奴……またおかしなマネを……。何を企んでるんだ。
 自分がもう一人などと考えたくもない。
「で? お前はソイツにやられたんで探しに出て、そんで俺を見つけて間違えて掛かって来たって訳か」
「そ」
「全然見分けられてねーじゃねーか」
「う……それは、その……」
 麻緒は両手をうなじの辺りに回して後ろ髪を雑巾絞りにした後、頭を大きく振って残った水を跳ね飛ばした。髪に『司水』を使わないのは、ソコにも何かこだわりがあるんだろうか。
「だってあの時はホラ、すんごく暗かったし、テンション上がりまくってたし……。こう……オラァ! って感じて周りが見えなくなる事とかあるでしょ? てゆーかお兄ちゃんならしょっちゅうでしょ?」
 ボクの気持ち、当然分かるよね? と言わんばかりの視線でコチラを見ながら、麻緒はズボンの水を蒸発させた。そして地肌の上に直接カッターシャツを羽織る。
 ……まぁ、あの時まさにそういう状態だったから何も言い返せないのだが。
 一通り暴れて少し落ち着いた今、昨日を思い返すとかなり無茶苦茶していた気がする。多分、あのグラウンドは当分使えないだろう。人が多く居る場所ではなかっただけ幸運だったという事か……。
「で? 何でそんなに昂奮してたんだよ。やり返すにしても、あん時の目つきは異常だったぜ」
 冬摩はジーンズのポケットから新しい龍の髭を取り出し、ソレで髪を乱暴に縛り付けながら聞く。
 そう、アレは憎たらしい相手に怒りをぶつけるというよりは、戦いそのものに没頭して殴り合いを心の底から楽しんでいる、そんな危ない雰囲気だった。
「いやー、ホラホラホラ。ホント久しぶりだったからさぁ。あんなに痛い思いしたのも、本気で走り回ったのも戦ったのも。だからこぅ、ッシャコーイ! って感じになっちゃって。タハハ。完全にプッツンしてたのね。やー、ホント、バトルって良いモンですねー。こー、ああ! ボク今生きてる! って実感できるって言うんですか? まぁそんな感じなんですよ。どーもご迷惑掛けてサァーセンでした」
「なんで丁寧語なんだよ……」
 身振り手振りを交えながら今の心情を嬉しそうに語る麻緒に、冬摩は半眼になって息を吐いた。
 やはり、コイツは三年前と全く変わっていない。いや、抑圧されていた分酷くなっているかも知れない。
 無邪気さ故の残酷性が。
 麻緒はあの時、龍閃の波動を放つ影を皆殺しにした。躊躇いなど微塵も見せる事なく、喉を掻き切り、心臓を抉り出し、頭を潰した。
 多分、彼らは全く無関係な一般人だ。ただ魎に捨て駒として利用されただけの。
 もし、彼らの死体を『餓鬼王』に喰わす事無く放置していたら、きっと今頃大騒ぎどころの話では済んでいないだろう。
「で? お兄ちゃんの方は? 何であんなトコ居たの? 今どんな厄介事に巻き込まれてるの? ねぇねぇ教えてよ。ボクもしっかり巻き込まれたんだからさ、その辺の情報は共有しておいた方が良いと思うんだ」
 目をキラキラと輝かせて、麻緒は詰め襟の前ボタンを止めながら言った。明らかに殺し合いを楽しみにしている。相手を傷付け自分が傷付く事を心底望んでいる。
(コイツ……マジでアブナイぞ……)
 ……子供の頃の教育が重要だという事を身に染みて理解した。まぁ麻緒がこうなってしまった原因が自分にある事を考えると、何とも言えないのだが……。
(どうする……)
 確かに麻緒はもう巻き込まれたようなモノだろう。自分のニセモノとかいう奴も、多分魎の手駒だ。アイツの目的は自分の肉。そのために保持者から使役神を奪い取って、力を付けようとしているのだから。
 自分が龍閃から七体の使役神を奪い、飛躍的に力を増したように。
 冬摩はどう言うべきが数秒ほど考え、
「魎を野郎を探してんだよ」
 面倒臭くなってそのまま話す事にした。
「リョウ? リョウって?」
「水鏡魎だよ。魔人の。テメーも知ってんだろ」
 『玄武』の記憶の中にあるはずだ。
「ミカガミリョウ……水鏡リョウ……魎、ね……」
 麻緒は握り拳を口元に持っていってブツブツ言いながら考え込み、
「ひょっとして、背が高くって髪が長くて黒いおっきなコート着てる?」
「あぁ」
「そんでもって何かヘラヘラしてて、スケベそうな顔してて……」
「あぁ」
「グラサン掛けてたりする?」
「グラサン? 何で?」
「だってボク、昨日その人とバトったらか」
「本当か!?」
 サラッと言った麻緒の言葉に冬摩は勢いよくベンチから立ち上がり、その華奢な両肩を鷲掴みにする。
「どこ行きやがった!?」
「ソコ」
 そしてまたも軽い口調で言いながら、麻緒は冬摩のすぐ後ろを指さした。
「な――」
 慌てて振り向き、冬摩は反射的に拳を握り込んで構えを取る。
 レンガの地面を十メートル程先に行った場所。
 口元に薄ら笑いを浮かべ、地面に届きそうなほどの長いダークコートを纏った男が近寄って来ていた。掛けていたサングラスを外し、奥にあった鈍色の瞳でコチラを見る。ソコには狡猾で打算的な輝きが灯っていた。
 間違いない。二百年前と全く変わらない。
 コイツは――
「りょ……!」
「やあやあやあやあ! 冬摩君! 元気だったかい!? 実に二百年ぶりの再会だねー! いやー、オジサン会いたかったよー! っはっはっはっはー!」
 明るい声で言いながら魎は歩調を速め、冬摩を迎え入れるかのように両腕を大きく広げて、
「オラァ!」
 大気を削り取る冬摩の拳撃を後ろに跳んでかわした。
「あー、お前らしい挨拶だな。変わり無いようで安心した」
「っの野郎!」
 目を細くして呑気に言う魎に、冬摩は拳を振り上げながら地面を蹴る。
「久里子をどうした! 喰いやがったのか!」
 バックステップで距離を取ろうとする魎に覆い被さるようにして跳び、冬摩は力任せに拳を振り下ろした。が、ソレは魎の背後へと抜けて通り過ぎる。
「あー、何の事だ冬摩。私はそんな女知らんぞ?」
「とぼけんじゃねぇ!」
「心配するな。彼女は無事だ。まだ何もしていない」
 下から放った裏拳を魎は半身引いてかわし、続けざまに蹴り上げた右膝を横から力を加えて受け流した。そのまま軸足の方へと体を移す魎を見て、冬摩は即座に脳天目掛けて左肘を打ち下ろす。が、魎は胸を仰け反らせ、紙一重で力を逃がした。
(当たらねぇ……!)
 こんなにも近くで打っているのに掠りもしない。
 『鬼蜘蛛』で攻撃範囲の拡大した冬摩の拳撃。その僅かに外側へと回りこまれる。完全に動きを読まれていた。
「さすがにお前のは分かり易いなぁ、冬摩。本当に、昔と全く変わってない」
 余裕のある表情でにこやかに言い、魎はまた大きく後ろに跳ぶ。
「逃げんなテメェ!」
「ソレは無理というものだよ冬摩君。そんな剛腕、誰だって食らいたくない」
 肩をすくめ、魎は挑発的な笑みを浮かべて、
「待ちやがれ!」
 ――ィン、と耳元で異音がした。
 次の瞬間、周りの風景が白と黒だけで塗り分けられる。
 不自然な程に明確なコントラストを持って、木が、地面が、空が平面化していった。
「さぁ、コレで二人きりだ。あの少年に邪魔される事もない」
 魎が指さした先には、景色と同化してしまった麻緒が描かれている。ソレは出来の悪い水墨画でも見ているかのようで、視覚そのものがおかしくなってしまったようにも思えた。
「使役神鬼『無幻』召来」
 そんな中、魎だけが元の姿のままで浮かび上がり、複雑に組んだ印を地面に押し当てた。
 直後、魎の手を中心に黒円が広がったかと思うと、その暗い穴の中から漆黒の凶鳥が現出する。獅子や虎ほどの巨躯を誇る、四枚もの羽を携えた鳥だった。紅く染まった双眸は刃物のように鋭く見開かれ、下に大きく反り返った嘴からは牙が覗いている。
「行け」
 魎の声に応えて『無幻』が一際高く啼き、嘴を凶悪に広げて正面から突っ込んで来た。
「ちっ……!」
 激変した世界に戸惑い、動きを止めていたせいで反応が僅かに遅れる。
 左胸に走る熱い衝撃。
 鉤状となった嘴の先が僅かに体内へと潜り込んだところで、冬摩は『無幻』の突進を受け止めていた。左手で上嘴を、右手で下嘴を掴み、徐々に押し返していく。そして体が少し前傾したところで肩に力を込め、
「オラァ!」
 嘴を上下に割き開いた。
 が、すぐに手応えが消える。
「古風な手に引っかかる」
 黒い粒子を残し、空気に熔け込むようにして消えた『無幻』の向こう側に魎の足が見えた。
「がっ……!」
 鼻に爪先が食い込み、冬摩はそのまま体を仰け反り返らせる。続けて腹部を襲う鈍痛。魎の踵が鳩尾を踏み抜き、内臓を揺さぶった。
「テ……メェ!」
 足を後ろに出して踏ん張り、冬摩は前を見ないまま拳を振るう。しかし魎は蹴りの反動で距離を取り、拳撃は虚しく空を切った。
「相変わらずタフだな。そんなところも変わってない」
 魎は宙に浮いたまま口の端をつり上げる。と、着ているダークコートの輪郭が一瞬ブレたように見えた。思考でなく本能が体を突き動かし、冬摩はその場を蹴って跳ぶ。
 一回まばたきをする間にまた世界が変わっていた。
 黒く。どこまでも黒く。
 魎のダークコートから触手のように伸びた黒い鎖が、地面を、空を、視界すべてを覆い、さながら巨大な繭の如く展開していた。
(怨行術……!)
 その中でも魎が最も良く使っていた技だ。
「使役神鬼『紅蓮』召来」
 さらに魎は印を組み、ソレを中空に押し当てる。菱形に切り取られた空間が不自然に反転し、般若面と真紅の狩衣を身に着けた矮躯が現出した。両手には巨大な熊手のように鋭い鉤爪。ソレを胸の前で交差させ、黒鎖を足場代わりにして上から急迫する。
「さっきから……!」
 苛立ちと憤怒を露わにし、冬摩も同じように印を組み、
「使役式神『白虎』召来!」
 怒声と共に『紅蓮』の方へと突き出した。
 刹那、冬摩の指が牙に変わったかと思うと、腕から生み出されるようにして現出した白銀の虎が咆吼を上げる。
 『白虎』は牙を剥いて『紅蓮』に襲いかかると、一気に喉笛に食らいついた。が、同時に『紅蓮』の鉤爪も『白虎』の背中へと回される。爪は深く食い込み、肉を割いて体内に潜り込んだ。『白虎』の口の端から苦鳴が漏れる。だが牙への力は全く緩める事なく――
 ――中空に闇色の霧が舞う。
 『無幻』同様、『紅蓮』の体も黒い燐光と共に消え去った。そして――
「食らえ!」
 『白虎』の体を隠れ蓑にして、冬摩はすでに横へと跳んでいた。さらに三角飛び要領で黒鎖を蹴り、鋭い角度から魎に拳撃を繰り出す。しかし別の黒鎖がすぐに反応すると、彼の体を守るようにして密集した。
「オラァ!」
 だが冬摩は構わず振り抜く。
 硬質的な金属音。
 黒いガラスのような破片を周囲に飛散させ、黒鎖は脆くも砕け散る。
 全く勢いを殺される事無く冬摩の右拳は魎へと吸い込まれ――
「な……!」
 また空を切った。 
「惜しい」
 頭上からする声。
(『幻影』……!)
 『紅蓮』の能力の一つ。体に戻したのはコレを使うため……!
「そんな物か? 冬摩。お前の力は。九体もの使役神を宿したお前の実力とやらはその程度か?」
 侮蔑にまみれた視線でコチラを見下ろし、魎は小さく鼻を鳴らした。
「残念だなぁ。ガッカリだ。それでは喰う価値も無い」
「っセェンだよ!」
 叫んで冬摩は魎へと飛ぶ。
 やはりそうだった。思った通り、魎の目的は自分の肉を喰う事。ソレで間違いなかった。そのために、他の保持者や――久里子を……!
「オラァ!」
 右の拳を円弧の軌道で魎の顔面に叩き付ける。しかし宙で更に飛び上がった魎の鼻先を通り抜け、拳は空を切った。
 許さねぇ! 絶対に許さねぇ……!
「使役神鬼『獄閻』召来!」
 足元に具現化させた一つ目の化け物、『獄閻』の『金剛盾』を足場代わりにして、冬摩は魎の眼前に躍り出る。
「テメェは――」
 そして握り込んだ左拳を振り上げ、
「ブッ殺す!」
 渾身の膂力と共に打ち出した。
 だが、やはり宙で後ろへと飛んだ魎には届かず――
「く……!」
 魎の体勢が大きく崩れた。
 そして一呼吸遅れて肩から脇腹へと黒い筋が走り、鮮血が迸る。
「ち……」
「オラァ!」
 その隙を逃す事無く、冬摩は右拳を下から放った。両腕を交差させ、冬摩の拳撃を受け止める魎。そして肩まで伝わって来る確かな手応え。
 鈍い音を立てながら、冬摩の拳は勢いを失い――
「っ……!」
 上から被せていた左の拳が魎の頬を捕らえた。
 しかし完全には入りきらず、首をひねって力を逃がされる。が、それでも魎は自分で作った黒鎖を突き破り、その下の地面へと叩き付けられた。
「こんなモンじゃ終わらねぇんだよ!」
 灼怒に顔を染め、冬摩は上空から追撃を掛ける。右拳を体の横に構え、魎の体があるはずの場所へと左手で狙いを付け、
「――ッラァ!」
 左を引くと同時に突き出した右腕を自重に乗せて打ち下した。
 拳に伝わる生暖かい感触。引き抜き、紅く染まった自分の手を見る。
(……っ!)
 僅かな間。戸惑いの感情。だがすぐに左拳を打ち下ろす。また右、そして左。
 割られた黒鎖に覆い隠され、姿の見えない魎の体に、冬摩は何度も何度も拳を叩き付けた。
「あー、まだ若干の躊躇いはあるものの、いざとなれば殺す事は出来る、か……。なるほどなぁ」
 後ろからの魎の声。
 冬摩は慌てて立ち上がり、ソチラを向く。
「『分身』だよ。また惜しかったな」
 口に溜まった血を唾液と共に吐き出し、魎は不敵な笑みを浮かべて観察でもするかのような視線をコチラに這わせていた。
「食らって言ってんじゃねぇ!」
 叫ぶと同時に地面を蹴り、冬摩は勢いに乗せた拳で魎を貫いて――
 ――ィン、とまた耳元で不愉快な音がした。
「じゃあな冬摩」
 そして今度は横手から魎の声がする。
 さっき胸板を貫いたと思った魎の体は、いつの間にか消えていた。
(また『幻影』……!)
「お前はすぐ頭に血が上るからなぁ。あの少年より扱いが楽で助かるよ」
 彩りを取り戻した木々をバックに、魎は目線を横に向けてからかうような口調で言う。
「逃がすと思ってんのか!」
「逃げる自信はあるさ。お前の扱いには慣れてるんでね」
 飛びかかる冬摩に、また魎の姿がかき消えた。
「お前は単純だからなぁ」
 そして後ろからの声。
(どいつだ……!?)
 一人ずつ狙っていても埒が明かない。なら――
「使役神鬼『餓鬼王』召来!」
 全部喰らい尽くす!
 冬摩の目の前の空間から漆黒の太い腕が生える。続けて無貌の頭、筋肉質な脚。最後に胴体を引きずり出して、『餓鬼王』は全身に無数の口を開けた。
 細かく牙の突き立った口はそれぞれが奇声を発し、凄絶な不協和音となって辺りに轟く。
 そして、周囲の景色が呑み込まれ始めた。
 太い幹は根だけを残して消失し、レンガの敷き詰められた地面は無愛想な砂利を晒す。噴水は“半分”になり、鳩時計は最初からソコには何もなかったかのように無へと帰した。
 遠くの方から麻緒の悲鳴じみた声が聞こえる。
 そして、冬摩の近くに――
「――ッ!」
 あの忌々しい波動が立ち上がった。
(龍閃……!)
 ソチラを睨み付ける。そこはさっき、自分が魎の『分身』を叩き付けた場所。
「魔人というのはなかなか頑丈に出来ている物でね。核が無事な限り……この通りさ」
 顔を鮮血に染め、危ない光を双眸に宿した魎が、両腕を広げて狂笑を浮かべていた。全身にはダークコートの黒よりもなお暗い穴がいくつも穿たれ、ソコから流れ出る血がコートの色を上塗りしていく。まるで、死者が黄泉還ったかのようだった。
「なぁ! 冬摩!」
 『餓鬼王』の『大喰い』に勢いを殺されながらも、魎がコチラに突進してくる。そして鉤状に曲げた手でコチラの顔面に狙いを付けた。
「ち……!」
 面倒臭そうに舌打ちし、冬摩は右腕を突き出す。ソレは魎の手をアッサリと弾き飛ばし、その奥にある左胸を深く抉った。
 柔らかい肉の感触。
(……っ!)
 そして一瞬の躊躇い。
 魎の体内に潜り込ませた指を曲げ、冬摩は声を上げながら中の臓器を握り潰した。水風船を割ったように、勢いよく飛び出してきた生ぬるい血が頬にこびり付く。
 魎は大きく目を見開いたかと思うと全身を弛緩させ、糸の切れた操り人形のように四肢をだらりと垂らした。
 反撃してくる気配はない。動こうとする意思も感じられない。
 完全に――死んだ。
「けっ……」
 ソレを足元に投げ捨て、冬摩は息を吐く。
 コレは魎が『紅蓮』の力で生み出した『分身』。魎本人ではない。
 だが、血の通った人型の生き物。もう一人の魎。
 ソレを今、この手で殺した。
(アイツは、久里子を喰いやがったんだ……!)
 間違ってない。自分のした事は、これからしようとしている事は何一つとして間違っていない。
 人を殺した奴は例えソレがどんな理由であろうと、自分がいつ殺されてもおかしくないという事を覚悟していなければならない。そんなモノはもうとっくに出来ているはずだ。
 魎も、そして自分自身も。
「お兄ちゃん!」
 麻緒の声で我に返る。慌てて思考を中断し、冬摩は魎の気配を追った。
 しかし、もうすでにドコにも感じられない。宣言通り、逃げられてしまった。
「クソッ!」
 地面を踏み抜き、冬摩は動かない魎の『分身』に目を落とす。
 読まれていた。コチラの内面までも。
 “殺す”という行為に対してどんな反応を示すのかを。
 ついさっきまで体を突き動かしていた灼熱の激情は嘘のように引き、代わって言いようのない虚無感が全身を包み込んだ。
 これから魎を追い掛けて探し出そうという気にはとてもなれない。
「ナニコレ!? 何でイキナリこんなんなってるの!?」
 自分の横に駆け寄り、麻緒が高い音域でまくし立てる。
 『餓鬼王』が食い散らかした跡、魎の残した黒鎖、そして『分身』の死体。
 魎が張った結界の中で時間が進んでいなかったとすれば、麻緒にとってはあまりに唐突な光景だろう。
「何でもねーよ」
「いや、さすがにソレはないんじゃない……?」
「うるせーな」
 イチイチ説明するなど面倒臭い事をする気分ではない。今はとにかく、自分の気持ちを整理しなければ。
(躊躇うな……)
 次は絶対に。
 魎の目的は自分の肉。そして力を付けるために他の保持者と、久里子を殺した。
 だから――殺す。
 何の問題も無い。人殺しを殺して何が悪い。殺される前に殺して何が悪い。
 今回の相手は普通の奴ではない。あの水鏡魎だ。軽く考えていると知らない間に追いつめられる。コチラから常に攻撃を続けなければならないんだ。
 アイツは玖音の時のように同情の余地が有る訳でも無い。龍閃と同じただの狂人だ。凶気を露骨に晒しているか、内に隠しているかだけの差しかない。
 そう、龍閃と同じだ。
 龍閃は未琴の仇。そして魎は久里子の仇。
 龍閃と同じように、憎しみを叩き付けて殺してしまえば良いんだ。だが――
(朋華……)
 龍閃を殺した時と今との決定的な違い。
 ソレは護るべき女性が居る事。未琴の死を乗り越え、また心の底から愛せる女性が出来た事。
 朋華は自分に誰も殺して欲しくないと思っている。そして自分もソレを受け入れ、守り通してきた。愚直なまでに遵守してきた。けど、もう――
「お兄ちゃんっ」
「何だよ! っせーな!」
 麻緒に考え事を中断され、冬摩は不機嫌そうに声を荒げて返した。
「コレ、取り合えず何とかしないと」
 魎の『分身』の死体を見下ろしながら、麻緒は指さして言う。
「このまま『餓鬼王』に喰わせる? それとも『鬼蜘蛛』? 何だったらボクがミイラにしてあげてもいいけど。『都内で謎のミイラ二つ目!』なんてねー。しかも同じ顔だったら超スクープだよねー」
 そして明るい声で続けた。まるで珍しい生き物でも見つけた、無邪気な子供のように。
「なぁ、麻緒……」
 死体を見て動じるどころか逆に上機嫌になる麻緒を見て、冬摩は殆ど無意識に声を掛けていた。
「ん? 何?」
「お前、いつからだ?」
 押し殺したような、低く掠れた言葉。ソレはかつて、自分が朋華に掛けられた言葉。

『荒神さんはいつからなんですか』

「いつからって……何が?」
「いつからそんな風に、殺しても、死んでる奴見ても、平気になったんだ……?」

『いつから、そんな風になったんですか』

「えっハェ? 面白い事聞くねー、お兄ちゃん。そんなの最初っからじゃん」

『生まれた時からに決まってんだろーが』

「だってボク、お兄ちゃんから盗んだんだよ? このスタイル。まぁ確かに、今のお兄ちゃんのやり方とは全然違うってのは分かるよ? 久里子お姉ちゃんから色々聞いてたから。まー、お兄ちゃんを尊敬する身としては、ボクも同じようにそーゆー強さってのを身に付けてみたかったんだけどヤッパ無理でさー。うん、一時期は頑張ってみたのよ。けど結局、ココが落ち着くってのがよく分かった。こうやって何も考えずに命のやり取りしてる時が一番楽しいよ」
 両手を組んで頭の後ろに回し、麻緒は小さな胸を張って笑顔で言った。
 この一部だけ切り取って見れば、ソレは純心で無垢な生まれたての赤子のような笑み。しかし、その裏にあるのは酷薄な悪魔の冷笑。命という物をまるで玩具のように扱う道化師。そしてそこには自分の命も含まれている。
 だが、冬摩には麻緒の気持ちも分かった。
 ほんの三年前までは、今の麻緒と全く同じ考え方をしていたのだ。
 気に入らない物は片っ端から壊し、潰し、殺していった。そんな自分の姿を当たり前だと思いながら、麻緒は多感な時期を過ごした。その結果、幼さ故の残虐性を持った、九重麻緒という人格が形成されたのだ。
 だから自分に麻緒の考え方や行動を否定する権利など無い。麻緒をこうしてしまったのは自分の責任であり、麻緒は昔の自分その物なのだ。
 そして今、自分はまた昔の自分に戻ろうとしている。残虐非道で、人の死を何とも思わない男になろうとしている。なら――
「じゃあ……久里子が魎に殺されたってなったら、どうだ。お前はどう思う。お前ならどうする」
「えっ? ソレ本当なの……?」
 久里子の名前を出され、僅かに動揺の色を見せる麻緒に冬摩は頷く。
「そっかー、殺されちゃったのかー……あのオジサンに。じゃあもう会えないんだー」
 俯きながら発する、どこか他人事のような言葉。
「でもしょうがないよねー。人間いつか死ぬんだしさー」
 そして完全に開き直った台詞。
「ソレ、だけか……?」
 冬摩は思わず驚いた表情で聞いた。
「ソレだけって?」
「魎に復讐したいとか、その……ブッ殺したいとか。そういう気持ちは……」
「ブッ殺すよ。うん。ブッ殺す事はブッ殺す。だってボクに喧嘩売ってきたんだモン。お兄ちゃんのソックリさんと一緒にブッ殺すよ。でも復讐とかってのは別に無いかなー。だって良い感じじゃん。面白くなってきたじゃん。このままあのオジサンが色々と引っ掻き回してくれれば、ボク退屈しなくて済みそうだよ。だからブッ殺すのはソレに飽きてからだね」
 革手袋をした右手の指で鼻の頭を擦りながら、麻緒は殺意も憎悪もまるで感じさせず、あっけらかんとした表情で答えた。
 ――違う。
 どこか、違う。
 麻緒は三年前の自分とはどこか違っている。
 それとも、今だからそう思うだけなのか? あの時の自分は久里子の死くらい鼻で笑い飛ばし、知らぬ顔を決め込んでいたのだろうか。やはりソレが昔の自分なのか。
 分からない。今となってしまってはもう分からない。
 だが、一つだけハッキリしている事がある。
(麻緒は間違ってる……)
 口に出して否定する事は出来ないが、そこだけは揺らぐ事なく言い切れる。
 なら、自分はこれからそんな間違った奴になろうとしているのか? 誤りだと明確に感じているのに、このまま、自分は――
(朋華……)
 答えの出ない思考の渦に陥り掛けて、冬摩の頭にその名前が浮かんだ。
(そうだ)
 朋華に聞けばいい。何が正しいのか。どうすれば納得できるのか。
 かつて、まだ魎や紫蓬達と一緒に戦っていた時も、同じような壁に突き当たった事があった。しかし誰にも聞く事が出来ず、ただひたすら自分の中で掻き回して、不透明で一時的な答えを出して来た。
 だがあの時とは違う。
 今は自分の全てを掛けられる女性が居る。自分の道標となってくれる存在が居る。
 朋華が正しいと思う事なら、安心して身を委ねる事が出来る。絶対に後悔しない自信がある。
(だが……)
 直接会う訳にはいかない。魎の狙いは自分だ。ソレに巻き込む訳には行かない。なら――
(携帯……)
 朋華は携帯電話を持っている。ソレを使えば離れていても会話できる。顔を見ながら話せないのが辛いところだが、この際そんな贅沢は言ってられない。そして彼女の十一桁のナンバーはちゃんと覚えている。
 後は……。
「麻緒、お前携帯持ってないか?」
「携帯? え? 何で?」
「いいから。あるならよこせよ」
「ったく。ホントにー。いっつも話に脈絡ないんだから。でも無いよ。持ってたけど昨日壊れちゃった。お兄ちゃんとバトってる時にね」
「ち……」
 自分と同じか。せっかく朋華が持たせてくれた大切な物なのに……。
 しょうがない。公衆電話を探すしかない。小銭は……現地調達で良いだろ。
「で、麻緒。お前これからどうすんだよ」
 冬摩は鬱陶しそうな視線を麻緒に向けて言い、
「お兄ちゃんに付いてくー」
 予想通りの返答が来た。 
「トラブルが向こうからオミヤゲ持って来てくれそうな感じビンビンするからねー」
「学校行けよ、テメーはよ……」
「お兄ちゃんもね」
 クソ……言うと思ったぜ。
 ……まぁいい。麻緒なら自分の身は自分で守れるだろうし、守って欲しいとも思わないだろう。足手まといにはならないはず。
「じゃあまずは公衆電話探しからだ」
「えいえいおー」
 満面の笑みを浮かべて勝ちどきを上げる麻緒を後目に見ながら、冬摩はどこか苦しげに息を吐く。そして一度大きく深呼吸をした後、魎の『分身』を『餓鬼王』に喰わせた。
(ったく……)
 続けて、具現化させていた使役神を体に戻して、
「ん……?」
 つぶらな巨眼と目があった。
「何やってんだよテメーはよー」
 戻ろうとしない『獄閻』を睨み付けながら、冬摩は面倒臭そうに長い後ろ髪をいじる。
「とっととしろよ」
 今は少しでも早く朋華と話したいのに。彼女の意見を聞きたいというのに。
「オイ」
 が、何度戻りの命令を送ってもビクともしない『獄閻』に、冬摩は苛立たしげな声を上げて睨み付けた。
 一抱えもある巨大な目玉の化け物は、何も言わずにただ宙に浮かんでいるだけ。そして周りにまとわりつかせた黒いモヤが、時折消えたり現れたりを繰り返している。何かを訴え掛けようとしているようなのだが、さっぱり分からない。
「何なんだよ! 言いたい事あんならハッキリ言えよ!」
「……お兄ちゃん。ソレは無茶というものだよ」
 分かっている。そんな事わざわざ言われなくても分かっている。だが叫ばずにはいられない。人がこんなにも急いでいるというのに。
「チッ」
 舌打ちし、いっそこの場に置き去りにしてやろうかと思った時、『獄閻』の色が上の方から徐々に黒く染まり始めた。ソレはまるで、眠そうに瞼を下ろしているかのようにも見える。
「何だぁ?」
「調子悪いみたいだね、彼……って性別は知らないけど」
 『獄閻』は眼の半分以上を黒く染めると、地面にゆっくりと下り、フラフラと体を揺らし始めた。何となく起き上がり人形が一人で遊んでいるようにも見える。
「病気なんじゃないの?」
「病気ぃ? コイツらがそんなモンになる訳――」
 ソコまで言って、冬摩は言葉を止めた。
 いや。待て。あるぞ。使役神が病気になった事が過去に一度だけ。
 確か二年前。『死神』の元気が途端に無くなって、玖音の祖母である阿樹に応急処置をして貰った事があった。あの時の『死神』は重い病にでもかかったようで、そして自分の体に戻る事が出来なかった。
 術を施したのは玖音。理由は『死神』の『復元』を封じるため
 名前はエンバクなんとかという怨行術だったはず。なら、今回は『獄閻』が……?
「魎の野郎……」
 また厄介な術を……。これで自分から盾を奪ったという訳か。
「麻緒。お前背負え」
「えー? やだよー。こんな重そうなの。ソレに不気味だし気持ち悪いしヌメリそうだし」
 心底嫌そうな顔で言う麻緒に、『獄閻』の体に占める黒い面積が一気に増した。
 ひょっとしてショックを受けているのだろうか……。
「ったくよー……」
 あー、と低く呻りながら、冬摩は左手で『獄閻』を持ち上げて肩に担ぐ。
「行くぞ」
 そして短く言うと、冬摩は破壊された公園を後にした。

◆もう一人の冬摩 ―真田玖音―◆
 冬摩によく似たこの男が麻緒を連れ去らなかった理由。
 テレビに取り上げられるような派手な事をした理由。
 デメリットしかないと思っていた。自分に麻緒の居場所を知らせるだけの愚行だと思っていた。
 だが違う。そうでない。
 逆だ。
 あえて麻緒の位置を知らせる事でコチラの行動を読み易くしたんだ。麻緒に関する手掛かりがあれば必ずソコに探しに来る。冬摩の暴走は向こうにも筒抜けだろうから、自分と朋華が一緒に来る事まではすぐに分かる。
 そして予想通り来たところを待ち伏せた。朋華を連れ去るために。
 つまり――
「随分と舐められたモンだな」
 玖音は低い声で言い、目の前で挑発的に口の端を吊り上げている男を睨み付ける。
「お前一人で何とかなるとでも?」
 伸ばした右腕と一体化するように夜叉鴉を構え、半身引いて左手に『朱雀』の力を込めた。
「別にテメーにゃ用事はねーよ。朋華、悪かったな。昨日はいきなり出て行っちまってよ。会いたかった」
 男は玖音と目を合わせる事すらせずに言って、朋華に手を伸ばす。
 もう少しだ。あともう五センチ近寄れ。そうすれば夜叉鴉の剣域に入る。一瞬で切り刻む事が出来る。
「……誰、ですか、貴方。馴れ馴れしく呼ばないで」
 隣りで朋華が一歩身を引き、警戒心も露わに言った。
「おいおぃ、朋華……。俺、何か気に障る事でもしちまったか?」
「下手な芝居は止めた方が良いですよ。滑稽なだけですから。いくら外見がソックリでも私が冬摩さんを見間違えるはず無いでしょう」
 そして声に怒りを乗せ、強気な口調で言い放つ。
 さすがは荒神冬摩の愛した女性。さっきまでとは別人のように攻撃的だ。どうやらコチラも戦う気は満々らしいな。困った物だ。
 玖音は苦笑しながら、音も無く足を前に出す。少しずつ。滑らせるように。
「やれやれ。こりゃ参ったな。とっくにお見通しって訳か。あのガキは簡単に引っかかったのによ。せっかく兄者と同じ服まで探して来たってのに台無しだ」
 男はうなじの辺りで纏めた長い黒髪を触りながら、嘆息して肩をすくめた。そして窓枠の上に立ち、玖音が詰めた距離だけ間を空ける。髑髏の刺繍された紅いシャツの中から狼を象ったシルバーアクセサリーを取り出し、ジーンズのポケットに手を入れて面白がるような笑みを浮かべた。
 『兄者』、だと……?
「冬摩さんの、弟……?」
 そんなはずはない。冬摩に兄弟など居るはずがない。
 冬摩を生んだ紗羅という女性は二人目を身籠もってはいたが、産声を上げる前に母親もろとも龍閃に殺されたんだ。
「別に信じる信じないはテメーらの勝手だけどよ。ま、相手があの水鏡魎とあっちゃあ、胡散臭さを感じない方が嘘だけどな」
 クック、と喉を震わせて低く笑いながら、男は片眉を上げて見せた。
「陣迂」
 そして短く言う。
「俺の名前だ。名付け親は魎。ついでに育ての親も魎。なもんであのスカし野郎にはちったぁ恩義があってね。アイツの命令通り、こうして仁科朋華を連れ去りに来たって訳だ」
 陣迂と名乗った男は好戦的な笑みを浮かべて楽しそうに続けた。
「荒神冬摩と違って良く喋るじゃないか。あまり口が軽いと父親に怒られるんじゃないのか?」
「バレなきゃいいのさ。それに俺はコソコソすんのが嫌いでね。魎といい玲寺といいどーもウマが合わねぇ」
 そういうところは冬摩ソックリだな。
「ならついでに教えて貰おうか。お前らは何人で動いてる。水鏡魎と篠岡玲寺の他に誰か居るのか」
「三人だけだ。ま、魎の召鬼まで合わせたら何人になるか分かんねーけどな」
「嶋比良久里子は無事か」
「あの気の強い関西弁の女か? あぁ、無事だぜ。元気そのもの。飽きもせずによく喚く」
「水鏡魎の目的は何だ。龍閃の死肉を使って何をしようとしている」
「おっと、そこからの情報は有料だぜ。仁科朋華と交換だ」
 まぁ、そう簡単に行くとは思ってないさ……。
「――って、言いたいところだが俺は知らねぇ。興味もねぇ。魎の野郎のしたい事なんざどーでもいい。俺の目的は一つ。兄者とサシでやり合う事。難しい事情なんざ放っておいてな」
「やればいいじゃないか。アイツも歓迎してくれるだろうさ。すぐに叩きのめされるだろうがな」
「残念ながら話はそう簡単じゃなくてね。ある程度は魎の奴に従っておかないとな。育ててくれた恩義もそうだが、俺の命はアイツが握ってるんでね」
「つまりお前はアイツの怨行術で生み出された人形って訳か」
「どうだかな」
 コチラのカマ掛けに全く動じる事なく薄ら笑いで返す陣迂。その不敵な表情からは何も読み取れない。
 どれだけ追及されてもボロを出さない自信があるのか、探られても痛くない腹なのか、それとも何も考えていないのか。コイツの性格が冬摩と同じなら、一番最後なのだろうが……。
「だが向こうから突っかかってくるなら話は別だ。だから今度兄者に会ったら言っといてくれよ。まず最初に陣迂を潰せってな」
「なら分かり易いように鈴でも付けとくんだな」
「魎にバレずに兄者にだけ分かる便利な鈴が有るなら、すぐにでも欲しいモンだな」
 真意が見えない。本気で言っているのか? 本気で冬摩と戦いたいだけなのか? それとも裏に何か打算が有る?  コチラが冬摩と合流した方が都合が良いのか? あるいは陣迂についての情報を流す事で、冬摩しか知らない何かを惹起させるのが目的?
「ま、そんな訳だ。今回は初っぱなから調子狂っちまったからコレで退散させて貰うぜ。自分の男のために勇気振り絞ったジブいお嬢ちゃんも居る事だしな」
 夏那美の方に一瞬だけ視線を向け、陣迂は別れの合図でも送るかのように軽く手を上げた。
 ……まぁいい。そんなに深く考える必要などないさ。もっと分かり易い方法がある。
「じゃあな。兄者にヨロシク言っといてくれ」
「逃げられると思っているのか?」
 玖音は針先のように眼を細め、陣迂が僅かに気を緩めた一瞬の間に半歩踏み出す。
 剣域に入った。『瞬足』で一気に陣迂の喉笛を掻き斬れる。
「戦意の無い敵は見逃すモンだぜ」
「面倒事が一つ片付くのを、みすみす逃すほど間抜けじゃない。それに――」
「それに?」
 舐められたまま帰すつもりもない。
「お前にはまだ色々と聞きたい事がある」
「言うとでも?」
「喋る必要はないさ」
 『月詠』の『精神干渉』で強制的に内面を晒せばいいだけの事。
 玲寺の時も最初の不意打ちさえ無ければ逃がすようなヘマはしなかった。コレはあの時の汚名を返上するために与えられた機会だ。
「好戦的だな。兄者の影響か?」
「かもな」
「やめとけよ。三匹も持ってるからって所詮は人間。魔人とじゃ根本的に躯の構造が違うんだからよ」
「あの作り話を信じろと?」
 言い終えて玖音は大きく開眼し、抑えていた闘気を剥き出しにした。夏那美が小さく悲鳴を上げるのが聞こえる。皮膚が切れる程に張りつめた空気。呼吸さえ忘れる程の重苦しい雰囲気。
 ついさっきまで日常の一部でしかなかった空間が、一瞬にして鮮血と死が行き交う戦場と化した。
「どーあってもヤルつもりか。しゃーねぇ」
 しかし陣迂は玖音の放つ鋭利な空気を涼しげに受け流し、この状況を楽しむかのように口元を歪める。
「けどまさか、こんな狭いトコでヤルつもりじゃねぇだろ? 表に出ようぜ」
 玖音は何も返さない。
 夜叉鴉の先を陣迂の喉に向けたまま、細く息を吐く。
「お、おぃおぃ……。お嬢ちゃんや兄者の女に当たったらどうすんだよ。イテーなこの野郎じゃすまねーぞ」
 初めて動揺らしい動揺を見せた陣迂に、玖音はどこか冷たい笑みを浮かべた。
 大丈夫。今なら大丈夫だ。
 他は全く傷付けないまま、陣迂の喉笛だけを抉れる。まばたき一回する間に全てが終わる。ソレが出来る域に集中力が達した。
 最初は僅かに不安があった。夏那美や朋華を傷付けてしまう可能性が、万が一にも残っていた。だから斬り掛かれなかった。だから時間稼ぎをして、その間ずっと集中力を高め続けた。
 今はもう、夜叉鴉は自分の腕その物だ。刀身に当たる微弱な風の流れさえ感じ取れる。
 ソレだけじゃない。陣迂の体を取り囲む闘意、筋肉の躍動、眼球の動き、呼吸の強弱、鼓動の変化。
 もっと集中力を高めれば、『月詠』に頼らずとも心の中を覗けそうだ。
 だから、今なら――
「さ、真――田さ――ん――……!」
 後ろから聞こえる朋華の間延びした声。
 体を前傾させ、支えた脚に全体重を乗せて床を強く蹴る。分厚い空気の層へと身を滑らせ、夜叉鴉を真っ直ぐに突き出した。
 驚いた表情のまま固まり、視界の中で徐々に大きくなっていく陣迂。ソレはあまりにも緩慢で、あまりにも重い時の流れ。まるでスロー再生されている自分の姿を、どこか遠くから見ているようで――
「ダ――メ……!」
 だが意識だけは寒気を覚えるくらい鮮明で、全く追い付いて来ない体を強引に突き動かして――
「で――」
 陣迂が息を呑み――夜叉鴉が大気を裂いて急迫し――
「――す……!」
 呑み込んだ息が吐き出されて――刀の切っ先が喉の肉へと――
「な――」
 声が漏れた。
 自分の口から。
 手応えが無い。確かにコンマ数秒前、陣迂の首へと吸い込まれていったはずの夜叉鴉に何の感触も伝わって来ない。避けた気配など無かった。現に今でも――
「病室じゃもっと大人しくしねぇとなぁ」
 真横から声がした。
 脳天から爪先までを一気に貫く壮絶な悪寒。時の流れは死への直感と共に蘇り、玖音は眼だけを横に向けて――
「ぐ……ぁ!」
 腹部に掛かる強い衝撃。辛うじて間に入れた夜叉鴉で受け止めたはずなのに、内臓がけたたましい悲鳴を上げている。
 そして、体が何も無い中空を舞った。続けて全身を襲う無重力感。
 病室の外に叩き出されたのだと理解した時には、陣迂の姿がかなり近くまで迫っていた。
「さすがは魔人の血ぃ引いてるだけの事はある! やるじゃねぇか!」
 嬉しそうに叫びながら、陣迂は右の拳撃を突き出す。しかしまだ届く距離ではな――
「が……!」
 顎先を跳ね上げられ、玖音は大きく身を仰け反らせた。
(馬鹿な……!)
 拳の射程距離まで一メートルはあったはずだ。なのに、どうして……!
『玖音! 上です!』
 『月詠』の声で玖音は反射的に夜叉鴉を構える。太陽を背中で受け、逆光に黒く染まった陣迂のシルエットが降下して来ていた。
 今、正面に居たはずなのにどうやって上に。使役神を具現化して足場に? だが召来の気配などまるで……!
「ッハア!」
 奇声を上げ、重力加速度に乗せて拳撃を打ち下ろしてくる陣迂。
「使役式神『朱雀』宿来!」
 玖音はソレに合わせるように、『朱雀』を宿した夜叉鴉を音速の太刀で振るって――
「な……!?」
 また信じられない事が起きた。
 タイミングは完璧だったはずだ。完璧に弾き返せるはずだった。陣迂の拳を。夜叉鴉の刀身で。なのにどうして、
「――ッ!」
 声も上げられない程に深く、自分の鳩尾に拳が食い込んでいる?
 幻覚? 『紅蓮』の『幻影』? だが『紅蓮』は魎が……。それに、あの光った空気は何だ。陣迂の後ろで輝いている空気は……。アレも幻覚なのか……? 奴の力の発生点は何だ。力の作用点はどこなんだ。冬摩と同じなのか……? なら、『右腕』が……。
「くっ……」
 数多の思考が渦巻く中、玖音は何とか着地する。そして脚に力を掛けて、すぐに立ち上がろうとして、
「ぁ……」
 小さく呻いてその場に尻餅を付いた。
(なん、だ……)
 揺れている。目の前の景色が揺れている。いや、波打っている。
 平衡感覚がまるで無い。体を真っ直ぐに支える事すら出来ない。
 さっき顎先を打ち抜かれた。なら脳震盪を起こした? いや、ソレだけで片付けられるような軽い症状ではない。あの時、陣迂が使ったのは確か右拳。ならやはり、力の作用点は『右腕』か……。
 コレが陣迂の力……? 一体何なんだ。脳髄の麻痺か? 思考能力の低下か? だが、そんな使役神鬼……。
「あの一瞬で反撃とはな。恐れ入ったよ」
 陣迂の声が聞こえてくる。
 前? いや、右斜め前か……? 距離感が無い。本当にそこに居るのかどうかすら自信が無い。体が言う事を聞かない。まるで重度の泥酔者のように……。
「コレが『朱雀』か。おもしれぇ」
 四方八方から陣迂の声が聞こえてくる。
 駄目だ。完全に頭がおかしくなっている。このままでは……。
 何とかしなければ。さっき拳を腹に受けた時、夜叉鴉の側刃を何枚か入れたが傷と呼ぶには程遠い。ならあの手か? 篠岡玲寺との戦いで使った……。だが、この場所では……。
『無茶です、玖音……。きっともうすぐ人が来ます。今は逃げる事を考えて下さい』
 ああ、分かってる。分かってるさ。今ココで自分の顔を不特定多数に覚えられるのはまずい。警察沙汰にでもなれば何かと動きづらくなる。嶋比良久里子が居ない以上、土御門財閥の権力もあてに出来ない。だから逃げるのが最良の手なんだ。無様だがしょうがない。急いで事をし損じた自分のミスだ。やはり、相手の力を見極めないまま戦うのは少し無謀だったか……。
 だが、陣迂相手に今の体で出来るかどうか……。しかも朋華も連れて……。
(『月詠』、アイツの位置が分かるか……?)
『駄目です。朧で……』
 体に宿した使役神の視覚は保持者の物と基本的に共有。やはり、自分に見えない物は『月詠』にも見えないか……。久里子の『天空』なら話は別なんだろうが。
(どうする……)
 いや、選択肢など最初から無い。
 やはりアレしかない。幸い、駐車スペースが広いおかげで、今のところ近くに人は居ない。
 なら――
「使役神鬼『月詠』……!」
「――ぁぁぁぁぁあああああああああ!」
 覚悟を決め、夜叉鴉に宿来させようとした時、頭上から声が振って来た。
 この声は、仁科朋華……!? アイツ……!
「最近の女はみんなこうなのか?」
 面白がるような陣迂の声。そして鈍い音。
 異様に歪んだ視界の中、朋華と脚と陣迂の腕が交差するのが辛うじて見えた。
「真田さん! 早く逃げて!」
 朋華の叫声。そして連続的に聞こえる重く低い打撃音。
 逃げる……?
 自分が守ると言った女性が目の前で戦っているというのに、逆に庇われて逃げる、だと……?
「ハッ……」
 危ない薄ら笑いを浮かべ、玖音は体をふらつかせながらも立ち上がった。
「……ふざけるなよ」
 そして口が勝手に言葉を紡ぐ。
 ふざけるな……ふざケルナ……フザケルナ……。
 頭の中で何度も響き渡る同じフレーズ。そのたびに、体の奥底から沸き上がってくる灼熱の血流が速さを増していった。
「フザケルナ!」
 一際大きな絶叫を上げ、玖音は夜叉鴉を握り締めて跳躍する。そして次に見たのは、無防備に晒された陣迂の背中だった。
「な――」
 狼狽した陣迂の声。茫漠としていた視界がいつの間にか鮮明なモノへと急変していた。
「シッ……!」
 短く鋭く息を吐き、玖音は夜叉鴉を袈裟切りに振り下ろす。
 ――女を突き飛ばして前に……!
 鼓膜の奥で直接聞こえる“声”。玖音は振り下ろしの軌道を途中で止め、前のめりに離れていく陣迂の首筋を狙って夜叉鴉を突き出した。
 重い手応え。舞い散る鮮血。
 陣迂の首を半分以上貫いたところで、玖音は夜叉鴉の側刃を――
「チ……!」
(彼女に当たるか……!)
 舌打ちして刃を寝かせ、真横に引き抜いた。円弧状の血痕がアスファルトに刻まれる。後ろへと流れた刀身の動きに連動させ、玖音は体を前に出して陣迂との距離を詰めた。
 ――上に飛んで宙で左に。
 また聞こえる陣迂の内なる“声”。
 着地点に先回りし、玖音は夜叉鴉を下から振り上げる。陣迂は“声”の通りに空中で左へと方向を変え、夜叉鴉の冷たい輝きに吸い込まれるようにして――
「な……!」
 刃は空を切った。
「オラァ!」
 そして頬を襲う激烈な衝撃。
 殴り飛ばされ、地面に全身を打ち付け、車のフロントガラスをぶつかって玖音はようやく勢いを止めた。
 何なんだ……アイツの力は……。『月詠』の『精神干渉』に穴は無いはず。なのに、どうして……。
「そういやテメーの力の発生点、『怒り』だったっけか。手で触れなくても心を読めるし、『瞬足』は『空間跳躍』に早変わり。こりゃあちょっと手強いな」
 首から勢いよく溢れ出す鮮血を押さえて止めながら、陣迂は余裕のある笑みを浮かべた。
 コチラの力はすでに向こうに筒抜け。だが相手の情報は何一つとして無い。圧倒的に不利だ。しかし、一つだけ大きな発見をした。
(荒神冬摩の影響というのは、あながち嘘じゃないかもな……)
 苦笑しながら玖音は身を起こし、頬の傷を乱暴に拭って口腔に溜まった血を吐き出す。
 そう簡単には感情的にならない自信があったが、どうやらソレは思い違いだったらしい。玲寺と戦った時から薄々は感じていたが、自分で考えているよりずっと短絡的になってしまったようだ。
(刹那主義、か……)
 冷静に戦況を見極める力は以前より劣ってしまったかも知れない。だが、今はそれでいい。ムキになって『怒り』を感じれば、目に見えて力が増す。
 不確定な読みよりもずっと分かり易い物理的な力が。
 玖音は地面へと脚を下ろし、夜叉鴉を逆手に握り込んで重心を低くした。
 予想よりダメージがある。荒神冬摩と同じく、一発一発がとてつもなく重い。特にさっきの拳撃は。『瞬足』をあと一度使えるかどうかと言ったところか。
「もういつサツが来てもおかしくない。ここらが潮時だと思うぜ? テメーも女抱えたままじゃ思いきり戦えないだろ?」
「逃がしはしない。そう言ったはずだが」
「逃げはしないさ。またすぐに戦う事になる」
「初対面の奴の言葉は信用しない事にしてるんだ」
「そういう顔してる」
 だがダメージがあるのは相手も同じ事。しかしもし本当に陣迂が魔人なら、戦いが長引けば長引く程不利だ。体力と回復力が人間のソレとは比べ物にならない。かつて冬摩と戦った時も、最後に物を言ったのはその部分だった。二度も同じ轍は踏まない。
 次の一刀で決める。
 だから相手の位置を冷静に見極めるんだ。もし外せば、死ぬ――
「全力を出し切るって顔してるな。いい目だ。出来れば俺も受けてやりたいんだが、テメーはその前にやる事があるんじゃねーのか?」
 口元を緩めて言いながら、陣迂はコチラの背後を見上げる。
 今更何を下らない事を。そんな戯れ言で集中力が乱れるとでも思っているのか。
「あー、そうそう。お前らが探してる九重麻緒って奴は今、兄者と一緒に居る。連絡が付くなら取って見ろよ」
 適当な嘘を。コイツ……時間稼ぎでもしているのか? 首の傷が癒えるまでの場繋ぎ? そう言えば水鏡魎が育ての親だとか言っていたな。なるほど。確かに似ている部分はある。関係のない事をして本筋から目を逸らす、か。もっとも、本家には遠く及ばないだろうが。
「ほら、後ろ見てみろよ?」
 全く、いい加減しつこ――
「真田さん!」
 後ろから悲鳴混じりの朋華の声が上がる。
 だが動かない。陣迂から目を逸らす事なく夜叉鴉を構えたまま……。
「お、おい。間に合わねーぞ!」
 朋華がアスファルトを蹴る音。動揺した陣迂の声、激しく動く視線。
 何だコレは。演技じゃないのか。後ろで一体何が……!
「ち……!」
 玖音は顔をしかめて舌打ちし、陣迂から距離を取ったところで振り向く。
 華奢で小さな少女の体が、病院の壁に沿って落下していた。
「な……!」
 何をしてるんだアイツは!
 感情と共に玖音は膝のバネを爆発させる。一瞬にして『瞬足』に乗り、玖音は夜叉鴉を投げ捨ててアスファルトの上を疾駆した。爪先が連続的に地面を叩き、体が浮かんで見える程の速さで夏那美の真下へと到達する。そして両腕を前に伸ばした時、タイミングを見計らったかのように夏那美が腕の中へと吸い込まれた。 
 半呼吸ほど遅れて、病院の壁を走り下りて来た『羅刹』と目が合う。自分と同じく、夏那美を助けようとしたのだろう。
 すぐに『羅刹』から目を逸らして後ろを振り向く。しかし陣迂の姿はドコにも無かった。
(逃げられた……)
 悔しそうに顔をしかめ、玖音は夏那美を地面に下ろす。そして脳天に抜ける脱力感。
 夏那美の隣りで片膝を付き、玖音は荒く呼吸しながら目を瞑った。
(助かった、の間違いか……)
 敵が居なくなって緊張感が抜けたせいというのもある。しかし、体の方がもう限界だった。
 理解しがたい陣迂の動き。まるで本当に幻影でも追い掛けているような……。
「だ、大丈夫ですか!? 二人とも!?」
 少し遅れて朋華が駆け寄ってくる。
「僕は大丈夫だ。コッチは気絶してるみたいだがな」
 何とか体を立たせ、玖音は呼吸を無理矢理整えて平静を繕った。最後の意地というヤツだ。
「まぁ、あんな所から飛び降りれば……」
 朋華と一緒に、窓の開け放たれた八階の病室を見上げる。ソコから『死神』が飛んで来るのが見えた。
「おー、大丈夫じゃったか。全く、とんでもないジャジャ馬娘が居たもんじゃな」
「何をしていたんだ、お前らは」
「知るか。気付いた時には真っ逆様じゃ」
 柳眉を僅かに伏せ、どこからか取りだした扇子で口元を隠しながら『死神』は不満そうに返す。
 全く……本当に何を考えているんだ。コイツは……。
 静かに胸元を上下させている夏那美を見下ろしながら、玖音は深く嘆息した。
(これからどうする……)
 九重麻緒の行方を追うつもりだったのに、妙な奴が釣れてしまった。
 冬摩の事を兄者と呼ぶ陣迂。あの強さ、タフさ……本当に魔人なのか? 水鏡魎が自分で育てた手駒の一つ? アイツの能力は……。もし仮に、宗崎、白原、繭森の保持者の誰かを、いや、全員を殺して使役神を奪っていたとすれば……。
 ――と、玖音の思考を中断して、朋華の携帯が着信音を告げた。
「あ、ゴメンナサイ」
 プリーツスカートのポケットからソレを取り出し、ボタンを押して耳元に当てる。
「はい、もしもし……」
 アイツの目的は朋華を連れ去る事だった。ソレはいい。ソレ自体は何ら驚く事ではない。冬摩の動きを制限するために朋華を人質として使う。極めて合理的で効率的な手法だ。
 しかし、本当の目的は冬摩と一対一で戦う事。本当なのか? 本当にそう考えているのか? コチラの判断を見誤らせる虚言ではなくて? いや、誤認させたいのならもう少しましな嘘を付くか。仮にもあの水鏡魎の命令で動いているのだから。
 ならば本音? 見たところ、陣迂は魎の傘下に居る事は居るが、完全に服従という感じではなかった。むしろ隙あらばいつでも抜け出すといったような雰囲気さえ匂わせていた。なら、扱いようによっては逆に……。
「え? あ! と、冬摩さん!?」
 朋華の声に玖音は頭を上げ、彼女の方を見た。
 冬摩、だと……? いや、実は陣迂だという可能性も有る。アイツは声も全く同じだった。
 ……まぁ、その点に関して仁科朋華が間違えるはずもないか。
「相談したい事、ですか? ……え? 今? 電話で?」
 相談、ね……。しかも電話で。まぁ、自分が囮だと思い込んでいる以上、彼女には近付けないか。
「嶋比良さん……。あ、でもソレはまだ決まった事じゃなくて……。ええ、はい……。私も、知ってます。水鏡魎という人がどんな人なのか……」
 早速何かあったな。上手くすれば水鏡魎と接触したか。
 そうだな……なら一度……。
 顔に手を当てて考え込む玖音の耳に、遠くからサイレン音が聞こえた。
(考える時間も選択の余地も無し、か……)
 苦笑して玖音は息を吐き、朋華の携帯を横から取り上げる。
「え? あ、ちょ……」
「真田玖音だ。今、仁科朋華が水鏡魎の手駒に連れ去られそうになった。辛うじて無事だったが傷を負った。かなりの重傷だ。今から一時間後くらいにお前の部屋で落ち合おう。じゃあな」
 一方的にそう伝えると玖音は携帯を電源ごと切ってしまった。
「あの、真田さん……」
「そういう話は顔を突き合わせてした方が早い。僕も荒神冬摩に聞きたい事がある。祖母の所に行くのはその後だ。取り合えず戻るぞ」
「私、傷なんて一つも……」
「アイツに時間を守らせるのに最も効果的な言葉を使っただけだ」
 まぁそんな事しなくとも、朋華が自分と一緒に居るという事からしてアイツには我慢できない事だろうが。どうやらかなりのヤキモチ妬きらしいからな。
 昨日のカフェテリアでの出来事を思い出して、玖音は微笑した。
「車は捨てて行く。走れるな」
「え、えぇ……。真田さんの方こそ」
「僕は大丈夫だ。走るくらいは問題ない」
 多分な。
 放り捨てた夜叉鴉を拾い上げながら、玖音は胸中で付け加える。敵に見つかってしまった以上、目立つ目立たないは関係ない。
 出来れば自分の顔を見た奴等の記憶を『精神干渉』で書き換えたかったが、そんな時間は無さそうだ。この先多少動きづらくなるかも知れないがしょうがない。なるべく早く嶋比良久里子を助け出して、土御門財閥に動いて貰うさ。
「で、コレはどうするつもりじゃ。同じように捨てていくのか?」
 『死神』が夏那美の上で浮かびながら、物でも扱うように聞いてきた。
「ああ――」
 言いかけて玖音は言葉を呑み込む。
 九重麻緒の知り合いらしいが所詮は一般人だ。こんな危険な事に巻き込みたくはない。
 しかし彼女の場合、放って置く方がもっと危険かも知れない。突然八階から飛び降りた発作的な行動もそうだが、陣迂とは少なくとも一度顔を合わせた事があるようだ。しかも麻緒と一緒の時に。
 なら、向こうに目を付けられていてもおかしくない。
 例えば、冬摩に対して朋華を人質に取ろうとしているように、麻緒に対して夏那美を使おうとする可能性もある。
(一応、“自称”彼女らしいからな)
 玖音は夏那美を抱きかかえながら小さく笑みを浮かべた。
 だが、もしそういう事を画策しているとすれば、自分に対しては……。
(いや……)
 よそう。嫌な事を考えるのは。現実になってしまう。
 美柚梨は絶対に巻き込まない。ソレはもう決めた事だ。だから万が一にもそんな事、あってはならないんだ。
「戻ろう」
 低い声で言って、玖音は走り出した。
「え? そ、その子、連れてっちゃうんですか? 大丈夫なんですか?」
 どもりながら言ってくる朋華を無視して玖音は脚に力を込める。
 何故だ。何故こんなにも胸騒ぎがする。どうしてこんなに嫌な予感がするんだ。
 気のせいだ。単なる思い過ごしだ。『月詠』も言っていたではないか。自分は何でもかんでも一人で背負い過ぎだと。きっとまたその悪い癖が出ているんだ。過剰に心配しているだけなんだ。
 なぁそうだろう? 『月詠』。
 頼むから、何か言ってくれ……。





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2008 飛乃剣弥 all rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system