貴方に捧げる死神の謳声 第三部 ―黄泉路からの慟哭―

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五『鬱屈と困惑』


◆招かれざる闖入者 ―荒神冬摩―◆
 気にいらねぇ……。
 自室のパイプベッドに腰掛け、冬摩は中空を壮絶な視線で睨み付けていた。
 あまりの怒気で長い黒髪がゆらゆらと揺れているようにさえ見える。デニム製のジーンズには、激しい戦いで付けられた物以外の傷が、そこかしこに散見された。
「はい上っがりー! ボックいっちばーん!」
「いや待て。お主、『ウノ』と宣言しておらんぞ」
「えー? ウソー。ちゃんと言ったよー」
「……言ってない」
「ホレ見よ。『羅刹』もこう言っておる」
 気にいらねぇ……。
「む! 『獄閻』! 今度はお主が上がりか!」
「ならコイツだって言ってないじゃないかー」
「しょーがないじゃろ。『獄閻』は喋れないんじゃから」
「なーんか納得いかないなー」
 気にいらねぇ……!
「あー、『羅刹』。そんなにカードを溜め込んではいかん。コレはそーゆーゲームではないと何度も教えておるのに」
「……虫っぽい」
「なんかこの蛍光色がコガネムシの背中みたいなんだってさー」
「ううむ。理解できんな……」
 気にいらねぇ!
「いかん『獄閻』! ばりやー展開じゃ!」
「システム・オールグリーン!」
「……ダンゴムシ体勢」
「テメーら纏めてブッ飛ばす!」
 部屋の中央で形成された漆黒のドームに、冬摩は渾身の力を込めて拳を振り下ろした。手全体が熱を帯び、生じた衝撃が骨と筋肉を伝って肩まで響く。
「オラオラオラオラオラオラァ!」
「第一バリア! 被害率七十パーセント! 隊長! 持ちません!」
「焦るでない! 第二、第三ばりやー同時展開じゃ!」
「……ミノムシ体勢」
 大きく亀裂の入った『金剛盾』の内側から、同じ厚みを持った漆黒の盾が二重になってせり出してくる。ソレは表面の『金剛盾』と一体化して厚みを強化すると、ひび割れの部分を補強していった。
「っの! ガキ共があああああぁぁぁぁぁ!」
「た、隊長! 第三バリアも持ちません! このままでは!」
「うぬぬぬぬぬ! 恐るべき馬鹿力の持ち主よ! じゃぁが! コッチにはまだとっておきの秘策がある!」
「おおおおおお! 何ですかそれは!」
「『羅刹』!」
「……了解」
 冬摩の放つ拳の弾幕によって次々と砕かれていく『金剛盾』。破片が部屋中に飛び散り、漆黒の盾は局地的に薄くなり、そして黒い卵の内側に居るバカ四人組を捉えて――
「今じゃ!」
「オラァ!」
「ひぁっ……!」
 拳の先が朋華の顔の五センチ手前で止まった。
 目を瞑り、怯えた表情で体を強ばらせている朋華の後ろでは、『羅刹』が緋色の瞳をコチラに向けて様子を窺っている。そして目が合うや否や、雪のように白いニット帽を目深に被り直して朋華の背中に隠れた。
「どーじゃ! コレぞ対冬摩用最終兵器! 『仁科朋壁』!」
「完璧ッス! 『死神』隊長完璧ッス! 一生付いていきまッス!」
「わははははは! そーかそーか。うむうむ。苦しゅうないぞ、九重隊員」
 詰め襟のカラーを止め、ピシッと背筋を伸ばして敬礼する麻緒に、扇子で顔を扇ぎながら高笑いを上げる『死神』。
「このクソガキ共がー!」
 その頭にゲンコツがめり込む。
 ゴ、という低い音がして、麻緒と『死神』は脳天から煙を上げながらアッサリ轟沈した。
『ごークーえーンー』
 二重にブレて聞こえる声を口の端から垂れ流し、冬摩は拳をバキボキを鳴らしながら近付く。『獄閻』は後ずさりながら挙動不審に辺りを見回し、何か閃いたように僅かに飛び上がった。すると突然、さっき冬摩が破壊した『金剛盾』の破片が宙に浮かび上がる。
「あぁーん?」
 ソレらは冬摩の見ている前で組み合わさり、歪な形の文字を作り上げていった。
「『おちついて』……?」
 冬摩が読み上げると破片は床に落ち、また新しい破片が浮かんで別の文字を形成する。
「『はなせばわかる』……?」
 冬摩の言葉に『獄閻』は目玉を下に半回転させ、頷きのゼスチャーを見せた。そして何かを訴えかけるように、つぶらな瞳でコチラをジッと見つめて――
「テメーは口きけねーだろーが!」
 下から蹴り上げられてスーパーボールよろしく部屋中をバウンドし、最後は燃えないゴミ用のゴミ箱にはまって動かなくなった。
『さー、『羅刹』ー。後は、テメーだなー』
 猛獣の威嚇を彷彿とせる呻り声を発しながら、冬摩は『羅刹』にゆっくりと近寄る。が、『羅刹』は朋華の後ろに隠れて出てこない。
「テメー!」
 右に手を伸ばせば左側に。
「この!」
 左に手を伸ばせば右側に。
 元々、『朱雀』の『瞬足』にも匹敵するほどの速さで動き回れる『羅刹』だ。そう簡単には捕まらない。なら――
「オラァ!」
 両方からなら。
「っと……」
 が、すでに先読みしていたかのように、後ろに跳んでかわされる。しかし冬摩の勢いは止まらず、そのまま朋華の体へと――
「あ……」
 そして冬摩の中の時間が凍り付いた。
 またやってしまった……。『羅刹』の意識を刈り取るつもりが、どうして朋華の……。
 何故だ。本当に何故なんだ。
 自分はただ、何事もなく朋華と二人の時間を過ごしたいだけなのに。どうして厄介で面倒な事が向こうから大挙して押し寄せてくるんだ。『死神』と『羅刹』だけでも鬱陶しいというのに、この上『獄閻』まで。
 自分は何かに呪われているのか。何者かが朋華との間を引き裂こうとしているのか? 本当に、もういい加減に……。
「あの、冬摩、さん……」
 胸の中から聞こえる朋華の声。今度は幻聴までもか……。現実の世界で満たされないからといって、まさかアッチの世界に朋華の幻影を求めてしまうとは。いつの間にそこまで追いつめられていたんだ?
「だ、大丈夫ですか……?」
 ああ、また聞こえる。何という事だ。
「ま、まぁ『羅刹』クン達も悪気があった訳じゃないですし。きっと場を和ませようとしてくれたんですよ。ほ、ほら。冬摩さんも暴れて少しはストレス発散出来たでしょう?」
 ――いや、違う。
 幻聴がこんなにも鮮明に聞こえるなど有り得ない。じゃあコレは……!
「朋華!」
 冬摩は少し身を引き、朋華の両肩を手で掴んで彼女の顔を覗き込んだ。
「は、はい……」
 起きている。事故とは言え、抱きついてしまったのに気絶していない。ちゃんと起きて、喋っている。座った状態で後ろ手に体を支え、愛くるしい二重の瞳でコチラを見つめている。健康そうな血色の良い頬は、僅かに上気しているようにも見えた。
 治った……? ひょっとして治ったのか? あの病気が。近くに居るのに何故か遠くに離れているように錯覚してしまう悲しい病が。抱きしめると気を失うあの奇病が。
「朋華……」
 冬摩はもう一度名前を呼び、また少しずつ体を近付けて行った。
 繊細で壊れ易いガラス細工を扱うように、朋華の背中にそっと両腕を回し、胸の鼓動に動きを合わせて彼女の体を引き寄せる。
 一回脈打つごとに一センチ。二回で二センチ。四回で四センチ。
 悠久とも思える時間を掛け、三十四回目の脈動が聞こえた時、冬摩と朋華は互いの胸を合わせていた。互いの背中に手を伸ばし合い、抱き合っていた。
「…………」
 そしてそんな二人を三角座りの体勢でジッと見つめている『羅刹』。ニット帽と同じ色をした、純白のフリースの中に脚を折り畳んで入れ、何かを観察するように無音のままジッとコチラを凝視している。
 冬摩の脳裏に蘇る、温泉旅行での悪夢。
 もし今、朋華が後ろに居る『羅刹』の存在に気付いてしまったら……。せっかく、ここまで持ち直したというのにまた同じ事の繰り返しを……。
 嫌だ。そんな事、もう嫌だ……!
(『羅刹』……!)
 冬摩はあらん限りの眼力で『羅刹』を睨み、目で訴えかける。が、『羅刹』は何の反応も示さない。ただ精巧な人形のように鎮座し続け――
(『羅刹』……)
 立ち上がった。
 やはり音も無く立ち上がり、『羅刹』は玄関の方へと向かった。そして一度だけコチラを振り向き、無表情のまま顔を戻すと、扉を開けて外に出て行く。どういう仕掛けなのか、コチラも全く音が鳴らない。
(『羅刹』……有り難う……!)
 冬摩は心の中で盛大に感謝し、感涙を流し、朋華をより強く抱きしめた。
 今、この部屋で起きているのは自分と朋華だけ。そう、念願だった二人だけの時間と空間。
「朋華、愛してる」
 冬摩は感慨深く言い、朋華から少し体を離した。そして彼女の目を真っ正面から見つめ、心の中で合図する。ほんの少しだけ身を震わせる朋華。だが、拒絶はしない。彼女は一度だけ上目遣いにコチラを見た後、静かに目を閉じた。
「朋華……」
 もう一度、彼女の名前を呼ぶ。
 そして冬摩は自分の唇を、朋華の唇へと近付け――息が掛かるくらいの距離まで――
 ゴクリ、と何かを呑み込む音が聞こえた。突然、辺りを支配する凍てついた空気。
 冬摩と朋華は目だけを動かして、音のした方をゆっくりと見る。
 髪をおさげに結った病院服の少女が、その大きな目を好奇の色に爛々と輝かせてコチラを見つめていた。
「あ、ごめっ……うん。気にしないで、続けて……」
 何だ。何なんだ。
 一体なんだというんだ。
 やはり呪いなのか? 誰かの怨念が自分達の仲を引き裂こうとしているのか? どこぞの嫉妬心にみまれたオタク中年が、自分のモテなさ加減に憤慨して、全国中のカップルに破局の呪いを掛けているのか?
 そしてその結果――
「交尾終わったか?」
 こういう――
「惜しかったのぅ、冬摩。あともう三センチじゃっ」
 ふざけた――
「あー、ボクはまだいいやー」
 連中を――
「『またつぎがある』、だそうじゃ」
「お前らああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 冬摩の絶叫がマンション中に響き渡った。

 玖音から一方的な連絡を受け、冬摩は全力で自分の部屋へと戻った。
 しかし、そこで待っていたのは傷など全く無い朋華、疲れた様子の『死神』、無表情の『羅刹』、そして彼に背負われた見た事も無い少女だけだった。
 自分の殺意に火を付けた肝心の玖音の姿はどこにも無かった。

『一度家に戻る』

 玖音はそう言ってココに来る前に朋華達と別れたらしい。そしてすぐに行くからと言い残して早一時間。
(あの野郎……!)
 まずブッ飛ばす。とにかくブッ飛ばす。何が何でもブッ飛ばす。
 そうしないと何も始まらない。腹の虫が治まらない。
 朋華と自分の重大な会話を遮った事。朋華が重傷を負ったなどと、付いてはいけない嘘を付いた事。自分の知らない所で、朋華を危険な場所に連れ回していた事。
 そして何より朋華と二人で一緒に居た事! しかも車で! 運転席と助手席に座って!
 それから訳の分からないガキを連れて来た事と、麻緒が付いて来やがった事と、『獄閻』を体に戻せなくなった事と、魎を取り逃がしてしまった事と、その魎に踊らされてみすみす朋華を危険に晒してしまった事だ!
 全て玖音が悪い! 全部あのシスコン刃物マニアのせいだ!
 なのにコイツらときたら、コッチの怒りを煽り立てて、ニトログリセリン注いで、核燃料ブチ撒けるようなマネしやがって!
「真田さん……来ませんね……」
 ただまぁ、唯一の救いはやはり朋華だ。
 ちゃんと無事だった事、今はこうして自分の隣りに座ってくれている事、そして何より抱き締めても気絶しなかった事。
 特に最後のは大きい!
 コレだけは今回の事件が無ければ確認できなかった。だから一応『羅刹』は許す。『羅刹』のした事だけは特別に目を瞑ってやる。
 夏那美を加え、またカードゲームに興じている五人を見ながら、冬摩は感嘆の声を小さく漏らした。
 手持ちのカードを真剣な顔で見ながらも、ドコか嫌そうに夏那美の方をチラチラと見る麻緒。そんな麻緒の隣りにしっかりと陣取り、不必要に体を寄せていく夏那美。注意の行っていない夏那美のカードを、横目に盗み見る『死神』。ゲームのルールが分かっていないのか、ひたすら手札を増やしていく『羅刹』。そして圧倒的な存在感と質量を示し、カードを薄い二枚の『金剛盾』で器用に挟む『獄閻』。
(狭い……)
 冬摩は不満そうな視線を五人に向けた。
 この部屋が普通のワンルームよりも若干広目だとは言え、所詮は一人暮らし用だ。
 そこに七人も入れば当然スペースは圧迫される。
 特に『獄閻』。アイツ一人で三人分くらいの体積を占めているから実質九人がココに居る事になる。ソコにもうすぐ玖音が加わるとなれば……。
「あの、冬摩さん」
 玖音の名前を思い出して怒りの再燃しかけた冬摩に、朋華が躊躇いがちに声を掛けた。
「さっき、電話で言ってた相談の事、なんですけど……」
 そして一気に頭から血が下りて来る。
「あぁ……」
 冬摩はパイプベッドを僅かに軋ませ、体を少しだけ前に傾けて息を吐いた。
「俺は……もう誰もこの手に掛けはしないって、ずっと思って来た。お前のおかげで、そうする事に自信が持てた……」
 そして、絞り出すような声で続ける。
「けどよ……確かにまだ決まった訳じゃねーけどよ……。もし、久里子の奴が魎に殺されてたら、俺はどうすれば良いと思う……? どうするのが、一番良いんだと思う……?」
 自分でも情けなくなる位の弱々しい声。精神を押し潰すかのような重苦しい空気。
 他の五人と自分達の間に、まるで仕切りのように差し込まれた大気の断層が出来たかのようだった。
「冬摩さんは、どうしたいと思ったんですか……?」
「許せないと思った。絶対に許せないと思った」
 コチラを見ずに聞いた朋華に、冬摩は即答する。
「ソレは、相手を……殺したい程に……?」
 朋華の言葉に冬摩は鋭い視線で前を見つめ、昨日ココを飛び出した時の事を思い返して、
「ああ」
 はっきりと言い切った。 
 そう。この気持ちに間違いはなかった。
 久里子はもう魎に殺されたんだと思った瞬間、頭の中が真っ白になった。自分でも訳が分からなくなるくらい、他の事が考えられなくなった。朋華の事さえもろくに……。
 また昔の自分に戻ってしまったのかと思った。躊躇う事なく人を殺し、気に入らない物は片っ端から叩き壊してきた頃の自分に舞い戻ってしまったのかと思った。
 だがそうではなかった。
 まだ辛うじて歯止めは利いた。
 魎が差し向けてきた龍閃の波動を放つ召鬼。魎の手駒になったとは言え彼らは無関係だ。だから殺す事だけは避けようと思った。僅かに残っていた理性が何とか留めてくれた。そして、そんな彼らを平気で殺してしまった麻緒に戸惑いを覚えた。
 しかし、『分身』だったとは言え魎本人は……この手で……。
「私は……冬摩さんがそう思ったんなら、ソレで良いんだと思います」
「え……」
 意外だった朋華の言葉に、冬摩は間の抜けた声を上げて彼女の方に目を向ける。
 てっきり、それでも殺すのは良くない事だと言われると思っていた。そして朋華がそう言うのであれば、自分の価値観を無理矢理ねじ曲げてでもソレに沿おうと思っていた。
 しかし……。
「昔の冬摩さんが同じ事言ったら、私はもしかしたら止めてたかも知れません。でも、今の冬摩さんが殺したいくらいに憎んでいるのは、殺されたかも知れない人の事をそれだけ強く思ってるからですよね」
 久里子の、事を……。
 あの気が強くて、口が立って、おかしな喋り方をして。いつも本気になって喜んで、本気になって怒って、本気になって心配していた女の事を……。
「……ああ」
「だったら冬摩さんが思ってる事、私は応援します。そりゃあ大好きな人が誰かを殺めるのを見たいとは思わないです。でも、もし私が自分の親を誰かに殺されたりしたら、どんな理由があっても、私は絶対にその人を許しません。冬摩さんと同じように、殺したいくらいに憎むと思います」
 殺したいくらいに……憎む。
 朋華も、自分と同じように……。
「そうやって悩むのは、冬摩さんが命の重さを分かってるって事ですから……私からはもう何も言えません」
 分かってる。朋華に教えて貰ったから。
 だから、あの時すぐに間違いだと思う事が出来た。人の死を極めて軽く扱う麻緒の事を、かつての自分と重ね合わせつつも、ソレは間違いなんだと確信できた。朋華のおかげで。
「こういうのって、絶対に正しい答えとか無いと思うんですよ。みんなそれぞれの考え方があって、主張があって。人殺しは何が何でも駄目だって言う人も居ると思いますし、復讐は虚しいだけだとか、そんな事しても死んだ人は還ってこないだとか……。でも、私はそんなのはただの綺麗事だと思います。やられっぱなしじゃ、やっぱり悔しいですよ」
 生まれてからの千年間。自分はその殆どを龍閃への復讐に費やして来た。未琴の仇を取る事だけを考え続けてきた。だから今更その事が間違っていただなんて思いたくはないし、否定して欲しくもない。
 朋華はそういう過去の自分も含めて、今の自分を受け入れてくれている。だから彼女の言う事になら従う気になれた。これからの自分の考え方として、そのまま取り込む事が出来た。
 だから、今回も――
「私は……今のままの冬摩さんが好きですから。強くて、優しくて、素直で、時々意地っ張りで……。今の冬摩さんは……私の大好きな、冬摩さんのままですから。だから、大丈夫です……このままで、私は間違ってないと思います」
 朋華は声を尻窄みに小さくしていきながらも、最後まで言い切った。そして膝の上に置いていた自分の拳にそっと手を添える。いつの間にか固く握り込んでいた手から、自然に力が抜けていった。
 そんな朋華の手を冬摩は逆の手で包み返し、真っ正面から目を合わせる。そのまま顔を近付け――
 ――唇を重ねた。
 何の抵抗も無く、まるで吸い込まれるように。こうするのが至極当然のように、冬摩と朋華は互いの感触を確かめ合った。
 切り取られた時間と空間。
 しばらく自分達の世界に浸り続け、やがて二人はゆっくりと顔を離す。
 瞳を潤ませ、どこか眠たげな瞳をした朋華は、はにかんだような笑みを浮かべてコチラを見つめていた。
「朋華」
「冬摩さん……」
 そして体を寄せて抱き合い、今度は互いの温もりを求め――
(……っ!?)
 ――たところで我に返った。
「ウーノ」
「なーにー。なーかなーかやりおるのー」
「アータシもー、ウーノ」
「こーら『獄閻』ー、まったはなーしじゃー」
『あっはっはっはっはー』 
 抑揚のない声とわざとらしすぎる談笑。
(コイツら……)
 露骨に見つめられてるいるより余程タチが悪い。
 しかし、今回はちゃんと結果が伴っている。自分達は今、紛れもなくキスをした。接吻を交わしたのだ。これで六回目。ようやく片手で数えられる領域から脱した。
 しかも人前だったにもかかわらず、朋華は気絶していない。
 愛だ。誰が何と言おうと愛の力だ。
 ついに自分の朋華へ想いが、あの忌々しい病を振り払ったのだ。
「な、なんか言ってる事、支離滅裂でしたね。あは、あはははは……。そのっ、ですからっ、冬摩はさんは今のままでヨロシイのではないかと……」
 顔を逸らし、耳の裏まで真っ赤に染めながら、朋華は早口でまくし立てた。
「ああ、ありがとよ」
 おかげでこの上ない自信が持てた。絶対に間違っていないのだと確信できた。
 自分はこのままでいい、このままでいいんだ。
 悩んで苦しんで、それでも相手を殺さなければ気が済まないとなれば、もう躊躇わない。怒りをそのまま全部ぶつける。ソレだけだ。
「じゃーまずはそこのチンチクリン。テメーは何なんだよ」
 朋華が連れてきた夏那美という少女を指さし、冬摩は乱暴だが上機嫌に聞く。
 悩みが晴れ、そして朋華ともまた少し距離が近付き、精神的に随分と余裕が出来た。少しは周りが見えるようになった。
 確かに魎は憎い。今すぐにでも叩きのめしたい。
 だが無闇に動けば朋華が危なくなる。ソレでは駄目だ。何をしているのか分からない。
 魎の目的は自分の肉を喰う事だと思っていたが、朋華が狙われた事からソレもちょっと怪しくなってきた。
 悔しいがここは玖音を待つしかない。下手に動けば魎は間違いなくそこを付いてくる。
(それに『獄閻』の事も聞きたいしな)
 だから玖音が来る間での間、時間を有効利用しなければ。
(おお! 俺もやりゃ出来んじゃねーか!)
 自分の冷静な思考に胸中で快哉を上げる冬摩。やはり朋華の力は凄い。
「あ、そうそう……! 私もずっと聞かないとって思ってたの!」
 恥ずかしさを紛らすためか、朋華が不自然に大きな声で叫ぶ。
「ねぇ、どうしてあんな事したの?」
「あんな事?」
 項垂れる夏那美に尋ねた朋華に、冬摩は眉を顰めて聞き返した。
「病院の窓から……飛び降りたんです。八階の……」
 八階の窓から……。自殺願望でもあるのか?
「で? どういう事なんだ?」
 すっかり押し黙ってしまった夏那美に全員の視線が注がれる。
 夏那美はおさげの髪を前に持ってきて指先でいじりながら、麻緒の方を一瞬だけ見てまたすぐに視線を戻した。そして口の中でゴニョゴニョと、聞き取りにくい声を出す。
「……た、から……」
「あーん? 何だぁー?」
「置いてかれると思ったから! 付いてけば麻緒君に会えると思ったから!」
「ハィー?」
 隣で聞いていた麻緒が、長い前髪を払いのけて甲高い声を上げた。
「それでどーして飛び降りるの? サッパリ繋がんないんだけど」
「だって、あの人が出来てたから、そーゆーものなのかと……」
 またボソボソと言いながら、夏那美は悔しそうな表情で朋華を指さす。
「わ、私? え? アレって私が原因なのー!?」
 予想外過ぎたのか、朋華は素っ頓狂な声で叫んだ。
 朋華……いくら召鬼の力があるからってまたそんな無茶を……。
「お前の方は何でそんな事したんだ?」
「あ、いや……真田さんが、危なかったからつい……」
「朋華お姉ちゃーん。駄目だよー、こんな子供の前で危ない事して見せちゃー。すぐ真似するんだからー」
「ご、ごめんなさい……」
「テメーも立派なガキだろーがよ」
 両手を組んで頭の後ろに回し、呆れたような視線で朋華に言う麻緒に、冬摩は低い声で凄む。
「しかし何じゃのぅ。単なる跳ねっ返りかと思いきや、なかなか熱い想いを胸に秘めた気骨のある女児のようじゃのぅ。大したモンじゃ」
 扇子で口元を隠しながら、『死神』は何か新しい玩具でも見つけかのように目を細めた。
 コイツは……隙あらば下らないちょっかい出すつもりだな……。
「で、玖音の奴を追いつめた野郎ってのは?」
 真田玖音の実力は自分も良く知っている。
 あの鋭い動きと的確な判断力、そして使役神を宿して力に変える夜叉鴉という霊刀。正直、玖音が苦戦を強いられる相手というのは、そう思い浮かばない。玲寺とやり合った時でさえ、傷らしい傷は無かったのに。
「あ、えと……。陣迂って言ってました」 
「ジンウ? 誰だソイツ」
「えーっと……なんか、冬摩さんの弟さんらしいんですけど……」
「俺の弟ぉ?」
 少し考え込みながら呟くように言った朋華に、冬摩は自分でも驚くくらい裏返った声を上げた。
「あ、いや、まぁ、真田さんはそんなはずないって言ってたんですけど。まぁ、本人は冬摩さんの事『兄者』って言っててホント凄く似てて、あと喋り方とかも。目的は私を連れ去る事だったらしいんですけど、何か気が萎えたとかであんまりその気は無くて、一番の目的は冬摩さんと一対一でやる事だから是非突っかかって来てくれとか言ってて、結局真田さんの方から『逃がさない!』って言って仕掛けて行ったんですけど……」
 目線を上げ、栗色の髪を揺らしながら説明する朋華。
「あー……何ぃ……?」
 話が飛び飛びになっていてよく分からない。
「あっ、ご、ゴメンナサイ。また、支離滅裂になっちゃいましたね……。なんか私こういうの上手く纏めて話すの苦手みたいで……ゴメンナサイ……」
 小さな声で言って朋華は俯いてしまった。
「とにかく、だ。陣迂って奴は敵で、ソイツをブッ飛ばせば良いんだな。よし分かった」
 自分の中でシンプルに纏めると、冬摩は大きく頷く。
「あと言ってた事は、嶋比良さんが無事だっていう事と……」
 付け足すように言った朋華の言葉に、冬摩は半眼になって息を吐いた。
「向こうが水鏡さん、陣迂さん、篠岡さんの三人って事、ですかね……」
 どうだかな。敵が言ってる事だからな。
「でも、篠岡さん……ホントにどうしてなんでしょうか。せっかく出てきてくれたと思ったのに……」
 朋華は落ち込んだような顔付きになって小声で言う。
「アイツは最初から敵だったじゃねーか。味方のフリして龍閃に取り入ってやがった。別に何の不思議もねーよ」
「でも……」
「ま、もしかしたら今度は魎の味方の“フリ”をしてるのかもな」
 冬摩の言葉に、朋華は口を半開きにして意外そうな表情を見せた後、
「……そ、そうですよね! うん! きっとそうですよ!」
 破顔して嬉しそうに言った。
 やはり、朋華には笑顔が一番よく似合う。そして彼女のそんな顔をみると心が安らぐ。
「で、他には?」
「他、は……えーっと……」
 朋華は顎先に指を当てて視線を上げ、
「あっ! 麻緒君!」
 閃いたように大声で叫んだ。
「へ? ボク? 何?」
「その陣迂って人が、冬摩さんと麻緒君が一緒に居るって、言ってました。聞いた時は正直あまり信じてなかったんですけど……。そういえばどうして一緒なんですか?」
 チェリーピンクのヘアバンドの位置を直しながら朋華が聞いてくる。
 自分と麻緒が一緒に居る理由……。
 冬摩は昨日からの出来事を頭の中で思い浮かべ、
「麻緒、説明しろ」
 面倒臭くなって麻緒に振った。
「えー? 何でボクがー? メンドイよー」
「じゃあ今すぐそのチンチクリンと一緒に帰れ」
「ちぇー……」
 冷たい冬摩の言葉に麻緒は口の先を尖らせ、怠そうに後ろ頭を掻きながら口を開く。
「えーっと、だからさー……。今聞いた感じだと、その陣迂っていうお兄ちゃんのニセモノがまずボクの前に現れて――」
 そして事の起こりをかいつまんで話した。
 麻緒が陣迂にやられ、その後病院を抜けだして魎と戦い、そして龍閃の波動に引かれて成り行きで冬摩と戦った事。次の日公園で魎が仕掛けてきて結界の中でまた戦った事。
 こうして考えると戦いの連続だな。ソレだけ向こうも本気だという事か。
「はぁー、大変だったんですねー。二人とも水鏡さんと……。でも、本当に生きてたんですね……今更ですけど……」
 話を聞き終え、朋華が感心したように漏らす。
「けど全然ザコかったよ? 龍閃の方がガチで歯ごたえあった。向こうが逃げなきゃボクが勝ってたね」
 組んだ両手を頭の後ろに回し、麻緒は小さな胸を張って自信満々に言った。
 そういえばコイツも龍閃と戦った事があるんだったか……。しかも『死神』の『復元』で全快した後の。
「どーせアイツも本気じゃなかったんだろ。変に油断してると一瞬であの世行きだぜ」
 そう。だから多分、自分と戦った時も魎はまだ四分か五分くらいの力だったはずなんだ。下手すればもっと力を抑えて……。
「だーいじょーぶだって。次は絶対勝つよ」
 グッ、と力強く親指を立て、麻緒は言い切る。
 ま、コイツは一度自分で痛い目を見ないと分からないか……。
「なるほどのぅ、その時に『獄閻』が『閻縛封呪環』を掛けられた訳か。道理で『金剛盾』が脆いはずじゃ。あの怨行術は厄介じゃからのぅ」
 『死神』が『獄閻』の方を見ながら感慨深く言う。経験者は語る、といった所か。
「それでずっと外に……。私はてっきり冬摩さんが『死神』さんと『羅刹』クンだけじゃ物足りなくなってきたのかと」
 なワケねーだろ。
 胸中で朋華にツッコミを入れ、冬摩は改めて『獄閻』を見た。
 直径二メートル近くある巨眼の化け物。今は『金剛盾』を黒い霧状にして纏っている。
 数時間前、魎によって怨行術 壱の型『閻縛封呪環』を施されて体に戻せなくなった。おまけに『金剛盾』の硬度も異常に下がりきっている。
 役に立たない上にデカいし邪魔だしで、良い事など全く無い。
 同じ術を使える玖音に言えば、多分何とかなるとは思うのだが……。
「にしてもおせーな。あの野郎……」
 色々と問い詰めたい事があるというのに。
「電話してみましょうか? 私も病院の事とか東宮さんの事とか、コレで良いのかさっきからずっと不安で……」
「そうだな。じゃあ――」
 電話?
 朋華の言葉に、冬摩はギギギと顔を向け、
「朋華。お前、玖音の番号知ってるのか?」
 ぎこちない口調で聞いた。
「え? あ、はぃ……一応交換は……」
 こ、交換、だと……?
「まーた冬摩の幼い嫉妬が始まったようじゃのー」
 茶化すように呟いた『死神』に何か言い返そうと口を開いた時、玄関の方から音がした。
「遅れてすまない」
 そして良く通る声が聞こえてくる。
 どこか青ざめた表情で入って来たのは女性的な顔立ちの青年。耳元で切りそろえたストレートの黒髪。刃物のように鋭角的な顔立ち。他を拒絶する冷たい雰囲気。
 黒のハイネックシャツの上に蒼のハーフジャケットを纏い、サラシの巻かれた長い得物を携えて、玖音は静かに室内へと足を踏み入れた。
「玖音! テメー! 遅過ぎ……!」
「ぃやっはー! トーマ君元気してたかなー? 美柚梨先生がヒサビーに会いに来てあげたぞー!」
 冬摩の怒声を遮り、玖音の後ろから無遠慮に入って来たのは快活そうな女性だった。
 背中まで伸びた紅い髪は僅かにウェイブ掛かり、やや右にボリュームを偏らせてセットされている。小動物を思わせる二重の大きな瞳、ピンク色の唇。
「お、お前、何で……」
 無駄に元気良く登場した美柚梨に、冬摩は右頬を引きつらせた。
「せっかく遠路晴れ晴れ遊びに来てやったのに、この言い方は無いでござろうが!」
 ファー付きの黒いウールジャケットをバッと脱ぎ捨てて、黄色と青のストライプが引かれたTシャツを晒し、腰に手を当てて美柚梨は大きく胸を張る。
 苦手だ……。コッチのペースを根こそぎ持って行くこの女は苦手だ……。
「ウッホー! なになになに? 『ウノ』!? あたしもやるー! 混ぜて混ぜてー!」
 パープル・スケルトンのポシェットを外して適当に放り投げ、七分丈のキュロットパンツに付けられた様々なキーホルダーをジャラジャラと盛大に鳴らしながら、美柚梨は五人の輪の中に入っていった。
「ぉあー! シュゴーイ! 見える見えるー! アタシにも見えるー! コレが使役神ね! 『死神』! 『羅刹』! あともう一人は誰ザンスか?」
 一人で祭りでもしているかのように、美柚梨はハイテンションにまくし立てる。もう殆ど彼女のオンステージだ。
「おぃ玖音……」
 そんな彼女を半眼になって横目で見ながら、冬摩は玖音に疲れた声を掛ける。
「荒神冬摩」
 玖音は睨み付けるかのようにコチラを見据え、
「美柚梨を――」
 そして突然土下座したかと思うと、
「お前の召鬼にしてくれ!」
「……はぃ?」
 切羽詰まった声で言う玖音に、冬摩は目を点にするしかなかった。

◆二手の先読み ―陣迂―◆
 気にいらねぇ……。
 腕組みして背中を壁に預け、陣迂は鋭い視線で魎と玲寺の背中を睨み付けていた。
「あー、しかしアレだな。ノリ的には完全に悪の秘密組織だな」
「……自覚していなかったとは驚きですね」
「にしてもミスター玲寺、お主もなかなかのワルよのぅ」
「貴方の考えそうな事を先回りしてやっただけですよ」
 ビルの最上階で外を見下ろしながら、魎は楽しそうに、そして玲寺は無表情のまま会話を続ける。
「大分心と心で繋がってきたなミスター玲寺。私は嬉しいよ。この先、君となら上手くやって行けそうだ」
「貴方との長いお付き合いは御免被りたい物ですね」
「まったまたぁー。もう何だかんだで三年ではないか。三年といえばモグラにとっては、一生分の長さ。それだけの時間を共にすれば友情が愛情に変化してもおかしくはないという事だな、うん」
「……そんな事言ったら何百年も一緒に居た相棒が悲しみますよ?」
 言いながら玲寺は顔だけを動かしてコチラを見た。
「ケッ!」
 しかし陣迂は不機嫌そうに唾を飛ばすと、反対側を向いて視線を逸らす。治りかけていた首の傷口が少し開き、鮮血が筋となって垂れた。
「……随分と嫌われてしまったようですね」
「あー、なんか最近反抗期みたいなんだ。何かにつけて言う事を聞かない」
「玖音に傷を負わせただけでも大した物なのでは?」
「私は『仁科朋華を連れてこい』と言ったんだ。ま、時間稼ぎを出来なかった私にも非はあるんだが。しかし今回はソレに代わる収穫があった。仁科朋華の事はまた次で良いだろ」
 頭の後ろから掛かる鬱陶しい声。
 今のところ一応は自分の計画通りに進んでいる。魎の喋り方から醸し出されるそういった雰囲気が、陣迂の神経を一層逆撫でした。
(気にいらねぇ……!)
 別に魎の計画が順調に進む事に関して不満はない。計画が進展する事で、冬摩と戦える日が早まるというのであれば全力で支援する。
 だが、問題はそのやり方だ。
 とにかく最初から気に入らなかった。女を人質に取って相手の弱みを握ろうなど、屑以下のする事だ。しかし魎の性格はよく知っている。それに自分をココまで育ててくれた恩義もある。だからある程度までは許容するつもりだった。女とは言え、確かな力を持った保持者であれば何とか納得できていた。
 だが、今回は――
「あー、東宮夏那美も別に良い。九重麻緒の事はもうよく分かった。捕まえられるならソレに越した事は無いが、無理にとはい言わない。まぁそういう意味では、あの穂坂御代とかいう女も要らなかったような、別にどうでもいいような……」
 魎の声が少しだけコチラに向けられ、又すぐにビルの外へと戻る。
 陣迂は不愉快そうに目を細め、未だ気を失っている女を横目に見た。
 長い黒髪を頭の両サイドで纏めて垂らした若い女だった。スカート部分にフリルがあしらわれた黒いワンピースの上に、藍色のカーディガンを羽織っている。
 冬摩や朋華と一緒に居たというだけで、玲寺は彼女さらってきた。
 何かに使えるだろうと。
 たったソレだけの理由で、戦う力など何も持っていないただの女を。
 目が覚めないのは玲寺が何か術を施しているからだろう。そして目覚める前に、恐らく彼女は魎の召鬼となる。
 真田玖音の妹、芹沢美柚梨と同様に。
「では返して来ましょうか?」
「あー、いや。せっかくお前が額に汗して連れて来てくれたんだ。まぁ冬摩には無意味でも、仁科朋華には甚大な効果を発揮するかもしれん。彼女については少し考える」
「ケッ!」
 何か便利な道具でも扱うように言う魎に、陣迂はまた唾を飛ばして不快感を露骨に示した。
「陣迂、お前が仁科朋華をちゃんと連れて来ていれば、その女はすぐに解放されたかも知れないんだ」
「見え透いた嘘つくんじゃねーよ! ボケ!」
「あぁ……ミスター玲寺、息子の反抗期が加速する……私はどうすれば……」
「気持ち悪いから、しなだれ掛からないで下さい」
 胸クソ悪い! 自分はこんな反吐が出るような事に付き合う為に、今まで生かされてきたのか! こんな事の為に自分の死は冒涜されたのか!
 ――千年以上前。
 自分は龍閃とその妻、紗羅の第二子としてこの世に生を受けた。だが、母胎から外に出る前に殺された。
 龍閃の手によって。
 退魔師達との争いを一時的に休止し、人間を喰う事を止めて久しかった龍閃が紅月の夜に見た紗羅の血。ソレが引き金となって、理性で抑え込んでいた獣欲が剥き出しになった。そして紗羅は喰い殺された。腹に居た子と共に。
 だが自分は生き延びた。
 水鏡魎の召鬼となる事で。
 龍閃の凶行があった次の日、魎は惨劇の場へと足を運んだ。そして無惨に散らされた自分を見つけ、肉片を埋め込む事で擬似的に再生した。しかし死人を召鬼化によって黄泉還らせた場合、肉体は極めて不安定な状態となる。『死神』の『復元』が無いかぎり、完全な形での復活は有り得ないのだ。
 かといってあの時、魎は『死神』の保持者を殺す訳にはいかなかった。人間と共闘しているフリをしていなければならなかったし、なにより龍閃に捧げる神楽家の肉が途絶えてしまう事になる。
 だから魎は怨行術で無理矢理安定化させた。
 死後、それ程時間が経っていなかった事。そして自分の体に魔人の血が濃く流れていた事が幸いした。だが魎が怨行術を解けば、たちまちただの腐肉となってしまう。つまり自分の命は完全に魎の手中に有るのだ。
 最初は龍閃を討つための戦力として育てる予定だったらしい。しかし成長があまりにも遅過ぎた。
 魔人は自分で自分の身を守る為、僅か一年で成人に達する。それ以降は肉体の老化が急激に遅くなり、何千年という気の遠くなるような年月を最盛期の状態で過ごす。
 だが召鬼化によって生を受け、怨行術で肉体を固定している自分はその例に漏れた。細胞の腐食を遅らせたためだ。その術のおかげで辛うじて命を繋ぎ止める事は出来たが、代わりに成人するまで九百年以上掛かった。
 冬摩が龍閃の核を傷付けて後退させてから、百年も経った後の事だった。
 そこから魎は戦い方を本格的に仕込み、自分の体を“研究”し、合った新しい神鬼を生み出して与えてくれた。
 だが龍閃と戦おうとする動きは見せなかった。自分は土御門財閥と合流したかったが、魎に止められた。すでに龍閃には興味が無いようだった。
 ソレが不満で仕方なく、戦いへの欲求を何度も魎にぶつけた。そしてそのたびに打ちのめされ、魎の戦い方や考え方を覚えていった。
 だが鬱憤が晴れる事は無かった。むしろ日に日に積もって行った。
 コチラの力を殺し、自分の力を最大限に発揮できる戦術で回りくどく攻めてくる魎との戦いでは、満足するどころか逆に苛立ちが増す一方たった。
 ――真っ正面からの殴り合いをしたい。
 この百年間、ずっとそう思い続けて来た。
 小細工など何一つとして無く、純粋に力と力でぶつかり合うような戦いを渇望し続けてきた。
 かといって魎の監視から逃れる事は出来ない。そうするだけの力が備わっていない。一体何のために生かされているのか分からぬまま、時間だけが無駄に過ぎていった。いっそ死んでしまおうかとも考えた。
 しかし三年前、ようやく変調が訪れた。
 龍閃の死亡。
 ソレを境に魎の行動が変わり始めた。
 今まで以上に冬摩の事を熱心に観察し始め、真田家の屋敷に通い、街中に呪針を埋め始め、そして玲寺という男を使って“実験”を行った。
 
『あー、お前の兄と戦わせてやる』

 そして何の前触れも無く、突然魎にそんな事を言われた。

『あー、だから私の言う事を良く聞くんだ。良い子にしていれば、より早く冬摩と戦える』
  
 体が熱くなった。喜びで震えが来た。
 自分の兄、荒神冬摩。龍閃を殺した最強の魔人。
 気性は凶暴で粗雑。自分と同じく、頭ではなく体が先に動くタイプ。
 いや、自分は少なからず魎の影響を受けている。だから直情思考は冬摩の方が上だ。
 挑発すればすぐに乗ってくる。そして邪魔くさい事など一切せず、絶対に真っ正面から向かってくる。
 会った事も話した事もないのに、冬摩の行動が手に取るように分かった。
 ようやく望んでいた戦いが出来る。今まで生き続けて来た意味をやっと見出せる。
 そう思うとあまりの昂奮で目の前が白くなった。
 龍閃が死んだ事を知らされて、自分を満たす事が出来るのは冬摩しか居ないと思っていた。如何にして魎を出し抜き、冬摩と接触するかだけを毎日のように考えてきた。
 そこに降ってきた魎からの提案。
 陣迂は二つ返事で承諾した。冬摩と戦えるのなら何でもしてやるとまで言い切った。
 だが、今はもう分からない。
 魎のしている事は姑息で陰湿で、不愉快極まりない。最終的に何をするつもりなのかは知らないし、知りたくもないが、そろそろ精神的に限界だ。
 それでもついさっきまでは、何とか面白いと思えていた。
 最初に九重麻緒とやり合った時、彼のそばに居た東宮夏那美という女。
 もし彼女が居なければ、自分は魎の命令通り麻緒をココまで連れて来ていた。だがそうしなかったのは、夏那美がソレを阻んだからだ。
 地面に倒れ込んだ麻緒と、ソレを見下ろす自分の間に割って入り、夏那美は両腕を大きく広げてコチラを睨み付けた。自分の異常な力を見た直後なのに。殴られれば死すらあり得るのに。
 それでも夏那美は気丈な表情と毅然とした態度で麻緒の前に立ち、微動だにしなかった。
 何も言わずしばらく目を合わせていたが、やがて彼女は気を失った。張りつめていた物が不意に切れてしまったのだろう。
 当然だ。相手はまだ小学校を卒業したばかりの少女。コチラの威圧にあれだけ耐え続けただけでも大した物だ。余程、麻緒の事が大事なんだろう。
 だから彼女の気概に免じて見逃した。そして仲良くお休みした二人を抱きかかえ、結界の外に移動させて人目の付きやすい所に寝かせて置いた。 
 ああいう熱い心を持った人物には、性別年齢を問わずに敬意を払わなければならない。個人的に大好きだ。
 それは冬摩の女、仁科朋華も同じたった。
 いくら召鬼だからとは言え、まさか八階から飛び降りて玖音の危機を救おうとするとは思わなかった。その時の力強い蹴りといい、自分を一目で冬摩ではないと言い切った強気な態度といい、彼女もなかなか自分好みの熱い女だった。冬摩が惚れ込んでいるのも頷ける。
 だからそういう点に関しては、かなり楽しめた。予想していなかった収穫だった。
 しかし戻って来てみれば、邪魔になどなりようのない女まで連れ去り、しかも人質として使おうなどと……。
 まさかココまで酷いとは思わなかった。魎と玲寺の発想が信じられなかった。
 こんな事に荷担してまで、自分は冬摩と戦いたいのか? こんな下衆にまで身を貶めて得た戦いで、納得のいく殴り合いが出来るのか?
 そもそも魎の言った事だ。冷静になって考えてみれば、一対一で戦わせてくれるとも思えない。それどころか約束など最初から無かった事にされるかも知れない。いや、その可能性は十分にあり得る。
(ここらが潮時、か……?)
 確かに魎には育てて貰った恩義はある。だが信念まで売り渡した覚えは無い。
 完全に離脱すれば怨行術を解いて殺されるかも知れない。だがそうなったらそうなっただ。このまま生き恥を晒すような真似をしているより、余程潔い。
(だが……)
 やはり悔いは残る。
 せめて一度。一度だけで良い。
 思いきり拳を交換できる相手と戦いたい。
 もう冬摩にはこだわらない。
 さっき少しだけ戦った真田玖音。人間なのにかなりの力を持っていた。九重麻緒にしても、力は冬摩に劣るだろうが、魎とやり合った後の暴走ぶりからするに戦い方は酷似していそうだ。
 どちらでもいい。
 最期にたった一度だけ、誰にも邪魔されない広い場所で一対一の戦いを――
「コレで真田玖音を無力化したも同然ですが。どうしますか? 個人的には玖音自身も貴方の召鬼にしてしまった方が良いような気もしますが……」
「あー、いや。無力化と言うにはまだまだ気が早い。玖音は今頃冬摩に頼んでいるはずだ。『妹をお前の召鬼にしてくれ』とな。もし冬摩の支配力が私の支配力を上回った場合、芹沢美柚梨は束縛されていないも同然。玖音への抑止力にはならんさ」
 後ろでした会話に、陣迂は僅かに目を細めた。
 召鬼を、更に召鬼に……?
「珍しく弱気ですね。そんな最初から負けを認めるような発言」
「自分の力を過大評価する程愚かじゃない。今のところはまだ冬摩の方が上だろうさ」
「ならわざわざ解放せずに、ココに連れてきた方が良かったのでは?」
「あー、いや。アレでいい。彼女は冬摩や玖音のそばに居てくれた方が都合が良い」
「またお得意の『取り合えず予定通りだ』ですか」
「真相を教えてやろうか?」
「やめておきますよ。後ろでしっかりと聞き耳を立てている、頭のキレる女性が居ますし、第一貴方が本当の事を教えてくれるとは思えない」
「あー、やれやれ。とんでもない偏見を持たれたモンだな」
「それに今聞くと面白くない。種明かしは後のお楽しみにしておきますよ」
「変わった奴だ」
「お互い様ですね」
 魎の真意……。そんな物はどうでも良い。冬摩と戦えれば他の事など取るに足らない事だ。
 そう思っていた。今までは。
 しかし、もし何かの時にこの胸クソ悪い計画を台無しにするつもりならば。
(魔人と召鬼は繋がっている、だったな……)
 昔、魎に教えて貰った事を思い出す。
 自分は魔人でもあるが、同時に魎の召鬼でもある。そして魔人とその召鬼は精神的に繋がっている。何百年も一緒に居たんだ。もしかすると考えている事が分かるようになっているかもしれない。
 陣迂は目を閉じ、魎の方へと意識を集中させた。
 漆黒の世界の中、魎が今立っている場所を鮮明に思い描く。彼の輪郭、喋っている時の口の動き、そして思考の流れ具合。
 魎の息遣いに自分の呼吸を同調させ、より深く、より内側へと潜り込んでいく。そして深淵に淫蕩(たゆた)う不明瞭な靄(もや)に手を伸ばし――
「あー、陣迂」
 突然、耳元でした魎の声に、陣迂は慌てて目を開けた。
「お前から覗けるという事は私の方からも見えるという事だぞ?」
 振り向くと、半笑いになって片眉を上げた魎が目の前に立っていた。
 いつの間に……。
「あー、お前がイラついているのはよく分かった。もう限界だという事もな。私の方も少々配慮が足らなかったようだ。すまなかった」
 長い後ろ髪を片手で梳きながら、魎はコチラの背中をポンポンと軽く叩きながら言う。
「気安く触んじゃねーよ!」
「真田玖音を狩りに行く。アイツが一番厄介だからな。私は『歪結界』を保つ事に集中するから、お前が戦うんだ。最初から飛ばして行け。油断してると負けるぞ」
 陣迂の目を正面から見据え、魎は淡々とした口調で言葉を被せた。
「……何でだよ、急に」
「あー、冬摩ではなくて不服か?」
「そうじゃねーよ。何でいきなりそうなるんだよ」
「あー、だから言っただろう。私の配慮が足らなかったと」
「ケッ、嘘くせぇ」
 この男はそんなつまらない事で予定を変更する奴じゃない。どうせコレも計画の一部なんだ。そこに上手く自分を乗せているだけなんだ。どうせ結界の中に自分と玖音を閉じ込めて、その間に朋華に手を出そうとか考えているんだ。
「あー、仁科朋華にはしばらく手を出さない。冬摩が戻って来てしまったからな。その代わり、九重麻緒と玖音は自分の女達を冬摩に預けて単独行動するようになる。あの凶暴な少年と玖音を押さえるのは、そうなった時が絶好だな」
 まるでコチラの心を見透かしたかのように、魎は怠そうに息を吐きながら言った。
 この野郎……昔からこういう所が特に気に入らなかった。
「あー、それはすまない事をした。生まれた時からこういう性分なんでね」
 ……本当にこっちの心を覗いてやがるのか?
「ソレはない。具体的に何を考えているのか分かるには、年月だけではなく深い信頼関係が必要だ。残念ながら私達にはソレが無い」
 ……もう深く考えるのはやるよう。コイツはこういう奴なんだ。
「分かってくれればソレで良い」
「……で、なんでそんな事分かるんだよ」
「お前のスネ毛が薄い事か?」
「ブッ殺すぞ」
「あー、なに。あくまでも予想だよ予想。希望的観測とも言うな。敵の戦力はなるべくバラけてくれた方がやり易い。そうだろう?」
 おどけた様に肩をすくめ、魎は小さく鼻を鳴らす。
 この野郎……また適当な事をぬかしやがって……。
「で? やるのか? やらないのか? お前が駄目なら玲寺にやって貰うだけだが」
「やってやるよ。真田玖音をブッ飛ばせばいいんだろ」
 渋面になり、納得のいかない様子で陣迂は返した。
 ……まぁいい。魎の考えが当たっていようがいまいが自分には関係ない。とにかく今は、この鬱憤を少しでも発散する事を考えなければ。
 外れた時は思いきり笑って、こき下ろしてやろう。きっと快感だ。
 だが、もし当たった時は――
(まさか、な……)
 冬摩と麻緒と玖音がまたバラバラになる? 冬摩に夏那美と美柚梨を預けて? 何を材料にどう読めば、そんな結論に行き着くというんだ。
「では、今度は私が麻緒の方ですか」
 少し寒い物を覚えた陣迂の近くで、玲寺が楽しそうに言ってきた。
 柔和な笑みを浮かべてはいるが、まるで能面でも張り付かせたかのように表情を感じない。コイツはコイツで何を考えて行動しているのか良く分からない。魎とはまた違った不気味さを纏った男だ。
「あー、そうなるな。しくじるなよ」
「ご心配なく。でもソチラの用事が済むまでココで待機というのも退屈ですね。私が先に行ってもいいですか?」
「いや、同時に行く。こういうのは一気にカタをつけた方がいい」
「ではソチラの眠り姫様は?」
 穂坂御代の方に目をやり、玲寺は魎に聞いた。
「あー、まぁ。好きにすればいいさ」
 ソレに興味なさげに答え、魎はダークコートの胸ポケットから取り出したサングラスを掛ける。そして陣迂の体を軽く叩き、部屋の出入り口に歩を進めた。
「行くぞ。今、アイツらは全員冬摩の部屋に集まっている。玲寺、お前も近くであの少年を待ち伏せるんだ」
「分かりました」
 ネクタイを締め直し、純白のスーツの襟元を正して玲寺は魎に続く。
「……ち」
 陣迂は目を覚ます気配を見せない御代と、その隣で黙ったままコチラを睨み付けている久里子に視線を向け、渋々といった様子で部屋を出た。





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