麻緒と黒魔術と白い恋

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◆エセ黒魔術師 ―九重麻緒―◆
 もしもこの世に地獄があるとすれば、それはきっと今のような環境を言うのだろう。
 小学五年生にしてその事を悟ってしまった九重麻緒は、教室の窓からぼんやりと外を見ながら溜息をついた。
 窓ガラスに映った少し長目の黒髪を持つ少年の双眸が、退屈そうに薄く開かれている。血色の良いピンクの唇も、不平そうに曲げられていた。
(何やってんだ、ボクは……)
 毎日毎日、繰り返される同じ授業風景、クラスメイトとの噛み合わない会話、ぎこちない家族関係。延々と続く空回り。無駄な労力。
 一年半前とは大違いだ。
 心身共に充実しきっていたあの時とは。
「ほらほら、九重君。授業中はちゃんと前向いていましょうね」
 突然隣でした女性の声に、麻緒は反射的に身を反らす。さっきまで自分の頭があった位置を、国語の教科書が通り抜け、麻緒の前髪を揺らした。
 一年半経った今でも体はしっかり覚えている。
 相手の攻撃が来る角度、タイミング、強度。それらを被弾するコンマ数秒前に肌が感じ取り、考える前に体が動く。例え死角からであったとしても。
「すいません……」
 麻緒は眠そうな目を教師に向けながら、気のない返事をした。
「まったく。それじゃココから読んで」
「はい……」
 言われて麻緒は立ち上がり、教師が指さした所から音読を始める。
 麻緒が教科書を読んでいる間、後ろの席からヒソヒソと話し声が聞こえて来た。
「今の凄くない?」
「アイツの運動神経ハンパじゃねーからな」
「ぜってーそれだけじゃないって。空手とか合気道とか、なんかやってんじゃねーの?」
(退魔術だよ……)
 麻緒はボソボソと小さく口を動かしながら胸中で一人ごちる。
 一年半前、麻緒は退魔師だった。それも天才と呼ばれるほどの才気を秘めた。
 九歳にして十二神将『玄武』に覚醒した天才児。それが九重麻緒だ。
 最強にして最凶の魔人、龍閃を討ち倒すため、麻緒は覚醒と同時に親元を離れ、『玄武』の導きに従って土御門財閥の洋館へと足を踏み入れた。さらに財閥の力によって自分は死んだという情報を世間に流し、整形手術を施す事で顔も変えた。
 全ては龍閃討伐に全身全霊を持って挑むため。それほどまでに強いのだ。式神からの記憶の逆流により植え付けられた、龍閃を滅ぼす事への執念は。
 だが一年半前、龍閃は実の息子、荒神冬摩の手によって葬られた。
 そして――麻緒は退魔師としての絶対的な使命から解放された。

 休み時間はいつも一人だ。
 一人で体育館裏に行き、手入れのされていな木々の陰に身を隠して暇を潰している。勿論、クラスメイトに話し掛けられないようにするためだ。
 薄汚れた体育館の壁と、背の高いコンクリートの外壁に挟まれた狭い空間。
 今日のように暑い夏の日であっても、日陰が多くて涼しいココは麻緒のお気に入りだった。しかもなにやら曰く付きの場所らしく、生徒は愚か先生さえもあまり近寄りたがらない。一人になるには打って付けだった。
「やっぱりココに居たのね、九重クン」
 勿論、例外というのは存在するのだが。
「……誰だっけ」
 地面に座り込み、体育館の壁にもたれた体勢のまま、麻緒は視線だけを声の主に向けて言った。
 長い黒髪を後ろでおさげにした気の強そうな女子生徒だった。目は丸く大きく愛嬌があるが、皮肉っぽくつり上がった口元が台無しにしている。服装の生地はツヤがあり高級感に溢れているが、上から下まで黒一色という怪しげなセンスが無意味にしていた。
「東宮! 東宮とうぐう夏那美かなみ! いい加減覚えてよね! クラスメイトの名前くらい!」
「ああ、ゴメンゴメン」
 興味の無い事は頭に入ってこないんだ、という言葉を麻緒は呑み込んだ。
 それにこの小学校に編入して来てまだ半年ほどだ。名前は覚えても顔が一致しない事などザラにある。
 麻緒の安息を乱した突然の闖入者――東宮夏那美は両腕を胸の前で組み、虚勢を張るかのようにふんぞり返ってコチラを見下ろした。
「九重クン。貴方は今、道しるべを必要としているわっ!」
 大きな両目をさらに大きく見開き、人差し指と中指でコチラを強く指しながら、夏那美は熱の籠もった声を発する。
「変な時期に転校して来て不安なのはよく分かるの。でも安心して。ワタシが貴方を正しい方向に導いてあげるから!」
 両腕で自分の体を守るように抱きかかえながら、夏那美は目を瞑って自分の世界に浸り始めた。
(またか……)
 うんざりといった顔付きで、麻緒は夏那美から視線を外す。
「貴方にはこれからするべき重大な使命があるのだから!」
(そんな物……とっくに終わったよ……)
 両手を迷彩模様のカーゴパンツのポケットに突っ込み、麻緒は深く溜息をついた。
 龍閃討伐という大きな使命から解放されたとしても、退魔師としての仕事が無くなったわけではない。小さな妖魔相手の仕事はまだ沢山ある。
 しかし、麻緒はそれには参加させて貰えなかった。

『麻緒、アンタは今からでも十分やり直せる。今日限りで退魔師からは足洗うんや』

 一年半前。
 龍閃との戦いの事後処理が全て落ち着き、次に土御門財閥が何をして行くかを話し合う席で久里子が言った言葉。
 思わず耳を疑った。
 やめる? 退魔師を? そんな馬鹿な話があるか。
 龍閃を倒せたから自分は用済みだとでも言うつもりか。自分にはもう、ココ以外に居場所は無いというのに。

『心配せんでもええ。その辺はウチがちゃーんとやったる』

 久里子が麻緒にその話をした時、すでに死亡記録の変更と戸籍の回復手続き。そして両親への事情説明までが終わっていた。
 あとは整形した麻緒の顔を元に戻し、小学校への編入手続きを行えば立派に社会復帰できるところまで段取りは進んでいた。
 自分の知らないところで。

『残った雑魚みたいな妖魔共は、わざわざアンタが出んでも何とかなる。ええか、麻緒。コレはな、アンタのために言ったってるんや』

 余計なお世話。
 本当に余計なお世話だった。
 自分はこの先一生、退魔師として生きて行く決意をしていた。『玄武』に覚醒した時から。そのために他の物は全て捨て、友達や親とも決別したというのに。
 なのに今更戻れ? そんな事できるはずがない。
 それにどうして久里子は戻らない。不公平でないか。

『ウチは一応、この洋館の指揮しとるからな。抜けるわけにはいかん。それにウチにはもう家族なんかおらん。みーんな殺してしもーたからな。ウチがこの手で』

 久里子は麻緒とは違い、先天的な資質を持っていなかった。だから『天空』に覚醒した時に暴走し、その余波で家族を殺してしまった。そして久里子自身は両目の光を失った。
 あまりにも大きな代償。しかし麻緒にはソレが全くない。持って生まれた才能のおかげで。
 だからやり直せる。やり直して欲しい。いや、何が何でもやり直させる。
 久里子の固い意志。
 彼女が本当に自分の事を思って言ってくれている事は分かった。久里子にはもう取り戻したくても取り戻せない家族の温もり。ソレを麻緒に与えようとしている。それは理解できた。だがやはり納得行かない。
 こんな特異な力を持っている以上、もう普通の生活などできないだろう。何かの拍子に力を使ってしまえば、周りから変な目で見られるに決まっている。友人からも親からも、化け物を見るような視線を向けられるのは分かり切っている。
 麻緒はソレが恐かった。
 そんな心配事を抱えてこの先生きて行くよりは、今の慣れ親しんだ環境に居た方がよっぽど楽だ。

『麻緒、そん時はそん時や。もしどーしてもアカンよーになったら、またココ戻って来たらええ。せやけど何もせんうちから諦めんな。そんな根性ない事ゆーとったら冬摩に笑われんで』

 荒神冬摩。龍閃に代わって最強の魔人の座を手に入れた男。麻緒が尊敬する存在。彼の純粋な力と真っ直ぐな想いに惹かれ、麻緒は冬摩の事を兄のように敬い親しんで来た。戦い方や信条もすべて冬摩から学んだ。
 その冬摩は今、仁科朋華という最愛の女性を見つけ、実質上退魔師としての稼業からは足を洗っている。
 ならば自分も……?

『麻緒。何にでもな、時期っちゅーモンがあんねん。ほんで今は休んどく時期や。また龍閃みたいなゴッツイ奴出て来たら、そん時はアンタの力借りるわ。せやから今は冬摩みたいにのんびりしとけ。学校行って、カワイイ子でも見つけてこいや。な?』

 冬摩みたいに。
 今まで冬摩の真似ばかりしていた麻緒にとって、その言葉は何よりも重く心に響いた。
 そして数ヶ月悩んだ挙げ句、『駄目だったらまた戻って来ればいい』という久里子の言葉を自分に言い聞かせて麻緒は社会復帰した。そしてしばらく両親と過ごして日常に慣れた後、この小学校に編入した。
 したのだが……。
「――と、言うわけで九重クン! これからワタシが貴方の行く末を占ってあげるわ!」
 相変わらずのハイテンションで夏那美は言い終え、スカートのポケットからタロットカードを取り出す。ソレを高々と掲げてかがみ込み、一枚一枚土の上に並べ始めた。
「……悪いけどまた今度ね」
 面倒臭そうに言いながら立ち上がり、冬摩を真似て伸ばしている少し長めの黒髪をいじる。
「待ちなさい! もうすぐだか……あー! 出たわ! 出やがりましたわ! ズバリ! 貴方はこれから大災害に巻き込まれます!」
「……うん、そーだね」
 今まさに巻き込まれてるけどね、と胸中で付け加え、麻緒は夏那美の前を通り過ぎた。
「あ、コラ! 今からソレを回避するための手段を……!」
「そのカード、裏向けて置く向きが上下逆だよ」
「へ? あ……あー!」
 溜息混じりの指摘に夏那美が上げた声を背中で聞きながら、麻緒は欠伸を噛み殺した。

 東宮夏那美はいわゆるクラスの中心的存在だ。
 席替えをする時や、遠足の班分けをする時、掃除の段取りや、学芸会でやる劇の準備など、誰かをまとめる仕事は全て自分から買って出ている。それだけに他の生徒からの人望も厚い。
 昼休み。給食を食べ終えた後の自由時間。彼女の席の周りには、いつものように人だかりができていた。
「貴方の探し物は、自分の部屋の押入の奥にある茶色い染みから左に五歩、上に三歩進んだ場所にある、宙吊り状態の布巾の中にあります!」
「うおお! そう言えばそんな気が! つーか東宮! なんでそんなに詳しく分かるんだ!」
「ふ……千里眼を持つ女と呼んで」
 騒がしい声を聞き流しながら、麻緒はいつもの場所に向かうために席を立った。
 クラス中の生徒が殆ど夏那美の周りにいる今、麻緒の浮いた行動は酷く目立つ。
「待ちなさい九重クン! 貴方は何か探し物とかないの!?」
 ガタン! と大きな音を立てて立ち上がり、夏那美は自分を囲む人混みをかき分けて麻緒の前に歩み出た。
「……ない」
 相変わらず気のない返事をする麻緒。
 もしあったとしても自分で探せる。今、夏那美が使っている物より遙かに高度な術で。
 だがソレでは自分が本当に欲しい物は探せない。
 冬摩にとっての朋華のように、命を懸けて守るべき存在は。
 今の冬摩には九匹もの使役神という強大な力はあっても、以前のような冷酷で無慈悲な残虐性はない。最初、その事が冬摩を限りなく弱くするのだとばかり思っていた。敵にトドメを刺せず、致命的な失敗を犯すのだと思っていた。
 だが違った。
 朋華という掛け替えのない存在のためなら、どんな事でもする。たとえこの身が果てようとも、朋華だけは守り抜く。冬摩は今、間違いなくそういう男になっている。直接冬摩の戦いを見たわけではなく、久里子から電話で話を聞いただけだが麻緒には直感できた。
 それはコレまでの冬摩にはなかった別の強さ。
 自分のためではなく、他人のための強さ。戦うためではなく、守るための強さ。
 昔の冬摩、そして今の麻緒にとって最も縁遠い強さ。
 この退屈な日常から脱却する手段があるとすれば、その強さを身に付ける事くらいだろう。聞いているだけでも冬摩の幸せさは十分に伝わって来る。
 これまで冬摩の背中をずっと追い掛け続けて来たからというだけではなく、純粋に興味がある。その至福の感情に。
 味わってみたいと思う。
 だが、このままでは恐らく一生味わえないだろう。
 今の自分は周りから浮きすぎている。誰とも話が合わない。皆、精神年齢が低すぎる。それは親も同じ事だ。単なる表面上の付き合い。久里子に強く言われていなければ、今すぐにでも土御門財閥に戻って退魔師としての仕事をしたい。
 やはり自分は戦いの中でしか至福を見出せない。元々戦うために生まれて来たようなものなのだから。
「……じゃ」
 視線を外し、夏那美の隣を通り抜けようとした時、彼女はさらに麻緒の前に回りこんで叫ぶ。
「ちょぉぉぉぉっと待った! 分かったわ! それじゃまず九重クンが何を探したいのかを占ってあげる!」
「遠慮するよ」
 時間は掃いて捨てるほどあるが、無駄に使う気はない。一人でぼーっとしている方が有意義だ。それにあの程度の腕前で、的中させる事ができるとも思えない。
「九重クン、そんな事じゃいつまで立ってもクラスに馴染めないわよ!?」
「別にいいよ」
 冷めた口調で言う麻緒に、夏那美は渋面を浮かべる。
「ねー、東宮さーん。別にいいじゃない、そんな暗い子放っておいても。それより今度は私の占ってよ」
 夏那美の席に集まっていた女子生徒の一人が不満げな声を上げた。
「同感だよ」
 麻緒もそれに賛同する。
「反対だわ!」
 しかし夏那美は譲らない。
 どうしてこの女がここまでするのか理解できない。これだけの労力を使うだけの価値などないというのに。
「それじゃあこうしましょ。占いなんて幼稚な物より、もっと本格的な『黒魔術』を見せてあげる」
 麻緒の方に人差し指をビッと立てて見せ、夏那美は頭を大きく振っておさげを胸の前に垂らした。
「ちょっとそこで待ってなさいよ!」
 強い口調で言い捨てると、夏那美は凄い速さで自分の席に戻る。そしてランドセルの中から何かを取り出して戻って来た。
「コレが何だか分かる!?」
 夏那美が麻緒の前に付きだし物。それは古びたウサギのヌイグルミだった。手の平にスッポリと収まるくらいの小さな物で、耳が片方取れかけている。
「ヌイグ……」
「ただのヌイグルミじゃないわよ!」
 麻緒の言葉を遮って夏那美は言い放つ。
「コレは依り代。いまから降霊術を見せてあげるわ!」 
「降霊術は黒魔術じゃないよ」
 平安期の天才陰陽師、安倍清明のライバルであった芦屋道満が『臨兵闘者皆陣列在前』の九字を用いて生み出した術。それが現代の黒魔術だ。かつての陰陽術に最も近い形とされている。
 一方の降霊術は、陰陽術から派生した数ある術の一つ。黒魔術のように直接効力が発生する物ではなく、依り代と言われる物を媒介してしか力を発揮でない。
 いわば陰陽道の主流が黒魔術であり、亜流の一つが降霊術にあたる。
 一年半前まで退魔師であった麻緒は、使役神の力だけではなく陰陽術を用いた呪符の技もある程度は使いこなせる。それでも玲寺や久里子には遠く及ばず、冬摩のように使役神の力による殴り合いが専門なのだが。
「うっ、うっさいわね! わ、分かってるわよ、そのくらい!」
 即否定した麻緒に、夏那美は顔を紅くして叫ぶ。
「それにこの依り代は使わない方が良いよ。霊を捕縛する術式がおかしくなってる。これじゃ降霊させる事はできても解放できない。厄介な事になるのは目に見えてる」
「な、なんで貴方にそんな事分かるのよ!」
(一応、元プロだからね)
 思いながら麻緒は小さく鼻を鳴らした。
「あ、バカにした! 今ワタシの事バカにしたよね!」
 そしてその仕草が夏那美の逆鱗の触れてしまったらしい。
「面白いじゃない! ワタシの依り代がおかしいかどうか、貴方の目で確かめて貰おうじゃないの! 素人のクセに偉そうに!」
 八重歯を牙のように剥きながら、夏那美は大声でまくし立てる。
「ああ、いや。ゴメン。ボクが悪かったよ。気に障ったんなら謝る」
「キー! なにその落ち着いた感じ! あーもーイヤイヤイヤイヤイヤイヤ! ダメよ! 絶対に付き合って貰うんだから!」
(……だから嫌なんだ)
 本当に精神年齢が低い。まぁ『玄武』からの記憶を受け継ぎ、多くの死線を越えて来た自分が落ち着き過ぎているだけかも知れないが。
「今日の放課後! 最後までちゃんと残っときなさいよ! ワタシがそんじょそこらとは十味も二十味も違う『こっくりさん』見せてあげるから!」
(『こっくりさん』、ねぇ……)
 よりによってあの子供騙しか。アレは人が無意識の筋肉運動で、望んだ通りの答えを導き出しているに過ぎない。霊的な干渉は無きに等しい。
「ねぇ、東宮……やめときなよ。あれはヤバイって……」
 悔しそうに顔を歪め、地団駄を踏みながら麻緒を睨み付けている夏那美に、クラスメイトの一人が心配そうな声で話し掛ける。
「そうだよ。前にやった時、死にかけた奴いるだろ。今度こそ先生にバレるぞ」
 死にかけた? そんな馬鹿な。
「うっさい! ヤルって言ったらヤルの! 絶対にヤルの! ヤルヤルヤルヤルヤルヤルヤル!」
 もうダメだ。手が付けられない。久里子のヒステリーも酷かったが、夏那美のはソレに輪に掛けて酷い。
 麻緒は呆れた顔つきになって溜息をつき、軽く肩をすくめて見せた。
「ガー! ムカツクムカツクムカツクムカツクムカツクムカツク! もしちゃんとこの依り代にこっくりさん喚び出せたら、土下座して謝って貰うからね!」
「……喚び出せたら、ね」
 ココまで来たら付き合うしかない。夏那美を怒らせてしまった原因は自分にある。
 これで一つ学んだ。
 君子危うきに近寄らず、だ。今度からは完全に無視しよう。
「それとアンタ達! 証人になって貰うから一緒に残りなさい!」
 夏那美は他のクラスメイト達を指さして、八つ当たり気味に怒鳴る。
「えー……? 俺はいいよ。パス」
「あたしもー……」
 しかし皆、嫌そうな顔になって離れて行った。何があったのかは知らないが、昔よほどの大事件があったようだ。まぁ、所詮は小学生レベルだろうが。
 きっと死人が出たというのも大袈裟に言っているだけだろう。血が沢山出たとか、気絶してしばらく目を覚まさなかったとか。せいぜいそんなところだ。
「あーもー、いざって言う時役に立たないわね! いいわ! それじゃ度胸のある人だけ残りなさい! 昔のワタシとの違いってやつを見せてあげるから!」
(人の上に立つ器じゃないな……)
 そんな事を思いながら、麻緒は疲れた顔つきで目を閉じた。

◆不完全な召喚術 ―東宮夏那美―◆ 
 夏那美は祖母に過剰な期待を掛けられて育った。
『人に使われるのではなく、使う側に立ちなさい』
 小学校に入った時から、祖母に言われ続けてきた言葉。
 毎日遅くまで仕事をし、安月給でこき使われている父親。
『あの子は昔から要領が悪かった。昔から誰かに使われていた』
 祖母は自分の息子であり夏那美の父親でもある男を、ダメ人間の良い見本として教え込んできた。
 父も母も仕事で忙しく、休日はろくに遊びに連れて行って貰えなかった。いつも一緒に居たのは祖母。だから祖母の意見ばかり聞いて育った。それが正しいのだと刷り込まれた。
 夏那美は祖母の言った事を実行した。
 どのクラスになっても目立ち、他の生徒からの注目を集め、主導権を握っていた。皆から頼りにされ、自然と自分の周りに人が集まるようになっていった。
 自分はそういう力のある人間だ。才能があり、選ばれた人間なんだ。
 強い思い込みは独りよがりな考えを加速させ、夏那美の自己顕示欲は際限なく高まっていった。 
 より強く人の注目を集めるにはどうすればいいか。気が付くとそんな事ばかり考えていた。
 塾で一生懸命勉強して学年トップになり、祖母に頼んで休日はジムに通わせて貰い、苦手だった体育もそつなくこなせるようになった。祖母から化粧を教わって外見にも磨きを掛けたし、料理や裁縫のやり方も学んだ。
 これまで色んな事をして他の生徒との差別化を図ってきた。
 中でも一番効果的だったのは、今やっている『黒魔術』だ。まだ科学的な常識をあまり埋め込まれていない小学生は、お化けや幽霊、怪奇現象や超常現象といった非現実性に過剰な興味を抱く。
 最初は占い程度の物でも十分効果があった。皆、物珍しさに寄って来た。しかしそれだけではだんだん飽きて満足しなくなる。
 レパートリーを増やす必要があった。
 だが夏那美自身、『黒魔術』などという物の存在を完全に信じていた訳ではなかった。あんな物は演出が命。それらしい雰囲気の元、それらしい仕草や儀式をしていればみんな楽しんでくれる。
 そう思って始めた『こっくりさん』だった。
 だからあんな事が起こってしまうなど夢にも思わなかった。
 その失敗からしばらく立ってからだ。夏那美が本格的に『黒魔術』と向き合い始めたのは。
 超常現象についての本を読みあさり、『黒魔術』に関する知識を急速に深めて行った。そして成功させる秘訣は自分に対して疑いを持たない気持ちだと悟った。自分している事は正しいのだと念じる気持ちが強ければ強いほど、成功率は上がっていった。
 おかげで今では大分上達し、占いなどの低級な術に関しては殆ど百発百中の的中率を誇っている。そして同じクラスだけではなく、他のクラスや別の学年からも注目の的となった。
 誰もが東宮夏那美の名前と顔を知り、尊敬と畏怖の念を抱いてくれている。
 だが、半年前に突然転校して来たあの男だけは違った。
「ホントにやるの?」
 放課後の教室。
 日も完全に落ち、月明かりだけしか差さない暗い教室内で、あの生意気な男――九重麻緒はやる気なさそうに言った。
 うなじか隠れるくらいまで、だらしなく伸ばした後ろ髪。どこか投げやりに見開かれた鈍色の瞳。横柄に曲げられた口元。よれよれのTシャツ。膝までしかない中途半端な長さのカーゴパンツ。
(ムッキー! ホントーに腹立つ!)
 夏那美は目深にかぶった黒いフードの下で、下唇を忌々しそうに噛み締めた。
「やるわよっ。当たり前でしょっ」
 大声を上げたくなる衝動を押し殺し、夏那美は教室の真ん中にある机の上に両手を置いて言う。隣では蝋燭の炎がゆらゆらと揺れていた。
 自分達が今ここに居る事は誰も知らない。放課後、校舎一階にある掃除用具入れに皆で身を隠し、完全に日の暮れる夜八時まで待っていたのだ。祖母には友達の家で勉強会を開くから遅くなると言ってある。上手く行けば九時には帰れるだろう。
(絶対コイツにワタシの力を見せつけてやるんだから……!)
 この『こっくりさん』を成功させ、ヌイグルミの依り代に霊を憑依させる事ができればさすがに認めるだろう。そうすれば明日からはこの男も自分を見る目が変わる。いや、必ず変えてみせる。
「始めるわよ」
 強い決意を胸に、夏那美は顔を上げて周りに居るクラスメイトの顔を見た。
 集まったのは、自分も含めて全員で六人。
 麻緒以外の四人は、自分と同じ机を囲んで神妙な顔をしている。
(ホントに、意気地なしなんだから……)
 もっと来てくれるのかと思っていた。これまで、体育でした怪我の治療から、テスト勉強、男子の気を惹く方法の伝授など、散々世話してあげたのだ。なのに一人が断ると、その人に引っ張られるかのように次から次へと脱落者が出た。
 最後に残ったのは、この小学校に入った時からの友達である四人だけ。
(アイツら、明日絶対に仕返ししてやるんだから!)
 謝りつつも帰って行った生徒一人一人の顔を思い浮かべ、夏那美は最後に麻緒へと視線を向けた。
「ちょっと九重クン。もっとコッチ来なさいよ」
 教室の隅の方で腕組みし、壁にもたれかかっている麻緒に声を掛ける。
「別にココで良いよ。離れていた方がよく見える」
「あ、そ……」
(クキィー! カッコつけちゃってぇぇぇぇぇ! そんじゃそこでオメメぱっちり開けて見てなさいよ!)
 深呼吸を何度かして強引に落ち着かせた後、夏那美はポケットから一枚の茶色い紙を取り出して机の上に置いた。
 『こっくりさん』は普通、紙の上か下の真ん中辺りに鳥居を書き、その左右に『はい』『いいえ』の文字、そして中央には『あ』〜『ん』の五十音を書く。鳥居の上にはコインを置き、ソレを全員の指で押さえてこっくりさんを呼び出す。そしてコチラの質問内容に答えて貰うというのが基本的なやり方だ。
 だが夏那美が用意した紙は真ん中は空白で、代わりに八つの鳥居が円を描くようにして書かれていた。
「……こ、この前より、入口と出口増えてない? それに、なんか色も……」
 夏那美の前に座っている同級生の一人が、少し声を震わせながら言う。
 『入口』と『出口』というのは鳥居の事だ。普通は同じ鳥居からこっくりさんに入って来て貰い、同じ鳥居から出て行って貰う。
 だが夏那美の用意した紙には入口が四つ、出口が四つ書かれていた。
 より多く、そしてより強いこっくりさんを喚び出し、すぐに出して依り代に憑依させるためだ。依り代であるヌイグルミに直接喋って貰うので、文字盤を書く必要はない。
「大丈夫よ。心配ないわ」
 自信に満ちた声で夏那美は返す。
 夏那美は二年前にも同じ事をやった。あの時は入口が二つ、出口は一つだった。
 しかし、今の自分は二年前とは比べ物にならないくらい腕を上げているはず。なによりこのくらいでないと、あの嫌味なほどに落ち着いた男を驚かせる事ができない。それでは意味がない。
 確かに、紙の色はあれ以来使っていないにも関わらず、随分と変わっているようだが、そんな事は関係ない。元々それらしい雰囲気を出すために、骨董品店で見つけて来た羊皮紙だ。二年も放っておけばこのくらいにはなるだろう。
「じゃ、みんな手を繋いで」
 夏那美はフード付きの黒マントを羽織り直し、両手を左右に居る同級生達に差し伸ばした。彼らは夏那美の手を恐る恐る握り、隣り同士とも手を繋いで円陣を組む。そして目を瞑って頭を低くした。
「こっくりさん、こっくりさん」
「こ、こっくり……さん。こっくり、さん……」
 夏那美の声に続いて、皆こっくりさんの名前を呼ぶ。
「こっくりさん、こっくりさん」
「こっくり、さん。こっ……くりさん」
「居られましたら出て来て下さいませ」
「お、居られましたら。出て来て……下さい……」
 本心から望んでいないのか、同級生達の声は尻窄みに小さくなっていく。
「こっくりさん! こっくりさん!」
 ソレを鼓舞するかのように、夏那美は声を張り上げて叫んだ。その大声に驚いて、夏那美の手を握っていた同級生が小さく悲鳴を上げる。
「もぉー、ちゃんとやってよねー。こっくりさん来ないじゃないのよー」
「ご、ゴメン……」
 一瞬、離れそうになった彼の手を握り直しながら、夏那美は麻緒の方を横目に見る。
 麻緒は腕組みしたまま、相変わらずコチラを馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべていた。
「行くわよ! しっかりね!」
 夏那美は怒りと一緒に大きく息を吸い込む。そしてゆっくりと吐きだし、錐のように目を細めて蝋燭の炎をじっと見た。
(絶対にできる。ワタシならできる。ワタシは正しい。ワタシは間違っていない!)
 何度も自分に言い聞かせながら、少しずつ、確実に集中力を上げて行く。そして再び目を閉じて俯き、口を開いた。
「こっくりさん、こっくりさん。居られましたら出て来て下さいませ」
 暗い教室内に響く夏那美の声。
 だが、他の同級生からは呪文が返って来ない。
 またサボっているのかと夏那美は目を開け、みんなの方を見た。
「ちょっと! やる気あるの!?」
 しかし夏那美の怒声にも彼らは俯いたままピクリともせずに、八つの鳥居が書かれた目の前の紙を見つめている。
「聞いて……!」
 さらに声を張り上げようとした夏那美の顔が引きつった。
 緩慢な動作でコチラに向けられた、八つの虚ろな瞳。まるでガラス玉のように透き通り、意思を感じさせない双眸。
「な、なん……」
 四人の同級生達は両腕をだらりと下げ、首の関節だけを回して夏那美の方を見つめていた。生気も何も宿っていない、亡霊のような視線で。
『出してくれて……有り難う……』
 一人が老婆のようにしゃがれた声で言う。
『でも……本当に欲しいのは……』
 そして別の一人が夏那美に両手を伸ばして来た。
 触手のようにいびつな動きを見せながら、近づいて来る指先。視界の中でそれが徐々に大きくなって行く。まるで獲物を求めるかのように。
 体の最深から急激に立ち上る嫌悪感、汚物感、そして恐怖、絶望。
 声を上げる事すらできない。さっまで普通だった友人のあまりの変貌ぶりに、金縛りにあったかのように体が動かなくなっていた。
 伸ばされた十本の指が、夏那美の頬に触れ――
「驚いたな」
 すぐ真横で声がした。
「まさか本当に喚び出せるなんて」
 いつの間にか隣りに来ていた麻緒が、自分の目の前まで迫っていた指を振り払う。
「低級妖魔とは言え……」
「いやああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 そこでようやく声が出た。同時に不可視の束縛から解き放たれ、体の自由が戻って来る。
 そして――反射的に麻緒の体を後ろから突き飛ばした。
「な――」
 短く聞こえる麻緒の声。
 彼の体が大きく前につんのめり、おかしくなった同級生達の腕に絡み取られる。
 その光景から逃げるように顔を後ろに向け、夏那美は教室を飛び出した。

 同じだった。二年前のあの時と。
 『黒魔術』という物をデタラメだと軽視し、まだ遊び感覚で扱っていた頃。
 夏那美は占いよりも効果的に注目を集めるため、『こっくりさん』をやって見せた。
 だが誰でも知っている『こっくりさん』では面白くない。そこで思いついたのが普通とは違うこっくりさんの喚び出し方だ。
 入口と出口を別々にし、文字盤を使わず直接誰かに憑依させて喋らせる。
 この一風変わった『こっくりさん』に、クラスメイト達は興味津々だった。少人数では恐いかも知れないが、みんなでやれば平気。小学生特有の集団心理。
 夏那美の『こっくりさん』に、クラスに居た殆どの生徒が集まって来た。
 場所は体育館の舞台の上。幕を下ろしている状態なら外から見えないのは勿論の事、声も漏れにくい。それに広さも十分にある。
 『こっくりさん』は昼休み、まだ周りが明るい内に行われた。放課後この場所はクラブ活動で使われてしまうからだ。
 最初、夏那美は演技するつもりだった。
 自分の体に憑依した事にして、質問にはデタラメに答えるつもりだった。ソレで十分。演技をしているという証拠はどこにもない。皆が楽しめて、自分が注目を浴びる事ができればそれで良い。
 本当にソレしか期待していなかった。
 しかし、憑依は実際に起きた。
 ガラス玉のような瞳、しゃがれた声、そして――異常な力。
 取り憑かれた一人の女子生徒は、周りに居たクラスメイト達をなぎ倒し、大怪我をさせた。彼女はそのまま奇声を上げながら体育館内を走り回り、階段を駆け上がった。
 屋内テラスのように内側へとせり出した中二階部。木でできた海のように広がる一階を見下ろしながら、彼女は中二階の柵によじ登った。
 そして、何の躊躇いもなく飛び降りた。
 体育館内に響く、くぐもった嫌な音。
 辛うじて一命は取り留めたものの、全治四ヶ月の大怪我だった。
 バレたら退学。
 自分達がした事の重大さも認識せず、その場に居合わせた者達は皆、保身のために事の真相をひた隠しにした。勿論、正直に話したところで誰も信じてはくれないだろう。しかし保証など何もない。知らないフリをしていれば、そのうち忘れられていく。
 そう願い、皆いつもと変わらない日常を演じ続けた。
 いつも通り夏那美を囲み、いつも通りはしゃいでいた。
 ぎこちなく作り上げた笑顔の下で、いつかバレるかも知れないという恐怖と戦いながら。
 そして四ヶ月が経ち、取り憑かれていた女子生徒が退院して来た。
 彼女には事故当時の記憶は全く残っておらず、『こっくりさん』が原因であった事は誰にもバレなかった。
 体育館中二階の柵が低く、ふざけてよじ登った生徒が足を滑らせた。
 結局、学校側の監督不行届という事で事件は処理された。あれ以来、体育館を使用する際には必ず教師が付き添うようになった。
 夏那美はもう二度と『こっくりさん』などしないと誓った。
 占いすらやらない時期もあった。
 皆、あの事件の事は一言も口にしなかった。
 しかし夏那美を見る周囲の視線は、確実に冷たくなって行った。
 ――もうあんな事に巻き込まれるのはゴメンだ。アイツは面白いけど度が過ぎる。ちょっと目立つからっていい気になりすぎだ。
 そんな事を影で囁かれても誰にも相談などできず、夏那美は不満だけを積もらせて行った。
 ――ワタシ一人が悪いんじゃない。みんなもやろうって言った。みんな楽しんでいた。誰も止めなかった。責任はみんなにある。
 自分にそう言い聞かせて耐え続けた。耐えながら、『不満』は『絶対に見返してやる』という思いに変わって行った。
 学年が一つ上がり、同じクラスに事件の真相を知っている生徒は殆ど居なくなった。
 そして夏那美はまた動き出した。皆から注目を集めるために。人の上に立つために。自分を疎外したクラスメイト達を見返すために。
 あの事件の前まではちやほやしていたのに、急に手のひらを返したかのように冷たくなってしまった前のクラスメイト達を。
 二度と同じ失敗はしない。『黒魔術』という物は本当に存在する。遊び半分でやってはいけない。
 認識を新たにし、夏那美は様々な本を読みあさって『黒魔術』についての知識をより深めて行った。
 別の方法で注目を集めようとは考えなかった。
 思いきり見返すのであれば、同じ方法でなければならない。そしてもう一度占ってくれと言い寄ってきた時に力一杯突っぱねてやる。
 その思いを糧に、夏那美は占いの精度をどんどん上げて行った。
 三ヶ月も経つと、必ず当たる占いができると評判を集め、夏那美はクラスの中心人物となった。自分のできる範囲で『黒魔術』を極め、このままずっと皆から注目を集め続けるのだと確信していた。以前のように大きな失敗さえしなければ。
 しかし、九重麻緒だけは違った。
 達観し冷めきった表情。いくら自分が言い寄っても見向きもしない。
 最初の内は右も左も分からない転校生なのだから、心を開くのに時間が掛かるのだろうと思っていた。それに年度の変わり目ですらない時期に突然来たのだ。それなりの事情はあるのだろうと配慮していた。
 そして半年が過ぎた。
 だが麻緒は変わらなかった。それどころか未だに自分の名前すら覚えていなかった。
 コイツを自分の方に振り向かせるにはどうすればいいか。
 その事だけを毎日考え続けていた。
 そして麻緒が自分の誘いを皆の前で断って見せたあの時。勢いも手伝って口から出た方法が『こっくりさん』だった。
 数少ない去年からのクラスメイト達はすぐに嫌な顔をした。
 ――前にやった時、死にかけた奴いるだろ。
 その言葉を聞いた真相を知らない生徒達も、当然のように『こっくりさん』への参加を拒否した。
 自分自身、二度とやらないでおこうと思っていた『こっくりさん』。
 しかしもう大きな声でやると宣言してしまった以上、後には引けない。それにあの時とは『黒魔術』に対する認識が違う。腕も違う。
 必ず成功させる。いや、絶対に成功するはずだ。
 その強い思い込みが『黒魔術』を為す上で最も重要な事。今の自分はソレをよく知っている。失敗などするはずがない。
 だが結果は――
「は……はぁっ……はぁ……っ」
 廊下の壁にもたれかかり、夏那美は荒く息をしながら足を止めた。
 どこをどう走ったかなど分からない。ただあの教室から離れたかった。学校から逃げ出してしまいたかった。
 このまま家に帰って一晩眠り、明日何も知らない顔で来ればきっと何とかなっている。
 あの時もそうだった。二年前のあの時も、何も知らない顔で居続ければなんとかなった。だったら今回も……。
「東宮……」
 突然後ろからした良く知った声。慌てて振り返ると、さっきまで一緒にいたクラスメイトの一人が立っていた。
「い、や……」
 夏那美は泣き出しそうな顔になって後ずさりする。
「酷いじゃないか、俺達を置いて」
 しかし彼はいつも通りの調子で、溜息をつきながら言った。そのあまりに普通な仕草に、夏那美の中で徐々に緊張感が解けていく。
「へ……平気、なの……?」
 声を震わせながら恐る恐る聞いてみた。
 夏那美の頭に灼き付いて離れない、教室での悪夢のような光景。
 クラスメイトがしゃがれた老人のような声を発しながら、ゆっくりとコチラに手を伸ばし……。
「平気な訳ないだろ。いきなり九重君コッチに押しつけて。まだお尻が痛いよ」
 麻緒とぶつかって転び、床に尻餅を付いたのか、彼は自分のお尻を痛そうにさすりながら言った。
 よかった。彼は取り憑かれていないみたいだ。
 夏那美は安堵の息を吐いて話しかける。
「そ、それじゃ他の人は?」
「他の人?」
「うん。あれからどうなったの?」
「ああ……」
 呟くように言った彼の顔に陰りがさす。
『みんな死んだよ』
 そして次に発せられた声は、異質なほどにかすれきった老人の声だった。彼の目からは光が消え、糸の切れた操り人形のようにだらりと両腕を下げている。
 夏那美の背筋に名状しがたい恐怖と悪寒が走り抜けた。顔の筋肉が引きつり、目の奥に熱いモノが生まれる。
『お前が殺したんだ。お前がな』
 だらしなく開いた口から涎を滴らせ、彼は抑揚のない口調で言った。
『前にあれだけ酷い事をしておいて、よくもぬけぬけと同じ失敗をしてくれたもんだな』
 口の端にイヤらしい笑みを浮かべながら彼は続ける。
『自分が目立ちたいからって、お前はいつも自分勝手な事ばかりだ』
「そ、それは……」
 これは彼に取り憑いている霊が言っている事なのか、それとも彼の本音なのか。
 恐怖と罪悪感が頭の中を蹂躙し、思考が麻痺し始める。
『そんな奴は死んで償うべきだ』
「い、や……」
 黒い感情が体を包み込み、たった一つの思考を除いて全て排除して行った。
『死ぬんだよ!』
 彼の怒声に弾かれたように夏那美は背を向け、この場所から逃げる事だけを考えて階段を駆け下りた。

 泣きじゃくりながら走り続け、ようやくたどり着いた校門の前で待っていたのは別のクラスメイトだった。
「やあ、東宮。辛そうだね」
 彼はにこやかな笑みを浮かべながら手を上げる。
 しかしいつまで立っても自分の方に近寄ってこない夏那美を見て、彼の表情がさっきのクラスメイトと同じように激変した。
『でもな、僕達はもっと辛かったんだ』
 続けて発せられる異形の声。
 夏那美は頭で何か考える前に走り出していた。
「おいおい危ないだろ」
 しかし夏那美の肩を、いつの間にか後ろに立っていた別のクラスメイトが押さえつける。
『まぁ、これからもっと危ない目に遭うんだけどな』
 もう何かが何だか分からない。
 恐怖も感じない。体の感覚すら無くなっていく。涙腺が開ききり、全身の水分が抜けて行くように後から後から涙が溢れかえって来た。
「ごめんな……さい……」
 そして無意識に発せられる謝罪の言葉。
『ごめんなさい? 別に私達はそんな言葉が聞きたいんじゃないわ』
 真横から四人目のクラスメイトの声がした。
「ごめん……なさい……」
 だが夏那美は何も考えずに同じ言葉を言い続ける。
『もっと逃げて見せてよ。これじゃまだ気が晴れないわ』
 クラスメイトの発する辛辣な言葉だけが、頭の中で澱のようにわだかまった。
『これで分かったろ? 誰もお前なんか必要としていないんだ』
 ワタシは誰からも必要とされていない――
『みんな暇つぶしに付き合ってただけさ』
 ワタシとは上辺だけの付き合い――
『お前、自分が嫌われ者だって分かってないのか?』
 ワタシは嫌われ者――
『だから死ぬべきなんだよ』
 ワタシは死ぬべき――
『けどその前にもうちょっと楽しませろよ』
 夏那美の背中を誰かが押す。
「こめん、なさい……」
 涙声で呟きながら、夏那美はふらつく足取りで歩き出した。

 本当に死ぬべきなのかも知れない。
 自分は二年前、クラスメイトを一人殺しそうになった。あの時にもう二度とやらないと誓ったのに、自己満足のためだけにソレを破り、そして同じ過ちを繰り返してしまった。
 ――人に使われるのではなく、使う側に立ちなさい。
 その言いつけを守るために、夏那美は頑張って来た。
 常に周りの視線や評価を気にして、皆から注目を集める事だけに専念した。いつも自信に溢れた顔をして、人の上に立つ者としての格を体現しようとしていた。
 自分への自信。それは『黒魔術』の成功率にも直接繋がる。だから過剰な自意識を抱き続けた。
 自分ならできる。自分は間違っていない。
 根拠もなくそう思い続けて来た。思い込もうとして来た。
 だが、実際はできなかった。
 本当に自分は周りから認められているのか。いざという時は自分を頼ってくれるのか。自分の味方になってくれるのか。逆に助けて欲しい時は手を貸してくれるのか。
 そんな事ばかり気にしていた。
 自分への自信のなさ。それをいつも周りを囲んでくれる人の数で誤魔化していた。例え表面上だけの付き合いでも良い。一人でも多くの人間に囲まれていたい。それだけが唯一、自分の力を証明してくれる物なのだから。
 だからあんなにムキになって麻緒を引き入れようとしていた。
 自尊心を満たす道具の一つとして。
「お、こんなトコに居たのか」
 校舎の本館と別館を繋ぐ渡り廊下の中央。
 俯き、力無く歩いていた夏那美に誰かが声を掛けて来た。
「ったく、やってくれたね。いきなり突き飛ば……」
 夏那美が顔を上げると声の主は言葉を止める。
「ど、どうしたんだよ東宮さん」
 駆け寄り、心配そうな声を掛けてくれたのは麻緒だった。
「ごめんな、さい……」
 夏那美は消え入りそうな声で麻緒にも謝罪の言葉を述べる。
 元はと言えば彼にちょっかいを掛けた自分が間違っていたのだ。無理矢理自分の方に振り向かせようとして、こんな事になってしまった。彼の手で殺されたとしても仕方のない事だ。
「いや、謝ってくれるなら別にいいけどさ」
「ごめんなさい……」
 もう流れきったと思っていた涙が、言葉と一緒に溢れて来る。
「そ、そんなに謝らなくてもいいよ。別に大した事ないしさ。ボクも楽しんでるし」
「ごめんなさい……」
 もう楽になりたい。
「いやだから……」
「ごめんなさい……」
 もう頑張るのは嫌だ。
「東宮さん?」
「ごめんなさい……」
 こんな辛い思いをするくらいなら。
「――なるほど」
 何かに納得したような麻緒の声。
『そろそろ、喰い時か』
 そして、死の声が背後でした。

◆純粋の色 ―九重麻緒―◆
 完全に予想外だった。
 まさか夏那美が本当に『黒魔術』を使えるなどとは思っていなかった。
 そして、こんな所で今まで溜め続けてきた鬱憤を晴らす事ができるとは思ってもいなかった。
 夏那美が行ったのは降霊術ではなく召喚術。
 どういう訳かは知らないが、『こっくりさん』に使ったあの紙には妖魔が棲み着いていたようだ。それを児戯に等しい儀式で喚び出してしまった。当然制御などできるはずもない。
 妖魔の暴走はよくある話だ。麻緒も土御門財閥の洋館にいた頃は何度か鎮めに行った事がある。今回の妖魔は、自分の体を持っておらず誰かに憑依しなければ具現化できない程度の者と、邪霊と呼ばれる殆ど知能を持っていない者の二種類。どちらも低級妖魔だ。
 それでも久しぶりの戦いには血が騒いだ。
 だから憑依された四人のクラスメイト達の中に突き飛ばされた後、麻緒は彼らの攻撃をわざと受けて気絶したフリをした。
 彼らをなんとかするのは簡単だ。即席で作った呪符でも使えば、すぐに封印できるだろう。だがそれでは面白くない。せっかくの嬉しいアクシデントなのだ。目一杯楽しまなければ損というもの。
 麻緒は四人が夏那美を追って教室を出た後、紙から溢れ出てくる邪霊達と『遊んだ』。
 火の玉のような形をした物、首のない人型の者、刀を何枚も張り合わせた形の物。様々な外見をした邪霊達は、視覚的にも麻緒を楽しませてくれた。
 そして『遊び』を堪能した麻緒が残りの四人のクラスメイト達を探していた時、憔悴しきった夏那美と出会った。
「ごめんなさい……」
 彼女は止めどなく涙を流しながら、同じ言葉を繰り返すだけだった。
「――なるほど」
 前から近づいて来る取り憑かれた四人の顔を見て、麻緒は彼らの狙いに気付く。
 彼らは最初、夏那美の体を手に入れたかったはずだ。稚拙とは言え自分達を召喚した者。それなりに『黒魔術』を使いこなせる者としての才能と力はある。
 だが、その力が邪魔して取り憑けなかった。自分の力を信じる思いが強ければ強いほど意識の強さは増し、体を乗っ取りにくくなる。肉体的に、あるいは精神的に衰弱させて取り憑き易いようにする必要があった。しかし後々その体を使う事を考えれば、肉体は無事に残して置いた方が良い。だから精神の方を責め立てた。
 そんなところだろう。
『そろそろ、喰い時か』
 四人が同時に発した声が、暗く狭い渡り廊下にエコーがかって響く。
『東宮夏那美、覚えているか。以前、我を喚び出した時の事を』
「ごめんさない……許して……」
 夏那美は声の方に首だけを向け、怯えた声で呟いた。
『あの時は我の一部しか表に出られなかった。だから全てが不完全だった。だが今は違う。たった二年の間に腕を上げたものよ。人殺しとしての腕をな』
「お願い……許して……」
 妖魔は夏那美の精神を壊すつもりなのか、さらに追い詰めて行く。
「やれやれ」
 麻緒は溜息混じり言いながら、妖魔と夏那美の間に立った。
「もうそのくらいにしておけよ」
 正直もう少し楽しみたかったが、これ以上は危険だ。残念だが終わらせるしかないだろう。
 麻緒は渋々といった様子で、カーゴパンツのポケットからさっき即席で作った呪符を取り出す。
『雑魚に用はない』
(雑魚、ね……)
 半眼になり、呆れたような視線を妖魔に向けながら、麻緒はうなじまで伸びた黒髪をいじった。
 そして――取り憑かれたクラスメイト達の姿が、麻緒の視界の中で劇的に大きさを増す。
『な――』
 一瞬で彼らとの間合いを詰めきった麻緒は、持っていた呪符を一番近くに居た生徒の胸元に貼り付けた。次の瞬間、風が低く啼く音と共に彼の体から何かが飛び出す。天井近くまで舞い上がったソレを追って跳び、麻緒は力の発生点である『爪』を突き立てた。
「はい、ひとーつ」
 呑気な声で言いながら着地し、麻緒は支えを失ったかのように倒れ込んで来た生徒の体を抱きとめる。そして彼の体から先程の呪符を剥がした。
「さーて、次は誰がいいかなー?」
『貴様……!』
 残った三人は同時に叫んで麻緒から距離を取り、驚愕に目を見開く。ようやく麻緒を強敵だと認識したようだ。
「やりたい事あるなら、さっさとやっちゃったほーがいいよ」
 文字通り憑き物の落ちたクラスメイトの体を廊下に寝かせ、麻緒は挑発的な視線を三人に向ける。
『ふん』
 三人は同時に鼻を鳴らすと、夏那美の方に視線をやった。
『そうさせて貰おう』
 妖魔達が不敵に笑ったと思った直後、風の呻りを伴って何かが夏那美に向かって跳ぶ。だが夏那美には何も見えず、何も聞こえていない。ただ虚ろな表情のまま立ちつくしている。そして何かが彼女の体に潜り込んだと思った瞬間、一度だけ頭が大きく振れた。
『貴様の体、頂くとしよう』
 先程まで意思を宿さなかった夏那美の瞳が、殺意の色に染まって行く。その変貌と入れ替わるようにして、妖魔に取り憑かれていた三人の生徒の体がその場に崩れ落ちた。
 体を入れ替えたのだ。そして一つになった。
 元々、この低級妖魔は一つの体を四人の生徒に分けていた。そうして力を分散させなければ、彼らの体を内側から喰い破ってしまう恐れがあった。
 だが、夏那美の体には全てを受け入れられるだけの器がある。黒魔術師としての才能と力故に。
 妖魔は夏那美の体で一つになって力を増し、今度は麻緒の体を乗っ取るつもりだった。
「それは無理だよ。だってもうおしまいだもん」
 麻緒は無邪気に笑いながら呪符を取り出す。
 一つになってくれたおかげで手間が省けた。冬摩の姿をずっと見て来たせいか、麻緒も極度の面倒臭がりだ。手早く終わらせられるならそれに越した事はない。
『舐めるな!』
「そっちがね」
 叫んでコチラに跳ぶ夏那美。突進の勢いに乗せて繰り出して来た彼女の拳撃は、体を低くした麻緒の頭上を掠めて空を切る。紙一重でかわしきった麻緒の目の前で、夏那美の体が僅かに流れた。攻撃終わりにできる絶好の隙。ソレを逃す事なく、麻緒は夏那美の懐に飛び込んだ。
「ほい」
 場違いなほど脳天気な声を出しながら、麻緒は夏那美の胸元に呪符を貼り付ける。
 そして風の低い音と共に、妖魔が体から追い出される――
 ――はずだった。
『馬鹿が』
 上の方からしゃがれた声が聞こえる。
 麻緒は反射的にバックステップを踏んで身を引いた。直後、さっきまで自分の居た空間に、夏那美の肘が振り下ろされる。
「あれ? 効いてない?」
『修行が足りんな、小僧』
 開いた麻緒との距離を一回の踏み込みで詰め、夏那美は蹴撃を放つ。顔の真横で両腕を交差させ、麻緒は足を少し浮かせてその攻撃を受け止めた。衝撃から来る反動に逆らう事なく身を乗せ、水平に跳んで壁に着地する。そのまま更に壁を蹴り、後ろに跳んで大きく間合いを取った。
『期待はずれだったか?』
 夏那美は口の端をつり上げて言いながら、胸元の呪符を剥がして破り捨てる。
「みたいだね」
 どうやら四分の一に別れた妖魔ならば麻緒の作った即席の呪符でも効果はあるが、一つの体に集まり、力を増した妖魔には効かないらしい。
(まいったな……)
 今日は予想外の事が続く。
 時間を掛けてちゃんと作れば強力な呪符もできるだろうが、今はとても無理だ。かと言って呪符以外で憑依型の妖魔をなんとかする方法など知らない。
 完全に自分の失策だった。こんな事なら手間を省かずに、一人一人潰していけば良かったと思うが後の祭りだ。
『我にこの体から出て行って欲しいか』
「うん。そーしてくれると凄く助かる」
『なら貴様の体を差し出せ』
「うーん……」
 どうする。どうすればいい。こんな時、冬摩ならどうする。
 『邪魔する奴はブッ殺す』
 妖魔を追い出す事ができなければ、宿主の体ごと葬り去ればいいだけの事。
 以前の冬摩なら、間違いなく夏那美を殺す選択をしていただろう。
 だが今は――
「しょうがない、ね」
 冬摩はもう誰も殺さなくなった。それどころか無闇に傷付ける事すらしなくなった。全ては朋華を想い、彼女の考えに従うため。
 ならば冬摩を尊敬する者として、冬摩の背中を追う者として、そして冬摩と同じ至福を味わおうとする者として、自分も彼の主義を受け継がなければならない。
 なんとかして夏那美を傷付ける事なく事態を収拾する。
『そうか。なら、避けるなよ』
 夏那美は嬉しそうに口元を曲げ、ゆっくりと麻緒に歩み寄った。
「っく……!」
 腹部に走る激痛。
 麻緒は片目を瞑り、立ったままなんとか耐えきった。
 取り憑くための下準備として、麻緒の肉体を徹底的に痛めつけるつもりなのだろう。
『ククク』
 喉を震わせて低く笑いながら、夏那美は拳を麻緒の体に叩き付ける。
 みぞおち、大腿部、脇腹、顎下、鼻。
 人体の急所を的確に突き、夏那美は麻緒をいたぶり続けた。
「――ッは!」
 五度目のみぞおちへの拳撃に、麻緒の喉から熱いモノが込み上げて来る。内臓をやられたらしい。口の中に広がる鉄錆の味を噛み締めながら、麻緒はその場に膝を付いた。そして低くなった麻緒の横顔に、夏那美の爪先がめり込む。
 首の骨を急激に曲げられた痛みと、口の中を切った痛みが同時に襲いかかり、麻緒は廊下に両手をついた。
『クハハハハハ!』
 四つん這いになった麻緒の背中に踵が抉り込まれる。
 肺の空気が一気に押し出され、口の中の血を廊下に撒き散らした。さらに体を支えていた腕の関節を逆方向に蹴られ、麻緒は顔面から地面に着地する。
『いいざまだ』
 頭上から聞こえる愉快そうな声。
 夏那美はしゃがんで麻緒の髪を掴み上げ、顔を強引に持ち上げると凶悪な笑みを浮かべた。
『頃合いだな』
 血と唾液にまみれた麻緒の顔を満足げに眺め、夏那美は力任せに麻緒の鼻を廊下に叩き付ける。頭に響く嫌な音。
 どうやら鼻の骨が折れたようだ。
『楽しかったぞ。無抵抗の者をいたぶるのは』
 愉悦に染まった声を発し、夏那美は立ち上がった。
『その体、頂くとしよう』
 麻緒の耳元で風が呻り声を上げる。
 力を持った術者にしか聞こえない特殊な音。妖魔が誰かに取り憑く時の前兆。
 風の塊が夏那美の体から離れた気配。それが麻緒に近付き――
「やれやれ……」
 自分の体に触れる直前、麻緒はカーゴパンツのポケットに押し込んでいた物を頭上にかかげた。風の塊はそれに吸い込まれるようにして気配を消す。
『な……!』
 手の平から聞こえる狼狽した声。
「まさか、こんな物の世話になるとはね」
 服に付いた埃をはたき落としながら立ち上がり、麻緒は左手に持っているウサギのヌイグルミに視線を落とした。
 夏那美が降霊術の依り代として使おうとしていた物だ。
「いっつー……。随分とやってくれたじゃないか」
 曲がった鼻の位置を直しながら、麻緒は事も無げに言う。
『何故だ! 何故そんなにも平然と……!』
「フリだよフーリ。気絶したフリに、瀕死になったフリ。バカじゃないの」
 最初、教室で気絶の演技をした時も、コイツは何の疑いも持たずに麻緒を置いて出ていった。夏那美の精神は十分すぎるほど弱っているというのに、不必要に責め続けた。
 人間が今どういう状態なのか。恐らく、この妖魔にはソレがよく理解できていない。だから今回もアッサリと引っかかった。間抜けなほどに。
『ならばもう一度!』
 妖魔はヌイグルミから夏那美に乗り移ろうと体に力を込める。しかし、それ以上何も起こらなかった。
「残念でした。この依り代はデキが悪くてね。一回入ったら最後。出て来れないんだよ」
 この依り代は術式が狂っていて、憑依させる事はできても解放する事はできない。
 まぁ、今回はそのデキの悪さに救われたのだが。
「元々、呪符の扱いは得意じゃないし、こんな持って回ったやり方好きじゃなかったんだ。やっぱ男は素手でしょ」
 言い終えて麻緒はにっこりと笑う。
『や、やめ……!』
 妖魔の言葉は最後まで続かなかった。
 腹に埋め込まれた麻緒の右拳によって。そしてヌイグルミを持っていた左手を離し、右拳ごと壁に叩き付ける。
「はあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 裂帛の気合いと共に放たれる拳の弾幕。ヌイグルミの周りの壁に無数の亀裂を走らせながら、麻緒は妖魔が取り憑いた依り代を殴り続けた。
 取れ掛かっていた片耳はあっさり千切れ飛び、中に詰め込まれていた綿が飛び出す。体を縫っていた糸はほつれ、切れ、胴からも綿が溢れ出して来た。
「オラァ!」
 最後に『爪』を喉元に突き立てる。乾いた音がして、ウサギの首が薄布一枚で繋がっているだけになった。
『ぐ……うぅ……』
「タフだねー。もう飽きちゃったよ。ボク、グロいの嫌いだし」
 虫の息ではあるが、まだ意識の残っている妖魔を放り捨て、麻緒は両手で複雑な印を組む。そして地面に両手を押し当て、力ある言葉を叫んだ。
「使役式神、『玄武』召来!」
 麻緒の黒髪を真上に巻き上げ、局地的な暴風が吹き荒れる。麻緒の影が不自然に長く伸び、巨大な円を描いた。その黒い海から丸みを帯びた巨躯が姿を現す。
 黒光りする硬質的で巨大な亀甲。そこから伸びるのは寒気すらする鋭い牙と、雄々しいたてがみを持った竜の首、分厚い鱗に覆われた鰐の手足、鞭のよう長くしなった蛇の尻尾。
 麻緒の保持する十二神将の一人、『玄武』だった。
『ば、かな……こんな、ガキが……』
「覚えとくんだね。居るんだよ、世の中には。才能を持て余した天才児って奴が」
 口の端に馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、麻緒はヌイグルミを拾って真上に放り投げた。『玄武』は首を長く伸ばし、妖魔を丸呑みにする。
「っんー! スッキリー!」
 両腕を上げて思い切り伸びをし、麻緒は辺りを見回した。
 未だに気絶している四人のクラスメイト。そして口を半開きにしたまま、コチラを見つめている夏那美。
「ありゃりゃ」
 間の抜けた声を上げながら麻緒はパチンと指を鳴らし、『玄武』を体に戻す。
「見られちゃったか」
 てっきり他の四人と同じように気を失っているのかと思っていた。妖魔が体から出ていく時の衝撃は常人にはキツイ物がある。夏那美は少なくとも、それに耐えられる程度には力があると言う事なのだろう。
 さすがに『玄武』は見えていないだろうが、壁を穿つほどの麻緒の異常な力は目にしていたはずだ。
(コレでボクも化け物扱いかな……)
 まぁ、それならそれでしょうがない。土御門財閥に戻る理由が一つできた。周りから疎外され、かつてない孤独感を感じていると誇張して久里子に伝えれば、それなりに納得してくれるだろう。別に嘘をついている訳ではないのだから。
「……どうして、助けてくれたの?」
「ん?」
 自失した表情のまま掠れた声で言う夏那美に、麻緒は眉を顰めた。
「ワタシ……あんなに酷い事したのに……」
 何だ何だ。またまた予想外の反応だ。
 『化け物! 近寄らないで!』じゃなかったのか?
「みんなにも……酷い事沢山……」
「おおっと!」
 足から力が抜け、倒れそうになった夏那美の体を麻緒は慌てて支えた。
「ワタシは……誰からも必要とされてない」
 麻緒の腕の中で、夏那美はうわ言のように繰り返す。
 どうやら精神的なショックが相当大きいらしい。無理もない。普段いくら強がっているとは言え、まだ小学生だ。純粋な分、思い込みも激しい。このまま放っておけば本当に壊れかねない。
「じゃ、ボクが必要としてあげるよ」
 長く伸びた黒髪をうなじの辺りに撫でつけながら、麻緒は明るい声で言った。
「……え?」
「ボクには東宮さんが必要だ。こんなに楽しいパーティーに招待してくれるのは、東宮さんくらいなモンさ。他の人じゃとてもできない。コレはもう才能だよ」
「……え? え?」
「またいつかゆっくり話そう。今日はもう帰ってよく寝た方が良い。大分疲れただろうからね」
 一方的に話す麻緒に、夏那美は大きな目を更に大きくして困惑の表情を浮かべている。
 今は頭が混乱している。色んな事が一度にありすぎた。常人が理解できる範囲をゆうに超えている。
「他のみんなにはボクから上手く言って置いてあげるよ。だから東宮さんはゆっくり休養してて。元気になったら学校に来ればいいから」
「……うん」
 小さな声で言って俯くと、夏那美は麻緒の手から体を離した。
「立てるの? 大丈夫?」
「……大丈夫」
 足下はまだふらついている。だが一人で立てないほどではない。
「じゃ、帰ろっか」
「うん……」
 頷きながら、夏那美はほんの少しだけ笑顔を見せた。

 昨日、『こっくりさん』を一緒にやっていた四人のクラスメイト達を納得させるのは簡単だった。
 彼らは妖魔に取り憑かれていた時の記憶がない。つまり、夜の学校で何が起こったのか全く把握していない。そこに麻緒と夏那美が一緒に居る光景を見せればどうなるか。
 普通は夏那美の『こっくりさん』が大成功を収め、麻緒の興味を惹く事に成功したのだと考えるだろう。自分達の記憶が途切れているのも、『こっくりさん』の影響だと言われればソレを否定する材料はない。
 事実、クラス中の生徒がそう思ったようだった。
「結構タフだね。無理してるのかと思ったけど、そうじゃないみたいだ」
 給食後の昼休み。麻緒は夏那美の席に行き、親しげに話し掛けた。
 さすがに今日は休むだろうと思っていた。だが夏那美は一時間目から出席し、いつもと変わらない様子で授業を受けていた。
 たった一晩で心の整理が付くだけでも大した物なのに、体力も戻っているようだ。コレも才能なのだろうか?
「九重クンこそ怪我はもう良いの?」
「あんなの怪我の内に入んないよ」
 頭の後ろに両手を回し、麻緒は屈託なく笑う。
 龍閃に殺されかけた時の事を思えば、まさしく蚊に刺されたような物だ。
 昨日負った傷は、ほぼ完全に癒えている。麻緒も立派な覚醒者だ。冬摩には遠く及ばないが、回復力は常人のソレとは比較にならない。
「そぅ、よかった」
 夏那美はそれ以上何も聞かずに安堵の表情を浮かべる。本当に麻緒の異常な力を何とも思っていないようだ。
「ねぇ、ちゃんと話してくれるんでしょ? 昨日の事」
 それとも、今はそんな事より遙かに気になる事があるだけかも知れないが。
「あぁ、いいよ。ま、教室じゃ何だし、別のとこ行こーか」

 学校の屋上。立入禁止なだけあって、ココには誰も居ない。空は雲一つない快晴だ。昨日の大惨事が嘘のように。
 ステンレス製の柵に背中を預け、麻緒はあの紙に封印されていた妖魔について話した。夏那美は麻緒が喋っている間、神妙な顔つきで黙って聞いていた。
「ま、信じる信じないは東宮さんの自由だけどね」
「信じるわよ。信じるしか、ないじゃない……」
 確かにその通りだ。他の四人と違い、夏那美は事の一部始終を目にしていた。いくら何でもコレを超常現象の一言で片付けられるはずもない。
「あの紙が……そんな事、全然知らなかった……」
「別に東宮さんが悪い訳じゃないよ。あれは事故だ。ま、運が悪かったと思って早く忘れるんだね」
 夏那美が自分を責め始める前に、麻緒は明るい声を掛ける。
「……ううん。悪いのは全部ワタシよ。ソレは間違いない。あの時、貴方が居なかったら大変な事になってた。ホントに、ごめんなさい……」
 だがソレも無駄だったようだ。
 麻緒は暗い顔をする夏那美を横目に見ながら、やれやれと溜息をつく。
「誰だって失敗はあるよ。自分の力を過信して、できない事をできるって思い込む時もある。ボクだってそうさ。まだまだ自分の力を把握しきれていなかった。だからしっぺ返しが来た」
 言いながら麻緒は、鼻の頭に張られた絆創膏を乱暴に剥がした。痺れるような疼痛が皮膚から浸透してくる。
「運の良い人間は失敗しても取り返しが付く。で、反省してさらに力を高める。東宮さんはきっと運の良い人なんだよ。そして運も実力の内。そこまで落ち込む事ないよ。今度は失敗しないようにすればいいだけさ」
「ワタシ……もぅ、やめる……」
 夏那美はステンレス製の柵を固く握り込んだまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。風が舞い込み、夏那美のおさげを僅かに浮かせる。
「もぅ、頑張りたくない……。ワタシが頑張ったって、みんなに迷惑掛けるだけだから……。それに、みんなだって頑張って欲しくないって思ってるに決まってる」
「誰からも必要とされてないから?」
 麻緒のその言葉に、夏那美は初めて顔をコチラに向けた。怯えたような、怒ったような、泣き出しそうな、複雑な表情を浮かべて。
「妖魔に何言われたか知らないけど、あんなのは東宮さんを追いつめるために言っただけだよ。気にする事なんかない」
「でも……!」
「少なくともボクには東宮さんが必要だ」
 不敵な笑みを浮かべながら、麻緒はカーゴパンツのポケットに入れた手を強く握りしめた。
 まだ、この拳に昨日の感触が残っている。素手で邪霊を打ち砕き、妖魔の取り憑いたヌイグルミに浴びせた拳撃の感触が。
 久しぶりだった。あんなに血が騒いだのは。妖魔から受ける打撃すら心地良いと思った。やはり自分に必要なのは平穏な生活ではない。血で血を洗うくらいの激しい戦闘だ。
 それは土御門財閥に居ないと味わう事ができないと思っていた。しかし――
「またやって見せてよ。『黒魔術』。今度はもっと激しいヤツ」
「そんな……」
「大丈夫。ボクがずっとそばに居てあげるからさ。それなら安心だろ? もの凄い大失敗してもいいよ。絶対に守ってあげるから」
 自信に満ちた顔で言い切る麻緒。
 だが、夏那美は気乗りしない顔で黙って麻緒を見つめている。
「それとも何? 昨日のボク見てビビった? 化け物みたいって?」
「う、ううん! そんな事ない!」
 少し自嘲めいた笑みを浮かべて言う麻緒に、夏那美は大袈裟なほどに顔を振って否定する。
「す、凄く、カッコ良かった、よ……?」
 そして頬を紅潮させ、麻緒から視線を外した。
「そっか。ふぅん……」
 『黒魔術』なんてやっていただけあって、普通の人とは物事の捉え方が違うのだろうか。
 ならますます夏那美は自分にとって必要だ。彼女の前でなら遠慮せずに力を使える。
「こ、九重クンてさ……、『黒魔術』とかそーゆーのに詳しいの?」
 これまでとは少し違った語調で夏那美は言った。どこか落ち着かないというか、照れているというか。
「詳しいって言うか、まぁ……少なくとも東宮さんよりはね」
「じゃ、じゃあ、さ。今度教えてよ。そしたら、ワタシも失敗しないでできるようになるかも……」
「えー……?」
 夏那美の提案に麻緒は露骨に嫌そうな声を上げる。
 麻緒にしてみれば失敗してくれなければ面白くない。もし儀式に成功して、妖魔を制御できてしまっては暴れようにも暴れられないからだ。
「な、なによ、その反応は! それじゃあまたあんな風になった方がいいって言うの!?」
 うん、そーだよ。
 と、言いかけたが、何とか呑み込む。
「うーん、そーだなー……」
 別の似た言葉で麻緒はしばらく考え込み、
「よし。じゃ、こーしよー」
 ポン、と手を打ってポケットから昨日『こっくりさん』に使った紙を取り出した。心なしか、紙の色が白くなったように見える。
「ココにはまだ妖魔が残ってる。茶色っぽいのがその証拠さ。昨日の儀式じゃ出きれなかった奴らが中に居るんだ」
 あの時、夏那美が開いた出口では力の大きすぎる妖魔は出られなかった。つまり、この中には昨日よりも強力な妖魔が居るはず。
「コイツらはこのまま放って置いたら、また力を蓄えて大きくなる。そしたら紙もだんだん黒く染まって行く。その前にコイツら全部出し切って、この紙を真っ白にできたらボクが直々に教えて上げるよ」
 ソレができるようになるまでは、まだまだ時間が掛かるだろう。少なくとも一年……いや、二年は持つはず。それだけ楽しめれば、取りあえず今堪っている鬱憤は全部吐き出せるだろう。
「こ、九重クンが持ってたんだ……」
 汚物を見るような視線を紙に向ける夏那美。
「ま、また……アレやるの? もぅソレ、見つけたら骨董品店に返そうと思ってたんだけど……」
 骨董品店?
 ソレは良い事を聞いた。きっとそこに行けば、この紙みたいな曰く付きの代物は山のように溢れかえっているに違いない。麻緒にとっては夢のような話だ。場所はおいおい聞き出すとしよう。
「ヤルの。昨日失敗したヤツで成功すれば、ちょっとは自信も付くでしょ。『黒魔術』の基本は自分への自信だよ。いつまでもビビってちゃ進歩しない」
「でも……」
 だが夏那美は落ち込んだように顔を暗くする。
「東宮さんには才能あるよ。だってこれから起こる事、昨日から予言してたじゃないか」
「予言……?」
 心当たりがないと言った様子で、夏那美は少し眉間に皺を寄せた。
「タロットカード占い。置く向きが上下逆だったろ?」
 タロットカードには正位置と逆位置があり、それぞれ正反対の意味を持つ。『死神』のカードは正位置ならば大災害を意味するが、逆位置であれば、復活、立ち直りの象徴となる。
「これから先は、きっと成功しかしないよ」
 麻緒の言葉に、夏那美は張りつめていた物がなくなったかのように肩の力を抜いた。
 そしてしばらく考え込み、何か訴え掛けるような目でコチラを見る。
「……守って、くれるんでしょうね」
「さっきそう言ったろ」
 即答した麻緒に、夏那美の表情が緩んだ。
「じゃあ、今夜早速やりましょう」
「へ? 大丈夫? 別に焦る事ないんだよ?」
 自分としてはゆっくり楽しみたいのだが。
「善は急げよ。た、ただし二人だけでね。他の人が居ると危険だから」
「うん。ボクもそっちの方が良いと思う」
 他の人の目を気にせずに暴れられるから。
「それから約束よ。この紙を真っ白にできたら、ちゃんとした『黒魔術』を教えてくれるって」
「いいよ」
 随分とやる気満々だ。ひょっとしたら一年持たないかも知れない。
 まぁ、夏那美が元気になってくれたのは喜ばしい事なのだが。
「そ、それじゃ、今夜ね」
「うん。また今夜」
 照れたような顔で言う夏那美に、麻緒はにこやかな表情で返した。
 コレでしばらくは退屈しなくて済みそうだ。
 冬摩のように誰かを守るための強さを手に入れるのは先送りになりそうだが、そっちはまた別の時にゆっくり探せばいい。時間はたっぷりある。
(まだボク子供だしね)
 抜けるような蒼穹を見上げ、大きく伸びをした。


 麻緒は気付いていない。
 すでに純粋で、真っ白な恋が始まっている事に。

 【終】





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