貴方に捧げる死神の謳声 第二部 ―闇子が紡ぐ想いと因縁―

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参『生まれた意味』


 ――お母さん、もう……疲れたみたい……。

 その言葉を残したきり、母は玖音の前に現れなくなった。
 物心着いた時から座敷牢での生活を強いられ、食事を持って来てくれる母との会話だけが玖音の楽しみだった。母の喋る言葉が玖音の世界の全てだった。母との語らいだけが、玖音の生きている意味だった。
 だが、ある日を境に知らない女性が食事を持って来るようになった。
 毎日違う人が玖音の前に現れた。
 彼女達に母の事を聞いても誰も教えてくれなかった。
 しかし、一人だけ違った。
 その女はまるで汚い物でも見るかのような視線を玖音に向けて言った。

 ――お前の母親は死んだよ。もう、誰もお前を必要としていない。

 最初、何の事なのか分からなかった。
 彼女は座敷牢の鍵を開け、中に入って来てさらに言った。

 ――お前は、死ぬために生まれて来たんだ。

 彼女の右手には小振りの刃物。嘲るような笑みを浮かべてコチラを睥睨する知らない女の顔。肩に走る熱。

 ――母親は死んだよ――死ぬために生まれて来たんだ――

 頭の中で繰り返される言葉。足下に出来る赤黒い染み。

 ――死んだよ――死ぬために――

 凶笑を浮かべる醜い女。頬を伝う温かい雫。体の内側を鷲掴む黒い感情。

 ――死んだ――死ぬため――

 頭の中で膨張し破裂する激情。悲嘆、侮蔑、恐怖、疑念、そして――灼怒。

 紅月の夜だった。

(いつも最後はこの記憶……)
 リビングのソファーで横になり、玖音は目を細めて天井を見つめた。
 一昨日、嶋比良久里子から手に入れた『天空』の記憶。その中に目的の情報は無かった。だが内容自体は膨大だった。さすがに『千里眼』の能力を有しているだけある。同じ十二神将でも『朱雀』や『六合』とはケタ外れの情報量。読み取ったその日は、一日中目眩と立ちくらみが止まらなかった。
 その中に含まれていた真田家に関する記憶。恐らく保持者である嶋比良久里子すら知らない陰惨な過去。
 真田家初代当主、儀紅ぎこう。彼が生涯具現化させ続けた十鬼神『月詠』。そして『月詠』を子孫に受け継がせるため、真田家が取った非情の選択。数百年に渡って呪われた儀式は行われ続け、そして玖音が生まれた。
 儀式を強要する真田の女達。泣いて許しを請う母親。真田から逃げ、玖音を育てようとした。だが見つかり、玖音は座敷牢に閉じ込められた。
 そしてあの紅月の夜――覚醒した。
(死ぬために生まれた、か……)
 『朱雀』と『六合』の記憶を読み取った時、すでに意味は理解していた。そして『天空』の記憶によって、より強く灼き付いた。より深く――傷を抉られた。
 確かにあの時女が言ったように、自分は死ぬために生まれたのだろう。
 だが『月詠』は言ってくれた。『生きるために生まれたのだ』と。彼女の言葉が無ければ、自分は今頃間違いなく別の道を歩んでいた。
 冬摩達の敵ではなく、味方として――
「やれやれ……」
 呟いてソファーの上に体を起こす。
 いつまでも感傷に浸っていても仕方がない。やらなければならない事がある。予想では、早ければ今日やって来るはずだ。
「なーにやってんだ兄貴ー。休みの日に昼間っからゴロゴロとー」
 受験勉強の息抜きに二階から下りて来たのか、妹の美柚梨が明るい声を掛けて来た。
「そんな暇あるならアタシにベンキョー教えろー!」
 向かいのソファーに置いてあるクッションを投げ付けながら、美柚梨は嬉しそうに叫ぶ。その拍子に、軽くパーマがかったセミロングの紅い髪がふわふわと揺れた。
「悪いな。今から出かけるんだ」
 苦笑ながらクッションを受け取り、元の場所に戻して玖音は立ち上がる。
「バイト?」
「そう。今日から冬期講習だからな」
「ちぇー、せっかく今オヤジもオフクロも居ないのになー」
「どういう意味だ」
「べーつに深い意味は御座いませんわよオホホホホのホー」
 カラカラと陽気に笑いながら、美柚梨は軽く握った拳を玖音に当てた。
「今日はアタシが晩ご飯作ってやるから、ちゃんと腹減らして早く帰って来いよ」
「お前が? ちゃんと食える物出すんだろーな」
「しつれーな。お鍋はアタシの得意料理だ」
 小さな胸を張って言い切る美柚梨に、玖音は微笑した。
「あ、今バカにしたろ! そんじゃ兄貴の好物のシラタキは抜きだ!」
「あー、悪かった悪かった。僕が悪かったよ。頼むから大盛りにしてくれ」
「おぅ!」
 元気よく返す美柚梨の頭を撫でてやりながら、玖音は視線を上げる。
(最悪の事態にならない事を、祈るしかないな……)
 必要な結界符の数と型式を頭に思い浮かべながら、玖音は視線を鋭くした。

 ◆◇◆◇◆

◆意外な提案 ―仁科朋華―◆
 帰りの新幹線の中。
 さすがに休日ともなると行きと違って人は大勢いる。それに今は冬休みだ。車内は家族連れの乗客で大いに賑わっていた。
「だから機嫌なおしてくれよー、頼むから」
 それは朋華達の占領する四つの座席も同じで、情けない声を出す冬摩と、
「じゃから何度も言っておろう、冬摩。今が妾に乗り換える時じゃと」
 幾分調子の良くなった『死神』と、
「あ。羽根アリ」
 通路に居た小さな虫をめざとく見つける『羅刹』で活気づいていた。
「だから別に怒ってなんていませんよ」
 冬摩と目を合わせる事なく窓の外に視線を向けながら、朋華は恥ずかしそうに言う。
 あの露天風呂での一件以降、まともに冬摩の顔が見られなくなっていた。
(あんな、あんな大胆な……)
 今思い出しても顔が火照ってくる。
 誰も居ない広い温泉で冬摩と抱き合い、耳元で誘いの言葉を囁かれ――
(あの時、『羅刹』君が出てこなかったら……)
 自分はいったいどうしていたのだろうか。
 キスすら一度しかしていないというのに、それよりずっと先の事まで。
(まだ早い。絶対に早い。ああいうのはもっと大人になってからじゃないと……)
 考えているとまた頭に血が上って来た。
 冬摩と二人きりの時は徐々に大胆になって来ている。ソレは認める。自分の方から体を寄せて行った事もあった。勿論服は着ていたが。
 だからあの時も、『このままの流れで最後まで……』と思った自分が居た事は確かだ。冬摩の逞しい腕で体ごと抱き寄せられ、彼の鼓動を背中で感じ取り、息づかいすらはっきり聞き取れるほど顔を寄せられ、朋華は殆どまともに考えられなくなっていた。そして本能に身を任せ――
(違う! 違う違う違う! 私は絶対そんなはしたない女じゃないモン!)
 ぶんぶんと大きく頭を振って、朋華はその考えを振り払った。
「だ、大丈夫か? 朋華」
「何でもありません!」
 掛けられた冬摩の声に、自分でもビックリするくらい大声で返す。
「あ……」
 そして冬摩の顔が視界に映り、朋華はよく熟れたトマトのように顔を紅く染めた。
うぶよのう、仁科朋華。いつまでもそんな調子では冬摩の相手など務まらんぞ?」
 扇子で口元を隠しながら、『死神』は喉を震わせて低く笑う。
「ほ、ほっといて下さい」
 確かに、『死神』の言う通りこのままでは体がもたない。
 結局あれから、食事をする時も、部屋でテレビを見ている時も、屋敷の周りを散歩して時間を潰す時も、冬摩に顔を向けられなかった。一緒に露天風呂へ行くなどもっての他だ。そんな事をすれば間違いなく脳味噌が茹で上がってしまう。
 それ程、最初の露天風呂で見せた自分の意外な行動は衝撃的だった。
 隣に座っている冬摩をなるべく見ないようにしながら、朋華は『死神』に視線を集中させる。
「そ、それより体の調子の方はもう良いんですか?」
 朋華は周りに聞こえないように小声で話し掛けた。
「あぁ、大分良くなった。まぁ、まだ体が重い事は重いがのぅ」
 結局、『死神』に掛けられた『閻縛封呪環』は完全には取り除けなかった。今の真田家の中で随一の使い手と言われている沙楡という女性を筆頭に、十数人もの陰陽師が『閻縛封呪環』を解こうとしたが、弱めるのが精一杯だった。
 つまり、それだけ玖音の術の完成度が高く強力だという事だ。
 やはり根本的に解決するためには玖音に解いて貰うしかない。
「ったく、あんなに時間掛けやがったくせに結局できねーで終わりやがるんだもんな」
 やれやれと嘆息しながら冬摩は背もたれに体重を預ける。
「ま、得るモンもあったけどよ」
 冬摩の方に顔を向けられないので分からないが、恐らく笑っているのだと思う。
 冬摩がこれ程落ち着いているのは訳があった。
「まだコッチの方向で大丈夫なんだな」
 冬摩の問い掛けに『羅刹』はコクン、と小さく頷く。周りの乗客から奇異の視線が集まる気配がするが、冬摩はそんな事お構いなしだ。
 『死神』や『羅刹』の姿は普通の人には見えていない。向こうからは触れる事さえ出来ない。かといって荷物棚に座らせ続けるのはさすがに可哀想なので、四人分の指定席を取ってある。真田家が羽振り良く帰りの交通費を出してくれなければ、朋華の貯金は底を突くところだった。
 そこまでして二人を具現化させているには理由がある。
 『死神』は『閻縛封呪環』の影響なのか、冬摩の体に戻ろうにも戻れなくなっていた。『死神』本人も冬摩自身も、何故かあまり気にしていないので朋華も深くは触れていない。恐らく『死神』は冬摩のそばに居たいからだろうし、冬摩はもうすぐ元通りになると考えているからだろう。
 そのための『羅刹』だった。彼を具現体としてそばに置く事で、冬摩は玖音の居場所を突きとめようとしている。
(血の匂い、か……)
 『羅刹』の能力は『吸血』らしい。そして今の血を吸っていない状態は、いわば飢餓状態。だから他からの血の匂いに対して異常に敏感らしいのだ。
 冬摩から聞いた話では、あの屋敷の裏手に座敷牢があり、ソコに玖音と思われる人物の血の匂いが残っていたそうだ。
 魔人に近い血の匂い。ここ十年から二十年以内に出来た血痕。
 その期間、魔人が龍閃と冬摩しか居ないとすると、座敷牢にあったのは玖音の物である可能性は高い。確証はないが。
 玖音は最初の冬摩との戦いで、胸に大きな傷を負った。あの傷がまだ癒えていないのだろう。『羅刹』が今追っているのは多分そこから発せられる匂いだ。
(魔人の血、座敷牢、か……)
 やはり阿樹が教えてくれた玖音の人物像と、朋華が持っている印象とでは隔たりがある。朋華も見せて貰ったが、例の座敷牢は明らかに隠していた。阿樹はあの場所に玖音を幽閉していたのだろうか。
「朋華」
 突然後ろから声を掛けられ、朋華は体を震わせた。
「は、はい……?」
 振り向く事なく背中で返事をする。頭に上っていく血が考え事を中断させた。
「多分、今日でケリ付くからよ。そしたらこの冬休み、電車乗って温泉でも行くか」
 温泉。
 そのキーワードによって、あの時の光景と恥ずかしい心理が生々しく惹起される。
 新幹線の窓に額を押しつけ、顔を真紅に染め上げたまま、朋華は唇を真一文字に結んだ。
 そして東京に着くまで、その姿勢が崩れる事はなかった。

 『羅刹』が血の匂いをたどり、行き着いた場所は全国的に有名な進学塾だった。朋華達の住む街から、三駅ほどしか離れていない場所だ。
 大通りに面した十階建てのビルで、全体を白く塗装した清潔感溢れる外観。真ん中の五階部分は完全なガラス張りになっており、下からでもはっきり見えるほど沢山の観葉植物が置かれていた。
 幼稚園生から高校生まで幅広く教えている事を一つの売りにした、マンモス塾だった。今も目の前で、様々な年代の学生達が塾へと足を運んでいる。
「間違い、ねぇな……」
 具現化させた『白虎』の毛並みを撫でてやりながら、冬摩は口の端をつり上げて笑った。先程、『白虎』が咆吼すると同時に塾の中から甲高い啼き声が返って来たのだ。だが他の人間がそれに反応した様子は無い。阿樹の言った事が本当ならば、恐らく玖音の『朱雀』と共鳴したのだろう。
 東京に戻って来てから冬摩はおかしくなり始めた。
 殆ど喋らなくなり、黙々と『羅刹』の後を付けるだけだった。どんな人混みでも、冬摩が近づくと二つに割れた。それは冬摩を避けると言うよりは、冬摩から逃げると言った方が適切なほど悲惨な反応だった。目を合わせた人達は例外なく蒼白になり、子供の中には突然泣き出す者も居た。
 獲物が手の届く距離まで近づき、冬摩は明らかに殺気立っていた。そばに居るだけで肌が痺れてくるような気さえする。
「ク、ククク……」
 邪悪な笑みを浮かべ、冬摩は『白虎』と『羅刹』を自分の体に戻して塾の出入り口へと大股で向かう。そのすぐ隣を『死神』が浮遊して行った。
(だ、大丈夫、かな……)
 ココまで来た以上、止めたところで聞きはしないだろう。さすがに今の冬摩の顔を見ても赤面する事はない。新幹線の時とはまるで別人だった。
「あぁん!?」
 朋華が後を追おうとした時、冬摩から大きな声が上がる。一気に周囲の視線が冬摩へと注がれた。
「こ、の……!」
 苛立たしげに体を動かす冬摩。しかし塾の出入り口から五メートル程離れた場所から前に進まない。
「ふざッ、けんじゃねぇぞおおぉぉぉぉぉ!」
「と、冬摩さん! どうしたんですか!?」
 歯を剥いて怒鳴りつける冬摩に慌てて駆け寄り、朋華は周りの目を気にしながら聞いた。そばに居た学生や出入り口近くに居る守衛から注がれる目線は、珍獣に対するソレと全く同じだ。
「ほぅ、コレは結界じゃのう。それもかなり強力なヤツじゃな。多重結界は扱いが難しいのに構成がしっかりしておる。この時代にこれだけ見事な技を披露できるとはのぅ」
 『死神』が隣で感嘆の声を上げる。
「ヤロウ!」
 目を大きく見開き、冬摩は血走った瞳でビルの隅を見た。
「けっ、かい……?」
 つられて朋華も見回す。だが何も見つからない。
「結界符を別の呪術で隠しておるな。敵ながら天晴れな奴じゃ」
「あのガキィ! こんなモン俺がブッ壊せねーとでも思ってんのか!」
 叫びながら冬摩は左拳を大きく振り上げ、地面に突き立てようとする。
「ちょ、ちょっと待って、ストップストーップ、冬摩さん! ダメ! 絶対にダメ!」
 冬摩の左腕に体全体で掴みかかり、朋華は必死に拳撃を止めた。コレが左腕ではなく右腕だったら、朋華の体を跳ね飛ばして振り下ろされていただろう。
「なんだよ!」
「ちょっと、君。いいかな」
 鼻に皺を寄せて食い付いてくる冬摩に、横手から声が掛かった。守衛だ。さすがに冬摩の異様な行動に反応したのだろう。無理もない。いや、当然と言える。
「あぁ?」
 自分より背の低い守衛を見下ろしながら、冬摩は凄絶な視線で射抜いた。
「さ、さっきから何やってるんだ。君達も塾生か?」
 一瞬たじろぎながらも守衛は気丈に返す。
 冬摩と朋華は未だに学生服だ。塾生と見られても不思議ではない。
「ナわけね……!」
「そうなんですー! この人ちょーっと昂奮してて! 勉強の方、上手く行ってないものですからー!」
 冬摩の口に両手を押し当て、朋華は守衛と冬摩の間に割って入りながらぎこちない笑みを浮かべた。
「しかし、今『ブッ壊す』とか……」
「あ、アレは、『この世の常識なんかブッ壊して、東大行ってやる!』って意気込みなんですよーアハハハハー」
 あまりに苦しい言い訳に、守衛は不審気な視線を朋華に向ける。
「他の塾生の迷惑になるような事は止めて貰いたい。今は大事な時期なんだからね」
「す、スイマセン……」
「テメー、朋華に何言ってやがる! ブッ飛ばすぞコラァ!」
 いつの間にか朋華の両手を振りほどいた冬摩が、守衛に喧嘩腰で叫んだ。
「君、どうも危ないな。本当に塾生なのか? 学生証見せて」
「ンなモンあるわけ……!」
「す、スイマセン! 今日ちょっと忘れて来ちゃって!」
 冬摩の声を遮って朋華が大声を上げるが、守衛はさらに疑わしい視線を向けてくる。
「本当か? じゃあ名前を言いなさい。データベースで照合するから。ちょっと来て」
 言いながら守衛は朋華の腕に手を伸ばした。
「朋華に気安く触んじゃ……!」
 激昂し、守衛を突き飛ばそうとする冬摩。
 しかし冬摩の荒々しい声が途中で止まる。
 ――朋華の唇に遮られて。
 朋華は冬摩の顔を両手で固定し、更に強く唇を重ね合わせた。強ばっていた冬摩の体の筋肉が見る見るほぐれ、最後には冬摩の方から朋華の体を抱き寄せてくる。
 しばらくその状態で時が止まり、守衛の咳払いでようやく動き始めた。
「そ、そーゆー事やるなら家でやりなさい。まったく、迷惑な奴らだ……」
 ブツブツと文句を言いながら守衛は朋華達から離れて行く。
(よかった……)
 ホッと胸をなで下ろし、朋華は唇を離そうとするが冬摩がそれを許してくれない。
「んー! んんー!」
 冬摩の胸を力一杯押し返し、朋華はようやく解放された。
「公衆の面前で接吻か。大胆になったものよのぅ、仁科朋華」
 扇子で口元を隠しながら、『死神』が白い視線を向けてくる。
「だ、だって、こうするしか……!」
 冬摩の激情を収め、守衛の言及から逃れるにはコレしか思いつかなかった。あのまま冬摩が手を出していれば、間違いなく大怪我をさせていた。
 それにしても――
(女が男を止めるためにキスする!? 普通逆じゃないの!?)
 咄嗟に取った自分の大胆すぎる行動に、朋華は顔を真っ赤にして冬摩を睨み付けた。
「なんで、こんな……」
 ムードの欠片もないのだろう。この前の露天風呂と言い、自分達の恋愛は行き当たりばったり過ぎる。
「お、おい。朋華……?」
 いつの間にか涙が出ていた。
 恥ずかしさと、情けなさと、悔しさで。
「冬摩さんの、ばか……」
 この男にそう言う物を求めるのが間違っているのだろうか。
 冬摩は徐々に自分に合わせてくれると言っていた。ならば自分からも冬摩に合わせるべきなのだろうか。この直情的で向こう見ずで後先の事など欠片も考えていない無神経男に。純情で真っ直ぐで自分のためなら何でもしてくれる頼もしい男に。
(だって、好きになっちゃったんだもん……)
 それはもう動かしようのない事実。自分は冬摩に惚れている。心底惚れている。
 だから、もう冬摩のあんな顔は見たくない。
「冬摩さん」
 朋華は涙目のまま、訴えかけるように冬摩を見上げる。
「お、おぅ」
「私の事、好きですか?」
「も、勿論だ」
「私がどんな事しても、好きでいてくれますか?」
「当たり前だろ」
「信頼して、くれますね?」
「ああ」
 力強く言い切る冬摩の最後の言葉をしっかりと聞き、朋華は塾の出入り口へと駆け寄った。
「私、真田さんに会ってきます」
「そう――はぁ!?」
 冬摩の大声に再び周りから視線が集まる。
「ちょっと待……!」
 朋華の元に駆け寄ろうとするが、冬摩は見えない壁に弾かれた。結界だ。
 朋華は今、結界の中に居た。
 どういう仕組みになっているのかは知らないが、自分は入れるらしい。その事はさっき冬摩ともみ合っている時に偶然分かった。
 よく考えてみれば、全員を無差別に弾いていたのでは塾生まで入れなくなってしまう。恐らく、ある程度力の強い者のみを選択して拒絶するようになっているのだろう。
「朋……!」
「冬摩さん!」
 冬摩の言葉に被せて、朋華は鋭い声を発した。もう周りからの視線など気にしていられない。こちらも強く出ないと冬摩を説得出来ない。
「信頼してくれるって、言いましたよね」
「ソレとコレとは……!」
「同じです。私、嘘付く人って嫌いです」
「ちょ……!」
 怒ったような、泣き出しそうな複雑な表情で固まり、冬摩は言葉を詰まらせた。
「三十分だけ、時間を下さい。三十分たったら絶対に戻って来ますから」
「だ、だめだ! アイツに殺される!」
「真田さんはそんな事しません。そうしたいんだったらチャンスは最初にいくらでもあったはずです」
「それは……!」
 そう。もし自分の体の一部が本当に欲しいのなら、殺して奪い取ればいいだけの話だ。最初、わざわざあんな周りくどいやり方で、事故に見せかけた偶然を装わなくても玖音ならアッサリ出来たはず。
 追いつめた時も、朋華がわざわざ人気のない場所に行くまで待つ必要はなかった。
 自分の事しか考えていないのなら警官を庇う必要もないし、暴走した冬摩を引き受ける必要もなかった。
「大丈夫。いざとなったら逃げればいいだけです。窓から飛び降りれば、冬摩さんがすぐそばに居るじゃないですか」
 それが、あの時と決定的に違う点。
 冬摩という安全地帯がすぐそばにある。その事が朋華を安心させ、強気にしている要因でもあった。
「だ、大体お前一人で会ってどうするつもりなんだよ!」
「もうこんな事止めましょうって、言うつもりです」
「それで何とかなるわけねーだろ!」
「何とかならなかった時はその時です。やってみないと分かりません」
「俺はな……!」
「力任せにやっても余計ややこしくなるだけです。話し合いで済むんならら、ソレが一番の近道です」
「けど……!」
「冬摩さん」
 戦人のように殺気立った表情から一転して、朋華は童女のように屈託のない顔で冬摩に笑いかける。
「もし何とかなったら、温泉旅行一緒に行きましょうね」
「そ……!」
 それが、トドメとなった。
 冬摩は体を震わせ、何か言いたげな目線を向けて来るが、言葉を詰まらせたまま立ちつくしている。
「それじゃ」
 冬摩に背中を向けて走り出す朋華。
「に、二十分だ! 二十分経ったら何するか分かんねーぞ!」
 背中で冬摩の声を聞きながら、朋華は出入り口に向かった。
 冬摩と玖音を直接会わせるわけには行かない。そんな事をすれば冬摩は問答無用で殴りかかる。そしてまた、あの恐い顔になってしまう。
 あんな冬摩を見るのは嫌だ。胸が締め付けられる。本当は凄く純粋で優しい人なのに……。
 だからこそ、自分だけで解決できるのなら解決したい。最悪、目立たない部分なら体のどこかを差し出してでも。それで玖音が大人しくなってくれるのなら。
「君達ね……ここを劇場かどこかと勘違いしてない?」
 出入り口の前で守衛に呆れた声を掛けられた。
 言われて初めて、さっきまで自分達がどこで何をしていたのかを悲しいほどに実感してしまう。
「二人だけの世界に浸るのは二人だけの時にしなさい」
「は、はぃ……」
 耳の先まで唐辛子のように真っ赤にして、朋華は塾の自動ドアをくぐった。

 塾の中は完全に空調が整っていた。暑過ぎもせず、寒過ぎもせず、コートを脱いで丁度良いくらいの暖かさだ。
 入ってすぐ、緩やかに湾曲した大きなカウンターが出迎えてくれた。そのすぐ右横にはすりガラスで仕切られた個室があり、一つ一つに端末が設置されている。更に奥には飲み物や軽食を販売している自販機が置かれており、大画面の液晶テレビにはどこかの教室の授業風景が映し出されていた。
(すごーい)
 授業料はどのくらいなんだろう、と変な事を勘ぐってしまう。
「あ、あの、真田玖音って人、ココにいますか?」
 だが自分には時間がない。冬摩が許してくれたのは二十分だけだ。
 朋華は案内カウンターに駆け寄って玖音の事を聞いた。
「はい。それでは検索いたしますのでお名前と塾生番号をどうぞ」
「へ?」
 よく考えれば当然の事だ。塾の情報を部外者に易々と教えてくれるはずがない。
「え、えと……」
「どうかしましたか?」
 口ごもる朋華に受付嬢は首を傾げて聞いてくる。
 いけない。このままだと不審者扱いになってさっきの守衛を呼ばれてしまう。
「まさか、こんな所まで来るとはな」
 どうしようかと思案している朋華に、左奥の階段から声が掛かった。
「芹沢先生。お知り合いですか?」
 受付嬢の言葉と同時に、朋華も声のした方に顔を向ける。
 そこに居たのは短いストレートの黒髪に、鋭い切れ長の目を持った男。
 見間違えるはずもない。五日前に自分を襲った人物。
 真田玖音だ。
 玖音は着ている白衣のポケットに両手を入れ、ゆっくりとした足取りで近づいて来た。
「芹沢、先生?」
 疑問符を浮かべる朋華に、玖音は自販機前のソファーを指さす。
「僕に、話があるんだろう?」
 朋華がココに来る事も、その目的もすでに分かっている様子だった。
 玖音は全く動じる事なく、朋華を連れて誰も居ない休憩スペースへと向かった。

 買ってくれた缶コーヒーに口を付け、朋華は正面に座る玖音を見た。コチラから話し掛けるのを待っているのか、玖音は長い足を組んで座ったまま微動だにしない。
「あの、芹沢、先生って……?」
 いざとなったら言いたい事が出て来ない。朋華は取りあえずさっき玖音が呼ばれていた名前の事を聞いた。
「僕の名前だよ。まさか馬鹿正直に本名で生活してると思ってたのか?」
「そ、そうですか……」
 確かに言われてみればその通りだ。真田玖音と名乗っていれば、それだけで真田家に見つかってしまうだろう。やはり阿樹の推測通り、『月詠』の力で芹沢という家族に紛れ込んでいるのだろうか。
「先生って事は、ココで教えてるんですか?」
「あぁ。タダで養って貰うのは忍びなくてね」
 言いながら玖音は足を組み替える。
「で、貴女が僕に聞きたいのはそんなつまらない事なのか? 真田家当主、真田阿樹に会って色々聞いたんだろう?」
「ど、どうしてソレを……」
「さぁね」
 自分達が真田家の屋敷に行っていた事を知っている人物は限られている。自分と冬摩、それに久里子くらいだ。
(まさか嶋比良さんに……)
 いや、そう考えるのは安直だ。玖音は朋華が今日ココに来る事も、来た理由もある程度の予測が付いていた。だが、『羅刹』で玖音の血の匂いを追えると分かったのは一昨日の事だ。そしてその事は朋華と冬摩以外知らない。だとすれば玖音は推測で喋っている? それとも玖音は『羅刹』の事さえも読んでいた?
 考えれば考えるほど分からなくなった。
「貴女の目的は僕との休戦だろう?」
「え、え……?」
 まさかソコまで知られているとは。もはや自分達の行動は玖音には筒抜けなのだろうか。
「さっき塾の前で大声で話していたじゃないか」
「あ……」
 思い出して朋華は顔を赤くした。
「変わった人だな、貴女は」
 言いながら玖音は微笑した。それだけでさっきまでの重苦しい空気が軽くなった気がする。
 やはり、どこかで怯えていた。玖音が実力行使に出るのではないかと。その恐怖から少し解放された。
「自分を傷付け、下手をすれば殺そうとした相手と話し合いを持ちたいなんて人間はそう居ない」
「私は冬摩さんの召鬼ですから。普通じゃないのかも知れませんね」
 朋華の言葉に玖音がまた笑う。
「それに真田さんは私を殺したりなんかしない」
「何故?」
「何となくです」
 今度は眉を上げて、とぼけたような表情を浮かべた。
「本当に変わった人だ。この建物に入って来た時も、まさかと思った」
「それが狙いじゃなかったんですか?」
 冬摩だけを閉め出し、朋華を中に招き入れる。塾内の構造は当然玖音は良く知っている。物陰から機会を窺い、朋華の体の一部を手に入れる事も出来たはずだ。
「期待はしていたさ。ほんの少しだけね。だがまさか実現するとは思わなかった。少し、驚いた」
 髪を掻き上げながら玖音は朋華から視線を外した。そして立ち上がり、自販機で青汁を買って戻って来る。
「好きなんですか?」
「健康には気を遣う方なんだ」
 言い終えて青汁を一気に飲み干した。そして渋い顔で缶を前のテーブルに置く。
「僕の目的は荒神冬摩が持つ使役神の記憶だ」
 軽く息を吐いて、玖音は突然本題を切り出した。
 雰囲気が一変し、朋華も頭と体を緊張させる。
「貴女が休戦を望むなら、僕に彼の使役神の記憶を読ませてくれれば済む話。それには必ずしも貴女の体の一部が必要な訳ではない」
「え……?」
 意外な答えに朋華は上擦った声を上げた。
「直接、荒神冬摩に触れさせて貰えればソレでいい。そうすれば使役神の記憶を覗く事が出来る」
「どういう、事ですか?」
 自分の体の一部は必要ない? ソレではどうしてわざわざ。
「前も聞いたが、貴女の認識では使役神は力を手に入れるための道具、召鬼は使い魔。そう思っているんだったな」
「ええ」
 初めて玖音に会った時に言われた。その認識は間違ってはいないが本質的ではないと。
「十二神将は元々、妖魔と戦うためだけに生み出されたんじゃない。次世代に記憶を移行するために作られたんだ。非選択的にな」
「非、選択的……」
「例えば、貴女の祖母について自分の母親から聞いたとしよう。けどそこには必ず母親の主観が混じる。仲が良ければ良い記憶を、悪ければ悪い記憶を貴女に伝えようとする。そう言う選択性を排除して極めて客観的に、それも全く漏れなく伝える事が式神本来の役割なんだ。そうする事で、陰陽師達は優れた技術を色褪せさせる事なく継承して行った」
「……それは『月詠』さんの記憶ですか?」
「『月詠』は十鬼神だ。『月詠』の力で『朱雀』と『六合』の記憶を読みとった時に分かった事だよ」
 玖音は自分が保持している使役神達の事をアッサリ認める。
 すでにそこまで朋華が把握している事を分かっているのだろう。やはり朋華達が真田家に行った事に関しては、ある種の確信があったのだ。
「十鬼神の方はたまたまさ。魔人達が十二神将を真似て作った物だから、同じ能力を継承した。けど、魔人達の方が記憶の継承に関しては優れていたんだ。召鬼の存在のおかげでね」
 言いながら玖音はスッと目を細め、朋華の体を見る。まるで全てを見透かされているようで、朋華は僅かに身を震わせた。
「魔人は自分の生み出した召鬼を別の魔人に喰わせる事でも記憶の継承が出来たんだ。つまり言い換えれば、使役神は別世代間の情報移行、召鬼は同世代間の情報移行を担っていた訳さ」
 自分の召鬼を別の魔人に喰わせる。
 『喰わせる』とはやはり、言葉通りの意味なのだろうか。想像して朋華は、震えが大きくなるのを感じた。
「それは魔人と召鬼が密接な繋がりを持っていたからこそ出来た事。例えば、貴女と荒神冬摩は繋がっている。だから互いの感情もある程度は分かるし、位置も何となく分かる。けど、紅月の夜が近くなると貴女は荒神冬摩の事が感じ取れなくなるだろう?」
 その通りだ。
 冬摩が苦しんでいても自分には何も伝わってこず、遠くから早く帰って来てくれるのを祈るしかない。その事がもどかしくてしょうがなかった。
「あれは一種の防衛反応。紅月で暴走した荒神冬摩の感情をそのまま受ければ、間違いなく貴女は発狂してしまう。そうならないように貴女から彼への繋がりは自動的に断たれるんだ。情報端末を壊さないためにもね」
 召鬼は魔人にとっての使い魔であり、情報端末でもある。
 だから玖音は朋華を介して冬摩から情報を引き出そうとしている。恐らく『月詠』の力があれば、体全てでなくとも一部で十分なのだろう。冬摩に直接触れる事が出来ればその必要すらない。
「分かって貰えたかな。つまり貴女が荒神冬摩を説得して、僕に大人しく体を触らせてくれればソレで良い」
「……多分、無理でしょうね。努力はしてみますけど」
 だからこそ玖音は朋華を狙ったのだ。冬摩が話の分かる相手ではないから。まだ朋華に何もしていない時ならばともかく、今の冬摩は玖音に対して果てしない憎悪を抱いている。玖音を目の前にして冬摩が大人しているなど考えられない。
「正直、貴女の体の一部を手に入れる事くらい訳ないと思っていた。それが大きな誤算だったな」
 玖音は苦笑した後、嘆息する。
(そうなの、かな……)
 玖音の言葉に朋華は違和感を覚えた。
 朋華の印象では玖音は人より三歩くらい先を読んで行動している。
 高架下に朋華を追いつめた時、冬摩が現れたのもある程度分かっていたようだった。最初から朋華を殺すつもりがなかったのなら、『獄閻』が盾で朋華を庇うのも計算済みだったのだろう。その後さらに玖音が朋華に攻撃を仕掛けた時、『死神』が割って入るのも予測していたような事を言っていた。
 この塾に張った結界もそうだ。朋華達がココに来る事をあらかじめ知っていたからこそ出来た事。
 それだけ先手を取り続けているのに、朋華の力を読み間違えたりするだろうか。冬摩が紅月の夜に帰って来ない事まで調べ上げていたのなら、朋華の力だって完全に予想していてもおかしくないはずなのに。
「もし貴女がココに入って来ず、荒神冬摩と共に一度去っていたら、僕は次に貴女の母親を操る事を考えていた」
 突然の衝撃的な告白に、朋華は思考を中断して目を剥いた。
「僕がどうしてこんな事を喋るのか、分かるかい?」
「……『月詠』さんの能力で、私の記憶を消すから、ですか?」
 『月詠』の能力は『精神干渉』。恐らく玖音はその力で、最初朋華を狙った。同じ朝霧高校の学生を操ってボールを教室に打ち込ませ、子供を操って歩道に飛び出させ、一般人を通り魔に仕立てて襲わせた。そして、操られている時の記憶は残らないように細工した。
「ソレが出来るなら初めから他人ではなく貴女を操る事を考える」
 確かに、その通りだ。そちらの方がよほど手っ取り早くて確実だ。
「僕の力の作用点は聞いてるかな?」
「『両手』、ですよね」
「そう。『月詠』の力を使うには相手に触れなければならない。そして相手の精神力が強ければ強いほど、その時間は長く必要になる。召鬼である貴女の精神に干渉するにはかなりの時間が掛かる。少なくとも、貴女に暴れられては確保できないくらいの時間が。だから僕には出来ないし、するつもりもない」
 するつもりもない?
「僕がココまで喋ったのは、貴女が少しは話せる人だと見込んだからだ。単身で僕の前に現れた勇気を買ったという事もある。貴女は最初から話し合いで和解するつもりだった。全くの同感だ。荒神冬摩を説得してくれる事を期待している。その間、コチラからは手出しはしないと約束しよう。平和的に解決できるならそれに越した事はない」
 つまり、今まで喋った事を冬摩にも説明して納得させて欲しいと言う事だ。
「だったら、どうして初めにそうしなかったんですか」
 さっきも思った事だが、冬摩の怒りを買う前に相談してくれれば何とかなったかも知れないのだ。
「コッチにも色々事情があってね」
「じゃあせめて教えてください。真田さんは使役神の記憶を読んでどうするつもりなんですか」
 それを聞けばまだ理解できるかも知れない。冬摩を説得するにしてもまだ楽になるかも知れない。
「僕は……」
 たっぷり一分は考えた後、玖音は重い口を開いた。
「自分の生まれた意味を知りたい。それだけだ」
 生まれた意味。
 女系家族である真田家に生まれた男児としての存在意義。
「『闇子』……」
 阿樹に言われた言葉を思い出して朋華は呟いた。
「そこまで聞いていたのか」
「真田さんは『月詠』に覚醒した後、本当に真田家を滅ぼそうとしたんですか? 『朱雀』と『六合』も無理矢理奪って、自分の物にしたんですか?」
「当主がそう言っていたのか」
「はい……」
 玖音は溜息と共に瞑目し、自嘲めいた笑みを浮かべた後、
「間違ってはいない。ソレは事実だ」
 だが合ってもいない? 真実ではない?
 それ以上言おうとしない玖音からは、何も読みとれない。一切の感情を排除し、完全な無表情のまま朋華を見据えている。
 朋華が何か言おうと口を開いた時、足下に大きな揺れが走った。
 地震かと思ったが、すぐに別の要因が思い浮かぶ。
「時間切れだな」
 冬摩だ。冬摩が力ずくで結界の中に入ろうとしている。このままだと建物ごと壊しかねない。
「忘れないで欲しい。貴方達が僕を見つけたのと同じ方法で、僕も貴方達の位置を把握している。常に監視されていると思ってくれ」
「……真田さんも、血の匂いを?」
「そうだ」
 魔人の血を嗅ぎ分ける能力。
 玖音の持っている三体の使役神の中に、『羅刹』と同じ力を持った者が居る。
「『死神』に掛けた術は解いておく。荒神冬摩を説得する材料に使ってくれ」
 一方的にそう言うと、玖音は席を立った。
「早く戻った方がいい。お互いのためにもな」
 揺れは収まるどころか、だんだん激しさを増していっている。
 玖音の言葉に頷き、朋華は大慌てて塾の外に飛び出した。

◆闇子の想い ―真田玖音―◆
 その日の講義を無事終え、玖音は一人家へと続く夜道を歩いていた。
 冷たい夜風が通り過ぎ、チェック地のマフラーを撫でていく。もう一度しっかり首に巻き付けながら、玖音は昼間の事を思いだした。
 あの後、しばらく五階の窓から二人のやり取りを眺めていた。
 冬摩は烈火の如く怒り、塾に殴り込もうとしていたが何とか朋華が止めた。そして二人は周りからの注目を集めながらも、その場で激しい議論をかわす。建物の中からでも良く聞き取れるくらい、大きな声だった。
 その状態が三十分ほど続いていたが、朋華の『でも、このままだとまた私狙われちゃうかも知れないんですよ?』という言葉には冬摩も少し悩んだ様子だった。
 冬摩の目的は自分の鬱憤の解消と、朋華に二度と近づくなと玖音に言い聞かせる事。もし冬摩が大人しく玖音の要求を呑んだ場合、少なくとも後者の懸念は解消される。だが冬摩の性格からして、そう簡単に受け入れられる事ではない。彼は今でも自分に痛い目を見せたくて、うずうずしているのだろうから。
 朋華を守るために冬摩は欲望のまま、憎き相手を叩きのめせば良いと思っていた。だが今、全く逆の方法を提案され、押し殺さなければならなくなった。
 冬摩は理屈で動く性格ではない。感情的にそれを許せるかどうか。
(彼の信頼を得るのは並大抵の事じゃないな……)
 そのためには多くの時間が必要になる。その間に冬摩が渋々頷いてくれるか、それともおかしいと思い直して一戦交える事になるのか。
 全ては朋華の双肩に掛かっていた。
(それにしても血の匂い、か……)
 セーターの上から、以前冬摩に付けられた傷口をなぞる。
 もう殆ど完治しているが、たまに変な体勢を取ると傷が開く事がある。まさかここから漏れる僅かな血の匂いをたどって来ているとは思わなかった。そう言う事が出来る使役神は『羅刹』くらいし考えられない。そして恐らく見つけたのだろう。あの座敷牢を。
 『朱雀』と『白虎』の共鳴までは予測していたが、さすがにソコまでは読めなかった。朋華に自分は全てを見透かしていると印象付けておいた事が、最後のカマ掛けを成功させた。
(仕方ないとは言え、コレは僕のミスだな)
 最初に冬摩と戦った時、『死神』だけではなく『羅刹』も何とかしておくべきだった。彼がどの程度正確に嗅ぎ分けられるかは分からないが、傷が完全に治ったところで血の匂いは体中に染みついていると考えた方がいいだろう。
(まぁいいさ。しばらくは様子見だな)
 『死神』に掛けた『閻縛封呪環』は一時的に解消してあるが、効力を完全に消した訳ではない。『死神』を体に戻されると位置を知覚しにくいが、全く分からない訳ではなかった。朋華の方にも別の印を付けて置いた。缶コーヒーを持った手をかなり念入りに洗わなければ、あの印は取れない。
(上手く行ってくれると良いが……)
 そんな事を考えていると、家の前まで来ていた。どこにでもある二階建ての一軒家だ。両親もすでに帰っているのか、中からは賑やかな話し声が聞こえてくる。
「ただいま」
 玖音は玄関の扉を開けて、家に入った。
「おっ、帰ってきたな兄貴ー! グッドタイミーな感じだぜぃ!」
 すぐに美柚梨が出迎えてくれ、革靴の靴紐を解いている玖音の背中にダイブして来る。
「重いだろ、お前は」
「シツレーだな。兄貴よりは軽いぞ」
「当たり前だ」
 美柚梨を引き剥がし、玖音はキッチンへと足を運んだ。
 昼間美柚梨の言った通り、今日の晩ご飯は鍋だった。玖音の好物であるシラタキが、鍋の半分くらいまで陣地を広げている。
「どーだ兄貴! 満足か!」
 美柚梨は肩に掛かったミディアムヘアーをキザっぽく掻き上げ、胸を力一杯張って威張った。
「ああ、嬉しいよ。有り難う」
 玖音は素直に礼を言うと、椅子に腰掛ける。
「バイトお疲れさま。アンタの好物安上がりだから助かるわ。いっぱい食べなさい」
 母親が玖音の皿を持ってシラタキをよそってくれる。
「あー、兄貴の分はアタシがやるのにー」
「はいはい、ホントお兄ちゃん子ね、アンタ」
 苦笑しながら母親は美柚梨に菜箸を渡した。
「母さんビール」
 父親は女性週刊誌から顔を離す事なく、母親にビールのお代わりをねだる。
 平和な日常。
 これが今の玖音の家族。
 八年前、真田家から逃げ出し、『月詠』の助言に従ってこの芹沢という家庭に身を置いた。『月詠』の『精神干渉』で三人の記憶を改変し、長男になりすます事で。まだ当時十二歳だった玖音が真田家から逃げ切り、生き延びるためにはコレしか方法がなかった。
 罪悪感はいつも感じている。
 特に妹の美柚梨に対して。
 本来ならば両親の愛情を一人で受けるはずだった美柚梨は、玖音によってソレを半減させられてしまった。だから美柚梨は大切に扱って来た。自分が奪ってしまった親の愛情を返すためにも。
 玖音が小学六年生の時、美柚梨は一年生だった。一年だけだったが、毎日手を繋いで学校まで通った。最低限の記憶しか変えていないのに、『おにいちゃんおにいちゃん』と良く懐いてくれた。
 中学に上がっても、玖音は出来るだけ美柚梨のそばに居た。
 学校が終われば真っ直ぐ家に帰り、美柚梨と着せ替え人形で遊んだ。勉強で分からないところがあれば、分かるようになるまで教えてあげた。上級生に虐められたと知れば、ソイツが美柚梨にちゃんと謝るまで殴り、最後に『月詠』で二度としないように恐怖心を植え付けてやった。
 美柚梨は玖音を頼り、玖音も頼られる事で罪悪感から少しだけ逃れる事が出来た。
 美柚梨が中学に上がった頃、玖音は大学の受験勉強に入っていた。その時は逆に美柚梨が支えてくれた。イラスト付きの英単語カードを作ってくれたり、日本史の教科書を読み込んで紙芝居にしてくれた事もあった。夜食に形の悪いおにぎりを作ってくれたり、玖音に付き合って一緒に遅くまで勉強してくれた時もあった。そして無事合格した時には、家族の中で誰よりも喜んでくれた。玖音本人以上に。
 美柚梨は、いつも玖音の隣に居た。
「あれ、兄貴。まだなくなってないじゃーん。もう食べないの? ビールでもついであげよっか?」
 美柚梨に声を掛けられ、箸が止まっていた事に気付く。
「ああ、いや。大丈夫。まだ食べるよ。ちょっと考え事を、な……」
「なになに? 何かエロい事でも考えてたの?」
「お前な……」
 ニシシ、とイヤらしく口元を曲げる美柚梨に、玖音は半眼になって返す。
 美柚梨はいつもこの調子だ。来年で高校生になるというのに、女らしさの欠片もない。
 それでも、彼女が楽しそうであればソレが一番なのだが。
「ねぇ兄貴、あさって暇?」
「あさって?」
 言われて玖音は視線を上げた。
 取りあえず今のところ、冬摩の事は朋華が何とかしてくれるのを願うしかない。時間は掛かるだろうが、最も合理的で安全な方法だ。上手く行けばの話だが。
「別に、予定はないけど」
 塾講のシフトもその日は入っていない。完全な空き日だ。
「じゃあさ。ちょっと買い物付き合ってよ。欲しい物あるんだー」
「お前勉強は?」
「受験生には息抜きも必要だっ。ね、オフクロっ」
「……まぁ、ちょっとくらいならね」
 渋々といった感じで母親が承諾する。父親の方は一瞬コチラに目を向けて来たが、すぐに逸らしてしまった。彼は基本的に放任主義だ。
「分かったよ。どうせ荷物持ちだろ」
「とーぜんっ!」
「威張るな」
 苦笑して玖音はシラタキを口に運ぶ。
 美柚梨の嬉しそうな顔を見ながら。

 駅の近くにある総合デパート。美柚梨が買い物の場所に選んだのはソコだった。
 正直、玖音にとってあまり近づきたい場所ではない。ココは以前、玖音が朋華に対して直接的な攻撃を仕掛けた場所だ。つまり、冬摩や朋華の家の近く。
(この距離なら、まだ大丈夫だ)
 二人に付けた印で居場所を把握しながら、玖音は美柚梨と一緒にデパートの自動ドアをくぐった。
「っほー、さすがに広いねー。さて、と。なに買おうかなー」
 建物の中は程良い暖気に包まれていた。美柚梨は四階まで吹き抜けになっている巨大な空間を見上げながら、玖音とお揃いのチェック地のマフラーを取った。このマフラーは美柚梨が自分で編んだお手製だ。
 ピンクのアンダーウェアの上に、白いチュニックブラウス。それに膝下までのキュロットパンツという格好は快活な美柚梨のイメージにぴったりだった。
「お前、欲しい物があったんじゃないのか?」
 美柚梨の第一声に玖音は呆れたような声で言う。
「ん、あるよ。多分この中のどっかにね。色々見てたら、そのうち決まるでしょ」
「……まさか、買う物を見つけるために買い物に来たのか?」
「そだよ」
 あっけらかんと言ってくる美柚梨に、玖音は軽い頭痛を覚えた。
「本末転倒だろ」
「何言ってんの。ソレが買い物の楽しいところじゃないっ」
 贅沢な奴だ。
 そう思うがすぐに、まぁいいかという気になる。美柚梨が『楽しい』と言ってくれるなら玖音は全力でそれに応えるだけだ。
「わかったよ。何でも好きな物買ってやるから早くしろ」
 自分がココにいる事は冬摩の方も気付いているだろう。今はまだ朋華の言う事を聞いているからか動きを見せていない。だがいつ気が変わってもおかしくない。それ程彼の性格が危うい事は十分に知っている。だから出来るだけ早く離れたかった。
「ほんとっ!? オゴリ!? やりー!」
「……大きな声出すなよ。恥ずかしいから」
 それでも、美柚梨の楽しそうな顔はずっと見ていたいと思った。

 美柚梨が最初に来たのはペットフロアだった。
 どの動物にも万単位の値札が張られている。
「……お前、好きな物買ってやるとは言ったが、ちょっとは遠慮しろよ」
「だいじょーぶ、だーいじょーぶ」
 ご機嫌で言いながら美柚梨はハムスターのケージに釘付けになっていた。何が大丈夫なのか全く分からない。
「かわいーねー、ハムちゃん。おぃ、キミはどうしてこんなにもかわゆく生まれてきたんだい? 人類をへにゃ殺しにするのが目的かっ」
 美柚梨はハムスターに手を振りながら話しかけている。その横顔を見ている玖音の頭に嫌な思い出がよぎった。

 ――お前は、死ぬために生まれて来たんだ。

 座敷牢で聞かされた言葉。
 それを言った女性は、持っていた刃物で玖音に斬りかかって来た。
 今でもはっきり覚えている。あの時の殺意に満ちた女性の顔を。何故そんなにも憎まれなければならないのか。それすらも分からないまま、玖音は狭い牢の中をただ逃げた。肩の傷口を押さえるのも忘れて、ひたすら逃げ回った。
 女性は楽しむように玖音の体を切り刻み、そして壁に追いつめた。

 ――お前も死ぬんだ。私の子供みたいにね!

 刃物が目の前まで近づき、そして――
 ――覚醒した。
 気が付くと目の前にはさっきの女性が倒れていた。胸に大きな穴が開き、赤黒い液体が溢れ出していた。自分の手も同じ色で染まっていた。
 玖音は虚ろな目で物言わぬ女性の頭に手を当て、記憶を読んだ。
 母親は自殺だった。
 玖音の前に現れなくなった日の直後だった。

 嘘だ……。

 玖音は呟いた。

 嘘だ嘘だ嘘だ!

 そして叫んだ。喉が枯れるまで、耳が痛くなるまで。
 知らない間に沢山の人間が座敷牢になだれ込んでいた。皆、刃物を持っていた。

 きっと……コイツらが殺したんだ。

 胡乱気な表情で彼らの顔を見つめ、玖音は幽鬼の如くゆらりと立ち上がった。
『殺される前に殺しなさい』
 頭で響く誰かの声。
 それに従って玖音は視界に映る者全員――殺した。
 罪の意識はなかった。そうなって当然とさえ思った。彼らの中の誰かが、自分の母親を殺したのだから。
 だが、その中に自分が殺したという記憶を持つ者は居なかった。皆が皆、母親は自殺だと嘘を付いていた。
 玖音は座敷牢を飛び出し、母親を殺した人間を探した。
 斬りかかってくる者は殺した。無抵抗の者は気を失わせた。そして記憶を覗いた。
 聞こえてくる言葉は同じ。
 母親は自殺。
 誰も『母親を殺した』と言ってくれない。誰も『母親はどこかで生きている』とも言ってくれない。
 苛立ちと焦燥だけが積もり、ソレはやがて『怒り』へと姿を変えた。

「――貴! 兄貴ってば!」
 美柚梨の声で玖音は、顔を上げた。
「どしたの? ぼーっとしちゃってさ。ひょっとしてもう疲れたとか?」
 下から覗き込み、茶化しながら言ってくる美柚梨に玖音はぎこちない笑みで返す。
「馬鹿言うな。で、欲しい物は決まったのか?」
「んーん。ココにはなかった。さ、次行こ次」
 ビシッと元気よく前を指さす美柚梨に、玖音は心から安堵を覚えた。
(もぅ、昔の事さ……)
 初めて『月詠』に覚醒したのは玖音が十二の時。八年も前の話だ。
 今はもう、あの時の自分ではない。怒りにまかせて行動したりしない。そして誰かを殺す事など、絶対にない。
「何やってんだ兄貴! 置いてくぞ!」
 ペットフロアを出た美柚梨が、大声で呼びながら手招きしている。玖音は美柚梨の編んでくれたマフラーを巻き直しながら、小走りに駆け寄った。
「外したら? 暑くない?」
「別に」
 今は落ち着ける時間がある。 
 この温もりを感じていられる時間が。

 美柚梨とデパートの中を一通り回り終え、玖音達は屋上で休憩していた。開店直後くらいから回っていたのに、もう四時過ぎだ。気の早い太陽が役割を終えようと、身を沈め始めていた。
「なぁ美柚梨」
 屋上のベンチに座り、ソフトクリームにかぶりついている美柚梨に玖音は疲れた声を掛ける。まさかココまで長い買い物に付き合わされるとは思っていなかった。しかも結局見ていただけで何も買っていない。
「ん?」
「こういうのって僕と一緒で楽しいか? 友達とかの方がいいんじゃないか?」
 普通こういう買い物は女の子同士で来る物ではないのか? 色々お互いの趣味趣向を話し合いながら回った方が楽しい気がする。その点、男の玖音では役不足だと思った。色んな商品を見せて来て「どう?」とか言われても気の利いた答えが浮かんでこない。だから何も決められなかったのではないかと思う。
「楽しいよ。友達よりも兄貴と一緒の方が」
 ほっぺたについたクリームを舐め取りながら、美柚梨は即答した。
「……お前って変わってるよな」
「それは兄貴も一緒じゃん。彼女とか作んないの? せっかくの冬休みに妹しか相手が居ないんじゃ寂しーぞ」
「バイトがあるからいいんだよ。お前こそどうなんだよ」
「アタシには兄貴が居るモン」
「僕はお前の彼氏か」
「あれ、違ったっけ?」
 アハハ、と屈託無く笑いながら美柚梨はコーンを口の中に放り込み、ベンチから立ち上がった。
「アタシは兄貴と居るの好きだよ。小っさい時からそうだったからね」
 自分の前にかがみ込み、上目遣いで美柚梨は嬉しそうに言う。
「優しくて頼りがいのある兄貴っ。こんなのがそばに居たら、他の男共はイマイチに見えちゃうんだなー、これが。いやー困った困った」
「こんなのって何だよ」
 玖音は顔を赤くして美柚梨から目を逸らした。
 美柚梨には優しく接してきた。代わりに出来る事は何でもやった。
 恐い映画を見て眠れないと言って来た時には、寝入るまでそばに居てやった。美柚梨が父親の盆栽にボールをぶつけて折った時も、玖音が代わりに怒られた。風邪で熱を出した時には大学を休んで看病した。料理の作り方や、編み物の仕方も玖音が教えたものだ。勿論、本を読み込んで研究したのだが。
 とにかく、三人目の親のように美柚梨には接してきた。自分が奪ってしまった両親からの愛情を、少しでも返すために。
「さて、と」
 美柚梨はぴょんっと立ち上がり、玖音の後ろを見た。
「おー、綺麗な夕焼け。明日も晴れだな、こりゃ」
 玖音も首だけを後ろに向け、太陽の寝顔を拝む。
 それは本当に綺麗な夕焼けだった。あまりに綺麗すぎて逆に冷たい物を覚える。それは茜色と言うよりも緋色に近い。
 ――あの夜に見た紅月も、こんな色だった。

 『怒り』に支配され、紅月の影響で我を失い、玖音は屋敷の人間の記憶を読み続けた。
 そして相手の体に触れずとも読める事に気付いた。
 『月詠』が教えてくれた。コレが自分の力なのだと。
 力の発生点である『怒り』を覚えれば、作用点である『両手』から離れた者の記憶を覗ける。『怒り』が大きくなればなるほど、読める範囲はより広く、聞こえる声はより鮮明になる。
 玖音は群がる人間を殺し、心を読み続けた。
 だが、肝心の声だけはいつまで立っても聞こえてこない。『母親は自殺』という声しか聞こえてこない。
 戦った中には強い者も居た。『朱雀』と『六合』の保持者だ。同じ葛城の分家である岩代家と有明家の人間も、玖音に刃を向けて来た。
 しかし、彼らは保持者ではあっても覚醒者ではない。玖音の力には遠く及ばない。
 彼らを殺し、玖音は二体の式神を取り込んだ。その式神の中にも、玖音が望んだ答えはなかった。
 『母親を殺した』『母親は生きている』
 相反するどちらかの答えを求めて玖音は記憶を読み続けた。そして何人もの人間を殺し続けた。
 血に酔い、哄笑を上げ、目的のための手段が、手段のための目的に変わりかけた時、玖音はコレまでとは違う心の声を聞いた。
 それは自分よりも幼い少女だった。
 ――恐い。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、
 ――恐い、恐い、恐い。
 震える手足で後ずさりながら、
 ――恐い、殺される、恐い、殺される、殺される、殺される、殺される!
 玖音に焦点の合わない目を向けていた。

 恐い?

 僕が? 何故?

 だって、悪いのはそっちじゃないか。僕の母さんを殺したそっちが……!

 叫ぶと少女の顔はさらに恐怖で引きつった。

 そんな目で僕を見るな! これじゃまるで――僕の方が、悪者みたいじゃないか!

 玖音は逃げた。
 少女の目から。残虐な自分から。目に映る物、耳に入る物、五感で感じるありとあらゆる物から。
 どこをどう走ったかなんて覚えていない。どのくらい走ったのかも覚えていない。
 とにかく体が動かなくなってしまうまで走り続けた。
 全身が鉛のように重くなり、混濁していく意識の中で玖音は思った。
 行かなければならない。土御門財閥の洋館に。
 それは『朱雀』と『六合』から流れ込んできた意志。覚醒した者として、積年の恨みを晴らすために龍閃を倒さなければならない。
『また、先程のようになりたいのですか?』
 頭の中で誰かの声が響いた。
 嫌だ。もう二度とあんな事したくない。でも……行かなきゃ。
『貴方には他にするべき事があるのではないですか?』
 他に?
『自分が生まれた意味を探す事』
 意味? 僕が生まれた?
『貴方は死ぬために生まれたのではありません。間違いなく、生きるために生まれたのです。今の私では貴方が生きる意味を教えて上げられませんが、知る手助けをする事は出来ます』
 どうやって。
『他の使役神達の記憶を集めなさい。私の能力で。ソコには千年前からの数多の記憶が眠っています。きっとそこに答えがあるはず。そして、貴方の母親を生き返らせる方法も』
 母さんを、生き返……? そんな事が?
『そのためにはまず生きなければなりません。龍閃討伐に加われば身を危険にさらす事になる。それだけは避けなさい。安全で、確実な方法を取るのです。私が全て、教えてあげます』
 分かったよ。僕の力になって――『月詠』
『ええ、勿論。これらは、私の事を母親のように慕っても良いのですよ』
 
 そして、玖音は『月詠』の助言に従い一般家庭に紛れ込んだ。一時的な隠れ蓑として。
 初めての外界でも『月詠』が色々と教えてくれたおかげで何も不安はなかった。本当に、母親のようだった。
 一度だけ具現化させた事がある。床に届きそうな程長く、艶やかな黒髪を持った、着物の似合う女性だった。どこか、自分の母親に似ていた。
 しかし長くは具現化させられなかった。
 想像を絶する脱力感。まるで命を刈り取られるような感覚。
 それは真田家の血を受け継ぐ者の定め。使役神を武器に宿し、その効力を高める事に関して秀でている分、具現化させる技術は拙い。
 霊刀『夜叉鴉やしゃがらす』。それは玖音を殺すため、岩代家の保持者が持っていた物。無数の薄い刀身を重ね合わせて作られ、持ち主の意志に呼応して刃華を咲かせる。この刀に使役神を宿来させる事で、玖音は自分の力を高める事が出来た。いつも大きめのスポーツバッグに入れて持ち歩き、龍閃の召鬼を探した。
 龍閃の保持する使役神の記憶を読み取るために。自分が生まれた意味を知るために。母親が自ら命を絶った理由を知るために。そして、母親を黄泉還らせるために。
 三年前、篠岡玲寺が龍閃の召鬼だと分かった。殆ど偶然だった。紅月の夜、彼が仕事か何かで玖音の住む街に来た事があった。もしかしたら自分を探しに来たのかも知れない。使役神は完全に使いこなせていたはずだが、久里子の『千里眼』で見抜かれた可能性もあった。その時、玲寺が一瞬だけ龍閃の波動を発しているを感じたのだ。
 手を出そうと思ったが『月詠』に止められた。
 今の自分では勝てない。
 ハッキリとそう言われた。これまで『月詠』の言ってきた事に間違いはなかった。だから玖音はその時も『月詠』を信頼し、言う通りにした。
 一年前、鷹宮秀斗という召鬼を見つけた時には、すでに殺された後だった。そして鷹宮秀斗は召鬼ではなくなっていた。龍閃が解放したのだ。繋がりを断たれてしまっては、体の一部を手に入れても意味がない。
 そして龍閃が死に、彼が保持していた使役神は冬摩の物になった。冬摩が自分の恋人である仁科朋華を召鬼にしていると気付いたのは半年前の事だ。冬摩の戦闘力を見極めるために彼を付けていた時、一緒にいた朋華がマンションから落ちてくる仔猫を助けた。その時に見せた瞬足。明らかに人間の物ではなかった。そして朋華自身が口にしていた。
 『冬摩さんの召鬼になって本当によかったです』、と。
 狙いが冬摩から朋華に変わった。
 冬摩が紅月の夜の前後、朋華の元から五日間離れるのは知っていた。朋華の力はそれ程強くない。だが直接手を下せば冬摩にバレる可能性がある。彼の力は強大だ。まともに戦ってもまず勝てない。だから偶然の事故を装って朋華の体の一部を手に入れる事にした。
 しかし三回試みたがいずれも失敗に終わった。四回目の事故を考えていた時、『月詠』が助言した。
『もうすぐ荒神冬摩が戻ってくる。時間がありません。貴方が直接やるのです』
 正直、気乗りはしなかった。朋華は自分よりも格下だとは言え、冬摩の召鬼だ。簡単に行くとは思えない。それに今回が駄目でもまた二ヶ月待てばいい。こちらの情報さえ与えなければチャンスは何度でもある。
 だが一度でも顔を見られればそうはいかない。もし失敗すれば、冬摩は何が何でも自分を探そうとするだろう。土御門財閥の総力を挙げさせてでも。
『玖音、仁科朋華に間接的な方法では効果が薄いと分かったはずです。恐らく、このままでは同じ事の繰り返しですよ』
 『月詠』の言う事は正確で論理的だ。そして全て自分のためを思って進言してくれている。今回も、玖音の欲しがっている情報をより早く与えようと思っての事なのだろう。
 だから玖音は『月詠』の言う通り、朋華を直接襲った。
 しかし、予想よりも早く冬摩が戻って来た。もう一度計画を練り直す必要があった。
 そのためには相手の出方を知らなければならない。嶋比良久里子の記憶から冬摩達の行き先を知り、近いうちに自分の前に現れると予測した。だから塾に強力な結界を張った。勿論、家にも。
 朋華が単身で自分の前に現れた時は驚いた。
『今は手を出さない方が良策です』
 『月詠』の忠言を聞くまでもなく、玖音は手出しをするつもりはなかった。外に冬摩が居たと言う事もあるが、穏便に事が進むのであればそれが最良だ。
 元々、朋華に直接手を下せと言っていた『月詠』だったが、彼女が突然真逆の事を言った事に関しては驚かなかった。久里子から『天空』の記憶を読み取り、『月詠』の想いに薄々気付いてしまったから。
 ――『月詠』のコレまでの助言は玖音のためではなく、自分のためだと。
 だがソレが分かったところで何も変わらない。これまで『月詠』が玖音の力になってくれていたのは事実なのだから。
 それにココまで来た以上後には引けない。必ず冬摩の持つ使役神の記憶を読み取る。出来れば誰も傷付ける事なく。

「さーて、そろそろ戻ろっか」
 美柚梨の声で玖音は現実に戻された。
「そうだな。今から帰れば丁度晩ご飯だ」
 ようやく冬摩の気配に集中する事から解放される。 
「なーに言ってんの。これからもっかい回るんだよ、お店」
「はぁ?」
 言っている事がサッパリ分からない。
「さっきのは下見。これからが本番」
「じゃあ晩ご飯は?」
「さっきオフクロに電話して、今日は兄貴と外で食ってくるっつっといた」
「い、いつの間に……」
 呆れ顔の玖音に、美柚梨は「えっへへー」と得意げな笑みを浮かべた。
「さーさーまずは腹ごしらえだー」
 美柚梨は玖音の腕に手を回し、引きずるようにデパートへの出入り口に向かう。
「ったく……お前ホントに受験生か?」
「今日の遅れは、兄貴の個人冬期講習で取り戻してくれるんでしょ?」
「はいはい。分かった分かった」
 苦笑しながらも、玖音は嬉しそうに言った。
 誰も傷付けたくない。自分も傷つきたくない。
 自分勝手な事を言っているのは分かっている。だがソレが本心だ。
 より長く、美柚梨のそばにいるためにも。

 ◆◇◆◇◆

 屋上の出入り口の裏手。誰からも完全な死角になっている場所。
 先程まで何も存在しなかったその空間に、着物姿の女性が姿を現した。
 現在の真田家で随一の力を誇る陰陽師、沙楡だ。
「阿樹様、沙楡です」
 玖音がデパートに戻ったのを確認して、沙楡は携帯で阿樹と連絡を取った。
「真田玖音を確実に殺す方法、見つかりました。これから『龍閃の死肉』を取りに戻ります」
 沙楡はしばらく阿樹と会話した後、携帯を切る。
 そして胸元から取り出した一枚の呪符を右肩に貼り付けた。沙楡の姿は風に熔け込むようにして消え、後には気配すら残っていなかった。




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