貴方に捧げる死神の謳声 第二部 ―闇子が紡ぐ想いと因縁―

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四『虚構と真実』


 ――ねぇ沙楡。一回で、女の子が生まれるといいわね。

 自分の従姉妹であり、玖音の母親である茅花つばなが辛そうに言ったのはいつだっただろう。もう、随分前のように思う。

 ――沙楡は今、四ヶ月なんだって?
 
 真田家の女として、女児を最低一人生むのは義務だ。例え保持者ではなくとも。
 それは万が一の保険。『月詠』を継承した女児に適性が無かった場合の。そして真田家を女系家族だと周りに思わせ、『月詠』を継承し続ける家系として最適であると思わせるため。『月詠』の呪い故に、不遇に陥った悲劇の家系を演出するため。
 そうする事で真田家はこれまで、神秘に満ちた土御門の正統血縁として名を馳せて来た。葛城家が生んだ三つの分家の中でも最高の威信と名誉を保ち続けて来た。
 だが玖音の誕生により、すべてが狂ってしまった。
 『月詠』を保持できる男児、『闇子』玖音。
 本来死ぬべくして生まれた彼は、生き続けた。
 羨ましかった。妬ましかった。
 どうして茅花だけが。
「玖音……もうすぐよ」
 沙楡は怨嗟を込めた声でつぶやきながら、着物の袖口から短刀を取り出した。
 すでに『龍閃の死肉』は仕込んでいる。後は、自分が命を絶てばすべてが整う。玖音を確実に殺すための準備が。
「もっと、早くこうしていればよかった……」
 短刀を喉元に沿え、沙楡は呟いた。
 茅花のように、真田家に生まれて来た『闇子』に光を与えるために。殺すためではなく、生かすために。自分の子供の存在を外部に知らせるために。
 けど、もう遅い。すべてが手遅れだ。自分には茅花のような勇気は無かった。自らの命を絶ってまで、真田家のしきたりに背くだけの勇気が。
「ごめんなさいね。私の、赤ちゃん……」
 沙楡の口から涙と共に零れる謝罪の言葉。
 それは今も真田家ですくすくと育っている女の子と、母乳を口にする事さえ許されず、この手で殺してしまった男の子に対して……。
 短刀を持つ手に力を込める。
 白銀の刃は、音も無く喉に吸い込まれて行った――

 ◆◇◆◇◆

◆血塗られた儀式 ―嶋比良久里子―◆
 護衛の人間を十人ほど連れ、久里子は真田家の屋敷に上がり込んでいた。
「お久しぶりです、真田家当主」
 百畳はある広大な部屋。阿樹の前で正座し、久里子は丁寧な口調で挨拶をした。それにならって護衛の白スーツの男達も、正座のまま深々と頭を下げる。
「土御門財閥を仕切る者が、私に気を遣う必要など無いのですよ、嶋比良様」
 一段高い場所から久里子を見下ろしながら、阿樹は静かな口調で言った。久里子は目線を上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうかー、ほんならいつも通り行かせて貰うわ。ウチもずっとこのままやったらどないしよー思ーててん」
 サングラスの位置を直しながら久里子は足を崩す。
「コイツ等も楽にさせてええか?」
「ええ、ご自由に」
 親指で白スーツ達を指す久里子に、阿樹は快く頷いた。その言葉を聞いて、男達も正座からあぐらへと姿勢を楽にする。
「もうすぐ、玉露を持って参ります故、今しばらくお待ち下さい」
「そっちこそ気ぃ遣わんでええ。時間もあんま無いしな。挨拶もそこそこで悪いんやけど、本題に入らせて貰うわ」
 久里子は表情を緊張させ、阿樹をサングラスの奥から見据えた。
「真田玖音の事なんやけどな」
 そこで一旦言葉を切って阿樹の反応を見る。だがさすがに変化は無い。動揺した様子も無い。
「荒神冬摩っちゅーガサツな奴と、仁科朋華って言う素直そうな娘がココ来たやろ」
「ええ。来られました。その方達も真田玖音という者の事を聞いて来ましたが、残念ながら存じ上げませんでしたので、心苦しかったのですがそのまま帰って頂きました」
「そうか? トモちゃんは玖音って奴の事、アンタから詳しく聞かせて貰ったーゆーとったで」
 そしてまた阿樹の反応を窺う。
 これは嘘だ。朋華からは、玖音は居なかったとしか聞いていない。だが、その言葉自体が玖音が居た事を示す何よりの証拠。
 もし二人が玖音の事を何も聞かせて貰えなかったとすれば、別の手掛かりを求めて土御門財閥に戻って来てもいいはず。冬摩に関してはコチラから朋華に電話をかけた時、どういう事だと怒鳴りつけてもおかしくない。
 だがそのどちらも無く、何の手掛かりも得られぬまま大人しく帰って来て、自力で何とかしようとしているなどとは考えにくい。それが出来ないから久里子の所に来たのだろうから。
 つまり、冬摩達は玖音の事を聞かされたが黙っているように言われたのだ。恐らく、真田家の保身のために。
「そのような話はしておりませんが」
 だが阿樹は全く表情を崩す事なく冷静に返す。さすがは元『月詠』の保持者なだけある。
「ほんならどんな話して帰したんや。玖音が『月詠』で記憶読むだけやなく、消したり変えたりする事も出来るゆーたんか?」
 口の端を挑発的に吊り上げ、久里子は声を低くした。
 冬摩と朋華が洋館から去った後、久里子は床の上で目を覚ました。回りには心配そうに覗き込む男達。いったい何をしていたのかと思い出すと、すぐに映像が頭に浮かんで来た。
 冬摩が壊した長テーブルを撤去するために人を集め、一緒に作業していると男達が突然口論を始めた。それを止めようと思って割って入ったところ、運悪く男の肘がみぞおちに入り気を失った。そして目を覚ました。
 周りに居た全員が同じ事を言っていた。すぐにナルホドと納得がいった。
 ――あまりに納得いきすぎて、違和感を覚える程に。
 ここに居た「全員が」、どうして「肘」が「みぞおち」に入ったという詳細な部分まで知っている? どうやって気絶したかなど、させた者かさせられた本人くらいしか分からないはずだ。口裏でも合わせない限りまず不可能。しかし彼らは誰かから聞いたのではなく自分達で見たと言っていた。そもそも気絶させられた久里子にしても、目を覚ましてすぐに思い出すのはおかしい。
 状況が出来過ぎている。作為的な物を感じた。自然すぎてあまりに不自然だった。
 机の撤去作業を続けながらしばらく考えたが答えは出なかった。
 何気なく携帯を見ると朋華から留守番電話が入っていた。掛け直すとすぐに出た。そして玖音には会えなかったと、随分アッサリ答えた。
 まるで、もうその事は済んでしまったかのように。
 さっきと同じ違和感を覚えた。そしてすぐに直感した。その場で朋華を問い詰めても良かったのだが、水掛け論になりそうだったのでやめた。それに朋華の性格からして久里子の望む答えを言うとは思えない。だが確信はあった。
 ――自分は真田玖音と接触したのだと。
 そう考えればさっきの事も辻褄が合う。それに、何よりも決定的な証拠があった。
「確かに、『月詠』にそういった類の能力があるとは伝え聞いています。その事はお二人にお伝えいたしました。ただ、情報があやふやですので確証は無いという点はご理解頂いております。コレまで土御門に報告しなかったのもそのため」
 なるほど、上手い答えだ。
 久里子がココに来た以上、『月詠』の能力に関してはある程度確信を持っている。わざわざ護衛を連れて来たくらいだ。ちょっとやそっとでは引き下がらないだろう。長期戦になる。
 阿樹はそう考えるはずだ。久里子の思惑通りに。
 ここで「そんな事は知らない」と全否定するのは簡単だ。だが逆に嘘の部分があまりに多く、見破られる可能性が高くなる。コチラは阿樹が嘘を付いている事前提でカマを掛けるつもりなのだから。嘘だとバレれば致命的だ。そこからさらに言いたくない事を言わされてしまう。長期戦であればなおの事。
 しかし、曖昧に言えば別だ。それでも隙がない事はないのだが。
「そんで納得したんかい。特に冬摩の方が」
「いえ。大分ご立腹のご様子でしたので、コチラで二日ほど羽を休めて頂きました。その間に十鬼神『死神』に掛けられた怨行術の解除を試み、それが完全な成功とまでは行かないまでもそれなりの成果が得られましたので、そちらを持って荒神様の怒りを収めさせて頂きました」
 恐らく、今の阿樹の言葉に嘘はないだろう。玖音の事以外で、冬摩か朋華に確認すればすぐにバレるような事を言うはずがない。朋華が電話で怨行術の事を聞いて来た事とも辻褄が合う。冬摩が大人しく引き下がった事にも少しは説得力が出てきた。
 あくまでも『少し』だが。
「そうかー。まー、こんな静かなとこで二日ものんびり出来たら、普通は大分気ぃ収まるわな」
「恐れ入ります」
「で、そん時に教えたったんか? 真田家が今までどないして『月詠』受け継がせて来たんか」
 僅かに、阿樹の頬が動いた。よく見ていなければ見過ごしてしまうような、微細な変化だったが、確かに動揺の色が見えた。
 阿樹が冬摩達に口止めをしたのは、体裁を気にしたためだ。土御門の正統な血を引く者としてのプライド。それは分かる。理解できる。だが、それならば冬摩達に話した点が理解できない。朋華の方はともかく、冬摩は阿樹との約束など忘れてしまってもおかしくない。
 つまり、真田家の威信を危険に晒す真似をしてでも冬摩に玖音の事を伝えたかった。伝えれば冬摩は玖音を殺さないまでも、確実に害を為す。阿樹はそれを望んでいる。出来れば殺して欲しいとまで。
 ――それは『天空』の記憶から得た真田家の儀式で明かだ。
 玖音が実在する事を確信した一番大きな理由。それは十二神将『天空』の記憶の一部漏洩。使役神からの記憶の逆流は一方通行。玖音のように『月詠』で強制的に引き出さない限りは、コチラが望んでも教えてはくれない。
 自分の事を使役神に信頼させ、記憶を託すに相応しいと見込まれた時に初めて全てを語ってくれる。ソレまでは必要最小限だ。
 だが、『天空』からの記憶の逆流は玖音に接触したと思われた次の日、突然始まった。何の前触れもキッカケもなく。
 本来考えられない事。もし唯一説明できるとすれば、それは玖音が『月詠』で『天空』の記憶を読み取った時に綻びが生じた。強制的に『精神干渉』を行った事への代償として。
 だから久里子はここまで確信が持てた。そして知ってしまった。真田家の行って来た、血塗られた儀式の事を。
「トモちゃんの顔立てて今までの事は目ぇ瞑ったる。せやから洗いざらい話せや」
 玖音は犠牲者だ。このまま真田家の思惑通り殺させる訳には行かない。
「『月詠』は女しか保持できない。しかし真田家は女系家族。何か問題でも?」
「真田家は女系家族なんかやない。そう見せとるだけや。男生まれたら片っ端から殺させとるんやからな。生んだ母親本人に」
 コレが――真田家が『月詠』を受け継がせて来た方法。
 『月詠』は女しか保持できない。生まれた子供が男だった場合、『月詠』に不適格と見なされ闇の波動を辺りにばら撒く事になる。抵抗力を持たない人間がその毒気に犯されれば、我を失って凶暴化する。
 だからそうなる前に子供を殺す。母親自身が。
 そうする事で『月詠』を奪い取り、もう一度子供を産んで受け継がせる。男が生まれればまた殺す。女が生まれるまで同じ事を繰り返す。
 例え女であっても中には成長と共に適性を失う者も居る。だから保持者でなくとも、真田家の女は全員、最低一人は女児を生まなければならない。いざという時、適性を失った女をその女児に殺させるために。いわば保険だ。
 全ては『月詠』を受け継いで行くため。土御門の正統血縁としての名誉と威信を守り続けるため。そのためだけに真田家はこの血塗られた儀式を続けて来た。何百年にも渡って。
「どこに、そのような証拠が?」
「アンタらが『月詠』の力よう知らんのと同じで、ウチの『天空』の能力も全部は分かってへんやろ。ま、ちょっと前までウチも知らんかってんけどな」
 言いながら久里子はサングラスを外した。
「バアさん。アンタも結構殺しとるクチやな」
 『天空』で相手の心が読める。これは勿論嘘だ。阿樹に揺さぶりを掛けるための。
 『天空』の記憶で知ったと言っても証拠にはならない。だから阿樹自身に認めさせるしかない。
 今の阿樹に久里子の嘘を見破るだけの材料はない。恐らくカマ掛けだと看破したとしても、確証までは持てない。そして少しでも疑念が混じれば、阿樹のように聡明な者ほどあらゆる可能性を考える。
 どこまで知っていてどこから知らないのか。その事を相手の頭の中で曖昧にさせられれば、この勝負は勝ったも同然だ。
「嶋比良様。貴女のご想像が仮に正しいとして、私から何を聞き出したいのですか?」
 阿樹は落ち着いた口調で、コチラの目的を聞いて来る。
 さすがに上手い切り返し方だ。そう聞かれれば久里子としては話題を変えざるを得ない。このまま強引に問いつめても、「話の意図が見えない」と言われて前に進まなくなる。
 だが、話題を変えたという事は、阿樹がその事を勘ぐられたくないという何よりの証拠。揺さぶりは確実に効いている。
「冬摩使って真田玖音を殺す方法。ウチがアンタに聞きたいんはその事や」
 真田家は玖音を殺したい。しかし、自分達では力不足。そこで冬摩に目を付け、玖音の情報を教えた。
 だが、普通の状態では冬摩は玖音を殺さない。理性の残っている状態なら歯止めが掛かってしまう。しかし紅月の日なら話は別だ。紅月の日に冬摩の前に玖音を連れ出せば、冬摩は間違いなく殺す。
 問題はその方法だ。
 方法を知り、ソレを破綻させれば玖音は殺されずに済む。
 本当はもう少し真田家の事を入念に調べ上げで来たかったのだが、紅月まであと一週間しかない。だから仕方なく、『天空』から得た断片的な記憶と何とか調べ上げた情報だけを持ってカマ掛けに来たのだ。
「すでに、玖音という者が居る事前提ですか……」
「真田の女は妙な特技持っとるらしいのー」
 薄ら笑いを浮かべる阿樹の言葉に被せて、久里子は自信ありげに言う。
 この一ヶ月半、玖音が居る事を前提で過去の記録を調べ上げた。コレまでは情報源があやふやだったために、見過ごして来た記録を。
「自分の命と引き替えに、誰かの体を操れる? 最初はそれ使って玖音を何とかしよー思ーとったんちゃうか」
 冬摩に殺させたところで使役神は戻って来ない。真田家の誰かに殺させても、一人で三体もの使役神は保持できない。ならば最も手っ取り早い方法は玖音の体を乗っ取る事だ。そして真田、岩代、有明の女を孕ませ、使役神を一体ずつ受け継がせた後に殺せば全てが丸く収まる。
「確かに、真田家にはそのような事を出来る者はおります。私の娘である茅花と、この屋敷で最高の力を持つ陰陽師であり、現在の『月詠』の保持者、沙楡がそうで御座います。茅花の方はもう、他界して居りませんが」
 聞かれていない事まで阿樹は淀みなく喋る。と言う事は探られても余り痛くない腹なのだろう。少なくとも、玖音の話題よりは。
 実はこの情報も完璧ではなかった。久里子が言ったのはただの推測。
 十年ほど前おかしな報告をして来た連絡員について、詳しく調べ上げた。出て来たのは彼が報告した後に喋った証言。

『目の前で知らない女が、喉を切って自殺した』
『それから土御門の洋館に戻るまでの事は覚えていない』

 真田家に男児が生まれたという報告自体を軽く見ていたその時は、連絡員の記憶障害という事で片付けていた。この証言は治療のカルテに残っていた物だ。
 だがもし玖音が実在して、その連絡員の言った事が正しいとすれば、真田の女に特別な力があった可能性もある。そして阿樹の言葉で間違いない事が分かった。その力で玖音を何とかしようとしても不思議ではない。
 しかし出来なかった。玖音の力が強すぎて。
「ほんならアンタの娘さんの命無駄にせーへんためにも、冬摩で何とかしよーゆー事かい」
 恐らく、阿樹の娘の茅花と言う女性は玖音を操ろうとして死んだのだ。
「ですから、私は荒神様を利用して何かをしようなどという考えは……」
「バアさん。アンタ、嫉妬しとるんやろ」
 また、阿樹の頬が動いた。今度は先程よりも大きく。
「可愛い可愛い自分の息子はこの手で殺さなアカンかったのに、玖音の母親だけは何で許されてんねん? おかしな話や。不公平や。いくら『月詠』保持できるからって、ンな事許されてええんか? ええ訳ないわな。玖音かて自分の母親に殺されるんが筋ゆーもんや」
 久里子は鼻で笑い飛ばしながら、わざと相手を虚仮にするような口調で喋る。
 今のままでは阿樹にカマ掛けは通用しにくい。なら、精神的な動揺を誘う。
「冬摩に殺させたかて使役神は返ってけーへん。真田、岩代、有明は元に戻らん。ショボイ家系やなーゆー評判が広まるだけや。けど玖音殺したら、自分の娘は浮かばれる。殺してもーた自分の子供かて喜ぶやろ。それに、アンタ自身の気ぃも晴れる。ほんならま、ここらで手ぇ打ちましょかーゆー事かい。ホンマ、ガキやな。自分の事しか考えてへん」
 阿樹が口をきつく結んだ。久里子の罵声に感情を押し殺して耐えているのだろう。普通、ここまで言われれば殴りかかって来てもおかしくはない。
「いや、ガキ以下や。ケンカで殴られたら自分で殴り返す。常識や。そんなモン、ガキでも知っとる。自分のケツ自分で拭かれへんヤツがよー真田の当主なんか務めとったな。無駄死にしてもーたアンタの娘、あの世で泣いとんで」
 久里子だってこんな事は言いたくない。死者を冒涜するなど許される事ではない。だが、玖音を救うためには仕方のない事だ。
正座した足の上で阿樹が拳を握りしめるのを見ながら、久里子は嘆息して言った。
「なぁ、バアさん。言っとくけどな、アンタ立派な殺人鬼やで」
 阿樹に侮蔑の表情を向け、久里子は淡々と続ける。
「そんなに名誉が大切か。威信ってそんなにエエモンなんか。ソコまでして『月詠』受け継ぎたいんか。自分の子供殺してまで守らなアカンモンなんか」
「随分と、言いたい事を言ってくれますね」
 久里子からの非難を黙って聞いていられなくなったのか、阿樹は静かだが確かな怒りを内包させた声で言った。
「いかに土御門財閥を仕切る嶋比良様とはいえ、言って良い事と悪い事がありますよ」
「そらスマンのー。口悪いんは生まれつきやねん。けどな、バアさんもええ年や。そろそろ孫の顔見たいんちゃうん。自分の子供片っ端から殺しとったら、一生孫の顔拝まれへんで。娘さんも殺してもーたんやろ?」
「茅花は孫を残して逝きました」
「そらおかしいで」
 かかった。
 ついに、阿樹から僅かなボロが出た。
「確か記録やとアンタが元々『月詠』の保持者やったはずや。せやからウチは『月詠』受け継いだその沙楡ゆーんもアンタの娘かと思ーとった。報告書にもそうあったしな。けど、さっきの言い方やと茅花ゆー女が一人娘みたいやな」
 阿樹はさっき久里子の『娘さんも殺してもーたんやろ?』という問いかけに『茅花は』と即答した。もし沙楡も娘なのであれば、普通は生きている方の事を先に思い浮かべるはずだ。それ以前に『茅花は』などという具体的な名前を出す必要すらないのだ。つい出てしまったのは、阿樹の娘が茅花一人であると言う可能性が高い。
「確かに、私の娘は茅花一人。報告に不備があった事は謝罪いたします。コチラにも事情があったものですから」
 そして阿樹のこの言葉によって確実となった。
 沙楡は現在の『月詠』の保持者らしい。ならば子供が居るはずがない。居れば『月詠』はその子に受け継がれている。だから、沙楡も自分の娘だと言う事にしても別段不自然ではない。沙楡には子供が居ないから茅花の名前が先に浮かんだと言えば通る話だ。
 しかし、阿樹はその思考が出来ないまでに冷静さを失っている。
「ほんなら聞くけど、何でアンタの娘でもない沙楡が『月詠』持ってるんや」
「茅花は年を経るに従って『月詠』に対する適性を失って行きました。ですから沙楡に受け継がせたのです」
「殺させたんか」
「ええ」
 阿樹は事も無げに頷いた。それがさっきの『事情』というやつなのだろう。
 ――即席の。
 もう致命的だ。一度崩れれば、後は最後まで転げ落ちるだけ。
「つまり、や。茅花にも子供はおらんかった訳や。もしおったんやったらその子に受け継がせたらええはずやもんな。けど子供生む前に適性がのーなったから、やむなく沙楡に受けが継がせた。そーするとさっきのアンタの孫がおるゆー発言、おかしないか? ん?」
 嘘の方程式。
 嘘を突き通すために更なる嘘を重ねる。しかし、少しでも破綻すれば後は脆い。これでもう阿樹は言い逃れできない。
「アンタに孫がおるゆーんも嘘なんやろ。多分、その沙楡が生んだんちゃうんか、玖音を。そんで『月詠』を受け継いだ」
 阿樹は目を閉じ、細く息を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出す。
「貴女は、味わった事があるのですか?」
 明らかに声の質が変わっていた。
 先程までの怒りと焦燥は姿を消し、代わって底冷えするような威圧感を感じる。名状しがたい悪寒。これは畏怖の念だ。
「自分の手で生まれたばかりの子供を殺す時の無念さを。体が内側から侵され、心が壊れていく時の苦痛を」
 阿樹は長くしまい込んでいた胸の内を吐露するように、朗々と言葉を紡いだ。
「私は三人の男の子を産みました。そして皆、この手で殺しました。茅花は四人目にようやく産まれた女の子。それ以上子供を作ろうなどとは考えもしませんでした。あんな残酷な事をするくらいなら」
「ほんなら何で最初に止めへんかったんや」
「真田家の当主として、『月詠』の保持者として、周りに示しが付きませぬ。歴代の真田の女達が通ってきた道を、私一人が逃げる訳には行きませぬ」
「玖音を見逃したんはなんでや」
 久里子の言葉に阿樹は目を細め、昔に思いを馳せるように遠くを見た。
「玖音は、やはり最初に殺すべきでした。自分の孫だからと情けを掛けたりせずに」
「孫?」
 玖音が? なら先程の茅花という一人娘が玖音の母親?
 茅花が孫を産んで逝ったというのは事実?
「貴女のご推察通り、真田の女達は玖音と茅花を妬んでおりました。自分達が産んだ男の子のように死ぬべきだと。自分達のように腹痛めて産んだ子供を殺すべきだと」
「けど玖音は『月詠』を保持できた」
「そうです」
 何故かは分からない。だが玖音はこれまで産まれて来た男児と違い、闇の波動をまき散らす事なく『月詠』を受け継ぐ事が出来た。これでは玖音を殺す理由がない。しかし、真田の女達はそれを許さなかった。
「茅花は最初、玖音を殺そうとしました。コレまで一つの例外も生まなかった、真田家のしきたりに従い。しかし結局出来ず、茅花は玖音を連れて逃げました」
 だが真田の追っ手から逃げる事叶わず、茅花は屋敷に連れ戻されてしまった。そして、儀式が再開された。茅花の手によってではなく、沙楡の手によって。
 母親が出来ないのならと、沙楡が志願したのだ。沙楡はその時すでに、自分の男の子を一人殺していた。
 玖音に添えられる短刀。それが押し込まれようとした時、阿樹が止めた。
「可愛かったのでしょう、やはり。初めて生まれた孫ですから。ですが、玖音をそのままにして置く訳には行きませんでした」
 当主の発言は絶対だ。逆らう事など許されない。しかしそれでは他の女達は納得行かない。
自分の孫を守ってやりたいという気持ちと、真田家当主としての役割の間で葛藤し、阿樹は玖音を条件付きで生かす事にした。
 それが、座敷牢への幽閉。
 二度と表には現れないという条件の下、玖音は生きる事を許された。そして玖音を殺そうとした沙楡を『月詠』の継承者として仕立て上げ、土御門財閥に報告した。土御門財閥が葛城の分家である真田家を信頼し、査察を入れない事を見越して。
「茅花は、毎日玖音の所に足を運んでおりました。そして、日に日にやつれていきました」
 茅花への風当たりは強かった。人間としてすら扱って貰えなかった。
 『闇子』を生んだ女として茅花は心身共に傷付けられ、憔悴し、疲弊して行った。
「そして玖音が十二の時、茅花は自殺しました」
「……やっぱ、耐えきれんようになったんか」
「ソレもあるでしょう。ただそれ以上に知らせたかったんだと思います。玖音の事を外部に。茅花が持っていた特別な力で」
 自分の命と引き替えに誰かの体を操る。
 茅花は玖音を操るために自殺したのではない。玖音の事を誰かに知らせるために死んだ。連絡員を操り、土御門財閥に伝えるために。
「どうやってかは知りませんが、母の死を知った玖音は『月詠』に覚醒し、暴走しました」
 玖音は圧倒的な力で真田、岩代、有明の陰陽師達を次々と殺し、『朱雀』と『六合』を取り込んだ。そして、去って行った。
「たった一人でなぁ……。この屋敷潰されへんかっただけでもめっけもんやで。ほんで玖音はそのまま行方不明。自分らだけやったら探そうにも探されへん。で、冬摩に目ぇ付けた訳や」
「はい。荒神様の『白虎』なら探せるのではないかと思い」
「『朱雀』との共鳴かい。考えたやんけ。後は冬摩を誰かに付けさせてたら、その内見つかるゆー訳か。なるほど、大体の話は分かったわ。ほしたら最初の質問や」
 久里子はサングラスをかけ直し、下から阿樹の顔を覗き込んだ。
「玖音をどうやって殺すつもりや」
 阿樹自身、玖音の存在を認めた。真田の女が彼の存在を妬んで殺そうとしている事も。そして、阿樹は自分の孫である玖音を他の女達よりも早く見つけ、守ってやりたい事も。
 ならば話してくれるはずだ。ここまで喋った以上、当主としての面子も何もあったものではない。
「それはお教え出来ません」
 だが、阿樹はキッパリと答えた。その声に呼応して、久里子の後ろで座っていた男達が倒れだす。慌てて振り向くと全員、口から血を流して白目を剥いていた。誰が見ても即死だ。
 襖が音もなく開き、何十人もの女達が殺意を宿した瞳でコチラを睨み付けていた。手には様々な呪具。護衛の男達は彼女らに呪殺されたのだろう。
「真田家はもうお終いです。『月詠』を奪われた事。玖音の存在。私が全てを話したのは、真田家当主としての覚悟を皆に伝えるため。何としても、玖音を殺すため」
「なんでや! アンタ、玖音の事守りたいんちゃうんか!」
 久里子の叫び声に、阿樹は寒気すら覚える狂気の混じった薄ら笑いを浮かべた。
「やはり私も、どこかで玖音と茅花の事を妬んでいたんでしょうね」
 それは真田家当主としてではなく、一人の女としての言葉。今まで守って来た物が全て崩され、理性のタガが外れた。
「玖音は殺します。そして完全に真田の血筋を断ち切る。真田家は女系家族として、終焉を迎えます。もう失う物は無い。貴女も全力で抵抗した方が良いですよ。死にたくなければ」
「ホンマなんぎなバアさんやな! 零か百かでしか考えられへんのかい! 別にエエやんけ男生んだかて! 『月詠』おらんかて!」
 自分を素早く取り囲む真田の女達と距離を取りながら久里子は叫ぶ。
「女系家族を維持し、『月詠』を保持し付ける事は真田家全体としての意志。六百年続いた真田の歴史を汚すくらいなら、滅亡を選ぶ」
「クソッタレ!」
 本気だ。この強固な意志は覆せそうにない。
「そーかい、そんなに死にたいんかい! ほんならウチの手で引導渡したろーやんけ! 覚醒者の力舐めンナやあぁぁぁぁぁ!」
 気合いと共に声を上げ、久里子は視線に力を込めた。

◆二度目の襲来 ―仁科朋華―◆
 冬摩が居なくなって二日が過ぎた。
 今日は紅月。冬摩が一番辛い時だ。そして、冬摩からの想いを全く感じ取れなくなる朋華にとっても。
「仁科朋華、その前食べた『ぱふぇ』と言う菓子はなかなかじゃったぞ。今日は行かんのか? 『きっちゃてん』とやらには」
 人通りの少ない川沿いの土手。そこはいつも冬摩と二人きりで歩くデートコース。だが今は隣を浮遊している『死神』が、嬉しそうに話し掛けて来るだけだ。
 冬摩が朋華の元を去る前に、具現化して残して置いてくれたのだ。『羅刹』と『獄閻』も一緒に。草原に潜む虫を捕まえながら無言で付いてくる『羅刹』はともかく、『獄閻』の大きくつぶらな瞳で見つめられていると、落ち着くものも落ち着かない。
(早く帰って来て、冬摩さぁん……)
 冬摩に買って貰ったチェリーピンクのヘアバンドを触りながら、朋華は心の底から懇願した。
 結局あれから、玖音は約束通り一度も姿を現さなかった。だが、それだけで冬摩が信用するはずもない。三体の使役神を残しているのが何よりの証拠。
 玖音から別れて最初の一週間は本当に苦労した。いつ玖音の所に行ってもおかしくないくらい殺気立っていた。冬摩の性格からすれば当然だろう。朋華の言いつけを守って、何とか堪えているだけでも奇跡に近いのだ。玖音に大人しく使役神の記憶を読ませるよう説得するなど到底不可能。『死神』の『閻縛封呪環』を解いたくらいで、冬摩の怒りが収まるはずもない。
「これ仁科朋華、聞いておるのか?」
「え? あ、はい。牛丼ですか? いいですよ。丁度お昼ですし食べに行きましょうか」
「……お主、妾に喧嘩でも売るつもりか?」
 半眼になって『死神』が睨み返してくる。
 まずい。冬摩と玖音の事で頭が一杯で他に気が回らない。
(だって……)
 玖音が何か仕掛けて来るとすれば、冬摩が朋華のそばに居ない今しかない。
 朋華自身、玖音の事を完全に信用している訳ではないのだ。一応彼の目的は教えて貰ったがあまりに漠然とし過ぎている。それに彼の行動は確かに計算高いが、理解できない部分も多い。自分から冬摩の怒りを買う真似をしておいて、今度は冬摩に大人しくするよう説得しろなど訳が分からない。
(生まれた意味、か……)
 だが、それでも悪い人ではないと思う。
 『羅刹』が血の匂いをたどって玖音の所に行き着いた以上、あの座敷牢に玖音が居た事は間違いない。そして誰かに斬りつけられた事も。
 強大な力。それ故に押しつけられた不遇な環境。恐らく玖音は、真田家に虐げられて育った。そして逃げ出した。孤独と戦い、芹沢という家庭に身を隠した。生まれた意味を見つけるために。
 女系家族に生まれた男児、『闇子』として存在意義を知るために。
「真田玖音の事は信用しない方が良い」
 『死神』がまるでコチラの胸中を見透かしたように声を掛けてくる。
「アヤツは目的のためなら手段を選ばん。そういう奴じゃ」
 そして『死神』は地面に足を下ろし、立ち止まった。
「お主の体の一部が欲しくて欲しくて堪らんらしい」
 袖長白衣に覆われた細い腕をすっと真横に伸ばし、『死神』は朋華に静止を求める。
「『死神』さん……?」
「敵じゃ」
 短い言葉に玲瓏な響き。『死神』はすでに戦闘態勢に入っていた。後ろを見ると『羅刹』と『獄閻』も左右に散り、『死神』を頂点として朋華を囲む三角形に展開している。
「え?」
 前に目をやるが誰も居ない。見回しても都心からかなり離れたこの場所には、人一人見つからなかった。
「ソコじゃ!」
 叫び声と共に『死神』が前方に真空刃を放つ。アルファルトを抉り、舞い上がった砂煙の中から何かが飛び出して来た。
「きゃ……!」
 悲鳴を上げようとした朋華の眼前で、急迫して来た何かは硬い物に弾かれて軌道を変える。いつの間にか漆黒に染まった壁が朋華の目の前に浮かんでいた。『獄閻』の『金剛盾』だ。
「私は玖音様の召鬼。仁科朋華。貴様を――殺す」
 後ろからしたのはしゃがれた老人のような声だった。慌てて振り向くと、般若の仮面を付け、黒いマントで全身を覆った背の低い人物が立っている。彼は重心を低く構え、空気を焦げ付かせるような速さで突っ込んで来た。
(この、感じは……!)
 マントの隙間から細い腕を覗かせ、突進の勢いに乗せて下から振り上げる。自分の前に一瞬で移動した『羅刹』が、両腕を交差させて彼の裏拳を受け止めた。しかし勢いは完全に殺しきれず、拳撃は『羅刹』の体を強引に持ち上げて後ろに跳ね飛ばす。
「龍閃の召鬼か! まだ残っておったとはな!」
 『死神』が舌打ちして『羅刹』を受け止め、無数の真空刃を放った。朋華の頬の数ミリ横を駆け抜けた不可視の刃は、攻撃終わりで隙の出来た彼に容赦無く降り注ぐ。
 彼は両腕で顔を庇い、体を切り刻まれながらも真空刃をやり過ごした。
「龍閃の召鬼……なんで……」
 呆然としながら呟く朋華。
 今目の前にいる奇怪な格好をしてた人物からは、あの最強にして最凶の魔人、龍閃と同じ波動が放たれていた。一年前、冬摩によって葬られたはずの。
「ふん、龍閃ほどの魔人じゃ。死してなお、これだけ強い召鬼を残していたとしても不思議ではないわ!」
 好戦的な笑みを浮かべ、『死神』は上空へと飛翔した。そして高い位置から真空刃を射出する。刃は円錐状に広がり、広範囲に渡って降り注いだ。朋華の周りには『獄閻』が『金剛盾』を張り巡らし、真空刃は届かない。
 仮面の男は素早い動きで後ろに飛び退くと、空中で右腕を大きく振り上げ着地と同時に地面に叩き付けた。力の奔流は地面を潜って直進し、『死神』の真下で垂直に方向を変える。
「小賢しい!」
 裂帛の気合いと共に『死神』は左手に持っていた扇子で、自分を狙って飛来した光の柱をはじき飛ばした。しかし光の柱は細かく分裂して無数の筋となり、『死神』の更に上空から降り注ぐ。
「ちっ!」
 舌打ちして真横に飛ぶが、光は『死神』を正確に追尾して来た。
「『羅刹』!」
 叫び声と同時に『死神』は真下へと急降下する。背中で光の束を引き付け、地面すれすれで水平方向に飛んだ。入れ替わるようにして『羅刹』が光の前に立つ。両手を前に突き出し、『羅刹』は素手で光の全てを受け止めた。
「『羅刹』クン、後ろ!」
 朋華が悲鳴に近い声を上げる。
 仮面の男はすでに『羅刹』の後ろに回り込み、組んだ両手を頭上高く振り上げていた。朋華の体が反射的に前傾姿勢を取る。
「お主は動くでない!」
 咄嗟に庇いに入ろうとした朋華を、『死神』が鋭い声で止める。直後、男の両拳が『羅刹』の脳天に突き刺さった。粉塵を巻き上げ、『羅刹』の全身が地面にめり込む。
「『羅刹』クン!」
「ソコから出るなと言っておる!」
 隣りに『死神』が降り立ち、朋華の体を手で制した。
「『獄閻』の盾の中に居れば取りあえず大丈夫じゃ」
「で、でも、私だって戦える……!」
「妾達使役神は例え消滅したとしても一時的なもの。主である冬摩が無事な限り、奴の中で休息すれば何度でも蘇る。じゃが、お主はそうはいかん。冬摩が何のために妾達を残したのか考えてみろ」
 油断無く仮面の男に目を向けながら『死神』は言う。彼女の顔から最初の余裕が消えていた。紅月の影響で強くなっているはずの『死神』や『羅刹』と、たった一人で互角以上に渡り合える目の前の男に戦慄しているのだ。
「あ、あの人、龍閃の……。でも、さっき『玖音様の召鬼』って」
 『死神』の想いを汲み、朋華は小さく頷いて聞いた。 
「大方、真田玖音が手懐けたのじゃろ。アヤツのは元々龍閃の召鬼を探していたはずじゃからな」
 玖音は冬摩の使役神の記憶を読むために、冬摩の召鬼である朋華を狙った。しかし冬摩が龍閃を倒して使役神を取り込む以前は、龍閃の召鬼を求めていたはずだ。
(そうなの、かな……)
 確かに、『死神』の説明で納得は出来る。玖音が龍閃の召鬼と接触しつつも、体の一部を手に入れる事が出来ず、手こずっている間に冬摩が龍閃を倒してしまった。そして主を失った召鬼は玖音に服従した。そう考える事も出来なくはないが、何かがおかしい。
(なんか、真田さんらしくない……)
「む……!?」
 朋華の思考は『死神』の上げた声で中断された。
 仮面の男は『羅刹』が動かなくなった事を確認して、何か札のような物を右肩に貼り付ける。次の瞬間、男の体が空気に熔け込むようにして消えて行った。最初、突然朋華達の前に現れた時も、こうやって姿を消して近づいていたのだ。
「よいな、仁科朋華。絶対にココから動くでないぞ」
 ソレだけ言い残し、『死神』は飛翔した。
 恐らく『死神』には見えているのだろう。だが朋華には全く見えない。気配すら感じない。自分には何も出来ない。今冬摩が苦しんでいるというのに、何もしてやれないのと同じように。
「ご、『獄閻』さん……私と一緒に移動できますか?」
 恐る恐る朋華は『獄閻』に話しかけた。『死神』はココを動くなと言っていたが、ソレは『獄閻』の『金剛盾』から出るなと言う事だ。なら、『金剛盾』の中に入ったまま移動すれば問題ないはず。
「せめて『羅刹』クンを助けたいんです」
 『羅刹』は仮面の男にやられてピクリとも動かない。だが粒子となって消えていない以上、生きているはずだ。一緒に『金剛盾』の中に入れれば、あの男の攻撃は受けずに済む。
『…………』
 くぐもった音を出し、『獄閻』はゆっくり移動を始めた。どうやら朋華の声が通じたらしい。ホッとして朋華が一歩踏み出した時、視界が大きく揺れた。
「何をしておる!」
 頭上から『死神』の声。彼女がこちらに急接近している間に、揺れは更に大きくなり、足下がおぼつかなくなる。耳元で鳴り響く甲高い金属音。姿を消した仮面の男が、『金剛盾』を叩いているのだ。
「『獄閻』動くな! 破られるぞ!」
 『死神』が叫びながら目の前まで来た時、突然さっきまでの音が止んだ。
 朋華の背中に冷たい物が走る。
「『死……』!」
 朋華の声が終わる前に『死神』は舌打ちし、空中で体を捻った。
 袖長白衣と共に『死神』の右腕が宙に舞い、白い粒子と化して消え去る。
 完全に狙われていた。朋華の方に注意が逸れ、集中力を欠いた『死神』が近くに来るのを男は狙っていた。
「くそ……!」
 悔しそうに言い、『死神』は苦痛に顔を歪めながら右腕の無くなった肩を左手で押さえつける。鮮血の代わりに白い粒子が飛散した。
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
 絶叫を上げる『死神』。彼女の躰の方々から粒子が舞い、巫女装束が細切れになって行く。
「『死神』さん!」
 堪らず朋華は『金剛盾』から飛び出し、『死神』の元に駆け寄った。恐らく、男の狙い通りに。
 不可視の空気の塊が肉薄して来るのが分かる。咄嗟に防御姿勢を取った朋華の体を、誰かが横手から押しのけた。
「『羅刹』クン!」
 いつの間にか立ち上がっていた『羅刹』は、朋華を男の攻撃の軌道から逸らせ、代わりに自分の体で受け止める。
「……!」
 不自然な体勢の所にまともに食らった『羅刹』は、人形のように四肢を投げ出して宙に放り捨てられ、背中から地面に叩き付けられた。
 しかし『羅刹』を心配する間もなく、男の攻撃がこちらに向かって来る。
 慌ててその場を飛び退く朋華。頬を斬られ、左脚に激痛を感じながらも、辛うじて初撃をやり過ごした。
 だが、やられた左脚を庇って右脚だけで着地した時、大きくバランスを崩して頭が揺れる。
「あ……」
 その反動でチェリーピンクのヘアバンドが朋華の頭から外れた。
 コンマ数秒の注意力の喪失。だが、それは致命的な時間。
(殺られる――)
 死を覚悟する朋華。
 しかし自分を庇うようにして、誰かの影が覆い被さった。
 突然現れた彼は持っていた刀の鞘で不可視の攻撃を弾き、視線だけを後ろに向けて朋華を見る。
「真田、さん……。どうして……」
 絶対死の危機から救ってくれたのは、切れ長の目を持った長身の男。
 真田玖音だった。
「貴女に死なれると僕が困る」
 玖音は短く言い残すと、何もない空間に向かって居合いの構えから抜刀した。真空すら生み出す弧月を描き、放たれた刀の腹から別の刃が無数に飛び出した。
 大気を鳴動させる衝撃。地面に大きな穴が穿たれ、そこに仮面の男が姿を現した。
 男は尻餅をついた体勢から手の力だけで飛び上がると、空中で構え直して地面を蹴り、玖音に向かって疾駆する。
 目の前で鋭角的に軌道を変え、横手から攻める男に玖音は薄く開いた視線を向けた。
 仮面の男から繰り出される爪撃を全て紙一重でかわし、玖音は真下から刀を垂直に振り上げる。大きくのけ反り、マントの留め具を外されながらも男は――いや、マントの下から現れたのは女性特有の膨らみを持つ躰だった。
 彼女はのけ反りの姿勢に逆らう事なく体を後ろに流し、バク転の要領で玖音から距離を取る。
「遅い」
 しかしすでに間合いを詰めていた玖音は彼女の目の前でかがみ込み、脚払いを放った。倒れ込んだところに玖音の刀が吸い込まれる。鋭い刃を横に転がってかわしながら、彼女は呪符を右肩に貼り付けた。先程と同じようにして体が透明化していく。
「無駄だ」
 玖音は突然後ろに振り向くと、刀を一端鞘に収め、短く息を吐くと同時に抜き放った。無色透明の空間に紅い飛沫が舞う。しかし彼女は玖音の真空刃を食らっても透明化を解く事なく、血を撒きながら逃げ去って行く。
「……やれやれ」
 嘆息しながら玖音は刀を収め、近くに置いていたスポーツバッグにしまった。
「今のは龍閃の召鬼か? まだ居たんだな」
 バッグを担ぎ直し、玖音はゆっくりと朋華に歩み寄って来る。
(す、ごーい……)
 玖音の鮮やかな戦いぶりを見て、朋華は感嘆の声を胸中で上げた。
 『死神』や『羅刹』が二人掛かりで敵わなかった相手を、まるで赤子扱いだった。以前見た時よりも数段格が上がっている。コレが玖音の本当の実力なのだろうか。
「寄るな、貴様……。仁科朋華から離れろ」
 呆然としている朋華と、彼女に近づく玖音の間に割って入るように、『死神』が体を引きずって来た。
「彼女の傷を治そうかと思ったんだが……どうやら余計なお世話らしいな」
 殺気に満ちた『死神』からの視線を受け、玖音は軽く肩をすくめて見せる。
「白々しいぞ、貴様。アレは今、貴様の召鬼じゃろう。こんな下らない自演で冬摩の信頼を得ようなどとは片腹痛いわ」
 肩で息をしながらも、『死神』は強気な口調で言った。
 確かに、あの仮面の女は『玖音の召鬼だ』と自分で言っていた。勿論、『死神』の言う通り玖音の自作自演の可能性もある。しかしそれならば正体を言うべきではない。自分から自演であると公言してしまっては意味がない。
 ただ、玖音ならばその裏を付いて何か別の考えを持っているかも知れないのだが……。
「アレが僕の召鬼? 僕は魔人じゃない。召鬼を従わせる事は出来ない」
「じゃが魔人の血は宿しておろう」
 『死神』は目を針先のように細めて玖音を射抜く。
 玖音は魔人の血を宿している。ソレは阿樹も認めていた事。だから『羅刹』が嗅ぎ分ける事が出来た。もう動かしようのない事実だ。
「……らしいな」
 玖音は自嘲めいた笑みを浮かべて、素直に認めた。
「けど、さっきの奴は僕の召鬼なんかじゃない」
「なら、何故追って止めをささんかった。貴様なら出来たはずじゃ」
「彼女の傷の手当てを優先させたかったから、と言っても信じて貰えないんだろうな」
 玖音は朋華の方を見ながら、溜息混じりに言う。
「当たり前じゃ。だいたいどうして妾達の居場所が分かった。四六時中監視でもしているのか。ならば仁科朋華が危機に陥るのを待って恩を売ろうとでも姑息な事を考えておったのか」
「……これ以上話すのはお互いに得策ではないな」
 早口でまくし立てる『死神』から目を逸らし、玖音は背中を向けた。
「荒神冬摩にどう報告するかは、貴女に任せる事にするよ」
 それだけ言い残すと、玖音は歩きだす。
「あ、あの真田さん!」
 朋華が掛けた声に、玖音は足を止めた。
「さっきの龍閃の召鬼、本当に知らないんですか?」
 玖音は体を半分だけこちらに向け、表情を感じさせない顔つきのまま口を開く。
「呪符を使って姿を消すのは真田のお家芸だ。僕が結界符を見えないように細工したのと同じようにね。貴女達は多分、付けられていたんだ。真田の屋敷から出た時から。恐らく、僕の居場所を突き止めるために」
「真田さん、の……?」
 冬摩が玖音の所に行き着く事を見越して、真田家は自分達の後を付けていた?
 阿樹は冬摩に玖音の事を任せたのではなかったのか? 冬摩が連れて帰ってくれるのを期待していたのでは?
「どうして真田の刺客が龍閃の召鬼で、貴女を狙ったのか。ソレは分からない。だから、これから本人に聞きに行く」
 刺客? それではさっきの女性は玖音を? 玖音はその事をすでに知っていて……?
 分からない。何が何だかサッパリだ。
「荒神冬摩が帰って来るまで傷の治療に専念するんだな。さっき女は僕が引き受ける」
 一方的に話を切ると、玖音は再び歩き出した。
 もう訳が分からな過ぎて、掛ける言葉も見つからない。
「惑わされるな、仁科朋華。アヤツは敵じゃ。冬摩が戻って来たら力ずくで何とかして貰った方が良い。でなければ、お主の命が……」
 これまで気力で立っていたのか、『死神』は苦しげに言葉を吐いて、その場に片膝を付いた。
「『死神』さん!」
「大丈夫じゃ。少し休めば良くなる。『獄閻』、『羅刹』を運んでくれ……」
 『死神』は足をふらつかせながら立ち上がると、玖音が去って行ったのとは逆の方向に歩き始める。『獄閻』は気を失っている『羅刹』を『金剛盾』で器用にすくい上げると、『死神』の後を追った。
(冬摩さん……)
 朋華の危機は冬摩にも伝わっているだろう。どこまで正確に伝わっているかは分からないが。
 取りあえず無事だったので、以前のように体に無理を強いて帰って来る事はないと思う。だがあの冬摩の事だ。もし玖音が絡んでいると知れば、その時は何をするか分からない。
 最悪の場合、怒りにまかせて……。

◆力と力、想いと想い ―荒神冬摩―◆
 甘かった。
 やはりあの時、朋華に嫌われてでも玖音を何とかしておくべきだった。二度も朋華を傷付けられるなど、自分の醜態に反吐が出る。
 一ヶ月半ほど前に玖音の居場所をつきとめた時、塾を無事出て来た朋華に説得される形でズルズルと紅月の日を向かえてしまった。勿論、玖音を信用した訳ではない。朋華を信頼したのだ。
 最近、朋華がどんどん未琴に似て来ている。以前は外見だけだったのに、考えた方や物の見方まで近くなって来ていた。気が強く、言いたい事は全て包み隠さず喋った未琴。
 別に冬摩は朋華に未琴の面影を求めている訳ではない。ありのままの朋華で居てくれればそれでいい。朋華と未琴は別人だ。朋華には朋華の魅力が、未琴には未琴の魅力がある。そして今は、殆ど朋華の事しか頭にない。だが僅かに残る未琴への想い。それが時折、朋華に重なり合う。最近その回数が多くなって来た。
 そしてあの塾の前で見せた朋華の顔は、本当に未琴そっくりだった。
 毅然とした態度で揺るぎない意志を見せる朋華。朋華はしばらく様子を見てくれと言って来た。玖音がどんな人間なのか、もう一度見極めさせてくれと。
 だから我慢した。朋華を信頼したから。
 しかし、ソレが完全に裏目に出た。
「悪いな、朋華……」
 冬摩は呟いて龍閃の気配を追う。まさか玖音が龍閃と同じ波動を放つとは思わなかった。だが理由などもうどうでも良い。あの時、朋華を襲った奴を見つけ出せればソレで良いのだから。これなら『羅刹』が居なくても十分に探しうる。
 紅月から二日。まだ影響は完全には抜けきっていないが、見境が無くなるほど理性を失ってもいない。朋華が無事で居てくれたおかげで、辛うじてまともな思考を維持できる。相手を殺す前に何とか自分を押さえ込む事が出来る。
 本当ならすぐにでも朋華の所に戻ってやりたかったが、今はその前にする事があった。朋華に会えば、絶対に止められる事を。
 元々相手の出方を待つなど冬摩の気質に合うはずもないのだ。
 攻撃は最大の防御。朋華からどんな非難、罵声を浴びる覚悟も出来ている。朋華を失うくらいなら、嫌われた方がずっとましだ。二度と朋華に触れさせはしない。絶対に。
 ――真田玖音を、潰す。
(近い……)
 神経を研ぎ澄ませ、冬摩は前を睨み付ける。
 龍閃の波動はまるでコチラを誘うかのように移動していた。薄暗い空を背に、冬摩はビルの屋上を駆け抜ける。顔に冷たい雫が当たった。天上には分厚い灰色の雲。
 最初は小雨だったが、すぐに明確な雨音が耳に届くようになり、あっと言う間にアスファルトを激しく叩く土砂降りへと変わった。
 駅前にある五叉路。その真上に掛けられた歩道橋の真ん中で、そいつは待って居た。
「あぁん?」
 それは玖音ではなかった。
 紅い髪は雨を吸って重く肩にのし掛かり、大きな目を半分ほど開いて虚ろな表情をこちらに向けている。まだ中学生くらいだろうか。背が低く、幼い顔立ちの少女だった。
「私は玖音様の召鬼。荒神冬摩。お前を、殺す」
 少女に似つかわしくない低くしゃがれた声。
「へっ、こんなガキが龍閃の召鬼とはね。で、今は玖音の手下って訳か。なるほど」
 つまり、玖音は手駒を使って朋華を襲わせた。冬摩に居場所を知られている以上、さすがに自分から動くのはまずいとでも考えたのだろう。恐らく、どこかで高みの見物でも決め込んでいるはずだ。
「一つ確認させて貰うぜ。お前が朋華を傷付けたんだな」
 周りの人間が足早に立ち去っていく中、冬摩と少女は大雨を全身で浴びながら対峙していた。
「そうだ。玖音様の命令だ」
「そうかい」
 冬摩の全身から怒気が立ち上り、降り注ぐ雨がそれに触れて細かく霧散していく。
「姑息な手ぇ使いやがる玖音は取りあえず後回しだ。まずは――」
 冬摩が地面を蹴った。歩道橋のコンクリートを抉るほどの突進力。少女との距離が一瞬でゼロになった。
「テメェからだ!」
 少女の腹に左拳をめり込ませる。内臓を破壊するつもりで下から突き上げ、少女の軽い体を跳ね上げた。
「オラァ!」
 けぽっ、と赤黒い血を口から吐き出し浮かび上がる彼女の背中に、左拳を引く動作と連動させて右拳を叩き付ける。うつぶせの状態で歩道橋にめり込む少女。突然の惨劇に、周りから悲鳴が上がった。
「立てコラァ! こんなもんじゃ気ぃ済まねーぞ!」
 怒声に乗せて冬摩は左脚で少女の右腕を踏み抜く。低く、くぐもった音と僅かな振動が脚に伝わり、骨が粉砕された事を知らせた。
 少女の脇腹を蹴り上げ、無理矢理仰向けにさせる。
「テメェ……」
 彼女は笑っていた。
 口の端に侮蔑と嘲りを乗せて、心の底からコチラを見下していた。
「ク、ククク……仁科朋華は……」
 喉を震わせて低く笑い、
「美味そうだな……。肉の塊にして喰ったら、最高だろうな……」
 蛭のように這い出た舌で唇を舐め取りながら、狂気の言葉を紡いだ。
 ――何かが、冬摩の中で崩れていった。
「テ、メェ……は!」
 右手を少女の首筋に食い込ませる。そして片腕で高々と小さな体を持ち上げ、殺意の視線で睨み付けた。血流が早くなる。心音が大きくなる。躰の内側からドス黒い奔流が込み上げてくる。
 ――コロセ。
 耳の奥で誰が呟いた。
 ――コイツヲ コロセ。
 声はどんどん大きくなる。
 ――コイツヲ……コロセ!
「ガアアァァァァァァァァ!」
 右腕の震えが全身に伝播し、僅かに残った冬摩の理性を粉砕して行く。右肩の筋肉が一気に膨れあがり、冬摩は絶叫を上げて少女の躰を振り下ろした。
「オオオォォォォォォ!」
 彼女の躰がコンクリートに叩き付けられる直前、残った左腕を間に挟む。それでも衝撃は吸収しきれず、自分の腕を引き裂いて少女は真横に転がった。
 早い間隔で呼吸しながら、冬摩は凄絶な視線で天を仰ぐ。
 あのまま叩き付けていたら、少女は間違いなく肉片と化していた。左腕を挟んだのは考えての行動ではない。
 どこかで朋華の声が聞こえたのと、少女から――突然龍閃の波動が消えたからだ。
 息を吐きながら視線を下ろす。雨に打たれ、彼女は気を失っていた。さっきまでの凶悪な面影は形もなく、まるで付き物でも落ちたかのように穏やかな顔つきで目を瞑っている。
 胸元が微かに上下している事が、彼女がまだ生きている事を告げてくれた。
「美……柚梨……」
 背後で声が聞こえた。続けて何か重い物が、湿った音を立てて落ちる。
 冬摩はそちらにゆっくりと振り向いた。
「テメェか……」
 濡れて顔に張り付く黒髪を掻き上げながら、冬摩はそこに立っていた人物を見て嬉しそうに顔を歪める。
「高みの見物はもう終わりか?」
 薄ら笑いを浮かべたまま、冬摩は真田玖音に言った。
 彼は顔面を蒼白にし、おぼつかない足取りで少女の元に歩み寄る。そして優しく抱き上げた。
「どうして、お前が……」
 焦点の合わない視線を少女に落とし、玖音は小さな声で呟いた。
「腕が、折れて……。こんなに、血が出て……」
 まるで幽霊のように生気を感じさせない顔つき。玖音は信じられない物を見るかのように首を横に振りながら、少女の頬をそっと撫でた。
「こんな……酷い姿に……」
誰に話しかけるでもなく、玖音はただ一人言葉を紡ぐ。
 濡れた髪に触れ、閉じた瞼に触れ、薄桃の唇に触れ、そして自分の胸で少女の顔を抱いた。
 しばらくそうしていた後、玖音は生気を宿さない顔をコチラに向ける。
「お前が……やったのか?」
 虚ろな視線で冬摩を見ながら、玖音は抑揚のない声で聞いた。
「だったら?」
 鼻で小さく笑い飛ばし、冬摩は玖音を睥睨する。
「何の……ために」
「仕返しに決まってんだろ! そっちから仕掛けといて今更白々しいんだよ!」
 鼻に皺を寄せ、冬摩は吐き捨てた。
「仕返し……? 美柚梨が何をしたって言うんだ……」
「あぁ!?」
 かみ合わない会話に冬摩は苛立ち、声を荒げる。その怒声に触発されるようにして玖音は美柚梨をそっと横たえ、陽炎が立ち上るようにゆらりと立ち上がった。それはまるで風に揺れる柳のように弱々しく、覇気を感じさせなかった。
「仁科朋華を傷付けたのは僕だ。なら……僕に直接来るのが筋って物だろう……。どうして、妹に……」
「妹ぉ? はっ! テメーは妹を龍閃の召鬼にされて、ムカツいて自分のモンにしたのか! そんで今度は捨て駒? 兄貴のやるこっちゃねーな!」
 胸クソ悪いと言わんばかりに、冬摩は唾を吐き出す。
 その言葉に、玖音の顔つきが変わった。
「そうさ、僕は美柚梨の兄であってはいけなかったんだ。そうでなければ、こんな訳の分からない争いに巻き込まれずに済んだ」
 語調が鮮明な物になっていく。
「普通の家庭で育って、普通の幸せを手にしていたはずなんだ」
 声の質が荒く、強い意志を含んだ物になった。
「お前の腹いせで傷付けられずに済んだんだ!」
 そして鼓膜を激震させる怒号となり、玖音は大きく目を見開く。双眸に明確な殺意を込めて。
「勝手な事ばっかぬかしてんじゃねーぞコラアアァァァァ!」
 冬摩は灼怒に顔を染め上げ、咆吼して玖音に掴みかかる。しかし伸ばした右腕は空を切った。
「ああそうさ! 僕は自分勝手なクズ野郎だ!」
 何の前触れもなく背後で声が上がる。直後、玖音の右拳が冬摩の脇腹に突き刺さった。そして体内を駆ける熱と『痛み』。脇の骨が折れた事を感じながら、冬摩は狂笑に顔を歪めて右肘を背後の玖音に振り下ろした。
 しかし、渾身の力を込めた一撃は虚しく空を切る。
「お前の力の発生点は『痛み』だったな」
 更に離れた位置で言いながら、玖音は足下のスポーツバッグを持ち上げた。ソレを乱暴に引き裂き、中から刃渡り二メートルはある長刀を取り出す。
「中途半端な『痛み』は逆効果だぜ?」
 気の弱い者が目を合わせれば、それだけで気絶しそうなほどの眼光を玖音に向け、冬摩は低い声で言った。
「心配するな。お前が悦ぶような『痛み』など与えるつもりはない」
 冬摩の目を真っ正面から睨み返し、玖音は姿を消す。次に現れたのは歩道橋の下だった。そこで冬摩を挑発するかのように人差し指を数回軽く曲げる。
 ――『空間跳躍』。
 『朱雀』の能力である『瞬足』を、玖音の力の発生点である『怒り』によって最大限に引き出したのだろう。
「おもしれぇ……」
 唸るように言いながら冬摩は歩道橋から身を翻す。
 最初からこうやっていれば良かった。もう細かい事など考える必要はない。
 やるか、やられるか。
 後は――全力でぶつかり合うだけだ。

 玖音が選んだのは、一番最初に戦った人気のない工事途中の高架下だった。豪雨のために、あの時よりもさらに人の気配を感じない。
「荒神冬摩。貴様を――殺す!」
 先に仕掛けたのは玖音だった。居合いの構えから『瞬足』に移り、その勢いに乗せて鋭い剣閃を放つ。
「ケッ!」
 つまらないとばかりに吐き捨て、冬摩は右手を前に突き出した。そして漆黒の盾を現出させ、玖音の刀撃を受け止める。『獄閻』の『金剛盾』だ。
 もう朋華のそばに三体の使役神を置いておく必要もない。目の前の男を倒せば全てが終わる。二度と立ち上がれないようにしてやれば全てに決着が付く。
「使役式神! 『六合』宿来!」
 『金剛盾』で受け止めた刀が、淡い碧色の光を放ち始めた。
 真田家の編み出した特殊技、宿来。以前はコレによって『獄閻』の盾は撃ち砕かれた。
 しかし――
「オラァ!」
 冬摩は『金剛盾』で玖音の刀を押し返し、僅かな距離を開ける。
 使役神の力は基本的に体に宿して真価を発揮する。主の力が強ければ強いほど、使役神の能力も高くなる。具現化した『獄閻』が朋華を守った時とでは、硬度の桁が違う。
 冬摩は生み出した隙間を利用して体を捻り、脚、腰、上体へと連鎖的に力を伝えて行った。そして左足を一歩踏みだし、渾身の力を込めて右腕を前に突き出す。
 避けられる間合いではない。
 しかし玖音はかき消えるように姿を消すと、冬摩の背後――上空五メートルの位置に姿を現す。刀に自重を乗せ、無音のまま振り下ろした。
 冬摩はソレを読んでいたかのように薄ら笑いさえ浮かべながら、前に一歩踏み込む。そしてわざと左肩を刀の軌道上に残した。鮮血が舞うと同時に鋭利な『痛み』が走る。右拳を固く握りしめ、後ろを見る事なく玖音が居るだろう位置めがけて裏拳を放った。
 だが拳撃にはやはり手応えはなく、低い音を立てて空気を引き裂くだけだった。
「中途半端『痛み』は与えねーんじゃなかったのか?」
 距離を取って目の前に現れた玖音を見ながら、冬摩は忌々しそうに言う。
「与えないさ」
 自信たっぷりに返す玖音。
 見るとさっき切られたはずの傷が塞がっていた。
(『六合』か……)
 冬摩は舌打ちして、阿樹に教えて貰った『六合』の能力を思い出す。それは『治癒』と『再生』。いずれも傷を治す力だ。玖音はその『六合』を宿来神鬼として使っていた。さっきのような冬摩に力を与えるだけの傷口は、斬ったその場で癒してしまおうというのだろう。
(メンドクセェ……)
 『朱雀』の『空間跳躍』で逃げ回られていれば、いつまで立っても決定打を与える事が出来ない。だが、『痛み』が蓄積して拳を振り下ろす速さが増せば別だ。
 自分で傷付けても良いが、それだと即攻撃に移れない。理想は玖音に左腕を少し斬られ、その振り下ろしを狙って右拳を放つ事。
「――!」
 視界から玖音の姿が消えた。直後、冬摩の視界を業火が覆い尽くす。
 『朱雀』の能力『火焔』。圧倒的な熱量を持つ紅い舌は意志を持ったかのように動き、冬摩の周囲を囲んだ。高架を支えるコンクリート太い柱を飴細工のように溶かしながら、徐々にその輪の径を小さくしていく。
「こんなモン!」
 冬摩は右腕に力を込めると円環状の真空刃を生み出し、炎を斬り裂いた。紅い壁は微塵となって分散し、無数の火の粉を舞わせて雪のように降り下りて来る。それら炎の生み出す熱で景色が揺らぎ、遠近感が揺らいで行った。
(どこだ……!?)
 視覚ではなく感覚だけで玖音を捕らえようと神経を集中させる。
 そして背後から、僅かな空気の断層が生じるのを感じた。振り向くと、炎の壁を割って白銀の刃が飛来して来る。
(こいつに合わせる!)
 冬摩は喜々として左腕を盾のように掲げ、刀の軌道から僅かにずれた場所で固定させた。頭の中で描いたイメージ通りに、弧を描いて振り下ろされる刀。
「――な」
 しかし、最初の刃の奥から更に太く長い刃が顔を覗かせる。それが取る大きな弧の軌道は確実に右腕の根元に照準を定めていた。
「ちっ!」
 舌打ちして後ろに跳ぶ。だが冬摩の不意を突いた刀撃は右腕を掠め、左腕を半ば近くから斬り落とした。しかし傷口があまりに鋭利な断面なせいか、左腕を半分失ったにも関わらず『痛み』がそれ程大きくない。
「宿来神鬼変喚! 『朱雀』召来!」
 勝機とばかりに玖音は叫び、『朱雀』を刀に宿らせる。そしてこれまでとは比べ物ならならない速さで、赤銅色に輝く刀身を繰り出して来た。
「くっ!」
 即座に『金剛盾』で周囲を固めるが、幾重にも分裂した刀身の何本かが盾の内部に侵入する。空間さえ斬り裂きそうなほどの鋭い刀撃は、冬摩の左太腿を大きく抉り、右手の小指と薬指を跳ね飛ばした。
(くそ! 忘れてたぜ! この厄介な刀!)
 最初の炎は完全な目くらまし。主刀ではなく、そこから枝分かれした側刀を見せて射程距離を見誤らせ、冬摩の力の作用点である右腕を狙った。
 だが、あまりにタイミングが良い。冬摩が自ら左腕を差し出すと分かっていなければ、成り立たない作戦だ。
(そうか)
 『月詠』だ。
 『月詠』の力は『精神干渉』。相手の心を読む事が出来る。そして『怒り』が生じている今は、触れなくともそれが出来るのだろう。
「気付いたな。お前は今、『死神』の『復元』を使えばこんな傷すぐに完治できると考えている」
 『金剛盾』の外から玖音が言ってくる。
 その通りだ。『復元』を使えば命を削られ体力も落ちるが、この程度の傷は一瞬で完治する。
「させない」
 短く言い捨てて、玖音は右手をコチラにかざした。
「怨行術、壱の型、『閻縛封呪環』」
 言霊を内包させた独特の発声で玖音は唱えるように言う。次の瞬間、召来していないにもかかわらず、『死神』が冬摩の中から弾かれるように飛び出した。
「お、のれぇ……」
 『死神』は苦悶に顔を歪めて玖音を一度睨み付けた後、自重に耐えきれなくなったかのように地面に突っ伏す。『復元』は『死神』を体に宿す事で初めて行使できる最上級治癒術だ。強制的に具現化させられた今、『復元』は使えない。
「へっ、そのナントカって術を解いたのも嘘だった訳だ」
「お前相手に手段は選ばんさ」
 騙した事について全く悪びれた様子もなく、玖音は強い殺意を視線に乗せて目を細めた。
「気に食わねぇ……」
 ギリ、と奥歯を噛み締め、冬摩は『金剛盾』を解除する。そして右手を地面に押し当て、『獄閻』を召来した。
「『死神』を頼む」
 冬摩の声に応えて、『獄閻』は『死神』の周囲に『金剛盾』を展開する。
 大量の血が流れる左脚で体を支え、半分失った左腕を前に出し、三本しか指の残っていない右拳を冬摩は握りしめた。
「随分と余裕だな!」
 玖音が吼える。
「テメェは気に食わねぇんだよ!」
 冬摩も獣吼を上げ、血飛沫を上げながら玖音に肉薄した。
「オラァ!」
 力任せの右の一撃を玖音の顔面めがけて放つ。玖音は今、『朱雀』を刀に宿している。ならば『空間跳躍』は使えない。宿来神鬼を変喚させる時間を与えなければ勝機はある。
 冬摩の剛腕から繰り出される拳撃を玖音は身を低くしてかわし、足を狙って刀を居合い抜く。反射的に跳んでかわす冬摩。しかし、主刀はかわしきったものの側刀が何本か肉に食い込んだ。
「中途半端な『痛み』は……」
 眼下に玖音を見下ろしながら、冬摩は大きく息を吸い込んで右腕を引き直す。
「宿来神――」
「逆効果なんだよ!」
 玖音が言いきる直前、冬摩は抹消力さえ持つ右拳に自重を乗せて撃ち下ろした。
 耳をつんざく轟音。撒き起こる爆風と粉塵。大地が割れ、大きな亀裂が穿たれる。生じた衝撃波で大気を激震させ、雨滴の落下さえも止めた。
 視覚と聴覚が完全に奪われた中、冬摩の胸に鋭い痛みが走る。
「力任せの攻撃は逆効果だ」
 刀を根元まで冬摩の胸に埋め、玖音は静かに言った。
 魔人の心臓部である核の位置を正確に貫いた必殺の一撃。
 だが――
「な……!?」
 冬摩の右腕で自分の左腕を掴まれ、玖音は驚愕の声を上げる。
「それが、テメェの限界だよ……」
 ごぽ、と喉の奥から熱い塊を吐き出しつつも、冬摩は笑みを浮かべて右腕に力を込めた。玖音の腕の形が一瞬で変わり、水分でも吸い取られたかのように萎えて行く。
「くそ!」
 玖音は冬摩の胸から刀を引き抜くと、躊躇う事なく自分の左腕を肩口から斬り落とした。そして大きく後ろに跳んで距離を取る。
 刀から解放された冬摩は一端地面にうずくまり、びちゃびちゃと湿っぽい音を立てて血を吐き出した後、震える足で立ち上がった。
(紙一重だったな……)
 あと数センチ、刀の位置が上にずれていたら分からなかった。『月詠』でコチラの出方を完全に読まれている以上、離れていては不利だ。接近戦で一気に片を付けなければならない。そう思っての強引な作戦だった。
 いや、作戦などと呼べる物ではない。あえて煙幕を作り、玖音を超至近距離まで引き付けるまでは成功したが、もう少しで裏目に出るところだった。
「くっ……」
 離れた位置で左肩に右手を当て、『再生』を施している玖音の息は荒い。肩を大きく上下させ、必死に呼吸を整えている。
 コレが魔人と人間との決定的な差。魔人の血を宿すとは言え、人間がベースである玖音は長期戦になれば体力面で冬摩より遙かに劣る。さっきの一撃が僅かにずれたのもそのためだ。
「これで……五分と五分って訳か……」
 玖音は早い間隔で呼吸しながら冬摩を睨み付ける。左肩の出血は収まりつつあった。
「五分? 『月詠』があるから、まだそんな下んねー事言ってやがんのか」
 鼻で笑い飛ばしながら、冬摩は右手で印を組む。そして地面に強く押しつけた。
「使役神鬼『羅刹』召来!」
 冬摩の声に応え、空間の歪みの間から白髪の少年が姿を現す。
 いつものように無表情ではなく、凶悪な笑みを口の端に浮かべ、唇の隙間から尖った牙を覗かせていた。
「ヒャハハハハハハハハッ!」
 『羅刹』は両腕を広げて胸を大きく張り、天高く哄笑を上げる。三日月の形に歪む口元、狂喜に染まった緋色の双眸、牙から滴る大量の唾液。冬摩が右手を介して玖音の左腕から血を吸い、『羅刹』に分け与えた後に召来した姿。
 『羅刹』は自ら血を求める事はない。だからこうやって主が力の作用点から血を吸って分け与える。そうして具現化させた『羅刹』は他の使役神達と違い、体内に宿している時よりも遙かに大きな力を発揮できた。
「こうなっちまった『羅刹』の思考は読めねーぞ」
 冬摩の言葉と同時に『羅刹』が玖音に襲いかかった。
 鋭角的に方向性を変え、じぐざくの軌道を取りながら『羅刹』は玖音に急迫する。そして玖音の眼前で大きく跳躍した。
「ケヒャアー!」
 奇声を上げて玖音に爪を突き出す『羅刹』。その動きに合わせて冬摩も玖音に突進する。
 『羅刹』の思考は読めない。もし読めたとしても、二人分の思考を頭に描いて迎撃するのは至難の技だ。
「チッ!」
 玖音は右手を左肩から離し、刀を拾い上げて横に飛んだ。『朱雀』はまだ戻し切れていない。それにもし戻したとしても、体力の落ちた今の状態で『空間跳躍』を使ったところで、それ程遠くには飛べないはずだ。
 『羅刹』が玖音を追って曲線的な動きで迫る。今の玖音よりも遙かに素早い動きで後ろに回り込むと、瞬間的に直線へと軌道修正し、半呼吸の内に爪撃の射程距離まで詰めた。
 反射的に後ろに突き出した玖音の刀は無数の刀華を咲かせ、『羅刹』の体に牙を剥く。しかし『羅刹』はそれら一枚一枚を綺麗にかわしきり、地面に沈むように身を低くすると玖音の両足に左右の爪を食い込ませる。
「あああぁぁぁぁぁ!」
 皮膚を裂き、肉を食い破り、鮮血を舞わせ、玖音の足はささくれ立った樹木のように無惨な姿へと変貌して行った。
「終わりだな」
 『羅刹』によって両足を固定化された玖音の前に、冬摩が右拳を振り上げて降り立つ。拳を叩き付けようとした冬摩に向かって、玖音は『朱雀』を宿来させた刀を投げ付けた。刀は冬摩が反射的に捻った首筋を掠めて通り過ぎ、後ろの闇へと消える。
「おおおおぉぉぉぉ!」
 玖音の咆吼に応え、刀は意志を持ったかのように刃を再び冬摩へと翻し、有り得ない動きで飛来して来た。
 だがその刃を、すでに回り込んでいた『羅刹』が下から叩き、真上に跳ね上げる。そして空中で柄部を捕らえた。
「時間稼ぎにしかならなかったな」
「ソレで十分さ」
 玖音は不敵な笑みを浮かべて冬摩の口元に右手をかざす。
「使役神鬼『月詠』召来!」
 次の瞬間、白い閃光と共に長い黒髪の女性が冬摩の眼前に現れた。どこか悲しげな表情を浮かべた彼女は、体を朧気にすると冬摩の体内へと入り込む。
「な――!」
 予想を遙かに上回る行動。
 咄嗟に吐き出そうとする冬摩の体に異変が生じた。
 ――貴方は玖音を攻撃できない。
 ――貴方は玖音を傷付ける事が出来ない。
 ――貴方は玖音に自ら命を差し出す。
 ――貴方は玖音に喜んで殺される。
 頭の中で鳴り響く声。
 『月詠』だ。
 力の発生点を介した間接的な『精神干渉』ではなく、具現体による直接的な『精神干渉』。それは魔人である冬摩の精神でさえも、一瞬で呑み込んでいく。
 体が言う事を聞かなくなって行く冬摩の目の前で玖音がうずくまる。
 真田家の者は宿来に秀でる分、召来は体への負担が大きい。玖音にとってみれば最後の大技だ。しかし、逆に言えばこれに耐えきれば冬摩の勝利は確定する。
 視界が揺らぎ、玖音の体が消失した。『朱雀』の『空間跳躍』は使えないはず。ならば、これは自分の体の変調がもたらしている幻覚だ。
「キシャアアアァァァァ!」
 『羅刹』が凶声を上げ、冬摩に跳びかかる。そして鋭い爪で冬摩の体を斬り刻んだ。
 主である冬摩の精神が侵され、使役神の制御が出来なくなっていた。このままでは『獄閻』や『死神』もおかしくなる。なんとかして『月詠』を体内から取り出さねばならない。
「う、ぉ……」
 気を抜けば遠のきそうになる意識を気力で繋ぎ止め、冬摩はぎこちない動きで印を組んだ。そして前に突き出して、あらん限りの力を込めて叫ぶ。
「使役神鬼……『餓鬼王』、召来……!」
 人型の黒い巨体の上に、無数の小さな口を張り付かせた無貌の巨人が現出した。
「やれえぇぇぇぇぇぇ!」
 覚悟を決め、冬摩は『餓鬼王』に命令する。その声に触発され、餓鬼王の何も無かった黒い顔が縦に裂けた。中から赤黒い口腔と、おぞましく動く触手を露呈させる。体に張り付いた小さな口を全て大きく開き、『餓鬼王』は冥府よりの喚び声を上げた。
 体の内側から臓物を全て引き剥がされ、持って行かれる感覚。玖音はなんとか飛び退き、『餓鬼王』の『大喰い』の範囲から逃れたが、冬摩にしがみついていた『羅刹』は『餓鬼王』の胎内へと吸い込まれる。
 『白虎』、『天冥』、『騰蛇』、『大裳』と次々に冬摩の保持する使役神達が『餓鬼王』に吸い込まれ、そしてようやく『月詠』が姿を現した。彼女が呑み込まれる直前、姿を消したのを確認して冬摩は『大喰い』を止めさせる。
「……へっ、ボロボロだな」
 離れた位置で片膝を付き、凄絶な視線向けてくる玖音に冬摩は薄ら笑いを浮かべた。
 玖音の力では『月詠』をあれ以上具現化させ続ける事は命に関わる。だが、『餓鬼王』で吸い出そうとしなければ、その命を削ってでも続行していただろう。そしてあのペースで冬摩の精神を蝕んでいけば、十分操るに足りた。
 正直、際どかった。
「それはお前も同じだ……」
 玖音はよろめきながら立ち上がり、未だ衰えを見せない闘争心を両目に灯して言う。
 確かに、冬摩もボロボロだった。『餓鬼王』に喰われたのは使役神達だけではない。本来あるべき感覚さえも喰われてしまった。
 脳が揺れる。視界もぼやけている。真っ直ぐに立てているのかさえ、確証が持てなかった。喰われた物を吐き出させるには時間が掛かる。少なくとも、この戦いの間は無理だ。
(もう、細かい事は抜きだ……。アイツもそんな余裕は無いはず。単純な肉弾戦なら……俺の方が――有利)
 今の玖音では冬摩の行動を読めたとしても、かわせるだけの力は残っていない。真っ正面から打ち合う事になる。何の駆け引きもない単なる力比べ。それはすなわち、冬摩の独壇場だ。
 冬摩は重心を低く構え、残った力を両足に込めた。体を前傾させ、倒れ込むような鋭い角度で全身を打ち出す。
 玖音は動かない。前髪を垂らし、影の落ちた顔の下で――笑っていた。
「使役神鬼『月詠』宿来!」
「何!?」
 刀は玖音の手にはない。なら一体何に!?
「おおおぉぉぉぉぉぉ!」
 冬摩は考える事を放棄し、ありったけの力を込めた右拳を玖音に叩き付ける。
 玖音の体を打ち抜き、確実に絶命させるだけの力を秘めた冬摩の拳は、玖音の右手によって受け止められた。
「テメェ……!」
 冬摩が狼狽した声を上げる。
 玖音の右腕が薄紫色の燐光を放っていた。
「腕の中に、埋め込んで……!」
「これが奥の手と言うヤツだ」
 そして玖音は『力』で冬摩の右腕を押し返す。
 右腕に直接刀の一部を生み込み、そこに『月詠』を宿来させ、さらに『怒り』から生じる力を右手に乗せて。
「死ねえぇぇぇぇぇ!」
 歯を剥き、玖音は体勢を崩した冬摩の体に右の掌底を押し当てた。
「――ッは!」
 肺から強制的に空気が押し出され、冬摩が前に顔を突き出す。その隙を逃す事なく、玖音は更に一歩踏み込んで連撃を仕掛けた。
 がら空きの顎を下から突き上げると同時に自らも飛び上がり、肘を冬摩の鼻先にめり込ませる。そのまま勢いを殺す事なく振りきり、着地して膝をたわめた。『羅刹』にやられた傷口から血が噴き出すのも構わずに、玖音は冬摩の鳩尾に右拳を叩き込む。
 一回では済まない。二回、四回、十回と加速度的に拳の速さを増して行きながら、冬摩の体に風穴を開けんばかりの勢いで何度も拳を食い込ませる。
 そして二十五回目の拳撃を放ち終え、玖音は激痛に顔を歪めて拳を引いた。
 支えを失った冬摩の体が大地に吸い込まれ、そのまま倒れ込む。
「やる、じゃねぇか……」
 しかし、冬摩は立ち上がった。顔中から血を流し、胸の骨を折られ、満身創痍になりながらも両足で地面をしっかりと捕らえて。
「くそっ!」
 玖音は焦りの表情を浮かべ、再び右拳を繰り出す。しかし、大振りの一撃は冬摩の右手によって軽々と受け止められた。玖音の手は、すでに炭化して黒くなっていた。
「惜しかったな……。『死神』だけ何とかすれば勝てると思ったのが間違いだ」
 玖音の顔がかつてない焦燥感に包まれる。
 未だ冬摩の体に残っている最後の使役神『鬼蜘蛛』。能力は攻撃範囲の拡大と回復能力の増強。
 左腕や左脚の傷口はあまりに鋭利であったために、最初『痛み』はそれ程無かった。しかし、回復してくれば別だ。血管が塞がり、肉が盛り上がり、皮膚が張り巡らされる時にもたらされる『痛み』。加えて先程の拳撃がもたらす鈍痛。あれがもう少し長く続けば致命傷になり得たが、僅かに及ばなかった。
 今、冬摩が蓄積している『痛み』は、瀕死の玖音を殺すには十分過ぎる。
「殺せよ」
 玖音は右手から力を抜いて言う。それでも冬摩を睨み付ける眼力は衰えていない。
「そうしてやりたいのは山々なんだがな……」
 皮肉めいた笑み浮かべ、冬摩は軽い口調で言う。
「時間切れだ」
「冬摩さん!」
 後ろから朋華の声がした。振り向くと、びしょ濡れになってコチラに駆け寄って来る。
「こ、殺しちゃダメです!」
「わーってるよ」
 ダルそうに言いながら冬摩は玖音の拳から手を離した。
「ふざけるな! 僕にはもうお前を殺すか、死ぬかしかないんだ! 殺せ!」
「面倒臭いから嫌だ」
 半眼になり、冬摩はきっぱりと断る。
「冬摩さん……」
 朋華が安堵の表情を浮かべて息を吐いた。
「めんど……お前は僕を殺したかったんじゃないのか!? 僕はその女を……!」
「もぅ気が晴れた。そんだけ半殺しに出来りゃ十分だ。これ以上朋華に嫌われるのは御免だからな。それに、この前朋華を襲ったのはお前の召鬼じゃない事も分かった」
「ソレとコレとは関係ない! 今すぐ殺せ!」
「真田さん……」
 殺気立つ玖音の前に、朋華が悲しげに歩み寄る。
「どうしてそんなに、死にたがるんですか?」
「僕にはもう生きている価値なんか無いんだ! 最初から生まれてこなかったら良かったんだよ!」
 感情を剥き出しにする玖音の姿に朋華は戸惑いながらも、優しい声を掛けた。
「でも、こんなになってまで……真田さんがこんなに怒ってまで、守りたい物があったんじゃないんですか?」
 言われて玖音は言葉を詰まらせる。
「あーそーそー、妹がどうのとか言ってたな。今頃どっかの病院にでも運ばれてんじゃないのか?」
 冬摩の言葉に玖音の顔が見る見る青ざめて行く。
「そ、そうだ……み、美柚梨……!」
 さっきまでの怒りは影も無くなり、代わってどうしようもない悲壮感に包まれていた。玖音がこれ程感情を激しく入れ替えるのは、最初で最後ではないかとすら思える。
「待てよ」
 慌てて去ろうとする玖音に冬摩は声を掛けた。
「その格好で行くつもりか?」
 玖音には左腕が無い。出血は止まっているが、妹が見れば気絶するだろう。
「『死神』を元に戻しな」
「そんなモノ維持する余裕なんかとっくに無くなっている」
 別に威張る事でもないが、玖音は強い口調で言い切った。
「そーかい」
 言いながら冬摩は、倒れていた『死神』を体に戻す。そして無くなった自分の左腕と右手の指、さらに玖音の左腕を『復元』した。
「特別サービスだ。あとの傷は『復元』じゃどーにも出来ねーからよ。テメーの『六合』でなんとかしな」
「……後悔するぞ」
 左腕の動きを確認しながら、玖音は短く言う。
「真っ正面から来るんならいつでも相手してやるよ。朋華に手ぇ出したら、今度はこんなモンじゃ済ませねぇけどな」
 言いながら冬摩は落ちていた玖音の刀を拾い上げ、投げて渡した。
 それを玖音は無表情で受け取り、何も言わずに立ち去る。雨音だけが、しばらく辺りを支配した。
「けど、冬摩さんよく歯止めが利きましたね」
「アイツの『怒り』が本物だったからな」
 感心したような朋華の声に、冬摩は憮然とした顔で答える。
 玖音の『怒り』は本物だった。心の底から『怒って』いた。
 最初冬摩は、玖音が自分の手を汚さずに捨て駒を使って仕掛けて来た思っていた。しかし、それならば本物の『怒り』を発揮するのはおかしい。傷付けられて本気で『怒る』ような者を捨て駒にはしない。
 その事は早い段階から分かっていた。しかし、それでも玖音の事が許せずに戦い続けた。そして死ぬ直前まで追いつめ、ようやく気が晴れた。
「それにしてもホントビックリしましたよー。いきなり『死神』さん達消えるんですモン。絶対冬摩さんが真田さんと戦ってるんだと思いました」
「ほぅ、以心伝心ってヤツだな」
 冬摩は茶化したような口調で返す。
「もぅ……あんまり心配掛けないで下さいね」
 ほっぺたを膨らまして言う朋華の調子もどこか軽い。
 結果だけ見れば誰も死なずに済んだ。そして恐らく玖音はもう襲ってこない。根拠は無いが、妙な確信があった。
「さて……」
「冬摩ああああぁぁぁぁぁぁ!」
 『帰るか』と言おうとした冬摩の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「真田玖音どこや! 殺ってもーたんか!? なんやその血まみれ! もぅグチョグチョにしてもーたんか!? このドアホオオォォォォォ!」
 もの凄い速さで近付き、一息でまくし立てて来たのは久里子だった。
「あぁん? 何だテメー。人が良い気分に浸ってる時に。大体何でココに居やがるんだ」
「し、嶋比良さんこそ! どうしたんですか!? 血だらけじゃないですか!」
「こんなんかすり傷や! ドタマからは血ぃぎょーさん出るモンやねん! それよりホンマに玖音は!?」
 何やら鬼気迫る表情で聞いて来る久里子に圧倒されながらも、朋華は玖音が去って行った方向を指さした。
「もぅ、帰りましたけど……」
「ぶ、無事やったんかあぁぁぁ……よかったあああぁぁぁ……」
 魂でも抜けるんじゃないかと思うほど、深く重い溜息を久里子はつく。
「そ、それより、どうして真田さんの事を?」
 久里子には玖音の存在を言っていない。なのにどうして知っているんだろう。
「詳しい話は歩きながらしたる! アンタらにも聞きたい事あるしな! それよりはよ玖音のとこ案内してくれ! このままやったらアイツ死ぬで!」




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