貴方に捧げる死神の謳声 第二部 ―闇子が紡ぐ想いと因縁―

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五『闇子の背負った因縁』


 ――貴方は、どうして生まれて来たのかしらね……。

 自分が生まれた意味を知りたかった。
 母親が生んでくれた意味を知りたかった。
 
 ――お母さん、もう……疲れたみたい……。

 そして、母親が自殺した意味を知りたかった。
 そのために生き続けた。そのために今の環境を手に入れた。
「美柚梨……」
 暗い病室で妹の頬を撫でてやりながら、玖音は力無く呟いた。
 頭に包帯が巻かれ、顔には沢山のガーゼが張られている。右腕の位置のシーツが不自然に盛り上がっているのは、分厚いギブスがはめられているからだ。
「ごめんな……」
 美柚梨がこんな痛々しい姿になってしまったのは、全て自分の責任だ。
 自分が美柚梨の兄になどならなければ。使役神の記憶など追い求めなければ。もっと早く、真田家が仕組んだ罠に気付いていれば。
 玖音はあの時、龍閃の気配を追っていた。仁科朋華を襲った龍閃の召鬼が放つ気配を。
 消えては現れ、現れては消える邪悪な波動。それはまるで自分をどこかに誘いだしているようだった。
 薄々罠ではないかと思っていた。しかしまさか、美柚梨が龍閃の召鬼になっているなどとは思いもしなかった。恐らく『龍閃の死肉』を使ったのだろう。使役神の記憶からそういう事が出来るという事だけは知っていた。
 強い力を持った魔人は死してなお、何百年にも渡って力を体に残している。死肉とは言え、あの最強の魔人と言われた龍閃の肉だ。ソレを体に埋め込まれた者は召鬼となる。そして紅月の影響を受け、強い力を発揮する。
 真田家は玖音の居場所を突き止め、美柚梨との仲を知った。そして美柚梨に『龍閃の死肉』を埋め込み召鬼化する。真田家に生まれた女の中には特殊な力を持った者も居る。自分の命の引き換えに、誰かの体を操る能力。その力で美柚梨の体を操った。
 紅月のあの日、恐らく美柚梨を操って朋華を殺すつもりだったのだろう。それを玖音のせいにして冬摩を差し向ける。さらに玖音が大切に想っている美柚梨を冬摩に傷付けさせる事で、玖音の方からも冬摩に向かって行くようにした。玖音が朋華を助けなければ、全てあの日に終わっていたはずだったのだ。
 紅月の影響を受け、我を失った冬摩に玖音が勝てるはずがない。もし万が一勝てたとしても、冬摩の持つ九体もの使役神を玖音は受け入れられない。
 どう転んでも玖音は死ぬ。それが真田家の描いたシナリオ。
 冷静に考えれば冬摩の行動もおかし過ぎた。冬摩が美柚梨の事を知っているはずがない。仮に知っていたとしても、別の者に八つ当たりなど彼の性格からして最も嫌う事ではないか。やるなら真っ正面からぶつかる。彼はそういう男だ。
 もっと美柚梨を見てやれば良かった。いくら美柚梨の体を操っている者が龍閃の波動を完全に押さえつけられたとしても、美柚梨自身に何らかの変調はあったはずだ。
「ごめんな……痛かっただろう?」
 小さく言いながら、玖音は美柚梨の足の方を見る。
 もう傷は残っていないが、あの場所は朋華を守るために玖音が斬った箇所だ。霊刀『夜叉鴉』で。
 知らなかったとは言え、自分は取り返しの付かない事をしてしまった。
 冬摩と朋華に神経が行き過ぎた。だから、こんなにもそばに居る大切な存在の苦しんでいる姿を見過ごしてしまった。
 しかしそんな物は愚にも付かない言い訳だ。
 気付いてやれた。美柚梨をちゃんと見ていれば。美柚梨のそばに居てやれば。
 悲しみで涙が流せるなどまだ余裕のある証拠だ。心の底から絶望した時、そんな物は枯れて出てこない。
「玖音……」
 美柚梨の目が薄く開かれ、その口から美柚梨の物ではない声が紡がれる。
「お前が、仕組んだんだな」
 玖音は静かに言った。
 彼女への怒りはある。だが、それ以上に自分の情けなさに腹が立つ。絶対に許せないほどに。真に怒るべきは自分自身の不甲斐なさだ。
「……そうよ、全て私がやったの。貴方を殺すために……」
「教えろ。どうすれば美柚梨からお前を追い出せる」
 それだけはどうあっても聞き出さなければならない。自分が美柚梨に出来る、最後の償いとして。
「フフ……心配、ないわ……。もうすぐ、私の意識は自然に消える……。最低限しか、表に出なかったけど……もぅ、限界みたいね……」
 彼女は少し苦しそうに顔をしかめ、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
 美柚梨と同じ顔なのに、こうして見ると全くの別人だ。ほんの僅かな表情の変化さえも。なのにどうして自分は気付いてやれなかった。どうして違和感すら覚えなかった。
「私が出てこない時は、この子の体はこの子の物……。いくら貴方でも気付か、なかったで、しょ……」
 少し自慢げに彼女は微笑する。
 気付いてやるべきだった。美柚梨への想いが足りなかった。何が愛情を返すだ。何が特別優しく接するだ。肝心な時に美柚梨の変化に気付けないようでは、兄として、いや、人間として失格だ。
「お前が消えるという保証はあるのか」
「私が……これから貴方にまだ何かするつもりなら……表に、出て来たりはしないわ。私は……もう用済み。『龍閃の死肉』の効果も無くなってしまった……。でも、貴方は真田家の計画通り、殺される……。貴方は自分から、殺されに行く……」
 彼女の言葉に、玖音は自嘲するかのように口の端をつり上げる。
 確かにその通りだ。自分を殺すつもりなら少しでも長く意識を保とうとする。だがもうその必要はない。放って置いても、自分は勝手に死地に出向く。
 最後にこの行動を取る事さえも、真田家のシナリオに含まれていたのだ。
「そんなに僕が憎いか」
 言われて彼女は天井を見つめながら、薄く笑みを浮かべた。
「勿論……よ。だって……貴方は生まれてすぐに、死ぬはずだったんですもの……。私の子供と……同じようにね」
「お前も男を」
「ええ……一人だけね。本当に、可愛い子だった……」
 昔を思い出すかのように彼女は目を細める。
 数多の想いを乗せた視線を中空に這わせ、深い溜息をついた。
「私も、あの子のために命を捨てれば良かった……。貴方のお母さんと同じようにね」
 悲しげに言って、彼女は首だけをこちらに向ける。
「僕の、母さんが……?」
 意外な言葉に玖音は眉を僅かに上げた。まさか彼女の口からそんな言葉が飛び出して来るとは思いもしなかった。
 母が自殺した理由――それは自分のため?
「貴方のお母さんも、私と同じ力を持っていたわ……」
 自分の命を犠牲にして、誰かを操る力。
「茅花は、それで貴方の事を土御門に知らせた……。あの時は信じて貰えなかったみたいだけど……今、ソレが実った……」
 母が自殺したのは、罪の意識に耐えきれなくなったからだと思っていた。
 自分を生んだせいで母は周りから虐げられ、苛烈な責め苦を受けていた。『闇子』を生み、育てる事への罪悪感に押しつぶされ、命を絶ったのだと思っていた。
 ソレは違っていた。だが――
「僕が母さんを殺した事には変わりない」
 自分さえ生まれて来なければ、こんな事にはならなかった。
 母も、美柚梨も傷つく事など無かった。自分さえ、居なければ……。
「貴方が悪いんじゃ……ない」
 消え去りそうな声で彼女は呟く。
「子供は……生まれる場所を選べない。子供を守るのは、母親としての義務……。生んだ者の責任……。私は、それを放棄した……。だから、当然の報い」
「下らない慰めの言葉なんていらない。僕は間違いなく、死ぬべくして生まれた人間だったんだよ」
 今更ながらソレを確信した。今の美柚梨の姿を見て、体もろとも心を引き裂かれそうなくらいになって、ようやく納得できた。自分は『闇子』。周りに不幸をもたらす象徴。絶対悪。存在を許されない者。
 それはもう、すでに揺るぎない確証として根付いている。だからこの期に及んで、敵から優しい言葉など聞きたくない。
「悪いのは……真田家の考え方。昔に縛られた……。もし出来るなら……、真田家を……潰して」
 なるほど。そう言う事か。
「そんな下手な演技をしなくても僕は真田の屋敷に行くさ」
 美柚梨の恨みを晴らすために。これまでの罪を、自らの命をもって償うために。
「頑張ってね……。応援、してるわ……」
 少し笑いながら言い残すと彼女は目を閉じた。そして寝顔が安らかなモノになる。それは玖音が良く知っている美柚梨の顔だった。
 名前も知らない真田の女は、静かに息を引き取った。
「美柚梨……」
 玖音はパイプ椅子から立ち上がり、美柚梨の頭をそっと撫でた。
 傷はもう殆ど完治している。残った全ての力を使って『再生』を施した。傷跡も残らないだろう。あとは体力さえ回復すれば自然に目が覚める。そうすれば全てが元通りだ。
「今まで、アリガトな……」
 美柚梨が目覚めた時には何も覚えていない。真田の女に操られていた事も、冬摩に傷付けられた事も、そして――玖音という身勝手な兄が居た事も。
 自分は最初から居なかった。両親ももうすぐ病院に到着するだろう。二人からも記憶を消す。子供は美柚梨一人しか居なかった。
 それでいい。それで全てが元に戻る。
 美柚梨には、この傷は交通事故で負った物だという記憶を植え付けてある。何も不自然な事はない。一般的に起こりうる不幸な事故だ。式神や神鬼、魔人の存在する別世界の出来事などではない。
「じゃあな、美柚梨……」
 短く最後の言葉を残し終え、玖音は静寂を壊さないよう、そっと病室を後にした。

 ◆◇◆◇◆

◆消えない記憶 ―仁科朋華―◆
 朋華達が玖音の妹、美柚梨が居る病院を探し当てたのは、あの激しい戦いから四時間ほど後の事だった。
 美柚梨が居たはずの歩道橋に戻った時には、すでに彼女の姿は無かった。どこの病院に運び込まれたのか聞こうにも、周りに人は居なかった。『羅刹』は『餓鬼王』に喰われたまま、すぐに吐き出させる事が出来ない。そのため玖音の血の匂いを追わせられない。
 結局、三人で手分けして近くの病院をしらみつぶしに当たるハメになった。
 そして七件目。美柚梨の居た場所からはかなり離れた、都心の真ん中にある大きな総合病院。そこに彼女は入院していた。
 相当の重傷だったのだろう。恐らくココでしか治療の設備が整っていなかったのだ。
「玖音!」
 久里子は切羽詰まった声を上げて病室に飛び込む。
 賭けだった。
 玖音がココにまだ留まってくれているのか、それとも――
「だ、誰……?」
 顔の半分以上をカーゼで覆われた少女が、ベッドの上からビックリした顔でコチラを見ていた。中には彼女一人しか居ない。もう寝ようとしていたのか、枕元の電球が灯っているだけだ。
「あ、アンタ、美柚梨って娘か?」
 久里子の問いに、少女は戸惑いつつもコクンと頷く。痛そうな怪我のわりに、随分と元気そうだ。
「なぁ! 玖音、ココに来たやろ!?」
「あの……誰ですか?」
 ナースコールのブザーを片手に、美柚梨は警戒心も露わに聞いてくる。
「し、嶋比良さん。落ち着いて。そんな言い方じゃ恐いですよ……」
「コレが落ち着いてられるかい! 乗るか反るかの瀬戸際なんやで!?」
 もの凄い気迫でコチラを睨み付け、久里子は怒鳴りつけた。
「なぁ、美柚梨ちゃん! ウチら全然怪しいモンやないんや! アンタの大事なお兄さん助けるために遠路遙々やって来たんや! 頼むから協力してくれ!」
 美柚梨の両肩を強く掴み、久里子は凄まじい剣幕で詰め寄る。
「……アタシ、一人っ子ですけど」
 眉間に皺を寄せて言った美柚梨の言葉に、久里子は愕然となった。
 賭けは、自分達の負けだった。
 玖音はすでに向かってしまった。真田家の屋敷に。美柚梨の自分に関する記憶を全て消して。
 久里子から聞いた話。それはコレまで真田家が行ってきた凄惨な儀式。そして玖音がその犠牲者である事。久里子は阿樹からその事を直接聞き出し、真田家の考えを変えようとした。しかし真田家が取ったのは強攻策。
 久里子は殺されそうになりながらも必死に逃げた。『天空』の能力を全開で使えば、逃げ切るのは簡単だっただろう。久里子の力の発生点は『視界』。目に映る物すべてを対象とする広範囲無差別攻撃。しかし、ソレを不用意に使えば多大な死者が出る。かといって手加減など器用な真似は出来ない。彼女達を殺してしまっては意味がない。それでは自分も殺人鬼と変わらない。
 久里子の目的は真田家の生き方を改めさせる事。そのためには玖音の存在を受け入れさせる必要がある。だから何としてでも止めたかった。
 両者が真っ正面からぶつかり合う前に。真田家の思惑通り、玖音が殺される前に。
「行くで冬摩……今から間に合うか分からんけど、絶対になんとかするんや!」
 久里子はすでにある程度、真田家の謀略を見抜いていた。玖音を殺すために冬摩を差し向ける事。そのためには紅月を利用する事。そして玖音が逃げないように、彼の方からも冬摩と戦うように仕向ける事。
 そのために最も効果的な方法。それは玖音が大切に想っている人物に朋華を傷付けさせ、同じ人物を冬摩に傷付けさせる事。そうすれば二人は確実にぶつかり合う。
 問題は玖音が大切に想っている人物が誰か。そしてどうやって朋華や護衛の使役神達を上回る力を、その人物が持てるようにするのか。それが特定できなかった。そして冬摩からの話でようやく分かった時には、すでに遅すぎた。
 玖音は妹の美柚梨を巻き込んでしまった自分を責め、真田家を襲撃する。玖音が万全の状態なら、間違いなく玖音の勝ちだろう。だが今は冬摩との戦いの直後。力は殆ど残っていない。なにより彼自身、生きるつもりがない。
 玖音は最初から死ぬつもりで真田家に向かっている。
 それはあまりに、悲しすぎる……。それだけは、止めなければならない。
「何で俺がそこまでしてやんなきゃなんねーんだよ」
 しかし、冬摩は拒絶した。
「と、冬摩さん!?」
「冬摩! アンタ自分が何ゆーてんか分かってんのか!?」
 朋華と久里子の非難の声に、冬摩は面倒臭そうに頭を掻く。
「俺は別にコイツの兄貴が死のうがどうなろーが知ったこっちゃねーんだよ。大体元々敵同士じゃねーか」
「ソレが誤解やゆー事、さっき説明したばっかりやろ!」
「ややこしい話はともかくよ、コイツの兄貴が俺にケンカ吹っ掛けて来たのは事実なんだよ。敵の肩持つなんざごめんだね」
「せやからモト正したら全部真田家が悪いんやて! 玖音は犠牲者やって何べんゆーたら分かんねん!」
 あれ……?
 朋華は冬摩と久里子の言い合いに違和感を覚える。
 何か、おかしい……。
「コイツの兄貴は朋華を傷付けた。なんで俺がそんなヤツを助けなきゃ何ねーんだよ。死にたきゃ勝手に死ね」
 今、冬摩が微かに笑った。
「ーーーーーッかー! 冬摩! エエ加減にせんと、しまいにゃブチ切れんぞ!」
「コイツの兄貴だってそれなりの覚悟してんだろ? なんで俺達が横ヤリ入れるんだよ」
 冬摩の視線はすでに久里子を見ていない。もっと後ろ。
「あーそーかい! こん薄情モンが! もーええ! アンタなんかに頼まん!」
「そうかい。そんじゃコイツの兄貴にヨロシク言っといてくれよ。運が悪かったなってよ」
 どこか悪戯っぽく、口の端をつり上げて言う冬摩。
 朋華はようやく冬摩の目的が分かった。
「兄貴……」
 久里子が顔を真っ赤にして言い返そうとした時、か細い声が病室に響く。その声の方に朋華達の視線が集まった。先程までの喧噪は夜の静けさに吸い込まれるようにして止み、小さな何かがシーツを叩く僅かな音さえも耳に届かせる。
「あ、にき……」
 美柚梨の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
 小さなスタンドの光だけが照らす薄暗い病室の中、少女の顔に光の筋が細く引かれる。表情を失い、ただ呆然と前を見つめ、美柚梨は止めどなく溢れる涙で頬を濡らしていた。
「まさか……記憶、が……?」
 久里子が信じられないと言った様子で呟く。
「な、なぁ! 美柚梨ちゃん! アンタ玖音の事思い出したんか!?」
「あ、にき……の、事……?」
 焦点の合わない視線を久里子に向け、美柚梨は力無く言った。
 玖音は偽名を使っているはずだ。芹沢家の長男として別の名前を。しかし、それでも美柚梨は久里子の言う人物が自分の兄だと分かった。
「ああそうや! アンタの兄貴の事や! 思い出したんやな!」
 美柚梨は虚ろ気な顔で、小さく頷く。
「兄貴……死ぬの……?」
「死なん! 絶対殺させるかい! ウチが絶対になんとかしたるからな!」
 美柚梨の両手をしっかりと握りしめ、久里子は力強い言葉で断言した。
「なんで、アタシこんなとこにいるの……? 交通、事故……? ヤダよ……。兄貴死んじゃヤダ……。そばに、居て……」
 記憶が混乱している。『月詠』の『精神干渉』に打ち勝った弊害だろう。玖音が消した元の記憶と、代わりに埋め込んだ偽りの記憶が衝突している。
「冬摩!」
 久里子が殺気立って冬摩を睨み付ける。しかし冬摩は相変わらずやる気なさそうに久里子から視線を逸らし、朋華の方を見た。
「朋華。お前は俺にどうして欲しい」
 そして答えの分かっている問い掛けをして来る。
 本当に、どうしてこんな時だけ素直になれないのだろうか。不思議でしょうがない。いつも言いたい事やりたい事は、少々強引にでも押し通してしまうのに。
(でもそんな冬摩さんも、好きだな)
 冬摩の意外に照れ屋な一面を垣間見て、朋華は嬉しそうに言った。
「行きましょうよ。冬摩さんっ」
 言われて冬摩は大袈裟に肩を落として溜息をつく。
「ったく、しゃーねーなー。そんじゃ朋華の顔立てて特別に行ってやるよ。感謝しろ、久里子」
「へーへー、アンタやのーてトモちゃんにお礼言っとくわ。アリガトーな」
「いいえ。それより早く行きましょう」
「分かっとる。今ヘリを……」
「あの……」
 何か言いかけた久里子の言葉を美柚梨が遮った。
「ア、アタシも……連れて行って……。兄貴の、トコに……」
 辛うじて焦点を結んだ瞳でコチラを見つめながら、美柚梨は消え入りそうな程の小声で、しかし明確な意志を宿して言う。
「アカン! 何言っとんねん! アンタはウチらが玖音連れて帰って来るまで……」
 久里子の言葉が終わらないうちに冬摩が美柚梨に近づいた。
「怪我は、もう治ってるな」
 言いながら冬摩は美柚梨の右腕にはめられたギブスを持ち上げ、それを軽く握りしめる。石膏に小さな亀裂が走ったかと思うと細かく崩れ去り、健康そうな肌色の腕が露出した。
 恐らく、玖音が『再生』で完治させていたのだろう。最初見た時、大怪我をしているのに元気そうに見えたのはそのためだ。
「歩けるな」
「は、はい……」
 冬摩に言われて美柚梨はベッドから這い出し、二本の足でしっかりと立って見せた。
「上等だ。行くぞ」
「ちょ、待てや冬摩! 正気かい!」
 美柚梨を連れて行こうとする冬摩に、久里子は声を荒げて叫ぶ。
「コイツが行きたいって言ってんだ。別にいいじゃねーか」
「ええ事あるかい! 巻き添え食ったらどないすんねん! アンタ責任取れるんか!?」
「ンなヘマしねーよ。それにあのバカ思い直させるんだったら、コイツ連れてった方が手っ取り早いんじゃねーのか?」
 言われて久里子は言葉を詰まらせる。
 確かに冬摩の言う通りだ。ただ玖音を助けてもだめだ。玖音に死を思いとどまらせなければならない。今の玖音には美柚梨の言葉くらいしか耳に届かないだろう。
「嶋比良さん。行きましょう。時間がないんでしょ?」
「ああ! クソ! ホンマどーなっても知らんからな!」
 自棄になって叫び、久里子は携帯を取り出した。

◆呪われた因縁 ―真田玖音―◆
 『怒り』に全てを任せ、感情のまま、思いのまま、無茶苦茶に体を動かした。誰かを殺した証なのか、それとも自分が傷ついただけなのか。服にはべっとりと血がこびり付き、口の中には鉄錆の味が広がっていた。
 視界に映るのは殺気に満ちた女達、耳元で聞こえるのは悲鳴と自分の荒い息づかい。鼻を突くのはむせ返るような血臭と焦げた肉の匂い、肌で感じるのは皮膚が切れそうな程冷たい夜気と吐き気すら催す程の怒気、怨気。
 『朱雀』の『空間跳躍』をひたすら続け、真田の屋敷に着いた時には立っているだけでも不思議なくらいだった。だが倒れる事など許さない。自滅などと言う無様な最期を迎える訳にはいかない。せめて一矢報いる。
 真田家当主、真田阿樹を――殺す。
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
 血走った双眸を大きく見開き、玖音は屋敷の中庭で吼えた。
 『朱雀』の『火焔』で業火に包まれた建物からの光を全身で受け、霊刀『夜叉鴉』を振るう。咲いた刀華で体を切り刻まれ、一人の女が息絶えた。しかし彼女のすぐ後ろから別の女が現れ、玖音の脇腹に小太刀を押し込む。
 一瞬の痛み。だがすぐに身を内から焦がす『怒り』で灼き払われた。
「阿樹ぃ! アァァァァキイイィィィィィイ!」
 もはや人外とすら形容できる絶叫を上げ、玖音は眼下の女を一刀の下に斬り捨てる。しかし女達は全く怯む事なく、人形のように精密な動きで玖音に襲いかかった。
 皆、『龍閃の死肉』を服用していた。
 不完全ではあるが、召鬼化による身体能力の一時的な向上。それでも本来なら玖音の実力に遠く及ばない。だが、力の枯渇しきった玖音にとっては十分に強敵だった。数も多い。真田家だけではなく、岩代家と有明家も連合になっている。
 あの時と同じように。『月詠』に覚醒した夜と同じように。
 玖音を――殺すために。
 彼らは玖音が来る事をあらかじめ知っていたのだ。確実に目的を成し遂げるためには、当然の準備だった。
「……ッぐ!」
 遠くから投げ付けられた短刀が玖音の肩を大きく抉って行く。僅かに見せたひるみ。ソレを逃す事なく、無数の刀刃が閃いた。

『逃げて下さい、玖音』

 『月詠』が頭の中で言う。だが玖音は耳を貸す事なく、上空へと『空間跳躍』した。標的を見失い、辺りを見回す女達を玖音は『火焔』で灼き尽くす。

『玖音。お願いします』

「黙れ!」
 着地と同時に後ろへ跳んだ。即座に居合いの構えを取り、『夜叉鴉』を神速で抜き放つ。刀先の生み出した真空の刃が、離れた場所に居る女達を胴体から切り離した。

『玖音……』

「阿樹はどこだ! どこに隠れやがった!」
 憤怒を剥き出しにして玖音は叫ぶ。
 さっきから『月詠』で相手の思考を読んでいるが、どこにも求めている答えがない。恐らく誰にも知らされていないのだ。少なくとも玖音と戦うために『龍閃の死肉』を服用した者達には。『月詠』の力で玖音が阿樹の居場所を探る事を予測して。
「オオオオオォォォォ!」
 大気を激震させる獣吼を上げ、玖音は焦燥を『怒り』で押さえ込んだ。
 何から何まであの時と同じだった。
 『月詠』に覚醒したあの時も、玖音が求めていた答えを誰も知らなかった。誰も教えてくれなかった。焦燥と不安を『怒り』で消し飛ばし、意識が無くなる程に暴れ回った。周りは皆、敵だった。

『玖音……貴方のためです。お願いですから逃げて下さい』

 いや、唯一『月詠』だけは味方だった。
 しかし、今は――
「僕ため!? ふざけるな! 全部自分のためだろう!」
 吐き捨て、玖音は中庭から屋敷へと飛び込む。方々で火の手が上がり、熱気が渦を巻く中、玖音は阿樹の名前を叫び続けながら駆けた。こうなったら自分の足で探すしかない。もうあとどれだけ体がもつか分からないが、気力が続く限り、指一本でも動く限り、探す事を止めはしない。絶対に阿樹を見つけ、この手で殺す。
 頼れるのは自分しか居ない。周りは全員敵だ。
 ――『月詠』も含めて。
 『天空』の記憶から読み取った『月詠』の過去。それは真田家初代当主、儀紅との馴れ初め。
 『月詠』は五十の魔人の核を用い、十鬼神の中で一番最後に生み出された神鬼。
 葛城家の人間は『朱雀』、『六合』、『月詠』の三体の使役神を宿す事が出来た。
 それは葛城家の初代当主が魔人と人間の間に生まれた者だったため。
 だがそれ以降は人間同士で交わり、世代を重ねるにつれ魔人の血は薄まって行った。そして徐々に覚醒者が減り、保持する事さえ難しくなって来た時、三体の使役神は真田、岩代、有明の三家に分けられた。この頃には魔人の血は完全に消え、葛城家初代当主が持っていた絶大な力は殆ど失われていた。
 しかし、真田家の初代当主となった儀紅だけは違った。
 隔世遺伝。
 儀紅には葛城家初代当主と同等の濃さで魔人の血が流れていた。そして、僅か五歳で『月詠』に覚醒した。その事を知った者達は皆、儀紅のそばから離れて行った。
 『月詠』の能力は『精神干渉』。誰かの心を読む事も、記憶を消す事も、体を自在に操る事さえ出来る。そんな力を持つ者のそばには居たくない。そう思うのは当然だ。だから多くの保持者達は『月詠』に覚醒したとしてもそれを公言しなかった。
 しかし儀紅は歴代の保持者達が誰もやらなかった方法で、再び人を自分の周りに集めた。
 それは『月詠』を一生具現化させ、自分のそばに置く事。
 『月詠』を体に宿していないと誰の目から見ても分かるようにする事で、『精神干渉』は使えないと明言した。
 葛城家の初代当主と同等の力を有する儀紅にのみ出来た荒技だった。
 そして儀紅は『月詠』を使役神としてではなく、一人の女性として扱った。それは『月詠』にとって、これまで何百年と生き続けた中で初めて受けた厚遇。保持者全員に忌み嫌われ、存在を否定され続けた『月詠』は、自分に優しく接してくれた儀紅に自然と惹かれて行った。
 そして二人はより深い間柄になった。
 しかし、人間と使役神とでは子供は成せない。
 儀紅は子孫を残し、『月詠』を受け継がせるため、他の女と望まぬ契りを交わした。最初に生まれたのは男の子だった。彼には魔人の血は流れていなかったが『月詠』を保持する事は出来た。『月詠』はその男児に受け継がれるはずだった。
 だが、『月詠』はソレを拒んだ。

 ――儀紅以外の男と共になど居たくない。

 『月詠』の中で、儀紅の存在はすでに絶対的な物になっていた。
 生まれた男児の中で『月詠』は暴れ、闇の波動を辺りに撒き散らした。十鬼神が発する闇の波動を抵抗力の無い者が受ければ、精神に異常をきたして暴走する。その男児は『月詠』の保持者として不適格と見なされ、被害が大きくなる前に殺された。
 儀紅の手によって。
 真田家の血塗られた儀式はここから始まったのだ。
 『月詠』が女しか保持できなくなった理由。それは『月詠』が使役神である前に、一人の女性だったため。
 真田家の女の中で何百年と眠り、『月詠』は待ち続けた。
 儀紅と同じ血を引く男児が現れるのを。隔世遺伝により、魔人の血を宿した男児が生まれて来るのを。
 そして――玖音が生まれた。
 失いたくない。離れたくない。ずっとそばに居て欲しい。
 儀紅の与えてくれた温もりを、『月詠』は玖音に求めた。
 それが玖音の生まれた意味。
 すなわち――儀紅の身代わり。
 玖音が『朱雀』と『六合』にも覚醒し、龍閃の討伐に加わろうとした時に止めたのは玖音を危険に晒したくなかったから。三年前、龍閃の召鬼であった玲寺に手出しさせなかったのは、玖音を傷付けたくなかったから。
 そして恐らく、龍閃の保持する使役神の記憶を読ませたくなかったから。
 だから最初に朋華を襲った時、四回目は事故に見せかけるのではなく直接手を下せと言った。冬摩の怒りを買い、朋華の体の一部を手に入れるという計画を失敗させるために。塾に朋華が一人で入って来た時、手を出させなかったのは、外にいる冬摩を警戒したからではない。計画を阻害するためだ。
 『月詠』がこれまで玖音にしてくれた助言は全て自分のためだった。
 玖音を失いたくないから。玖音を傷付けたくないから。
 使役神の記憶を手に入れてしまって、頼られなくなるのが恐かったから。
 しかし、その事が分かってしまった後でも、玖音の『月詠』に対する気持ちは変わらなかった。たとえ『月詠』が自分のためにして来た事ではあっても、それによって玖音は支えられ、救われた。これまで通り、『月詠』の助言を優先的に受け入れようと思っていた。
 だが、今は違う。
 阿樹を殺す。美柚梨を利用し、傷付けた報いを受けて貰う。どんな手を使ってでも。すでに何の価値も無くなってしまった、この命をなげうってでも。
 それさえ出来れば何の悔いも無い。自分の目的は殆ど達成された。
 母が自殺した理由。自分が生まれた意味。
 この二つはもう分かった。
 母を黄泉還らせるという願いは叶わなかったが、もうどうでもいい。自分が母の元に逝けば済む話だ。
 何も、思い残す事など無い。
「ぐ、ぁ……」
 突然板敷きの廊下から飛び出した氷の刃に両足を貫かれ、玖音はその場に膝を付いた。
 どこかに呪符が仕込まれていたのだろう。呪術によって不可視になっているが、玖音が見抜けない程の技術ではなかった。
 しかし、気力で体を動かしているような状態では、それさえも見破れない。玖音の勢いが止まった事に勝機を見出し、女達が一斉に跳びかかって来る。

『玖音。後生です。逃げて下さい』

 『月詠』は悲しげな声で言った。
「分かってるよ……」

『玖音……よかった……』

 玖音の答えに安堵する『月詠』。しかし、もう声は届いていない。
「分かってるよ、母さん。大丈夫、もうそんな顔しないで。僕は、強くなったから……」
 『夜叉鴉』から手を離し、両手にありったけの力を込める。
「何でも……一人で出来るようになったから……!」
 そして怒声と共に、廊下に叩き付けた。両の掌を中心に『火焔』が撒き上がり、玖音を縫い止めていた氷を一瞬で気化させる。自分の脚から立ち上る肉の焦げる匂いを嗅ぎながら、玖音は再び『夜叉鴉』を手にした。
「使役神鬼……『月詠』宿来!」
 薄紫色の燐光を纏った刀身が、襲いかかって来た女達に吸い込まれる。頭の無くなった四つの胴体から舞い上がる血飛沫を全身に浴びながら、玖音はゆっくり立ち上がった。凄絶な視線で前を見つめ、だらしなく口を開けたまま体を引きずるように動かす。 

《玖音。強く、生きてね……》

 頭の中で誰かの声がした。
 『月詠』ではない。彼女はもう刀に宿してある。鬱陶しい雑音は聞こえないはずだ。

《お母さんの分まで、強く……》

 耳の奥で響く母親の声。
 ついに幻聴まで聞こえだしたかと、玖音は自虐的な笑みを浮かべた。
「大丈夫。分かってるよ、母さん……。僕は、強くなったから……」
 頭に浮かぶのは母とすごした、かけがえのない時間。毎日三回食事を持って来てくれて、楽しい話をしてくれた。
 今日は桜の花が綺麗に咲いていた。遠くの方から鶯の啼き声が聞こえた。雲一つない蒼い空だった。雨に濡れた紫陽花がとても美しかった。
 母の口から紡がれる話しは自然に溢れ、玖音に外界の風景を想像させて楽しませてくれた。しかし、母自身の話は一度も聞いた事がなかった。
 ある日、玖音の頭を撫でてくれた母の腕に痣を見つけた。その時はどこかにぶつけたと笑って誤魔化していたので気にはしなかった。
 毎日、笑顔で外の風景を楽しげに語ってくれる母親。しかしその明るい顔とは裏腹に、母の体に付いた痣は日に日に増えて行った。
 痣が切り傷に変わり、大きな裂傷になっても母は笑顔を絶やさなかった。だから玖音も何も聞かなかった。幼いながらに、聞いてはいけない事なのだと思った。
 だが、徐々にではあったが確実に、母の顔から余裕が無くなっていった。それと共に、笑顔も減っていった。そして玖音が八歳の時、ついに全く笑わなくなった。

《玖音……貴方は、どうして生まれて来たのかしらね……》

 この言葉を言った母の顔はやつれ、憔悴しきっていた。

《可哀想に……。私が生まなかったら、こんな目にあう事もなかったのにね……》

 目の下には大きな隈ができ、頬がこけていた。

《本当は、貴方のためにもっと色々してあげたかったんだけど……》

 玖音がどうしたのか聞いても、母は何も答えてくれなかった。ただ独り言のように呟きながら、光を宿さない目を自分の方に向けるだけだった。

《お母さん、もう……疲れたみたい……》

 その時、初めて見た母の涙。
 心臓に杭を打ち込まれたように胸を締め付けられ、玖音は堪らず叫んだ。母の涙の意味を知りたくて。母の苦悩を知りたくて。

《玖音。強く、生きてね……。お母さんの分まで、強く……》

 何年かぶりに見た母の笑顔。
 それは、あまりに儚げで弱々しかった。
 そして――母は死んだ。
 玖音を助けるために。玖音の存在を外に知らせるために。
「大丈夫。大丈夫だよ、母さん。見てよ。僕は、強くなったよ。ちゃんと、強く生きて来たよ……」
 ぼやける視界。揺れる意識。
 躰が重い。もう腕も上がらない。
 眠い。楽になりたい。
 気が付くと、目の前に床があった。自分が倒れてしまったのだと理解するまで、少し時間が掛かる。腕で床を押し上げ、体を起こそうとするが力が入らなかった。
 もう痛みも感じない。炎の熱さも感じない。本当に自分の躰が存在しているのかどうかさえも、朧気になりつつあった。
「終わりですね。玖音」
 頭上で響く誰かの声。
 顔だけ上げて声の主を見上げた時、茫漠とした思考が突然鮮明な輪郭を持って蘇った。
「阿……樹ぃ!」
 口から血を吐き出し、玖音は怨嗟の念を込めて阿樹を睨み付ける。言う事を聞かない体を叱咤し、無理矢理立ち上がろうした時、脚に甚大な熱が走った。
「ぐ、ぅ……」
 堪らず声を上げ、玖音は這いつくばる。首を曲げて後ろを見ると、『夜叉鴉』を自分の太腿に突き刺した女が立っていた。いつの間にか刀を手放してしまったらしい。

『玖音、逃げる事だけ考えて下さい。今ならまだ間に合います』

 おかげで、雑音がまた頭に響く。

『聞いて下さい、玖音。貴方の母親を黄泉還らせる方法はあります』

「そうか……」
 正直、そんな事ではないかと思っていた。
 『月詠』は玖音を独占したかった。だが、母親が現れれば玖音の心は当然そちらに傾く。それを避けるために教えなかった。そのために冬摩の使役神の記憶を読ませようとはしなかった。

『死んだ者を召鬼化し、仮初めの命を与えた上で『死神』の『復元』を使えば黄泉還ります』

 召鬼化、『復元』。そのどちらも冬摩でなけば出来ない。方法を知ったとしても、所詮無理な話だった。
 それに、もうそんな事どうでもいい。今重要なのは――
「阿、樹……!」
 倒れ込んだ姿勢のまま、右手を阿樹の方に伸ばす。『怒り』を込め、『火焔』を放とうとした時、『夜叉鴉』が眼前を通り過ぎた。
 重い物が落ちる音。
 斬り落とされた自分の右腕を、役に立たないゴミでも見るかのように一瞥し、玖音は左腕を伸ばした。
 ゴミが二つに増えた。
「この時を、どんなに待ち望んだ事か……」
 力の作用点を失った玖音の前に、阿樹はかがみ込む。
「心配する事はありませんよ、玖音。私が貴方を殺せば、三体の使役神は私の体へと移行する。そして、私も死ぬ」
 阿樹には三体もの使役神を保持できる力はない。内側から体が喰い破られ、絶命する。
「それで……僕の願いも叶えられるって訳か……」
 皮肉めいた笑みを浮かべながら、玖音は呟いた。
 悪くない。相打ちで終わるなら。望むところだ。
「貴方の祖母として、何もしてあげられなかった私の、せめてもの償いです」
 言いながら阿樹は、着物の袖口から短刀を取り出した。
(美柚梨……)
 もっと早く、こうしていれば良かった。
 もっと早く、芹沢の家を出ていれば良かった。
 今の自分は何でも一人で出来る。昔のように誰かに頼り、迷惑を掛けながら生きる事はなかった。
 しかしそれをしなかったのは、家族の温もりが心地良かったから。
 父親の力強さに触れ、母親の優しさに触れ、そして美柚梨の愛情に触れた。本当の妹のように想って来た。自分が両親から奪ってしまった物を返すという事以上に、美柚梨を大切にして来た。
 楽しかった。美柚梨と一緒に居ると嫌な事を全て忘れられた。このまま本当の家族として、ずっと過ごせたらどんなに幸せだろうと心底思っていた。
 だが、その気持ちを利用された。
 全ては自分の責任。自分の失態。決してあってはならない間違い。
 しかしこれでようやく、その罪を償える。ようやく、解放される。
 『闇子』として生を受け、これまでずっと背負い続けて来た因縁から。
「母さん……僕も、疲れたよ……」
 死ぬために生まれた者が、死ぬべくして死ぬ。それは自然の摂理。何者も逃れられない。
 誰も悲しむ者など居ない。今まで家族以外とは誰一人として親しく接して来なかった。そしてその家族からは自分に関する記憶を消した。
 誰も悲しむ者など――いや、一人だけ居た。
(悪いな『月詠』……)
 次に儀紅と同じ血を引く者が現れるのが、何百年先になるかは分からない。だが、『月詠』には待って貰うしかない。自分はもうすぐ、居なくなるのだから。
「玖音……さようなら」
 阿樹が無表情のまま、短刀を鞘から抜き放つ。
(同じだ……)
 母親が、生まれたばかりの玖音に向けた刃の光と。
 これから死ぬと言うのに、驚くほど冷静に阿樹の挙動を見守っていた。まるで、自分ではない誰か別の人間の死でも見つめるように――
「何事です!?」
 玖音の喉元にまで当てた刃を戻し、阿樹は立ち上がって叫んだ。
 死に損ねた玖音は何が起こったのか分からず、重くなってきた瞼に逆らって目を見開いた。そして体の感覚を戻す。
 揺れている。それもただの揺れではない。立っているのも困難なほどの大きな揺れだ。
「あれ、は……」
 視界に映ったのは白い巨躯の蛇だった。体長二十メート以上あろうかと思われる巨大な蛇は、屋敷を潰さんばかりの勢いで暴れ回っている。
「『騰蛇とうしゃ』……」
 たしか冬摩の保持する使役神の一体だ。
 『騰蛇』だけではない。わにのように凶悪な顎を持った蜘蛛、『鬼蜘蛛』。しなる鞭のように長い三本の尻尾を持った銀毛の猫、『天冥』。体中に口を持つ黒い無貌の巨人、『餓鬼王』。純白の獣毛と金色の双眸を持つ巨大な虎、『白虎』。真紅に染まった武者鎧に身を包み、妖刀を両手に携えた不気味な髑髏、『大裳』。
 六体もの使役神が具現化し、真田の屋敷を蹂躙していた。
 『白虎』は屋敷の屋根に駆け上がり、天高く雄叫びを上げる。その声に呼応して、玖音の中の『朱雀』が甲高い声で啼いた。
 直後、『夜叉鴉』を持っていた女が、何の前触れもなく倒れ込む。
「よぉ、こんなとこに居やがったのか」
 そして、低い声が後ろでした。
 空気が一瞬で変わる。玖音を囲んでいた真田の女達は金縛りあったかのように動かなくなり、いきなり現れた男に視線を釘付けにした。
「お前、は……」
「随分と無様な格好じゃねーか。やっぱ雑魚はそうやって這い付く張ってるのがお似合いだぜ」
 憎まれ口を叩きながら突然姿を現した男、荒神冬摩は不敵な笑みを浮かべて玖音に手をかざす。次の瞬間、失われていたはずの両腕が、何事もなかったかのように元通りになった。
「あんま疲れる事させんなよ。この馬ー鹿」
 言いながら冬摩は玖音と阿樹の間に割って入るように立つ。
「荒神、様……。何故……」
 阿樹は予想外の闖入者に、顔をしかめながら言った。
「ま、俺は別にコイツがどーなろーと知ったこっちゃねーんだけどよ。何かとしてくれって自分の女に頼まれたら、やらねー訳にはいかねーだろ?」
 うなじの辺りで縛った長い黒髪いじりながら、面倒臭そうな顔で冬摩は返す。
「それによ。コイツのやり方も気に食わねーけど、お前らのやり方の方がもっと気に食わねーんだよ」
 吐き捨てるように言って、冬摩は阿樹を睨み付けた。
「……全て、知っておられるのですね」
「この俺様を利用したんだ。それに見合うだけのモン貰わねーとな」
「それは……?」
「コイツを見逃して、二度と手ぇ出さねーって約束しな」
 信じがたい言葉が冬摩の口から飛び出す。
 この男はどうしていつもいつも自分の邪魔ばかり……。
「ふざ、けるな……」
 『復元』した両手で床を押し返し、玖音はふらつきながらも立ち上がった。
「阿樹を殺して、僕も死ぬ……。それで、全て片付く。そこを、どけ……」
「あぁん?」
 片眉を上げ、冬摩はダルそうな目線をこちらに向ける。
「いいから死に損ないは大人しく寝てろよ。すぐに終わる」
「ど、け……」
 冬摩の体を押しのけようとするがビクともしない。
 自分程ではないとは言え、この男も少し前までかなりの深手を負っていたはずだ。しかも玖音が知る限り、『復元』を三回は使っている。体力の低下は深刻なはずなのに、どうしてこうも力強く立っていられるのだ。これが魔人の回復力というものなのか。
 これでは自分などが勝てるはずがない。
「いかに荒神様の言う事とはいえ、それだけは聞き届けるわけには参りませぬ。これは真田家内部の問題。口出しは無用で御座います」
「ややこしい話しはどーだっていいんだよ。俺は別にお願いしに来た訳じゃない。命令しに来たんだ。つべこべ言わずに言う事きけよ」
 しかし阿樹は首を静かに横に振る。
「どちらにせよ、真田家はお終いです。荒神様を殺してでも、玖音を葬る」
「出来ない事は言うモンじゃねーな。滑稽だぜ」
 少しずつ自分達への円陣を小さくして来る真田の女達を、冬摩は嘲笑を浮かべて見回した。その隣りに先程まで暴れ回っていた銀毛の猫、『天冥』が音も立てずに降り立つ。『天冥』は三本の長い尻尾をゆらゆらと靡かせながら、縦に開いた碧色の瞳孔を輝かせた。
「な――」
 阿樹から驚愕の声が漏れる。
 まばたきを一度する間に、囲んでいた女達の腰から下が石になっていた。
「この程度の力に抵抗できねーんじゃー話しになんねーよ。俺を殺したかったらせめてコイツくらい歯ごたえのあるヤツ連れてくるんだな」
 玖音の方を一瞬だけ見て冬摩が言う。
「さて、気は変わったか? バーさんよ。自分の孫殺しても後味悪いだけだぜ。やめときな」
 阿樹は悔しげに体を震わせて冬摩を睨んでいたが、観念したかのように力を抜いた。そして持っていた短刀を自分の喉元に押し当てる。
「このような終幕は、考えておりませんでしたが……いたしかたありませぬ」
 言い終え、手に力を込めるがビクともしない。
「召鬼ってのは主の意志には絶対に服従だ。龍閃の肉かなんか知らねーけど、そんな紛いモンで勘違いしてんじゃねーぞ」
「まさ、か……」
 得意げに言う冬摩。阿樹は絶望で顔を染めて行く。
 玖音には分からなかったが、冬摩はいつの間か阿樹を自分の召鬼にしているようだった。
「召鬼は魔人の体の一部を相手に同化させて生み出すモンだ。肉を埋め込むのが一番操り易いんだが、おめーら相手じゃ髪の毛で十分なんだよ」
 あの時だ。
 髪の毛をいじった時、数本風に乗せて阿樹の体に接触させ、そして同化させた。
「龍閃は死んでるから今更アイツの召鬼になったところで体自由に動かせたんだーろが、俺の場合はそーはいかねぇ。五分でこの屋敷の連中全員、操り人形にしてやろうか?」
 圧倒的だった。本当に自分はこの化け物と戦っていたのか?
 あれだけ激しかった戦いの傷を、ものの数時間で回復させ、六体もの使役神を具現化させているのに平然として、髪の毛一本で人の体を操れるほどの力を持ったこの男と。
「私にこのまま、生き恥を晒せと……? 真田家の名誉を傷付けたこの私に……」
「そーゆーこっちゃ」
 頭上から特徴的な喋りをする女の声が降って来た。
 見上げると小型のヘリコプターから縄梯子をたらし、こちらに女が下りてくる。玖音も知っている女だった。
「死ぬ事で責任が取れる思ーとったら大間違いやで。生きて生きて、もっと泥臭ーなってもらおか」
 嶋比良久里子はある程度の高さまで下りてくると、そこから飛び降り、尻餅をついて着地した。
「何やってんだ、お前」
 冬摩が呆れた視線を久里子に向ける。
「っつー……。アンタ、あんな高いトコから飛び降りてよーぴんぴんしてられんなー。ホンマ、つくづく体の構造ちゃうわ」
「くだらねーとこで張り合ってんじゃねーよ」
「やかましーなー。って、ンなこたどーでもええねん」
 したたかに打ち付けたお尻をさすりながら、久里子はよろよろと立ち上がった。
「真田のバアさん。いつまでンな古い体質に縛られてるつもりなんや。玖音殺して自分死んだかて、なーんも解決せーへんで。アンタが一人で納得するだけや」
「それで……十分です」
 阿樹は強い意志を宿した表情で久里子を見返す。
「今の私は、死ぬ事でしか自分を納得させられない」
「同感だ……」
 阿樹の言葉に重ね、玖音も久里子の背中に声を掛けた。
 自分に関する記憶を消したはずのこの女が何故ここに居るのかは分からない。しかし彼女も冬摩同様、自分と阿樹の死を邪魔しようとしている。
 それが分かれば十分だ。
「綺麗事を並べて情けを掛けるな……。僕はもう、ここで死ぬと決めたんだ。阿樹を殺してな……」
 久里子はこちらに振り向き、腕組みして鋭い視線を向けた。
「めったな事ゆーもんやないで。アンタが死んでもーたら、エライ哀しむ娘がおるやろ」
 哀しむ娘、か……。
 玖音はどこか達観したような表情で自嘲めいた笑みを浮かべる。
「妹の事を言っているのか? 心配するな。記憶は消してある」
「その記憶が戻ったとしたらどーや?」
「そんな馬鹿な事……」
 そこまで言って玖音は言葉を詰まらせた。
 『月詠』の『精神干渉』は完璧だ。これまで一度も失敗した事はない。だが、現に目の前の女は自分の事を思い出しているではないか。
(まさか……)
 冷たい物が玖音の背筋を駆け抜ける。

『嶋比良久里子に施した『精神干渉』は完璧でした。恐らく、彼女は他の手がかりから自力で貴方の事を調べ上げたのでしょう。ですが、芹沢美柚梨や貴方の両親に施した『精神干渉』は、何かのきっかけで思い出す軽い物に留めておきました』

 『月詠』が頭の中で信じられない事を言った。
「何故そんな事をした!?」
 玖音は堪らず声を荒げて叫ぶ。
 美柚梨や親が自分を思い出すかも知れない? なぜ今更そんな事を!

『玖音……軽いとは言っても、簡単に思い出す程ではありません。貴方の事を誰かが伝えなければ、そして伝えられた本人が貴方の事を強く想ってくれていなければ……記憶は戻らないでしょう』

「そんな事は聞いていない! どうして余計な真似を……!」
 玖音は途中で言葉を呑み込み、目を大きく見開いて愕然となった。自分の視界に映った者の姿を見て、意識とは関係なく体が震え出す。
 恐怖ではない、ましてや怒りでもない。焦り? 悲しみ? 喜び?
 いや違う。これは――
「み、ゆり……」
 慕情だ。
 愛おしい者を見た時に湧く、切ない気持ち。 
 久里子を通り過ぎ、阿樹の居る場所の更に後ろ。朋華に支えられながら、病院で見たままの格好で美柚梨が立っていた。
「兄、貴ぃ……」
 目を潤ませ、鼻をすすり、しゃくり上げながら美柚梨はゆっくりとこちらに近づいて来た。紅いセミロングの髪が夜風に揺られて舞う。薄い寝間着の袖口から覗く、華奢で白い手。寒さのせいなのか、震える手を伸ばしながらだんだん早足になっていく。そしてもどかしそうな顔になり、前に倒れ込みそうになりながらも必死に駆けて来た。
「兄貴ぃ!」
 美柚梨は玖音の手前で大きく跳ぶと、首に両腕を巻き付けて抱きついた。
「死んじゃヤダぁ! 居なくなっちゃヤダぁ!」
 だだをこねる子供のように泣きじゃくり、美柚梨は玖音の胸に顔を埋める。

『玖音……彼女の存在こそが、貴方の生きる意味なんですよ』

 頭が、真っ白になった。
(生きる、意味……? 美柚梨の存在、が……?)
 死ぬために生まれて来た『闇子』。皆から迫害され、母親を死に追いやり、自分勝手な行動で大切な妹を傷付けた。
 生きる価値など無い。この先、生きていく意味など無い。
 だからココに来た。全ての迷いを捨て去り、自らの命をもって贖罪するために。
 だが、それは許されなかった。
「分かったやろ、玖音。そんな可愛い娘残して、自分が納得するためだけに死ぬ気かい。どんだけ自分勝手やねん」
 溜息をつきながら久里子は髪を掻き上げる。
 自分勝手? なら、自分は更に罪を重ねる事になるのか?
「し、しかし……僕は美柚梨を傷付けて……」
「その傷もアンタが治したんやんか。美柚梨ちゃん、もーピンピンしてんで。美柚梨ちゃんガーゼ取って顔見せたり」
 久里子に言われて、美柚梨は泣きながらガーゼを取る。
 いつも通りの美柚梨だった。涙で頬がずぶ濡れになっている事を除けば。
 パーマのかかった柔らかい髪の毛も、大きくて愛嬌のある瞳も、ぷくっと膨らんだ小鼻も、桃色の唇も、血色の良いほっぺたも。これまで玖音が大切に想い、愛情を込めて接してきた美柚梨だった。
「兄貴、またいっぱい勉強教えてねっ」
 涙声で言って、美柚梨は笑った。どこまでも明るく、どこまでも嬉しそうに。
 その笑顔を見た瞬間、玖音の中で何かが崩れ去った。暗い過去。自分を縛る因縁。死に安寧を求め、破滅を渇望する自虐心。躰の内側で澱のように堆積していた黒い感情が、一瞬にして昇華して行く。
「僕、は……」
 美柚梨の顔を見つめながら、玖音は震える声で小さく言った。
「生きて、も……いいのか?」
 美柚梨は力強く、何度も何度も頷いてくれた。
「当たり前やろ。今更ンなしょーもない事聞くなや」
 呆れた口調で久里子が言う。
「真田さん。誰も、貴方が死ぬ事なんて望んでいませんよ」
 近くに歩み寄って来た朋華が優しく声を掛けてくれた。
「俺があんなに苦労してブッ飛ばしたのに、こんな干物みたいなババアにアッサリ殺されたらムカツクんだよ」
 冬摩は視線を合わせる事なく、憮然とした顔で言った。

『玖音。皆、貴方の事を必要としてくれています』

 生きる意味。
 それは互いに必要とし、必要とされる事。
 しかし、真田の女はそれでは納得しないだろう。
「私も、年を取りすぎたのかも知れませんね……」
 玖音に視線を向けられ、阿樹は溜息混じりに言った。これまで隠していた披露が一気に表面化し、さらに何十年も年を取ったように見える。
「生きる事に疲れて、責任の取り方を忘れてしまった……」
 そして阿樹は、短刀を床に置いた。その時に奏でられる小さな音。それが、全ての終焉を告げてくれた。
「嶋比良様。貴女の言う通り、死んだだけでは責任は取れません」
 静かに言う彼女の顔は、まるで波紋一つ立っていない湖畔のように落ち着いて見えた。昔の自分と決別し、新しい人生を決意した者の顔だ。
「ひ孫の顔を見るまでは、泥臭く生き延びてみますよ」
 阿樹は薄く笑いながら、玖音達一人一人の顔を見つめて言った。そして視線を周りに居る女達に向け、阿樹は顔を引き締めて口を開く。
「これより真田家は土御門の正統血縁としての肩書きを捨てる! 古くからの忌まわしい慣習に捕らわれる事はもうない! これは現真田家当主の決定意志である!」
 その小さな体からは想像できない程の大声で、阿樹は自分の意向を皆に告げた。
 素直に頷く者、脱力して肩を落とす者、不満顔になって目を逸らす者。反応は十人十色だ。
「これで、皆が納得してくれる訳ではないでしょう。ですが、それを納得させるのが私に課せられた責任であり、仕事です」
 阿樹はもう一度こちらに向き直り、胸のつかえが取れたようにすっきりとした表情で言った。
「取りあえず、最初の仕事は……」
 そして崩れ行く屋敷を見上げながら、阿樹は呟く。
「ここの復興、ですかね……」
 阿樹の視線の先では玖音の放った炎が勢力を強め、冬摩の具現化させた使役神が喜々として暴れ回っている。
「と、冬摩ー! いつまでアイツらほったらかしにしてんねん!」
「あー、忘れてた」
 久里子の声に惚けて返す冬摩。
「アンタの使役神の中に水使える奴おらんのかい!」
「そーいや玲寺が持ってた『貴人』がそうだったなー。俺は持ってねーや」
 焦る久里子とは対照的に、冬摩はのんびりとした口調で言う。
「あーもー! いざっちゅー時に役に立たんやっちゃなー!」
「だ、大丈夫ですよ嶋比良さん。み、みんなで頑張ればきっとすぐに消えますから。ね?」
 朋華が苛立つ久里子をなだめるように言った。
「僕も、手伝うよ」
 そんな光景に自然と笑みが零れる。
 体が軽い。気持ちが軽い。
 ああ、そうか。これが――
「あ、じゃーアタシもやるー」
 美柚梨が玖音の胸の中で脳天気に言ってくる。
「ば、馬鹿。美柚梨、お前は危ないから離れて見てろ」
「えー、なんでよー。アタシだけ仲間はずれー?」
「いやだから、そーじゃなくて」
「別にえーやん」
 困惑する玖音に、久里子が携帯でどこかに連絡を取りながら声を掛けた。
「ミンナで一緒にやったら。人手は多い方がええ」
 それだけ早口で言うと、消火ヘリの至急要請を電話越しに告げる。
「……じゃあ、僕から離れるなよ」
「はーい!」
 これが――生きているという実感だ。

 あれから、燃えている箇所は壊す事で一時的に被害の広がりを食い止め、消火ヘリが到着したところで本格的な消火活動が始まった。
 途中、冬摩が『死神』の『真空刃』で炎を斬り刻めば良いのではないかと無茶な発想をしたために、小さな火が無数に飛び火して余計燃え広がるという事態になったが、それを除けば消火活動は順調に進んだ。
 真田の女の中には、その間中ずっと玖音を睨み付けている者も居た。その大きな理由は、玖音に斬り殺された自分達の仲間が浮かばれないというもの。
 しかし阿樹は、
『私達も玖音を殺そうとしました。相手を殺すという事は、自分が殺されたとしても仕方ないという覚悟が出来ていなければなりません。死んだ仲間は玖音の実力に及ばなかった。それだけです。そして、戦場ではそれが全てです』
 そう言って説得してくれた。
 それでも納得のいかない者には、冬摩が召鬼化と『復元』を組み合わせて黄泉還らせてやろうかと言ってくれたが、この先何千年も生きる事になるがな、と付け加えるとさすがに断った。
 その答えに冬摩も、そして朋華も心底安心した表情だった。
 主と召鬼の関係は二人の間だけに留めておきたいのだろう。
 消火活動は明け方まで続き、復興の資金は土御門財閥が持つという久里子の言葉で幕を下ろした。
 帰りのヘリの中、冬摩が異様にはしゃいでいたのが印象的だった。鬼神の如き強さを持っているかと思えば、驚くほど子供じみた一面も持ち合わせている。全く不思議な男だ。
 そして、玖音は帰って来た。
 芹沢の家に。美柚梨と手を繋いで。

 どこにでもある二階建ての一軒家。築十五年の木造建て。取り立てて特徴のない家だ。しかし、玖音にとってはかけがえのない安らぎを与えてくれる場所。
 美柚梨がチャイムを押すとすぐに両親が出てきた。
「や、たっだいまー」
 元気に言いながら、美柚梨は満面の笑みを浮かべる。
 目の下に大きな隈を作り、二人は泣きそうになりながら美柚梨を抱きしめた。
「お前! 何で勝手に病院抜け出したんだ!」
「心配したでしょ!」
 二人は口々に怒声を浴びせる。しかし、それは美柚梨を想っての事。怒られているのに、当の美柚梨は嬉しそうだった。
「貴方がウチの子を連れ戻してくれたんですか? 本当に何とお礼を言えばいいのか」
「ほら、美柚梨! アンタからもお礼言いなさい!」
 二人の言葉に、玖音は一瞬呼吸が止まったかのような息苦しさを覚える。美柚梨は自分の事を思い出してくれた。だが、両親は……。
「何ボケてんの、オヤジもオフクロも! 兄貴だよ兄貴! アタシの兄貴! アタシの大好きなア・ニ・キ!」
 美柚梨は声を張り上げ、食いつかんばかりの勢いで叫んだ。
「兄……?」
「美柚梨、アンタ頭おかしくなっちゃったの?」
 やはり、ダメか……。
「頭おかしいのはそっち! 塾の講師してて、すんごく頭良くて、めちゃめちゃ運動神経とかも良い兄貴!」
 だが、両親は訝しげに美柚梨と自分を見つめるだけだ。
「あーもー! 好きな料理はお鍋! 好物はしらたき! お金掛からなくて経済的! 毎朝必ず不味そうに青汁飲むでしょ!」
『あ……』
 両手を振り回しながら上げた美柚梨の大声に、両親の顔つきが変わった。二人は視線を宙にただよわせ、何か思い出すような仕草をした後、再び玖音に焦点を合わせる。
「あ、あー、そうか……。いや、なーんで青汁が麦茶用の容器に入ってるのかなーって思ってたんだよ……」
「そうそう、しらたき五十袋も買ってどうするつもりだったのかしらーって、ねぇ……?」
 二人は顔を見合わせ、難しそうな顔で頭を掻いた後、
「お前、ボケたんじゃないのか。自分の息子の事忘れるなんて」
「アナタこそ。放任主義すぎて、本当に全部放っちゃったんじゃないの?」
 納得のいかない表情で、互いに罵倒し合った。
「まぁいい。とにかく美柚梨は病院に戻るぞ。あんな大怪我してたんだからな」
「えー、なんでよー、アタシこんなにピンピンしてるじゃん」
 言いながら腕を曲げて力こぶを作る仕草をする。
 父親はそんな美柚梨をまじまじと見つめて、顔をしかめた。
「……ホントだなぁ……。あれー? 確か昨日までは骨折とか酷かったよーな……」
「オヤジ、ホントにボケたんじゃないの?」
 カラカラと陽気に笑う美柚梨。
 それにつられて、玖音もいつの間にか笑っていた。
(帰って、来た……)
 心の底から実感できる。
「まーいい。病院には父さんの方から連絡しとくから。九時になったら一回看て貰いに行くぞ。ま、それだけ元気ならすぐ退院だと思うけどな」
 間違いないと確信できる。
「ほら、二人とも早く入りなさい。寒いでしょ?」
 これで良いんだと納得できる。
「ほーら、兄貴。帰って来た時の挨拶はー?」
 帰って、来たんだ。
 玖音は今まで生きて来た中で最高だと自負できる笑みを浮かべて言った。
「ただいま」


 二階の自室。懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
 カーテンを開けると、橙に染まった朝日が顔を覗かせていた。

『玖音……本当に、すいませんでした……』

 『月詠』が気落ちした声で話し掛けてくる。
「どうして謝るんだ?」

『私は、どうしても貴方を失いたくなかった。そう思って色々してきたつもりでしたが、逆に貴方を危険な目に遭わせてしまった。完全に私の誤った判断が招いた結果……。申し訳、ありません』

 『月詠』の言葉に、そんな事かと玖音は優しく笑った。
「僕はお前を信頼してた。お前が僕に儀紅の代役を求めてした事であっても、僕はそれに支えられた。感謝してるよ『月詠』。有り難う。これからもよろしくな」

『玖音……』

「あーにきっ!」
 突然、部屋の扉が乱暴に開けられ、美柚梨がなだれ込むように入って来る。そして辺りをキョロキョロと見回しながら不思議そうな表情を浮かべた。
「あれ? 今誰かと話してなかった?」
「ああ、いや……。独り言だ」
 玖音の言葉に、美柚梨は憐憫の視線を向けてくる。
「もー、寂しいんだったらこの美柚梨ちゃんに言ってくれれば、いくらでも相手してあげるのにー」
「あのな……」
 呆れ顔で返すが、まさか本当の事を言う訳にはいかない。
「ね、ね、兄貴っ、兄貴っ」
 美柚梨は何かねだるような顔つきで体をすり寄せ、上目遣いに視線を向けてくる。
「何だよ」
「アタシ達ってさ、実は全然他人なんだって?」
 ブッ、と思わず唾を吹き出しそうになった。無理矢理呑み込んだ唾液が気管に入り、激しく咳き込む。
「あー、その反応。やっぱ本当なんだー」
 しまった。自分ともあろう者がこれしきの事で動揺を……。
「ど、どこでそんな事を吹き込まれたんだ」
 出来るだけ平静を保ちながら玖音は聞く。
「んーとね。ヘリの中で長い髪の厳ついおにーさんに」
 荒神冬摩だ。
(余計な事を……)
「さっきの兄貴の独り言って、『月詠』って人と話してたんでしょ?」
 ヤバイ。頭痛がしてきた。

『玖音……もぅ、しょうがないですね……』

 ハハハ、と乾いた笑みを漏らしながら『月詠』が呟いた。
「ねー、兄貴ぃー。アタシ達、血が繋がってないんだったら結婚できるねっ」
 あ……目眩が……。
「あの阿樹ってお婆さんも言ってたじゃん。『ひ孫が見たい』って」
 気が、遠のく……。
「今から子作りしよっか」
 もぅ……ダメ、だ……。
「兄貴? アニキー? 冗談、ジョーダンだってばー」
 美柚梨の声をどこか遠くの方で聞きながら、玖音は意識を保つ事を放棄した。

◆思い出された約束 ―仁科朋華―◆
 あの大惨事から、一夜明けた次の日。
 昼過ぎまで睡眠を取った後、朋華は冬摩との待ち合わせ場所に向かった。
 そこは人通りの少ない川沿いの土手。二人のいつものデートコース。
 一級河川の名前が書かれた看板の前で、冬摩はすでに待って居た。隣には『死神』が浮かび、足下では『羅刹』が熱心に草むらを観察している。
「スイマセン、冬摩さん。ちょっと寝過ごしちゃって」
 朋華はチェリーピンクのヘアバンドを押さえながら、小走りに近付いた。
「別に良いよ。それより悪いな。最近コイツら外の味覚えちまってよ」
「『ぱふぇ』じゃ。妾は『ぱふぇ』が食べたいぞ」
 はやる気持ちを押さえられないとばかりに、『死神』はうきうきと体を揺らしながら言う。『羅刹』は無言のまま、冬支度に乗り遅れた蟻の行列を見ていた。
「別に良いですよ。大勢の方が楽しいですしね」
「俺はお前と二人が良いぞ」
 冬摩の言葉に少し顔を熱くしながらも、朋華は隣りに並んで歩き出した。
「真田さん、幸せそうな顔してましたね」
 ヘリの中で妹とくっついて眠っていたのを思い出し、朋華は笑いながら言う。
 あれほど安らいだ顔をした玖音は初めて見た。彼が人前であんなに風に気を許す事は、もう無いかも知れない。
「別にどーでも良いじゃねーか。あんな奴の事なんかよ」
 半眼になり、不機嫌そうな表情で言う冬摩。
 玖音の事になると、冬摩はいつも素直じゃなくなる。
「美柚梨ちゃんが真田さんの事思い出したの、冬摩さんの機転じゃないですか」
「あーん? 俺は別に何もしてねーよ。アイツが勝手に思い出しただけじゃねーか」
「じゃあどうして真田さんの事、『コイツの兄貴』って呼んでたんですか?」
 あの時、確かに冬摩は玖音の事をそう呼んでいた。随分と遠回しな表現だ。あえてそういう言い方をしたとしか思えない。
 考えられる理由はただ一つ。そうやって美柚梨の記憶を刺激していたのだ。玖音の事を思い出させるために。
「別に意味なんかねーよ。玖音って呼ぶのがムカツクから言わなかっただけだ」
 本当に、玖音に関しては素直じゃない。
「しかしアレじゃのー。あんな小手先の技で、よく『月詠』の『精神干渉』を打ち破れたもんじゃのー。『月詠』も腕が落ちたか?」
 『死神』が呆れたように言う。
「それはきっとアレですよ。二人の兄妹愛が奇跡を起こしたんですよ」
「……仁科朋華、聞いているこっちが恥ずかしくなるような発言は控えてくれんか?」
 扇子で口元を隠しながら、『死神』は目を細めた。
「え? え? 私、何かおかしな事言いました?」
「自覚が無いとはタチが悪いのぅ……」
 ふよふよと浮かんで言いながら、『死神』は冬摩の首筋に両腕を絡ませる。 
「しかし、『月詠』も厄介な相手に惚れ込んだものじゃ。ま、厄介度合いでは妾の方がずっと上じゃがのぅ。なぁ、冬摩?」
「あーん? 俺に聞くなよ」
 面倒臭そうに言いながら、冬摩は無造作に『死神』を振り払った。
「『月詠』さんって真田さんの事、好きなんですか?」
「アヤツは昔からどの保持者にも嫌われて来たからのぅ。存在を隠され、力を使われないまま受け継がれて行った。玖音はあれだけ『月詠』の力を全開で使ってるんじゃ。惚れ込むのも無理はない。妾にもその気持ち、よく分かる。ま、玖音と自分の境遇が似ていたせいもあるとは思うがな」
 『死神』は感慨深そうに頷きながら言う。
 『死神』も一時期は誰にも受け継がれる事なく、何百年も大地に眠り続けていた事があった。その時に感じた寂しさ。それは皆から疎外される事に通じる物がある。だからこそ『月詠』に共感できるのだろう。
 今の主を愛する者として。
「真田さんと『月詠』さん、幸せになると良いですね」
「それはどうかな。妾にお主という好敵手が居るように、『月詠』にもあの美柚梨とか言う小娘がおる。きっと一筋縄では行かんぞ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、『死神』は朋華を見た。
「わ、私って『死神』さんのライバルだったんですか?」
「当たり前じゃ。先に冬摩を寝取るのは妾じゃぞ」
「ちょ、寝取……って、そんな……」
 突然生々しい発言をされて、朋華は顔を真っ赤にする。
「なんじゃ、仁科朋華。相変わらずうぶよのぅ。すでにお主と冬摩は裸と裸の付き合いをした仲ではないか。何を今更恥ずかしがる事がある」
 からかうような口調で言う『死神』に、朋華の血圧が急上昇して行った。
「あー! 思い出した!」
 突然冬摩が大声を上げる。
 あまりにビックリしすぎて、体が裏返るかと思った。
「温泉旅行! 朋華、約束したよな! 言ったよな、塾の前でよ! この件が片付いたら一緒に温泉行くって!」
 頭に血が上りすぎて、視界が揺らぎ始める。
 もう何も考えられない。何も考えたくない。
 『温泉』という単語が頭の中で飛び回り、そこから『湯船』、『裸』、『抱き合う二人』と危険な方向へと連想されて行く。
「な……」
 朋華は目を瞑り、ありったけの声で叫んだ。
「何てタイミングで言うんですかー! 冬摩さんのバカーーーーーー!!」
 声に意識を持って行かれる形で、朋華は足下から崩れて行く。
(わ、私は……そんなはしたない子じゃない、モン……)
「あ。温泉虫。珍しい」
 『羅刹』がポツリと漏らした言葉が止めとなり、朋華の頭の血圧ブレーカーは重い音を立てて落ちたのだった。

 【終】




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