貴方に捧げる死神の謳声 第零部 ―復讐の業怨―

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弐『二つの純心』


◆百鬼夜行 ―冬摩―◆
 柔らかい月明かりが降り注ぐ都の隅で、鈴の音と異形達の謳声が木霊する。

《にーんげーんどーこだー よーいよい こーどもーはどーこだー よーいよい おーんなーはどーこだー よーいよい》

 低く、くぐもった不快な声が幾重にも重なり、何の纏まりもない不協和音として夜の空へと熔け出した。

《どーこをくーおうー あーたまーがさーきかー めーだまーがさーきかー ぞーうふーがさーきかー よーいよい》

 謳声は徐々に大きくなり、クスノキの上であぐらをかいている冬摩の視界に異形の者の姿が映り始めた。
(鬱陶しい……)
 不定期に都に現れる百鬼夜行。それはいわば妖魔達の集まり。
 魔人の力には遠く及ばない低級な者ばかりだ。しかし数が尋常ではない。
 他の大路よりかなり幅のある朱雀大路を、埋め尽くさんばかりの異形達。腹の大きく膨れた餓鬼や眼窩の抜け落ちた髑髏が、跳びはねながら我がモノ顔で都を闊歩している。
 いかに力を持った陰陽師達とはいえ、さすがに全てを相手にするわけには行かない。労力が掛かりすぎる。
 だからやり過ごす。妖魔達の嫌うケシの香を薫いて。それは他の家も同じだった。
 そして何事もなく百鬼夜行が過ぎ去るのを待つ。
 ソレで問題ないはずだった。
 ――いつもならば。
(ぁん?)
 妖魔達が一斉に進行方向をコチラに変えた。
 すなわち、陰陽寮の方に。
 いつもならば真っ直ぐ北上し、平安宮に突き当たったところで二手に分かれて、そのまま建物を避けるようにして都を出て行くはずなのに。
 しかし今回は二つになる事なく、全員が冬摩の居る場所に近づいて来る。
(たまにはこういう事もあんのか?)
 太い枝の上で立ち上がり、冬摩は訝しげに目を細めた。

《そーらそーら でーてこいでーてこい にーくーをくーわせーろ ちーをのませーろ ほーねしゃーぶらーせろー よーいよい》

 妖魔達は手に持った鈴を鳴らしながら、上機嫌で謳声を上げる。そして三条大路に密集したかと思うと、再び直角に曲がった。さらに陰陽寮の外壁に沿って進み続け、四方を取り囲んだところで歩みを止める。
 さっきまで煩いくらいに聞こえていた謳声も鈴の音も、弦が切れてしまったかのように不自然に止む。
(何だ)
 おかしい。
 いつもと違い過ぎる。
 低級な妖魔達には知能という物が殆ど無い。統率立った行動など取れるはずがない。全員が動きを揃えるという事などは有り得ない。
 さすがに異常を感じたのか、陰陽師達が陰陽寮から姿を現した。手にはそれぞれ武器を持っている。しかし、いくら保持者が居るとはいえ、あの数で一斉に攻め込まれたら無事にはすまないだろう。
(ま、紫蓬のヤツが居るから大丈夫か……)
 見た目はアレでも、魔人の中では三番目の強さを持った存在だ。法具で力を封印されているとはいえ、低級妖魔に遅れをとる事はまず無い。
 ――弱い人間に注意が行ったりしなければ。
 紫蓬は陰陽寮に居る人間との生活に溶け込んでいるようだった。ならば力の弱い者を庇おうとするかも知れない。不必要に守ろうとするかも知れない。
(未琴……)
 未琴は間違いなくそうするだろう。『守るべき者』とやらのために、自分の命を平気で投げ出すような奴だ。仲間のために体を張るくらいの事は、当たり前のようにやる。
(くだらねー……)
 気分悪そうに舌打ちし、冬摩は枝の上に座り直して溜息をついた。そして苛立たしげに、クセの強い短髪を掻きむしる。
 下らない。本当に下らない。
 弱い奴は皆死ねばいい。自分の身を自分で守れないような奴に生きる資格などない。

『私は不器用だからこんな生き方しかできない』

 もしかしたら未琴は死ぬかも知れない。
 だがソレが何だというのだ。自分の事だけ考えていればいいのに、変な気を起こすから身を滅ぼす。自業自得だ。そんな奴も死ねばいい。

『お前はあの時、どうして私を殺さなかった』

(俺が食いモン相手に変な気ぃ起こすわけねーだろ)
 そう。未琴は食料だ。だから生かしておいた。新鮮な肉を喰うために。
 あの女は自分が喰うと決めたんだ。生きたまま。
 だから美味そうな食料を確保しに行く。それだけ。ただそれだけだ。他に意味などない。
「けっ!」
 クスノキの枝を蹴り、冬摩は陰陽寮へと身を踊らせる。
 直後、妖魔達の群れが決壊したように陰陽寮の敷地内へとなだれ込んだ。
「オオオオッラアアァァァァ!」
 異形の海の中に飛び込み、冬摩は渾身の力を持って右腕を振り下ろす。弧を描いて大振りに放たれた一撃は、餓鬼の頭を割り、髑髏を粉砕し、狐火を抹消した。
「次ぃ!」
 後ろに振り向きざま、遠心の力に乗せて右の裏拳を叩き込む。その拳撃が三頭獣の腹に突き刺さり、生温かい内容物を派手にまき散らせた。直後、冬摩の右腕に無数の触手が絡みつく。
「ちっ」
 鬱陶しそうに顔をしかめ、強引に引きちぎろうとした時、頭上を何かの影が覆った。視線を上げると、五畳はあろうかと思われる巨大な石壁が急迫しているのが目に映る。
 周りにいる妖魔もろとも押し潰す気だ。
「クソッタレ!」
 右腕に力を込めるが、いくら触手を引きちぎってもまた新たに絡みついてくる。さらに体にまで巻き付き、完全に冬摩の自由を奪った。
 石壁の一撃を食らう覚悟を決めた時、耳をつんざく爆音と共に頭上の巨大な物体が破砕する。
「何ぞ。口ほどにもないではないか、冬摩」
 横に下り立ち、皮肉っぽく口の端をつり上げたのは、身の丈が自分の腰くらいまでしかない幼女――紫蓬だった。
「う、うるせー! 油断しただけだ!」
 口を開け、力の作用点である『歯』から『朱雀』の『火焔』を吐き出す紫蓬を睨みながら、冬摩は触手を取り払う。本体が焼かれたせいか、もう新たに舌を伸ばしては来ない。
「なら今すぐに認識を改めるんだな。コイツらは誰かに操られている」
 冬摩と背中を合わせたまま、紫蓬は下から接近して来た異常に長い腕を爪で裁断した。
「操る!? 誰がだよ!」
 不気味に明滅する発光体に右腕を埋め込みながら、冬摩は大声で聞き返す。
 確かにおかしいとは思っていた。ケシの香りに全く怯む事なく、揃った動きを見せる異形達。だが操られていたとなれば辛うじて納得できる。
「この妖魔共の力も普通ではない。てこ入れされておる。分からんか冬摩。コイツらの正体が」
 これだけ多くの異形を一度に操り、力を増強させる術。それは――
「召鬼! 魔人の仕業か!」
 魔人は自分の体の一部を埋め込む事で、忠実なる下部――召鬼を生み出す事が出来る。しかし、もし本当にこの妖魔達が召鬼化されているとすれば、一体誰がそんな事を。
「ほぅ、龍閃の息子か。良い面構えだ。父親譲りだな」
 背後から届く、冷たい響きを孕んだ声。耳の奥から浸食され、全身に毒の根を這わされたような錯覚。体の熱が一気に引いていくのを感じながら、冬摩は後ろを向いた。
 異形の海を割って、長身痩躯の男がゆっくりとコチラに近づく。
 磨き上げられた鋼のような輝きを持つ銀髪は天を突いて直立し、殺意に満ちた碧眼は陰陽寮から上がった炎で紅く揺らめいている。浅黒い肌を包む貫頭衣は返り血で紅く染まり、口の端から飛び出した鋭い牙からは鮮血が滴っていた。
「炎将……」
 紫蓬が隣りで苦々しく呟く。
「久しいな紫蓬。少し見ない間に随分と弱々しくなったじゃないか」
 もぎ取った人間の首をごみのように投げ捨て、炎将は侮蔑の色を視線に混ぜて見下ろした。妖魔達は冬摩と紫蓬から離れ、三人だけを他から隔離するかのように取り囲む。
「ヌシこそ随分偉くなったではないか。下等な異形共の王か。あつらえたようだな」
 周囲から悲鳴と怒号が飛び交う中、冬摩の周りだけが切り取られたように静まりかえっていた。
「口だけは相変わらずだな。自分の置かれた状況が分かっていないのか?」
 嘲笑を浮かべ、炎将は左手の甲をコチラにかざした。そして右の鋭い爪で、その皮膚を切り裂く。直後、不可視の何かが冬摩の胸元めがけて飛来した。
「な――」
 大気を切り裂いて肉薄する力の塊。ソレが冬摩の体に呑み込まれる前に、紫蓬の左手が侵攻を遮る。
「分かっていないのはヌシの方ぞ。ココに何人の保持者が居ると思っている。それにすぐ龍閃や魎も来る。力を封じられているとは言え、あの二人は別格ぞ」
 紫蓬は左の手の平から流れ出る血を舐め取りながら冬摩を一瞥した。そして炎将を睨み付けて低い声で言う。
(クソ……)
 ――この愚か者が。
 紫蓬の目がそう言っていた。
 確かに、今のは完全に自分の失態だ。紫蓬が居なければ、胸板を打ち抜かれていたかも知れない。
 炎将は龍閃に反旗を翻し、今人間と結んでいる和平を壊そうとしている。すなわち、魔人と人間にとって共通の敵だ。最悪の場合、殺さなければならない。当然その力は龍閃から聞いている。
 炎将の力の発生点は『緊張』。そして作用点は『傷口』。
 先程は手の甲の傷口から力の塊を打ち出したのだ。さらに炎将は自分達とは違い、法具で力を封じられていない。魔人としての力をそのまま引き出せる。今の自分とは一撃一撃が比べ物にならないくらいに鋭いだろう。
 しかし、魎や龍閃ならば――
「クク……」
 肩を小刻みに振るわせて、炎将は低く笑った。
「俺も見くびられたものだな。何のために今までずっと隠れていたと思っているんだ」
「大方、龍閃の覇気にでもあてられて怯えていたのだろう。ヌシには似合いぞ」
 挑発的な笑みを浮かべながら紫蓬は小さな胸の前で腕を組む。
 直後、自分達を囲んでいた妖魔達の壁の一角に穴が開いた。胸が悪くなる悲鳴を上げながら、妖魔達は蒸発するかのように消滅していく。
「貴様が頭か!」
 そして何人もの陰陽師達が、狭い空間に押し入って来る。束帯に身を包んだ彼らの手には霊符、宝刀、呪昆。保持者なのだろうか、中には武器を持っていない者も居た。
「召鬼化したとはいえ、低級妖魔風情ではこの程度か……」
「諦めろ炎将。大人しくしていれば悪いようにはせん」
 百鬼夜行に不意打ちを食らって態勢を崩した陰陽師達も、一度統率を取り戻せば彼らの退魔力は強力だ。続けて妖魔を駆逐する者と、炎将を取り囲む者とに分かれて、迅速に優勢を築き上げていく。
「大人しくしていれば、か……」
 炎将は紫蓬の言葉を繰り返し、不敵に笑った。
「魔人の誇りを忘れた者の言葉など聞かぬわ!」
 そして両手を広げて天を仰ぎ、裂けんばかりに開いた口から獣吼を轟かせる。
 鼓膜を激震させ、体の内側に直接響く怪音。怨嗟の念が塗り込められた振動に触れ、樹木や建家が微塵となって崩壊していった。
(な、何、だ……)
 唐突に撒き起こる異常現象。ソレに呼応するかのように、全身の力が大地へと吸われていく。自重が何倍にもなったかのような錯覚。
 冬摩は無意識に膝を折り、震える両手で体を支えていた。未琴が結界を張った時に似ているが、威力は比較にならない。抵抗を全く許さない圧倒的な強制力がのし掛かってくる。
「怨行術を使えるのが魎だけだと思うなよ!」
「ち……『破結界』か……」
 自分の隣で紫蓬が苦々しく漏らした。腕組みを解き、体を低くして臨戦態勢を取っている。しかし、警戒しているのか、それとも一瞬の勝機を見出そうとしているのか攻撃には移らない。
 周りにいた大勢の陰陽師達は、先程まで楽に滅していたはずの妖魔達に突然押され始めた。炎将を包囲していた者達も均衡の崩れによって背後が危うくなり、集中が妖魔へと向き始める。
 戦況は一気に劣勢へと傾いた。
「クク……! ハハハハ! 無様だな、ええ! 紫蓬! こうもあっさりと掛かるとはな!」
 自分に背を向けた陰陽師の一人に手を伸ばし、炎将は彼の体を爪で引き裂く。
「待っていたのだよ! この時を! 呪針が成長しきり、『破結界』が行使できる時を! 貴様らが油断し、不意をつける時を!」
 哄笑を上げ、炎将は自分の左腕に大きな裂傷を穿った。そして腕を力任せに横に薙ぐ。水平に大きく伸びた力の塊は、妖魔もろとも陰陽師達の胴体を切り離した。
「俺の独壇場を築き、力を最大限に引き出せる時をな!」
 血に酔い、悲鳴に身を奮わせて炎将は悦に浸る。
(気にいらねぇ……)
 その叫声に顔を歪めながら、冬摩は両腕で地面を押し返した。そしてゆっくりと立ち上がる。
 ――気にいらない。
 なぜ真っ正面から攻めない。どうして召鬼化した百鬼夜行に身を隠し、他の者の目を欺いて裏をかく。
 『破結界』? 怨行術? 魔人としての力を存分に振るえるのに、そんな小手先の技に頼る必要がどこにある。
「気に、いらねぇ……」
 どうして自分は這いつくばっている。
 こんな小賢しい策略に頼らないと戦えないような魔人相手に、なぜ押されている。
「気にいらねぇんだよ!」
 右拳を固く握りしめ、冬摩は怒鳴り殺さんばかりに叫んだ。奥歯をきつく噛み締め、冬摩は憎悪に満ちた視線で炎将を睨み付ける。
「さすがは龍閃の息子。生まれて間もないというのに気概だけは一人前だな。気に入った」
「テメーはブッ殺す!」
 何の打算も作戦もなく、冬摩は本能が突き動かすままに地面を蹴った。
「よせ冬摩!」
「オラアアァァァァァ!」
 後ろで聞こえる紫蓬の声を無視し、冬摩は気合いに乗せて右腕を振り下ろす。動きが鈍い。自分でもハッキリと分かる。
 だがそんな事は関係ない。とにかく気に入らない。目の前で憎たらしい薄ら笑いを浮かべている姑息な魔人が、戦おうとしない紫蓬が。
 そして――一瞬でも炎将を恐いと思ってしまった自分が。
「惜しいな」
 渾身の力を込めて放った一撃を、炎将は左腕一本で軽々と受け止める。
「もう少しお前が早く生まれていれば、俺達は気の合う友になれたかも知れない」
 腹部に広がる灼熱の塊。喉の奥からせり上がってきた物が口腔で解き放たれ、目の前で紅い飛沫が舞った。
 鳩尾に深く突き刺さった炎将の拳は、肉を抉り、骨を砕き、内臓を破壊して冬摩を宙に浮かせる。そしてソコに覆い被さるようにして炎将が跳んだ。
「こっちだ炎将!」
 耳元で紫蓬の声がする。白みがかった視界の中で、紫蓬の姿が二つに分かれた。
 紫蓬の保持する十鬼神『紅蓮』の能力『分身』。体を分け、それぞれが独立して行動できるが、力も同時に分散してしまう。
「冬摩、炎将と直接やり合うな。法具で力を封じられている以上、ワシらでは勝てん。『破結界』を壊すぞ。さすれば他の陰陽師達が何とかしてくれる。龍閃や魎もココに入って来られる」
 紫蓬の一人が冬摩を抱きかかえ、炎将から距離を取った。
 『破結界』は術者が選んだ者の力を弱める結界だ。さらに結界としての力も備えている以上、当然外部からの侵入も遮断する。
 この『破結界』は陰陽寮を覆うように張られている。ソレを解かない限りは、誰もこの場所に入って来られない。
 だからソレを無くし、援軍を呼び込む。現状を打破する手段として、当然取るべき選択だ。
 だが――
「うる……せぇぇぇ!」
 紫蓬の腕の中で冬摩は身をよじると、強引に抜け出した。そして降り立った地面を力強く蹴って、再び炎将へと跳びかかる。
「どけオラアァァァァァ!」
 炎将の注意を自分に引き付けようと、華麗な足運びで攪乱を誘っているもう一人の紫蓬に向かって叫びながら、冬摩は右腕を突き出した。
「屑が……」
 紫蓬が退いたのと入れ替わるようにして急迫する冬摩に、炎将は短く零す。そして最初と同様、左腕一本で受け止めた。
「屑、だと……!」
 炎将の言葉で頭に大量の血が上っていく。直後、腹に走る激痛。だが、そんな物に構ってなどいられない。そんな物に怯んでなどいられない。
 とにかく目の前のコイツを。自分を見下し馬鹿にした憎たらしいコイツを――
「ブッ殺す!」
 右腕の筋肉が一回り大きく膨らんだ。腹部に堆積した『痛み』から来る力を右腕に乗せ、炎将の左腕を押し返す。
「な――」
「オラアアァァァァ!」
 そして雄叫びと共に、一気に振り下ろした。
 炎将の着ていた貫頭衣を割き、肉を断ち、鮮血を吹き出させる。
「ザマァ……」
 しかし、鼻で笑おうとした冬摩の体を甚大な圧力が襲った。反射的に両腕で顔を庇うが、衝撃を吸収しきれず、体ごと大きく後ろに吹き飛ばされる。陰陽寮を囲む土壁に背中から叩き付けられ、ようやく勢いを止めた。
「さすがは龍閃の息子。この状況下でなお、これ程の……。純粋に力だけ見れば俺や紫蓬を凌ぐやもしれんな」
 喉を震わせて低く笑いながら、炎将は胸の『傷口』から流れ出る血をすくって舐め取る。
「だが、頭は悪そうだ」
 言いながら炎将は、両の拳を自ら傷付けた。そして奇声を上げて冬摩に飛びかかる。
「龍閃から聞かなかったのか! 俺の力の作用点を!」
 冬摩の腹の傷に右拳を埋め込みながら、炎将は凶笑を浮かべた。そして嬉しそうに体重を掛けていく。ゆっくりと、しかし確実に。冬摩の顔に張り付いた苦悶の表情を心底楽しむかのように。
「けっ……。コソコソ攻めねーと何にもできねーよーな奴に……頭使う必要なんざねーんだよ……」
 臓腑をかき回されるおぞましい感覚に耐えながら、冬摩は炎将の顔に唾を吐きかけた。
「その強がり……どこまで続くかな!」
 炎将の腕が一気に自分の体内へと呑み込まれる。ソレが自分の体を貫通したのだと理解した時には、もう一本の腕が冬摩の頭を地面へと沈めていた。
「どうした! 抵抗して見せろ! それでも龍閃の息子か! 本当に魔人の血を引いているのか!」
 大地に縫い止められ、身動きのとれない冬摩を殴り続けながら、炎将は愉悦に顔を歪ませる。冬摩に拳撃を打ち込む事で炎将の拳の『傷口』が大きくなり、その力は際限なく高まっていった。
(何してやがる……とっとと動きやがれ、俺の右腕……)
 『痛み』はある。十分すぎるほどに。右腕にかつてない力が注ぎ込まれていくのが分かる。
 だが、ソレを行使する術がない。振るうだけの力が残っていない。
(クソッ、タレ……)
 意識が茫漠とし始めた時、何の前触れもなく炎将の背中で爆炎が上がった。そして攻撃が止む。
(紫蓬、か……)
 コチラに近づいてくる人影に、冬摩は視線だけを向けた。
「救急如律令! 霊符よ散りて縛鎖となれ!」
(あの声は……)
 脳裏に灼き付いている清らかな音。稟と張った澄んだ声。
「巫女か……」
 血の宴を邪魔され、炎将は不機嫌そうに冬摩の腹から腕を抜いた。そして立ち上がって振り向く。
「貴様は私が討つ!」
 長い黒髪を靡かせ、未琴は霊符を構えて炎将と対峙した。妖魔の壁をかなり強引に抜けてココまで来たのか、巫女服はすでに原型を留めていなかった。白い肌には無数の裂傷が刻まれ、血を滴らせている。
 ――馬鹿、来んじゃねぇ……。
 言葉を発そうとするが、代わりにドス黒い血の塊が込み上げてきた。体を動かすどころか、声すら満足に出せない。自分の情けなさに反吐が出る。
「人間風情が……。貴様らは黙って喰われていればいいんだよ!」
 浮遊し、呪的な束縛となっていた霊符を、炎将は気合いだけで吹き飛ばした。そして牙を剥いて未琴に襲いかかる。
「救急如律令! 霊符よ爆ぜて虚無へと帰せ!」
 しかしすでに読んでいたのか、未琴は慌てる事なく何枚もの紅い霊符を炎将に投げつけた。一枚では炎将に傷を負わせる事が出来なかった。ならば同時に複数枚の霊符を使えば――
 先行していた二枚が炎将の両腕に着弾する。派手な爆音と共に膨大な熱波が吹き荒れた。地面が真上に舞い上がり、粉塵となって炎将の体を包み隠す。
「っはぁ!」
 砂煙の中、炎将の悦声が轟いた。
「しゃがめ……!」
 鉄錆の味が張り付いた喉の奥で、冬摩は声を振り絞って叫び声を上げる。その声に反応し、未琴は身を低くした。
 直後、未琴の後ろに居た数十匹の妖魔が、細切れになって絶命する。
「ほぅ、まだそんな力が残っていたのか」
 両腕に付いた『傷口』に舌を這わせながら、炎将は楽しそうに口の端をつり上げた。
 結局、炎将に傷を負わせる事が出来たのは最初の二枚だけだった。残りの霊符は、その二枚によって出来た『傷口』からの力で消し飛ばされてしまった。
 いや、消すためにあえて二枚を受けたのだろう。相当戦い慣れている。
「この、ガキ……」
 苦痛に顔を歪めながらも、冬摩は上半身だけを起こす。『鬼蜘蛛』の回復力で、辛うじて体を動かせるまでにはなっていた。
 だがどうする。攻撃すればするほど、炎将の力の作用点は増えていく。傷を負えば負うほど力が増していく。
 中途半端な攻撃ではだめだ。もっと圧倒的な力で、反撃の気力すらわかない程の致命傷を一撃で。
「いい顔だ」
 視界が突然暗い空を映し出した。顎を蹴り上げられ、冬摩の体が宙を泳ぐ。
「冬摩!」
 遠くから聞こえる未琴の声。続けて轟音、悲鳴。そして炎将の哄笑が響く。
(圧倒的な、力……)
 魔人の力。
 魔人本来の姿。
 何の束縛をも受け付けない、純然たる破壊の化身。
(気にいらねぇ……)
 無力な自分が。
(気にいらねぇ……!)
 魔人に一人で立ち向かう未琴が。
(気にいらねぇ!)
 やたらと耳に付くあの女の声が。
「気にいらねぇんだよ!」
 怒声を上げながら着地し、冬摩は右腕にはめられた円環状の法具を左手で掴む。そして引きちぎらんと渾身の力を込めた。
 体内の最深に生まれる異物感。それが徐々に大きくなりながら、精神の刃を躰の内側に突き立てていく。
「ガアアアァァァァァァ!」
 知覚的な苦痛が、皮膚をはぎ取られたような鋭痛となり、神経を灼き尽くす甚大な熱を経て、生に憎悪する程の凶痛へと昇華する。昏い光が脳を蹂躙し、冬摩の理性を駆逐していった。
 ――めろ! ……摩!
 誰かの声が耳鳴りに聞こえる。自分の躰が酷く出来の悪い人形のように感じた。
 ――冬……! 死……ぞ!
 痛い、痛い、痛い。
 思考を埋め尽くすのはたった一つの言葉。
 痛い、痛い! 『痛い』!
 そしてある種の激情。
(コロス……!)
 自分を貶め、卑下した愚か者を。
(ブッ殺す!)
 人の喰い物を横取りしようとした屑野郎を!
『オオオオオオォォォォォォォ!』
 厚みのある獣吼を上げ、冬摩は右腕を真横に伸ばしきった。乾いた音を立てて金属の破片が飛び散る。
 そして――力が狂気の産声を上げた。
 視界が突然明るく開ける。
 現世の理を根底から覆せるような万能感。思考を埋め尽くす絶対的価値観。そして右腕の内側で明確に感じ取れる魔の力の胎動。
「死ねオラアアアアァァァァァ!」
 殺戮の悦びに打ち震える右腕を、あらん限りの膂力を持って炎将に叩き付けた。
「コイツ……!」
 動揺を色濃く見せ、炎将は両腕を交差させて身構える。そこに飛来する鉤状に曲げられた冬摩の右拳。
 重い手応え。湿った音。そして顔に生温かい液体がかかる。
 続けて耳元で聞こえる炎将の絶叫。
 腹に穴が開く程の『痛み』を乗せた冬摩の一撃は、炎将の両肘から先を奪い去った。 
(まだだ!)
 こんな物では気が済まない。この程度では腹の虫が収まらない!
 振り切った右手を握り込み、裏の拳で炎将の脇腹を突き上げる。肋骨が砕ける手応えを手の甲で感じ取りながら、冬摩は右腕を逆袈裟に振り抜く。そして手を体の後ろで構えなおし、意識すら呑み込む破壊衝動を乗せて炎将の胸部に打ち出した。
 拳に伝わる固い振動。ソレが肩を介して体の奥にまで伝播する。
「貴、様ぁ……!」
 冬摩と炎将の間に漆黒の盾が割って入っていた。
 十鬼神『獄閻』の能力『金剛盾』。その強固な守りはあらゆる衝撃を跳ね返す。
「邪魔っくせーんだよ!」
 炎将の両肘にできた『傷口』から生み出された『金剛盾』を、冬摩は強引に押し込もうと右腕に力を込めた。大地に両足を踏ん張り、その力を腰、背中、肩を通して右腕に注ぎ込む。
「く……」
 押し負け、徐々に後退していく炎将。長い牙を食いしばり、顔を焦りに歪めた時、『金剛盾』の中心に僅かな亀裂が走った。
「オラァ!」
 冬摩は拳を引き、その小さなヒビめがけてもう一度拳を突き出した。
 高く澄んだ音を響かせて、『金剛盾』は漆黒の破片と化す。そのまま勢いを損なう事なく、冬摩の右腕は炎将の胸を貫いた。
 大きく目を見開き、自分の体に埋め込まれた冬摩の右腕に、炎将は信じられない物を見るかのような視線を落とす。
「やる、な。気に入った……気に入ったぞ!」
 口から血を撒き散らせ、炎将は喜声を上げた。そして両腕を冬摩の体に回し、逃れられないように固定する。
「うっせーんだよ! 屑野郎!」
 ――早く離れろ。
 理性が頭の中で警鐘を鳴らしている。だが、圧倒的な破壊本能が易々とソレを覆い尽くす。
 もっとコイツを痛めつけろと、獣の野生が耳元で叫んでいる。血と悲鳴への獣欲が、目の前の獲物の絶命を懇願している。
「クタバレ!」
 肘まで埋めた右腕を真横に引き抜こうと冬摩は力を込める。しかし感覚が無い。
「残念」
 凶笑を浮かべる炎将。舌打ちして腕を見ると、右肘の部分が石に変わっていた。
 十鬼神『天冥』の能力『石化』。石になった箇所を戻すには、術者に解かせるか相手を殺すしかない。
「けっ!」
 冬摩は面倒臭そうに吐き捨て、残った左腕で炎将の腹を突き上げる。皮膚を貫き、砕けた肋骨の裏にある内臓を押しつぶした。そしてもう一度同じ場所に拳を入れようとした時、『獄閻』の『金剛盾』がソレを遮る。
 拳に伝わる手応えは、最初の物よりも明らかに固い。例え右腕だとしても、壊せるかどうか分からない。
「お前は強くなる。だが、今はまだ俺の方が上だ」
 すでに炎将の顔に油断の色はない。冬摩の力を認め、気の張りつめた真剣な顔付きでコチラを見下ろしている。
 そしてその『緊張』こそが、炎将の力の発生点。
 炎将は痛めつければ痛めつけるほど、力の作用点が多くなる。そして追いつめられれば追いつめられるほど、力の発生点が真価を発揮する。
 不利な態勢になるほど、炎将は強くなる。
 しかし――それは自分も同じだ。
 『痛み』の大きさに比例して、冬摩の右腕は力を増す。だがまだ足りない。『痛み』が足りない。もっと傷を、もっと『痛み』を、もっと力を!
 傷口の治癒などいらない。邪魔だ。『鬼蜘蛛』が。邪魔だ。自分を抑えている炎将の腕が。
「使役神鬼――」
 冬摩はまだ『石化』が伝わっていない右手と、炎将の背中に回した左手で印を組み、怒りをぶつけるように言い放った。
「『鬼蜘蛛』召来!」
 炎将の背後で空気が圧縮されていく。
 冷たい夜気と溢れかえる闘気を呑み込み、土煙を巻き上げて異形の存在が具現化した。
 ソレは長く凶悪な嘴を持った巨大な蜘蛛。幅の広い嘴には無数の牙が突き立てられ、空腹に耐えかねたように唾液をまとわりつかせている。腹からは、黒光りする硬質的な外殻に覆われた八本の脚が突き出ていた。
「ち……」
 自分のすぐ後ろに現れた『鬼蜘蛛』を見て、炎将は冬摩を解放する。そして胸から腕を引き抜き、真横に飛んで距離を取った。
「終わりだな、龍閃の息子。貴様の力の作用点は『右腕』。だが、それではもう使い物になるまい」
 炎将の言うとおり、冬摩の右腕はすでに完全な石となっていた。体にまではその根は伸びていないが、もう思ったように力は出せない。
「だから何だってんだよ!」
 好戦的な笑みを浮かべ、冬摩は地面を蹴る。
 右腕が使えないなら左腕がある。ソレがなくなっても両足が残っている。指一本でも動くうちは絶対に負けなど認めない。
「オラァ!」
 裂帛の気合いと共に、冬摩は左腕を前に突き出した。そして薄ら笑いを浮かべた炎将の――
「詰めが甘いな、冬摩」
 左胸から太い腕が生えた。
「な――」
 あまりに突然の光景に、冬摩が、そして炎将が驚愕に目を見開く。
「魔人を殺すには一撃で核を潰す。コレが鉄則だ」
 緋色の爪を持った大きな手の中で脈打つ臓腑。紫色の燐光を帯びたソレは魔人の心臓部、圧倒的な戦闘能力の源泉、異常なまでの生命力を生み出す無限機関、すなわち――核。
「龍、閃……!」
 炎将は忌々しげな顔付きで、気配すら感じさせずに背後を取った大男――龍閃を睨み付けた。
「久しいな、炎将。まさかこういう形で別れが来ようとはな」
 静かに、そして重みのある声で龍閃は言う。
「どうやって、中、に……」
「ワシと魎が『破結界』を解いた。それだけの事だ」
 口から溢れかえる血と共に言葉を紡ぐ炎将に、いつの間にか隣りに来ていた紫蓬が答える。
「あー、お前の怨行術な。悪くなかったぞ。基礎がしっかりできている。ただ、私に言わせるとちょっと構成が単純すぎたな」
 龍閃の後ろで、どこか眠そうに魎が付け加えた。
「く……クク……」
 口の端をつり上げて、炎将は力無く笑う。
「最強の魔人に……殺されるなら、本望、だ……。薄汚い……人間の手に、掛かるよりは、ずっと……いい」
 そして龍閃の腕に体重を預けて、だらりと首を垂れる。
「さらばだ。炎将」
 龍閃の手の中で、炎将の核が湿った音を立てて握り潰された。
「魔人の……誇り、を……」
 呟くようにして発せられた炎将の声。
 それが、最期の言葉となった。
「あー、やれやれ。後は私達が出るまでもない、かな」
 残った妖魔と戦いを繰り広げている陰陽師達に顔を向けながら、魎がやる気なさそうに言った。『破結界』から解放されたせいか、陰陽師達が圧倒的な力で押し返している。
「それにしても冬摩、ヌシにしてはよくやったではないか。炎将にあそこまで食らいつくとはワシとて思わなかったぞ」
 炎将が死に、『石化』の解けた冬摩の右腕を叩きながら、紫蓬が軽い口調で言った。
「テメェら……」
 その衝撃で我に返り、冬摩は激しく顔を歪ませる。
「何で邪魔しやがった! ブッ殺すぞ!」
 せっかく気分が乗ってきたのに。かつてない昂揚感に包まれていたのに。狂葬曲が鳴り響いていたのに!
「あー、冬摩。強がりは良くないぞ。あのままではお前は確実に負けていた」
「るせぇ! そんなモン分かるわけねーだろ!」
 冬摩の前に歩み出ながら言う魎に、声を荒げて言い返す。
「あー、敵の力を知るのも強さのうちだぞ。冬摩」
「屑が偉そうに言ってんじゃねー!」
 怒声と共に冬摩は右腕を突き出す。
 今、自分は法具から解放されている。だが他の三人は違う。力を封じられたままだ。ならばコチラの方が力は上のはず。
 だが、魎は体を横に流してアッサリと拳撃をかわした。そして勢い余った拳は、龍閃が片手で受け止める。
「あー、炎将はお前に似た性格だからな。真っ正面から受け止めてくれたんだろうが、そんな優しい奴ばかりが相手じゃないぞ?」
 左手で冬摩の頭を撫でながら、魎は諭すように言った。直後、先程までの熱い戦意が、悪い夢のように引いていく。
「後は、どんな時でも冷静に相手の力を見極める事だな。取り合えず力の作用点くらいは覚えような。炎将の時みたいに無様な戦いはもうするなよ」
「テメーは……」
 奥歯をきつく噛み締めるが、戦闘意欲は湧いてこない。完全に気分が落ちてしまっていた。
「だが冬摩。あそこで『鬼蜘蛛』を喚び出したのは正解だったな。随分と力の使い方が分かってきたではないか」
「けっ」
 龍閃からの褒め言葉に、冬摩は仏頂面になってそっぽを向く。その視線の先に、未琴の姿が映った。

◆未琴を縛るモノ ―冬摩―◆
 結局、騒動に決着が付いたのは卯の刻。夜明けを知らせる朝日が顔を出し始めた頃だった。
 炎将の召鬼から解放された妖魔達を全て抹消し、陰陽寮に燃え広がった炎を消し終えた後、帝を交えて人間と魔人との和平についての討議がなされた。
 魔人である炎将が人間を襲い、多大な被害をもたらしたのは事実。本来ならば和平が破棄されるか、責任をとって龍閃が命を絶たなければならない。
 だが、落ち度は魔人側だけにあったわけではない。陰陽師達も束の間の平和に油断し、『破結界』を成す呪針に気付かなかった事。百鬼夜行の夜だというのに、他の妖魔退治に向かわせた何人かの保持者達を呼び戻さなかった事。
 なにより『破結界』を解き、炎将を討ち取ったのが魔人の功績である事が大きかった。魔人が魔人を殺すなど、これまでは考えられなかったからだ。しかも魔人を統べる龍閃がソレを行った事で、人間との共生にかける想いが伝わった。
 おかげで今回の騒動は不問となり、和平はより強く結び直された。
 そして魔人と人間が共に陰陽寮の修復に取り掛かる中、中庭であぐらをかいて渋面を浮かべる冬摩の背中に声が掛かった。
「怪我は大丈夫か、冬摩」
 振り向くと、そこに立っていたのは長い艶やかな黒髪の巫女――未琴だった。着替えてきたのか、袖長白衣には汚れ一つなく、朱袴は折り目が綺麗に立っていた。
「別にこのくらいどーって事ねーよ。人の心配よりテメーの心配しろ」
 首を元に戻し、未琴から視線を外して冬摩は面倒臭そうに言う。
 紫蓬が癒してやると言ってきたが勿論断った。紅月が近づくたびに龍閃によって半死半生の状態にまで追い込まれている冬摩だ。『鬼蜘蛛』の力も手伝って、回復力は普通より高い。腹に開いた傷も、丸一日放っておけば大体治るだろう。
「私は大丈夫だ。元々大した事はなかったからな」
 冬摩の前に回りこみ、未琴は袴が汚れるのも気にせず地面に正座した。
「冬摩」
 そして冬摩の目を真っ正面から見つめ、よく通る澄んだ声で言う。
「何だよ」
「有り難う」
 未琴の口から紡がれる礼の言葉。
 そこには裏の意味など何もない。込められているのは、ただただ純粋な想いだけ。
「お前のおかげで救われた。礼を言う」
「あー……?」
 どこか居心地悪そうに黒い短髪を掻きながら、冬摩は眉間に皺を寄せた。
「何で俺に言うんだよ。アイツを殺ったのは父さんだろ」
「いや、お前があの時叫んでくれなければ、私はこの世に居なかった」
 ――あの時。
 未琴が炎将に紅い霊符を何枚も投げ付けたあの時、冬摩は直感的に何か危ない物を感じた。そして気が付けば叫んでいた。
 しゃがめ、と。
「別にお前を助けたわけじゃねーよ。あのヤローが嬉しそうなツラすんのが気にくわなかっただけだ」
「お前が頑張ってくれなければ、紫蓬様と魎殿は怨行術を解く時間がとれなかっただろうし、龍閃殿も入ってこられなかった。お前が居たからこそ、あの三方は活躍できた。私達が救われたのは全てお前のおかげだ。だから私はお前に礼を言いたい」
 冬摩のはぐらかすような言葉も気にする事なく、未琴は真っ直ぐな想いを乗せて言ってくる。
(ち……)
 その視線に妙な苛立ちを覚え、冬摩は目を逸らした。
「そして謝罪もしたい。本当にすまなかった」
 地面に手を付いて頭を下げる未琴に、冬摩は訳が分からないといった様子で顔をしかめる。
「私は最初、お前を助けるつもりで出ていったのに足手まといにしかならなかった」
「分かってんなら大人しくしとけよ。邪魔クセーからよ」
「本当に……そうだな」
 苦笑して項垂れる未琴に、冬摩はまた苛立ちを覚える。
 決して足手まといなどではなかった。
 未琴が援護してくれたからこそ窮地を脱せた。白みかけた意識を繋ぎ止める事が出来た。そして未琴が居たからこそ、力を――
「私はあの時、お前の力強い戦いに見とれていた。型にとらわれない無茶苦茶な戦いに魅入っていた。やられてもやられても立ち上がるお前の姿に心を打たれていた」
 未琴は顔を上げ、微笑して続ける。
「強くて、奔放で、自由すぎるお前に……私は憧れているのかも知れないな」
 どこか自嘲めいた儚い笑みに、冬摩は不愉快そうに舌打ちした。
「だから何なんだよ。強くなりたきゃ雑魚は雑魚らしくクソ真面目に修行でもすりゃいいだろ。自由になりたきゃこんな辛気くさいトコ出て、どっか行けば良いじゃねーか」 
「どこか、か……」
 少し目を伏せ、未琴は悲しげに呟いた。
「私は、な。ココから出る事は出来ないんだ」
「あぁん?」
 未琴に顔を向け直し、冬摩は低く言って目を細める。
「何でだよ」
 そして面倒臭そうな声で聞いた。
 未琴は周りを見回し、少し躊躇ったような仕草を見せた後、何も言わずに立ち上がる。そして袴に付いた土を払いながら口を開いた。
「場所を変えていいか」
 誰かに聞かれては困る話なのだろうか。それとも単に未琴が気分を変えたいだけなのか。どちらにせよ――
「面倒クセーな」
 溜息をついて言いながらも、冬摩は重そうに腰を上げた。

 未琴が足を止めたのは、陰陽寮から少し離れた場所にある大きなクスノキの下だった。陰陽寮の周りは、一体何があったのかと集まる野次馬で溢れかえっていた。
「お前よく、この木の上で私の方を見ていたな」
「別にお前を見てたわけじゃねーよ」
「そうか。そのわりには何度も目が合ったな」
 微笑して言う未琴に、冬摩はクスノキの太い幹にもたれ掛かりながら三白眼になって陰陽寮の方を睨み付ける。
「で、何だよ。お前があそこを出られない理由ってのは」
「前に話した時、私には『守るべき者』がある、と言ったな」
 背筋を伸ばし、冬摩からは頭一つ分低い位置で目線を上げて未琴は喋り始めた。
「アレはな。私の妹の事だ」
 冬摩は話す未琴の目をじっと見ながら、興味なさそうに鼻を鳴らす。
「私とは二つ離れた妹でな。五年前……あの子が十五の時、帝に見初められて平安宮に嫁いだ。何人もの妾(めかけ)の一人としてな。帝は妹を側室に入れる替わりに、私の家族に金銭的な援助を約束した。その話を持ち掛けられた時、私は有志で妖魔祓い出かけていて居なかった。両親と妹だけで話を進めて、私が帰ってきた時には全てが決まった後だった」
「ソレとお前が出られない事と、どういう関係があるんだよ」
 早くもしびれをきらし始めたのか、冬摩は足で小刻みに地面を叩きながら言った。その反応に未琴は苦笑し、軽く頷く。
「妹が側室に入った次の日、私は陰陽寮の守護巫女としての誘いを受けた。ソレは過去に何度も断ってきた誘いだ。私は出来るだけ家族と一緒に居たかったからな。だが、もう私には断る事が出来なくなっていた。妹の事を考えるとな」
 嫌な過去を気丈に話す未琴に、冬摩は納得のいかない表情を向けた。
「帝には感謝している。正直、私の家は裕福ではなかった。それが今では食べるには全く困らない。側室とはいえ妹も豪勢な暮らしをしているだろう。だから、今の生活を守るためにも私は守護巫女として失態をおかしてはならない。そんな事をすれば妹にまで害が及ぶ」
 未琴はかなりの霊符の使い手だと魎が言っていた。守護巫女としては非常に優秀なのだろう。だから帝は欲しがった。
 五年前と言えば和平が結ばれる直前の年だ。魔人と人間の争いが激化し、一人でも多くの人材が求められた時。
 しかし、未琴は帝の誘いを断った。権力で強引に引き込むという手もあったのだろうが、それでは未琴が守護巫女の業務に全力で当たらないかも知れない。
 そこで帝は未琴が断れない状況を作りだした。
 彼女の妹の人質に取る事で。
 その後も未琴を束縛し続け、思い通りに動かす為に。守護巫女としての責務を果たせなかった場合、妹には可哀想な目にあって貰うと暗に脅して。
「実に緊張した毎日だったよ。常に神経を張り巡らせ、魔人や妖魔が近くに居ないかを探っていた。食事をしている時も、湯浴みをしている時も、眠っている時さえもだ。熟睡などできない。ほんの僅かな物音でも目が覚めてしまう。そんな生活を五年も強いられるとな、さすがに疲れてくる」
 細く息を吐いて、未琴は目を瞑った。そして何かを思い出すかのように顔を上げた後、ゆっくりと目を開く。
「こんな苦しみが続くくらいなら、いっそ死んでしまいたいと弱音を吐く事が多くなった。我ながら情けないと思う。だが、あまりに自分を押し殺した生活に嫌気が差していた。そんな時だよ。お前が私の前に現れたのは」
 冬摩の顔を見つめ少し柔らかい表情になって未琴は続けた。
「疲れていたのと、和平が結ばれて少し気が抜けていたのとの両方だろうな。お前の侵入に全く気付かなかった。そして、私はお前に殺されかけた。その時に思った事は二つだ。一つは絶対にこの失態を外に漏らしたくないと言う事。もう一つは――まだ、死にたくないという事」
 口を緩く笑みの形に曲げ、確認するようにゆっくりと言いながら未琴は長い黒髪を手で梳く。
「お前のおかげで、私は生きたいという強い思いを持ち直す事が出来た。魔人の力を肌で感じる事も、気を引き締め直す事も出来た。お前が本殿ではなく、離殿に来てくれたおかげで私の失態が漏れずにすんだ。結果だけ見れば、私はお前に救われた。色々と学ばせて貰った。だから感謝している」
「けっ……」
 迷いのない口調で讃辞を述べる未琴に、また苛立ちを感じて冬摩は視線を逸らす。
 未琴が感謝している事は、どれもこれも自分が意図してやった事ではない。強引なまでに好意的な解釈をした未琴が、勝手に有り難く思っているだけだ。
 離殿を攻めたのは寝込みを襲うなどと言う姑息な手段をとりたくなかったからだし、未琴を殺さなかったのは紫蓬が邪魔したからだ。
「あの日から気になる事があってな。ずっとお前の事を考えていた」
「どうやったら俺を殺せるか、か?」
 茶化すような口調で言う冬摩に、未琴はまじめな顔で首を横に振る。
「あの時どうして私を殺さなかったのか、だ」
 その言葉に舌打ちし、冬摩は背中のクスノキに右拳を叩き付けた。手首までを易々と幹に埋め込み、冬摩は凄絶な視線で未琴を睨む。
「何回も言わせんなよ! お前が逃げ回ってるうちに紫蓬が来ちまったんだろーが!」
 そして喉の奥から低い怒声を放った。
「私も最初のうちはそうかと思っていた。しかし、やはり納得行かない部分がある。あの時、お前の動きは明らかに鈍かった。だから別の考えが浮かんできた。しばらくして、お前が私と話をしたがっていると聞いてもしやと思った。そして実際に話してみて確信した」
 凄む冬摩に全く気後れする事なく、未琴は柔和に微笑んで続ける。
「お前はなかなか良い奴だ。真っ直ぐで、裏表が全くない。ただ不器用でひねくれていて、自分に素直になれない一面を持っている」
 未琴のその言葉に、冬摩の苛立ちが頂点に達した。
「ふざっけんな! さっきから好き勝手言いやがって! 俺が良い奴!? はっ! なんなら今ココでソレが大間違いだって事教えてやろうか!」
 右手で木の幹の内側を握りつぶしながら、冬摩は威圧的な殺気を撒き散らす。
「そう言えば前にあった時も似たような事を言っていたな。私を喰う、と」
「ああ! あんときゃ魎のクソッタレに邪魔されたけどな! 今は居ねぇ!」
「いや、そうでもないと思うぞ」
「何が――」
 含み笑い浮かべて言う未琴に、冬摩は表情を固まらせた。
「あー、誰にも見えないように気配を絶ったつもりなんだが……。まぁ冬摩には見えなかったみたいだな」
 頭上でした声と同時に、誰かが冬摩の肩を後ろから叩く。
「そういう無駄にあり余った体力は女を口説くのに使えと言っただろう。全く学習せん奴だ」
「テメー……」
 またしても殺気を根こそぎ持って行かれ、冬摩は力の入らなくなった体を後ろに向けて魎を見た。
「いつから居やがった」
「あー、わりと最初からだな。ああ、未琴さん。心配なさらずとも、この事は誰にも言いませんので」
 広い額を撫でながら、魎は気取ったような仕草で胸に手を当てて言う。
「その代わり言っては何ですが、今度一緒に桜でも愛でながら……」
「冬摩、お前に話を聞いて貰って良かった。少し気が晴れたよ。また機会があれば、ゆっくり話そう」
 未琴は魎の言葉を無視して、冬摩に話しかけた。
「けっ……もぅ二度と来ねーよ。もし次会ったら、そん時は速攻でお前を喰うからな」
「分かった」
 冬摩の脅しに、未琴はにこやかに返す。その笑顔がまるで、絶対にそんな事はしないと確信しているようで無性に腹立たしかった。

 冬摩は家の中で寝転がり、何をするでもなく御簾の掛けられた窓の外をじっと見ていた。指先で板張りの床を叩く音が、雨の音に混じって消える。
「どーかしたの? 冬摩。ふてくされちゃって」
 冬摩のほつれた服を縫いながら、隣りに座った紗羅は優しい声で話しかけてきた。
「別に……」
 短く答えて冬摩は目を瞑る。
 暗い視界の中。ソコに未琴の姿が思い浮かんできて、冬摩はすぐに目を開けた。
「べーつにって事ないでしょ。冬摩、アンタ今日もご飯おひつ半分しか食べなかったじゃない。どっか具合でも悪いの?」
「うっせーな。俺だって調子悪い時があんだよ」
 ぶっきらぼうに言って、冬摩は紗羅と反対の方向に頭を向けた。
 ここ十日ほど、未琴とは顔を会わせていない。そうすればすぐに忘れると思っていた。顔を見なければ、あの理解の出来ない発言ばかりする女の事など頭の中から消え去ると思い込んでいた。
 だが、実際には逆だった。
 見なければ見ないほど、やたらと気に掛かる。忘れようとすればするほど、より強く脳裏に刻まれる。まるで冬摩の努力を嘲笑うかのように、心の中は未琴で埋め尽くされていった。
「はっはーん。さては恋、ね」
 冬摩の顔を覗き込むようにして紗羅は自分の顔を近づけ、得意げな表情で言う。
「はぁ? 何だそりゃ」
「まだ二歳なのにもう誰かを好きになっちゃうなんて、いけない子ね。お母さん悲しいわ」
「けっ……馬鹿馬鹿しい。魎と一緒にすんなよ」
「で、陰陽寮に居る巫女の誰を好きになったの? お母さんも知ってる子?」
 陰陽寮、という言葉を出されて、冬摩は思わず目を丸くした。
「なーにびっくりしてんのよ。そりゃ分かるわよ。あんなに熱心に毎日毎日通ってればね。あの事件があってからパッタリ止めちゃったところを見ると、その時に喧嘩でもしたか?」
 腰に手を当てて胸を張り、紗羅は威張りながら言う。
「母さんにはカンケーねーよ……」
「いい、冬摩。女性の心を射止めるのに一番効果的なのは、上手い歌でも豪華な贈り物ではないわ。相手の悩み事を解消してあげる事よ。思い悩んでる時に優しくされると、女はグラッてくるものなの」
 心底嫌そうな顔をする冬摩を無視して、紗羅は一方的に恋愛のいろはを語り始めた。
「それからコッチの弱みもさらけ出す事。特にアンタみたいにいつも無愛想な子が、ちょっと困った顔して見せると、その落差で相手の心を鷲掴みに出来るのよ。あの人も一人で抱えてないで、少しくらいアタシに相談してくれてもなぁ……」
 聞いてもいない事をひたすら喋る紗羅に、冬摩は思わず頭を抱える。外が雨でなければ、今すぐにでも飛び出したい気分だ。いや、このまま話を聞いているよりは、濡れた方がまだましだ。
 そう考えて立ち上がろうとした時、紗羅が最後に言った言葉が引っかかった。
「父さん、何かあったのか?」
 そう言えば今日も朝から姿を見ていない。この雨の中、どこに出かけたのだろうか。
「んー。なんかねー。最近夫婦の会話がめっきりなくなっちゃって。まー、元々おしゃべりな人じゃなかったけど。早くも倦怠期なのかしら……」
 頬に手を沿え、紗羅は溜息混じりに言う。
「ふぅん……」
 冬摩は興味なさそうに気のない声で返した。
 龍閃は基本的に不必要な事を喋ったりはしない。それでも紗羅に会わせてか、色々と他愛のない事で談笑していたが、だんだん疲れてきたのだろう。一人になりたいと思うのは自然な事だ。
 自分の調子を狂わせる者と喋るのは本当に疲れる。それは冬摩も身を持って体験した。
(未琴、か……)

『そんな生活を五年も強いられるとな、さすがに疲れてくる』

 だが、彼女が言っていた疲れとは、今の自分や龍閃の比ではないだろう。
 五年間も決して逃れられない牢獄に入れられ、気を張りつめ続けていたのだ。精神的にも肉体的にも想像を絶する疲労がのし掛かっていたはず。死にたいと思うのも無理はない。
 もし自分が未琴の立場なら、半月と持たずに大暴れしているだろう。
「あー、くそ!」
 いつの間にか未琴の事を考えていた自分に腹が立ち、冬摩は黒い短髪を乱暴に掻きむしった。
「俺も外行ってくる!」
 そして大股で板戸の方へと向かう。
「あ! 冬摩! 濡れて体冷えて病気になってもいいけど、お母さんには絶対うつしちゃ駄目よ!」
 そんな薄情な母親の声を背中で聞き、冬摩は色々とやけになって家を飛び出した。


『私には『守るべき者』がある、と言ったな』

 痛いほどに叩き付ける雨を浴びながら、冬摩は一人都を出て雑木林の中を歩いていた。体も頭も冷やして、いつもの神社で何もせずにじっとしていれば、未琴の事など自然に抜けていくだろう。そんな下らない期待を持っていた。

『アレはな。私の妹の事だ』

 だが、未琴の声はより鮮明に、より大きく耳元で鳴り響く。この十日間、飽きるほどに聞いてきた同じ言葉が、腹立たしいくらいに繰り返される。
「クソッ!」
 苦々しく叫んで、冬摩は右拳を近くにあった木に打ち付けた。右腕にはまた例の力を封じる法具がはめられている。それでも苛立ちを乗せた拳撃は木の幹を易々と貫き、派手な音を周囲に撒き散らした。
(気にいらねぇ……)
 気の弱い者ならば目があっただけで卒倒しそうなほどの鋭い眼光。ようやく見えてきた神社の方にソレを向け、冬摩は胸中で毒づく。

『私は守護巫女として失態をおかしてはならない』

 未琴は強気な表情で言っていたが、相当な無理を強いられている事は伝わってきた。帝に妹を奪われ、家族を奪われ、自由を奪われた。五年間も自分を押し殺して、身を削って守護巫女としての勤めを果たしてきた。
(気にいらねぇ)
 自分の喜びや希望を殴り捨て、ひたすら献身し続けた。

『そんな事をすれば、妹にまで害が及ぶ』

 妹を守るために。家族を守るために。
「気にいらねぇ!」
 叫んで冬摩は、社の真上まで一気に跳躍する。そして以前、魎との絡みで開けた穴の隣りに拳を打ち付け、盛大に屋根を破壊して堂内へと身を滑り込ませた。
 薄暗くかび臭い空間であぐらをかき、あらん限りの声力を振り絞って咆吼を上げる。生じた振動波で社が揺れ、脆くなった壁の一部が剥がれ落ちた。

『強くて、奔放で、自由すぎるお前に……私は憧れているのかも知れないな』

「クソッタレ!」
 そんな良い物ではない。自分はただ自分のやりたいようにやっているだけだ。何も考えずに、周りも見ずに、ただひたすら欲望に忠実なだけだ。
 奔放だとか自由だとか、そんな着飾った言葉を掛けられる事をした覚えなどない。

『結果だけ見れば、私はお前に救われた』

 救った覚えも、

『色々と学ばせて貰った』

 何かを教えた覚えも、

『だから感謝している』

 礼を言われる覚えもない!

『あの時どうして私を殺さなかったのか、だ』

 勘違いだ。とんでもない勘違いだ。
 虫酸が走る。怖気がわく。吐き気がする。
 魔人と人間は生まれた時から敵同士。姑息で小賢しい事を除けば、あの炎将こそが魔人としてのあるべき姿。人間を喰い殺し、血と殺戮を好む破壊の種族。それが魔人だ。
 断じて人間と馴れ合うべきではない。

『お前はなかなか良い奴だ』

 なら思い知らせてやる。それがどれほど的外れな見解かという事を。
 自分はただ、気にいらない物をブッ潰しているだけだという事を。
「帝のクソヤローをブッ殺す!」
 怒声を吐いて冬摩は勢いよく立ち上がった。
 炎将といい帝といい、やる事が回りくどい。気にいらない。とにかく気にいらない。
 だからブッ潰す。そしてまた、魔人と人間の争いが始まる。戦いに身を置いていれば、こんな下らない事を考えずに済む。相手を殺す事だけに専念できる。
 理想的だ。これ以上ない程に。
 もう決めた。今すぐにやる。今から平安宮を攻めて、何もかもを叩き壊してやる!
「あー、相変わらず鼻息が荒いな。冬摩」
 突然背後でした声に、冬摩は反射的にその場を飛び退いた。そして社の出入り口を突き破って外に出る。
「魎……」
 背中まで伸びた黒髪を、全て後ろに回して固めた黒衣の男を睨み付けながら、冬摩は唸るような声を発した。
「それにしても分かり易いな、お前は。残念ながら私が聞いた以上、ソレを許すわけにはいかん」
 軽く肩をすくめながら近づいてくる魎の『左腕』と『右脚』を注意深く見ながら、冬摩は体を低くして構えた。
「ほぅほぅ、熱くなりながらも冷静に相手を観察できるようになったか。少しは成長したな、冬摩」
「ウッセーんだよ! テメーは!」
 自分の右腕を前に突き出し、冬摩は敵愾心を剥き出しにして叫ぶ。
「あー、冬摩。何をそんなに怒っている。そんなに未琴さんの事が気になるのか? まぁ彼女もお前の事を気に掛けてくれているようだから相思相愛というヤツだな。華麗な素無視をきめられた私には羨ましい限りだよ」
「あの女はカンケーねー!」
 目元を抑えて悲しげな素振りを見せる魎に、冬摩はむきになって返した。
「あー、まぁ確かに。帝を殺せば当然、未琴さんの妹さんは解放されるし、未琴さんは晴れて自由の身となるわけだが……ちょっと浅はかじゃないか? お前が未琴さんの事を強く想うのは分かるが」
「だからカンケーねーつってんだろーが!」
「ならどうしてそんなにイライラしてるんだ? この十日間、ずっと未琴さんの事を考えて来たんだろ? 彼女が口にした言葉が頭から離れないんだろ? 初めて自分の本心を言い当てられて戸惑っているんだろう?」
「コ、ノ……!」
 まるで自分の全てを知っているかのように語る魎に、冬摩は怒りと苛立ちと焦燥で頭に血を上らせていく。
「帝のやり方が気に入らない。だから殺す。まぁお前の気持ちは分からんでもない。だがな、それは単なる建前だ。本音は別の所にある。違うか?」
「クソガキがー!」
 精神を焦がす情炎が限界を振り切り、冬摩の理性を丸呑みした。
 ぬかるみ、悪くなった足場を物ともせず、冬摩は残像が出来るほどの勢いで魎に飛びかかる。
「オラァ!」
 そして凄まじい気合いと共に右拳を叩き付けた。
 『無幻』だとか『情動制御』だとか関係ない。そんな小手先の技を使わせる前に全てを終わらせる!
 壮絶な気迫を乗せて叩き付けた拳撃は、魎の“右手”によって受け止められた。
「最初に私の出方を冷静に見た褒美だ。少しお前に戦い方を教えてやろう」
 不敵な笑みを浮かべ、魎は右手を後ろに引く。急に支えを失った冬摩は大きく前につんのめり、態勢を崩した。そしてがら空きになった冬摩の腹に、魎の“左脚”が埋め込まれる。
「お前の攻撃は直線的すぎる。故に至極読みやすい」
 上に浮いた冬摩の背中に魎の“右肘”が打ち込まれた。肺を後ろから圧迫され、血と共に呼気を吐き出しながらも、冬摩は鉤状に曲げた右手を振るう。しかし、手応えはない。『痛み』を乗せた攻撃は虚しく空を切るだけだった。
「いかに力があっても当たらなければ意味がない。大振りの攻撃は無駄なだけではなく、致命的な隙を生み出す」
 右腕に異常な熱が生まれる。二の腕に刺さっている魎の“左踵”を見たと思った時には、もう魎の姿は無くなっていた。直後、後頭部に強い衝撃が走る。続けて、脇腹、太腿、左腕と有り得ない速さで魎の蹴撃が降りかかった。
「周りにある物は何でも利用しろ。上手く使えば自分の力を何倍にも引き上げてくれる」
 体を丸めて防御に徹していた冬摩に、四方八方から魎の声が響く。顔を庇った両腕の隙間から周りを見ると、木から木へと飛び移りながら、そのたびに速さを増していく魎の黒い影があった。
 木の反動を利用していたのかと理解した時、冬摩の視界で魎の体が激的に大きさを増す。
(来る!)
 魎の突進に合わせて右腕を突き出すが、手が掴んだのは黒衣の裾だけだった。
「何でも即攻撃に移ろうとするのはお前の悪い癖だ。相手の攻撃を防げば向こうにも少なからず隙が生まれる。力の作用点だけに頼るな。左腕も上手く使え」
 いつの間にか横に立っていた魎の右手が、冬摩の伸ばした腕を掴んで固定し、逆関節の方向に蹴り上げる。
「力の作用点はここぞという時の切り札だ。無闇に振るうとソコを狙われる。隠す努力をしろ」
 苦悶の表情を浮かべてうずくまる冬摩を悠然と見下ろしながら、魎は冷徹な響きを孕ませて言った。
「さっきのでお前の腕を折る事も出来た。だが、あえて残した。お前はそのままでは私の足元にも及ばない。なら勝つにはどうすればいいか、もう分かっているはずだ」
「コノ……! ガキ……!」
 奥歯をきつく噛み締め、冬摩は右腕にはめられた法具を左手で掴む。
「そうだ。それでいい。ソレを外せば少しはマシになるかもな」
「フザッけんなあぁぁぁぁぁぁ!」
 嘲笑を浮かべる魎に、冬摩は腹の底から声を出して右腕を横に引いた。
 魂を根こそぎ持って行かれそうになる圧倒的な精神苦痛。そして業火に身を投げたかのような灼熱の肉体苦痛。
 だが乗り越えられるはずだ。あの時出来たように。
 未琴がそばに居た、あの時のように―― 
「どうした冬摩。せっかく待ってやってるんだ。ほら、早くその法具を外して見せろ。未琴さんを窮地から救おうとした時には出来たはずだろう?」
「あの女はカンケーねー!」
 魎の言葉を、そして自分の頭に浮かんだ思いを否定し、冬摩は更に力を込める。
 だが、外れない。『痛み』は増しているのに思ったように力が入らない。
 何かか違う。あの時とは何かが決定的に――
(ぐ……)
 苦痛に耐えきれなくなり、冬摩は左手を法具から離した。同時に張りつめていた何かが切れ、冬摩は大地に両膝を突いて荒く呼吸する。体に降りかかる冷たい雨を受けながら、怒りでも焦りでも苛立ちでもないある種の感情に灼かれていた。
「あー、この辺りが限界か。やはり愛の力は偉大だな。限界を限界でなくす。おお、何と素晴らしい。これぞまさしく神が与え賜うた神秘の力。そうだろう? 冬摩」
 いつも通りの惚けた口調に戻り、魎はおどけたように肩をすくめる。
「あー、やれやれ。久しぶりに体を動かしたから眠くてかなわん」
 そして大きく口を開けて欠伸をしながら、広い額を撫で上げた。
「あー、冬摩。未琴さんの事だがな、私に任せてみんか? 妙案があるんだ」
「……勝手にしろ」
 投げやりに言い捨てる冬摩に、魎は溜息をつきながら目を細める。
「冬摩、今はまだ大人しくしてろ。帝を殺さずとも、そのうち嫌でも和平は崩れる」
「あぁん?」
 意味深げな魎の言葉に、冬摩はうねるような声を上げた。
「あー、ま。独り言だ。未琴さんの件に関してはコッチの準備が整ったら声を掛けるから、その時まで龍閃と紗羅さんの言う事をちゃんと聞いて大人しくしてろよ」
 一方的に言い残すと、魎は雑木林の中に躰を溶け込ませる。そして一瞬にして気配も姿も消えてしまった。
「けっ……」
 一人残され、冬摩は右腕にはまったままの法具に目を落とす。
「未琴、か……」
 何気なく呟いたその言葉に、不快な物は感じなくなっていた。

 都が完全な闇に包まれた丑の刻。分厚い雲に覆われて、頼りない月明かりだけが三条大路を照らす。
 そこは平安宮の正面を走る太い通り。朱色の柱で構成された宮殿の正門――朱雀門は、その重々しい門戸を固く閉ざしている。
「……で、俺らはこんなトコでコソコソして、なーにしてんだよ」
 白い漆喰の塗られた土塀の影に身を隠し、冬摩は隣で溢れんばかりの昂奮を何とか押し殺そうとしている魎に声を掛けた。
「んー? まぁ待て待て。すぐに分かる」
 満面の笑みを浮かべ、魎は朱雀門の方をじっと見つめる。
(ったく……何やってんだ、俺は……)
 あれから五日間。魎からは何の連絡もなかった。その間、別に変わった事など何もない。いつも通り食って寝て、熊や猪相手に憂さ晴らしをして、母親の脳天気な会話に付き合い、いつにも増して喋らなくなった龍閃に挑んで負ける。
 ソレの繰り返し。
 ただ、唯一変わった事があるとすれば、またクスノキの上から陰陽寮を見下ろし始めた事くらいだろうか。そこで未琴を見つけては何となく観察し、目が合うとすぐに逸らす。そんな下らない不毛な事を、また繰り返し始めた。
 だが、不思議と以前ほどの違和感はなかった。
 ――別にこうしていても良いのではないか。
 何となく素直にそう思えるようになっていた。
 未琴の事を考えたからといって、誰かに迷惑を掛けているわけではない。自分がそれで納得できるなら、大した問題ではない。
 実に不思議な女性だと思った。一度そうやって割り切ると、見ているだけで妙に和む。魎の『情動制御』ではないが、気持ちを冷まされる。
 なのに、その未琴のおかけで身を灼き尽くす程の力を発揮できた事も事実。魎が相手の時は法具を引きちぎれなかった。

『私には守るべき者がある』

 初めて未琴と会った時、彼女はその守るべき者のためにどこまでも強くなった。どこまでも自分に食い下がってきた。明らかに限界を超えた力を出して……。
(守るべき者、ね……)
 なら自分にとっては……ソレが――
「お、冬摩っ。出てきたぞっ」
 声に喜色を混ぜて、魎は冬摩の頭を低くするように上から押さえつけた。そのせいで思考が中断される。
「何なんだよ!」
「バカっ、声かでかいっ」
 不機嫌そうに声を上げる冬摩を、魎は小声でたしなめた。
「ここで見つかったらせっかくの綿密な計画がご破算だ。慎重に行くぞ」
「だから何なんだよ」
 時間がないからと言って魎からは何も聞かされていない。いったい何を考えているかは知らないが、コレと未琴を帝から解放するのとどう繋がるのだろうか。
「アイツをつけるぞ」
 朱雀門の下にある小さな抜け門から出てきた男を指さし、魎は冬摩と目を合わせた。
 狩衣(かりぎぬ)の垂れた袖と裾を紐で縛り上げ、動きやすい格好をした男は周りを見回して誰も居ない事を確認した後、土塀の影に隠れるようにして移動を始める。
「誰だよ」
「帝」
「はぁ!?」
 冬摩の問い掛けに端的に答えて、魎はいやらしい笑みを浮かべた。
「おま……帝ぉ? アレが? あの貧相な格好の奴が……?」
 帝と言えばこの都の最高権力者だ。それがどうしてあんな下々の服装で。
「女との蜜事に目立つ格好で行く馬鹿がどこに居る」
 事も無げに答えて、魎は足音一つ立てず帝らしい男の後を追った。いまいち納得のいかない表情で、冬摩も魎に続く。
「そんで、つけてどーすんだよっ。バレないように殺るのか?」
 声を押し殺し、冬摩は魎の背中に声を掛けた。
「まさか。私が何のためにこの五日間、東奔西走したと思ってるんだ。全ては今夜の計画の無事完遂するため」
「で、何してたんだよ」
「平安宮の女中、二十人斬りの偉業を達成した」
 冬摩は何も言わずに魎の前に回りこみ、胸ぐらを掴み上げる。
「あ、あー、まー、そー怒るな。別に下心だけで実行したわけではない。裏には壮大な思惑が隠されているのだ」
「下心『だけで』って事は、下心もあるって事だろーがっ」
「何言ってんだ。当たり前だろ」
 お前は呼吸もせずに生きられるのか?
 魎の顔にはそう書いていた。この男にとって女との逢瀬は、生命維持に必要不可欠な物らしい。
「ホレ、見失うぞ」
 言われて振り向くと、帝の背中は大分小さくなってしまっていた。その影と魎の顔に何度か視線を向け、冬摩は舌打ちを一つして黒衣から手を離す。
「で、何なんだよ。その壮大な思惑って」
「うむ。実はな、彼女たちと親しくなって帝の予定を色々と聞き出していたのだよ」
 再び気配と足音を消して帝を追いながら、冬摩は魎に話しかけた。
「ソレによると、だ。帝は定期的に自分の妾を専用の宿舎に呼び出し、そこで濃密な契りを交わしているらしいのだ。正妻に隠れてな。実に不謹慎だとは思わんか?」
「……オメーに言われちゃオシマイだな」
 半眼になり、呆れたような視線を向ける冬摩に、魎はカッ! と大きく開眼して足を止め、冬摩の両肩を強く掴む。
「馬鹿者ぉ! 私が行っているのは女性に幸せを振りまく清い行為だ! 相手の了承も得ずに圧倒的な権力に物を言わせ、自分の欲求だけを満たしているような下劣な輩と一緒にしないで貰おうか!」
「……見失うぜ」
 怠そうに後ろ頭を掻きながら、冬摩は大路の角を曲がろうとしている帝を指さした。
「ち……。いいか冬摩。一夫多妻が認められていたのは平安初期までだ。今の側室はいわば帝の権威を誇示するための道具にすぎん。ソレに手を出せば当然犯罪だ。帝とはいえ法によって裁かれるのが筋。いや、都を代表する帝だからこそ皆の手本となるべく刑に服すべきだ。違うか」
「あー、そーだな……」
 どこまでも熱く語る魎とは裏腹に、冬摩は冷め切った表情で帝との距離を詰める。
「つまり、だ。私達は今、この都の邪悪を滅する正義の使者となっているわけだよ。分かるかね、冬摩君」
 何となく、自分は今どうしようもなく不毛な事に巻き込まれているのではなかという気がしてきた。
「この平安の都に住まう十数万の民達の為にも! 我々はこの重大な任務を絶対的な責任感をもって全うしなければならない! そうだろう! 冬摩君!」
「よーするに、だ。不貞の現場押さえて帝の弱み握ろうって魂胆なんだろ」
「……ソレを言っちゃ身も蓋もないよ、冬摩君」
 体を小さくし、魎は意気消沈といった様子で肩を落とす。
 魎の考えそうな事だ。『無幻』の『情動制御』を使えば何とでもなりそうなものだが、この男は本当に回りくどい事を好む。
「お……」
 冬摩の視界の中で、帝が足を止めた。そして改めて周りを見回し、かやぶき屋根を持った屋敷へと足を踏み入れる。どうやらココが今夜の場所らしい。
 冬摩と魎は一度だけ目を合わせて互いに頷くと、外壁を飛び越えて屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。

 敷地内は白い砂利と数個の岩があるだけの、実に質素な佇まいだった。半分ほど開かれた屋敷の障子からは蝋燭の光が漏れ、板敷きの間に敷かれた三枚ほどの畳を浮かび上がらせている。
 その中で酒を飲み交わしているのは帝と、良く知った背の低い女性。
「……おぃ」
 岩の一つに身を隠し、冬摩は隣で熱心な視線を二人に注いでいる魎に声を掛けた。
「何かね、冬摩君」
「何で紫蓬があそこに居るんだよ」
 帝と一緒に居るのは円筒形をした桃色の髪をもつ幼女、紫蓬だった。あまり乗り気ではなさそうだが、嫌々ながらも大人しく帝の酒の相手をしている。
「何か不満でも?」
「そーじゃねーだろっ。なんで相手の女が紫蓬なんだよっ」 
 思わず大声を上げたくなるのを必死に抑え、冬摩は再び魎の胸ぐらを掴み上げた。
「そんな事決まっているだろう。私が買収したからだ」
 何が決まっているのかよく分からないが、魎は真剣な眼差しで返す。その瞳には何故かうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「米俵十俵、倉一つ分の貝と魚の干物、それに唐菓子を牛車にして五台だ。私の……女性のための軍資金が……紫蓬の食費に……しかもあれだけあってたった三日分だと? くそっ、いったいどんな胃袋してるんだアイツは……」
「泣くくらいなら止めろよ!」
 鼻をすすらせる魎に冬摩は間髪入れずに言い放つ。
 相変わらずこの男の行動原理は理解できない。
「いや、ソレはできん。こう見えて私は完璧主義でね。計画の完遂のためには、惜しみなく身を削るのだよ」
「事なかれ主義じゃなかったのかよ……」
「似たような物だ」
 涙を黒衣の袖で拭って気を取り直し、魎はほろ酔いになり始めた帝に目を向けた。
 二つのどこに類似点があるのか全く分からない。
「女中からの情報によると、帝は幼女嗜好者らしい。まぁ、平たく言えば変態という奴だな」
「お前と似たようなモンだな」
「私のどこが変態なのか聞かせ貰おうか冬摩君!」
 クワッ! と両目を見開いて、魎は冬摩に詰め寄る。
「……ん? 誰か、誰か居るのか……?」
 屋敷の方から帝の声がする。さすがに聞こえたらしい。
 冬摩と魎は慌てて岩影に身を隠す。
「まぁ良いではないか。ワシとの宴は始まったばかりぞ」
「あ、あぁ、そうだったな……」
 紫蓬の誘いの言葉に、帝はだらしない声を出して納得する。どうやら魎の得た情報というのは本物らしい。本来は自分の妾が居るはずの場所に、別の女が居てもアッサリとソレを受け入れるくらいだ。相当な好き者なのだろう。
「……ところでよ。素朴な疑問なんだがな」
 少し顔を覗かせて帝と紫蓬の方を見ながら、冬摩は呟くような小声で言う。
「何かね」
「お前、ココに前もって紫蓬を呼んどいたって事は、帝がこの場所に来る事知ってたって事だよな」
「当然だ。私の情報に隙はない」
「じゃあ……何で朱雀門から付けてきたんだよ。ココで待ってりゃいいじゃねーか……」
 冬摩の疑問に魎は軽く鼻を鳴らしながら広い額を撫で上げ、
「見つかるか見つからないの瀬戸際を行く緊張感。ソレを無事すり抜けた時の達成感。そして自分の仕掛けた罠に相手を陥れた時の爽快感。それら全てが渾然と融和し、一体となった時に初めて、『私って凄いっ』と実感できるのだよ」
 胸の前で拳を固く握りしめながら、悦に浸って曰う魎。
 汚物を見るような視線を魎に向けながら、冬摩は言葉を続けた。
「まぁ帝もお前も相当な変態だって事は分かった。けど何でわざわざ。現場押さえりゃ、別に他の妾でも同じじゃねーか」
「ふ……分かってないな、冬摩。所詮側室とはいえ、されど側室。一応帝の息は掛かっている。決定的な現場を押さえたところで大して面白……大した刑に処されんかもしれん」
 何か妙な本音が聞こえたような気がしたが、あえて無視する。
「しかし、だ。まったく見ず知らずの女となればもう逃れられない。致命的だ。ソレをもって帝を脅せば、私は都の裏の権力……都の救世主。側室達を一気に解放して、未琴さんの妹さんは自由の身。そして未琴さん自身も自由だ」
 また黒い本音が垣間見えたが、先程と同じく無視する。
「俺は未琴の妹さえなんとかできりゃ、他の奴らはどーでも良い。わざわざ大事にすんなよ」
 あまり派手にやって、自分達の仕業だという事が未琴に知られると面倒だ。別にお礼の言葉を聞きたくてやっているわけじゃない。ただ単に帝のやり方が気にいらないだけだ。
 気にいらない物をブッ潰す。それだけ出来れば他には興味がない。
「甘い。甘いよ、冬摩君。もし君の言うとおり未琴さんの妹さんだけを解放してみたまえ。それでは未琴さんを疑ってくださいと周囲に公言しているような物だ。女を隠すなら遊郭の中。沢山の側室を解放すればするほど、未琴さんの妹さんの解放という真の目的は朧になっていくのだよ。理解できたかな、冬摩君」
 人差し指を顔の前で軽くふり、鼻を高くして得意げに語る魎。
 先程から脳味噌が溶け出しているとしか思えない彼の人格崩壊に、冬摩はげんなりとした表情を返した。もうこの男と話をするだけ無駄だ。完全に自分の世界に入りきっている。
 冬摩は気を取り直し、帝と紫蓬の方を見た。
 帝はだんだん本格的に酔いが回ってきたのか、行動が大胆になり始めた。紫蓬の体を求めて、両腕を触手のように蠢かす。
「どーした、シホー。もっと側に寄らんかー」
 帝は呂律の回っていない口調で言いながら、紫蓬の髪に手を伸ばした。しかし軽い身のこなしで、紫蓬は帝の手から身を逃す。
 すでに紫蓬に笑みはない。本当に不愉快そうに顔を歪めている。
「ひょほほほ、いいのぅいいのぅ。魔人とは言え、若い子はいいー。コレからも仲良くしようではないかー」
 都の民が聞けば一発で幻滅しそうな発言を連呼しながら、帝は千鳥足で紫蓬に手を伸ばす。が、当然の事ながら紫蓬は捕まらない。小さな体を最大限に活かして、帝の脇をすり抜けていく。
 そんなやり取りが四半刻ほど続き、
「シホー、戯れがちと長すぎるなぁ……」
 帝も、
「おのれ紫蓬め、ちょろちょろと……」
 魎も苛立ち始めていた。
(何で俺が一番冷静なんだ……)
 そして冬摩は一人頭を抱える。
「シホー、いい加減素直に――」
「――押し倒されてしまえ!」
 いつの間にか帝と魎の精神が一体化していた。
 魎は岩影から左手を伸ばし、帝の方に向ける。直後、帝の体が小さく震えた。
(コイツ……)
 『無幻』の『情動制御』を使い始めた魎に、冬摩は額に手を当てて頭を軽く振る。
「フ……フフフ。素晴らしい! 麻呂は今! 神となった!」
 魎のもたらした精神昂揚のせいか、帝の様子が一変した。だらしなかった顔が引き締まり、濁っていた双眸に危ない輝きが炯々と灯る。
「目の前の女は麻呂の物、否! この世の幼女全ては――」
「――お前の物だぁ! いっけえぇぇぇぇぇ!」
 魎の声に応えて帝が紫蓬に飛びかかった。
「く……」
 今までとは違う鋭い動きに狼狽の色を見せる紫蓬。しかし身を低くし、宙に浮いた帝の下をすり抜ける。
『逃がさん!』
 魎と帝は同時に声を発し、二人とも腕に力を込めた。更に精神昂揚の加速した帝が、腕の筋が伸び切らんばかりに紫蓬に手を伸ばす。そして、指先が紫蓬の柔らかそうな髪に触れた。
『や――』
「貴様らあぁぁぁぁぁぁ!」
 二人分の歓喜の声は、紫蓬の怒声によってかき消される。同時に帝の体が紫蓬の気合いだけで壁に叩き付けられた。
「止めだ! 止めだ止めだ止めだ! 下衆な芝居はもう終わりぞ!」
 両の瞳を朱色に染め上げ、紫蓬は桃色の髪の毛を逆立てて激昂した。そして大きな足音を立てて部屋から廊下に出てくる。
「魎! 冬摩! 出てこい!」
 自分達の隠れている岩に向かって、紫蓬は言い放った。その声に魎は体を震わせ、冬摩は溜息混じりに肩を落として岩影を出る。
「な、な、な、なんじゃ、貴様ら……! じ、自分達が何をしているか分かっているのか!」
 あまりに唐突な事態に、帝は歯の根の噛み合わない口調で気弱に叫んだ。
「ヌシは黙ってろ」
 小さな胸の前で腕を組み、紫蓬はつり上がった目を更につり上げて低く言う。それだけで帝は、大蛇に腹を見せたヒキ蛙のように縮こまってしまった。
「あー、その、な……紫蓬。わ、私は別に間違った事はしていないぞ。元々そういう約束だっただろ。な? や、破るっていうんなら返してくれよ……」
 怯えた視線を紫蓬に向け、体を小さくして言う魎からは、とてもではないが自分は正しいなどという雰囲気は読み取れない。
「ふんっ。分かっておるわ。だがな、ヌシから貰った食い物はあらかた食ってしまった」
「あらか……おま、あれ三日分だって……」
「間食を挟めば一日で無くなる」
 平然と言ってのけた紫蓬に、魎は酸欠の魚の如く口を開閉させて言葉を失った。
「だから今更約束を反故にするなどと言う無粋な真似はせん。要は最終的な目的が果たせればれそれで良いのだろう」
 言いながら紫蓬は、壁際で怯えている帝に歩み寄る。
「ヌシのような汚らわしい輩に噛み付くなど、例えこの身が朽ちてもできぬ。だから悪く思うな」
 静かに言って紫蓬は両手で複雑な印を組み始めた。そして目の前の何もない空間に手をかざし、力ある詞を口にする。
「使役神鬼『月詠』召来」
 それが、長い夜の終幕となった。

 次の日。帝の周りから女性が消えた。
 正妻も側室も女中も、母親も娘も関係なく、平安宮は女人禁制となった。ソレは帝からの勅命。どんな反論をも辞さない揺るぎなき決定事項。
(やっぱ女はつえーよ……)
 今日も今日とてクスノキの上から陰陽寮を見下ろしながら、冬摩は嘆息した。
 昨夜、紫蓬が『月詠』で帝にした事。それは具現体を用いての直接的な『精神干渉』。まとも食らえば、恐らくあの龍閃でさえも抵抗が難しいかも知れない圧倒的な精神支配。
 その力を持って紫蓬は帝に、女性に対する絶対的な恐怖心を植え付けた。
 顔を見るどころか、同じ空間に居ると思っただけで卒倒してしまうような、凶悪なモノを。
 帝には勿論、昨夜の記憶はない。ソレも全て『月詠』で消し去った。残ったのは破滅を導く病んだ心だけ。
「冬摩!」
 眼下で声がした。
 顔を向けると未琴が長い黒髪を揺らし、陰陽寮からコチラに駆けて来ていた。顔には満面の笑み。妹が正式に側室から解放された事を知ったのだろう。
「よー」
 気のない返事をして冬摩は未琴から視線を外す。この後の展開は苦手だ。
 結局、一番派手な終わり方になってしまった。皆、口には出さなくても薄々気付いてはいるだろう。今回の騒動に魔人が絡んでいる事くらいは。
 それでも大騒ぎにならないのは、紫蓬が『月詠』で小細工をしたからか、魎が『無幻』と話術で穏便に収めているからか、それとも女遊びの過ぎた帝には良い薬だと誰もが納得しているからか。
 どれか一つか、はたまた全てか。
 だがそんな事は冬摩が考える事ではない。今すぐに和平が破棄されて乱闘戦になったとしても、別に何の問題もないのだから。
「冬摩! 有り難う!」
 ソレよりも問題なのは、今自分の下で屈託の無い笑顔を浮かべている女だ。
「お前にはどれだけ感謝してもし足りない!」
 未琴の言葉に、背中で虫か何かが蠢いたような感触を覚えた。
「やはりお前は良い奴だ! 私の目に狂いはなかった!」
 全身をかつて無い寒気が襲う。
「冬摩! 有り難う!」
「っだー! うっせー!」
 未琴の留まる事を知らない賛辞に耐えかね、冬摩は木の上から飛び降りた。そして未琴の目の前に着地する。
「いいか! 勘違いすんなよ! 俺は別にお前のためにやったわけじゃねー! 自分が気にいらない事をブッ潰しただけだ! それにな! 俺は見てただけで何もしちゃいねーんだよ! 礼なら紫蓬か魎に言いやがれ! とにかく俺は何もしてねーんだよ!」
 ああクソ。自分でも何を言ってるかよく分からない。ソレもコレも全部この女のせいだ。この女がとんでもない勘違いをするから……。
「それでも、私はお前に礼が言いたい。私はお前のその無鉄砲さと、強さに救われた。お前を見ているだけで元気が出てくるんだ」
 未琴は一層目を輝かせ、冬摩に惜しみない感謝の言葉を贈る。
「だから俺はカンケーねーっつってんだろーが! いい加減にしねーと喰っちまうぞ!」
「分かった」
 歯を剥き、怒声を上げて凄む冬摩に、未琴は迷いのない顔付きで頷いた。
「……は?」
 思わず自分でも情けないほど間抜けな声が出る。
「ソレがお前の望みなら、私は受け入れようと思う。私はお前に礼がしたい」
「バ……!」
 未琴の返答に冬摩は一度言葉を詰まらせ、顔を真っ赤に染めて声を荒げた。
「馬鹿な事言ってんじゃねー! お前が死んだら妹はどうすんだよ! 親は! 家族は! お前の守りたい者ってのはどーなんだよ! せっかくあの辛気くさいトコ出してやったのに意味ねーだろ!」
 一気にまくし立て、肩で呼吸しする冬摩に、未琴は優しく微笑みかける。
「お前は、優しいな。やはり、私の事を気に掛けてくれていたんだな」
 未琴の言葉を聞いて、冬摩は自分でも信じられない事を口走ってしまった事に気付いた。
「あー! 今のは無し! 無しだ! 取り消し! 聞かなかった事にしろ!」
「冬摩……」
 手を振り回して全身で否定する冬摩に、未琴は一歩近づく。もう息が掛かりそうなくらいの距離だ。
「な、何だよ……」
 思わず動きを止め、冬摩は未琴の一挙一動に魅入ってしまう。
 相変わらず何をするのか全く読めない。次は何を言うつもりだ。
「冬摩、私がこんな気持ちになるのは初めてだ」
 熱っぽく言いながら、未琴は冬摩の手を取った。そして自分の胸に押し当てる。
「な、な、なぁ……!?」
 巫女装束を介して手の平に伝わる、未琴の温もりと柔らかさ。
 予想を遙かに上回る行動に、冬摩は局地的な地震に見舞われたかのような錯覚を覚える。
「どうだ。はっきりと感じるだろう。私の鼓動を。お前を見るとな、こうして胸が高鳴る。切ない気持ちになるんだ」
 瞳を潤ませ、未琴は更に冬摩に近寄った。もう肌と肌が触れ合うくらいにまで密着している。未琴の艶やかな黒髪から、芳しい香の匂いが立ち上った。
「冬摩……私は、お前のそばに居たい。お前のそばに居ると安らぐ。それになんだか、強くなった気がするんだ」
「ぇあ、な、ちょ……」
 頭の中がグラグラして考えが纏まらない。自分が何をしているのか、どこに居るのかさえもあやふやになっていく。
「冬摩。私はお前の事が――」
「うわああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 それ以上は聞く事が出来ずに、冬摩は半狂乱になって明後日の方向へと疾走した。

 ◆◇◆◇◆
 欲しい。欲しい。

 もっと欲しい。もっと喰いたい。

 あの肉を喰いタイ。あの美味イ肉を。

 我慢できナイ。もウ限界だ。

 我にヨコセ、『死神』デ熟しタ肉を……。




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