貴方に捧げる死神の謳声 第零部 ―復讐の業怨―

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参『始まりの終わり』


◆守るべき者 ―冬摩―◆
 男と女が仲睦まじい関係になるには、男の方が女の所に通い詰めるのが普通だ。
 歌を詠み、貢ぎ物をし、男は何とかして女と一夜を共に過ごす機会を得ようとする。それが世間一般での常識であり、しきたりであり、慣習である。
 しかし、世の中にはやはり例外というモノが常に存在し――
「なぁ……未琴。お前、こんな事してて楽しいか?」
 雲一つない見事な蒼穹。人気のない雑木林。いつもの寂れた神社の境内。 
 冬摩は板張りの廊下の上に、あぐらをかいて呟いた。
「楽しいぞ」
 その隣りで背筋を伸ばして正座し、未琴は微笑を浮かべながら即答する。
 遠くの山から聞こえる鳥の声。谷から響く川のせせらぎ。風に揺れて擦れ合う枝葉の音。
 そこは自然溢れる静かな空間。いや、自然以外何もないと言った方が良い。
 目を楽しませる娯楽も、耳を癒す琵琶の音も、舌を喜ばせる料理も何もない。緑溢れる光景が、ただただ広がっているだけだ。
「……家族と一緒に居たいんじゃなかったのかよ」
「勿論だ。お前のおかげでその時間は格段に増えた。私は今、おおいに幸せだ」
「ならとっとと帰ってソイツらと居りゃいいじゃねーか」
「今はお前と居たい。お前のそばに居たい」
 何も包み隠す事のない真っ直ぐな言葉に、冬摩は口を尖らせて顔をしかめた。
 帝から未琴の妹を解放してからというもの、彼女はずっとこの調子だ。
 すぐに守護巫女を辞めて陰陽寮を出、未琴は妹と共に都の南東の端にある自分の家へと戻った。
 これで全てが終わった。気に入らない事は全部ブッ潰した。そう思っていた。
 だが、ソレは大きな間違いだった。
 終わりどころか、始まりの合図に過ぎなかったのだ。
 ――未琴からの求愛の。

『冬摩。私はお前の事が――』

 色恋沙汰になど全く縁のない生活を送ってきた冬摩にとって、未琴の積極的過ぎる行動の数々はまさに戸惑いと混乱の連続だった。
 未琴を解放した次の日、彼女は冬摩の家を訪れて前日の言葉の続きを言った。
 母親の目の前で。
 突然の告白を聞いた紗羅は言葉を失っていたが、しばらくして我に返った後、未琴の容姿を爪先から頭のてっぺんまでじっくり観察し終えて一言、『合格!』。そう叫んで冬摩の背中を強く叩いた。
 状況の全く呑み込めない冬摩は、やはりその場から逃げ出す事しかできなかった。
 龍閃はその時、また朝からどこかに出かけていたため居合わせなかったが、夜に紗羅から未琴の話を聞かされても曖昧な返事をするだけだった。
 父親にまで変な事を言われずに済んだのは唯一の救いだ。
 その日以来、未琴は常に冬摩に付きまとうようになった。
 都のどの場所に居ても、山に身を隠していても、陰陽寮にかくまって貰っていても、未琴はどこからか現れて声を掛けてくる。魎からの嫉視を痛いほどに浴びながら、冬摩と未琴の追い掛けごっこは続いた。
 そんな事を一月も繰り返してると、だんだん疲れてくる。そして逃げる事に飽きて、面倒臭くなってくる。しかし不思議と苛立ちや怒りは湧いてこなかった。
 何故だかは分からないが、いつものように力ずくで止めさせようという気分にならない。未琴に罵声を浴びせて暴力を振るう気が全く起きない。
 だから冬摩は仕方なく未琴に聞いてみた。
 こんな事をしていて楽しいのかと。時間の無駄ではないのかと。家族と居た方が有意義ではないのかと。
 だか、未琴はすぐに『楽しい』と答えた。
 理解できない。納得できない。許容できない。
 未琴がそばに来るたびに同じ質問をした。そして同じ答えが返ってきた。何度も、何度も。
 今日もまた同じ事を聞いた。結果は変わらなかった。
 もう、ソレがなぜかという事は考えなくなっていた。自分の周りには未琴以外にも変な奴等が沢山居る。しかし彼らの事を何とかして理解しようとも思わないし、向こうも理解して欲しいなどとは思っていないだろう。
 いつの間にか冬摩は、未琴とはそういう人間なんだという事で受け入れていた。
 唐突で、強引で、あけすけで。素直で、実直で、真っ直ぐで。
 そして強く、揺れない心を持った存在。ソレが未琴だ。
「冬摩、迷惑か?」
「……別に」
 未琴の問いに、冬摩はそっけなく返した。
 本当に変な奴ばかりだ。
 ――自分も含めて。
 はっきり迷惑だと言ってしまえば、未琴は自分を追いかけ回すのを止めてくれるかも知れない。もう二度と顔も見たくないと辛辣な言葉をぶつければ、本当に未琴とは会わなくなるかも知れない。
 だが、どこかでソレを躊躇っている自分が居る。本当にソレで良いのかと確認する自分が居る。
 勿論、答えなど出ない。今はただ保留し続けるだけだ。
「冬摩。私はな……」
 言葉に嬉しそうな響きを混ぜながら、未琴は冬摩の方に顔を向けた。
 ある程度の沈黙が続くと未琴は必ずこの言葉を口にする。クスノキの下で言いそびれた言葉を。
「お前の事が気になってしょうがない。もし出来るなら、男女の契りを交わして欲しい」
 何の臆面もなく発せられた大胆な台詞。
 最初に聞いた時には、どこの異国の言葉かと思ってしまった。いったい誰に向けられた物なのか理解できなかった。そして気が付けば逃げ出していた。
 今でこそ、こうして座っていられるが、それでも気を抜けば頭が真っ白になりそうになる。
「あのよー……。お前そういうのは、もうちょっと考えて言った方が良いんじゃねーのか?」
 そして今日初めて、言葉を返すところまで行けるようになった。
「考えたさ。お前に救って貰った日の夜。殆ど寝ずに考えた。そして考え抜いて、私はお前と夫婦になりたいと思った」
 思わず廊下から転げ落ちそうになった。
「め、メオトぉ!?」
 声を裏返らせて冬摩は叫ぶ。
 何だ。今コイツは何と言った。
 メオト? いや、オトメ……乙女か? 『私はお前と乙女になりたい』? じゃあ何か? 自分に十二単衣(じゅうにひとえ)でも着ろというのか?
「そうだ。冬摩、私と祝言を上げる気はないか」
「しゅ……」
 聞き間違いなどではなかった。未琴は本当に自分と夫婦になりたいと言った。
 顔が火照ってくるのが分かる。何だコレは。戦いの時とは全く違う昂揚感。不愉快ではないが、あまり長く感じていたくはない。自分が自分でなくなっていくような不安に駆られる。
「私にはもうお前しか見えない。私の身を一生捧げる男は、お前以外に考えられない」
 分からない。分からない分からない分からない。
 どうしてコイツは自分などにこんなにも好意を寄せてくれる? 粗雑だ、乱暴だ、何も考えていないだと散々言われてきた自分をどうして……。
 声が出ない。返す言葉が見つからない。逃げ出す手段も思い浮かばない。体が動かない。頭が働かない。
 何か出てこい。この際、魎でも紗羅でも龍閃でも誰でもいい。今のこの浮ついた雰囲気を壊してくれるならば。
「む……」
 そんな冬摩の願いが通じたのか、雑木林の影から物音がした。すぐに未琴が反応して、音のした方に鋭い視線を向ける。
 直後、背の低い木々の間から猛獣が低く唸るような声が聞こえてきた。未琴が油断無く視線を注ぐ中、声の主が姿を現す。
 黒い体毛。鍛え上げられた四肢。前に突き出た口から牙を覗かせ、指の間から見える爪で地面を抉るようにしてソレは近づいてくる。
「熊……の子供、か」
 緊張を解き、未琴は息を吐きながら呟いた。
 茂みから出てきたのは一匹の小熊だった。首の下の体毛は白く、三日月を描いている。
「おーし! 今日の晩飯はコイツで決まりだな!」
 舞い降りた絶好の機会に、冬摩は不必要に声を張り上げた。社の廊下から飛び降り、コチラに敵意を向けてくる小熊へと無遠慮に近づく。
「なーに生意気なツラ向けてんだコラ。今ブッ殺してやるから動くなよ」
 不可視の束縛からの解放と、血肉への欲望に声を弾ませ、冬摩は好戦的な笑みを浮かべながら右手に力を込めた。
「待て、冬摩」
 あと一歩で右腕が届くという距離まで近づいた時、後ろから未琴の声が掛かる。そして足音も立てずに冬摩の横へと並んだ。
「ンだよ」
「お前、コイツに何かしたか?」
「ぁん?」
 片膝をついてしゃがみ、小熊と目線の高さを合わせて未琴は聞いてくる。
「知らねーよ。大体、獣共の顔なんざ見分けつくわけねーだろ」
「だがコイツはお前の事を知っている。相当な恨みを買っているようだな」
 不機嫌そうに返す冬摩に、全身を緊張させてコチラを睨む小熊の目をじっと見つめながら未琴は言う。
「なーんでンな事分かんだよ」
「体中でそう言ってるじゃないか」
「単に俺らを警戒してるだけだろ」
「それならわざわざ出てこないだろう。コイツはお前に会いに来たんだ。恨みか何かを晴らすためにな」
 まるで小熊の心を見透かしているかのように、未琴は淀みなく喋った。巫女とはそんな力も持っているのだろうか。
「冬摩。何かを感じるのに頼りになるのは気配だけではない。その者から流れ出る思考の波のようなモノ。ソレを全身で感じるんだ。神経を研ぎ澄まし、集中力を上げれば自然と知覚できようになる。何を考えているのかも大体分かるようになる」
 相手の心を読む? そんな事『月詠』でも持っていない限り出来るわけがない。だが、現に未琴は自分が心で思った疑問に答えた。そう言えば以前、姿すら完全に見えなくする魎の気配絶ちも見破って見せた。
「例えば、私にはお前が何を考えているか手に取るように分かる。私はお前の事になると集中力が段違いだからな」
 コチラを向いて柔和な笑みを浮かべる未琴に、冬摩はまた頭に血が上っていくのを感じる。どうしてコイツは何の躊躇いもなくそう言う事を。出来る事なら今すぐにでも逃げ帰りたい。
「出来る事なら今すぐにでも逃げ帰りたい。そう考えているな」
「な――」
「顔にそう書いてあるじゃないか。本当に分かり易い奴だな、お前は」
 すぐさま付け加えた未琴に、冬摩は顔を紅くしたまま舌打ちして、そっぽを向いた。次の瞬間、左手に鋭痛が走る。
「ってぇー!」
 見ると先程の小熊が自分の手に、まだ未熟な牙を立てていた。
「っのガキ!」
 左手を振り払い、地面に叩き付けた小熊を踏みつけようと冬摩は足を持ち上げる。
「冬摩!」
 しかし、未琴の叫び声によって関節に鉄芯でも通されたかのように足は動かなくなった。その隙に小熊は立ち上がり、再び茂みの奥へと姿を消す。
「何で邪魔する!」
「追うぞ」
 冬摩の荒い声には答えず、未琴は小熊の走って行った方向を見つめながら短く言った。
「勝手にしろよ」
 少し長く伸びた黒髪を乱暴に掻きむしりながら、冬摩は舌打ちして返す。
「冬摩、お前も一緒に来るんだ」
「はっ……」
 どうして自分がそんな面倒臭い事を。冗談ではない。
「冬摩」
 ふてくされたような顔になった冬摩に、未琴はもう一度声を掛ける。
「先に行っている」
 そしてそれだけ言い残し、未琴は小熊の後を追うべく雑木林の中に身を投げ出した。
「けっ……」
 一人残された冬摩は地面にあぐらをかき、落ち付きなく脚を揺する。視線を四方八方に飛ばし、奥歯を擦り合わせて何かに耐えるように顔を強ばらせた。
 土の匂い、風の音、光の声。ありとあらゆる自然の産物が、未琴が居なくなると同時に不自然さを増し、奇妙な白々しさを発し始める。そしてすぐに異物感さえもたらした。
「あー! クソ!」
 納得の行かない表情で、冬摩は真上を向いて咆吼する。
「最後だからな! こんなモン絶対に最初で最後だ! 俺がお前を追い掛ける何ざ二度としねーからな!」
 誰に言うでもなく、言い訳めいた台詞を吐き捨てて冬摩は未琴を追った。

 未琴の姿を見つけたのは天然洞の前だった。大分山奥に入って来たせいか、頭上を分厚く覆う枝葉の天蓋からは、僅かな光しか射し込んでこない。苔のむした岩肌に手を付いて、未琴は暗い洞窟の中を覗き込んでいた。
「冬摩、小熊はココに入って行った」
 まるで冬摩が来る事を確信していたかのように、未琴は話し掛けてきた。
「ならとっとと行くぞ。晩飯確保のためによ」
 投げやりに言って冬摩は大股で洞窟内へと歩を進める。その後ろに続いて、未琴も暗い空間に足を踏み入れた。
 湿気を多く含んだ空気が体中にまとわりつく。それが自分の解せない行動と相まって、かつて無い不快感を催した。足下で跳ねる水の音に混じって、獣の呻り声が聞こえる。
 冬摩と未琴は足を止め、奥の方を見つめた。
 洞窟はそれ程深くはなかったが、闇に目が慣れる位には潜っていたらしい。
 小熊らしき影の隣りに、その二周り以上大きな巨躯を誇る何かが視界に映った。
「親だ。親熊だ」
 後ろでしたかと思った未琴の声が一瞬で横手に回る。
「おぃ……!」
 呼び止めた冬摩の声を無視して、未琴は小熊の横に居る親熊のもとへと近寄った。
「喰われるぞ!」
「大丈夫だ」
 声に強い意志と底知れない自信を乗せて、未琴は親熊の体に手を当てる。そのまま獣毛を撫でるように、体に沿ってゆっくりと移動していった。
 親熊は微動だにしない。威嚇の低い呻り声を上げながらも未琴にされるがまま、身を預けている。
「分かった」
 親熊の体を一周し終え、無事戻って来た未琴に冬摩は息を吐いて額を拭った。そして手にべっとりと付いた冷たい汗を見て顔をしかめる。
「冬摩。お前、少し前にこの親熊と喧嘩しただろ」
「は?」
 何の脈略もない未琴の言葉に、冬摩は素っ頓狂な声を上げた。
「親熊は怪我をしている。それもかなり深い傷だ。肉の裂け具合からして刃物ではない。すこぶる頑丈さを誇るが全く斬れない何かで、強引に引きちぎられている」
 ソコでいったん言葉を句切り、未琴は冬摩の右腕に手を伸ばす。
「例えば、お前の右手だ」
 そして冬摩の手を軽く持ち上げながら言った。
「熊の分厚い皮膚を裂くなどという非常識な芸当、魔人でなければできん」
「人間の保持者だってそのくらい出来んだろ」
「人間は素手で熊と戦おうなどとは思わない」
「じゃあ、他の奴等が……」
「魎殿や紫蓬様はそんな事はしない。龍閃殿は都を出られた事はない」
 間髪入れない未琴の追及に、冬摩は言葉を詰まらせる。
「し、知らねーよ。熊なんざ腐るほどブッ殺してきたからな。いちいち覚えてるわけねーだろ」
「冬摩。いつまでもそのままで良いと思っているのか?」
 凍えるように張りつめた口調で未琴は言葉を紡いだ。その声に体が反応し、無意識に身構えしてしまう。
 龍閃のように皮膚にまではっきりと伝わる圧倒的な威圧感とも、魎のように漠然としてとらえどころのない雰囲気とも違う。それらとは全く異なる新しい何か。これまで感じたの事のない。
「冬摩。命とはそんなに軽い物ではないぞ。それは人間も動物も同じだ」
 コレが未琴の強さ? 『守るべき者』を持った者の強さなのか?
「けっ……弱い奴が悪いんだよ」
 小さな声で言って、冬摩は未琴から視線を逸らす。どうしても強く言い返せない自分が腹立たしい。
「冬摩。お前は魔人の血を濃く受け継いでいる。だからそういう粗野な性格なのは分かる。だが、お前は人間の血も受け継いでいる。完全な魔人ではない。優しい心も持っている。お前はソレを認めたがらないがな」
 だから動物相手でも情けを掛けろと? 無闇やたらと殺すなと? 冗談じゃない。人間相手に殺意を押し殺す事さえ難しいのに、動物にも同じように気を払えだと? 馬鹿馬鹿しい。そんな事出来るはずがない。
「そしてその優しい心は少しずつ大きくなっている。よく、この親熊を殺さなかったな」
 冷たい喋りから一転し、全てを包み込むような優しい口調で言って未琴は微笑んだ。
「バ……! 勘違いすんなよ! 絶対にその熊がちょろちょろ逃げ回ったからに決まって……!」
「私の時も同じような事を言ったな」
 笑顔のまま返してくる未琴に、冬摩は鼻に皺を寄せて舌打ちする。
「で……どうすんだよ。ソイツ。なんなら止め差して楽にしてやろうか?」
「傷は深いが致命傷ではない。これならまだ癒せる」
 熊の方に顔を向け直し、未琴は顔を引き締めて言った。
「お前が? そんな術も使えんのか」
「いや、残念ながら私は治癒術の類は使えん。陰陽寮も出てしまったから彼らに頼むのも気が引ける。だから紫蓬様を頼ろうと思う」
 紫蓬の持つ『六合』の『治癒』か『再生』なら、このくらいの傷すぐに治せるだろう。しかしそのためには一度都に戻り、彼女を呼んで連れてこなければならない。
「よくそんな面倒クセー事すんな」
「いや、この熊を都に連れて行こうと思う」
「はぁ?」
 また訳の分からない言葉が未琴の口から飛び出した。
「紫蓬様は今あまり体を動かさない方が良い。こんな山奥にまで遠出させるわけにはいかない。だから私の方から出向く」
 紫蓬が動けない? どういう事だ?
 いや、そんな事よりも。
「連れてくって……どうするつもりだよ。こんなデカイ奴どうやって運……」
 そこまで言って冬摩は、真っ先に思い浮かんだ事を頭から振り払った。
「い、言っとくけどな! 俺は嫌だぞ! 絶対に嫌だからな! 死んでもやんねー!」
「分かっている。ココまで来てくれただけでも、お前には感謝している。これ以上手間を掛けさせるつもりはない」
 言いながら未琴は巫女服の胸元から霊符を何枚か取り出し、自分の両腕に貼り付けていく。続けて複雑な印を組んで詞を紡ぐと、霊符は淡い燐光を放ち始めた。
「何やってんだよ」
「人というのは本来出せる力の半分も使っていないらしい。この術はソレを強引に引き出すための物だ。分かり易く言えば、火事場の馬鹿力をいつでも発揮できる技だと思ってくれればいい」
 含み笑いを浮かべながら未琴は霊符を全身に貼り付け、同じように印と詞をそえる。
「実際に使うのは初めてだが多分何とかなるだろう」
 全ての作業を終えたのか未琴は親熊に近寄り、自分の体を下へと潜り込ませた。そして背中を親熊の腹に当て、両腕で後ろ足を抱きかかえる。親熊を背負った体勢になると、未琴は両足に力を込めた。
「く……」
 短く息を吐き、体を震わせながら未琴は立ち上がる。米俵三俵分はあろうかと思われる親熊の巨躯は、未琴の動きに合わせてゆっくりと持ち上がった。
「さ、さぁ、行こう。冬摩」
 苦しそうに言いながらも、未琴は牛歩の如き緩慢な動きで前へと進んでいく。
 未琴のさっきの説明だと、この術は筋力を増強するわけではない。体に過剰な負担が掛からないよう、無意識下で押さえ込んでいる力を無理矢理解放する術だ。もしこのまま続ければ、肉の筋が伸びきり、骨が折れる危険性も孕んでいる。
「何で……」
 ――どうしてここまで出来る? 
 別に自分が可愛がっていた訳でもない、今日初めて会ったばかりの奴に。人間ですらない、言葉さえ通わせられない動物相手に。
 親熊を背負い、洞窟の出口へと向かう未琴の後ろ姿を見ながら冬摩はただ呆然としていた。
 ――守るべき者。
 その者のためなら、未琴はどこまでも強くなった。
 未琴と初めて出会った時。妹のため、家族のために身を削り、どこまでも自分に食い下がってきた。限界を超えて。
 同じだというのか。この熊も自分の大切な存在も。どちらも等しく守るべき者だと言うのか。
「くそっ……」
 熱い。体の奥が熱い。未琴の行動を見ていると湧き上がる、戦闘昂揚とはまた別の気持ちの昂ぶり。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも強く、そしてどこまでも純粋。
 それが未琴という女。
 自分をこれまで感じた事のない気分にさせてくれる不思議な女性。
 自分がこれまで見た事のないようなモノを見せてくれる希少な存在。
 そして、自分がこれまで取った事のないような行動を取らせてしまう大切な――
「未琴」
 冬摩は後ろから声を掛け、未琴の隣りに駆け寄った。
「な、何だ?」
 未琴は前を向いたまま返した。もうコチラを見る余裕などないのだろう。
 まだ洞窟も出ていないというのに声には疲労が色濃く混じっていた。

『熱く滾る情熱は女性のためにある』

 いつか魎が言っていた言葉。
 あの時は頭のおかしい色情狂の戯言だと思っていたが、今は何となく分かる。
「代わってやるよ」
 言いながら冬摩は親熊の両脇に手を入れ、軽々と持ち上げた。『痛み』があるわけでもないのに力が漲ってくる。
 あの時と同じだ。炎将の前で力を封じる法具を壊した時と。未琴を守りたいと思ったあの時と――。

『お前も誰かを好きになれば分かるさ』

 分かった。今分かった。頭ではなく、心が理解した。
「冬摩……?」
「お前はコイツでも持ってな」
 未琴の隣を歩いていた小熊を片足で器用に持ち上げると、冬摩はソレを未琴の腕の中に放り投げた。
「あのよ、お前との追い掛けごっこ。別に嫌じゃなかったぜ」
 熊を自分の背中に背負い直し、冬摩は未琴の目を真っ正面から見つめて言う。もう戸惑いも照れもない。はっきりと理解してしまったから。自分の中で納得してしまったから。
「未琴。お前は俺のそばに居ろ。そっちの方がお前も、俺も強くなれる」
 未琴が自分の大切な想い人だという事を。
 自分の『守るべき者』だという事を。
「冬摩……」
 言葉の中に驚嘆と歓喜の色を混ぜ、未琴は安心したように息を吐きながら言う。
「ああ、勿論。最初からそのつもりだ」
 小熊を大事そうに抱きかかえ、未琴は微笑んだ。洞窟の出入り口から差し込んで来た光が未琴の顔を照らし、神々しささえ感じさせる容貌を浮かび上がらせる。
「あのよ。お前の言う通り、俺はがさつで乱暴な性格だからよ、すぐに手が出る。けど俺ん中じゃソイツが当たり前になってる。よく分かんねーんだよ、他にどうすりゃいいか。だからお前がそばに居て教えてくれ。俺の足りてないトコをよ」
 冬摩の言葉に未琴は力強く頷いた。
 もう隠す必要もない。躊躇ったり、誤魔化したりする事もない。
 全てさらけ出してしまえばいい。未琴にならソレが出来る。未琴になら心を許せる。
「冬摩。私はこの先一生、お前に尽くそう」
「俺も、何があってもお前を守る」
 互いに自分の気持ちを確かめ合い、二人は洞窟を出る。
 枝葉の隙間から舞い降りる光が、まるで自分達を祝福してくれているようだった。

 それからの生活は今までとは比べ物にならないくらい充実した物だった。
 未琴がそばに居る。それだけで良かった。たったそれだけで心が安らぎ、気持ちが満たされた。今までは暴力を振るう事でしか解消されなかった苛立ちが嘘のように消え去り、未琴の笑顔を見るために彼女の喜びそうな事は何でもやった。
 食べられそうな山菜や新鮮な川魚をとって来た時、未琴は母親と一緒に料理の腕を奮ってくれた。あまりに美味すぎて夢中になって食べている間中、未琴はずっと笑いかけてくれた。次の日、猛烈な腹痛に襲われたが、未琴が付きっきりで看病してくれた事もあり、決して悪い気分ではなかった。
 山で木材を集め、未琴だけの湯浴み場を作ったりもした。未琴が一緒に入ろうと言ってきたので二人で湯船に入ると、風呂桶はあっさりと壊れてしまった。未琴だけが入る大きさでしか考えていなかったというのもあるが、木と木を米粒でくっつけたのは大きな失敗だった。
 かなり伸びてきた髪を切ろうとして未琴に止められた。後ろ髪を首筋の辺りでくくられ、未琴によく似合っていると言われて絶対に髪は切らないと勝手に決めた。おかげで近所の子供に引っ張られるようになった。未琴がそばに居なければ、確実に足腰を立たなくしているところだった。
 未琴を背中に乗せて山をいくつも越えたりもした。その時の彼女の楽しそうな笑い声は最高だった。調子に乗ってあまりに都から離れすぎ、道が分からなくなってしまって何日か野宿を強いられたが、未琴と二人きりの静かな時間を過ごせたのは大きな収穫だった。
 魎の入れ知恵で高そうな髪飾りを贈った事もあった。どうやって金策をしたのか聞かれ、正直に盗みをはたらいたと答えた時にはさすがに怒られたが、その時の未琴の顔はいつもとは別の美しさを持っていた。
 毎日、何も考えずにただただ未琴を欲した。彼女の笑顔を、優しい心遣いを、毅然とした強さを、柔らかく温かい肢体を。
 ただ、紅月の日だけは別だった。その日は自制が利かないくらいに凶暴になるため、熊を助けた洞窟に籠もって自分と戦っていた。そして次の日からはまた未琴を求めた。
 同じ事の繰り返し。だがそれで良かった。飽きるなどという事は全くなかった。
 この先何十年もずっとこのままで良いと思った。そして未琴との間に子供を作り、その子供が生み出していく家族をずっと見守っていようと心に決めていた。
 そう、ずっとここのままで良かった。
 ずっと、このままで――

◆狂気への傾斜 ―龍閃―◆
 闇夜に立ちこめる暗雲。風の吹きすさぶ音が、獣の不気味な慟哭にすら聞こえる。
 家の板間にあぐらをかき、太い腕を胸の前で組んで龍閃は瞑目していた。
 体の最深で雄叫びを上げるもう一人の自分を抑え込むために。少しでも気を抜けば暴れ出してしまいそうな獣欲を押し殺すために。脆い足場の上に立たされている自我を保つために。
 ――今夜は紅月。
 魔人に甚大な力と殺戮衝動を与える真紅に染まった満月の日。
(限界やも知れぬ……)
 細く息を吐きながら、龍閃は薄く目を開けた。
 和平を結んでからまだ八年。まさかこんなにも早く限界が来るとは思わなかった。
 こうなってしまった理由は分かっている。
 炎将だ。
 奴をこの手で殺して以来、血の肉と悲鳴への渇望が異常に増した。理性の檻に閉じ込めていた魔人の血が叫声を上げ始めた。
 炎将の核を握りつぶした時の多幸感。乾ききった喉が潤ったかのような悦楽感。万年追い求めていた物が手に入ったかのような充実感。まさに至福の一時。
 だが――
(裏目、か……)
 炎将は最初から実に予想通りの行動をしてくれた。和平を結ぶ事に強く反発し、一人で人間を喰い殺しに掛かった。そして予定通り、この手で殺した。
 人間からの信頼を得るために。和平をより強固な物に仕上げるために。
 そうやって人間を油断させ、その間に仲間を増やすつもりだった。冬摩のように魔人の血を濃く引いた強い者を。
 魎と紫蓬は何も言わなくても、その事を良く理解している。だから人間との間に子供を作ろうとしている。
 いずれ和平を破棄し、再び人間との争いが再開される時に備えて。
 今はまだ待つ時。まだ足りない。まだ同族が足りない。
 しかし――限界だ。
 血をすすりたい、肉を貪りたい。悲鳴が聞きたい、雄叫びを上げたい。
 そして、『悦び』に浸りたい。
 『死神』だ。『死神』で熟した肉だ。
 あの最高の肉を喰えば収まるかも知れない。自分の口に最も合う肉を喰えば。
 まだか。まだ戻って来ないのか、『死神』の保持者は。まだ『死神』を子へと受け継がないのか。
 あと何年だ。あと何年待てばあの肉を――
「はーい。ご飯できたわよー」
 厨(くりや)から紗羅の声が聞こえる。そちらに顔を向けると、具材が沢山入れられた大きな鉄鍋を運んで来る彼女の姿があった。
「よいっしょーっと」
 掛け声を発しながら、ソレを囲炉裏の真上にある自在鉤に吊す。
「飯、か……」
 鍋の中には野菜と鹿の肉が入っていた。人間の肉に比べると遙かに味は劣るが、少しくらいは気が紛れるかも知れない。
「今夜は冬摩も未琴さんも居ないから二人きりね」
 軽く波打った黒髪をうなじの辺りに撫でつけながら、紗羅は少し嬉しそうに言った。
 紅月の夜、冬摩は決まって外で夜を過ごす。十鬼神『鬼蜘蛛』を、まだ自分の物に出来ていないらしい。そしてこの日は未琴も自分の家に戻る。
 あの未琴という女、自分を気嫌いしているような節がある。まさか本心を見抜かれてはいないと思うが……。
「さっ、冬摩の分までいっぱい食べてね。アタシもこの子の分まで食べるから」
 少し大きくなった腹をさすりながら、紗羅は子供っぽく微笑んだ。
 いま、紗羅の胎内には二人目の子供が居る。炎将から奪った十鬼神『天冥』を宿した子供が。これで自分の血を濃く受け継いでいれば、男であれ女であれ強い味方が出来る。
 冬摩は着実に強さを増していっている。魔人の血がそう仕向けている。炎将との戦いを邪魔され、勢いにませて打ち込んできた拳を受け止めた時、その事を確信した。
 冬摩の法具が外れていた事もあるが、あの拳撃はなかなか鋭かった。今、冬摩が本気の一撃を放てば、力を抑え込まれたこの状態では片手で受け止めきれないかもしれない。
「はい、どーぞ」
 紗羅は白米が大きく盛られた茶碗と、湯気の立つ鹿肉の鍋汁がよそわれた大椀をコチラに渡す。
 龍閃は二つを受け取って床に置き、大椀の方を持ち上げる。そして箸で鹿の肉をつまみ上げて口の中で咀嚼した。熱い肉汁が中から吹き出し、舌の上で唾液と混ざり合う。
「美味しい?」
「ああ……。実に美味いぞ」
 気のない声で龍閃は返し、次々に鹿の肉を口に放り込んで噛み抜いていった。
 味などどうでもいい。今、自分が欲しているのは肉感だ。
 この肉が人の肉ならば、この肉汁が人の生き血ならば。
 頭の中を埋め尽くす本能からの声を聞きながら、龍閃は大椀の中身を平らげた。ソレを紗羅に差しだし、もう一杯催促する。
「あらら、早いのね」
 長い睫毛を大きく動かして目を瞬かせながら、紗羅は呆れ顔になって大椀を受け取とろうと手を伸ばした。
「っ……!」
 しかし大椀が中指に触れた瞬間、紗羅は小さく声を上げて手を引いた。
「どうした」
 怪訝そうに太い眉を寄せ、龍閃は紗羅の顔を見る。
「あー、ううん。何でもないの。ちょっとコレ作ってる時にね」
 言いながら、紗羅は右の中指の腹を自分の目の高さまで上げた。
「指切っちゃって」
 ――コロセ。
 理性の檻の中で、もう一人の自分が声を上げる。
「血、止まったと思ったんだけど、さっきので開いちゃったみたいねー。あー、イタイイタイ」
 ――喰いコロセ。
 全身から汗が噴き出す。腕が痙攣を始め、歯の根が噛み合わなくなってきた。
 鼓動が早くなる。息が荒くなる。核が一際大きく胎動する。
「……龍閃?」
 コノ女ヲ――
 気が付くと手に持った大椀を握りつぶしていた。破片が手に食い込んでくる。だが痛みなど感じない。傷口が深くなるのも構わずに、拳はどこまでも固く握りしめられた。
 視界が狭くなる。もうあの白い指先しか目に映らない。
 紅い血の滴る、指先しか――
「ちょっ、ちょっと何してんのよ!」
 ――喰い殺せ! 

◆信じる想い ―冬摩―◆
 血の海。
 そんな言葉で形容する事すら生ぬるい。目を覆い、頭を振り、悪夢だと叫び散らしてこの場から逃げ出したくなる。だが、冬摩の脚は縫い止められたように動かなかった。
「なん、だよ……コレ……」
 途切れ途切れに言いながら、冬摩は囲炉裏の前でうずくまる龍閃に近寄る。
 覗き窓から差し込む朝日の光を受けた大きな背中。ソレを包む白の陣羽織は、床に届くほどに長く伸びた緋色の髪と同じ色に染まっていた。
 体にまとわりつく噎せ返るような血の匂い、そして濃密な死の香り。
 家の壁には細切れになった『何か』の肉片が叩き付けられ、方々に赤黒い染みを落としている。
「父さん……何、やってんだよ……」
 肩を震わせる龍閃の後ろに立ち、冬摩は掠れた声で言った。
 だが龍閃は何も答えない。背中を丸く曲げて俯き、口をわななかせている。
「泣い、てんのか?」
 今まで見た事のない龍閃の弱々しい姿に、冬摩は戸惑いながら声を掛けた。そして恐る恐る前に回り込む。
 龍閃の体の下には、血溜まりの跡らしき黒い影が大きく広がっていた。その上に力無くだらりと垂れた太い二本の腕。紅い爪を持つ手の平の上に、小さな『何か』が乗っているのを冬摩は見つけた。
「何だよ、それ……。何持ってんだよ……」
 直感的にソレが何なんなのかは分かった。
 だが認めたくない。ソレが、その肉片が――
「紗羅だ」
 母親の成れ果てなどとは。
「なに、言ってんだよ……。わけ分かんねーよ……。ちゃんと説明しろよ! 何があったのか……! ちゃんと……!」
 短い言葉で低く答えた龍閃の胸ぐらを掴み、冬摩は大声で叫んだ。
「すまん、冬摩」
 しかし冬摩の問い掛けには答えず、龍閃はゆっくりと立ち上がる。そして首を締め上げている冬摩の手を払いのけ、裏口から外に出て行った。
「何だよ……何でこんな……」
 さっきまで龍閃が座っていた場所に膝を折り、冬摩は細切れになった肉の一つを握りしめる。
 どうして。どうしてこんな事が。
 訳が分からない。理解など出来るはずもない。
 この惨状も。さっき立ち上がった時、龍閃の金色の双眸に浮かんでいた涙の理由も。
 どうして、こんな事が……。

 家の前の土塀に背中を預け、冬摩は凄絶な光を帯びた視線を地面に落としていた。

『ほーら冬摩。アレが桜でちゅよー。キレイでちゅねー』 

 母親はいつも明るく接してくれた。彼女の落ち込んでいる顔や、悩んでいる顔など見た事がない。底抜けに元気で、どんな時でも前向きだった。

『けどまーホント、人生って分かんないモンねー。まさかアタシが魔人とこーんな幸せな家庭築くなんてねっ』

 辛くないはずがない。帝からの命令で無理矢理、魔人と契りを交わさせられた。そして監視の意味合いを込めて、一生添い遂げなければならなくなった。
 本当は別の男に好意を抱いていたかも知れないのに。普通に祝言を上げて、普通に暮らしたかったかもしれないのに。

『龍閃の良いところ? そーねー、無口で頑固者で、それで紳士的で落ち着いてて強そうで、かな。なーんかアンタとは正反対ねっ』

 母親は龍閃の事を好きになろうと努力したんだと思う。命令で仕方なくやっているのは辛いだけだから。そして彼女は本当に龍閃を愛した。だからこそ自分に愛情を注いで育ててくれた。大らかに、包み込むように。

『いーい、冬摩。ケンカするのは元気の証拠だからお母さんそんなに止めないけど、無茶苦茶ヤルのは止めときなさいね。相手に怪我させても、ちゃんとすぐに治る程度にしとくのよ』

 自分が何か問題を起こすたびに、母親は周りの人間に頭を下げていた。検非違使ともめ事を起こした時には、何度も朝廷に呼び出されていた。それなのに、冬摩に喧嘩をするなとは言わなかった。
 見るに見かねた龍閃が魎をお目付役に付けるまで、母親は冬摩を庇い続けた。

『人間も魔人も、元気なのが一番よ!』

『冬摩、そうやって暴れてる方がアンタらしいわ』 

 今思えば、いつも母親の笑顔がそばにあった。いつも笑い掛けてくれていた。
 ただ、ソレがあまりに当たり前だったから、日常の一部として完全に溶け込んでいたから、その大切さに気付かなかった。
 もう二度とあの笑顔を見られない。笑い声を聞く事が出来ない。
 失って初めて気付く。自分の中で、母親の存在がどれだけ大きかったのかを。
(殺してやる……)
 あまりに唐突すぎる母親との別離。ソレを生み出した元凶。
 殺してやる。絶対に。必ず見つけだして八つ裂きにしてやる。殺してくれと無様に命乞いをするまで切り刻んでやる。自分の肉を口に押し込んで、吐き出しても無理矢理ねじ込んで、目玉を抉って、傷口を火で焙って……。
「冬摩」
 頭の中で際限なく描き続けられる虐殺の手口。その思考を女の声が遮った。視線だけを動かし、冬摩は声の主を睨み付ける。
「未琴……」
 しかし彼女と目があった瞬間、冬摩は顔をしかめて俯いた。未琴には今の自分の顔を見られたくない。殺意で埋め尽くされたような顔を向けたくない。
「連れてきた」
 未琴の後ろには何人もの検非違使が立っていた。
 母親の肉片を握りしめて家を出た後、冬摩は放心して都の大路を歩いていた。どこをどう歩いたかなど覚えていない。気が付くと、未琴に呼び止められていた。彼女は自分の家に来ようとしていたのだろう。未琴は何も聞かずに冬摩と一緒に家まで戻った。
 そして惨状を目の当たりにし、検非違使を呼んでくると言って居なくなってしまった。
「冬摩……」
 検非違使が冬摩の家に入っていくのを目で少し追った後、未琴は冬摩の前に立った。
「泣かないのか」
 未琴は冬摩の背中に腕を回し、自分の体を寄せて優しく抱擁する。
「泣くかよ」
 冬摩も未琴の体を抱き返し、艶やかな黒髪を撫でながら低い声で言った。
 泣かない。いや、泣けない。涙など出ない。
 今、心を埋め尽くしているのは悲哀などではない。目に映る物全てが紅く染まる程の殺意だけだ。
「あの熊」
「え?」
「昔、お前が助けた熊のガキ。アイツもよ、俺の事殺したかったんだろーな。絶対に見つけ出して、喰い殺したかったんだろーな」
 ふと頭によぎった事を冬摩は口にする。
 あの広い森の中で自分を探すのは困難を極めたはずだ。ソコに居るかどうかも分からない奴を見つけるには相当な精神力を要したはずだ。
 しかし、アイツは自分の前に現れた。親を傷付けられた復讐のために。
「冬摩……」
 だが、あの熊とは決定的に違う事がある。
 それは自分の母親はどんな高等な治癒術を施そうとも治らないという事。原型すら留めないまで細切れにされ、誰が見ても明らかに絶命しているという事。
「なぁ、私はどうすればいい。お前のために何をしてやれる。言ってくれ冬摩。私はお前のためなら何だって……」
「手伝ってくれ」
 未琴の言葉を途中で遮って冬摩は言った。
「母さんをあんな風にしやがったクソ野郎を探すのを手伝ってくれ」
 そして冷徹な響きを含ませて言葉を続ける。
「……分かった」
「あー、ソレはちょっとマズいんじゃないか? 冬摩。まぁ今のお前に冷静になれと言う方が無理なんだろうが」
 頭上でした声に冬摩は顔を上げた。
 土塀の上に並べられた石瓦に腰掛け、魎は広い額を撫でながら面倒臭そうに言う。
「あー、私も見てきたがアレは酷いな。少なくとも人間技じゃない。ちょっとどこかイカれてる。肉体的にも精神的にもだ」
 飛び降りて冬摩の前に着地し、魎はいつも通りののんびりとした口調で話しかけてきた。
「だから何だよ」
 今はこの男の冗談に付き合ってやる気分じゃない。ふざけた事を口にしたら殺してやる。
「この事件にカタが付くまでお前が付きっきりで守ってやった方がいい。未琴さんが大切ならな」
 魎の言葉に冬摩は少しだけ目を大きくして、ばつが悪そうに舌打ちした。
 確かに魎の言う通りだ。龍閃が付いていたにもかかわらず、母親をあんな姿にしたような奴だ。相当な力と狡猾さを持っていると考えた方が良い。
 そんな殺人鬼が今、この都に潜んでいる。ソイツを捕まえるまでは未琴から目を離さない方が良い。母親だけではなく未琴まで失ってしまったら、自分は気が狂ってしまうかも知れない。
「未琴。絶対に俺から離れんなよ。何があってもだ」
「分かった」
 幾分柔らかくなった冬摩の言葉に未琴は嬉しそうに微笑んで、より強く体を寄せてきた。
「あー……見せつけてくれてるトコ悪いんだけどな、龍閃はどうしたんだ?」
「父さんは……どっか行ったよ。母さんの事、一人で悲しんでるんだろ」
 龍閃が初めて見せた涙。魂が抜け落ちたような表情。
 常に力強い雰囲気を纏っていた父親からは想像もできないような悲惨な姿だった。
 龍閃も愛していたのだろう。紗羅の事を。自分にとっての大切な妻として扱っていたのだろう。
「そうかー。やっぱりあの肉は紗羅さんの物だったのかー。なるほどなー」
 一人得心したように頷きながら、魎は額を手の平で軽く叩く。
「何だよ」
「あー、ちょっとした疑問なんだがな。お前は何でアレを紗羅さんの死体だと思ったんだ?」
「あぁん?」
 自分が母親の死体だと分かった理由? それは直感的にそう感じた事と、
「……父さんがそう言ってたからだよ」
「そうかー。なるほどなるほど」
 魎は何か考えるように視線を宙に泳がせた後、広い額を後ろに撫で上げる。
「じゃあ何で龍閃は紗羅さんの死体だと思ったんだろーな」
「……殺されるのを見てたからだろ」
「そうかなー。龍閃ほどの力を持った奴が、目の前でバラバラにされてく妻をじっと見てるかなー」
 冬摩の前で行ったり来たりを繰り返しながら魎は間延びした声で返した。
「……父さんよりソイツの方が強かったんだろ」
「龍閃より強い奴ー? 魔人はもう残っていないのにー? ちょっと考えにくいなー。それに昨日は紅月だぞー?」
「……父さんは変な法具つけてんだろ」
「まぁソレで力が抑えられてるとしても、だ。人間じゃちょっと無理だなー」
 立ち止まって腕組みし、魎は芝居がかった仕草で悩んでみせる。
 曖昧な返事ばかりする魎に、だんだん腹が立ってきた。
「何か言いたいんだよ」
「何が言いたいんだろうな」
「テメェ!」
 魎に掴みかかろうとするが、未琴の体がソレを遮る。しかし乱暴に引き剥がすわけにはいかない。未琴を守らなければならないのに、傷付けてしまっては何をやっているのか分からない。
「可能性は二つだ。一つはお前の言う通り、龍閃を凌ぐ力を持った魔人がどこかにひっそり身を隠している可能性。そしてもう一つは、龍閃自身が犯人だという可能性だ」
「な……」
 龍閃が犯人? 龍閃が紗羅を殺した?
 いや違う。それだけはない。
「魎……お前はあん時の父さんの顔見てないから、ンな下らねー事考えつくんだよ。父さんは、本気で悲しんでた……泣いてた……」
 そう。だから龍閃の凶行である事は考えられない。龍閃は紗羅を愛していた。そして彼女を失って、心の底から悲しんでいた。心的な傷は自分より遙かに深いはずだ。
「龍閃が涙、ねぇ。紅月の夜……紗羅さんの肉……人間との和平……早過ぎるとは思うが、有り得ない話ではない、な……」
 呟くような声で関連性のない単語を並べ立てながら、魎は一人頷く。
「冬摩、この事件は普通の事件じゃない。龍閃の監視役として付けていた紗羅さんが殺されたんだ。朝廷が本腰を入れて調査する事になる。下手をすれば和平は解消だ」
 いつになく真剣な口調で言いながら、魎は黒衣を翻らせて土塀の上に飛び乗った。
「私の方でも人を集めて調べて置いてやる。明日は我が身かもしれんからな。紫蓬には私から声を掛けておこう。頼りになる助っ人付きで協力してくれるはずだ」
 それだけ言い残すと、気配と姿を同時に消して視界から消え去る。
「あのヤロー。父さん疑いやがって……」
 正直、今まで龍閃には特段良い印象を持っていなかった。
 確かに圧倒的な力を誇り、その強さには畏怖と憧憬を抱いていたが、それだけだった。逆に言えば強さ以外は何の魅力も感じなかった。だから『父さん』とは呼びつつも、父親として見た事は一度もなかった。
 しかし、母親の死を目の当たりにした龍閃を見た事で、その思いは一気に払拭された。
 初めて龍閃が見せた弱い一面。あの非常識までな強さを持っていた龍閃の、人間的な横顔。いくら最強だと謳われていても、どれだけ強大な力を保持していても、たった一人の女性の死に涙した。
 それは、妻の事を愛していたからに他ならない。
 今まで自分が気付かなかっただけだ。龍閃の内面に。誰かを好きになる事で、優しくなっていた事に。
 自分が未琴を好きになり沢山の物を手に入れたように、龍閃もまた紗羅を愛する事で別の自分を獲得した。誰かを思い遣れる心を持った自分を。
「未琴。俺は父さんを探しに行く。一緒に来て貰っていいか」
 だからこんな事をした奴を絶対に許すわけにはいかない。自分のためにも、そして龍閃のためにも。龍閃だって絶対に復讐したいと思っているはずだ。自分と同じ気持ちのはずだ。
 初めて意思を疎通できたのがこんな形なのは不本意だが、今はソレを言ってもしょうがない。とにかく龍閃と合流して、今後の行動方針を決めなければ。
「龍閃殿、か……」
 しかし未琴は、自分の腕の中で不安気に呟いた。
 その顔はどこか寂しそうで、そして怯えているようにも見えた。
「何だよ未琴。まさかお前も父さんの事……」
 疑ってるのか?
 その言葉を最後まで言ってしまうのが恐くて、冬摩は途中で呑み込んだ。
 もし、未琴にまで龍閃の事を否定されたら……。
「いや、何でもない。さぁ探しに行こう。都のどこかに居るはずだ」
「あ、ああ……」
 まるで無理して明るく振る舞っているように見えて、冬摩は一人取り残されたような疎外感を覚えた。

 龍閃が居たのは都の南端、羅生門のすぐ隣にある西寺の前だった。
 高く積まれた石垣にもたれかかり、虚ろな視線を宙に投げだしている。冬摩よりも頭一つ分高い上背を誇る龍閃が、未琴よりも小さく見えた。
 乾いた血にまみれた龍閃を恐れてか、周りに人影は一つもない。
「父さん!」
 うなじの辺りで纏めた長い黒髪を揺らし、冬摩は龍閃のもとに駆け寄る。
「冬摩、か……」
 その声に反応し、龍閃は焦点の合っていない目をコチラに向けた。血のこびり付いた口をだらしなく開け、両手を小刻みに震わせている。紗羅を失った悲しみがまだ抜けきっていないのだろう。当然だ。
「なぁ! 母さん殺った奴の顔見たか!? 絶対に見つけてブッ殺す! だから教えてくれ! 頼む!」
「紗羅を、か……」
 龍閃の体を大きく揺すりながら詰問する冬摩に、未琴が後ろから肩に手を掛けた。
「冬摩……」
 その悲しげな声に冬摩は我に返る。
「わ、ワリィ……。父さんが一番、辛いのにな……」
 そうだ。自分はこういう時に細やかな心配りができない。未琴が居てくれて本当に助かった。今は少し、龍閃を休ませてやらないと……。
「我は、大丈夫だ……」
 消え入りそうだった龍閃の声に、少し力が戻ったように聞こえた。
「我は、もぅ、大丈夫だ」
 一言一言確認するかのように、龍閃はゆっくりと言葉を並べる。か細く弱々しい音の羅列から、生の脈動を感じさせる力強い発声へと変化させながら。 
「冬摩。我はもぅ、大丈夫だ。何の心配もない」
 光の抜け落ちていた龍閃の目に、再び金色の輝きが戻る。震えていた両手はいつの間にか収まり、龍閃は唇の端に付いた血を舌で舐め取った。
「我は心に決めた。もう迷いは、無い――」
 そして口を弧月の形に曲げ、今で見た事のない笑みを浮かべた。それはどこまでも雄々しく、どこまでも自信に溢れていて、見る者に圧倒的な安心感を与えてくれた。
 ――恐怖さえ感じるほどに。
「そ、そっか……。そりゃ良かった」
 気が付くと、龍閃は元の泰然とした雰囲気を取り戻していた。つい先程まで感じていた、気弱気な雰囲気は微塵もない。
「帰るぞ、冬摩。まずは紗羅の肉の掃除からだな」
 ――紗羅の肉。
 龍閃が何気なく口にした言葉に、冬摩は底冷えする何かを覚える。
「え、でもよ。まだ多分、検非違使の連中が……」
「そんな物は放り出せばよい」
 吐き捨てるように言って、龍閃は九条大路を進んで家へと向かった。しかし冬摩が付いて来ないのを見て立ち止まり、顔を後ろに向ける。
「どうした冬摩。紗羅をあのような目に遭わせた輩を殺すのだろう?」
 金色の双眸を細め、挑発するような口調で言う龍閃。
 自分の隣にいた未琴が身を寄せてきた。体が微かに震えている。怯えているのだろうか。
 確かに、今の龍閃には何か危ないモノを感じる。それは妻の死によって精神の一部が破綻したためなのか、それとも――
「未琴、行こう」
 いや、そんなはずがない。
 あの時の涙。あの涙は本物だった。本物だったはずだ。
 疑う方がどうかしている。それに今、自分が龍閃を信じてやらずに誰が信じる。誰が龍閃を支えてやるというんだ。自分に心配掛けまいと、気丈に振る舞っているだけかも知れない。本当は一人で泣きたいのかも知れない。
 龍閃にだって弱い部分はある。自分にだって足りない部分はある。しかしソレは未琴が補ってくれた。だが、紗羅が居なくなった今、龍閃の弱さを埋めてくれる者は居ない。ならば自分が――
「父さん、絶対に見つけ出すぞ」
「ああ」
 それに思いは同じはずだ。紗羅を殺した奴を見つけだして殺す。
 この共通の思いさえ強く抱いていれば、そして未琴がそばに居てくれれば、恐い物など何もない。そう、これでいい。これでいいはずなんだ――

◆純粋なる愚者 ―魎―◆
 西寺の本堂。こぢんまりとした仏閣建造物の最高点。真鍮の混ぜられた鉄製の屋根の上に立ち、魎は冷たい視線で眼下を睥睨していた。
(ほぼ間違いないな。紗羅を喰ったのは龍閃だ)
 風に黒衣の裾を靡かせながら、魎は細く息を吐く。
 仮に冬摩の推測通り龍閃を凌ぐ魔人が居たとして、ソイツが紗羅を喰い殺したとすれば、龍閃は間違いなくその魔人と戦っている。龍閃はあのような無惨な姿になる前に紗羅を見ているはずなのだから。
 だとすれば決定的におかしな部分がいくつもある。
 それは龍閃が全くの無傷だという事。家がどこも壊されていないという事。そして夜の惨事に誰も気付かなかったという事。
 口に付いた血が他の魔人の物だとすれば、相当激しい戦いになったはずだ。ならば当然、龍閃も傷を負ってしかるべきだし、あのような家など跡形もなくなっているはず。そしてけたたましい音が都中に轟いてもおかしくない。
 だが、それらの一つも起こっていない。
 ならば導き出される答えは一つ。
 紗羅を肉片にまでしたのが龍閃本人であり、口に付いた血は紗羅の物であるという事。
 コレでほぼ間違いない。しかし、魎もその現場を見たわけではない。それに相手はあの龍閃だ。力ずくで済ませられる問題ではない。確定ではない情報を朝廷の者に伝えたところで、いたずらに傷口を広げるだけだ。生半可な力では返り討ちに遭うのは目に見えている。
 コチラも慎重に事を運ばなければならない。
(それにしても、何故……)
 何故、龍閃は突然このような凶行に走った。和平を破棄するにはあまりにも早すぎる。まだ魔人側の勢力は人間側のソレと比べてあまりに脆弱だ。もっと時間が必要だ。
 魎も数多くの人間と交わり、沢山の子を成してきたが、殆どが人間の血を濃く受け継いでいる。やはり使役神鬼を継承しないと魔人寄りの子供は出来ないのか。
「アイツかぃ、龍閃ってぇふてぇ野郎は! 男の風上にも置けねぇや!」
 今、自分の隣で熱く拳を握りしめている牙燕(がえん)のように。
「ぃよっし! 待ってな! この牙燕様がちょっくら突っ走って、ちゃちゃーっと片付けてきてやっからよ!」
「突っ走るな」
 発達し、岩のように固くなった牙燕の肩の筋肉を掴んで、魎は疲れた声で言った。
「何でぃ! アイツをブチのめしゃぁカタが付くんじゃなかったのかぃ! オレっちはそう聞いてんぜぃ!」
 頭の後ろで固め、良くしなる鞭のように飛び出した紫色の髪を揺らしながら、牙燕は魎に顔を近づける。
(あ、暑苦しい……)
 どうして自分がこんな上半身裸の筋肉男と一緒に居なければならないのか。今、二人目の子供を身籠もって陰陽寮で静養している紫蓬を、魎は心底恨んだ。
「あー、いいか……牙燕。私が言ったのは龍閃が極めて怪しいというところまでだ。まだ決定的な証拠は掴めていない。それに龍閃にコチラの動きを掴まれると面倒な事……」
「えぇぃ! まどろっこしぃ! 男なら正面からブチ当たってバチバチやり合う! そうしてるうちに心が通じ合って友情が生まれるってモンよ! な!」
(う、鬱陶しい……)
 途中で二股に分かれた長く太い眉毛を激しく動かしながら、牙燕は牙の覗く大口を開けて豪快に叫び散らす。
「あー、と、とにかく、だ。お前がやる事は龍閃の監視だ。怪しい動きがあったらすぐに『分身』を私によこせ。それ以上の事はするな」
「けっ! そんな女みてーにコソコソした事出来るかってんだ! オレっちはココだって思ったらヤルぜ! 死なばもろとろよ!」
 母親譲りのつり上がった空色の双眸を情熱の紅に染め上げ、牙燕は唯一身に付けている袴の裾をどこからか取り出した紐で縛り上げた。
(あ、扱いづらい……)
 放っておくと際限なく熱血度の上昇する牙燕に、魎は広い額を押さえてうずくまった。
 直情的なのは冬摩のお目付役で随分慣れたと思ったていたが、まだまだ考えが甘かった。上には上が居るという事を絶望的なまでに思い知らされた。
 牙燕を見ていると冬摩が可愛く思えてくる。冬摩は確かに後先考えず、感情のまま行動するが、それでも自分なりの基準は持っている。これ以上はさすがにまずいという気持ちをどこかで抱いている。特に未琴に心を許してからは、自分の激情を抑制する術を身に付けた。
 だが、牙燕の場合は全くもって歯止めが利かない。恐ろしい事に『無幻』の『情動制御』ですら四半刻と効果が続かない。すぐに燃える男に戻ってしまう。
 しかし、そんな牙燕にも唯一頭が上がらない存在が居る。それは――
「あー、牙燕。私の言う事を聞かないと紫蓬に言いつけるぞ」
「ぬぉ!?」
 紫蓬。
 その名前を出した途端、牙燕は端から見てもはっきりと分かるほど身を小さくし、顔を青くして力無く項垂れた。
「いや、あの、その……母君の尻叩きは本気でヤバいんス。もぅ体の内側が凄い事に……。いや、マジ勘弁して下さい」
 龍閃と並ぶほどの巨躯を誇る牙燕が、紫蓬の名前を聞いて道ばたに転がる石ころのように取るに足らない物体と化す。
(うーん、テキメンだな……)
 自分で言っておいて何だが、牙燕が少し可哀想になってきた。
 それ程、紫蓬の尻叩きは酷いらしい。『月詠』を使ったかどうかは知らないが、牙燕の深層心理には紫蓬が壮絶なる恐怖の対象として植え付けられているようだ。 
 そう――魔人の血を濃く引くこの大男、牙燕は紫蓬が土御門の陰陽師との間に成した子供だ。受け継いだ使役神鬼は『紅蓮』。そして力の発生点は、見たまま『情熱』。熱くなればなるほど力を発揮できる。
 だから安易に紫蓬の名前を使って落ち込ませるのは得策ではない。
 それでも、暴走するよりはよほどいいのだが。
「あー、大丈夫だ。言いつけたりせんから、素直に私の言う事を聞け。な」
 魎の呼びかけに、牙燕は無言で小さく頷いた。
 いったいどんな幼児教育を施されてきたのか、非常に興味が湧くところだ。
「……で、アンタはどうすんだぃ。まさか面倒な事は全部オレっちに任せて、自分だけ高見の見物にシャレこもぅって寸法じゃねーだろーな」
「まさか……」
 小さく鼻を鳴らして、魎は冬摩の家がある方向に視線を向けた。
 出来る事なら自分が龍閃の監視を行いたい。いくら魔人の血が濃いとは言え、生まれてまだ二、三年しか経っていない牙燕に龍閃の監視は荷が重すぎる。
 だが、その大役を別の者に預けてでも、自分にはしなければならない事がある。
「私は、冬摩を監視する」
 冬摩は今、龍閃を信じ切っている。想像も出来ないような一面を見せられたものだから心を奪われている。
 強そうに見せておいて、信じられないほど繊細な一面を垣間見せる。女を口説く手としては使い古されているが、なかなかどうして上手く引っかかる。それが冬摩のように純粋な者であれば特に。
 龍閃は勿論、狙ってやったわけではなく、結果としてそうなってしまっただけだろうが同じ事だ。冬摩が盲目的に龍閃に入れ込んでいる事実に変わりはない。そして本来、冬摩をたしなめなければならないはずの未琴も、今は冬摩を気遣って思い切った事を口に出来ない。
 冬摩に味方し、引いては龍閃を庇う事になる。
 ――薄々、怪しいとは気付いていても。
 冬摩は龍閃から吹き込まれた偽の情報で踊らされるだろう。そして取り返しの付かない事をするかも知れない。
 その時、冬摩を止められる者がそばに居なければならない。それこそ牙燕では無理だ。法具で力を封じられている同じ条件では、牙燕は冬摩には勝てない。
 生まれてからの月日の違いもそうだが、元々持って生まれた資質が違う。
 最強の魔人、龍閃の血を濃く引いた者。片や魔人の中で三番目に力を持つ紫蓬の血を濃く受け継いだ者。どちらが力をより大きく伸ばしていくかは明白だ。
 それに、今回の件は自分だけが龍閃の凶行を目撃しても駄目だ。自分が言っただけでは冬摩は信用しない。ならば実際に見せるしかない。その現場を。そのためには自分が龍閃のそばに居るよりも、冬摩の側で牙燕からの連絡を待っていた方が動きやすい。
「あー、いいな。牙燕。くれぐれも龍閃に見つからないようにな。それとお前がやるのは監視と私への報告だけだ。あと、夜は特に気を付けろよ。お前の力を封じられたも同然だからな」
「へっ、分かってらぃ……」
 鼻に親指の腹をこすりつけて息を強く吸い込みながら、牙燕は拗ねたようにそっぽを向いた。
 牙燕の力の作用点は『影』。
 夜、よほど月明かりが強くない限り、影自体が地面に呑み込まれる。かといって明かりを持っていれば、コチラから見つけて下さいと言っているようなものだ。
「あー、よし。じゃ、行くぞ。ヘマするなよ」
「へっ、アンタこそヌカるんじゃねーぞ」
 魎と牙燕は互いに言い残し、西寺の屋根の上から身を舞わせた。

◆癒えない傷口 ―冬摩―◆
 冬摩、未琴、龍閃。三人だけで囲炉裏を囲み、無言で箸を動かし続ける。
 身の沈むような重苦しい空気。会話のない夕食。
 いつもならココに、紗羅の明るい声が加わって場を和ましてくれていた。しかし、彼女の声はもう二度と耳にする事が出来ない。
「……もぅ、食べないのか。父さん」
 早々と箸を置いた龍閃に、冬摩は話し掛ける。
「ああ。もう腹は満たされた」
 野太い声で言って、龍閃は御簾の掛けられた覗き窓に目を向けた。
「それに、最近は煩い蝿が多くてかなわん」
「蝿?」
 冬摩も龍閃が見た先に視線を向けるが、蝿などどこにも居ない。
「冬摩。今日もまた、二人やられたそうだ」
 隣でした未琴の言葉に冬摩は顔を戻す。
 紗羅が殺された次の日から、都では神隠しが始まった。そして連れ去られた者は次の日、惨殺死体となって朱雀大路に投げ捨てられていた。何百人もの検非違使を動員し、大規模な包囲網を張った朝廷を嘲笑うかのように。
「クソッ!」
 悔しさに握りしめた拳を床に叩き付け、冬摩は俯いて奥歯を噛み締める。
 見つからない。自分の母親を殺し、今も都の人間をその毒牙に掛けている魔人が。
 見つかるはずもない。手がかりが全くないのだから。
 分かっている事と言えば、強大な力と残忍さと、そして恐ろしいまでの狡猾さを兼ね備えている奴だという事だけ。
 今まで喰い殺された人間の数は五十を越える。
 これだけの死体を積み上げておきながら、まったく尻尾を掴ませない。何の証拠も残さない。凶行に気付き、現場に行った時にはすでに事は終わった後だった。
「冬摩。少し我に付き合え」
 龍閃は立ち上がりながら冬摩に声を掛けた。
「何だよ」
「お前に言っておきたい事がある」
 そして冬摩の返事も待たずに、家の外へと足を向ける。
 一人で付いて来い。龍閃の背中がそう言っていた。
 未琴には話せない事なのだろうか。自分だけにしか……。
「ちょっと、ワリィな。未琴。別に遠くに行く訳じゃねーからよ」
「ああ、たまには二人でゆっくり話してくるといい」
 柔和な笑みを浮かべて、未琴は優しく言う。彼女の長い黒髪を一度だけそっと撫で、冬摩は龍閃の後に付いて行った。
 家の前から少し離れた場所にある大井戸。井戸を包み込むようにして立てられた木造の簡易屋根。ソレを支える太い柱の一本に背中を預け、龍閃はじっとコチラを見ていた。
「何だよ」
 龍閃に近寄り、冬摩は短く言う。
「紗羅が死んで、二月が経った」
 太い腕を組み、静かに言う龍閃からは、怒りとも悲しみとも取れない諦観した気配が滲み出ているようだった。
「ようやく思い出したよ。殺した奴の顔をな」
「――!」
 その言葉に冬摩の全身が総毛立つ。
 この二月、毎日のように欲していた情報。母親を殺した者を追いつめる唯一の手掛かり。
 灼怒と哀惜と絶望で霞み、朧になっていた龍閃の記憶がついに晴れた。
「誰だ! そのヤローは!」
 激昂し、冬摩は龍閃に詰め寄る。
 龍閃は一度だけ家の方に目を向けた後、瞑目して低い声で言った。
「未琴の、父親だ」
「な……!」
 未琴の父親? 魔人ではない、いや、陰陽師ですらない人間が犯人? そんな馬鹿な。一体何を……。
「今日の昼間、都を歩いていてソイツの顔を見た。一瞬で脳裏に蘇ったよ。紗羅を凌辱し、我の目の前で笑いながら切り刻んだあの殺人鬼の顔がな」
 龍閃の目の前で? 未琴の父親が? 笑って?
「じゃあ何で……何で父さんは、母さんを見殺しに……!」
「見殺しにしたのではない。動けなかったのだ。この法具のせいでな」
 袴の留め紐に覆われた腰の下から、僅かな盛り上がりを見せている部分をさすり、龍閃は悔しそうに言った。
「コイツにはな、魔人の力を抑えるだけではなく、いざとなれば動きその物を封じる力もあるらしい。未琴の父親はその力を使って、我を拘束したのだ。そして――紗羅を殺した」
 下唇を噛み締め、弱々しい表情になって龍閃は言葉を紡ぐ。まるで一言一言に果てしない悔恨と怨嗟の念を込めているかのように。
(法具……)
 冬摩は自分の右腕にはめられた法具に目をやり、顔をしかめる。
 この法具にそんな力が? 分からない。元々、魔人を信用しきっていない人間が、付ける事を強要してきた物だ。実は他にも効力があるのに、コチラに伝えていないというのは可能性として十分に考えられる。
「何で、今まで黙ってたんだよ……法具の事……。手掛かりになったかも知んねーのに」
「すまなかったな、冬摩。紗羅の死に、我の記憶は混濁していたのだ。法具の事を思い出したのも今し方だ」
 妻の死に、龍閃は一時的な記憶障害に陥っていた。つまりそれだけ紗羅の事を愛していたという事だ。
 思い出したくない現実からは目を背けたくなる。人間も、魔人も。生物である以上は共通の反応。そして記憶自体を抹消してしまう。それは無意識下での防衛反応。龍閃を責めてもしょうがない。今こうして思い出し、話してくれただけでも感謝しなければならない。
「けど……なんで未琴の父さんが……」
 未琴の父親には何度か会った事がある。穏やかな顔をした、見た目通りの優しい父親だった。今も冬摩を信頼して、未琴を自分に預けてくれている。
 殺人などという非日常からはほど遠い存在だ。
「殺人鬼が人を殺すのに理由などいらない。ただ殺したかったから殺した。それだけだろう」
 殺したかったから、殺した。
 紗羅を、自分の母親を。
 信じられない。未琴の父親がそんな人間などとは。いくら龍閃の言葉とはいえ……。
「未琴の父さんは、陰陽師でも何でもない。普通の人だ。法具をどうにか出来るなんて……」
「陰陽師が陰陽師らしい格好をしなければならない決まりなど、どこにもない。むしろ一般人として溶け込んでいるからこそ、裏の稼業がやり易くなる」
 以前、魎と一緒に帝の後を付けた事があった。
 あの時も、魎に言われなければアレが帝などとは思わなかった。
 なら、未琴の父親も同じ事を……?
「冬摩。信じるじないはお前の自由だ。だが、我が行っても確実に同じ目に遭う。そして逃げられる。奴は都から姿を消す。機会は一度きりだ。法具を腰に巻かれている我と違い、右腕しか拘束されないお前なら動けるかもしれんな」
 一度だけの機会……自分になら出来る……未琴の父親を……母親の敵を……。
 なんだ、自分は今何を考えている。龍閃の言葉に大麻の香でも仕組まれているように、思考が茫漠とした物になってくる。何が正しくて、何が間違いないのか。何が自分のやりたい事で、何を防ぎたいのか。
 事の正否が付かなくなってきている。最初の目的は何だったか。母親の仇討ち? 殺人鬼を殺す事? それは未琴の父親? 未琴……そうだ、未琴だ。
 こんな時はいつも未琴に頼ってきた。迷った時はいつも未琴に……。
(駄目だ……)
 出来るはずがない。未琴に相談など。何て言うつもりだ。
 お前の父親が自分の追っている仇かも知れないから殺してもいいか?
 馬鹿な。未琴が悲しむと分かっているような愚行をするわけにはいかない。未琴を悲しませるわけには……。
 だが、もし、本当に……。

 何だ。自分はどうしてこんな所に居るんだ。
 あれから上の空で夕食を済ませ、未琴と龍閃が寝静まった後に家を抜け出した。そして都を南に下り、未琴の家の前まで来た。
 何をするために……?
 ――未琴の父親を殺すために。
 何のために……?
 ――母親の仇を討つために。
 未琴の父親はそんな人間だったのか? 笑いながら人を殺すような。
 ――分からない。分からないが、一つだけはっきりしている事がある。
 はっきりとしてる事。それは――
 ――龍閃が言った事は嘘ではない。
 龍閃は正しい。妻の死を心から悲しんでいる。心から仇を取りたいと思っている。あの時見せた涙は本物だった。だから、下らない嘘でこんな事を言うはずがない!
「オラァ!」
 叫び声と共に、冬摩は未琴の家の木戸を叩き壊した。そして薄暗い家の中に脚を踏み入れようとした時、
「あー、やっぱり何か吹き込まれたな。龍閃に」
 不意に後ろから声がする。
「な――」
 反射的に振り向くと、眠そうに欠伸を噛み殺した魎がコチラに左手を伸ばしていた。その手で頭を掴み上げられた瞬間、さっきまで燻っていた迷い、殺意、焦燥が潮が引くように収まっていく。
「冬摩!」
 背中に突き刺さる悲痛な叫び声。
「み、こと……」
 付いて来ていた。自分が家を抜け出したのに気が付いて、後を付けて来ていた。
「何を……やってるんだ……?」
 声をわななかせながら、未琴は信じられない物を見るかのような視線をコチラに向けてくる。
「冬摩……」
 見るな、そんな目で。
「お前、まさか……」
 違う。俺じゃない。
「まさかお前が……」
「違う!」
 気が付けば自分の周囲は夜空に包まれていた。大きく跳躍したのだと頭が理解した時には、誰の物だか分からない家の屋根を蹴って、別の場所へと跳んでいた。
 遠くへ。とにかく遠くへ行きたかった。
 未琴の目から逃れるために。もう何をやっているのか、どうしていいのか分からなくなっている自分から逃れるために。

 瞼越しに突き刺さる朝日で、冬摩の意識は無理矢理覚醒させられた。
 頭が痛い。吐き気がする。全員が怠い。体中が軋む。
 昨日、無茶苦茶に走り回って、何かに足を取られて転倒し、そのまま眠りに落ちた。二度と目が覚めなければいいのにと思っていた。だが、そうはいかないらしい……。
「あー、冬摩。よーやく目が覚めたか?」
 頭上から降って来た声に、冬摩は体を大きく痙攣させ、慌てて立ち上がった。そして声の主を視界に捉えて身構える。
「あー、何だ。元気じゃないか。心配する程の事もなかったな」
「魎……」
 低く唸るような声で、自分の隣りに座っていた男の名を呼んだ。
「あー、冬摩。お前、龍閃に何吹き込まれた」
 やる気無さそうに広い額を撫で上げ、魎は椅子代わりにしていた木の切り株から腰を上げる。
「テメーにゃ関係ねーよ」
 落ち葉の降り積もる地面の上に半ば自棄になって腰を下ろし、冬摩は仏頂面で返す。そして魎から目線を外し、周りを見回した。どうやらココはいつもの雑木林のどこからしい。自分がつまづいたのは、あの切り株の根っこだろうか。
「まぁ言わなくても大体想像は付くさ。未琴さんの家族の誰かが、紗羅さんの仇だとでも言われたんだろう」
「……父親だよ」
 冬摩は顔を逸らしたまま、魎の言葉に付け加える。
 正直、自分でもどうして素直に答えたの分からない。だが、誰かに聞いて欲しかった。教えて欲しかった。本当に自分は正しいのか。龍閃は間違っていないのか。
「未琴さんのお父さんねぇ……ほぅほぅ。何でまた」
「知らねーよ。父さんが未琴の親父さんを見た瞬間、コイツだって思ったんだとよ」
「そりゃまた随分と都合の良い展開だなぁ。それに人間と必要以上に接しない龍閃が、未琴さんのお父さんと面識があったっていうのも驚きだ」
 額に手を当て、何か考え込むように魎は何度か頷いた。
 面識……? 本当にあったのか?
 確かに魎の言うとおり、紗羅が死ぬよりも前に龍閃が未琴の父親の事を知っていなければ、昨日のあの発言はおかしい。初対面の人間が誰かなど分かるはずもない。初めて会ってすぐに『未琴の父親だ』などと特定できるはずがない。
「そうすると龍閃の口に付いてた血は、未琴さんのお父さんの物だったのかー。なるほどなるほどー。それにしても龍閃に噛まれて良く脱出できたなー」
 龍閃の口に付いた血。最初、アレは龍閃が紗羅を殺した奴に噛み付いた時に出来たのかと思っていた。しかし、龍閃は動きを封じられていたと言っていた。おかしい。矛盾している。
 まさか、口から出任せで……。
「あー、どうした。冬摩。顔が青いぞ」
 魎の言葉に、冬摩は都の方を見つめながら立ち上がった。
「未琴……」
 そうだ。忘れていた。未琴の所へ。未琴の所へ戻らないと。
 未琴だけは絶対に守らないと。
「あー、冬摩。未琴さんの所に戻る前にお前に言っておく事がある」
 まるでコチラの内面を見透かしたように魎が声を掛けてきた。
「何だよ」
「未琴さんのご家族、な。昨日、全員殺されたぞ。例の殺人鬼に」
 気まずそうに言った魎の言葉が終わらないうちに、冬摩は脚力を爆発させて都へと向かった。

 未琴は自分の家に戻っていた。
 四人家族だったせいか、冬摩の家の間取りよりも少し広い。
 板間の中心に正座し、未琴は巫女装束を纏って微動だにしないまま目を瞑っていた。固く握りしめ、膝の上に置かれた拳の端からは小さな巾着の端が見えている。
 アレは――家族の形見だろうか。
「未琴……」
 小さく呟きながら、冬摩は板間に上がる。
「来るな!」
 そしてすぐに鋭い声が飛んできた。
 ソコに込められているのは怒りなのか、悲しみなのか、それとも――
「未琴、頼むから信じてくれ……。俺じゃ、ない……」
 泣き出しそうな声を発しながら、冬摩は未琴に近寄る。
「来ないでくれ!」
 一際高い声で叫声を上げ、未琴はコチラに顔を向けた。
「未琴……」
 強い意志を秘めていた大きな瞳は影もなく、許しを請う小動物のように頼りなく目元を下げている。窓から差し込む朝の陽に照らされて、眦に浮かんだ涙は珠のように輝いていた。
「ス、マン……」
 絞り出すような声で言って、冬摩は俯く。
 もう何を言って良いか分からない。何に対して謝罪すればいいのかも分からない。
 自分が悪いと分かっていても、どう変えていけばいいのかさえ分からない。
「違うんだ、冬摩……。謝るのは、私の方だ……」
 未琴の言葉に冬摩は緩慢な動きで顔を上げた。
「私はどんな事があってもお前を信じている。私はお前に一生を捧げた。だから、もっとお前を支えてやらないといけないのに、もっとお前を気遣ってやらないといけないのに、なのに……私はどこかでお前を疑っている。もしかしたら、お前がって……思ってる。私はそんな汚らわしい自分が嫌になった。私には、もぅお前のそばにいる資格など無い。だから、何も言わずに去ってくれ……。頼む、冬摩……」
「バ……!」
 冬摩は弾かれたように未琴に駆け寄ると、両腕で包み込むように未琴の体に手を回した。そしてきつく抱き寄せて肌を密着させる。
「馬鹿野郎!」
 巫女装束越しに伝わる未琴の命の息づき。これまで数え切れないくらい求め、愛し合ってきた躰なのに、初めて触れたような錯覚に陥る。
 それほど今の未琴の躰は華奢で弱々しく、少しでも余計な力を込めれば壊れてしまうそうな程に儚く感じた。
「絶対に放さねぇ! お前が何と言おうと絶対にだ! 俺はずっとお前のそばに居る! だからお前も俺のそばに居ろ! 絶対に! 絶対にだ!」
 辛いのは自分だけじゃない。未琴だって同じだ。支えて貰うだけでは駄目だ。気遣って貰うだけでは駄目だ。一方通行では心を通わせられない。
 自分も未琴を支え、気遣い、お互いに相手の事を思いやる。大切な者を、守るべき者を放さないためにも。
「冬摩……」
 未琴は消え入りそうなか細い声で呟きながら、冬摩の胸に顔を埋めて背中に手を回す。そして愛おしそうに頬ずりした後、顔を上げた。
 未琴の瞳が閉じられる。冬摩は彼女の薄桃色の唇に、自分の唇を重ね合わせた。互いの口腔に舌を這わし、唾液を交換し合う。少し口を離して唇をついばみ合い、相手の歯茎を舌でなぞり、また、濃密な口付けを交わそうと舌先を相手の口に近づけ――
 ――鉄錆の味が広がった。
「な……」
 腹部に広がる灼熱の塊。体に押しつけられた圧倒的な破壊力を不意に食らい、冬摩は未琴と抱き合ったまま背中から壁に叩き付けられる。
「失望したぞ、冬摩。我が見たかったのはそんな陳腐な子供劇ではない。貴様ら二人が醜くいがみ合う姿だ」
 いつの間にか自分の目の前に、白の陣羽織を纏った厳つい体の大男が立っていた。足下に付かんばかりに長く伸びた緋色の髪を揺らし、金色の双眸に冷たい輝きを宿してコチラを睥睨している。
「と、父さん……」
 最強の魔人、龍閃は口の端で音を立てて『何か』を噛みながら、悠然とした所作で近づいて来た。
「まぁ良い。紗羅ほどではないが、予想以上に未琴の肉が美味い。親子とは好みの味まで似るのか。今回はコレで機嫌を直してやろう」
 未琴の肉。
 その言葉で、背筋に氷柱が突き刺さったような悪寒が走る。
 未琴は今、自分の胸の中に居る。そして龍閃はその未琴の後ろに立っている。
 その位置から自分の腹に、龍閃の腕が突き刺さった。つまり――
「未琴!」
 体から引き剥がした未琴の腹部は赤黒く染まり、白かったはずの袖長白衣は次々と紅に支配されていった。
「もう少し……お前と一緒に、居たかった……のにな……」
 途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、未琴は力無く微笑んで見せる。
「喋んな! 喋るんじゃねぇ! こんな傷、紫蓬の『六合』ですぐ治る!」
「冬摩……お前と過ごした、時間は……。私、の……宝物、だ……」
 大きく咳き込み吐血しながらも、未琴は笑みを絶やさない。苦しいはずなのに、全くそんな素振りを見せない。まるで自分に心配掛けまいとして、無理をしているかのように。
「冬摩……」
 未琴は力を振り絞るようにして手を持ち上げ、冬摩の頬をそっと撫でた。そして今までで一番明るく笑い、
「愛、して……る……」
 掠れた声でそう言い終えた直後、冬摩の腕の中で未琴の重みが急激に増す。
 まるで糸の切れた操り人形のように手足を弛緩させ、硝子玉のように虚ろな瞳を中空に投げ出していた。
「未琴……?」
 呼び掛ける。
 だが返事はない。
「未琴……」
 もう一度名前を呼ぶ。
 しかし声は返ってこない。
 意志が強く凛と張り、どこまでも透き通った未琴の声はもう聞こえない。陽光のように温かく、優しい肌の温もりはもう感じられない。どこまでも大らかに自分を包み込み、慈母に抱かれたような安堵をもたらしてくれた未琴の心はもう伝わってこない。
 何も……。何、一つとして……。
「最後の寸劇。なかなか面白かったぞ。良い余興になった」
 喉を震わせて低く笑う龍閃。
 冬摩はゆっくりと顔を上げ、困惑に染まりきった目を向けた。
「どうして……」
 徐々に体温を失っていく未琴を抱きかかえながら、冬摩は独り言のように呟いた。
「どうして、こんな事を……」
 目の奥に熱い物が生まれ、ソレが眦で顕在化して頬を伝っていく。
「クッ……」
 冬摩の反応に龍閃は愉悦に顔を歪めた。そしてコチラを見下ろして嘲笑を浮かべる。金色の双眸を狂喜に曲げ、龍閃は腹の底から哄笑を上げた。
 今、自分の目に映っている物、全てが悦楽だと言わんばかりに、龍閃は口を大きく開けて凶声を轟かせる。
「どうして未琴を……」
 どうして未琴が。どうして未琴がこんな目に……。
 どうして。どうして。どうして……!
 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!
「人間と共存しようって言ったのはアンタじゃないか!」
 冬摩の叫び声にも龍閃は笑いを止めない。手に残っていた『何か』を真紅の爪でつまみ上げ、冬摩に見せつけるように口の中に放り込む。そしてまた大きく音を立てて咀嚼した。
「何とか言えよ! 父さん!」
 だが龍閃は何も答えない。厭らしい笑みを浮かべたまま、口の中の物を楽しんでいる。
 すなわち――未琴の肉を。
「テメェ……」
 冬摩の頭の中で何かが音を立てて壊れた。
 これれまで抱いていた常識や価値観が裏返り、さっきまで自分の立っていた足場が根底から覆される。
 身を焼く情念。
 心を灼く執念。
 それらが冬摩の中でどす黒い光を伴って一体となり、躰を内側から喰らい尽くす業怨へと昇華する。
「ブチ……殺すぞ!」
 未琴の背中で右腕にはめられた法具を掴み、力任せに引きちぎる。
 『痛み』は感じない。そんな物を感じている余裕など残っていない。
 今、冬摩の中を埋め尽くしているのは純然たる復讐心。龍閃が物言わぬ肉塊へと変貌する瞬間だけ。
『ガアアァァァァアアァァァァァ!』
 獣吼を上げ、冬摩は真上に飛び上がる。未琴から体を離した後、両足で天井へと着地し、その板を力強く蹴った。
「クタバレ!」
 全身の力を右腕に集中させ、冬摩は固く握りしめた拳を龍閃の頭上に打ち下ろす。
「脆弱よ」
 しかし、目の前に現れた漆黒の盾によって、冬摩の拳撃はあっけなく受け止められた。
「コ……ノ……!」
 しかしそれでも構わず拳を埋め込もうとする冬摩の視界に、黒い影が入り込む。ソイツは左腕で冬摩の体を抱きかかえると、龍閃の生み出した『金剛盾』を蹴って距離を取った。
「魎……! テメェ!」
「牙燕!」
「応!」
 魎が叫んだ直後、何人もの巨体が龍閃の周りを囲む。
「小賢しい」
 龍閃の太い腕が巨体の頭の一つを掴んだ。そして事も無げに握り潰す。
「む……」
 しかし絶命したと思われた巨体は、一瞬ぶれて姿を消す。そしてすぐ隣りに同じ巨体が出現した。
「『幻影』か……」
 龍閃の苦々しそうな声。
「一端引くぞ、冬摩」
 そして耳元で聞こえる魎の声。
 魎は左腕で自分を、そして右腕で未琴の体を抱きかかえると、家の屋根を突き破って大きく跳躍した。
 視界の中で激的に姿を小さくしていく龍閃。その口が不敵に曲げられたような気がした。
「あの、ガキ……!」
 歯を剥き、冬摩は収まりのつかない殺戮衝動に身をよじらせる。しかし魎の腕はほどけない。
「やれやれ、私の『無幻』が効かないくらいに血が上っているとはな。大した物だ」
『絶対に――コロス!』
 冬摩の怨嗟を込めた獣吼が、平安の都に木霊した。




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