貴方に捧げる死神の謳声 第零部 ―復讐の業怨―

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四『過去との決別』


◆弱き者 ―冬摩―◆
 皮膚に伝わるのは固く、冷たい感触。壁に開いた拳大の穴から差し込む光が、座り込み、俯いた自分、そして手足に直接打ち込まれた琥珀色の楔を浮かび上がらせる。
 ソレは冬摩の体を地面に縫い止める呪針。魎が行使する怨行術。
 もう、この石牢に幽閉されてどの位の時間が経ったのだろう。
 一年か、十年か。それとも百年以上なのか。
 自分の体で老いという物を感じないため、外界の流れを読みとれない閉鎖空間に長く居ると、時の感覚が麻痺してしまう。
「未琴……」
 それは愛しい人の呼び名。
 口にするのは、これで何度目になるのか。
 自分で発したその名前を聞くたびに、何度も同じ思考が繰り返される。何度も何度も彼女の顔が思い浮かぶ。
 未琴は、本当におかしな女だった。

『貴様は……私が殺す……』

 初めて彼女と出会ったのは、陰陽寮に攻め込んだ時だった。
 丁度、未琴が離殿で夜の見張りをしていた。あの時は正真正銘、敵同士だった。
 人間にしては強い力を持っていたが、所詮自分の敵ではなかった。だが、しつこく食い下がってきた。半死半生の体なのに、力強い輝きを両の瞳に宿して、決して諦めようとしなかった。

『私には守るべき者がある』

 ソレが未琴の強さの源泉だった。
 守るべき者。ソレは自分の妹、そして家族。
 妹を人質に取られ、家族への資金援助を理由にされ、未琴は陰陽寮の守護巫女になる事を強いられた。そして五年間、強い志を胸に、ただじっと耐えていた。
 全ては守るべき者のために。

『私は不器用だからこんな生き方しかできない』
 
 不器用。
 ソレは未琴だけではない。自分も同じだ。気持ちを素直に言い表す事が出来ない。
 ひねくれていて、意地っ張りで、強情で。本当は未琴の事が気になってしょうがないのに、自分の中でなかなか納得できなかった。
 殺されそうになった男に対して礼を言う未琴に。殺そうとした女の事で心が埋め尽くされていく自分に。

『冬摩! 有り難う!』

 面と向かって、あんな言葉を掛けられたのは初めてだった。
 自分には一生縁のないモノだと思っていた。乱暴で、後先考えず、ただやりたい事を好きなだけやる自分には。

『冬摩。いつまでもそのままで良いと思っているのか?』

 しかし、未琴が教えてくれた。自分を抑え込む事を。相手を思い遣り、優しい気持ちになるという事を。
 そして未琴と一緒に居ると、何もしなくても穏やかな気持ちになれた。
 彼女が隣に居てくれる。ただそれだけで幸せな気分になる事が出来た。

『冬摩。私はこの先一生、お前に尽くそう』

 熊を都に連れ帰ったあの日から、自分達は一緒に暮らし始めた。
 未琴の親や自分の親にも話をして筋を通し、周りに居る全員から認められた。

『冬摩。今日は山菜を摘みに行こう』

 昼間は未琴と一緒に外を出歩いた。場所はどこでも良かった。山で必要な分の食料を取ったり、川で水遊びに興じたり、大樹のてっぺんで遠くを眺めたりもした。

『ソレはさっき釣った川魚の塩焼きだ。あまり慌てて食べると骨が喉に刺さるぞ、冬摩』

 昼食、夕食と未琴が作ってくれた料理は格別だった。脇目もふらずに手と口を動かした。喉を詰まらせた時、何も言わずにお茶を差し出してくれる未琴が愛おしくて、二人で体を寄せ合って食べた。
 
『冬摩、私が欲しいか? 私は……お前が欲しいぞ』

 夜はお互いの体を求め合った。どちらも積極的に、そして情熱的に。思考や行動が原初に還り、動物のように快楽を貪った。

『冬摩。お前の寝顔は見ていて飽きないな』

 朝は同じ布団で目覚め、一緒に湯浴みをした。
 そしてまた外に出た。未琴と共に。
 何をするのも、どこに行くのも未琴が隣に居てくれた。まるで自分の体の一部のように、決して離れる事はなかった。ソレが当たり前だった。
 未琴は自分にとって唯一無二の大切な存在、至上の宝石、命を賭して守るべき者。
 未琴は色々な物を自分にくれた。

『冬摩。この一年で随分と変わったな。以前よりずっと優しくなった。荒々しかったお前も好きだが、今のお前の方がもっと好きだぞ』

 包み込むように、

『私は、何があってもお前を信じる。もし仮に魔人の血が悪さをして、お前が人間の敵に回ろうとも、私はお前に付いていく。だからずっと一緒だ。冬摩、お前は自分が正しいと思った事をしてくれ。私はソレに従う。私とお前は一心同体だ。身も心もな』

 慈しむように、

『冬摩、そんな顔をするな。私が人である以上、老いは避けられない。私はお前より早く寿命を迎えるだろう。だが悲しむ事はない。私はずっとお前の心の中に居る。だから、その時は笑って送り出してくれ。笑顔は、辛い時や苦しい時にこそ浮かべるものだ。自分の心を、さらに強くするためにな』

 そして、諭すように。
 未琴は自分に色んな顔を見せてくれた。
 未琴のおかげで沢山の自分を見つけ出す事が出来た。
 未琴がそばに居てくれる事で強くなれた。
 これからも自分の知らない多くの物を未琴から得ようと思っていた。学ぼうと思っていた。彼女が天寿を全うする前に、未琴の全てを知ろうと思っていた。
 なのに――

『もう少し……お前と一緒に、居たかった……のにな……』

 奪われた。

『冬摩……お前と過ごした、時間は……。私、の……宝物、だ……』

 自分の全てを。

『愛、して……る……』

 守るべき者を。

「龍閃……」
 自分の父親に。いや、大切な母親を喰い殺した屑野郎に。
 騙された。あの涙に。
 裏切られた。父親への思いを。
 踏みにじられた。未琴が教えてくれた、信じる心を。
 いや、悪いのは龍閃だけではない。
 今、最も許せず、何よりも腹立たしいのは自分自身だ。
 あの時、龍閃の接近に気付いていれば。最初から龍閃の言葉になど耳を傾けなければ。もっと未琴の事を見てやれば……!
 未琴は龍閃の様子がおかしい事に薄々気付いていた。そしてそんな未琴に自分も気付いていた。だが聞けなかった。聞いてしまえば、迷いが生じるから。龍閃と未琴、どちらを信じればいいか分からなくなるから。
 全ては自分の責任だ。未琴を心の底から信じていればこんな事は起きなかった。魎と一緒に龍閃の凶行を止められた。
 未琴の想いに応えてやれなかった。未琴はあんなにも自分を信じてくれていたのに。自分は未琴より、龍閃の方を……!
「……!」
 何かを感じて冬摩は顔を上げた。しかし、呪針によって手足が石の床に繋ぎ止められているため、立ち上がる事は出来ない。
「あー、完全に気配も姿も消したはずなんだがなぁ。うーむ、腕が鈍ったかな?」
 誰かが独り言のように呟いたかと思った直後、石牢の壁の一部が外側に開き、これまでとは比べ物にならない光量が中に押し入って来る。
「魎……」
 気乗りしないような仕草で広い額を撫で上げながら、魎は分厚い鉄製の扉をくぐって石牢に足を踏み入れた。
「あー、久しぶりだな、冬摩。気分はどうだ」
「……良い訳ねーだろ」
 自分をココに閉じ込めた張本人を下から睨み付け、冬摩は低い声で言う。
「少し痩せたか? まぁ、一月も飲まず食わずじゃ無理もないか」
「……何しに来やがった」
 一月。たった一月しか経っていないのか。あの悪夢から、たった一月しか……。
「あー、ココから出たくないか? もう前みたいに暴れないと約束するんなら出してやっても良いぞ」
「……けっ」
 不機嫌そうに舌打ちし、冬摩は魎から顔を逸らした。
「龍閃に復讐したくないのか?」 
 その言葉に冬摩は目だけを向けて、魎を鋭く射抜く。
 龍閃。自分を裏切り、母親と未琴を奪った魔人。
 名前を聞いただけで体の内側にどす黒い炎が生まれ、精神を蹂躙していくのが分かる。しかし、苛立ちと焦燥と憤怒をない交ぜにした激情は、すぐに自分へと向けられた。
「魎……頼みがある」
「あー、出して欲しいんだな?」
「今すぐ俺を殺せ」
 そして未琴の元に送れ。
 ソレがこの一月の間、考え抜いて出した結論。もう今はそれ以外考えられない。守るべき者を守れないような奴に生きている価値など無い。
「あー、残念だがそれはできん。お前は貴重な戦力だからな。勝手に死なれては困る」
「ならとっとと出てけよ。お前なんかに用はねー」
 ふてくされたように言って、冬摩は魎から目を逸らす。手足が動かせないから、自分で自分の核を抉り出す事も出来ない。魔人が餓死するには何百年掛かるか分からない。手っ取り早く死ぬには、やはり誰かの手で――
「やれやれ……ちょっと見ない間に随分と根性無しになったモンだな。それじゃ未琴さんも浮かばれんぞ」
「未琴の名前を軽々しく口にすんな!」
 無気力に言った魎に、冬摩は歯を剥いて激昂する。
「お前にアイツの何が分かる! お前がアイツに何をしてやれたんだ! 未琴の事何も知らねーくせに、偉そうな口叩くんじゃねー!」
「じゃあ、お前こそ何をしてやれたんだ。そうやって子供みたいに拗ねてるのが未琴さんへの手向けになるとでも言うのか?」
「だから殺せっつってんだよ! 俺はアイツに……! アイツに、何も……!」
 もし手足が動くなら、自分の体を細切れにしているだろう。果てしない激痛をこの身に受け入れ、未琴の苦しみを少しでも味わいながら死んでいく。ソレが今の自分に捧げられる、せめてもの手向けだ。
「あー、やれやれ。まさか、こんな形に収束するとはな。とんだ誤算だ。長く閉じ込め過ぎたか。コレは私の責任だなー。また紫蓬にどやされる。まいったまいった」
 額を軽く叩きながら、魎はまったく困ってなさそうな表情で呟いた。
「冬摩、お前が自分を責める気持ちも分かる。だがな、あの時は仕方なかった。龍閃に魅せられたのは不可抗力だ。あの時のお前はそういう奴になっていた」
 魎は冬摩の前にしゃがみ込み、目線の高さを合わせて諭すような口調で言う。
「未琴さんがお前を変えたんだ。思い遣りをもって誰かと接するように。相手を傷付けないよう気配りするようにな」
「テメー! 未琴が悪いってのか!」
 魎に拳を振るおうとするが、呪針の突き刺さった傷口が広がるだけで、腕は全く持ち上がらない。
「そうだな。純粋な戦いの場に置いて、そのような感情は不要だ。だが、今回の戦いはそれ程単純じゃない。何も考えずに行動すれば一瞬で龍閃に殺される。相手を思い遣る気持ちとは、相手の事を考える心。つまり、向こうの立場になって行動を読むという事だ。龍閃は力もあるが、その力を最大限に活かす狡猾さも持っている。力押しでどうにかなる相手ではない。だからそういった洞察力が要求される。未琴さんはお前にその力を与えてくれた。コレがどういう意味か分かるか?」
 冬摩と真っ正面から目を合わせ、流れるような言葉運びで魎は淀みなく喋る。冬摩は低い呻り声と共に息を吐いた後、不愉快そうに顔をしかめた。
「……龍閃と戦えってのか」
「そうだ。未琴さんとそのご家族。それにお前の母親、紗羅さんの仇を取るためにな」
 仇。そう、龍閃は母親の、そして未琴の仇……。二人の笑顔を自分から奪った男。掛け替えのない宝物を壊した男。
「悔しくないのか、冬摩。このままではやられっぱなしだぞ」
 そして自分の気持ちを嬲った男。あまりに一方的に。あまりに唐突に。
「知りたくないのか、冬摩。龍閃が何故このような凶行に走ったのか。何故未琴さんや紗羅さんは死ななければならなかったのか」
 何故――
 何故こんな事を。
 いくら考えても答えなど出てこない。いくら考えても分からない。
 あの涙の意味が。母親の無惨な姿の前で、悲嘆にくれていた龍閃の姿の真意が。
「よく考えてみるんだ、冬摩。自分が生まれた意味を」
 意味……自分の生まれた意味……。
 そんなモノはない。そんなモノがあるなら教えて欲しい。母親の負担になり、未琴が死ぬ原因を作ってしまった自分の存在意義を。 
 自分が生まれなければ、自分が未琴と出会わなければ、こんな辛い目に遭わずにすんだ。
 最初からこの世に生を受けなければ――
「お前は最初から利用されるために生まれたんだよ。今回のような事態が起こった場合、全ての責任をなすりつけるためにな。龍閃の自分勝手な都合で」
 利用されるために? 龍閃の都合で? なら最初から龍閃は人間達を喰い殺すつもりで?
「前にお前が帝を殺そうとした時に言っただろう。放って置いても和平は崩れるってな。まぁ、そういう事だ」
 自分に責任をなすり付けても、二人目三人目の子供に同じ事をしたとしても、ソレは一時的な解決策に過ぎない。人間を喰い殺し続けていれば、いずれ龍閃の仕業だと発覚する。そしてその時は、迷う事なく和平を反故にするつもりだった。
 最初から。自分を生む前から。和平を結ぶ前から。
「魎……テメェもその事、最初から知ってやがったのか……」
「まぁな」
「何で黙ってやがった!」
「知ってどうする。龍閃にそんな事は止めろと言うつもりか? 朝廷に密告でもするつもりか? どちらにしろお前が殺されるだけだぞ」
「そんな事は聞いてねー! 何で隠してやがったか言えってんだよ!」
 目を大きく見開き、冬摩は石牢に大声を反響させる。
 最初から自分は踊らされていただけだというのか。龍閃の手の上で。呈の良い隠れ蓑として。あの時見せた涙も、全ては自分を操るための演技だとでも言うのか……!
「あー、まぁ、ある程度経ったら言うつもりだったんだがな……。実はな、今回の事は私にもよく分かってないんだよ。何故いきなり龍閃が暴走したのか」
「白々しい事ぬかしてんじゃねー! テメーが言ったんじゃねーか! 人間共とまた殺り合うってよ!」
「ならどうして私はココに居るんだ? 何故、龍閃と共に居ない? 私だけではない。紫蓬も牙燕も龍閃には付いていっていない。それどころか人間と強く結託している。何故だと思う?」
 両腕を広げ、魎はどこか芝居がかった仕草で冬摩に聞いた。
「全ては龍閃を倒すためだ。龍閃がしているのは魔人という種族を繁栄させるための行動ではない。完全に自分の欲求を満たすためだけの暴挙だ。和平の破棄とか言うそんな生易しいモノじゃない。今の龍閃は危険だ。私も喰われかけた。だから冬摩、龍閃は人間と魔人両方の敵となった」
「両方の敵だぁ……?」
 人間と魔人の? 馬鹿な。
 では何か? 今回、龍閃が突然暴れ出したのは魎に取っても予想外だというのか?
「けっ! ンなモンが信じられるとでも思ってんのか!」
「まぁ、信じられないだろうな。だからお前を呼びに来た。百聞は一見に如かずだ。外に出て、その目で見てみる気はないか?」
 口の端をつり上げ、魎は挑発するような笑みを浮かべる。
 外に出る? 暴れるからと言ってココに閉じ込めておきながら、少し大人しくなったから連れ出すだと?
 コイツも自分を利用するつもりだ。龍閃のように。そして要らなくなったら捨てる。
 気にいらない。とにかく気に入らない。
 龍閃も、魎も。目に映る物全てが気に入らない。
 ならどうすればいい。コレまでの自分はどうしてきた。この苛立ちをどうやって解消してきた。
「……出せよ」
 冬摩は壮絶な視線で魎を睨み付け、低い声で短く言った。
 そうだ。潰せばいい。単純な事だ。自分は今までそうやって生きてきた。
 気にいらない物はブッ潰す。気にいらない奴はブッ殺す。
 何も考える事はない。本能のままに生きていけばいい。
 まずは――
「ブッ殺してやるよ。あのクソオヤジを」
 冬摩の言葉を聞いて、魎は呆れたように眉を上げながらも、どこか満足げな表情を浮かべて立ち上がった。魎は右手だけで何かの印を組み、ソレを呪針にかざす。
「あー、いいぞ。術は解いた」
 言われて冬摩は右手を持ち上げる。さっきまでどれだけ力を込めても微動だにしなかった琥珀色の楔は、自然に浮かび上がるようにあっけなく抜け落ち、乾いた音を立てて石畳の上に転がった。続けて左手、右足、左足と、自分を拘束している呪針を全て抜き去った。
「とうだ? 久しぶりに立ち上がった気分は」
 ゆっくりと体を持ち上げる冬摩に、魎は広い額を撫で上げながら言う。
「紫蓬が『六合』を持っていればそんな傷すぐにふさがるんだが……あいにくと二人目の子供に渡した後でな。人間の血が濃いみたいだから、まだ覚醒もしていない」
「いらねーよ、そんなモン」
 右手を強く握りしめる。呪針によって出来ていた傷が少し広がり、拳の隙間から血が溢れ出た。
 石牢の出口に向かって歩く。一歩前に出るたびに、足の裏から湿った音が返ってきた。
 だが全く気にする事なく冬摩は歩を進める。まるで、自分自身にわざと苦痛を植え付けるように。
(未琴……)
 足りない。こんな物ではほど遠い。
 未琴が受けた苦しみに比べれば。未琴が味わった痛みを考えるならば。
 未琴は最後まで笑っていた。体から力が抜け落ちる直前まで、自分に微笑みかけてくれていた。
 守るべき者。自分の中でそう決めた大切な女性を守る事が出来なかった。そんな奴に生きる資格も価値もない。だが、ここで死んだら負け犬も同然だ。
 利用され、大切な者を奪われ、自暴自棄に陥ったままでは屑同然だ。
 気にいらない物はブッ潰す。気にいらない奴はブッ殺す。
 絶対に龍閃をこの世から葬り去る。他のややこしい事を考えるのはその後だ。
「あー、冬摩」
 後ろから魎の声が掛けられる。直後、コチラに向かって何かが放り投げられるのを感じた。体を少し横にずらし、冬摩は後ろ手にソレを受け取る。
 手の中に収まる柔らかい感触。それは小さな巾着だった。
「未琴さんが持ってた物だ」
 見覚えがある。確か、魎から未琴の家族が殺されたと聞いて家に行った時、板間で正座していた未琴が持っていた物だ。家族の形見なのだろうと思っていた。
 薄紅色の巾着の口を、冬摩はそっと開ける。
 中に入っていたのは数本の龍の髭だった。未琴と山菜を取りに行った時、岩影に生えていた丈夫で細長い葉を持つ植物だ。

『冬摩。この葉はどうしてこんな形をしているか知ってるか?』

 二本の葉を器用に編みながら、未琴は嬉しそうに言った。

『一本を自分に、もう一本を想い人に見立てて、こうして一つにするんだ。そうすれば二人はずっと一緒に居られる。まぁ、子供のおまじないのような物だな』

 屈託なく笑う未琴は、いつもよりずっと幼く見えた。 
 あの時、家族を殺されたあの時。未琴はコレを握りしめて、自分を信じようとしてくれていた。これからも二人で一緒に過ごせる事を願って。
「未琴……」
 巾着を握りしめ、冬摩は絞り出すような声で言った。そして中から龍の髭を一本取り出し、長く伸びた黒髪をうなじの辺りできつく縛り付ける。
「俺に力を、貸してくれ……」
 固く拳を握りしめて言った後、冬摩は石牢を出た。
 一月ぶりの外気は、肌を刺すほどに冷たかった。まるで、死を象徴しているかのように。

◆悩める者 ―冬摩―◆
 都は酷い有様だった。
 家屋の半分以上は崩れ落ち、元の形をとどめていない。
 木の下で身を寄せ合う者、ぼろ着を纏い生気のない顔で放浪する者、食料を奪い合い喧嘩をする者。皆、身の心も荒んでいるように見えた。
「あー、どうだ、冬摩。自分で壊した都を見た感想は」
 隣りに並んで歩いていた魎が眠そうに言ってくる。
「俺だけがやったんじゃねーだろ」
 黒髪をいじりながら、冬摩は仏頂面になって返した。
 一月前、龍閃の暴走が始まった時。冬摩は魎に抱きかかえられて一度距離を取った。しかしそれで気が収まるはずもない。
 未琴を殺された恨みを。そして自分の思いを裏切った事への報復を果たさなければ、じっとしていられるはずがない。
 冬摩は魎の腕の中でもがき、その固い拘束を強引に引き剥がした。そして龍閃に挑んだ。
 何も考えなかった。頭にあるのはただ一つ。龍閃を殺す事だけ。
 その事だけに集中し、体を無茶苦茶に動かした。
 いくつか家を壊したかも知れない、大路に巨大な穴を作ったかも知れない、他の人間を巻き込んで殺してしまったかも知れない。
 もう記憶は曖昧で、細かい事など何一つとして覚えていない。
 ただ体に残っているのは龍閃の腹を突き上げた時の感触。左手に伝わる固い手応え。
 次に覚えているのは、すでに石牢に閉じ込められた後。魎の怨行術『烈結界』で力を奪われ、体を動かす事すら出来なくなった。あのままだと龍閃ではなく、自分が都を沈めかねないと思ったのだろう。
 事実、冬摩はあの時、龍閃以外は目に入っていなかった。都が消えて無くなろうが、どれだけ人が死のうが知った事ではなかった。
 龍閃を殺す。ただその目的だけが達成できれば、他の事はどうでも良かった。
「そんで龍閃はどうしたんだよ。まさかお前が殺っちまった訳じゃねーだろーな」
「あー、ソレが出来るなら、お前の力を当てにしたりはせんさ」
 物乞いをしてくる子供に、黒衣から取り出した唐菓子をあげながら魎は言う。
「お前のおかげで、あれから姿をくらましたきりだ。都には来てない」
「俺の? 何だよソレ」
「あー、覚えてないのか? お前が龍閃を追い払ったんじゃないか」
「俺が?」
 覚えていない。全く。龍閃と戦っていた時も、途中から頭の中が真っ白になってしまい、何も見えなくなった。
「あー、まー、かなり限界に来てたからな。無理もないか」
 どこか面倒臭そうに言いながら、魎は黒衣を脱いで地面に寝ている女性の体に掛ける。黒衣の下からまた黒衣が出てきたが、その事について言及する気力は起きなかった。
「あー、ところで冬摩。確認なんだがな」
 コチラに顔を向け、魎は改まった様子で聞いてくる。
「何だよ」
「お前の力の作用点、『右腕』……だよな」
 その問いに冬摩は怪訝そうに眉を顰めた。
「だから何だよ。気にいらねーってのかよ」
「あー、いや。別に。ちょっと聞いてみたかっただけだ。気にするな」
 素っ気なく言って、魎は冬摩から顔を逸らす。
 相変わらず何を考えているのかよく分からない奴だ。
「あー、冬摩。今、平安宮に戦力になりそうな奴が集まってる。生半可な力では龍閃に通用しない。だから選りすぐった少数精鋭で行こうと思う。で、お前が最後だ。これから全員で集まってお前が大嫌いな作戦会議というヤツをやるんだか……その前にちょっと寄り道するか?」
「寄り道? 何だそりゃ」
 魎が立ち止まり都の外に視線を向けたのを見て、冬摩もそちらに顔を向ける。
「お前がいつも行ってた神社があるだろ。あそこに未琴さんの墓を作っておいた」
 その言葉に冬摩も足を止めた。
 未琴の墓。
 魎の言葉が頭の中で何度も響く。体温が一気に下がり、視界が大きく揺れ始めた。気分が悪い、吐き気がする。体の一部に黒い穴が開き、ソレが全身を蝕んでいくような錯覚。身を覆い尽くす虚無感、心を浸食する無力感、気力を根こそぎ奪われていくような脱力感。
「どうした、冬摩」
 未琴の墓?
 では未琴は死んだのか?
 そう、死んだ。龍閃に殺されて。自分の腕の中で息を引き取った。
 ソレは間違いない。未琴はもう、この世にいない。
 なのに何故。
 何故こんなにもはっきりと未琴の感触が残っている?
 まるですぐ隣りに未琴が居て、自分の名前を呼んで話し掛けてくれそうな程にはっきりと。
「おい、冬摩」
 認めたくない、受け入れたくない。未琴が死んだなどと。
 認めなければ、受け入れなければ。未琴が死んだ事を。
 相反する二つの声が、耳元で何度もささやかれた。
 何度も何度も同じ言葉を繰り返され、そして最後に一つの残響がわだかまった。
「いや……今は、いい」
 冬摩は弱々しい顔になり、呟くような小声で魎に返した。
「ん? そうか。まぁお前がそう言うんなら」
 意外そうに言って、魎は大路を歩き始める。その後ろについて、冬摩も緩慢な動きで足を前に出した。
 見たくない。今はまだ、未琴の墓を見たくない。見るだけの勇気がない。
 墓を見てしまうと、未琴が自分の心の中からも居なくなってしまいそうだから。

 平安宮の朱雀門をくぐってすぐの場所にある朝堂院。
 朱色の太い丸柱で支えられた天井には、樫の木で作られた頑丈な梁が渡され、屋根の上には黒い漆喰を塗り込めた板が奇麗に並べられている。磨き上げられた板敷きの廊下を歩き、冬摩と魎は朝堂院の一番奥にある大極殿へと足を運んだ。
 二十畳ほどの大広間。本来、都の政治や特別な儀式を執り行うその場所には、上座に居る帝の前に十数人の者が座していた。集まった者の中に女も居るせいか、帝は顔を青くして震えている。それでも例の病気からは随分と立ち直った方だ。
「あー、連れて来たぞ。改めて紹介しよう。コイツが都を龍閃の魔の手から救った英雄、冬摩だ」
「はぁ?」
 魎に背中を押され、強引に前に出された冬摩は素っ頓狂な声を上げた。
「ほー、ほぅほぅ。いやいや、お主がなぁ。陰陽寮での活躍もあっぱれだったが、ソレを更に上回る働きか。実に心強い味方よ」
 帝の右前に座っている長く髭を伸ばした初老の男性が、鷹揚に笑いながら話し掛けてきた。
「なんだぁ? テメーは」
 自分の事を知っているかのように馴れ馴れしく喋る男に、冬摩は不愉快そうな声で返す。
「ワシの夫に向かってその口の利き方は何ぞ。この無礼者め」
 その男に寄り添うようにして座っているのは、円筒形をした桃色の髪を持つ幼女、紫蓬だった。
「おっと……オット……夫ぉ!?」
 目を剥き、冬摩は甲高い声で聞き返す。
「あー、そうだ。土御門の姓を引く最後の当主であり、今は紫蓬と夫婦の関係となった陰陽師殿だ」
 後ろからの魎の説明に、冬摩は目を白黒させながら土御門と紫蓬を見比べる。
 どう見ても祖父と孫の関係にしか見えない。
「あー、冬摩。お前の言いたい事はよく分かる。よーっく分かる。だが絶対に口にするなよ。私も被害を受けるからな」
 冬摩の肩に手を置き、魎は沈痛な喋りで声を掛けてきた。
「それに私達魔人が今こうして人間と手を組めるのも、あの方の口利きがあったからこそだ。龍閃があんな大々的に人間を喰い殺したんだ。和平を破棄されて、私達も敵視されていてもおかしくない。むしろソレが普通だ。けど紫蓬があの爺さんをたぶらかし……あの方の心を奪っておいてくれたおかげで事は穏便に収まった。それとお前が馬鹿みたいに……勇敢に龍閃に立ち向かってくれたおかげで、私達魔人の株は急上昇だ。いいから今はとりあえず周りに話を合わせておけ」
 耳元に口を寄せ、本音を混ぜながら小声で話しかけてくる魎に、冬摩は胡散臭そうな顔を向ける。
「テメーはいつもそうやって……」
「何でぃ何でぃ! コレからいっちょ大決戦おっぱじめようってのにソノしけたツラは! テメーも男なら胸張りやがれぃ!」
 紫蓬の隣りに座っていた上半身裸の大男が突然立ち上がり、怒鳴りつけるような大声で言葉を発した。
「……おい魎、何だアレは」
 半眼になり、冬摩は大男の方を指さしながら疲れたように聞く。魎も同じく疲労を顔に滲ませ、額に手を当てて口を開いた。
「あー、アレはな……」
「聞いて驚け! 知って喚け! 泣く子も号泣する色男! 天下に轟く美声の持ち主! オレっちの名前は――」
 激しい音と共に大男の顔が床にめり込んだ。
「ワシの失敗作。牙燕ぞ」
「そ、そぅれふぅ〜……」
 紫蓬の小さな手で後頭部を鷲掴みにされたまま、牙燕の声が床の下から力無く聞こえてくる。
「あー、まぁ、アレでも一応魔人の血が濃くて、『紅蓮』を保持しているヤツだ。戦力にはなる。欠陥品である事には変わりないがな」
 紫蓬に向かって力強く親指を立てながら、魎は面倒臭そうに言った。
「で、左の方に座っているのが奥から順に、『貴人』『青龍』を保持する篠岡殿、『天空』を保持する嶋比良殿、『玄武』を保持する九重殿だ。みんな強力な力を持った陰陽師だぞ。戦っていた時は色々と苦労させられた」
 魎の説明に、冬摩は興味なさそうに顔を左に向ける。三人とも烏帽子に束帯といった同じ格好をしているからか顔まで同じに見える。
「それで一番手前に座っているのが神楽(かぐら)さんだ」
 自分の足下。巫女装束を纏って正座している女性に目を向けた時、冬摩の体は殆ど反射的に動いていた。
「未琴!」
 冬摩は彼女の肩を強く掴んで顔を寄せる。
 艶やかな長い黒髪。澄んだ瞳。高い鼻梁。桜色の唇。鋭角的な顔の輪郭。そして新雪のように白い肌。
 間違いない。未琴だ。
 今まであまりに近すぎて目に映らなかった。魎に言われて初めてソコに人が居る事に気付いたくらいだ。いや、彼女だけではない。他の人間共になど興味はなかった。最初から共闘するつもりなど全くなかった。取り合えず魎に従うフリをしておいて、機会を見つけて抜け出そうと思っていた。そして一人で龍閃を殺しに行くつもりだった。
 だが、もうそんな事はどうでも良い。龍閃など放っておけばいい。未琴が、未琴さえ側に居てくれるなら他に何も要らない。
 守る。何としてでも彼女を守る。それだけを考えていればいい。
「あ、あのー、初対面、ですよね……?」
 彼女は少し困ったように鼻の頭を掻くと、乾いた笑みを漏らした。
「な……! 何言って……!」
「あー、冬摩。そのくらいにしておけ。彼女は未琴さんじゃない。神楽さんだ。確かに、驚くほど似ているがな」
 さらに詰めようとする冬摩の体を片手で押さえつけ、魎は冷静な声で言う。
「かぐ、ら……?」
「あ、はい。私、神楽真尋(まひろ)と申します。今まで他の妖魔討伐に行っていて都には戻って来られませんでしたが、帝の勅命を受け、ここに馳せ参じた次第で御座います」
 呆けたような声を発する冬摩に、神楽真尋と名乗った女性は微笑みながら丁寧に言った。
「彼女は十鬼神『死神』の保持者だ。人間の体ではさすがに『復元』は使えんが『真空刃』と『飛翔』は強力な武器になる。それからあそこに居るのが『羅刹』の保持者――、であ――が『白虎』――から、一番――が『大裳』の保――。――から、今は居な――草壁と葛城という――」
 魎の言葉など殆ど耳に入ってこなかった。
 冬摩は神楽から目を離せなくなっていた。
(未琴、じゃない……?)
 そんな馬鹿な。こんな瓜二つの顔をした女性が他に居るか。
 間違いない。彼女は絶対に未琴だ。未琴のはずなんだ……!
「あー、ちょっと離れろ冬摩。神楽さんが困ってるだろ」
 魎に肩を引かれ、冬摩は体勢を崩して尻餅を付く。
 だがそれでも冬摩は神楽から視線を逸らさない。心の奥底を見透かすかのように、大きく見開いた両目で彼女を凝視する。
「あの……そんなに似てるんですか? 私? その、未琴さんって方に」
 未琴の口から発せられる異様な言葉に、冬摩は胸が締め付けられた。
 どうして自分の名前を呼んでくれない。どうして他人行儀な喋り方をする。どうして自分が未琴ではないような演技をするんだ……!
「あー、会った事はありませんか。貴女と同じ、陰陽寮に勤めていた守護巫女なのですが」
「さぁ……陰陽寮には人が沢山居ますから……」
「あー、そうですか。まぁ貴女は“神楽”という立派な姓を持った方だ。未琴さんとは位が違う。会わないのも無理ないかも知れません」
「すいません……」
 言いながら彼女は俯いた。
 違うのか? 本当に未琴ではないのか? 外見だけではなく、声までもが同じだというのに。
「あー、いや。別に神楽さんが悪い訳じゃないですよ。コチラが勝手に勘違いしただけですから」
 魎は冬摩のぼろ着のようになった服を掴み、床を引きずって強引に神楽から引き離した。
「あー、では全員が揃い、紹介もすんだところで、今後龍閃とどう戦うかについて話したいと思う」
 少し声を張り上げて魎が話し始める。しかし、冬摩の耳には全く入ってこない。ただ放心したまま、神楽を見続けるだけだった。

 夜。平安宮を抜け出し、冬摩は陰陽寮の近くにあるクスノキの上で、未琴がよく居た中庭を見下ろしていた。

『冬摩、私は最近思うんだ。どうしてお前が魔人で、どうして私が人間なんだろう、ってな。お前が人間だったら、きっともっと早くに出会えただろうし、私がもし魔人なら、何百年もお前のそばに居られるのにな』

 石牢の中でずっと未琴の事を考え続けてきた。
 声を聞きたかった。体に触れたかった。
 それにはどうすればいいか、ずっと考えていた。
 一つだけ、方法があった。
 それは未琴を自分の召鬼にする事。召鬼にすれば、たとえ死人であっても一時的に蘇る。
 だが、それは完全な再生ではない。死人から生み出した召鬼は不完全で、いずれまた土に還る。そして間違いなく今と同じ、いやそれ以上の苦しみに襲われる。何度も同じ傷口を斬りつけられるかのように。
 そんな事は絶対に耐えられない。自分は確実に発狂する。
 だから押し殺した。本能から来る圧倒的な欲求を。死者への冒涜を。
 だがまた未琴に触れる事が出来た。未琴の声を聞く事が出来た。
 そう思っていた。思っていたのに。なのに……。
「あ、あのー、すいませーん!」
 下から聞こえた未琴の声に、クスノキの枝の上で冬摩は体を起こした。慌てて下におり、声の主の顔を見る。
 未琴だった。昼間見た時と全く同じ。未琴の顔そのものだった。
「あの、寝ないんですか? 明日に備えて休んでおいた方が良いですよ」
 だが喋り方はまるで別人だ。未琴はもっと強い口調で、はっきりと喋っていた。
「神楽、か……」
「はいっ」
 冬摩の言葉に神楽は声を弾ませる。ようやく自分が未琴ではないと分かってくれて嬉しいのだろう。
 だが、心から分かったわけではない。割り切れたわけではない。ただ単に理屈で自分に言い聞かせているだけだ。未琴の面影を色濃く残す彼女を、そう簡単に否定する事は出来ない。
「眠くねーんだよ」
 一月以上まともに睡眠を取っていないのに、全く眠気が起きない。原因は勿論、目の前に居る未琴にそっくりな女だ。
「なぁ神楽、頼みがあるんだ」
 自分でも女々しい願いだと思う。だが、言わずにはいられない。
「はい、何でしょう」
「“冬摩”って、呼んでみてくれ」
 未琴が自分をそう呼んだように。いつもそうやって呼び掛けてくれたように。
「“冬摩さん”、ですか?」
「違う。“冬摩”だ」
 言われて神楽は鼻の頭を掻き、困ったような表情を浮かべた。
「ぇ、えーっと。会ってすぐの人を名で呼ぶのは照れますね……。あっ、そーだ! 貴方も帝から姓を頂いたらいかがですか? この都を救ってくださった英雄様ですから、帝も認めてくださるでしょうし」
「……いらねーよ。そんなモン」
 溜息をつき、冬摩は神楽から視線を逸らした。そしてすぐにまた向け直す。
「なぁ神楽。お前の事、抱きしめてもいいか?」
「えっ……?」
 冬摩の二つ目の願いに、神楽は一歩後ずさった。
「そ、それは……さすがにちょっと……」
 両の手の平をコチラに向けて拒絶する神楽に、冬摩の胸がまた締め付けられる。
「あぁ、悪かっ――」
 神楽に謝ろうとした冬摩の全身に、突然戦慄が走った。
 目を鋭く細め、周囲の雰囲気を油断なく肌で感じ取る。
「ど、どうかしたんですか……?」
「囲まれた」
 不安気に言う神楽に、冬摩は短く返した。
 顔を動かす事なく、体に伝わってくる気配だけで相手の数を把握していく。
 少なくとも十人以上。皆、自分に対して壮絶な殺意を抱いている。そして殺意や気配に混じって感じる、全く異質の物。
 未琴が言っていた。相手を感じるのは気配だけではない。そのモノから流れ出る思考の波のような物。すなわち波動。ソレを知覚する事でも相手を探る事が出来る。
 今日、石牢に魎が来たのが分かったのも、あの男特有の波動を感じたからだ。
 そして今感じている黒い波動。忘れようもない。忘れられるはずがない。
「龍閃の召鬼か」
 暗闇の闖入者に、冬摩は好戦的な笑みを浮かべた。
 さっきまで心の中に張り付いていた、未琴と神楽を重ね合わせようとする粘着質な思考が剥がれ落ち、目の前の血肉の宴へと集中が向けられていく。
 丁度良い。思いきり暴れたいと思っていたところだ。
「わ、私皆さんを呼んできます!」
 土塀の影から姿を現した虚ろな表情の人間達を見て、神楽は焦った声で叫んだ。
「必要ねーよ。ココでじっとしてろ。一瞬で終わる」
 分かる。波動に乗って相手の力量までもが。
 コイツらは確かに龍閃の召鬼だ。だが話にならない。この程度で自分を何とか出来るとでも思っているのだろうか。随分とみくびられたものだ。
 冬摩は口の端をつり上げて不敵に笑い、地面を強く蹴った。さっきまでかなり離れた土塀のそばに居た人間の顔が、まるで引き寄せられたように一瞬で右腕の届く距離に来る。
「オラァ!」
 喜々とした大声を上げ、冬摩は相手の顔に右腕を埋め込んだ。腕はそのまま貫通し、肘の辺りまで鮮血で染まる。
 直後、背後で感じる闇の波動。冬摩は後ろを振り向く事なく、体を横に流した。次の瞬間、さっきまで冬摩の居た位置を何かが通り過ぎ、地面の土を大きく抉って行く。
「おせぇんだよ!」
 後ろから大振りに放たれた召鬼の爪撃を難なくかわし、冬摩はソチラへと振り向く回転に乗せて爪先を召鬼の腹にめり込ませた。
 低くくぐもった声を上げ、召鬼は後ろに居た別の召鬼に体をぶつける。
「クタバレ!」
 重なり合った二つの体に向かって跳び、冬摩は手前に居た人間の鳩尾に右拳を叩き込んだ。僅かな抵抗感。だが、殆ど勢いを殺される事なく、冬摩の右腕は二人の体を串刺しにした。
「次ぃ!」
 体の中に溜まった鬱憤を吐き散らすが如く、冬摩は返り血を浴びながら別の召鬼に跳びかかる。
 頭の中で鳴り響く狂葬曲。本能が渇望する鮮血の光景、肉を断つ感触、骨が砕ける音。冬摩の体に濃く流れる魔人の血が、殺戮への獣欲に大きく胎動しているようだった。
 召鬼の波動を感じ取り、姿を視界に捉え、手足をもぎ取り、心臓を掴み出し、顔面を吹き飛ばす。ソレの繰り返し。
 ――コロセ!
 頭の中で誰かが叫ぶ。
 ――殺せ!
 頭から喉に。喉から胴に。胴から全身に。戦いへの欲求はすぐに体中へと伝播し、際限なく膨れあがっていく。
 ――龍閃を殺せ!
 気が付くと、冬摩は哄笑を上げていた。
 累々と積み上げた召鬼の――人間達の死体の上に立ち、天を仰いで意味を成さない大声を発していた。
 快感だ。この上なく。つい先程まで感じていた鬱屈や憂慮が、取るに足らない雑事のように思えてくる。こうして戦いに身を置いている自分こそが、本来あるべき姿なのだと確信できる。

『冬摩。いつまでもそのままで良いと思っているのか?』

 突然。何の前触れもなく唐突に、別の声が聞こえた。

『冬摩。命とはそんなに軽い物ではないぞ』

 誰だ。誰の声だ。この至福を邪魔するのは誰だ!

『お前は、優しいな』

 未琴……。

『もう少し……お前と一緒に、居たかった……のにな……』

 未琴!
「ガアアアアアアァァァァァ!」
 獣吼を上げ、冬摩は拳を地面に叩き付けた。何度も、何度も。手の皮膚が裂け、血が噴き出し、肉が抉れても、冬摩は拳を痛め続けた。
「ちょ、やめ……! 止めて下さい! 何してるんですか!」
 横手からした未琴の声に、冬摩は動きを止める。そして彼女の方に顔を向けた。
「未琴……」
 力無く呟いた自分と目が合い、彼女はコチラに駆け寄る足を止めた。そして少し目を大きくして、戸惑いと驚きを混ぜ合わせたような複雑な表情をする。
「あの……泣いて、るんですか?」
「――ッ!」
 その言葉に冬摩は大きく体を震わせた。
 泣く? 自分が? そんなはずない。涙など出るはずがない。そんな物、とうの昔に枯れ果ててしまったのだから。
「あの……」
「見んじゃねえ!」
 大声で言い捨てると、冬摩は大きく跳躍して逃げるようにその場から立ち去った。

 一晩中山の中を彷徨い、冬摩は明け方近くに都へと戻って来た。
 閉ざされている羅生門を飛び越えて塀の中へ入り、俯きながら朱雀大路を歩いていた。
「あー、朝帰りとはなかなか良い身分だな、冬摩。昨日の夜はさぞかし楽しかったろう」
 大路の真ん中に立ち、魎は待ちかまえていたかのように声を発した。
「法具に拘束されていないとは言え、さすがに凄い力だな。龍閃の召鬼十五体を一瞬で、か。私も見習いたいものだ」
 不定形に揺らぐ黒衣の裾を靡かせ、魎はゆっくりとコチラに近づいてくる。
 いつもの黒衣ではない。怨行術で構成された物だ。魎が本格的な戦闘姿勢を取った時に身に纏う。
「お前のおかげで私の作戦が潰されたかも知れないな。龍閃は様子見で召鬼を差し向けてきたんだろう。私達から離れたお前を狙ってな。似たような状況を見せられた時、アイツはきっと警戒するだろうな」
 いつものような穏やかな口調ではなく、冷たい物を声に孕ませて魎は言う。
「言ったはずだ。勝手な行動は慎めと。個で龍閃に勝てない以上、私達は群で立ち向かうしかない。連携が何よりも重んじられる。一人の過ちが全員に害を及ぼす。昨日の夜中、神楽さんがお前を探しに外に出た。もし彼女がお前と会う前に龍閃の召鬼に見つかっていたら、やられていたかも知れない」
「けっ……」
 鋭い視線を向けてくる魎の目を真っ向から見据え、冬摩は舌打ちして睨み返した。
「俺が何しよーがテメーの知ったこっちゃねー。それに、アイツは『死神』の保持者なんだろーが。あんな雑魚共にやられるかよ」
「お前の基準だけで物事を考えるのは良くないな。確かに神楽さんは優秀な守護巫女ではあるが、お前みたいに正面切って戦う事を得意としない。どちらかと言うと補佐的な役割だ。『死神』の能力も戦闘に特化したものではないしな。都を離れて地方の妖魔退治に行っていたのも修練の一環だ。今回集めた戦力の中では間違いなく最弱に属する」
 魎から発せられる威圧的な雰囲気が更に濃厚なモノになる。
 すでに魎も紫蓬も、あの牙燕とかいう不良品も力を封じる法具は取り外されている。全ては龍閃に立ち向かうため、人間の方から取り外しを許可したのだ。
「だったら首に縄でも付けとくんだな。俺みたいにチョロチョロしねーよーによ」
「神楽さんの事、そんなに気になるか?」
 す、と目を細め、魎は試すような視線を向けてきた。
「未琴さんに瓜二つな彼女が、お前を狂わせるか?」
 コチラの内面を見透かすかのような怜悧な鈍色の瞳。そして口の端に張り付かせた嘲笑。
「はっきり言って、彼女よりはお前の方が断然戦力になる。もし、彼女の存在がお前にとって負担になると私が判断した場合、私は躊躇う事なく神楽さんを殺す」
「な――」
 魎の口から出た言葉に、冬摩は驚愕に目を見開いた。
「さっきも言ったが、これからは連携が重視される。不安要素は少ないに越した事はない。それに私が『死神』を手に入れれば、龍閃に勝てる見込みが格段に増す。『復元』の超回復を行使できれば、私一人で龍閃に勝てるかも知れない」
 口を端を大きくつり上げ、冬摩を挑発するように魎は侮蔑の視線を向ける。
「テメェ……!」
 両拳を固く握りしめ、冬摩は敵愾心を剥き出しにして魎に詰め寄った。そして胸ぐらを掴み上げる。
「そんな事してみやがれ! ブッ殺すぞ!」
「喰われるぞ」
 魎は冬摩の怒声には答えず、自分の首を締め付けている二本の腕に冷めた視線を落とした。
「く……!」
 両手に熱が走り、冬摩は慌てて魎の黒衣を放した。見ると、高熱にでも晒されたように手が黒く焦げている。
「いいな冬摩。今度おかしな行動を取ったら、神楽さんを――殺す」
 低い声でそれだけ言い残し、魎は黒衣を翻して冬摩に背を向けた。
「待てオラァ!」
 叫声を上げ、その黒い背中に向かって冬摩は跳んだ。そして炭化しかけた右拳を魎の後頭部目掛けて振り下ろす。
 手応えはなかった。拳は虚しく空を切り、行き場を失った力に体を持って行かれて、冬摩は大きく体勢を崩す。
「その腕でまだ刃向かうか。精神能力、身体能力、共に炎将は上回ったな。さすがは龍閃の息子」
 声は後ろからした。 
「だがまだだ。お前はもっと強くなる」
 頭に添えられる手の感触。
「非情になれ、冬摩」
 視界が黒く埋め尽くされると同時に、全身に鈍痛が走った。地面に体ごと叩き付けられたのだと分かった時には、闘争心が根こそぎ吸い取られていた。『無幻』の『情動制御』だ。
(クソッ、たれ……)
 睡魔にも似た脱力感。指一本動かす事すら出来ない。
「未琴さんも紗羅さんも死んだ。もう、お前を縛る物はない」
 魎の言葉を頭のどこかで虚ろに聞きながら、冬摩は全身から力を抜いた。
 
 平安宮の中にある朝堂院。その奥まった場所ある大極殿。
 昨日と同じ顔ぶれが集まり、魎の言葉に耳を傾けていた。
「あー、皆さんも知っての通り。昨日の夜、龍閃の召鬼が都に攻め込んできた。幸いな事に我らが英雄、冬摩が瞬殺してくれたおかげで他に被害は全く出なかった。ただそのせいで、召鬼と繋がりのあるはずの龍閃がどこに潜んでいるのかまでは調べられなかった」
 広間の真ん中に立ち、魎は皆の顔を見回しながら説明を続ける。
 龍閃を最も良く知っているという事。そして恐らく、この中では一番力を持っているだろうという事で、龍閃討伐の指揮は魎が執る事になっていた。
(面白くねぇ……)
 整然と並んで座る他の保持者からは外れ、冬摩は両手を頭の後ろに回し、板壁に背中を預けて横柄な態度で腰を下ろしていた。
(何やってんだ、俺は……)
 結局、この場所に来てしまった。これでは魎の言う事に従ったも同然だ。
 気にいらない。だが、そうしないと――
(未琴……)
 冬摩は伏せ目がちの視線を少し上げ、左斜め前に座っている神楽に目を向けた。

『いいな冬摩。今度おかしな行動を取ったら、神楽さんを――殺す』

 本気だ。
 魎は本気で神楽を殺すつもりだ。そうする事で周りがどうなるのかは分からない。魎がどこまで先を読んでいるのか分からない。
 だが、一つだけはっきりしている事は、未琴と同じ顔をして同じ声を持った女が、死ぬ――
(クソッタレ……)
 胸中で悪態を付く。
 と、不意に神楽と目があった。ソレに気付いた神楽は、はにかんだような笑みを浮かべて軽く会釈する。
 ――違和感。
 昔から慣れ親しんだ場所が、ある日突然柵で囲われ、自分の知らない空間になってしまったかのような。
(けっ……)
 心の中の異物を取り除くように、冬摩は神楽から視線を外した。
「あー、召鬼化された者は、術者が解放しない限り元に戻らない。だから私達としてはそうなってしまった者を殺すしかない。召鬼となった者、召鬼に狙われた者、両方を助けるためにもな」
 魎の言葉に人間の保持者達が悔しそうに顔を歪める。
 昨日まで仲間だった者でも龍閃の召鬼になってしまった以上、完全な敵だ。殺すのは当然の事。
 しかし理屈では分かっていても、気持ちまで簡単に割り切れるものではない。
 今、冬摩が神楽を未琴ではないと頭では分かっていながらも、心では未琴の面影を彼女に見出しているように。
「これ以上、龍閃に人間を利用させないためにも、今度はコチラから攻めようと思う。そこで昨日説明した囮作戦を実行する。参加する者は、私、紫蓬、篠岡殿、嶋比良殿、九重殿、神楽殿、そして冬摩。以上、七名だ」
「あぁん?」
 魎に自分の名前を呼ばれ、冬摩は眉をつり上げて立ち上がった。そして――
「おぅおぅおぅおぅ! 何でオレっちの名前が入ってねーんだよ! この牙燕様が龍閃ごときにビビってるとでも思ってんのか!」
 上半身裸の筋肉大男が、頭の後ろで長く纏めた紫色の髪の毛を、鞭のようにしならせながら声を荒げた。
「あー、以上だ。他の者は待機して都の警護。何か質問は?」
「無視ドツキかましてんじゃねー!」
 板張りの床をドカドカと大股で歩き、牙燕は肩を怒らせて魎に詰め寄る。そして、ずぃ! と顔を寄せた。
「おぅおぅ! 魎さんよ! コチとら気がみじけぇんでぇ! 納得の行く説明を手短にしてくれねぇか!」
「生理的に受け付けない。以上」
 本当に手短に返した魎に、牙燕の顔が一瞬固まる。しかしすぐに復活すると、つり上がった空色の双眸を紅く染めて、さらに顔を近づけた。
「何でぇそりゃ! もっと具体的に言いやがれ!」
「無駄に付いた筋肉がイヤ。無駄に大きい体がイヤ。無駄に長い髪の毛がイヤ。無駄に毛深い胸板がイヤ。無駄に臭い息がイヤ。無駄に大きい声がイヤ。無駄に広い表面積がイヤ。無駄にかさばる体積がイヤ。無駄に重い体重がイヤ。無駄に熱い性格がイヤ。とにかく無駄だらけの存在自体がイヤ」
 言葉を詰まらせる事なく早口で、それでいて滑舌良く言い終えた魎に牙燕の体が石化した。隣で紫蓬が腕組みして座ったまま、何度も頷いている。
「あー、よし。後で誰かこの邪魔な石像をどかしておいてくれ。くれぐれも手荒に扱うようにな」
 半眼になり、無情な視線を牙燕に向ける魎の首が、太い腕で掴まれた。
「て、てんめぇー……。これしきの事で、オレっちが怯むとでも思ったのか……」
「そ、存在を否定してやったのに……。なんて無駄に頑丈な……」
 紅い目を潤ませながら怨嗟の声を発する牙燕に、魎は顔を引きつらせて言葉を詰まらせる。
「うるせぃうるせぃうるせぃ! コチとら生まれてこの方、その手の言葉は耳に大王イカが鈴なりになるくらい母君から言われてんだ! テメーのなんざまだまだ生ぬるいぜ!」
「い、いや……威張られてもな……」
 静かに瞑目する紫蓬に目をやった後、魎は憐憫の視線を牙燕に向けた。
「よし、分かった。ではちゃんとした理由を言ってやろう」
 目の端に哀れみを乗せ、涙ぐむ牙燕の肩を優しく叩きながら、魎は満面の笑みを浮かべて白い歯を輝かせる。
「だってお前弱いじゃん」
「ぐほぁ!」
 直球ド真ん中で心の傷を抉られ、牙燕は魎から手を放してその場にうずくまった。
「前に龍閃に見つからないように監視しろって言ったのに、その日にいきなり気付かれるし。なのにお前は見つかってないって思い込んでるし。挙げ句の果てにアッサリまかれて何十人も喰われたし。冬摩を助けた時だって、私の方が先に龍閃を見つけたくらいだし。ホント、図体デカイだけが取り柄のごく潰しで役に立たねー」
「お……おおぉぉ……」
 容赦なく降りかかる魎の研ぎ澄まされた言葉の刃に、牙燕は古傷を何度も切り刻まれて体を小刻みに痙攣させた。
 隣で紫蓬が先程と同じ姿勢のまま、感心したように深く頷いている。
「あー、よし。後で誰かこの邪魔な生ゴミを捨てておいてくれ。くれぐれも燃えないゴミと一緒にするなよ」
 更に降り注ぐ魎の辛辣な台詞に、さすがの牙燕も立ち上がれない。
(終わったか……)
 生まれたての子馬のように足手をわななかせる牙燕を見下ろしながら、冬摩が魎に歩み寄ろうとした時、広間の襖が小さく開いた。
「にぃちゃー!」
「ちゃー!」
 そして金糸の織り込まれた材質の良さそうな着物を着た子供が二人、部屋の中に駆け込んできた。どちらも髪の毛をおかっぱに切り揃えられ、子供特有の丸みを帯びた顔立ちをしている。
 何よりも特徴的なのは、二人とも鏡に映し込んだかのようにソックリな顔をしているという事。真円のように大きく愛嬌のある瞳も、突起のように膨らんだ小鼻も、柔かそうな薄紅色の唇も。
「あそぼー!」
「ぼー!」
 二人は四つん這いになった牙燕に駆け寄ると、紅葉のように小さな手を大きな体に押し当てて抱きついた。
「お、おぅおぅ! 兄ちゃん今は仕事中だ。後でな」
「やだー! 今あそぶー!」
「ぶー!」
 我に返った牙燕は戸惑ったように両腕を前に出すが、二人の子供はその太い腕にぶら下がって甲高い喜声を上げる。
「あー、くそっ。こりゃ参ったな……」
 ばつの悪そうな顔をして鼻に皺を寄せるが、牙燕は二人を担ぎ上げると広い肩の上に乗せた。それだけで子供の声が更に大きく高くなる。
「……おぃ、魎。何だよ、あのチビ共」
 突然の展開に毒気を抜かれ、冬摩は呆れたような顔になって二人の子供を指さした。
「あー、そうだな。お前はまだ見てなかったな。あの二人も紫蓬の子供だ。双子のな」
 もう何が何だか分からず、言葉が出てこない。
「二人とも土御門殿の血を濃く引いている。だから成長は人間と同じだ。牙燕の左肩に居るのが葛城家初代当主になる御方。保持神鬼は『月詠』『六合』『朱雀』。右肩に居るのが草壁家初代当主になる御方。保持神鬼は『勾陣』『天后』『大陰』だ。まだどちらも未覚醒だが資質は十分にある」
「おぃ、じゃあ紫蓬は……」
 草壁の方の三体は聞いた事がない。恐らく土御門から受け継いだ神鬼なのだろう。しかし葛城の方の三体は間違いなく紫蓬が保持していた神鬼。すでに『紅蓮』を牙燕に渡しているから――
「今、紫蓬が持ってるのは『虹孔雀』だけだ」
「はぁ? 意味分かんねーよ。コレから龍閃と戦うんだろ? 何でわざわざ戦力落とすような事すんだよ」
 いくら資質があるとは言えまだ未覚醒の子供だ。今必要なのは即戦力。魔人の血を濃く受け継いでいるのなら、牙燕のようにすぐに大きくなるが、人間の血が濃い以上、十五年は待たなければならない。
「さぁな、本人に直接聞いたらどうだ。まぁ答えてくれるとは思えんが」
 理解できない。魎も紫蓬も、一体何を考えているのか。本当に龍閃を殺すつもりがあるのか。
「あー、さて。牙燕に子守という大役が与えられたところで、私達は作戦に移るぞ」
「……勝手にしろ」
 投げやりな口調で言い捨て、冬摩は舌打ちしてそっぽを向いた。

 魎の提案した囮作戦。
 話を聞いてみれば何と言う事はない。実に単純な作戦だった。
 まず囮となる者を一人決め、他の六人からは孤立して行動する。そして六人は囮を遠巻きに囲むようにして付いて行き、龍閃が掛かったら一斉に襲いかかる。
 冬摩が受けた説明はただそれだけだった。
 そして囮役には冬摩が選ばれた。
 冬摩にしてみれば願ったりだ。選ばれるまでもなく、自分から志願するつもりだった。作戦などとは関係なく、最初から一人で龍閃と戦うつもりだったのだから。
(……にしてもよー)
 都から離れた山林の中を歩きながら冬摩は溜息をついた。
 魎がこの場所を選んだのは身を隠す場所が沢山あるからだ。しかし、龍閃にしてみればこんな隠れ蓑あってないような物。多分、龍閃も自分と同じく波動で相手の位置を掴める。
 だとすればソレが出来ない者にとっては、ただの邪魔な障害物でしかない。
 ソレに第一、こんな単純な作戦に龍閃が掛かってくれるとは思えない。無為に終わる気がする。
(まどろっこしい……)
 一人で動ければ。自由に龍閃を探す事が出来れば。
 だがどうやって。手掛かりも何も無いのに。
 関係ない。龍閃の波動は体が覚えている。国中を駆けめぐってでも探し出せばいい。
 しかし、そんな事をすれば神楽が……。
 考えれば考えるほど動けなくなる。どうすればいい。こんな時はどうすればいいんだ。
 困った時、迷った時はいつだって未琴が――
「――ッ!」
 吐き気すら催す凶悪な波動を感じ、冬摩は殆ど反射的に後ろに飛び退く。直後、さっきまで自分の居た場所に悪夢のように巨大な穴が開いていた。まるで空間ごと削り取ったように、抉られた地面は不自然なまでに完璧な球面を晒している。
 龍閃の保持する十鬼神『餓鬼王』の『大喰い』だ。
「少々、買いかぶり過ぎだったか」
 穴の中心から低く野太い声が聞こえてくる。
 忘れようもない程に耳の奥にこびり付いた忌々しい声が。
「龍――閃!」
 驚愕と戦慄と歓喜に顔を歪ませ、冬摩は突然現れた男の名前を呼んだ。
「貴様の力の発生点……生まれた時から少しおかしいと思っていたが。どうやら思い過ごしだったらしい」
 独り言のように呟きながら、龍閃は深い穴の中から金色の双眸をコチラに向けてくる。
 来た。本当に現れやがった。本当に、本当に、本当に!
「クッ……ッハハ!」
 喉の奥で低く笑いながら、冬摩は体を奮わせた。
 無論、恐怖になどではない。
 理性などあっけなく喰らい尽くす程の、甚大な狂喜にだ。
「死ねオラァ!」
 叫声と共に冬摩は眼下の龍閃に跳びかかる。そして重力加速度に乗せて、あらん限りの力を乗せた拳撃を打ち下ろした。
 もう関係ない。もう何も考えられない。ほんの少し前まで頭の中で鬱陶しく燻っていた暗い思考など、今や取るに足らない戯れ言だ。
 何も考えなくて良い。ただ、龍閃を殺す事だけに専念していれば!
「大分乱れたな。頃合いか」
 冬摩の拳を目の前に生み出した漆黒の盾で受け止め、龍閃は視線を自分の後ろに向けて言った。
「どこ見てやがる! ッの屑野郎ガアアァァァ!」
 右腕から力を抜き、冬摩は『金剛盾』をいなすようにしてやり過ごすと、龍閃の懐に入り込んでその顔に左拳を叩き付ける。
「あの力は偶然、か。まぁいい。もう貴様になど用はない」
 左手の甲で軽々と冬摩の拳を払いのけ、龍閃は足をたわめて一気に跳躍した。そして冬摩の脇を通り抜け、雑木林の中へと姿を消す。
「待ちやがれ!」
 龍閃を追って冬摩も跳ぶ。しかし龍閃の方が速い。白い陣羽織を羽織った背中は見る見る小さくなっていく。
「ヤロウ!」
 大きく舌打ちをし、冬摩は必死になって龍閃の後を追った。
 何だ。何を考えている。自分を殺すために現れたのではないのか。
 まさか様子見? いや違う。それなら昨夜と同じく、召鬼を差し向ければいいだけの事だ。龍閃が自ら現れたのはそれなりの理由があるはず。何か理由が――
「……っ」
 近くの葉を切り、枝を裂いて、飛来した何かが冬摩の左頬を掠めた。僅かに走る痛み。龍閃からの威嚇ではない。あまりに力が弱すぎる。コレは、まさか……。
「クソ!」
 嫌な予感が胸中を支配する。頭によぎる紅い光景。
 焦燥に駆られながらも、冬摩は木の枝の反動を利用して更に加速した。顔を小さな枝が引っ掻いていく。しかしそんな物を気にしてはいられない。
 早く。もっと早く。最悪の事態が起こる前に。
 呼吸する事すら忘れて冬摩は枝から枝へと駆け続ける。そしてついに、視界が白い陣羽織を捉えた。
「龍閃!」
 無意識に叫び声を上げ、冬摩は疾駆の勢いを殺す事なく龍閃に躍りかかる。
「邪魔だ」
 短く言いながら、龍閃は背を向けたまま右手をコチラにかざした。
 直後、自重が何十倍にもなったかのように、冬摩の体は不自然に角度を変えて地面に叩き付けられる。そして体中の骨が嫌な音を立てるのを聞きながら、冬摩は地面にめり込んでいった。
 龍閃の保持する十鬼神『騰蛇』の『重力砕』。任意の空間の重力を自在に操る事が出来る能力。その範囲が狭ければ狭い程、力は強くなる。
「く……」
 声すら出せないまでに全身を圧迫されながらも、冬摩は龍閃と、その前ですくみ上がってる巫女装束の女性に目を向けた。
「か、ぐら……逃……げ、ろ」
 埃が舞う音のように小さな声で、冬摩は喉に力を込めて途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「この女が死ぬところを貴様はソコで見ていろ」
 凶笑を浮かべ、龍閃は射すくめられて動けなくなっている神楽に歩み寄った。
 最初から龍閃の狙いは神楽だったのだ。
 囮作戦を見抜き、掛かった振りをして包囲を崩し、その中で最も力の弱い者を仕留める。ソレが龍閃の狙い。自分の使役神鬼を確実に増やし、力を蓄える事こそが。
 読まれていた。完全に。
 自分の責任だ。
 昨日の夜、単独行動をしなければ。前もって似たような状況を見せていなければ。
「死ね」
 龍閃が右腕を振り上げる。そして鉤状に曲げられた緋色の爪が、神楽の喉元に――
「予定通りだ」
 黒い紐が龍閃の太い腕に絡みついた。紐は更に長さを増し、幾重にも巻き付いて龍閃の体ごと拘束していく。
「魎……! 貴様!」
「私の気配絶ちもまだまだ捨てた物ではない」
 悔しそうに顔を歪める龍閃の前に、不定形に揺らめく黒衣を纏った男、魎が降り立った。
「わざと弱い部分を作り、ソコの守りを厳重にするのは罠を仕掛ける上での常道だ。もっとも、冬摩が昨日、先入観を与えてくれなければ上手く行かなかったかも知れんがな」
 不敵に笑い、魎は黒衣から生まれ出る黒い触手の数を倍加させる。まるで一本一本が意思を持ったかのようにバラバラに動き、龍閃を翻弄しながら束縛の度合いを増していった。
「我相手に講釈を垂れるとは大した余裕だな!」
 しかし龍閃は力ずくで黒い触手を引きちぎると、金色の双眸に怒気を宿らせる。
「そうでもない。だが注意を引くくらいは出来ただろう?」
「――!」
 おどけたように肩をすくめて見せる魎に、龍閃は大きく目を見開いた。
「オ、ノレ……!」
 冬摩を抑え込んでいた『重力砕』が消える。直後、龍閃の背後で局地的な地面の大陥没が起こった。
「ヌシの肉は不味い。これなら饅頭の方がずっと美味ぞ」
 円筒形をした桃色の髪の毛を持った幼女、紫蓬は赤黒い物を口の中から吐き出しながら、龍閃から少し離れた場所で露出度の高い羽衣を翻した。
 魎が龍閃の注意を僅かに引き付ける事で、後ろに隙を作った。そして紫蓬が『歯』で背中に噛み付き、『重力砕』でやられる前に跳び退いた。絶妙の連携だ。
 まるで、前もって打ち合わせていたかのように。
「く……」
 龍閃の巨体が風に吹かれた柳のように揺れる。
 紫蓬の持つ『虹孔雀』の『超知覚』で、知覚感度を下げられたのだ。龍閃の背中に『歯』を立てたあの時に。
『ガアアアァァァァ!』
 龍閃は怪吼を上げ、両手を地面に叩き付けた。
 土と言わず、葉と言わず、樹と言わず、龍閃の周囲にあったあらゆる物が混在して、宙へと大きく舞い上がる。爆風に包まれた龍閃を中心として、三体の影が現出した。
 長く巨大な蜷局(とぐろ)を巻いて、粘着質な声で威嚇する白い蛇、『騰蛇』。全身に無数の小さな口を張り付かせた無貌の巨人、『餓鬼王』。若竹のように良くしなる三つ又の尻尾を持った銀毛の猫、『天冥』。
 三体の使役神が、龍閃を取り囲むように具現化した。
「観念しろ、龍閃」
 頭上から声がすると同時に、三体の使役神の前に三人の陰陽師達が降り立つ。
 一緒にこの作戦に参加した、篠岡、嶋比良、九重の三人だ。
「終わりだな、龍閃。今のお前では、私達七人を同時に相手にするのは難しいだろう」
 完全に龍閃を取り囲み、それでも魎は油断なく距離を取った。
「ク……」
 だが龍閃は口の端を高くつり上げ、余裕のある笑みを浮かべてみせる。
「この邪魔な法具を付けたままでは、か……。魎、貴様の戦い方を忘れていた。そう言えば回りくどく、手の込んだ手法を好んでいたなぁ。敵に回すと厄介この上ない」
「最強の魔人に褒めて頂けるとは光栄だな」
「だが、貴様の欠点はその慎重すぎるところだ!」
 龍閃の声に応え、『騰蛇』が長い体を解いて、龍閃と残り二体の使役神鬼を覆い隠すように展開する。
「逃がすか!」
 九重が叫んで『騰蛇』の体に拳を埋め込んだ。そして内部で力を暴発させて、体を抉り取っていく。ソレを合図に他の二人の陰陽師も、巨大な白い壁となった『騰蛇』の体を壊し始めた。『騰蛇』は抵抗らしい抵抗も見せぬまま、見る見る体を小さくしていく。
「ええぃ! 鬱陶しいわ!」
 紫蓬が苛立ちの声を上げ、『騰蛇』の体に噛み付こうとした時、
「待て紫蓬!」
 魎が叫び声を上げた。
 直後、『騰蛇』の体が瞬く間に石と化していく。
 『天冥』の能力『石化』。『騰蛇』の体に腕を沈めていた三人の陰陽師達は、石の中に捕らわれたまま自由を奪われた。
「クソ!」
 もがき、強引に引き抜こうとするがただの石ではない。『天冥』の力だ。生半可な力で壊れるモノではない。さらに『石化』は『騰蛇』を介して、三人の体にまで根を這わしてくる。
「使役式神『青龍』召来!」
 篠岡が残った片手で印を組み、十二神将『青龍』を具現化させた。
 蒼い燐光を放つ鱗を纏った巨大な龍が、黒い鬣(たてがみ)を靡かせながら石塔となった『騰蛇』の頭上に舞い飛んだ。
 石塔の内側に『天冥』は居る。ソレを消し去れば『石化』は解ける。コレさえ解ければ、龍閃を守る物は何もない。
 『青龍』が石塔の上にある僅かに開いた隙間に身を差し込もうとした時、甲高い奇声を上げて中から銀毛の猫が跳び出してきた。
 『青龍』は三本爪でその体を捉えようとするが、小さく俊敏な動きをする『天冥』を捕まえる事は出来ない。
「ワシに任せろ!」
 体の小さい者には小さな者でと言わんばかりに、紫蓬は石塔を駆け上がって『天冥』に急迫した。『天冥』は縦に開いた碧色の瞳孔を輝かせて接近者を『石化』しようとするが、視線の移動を遙かに上回る速さで紫蓬は距離を詰めていく。
 そして一呼吸のち、紫蓬の爪が『天冥』の腹を引き裂いた。
 耳をつんざく悲鳴を上げ、黒い粒子を残して消え去る『天冥』。同時に『騰蛇』の『石化』が解けたかと思うと、白い粒子と共に空気に熔け込んだ。
 龍閃を取り囲む物が何もなくなり、中には――
「逃げられた、か……」
 底の見えない暗い穴が、大きな口を開けていた。
 『騰蛇』も『天冥』も所詮は時間稼ぎのための道具に過ぎなかった。『餓鬼王』の『大喰い』で地面に穴を掘り、この戦域を抜け出す通路を作り出すための時間稼ぎでしか。
「やはり、こんな付け焼き刃では通用せんか」
 魎は顔をしかませ、苦々しく吐き捨てた。
「慎重すぎる、か……」
 独り言のように小さく呟き、魎はコチラに顔を向ける。
「お前を囮に使ったのは、失敗だったかな」
 そして溜息と共に自嘲めいた笑みを零した。

◆迷わざる者 ―冬摩―◆
 全身に及ぶ骨折から回復したのは二日後の事だった。
 龍閃を追いつめた囮作戦。魎は最初から龍閃が神楽を狙ってくる事を読んでいた。作戦前日の夜、魎は冬摩が抜け出した事を知っていた。しかしあえて泳がせた。
 それは次の日の作戦と全く同じ状況を作り出し、龍閃の行動の裏の裏をかくため。そして冬摩を従わせる口実を作るため。
 つまり、冬摩の行動は最初から最後まで魎の想定通りだったのだ。
(気にいらねぇ……)
 平安宮の中にある寝所の一つ。板間の上にある衣の敷かれた畳の上で、冬摩は仏頂面になってあぐらをかいていた。時折、苛立たしそうに足を揺すらせては、唸るような低い声を発する。
 一番気に入らないのは、真の作戦を自分が知らされていなかったという事だ。知れば言動が不自然になり、包囲網に龍閃を捉える前に悟られるかも知れない。作戦成功の要となる人物以外にしか教えていなかった。
 つまり自分と――
「はい、お粥持ってきましたよ」
 神楽以外にしか。
「傷の具合はどうですか?」
 神楽は障子を開け、盆に乗せた茶碗を危なっかしく運びながら近寄ってくる。
「もう何でもねーよ」
 怒ったような口調で言いながら、冬摩は神楽の方に視線を向けた。
「いやー、凄いですねー。魔人の回復力って。あんな大怪我だったのに、たった二日で……。はぁー」
 感嘆の声を上げながら、神楽は自分の隣りに腰を下ろして茶碗と箸を差し出す。
「別に」
 ソレを受け取り、冬摩は一気に胃袋へと流し込んだ。熱い塊が喉を通り抜けていくのが分かる。
 これくらいの傷などずっと前から龍閃に付けられていた。もう体も慣れている。
 そう、まだ龍閃と紗羅と一緒に暮らしていた頃に。まだ、未琴が自分の隣りに居てくれた時に。
「神楽」
 平らげた茶碗を床に置き、冬摩は神楽の方に顔を向けて話しかける。
「お前の方こそ大丈夫なのかよ。龍閃にやられたんじゃねーのかよ」
 自分が神楽の居る所に行くまで、彼女は龍閃に一人で立ち向かっていた。『真空刃』で応戦し、危機を凌いでいた。もう少し自分や魎が来るのが遅ければ、神楽は死んでいたかも知れないのだ。
「あ、大丈夫ですよ。ちょっとは怪我しましたけど、貴方ほどじゃないですから」
 言いながら神楽は柔和な笑みを浮かべた。
 ――どうして。
 冬摩の中であの時の記憶が蘇る。
「神楽、何でお前……」
 笑えるんだ。
 死にかけて、恐怖ですくんで、自失して。なのに、どうして笑顔で返せる。
「未琴みたいに……」

『冬摩……。愛、して……る……』

 笑って死を受け入れられる。
「未琴さん、ですか」
 神楽は冬摩の呼んだ女性の名前を繰り返し、少し顔を俯かせた。
「魎さんから……その人の事、色々と聞きました。貴方の、恋人だった人なんですよね。二人とも、相手の事を凄く想い合ってたって言ってました。でも……」
 そこまで言って神楽は言葉を詰まらせる。
 息苦しささえ覚える重苦しい雰囲気。それに耐えかねたかのように、冬摩が口を開いた。
「殺されたんだよ。龍閃に。自分の父親に。俺の目の前でな」
 神楽が言いにくそうにしている事を、冬摩は自棄気味になって並べ立てる。
「ごめん、なさい……」
 神楽は泣き出しそうな顔になり、気弱に謝罪の言葉を述べた。
 ――違和感。
 以前、感じた物と同じ。自分の中ですでに確立しきっている物が、全く別の物になっていく歯がゆい感覚。
「未琴はよ。死ぬ時、最後まで笑ってた。本当に幸せそうに。俺にはさっぱり理解出来ねーんだよ」
 その感覚を振り払うように、冬摩はぶっきらぼうな喋りで続けた。
「お前もさっき笑ってたろ。何でだよ。何で笑える。お前だってあの時、死んでもおかしくなかったのに……」
 もし龍閃に殺されたとしても、神楽も未琴のように笑うのだろうか。
「あの……多分、私が笑うのと、未琴さんって方が笑うのとは、全然違うモノだと思います」
 どこか遠慮がちに神楽は言った。
「私のは、ただ単に誤魔化してるだけなんです。笑ってないと、恐くて恐くて押し潰されそうだから……。だから、私は辛くても恐くても、出来るだけ笑うようにしてるんです。弱虫だから、弱いトコあんまり見せたくないんですよ。取り合えず笑ってれば、強そうに見えるかなーって、思ってるだけです」

『笑顔は、辛い時や苦しい時にこそ浮かべるものだ。自分の心を、さらに強くするためにな』
 
 未琴も似たような事を言っていた。似たような事を。
 だが――何かが違う気がする。
「でも、その未琴さんって方は本当に強い人だったんだと思います。貴方に心配掛けないように、最後まで笑ってたんだと思います。多分、私じゃ出来ません……」
 強い人。
 確かに、神楽の言う通りだ。
 未琴は本当に強い女性だった。どんな事にも物怖じせず、言いたい事ははっきり口にした。曖昧な返事はせず、正否を明言していた。そんなところに冬摩は惹かれた。
 だが僅かではあるが弱い部分もあった。五年間、守護巫女を続けていて心が折れそうになった事。寿命で自分と離れるのが恐くなった事。そして――
「俺はよ、未琴より龍閃を信じてた時があったんだ。今思えば大間違いもいいトコなんだけどな。けど、そのせいで未琴は俺を疑った。俺が例の殺人鬼かもってな」
 そして心に弱さが生じた。脆さが生じた。だからソレが修復した時、気の緩みが出来た。その隙を龍閃につかれた。普段の未琴ならどんな奴の接近でも気付けたはずなのに。
「俺が最初から未琴だけを信じてれば、あんな事にならずに済んだ。アイツは強かったのに、俺が弱くしたんだ。俺が、アイツを……」
「でもそれは未琴さんが貴方をそういう風に変えたからなんでしょう?」
 神楽の言葉に、冬摩は驚いたような表情になって顔を上げた。
「魎の奴から、聞いたのか?」
 しかし神楽はすぐに首を横に振る。
「貴方の話を聞いてれば分かります。どれだけ未琴さんに影響れされたかって事くらいは。多分、未琴さんに出会う前はとんでもない暴れん坊だったんでしょうね、貴方は」
「うるせーな……」
「それから、未琴さんがどれだけ貴方に影響されてたかも」
「…………」
 微笑しながら言う神楽に、冬摩はふてくされたように口を尖らせた。
「きっと誰も悪くないんですよ」
 神楽は優しく語りかけるように続ける。
「貴方も未琴さんも、どっちも自分が正しいって思う事をしただけなんでしょう? なら、二人とも悪くないです。貴方も未琴さんも、二人とも正しいです」
 正しい? 未琴だけではなく、自分も正しい?

『冬摩、お前は自分が正しいと思った事をしてくれ。私はソレに従う。私とお前は一心同体だ。身も心もな』

 自分は本当に正しい事が出来たのか? 未琴が言う正しい事というのはソレで良かったのか?
「それに未琴さんは、笑ってたんでしょう? 自分が笑ったら、相手にも笑って欲しいものですよ。その時貴方は、未琴さんに笑って返してあげましたか?」
 していない。出来るはずがない。未琴が、未琴が自分の腕の中で居なくなっていくというのに……消えようとしているのに……。
「あの時出来なかったんなら、今やれば良いんですよ。今の貴方なら出来るはずです。きっと、あの時よりは強くなっているはずですから。あの時の事を乗り越えて、ちゃんとこうして元気に居るんですから。絶対に出来るはずです」

『笑顔は、辛い時や苦しい時にこそ浮かべるものだ。自分の心を、さらに強くするためにな』

 ああ、そうか。今、ようやく頭で分かった。
 あの時の、未琴の言葉の意味が。
 そして、神楽と未琴が全くの別人だという事が。
「未琴もよ、結構恥ずかしい事真顔で言う奴だったけど、お前程じゃなかったな」
 苦笑しながら言った冬摩に、神楽は耳の先まで顔を紅くして意味の成さない声を発する。
 そうだ、未琴は神楽とは違う。
 未琴は曖昧な笑いを浮かべる事も、すぐに謝罪の言葉を口にする事もなかった。
 なにより未琴は神楽のように一から十まで答えを言う女性ではなかった。全てを話さなくとも、互いに分かり合えた。例え言葉には出来なくとも、心で理解し合えた。
 だが神楽は違う。コチラが納得できるまで、全てを教えてくれる。それは未琴とはまた違った優しさ。神楽という別の人格の個性。
 辛い時や苦しい時に笑う事で、自分を強くする。
 つまり――過去を乗り越えて未来を見つめるという事。
「ありがとよ、神楽。お前のおかげで元気出た」
 ここに居るのは神楽という一人の女性だ。未琴ではない。
 未琴はもう――死んだ。
「そ、そぅですか。それは良かった、です……」
 未琴の死は受け入れなければならない。
 誰かに重ね合わせて、未琴を色褪せさせないためにも。自分の中でいつまでも変わらぬまま、未琴を未琴として留めておくためにも。
「あ、あのっ。それとっ、その……」
 紅くなった顔を更に紅くしながら、神楽は途切れ途切れに言ってくる。
「私、その……貴方の事、“冬摩”って呼ばせて貰っても良いですか?」
「へ?」
 唐突な提案に、冬摩は素っ頓狂な声を上げた。
「あの、その……抱きしめられるのは、まだもうちょっと先かと思いますけど。“冬摩”って呼ぶくらいなら、何とか……」
 以前、自分がそう呼んでくれとお願いした事を覚えてくれていたのだろう。そして今、冬摩を更に元気付けるために、神楽の方から申し出てくれている。
 コレが神楽の優しさ。未琴とは、また違った。
「いや、いい」
 だが今の自分にはもう必要ない。
 完全に吹っ切れた。自分の事を『冬摩』と呼べる女性は未琴だけでいい。未琴を自分の中で永遠に生かしておくためにも。だから神楽には神楽に合った呼び方で呼んで欲しい。
「お前さ、前に俺が姓を貰ったらいいのにって言ってたよな」
「え? あ、はぃ」
「お前が付けてくれよ。俺の姓」
「え……?」
 冬摩の言葉に神楽は一瞬目を丸くし、
「えー!? わ、私がですか!?」
 すぐに大きな声を上げて、全身で驚愕の意を示した。
「そ、そんな恐れ多い。私が英雄様の姓を決めるなどと……」
「じゃあ英雄としての命令だ。お前が決めろ」
 あわてふためく神楽に、冬摩は面白そうに笑いながら付け加える。
「ほ、本当にいいんですか?」
「いいって。早く決めろよ」
「はぁ……」
 言われて神楽は人差し指を唇に当て、「うーんうーん」と呻きながら頭をひねった。
「姓、姓……英雄様に会う姓……。『皇』とか『勇』とかが入ってる方が、うーん……」
 首を振り子のように左右に振りながら、神楽はブツブツと繰り返す。
「ああ、でも『雄』とか『強』とか『闘』とかいう字も捨てがたいしー……『天』とか『刃』とかいうのもいいかも……」
 さらに神楽は悩み続けた。
 漢字を一つ一つ頭に思い浮かべて呟きながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤を延々と繰り返す。
 そんな彼女を眺めている冬摩の中で、苛立ちは確実に積もっていった。未琴は悩む事など殆ど無かったのに。即答していたのに。
「えーっと、やっぱりこぅ、荒々しいから『荒』って字も意外と……」
「っだー! 止め止め! そこで止めだ!」
 そして我慢の限界が来た。
 こんなモノ直感で決めればいいのに、一体何をそこまで悩んでいるんだ。
「最後にお前が言ったヤツ、『荒』って字でいい。それとあともう一文字、お前の姓からよこせ」
 いきなりの冬摩の提案に、神楽は目を白黒させながら吃音を発する。
「『神楽』の『神』をよこせ。それで『神荒』……『荒神』、『荒神』だ! 『荒神冬摩』! コレで良い! コレに決めた!」
「えー……? 私が決めるんじゃなかったんですかー?」
「やかましい! お前がチンタラしてっから悪いんだよ! これから俺の事は『荒神』って呼べ! 良いな!」
「はぁ、荒神さん、ですか……」
 納得のいかない顔付きのまま、神楽は渋々といった様子で頷いた。

 雑木林の中にある寂れた神社。
 人の手が全く付かないその場所では、壊れた社も修復されずそのまま残っている。
「よぉ、未琴」
 屋根の大破した社の前。長年風雨に晒され続けて変色した賽銭箱の隣り。
 最も日当たりの良い場所に、形良く精石された縦長の御影石が立っていた。冬摩の腰程の高さを持つその石の表面には、達筆な文字で『未琴』と掘られている。
 そして足下には、小振りな薄紫色の花弁をいくつも付けた藤の花が供えられていた。まだ摘みたてのように瑞々しい。
 全て魎がしてくれたのだろうか。
「久しぶりだな」
 未琴の墓石に話しかけながら、冬摩は片膝をついてしゃがんだ。そして後ろ髪を縛っている龍の髭を解く。長い黒い髪が自由を取り戻し、思い思いの方向に跳ねた。
「色々あったけどよ、ようやく吹っ切れた」
 龍の髭を藤の花の上に置き、冬摩は墓石に笑いかける。
 過去を乗り越えるために。未来と向き合うために。
「安心してくれ、未琴。お前は俺の中で永遠に生き続ける」
 これからも全く変わる事なく。意志が強く、凛と張った声を持ち、時に優しく、時に厳しく接してくれた未琴のままで。何も言わなくても、互いに心の底から分かり合えた時のまま。
 未琴は本当に色んな事を教えてくれた。
 自分を抑え込む事。相手を思い遣る事。優しい気持ちで接する事。そして――誰かを信じる事の大切さを。

『冬摩、お前は自分が正しいと思った事をしてくれ』

「俺は」
 未琴を信じる。そして自分を信じる。自分の中にある強い思いを。
 すなわち――
「絶対に龍閃を殺す」
 ソレは一生をかけても成し遂げなければならない。絶対に。
 もう迷わない。自分を責めて過去を悔いるのは、もうお終いだ。
 龍閃を殺す。未琴のため、そして自分のために。
 これから先、色々と障害が出てくるだろう。龍閃に近づくために乗り越えなければならない事が沢山降りかかってくるかも知れない。
 極力、必要最低限に抑えるつもりだ。極力、自分を抑え込み、相手の事も考えるつもりだ。
 だが、もし邪魔だと判断した時には絶対に迷わない。
 相手が何であれ叩き潰す。邪魔者は全て排除する。
 もし未琴が生きていたら、止めてくれた事もやってしまうかも知れない。必要以上に命を奪ってしまうかも知れない。
 だが、迷わない。
 未琴は自分を信じると言ってくれた。正しいと思った事をしろと。
 今の自分にとって、龍閃を葬り去る事は他の何よりも優先される。ソレがこの先生きていくための糧であり、正しい行動であり、自分の存在意義ですらある。
「未琴、もし間違ってたら……そっちに逝った時に思いきり怒鳴りつけてくれな」
 冬摩は苦笑しながら立ち上がった。
 未琴に出会って変わったように、未琴を失う事でまた自分は変わろうとしている。
 もう、昔には戻れない。後戻りは出来ない。
 これからは荒神冬摩として、龍閃への復讐に全てを掛ける。そのために利用できる物は何でも利用する。
 上辺だけの付き合いでも何でも良い。自分だけで龍閃を追いつめるには時間が掛かりすぎる。だから、今は――
「出て来いよ、魎」
 冬摩の声に、後ろの茂みがガサッ、と音を立てて揺れる。
「テメー、俺が神楽と喋ってる時からずっと覗いてやがっただろ」
「あ、あー、何の事かな。わ、私にはサッパリだな、冬摩君」
 声にありありと動揺の色を混じらせ、魎はコチラの様子を窺いながら恐る恐る姿を現した。
「どーせ神楽もテメーが差し向けたんだろーがよ。ご丁寧に『無幻』まで使ってよ」
 自分は神楽に未琴を重ね合わせていたから親近感が湧いて当然だ。だが神楽にしてみれば会ってほんの数日。なのにあそこまで踏み込んだ話をしてくるというのは、冷静になって考えてみると妙だ。
 大方、魎の『情動制御』で親身な気持ちにでもしていたのだろう。
「さ、さっきから何を論点の外れた事ばかり言っているのかね、冬摩君。今だって私は単に偶然通り掛かっただけだよ」
「ほー、じゃあ偶然この神社まで来て、偶然茂みに隠れて、偶然そこでじっとしてやがった訳だ」
「ひ、人の高尚な趣味にケチを付けるのはどうかと思うがね、冬摩君」
 しどろもどろになって言う魎に、冬摩は腕組みして冷めた視線を向ける。
「こ、コレは神楽さんの名誉のためにも言っておくがね。私が『無幻』を使ったのは、ほんのちょっとだけなんだよ。ほんのちょっだけ彼女の背中を押してあげた……あぁいや、押させていただいただけなんだよ。け、決して洗脳した訳ではないっ」
(洗脳されてたまるか……)
 ようやく白状した魎に、冬摩は溜息をつきながら後ろ頭を掻いた。
 分かっている。神楽が心優しい女性だという事くらいは。冬摩だってあの時掛けられた言葉が全て、本心からのモノではないなどとは思いたくない。
 未琴といい、魎といい、神楽といい、どういう訳か自分の周りにはこういうお節介な奴らばかりが集まる。そしてそんな奴等だからこそ、少しは一緒に闘ってやってもいいかという気が起きる。本当に少しだけだが。
「で、魎。次の作戦は何だ」
 冬摩の言葉に魎は一瞬意外そうに目を見開いたが、すぐに含み笑いを浮かべると、真剣な表情になった。
「手負いの獣ほど厄介な物はない。あの囮作戦が失敗した事で、龍閃はこれまで以上に警戒してくる。まず間違いなく、法具を壊して力を解放しようとする。龍閃に全力で来られると勝ちの目はかなり薄い。だから抑え込む必要がある。その上でコチラの力を最大限に引き出す。そうすれば、恐らく勝てる」
 得意げな顔になり、魎は作戦の概要を述べる。
「で、具体的にどーすんだよ。そりゃソイツが出来りゃ勝てそうな気はするけどよ」
 だかあまりに抽象的すぎて、ただ単に理想論を言っているようにしか聞こえない。
「怨行術『業滅結界』を使う」
「何だそりゃ?」
「怨行術の結界はお前も二度、経験があるだろう。炎将の『破結界』、そして私の『烈結界』」
 陰陽寮と石牢の中で味わった物だ。
「『破結界』しろ『烈結界』にしろ基本的な原理は同じだ。呪針を成長させ、任意の場所に特殊な空間を生み出す。呪針の成長に必要な期間は術者の技量にも依存するが、殆どは結界の規模で決まる。まぁ大きければ大きいほど、完成までに長い時間を要するわけだ」
 広い額を撫で上げながら説明する魎に、冬摩は疑わしげな視線を向ける。
「で、その『業滅結界』ってのはどのくらいなんだよ。龍閃のヤツが都合良く入ってくれるとは思えねーけどな」
 魎も言ったとおり、龍閃が次に来る時はかなり警戒してくるはず。あの囮作戦のような簡単な罠にはまず引っかからないだろう。
「心配するな、冬摩。その点は大丈夫だ」
 しかし魎は自信ありげに言って、口の端を不敵につり上げた。
「なにせ『業滅結界』の規模は、この国全土なんだからな」
「……は?」
 間の抜けた冬摩の声が、枝葉のざわめきにかき消された。





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