貴方に捧げる死神の謳声 第零部 ―復讐の業怨―

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八『月夜に捧げる凶乱の謳声』


◆凶気の鮮血、悲哀の秘力 ―荒神冬摩―◆

『冬摩……お前と過ごした、時間は……。私、の……宝物、だ……』

 クスノキの上から諏訪の街を見下ろしながら、冬摩は無表情で呼吸だけを規則的に繰り返していた。ここは街から少し離れた場所にある小高い丘。その山頂に何本か立っていたクスノキの太い枝の上。
 ずっと昔。もう八百年も前。冬摩はよく、こうして陰陽寮を眺めていた。未琴の事を見ていた。

『愛、して……る……』

 彼女の事は未だに色褪せない。姿も、声も、匂いも。
 変わりようのない大切な女性として、いつまでも冬摩の中で生き続けている。どういう声を掛ければ、どんな答えが返ってくるのか。どう接すれば、どのように反応するのか。
 それらの殆どが、今目の前に未琴が居るかの如く分かる。
 自分の中で未琴という女性の姿形、色や音、そして人格までもが悠久の存在として確立しきっていた。
 だからこそ、全く衰えない。
 龍閃への憎しみが。自分から大切な人を奪った者への復讐心が。
(殺してやる……)
 まばたき一つする事なく、冬摩は黄昏に染まっていく諏訪の街に目を這わした。
(ブッ殺してやる)
 まだか。まだ現れないのか龍閃は。
 早く来い。早く出てこい。もう限界だ。
(ブッコロシテヤル……!)
 今夜は紅月。魔人の力が最大限に解放される時。
 だんだん自分の理性が吹き飛んでいくのが分かる。徐々に躰の最深から奮えが来るのが分かる。
 もし、今少しでも視界の中に龍閃の姿が入ったら、少しでも龍閃の波動を感じたなら、もう駄目だ。もう抑えられない。何も考えずに飛び出す。
 時間稼ぎなどという物をするつもりは最初からない。どちらかが死ぬまで殺し合うだけだ。
「荒神さーん」
 下から女の声が聞こえてきた。
 冬摩は微動だにせず、目だけを動かしてソチラを見る。
「食べないんですかー? もう一昨日から何も食べてないじゃないですかー」
 非常食用の干し肉と天日干しした餅米を差し出しながら、神楽が間延びした声で話し掛けてきた。
 何度見ても驚くほど未琴に似ている。だが、彼女は未琴とは違う。別人だ。その事に関しては完全に割り切っている。
 冬摩は神楽に何も返す事なく、再び諏訪の街に視線を戻した。
「あと、少しは寝た方がいいですよー。体が休まりませんよー」
 全く、いちいちうるさい女だ。近くに龍閃が居て、気付かれでもしたらどうするつもりだ。もしこの女のせいで龍閃に逃げられでもしたら、この手で殺してやろうか。
「おい、静かにしてろよ。ブッ殺すぞ」
「あ、やっと喋ってくれましたね」
 クスノキから下り、殺気を込めて睨んだ冬摩にも全く怯む事なく、神楽は脳天気に愛嬌を振りまきながら非常食を差し出してくる。
「いらねーよ」
 緊張感のない彼女の顔に苛立ちを覚えながら、冬摩はその手を叩き落とした。持っていた干し肉と餅米が小さな音を立てて草原に転がる。 
「あぁ……勿体ない」
 ソレを拾い上げて付いた土を巫女服の袖で払い、神楽は少し悲しそうに目線を下げた。
「おい、九重。テメーは何か感じねーか」
 自分から少し離れた場所で干し肉を口に入れ、街の方を監視している九重に声を掛ける。九重は顔だけをコチラに向け、首を横に振って否定の合図を送った。
「ち……」
 ココに来て丸二日。龍閃の気配どころか、他の地に散った者達の波動の乱れも感じない。まだ龍閃が現れていないのか、遠すぎて感じ取れないのか、監視している土地自体が的外れなのか、それとも他に何か……。
「まぁ気長に待ちましょうよ。だからご飯でも食べて……」
「テメーは!」
 相変わらず呑気な調子で言ってくる神楽の胸ぐらを掴み上げ、冬摩は歯を剥いて殺気を叩き付けた。しかし、すぐにその手は巫女服から離される。
「何だよ、テメー。震えてんのか」
 神楽は自分の体を小刻みに震わせながら、引きつった笑みを顔に張り付かせていた。
「え、え……? そ、そんな事、ないですよ……? わ、私だって、ちゃんとした『死神』の保持者、ですから……。りゅ、龍閃を倒すために、受け継いで……ここまで来ましたから」
 途切れ途切れに言う神楽の言葉は、歯の根が噛み合っていないのか哀れなほど歪だ。
「きっ、きっと荒神さんのがいきなり大声出すもんですから、そ、それでビックリしたんですよ……」
 どこか言い訳めいた喋りで言う神楽。
 違う。この震えはそんな軽い物じゃない。もっと心の奥底に根ざした原始的な感情がもたらす物だ。
 強がっているだけだった。無理して明るく振る舞って、龍閃と対峙する事への不安と恐怖を押し殺しているだけだった。
「ち……。オラ、さっきの飯よこせよ」
 面倒臭そうに舌打ちして、冬摩は神楽の手から干し肉と餅米を取り上げる。そして乱暴に口に放り込み、激しく咀嚼して胃に流し込んだ。
 龍閃への恐怖。もうそんな思いは随分と前に無くなってしまった。憎しみに取って代わられ、屑同然の無用の産物と成り果ててしまった。
 だから分からない。神楽の気持ちが。
 しかし、未琴の言葉なら聞こえる。
 多分、未琴はこう言うはずだ。
 恐怖とは相手を怖れるだけの感情ではない。相手の力を見極め、自分の力と比較し、そして己を戒めるため武器の一つだと。冷静になり、戦いを有利に運ぶための力だと。
(冷静に、ね……)
 神楽を介して伝わってきた未琴の言葉を、もう一度心の中で反芻し、冬摩は大きく息を吐いた。
「おい、もうねーのかよ。全然足りねーぞ」
 二日ぶりに摂った食べ物で食欲が刺激されたのか、冬摩は神楽に非常食の催促をする。
「え、あ、はいっ。それじゃあ私の分でよければ……」
「テメーの分はテメーで食え。弱い奴が力付けとかねーでどーすんだよ」
 ぶっきらぼうに言った冬摩の言葉に、神楽の顔が幾分和らいだように見えた。
(ったく……何やってんだ俺は……)
 乱暴に後ろ頭を掻き、冬摩は龍の髭で縛った長い髪を解く。そしてもう一度縛り直そうとした時――
「な……!」
 大地が揺れた。
「おぃ! 街が!」
 遠くから九重の叫び声が聞こえてくる。クスノキの上に駆け上がり、冬摩は諏訪の街を見下ろした。
 さっまで茜色に染まっていた街が、狂気的なモノを孕んだ濃密な橙へと変わりつつあった。街の方々で爆炎と崩落が撒き起こり、悲鳴と怒号が交錯する。平和な夕暮れを迎えていたはずの諏訪の街は、一瞬にして凄惨な地獄絵図へと変貌していった。
「出やがったな!」
 顔を歓喜に染め上げ、冬摩はクスノキの上から身を翻す。
 魎の言うとおりだった。本当に龍閃が現れやがった。やはり間違いなかった。正しかった。魎の事を信じて――
「――ッ!」
 街の方に駆け下りようとして、冬摩は地面に脚を踏ん張って急停止する。そして困惑した表情で真後ろを振り返った。
「何で……」
 無意識に口から言葉が零れる。
「どういう……」
 背中で街から響く轟音を聞きながら、冬摩は反対側に広がってる湿地帯を凝視した。
 後ろでは今まさに都市破壊が起こっている。そこに龍閃が居るはずだと思っていた。龍閃が大量虐殺をしているのだと。
 だが、一体どういう事だ。龍閃から放たれる強い波動は、全く逆の方向から感じる。それもまるで自分に見つけて下さいと言わんばかりに露骨な物を。
「おい、荒神! どうなってんだよ!」
 近くに寄ってきた九重が早口でまくし立てた。
「ひょっとして街は具現体に……!」
 街と湿地帯の方を見比べながら神楽が声を震わせて悲鳴混じりに叫んだ。
 具現体。龍閃が使役神鬼を具現化させて街を襲わせている? いや、それは考えにくい。龍閃の性格からして自分の手で殺す事を好むはずだ。具現体に代行させるくらいなら最初から都市破壊などしない。
 召鬼か? 今感じている波動は龍閃の召鬼が放っている物なのか? しかし、こんな強い波動をいったいどうやって。
「クソ……!」
 忌々しげに吐き捨て、冬摩は地面を蹴って湿地帯の方へと向かった。
 こんな所で考えていても埒が開かない。自分の目で確かめれば良いだけの事だ。まずは、憎たらしい波動で自分を挑発している方を……!

 黄昏を経て、薄闇色へと塗り変わっていく天上の高域。暗く移ろい行く大気の中に、氷結よりもなお凍てつき、灼熱よりもなお猛る異形の気配が混じってた。
 その奇怪な雰囲気を纏う男は紅蓮の長い髪と、金色の双眸、緋色の爪を持ち、異常に発達した筋肉の上に白の陣羽織を纏っていた。
「久しいな、冬摩」
 低く、野太い声。
 忘れようもない。忘れられるはずがない。この八百年間、延々と追い求めてきた憎き男が発する黒い音。
「龍、閃……!」
 湿地帯の中央で悠然と腕組みして構える巨漢の男――龍閃を睨みながら、冬摩は悦びと憎悪と昂奮をない交ぜにして叫声を上げた。
「少しは強くなったか、冬摩。我を悦ばせられるくらいには」
「ああ……」
 引き寄せられるようにして体が勝手に動いていく。
 ぬかるんだ足場を蹴り、際限なく昂ぶっていく激情と共に冬摩は加速していった。
「テメーをブッ殺すくらいにな!」
 咆吼し、冬摩は一気に龍閃との間合いを詰める。
 もう他の事は関係ない。街を誰が壊していて、ソレがどうなろうと知った事ではない。
 今目の前に未琴の、そして母親の仇が居る。理解するのはそれだけで十分だ。
「死ねオラアアアァァァァ!」
 怒りに体を任せ、冬摩は渾身の力を込めた右拳を龍閃に叩き付ける。
「試してやろう」
 不敵に笑い、龍閃は腰を落として冬摩の拳撃を左手だけで受け止めた。拳に伝わる固い手応え。龍閃の左手の皮膚が裂け、肉が爆ぜ、鮮血が吹き出る。
「つまらん」
 だが、それだけだった。龍閃の左手を破壊はしたものの、冬摩の拳は完全に勢いを殺されてしまう。直後、腹部を襲う甚大な熱量。
 声を上げる事すら出来ず、龍閃の右腕で真上へと突き上げられた。
「っのガキ……!」
 だが、こんな物に怯んでいる暇などない。
 喉の奥から込み上げてくる物を強引に呑み込み、冬摩は龍閃の頭上で拳を構えた。そして腹からの『痛み』と自重による加速に乗せ、裂帛の気合いと共に拳撃を打ち下ろす。
「実にお前らしい」
 口の端に笑みを浮かべ、龍閃は目の前に生み出した『金剛盾』でソレを受け止めた。最硬度を誇る漆黒の盾は冬摩の拳を潰し、右手から血を噴き出させる。
「が、退屈だ」
 龍閃の言葉と同時に『金剛盾』は消失し、支えを失った冬摩の体が地面に引かれる。着地し、近い間合いから龍閃の腹目掛けて突き立てようとした右腕を、不可視の爪が切り裂いた。しかしソレにも構う事なく強引に振り切るが、龍閃は右手で軽々と受け止める。
「無闇に突っ込むだけでは芸がない。少し頭を冷やして策を考えろ。これならまだ牙燕の方が歯応えがあった」
「ン、だと……!」
 頭に血が上りきっている冬摩には龍閃の言葉など届かない。だから気付かない。龍閃が口走った牙燕の事など。
「荒神さん!」
 甲高い女の声と同時に、龍閃を横手から大気の断層が襲った。『真空刃』は弧の軌道を取って飛来し、冬摩を掴んでいる龍閃の右腕に狙いを定める。
「ほぅ、『死神』の保持者か。待ちかねたぞ」
 ソレを『金剛盾』で弾き飛ばし、龍閃は狂喜に目を輝かせた。
「どこ見てやがる!」
 叫んで冬摩は、左腕を龍閃の顔面目掛けて叩き付ける。しかし首をひねって難なくやり過ごす龍閃。直後、龍閃の顔から再び不可視の爪――『断空爪』が牙を剥こうとした時、その間に割り込むようにして入ってきた六角の白い枠が『断空爪』を呑み込んだ。
「ち……」
 次の瞬間、龍閃の頭上に浮遊していたもう一つの六角の枠から、『断空爪』が現れて爪を立てる。龍閃は冬摩の右腕を解放し、後ろに跳んでソレをかわした。
「離れろ荒神!」
 遠くの方から九重の声が聞こえてくる。
 今のは『玄武』の『次元葬』。二つの六角の枠を操り、片方で吸収した物をもう片方から吐き出させる。『次元葬』の六角の範囲を大きくすればする程、二つの枠の距離は縮まり、意味を成さなくなってしまう。
「荒神さん! 無茶しないで!」
「ウルセェ!」
 コチラに駆け寄りながら声を上げる神楽を無視して、冬摩は尚も龍閃に突進しようとする。しかし突然体が重くなり、地面に吸い寄せられるようにして冬摩は這いつくばった。
 この全身を襲う虚脱感。以前、味わった事がある。『騰蛇』の『重力砕』ではない。これは―― 
「あー、仲間の忠告は素直に聞いた方が良いぞ、冬摩」
 そして頭上からやる気のない声が降ってくる。
 四つん這いの体勢から顔だけを上げ、冬摩は声の主を睨み付けた。
「魎……!」
 ソコに立っていたのは不定形に揺らめく黒衣を纏い、長い黒髪を全て後ろで固めた長身の男――水鏡魎だった。
「水鏡さん!」
「水鏡!」
 自分の近くで、神楽と九重が歓喜の声を上げる。魎が来るまでの時間稼ぎに成功し、これで勝つ事が出来る、生き残る事が出来ると思っているのだろう。
「随分と時間が掛かったな、魎」
「おいおいお前と一緒にするな。これでも急いだ方だ」
 しかし魎は二人の声には応える事なく、おどけたように肩をすくめて見せながら龍閃の方に歩み寄る。
「水鏡、さん……?」
 その有り得ない光景に、神楽が放心したような表情で聞き返した。
「神楽……! テメーは下がってろ!」
 立ち上がる気力さえも呑み込んでいく束縛に抗い、冬摩は苦しげに言いながら体を起こす。
「ほぅ、まだそんな力が。大した物だ。だが、私の『烈結界』からは逃れられんぞ?」
 魎が龍閃の隣でコチラに手をかざしたかと思った瞬間、睡魔にも似た脱力感と脳髄の痺れが冬摩を呑み込んだ。
「魎……! テメェ……!」
「あー、いつ呪針を埋め込んだかと聞かれれば、お前が無謀にも私に戦いを挑んで来た時だよ。『烈結界』程度の小さな物なら、私の黒衣の破片でも十分に呪針の役目を果たしてくれる。なかなか便利だろう?」
 自慢気に言って、魎は見せつけるように黒衣を翻した。
「水鏡! お前、何やってんだよ! なんでそっちに居るんだよ!」
「あー、そうだな。その質問には自分の欲望に勝てなかったから、とでも答えておこうか」
 声を荒げる九重に、魎は広い額を撫で上げながら涼しげな表情で返す。
「水鏡さん、そんな……嘘、ですよね?」
「あー、神楽さん。貴女はもう少し人を疑う心を持った方が良い。『死神』から祖先の記憶を受け継ぎ、疑問に思わなかったんですか? いくら相手が龍閃だとは言え、私が四百年も後手に回り続けるなど。いつまで経っても龍閃を捕らえられなかった理由は単純。私が情報を横流ししてたからですよ。『業滅結界』の呪針の位置もそう。私達が見張っている所から最も遠くに位置する都市の場所も、ね。まぁ、どんな立派な手品もタネが知れてしまえば何ていう事はないでしょう?」
 まるで親しい友人と会話でもしているかのように、魎は楽しそうに喋る。
「じゃあ、私達は……私達は何のために、今まで……」
「あー、何も悲観する事はありませんよ。貴方達はもう十分に役に立ってくれた。国中に埋めてくれた呪針は『破結界』の発動に使わせて貰いました。三つに分けた保持者達を完全に隔離して、万が一にもお互いの波動の乱れを感じ取れないようにするためにね。実は、『業滅結界』を発動させるには七百年以上の成熟期間が必要なんですよ。貴方達が埋めてくれた呪針は役に立たない。突然、呪針を埋める作業が順調に進み始めたのは、もう龍閃に壊させる価値が無くなったからです。ただの木屑を壊して貰っても、龍閃からの信頼を得る事には繋がりませんからね」
「そんな……」
「あー、そうそう。信頼で思い出しました。もう一つ大切な礼を言わなければ。保持者や貴女の祖先様の肉を龍閃に捧げる事で、私は彼から多大な信頼を得られた。本当に、いくら感謝してもし足りないくらいです」
 魎の言葉に神楽は足下をふらつかせながら下がる。弱々しくよろめく彼女の背中を、九重が後ろから支えた。
「魎、貴様のおかげでこの屑共のいい顔は見られた。だがまさか、コレで我を満たせると思った訳ではあるまいな」
「まさか」
 どこか嘲るように言って、魎は錐のように目を細くする。
「満足するのはこれからさ」
 魎の口調が先程までとは明らかに異質な物になる。獣の獰猛さと凶鳥の狡猾さを兼ね備えた、酷く冷徹な言葉の響き。あらゆる慈悲を無へと帰し、苦痛と絶望だけを植え付ける。
 非情という言葉を体現したかのような災厄の使者が、ゆっくりと冬摩の元に近寄った。
「冬摩」
 『烈結界』でうずくまる冬摩の前にしゃがみ込み、魎は耳元に口を寄せる。
「悪いな」
「テ、メェ……!」
 凍えるような殺気を内包した魎の言葉。冬摩はありとあらゆる力を振り絞って束縛に抗う。しかし魎が冬摩の体に触れた瞬間、体の重みが倍加した。
「お前はそこでゆっくり見てろ」
 そして魎は冬摩から体を離し、流れるような動きで立ち上がって龍閃の方に向き直る。
「私が龍閃を喰い殺すところをな!」
 魎の口の端が裂けたように吊り上がり、未だかつて見せた事のない凶悪な笑みを浮かべた。そして次の瞬間、魎の黒衣が陽炎のように立ち上ったかと思うと、無数の黒鎖が天空へと舞い上がる。
 見上げ、それでも先が見えないくらいにまで黒鎖は上り詰めると、一気に方向を転換させて龍閃へと降り注いだ。
「魎……! どういう事だ! 我に忠誠を誓ったのではないのか!」
 突如として頭上に現れた黒い雨を、龍閃は跳んでかわし、『金剛盾』で弾き、腕で叩き落としてやり過ごす。
「冬摩達を騙し、お前を騙した私の演技は完璧だっただろう!? 私は事なかれ主義者でもあるが、完璧主義者でもあるんでね! お前に付いてりゃ楽なんだが、ぬるま湯はもう飽きたんだよ!」
 狂ったように叫びながら、魎は大地を蹴った。そして黒鎖を足場代わりにして、有り得ない角度から龍閃に肉薄する。
「自惚れるなよ。貴様で我に勝てるとでも思ったのか!」
「勝ち目のない戦いを仕掛けるほど馬鹿じゃない! お前こそいつまでもテメーが最強だなんてすっとぼけた事ホザいてんじゃねーんだよ!」
 地面に頭を向けた体勢から足下の黒鎖を蹴り、魎は『左腕』を振り上げて龍閃に突っ込んだ。その行く手を遮るようにして現出する『金剛盾』。
「そんな邪魔クセェモンぶら下げてんな! 目障りなんだよ!」
 怒声と共に大きく開眼し、魎は『左腕』を『金剛盾』に突き立てる。
 高く澄んだ破砕音が、広大な湿地帯に響き渡った。冬摩が渾身の力を込めても砕けなかった漆黒の盾は、まるで薄氷のようにあっけなく崩れ去る。
「ちっ……!」
 舌打ちして後ろに跳びながら、腕を魎の方にかざす龍閃。ソコから『断空爪』が生み出され、不可視の爪となって魎に襲いかかる。
「下らねぇ飛び道具に頼ってんじゃねぇ!」
 自分の真横に移動した無数の黒鎖を蹴り、魎は『断空爪』をかわして龍閃の横に跳んだ。続けて真上に用意していた別の黒鎖の塊を踏み台にして、一瞬で龍閃の真後ろに移動する。
 背後に回った魎を狙って繰り出される『重力砕』。だが魎はそこから避ける気配を見せない。
「ンなモン効かねーんだよ!」
 魎の足下の地面が沈む。確かにそこに『重力砕』は発生している。かつて冬摩の全身の骨を砕いた、圧倒的な異常重力が魎の体にのし掛かっているはずなのだ。
 しかし魎はまるで気にした様子もなく、『左腕』を龍閃の背中に突き立てる。が、咄嗟に体を横にした龍閃の皮膚を掠め、その一撃は空を切った。そして一歩踏み込んだ魎の足の下が、何か強い力で押されたように大きく凹む。
 『重力砕』は発生している。だが効いていないのだ。あの異常重力に耐え得るだけの力を魎は持っている。もう一つの力の作用点、『右脚』が。
「さすがだな。法具を付けたままでは勝てそうにない」
 地面を蹴って後ろに跳びながら、龍閃は腰に両手を当てた。そして袴の下で不自然に盛り上がっている膨らみを掴み、獣吼を上げながら左右に伸ばしきる。
 次の瞬間、今まで肌を刺す程に感じていた龍閃の波動が一気に強まり、息苦しさを覚えるほどに増幅された。
「魎! 我に刃向かった事を貴様の死であがなえ!」
 龍閃は胸筋を大きく張って後退を止め、黒鎖を蹴って鋭角的な軌道で急迫してくる魎に拳を振るう。
「そんなチンケなモン外したくらいでいい気になんなよ!」
 魎は龍閃の拳撃の軌道から身を逃す事をせず、真っ正面から突っ込んだ。その魎を包み込むようにして、黒鎖が繭のように体を覆って行く。
「そんな物が盾になるか!」
 構わず龍閃の拳が突き立てられる。剛腕が呻りを上げ、黒い卵に呑み込まれた。卵はほどけるようにして割れ、中から龍閃の腕で串刺しにされた魎が姿を現す。
 魎は自分の体に埋められた龍閃の腕を掴んでゆっくりと顔を上げ、不気味に笑って見せた。
「っはぁ!」
 魎の狂笑が龍閃の背後から届く。しかし大きく突き出した『左腕』は、横に跳んだ龍閃の脇腹を掠めて力を逃がされた。
 魎が二人? いや……黒い繭の中に居たのは魎の『分身』? 違う。それは『紅蓮』の能力。『紅蓮』は牙燕の使役神鬼だ。魎が持っているはずがない。ならばあれは、自分を騙した時のように黒鎖で生み出した人形なのか?
「小賢しい手を使う。その程度で我に勝とうなどとは片腹痛いわ!」
「小賢しい手が私の性に合うんでね! 人の高尚な趣味に口出ししないで貰おうか!」
 龍閃から放たれた肘の一撃を後ろに跳んでかわし、魎は愉悦に顔を歪めて手をかざした。
「けどな、お前はその小賢しい手で死ぬんだよ!」
 魎に向かって大地を蹴った龍閃の動きが突然鈍くなる。速さは半減し、体勢を崩したかのように前のめりになった。
「気付かなかっただろう龍閃! お前の体にも埋め込んでるんだよ! 目印を! 呪針を! 八百年も前にな!」
 八百年前。魎が初めて黒鎖を使って見せた囮作戦の時。あの時からすでに魎の謀略は始まっていた。
「私の『烈結界』の味はどうだ龍閃! えぇ!? それで最強の魔人!? 笑わせるなクソヤローが!」
 罵声を浴びせながら、魎は前に突き出た龍閃の顎を『右脚』で蹴り抜く。大きくのけ反り、がら空きになった腹に『左腕』を突き刺した。そして中の肉を掴み、力任せに引き出した腕が徐々に『石化』し始める。
「だから効かねーつってんだろーが!」
 『左腕』を何かを振り払うように大きく横に伸ばすと、石になりつつあった箇所があっさりと元の肌色に戻った。そして戻した左手を口元に持って行き、魎は手の中にあった物を放り込んで湿っぽい音と共に咀嚼する。
「美味い! 美味いぞ龍閃! やはり強いヤツの肉は最高だ! 紫蓬は不味いと言っていたがとんだ味音痴だな!」
 寒気と吐き気を同時に覚えるほど狂悦に浸りきった表情で叫びながら、魎は龍閃に掴みかかった。
 しかし龍閃は上体を更に寝かせて魎の追撃をかわす。その不自然な姿勢から真横に跳び、魎から大きく距離を取った。
「我が最強の魔人と言われる所以――ソノ目デ確カメヨ!」
 龍閃の声質が一変する。低く野太いものから、二重三重になって慟哭する耳障りな不協和音へと。そして辺りの空気が腐臭を放つ汚泥のように姿を変えた。それが肌にまとわりつき、決して拭い去れない嫌悪感と異物感をもたらす。
『リョウ! 跡形モナクスリ潰シテクレル!』
 まるで山が突然降ってきたかのような錯覚。圧倒的な重量感を持った一つ目の龍は天を突かんばかりに長く太く伸び、周りに七匹の巨大な蛇を従えていた。そして表面に何もない蛇の顔に十字の亀裂が走ったかと思うと、粘着質な音を立てて四枚の花弁が開かれる。中に押し込められていたおぞましい蛭のような舌をコチラに伸ばし、突き立てられた牙を鳴らしながら蛇は威嚇の声を上げた。
 冬摩も話には聞いていたが初めて見る。
 龍閃が最強の魔人と言われる理由。それは龍閃のみが持つ真の姿。最頂点に達した紅月の光を浴び、大龍へと変化する。ありとあらゆる物に終焉をもたらす、死と破壊を司った無慈悲な凶王へと。
「ク……」
 大龍に見下ろされた魎が、俯いたまま低く笑う。
「クク……! ハハハッ!」
 そして気でも触れてしまったかのように、甲高い笑い声を上げた。
『シネ!』
 大龍の口から白い閃光が放たれる。ソレを大きく横に跳んでかわし、魎は狂ったように哄笑を上げた。
「随分アッサリと挑発に乗ってくれるな龍閃! 滑稽すぎて笑いが止まンねーよ!」
 そして魎の口から、人では決して発音し得ない呪詛のような詞が流れ出た。大龍と蛇から放たれる白光を奇麗に避けながら、魎は口元を兇悪に歪めたまま詞を紡ぎ続ける。そして――
「縛解!」
 一際大きく叫んで両手を大地へと叩き付けた。
 ヴン、という羽虫が耳元で飛ぶような音がしたかと思うと、暗天の空が朱色の膜で覆われる。そして胎動するかのように不規則な明滅を始めた。空は見渡す限りの紅。端など遙か遠くに霞んでしまっている。
 まるで化け物の胃の中に放り込まれたような錯覚。体中の穴という穴から蟲が這い出し、精神を内側から熔かしていくような怖気に襲われる。
『グ……』
 大龍が苦しそうに呻き声を上げた。蛇の頭が一つずつ自重に負けたかのように落ち、地面へと横たわっていく。
「普通、結界が対象にもたらす作用は“影響力”に留まる。相手の力を弱め、自分の力を強化するだけだ。だがな、『業滅結界』は“強制力”を持つ。こういう風にな!」
 魎の言葉に応え、目を灼く鮮烈な朱の光が長大な槍となって紅天から舞い降りた。液体を急激に蒸発されたような音と共に、ソレは蛇の一つを易々と貫いて体に大きな穴を穿つ。大気を鳴動させる絶叫。だが、朱光の槍は止めを刺さんばかりに幾条にも連なって大龍を撃ち続けた。
『グ……ア、ガ……!』
 大龍の口から苦悶の音が漏れ出す。それでも蛇の口から白い閃光が魎に向かって吐き出されるが、当たる前に槍がその力を相殺した。
「ハハッ! どーした龍閃! デカイのは図体だけか! えぇオイ!」
 狂楽の声を叫び散らしながら、魎は自分に襲いかかる閃光を避け、朱光の槍を降らせて殺し、かすり傷一つ負わぬまま大龍の体を削り取っていく。
 さながら血の雨に溶かされるようにして、大龍は全身に無数の穴を開けられ、その巨躯を小さくしていった。蛇の、そして龍閃の苦痛の叫びが耳をつんざく怪吼となって木霊する。そこに魎の凶笑が覆い被さった。
「脆い! 脆いな龍閃! こんな物か! これが最強の魔人の力か!」
 魎は両腕を広げ、胸で天を突き、抵抗する事も出来ずに何百、何千という朱の光に晒されてのたうち回る龍閃を腹の底から嘲笑う。
 蛇の中心に居た大龍もついに耐えきれなくなり、大地へと首を横たえた。
「オイオイ。まさかコレで死んだなんて言うなよ? 龍閃」
 大龍はもはや影もない。『業滅結界』からの死烈な攻撃に屈し、元の人型に戻ってしまった。
 圧倒的だ。あの絶大な力を誇っていた龍閃がまるで虫けらのように。言葉が出ない。コレが魎の力。
「なぁ龍閃。お前は今、どうして『業滅結界』が発動したのか、疑問に思ってるんだろう? 四百年くらいで呪針が成長しきるはずがないと考えてるんだろう?」
 薄ら笑いを浮かべながら、魎は大地に横たわる龍閃に近づく。
「呪針は最初から埋まってたんだよ。八百年も前から。お前が暴走した直後から。私が埋めたんだ。人間共が腐るほど居るデカい都市に。私が居る場所からは馬鹿ほど離れた場所に」
 全身から大量の鮮血を流出させ、荒く呼吸する龍閃の前で魎は楽しそうに目を細めた。
「私の目が届く地域の人気のない所に呪針を埋める? そうでなければ意味がない? まったく……お前らみたいに単純なヤツが相手だと楽でいいよ。たかだか百年二百年くらいで信じ切ってくれるんだからな」
 長い黒髪を掻き上げ、魎は口の端に蔑笑を浮かべる。
「私の居ない場所は召鬼にでも見張らせておけばいい。人気のない場所が必要なら作ればいい。お前が壊す都市を、冬摩達から離れているという理由で選んでいたと思うのか? 逆だよ。アレはな、私が呪針を埋めた場所さ。都市を破壊させたのはお前の気晴らしのためじゃない。呪針の周りから邪魔な人間共を追い出すため。お前に壊させる都市を選んで、ソコから一番離れた場所に冬摩達を置いたんだ。邪魔されないように。呪針が成長しきれば、すぐに『業滅結界』を発動できるように」
 魎の口から舌が不気味に這い出し、美味い食事を目の前にしたかのように唇を舐め取った。
「破壊が十年周期なのは壊された都市の再生がそれくらいで終わるから。ヤリすぎて見渡す限りの焼け野原、なんて事になったら呪針の事を勘ぐられるからな。人間共を喰いつぶしたら楽しみが無くなる。お前に言ったのは本音半分、建前半分ってところか。要は呪針の埋まってるデカい都市が六つ消えてくれればそれで十分なんだよ。『業滅結界』を発動させる必要最低限の呪針が使えればな。どうだ? 龍閃。完璧だっただろう? 演技も、術もな」
 小さく鼻を鳴らし、魎は力無く横たわる龍閃を冷たい目で睥睨する。
 コレが魎の戦い方。周りの者全員を騙し、欺き、術中に陥れる。
 全ての事象を予測し、先読みし、自分に有利な状況を築き上げる。力と知謀が一体となった時に、初めて発揮される強さ。
「紅月を選んだのはお前が大龍になれるからさ。追いつめられれば必ず変化すると思っていたよ。そして変化の終わったお前は力が激減する。だからもう抵抗できない」
 魎は龍閃のそばにしゃがみ込み、まるでその疲弊した体を労るかのように手をかざして――
「テメェはもぅナンにも出来ねぇんだよ! どんな事をされてもなぁ!」
 指を龍閃の体に埋め込んだ。
「どんな事を! どんな事をどんな事をどんな事をどんな事を! どんなどんなどんなどんなどんなどんな事をされたってなあああああぁぁぁぁぁ!」
 理性を失ってしまったかのように同じ台詞を何度も叫びながら、魎は龍閃に馬乗りになって全身を指先で抉っていく。
「グチャグチャにした人間の肉喰って! メデタク仲良くなって人間共の不味い飯食って! そんでまたお前とクッ付いて人間の肉喰って! 思ったよ! 喰うなら人間の肉に限るってな! 頭ン中テメーと『同じ』だ! 人間は所詮餌よ!」 
 龍閃の胸の、腕の、腹の肉を素手で掻き出し、魎は飢えた餓鬼のように龍閃の肉を無我夢中で口の中に放り込み続けた。
 今、魎の頭の中には龍閃の肉の事しかない。龍閃が人間の肉の事しか頭の中にないように。
 『業滅結界』を発動され、変化を解かれ、力が殆ど残ってない龍閃。片や無傷で、『業滅結界』と狂った『共感』よって異常な力を手に入れた魎。
 どちらが勝者となるかは誰が見ても明らかだ。
「けどな! もぅ喰い飽きたんだよ! どいつもコイツも似たような味しかしやがらねぇ! だから思ったんだよ! 魔人の肉はどうかってな! 不味い不味いって言われてる魔人の肉はよ! 喰ってみたくなったのさ! 強い魔人の肉を! 牙燕の肉も紫蓬の肉もそれなりに美味かった! けど足りねえ! やっぱり龍閃! テメーだよ! テメーの肉はアイツらと比べ物になんねー! 最高だ!」
 顔を前後左右に激しく振りながら、魎は龍閃の体から肉を骨を臓腑を引きちぎり、口腔に押し込んで行く。その拍子に爪で自分の口を切り裂いても、全く意に介した様子もなく凄惨な作業に没頭し続けた。
「楽しかったぜぇ! テメーが『死神』の肉喰って、強くなって、どこまで行ってくれるのか! どこまで美味くなってくれるのか見てるのはなぁ! ギャハハハハハ! もっとだ! もっともっとお前の肉を喰わせろおおぉぉぉぉ! もっともっともっともっともっともっともっとおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!」
 龍閃と自分の血で顔中を染め上げ、魎は目を大きく見開いて眼下の餌にむしゃぶりつく。龍閃の体に直接歯を立て、凶悦に支配された凄絶な顔付きで次々と喰らっていった。
 もはやかつての面影は微塵もない。肉の欲に溺れ、自我を失った狂人その物だ。
「なんだ……知って、いたのか……」
 どんどん小さくなっていく龍閃の体から声がする。
「『死神』で熟した肉の……もう一つの役割を……」
 まるで地獄の釜が開いたかのような、どす黒い何かを孕んだ音。死の局面に晒されているにもかかわらず、落ち着き、余裕のある低い声が響いた。
「知っているさ! どんどん強く! どんどん美味くなっていくんだからなぁ!」
「そう……あの肉は、我を更なる高見に導いてくれる物……」
 言い終えた龍閃の金色の双眸が、深みを増したかのように昏く輝く。
「な――」
 突然。あまりに突然、魎の背中が爆ぜた。
「我に……更なる力を与える物……」
 魎の腹から、胸から、腕から、次々と小さな爆発が撒き起こる。
「こ……れ、は……」
「我の肉その物が……力の作用点となる程にまで、な……」
 龍閃に馬乗りになっていた魎がよろけながら立ち上がり、頼りない足取りで数歩下がった。そして痙攣するかのように体を大きく振るわせ――

『ギャガオガアァァァァォォオオォォアアアァァァァッ!』

 全身から鮮血を噴出させながら、魎は発狂したように大気を激震させる叫び声を上げた。
「いくら貴様でも、体の内側を守る術は持ち合わせていないようだな」
 口から、目から、鼻から、耳から、裂けた皮膚から。体中の穴という穴から血を流してのたうち回る魎の前で、紅く染まった龍閃が緩慢な動きで立ち上がる。
「なるほどなぁ、魎。最後の役者は冬摩と見せかけて貴様というわけか。完璧な演出ではないか。失敗に終わったという事に目を瞑ればな」
 左の眼窩が抜け落ち、頬肉が刮げ落ちた凄惨な形相で龍閃は呟いた。もはや自らの血で紅く染まった陣羽織は、いや龍閃自身は原型を留めていない。体中の肉を服ごと魎に喰われ、骨や臓器を露出させたまま立ちつくしている。太い首や厚い胸板は半分ほどになり、両の脇腹には風穴が開いて大腿部は引きちぎられた筋繊維がみみずのように蠢いていた。
 どうして生きているのか理解できない。それほど龍閃は変わり果てた姿になっていた。
「なかなかに楽しめたぞ、貴様とのお遊び。騙され続けた甲斐があった。貴様の結界術は実に見事だ。これ程大規模な怨行術を扱えるのは貴様くらいのものだろうな。良い物を見せてくれた。我はかつて無いほど満たされた。そして最後は忌々しい呪針も取り除いてくれた。その点に関しては礼を言わねばな。だが――」
 言葉を途中で切った龍閃の体が、一回り大きくなったように見える。
「我に楯突いた罪は重い。苦しみ、もがき、死を懇願する姿を我に見せよ。我を『悦ばせよ』。ソレのみが、貴様を解放する」
 抉れていた腕の肉が僅かに盛り上がったように感じた。
「さぁ、魎」
『ッガアアアアァァァァ!』
 龍閃の言葉に応え、魎の体の内側から赤黒い槍が飛び出す。それも一本や二本ではない。まるで剣山に押しつけられたかのように、魎の体を無数の槍が喰い破った。
 貫いては中に戻り、そしてまた別の場所から顔を出して魎の体を穿っていく肉の槍。
「良い声で啼け。もっと貴様の中身を見せよ」
 無くなっていたはずの龍閃の左目がいつの間にか再生している。その焦点の合わない瞳で、陸に投げ捨てられた魚のように体を激しく震わせる魎を睥睨した。
「ふん」
 何かを感じて龍閃が顔を上げる。直後、紅く染まっていたはずの空が、元の暗天へと姿を戻した。辺りに立ちこめるのは夜の静寂、そして紅月の狂おしい輝き。
 ついに維持できなくなってしまったのだ。『業滅結界』を。
「貴様の精神力もここまでか」
 自分を戒めていた物が消えたせいか、龍閃の声に力と張りが戻る。持ち上げ、目の前まで持ってきた右腕の肉が見る見る再生していった。
 コレが今の龍閃の回復力。紅月の影響を受け、『死神』で熟した肉によって力を増した龍閃の。
「ぐぁ……あ……ぁ」
 意味を成さない言葉を撒き散らし続けていた魎の口から、怨気を込めた念が漏れる。
「おおおおおおぉぉぉぉぉ!」
 そして咆吼と共に、自分の腹に両腕を突き刺した。傷口が広がり、さらにおびただしい量の鮮血が流れ出るのも構わずに魎は腕を引き抜く。握っていた物を地面に叩き付け、魎は再び自分の体内に手を潜り込ませた。
 地面に落ちた物。ソレは不気味に蠢動する赤黒い肉片だった。
「ほぅ、我の肉をそうやって取り出す気か。貴様も正気ではないな。だが、出来るかな?」
 厭らしく笑った龍閃の言葉が終わる直前、魎は肉片の一つを取り出す。次の瞬間、ソレが小爆発を巻き起こした。さらに逆の手で抜き取った肉が大気に晒されたかと思うと、四方八方に針を伸ばす。
「『超知覚』、か……。紫蓬を喰い殺して正解だったな」
 忌々しそうに舌打ちし、龍閃は魎の体の中にある自分の肉を操った。しかし力が発動するよりも早く、ことごとく魎が取り出してしまう。まるでどの肉片が危険か、あらかじめ分かっているかのように。
(そういう、事か……) 
 目の前で行われている血の儀式を睨み付けながら、冬摩は奥歯をきつく噛み締めて体をゆっくりと持ち上げた。
 魎の精神力が途絶え、消えたのは『業滅結界』だけではない。自分を地面に縫い止めていた『烈結界』も同じ事。
「だが、その体で何が出来る」
 体に巣喰っていた肉を全て排出し終え、虫が呼吸するように小さく胸を動かす魎に、龍閃は嘲笑を浮かべながら悠然と歩み寄る。
「屑は屑なりに、我を『悦ばせる』義務がある。さぁ魎。もっと貴様の謳声を聞かせろ」
「テメーがクタバレ!」
 叫ぶと同時に冬摩は力強く大地を蹴った。そして龍閃との距離を一息で詰める。
 最初に龍閃から受けた傷はもう殆ど消えている。長い間、退屈な傍観を決め込んでいたおかげで。
「オラァ!」
 その鬱憤を晴らすかの如く、冬摩は渾身の膂力をもって右拳を振るった。ソレを片手で受け止める龍閃。
「ぬ……」
 だが勢いは殺しきれない。ふさがりかけていた手の傷をさらに大きく開かせ、冬摩は右腕を振り切った。そして返す裏拳で龍閃の顔面に狙いを定める。
「手負いの者相手に不意打ちか。貴様も卑怯になったものだ」
 ソレを『金剛盾』で受け止め、龍閃は口の端をつり上げて言った。
「テメーブッ殺すのに卑怯もクソもねーんだよ!」
「クク……怒りを向ける矛先が違うんじゃないのか? 冬摩」
「テメーも魎もブッ殺す! 気にいらねーヤツは全員コロス!」
 頭を殺戮の黒一色に染めて叫び散らしながら、冬摩は何も考えずに龍閃に拳を叩き込む。
 もう何もかもがどうでもいい。他の全てがどうなろうと知った事ではない。
 結局、自分が正しいと信じた道は間違っていた。魎の事を信じ、龍閃を殺せる瞬間を渇望し続けてきたのにこの様だ。
 踊らされていただけだった。振り回されていただけだった。魎の欲暴に。龍閃の凶気に。
 同じだ。あの時と。
 母親の亡骸の前で龍閃が見せた涙に惑わされ、未琴を奪われたあの時と。
 魎も龍閃も同じだ。魔人の本能からの声に負け、周りを巻き込んで卑しく堕ちていく。そして自分から大切な物を奪っていく。
 魎が見せた力。そして龍閃が口にした言葉。
 間違いない。最初からそのつもりだった。だから戦力を三つに分けた。だから三つを離した。
 牙燕も紫蓬も、魎が喰い殺したんだ! そして他の保持者達も……!
「クソッタレがぁ!」
 体の回転に乗せ右肘を龍閃の脇腹に叩き込む。ソレを左の肘で受け止め、龍閃は冬摩の腹に下から膝を食い込ませた。甚大な圧迫感に押し上げられ、冬摩の体が宙に泳ぐ。
「万全にはほど遠いとは言え、貴様如き葬るにはコレで十分よ!」
 すでに完全に厚みを取り戻した龍閃の胸板を蹴り、冬摩は浮かび上がった自分の体を後ろに逃がす。直後、さっきまで自分の居た位置が『大喰い』で半球状に深く抉れた。
「ゴチャゴチャウルセーんだよ! テメーは!」
 胃から込み上げてくる熱い塊を強引に呑み込み、冬摩は着地と同時に大地を蹴って再び龍閃に肉薄する。そして右腕を前に突き出した。
「馬鹿の一つ覚えだな」
 拳撃を『金剛盾』で受け止める龍閃。冬摩は構わず体を密着させ、漆黒の盾の向こう側にある龍閃の顔に左拳を繰り出した。
(牙燕……!)
 鬱陶しい奴だった。
 本当に邪魔臭くて面倒臭い奴だった。
 顔を合わせ、口を開けば『勝負! 勝負!』。子供みたいに目を輝かせて、負けても負けても何度も自分に挑んできた。そして自分もソレに何度も付き合った。
 不思議だった。無視すればいいのに。冷たくあしらって放っておけば済む話なのに。どうして律儀に相手をしてやっていたのか。あの時は全く分からなかった。
 だがアイツを、あの頭にまで筋肉の付いた熱血野郎を失って初めて分かる。もう闘えないと実感してようやく理解できる。
 楽しかったのだ。牙燕と拳を交わす事が。
 唯一アイツとの闘いだけだった。迷いや戸惑いや憎しみを抱く事なく、思いきり暴れられたのは。闘いだけに専念できたのは。
 呪針を一緒に埋めに行った田んぼのあぜ道でも、織田の清洲城を攻めた時も、アイツは頼んでもいないのにコッチ事を気にしやがって。もっと自分の事だけ考えていればいいのに。もっとテメーがやりたい事だけ……!
「してりゃいいんだよ!」
 受け止めようと間に挟んできた龍閃の左手を貫き、奥にある顔面に冬摩の左拳が突き刺さった。
「く……」
 予想外の拳撃を受け、龍閃は一瞬困惑したかのような表情で後ろに大きく仰け反る。
「オラアァァァァァァ!」
 続けて顎先に右拳を叩き込んで勢いに乗り、冬摩は龍閃の体に拳の弾幕を浴びせた。両腕を胸に折り畳んで固めた龍閃の防御を左腕で突き崩し、開いた隙間に右拳を滑り込ませる。肩にまで重い手応えが伝わり、龍閃の膝が僅かに落ちた。その機を逃す事なく、冬摩はまだ臓腑を外に晒している下腹に左腕をめり込ませる。
 魎との戦いで負った傷が回復しきっていないのか、面白いように拳撃が命中していった。徐々に後退していく龍閃に覆い被さるようにして、冬摩は獣吼を上げながら両拳を繰り出し続ける。
(紫蓬……! なんでテメーまで!)
 大きく目を見開き、冬摩は胸中で渦巻くどす黒い怨嗟をぶつけるように拳を叩き付けた。
 紫蓬は自分などより遙かに長く生きている。力も上のはずだ。勘も良く、頭も切れる。
 だが――お人好しすぎた。人間との生活に馴染みすぎた。
 だからあんな屑野郎の口車に乗って。あんな屑野郎を信じて。そして、喰い殺された。
 紫蓬の言葉があったから。長く一緒に居る事で目に見えない信頼関係が生まれ、根拠もなく相手を信じるような大馬鹿女が居てくれたから、自分も魎を信じようと思ったのに。なのに――結局、紫蓬の選択は正しくなかった。魎に操られていただけだった。
 アイツの欲望を満たすために。魔人の肉を、龍閃の肉を喰うという下衆な獣欲を満たすためだけに。

『非情になれ、冬摩』

 ああ、なってやるさ。なってやるとも。
 もう誰も信用しない。誰も頼らない。
 信じられるのは自分の力だけ。自分の拳だけ。それだけで、十分だ……!
「クタバレ、龍閃!」
 叫びながら左の手刀を龍閃の脳天に振り下ろす。ソレを受け止めようと、右腕を頭上に掲げる龍閃。だが冬摩の連撃を浴び続けて、骨が剥き出しになるほどに朽ちている。
「ぐ……!」
 くぐもった龍閃の声。冬摩の左手はあっけなく龍閃の腕を切り飛ばし、宙へと舞い上げた。
 直後、冬摩の体に甚大な負荷がかかる。足下の地面が沈み込み、体と意識を一緒に呑み込んでいった。『騰蛇』の『重力砕』。だが、最初に受けた時ほどの力はない。弱まっている。コレなら抵抗出来る!
「オオオオォォ!」
 雄叫びと同時に足の筋肉を大きく躍動させ、『重力砕』に抗う冬摩。足が一歩前に踏み出され、龍閃の体に爪を突き立てようとした左腕が灼熱を帯びた。
「やはり、厄介なのはその『左腕』か」
 頭上から龍閃の低い声が下りてくる。
 激烈な痛みで集中力が途絶え、冬摩は『重力砕』に呑まれて地面に体を沈めた。
 『重力砕』と『断空爪』の同時顕現。龍閃の力の作用点が二つに……。
(そうか……)
 押されていたのはわざと。わざと腕を切り落とさせて、もう一つの力の作用点を生み出すため。今の龍閃は肉片すら力の作用点に出来る。ならば当然、腕も。
「クソッ、タレ……!」
 無惨に切り裂かれた左腕と、その『痛み』によって力の漲る右腕で地面を押し返し、冬摩は這いつくばりながらも顔を上げた。その視界に白い六角の枠、『次元葬』から突き出た細腕が龍閃の頭上へとまわるのが映る。もう一対の『次元葬』に神楽が腕を差し込み、離れた場所から龍閃を狙っているのだ。
「小賢しい」
 宙に舞っていた龍閃の右腕は意思を持ったかのようにその場で停滞すると、ソレが生み出した『金剛盾』で細腕からの『真空刃』をはじき返した。
 そして余裕の笑みすら浮かべてコチラを見下していた龍閃の顔に、緊張の色が走る。
「魎。貴様、まだそんな力が」
 闇色に染まっていた空が、再び朱へと染まり始める。
 怨行術『業滅結界』。だが、最初のように狂気的な鮮血の色ではない。儚さすら感じ取れる、淡い紅だ。
「わ、忘れたか……龍閃……。呪針は……一組だけでは、ない……」
 倒れた体勢から顔だけを起こし、魎は苦しげに言う。
 人気のない場所に埋められた呪針はもう使い物にならない。例え使えたとしても今の魎の体では扱いきれない。だが、栄えた都市の下で静かに眠る、本来の力を出すにはほど遠い呪針ならば――
「テメーは余計な事してんじゃねぇ!」
 幾分緩くなった『重力砕』を強引に押し返し、冬摩は地面を蹴って龍閃に掴みかかった。しかし横から冬摩に当て身を食らわせるようにして、二つの影が覆い被さってくる。
 神楽と九重だ。
 『重力砕』からの脱出で勢いの殆どを削がれた冬摩の体は、あっさりと二人に抱きかかえられて龍閃から離れていく。
「屑共が」
 野太い声と共にコチラに力を振るおうとした龍閃の目の前に、『業滅結界』からの朱色の閃光が舞い降りた。細く、弱々しい紅の槍は龍閃を囲むようにして連続的に叩き付けられ、龍閃の視界を奪い去っていく。
「離せコラァ!」
 姿を小さくしていく龍閃を睨み付けながら怒声を上げ、冬摩は自分の右脇を抱える九重の頭上に腕を振り下ろす。しかし当たる直前で『次元葬』に呑まれ、拳は冷たい地面の感触で包まれた。
「っなせ! つってんだろーがぁ!」
 灼怒に顔を染め上げ、冬摩は左脇の神楽の背中に肘を撃ち下ろす。 
「っは……!」
 ソレをまともに食らい、冬摩から身を離して地面に突っ伏す神楽。片方の支えをなくし、冬摩は自由になった半身をひねって九重の束縛から逃れた。
 そしてたわめた足を地面に付き、ソレを伸ばしきって勢いに乗る直前、正面から白い巫女装束が被さってくる。
「荒神さん……! 冷静に! 冷静になって下さい!」
 口の端から血を滴らせながら、神楽は二重の大きな目で冬摩を射抜いて叫んだ。
「ブッ――殺すぞ、テメー!」
 邪魔な障害物に向かって、冬摩は怒りを乗せた右腕を振るう。鉤状に曲げた右手は易々と神楽の体を引き裂き、純白の巫女服を紅く染めていった。
「荒神、さん……!」
 だがそれでも神楽は目の前から退かない。両腕を大きく横に広げ、強い意志を込めた眼差しでコチラを睨みながら仁王立ちになる。
 その姿を見た瞬間、まるで極寒の地に放り込まれたかのように冬摩の体から熱い血が引いていった。そして過去の記憶が鮮明な輪郭を伴って想起される。
「未、琴……」
 無意識に紡がれるその名前。
 同じ。全く同じだ。八百年前、初めて未琴と会った時と。
 陰陽寮の離殿に攻め込んだ自分を逃すまいと、満身創痍の体を盾にして行く手を阻んでいた未琴の姿と。
「荒神さん。貴方の怒りは分かります。私だって、半分以上は貴方と同じ気持ちです。水鏡さんが憎い。私達を騙して、仲間を殺した水鏡さんが。諏訪の街を無茶苦茶にしたあの人が。でも、水鏡さんが龍閃をあそこまで追い込んだのも事実なんです。あともう少しなんです。あともう少しで、龍閃を討てるんです。何百年もの悲願が叶えられるんです」
 未琴と同じく凛と張ったよく通る声で言う神楽の姿からは、龍閃との戦いに震えていた最弱の保持者の雰囲気は微塵も感じない。
「何か大きな事を成すためには、それ相応の犠牲が必要なんです。だから力を貸してください。冷静になって一緒に戦ってください荒神さん。ここままじゃ龍閃に殺された人達があまりに……!」
「ウルセェ……」
 低く、唸るような声で冬摩は言葉を吐いた。
「ウルセェんだよテメーは! エラそうに指図すんな! 俺は俺のやりたいようにやる!」
 当たり散らすように叫んで神楽の体を押しのけ、冬摩は紅い槍で足止めされている龍閃に向かって突っ込む。
 もう誰も信じない。誰も頼らない。自分だけを信じる。自分の考えだけが正しいと信じる。

『冬摩、お前は自分が正しいと思った事をしてくれ』

 ああ、分かってるさ未琴。もう迷わない。俺は俺を裏切らない。

『冬摩、そうやって暴れてる方がアンタらしいわ』 

 そうさ母さん。その通りだ。

『迷ってねーなら自分の好きなようにしろよ! ソッチの方がアンタらしいぜ!』

 お前に言われなくても分かってるんだよ牙燕。俺は迷っちゃいない。好きなように暴れるだけだ。

『最初から一人で暴れ回っている方が余程ヌシらしいわ』

 ああ、紫蓬。俺は一人だ。この先ずっと一人。もう誰にも心を許したりはしない。

『非情になれ、冬摩』

 今ようやくその言葉が理解できたよ、魎!
「オオオオオォォォォォォ!」
 咆吼を上げながら龍閃の眼前で深くしゃがみ込み、冬摩は伸び上がりざま右腕を突き出す。道をあけるようにして止んでいく朱の閃光。狭く開かれた紅い壁の隙間を通り、冬摩の拳撃は龍閃の顎へと吸い込まれた。
「貴様との戦い、そろそろ飽きたな」
 龍閃の顔と冬摩の拳の間に割り込む『金剛盾』。
 漆黒の盾越しにコチラを一瞥した後、龍閃は視線を自分の後ろへと向ける。そして左腕をゆっくりとかざした。
 筋肉の発達した太い腕の先に居る者。それは――
「アァ……!」
 悲痛な女の叫び声。
「かぐ……!」
 『断空爪』で体を裂かれ、鮮血を上げる神楽を庇うようにして九重が割って入るのが見えた。
 ……何故? 何故、自分の視界はこんな物を映している? どうして龍閃が居ない?
「終わりだな」
 どうして……龍閃の声が後ろから聞こえてくるんだ?
 ひねった首を元に戻す。龍閃の左腕が後ろに引かれ、自分の胸元に狙いを定めて近づいて来るのが見えた。避けきれない。間合いが近すぎる。防御できない。龍閃の腕の方が速い。
 終わる。終わってしまう。こんな所で。未琴の敵も討てないまま。龍閃に殺されてしまう。
 視界の中で大きくなっていく龍閃の拳。ソレが直線的な軌道を取って、核の埋まっている自分の左胸に――
「あー……やれやれ、だ、な……」
 耳元でしたやる気のない声と共に、冬摩の体は真横に突き飛ばされる。そして入れ替わるようにして押し入ってきた黒い体へと、龍閃の腕は呑み込まれた。
「テ、メェ……」
 龍閃の凶撃に貫かれた黒い影を呆然と見ながら、冬摩は信じられないといった表情で目を大きく見開く。
「何の冗談だ? 魎」
「……取り合えず、神楽さんの甘さがうつった……という事にしておこうか……」
 腹を抉られながらも、魎は不敵に笑いながら掠れた声で言った。そして自分の『左手』で龍閃の腕を掴む。
「ち……」
 不愉快そうに舌打ちし、龍閃は魎の腹から腕を引き抜いて後ろに跳んだ。
「み、水鏡さん……!」
 支えを無くし、崩れていく魎の体を神楽が後ろから抱き留めた。自分も深い傷を負っているはずなのに。さっきまで九重に支えられて立っているのがやっとのはずだったのに。
「行け……冬摩。今、……龍閃から、『悦び』を……取り除いた。好機、だ……」
 『無幻』の『情動制御』。『左手』で龍閃の腕に直接触れ、力の発生点である『悦び』をなくした。
「龍閃は……かなり消耗している。牙燕……紫蓬との戦いでも、確実に……力を、削がれている。外見に……惑わされるな。傷が……塞がっても、力はすぐには……戻ら、ない。今の龍閃は、もう……それ程大きな力は、出せない」
 確かに、最初に比べて龍閃からの攻撃が緩い。自分の方から仕掛けてくるというよりは、コチラが向かっていく力を利用している。今だっておかしい。距離を取ったきり向かって来ようとはしない。
 コレは余裕などではない。力を使いたくても思うように使えないからだ。動かずに居て、回復に専念しているからだ。
「力の作用点が……増えたところで、大した事はない。それに……もう、あれ以上は増えない」
 体を切り離す事で力の作用点が増えるのではあれば、もっと自分で傷付けて使役神鬼の力を一斉に顕現させればいい。ソレでコチラを圧倒できるはずだ。強大な力で嬲り、『悦び』を感じようとするはずだ。
 だがソレをしない。いや、出来ない。これ以上傷を負ってしまうと、体を維持する事自体が危うくなるから。
「そうやって適当な事言って、テメーは今まで騙して来たんだろーが……」
 苦しそうに喘ぐ魎を見下ろしながら、冬摩は拳を握り締めて言った。
「そう、だな……。私は、どうしても龍閃の肉を喰ってみたかった……。そのためには、連戦で消耗した龍閃を叩くのが一番確実だった……」
 龍閃をあらかじめ消耗させるために、わざと戦力を分断した。最初からコチラが全力で行けば、また逃げられるかも知れないから。最後の最後で力を残されるかも知れないから。
 牙燕と紫蓬を犠牲にしたのはそのため。全ては龍閃を確実に仕留めるための布石。
 ――何か大きな事を成すためには、それ相応の犠牲が必要になる。
 分かっていた。そんな事は。奇麗事だけで龍閃が何とかなる相手ではないという事は。
 そんな事は十分に分かっていたから、自分も沢山の者の命を奪い去ってきた。龍閃を殺すために必要な事だと割り切って。
 結局、自分も魎と同じだ。自分の都合に他を巻き込んで、やりたいようにやっている。規模の差こそあれ、本質の部分は変わらない。
 牙燕だって紫蓬だって同じだ。自分が正しいと信じた事をやり抜くと言えば聞こえは良いが、裏を返せばやりたい事を欲望に殉じてやっているに過ぎない。
 牙燕は龍閃と戦いたがっていた。いつも魎の遠回りな作戦に不満を漏らし、有り余る血の気を存分に発散させたいと豪語していた。望み通り、最後は真っ正面からぶつかり合って負けた。そして龍閃に殺される前に魎が止めを刺した。牙燕の持っていた使役神鬼を龍閃に奪われる前に。
 紫蓬は最初から自分が龍閃に殺される事を知っていた。

『冬摩……一応、牙燕の事は魎に頼んではいるが、最悪の場合……ヌシに頼む事になるかもしれんな』

 街道沿いの宿屋で漏らした言葉の意味が、今になってようやく分かった。もし本当に魎が信用に足らないと判断した場合、牙燕の止めを、そして自分の止めを冬摩に委ねるつもりだった。コチラが了承するかどうかなど聞かず、一方的に押しつけるつもりだった。
 ソレが正しいのだと思ったから。そうしたいと思ったから。
 結局、人は誰だって自分勝手で、いつだって最後は一人だ。自分が正しいと思った事を誰かが証明してくれるわけではない。最後には自分一人で、自分自身で決めなければならない。
 一人で生き続けるには寂しさなど感じている暇はない、躊躇いなく邪魔者を排除するには優しさなどいらない。
 それが非情になるという事。自分だけに依り掛かるという事。
 だがそれでも他者との結び付きがあるとすれば、ソレは利害関係くらいだ。なら、その利害が一致している間は――
「魎、今度はテメーがソコで見てやがれ。俺があの屑野郎をブッ殺すトコをよ」
 冬摩は魎から視線を逸らし、動かずにコチラをじっと見ている龍閃を睨み付けた。
「九重。援護しろ」
 短く言い残して冬摩は龍閃に向かって疾駆した。
 気に入らないやり方ではあったが、魎は龍閃を殺すために動いていた。進む方向は同じだ。利害は一致している。別にさっき魎が言った事を信用したわけではない。ただ単に利用するだけだ。
「オラァ!」
 龍閃に被さるようにして跳び、冬摩は頭上から右拳を打ち下ろす。ソレを受け止めようと顕現する『金剛盾』。拳が漆黒の盾に当たる直前、冬摩の拳を『次元葬』が呑み込んだ。
 肩まで伝わってくる確かな手応え。対を成すもう一つの六角の枠が龍閃の背後に周り、ソコから突き出た冬摩の拳が龍閃の背中を捕らえていた。そして右腕を引くのに合わせて、左腕を『金剛盾』の裏側に滑り込ませる。
「小癪な」
 舌打ちして、左手で冬摩の腕を掴もうとする龍閃。しかし場所を変えた『次元葬』が龍閃の手を呑み込み、防御を消失させる。
「死ねオラァ!」
 渾身の力を持って叩き付けられた左腕は龍閃に右頬に突き刺さるものの、振り切る事は出来ない。
「左腕の力、使いこなせた訳ではないらしいな」
 首をひねって勢いを逃す事すらせず、龍閃は不気味な笑みを浮かべる。そして金色の双眸に力ある光を宿し、『次元葬』から左腕を引き抜く。
「また魎の口車に乗せられたか。我が力を使えないだと? 力の作用点を増やせないだと? 果たして本当にそうかな?」
 左手に握られていたのは赤黒い肉の塊。もう一対の『次元葬』が導いた先にある、龍閃の背中から抉り取った肉だ。
 龍閃は大きく跳んで一端身を引き、ソレを冬摩の後ろに居る九重に向かって投げ付ける。
「避けろ!」
 冬摩の声に反応して身を横に流す九重だが、後を追うようにして龍閃の肉が方向を変えた。そして肉塊は凶悪な顎へと形を変え、九重の体に牙を立てる。
「ああああぁぁぁぁ!」
 背後で轟く九重の叫声。しかし紅天から飛来した一条の閃光が、龍閃の肉だけを正確に灼ききった。
「全く、貴女という人は……」
 未だ体中から血を流しながらも、魎は落ち着いた顔付きで立ち上がる。すぐ隣では神楽が四つん這いになり、肩で荒く息をしていた。
 『復元』だ。『死神』が行使できる超回復能力。ソレを魎に使った。だが、それには術者の生命を大きく要求される。
「神楽……」
 コレも犠牲の一つ。龍閃を討つために必要な。
 この戦いに勝つためには魎の力が要る。神楽はそう言っている。自分の命を削って。
「茶番だな。死に損ないが少し動けるようになったくらいで状況が変わるとでも思ったのか。貴様らとの遊びはもう十分に堪能した。そろそろ『死神』を手に入れさせて貰う」
 不敵に笑い、龍閃は左手で複雑な印を組んで前に突き出す。
「使役神鬼『羅刹』召来」
 龍閃の前の空間が歪み、ソコから這い出るようにして蒼の貫頭衣を纏った白髪の少年が姿を現した。まだあどけなさの残る幼い顔立ちに埋め込まれた緋色の両目は、殺戮への悦びに爛々と輝き、鮮血を思わせる真紅の唇は弧月の形に曲げられていた。
「ヒャハァ!」
 具現化した『羅刹』は甲高い奇声を発すると、残像を生じさせる速さで向かってくる。
 『羅刹』は主が力の作用点から吸血し、具現化させる事で初めて力を発揮する特殊な使役神鬼だ。先程、九重に放った肉塊は『次元葬』を封じるためだけではなく、彼の血を吸うため。そして『羅刹』を召来するため。
「喋り過ぎだな龍閃。余裕がなくなってきたか?」
 魎が『羅刹』の突進を受け止めようと冬摩の前に立つ。しかし『羅刹』は鋭角的に軌道を変えると魎の頭上を飛び越え、最短距離を取って神楽の居る場所へと疾走した。
「ちぃ!」
 舌打ちして神楽の方に体を向けた冬摩の肩を、後ろから魎が掴む。
「あっちは『分身』と九重に任せておけばいい。お前は龍閃に集中しろ」
 見るといつの間にか『羅刹』の横手に付き、もう一人の魎が同じ速さで並走していた。魎の『分身』は黒鎖を無数に生み出すと、『羅刹』の行く先をことごとく阻んでいく。
「けっ! 俺に命令すんじゃねーよ!」
 不機嫌そうに吐き捨て、冬摩は龍閃へと向き直った。そして魎と並んで龍閃へと突っ込む。
「牙燕と紫蓬の戦いから龍閃の行動はある程度読める。次は――」
 早口で言いながら魎は『左手』で冬摩の体に触れた。次の瞬間、世界が異質な物へと変わる。光の音や大気の啼き声が聞こえ、数秒先の自分の姿が見えるようになった。
 異常なまでに磨き上げられていく神経。
 『虹孔雀』の能力『超知覚』。
「大規模の『重力砕』だ」
 魎の言葉が終わると同時に広範囲に大地が沈んだ。自重が何十倍にも跳ね上がり、立っている事すらままならなくなっていく。
「観ろ、冬摩。重力の抜け道を」
 しかし魎は重力からの束縛をまるで受ける事なく、変わらぬ速さで龍閃との距離を詰めていった。
 観る。重力の浸食から逃れた空間を。龍閃への抜け道を。
 知覚できる。目ではなく、肌で感じ取れる。
 魎の後ろに続き、冬摩は『重力砕』の隙間を縫って龍閃へと駆けた。右へ大きく跳んで『重力砕』から逃れ、着地と同時に前へと体を滑らせる。そして左前方に行こうと右脚で地面を蹴ろうとした瞬間、太腿に熱が走った。
「そう来ると思っていた」
 軸足を『断空爪』で削られ、冬摩は大きく体勢を崩して『重力砕』の中へと叩き込まれる。そして先程までとは比べ物にならない重力が冬摩を襲った。『重力砕』を自分の周りだけに集中させたのだ。
「過去の失態は反省してこそ意味がある。楽な道を用意してやれば自ずとソコに引き込まれていく。罠とは知らずに。お前がよく使う戦法だったな、魎」
 魎からの黒鎖の連撃を、切り取られた右腕の生み出した『金剛盾』で弾きながら龍閃は余裕のある声で言う。
 読まれていた。『重力砕』の隙間を見抜く事を。だからあえて隙間を用意した。そこに自分が飛び込むように。的を絞り込みやすいように。
「もう一度聞くぞ、冬摩。魎の言葉を信じて良いのか? 我は、力を出せない振りをしているだけかも知れんな。力の作用点を増やせない演技をしているだけかも知れんな」
 魎が生み出した黒い森の中を泰然とした所作で渡りながら、龍閃はゆっくりとコチラに近づいてくる。
「耳を貸すな冬摩! 龍閃は確実に弱ってる!」
「ウルセェ……」
 呻くように言いながら、冬摩は『重力砕』の中で体を持ち上げた。
 龍閃が弱っていようといまいと関係ない。
 龍閃をブッ殺す。そのために利用できる物は全て利用する。それだけだ。
「九重ぇ!」
 魎の『分身』と共に『羅刹』から神楽を守っていた九重に声を掛ける。すぐに反応し、『次元葬』をコチラに向ける九重。六角の白い枠が冬摩の体全体を呑み込む程にまで大きくなり、対になったもう一つの枠が殆ど離れる事なく真横に並ぶ。
 だがコレでいい。すぐ隣りに。『重力砕』から逃れられる場所に一瞬でいいから移動できれば、脚力を爆発させて一気に龍閃に近づく。
 そう、一瞬で――
「ぅあ!」
 しかし、『次元葬』が冬摩を呑み込むより前に九重の叫び声が響いた。全身を切り裂かれ、血を撒き散らしながら宙に舞う九重。
 『断空爪』。馬鹿な。今、龍閃は『重力砕』、『金剛盾』の二つを顕現させている。どうして三つも同時に……。
 骨が悲鳴を上げるのを聞きながら、冬摩は『重力砕』に抗って顔を上げる。
 龍閃の左腕が切り落とされ、右腕と同じく頭上に浮遊して停滞していた。
「冬摩。貴様が望むなら、さらに増やしてやろうか?」
 口の端をつり上げ、底冷えするような笑みを浮かべた龍閃が目の前までくる。
「『死神』で熟した肉により、高見を極めた我の力は――無限だ」
 体が軽くなったと感じた直後、腹部に脳天を突く『痛み』が走った。目の前が白くなり、意識が途絶えそうになる。体の内側からも殴られたかのような錯覚。かつて感じた事のない『痛み』。
 龍閃の見舞った蹴りがもたらす『痛み』だけではない。『超知覚』による弊害だ。知覚する感度が上がれば、同じ痛みでもより強く感じるようになる。
「どうした冬摩。気を失うのはまだ早いぞ」
 だが――それだけ『右腕』に込められた力も強いという事。ソレが未だに『超知覚』が解けていない意味。魎が自分に託した力。
「死……」
 気を抜けばあっけなく飛びそうになる意識を気力で繋ぎ止め、冬摩は右拳を固く握りしめた。そして――
『――ねえええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!』
 裂帛の獣吼と共に、龍閃に突き出す。
 腐敗し、熱を帯びた泥土に腕を付き入れたような感触。あらん限りの力を乗せて打ち出した拳撃は龍閃の分厚い胸板を貫き、右肩まで深々と埋め込まれた。
「ざまぁ――」
「冬摩上だ!」
 嘲りの声を上げようとする冬摩の耳に、魎の怒鳴り声が突き刺さる。その声に反応し、冬摩は上を見る事なく後ろに跳んだ。
 直後、さっきまで冬摩の居た場所に龍閃の太い足が飛来する。その蹴撃は大地を大きく揺らして粉塵を巻き上げ、龍閃の体全てが埋まったところで勢いを止めた。
 紙一重だった。あんな物をまともに食らっていたら即死だ。
 だが、どうして龍閃が二人も……。
「ソイツは『大裳』の『擬態』だ! 惑わされるな!」
 朱色の閃光を龍閃が潜り込んだ穴に叩き付け、魎は切迫した声で叫ぶ。
 『擬態』、だと? では今、穴の中に居るのが本物の龍閃。
「――!」
 直感的に危険を感じ、冬摩は真横に跳んで身を逃した。次の瞬間、龍閃が開けた穴を中心にして、地面が球状に抉り取られる。『餓鬼王』の『大喰い』。しかもかなり広い範囲だ。
 龍閃の力は本当に衰えていないのか。いや、そんなはずはない。今は単に最後の力を振り絞っているだけだ。消え去る前の蝋燭の炎にすぎない。
 『大喰い』で地面を喰らいながらコチラに向かってくる龍閃と距離を取り、冬摩は後ろに下がっていく。このままでは手が出せない。下手に近づけば、文字通り丸呑みされてしまう。『大喰い』の欠点は飛距離が異常に短いという事なのに、範囲を広げる事でソレを補っている。
 だが、そんな力を無駄遣いをしていてはいずれ息が上がる。攻撃の隙が出来るはずだ。その時を狙えばいい。
 しかし――もしソレが罠だとしたら? あえて『重力砕』の隙間を作った時のように、わざと『大喰い』を止めたのだとしたら?
 胸中に沸き上がる迷い。そして結論を出すより早く、予想通り『大喰い』が止んだ。
 どうする。どすればいい――
「クソッタレ!」
 顔をしかめて叫び、冬摩は地面を蹴って穴の中の龍閃へと突っ込む。
 考えていてもしょうがない。どうせ何が正しいのかなど最後にならなければ分からない。いや、最後になっても分からない。なら今の自分の直感を信じる!
「待て冬摩!」
 しかし冬摩の勢いを遮る形で魎が全身を使って止めてくる。そしてすぐ隣りをもう一人の魎が駆けて龍閃へと突進した。
「ふ……」
 穴の中から聞こえてきた龍閃の嘲笑と共に、魎の『分身』が『大喰い』に呑み込まれて影も残さず消える。
 罠だった。あのまま龍閃に向かっていたら、消えていたのは自分の方だった。
「冬摩、まだ『痛み』は残ってるな」
 コチラに背を向け、油断なく龍閃の方を見据えながら魎が声を掛けてくる。
「あぁ、おかげさんで特大のがな」
「皮肉が言えるくらいなら上等だ。これから私が龍閃を目隠しする。私ごと龍閃を貫け。今の龍閃には生半可な攻撃は通じない。お前の右腕に賭ける。いいな」
 断片的な言葉を早口で残し、魎は龍閃に向かって跳んだ。そして魎の体から剥がれ落ちるようにして、『分身』が無数に出現する。
「牙燕と同じ戦法か? それとも、何か企んでいるのか?」
 『分身』から繰り出される何百本も黒鎖を『金剛盾』で弾き、『石化』し、『大喰い』で呑み込み、龍閃は余裕の表情で暗い笑みを浮かべた。
「どうした冬摩。力の無い貴様はそこで高見の見物か」
 挑発に乗るな。機会は一度だけだ。同じ手は二度と通じない。自分と魎の延長線上。そこに龍閃が来るのを待つ。冷静に絶好の時を見極める。
 左の『分身』が後ろにまわって蹴撃を放ち、首をひねってソレをかわした龍閃の右から別の『分身』が黒鎖を伸ばしてくる。さらに正面から二人の『分身』が同時に跳びかかるが、それら全てが『重力砕』で地面に叩き付けられた。
 入り乱れる龍閃の周囲。全身の神経を集中させ、右腕に力を込めていた冬摩の視界の中で、下から跳び上がった『分身』が龍閃の顔を覆った。
(今だ!)
 大きく開眼し、龍閃へと跳ぶ冬摩。そして『分身』の背中に右腕を突き立てようとした時、突然コチラを向いた『分身』が不気味な笑みを張り付かせる。
「ソレは私の『分身』じゃない!」
 どこからか聞こえてくる魎の叫声。それが終わる前に『分身』の放った拳が冬摩の腹に突き刺さり、穴の外へと押し返した。
「な……」
 喉の奥から込み上げてくる熱い塊を吐き散らし、冬摩はよろめく体を気力で持ち上げる。その前に魎が降り立ったかと思うと、その姿が一瞬だけ二重にぼやけ、すぐに武者鎧を身に付けた髑髏へと変貌した。鎧は返り血を浴びたように紅く染まり、茶色くくすんだ骨だけの両手には二本の妖刀を携えている。
 龍閃の使役神鬼、『大裳』。さっき『分身』だと思ったのはコイツの『擬態』。
「二度も同じ手に掛かるとはな」
 龍閃の低い声と同時に、魎の『分身』が次々と叩き落とされ、喰われ、石となり絶命していく。
 最初から遊んでいただけだった。楽しんでいただけだった。コチラの裏をかき、絶望していく表情を見たかっただけだった。
 龍閃の力は本当に底なしだ。だが何故。少なくとも魎には瀕死になるまで追いつめられたはずなのに。
「さぁ『死神』。我の元に来い。我のために力を使え」
 悦を孕んだ声を出し、龍閃は周りに居る魎を藪蚊でも落とすように払いのけながら穴の外に出る。あれだけ居た魎の『分身』は一人も居なくなっていた。
 『死神』。龍閃が求め続けてきた物。ソレがもうすぐ手に入る。その事が果てしない『悦び』を、無限の力を与えている。
「クソッ、タレ……!」
 自棄気味に叫びながら『痛み』の乗った『右拳』を龍閃に撃ち出そうとした時、腹の中から腕が生えた。白磁のように透き通った、華奢で短い子供の腕が。
「『羅、刹』……!」
 魎の『分身』が相手をしていたはずの『羅刹』がいつの間にか自分の後ろに回りこみ、背中に腕を突き立てていた。
 その後ろから『分身』が追ってくるが、足に力が入っていない。いつの間にか、薄い紅天だった空が元の闇色に戻っている。九重が瀕死の傷を負い、『羅刹』との均衡が崩れたのだ。更に無茶な『分身』の使い方をし、魎の力に限界が来た。
 『復元』を施されたとはいえ辛うじて動けるようになった程度だ。それが神楽の生命力の限界。やはり『復元』は人間では使いこなせない。
「終わりだな、冬摩。なかなか楽しかったぞ」
 龍閃の言葉と同時に全身を襲う『重力砕』。『羅刹』もろとも地面に叩き付けられた冬摩の体に、『大裳』の妖刀が突き刺さった。
「が、ぁ……」
 龍閃は冬摩に興味の失せた視線を向けた後、横を通り抜けて歩き去っていく。その先に居るのは、未だに『復元』の疲労から体を動かせないでいる神楽。
「待ち、やが、れ……」
 龍閃の背中に伸ばした左腕に『羅刹』が爪を立て、『大裳』が妖刀を振り下ろす。『痛み』で頑強性の増した左腕だったが、二体の使役神鬼からの凶撃を連続で食らい、どんどん“細く”なっていった。
(魎……!)
 暗く、狭くなる視界の中で『羅刹』を追ってきていた魎の『分身』が龍閃の行く手を阻む。しかし、まるで赤子とでも遊ぶかのように龍閃が右に左に少し体を揺らすと、『分身』は大地に落ちて動かなくなった。
(九重……!)
 全身を血で染めた九重はそれでも気力で上体を起こすが、再び『断空爪』で同じ傷を抉られ地に横たわる。
 もう、誰も龍閃を止める者は居ない。誰一人として、龍閃と神楽の間に割って入る者は居ない。
 殺される。殺されてしまう。神楽が。神楽が――死ぬ。

『冬摩……お前と過ごした、時間は……。私、の……宝物、だ……』

 また繰り返すつもりか。
 懲りもせず、自分はまたあの時と同じように失ってしまうのか。

『愛、して……る……』

 未琴を。大切な女性を。自分に力が無いせいで、あの時と同じように……!
 嫌だ!
 嫌だイヤダいやだ嫌だ嫌だイヤダ嫌だ!
 あんな思いをするのはもう嫌だ!
 胸の裏側を引き裂かれ、心を喰われていくような思いをするのはもう沢山だ!
「ぅ……!」
 重い体を地面から引き離し、冬摩は『重力砕』を撃ち破って立ち上がる。
『オオオオオォォォォォォ!』
 大気を激震させる獣吼を上げ、左腕で『大裳』を、右腕で『羅刹』を引き剥がし、龍閃に向かって跳んだ。
「もう遅い」
 嘲るような声と同時に龍閃は神楽の前に立って見下ろした。
「なにボサッとしてやがる!」
 冬摩の呼びかけにも神楽は反応しない。うずくまったまま、荒い呼吸を繰り返している。
「逃げろオラアアアアアァァァァァ!」
 龍閃の体から力が放たれるのを感じた。それが大きな塊を形成し、神楽の体にのし掛かっていくのが分かる。
 速く! もっと速く! もっと速く走れ!
 どうなってもいい! 体がブッ壊れて二度と使い物にならなくなってもいい! だから間に合え! あの馬鹿をとっとと助けやがれ!
 体中の筋肉が断裂し、骨が軋んだ音を立ててひび割れていく。だが痛みなど感じない。感じている暇などない。そんな時間があるなら、もっと速く足を前に突き出せ!
 一歩踏み出すごとに激的に大きさを増していく龍閃、そして神楽の体。音が消え、色の失せた世界の中で冬摩の体は龍閃の真横に躍り出た。
 龍閃から出た力が完成し、神楽を呑み込もうと口を開ける。冬摩は神楽の体を押しのけようと右手を伸ばし、巫女服の端に指先が触れ――
 二つの絶叫が重なった。
 体が崩壊していく。『大喰い』の一撃を正面から受け、意識が昏い闇の中へと呑まれていく。足場が崩れ、底の見えない深い谷へと突き落とされたような感覚。
 肉体も精神も終焉へと向かっていく。
 結局、救えなかった。神楽と共に死を迎えただけだった。無駄死にだ。笑いが込み上げてくる。何て無様な最期だ。非情になるんじゃなかったのか。それがこの体たらく。
 未琴に何と言えばいい。どんな面下げて未琴に会いに行けばいいんだ。
 自分は、今まで一体何を――
「ォ、ノレ……冬摩……」
 苦しそうな龍閃の声に、死の闇に喰われかけていた冬摩の意識が僅かに覚醒した。薄く開いた眼で龍閃の方を見る。躰の左半分が高熱に晒されたように熔けていた。
「こ、荒神、さん……」
 隣で女の声がする。よく聞き慣れた愛おしい者の声。
「未琴……」
 視線だけをそちらに向ける。巫女服の端は無くなっているが、体には傷一つない。
 無事だった。間に合った。救う事が出来た。昔の悲劇を繰り返さずに済んだ。
 あの時上がったもう一つの絶叫。アレは神楽の物ではなく、龍閃の声だった。だが一体誰が。誰が力の満ちた龍閃をあんな姿に。魎か。まだ何か隠し技を持ってやがったのか。
 いや、今はそんな事どうでもいい。
「荒神さん……どうして……」
 悲壮な顔付きで神楽は聞いてくる。
「お前が昔の恋人に似てたからな……」
 自分の声なのに、別の誰かが遠くで囁いているように聞こえた。
「逃げろ……早く……」
 もう声にすら力が入らない。
「未琴……」

 ◆◇◆◇◆

 そこから先の記憶はない。
 次に意識を取り戻した時にはもう辺りは明るくなっており、龍閃はおらず、原型を留めていないはずの自分の体は完治し、九重が心配そうに見下ろしていて、そして――神楽が隣で横たわっていた。 いったい何が起こったのか。九重から聞かされた話は、呼吸を忘れてしまうほど突拍子もない物ばかりだった。
 魎に殺されたと思っていた他の保持者達は、眠らされていただけだったという事。龍閃の核を傷付け、致命傷を負わせて退けたのは自分だという事。そしてそのために神楽が命を捧げ、自分の体を『復元』してくれたという事。
 信じるに値しない、馬鹿馬鹿しい戯れ言。
 そう言い切って、最初から何もなかった事にしてしまいたかった。何も見なかった事にして、楽になってしまいたかった。
 だが、目を逸らす事は出来ない。龍閃の生から、そして神楽の死から。
 まだ終わっていない。取るべき仇が一つ増えただけだ。
 足りなかった。自分の力が。だから神楽を死に追いやり、龍閃を逃がしてしまった。
 力。力が必要だ。もっと強い力が。
 そのためには――今より非情にならなければならない。利用できる物は全て利用し、要らない感情は全て切り捨てる。寂しさも、優しさも、哀しみも。全部押し殺して頭の中を龍閃の事だけで埋め尽くす。そして何千年掛けても見つけだし、絶対に殺す。
 だから、自分がこんな顔をするのはもう最後だ。こんな反吐が出るほど情けない顔をするのは。
 忘れるな。色褪せさせるな。アイツから受けた傷を。アイツに奪われたモノを。
 絶対に。絶対に――

 ◆◇◆◇◆

◆愛すべき者 ―荒神冬摩―◆
 磨き上げられた御影石。ソコに刻まれた『未琴』の二文字。
 ここは京都の町を一望できる小高い雑木林の中。未琴の墓が静かに立つ場所。
 小振りな薄紫色の花弁をいくつも付けた藤の花を供え、冬摩は瞑目して手を合わせる。先程、火を付けたばかりの線香から独特の芳香が立ち上り、冬摩の鼻腔をくすぐった。
「今日も暑いな、未琴……」
 地肌の上に直接着た白いカッターシャツの襟元を開けながら、冬摩はうなじの辺りで纏めた長い黒髪を解く。軽く左右に頭を振って髪を落とし、手に持った龍の髭を藤の花の上に添えた。
「俺は、相変わらず元気でやってるよ」
 はにかんだような笑みを漏らしながら、冬摩は独り言のように呟く。
 二年前に龍閃を殺して仇を討ち、今ようやく未琴の前で自然に笑えるようになってきた。ようやく、気持ちの整理ができ始めた。
 だが自分一人では決して成し得なかった。
 いつもそばに居て、支えてくれる存在があったからこそ。心から大切に思い、守ってやりたいと思わせる女性が居てくれたからこそ。
 彼女が凍っていた自分の心を溶かしてくれた。捨て去った感情を蘇らせてくれた。それは未琴によく似ていて、それでいて全く違う存在。
「冬摩さーん」
 遠くの方から凛と張った、よく通る声が聞こえてくる。
「はい、お水っ。汲んできましたっ」
 湧き水が並々と注がれたバケツを片手で持ちながら、仁科朋華がコチラに走って来ていた。チェリーピンクのヘアバンドで止めた栗色のショートヘアーを揺らしながら、息一つ乱れさせる事なく元気に手を振っている。
「全く……どうして妾までもが水汲みなどに同行せねばならんのじゃ」
 その隣を不満気な表情で浮遊する巫女服姿の女性――『死神』は、手にした柄杓で肩を叩きながら口を尖らせていた。最近ようやく温泉旅行での一件が許され、具現化させて貰えるようになったばかりだというのに、図々しい態度はまるで変わっていない。
「ほれほれ『羅刹』。ちゃんと前を見て歩かんか。転んでしまうぞ」
 『死神』の下でしゃがんで熱心に地面を見ながら、黒いタンクトップと穴あきのジーンズ、それにビーチサンダルを身に付けた白髪の少年が、後ろ向きの体勢のまま近づいてきていた。
 と、突然『羅刹』が立ち上がり、『死神』の方をじっと見つめる。
「な、何じゃ」
「虫」
 戸惑いの色を見せる『死神』に、『羅刹』は生を感じさせない視線を向けた。
「い、言っておくが、妾のテントウムシはやらんぞっ」
 顔を少し紅くして、何故か胸元を庇うように両手で隠す『死神』。
「要らない。そんなの」
 『羅刹』は素っ気なく言い、『死神』から徐々に目を逸らして明後日の方向に顔を向けていく。
「何じゃとー! 『そんなの』とはどういう意味じゃー! 妾の体に欠陥でもあると言うのかー!」
 更に紅くした顔で『死神』は激昂し、柄杓を振り回して『羅刹』に掴みかかった。しかし体が小さく素早い少年は捕らえきれず、何度も雑木林の中に頭から突っ込んでいる。
「ったく……何やってんだよ。アイツら」
 そんな二人の馬鹿馬鹿しいやり取りを呆れた表情で見ながら、冬摩は半眼になって嘆息した。
「まーまー、いーじゃないですか。『死神』さんも久しぶりの外が嬉しいんですよ。元気なのは良い事です」
「そーかぁ? まぁ、お前がそう言うんなら別にいいけどよ」
 バケツを地面に置き、優しく微笑み掛けてくれる朋華に冬摩は後ろ頭を掻きながら返す。
 彼女の笑顔を見ただけで不思議なくらい落ち着き、安らぎ、癒される。
 朋華が楽しそうなら、朋華が自分のそばに居て笑ってくれるのなら細かい事はどうでもいい。
(朋華だけは、もう絶対に――離さない)
 キャミソールの上に羽織ったカーディガンの袖をまくり上げ、バケツから手で水をすくって未琴の墓石にかけてくれる朋華をじっと見ながら、冬摩は自分の気持ちを確認するかのように胸中で呟いた。
(誰にも――奪わせない)
 そして左手を固く握りしめ、胸の高さまで持ち上げる。
(それが、間違いなく正しい道だ)
 龍閃を殺した時、心からの『痛み』によって解放された『左腕』の力。自分が持つ、もう一つの力の作用点。絶大な力を秘めてはいるが、もう二度と使いたくない。使わなければならないような状況に追い込まれたくない。あんな苦しい思いはもうしたくない。

『やはり、厄介なのはその『左腕』か』

『左腕の力、使いこなせた訳ではないらしいな』

 龍閃は知っていた。そして驚異を感じていた。二百年前、自分が無意識に放った『左腕』からの力で核を傷付けられ、致命傷を負って逃げた。そして二年前、この『左腕』によって滅びた。
 紅月時、大龍へと変化した龍閃をも圧倒した『左腕』の力。自分でも、どうしてこんな物が備わっているのか分からない。

『お前の力の作用点、『右腕』……だよな』

 魎はずっと昔から、薄々気付いていた。そして今思えば、『左腕』の力を発揮させようと色々と画策していたふしがあった。龍閃を殺すため。龍閃の肉を喰うため。
 だが結局最後まで使いこなす事が出来ず、魎は肥大しすぎた自分の本能に呑まれて凶行に出た。獣欲を剥き出しにして龍閃の肉を貪った。だが、それは龍閃の力の作用点を体内に取り入れる結果となり、凄絶な傷を負った。
 あの時、魎は死んだ。無数に生み出した『分身』を全て龍閃に消され、跡形も無く消滅してしまったのだと思っていた。
 だが、少なくとも龍閃に殺されたわけではない。
 魎が保持していたはずの使役神鬼、『無幻』、『紅蓮』、『虹孔雀』の三体はいずれも自分の中には居ない。つまり、龍閃は保持していなかった。
 別の場所で静かに息絶え、『死神』同様大地の中に使役神鬼を眠らせたのか。それとも――
「考え事ですか? 冬摩さん」
 その声で我に返り、下を見ると、コチラを覗き込むようにして見上げながら微笑を浮かべている朋華が居た。
「ああ、いや。ちょっと昔の事を、な……」
「未琴さんの事、ですか?」
 少し目を大きくし、朋華は興味深げな表情になって聞いてくる。
「ん? まぁ、そんなところだ……」
 朋華から視線を逸らし、冬摩はシャツの胸ポケットから取り出した龍の髭で髪を縛り直しながら曖昧に返した。
「あの、私、未琴さんみたいにしっかりしてないし、強くもないですけど、それでも……」
 そこまで言って朋華は言葉を切り、頬を朱に染める。そして何度か浅く深呼吸をした後、意を決したような表情になって口を開いた。
「それでも、私、未琴さんに負けないくらい、冬摩さんの事……好きですから」
 最後の方は消え入りそうな声だったが、それでもはっきりと冬摩の耳に届いた。
 真田の屋敷での温泉旅行から戻ってしばらくは、こんな会話の一つでもすれば気を失っていた朋華だったが、今はその発作も大分収まりの気配を見せている。そして最近は、今まで以上に思った事を口にしてくれるようになった。
「あぁ俺もだ。愛してるぞ、朋華」
 朋華の気持ちに応えるようにして冬摩は言い切り、そっと彼女の体を抱き寄せる。鼻先に当たった栗色の髪から零れるリンスの匂い。
 朋華の香りを肺一杯に吸い込みながら、冬摩はより強く抱きしめた。服越しに体と体が触れ合い、朋華の温もりが、鼓動が伝わってくる。
「ん?」
 しかし、急に腕の中の朋華が重くなった。体を離し、彼女の顔を見る。
「……きゅぅ」
 狂い咲く薔薇のように顔を朱に染め、朋華は全身を脱力させて気を失っていた。目は瞳孔が開ききり、一億光年先を見ている。
「ああぁぁぁぁぁ! と、朋華! スマン! まだキツかったか!」
 その場の雰囲気に乗せられてやってしまった自分の失態を詫びながら、冬摩は朋華の肩をもって強く揺さぶった。
「待たんか『羅刹』! ならばもう一度しかと見よ! 妾の美しき肢体を!」
「興味ない」
 そこに遠くの方から『死神』と『羅刹』の声が飛んでくる。

 陽炎の立ち上る、暑い初夏の昼下がり。
 人気のない雑木林の中で、ポツンと一つ立つ未琴の墓。
 その前では、夕暮れ近くまで冬摩達の声が響き渡っていた。

 【終】




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