貴方に捧げる死神の謳声

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参『最強の魔人』


◆朋華の決意 ―仁科朋華―◆
 ――じゃあ俺が一緒に居てやる。
 突然、冬摩が言ったその言葉が頭に染みついて離れない。時間が有ればいつもそのことだけを考えていた。
 冬摩が朋華の側に居ると宣言して四日が過ぎた。その間、朋華は一歩も外に出ていない。だが別に出る必要性は感じなかった。
 屋敷の中は十分に広く、閉じ籠もっているという感覚はない。食事は毎日三食、屋敷の人が作ってくれるし、他に必要な物も頼めばすぐに買ってきてくれる。それに何より朋華は今、冬摩と出来るだけ会話をしたかった。向こうから側にいてくれると言ったのだ。話をする時間くらい、いつでも取れる。
 ――と思っていた。
 『ダルい。メンドい。ネムい』
 何度話しかけても、その言葉を繰り返されるだけで、まるで会話にならない。確かに側には居てくれる。一呼吸で朋華のいる場所に来られるくらいの範囲内に冬摩はいた。だが、彼の場合の『一呼吸で近づける距離』というのは朋華にしてみれば十分広い。
 半径三十メートル以内。
 それが冬摩に取っての『一呼吸で近づける距離』だった。
「はぁ……」
 食堂で一人、遅めの昼食を取り終えて朋華は溜息をもらした。無意味に広いこの空間に一人でいると、さすがに気が滅入ってくる。
(お父さんとお母さんも今、こんな気持ちなのかな……)
 自分は今、世間で行方不明扱いになっている。捜索願いは出しているだろうか。ポスター張りやビラ配りまでしてるかもれない。一日でも早く帰る必要があった。しかし気ばかりが焦って何も前に進まない。
 ――龍閃の狙いは妾じゃ。
 『死神』の言葉。理由は分からないが、龍閃は自分を狙っている。ならばいっそのこと……。
 大胆すぎる考えが朋華の脳裏に浮かんだ。
 少し前の自分なら考えつきもしなかった事。これも『死神』の影響かもしれない。
「どうかしましたか?」
 ミルクティーをすすっていると、横手から声を掛けられた。
 紳士的な男性の声。篠岡玲寺。十二神将の内、二体を体に宿し、冬摩と互角以上の戦いをしてのけるらしい存在。そして――
(荒神さんのことを好きな、人……)
 いわゆる男色と言うやつだ。二人の蜜月を想像しただけで顔が熱を帯びていく。朋華もそう言うことに興味がないわけではなかったが、フィクションの世界の中だけだと思っていた。いざこうして実在の人物に会ってみると困惑の色を隠しきれない。
「冬摩はあれからまだ拗ねたきりなんですか?」
 しかし朋華や久里子と話す時は正常だ。細かいところにまで気が回るし、穏やかな物腰は自然と安心感をもたらしてくれる。ただ冬摩の姿をみるとスイッチが入ってしまうのだが……。
「私、やっぱり荒神さんに嫌われてるんでしょうか」
 朝霧高校では多大な迷惑を掛け、神社の一件では生意気なことを言ってしまった。『俺が一緒にいてやる』と優しい声を掛けてはくれたが、冬摩は本当に自分のことを龍閃をおびき寄せるエサとしか捕らえていないのかもしれない。
「それは無いでしょう。冬摩は貴女のことを随分と気に掛けていますよ。それはもう羨ましいくらいに」
 嫉妬されているんだろうか……と、悪寒が走る。
「冬摩は滅多に自分のことを話さない性分ですから、何を考えているのか分かりにくいのでしょう」
「篠岡さんは、分かるんですか?」
「まぁ、ある程度はね」
 愛の力だ、と寒気がする。
「冬摩は今、大きな悩み事を抱えていますね。コレまでの自分の経験則ではどうにもならないような壁に当たってしまった」
「それって、何なんですか?」
「さぁ、そこまでは分かりません。ただ悩みの中心に貴女がいることだけは確かです。何か思い当たることはありませんか? 出来れば私も冬摩を癒してあげたいのですが」
 ベッドの中でだろうか、と底冷えする。
「私が、ですか……」
 自分が冬摩にとっての悩みの種。
 四日前、突然部屋へ押し入ってきて、無言で睨み付けられた時の事を思い出す。あの時確か、鋭い眼光とは裏腹に何だか助けを求めているような気配を感じた。そして『死神』が表に現れ、冬摩に守ってくれるよう懇願していた。
 冬摩がおかしくなり始めたのあの時からだ。
(『死神』さんなら、何か知っているかもしれない)
 だがこの四日間、『死神』は一度たりとも表には出てこなかった。何かを話しかけようとしても全く取り合われない。今もそうだ。目を瞑って精神を集中するが、『死神』は表に出ては来なかった。
(もしかして私、『死神』さんを制御できるようになってきた?)
 冬摩や玲寺の話では今の朋華の状態が特異なケースなのだ。本来、十鬼神や十二神将は使役される立場にあり、保持者を使役する側ではない。
 ――龍閃の狙いは妾じゃ。
 また『死神』の言葉か頭に浮かぶ。
(役に立ちたい。みんなの力になりたい。そして――)
 少しでも早く日常に戻りたい。
「玲寺さん。どうも有り難うございました」
 朋華の中で何かが吹っ切れたような気がした。自分に出来ることがある。自分にしか出来ないことがある。ソレは今まで感じたことの無かった想い。
「ん? よく分かりませんが、お役に立てたようで何よりです」
 柔和な笑みを返し、玲寺はまるで自分の事のように喜んでくれる。
 期待に応えなければならない。迷惑ばかり掛け、足を引っ張っているだけでは冬摩に邪険にされるだけだ。ソレではいつまで立っても冬摩の事を理解できない。
 冷たかった冬摩が、四日前にほんの少しだけ見せてくれた『優しさ』。その正体を朋華は知りたかった。
 今まで冬摩のやることをすべて否定してきたが、冬摩だって辛い人生を送ってきているのだ。久里子や玲寺、『死神』の話を聞いている内にそれが徐々に分かってきた。そして冬摩は今、僅かに自分の方に歩み寄ってくれた――気がする。
 ならば今度はコチラの番だ。
「それじゃ私、そろそろ部屋に戻りますね」
「ええ、ごゆっくり」
 玲寺が席に座ったのを確認して朋華は食堂を出る。
 そして、屋敷を抜け出した。

 心臓がどきどきする。手に汗が滲み、呼吸が荒くなった。
 妙な精神高揚。イタズラをする前のような気分に、どこか似ていた。禁止されていることをあえて破り、その先にある大きな収穫を得るために朋華は一人、屋敷を離れて密林地帯へと足を踏み入れた。出来る事なら玲寺にも着いて来て貰いたかったのだが、そうなれば間違いなく冬摩は離れてしまうだろう。
 辺りを見回す。冬摩の姿は見えない。しかしこの森のどこかにいるのだろう。自分を見張るために。何も咎めないところを見ると、冬摩にとっても朋華のこの行動は願ったりなのだろうか。
(『死神』さんっ)
 心の中で声を掛ける。しかし返答はない。そのことが朋華に僅かな自信を与えてくれた。だが、さすがに街中にまで出る勇気はない。以前、狂人と化した神主が頭をよぎる。この密林の中が精一杯の行動範囲。ここで龍閃、もしくは召鬼をおびき出す。
「はぁ……」
 溜息をついて朋華は適当な大きさの石に腰掛けた。汗がどっと噴き出してくる。疲労から来るモノだけではない。極度の緊張と不安、そして初めて人の役に立てるかもしれないと言う昂奮が渦を巻き、朋華に熱を落としていた。
(自分から進んで囮になるなんて……)
 まさか自分でも本当に実行するとは思わなかった。きっと『死神』のせいなんだろう。性格が大胆になってきたのも『死神』を制御できはじめている証拠だ。
 根拠もなくそう思い込む事で、また少し勇気が湧いてきた。
(ひょっとして、似てきているのかもしれない……)
 大胆で、短絡的で、後先のことを考えないで。自分の中で、荒神冬摩という存在が徐々に大きくなり始めているのかもしれない。そうだとも思えてきた。
「荒神さん」
 小さく声を上げてみる。しかし自分の声が湿気を多量に含んだ空気に溶けるだけで冬摩からの返答はない。
「荒神さーん」
 もう一度呼んでみる。だが、やはり返事はない。ひょっとして自分は見捨てられてしまったのだろうか。もしかしたらコッソリ屋敷を出てきたから冬摩が気づけなかったのかもしれない。
 そんな考えが浮かび始めた時、背後で草の摺り合わさる音がした。
「荒神さん、よかっ……」
 安堵の息を吐き、振り返り見た朋華の表情が固まる。
 そこに立っていたのは二人の男。手には釣り竿を持っている。きっと近くに湖か何かがあってそこで釣りをしていたのだろう。
「そん、な……」
 朋華の前に現れた釣り人達は以前の神主のように白目を剥き、涎たらしてゆっくりと朋華に近づいて来た。
『やれやれ、まだまだ未熟よのぅ』
 突然、そしてアッサリと『死神』の声が頭に響く。
「い、今まで、どうして……」
 自分が『死神』を制御出来ていたのではない。『死神』が制御されるフリをしていたのだ。
『こうでもせんと貴様がやる気になってくれそうになかったからのぅ。まぁ妾がこの体を動かしても良かったのじゃが、本体はあくまでも貴様じゃ。貴様の精神が成長してくれれば妾の使える力も強くなる。冬摩の力になれる。貴様もそう思ってここに来たのじゃろう? 気が合うようになったではないか』
 言い終えて満足そうに笑った。
 冬摩の力になる。確かにその気持ちは共有できるかもしれない。だが人を傷つけてまでとなると話し別だ。神主のような悲劇を二度と生み出すわけには行かない。
 朋華が釣り人達に背を向けようとしたとき、やはり脚が縫い止められた。
『逃がすと思うてか』
 唇が勝手に笑みの形に曲げられた。『死神』に体を乗っ取られたのだ。
(どうにかしないと、どうにかしないと、また……!)
 血に染まり、崩れ落ちていく神主の姿が目の裏にハッキリと灼き付いている。
「何やってんだ、馬鹿」
 そして、当惑している朋華の耳に呆れたような冬摩の言葉が届いた。

◆龍閃の力 ―荒神冬摩―◆
 馬鹿だと思った。本当に馬鹿だと思った。どうしようもないくらい馬鹿だと思った。
 フラフラと屋敷を飛び出したと思ったら『死神』の毒気にあてられた二人の男を前に右往左往。
「下がってろよ」
 嘆息して冬摩は言い、男と朋華の間に割って入った。
「荒神さん! 殺しちゃダメです!」
 後ろからする悲鳴混じりの朋華の声。
 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。どうしようもないくらい馬鹿だ。
「けっ!」
 冬摩が大地を蹴る。一瞬にして男達との間合いが詰まり、冬摩の右腕の射程範囲に入った。そして下から伸び上がりざま、手前の男の鳩尾に『左拳』をめり込ませる。
 男の体が一瞬地面を離れ、口から舌を突きだして悶絶する。けぽっ、と泡を吐き、その男は昏倒した。
「おらぁ!」
 こちらに倒れ込んでくる男を半身引いてやり過ごし、その回転に乗せて後ろの男の右側頭部に回し蹴りを見舞う。
 首が大きく左に弾け飛び、その力に引かれて体を浮かせると、木の幹に激突して気を失った。
「ったく……」
 意識の飛んだ男達を見下ろしながら、冬摩は脱力したように息を吐いた。
 馬鹿。本当に馬鹿。どうしようもないくらい馬鹿。
(お前も、俺も……)
「荒神さん……」
 横手からした朋華の声はどこか嬉しそうに聞こえた。
 まったくもって自分らしくない。心の底からそう思う。
 この四日間ずっと考えてきた。龍閃との距離が近くなったのは朋華のおかげだ。朋華というエサに龍閃とその召鬼、未琴はどういう訳か食いつこうとしている。そして自分はそれを利用して、逆におびき出そうとしている。
 今回、朋華は自ら進んでエサになってくれた。結局、食い付きはなかったが朋華が本気であることは確認できた。ならば、少しくらい朋華の意向を反映してやっても良いかもしれない。
(それだけ。タダそれだけだ。バイト料をちょっと払っているだけ。こんな事をするのは一時的なことだ。別に根本から俺が変わる訳じゃない)
 この千年間ずっと変えずに貫いてきた自分のポリシー。邪魔する奴は片っ端からブッ殺す。それは元のままだ。今が少し変則的なだけ。すぐに元に戻る。こんな小娘に変えられてたまるか。自分にそう言い聞かせ終え、冬摩は朋華の方を向いた。
「コイツらが目ぇ覚まさないうちにとっとと帰るぞ」
「あ、は、はいっ」
 何だか機嫌良さそうに近づいてくる。冬摩にとっては苛立たしいだけだが。 
 そして屋敷の方に向き直った時だった。冬摩の隣を疾風が駆け抜ける。そして足下で呻き声が上がった。視線を下げる。先程冬摩が気絶させた男の首が、歪な方向に曲がっていた。
「珍しいネ。お兄ちゃんが手加減するなんて」
 甲高い子供の声。内側に軽く撒かれたセミロングの金髪を揺らし、クスクスと小さく笑いながら小学生くらいの少年が冬摩の方を見上げていた。
「雨でも降らなきゃいいけど」
 無邪気な笑みを浮かべたまま、もう一人の男の首筋に『爪』を食い込ませる。次の瞬間、男の体が急速に干涸らびて行った。まるで体中の血液をすべて蒸発させてしまったかのように男は干物になり、壮絶な最期を遂げた。
「麻緒……」
 掠れた声で冬摩が呟く。
「久しぶりっ、おにーちゃんっ。元気してた?」
 大きな碧眼をクリクリと愛くるしく輝かせ、ピンク色の唇から底抜けに明るい声が紡がれた。黒と白のチェック地のセーターの上に、鮮やかな紅のフリース。迷彩模様のショートパンツに黒のスニーカーといった出で立ちの少年は、朋華の顔を見上げて不思議そうに首を傾げた。
「誰? この人」
「……『死神』の、保持者だ」
 下唇をきつく噛み締め、冬摩は吐き捨てるように言った。
「あ、そーなんだー。ボク、九重麻緒って言います。ヨロシクね、おねーちゃんっ」
 両手を頭の後ろで組み、小さな胸を張って自己紹介する。だが朋華は何も返さない。ただ呆然としながら、この無邪気な少年に殺された男達を見ている。
「おねーちゃん?」
 大袈裟な仕草で再び首を横にした麻緒の頭を、冬摩は軽く小突いた。
「挨拶が派手すぎんだよ、お前は」
「だってえー、『敵は確実にとどめを刺せ』って教えてくれたのお兄ちゃんじゃないかぁー」
 頭を押さえ、涙目になって言い返した麻緒の言葉が冬摩に重くのし掛かる。
 確かにそうだ。麻緒は九歳にして十二神将『玄武』の力に覚醒した天才児。魔人の血を引き、圧倒的な強さを誇る冬摩を兄のように慕い、戦い方や信条もすべて冬摩から受け継いだ。子供の持つ無邪気さと純粋さ、そして幼さ故に相手の痛みなど分からず、先程のように手加減の無い攻撃を繰り出し、躊躇のない殺戮を可能にしている。さしずめ冬摩ジュニアといったところか。
(麻緒は俺の真似ばかりしていた。俺の戦闘スタイルを完璧にコピーしようとしている。なのに何故……何故こんなにもイライラする!)
 コレまでに感じたことの無い苛立ち。自分の性格上、数多くの激憤を経験して来てたが、それらのどれにも当てはまらない。故に解消策が見つからない。そのことが冬摩の不快感に拍車を掛ける。だが、このような感情が生まれた原因は分かっていた。
(この女のせいだ……)
 未だに呆然と視線を泳がせ、出来たばかりの二つの死体と麻緒を見比べている。
 仁科朋華という女が自分の側に来てから、心を乱される事が多くなってきているのは確かだ。誰かの死に対して過剰なまでの反応を見せる彼女は異端分子であり、そして新鮮でもあった。
 産みの苦しみ。朋華に感化されることで、冬摩の中に何かが生まれようとしていた。いや、生まれるのではない。思い出そうとしているのだ。気の遠くなるほどの年月を過ごす内に、自分の中で風化し微塵となってしまった何かを。
「どーしたの、お兄ちゃん。早く帰ろ。ボクお腹ペコペコなんだけど」
 数分前に人を殺したというのに、麻緒は相変わらず平和的な口調で不平を漏らす。
(俺がどうかしているのは確かだ。退魔師の反応としては、仁科朋華よりも麻緒の方が正常だ。敵に情けを掛けるなんざ自殺行為に等しい)
 麻緒は正しい。ソレは分かっている。だが何かが引っかかる。
(この前とは、立場がまるで逆だな)
 以前、今と同じように『死神』の毒気にあてられ、狂人と化した神主を朋華は助けようとしていた。だが、冬摩は躊躇うことなくソレにトドメを刺した。今回は冬摩が助けようとした人間達に麻緒がトドメを刺した。
(あの時、コイツはこんな気分だったのか?)
 ならば知っているかもしれない。自分が今、何故イライラしているのかを。
(……やめた)
 聞けば納得行く答えが返ってくるかもしれない。だが、それはまた一歩今の自分から遠ざかる事になるだろう。そして朋華に近づくことになる。
(こんな弱い奴になるなんざ御免だ)
 冬摩は朋華を見下すように鼻を鳴らすと、印を組んで『鬼蜘蛛』を具現化させた。そして麻緒が殺した二人を喰わせる。
「こ、荒神さん!?」
「さっきの二人はこの森に迷い込んで消息を絶った。そう言うことにしときな」
 衝撃的な光景を目の当たりにして我に返った朋華は声を荒げるが、冬摩は『鬼蜘蛛』を体に戻しながら抗議の声を一蹴した。
「帰るぞ」
 そして短く言って屋敷へと歩き始める。
「かーえろっ、かーえろっ」
 後ろから麻緒が明るい声を上げて着いてくるのが分かった。
「荒神さん……」
 落胆した朋華の声。恐らく彼女は二度と屋敷の外へ出ようとはしないだろう。
(『死神』に頼むしかないか)
 朋華に宿る十鬼神であり、もう一つの人格。少なくとも今の状態ならば『死神』の方が朋華の体を優位に制御できる。冬摩が守ってやると言えば喜んで外に出て来くれるだろう。『死神』は朋華のように誰かの死に対して抵抗を感じるような精神の持ち主ではない。
(――ッ!)
 突然、体に戦慄が駆け抜けた。弾けたように顔を上げて後ろ見る。
(かかっ、た……)
 体が震えた。恐怖からではない。言いようのない悦びから来る奮えだ。
 手に取るようにハッキリと分かる。この密林を抜けた街中。そこに途方もなく邪悪で、強大な力を感じる。
(龍、閃!)
 最後の生き残りにして最強の魔人。そして冬摩の父親、龍閃。
 この二百年間、ずっと探し続けてきた。この千年間、ずっと夢見てきた。殺すことを。
 気が付けば景色が後ろに流れていた。顔に膨大な量の空気が叩き付けられる。衣服が枝に引っかかり裂ける音がする。だがそんなことは、どうでも良かった。
 自然と笑みが零れる。もっと速く、もっと速く。ただでさえ常人離れした爆発的な瞬発力を最大限に発揮させて、冬摩は密林を疾駆していった。
(殺す! 殺す! 殺す! 殺す!)
 『殺す』という単語が頭の中で何度も何度も鳴り響く。そのたびに冬摩の躰は熱を帯び、体の底から力が吹き出してくるのが分かった。さっきまでの鬱屈とした気分が一気に狂喜へと塗り替えられる。
(これだ!)
 揺るぎない確信。それは冬摩にとって絶対的な真理ですらあった。
 欲するままに行動し、躰が望むままに血肉を喰らう。ただそれだけ。それだけでいい。それ以上のことはいらない。龍閃を喰い殺し、未琴の仇をとれるのであれば。
(待ってろよクソオヤジ!)
 一人では勝てないかもしれない。だが今の冬摩には、それすらどうでも良かった。返り討ち。上等だ。完全燃焼の果てに死ぬんならそれも一興。なにより朋華から受けた訳の分からない気持ちから解放されることになる。
(他の奴らが来る前にカタを付ける!)
 これだけの力の波動だ。麻緒も気付いただろう。久里子にも観えているはずだ。ならばすぐにでも玲寺に声を掛けて、やってくるに違いない。それだけの戦力ならば勝てるかもしれない。しかし冬摩自身の手でトドメを刺さなければ何の意味もないのだ。
(粉々になるまで摺り潰して、命乞いをさせてやる!)
 これまで考え続けてきた龍閃を葬る時の、残虐で非道で凄惨な映像を無数に思い描きながら、冬摩は更に加速した。

 乾いた風。死の匂い。耳が痛くなる程の静寂。万象から疎外されたような停滞。
 街の外れにある共同墓地。
 ――そこに奴はいた。
「龍閃……」
 口が無意識に彼の名前を呼ぶ。
「久しいな冬摩」
 体を完全に包み隠した漆黒のマントを翻し、尊大な口調で龍閃は言った。
 身長百八十五ある冬摩より更に頭一つ分高い上背。鮮血を思わせる紅い髪は長く、足下にまで届きそう。気の弱い者ならば見据えられただけで気絶するであろう兇悪な双眸は金色。マントから伸びた両腕の筋肉は女性の腰回りにまで発達し、指先からは緋色の爪が伸びている。
「会いたかったぜ、クソオヤジ」
 万感の思いを込めて言いながら、冬摩は腰を落とした。
「貴様一人で我を殺すつもりか?」
「当たり前だ!」
 大きく息を吐いて強く大地を蹴る。十メール程の距離が一瞬にしてゼロになり、龍閃の体が視界いっぱいに広がった。
「おおおおおおお!」
 龍閃の巨躯を掴み上げるようにして下から左腕を突き上げる。ソレが喉笛に届く直前、龍閃の右手に捕らえられ、勢いを完全に削ぎ落とされた。
「鼻息の荒い所は相変わらずか」
 口端をつり上げ、牙を除かせて龍閃は平然と言った。
「けっ!」
 冬摩は迷うことなく体を半回転させ、強引に龍閃の懐へと入り込む。朽ち木の折れるような音が体内にわだかまった。折れた左手首からの激痛により、冬摩の右腕に力が籠もる。
 最初の攻撃は囮だ。力を出すための。そしてコレが――
「喰らえ!」
 脚のバネと連動させ、スピードの乗った右の裏拳を龍閃の顎先めがけて叩き付ける。 硬い手応え。冬摩の拳は龍閃の顎を捕らえてはいなかった。間に割って入った明滅する黒い壁にぶつかって、その勢いを遮断される。
「ちぃ! 『獄閻ごくえん』か!」
 叫びながら前方へと飛び、距離を取る。空中で体を捻って龍閃の方に向き直り、隣で浮遊している巨大な一つ目――十鬼神『獄閻』を睨み付けた。龍閃が保持している十鬼神のうちの一体だ。
 大人が両手を広げた程の直径を持つ剥き出しの眼球は血走り、底なしの殺意を秘めて炯々と輝いている。目の回りに黒いモヤのような物をまとわりつかせ、ソレが時折思い出しかのように盾のような形を象った。
 先程の冬摩の裏拳はその盾によって防がれたのだ。
「雑魚はすっこんでろ!」
 言いながら足下に思い切り拳を叩き付ける。冬摩を中心として爆風が荒れ狂い、周囲の墓石を持ち上げる。
「おらぁ!」
 蹴りごろな位置まで持ち上がった墓石に気合いと共に蹴撃を見舞い、正確な指向性を持って『獄閻』へと飛来させた。
 だが莫大な質量を伴った石つぶてはすべて、『獄閻』の眼球に接触する手前で盾に阻まれて粉々に砕け散る。
(今だ!)
 『獄閻』の防御力は本物だ。アレをまともに相手にしていては、いつまで立っても後ろにいる龍閃にたどり着けないだろう。だから倒さなくてもいい。ほんの僅かな時間だけ、目をくらませて動きを止めてしまえば。
 御影石の粉塵が立ち上がる中、冬摩は膝のバネを爆発させて左前方へと飛ぶ。そして一際大きな墓石を蹴りつけて直角に軌道を変え、右にいる龍閃へと急迫した。
「使役式神『騰蛇とうしゃ』召来」
 もうもうと立ち上る煙で視界が奪われた向こう側。眼前で龍閃の低い声が聞こえたと思った次の瞬間、冬摩の躰を痛烈な圧迫感が襲う。
「が……あ、あ……」
 息が詰まる。体中の骨がミシミシと悲鳴を上げ、内蔵が無理矢理中へと追いやられた。
 煙が徐々に晴れてくる。そして冬摩の視界に映ったのは、冗談じみた大きさを誇る白い蛇だった。
「……の、ガキ……!」
 蜷局とぐろを巻いて自分の体を締め付ける白蛇に、冬摩は歯を食いしばって全力で抗った。しかし、体長二十メートルは有ろうかと思われる蛇の締結はまるで弛む気配を見せない。
「どうした、冬摩。その程度か。話しにならんな」
 喉を震わせて低く笑い、龍閃は悠然と構えたまま嘲りの声を発した。その嘲笑が徐々に大きな物となり、悪意を持った哄笑へと昇華する。
「……か、はっ!」
 白蛇の締め付けが一層強い物になった。
(ヤ、ロウ!)
 龍閃の力の発生点を思い出す。それは『悦び』だ。
 苦痛に歪み、絶望に染まって行く者の顔を見て喜悦に浸る。そんな異常嗜好の持ち主である龍閃にとって、この力の発生点は戦況が有利になればなるほど勝利を盤石な物としてくれる。
(殺す!)
 龍閃が笑い叫ぶ姿を見ていると鮮明に思い出す。未琴を殺し、その肉を自分の目の前で美味そうに喰らっていた光景を。
(殺す!)
 カッと大きく目を見開き、白蛇の中に埋もれている右手に力を込める。
 龍閃の首を取ることへの渇望と全身を駆けめぐる痛みが渾然と融和していき、爆発的な力が右腕へと注がれていった。
「がああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 喉から絞り上げた叫びと共に右腕を力強く前に突き出す。白い壁を喰い破り、冷たい外気に触れた。
「いつ、まで、しがみ、ついてやがる。この……」
 ブチブチと小気味良い音を立てて白蛇の蜷局を縦に裂き、高々と掲げた右腕で苦鳴を発している頭部を強引に引き寄せる。
「肥溜めヤロウがああぁぁぁぁぁ!」
 歯を剥き出しにしながら大きく声を上げ、右手の爪を白蛇の眉間に突き立てた。
 湿った音。そして破砕音。
 冬摩の右腕はあっけないほどに『騰蛇』の頭蓋を喰い破り、その中身を周囲にまき散らせた。
 さっきまでの締め付けが嘘のように消える。冬摩は白蛇から抜けだし、龍閃へと跳んだ。しかし、またしてもそれを阻む形で『獄閻』が回り込んでくる。
「しつっ、こいんだよ! ボケェ! 消え失せろ!」
 双眸に壮絶なモノを宿し、完全に理性を失った冬摩の右腕が『獄閻』を襲う。
 冬摩の攻撃を防ぐ形で、呼吸するかのように明滅を繰り返している黒いモヤが盾を形取った。
「おらぁ!」
 だが構わず、右手を鉤状に曲げて黒い盾にめり込ませる。
 強く張られた金属糸を爪弾いたかのような、高く澄んだ音。
 堅牢な守りを誇っていた『獄閻』の盾が、安っぽいガラスのように無惨に砕け散った。『獄閻』は続けて黒い盾を生み出しす。しかし末路は代わらない。
 一歩踏み込んでもう一枚。更に踏み込んで三枚。高い角度から七枚。
 加速度的に『獄閻』の盾を破壊して行き、そして眼球の前にまで来た。
「いつまでもクソ生意気なガンくれてんじゃねーぞ! このガキ!」
 裂帛の怒声と共に、大きく開かれた黒い瞳孔めがけて右腕を埋め込む。腕を包み込む生暖かい感触と、柔らかい手応え。冬摩の腕と『獄閻』の眼肉の隙間から、紫色の汚汁が噴水のように吹き出す。
 膨大な振動波を伴って大気が鳴動した。
 『獄閻』は断末魔の叫び声を上げ、黒い粒子を残して姿を消す。
「ック……ッククク」
 冬摩の喉から呻くような声が漏れる。
「ハーハッハッハッハッハ!」
 血と殺戮に酔いしれ、今度は冬摩が腹の底から哄笑を上げていた。
 なるほど、快感だ。圧倒的な力を持って弱者をいたぶる。それが忌々しい相手であればなおのこと。これが魔人の血だ。自分の中に魔人の血が流れている以上、押さえきることの出来ない欲情。紅月はまだ先だというのに、この昂ぶりはどうだ。さっきから頭の中で鳴り響いている狂葬曲が、まるで終焉を拒むかの様に奏で続けられている。
 龍閃を睨む。目を細めてコチラの出方を窺っていた。さっきまでの余裕はもう無い。
 当然だ。具現化させた式神や神鬼のダメージは術者に直接跳ね返る。顔には出ていないが、精神的には相当なダメージを負っているはずだ。
 そして龍閃の力の発生点である『悦び』はもう感じられない。勝利への傾斜を加速させることは出来るが、敗北へ恐怖を力に転換させることは出来ない。逆境に強い冬摩とはまるで正反対だった。
「動くんじゃねーぞ。これからじっくりと嬲り殺してやるからよ!」
 屹立したままの龍閃に向かって駆ける。途中、墓石を発泡スチロールの様にはじき飛ばしながら、冬摩は最短距離で龍閃へと肉薄した。
「使役式神『白虎』召来」
 龍閃の前の空気密度が急激に上昇していく。
 それを見て冬摩は面倒臭そうに舌打ちした。そして右腕だけで印を組んで行く。
「使役神鬼『鬼蜘蛛』召来!」
 右手を前に突き出し、巨大な顎を持つ黒蜘蛛を眼前に召喚した。その体が完全に安定化するのも待たずに、冬摩は『鬼蜘蛛』の背中を蹴って大きく跳躍する。
「クタバレ!」
 上空から龍閃へと飛来し、力を込めた右腕でその頭部へと狙いを定めた。
「使役神鬼『餓鬼王』召来」
 抑揚のない龍閃の言葉に応え、四匹目の使い魔が喚び出される。冬摩の前に無貌の巨人が現出した。黒光りする躰には何も無く、まるで全身を黒いラバースーツで覆っているかのように思える。
「次から次へと!」
 苛立たしげに声を荒げる冬摩の目の前で、さっきまで何もなかった『餓鬼王』の躰の上で無数の口が牙を剥いて開かれた。それらの紡ぐ湿り気を帯びた小さな叫びが不協和音を産み落とし、底なしの飢餓性を体現していた。
「邪魔っくせぇんだよ!」
 落下に合わせて右手を大きく振りかぶり、冬摩は最も力の出せるタイミングを見計らう。そして、ソレが来る直前――
「な……」
 『餓鬼王』の腹から太い腕が生えていた。それは長く伸び、右腕を頭上高く掲げていた冬摩の腹を正面から貫く。『餓鬼王』の攻撃ではない。後ろにいた龍閃からの不意打ちだ。
「テ、メェ……」
 自分の神鬼を傷つけて、相手にダメージを負わせる。予想外の攻撃に冬摩の表情が苦悶の物へと変わった。直後に『餓鬼王』の躰が大きくブレたかと思うと、黒い粒子を残してかき消える。そして狡猾そうな笑みを浮かべる龍閃の顔が露わになった。
「詰めが甘い」
 金色の瞳を爛々と輝かせ、龍閃は冬摩の腹に埋まった自分の腕に力を込める。
「ゲァ!」
 腸が胃が肝臓が潰され、折れた肋骨が残りの臓器に突き刺さった。喉の奥から込み上げる熱い塊。たまらず激しい呼気と共に吐き出す。龍閃の顔が自分の血で真紅に染まっていくのが見えた。
「出来の悪い息子は粛清されるが道理」
 そして冬摩の背中から龍閃の緋色の爪が覗き、太い手首を貫通させた。ビクン、と大きく躰を痙攣させ、冬摩は空中に縫い止められたまま全身を弛緩させる。
「終わったか」
 満足げに口の端を取り上げる龍閃。しかし――
「クッ……クハハッ……。アハハハハ……」
 力無く俯いたままの冬摩が漏らした笑いに、龍閃が怪訝そうな表情を浮かべる。
「わかって、ねぇなぁ……」
 自分の躰を持ち上げている龍閃の腕に右手を添えた。そして顔を上げる。薄ら笑いを口元に張り付かせ、冬摩は龍閃を見下ろしながら言った。
「中途半端な『痛み』は……」
 右手に力を込める。かつて無い大きな力が集約していくのが分かった。
「逆効果だって事がよ!」
 血を撒き散らせながら叫ぶ。ドクン、と右肩が胎動し、目眩さえ伴う力が右手へと流れ込んだ。
 肉の千切れる音。骨が砕ける音。そして鮮血。
「そういやテメェの血も紅いんだったか」
 もぎ取った龍閃の肘から先の部分に一瞥をくれて、腹から抜き放つ。直後に急激な脱力感が襲い、冬摩はその場に片膝を突いた。
「なるほど。詰めが甘かったのは我の方か」
 流れ出る血を止めようともせず、龍閃は不敵な笑みを浮かべた。
「ブチ殺す前に教えろ。なんで未琴を殺した」
 多量の出血で揺らぎ始めた視界を気力で補正し、冬摩はゆっくりと立ち上がる。
「母さんを殺した犯人探しのつもりか」
 だが龍閃は何も答えない。攻撃の意思も見せずに、ただ愉快そうな視線で冬摩を見下ろしている。
「あの時泣いてやがったくせに、なんで未琴を殺したのか聞いてんだよ!」
 龍閃は自分の妻の死に涙を見せてた。ソレを見て冬摩は、龍閃が人間を本気で愛していたのだと知った。だからこそ、なぜ未琴を殺したのか分からなかった。なぜ再び人間達と敵対したのか理解できなかった。
「冬摩、貴様は何か勘違いをしているようだな」
 自信に満ちた表情で言いながら龍閃が不敵に笑った直後、白い力の奔流が冬摩めがけて放たれる。
「な……」
 出所も分からない。いつ打ったのかも分からない。なにより今の体勢からは避けられない。
「危ない!」
 男性の声。そして冬摩の視界が反転する。彼に抱きかかえられるようにして、冬摩は辛うじて白色の光線から逃れた。
「テメェは!」
 爽やかな黒髪の短髪。整った目鼻の演出する秀麗な顔立ち。
「逃げるわよっ、冬摩ちゃん!」
 突然現れた篠岡玲寺は満身創痍の冬摩の体を軽々と肩に担ぎ上げると、流美な身のこなしで龍閃から距離を取る。そして注意深く後ろを見ながら、信じられないくらいのスピードで離れていった。
「離せよ! クソヤロウ!」
 視界の中で龍閃の姿がどんどん小さくなっていく。
「ダーメ。あれ以上やったら、冬摩ちゃん死んじゃうもん」
 緊張感のない声が下から返ってきた。
「馬鹿ヤロウ! いいから離せ!」
「冬摩ちゃん血、出しすぎよ。さっきだってフラフラで、立ってるのがやっとだったじゃない。それに私の腕から逃げることも出来ないしー」
 高速で走り続けているというのに息一つ乱すことなく、玲寺は茶化すように言う。
(く……!)
 確かにそうだ。冬摩の力の発生点は『痛み』だが、過剰な苦痛は力を振るうことすら許さなくなる。今みたいに出血が酷いと、いくら右腕に力が溜まってもソレを相手にぶつけることが出来ない。加えて戦線離脱という緊張感からの解放が冬摩を包み、今まで気力で封じ込めていた痛みや脱力感が一気に吹き出してきた。この状態では玲寺の腕を振りほどくことさえ難しいだろう。
 何より最後に見せた龍閃の攻撃。あの白い閃光はいったい何だったのか。まともに喰らっていれば、冬摩とて致死的な傷を負っていたかもしれない。
(くそ……)
 視界が揺らぐ。意識が朦朧としてきた。
(龍、閃……!)
 仇の名前を心で叫んだのを最後に、冬摩の瞼が静かにとじた。

◆貴方に捧げる想い ―仁科朋華―◆
「なるほどなぁ……」
 久里子の自室。犬や猫のヌイグルミが無数に置かれており、クローゼットの取っ手やドアノブなどのちょっとした出っ張りには可愛らしいフリルがあつらえてある。ピンクを基調とした乙女チックな部屋。それが久里子の城だった。
「まぁ、麻緒は冬摩のことホンマの兄貴みたいに思ーとるからなあ」
 麻緒が釣り人二人を何の躊躇いもなく殺したことについて話し終えると、久里子は渋い顔つきで腕組みした。
「あんだけ一般人には手ぇ出したらあかん、ゆーてても冬摩があれやからなぁ」
 ガックリと項垂れ、重い溜息をつく。
「無駄かもしれんけど、帰って来たらもう一回きつぅゆーとくわ。ホンマゴメンな、トモちゃん。ココ来て嫌な思いばっかりさせて」
 麻緒は今屋敷にはいない。冬摩を追って密林の外へと行ってしまった。だが朋華はその事に内心ホッとしていた。正直、屋敷までの道のりを麻緒と二人きりで居たくはなかった。
(あんな、小さな子が……)
 聞くところによると麻緒はまだ十歳。一年前に『玄武』に覚醒し、古の記憶を取り戻した麻緒はこの洋館へとやってきた。そして土御門財閥に自分が死んだことにして欲しいと頼み、髪の色を変え、目の色を変え、整形を行って、退魔師としての任務に専念した。
 式神や神鬼の記憶が保持者へともたらす影響はそれ程に強いのだ。退魔の仕事を行い、最終的には龍閃を倒す。その結果に至るまでの過程で邪魔な者は、何の躊躇いもなく排除する。例え相手が人間であっても関係ない。大事の前の小事。そうやって完全に割り切り、自分の行動に対して何の疑問も抱かない程に。
「けどホンマ、ビビったんは、冬摩がその二人を殺さんかったっちゅーことやで。ウチがどんだけゆーても、あのアホは勝手に行動するからなー」
 冬摩によって殺された神主の事を思い出す。あの時は何の呵責もなく殺人を行った。しかし、さっきは違う。朋華自身まさか自分の意向が聞き入れられると思っていなかったのだ。
 また殺される。絶対にそうなると思っていた。しかし、冬摩は殺さなかった。
「荒神さん……初めてあった時よりも、ちょっと優しくなった気がします」
 最初はぶっきらぼうで、無神経で、人の苦悩を歯牙にも掛けない様な朴念仁だと思っていた。今も無愛想なところは相変わらずだが、纏う雰囲気が気持ち柔らかくなった気がする。少なくとも釣り人二人を殺さなかった時にはそう思った。
「優しい? アイツが? トモちゃーん、アンタもホンマお人好しやなー。ンなもん気まぐれに決まってるやんか。どーせ、殺すんもメンド臭かっただけやろ」
「そんなことありませんよ。きっと意識して手加減してくれたんです」
 おどけたように肩をすくめてみせる久里子に、朋華は顔をしかめて反論した。
「それより嶋比良さんはどうなんですか。さっきから平気で『殺す』って言ってますけど」
 久里子の言葉を抜粋しただけなのに、自分ではない他の誰かが言っているような錯覚に陥る。未だ朋華にとって『殺す』という言葉は非日常的な物なのだ。だがソレを言われて嫌な気分にはなるものの、不快感を催すこと自体には僅かな安堵感を覚える。自分がまだ元の仁科朋華であるという証明のような物なのだから。
「まーウチも覚醒してから八年経ってるからな。残念ながら、さすがに違和感ないわ。それに、その覚醒の時の暴走で家族ミンナ殺してもーてるしな」
 久里子の言葉に思わず絶句する。自分の失言に朋華は内心ほぞをかんだ。久里子だって好きで覚醒したわけではない。本当は一般的な幸せを掴みたかったのかもしれないのだ。だが不可抗力により退魔師にならざるを得なくなった。式神や神鬼からの記憶の逆流は、退魔師として今後の人生を送る事への抵抗を見事に断ち切ってくれている。
(私の覚醒も完全だったら……)
 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。自分の覚醒も今のように不完全な物でなかったならば、これ程悩まなくても良かったのかもしれない。冬摩の行動にさほど反発しなかったかもしれない。『死神』を制御しきれていれば、無駄な死を目の当たりにしなくてもすんだ。
(私、どうなりたいんだろ……)
 だんだん分からなくなってきた。今は苦しくても元のままで居続けたい自分。そして非日常を受け入れて今すぐにでも楽になりたい自分。
「そんな暗い顔しなや。ウチやったらもー全然気にしてへんから」
 明るい声で返す久里子。だが本当なんだろうか。覚醒したからと言ってそんなに簡単に白黒をハッキリつけられる物なのだろうか。自分を元気付けようと無理をしているだけかもしれない。そう思うと朋華は心が痛んだ。
(私、また迷惑ばかり掛けてる)
 確かな意志を持たずに曖昧な気持ちで居るから、周囲に余計な誤解を与えてしまい、結果的にそれが人の脚を、そして自分の脚を引っ張ることになる。
 そんなどうしようもない負の感情が朋華を覆い尽くそうとした時、鈴の音が屋敷内に響き渡って誰かが帰ってきたことを告げた。
「お、麻緒の奴帰って来よったな。ほんならウチ、あのチビちゃんにお灸据えてくるわ」
 腕まくりし、大袈裟に気合いを入れて立ち上がった久里子と一緒に朋華も立ち上がった。
「あの、私も聞きたいことがあるんです。一緒に行って良いですか?」

 地下にある戦闘訓練室。学校のグラウンド程もあるコンクリートの床には複雑な紋字が紅く描かれ、ある種の結界を形成していた。カビ臭い匂いとは別に、得体の知れない熱気のような物が体に纏わりつく。闘意と、血の匂いだ。
 その中央。麻緒は自ら具現化させた式神『玄武』と格闘していた。
 硬質的で巨大な亀甲から伸びるのは竜の首、鰐の手足、蛇の尻尾。
 その愚鈍そうな外見とは裏腹に、素早い動きで『玄武』は立ち回っていた。
「おーい! 麻緒!」
 『玄武』からの体当たりを麻緒が紙一重でかわし終えたところで、久里子は麻緒に声を掛けた。その声に反応して麻緒はこちらに顔を向ける。
「どーしたの、二人揃って」
 そして『玄武』を消して小走りに近寄ってきた。
「で、冬摩はどないしてん」
「結局、追いつけなかったよー。お兄ちゃんの脚、速すぎ」
 柔らかそうなブロンドを縦に揺らして麻緒は大きく肩を落とした。
「ふーん。玲寺さんも、ついさっき急に出ていってな。ホンマあの二人何してんねやろ。別に妖魔の類の力は感じへんしなー」
「駆け落ち、とか」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて言った麻緒の言葉に、久里子が鷹揚に頷く。
「『冬摩ちゃん! 私もう我慢できないの!』」
「『テメー玲寺! ふざけた事ぬかしてやがるとブッ殺すぞ!』」
 久里子が玲寺を、麻緒が冬摩の声を真似て二人の掛け合いが始まった。
「『いつまでも強情なんだからぁ。ほら、嫌よ嫌よも好きよウチってねっ』」
「『勝手な事言ってんじゃねー! テメーの頭の中はそんな事しか入ってねーのかよ!』」
「『勿論。それじゃあねー、”俺を抱いてくれ!”って言ったら、止めてア・ゲ・ル』」
「『意味分かんねーんだよ!』」
 まるで長年連れ添った漫才コンビのようにピッタリの息で漫談を繰り広げる二人を唖然としながら見守る朋華。その視線に気付いたのか、久里子がコホンと小さく咳払いを一つして、
「って、ンなこたぁどーでもええねん。なんかな、トモちゃんがアンタに聞きたいことがあるみたいなんや」
 言いながら久里子は一歩引き、相対的に朋華が前に出るように移動した。
「なに? お姉ちゃん」
 最初に会ったときのように頭の後ろで両手を組み、ニコニコと平和的な笑みを浮かべて麻緒は聞いてくる。つい先程、二人の人間を殺した子供の顔とは到底思えない。いや、子供だからこそ、こんな顔ができるのだろうか。
「あの、九重君はさっきのこと……何とも思わないの?」
「さっきのこと?」
 言われて麻緒は疑問符を顔に浮かべ、顎先に人差し指をあてながら可愛らしい仕草で首を傾げる。
「ちょっと前に二人殺してもーたやろー? そのことや」
 久里子の言葉でようやく思い出したのか、ポンと掌を打って顔の角度を元に戻した。
「ああ、あれ。別に何とも。だって仕事だもん。どうして?」
 朝起きたら顔を洗うでしょ? と言っているかのように平然と返してくる。
「仕事って……。でも退魔師の仕事は他の人を助ける事じゃないの? それなのに……」
 どうしてアッサリと殺してしまえるのか。そこが朋華には理解できなかった。
「あの人達ってお姉ちゃんの神鬼の毒気でああなっちゃったんでしょ? 言っとくけどもうダメだよ、あの人達。元には戻れないモン」
「え……」
 麻緒の言葉に愕然として朋華は久里子の方を見る。久里子は柳眉を顰め、悲しそうな表情を浮かべて躊躇いがちに頷いた。
「まぁ、ほっといたらある程度の毒気は抜けていくかもしれんけど、完全にはな……」
 結局は自分のせいなのだ。自分が『死神』を制御できていさえすれば。そのフレーズが頭の中で何度も何度も鳴り響く。
「だったら殺してあげるのも一つの優しさだと思わない? どーせ、元の生活は出来ないんだもん。それに他の人を傷つける事だって考えられるしね。沢山の人達を守るために一人や二人殺すのは別に良いことなんじゃないのかな」
 多数の命のために少数の命を刈り取る。単純に計算すればそちらの方がいいことは誰だって分かる。論理で割り切り、理性で自我を押し殺し、意思で迷いを断ち切りさえすれば簡単なことなのだろう。
 しかし朋華の場合は感情がソレを許さない。多数と少数。どちらも救う手がないかをまず考える。毒気が少しずつでも抜けていくのであれば、抜け終えるまで側に居続ける。自分であればその選択をするだろう。
「お姉ちゃんはまだ覚醒が不完全だから変に思っちゃうんだよ。しばらくして『死神』を完全に支配できれば余計なこと考えなくてすむから。ね?」
 そうすれば楽になれる。だが、それは自分が自分である事への否定に他ならない。楽な道には必ず代償が付きまとう。
「でも、荒神さんは殺さなかった……」
 自然と口から言葉が零れ出ていた。何かを考えた末に発した言葉ではない。自分に言い聞かせるための言葉だ。まるでその事実にすがるかのように。
「お兄ちゃんは気分屋だから。あの時は調子が悪かったんでしょ」
 久里子も同じような事を言っていた。だが違う気がする。
 あの時、冬摩が見せた苦しそうな顔。朋華はそこに冬摩の中にある僅かな優しさを垣間見た気がしたのだ。
「荒神さんが帰ってきたら、聞いてみます」
 沈んだ声で朋華は呟く。そして麻緒に背中を向け、一階へと続く紅い絨毯の敷かれた階段に脚をかけた時、玄関ホールから鈴の音が響いた。
「丁度帰ってきたみたいだね。ボクもお兄ちゃんがどこ行ってたのか聞きたいし。じゃ、行こっか」
 セミロングのブロンドを左右に振りながら、麻緒は階段を軽快な足取りで駆け上がって行く。それに続いて朋華と久里子も地下室を後にした。

 玄関ホールは騒然となっていた。
 全身を紅く染め、気を失っている冬摩が白いスーツの人達によって運ばれていく。
「荒神さん!」
 冬摩を追おうとした朋華の肩を久里子が掴んだ。
「あ……」
 朋華が側に行けば『死神』の毒気にあてられて、冬摩の治療をしようとしている人達がおかしくなってしまう。それだけは絶対に避けなければならなかった。だか――
『冬摩!』
 自分の声で、自分ではないもう一人が叫ぶ。
 久里子の手を振り払い、冬摩が連れられた方向に体が勝手に走っていく。
「トモちゃん!」
 久里子の叫び声を背中で聞きながら、『死神』は吹き抜けとなっている三階へと飛翔した。手すりを飛び越え、埃一つない廊下に降り立ったところで麻緒と玲寺の背中を見つける。そして二人が入っていった白い扉の部屋に跳び込んだ。
『冬摩!』
 悲鳴混じりの声でもう一度、冬摩の名前を呼ぶ。『死神』の言葉に反応して、中にいた白いスーツの人達が蜘蛛の子を散らすように我先にと室外にとび出して行った。それを後目に見ながら、『死神』はベッドに寝かされた冬摩の元に駆け寄る。
 満身創痍だった。
 左手はあり得ない方向へとねじ曲がり、右手の爪は全て剥がれてしまっている。打撲や裂傷など数えだしたらきりがない。中でも特に酷いのは腹部の大きな傷口だった。朋華のウェストほどもある赤黒い穴からは止めどなく血が流れ出ている。こんな状態では生きている方が不思議だった。
『待っておれ冬摩! 今すぐ妾が治してやるからな!』
 玲寺も麻緒も『死神』の人格を見るのはコレが初めてなのだろう。だが二人の奇異に満ちた視線を気にも止めず『死神』は冬摩の腹部に手をかざした。そして精神を集中させる。
 だが、何もおこらない。
『クソ!』
 悔しそうに顔を歪め、『死神』は何かを念じるように更に集中力を高めていった。その手が徐々に淡い燐光を放ち始める。そしてほんの少しずつではあるが、冬摩の腹部からの出血が収まっていくように見えた。
『コレが、限界か……』
 顔をしかめながらも、『死神』は手に込めた力を強める。体を脱力感が襲った。
 『死神』の力『復元』。術者の命を媒介にして瀕死の傷をも一瞬にして完治するほどの治癒能力だ。だが、その圧倒的な力が今は見る影もない。朋華が『死神』を制御し切れていないせいだ。
『冬摩、すまん。今の妾の力では……』
 自分の無力さを嘆きながらも、『死神』は冬摩を癒し続ける。その状態がどれくらい続いただろうか。体の制御が自然と朋華の元に戻ってきた。
「『死神』、さん……」
 力を使いすぎて体をコントロールすることか出来なくなったのだろう。完全に力を出し切れ無い『死神』にとっては、あの程度の治癒でも大きな負担なのだ。
「ク、ソ……オヤジ……」
 呻くような冬摩の声。腹から顔に視線を移すと、冬摩は薄く目を開け苦痛に顔を歪ませていた。そして右腕をベッドにつき、上体を起こそうとする。
「だ、ダメですよ、荒神さん! 酷い傷なんですからまだ寝てないと!」
「うるせぇ……。龍閃のヤロウを、ブッ殺す……」
「龍閃!?」
 掠れた声で紡がれた冬摩の言葉に麻緒が声を上げた。
「さっき冬摩は龍閃と戦っていました。そして殺されそうになったので私が連れて逃げ帰ってきたのですよ」
「そんな……龍閃の力なんかウチ、全然感じへんかったのに……」
 玲寺の説明に、いつの間にか来ていた久里子が力のない声で返す。
「ンなこた、どーだっていいんだよ。お前が感じ取れなくても俺が分かってればな」
 幾分余裕の取り戻した声で冬摩は言いながら、ベッドから這い出た。
「荒神さん! まだ安静にしておかないと!」
「どけよ。ブッ殺すぞ」
 自分の目の前に立つ朋華に向かって冬摩は吐き捨てるように言う。
「冬摩、その言い方ないんちゃうか。トモちゃんがアンタのその腹の傷、治してくれたんやで」
「別に俺が頼んだ訳じゃねーよ。それにコレくらいの傷、ほっといても治る」
 冬摩の宿す十鬼神『鬼蜘蛛』の能力は攻撃範囲の拡大、そして回復能力の増強。加えて魔人の血がもたらす驚異的な生命力だ。今の傷も冬摩の言うとおり時間さえ掛ければ治ったのかもしれない。
 腹の傷を押さえ、冬摩はふらつく脚で体を支えながら何とか立ち上がった。
「どこ行く気や、冬摩」
「龍閃の所に決まってんだろーが」
 朋華の横に立ち、冬摩の行く手を遮る形で聞いた久里子に不機嫌な声で返す。
「分かってんのか。居場所」
「当たり前だろーが。こんな強い邪気、間違えようもねーよ」
 二人の壁を無視して部屋を出ようとする冬摩。しかし引くことなく久里子は続けた。
「絶対におかしいて、冬摩。ウチの『千里眼』でも観えへんのに、なんでアンタと玲寺さんだけに分かるんや。罠としか考えられへんやろ。龍閃は少しずつおびき寄せて、ウチら退魔師を殺していくつもりなんや」
「ンな細かいことはどーだっていいんだよ。龍閃のヤローが誘ってんなら、それに乗るだけだ。アイツをブッ殺せりゃ他の事はどーだっていい」
「この単細胞はホンマに……」
 相変わらずの直情思考に、久里子はサングラスの位置を直しながら溜息をついて首を軽く横に振る。
「玲寺さんからも何か言ってやってくださいよ」
「冬摩ちゃん、ステキ……」
 玲寺に助け船を求めて視線を向けるが、そこにいたのは目に星を輝かせる玲寺だった。
「玲寺さん……」
 嘆息混じりに言う久里子に玲寺は咳払いを一つして、
「まぁ冗談はさておき、多分止めても冬摩は聞かないでしょう。それに彼の力の発生点は『痛み』。歩けて、これだけハッキリ喋れるならば、この傷の状態の方がいい勝負になるかもしれません」
「へっ、たまには良いこと言うじゃねーか」
 自分の行動に賛同した玲寺に笑みを送りながら、冬摩は久里子の肩を押しのけた。
「ちょ、れ、玲寺さん!? 本気ですか!?」
「まぁ、久里子の言う通り罠である可能性もありますから私は行きませんが。それに龍閃の目的は『死神』のようですし。代わりに麻緒、貴方が冬摩をサポートしてあげてください。冬摩は貴重な戦力ですから、自ら死ぬような事の無いように危険を感じたら力ずくででも連れて帰ってくださいね」 
「うん、最初からそのつもりだよ。龍閃にも会ってみたいしね」
 冷静に状況を分析して淡々と述べる玲寺に麻緒が元気よく返事する。さすがに諦めたのか、久里子は肩を落として冬摩から離れた。
 しかし、朋華は違った。離れるどころか両手を真横に突き出し、絶対に行かせまいと強い意志を見せて冬摩の行く手を阻む。
「なんだぁ?」
 鬱陶しそうに顔をしかめ、冬摩は面倒臭そうな声を上げた。
「行かないでください」
 毅然とした口調で、朋華は冬摩の目を正面から見据えて言う。
「今は傷を治すことに専念してください」
「テメェ、玲寺の話聞いてなかったのかよ。俺はこれくらいの傷の方が力を出せるんだよ」
「それでもダメです。だってフラフラじゃないですか」
「龍閃の顔見りゃ怒りでこんなモンすぐに吹っ飛ぶ」
 言いながら左手を朋華の肩に掛ける。すでに骨折は完治しているようだった。強い力が加わり、朋華は後ろへと押しのけられるが、力一杯踏ん張って冬摩の体を押し戻した。
「絶対に行かせません」
「このガキぃ……」
 冬摩の目に剣呑な光が宿る。しかし朋華は怯まない。
「貴方を、みすみす死にに行かせるような事だけはしたくないんです」
 『死神』が『復元』を使っていたときに流れ込んできた冬摩への想い。それは身を焦がすほどに強い恋慕の感情。そして、今自分もハッキリと感じている。冬摩を死なせたくないという想いを。
 冬摩には聞きたいこと、そして教えて欲しいと思うことが沢山あるのだ。ソレを聞き出すまでは冬摩の身を危険にさらすような事はしたくなかった。
「大丈夫だよお姉ちゃん。ボクがついてるんだから。それにこれはチャンスなんだ。ようやく魔人との争いが終わるかもしれない」
 諭すような喋りで麻緒は話しかけてくる。だが朋華の考えは変わらない。
 何故かは知らないがハッキリと分かる。
 冬摩は死ぬ気だ。
 刺し違えてでも龍閃を倒そうとしている。冬摩と互角に渡り合えるという玲寺であればともかく、麻緒という少年にそれを止められるとは思えなかった。
 冬摩を失いたくない。自分のためにも、そして『死神』のためにも。
「約束してくれたじゃないですか。私の側にいてくれるって」
「龍閃が見つかりゃ、ンなもんは反故だ反故。いいから、どけよ。マジでブッ殺すぞ」
「殺せばいいじゃないですか。貴方がいなければもう何度も死んでいる身です。自由にしてください」
 冬摩の目元が苛立たしげに痙攣し、右肩に置かれた手に力が込められる。
 全身が軋むような圧迫感。だが、引き下がるわけには行かなかった。
「けっ!」
 冬摩の右腕が振り上げられる。しかし目は瞑らない。妙な確信があった。冬摩は絶対に振り下ろさない、と。
「トモちゃん!」
 突然、横に伸ばしていた手が強く引かれた。久里子だ。その直後、明らかに朋華が冬摩の前からどいたのを確認して右手が振り下ろされた。
「行くぞ、麻緒」
 憮然とした表情で短く言い、冬摩は足音を大きく響かせて部屋を出た。その足取りは、すでにしっかりとした物になっている。驚異的な回復力だった。
「あ、待ってよ、お兄ちゃん」
 麻緒が冬摩に続いて部屋を出たのを確認し、久里子は深い溜息をついた。
「トモちゃーん。アンタ、大人しい思ーてたら、急に無茶するんやモン。ビックリするわ」
 豊満なバストに朋華を抱きかかえながら、久里子は安堵の息を吐く。
「こ、荒神さん!」
 慌てて追おうとするが、久里子がソレを許してくれない。そして玄関ホールから鈴の音が響き、冬摩と麻緒が屋敷を出たことを知らせた。
「荒神さん……」
「大丈夫ですよ。貴女のおかけで少し頭が冷えたようです。今の冬摩ならそれ程、無茶なことはしないでしょう」
 玲寺が優しいく微笑みながら、励ましてくれる。だが、朋華にとっては気休めにもならなかった。さっきから嫌な予感が頭から離れない。
 ――冬摩に側にいて欲しい。
 その想いは冬摩が居なくなった今、朋華の中で確実に大きくなっていった。

『なにボサッとしてやがる!』
 二百年前、冬摩は『死神』の保持者を庇って龍閃の凶撃を正面から受けた。
 その時の傷はさっき見た酷い傷を遙かに上回るものだった。
 左腕は原形をとどめないまでに傷つけられ、体の半分は消し炭と化し、頭部が大きく抉れていた。
『お前が昔の恋人に似てたからな……』
 どうして庇ったのかを聞いた退魔師に、冬摩は血を吐きながらも小さく笑って言った。
『逃げろ……早く……』
 瀕死の状態でも冬摩は消えそうな声で保持者の身を案じていた。
『未琴……』
 ――未琴。
 死ぬ直前、冬摩は保持者とかつての恋人を重ね合わせていた。
(未琴さん……荒神さんの昔の恋人……)
 自室で枕に顔を埋め、朋華はついさっき『死神』から流れてきた記憶を回想していた。
 『復元』を使っていた時に、冬摩に向けられた強烈で鮮明な想い。『死神』は間違いなく冬摩の事を愛している。あの残忍な冬摩が、身を挺して自分を守ってくれたことに大きく感銘を受けたのだろう。
 冬摩に生きていて欲しい。死んで欲しくない。その一心で、『死神』は冬摩の傷を癒していた。二百年前も、そうしたように。だが同じようには出来なかった。朋華の覚醒が不完全であったために力を出し切れないのだ。
 自らの命を相手に分け与える『復元』。危険な能力だが、冬摩を治したいという想いは朋華も同じだった。だが、それだけでは足りない。想いだけでは力を使いこなせない。
 いったい何が必要なのか、朋華には分からなかった。久里子や玲寺に聞いてもハッキリとした答えは返ってこない。時間と共に慣れていくだろうという受動的な方策しか与えてくれなかった。
 ――あとは気持ちの問題じゃ。
 神主に襲われた時、『死神』が言っていた言葉が頭をよぎる。
(……足りないのかな、荒神さんを助けたいっていう想いが)
 正直、冬摩に関してまだ分からない部分が多い。理解できない事が沢山ある。
 何故、急に自分を守ってくれると言い出したのか。何故、釣り人二人を殺さなかったのか。そして何故、あれほどの傷を負ってまで龍閃を倒そうとするのか。
 昔から魔人と敵対していた退魔師が龍閃を滅ぼしたいという気持ちは分かる。だが、冬摩は魔人の血を濃く引いている。同族を殺された恨みも有るかもしれないが、冬摩は龍閃の息子だ。もっと何か個人的な理由がある気がしてならない。
「未琴さん、か……」
 何気なく呟き、朋華は窓の外を見た。
 広大な敷地内を埋め尽くすように植えられた色とりどりの花。手前から奥へと順番に目を移していく。白、紫、黄色、そして紅。
「え……」
 思わず声が漏れる。
 紅は花の色ではなかった。それは頭を失い、絶命している屋敷の人間が染め上げた物だった。

◆未琴の紡ぐ謳声 ―荒神冬摩―◆
 密林を抜け、田圃のあぜ道を疾駆しながら冬摩は三十回目の舌打ちをした。
(あのクソ女……)
 さっき朋華に言われたことが頭にこびりついて離れない。
 ――貴方を、みすみす死にに行かせるような事だけはしたくないんです。
(死ぬ? 俺が? バカ言うな! だいたい俺が死のうがお前には何の関係も無いだろーが!)
 胸中で何度も同じ悪態をつきながら、冬摩はちらりと後ろを返り見た。麻緒との距離が開いたのを見て、少し走るスピードを落とす。
(なんで俺はこんな面倒臭いことしてんだ。ったく、あの女の影響か……)
 未だに分からない。これまでの自分では決してしなかったであろう行動をとる時に生まれる、靄のように曖昧な感情。その正体が。
(あーもー! メンドくせーなー!)
 強引にソレを振り払うように冬摩は強く頭を振った。
 普段内気なくせに、たまに見せる気丈な一面。それはまるで未琴の人格を朋華という媒体で再現したかのよう。しかも未琴によく似た顔立ちで紡がれるその言葉は、冬摩に否応なく過去を想起させた。コレまで出会ってきた『死神』の保持者のように。
 田圃を抜け雑木林へ、そして山の中へと入る。獣のような身のこなしで、冬摩と麻緒は道無き道を駆け抜けた。
(近い! もうすぐだ!)
 龍閃との戦いが始まれば、くだらないことを考える時間はなくなる。血と殺戮に興じ、相手の死を貪る。それは冬摩にとって至福の一時だった。
(龍閃に勝てるのか……)
 さっきの戦いで龍閃は殆ど自ら手を下すことなく、神鬼や式神を差し向けて戦っていた。それはつまり本気を出すまでもないと言うことだ。本来、体に宿して真価を発揮するはずの使い魔を具現化させ、わざわざ力を落として戦っていた。
(舐めやがって)
 しかも四体もだ。維持するだけでも相当な精神力が必要になる。それでもなお、最後に放ったあの攻撃。まだ相当に余裕を残していると考えた方がいい。
(もし勝ったら、聞いてみるかな)
 再び朋華の顔が浮かんだ。彼女ならば知っているだろう。冬摩をイライラさせている不純物。不要だと過去に捨て去ってきた感情の正体を。自嘲めいた笑みを浮かべ、冬摩は麻緒を追いつかせるために減速した。
「麻緒、あの向こうだ」
 麻緒が横に着いたのを確認して冬摩は前方に並ぶ常緑樹を指さした。その向こうから龍閃の力の波動が異様なまでに伝わってくる。まるで自分を誘っているかのように。
「行くぞ!」
 気合いと共に叫び、冬摩は一気に加速して跳んだ。不意打ちにはならないかもしれないが、速攻で最初の一撃を繰り出すつもりだった。
 三角飛びの要領で木から木へと跳び、そのしなりを利用して加速を付ける。そして山の頂上へと跳び出した。
「な……」
 山頂にある少し開けた場所。足下に繁茂した草に膝あたりまでを埋めながら、幽玄な雰囲気を纏って彼女は立っていた。
「未、琴……」
 龍閃と全く同じ力の波動。それは龍閃の召鬼である未琴から放たれた物だった。
「来たか、冬摩」
 憂いを含んだ視線で冬摩を射抜き、未琴は死装束を翻らせて冬摩を正面に捕らえた。艶のある長く黒い髪が夕日に照らされ、宝石のような輝きを持つ。
「もう、言葉は必要ないだろう。私もお前も、互いにやりたいことは分かっているはずだ」
 次の瞬間、未琴の黒髪が意志を持ったように総毛立った。
「私の力の発生点は『髪』。これが龍閃様より授かった力だ」
 そして毛先を冬摩に向けたかと思うと異常な伸長みせて束になり、鋭い槍のように牙を剥いた。
「くそ!」
 高速で飛来する髪の槍を大きく右に跳んでかわす。しかし槍は直角に曲がると、正確に冬摩の位置を追尾して来た。自分の体に触れようとした黒髪を、力を込めた右腕で振り払う。ブチブチと嫌な音を立てて髪の毛は大地に横たわるが、すぐ後ろから来た黒髪が右腕を絡め取り、そのまま冬摩の体を上空へと持ち上げる。
「このぉ!」
 麻緒が声と共に未琴に向かって跳ぶのが見えた。
「やめろ! 麻緒!」
 しかし冬摩の叫びで急停止する。そして不安げな顔つきでコチラを見上げてきた。
「お前は手ぇ出すな」
「でも……」
「コレは俺の問題だ!」
 首筋に巻き付いてきた髪の毛を右手で強引に引きちぎり、腹筋に力を込める。龍閃に穿たれた腹の傷が開き、痛みが復活した。そして右腕に集約したエネルギー塊を腕の中で暴発させる。
 毛細血管の破裂と共に、熱波が吹き荒れた。それが絡みついていた黒髪を溶かし、冬摩を宙吊りの状態から解放する。そして着地と共に爆発的な瞬発力で、未琴との間合いを一気につめた。
「やめろ未琴。お前とは戦いたくない」
 未琴の目の前で冬摩は苦悶に顔を歪めて言う。痛みからの苦痛ではない。かつての恋人を、大切な人を傷つけているという行為から来た物だ。
「相変わらずだな冬摩。魔人の血を引きながらも相手を思い遣れる心を持っている。私はお前のそんなところに惹かれたんだ」
 瞑目し、昔を懐古するような表情で未琴は小さく笑う。
「だが――」
 その瞳が薄く開かれ、魔性の輝きを灯した。
「今その感情を晒すのは危険だ」
 殺気を察知し、冬摩は未琴から距離を置く。
「髪の毛はこういう使い方も出来るんだ」
 未琴が軽く手を挙げた。そして、冬摩の口から鮮血が飛び出す。
 触れられてはいない。今、未琴は髪の長さは元に戻り冬摩の近くにすらない。なのに何故。
 口の中から血と一緒に、糸状の物が溢れかえる。それは髪の毛だった。
「私の髪の毛を呑み込んだことには気付かなかったろう?」
 冬摩の体内に自分の髪の毛を入れ、それを使って内側から相手にダメージを与える。
(千切れた後も、遠隔操作できるのか……) 
 気が付けば囲まれていた。先程、冬摩が切り落とした未琴の髪の毛に。束になっていた髪がほどけ、一本一本細かく別れていく。そしてついに肉眼での視認が難しい程までに細くなった。
(どうする……いくら龍閃の召鬼だからって、未琴を傷つけるなんて出来る訳ない)
 今目の前にいる未琴は偽物などではない。肉体こそ仮初めではあるが、未琴の魂と精神を宿した存在。つまり限りなく未琴本人に近いのだ。
(逃げるか?)
 以前会った時、今の体はもって七日だと言っていた。ならば時間を待てば未琴と戦わなくてすむかもしれない。
 そんな事を考えていた時、空気が光るのが見えた。未琴の髪の毛が全方位から冬摩に狙いを定めて飛来する。
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
 避けきるのは不可能。ならば耐えるしかない。
 両腕で顔を庇い、叫び声を上げながら腹をくくる。針のむしろを転がったように、一つ一つは小さいが無数の痛みが冬摩の全身を襲った。
 永遠に続くかもしれないと思われた苦しみ。未琴を傷つけるくらいなら死んだ方がましだと思った時、攻撃が突如として止んだ。
「冬摩、どうやら時間のようだ」
 凛と張った、よく通る声。黄昏の空を背に未琴は悠然と立ちながら、短く言った。
「私の役目は終わった。たった今、私は龍閃の召鬼などではなくなった」
「未琴……?」
 言ってることが理解できない。
「時間? 龍閃の召鬼じゃくなったって……」
 呆然と呟く冬摩の目の前で、未琴の右腕がボロリ、と崩れ落ちた。
「な……」
「龍閃が『死神』を手に入れた。私が時間稼ぎをする必要はなくなった。だから召鬼としての束縛から解放された」
「未琴!」
 抑揚のない声で独白する未琴に元に冬摩は慌てて駆け寄る。そして脚が崩れ落ち、立っていられなくなった未琴の体を受け止めた。
「冬摩、お前の言う通り死んだ者は二度と生き返らない。守ってやれ『死神』の保持者を。彼女はお前を必要としている」
「未琴! 待ってくれ! 死ぬな! 死なないでくれ!」
 泣き出しそうな顔になりながら、冬摩は未琴を抱きかかえて懇願する。その冬摩の顔を未琴の左手がそっと撫でた。
「お前にそんな顔をされると私だって辛い。それに私はすでに一度死んだ身。元の土に還るだけだ」
「ダメだ! 頼むから簡単に諦めないでくれ!」
 未琴の頬に雫がこぼれ落ちる。それが自分の流した涙だと気付くのに数秒を要した。
「変わったな、冬摩。昔のお前は涙など流すような軟弱者ではなかった。あの仁科朋華とかいう女の影響か?」
 はにかんだような笑みを浮かべて未琴は小さく笑う。その拍子に冬摩の頬にあててた左手が崩れ落ちた。
「大切にしてやれ冬摩。お前の心にそこまで入り込んだ彼女のことを」
 左腕が全て崩れる。下半身はすでに無くなっていた。
「さよならだ、冬摩。短い間だったが、お前にまた会えて嬉しかった」
 胸までが消える。首、顎先、鼻、そして――
「未琴!」
 冬摩の手に残ったのは褐色の土だけ。未琴だった物は完全に意思を失い、物言わぬ土塊と化した。
 茜色に染め上げられた草原の中、冬摩は手の中の土をきつく握りしめ、沸き上がる怒気を溜め込むように息を吸った。
「お兄ちゃん……」
 遠くで見ていた麻緒が申し分けなさそうに近寄り、恐る恐る冬摩に声を掛ける。
「さっき龍閃が『死神』を手に入れたって……」
「ああ」
 鋭い視線で屋敷の方角を見ながら顔を上げ、冬摩はゆっくりと立ち上がった。
「未琴は守ってやれと言っていた。多分、仁科朋華はまだ死んじゃいない」
「うん……」
「いったん戻るぞ」
 玲寺と久里子は龍閃に殺されたのだろうか。ならば自分と麻緒二人で龍閃を相手にしなければならなくなる。
(仁科朋華、お前には聞きたいことがあるんだ。だから、そのついでに助けてやるよ。未琴の遺志でもあるしな)
 自分にそう言い聞かせ、冬摩は来た時以上の早さで下山を始めた。




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