貴方に捧げる死神の謳声

BACK NEXT TOP


四『三人目の召鬼』


◆血戦 ―荒神冬摩―◆
 ――どうして……どうして、そんなに簡単に人を殺せるんですか……。
 朋華がその言葉を発したのはいつだったか。もう随分前のように思える。
 外は叩き付けるような雨だった。冬摩は自室でぼんやりと窓の外を見ながら、暗雲の立ちこめる空に視線を移した。灰色に染まった広大な空間はまるで今の自分の心境を代弁してくれているかのようだ。
 ――それでもいい……。人殺しになるくらいなら、殺された方がましです。
 最初に朋華からその言葉を聞いた時、本気で頭がおかしいんじゃないかと思った。だが、未琴を傷つけなければならない立場に追いやられた時、自分も同じ事を考えていた。
(未琴を傷つけるくらいなら死んだ方がましだ、か……)
 彼女からの攻撃を受けながら、冬摩は心の底から思っていた。例え仮初めの肉体ではあっても未琴であることには変わりない。冬摩は未琴の仇をとるために今まで生きていた。その彼女を傷つけるくらいならば……。
 ――変わったな、冬摩。昔のお前は涙など流すような軟弱者ではなかった。
(変わった? 俺が? バカ言うな)
 無骨で、不器用で、面倒くさがりで、直情的で、短絡思考で、粗雑で、凶暴で。
 自分を形容するのに相応しい単語はよく知っている。しかし、その中に『軟弱者』という文字は見あたらない。
 ――あの仁科朋華とかいう女の影響か?
(弱っちいくせに、『死神』も使いこなせないようなヘタレのクセに、テメーを守ることも出来ないようなクソッタレのクセに)
 ――荒神さんはいつからなんですか。
(口だけは達者な、嫌な奴だ)
 朋華が時折見せる強い意志。冬摩の中で、それはどこか未琴通じるなどという生易しい物ではなくなっていた。未琴本人から言われている。そんな気さえするのだ。
 ――荒神さん! 殺しちゃダメです!
(殺しちゃダメ? おいおい、ふざけるのもいい加減にしろよ。ケンカ売ってきた奴に情け掛けてどーするってんだよ)
 だが、冬摩は殺さなかった。調子が悪かったわけでも無い。単なる気まぐれでもない。自分の意志で殺さないでおこうと決めた。 
 ――大切にしてやれ冬摩。お前の心にそこまで入り込んだ彼女のことを。
(未琴……)
 腕の中で崩れ行く未琴が最期に残してくれた言葉。
 自分は朋華に感化されている。認めたくはないが仕方ない。いつの間にか冬摩の中で、仁科朋華という存在が大きくなりつつある。あの脆弱で、気弱な朋華が冬摩にもたらした物がある。
(そいつを、聞かねえとな……)
 自分はいったい何を考えているんだろう。少し前なら、そんな物どうでもいいと鼻で笑い飛ばしていたはずだ。だが、今はソレが無視できないほど冬摩の体に強く根を張っている。
 ――貴方を、みすみす死にに行かせるような事だけはしたくないんです。
 あの時、朋華は本気で冬摩を心配していた。
(そういう言葉はまず自分を守れるようになってから言うモンだぜ)
 ハーフミラーになった窓ガラス。そこに映った自分の顔が苦笑するのが見えた。
 魔人の血を引き、強大な力と圧倒的な生命力を誇る冬摩。それ故、他人から頼りにされることはあっても、心配されたことなど無かった。
(初めて言われたのがあんな雑魚とあっちゃあ、末代までの笑いモンだぜ)
 自嘲めいた笑みを浮かべて冬摩は窓から離れ、ベッドに腰掛けた。その重みにスプリングが不満を漏らす。両肘を膝に乗せ、目の前で組んだ手で顔の下半分を覆った。
 ――約束してくれたじゃないですか。私の側にいてくれるって。
(そう、だったな……)
 確かにそう言った。冬摩の方から。
(お前が龍閃の側にいる以上すぐにでも行ってやっからよ。龍閃のヤローをブッ殺すついでに助けてやるよ)
 だが、行こうにも居場所が分からない。以前感じていたような強烈な邪気は欠片も無く、『死神』の位置を知ろうにも『千里眼』を使える久里子の意識は未だに戻らない。
 今から二週間ほど前になる。龍閃がこの屋敷を襲撃したのは。
 その時、屋敷にいた退魔師は久里子と玲寺のみ。だが二人の攻防虚しく、龍閃は朋華を連れ去った。その時の戦いで玲寺は左腕を骨折、全治一週間の怪我を負った。久里子の方は目だった外傷はない。せいぜい倒れた時の軽い打撲程度だ。だが、意識だけが戻らない。まるで魂を抜かれてしまったかのように。
 恐らく龍閃に呪的な封印を施されたのだろう。麻緒と玲寺がその解呪に当たっているが、治るめどは付いていない。
(仁科朋華……)
 心の中で朋華の名前を呼ぶ。
 龍閃が何故『死神』を欲するのかは知らない。だが朋華がまだ生きていることだけは確かだ。『死神』だけが欲しいのであれば、屋敷に来た時に朋華を殺せば済む話だ。式神や神鬼を保持者から奪うには、ソレが最も手早い方法なのだから。ソレをしなかったということを説明できる理由は一つしかない。
 冬摩達をおびき寄せ、朋華を人質とすること。
 自分にとって邪魔な存在を一蹴した後で、ゆっくりと『死神』を喰らうつもりなのだろう。
(クソ、オヤジ……)
 二週間前に戦った時、龍閃は本気ではなかったが冬摩は敗走を強いられた。それ程の力を持っていてなお姑息な手段に出る。冬摩には理解できなかった。だが、今だけは龍閃の奸計に感謝している。そのおかげで朋華が生き長らえることが出来ているのだから。
 左腕を見る。無数に走った裂傷。この二週間、気を抜けば暴発しそうになる激情を何とか押さえ込むために冬摩が刻んだ憤怒の証。久里子の回復を待つ以外に方法がない現状に対する不満を己の身に叩き付ける事で、冬摩は何とか理性を保つことが出来た。言いようのない焦燥と昂奮を、龍閃への恨みへと転化させることで辛うじて繋ぎ止めておくことが出来る程か細い自我。だが、限界は近い。
(ちゃんと生きてろよ、仁科朋華)
 ギリ、と奥歯を噛み締め、冬摩はサイドボードに置かれたナイフに手を伸ばした。

 それから、更に一週間後だった。久里子が目を覚ましたのは。
 メルヘンチックな自室のベッドに上半身だけを起こし、久里子が観た朋華の位置は、この屋敷から百キロ以上離れた山麓の樹海の中だった。
 とりあえず朋華が生きていることが分かり、麻緒と玲寺が安堵の息を吐くのが聞こえる。
「ちょっと待ち、冬摩」
 頭が痛むのか、しきりに顔を振りながら久里子は部屋を出ようとした冬摩を呼び止めた。
「なんだよ。まさか行くなって言うんじゃねーだろーな」
 今すぐにでも体を動かさないと爆発しそうだ。止めるのであれば誰だろうと容赦はしない。
「アホ言うな。今回はウチも行くで」
 愛用のサングラスを掛け、久里子がベッドから這い出る。
 久里子の力の発生点は『瞳』。視界に映る物すべてが対象となる。それ故、久里子の能力を攻撃に使用した場合、狭い場所や近くに一般人が居る所では味方や無関係の人間に被害を及ぼすことになりかねない。だが、今回龍閃がいる場所は誰もいない広大な樹海の中。久里子の広範囲無差別攻撃も遠慮なく使える。
「勝手にしろよ」
 吐き捨てるように言って冬摩は部屋を飛び出した。
 もう、これ以上体を動かさないで居たら発狂しそうだ。龍閃への憤り、朋華への想い。そして――
(今夜は、紅月だ)
 二ヶ月に一度の周期で紅く染まる満月。魔人や召鬼に抗しがたい昂奮と殺戮衝動を与え、尋常ならざる力を発揮させる。
 屋敷から出て密林の中を疾走する。すぐ後ろから玲寺と麻緒、そして久里子が着いてくる気配があった。だがソレもどんどん後ろに遠ざかっていく。一瞬でトップスピードに乗った冬摩の脚に、退魔師とはいえ人間が着いてこられるはずもない。
(絶対に、コレで終わりにしてやる)
 確かな思いを胸に冬摩は密林を抜け出し、街を離れた。

 樹海についたのは、日が大分傾き始めた時だった。
 たどり着いた樹海は土御門財閥の洋館を覆う密林よりも更に深く、濃密な邪気が立ちこめている。湿気を帯びた空気が体にまとわりつき、名状しがたい不快感を冬摩に与えた。
 幹線道路から冬摩の脚で十分ほど林道へとそれ、地元の人間すら足を踏み入れたことのない様な獣道を更に五分程走った所に二本の石柱がぞんざいに埋め込まれていた。
 門のような風格を持つ石柱の間を通った向こうから、空気の重さが変わっている。久里子でなくてもここまで近づけば『死神』の波動を追うのは容易い。例え方向感覚を狂わされたとしても、すぐに修正出来るだろう。
「待ってろよ……」
 すでに何時間も走り続けているというのに全く息を切らすことなく、冬摩はコレまでと変わらないスピードで樹海を駆けた。
(たかが三週間程度の時間をこんなに長く感じたのは初めてだ)
 千年以上生きている冬摩にとって、本来ならば三週間など一瞬の出来事だ。だが、何もせず一日一日を無為に過ごし、苛立ちと怒気をただひたすら押さえ込む作業は想像を絶した。自分ですらこうなのだ。龍閃に捕らわれてる朋華にとってはまさに悠久とも思える地獄のような時間だっただろう。
(『死神』の力で何を企んでるのかは知らねーが、何があってもブッ殺す!)
 これだけ時間に余裕があったのだ。龍閃の願いはまず叶っていると考えて良いだろう。
 最凶の魔人であり、多くの式神や神鬼を宿す龍閃がこれ以上何を望むのかは知らないが、それが冬摩にとって喜ばしくない事であることだけは確かだ。
 自らが唱えた人間との共存を破棄し、未琴の死を弄び、そして朋華をさらった。あまつさえ彼女を人質にまでしようとしている。鬼畜という言葉がこれ程見事に当てはまる存在は他にいない。
 自分の力の発生点が『痛み』ではなく、『怒り』であればと心の底から思う。もしそうなら、少なくとも龍閃に対しては限界を遙かに超えた力を出せるだろう。
(大分、近づいてきた)
 『死神』の波動の側に、禍々しい邪気を感じ始める。まず間違いなく龍閃の物だろう。体を前傾させ、更に加速しようと構えた時、急に視界が開けた。
「ん……?」
 樹海の中に不自然に開いた半径十五メートルほどの空間。まるで冬摩を待ちかまえるために用意した、特設会場のように見えた。
「随分と足が速くなったじゃねぇか。まさか追い抜かれてるとは思わなかったぜ」
 無数に乱立する木々。その一つに背を預け、腕組みしている男に冬摩は声を掛ける。
「あーら、そぅ? まぁ、私は近道知ってたからね」
 短く切りそろえた黒髪を指の先で梳きながら、篠岡玲寺は柔和な笑みを浮かべて冬摩に近寄ってきた。
「久里子と麻緒はどうした」
「途中ではぐれちゃって。私の足に着いてこられなかった、み・た・い」
 妙なシナを作りながら歩き、玲寺は冬摩から五メートル程離れた位置で足を止めた。
 そして玲寺から薄ら笑いが消える。右脚に体重を傾けて背筋を伸ばし、半身を引いて両手を僅かに広げる。顎を引いて眼を大きく開き、下から冬摩に鋭い視線を向けた。
 それは玲寺が戦いを始める前の構えだった。
「冗談は性格だけにしとけよ」
「冗談などではありませんよ」
 両手を大きく広げて肩をすくめてみせる冬摩に、玲寺は真剣な口調で続ける。
「正真正銘、私は貴方の敵です」
 そう言いきった次の瞬間、膨大な邪気が立ち上った。以前に同じ物を感じたことがある。未琴から、そして龍閃から。
「テ、メェ……!」
「おかしいとは思わなかったのですか? どうして龍閃が『死神』の覚醒と同時にタイミング良く動き出したのか。なぜ、貴方が連れ帰ってきたばかりの『死神』を龍閃があそこまで早く知ることが出来たのか」
 構えを崩さないまま、玲寺は淡々とした口調で喋り続ける。
「どうして龍閃がああも簡単に土御門財閥の結界を抜け、屋敷にたどり着けたのか。そしてどうして、この紅月の日に久里子が目を覚まし、龍閃の場所を貴方に教える事が出来たのか」
「全部、テメーの仕業って訳か」
 屋敷内に内通者が居たのだ。こちらの行動や情報は全て龍閃に筒抜けだった。
「だが龍閃との戦いで俺を助けたのは何故だ」
 墓場で龍閃と戦っていた時、負けそうになった冬摩を玲寺は助けてくれた。
「あれは貴方を助けたのではありませんよ。龍閃を助けたんです。あのまま戦えば、傷の癒えていない彼が負けるのは目に見えていましたからね。ソレも分からないほどに貴方は頭に血が上っていたんですよ」
「傷が癒えていない?」
「おや、やはり気付いて無かったんですね。龍閃は未だ二百年前の傷が癒えきっていないのですよ。だから自分では直接戦えず、式神や神鬼に頼った。まぁ『死神』を手に入れた以上、さすがに完治にしているとは思いますが」
 勝てていた。あのまま押せば勝てていたかもしれない。恐らく黒いマントの下は、爛れた肉と、破損した臓器で埋め尽くされていたのだろう。それに気付かれないために、あそこまで大袈裟なマントを羽織っていたのだ。
「魔人や召鬼にしか感じ取れない波動で貴方をおびき出し、龍閃と直接戦わせることで彼の気配を鮮烈に灼き付ける。そうすれば二度目に同じ気配を感じても殆ど疑問は抱かない。貴方のような性格であれば、なおさら」
 言いながら玲寺は小さく笑みを浮かべ、挑発するように龍閃と全く同じ気配を増幅させる。こんな事が出来るようになる方法は一つしかない。
 未琴のように、龍閃の召鬼となるしか。
「何故、龍閃のヤローに付きやがった」
「理由が欲しかったんですよ。貴方と敵対するために自分を納得させる理由が。味方同士ではお互いに本気を出せませんから」
「そんなに俺に殺して欲しいのか」
「それが出来るのであればどうぞ」
 大気が震えた。冬摩がさっきまでいた地面が大きく抉れ、姿は完全に消えてしまっている。僅かコンマ数秒で、冬摩は玲寺の距離をゼロにしていた。
 左腿に添えた右腕を下から逆袈裟に振り上げる。しかし冬摩の裏拳は、上体をわずかに逸らせた玲寺の鼻先を掠めて空を切った。流れる右拳の勢いに乗せ、左膝を玲寺の太腿に叩き込む。
 衝撃はあった。だが軽い。
 玲寺の両足が地面から離れていた。踏ん張ることなく冬摩の蹴撃の力を利用して、玲寺は体を半回転させると頭を下にもってくる。そして逆立ちの状態で口を開けるのが見えた。
「ガアアアァァァァァァァァ!」
 人間の音域を遙かに逸脱した獣吼。次の瞬間、白い閃光が冬摩の体を包んだ。龍閃の戦いを邪魔した物と全く同じ。それを反射的に身を屈めて直撃はやり過ごすも、閃光は右肩を灼いていく。
 肉の焦げる匂い。だがまるで気にした様子もなく、冬摩は低い体勢から鉤状に曲げた右拳を玲寺の顔面に繰り出す。
 玲寺は両手を交差させることでソレを受け止め、その反動を利用して冬摩から距離を取った。空中で華麗に体を反転させ、バックステップを踏みながら体勢を整える。
「言っとくが手加減はしねーぞ。俺は今機嫌が悪いんだ」
 両目に壮絶なモノを宿し、冬摩は凄む。
「勿論、そうでなくては困ります」
 余裕の表情を浮かべたまま、玲寺は大きく息を吸い込んだ。
 玲寺の力の発生点は『声』。拡声させて広範囲に影響を及ぼすことも、さっきのように集約させて威力を高めることも自在だ。召鬼になることで人間離れした声力を身につけた玲寺の実力は以前によりも格段に上がっていると考えて良いだろう。
「使役式神『貴人』召来!」
 玲寺の喚び声と共に衝撃波が生まれ、大量の砂塵が舞い上がる。それが冬摩の視界を狭窄し、玲寺と十二神将『貴人』の位置を包み隠した。だが、所詮は小手先の技に過ぎない。
「そこだぁ!」
 力の気配を感じ取り、冬摩は左後ろに右腕を突き出す。指先に伝わる冷たい感触。本能的に危機を感じ手を引こうとした時、右拳に強烈な痛みが走った。
「チッ!」
 舌打ちをし、それでも強引に引き抜く。右肘から先が凍結していた。体内が凍る事で出来た針状結晶が細胞レベルで冬摩の腕を蝕んでいく。
「ヘタに触ると、貴方の大切な力の作用点が失われますよ」
 突然降り始めた雨により、粉塵が空気中から洗い流されて行った。悠然と構える玲寺の側には、エイが立ち上がったような魚影を持つ水生命体『貴人』が浮遊していた。
 雨は『貴人』の体に吸い込まれるようにして止む。無重力空間に水をブチ撒けたように、中空で不自然に水が固定化されてた。全身を水だけで構成された『貴人』は流動的な表面を夕日で煌めかせて、玲寺を守るように前に移動する。そして、ヒレのような両手を広げた。
 それに応えるように、冬摩の周囲に局地的な雹が吹き荒れる。
 冬摩は体を丸めて右腕を庇い、左腕で顔を隠した。眼球への傷を無くすために。そして、笑っているのがバレないように。
 『痛み』が冬摩の理性を駆逐していく。全身を氷の刃に貫かれ、自らの血に酔って昂奮し始めた本能が殺戮衝動を掻き立てる。目の前の邪魔者を殺せと激昂している。
「っしゃあぁぁぁぁ!」
 叫声を上げ、『痛み』を心地よいとさえ感じながら冬摩は玲寺に向かって跳び出した。
 右腕に力を集中させ、エネルギー塊を生む。発生した膨大な熱量が凍った右腕を融解し始めた。細胞が冬眠から覚醒への叫び声を上げ、締め付けられた腕が『痛み』を連鎖的に生み出す。
 スピードに乗ったまま右腕を『貴人』に向かって突き出した。手応えは無い。だが、関係ない。
「オオオオオォォォォォォ!」
 『貴人』の体に腕を埋め込んだまま、右手の熱量を更に増幅させる。血液が沸騰し、内側から皮膚を食い破って噴出した。冬摩の右腕に収束した莫大な熱が『貴人』の体を蒸発させて行く。
「さすがですねぇ」
 薄ら笑いすら浮かべている玲寺の首を左腕で捕らえた。そして徐々に力を込めていく。爪が皮膚に食い込み、プツッと紅い点を穿った。
「やはり龍閃などとは違う。貴方は強い。それでこそ殺し甲斐がある。いいんですよ、それで」
 口の端をつり上げ、不敵な笑みを浮かべる玲寺の表情に冬摩の激憤が頂点に達する。じわじわと絶息させ、命乞いさせようという考えが一瞬で吹き飛んだ。
 『貴人』を完全に蒸発させ終えた後で目を大きく見開き、玲寺の首をへし折るつもりで左手に力を込めようとした時、急に視界が歪んだ。
「なん、だ……」
 まるで脳が大きく揺さぶられたように世界が周り、重力が何倍にもなったように感じる。吐き気がして、耳の奥が甲高い音を奏で始めた。
 気が付くと目の前に地面があった。いつ倒れ込んだのかも理解できぬまま、冬摩は自分を睥睨している玲寺を睨み付る。
「私の力の発生点が『声』というのはご存じでしょう? それでもなお接近戦に持ち込もうとするのは非常に貴方らしいのですが、やはり少々無茶でしたねぇ」
 冬摩の腹に玲寺の爪先が食い込んだ。鍛え上げられた冬摩の腹筋をものともせずに、内臓を揺さぶる。
「っか……」
 押し上げられた臓器で肺が圧迫され、口から自然と呼気が漏れた。体が空気を吸い込む前に更に一発、鳩尾に入る。そしてもう一発と、玲寺は無表情のまま立て続けに冬摩の腹を蹴り続けた。
「三半規管を私の『声』で揺さぶられた感触はどうですか? いくら貴方でも立っていられないでしょう。まぁ、気を失わないだけ大したものですが」
 三半規管――それは耳の奥にある平衡感覚を司る器官。玲寺は冬摩の側で『声』を発し、その器官を大きく揺さぶることで冬摩から平衡を奪った。
「こんな小手先の技なんざ……」
 体は言うことを聞かない。だが、力は入る。そして、手を伸ばせば掴める距離に玲寺が居る。自分の腹を蹴り続けている玲寺の足に目をやり、タイミングを見計らって掴もうとした時、こちらの意図を察したようにスッと引かれた。
「なるほど、まだ力は有り余ってますね。ですが龍閃は次で降参しましたよ。貴方はどうですか?」
 龍閃。その言葉で冬摩の中に熱い物が駆けめぐった。
 目を瞑る。揺れ動く景色が遮断され、平衡感覚のズレが幾分緩和された。体で重力の位置を再確認し、冬摩はゆっくりと立ち上がる。
 今の玲寺の口振りだと、まるで龍閃と戦った事があるように聞こえた。そして倒す寸前まで行ったとも。
「テメェ……何、隠してやがる」
 だが龍閃は生きてる。紛れもなく。ならば玲寺があえて生かしたことになる。
「さぁ? 雑魚の言葉など私の耳には届きませんね」
 暗い世界の向こう側で玲寺の嘲りの声が聞こえてくる。
 奥歯を噛み締め、冬摩は息を細く深く吸い込んだ。そして開眼する。
「なら吐かせてやらぁ!」
 犬歯を剥き出しにして冬摩は玲寺に向かって跳ぶ。視界は殆ど正常だった。さっきまでしつこくまとわりついていた重力からの不愉快な誘いはもう、無い。
「ッな!」
 初めて玲寺の顔に動揺が浮かんだ。
 冬摩の異常な回復速度に驚愕し、慌てて距離を取ろうと後ろに跳ぶ。しかし遅い。玲寺が後退する倍以上の速度で冬摩が急迫する。腰に位置に溜めた右拳を鉤状に曲げ、弧を描いて上から回転させるように振り下ろした。
「オラアァァァァァ!」
 指先が肉に食い込む感触。僅かに生まれた抵抗をあっけなく呑み込み、冬摩は右腕を振りきった。玲寺の胸が大きく裂け、白いコートを紅く染めていく。絶叫を上げようと口を開きかけた玲寺の顔が、まるでスローモーションの様に冬摩の視界に映った。
「けっ!」
 左の掌底で玲寺の顎を下から突き上げ、半開きになった口を強引に閉じさせる。そのまま首を掴み上げて玲寺の体を宙に浮かせると、振り下ろしきった右腕を返し、先程と全く同じ軌道を通した。更に深くなった大きな裂傷から、噴水のように鮮血が吹き出す。そして首を固定していた左手を離した。
 緩慢な動きで玲寺の体が、徐々に宙に浮かんでいく。
「っはぁ!」
 狂気的な笑みを満面にたたえ、冬摩は玲寺の顔を右手で掴むと、出しうる膂力を全て注ぎ込んで大地へと叩き付けた。
 指の間から、玲寺の吐き出した血が重力に逆らって漏れ出す。それを視界に収めて冬摩は満足げに笑うと、ゆっくり手を離した。
「どっちが雑魚か、身に染みたか」
 小さなクレーターの中に一メートルほど体を埋めた玲寺を見下ろしながら、冬摩は鼻を鳴らして吐き捨てる。
「な、なるほど。それが『鬼蜘蛛』のもたらす回復力ですか……」
 一瞬にして満身創痍となった玲寺は苦痛に顔を歪めながらも、しっかりとした口調で喋った。
「さぁて話して貰おうか。お前が龍閃と何をやらかしたのか」
 四肢を投げ出して力無く地面に身を沈ませている玲寺に言いながら冬摩は腕を組む。そんな冬摩を見て玲寺は挑発的な笑みを浮かべた。
「トドメを刺さないなんて……随分と甘くなりましたね!」
 玲寺の咆吼から生まれた力が大気を揺らして冬摩を襲う。しかし冬摩は目を細め、少し身を引いてやり過ごした。
「そんな見え見えの攻撃なんざ……」
 冬摩の言葉がそこで途切れる。突如として背中に叩き付けられた圧力で息が詰まり、前のめりに倒れ込んだ。そして突き出た冬摩の顎先を玲寺の蹴撃が捕らえる。
 蹴り抜いた力の流れに身を任せ、玲寺は後ろ向きに転がると片膝を着いた状態で起きあがった。さらに後ろに跳んで冬摩から距離を取る。
「ッガアァァァァァァ!」
 遠くで上がる玲寺の獣吼。まるででたらめの方向に向けて放たれた力の波動は、一呼吸置いて冬摩の腹に着弾した。それに押されて大きく後ろに吹き飛ばされる。足を踏ん張って受け止めようとした冬摩の体は、背中に生じた冷たく硬い衝撃によって止まった。
「こい、つは……」
 内臓にわだかまった怖気を生じさせる胎動に顔をしかめながらも、冬摩は辺りを見回す。
 いつの間にか氷のドームが冬摩と玲寺を包み込んでいた。
(氷……『貴人』……)
 蒸発させた玲寺の式神の能力を思い出す。水と氷を自在に扱うことの出来る能力。さっき体を気化させたのは恐らくは故意。この閉鎖空間を生み出すために身を削ったのだ。
「解放された場所では私の『声』はいずれ拡散し、衰えてしまう。こういう閉じた場所でこそ私の力を最大限に発揮できるのですよ!」
 エコーがかった玲寺の叫びが、氷結のドーム内に響き渡る。
 さらに休むことなく立て続けに放たれる玲寺の力。『声』という媒体に乗せられた不可視の刃は縦横無尽に動き回り、全方位から冬摩を襲った。
 冬摩の頬に紅い筋が引かれる。龍の髭が切られ、束ねていた長い髪が風に煽られて大きく宙に舞った。左肩が割れて血が迸り、右の脇腹が血溜まりと化していく。
「この、ガキィ!」
 全身を駆けめぐる『痛み』。右手に集約した力に怒りを上乗せして、真後ろの氷壁に叩き付けた。そこに亀裂が走ったと思った次の瞬間、鼓膜を突き破るような爆音と共に巨大な穴が穿たれる。
 逃げ場を見つけた『声』が次々と飛び出し、冬摩を苛んでいた痛みが引いていった。
「こんなモンで……」
 再び玲寺を睨み付けた冬摩の後ろで、小さく乾いた音が立て続けに撒き起こる。そちらに目をやると、さっき開けたはずの穴が完全に塞がっていた。
「お忘れですか? この空間自体、私の式神で出来ていると言うことを!」
 耳をつんざくような玲寺の怪吼。先程よりも数段強い力が明確な殺意を伴って、冬摩に襲いかかった。思わず反射的に左手で顔を庇う。そして右手だけで印を組み、眼前に大きく突き出して叫んだ。
「使役神鬼『鬼蜘蛛』召来!」
 冬摩の喚び声に応え、鰐の顎を持った巨大な黒い蜘蛛が現出する。『鬼蜘蛛』は冬摩の前に立つと、八本の脚でしっかりと地面を捕らえて体を固定化させた。
「そんな物が盾になるとでも思っているのですか!」
 悦に入った玲寺の『声』。それが冬摩の体を削り取り、肉を剥いでいく。
 両手を交差させて身を沈め、圧倒的な攻撃に耐えながら冬摩は深く息を吸い込んだ。そして低い声で長く唸り声を上げる。それに反応するかのように『鬼蜘蛛』も全身を奮わせて猛獣のような叫び声を発し始めた。
「ハッ! 私の声をかき消すつもりですか!」
 玲寺の声に喜色が混じる。勝利を掴んだと思っているのだろう。冬摩が手も足も出せずに無駄な足掻きをしていると。
 冬摩と『鬼蜘蛛』の叫び声は続く。冬摩は音程を徐々に高め、『鬼蜘蛛』は平坦な声から波打つ物へと。
 冬摩の右腿が内部爆発を起こしたように爆ぜる。『鬼蜘蛛』の左足が二本吹き飛んだ。冬摩の額が割れ、顔を紅く染めていく。『鬼蜘蛛』の腹が破け、ドロリとした体液が足下に染みを作っていった。
 その直後、冬摩は確かに聞いた。氷が僅かにひび割れる音を。
「ここだぁぁぁぁぁぁ!」
 カッと大きく目を見開き、冬摩が一際大きな絶叫を上げる。それと全く同じ音を『鬼蜘蛛』も発声していた。
 ひび割れの音が加速度的に大きくなっていく。
『ガアァァァァァァ!』
 冬摩の獣吼。玲寺のソレよりも遙かに厚みがあり、甚大な振動を生み落とした『音』が力となって氷のドームに無数の亀裂を走らせる。
「な……」
 信じられないと言った表情になり、玲寺の声が止んだ。脆いガラス細工の様に、あっけなく崩壊していく氷の城を呆然と見ながら、玲寺は呟いた。
「こ、固有振動数……それを探っていたというのか」
 固有振動数――物体が振動する際に発する特定の振動数。その物体の持つ固有振動数と全く同じ振動を外部から加えると物体は共鳴を起こし、激しく振動する。
 『貴人』の生み出した氷の固有振動数を、冬摩は自分か『鬼蜘蛛』の声で見つけだし、激しく共鳴させることで氷結のドームを崩壊させた。
「さぁて、玲寺……。お得意の大道芸はこれでネタ切れか?」
 全身を紅く染め、肩で息をしながらも冬摩は嬉しそうに笑っていた。それは見る物を震撼させる悪魔の笑み。血と痛みと力に溺れ、冬摩の精神は際限なく昂揚していった。
「く……」
 龍閃を倒したという必勝の技を意外な形で撃ち破られ、玲寺は一歩後ずさった。それを見た冬摩の双眸が殺戮の悦びに染まる。
 右太腿の深い傷口から出血するのも構わずに、驚異的な脚力で玲寺との距離を詰める。一歩で半分に。その場所で両手を地に添え、脚力に腕力を上乗せして一気にトップスピードまで駆け上がった。
 割れた額で何の躊躇いもなく玲寺の鼻先に突進する。何か硬い物が砕ける感触。頭の傷が更に大きくなり紅い霧が吹き出した。そしてそれ以上の鮮血が、玲寺の鼻と言わず、目と言わず、口と言わず、顔全体から吹き荒れる。
「どうしたぁ! 玲寺!」
 『痛み』はすでに十分すぎるほど有る。哄笑を上げ、兇悪な顔つきになって冬摩は右拳を玲寺の腹にめり込ませた。
「……ぅぐぁ」
 くぐもった唸り声を上げ、躰をくの字に曲げて宙に浮かされた玲寺の口から、泡を含んだ緋色の流水がこぼれ落ちる。
「前にやり合った時は力を抜いていたなぁ。お互いによ!」
 玲寺の腹に埋め込んだ拳を九十度回転させ、足の力で押し上げて躰ごと上空に投げ出す。そして追撃をかけるために冬摩も跳んだ。玲寺は自分を守るように腕を躰に密着させるが、その上から冬摩の右拳が突き刺さる。
 重い手応え。そして破砕音。玲寺の両腕を骨ごとへし折り、その奥に冬摩の凶撃が届いた。
「……っは」
 空気が抜けるように玲寺の声が漏れる。最初に受けた胸の大きな裂傷が更に開き、鮮血がシャワーのように冬摩に降り注いだ。それを賛美歌でも聞くかのように恍惚とした表情で浴びながら、冬摩は着地する。二呼吸ほど遅れて玲寺の躰が落下し、地面に叩き付けられた。
「龍閃と何があった」
 呼吸すら満足に出来ないであろう玲寺に向かって、冬摩は低い声で言う。
 玲寺は草むらのベッドに身を預け、焦点のあっていない目で天を仰ぎながら小さく笑った。
「フフ……かないませんね。貴方には」
 目を閉じ、諦めに似た表情を浮かべて玲寺は躰を弛緩させる。そして重い溜息をついて過去を回想するかのように薄く眼を開いた。その視線の先で数多の思考が渦を巻き、何かを懐かしんでいるようにさえ見える。
「今日みたいな、紅月の日でしたよ……。私が初めて龍閃と出会ったのは」
 消え入りそうな声で玲寺は語り始めた。
 三年ほど前の紅月の日。玲寺は偶然仕事でこの樹海に来ていた。荒れ狂う地霊を封印し終え、帰ろうとした時に龍閃の力を感じた。恐らく、地霊も紅月の日の龍閃に影響されて獰猛になっていたのだろう。
「躰が震え上がりしたよ。恐怖と、昂奮で」
 龍閃――それは退魔師にとっての最後の敵。彼を倒すことは退魔師からの解放を意味する。
「気が付けば、私一人で龍閃の前に立っていました」
 玲寺は龍閃と戦い、見事に勝利した。龍閃は二百年前の傷から未だに立ち直っていなかったのだ。ろくに力の出せない龍閃が『悦び』を感じられるはずもなく、玲寺の力に圧倒されてあっけなく沈んだ。
 そして――玲寺は絶望した。
 こんな物なのか。自分はコレまで、こんな物のために退魔師を続けてきたのか、と。千年以上に渡る膨大な怨恨の記憶を受け継ぎ、異端の道を歩むことになった自分にもたらされた報酬は、あまりにあっけない勝利。
 満たされなかった。
 この力を思う存分に発揮できる相手が欲しかった。
「そこで貴方に目を付けのですよ」
 自嘲気味に笑いながら、玲寺は血の滲む口の端をつり上げた。
 魔人の血を引き、傷の癒えきっていない龍閃より遙かに強大な力を秘めているであろう存在、荒神冬摩。圧倒的な力と、揺るぎない精神力で鬼神の如く敵を薙ぎ倒す冬摩に玲寺は畏怖の念すら抱いた。そして愛おしいまでに感じるようになり、だからこそ戦いたくなった。
 自分の力を確かめるために。
 冬摩に勝てれば満足できる。自分は強いのだと確証が持てる。そのためならば何でもする。
「だから龍閃の召鬼になったのですよ。さらなる力を手に入れるために。そして、心の底から貴方と敵対するために、ね」
 言いながら玲寺は、足と腹筋だけで体を起こして立ち上がった。そして薄く目を見開いて冬摩を見据える。
「紅月の日は良い。召鬼になったからこそ味わえる得体の知れない昂奮。貴方にも分かるでしょう?」
 喜悦に顔を歪ませて、玲寺は底冷えするような笑みを浮かべた。
「そんなくだらねー理由で龍閃につきやがったのか。じゃあ満足したろ。とっとと失せな」
 興味無さげな顔つきになって、冬摩は玲寺を追い払うように手を振る。
「一度斬り結んだ相手には死を与えるまで終わらせない。少なくとも私が知る荒神冬摩はそう言う人物でしたよ」
 折れた両手をダラリと下げ、玲寺は挑発的な口調で言う。
「うっせーな。気分じゃねーんだよ。いいから消えろ」
 不機嫌さを露骨に滲ませ、冬摩は面倒臭そうに返した。
「紅月の日だというのに? まったく貴方らしくもない。だから、こんなにも簡単に私の術中に嵌るんですよ」
「なにぃ?」
 玲寺の言葉に反応して、冬摩は剣呑な目つきで射抜く。
「コレで私に勝った、と思わないでくださいね」
「両手ぶら下げてる奴の言うセリフじゃねーな」
 半眼になって言う冬摩の言葉を一蹴するかのように、玲寺は嘲笑を浮かべながら馬鹿にしたように鼻を鳴らした。その不遜な態度に冬摩のこめかみが痙攣を起こす。
「そんな顔をしないで。遠慮せずに撃ってくればいいじゃないですか。さぁ」
 全身血にまみれた凄絶な姿のまま、玲寺は冬摩が攻撃しやすいように両腕を広げた。骨折した腕が重力に引かれて、糸の切れた人形のように不自然に下がる。
 ソレを合図に冬摩が前傾姿勢をとった。が、バランスを崩して大きく前につんのめる。その無防備に突き出された顔面を玲寺の足が蹴り上げた。それ程大きな衝撃ではなかったが、踏ん張ることも出来ずに冬摩は仰け反り返り、地面に尻餅をついた。
「こいつは……」
 足を動かそうとして初めて自分の躰の変調に気付く。
「ようやく麻痺が全身に行き渡ったようですね」
 躰の感覚がない。手足はそこにあるのに、根本からもげ落ちてしまったかのような錯覚に襲われる。拳を握りしめるが、まるで他人の手の動きを見ているような違和感を感じた。
(あの時……)
 思い当たるのは一つしかない。氷のドームに閉じこめられ、強弱を付けて放たれていた玲寺の咆吼。恐らくはあの時、深い傷を与えると同時に冬摩の神経を麻痺させる箇所を的確に突いていた。そして、ソレが全身に伝播するのを待った。龍閃の事を語ることで時間稼ぎをして。
 しかし――
「玲寺。お前、俺を舐めてるんじゃないのか?」
 下から玲寺を睨みつけながら、ゆっくりと起きあがる。そして確かめるように何度か拳を握り込んだ。
 感覚は無い。しかし力が入らないわけではない。先程の平衡感覚の狂いと違い、視界にブレは無く相手をハッキリと捕らえることが出来る。なにより千年間も付き合って来た躰だ。感覚が無くても経験が有る。どこをどう動かせば、自分がどんな動きになるのかは熟知していた。
「貴方が麻痺くらいで怯まないのは百も承知ですよ」
 だが、玲寺は余裕の笑みを崩さないまま続ける。
「しかし、『痛み』はどうですか?」
 『痛み』――ソレは冬摩にとっての力の発生点。だが麻痺によってさっきまで感じていた『痛み』は殆ど薄れてしまっていた。
「例え今の私でも、『痛み』の無い貴方を殺すことなど造作もないことですよ!」
 玲寺の声と共に白い閃光がまき起こる。冬摩は身を捻って体を火線上から逃がし、左手だけをあえて閃光の中に置き去りにした。
 光が収まった時、冬摩の左手は出血すらしないほどに灼け爛れ、赤黒い肉を露出させていた。
 だが、『痛み』は無い。
「理解、出来ましたか?」
 浮かない表情の冬摩を見て、玲寺がほくそ笑む。
「心配しなくても大丈夫ですよ。私は龍閃の召鬼になったとはいえ意識までは呑まれていない。貴方が死んでも私がちゃんと龍閃を倒してあげますから」
 満足するためにね、と付け加える。そんな玲寺を後目に、冬摩は面倒臭そうに舌打ちした。
「玲寺、お前の負けだよ」
 そして左腕を真横に突き出す。直後、後ろで待機していた『鬼蜘蛛』が大きな跳躍を見せた。自分の位置まで来るかと構えを取った玲寺だが、すぐに訝しげな顔つきになる。
 『鬼蜘蛛』は冬摩の横に控え、それ以上突進しようという気配を見せなかった。
「何のつもりですか」
 不可解そうに目を細め、玲寺は油断無く冬摩の行動を見守った。
 何も出来ないはず。恐らくは、そう高をくくっているのだろう。
 冬摩の口が邪悪な笑みの形に歪み、狂死的な気配が宿った。冬摩の後ろで『鬼蜘蛛』が巨大な顎を上げる、そして――
「ッガアァァァァァァァァア!」
 闇の帳がおり始めた樹海に、冬摩の絶叫が響き渡った。
 玲寺は目を大きく開け、呆けたように口を開いて、血に染まっていく冬摩を見ていた。玲寺が何かをしたのではない。
 ――冬摩が自分の左腕を『鬼蜘蛛』に喰わせているのだ。
 グジュグジュという不快な音を立てて、湧き出る血と共に『鬼蜘蛛』は冬摩の左腕を少しずつ咀嚼していく。絶大な『痛み』を長い時間掛けて与えるように、ゆっくりと緩慢な動きで。徐々に、そして確実に短くなっていく冬摩の左腕。
 指先から下腕部へ。肘を通って上腕部に。そして肩まで飲み下したところで『鬼蜘蛛』は黒い粒子を残し、姿を消した。
「ック……ククク……」
 左から怒濤のように押し寄せる激痛に、冬摩は喉を低く鳴らして笑っていた。
 実に単純な話だ。麻痺して『痛み』を感じなくなったのであれば、その麻痺すら上回る『痛み』を作ってやればいい。一歩間違えれば死にすら届きそうになる『痛み』を。
「今日が紅月で良かった……」
 両目を爛々と輝かせ、冬摩が力強く大地を蹴った。
「アアアアアァァァァァア!」
 自然と声が出ていた。
 意識が白んでいく。出血からでも『痛み』からでもない。血と殺戮への衝動が圧倒的な悦楽を生み、冬摩の理性を根こそぎ刈り取っていく。
 気が付けば玲寺が地面に埋まっていた。その体に馬乗りになって右拳を振るい続ける。
 硬い何かが砕ける音と、そのたび上がる紅い飛沫。本能の命じるままに拳の弾幕を玲寺に叩き付けながら、冬摩は大気を鳴動させる哄笑を上げていた。
 視界の中で粘土細工のように玲寺の顔が歪んでいく。左腕は原型を留めないまでに摺り潰されていた。右肩に開いた風穴から、こぶこぶと鮮血が流れ出ている。そして――
「死ね」
 短く言って冬摩は玲寺の左胸に狙いを定めた。
 悪魔的な冷笑を浮かべて、鉤状に曲げた右手を振り下ろす。
 ――殺しちゃダメです!
 その右手の爪が、剥き出しになった玲寺の胸板に触れたところで冬摩の拳は止まった。
(なん、だ……)
 まるで冷水でも浴びせられたように、殺戮衝動が引いていく。
 殺してはいけない。根拠も理由もなく、無条件にその言葉が頭に染み込んでいく。
 眼前ではか細い呼吸を早い間隔で繰り返している玲寺の姿。体中の骨が砕かれ、致命的な傷をいくつも負っている玲寺に、かつての面影は形もない。
「トドメ、を……ささ、ない……ので、すか……?」
 蚊の啼くような声で玲寺が小さく言った。
 冬摩は息を大きく吸い込んで右拳に力を込める。ソレを玲寺の胎内に埋め込もうとするが、まるで縫いつけられたかのように手が動かない。
 違和感。そう。得体の知れない異物が冬摩の内側で暴れ回り、それ以上の行動を制限している。それは冬摩が過去に捨て去ったモノ。そして恐らく仁科朋華であれば知っているであろう感情。
「チッ」
 舌打ちをして、冬摩は玲寺の体から離れる。完全に興から醒めていた。
「冬、摩……?」
「死にたきゃ勝手に死ね。これ以上、雑魚に構ってる時間はねーんだよ」
 不機嫌そうに言って、玲寺に背中を向ける。
 随分と時間を食ってしまった。久里子と麻緒がまだ追いついていないと言うことはないだろう。だが、冬摩と玲寺の戦いには姿を見せなかった。恐らくは玲寺が結界か何かで自分達の場所を隠蔽したと考えるのが妥当だ。ならば龍閃の方から久里子と麻緒に接触しているかもしれない。ヘタをすれば……。
 嫌な予感が冬摩の中で潮騒のように広がっていく。
 『死神』の波動はここから五キロほどの場所に感じられた。
「とう、ま……」
 掠れた玲寺の声が、冬摩の背中にかけられた。
「なんだよ」
「その、きずで……龍閃に、勝て……ます、か……?」
 最初の方でつけられた傷口は塞がりつつあるが、失った左腕の付け根から流れ出る血の量は尋常ではない。戦闘への昂揚感が薄れていくと共に、痛みと脱力感が体を呑み込み始めた。
「くだらねー心配してないで、じっとしてろ。もうすぐ紅月がてっぺんに来る。ソレ見てりゃ、召鬼だったら死ぬこたねぇだろ」
 紅月が夜空の最頂点に達した時、魔人や召鬼への影響が最も大きくなる。それに比例して戦闘力や回復力も増強される。
 今の状態で勝機を見いだすとすればそこしかなかった。だが龍閃も魔人。ソレも自分とは違う純粋な魔人だ。
(勝てるか……)
 龍閃の傷が癒えていないことを祈るしかない。ソレはあまりに現実感のない望みだったが、今はすがるしかなかった。
「変わった、わね、冬摩ちゃん……」
 いつもの口調に戻って玲寺が呟く。
 確かに変わった。以前の自分ならば、ココまで酷い傷を負うような戦い方は絶対にしなかった。玲寺に止めを刺すチャンスは何度もあった。だが、自分の意思とは関係なく体がソレを拒絶していた。
「前の……冬摩のちゃ、んも……好き、だったけど……今の方が……もっと、好きかも」
「お前に言われても全然嬉しくねーよ」
 軽く溜息をついて、視線だけを玲寺の方に向ける。 
「ウフフ……楽しかった、わよ……冬摩、ちゃん……」
 満足そうな笑みを浮かべる玲寺を一瞥し、冬摩は樹海の中に姿を消したのだった。




空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。

BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2006 all rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system