間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第五話『え? 聞いてないんだけど』

◆東雲昴の『おっぱいが、いっぱーい。あっハッはぁ?』◆
 療養病棟七〇五号室。小梅の新しい病室。
 あの後、すぐに何人かの職員が来て病室を移してくれた。皆、一言も口を聞かず、命令された最低限のことだけを行っているようだった。彼らの表情には一様に怯えの色が見えた。恐らく、あの二人の警備員と同じように、院長から“脅し”を受けたんだろう。
「……こんな話、信じれんじゃろ? 馬鹿、みたいじゃろ?」
 肩を落とし、小梅は一度大きく息を吐いて自嘲めいた笑みを浮かべる。

 ――どうしても聞いて欲しいことがある。

 そう言われて昴は病室に留まった。少し休んだ方が良いのではないかと言ったが、小梅は首を横に振った。

 ――多分、ずっと変に思っていたことだと思うから。

 そう付け加えて話し始めた。 
 確かにこちらからも聞きたいことはあった。しかし小梅が話したくないのであれば、別に無理に聞き出すようなことはしないでおこうと思っていた。小梅が一番辛くない道を選んでいこうと思っていた。
 だが、小梅はすべてを打ち明けてくれた。
「けど……これがホントなんじゃ。ワラシは、こんななんじゃ……」
 話し終えた時にはすでに陽は落ちきり、廊下や窓から差し込む人工の光だけが室内を仄かに浮かび上がらせていた。
 影に包まれた病室。だが明かりを付けようという気にはならなかった。
 なんとなく、そうしてはいけないと思ったから。
 小梅が顔を見られたくなさそうにしていると思ったから。
「ほんに、すまんけぇ……。東雲さん……。ややこしいことに、付き合わせてもぅて……」
 か細く、啼き囁くような声。
 あの澄んだ歌声からは想像もできないほどに、弱々しく、そして儚げな……。
「ありがとうな、東雲さん……。短い間じゃったけど、楽しかった……」
 小梅のシルエットが僅かに揺れ動き、無理に明るい色を混ぜた声が静かに染み渡る。
 そこにあるのは、諦めと後ろ向きな開き直り。
「大丈夫なのです」
 昴は座っていた丸椅子から立ち上がり、両方の拳を固く握りしめた。
「小梅さんを守護霊なんかにはさせないのです。あんな生意気なチビ黒サンボの言うことなんか無視すればいいのです」
「ぇ……?」
 掠れた小梅の声。
 可哀想に。本当はそんなことしたくないと怯えていたのに、自分に心配を掛けまいと気丈に振る舞っていたんだろう。何と不憫な……。
「そうなのです。五十年入院していようが、年を取らなかろうが、小梅さんと小夏さんが同居していようが、そんなことは関係ないのです。別に守護霊の修業をするために長生きしてるんじゃないのです。幸せを沢山掴み取るために頑張っているのです。それをたまたま見付けて霊格だか何だかが高いからって、守護霊にスカウトとか無茶振りにも程があるのです」
「い、いや、ワラシは……」
「心配しなくても大丈夫なのです。僕が小梅さんを守るのです。今度はちゃんと追い返すのです。あ、これからは小夏さんとお呼びした方が良いのですか?」
「そらぁ、まぁ……東雲さんのお好きな方で……」
「なら小夏さんと呼ぶのです。これからは小梅さんも見えるように頑張るのです。『タッチパイ練る』をダウングレードさせるのです」
「あの……東雲さん……?」
「はいなのです」
「ひょっとして、まだ……ワラシと一緒にいるつもり、なんけ……?」
 バピシィ! と昴の脳細胞から派手な亀裂音が聞こえる。
「だ……ダメなのですか……」
 さっきの『楽しかった』発言は守護霊うんぬんではなく、遠回しに決別を……?
 き、気付かなかった……。てっきり腹をくくったのかと……。
「い、いんや! そうじゃねぇ! だって……! だって! あんな……!」
 がぁっくぅ、と四つん這いなって跪き、床と一体化しかかっていた昴の頭上から、激しく狼狽した小夏の声が降りかかる。
「あんなのを見た……後で……」
 しかしすぐにやせ細り、
「あんな……化け物みたいな……」
「化け物?」
 昴は下から小梅を見上げながら首を傾げた。
 化け物? いたか? そんなの。 
 ……。
 心当たりがない。
「……ワラシが小梅の体におるせいで、小梅は年も取らずにずっとここにおる。ワラシが小梅の体におるせいで、小梅は妙なモンが見えて、妙な力が使える。ワラシが小梅をあんな風にしたんじゃ。全部、ワラシの責任なんじゃ……」
 妙な力、妙な力、妙な力……。
(ああ)
 ポン、と手を打つ。
「あんなの常識の範疇なのです」
「じょ……」
 立ち上がり、八重歯をのぞかせながら爽やかに言った昴に、小夏は出かかった言葉を呑み込む。
「普通の人よりほんのちょっと違うだけなのです。目覚まし時計がなくても時間通りに起きられたり、指パッチンがむちゃくちゃ速くできたり、持っただけで重さを正確に言い当てられたりするのと同じなのです。ちょっとした特技なのです」
「いや……」
「別に口から波動砲が飛び出したり、時間軸を反転させたり、魔界と冥界を固結びで繋げたりしたワケじゃないのです。小夏さんの個性の範囲内なのです」
「こせ……」
「とにかく良かったのです。嫌われたりしたワケじゃなさそうでホッとしたのです」
「き、嫌うなんぞ……そんな……」
 うんうん。本当に良かった。
 せっかく良い感じになっていたのに、あのチビ黒サンボに横ヤリを入れられて、一気にご破算してしまったのかと思っていた。せっかく熱く手と手を取り合うまでになれたというのに。
 ……まぁ、あれは霊体である小夏の体に触れられたことに驚いただけなんだろうが。
「じゃあ院長退治のついでに、チビ黒狩りも決行なのです。次に来たら全力で幽霊界とやらに送り返してやるのです。本気を出せばド楽勝なのです」
 ハッハッハー、とブリッジ体勢で胸を張って笑いながら、昴は得意げに断言する。
(とはいえ……)
 あの夜水月という幽霊界からの使者、かなり強い。あの分だと向こうも相当余力を残している。果たして真っ正面からやり合って勝てるかどうか。
 しかし絶対に負けるワケには行かない。負けはすなわち小夏との別離を示す。対策を練りに練って、こねくり回して、揉みしだいて、むしゃぶりついて、何とかしなければ。
 こういう時、最も頼りになるのは間違いなく“あの人”なんだろうが、呼び出すにはリスクがあまりに大きすぎる。別に世界が滅亡の危機に瀕しているワケでもないし、ここは憂子あたりに相談してメガロリ祓いを――
「東雲さん」
 ベッドの上から小夏に呼ばれ、昴は思考を中断した。
「一つ、教えてくれ……」
 それは小さく、しかし芯の通った良く渡る声。
「何でじゃ」
 戸惑いでも落胆でもなく、ただただ純粋な疑問。
「何で、ワラシにそこまでしてくれる」
 闇の中に置かれていても、小夏がその大きく真っ直ぐな瞳でこちらを見ているのが分かった。その内側に強い意志を宿して。
 初めて彼女を知った時と、全く同じように。
「あなたは今、何かとても強い使命感に駆られているのです」
 美しい手毬歌を初めて聞いた時と、全く同じように。
「ずっとそれを追い求めてきたのです。何十年もの長い間、ずっとそのことだけを考えてきたのです」
 あの時からずっとそこに惹かれていた。
 決して諦めることなく、何かに向けて走り続けている。何かを求め続けている。
 それが何かは分からないが――分からないが故に、より強く惹かれる。それが何なのか知りたいから、小夏に強く入り込んでしまう。
「けど小夏さんも、それが何なのか分からないんですよね」
 確認するように言った言葉に、小夏から動揺の気配がはっきりと伝わってきた。
 やはりそうなんだ。小夏自身にも欲しい物の正体が分からない。だからずっとここにいるんだ。院長なら――自分のことを自分以上に、両親以上に良く知っている院長なら、それが何なのか知っているかもしれないから。
 そして――
「それが何なのか分からないから、ずっと歌い続けているんですよね」
 手毬歌に糸口が隠されているかもしれないから。手毬歌の意味を解き明かすことができれば、求めている物が何なのか分かるかもしれないから。
 今までずっと感じていた。美しい音色の中にほんの少しだけ混じる迷い、停滞、そして悲嘆。それらは全て、歌の持つ意味を模索していたからだったんだ。
 良く知っている歌。頭にしっかりと残っている歌。五十年前からずっと歌い続けてきた歌。しかし歌詞の意味が分からない。
 きっと何かを示しているはずなのに。昔と今を繋ぐ唯一の鍵なのに。
 どうしてこうなってしまったのか、どうして小梅の体にいるのか、自分は何をしなければならないのか。
 ひょっとするとそれが分かるかも知れないのに。
 もどかしい。だから迷いが生まれる。だから停滞してしまう。
 だから――
「僕は小夏さんのそういうところが好きなのです。力強い気持ちを持っている女性が大好きなのです。とっても応援したくなるのです。だから絶対に院長とチビ黒サンボは撃退するのです。それで小夏さんのしたいことも見付けて、綺麗サッパリスッキリするのです。そのために沢山協力するのです」
 そこまで言って昴は一旦言葉を切り、もう一度肺一杯に空気を吸い込んで、
「小夏さん、好きなのです」
 言い切った。
 何の迷いも停滞もなく。完全無欠にキッパリと。
 そして昴は口を大きく開け、満面の笑みを浮かべる。
(ぃよっし!)
 底知れない満足感。今この場この時間に、自分は思いの丈を全て打ち明けた。これで思い残すことは何もない。受け入れてくれれば至上の喜び。拒絶されたとしても本望。
 さぁ! 反応はどっち……!?
「は……」
 “は”!?
「ははは……」
 乾いた笑い!?
「ははは、はぁ……」
 溜息!? 
「いんや、なんか……力が抜けたんよ……」
 死亡フラグ!?
「ビックリの連続で、ワラシもう、何が何やら……」
 心の準備だ! デカイのが来るぞ!
「初めてじゃ……。今まで生きとって、東雲さんみたいな人は初めてじゃぁ……」
 初めての人!? じゃあロスト童貞!?
「全部見抜かれとる。ぜーんぶ、言われた通りじゃ。ワラシは……何がしたいんじゃろのぅ……」
 それをこれから見付けていくんじゃないですか! 一緒に! 初めての共同作業として! 共に歩むための礎として!
「東雲さん……迷惑、ぎょーさん掛ける思うけんど……。ワラシ、幽霊じゃけども……。もう七十過ぎのおばあちゃんじゃけども……。一緒に、いてくれますか?」
「勿論なのです!」
 反射的に声を張り上げていた。喉の底から、腹の底から、股の底から声を出していた。
 狭い病室内に自分の大声が響き渡る。ビリビリと肌で感じ取る幸せの振動。
 迷惑? え? よく聞こえない。幽霊? 人間に尻尾が生えたようなものだ。おばあちゃん? こんなにも若々しくて可愛らしいのに!
「物好きな人じゃ……」
 声に微笑を含ませて言いながら、小夏はどこか安心したように息を吐いた。
 そこには少し前までの薄暗い雰囲気は微塵もない。ここにいるのは明るく楽しげな活力に満ちた、生命の息吹に溢れる女子高生だけだ。
「よーし! そうと決まったらまずは夜水月退治なのです!」
 右腕を高々と掲げ、昴は力の入った声で宣言する。そしてそれを後押しするかのように病室の電気が付き、
『オイこらワレ』
 後頭部から不快音が聞こえた。
『さっきから黙って聞ぃとったら調子くれよってからに。ワレ取り引きして小梅の代わりになるんとちゃ――』
「記録と規則と約束は破るためにある」
 トリ黒サンボの首を掴み、締め上げ、絞り切りながら昴は続ける。
「邪魔者には死、あるのみ」
 手を目の前に持ってきながら、冷徹な視線を黒い汚物に落として、
「ん?」
 ぬいぐるみ?
『へっ! 何回も捕まってたまるかい!』
 代わり身の術とは。だがしかし――
『ってェ!』
 パシィン! と小気味よい音がして、白い壁の上で黒い押し鳥が完成する。
「西九条。東雲さんに生意気な口利きな」
 デコピンの形に曲げた手をゆっくりと下げながら、小夏は鋭く細めた視線で黒い九官鳥を射抜いた。
(素晴らしいのです)
 初っぱなからこの完璧なコンビネーション。抜群のフォロー。
 やはり二人は結ばれるべくして結ば――
「東雲さんですの?」
 聞き覚えのある声がして病室の扉が開いた。
「ああ、探しましたわ。まったく、あなたの携帯、電源が切れてるんじゃありませんこと?」
 入ってきたのは女豹の眼光とウルトラロングストレートの黒髪、そしてこちらを見下ろせる長身を持ったお嬢様だった。
「へ? あ、いや、そんなはずは……」
 いきなりの闖入者に、昴は少し慌てながら携帯をブラックジーンズの尻ポケットから取り出す。
「あ……」
 大破していた。液晶のディスプレイには細かくヒビが入り、ボタンはいくつかがめくれて基盤を剥き出しにしている。これではもう使い物にならない。
「あら、どうしましたの? それ。完全にあの世送りですわ」
 自分の方に近寄り、菊華は携帯を覗き込みながら的確なコメントを述べた。
 多分、夜水月と小夏がやり合った時の余波だ。取りあえずあの場を何とかするのに必死で、尻ポケットの携帯にまで意識が回らなかった。今度からはちゃんと胸ポケットに入れておかないと。
「まぁ形ある物、いつかは崩れ去る定めなのです。だからなるべく型崩れしないように、早いウチから自分に合った――」
「そんなことよりお手柄ですわ東雲さん。あなたから頂いたデータ、素晴らしい内容でしたわよ」
「……それは何よりなのです」
 白いカッターシャツを赤く染め上げながら、昴は慣れた手つきで額の止血を始める。
「やっぱりこの病院の経え――ひゃ!」
 えひゃ? 何かの暗号か? そういうことなら丁度良い。今から手毬歌の解読をしようと思っていたところなんだ。
「な、何ですの……?」
 えーっと、“スミ”が“スケベ・ミステリー”の略だから、“えひゃ”は……。
「ええ乳・百貨店の――」
「さっきの傷口はここですの?」
「……あと五センチでレッドゾーンなのです」
 赤いハイヒールだから血が目立たなくてよかったねー。
「ひぁぅ!」
 おっと、早くも次の暗号が――って。
「あれ?」
 止血テープを頭に巻き終えて顔を上げた時、視界に映っていたのは床に尻餅を付いた菊華だった。しかしバナナの皮はどこにもない。これは面妖な。
「何をしているのですか? 菊華さん」
「わ、ワタクシが聞きたいですわ。さ、さっきから何なんですの? この部屋……」
 声を裏返らせて言いながら、菊華は昴が差し出した腕を掴んで――
『――ッ!?』
 二人の腕が同時に弾かれた。そして体の中に鎮座する痺れたような感覚。
(これは……)
 へたり込んだ体勢のまま激しく辺りを見回す菊華から視線を外し、昴はベッドの上の小夏を盗み見る。
 そこにいたのは焦点の消失した瞳で菊華を見つめる小夏。まるで内面を消したかのような無表情で佇んでいる。明らかに様子がおかしい。先程までとはまるで別人だ。
(小夏さん……)
 彼女だ。今のは小夏の力……。
 西九条を張り付けにしたのと同じ力で、菊華を牽制しているんだ。
 この反応はまさか……伝説に聞くところの――
『シイイイイイィィィィィット!』
(そう、それだ)
『こんボケー! オラ小夏ー! トリを豆鉄砲みたいに――』
(素晴らしい)
 地面に張り付けとなった西九条から足をどけ、昴は心が満たされていくのを堪能した。
 そうか……もうそこまで自分のことを。なんて幸せ者なんだ。浮気など絶対にしないでおこう。勿論するつもりなどさらさらないが。小夏を悲しませるようなこと、決して行ってはいけない。
 そう、何があろうとも。
「フ……そ、そうですの。そういう、ことですの」
 下から聞こえる震えを含んだ声。危ない笑みを浮かべながら、菊華はゆらぁと立ち上がり、
「早速来ましたの……オカルト現象が」
 口の端を吊り上がらせる。
「ちょうど……良いですわ。ちょうど良い感じに、踏ん切りが付きましたわ……!」
 そして赤いフォーマルスーツの肩を怒らせると同時に両目をカッ! と開眼し、
「今夜この病院の七不思議、全て暴いて見せますわ!」
 声高に誓いののろしを上げた。
「というワケで東雲昴! 今夜はワタクシに付き合って頂きますわ!」
「はへ……?」
 続けて間髪入れずの指名。
「嫌とは言わせませんわよ! これも立派なワタクシの目的の一つなんですから!」
 いや……聞いてないし……。
 大体菊華と二人きりなどというシチュエーション、今の小夏が許すはずがな――
「そして雛守さん! 例の手毬歌、ただ今春日グループの総力を上げて分析中ですわ! あなたのお望み、必ずワタクシが叶えて差し上げましてよ!」
「え……」
 呆けたような小夏の言葉。ただし菊華には色んな意味で聞こえていないだろうが。
「もう乗りかかった船ですわ! 徹底的に行きますわよ東雲昴!」
 目をギンギラに輝かせながら、菊華は際限なくボルテージを上げていく。
 うーん、これはどういう風に接すればいいのだろうか……。ひとまず小夏からの牽制は止んだようだ、が……?
「ワラシ……」
 やはりダメか?
「また、自分勝手なことを……」
 ん? 
「行きますわよ東雲昴! ほらグズグズしない! 楽しい夜は老い先短いですわ!」
 ……ダメだこれは。完全にキャラが変わっている。
 どうしてこうなってしまったのかは分からないが、今の菊華を野放しにするのは危険だ。かといって小夏のそばを離れる訳にもいかない。またいつチビ黒サンボがやってくるか分からない。どうするべきか。
 昴は少し考え、
(……しょうがないのです)
 すぐに答えを出した。
 やはり小夏から目を離すワケにはいかない。一人にするのは危険すぎる。ここは菊華をなだめて大人しく帰って貰うしか……。
「東雲さん……黒岩さんと、行ってくれてええけぇ……」
 帰って貰うしか……。
「行って、くれ……」
「ぇへ?」
 どこか疲れた声で紡がれた小夏の言葉に、昴は不自然に高い声で聞き返した。
「黒岩さんは、ええ人じゃ……。じゃから、力になったってくれ……」
 振り向き、小夏の方を見る。
 顔を僅かに俯かせ、セミロングの黒髪を頬に零している彼女の姿からは弱々しい気配しか伝わってこない。哀しげで、そして胡乱な雰囲気。立てば自分と同じくらいの身長はあるだろうに、しかし今は異様に小さく映る。
「い、いや、でも……またアイツが来たら……」
「夜水月は今、東雲さんの方に興味持っとる。次現れるとしたら、ワラシやのぅて東雲さんの方じゃけぇ……」
「そ、それは……」
 確かに、そうかも知れないが……。
「スマン、東雲さん……。ワラシ、やっぱり……無理じゃ……」
「無、理……?」
 無理って何が? 何が無理なの? 何が? 何が何が何が?
「さっきの話、な……。なかったことに、してくれんか……」
「さっきの……」
 告白――
「ワラシと東雲さんじゃ、釣り合わんけぇ……」
 ――失敗。
 【失敗】しっ−ぱい。[名]――物事を達成できないこと。目的への手法を誤り、意に添った結果が得られないこと。またはその有様。気を抜くと『おっぱい』と言い間違えるため注意が必要。黒岩菊華の前での発言は生死に関わる。
 『欲張りすぎて――した』『――は成功の母』『二の腕の柔らかさは――と同じらしい』『――しすぎて気持ちいい』
 [類語]過失・失態・玉砕・最後通告・死刑・破滅・真宮寺太郎
「すまん……」
 そんな……。
 目の前が暗くなる。頭が重くなる。全身から力が抜けていく。
 この人だと思っていたのに……。この人が間違いなく運命の人だと思っていたのに……。
「では雛守さん! この生乾きの靴下ゴキブリはお借りしていきますわ!」
「東雲さん……すまん。ちょっと、一人で考えたいんじゃ……」
「ワタクシに掛かればこんなオカルト騙し、朝飯前の腐った生卵と言ったところですわ!」
「また……ダメなのですか……」
「簡単簡単チョーカンタン! オーホッホッホッホッ!」
「すまん……」
「さぁ! 君子危うきに近寄らずんば虎子を得ずですわー!」
 首根っこをひっ捕まれ、昴は工事用のズタ袋ヨロシク部屋を連れ出されたのだった。

◆黒岩菊華の『もう行くところまで行くしかないですわ!』◆

 一つ、『療養病棟七〇八号室からは、夜な夜な人外の声が漏れ出てくる』
 二つ、『この病院の地下は戦時中に死亡した兵士達の共同墓地になっており、夜耳を澄ますと時折銃声が聞こえる』
 三つ、『霊安室には開かずの箱があり、そこには手術で失敗した人の体を継ぎ接ぎして生み出された不死者が眠っている』
 四つ、『夜の十二時、一般病棟旧館の三階にある女子トイレで鏡をみると、自分が死ぬ時の顔が映し出される』
 五つ、『夜勤明けに病院の入口の前で願い事を言うと、必ずその逆のことが叶う』
 六つ、『満月の夜、屋上に一人で行くと白い扉が見える。その扉に入ると次の朝、路上にて死体となって発見される』
 七つ、『呪い殺したい相手の名前を紙飛行機に書き、三階の窓から飛ばせば夢の中で殺せるようになる』
 八つ、『黒装束の少年を一日に三回以上見ると魂を持って行かれる』

 以上が自分の知っている限りの七不思議だ。 
 ……八つある時点ですでに七不思議ではない気がするが。
 多分、調べればまだまだ出てくるだろう。大体こういう物は人から人へと伝わっていく間に面白可笑しく脚色されて、いつの間にか“それらしい”内容になっているケースが殆どなんだ。
 つまり元を辿れば他愛のない噂話でしかない。
 ……そう、思っていた。
 しかし今は少し違う。オカルトは確かに存在する。小夏と昴のせいでそのことを嫌でも自覚せざるを得なくなった。
 例えば七不思議の一つ目。
 これは多分、小夏のことを指して言っているんだろう。自分には聞こえないが、少しくらい霊感の強い人なら小夏の手毬歌が聞こえているのかもしれない。
 ただし昴の話では、手毬歌のメロディーは美しい物らしいから、この“人外の声”というおどろおどろしい部分は誰かが言い換えたんだろうが。
 何にせよ全てが作り話なワケではない。少なからず事実が混じっている。そして他の七つも、ある程度は本当に起こったことに基づいて話が作られているはず。
 そこで自分がしなければならないことは、これら不思議話の真偽の検証だ。
 話の内容を確認、あるいは再現してみて何が起こるのかを調べる。何度か試してみて、何も起こらないようであればそれでよし。単なる作り話だと決めつけて、その内容が形成されるに至った過程を探る。極めて理路整然と説明されれば、いくらあの院長でも認めざるを得ないだろう。
 しかしもし、実際にオカルト現象が発生した場合は――
(勝負、ですわ……!)
 屋上へと続く階段を二段飛ばしで上がりながら、菊華は決意を新たにした。
 どんな困難にも立ち向かっていく覚悟はすでにできている。オカルトアレルギーを克服し、自らの精神を一回り成長させる決心は付いている。そしていざという時のためのゴキブリ有害兵器だってこの通り――
「はあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
 盛大に溜息を付いて――
「終わったのです……」
 全身を真っ黒に染め上げて――
「もう死にたいのです……」
 盛大に後ろ向きな発言を――
「どうしてこんなことに……」
「東雲さん! シャッかりなさい! 気を抜くと本当に死にますわよ!」
 胸ぐらを両手で掴んでがっくんがっくんと昴の体を揺するが、全くと言っていいほど抵抗がない。まるで人型の発泡スチロールを振り回しているかのようだ。
「望むところなのですー……」
 く……一体どうしてこんなことに……。さっき小梅……いや小夏と何かあったのか。自分には彼女の声が聞こえないから何も分からない。
「僕はもう駄目なのです……さすがに三回目ともなると疲れたのです……ここに置いて先に行ってくれなのです……」
「何を弱気なこと言ってますの! 最近は捨てるのにもお金が掛かるんですのよ! 特に粗大ゴキは! エコを愛する心があるんなら最後まで絞り尽くされなさい!」
「人はエコよりもエロを愛する種族なのですー……。自分に正直に生きるのが一番楽チンなのですー……」
「エゴよりも死後ですわ! どうせ散るんなら戦場で散りなさい!」
「その通りなのですー……。どうせならふくよかなお姉様の胸元で散りたいのですー……」
 く……ダメだ。これでは使い物にならない。せっかく明るい雰囲気のまま突っ走ろうと思っていたのに……台無しだ。
(しょうが、ないですわ……)
 やはり自分一人で何とかするしかない。憧れの真宮寺太郎に少しでも近付くには、こんな些細なことで挫けている場合ではないんだ。
 自分でも言っていたではないか。一人で――なるべく一人で全てのことをやってのけるんだと。
 勉学や日本舞踊、精進料理に土偶作成。得意分野を誰の手も借りずにこなせるのは当たり前なんだ。自分の本当の力というのは真に追い詰められた時――すなわち苦手な局面に突き当たった時にこそ初めて問われる。そして今がまさにその時なんだ。
(……分かりましたわ)
 なら行こうではないか。
 この階段を登り切り、屋上へと続く扉の向こう側に。
 六つ目の七不思議。『満月の夜、屋上に一人で行くと白い扉が見える。その扉に入ると次の朝、路上にて死体となって発見される』。
 この真相を確かめに。
 今夜は満月。今日を逃すとまた一ヶ月待たなければならない。他の不思議話に日にち的な制限がない以上、これから始めるのは定石だ。
(“一人で”ですわ)
 自分一人で、だ。どちらにせよ正確に検証するためには、屋上に“一人で”行かなければならない。丁度いいさ。
「……」
 小振りで形の良い唇をきつく結び、菊華は非常灯に照らされた階段を登っていく。
 右のヒールを上げ、僅かに前に出し、音を立てないようにしてゆっくりと下ろす。続けて左のヒールを引き上げ、右足よりも高い場所に持っていき、少し前に進ませて下ろす。
 一歩一歩、確かめるように。一歩一歩に意思を込めて。一歩ごとに自分を奮い立たせて。
 無意識に握り込んでいた手の内側に汗が滲む。なのに体温は異様なほどに下がっていくのが分かる。
 恐怖。
 今まさに、その本質を自分は味わっている。
 言葉などではとても表現しきれない、体の最深から押し上げてくる冷たい焦燥。
 だがいつかは克服しなければならないんだ。しかし“いつか”を唱え続ければ、“その時”はどんどん先送りにされてしまう。
 だから“今”なんだ。“今”乗り越えなければならないんだ。
 立ち向かわなければならない動機、時期、勇気。これらが全て揃っているのは“今”しかないのだから。
(行きますわよ……!)
 一人で何でもできるようになる。オカルトに立ち向かえるようになる。七不思議の正体を見極める。そして院長を嘲笑う。白雨病院の経営を立て直す。
(真宮寺様……ワタクシに力を……!)
 真宮寺太郎の情報を得る。そのために昴に恩を売る。そのために小梅の力になる。そのために手毬歌を詳しく調べる。そして小梅のことをもっと知る。そのためにオカルトを受け入れる。
 遅かれ早かれ突き当たってしまう場所なんだ。なら今しかない。
(さぁ……!)
 扉の前に辿り着く。深呼吸を一度だけする。ドアノブに手を掛ける。
(勝負!)
 そして力一杯回し――
 ガキンっ
 つっかえた。
「は……」
 乾いた笑み。
 それはそうだ。今はもう夜中の九時を回っている。屋上などという危ない場所に施錠していないワケが――
 ――ッチャ
 ……。
 ……今のは何の音だ? 確かノブの所から聞こえたように思ったが……。
(まさか……)
 口の中に溜まった唾液を呑み込み、菊華はもう一度ノブを回す。
 つっかえない。
 こちらの力に緩やかな抵抗を示しつつも、ノブは確実に回っていく。そして半回転ほどしたところで止まり、ノブに掛かった自分の体重が扉を僅かに開いて、
「――ッ!」
 隙間から入り込んだ風が扉を全開にまで持っていった。それに引っ張られ、菊華の体は一気に屋上へと放り出される。
「な……な……な……」
 あまりに突然のことに吃音を何度か漏らす菊華。そして気持ちが落ち着くより遙かに早く、視界は勝手に“それ”を捉えていた。
「な……」
 白い光。
 煌々と輝く満月に照らされるようにして、常緑樹に囲まれた木製のベンチが淡い白光を帯びていた。それはさながら、夜闇にぽっかりと空いた白い穴。
「ぁ……」
 もう言葉が出ない。吃音すら発せられない。
 目の前の異様な光景に意識ごと呑み込まれ、立ちつくすことしかできない。すでに体の感覚がない。逃げ出したくても動けない。
 まさかこのまま、自分は死――
「おっぱいの匂いなのですうううぅぅぅぅぅぅ!」
「キョェアアアアアァァァァァァ!」
 ヒールが見事に後頭部を捉えた。
「あなたには品性という物がありませんの!?」
 そして右足に全体重を移動させて完全に貫く。
「通……天閣、様……ガクッ」
 最期の言葉を残し、昴は逝った。望み通り。
 どうせまたすぐに復活するだろうが。
「まったく……」
 腕組みし、菊華は血の湖に沈んでいく昴を見下ろす。真円の月を背負い、高い位置から俯瞰する様は女王の風格すら滲ませていた。
「こりゃまた強烈にやってくれたねぇ」
「この油に付いた埃ゴキブリには良い薬ですわ。卑猥な」
「でもそういう所が可愛かったりするんだけどねぇ」
「可愛い? この年中発情期のゴキブリ無法地帯が?」
「男ってなみんなそんなモンだろ?」
「あなた、さっきから本気で言ってますの?」
 言いながら菊華は後ろを振り向き、
「アンタもついにコッチ側の住人かい? 随分と衝撃的なデビューだったねぇ」
「な……」
 誰もいない。
「まぁせっかく来てくれたんだ。お祝いしようじゃないか」
 声はすれども姿は見えず。
「ほらみんな! 月見酒の会、仕切り直しだよ!」
『了解でさぁ! アネさん!』
『オラいくぜ野郎ども!』
「な……な……な……」
 いる。自分を囲むようにして沢山の何かがいる。見えないが確かにいる。
「なんだいアンタ、さっきからキョロキョロして」
「だっ、誰ですの!?」
 我ながら間の抜けた質問だと思う。実体を持たない存在に対して『誰だ』などと。
 そんなもの決まっているではないか。
「幽霊ですの!?」
 その通りだ。まさしくその通り。疑う余地など微塵もなく。
「ああ、なんだい。聞こえてるだけなのかい。それじゃ触るなんて芸当、まだまだ先だねぇ。ま、最初はこんなモンか」
 さっきまでとは反対側から声が聞こえる。反射的に顔を向けるがやはり何もない。月明かりとネオンの光に照らされて、ぼんやりと浮かぶ緑化の行き届いた屋上があるだけだ。
「とはいえ、せっかく聞こえてるんだ。アンタに“視る”コツってヤツを教えてあげるよ」
 自分の目に見えているのは昴だけ。しかしここには他にも沢山の何かがいる。
「霊感ってのはね、言ってみれば意思の力なんだよ。だから“視たい”って強く思えば本当に見えるようになる。まぁ、おまじないみたいなモンさ。思いが強ければ強いほど上手く行く。迷いがあると失敗する」
 なのにどうしてなんだろう。
「要するにアタシ達みたいなのをちゃんと受け入れなってことさ。幽霊はいるんだよ。人間と同じに生活してる」
 こんなにも落ち着いているのは。
「アンタがいきなり聞こえるようになったのは、この子のおかげさ。この子がアンタの迷いとか恐怖とか、そういうややこしいのを吹っ切ってくれた。まぁ、ちょっと荒療治だったけどね。けど緊張が一気にほぐれて、周りが見えるようになっただろ?」
 勿論、頭には血が上って、思考は上手く回らないが、口が利けないワケでも、体が動かないワケでもない。
「でもまだそんなモンじゃ足りない。視るにはもっともっと思い込みってヤツが必要なのさ。その子みたく周りが全然見えなくなるくらいにね」
 現実逃避をしているワケでも、なんとか理論的に辻褄を合わせようとしているワケでもない。
「当たり前のことは頭の中から全部放り出して、アンタも一度大バカ野郎になってみるといい。きっと新しい世界が開けるはずさ」
 これはただ、未知の世界に昂奮しているだけだ。全ての感覚が一種のショック状態に陥ってしまっているんだ。
「もう一回言うよ。幽霊はいる。今、アンタの目の前に沢山いる。何十人もいて、ワイワイ楽しく酒を飲んでる。一人で暴れてるヤツもいれば、何人かで円陣組んでる奴等もいる。脱いでる奴もいれば、筋トレしてる奴もいる」
 落ち着いているのに昂奮している。昂奮しつつも、極めて冷静で客観的に見ている。
 自分でも妙だとは思うが、それ以外に今の状態を表現できない。
 泣きながら笑うことだってある。怒りながら恋に落ちることだってある。
 それと同じだ。対極にあるからといって同時にできないワケじゃない。同時にするからこそ新しい物の考え方ができるようになる。新しい物が見えるようになる。
「どうだい? ちょっとは見えてきたかい?」
 必要なんだ。オカルトを克服するためには。小梅の力になるためには。
 だから逃げるのではなく、否定するのではなく、それを受け入れなければならない。
 幽霊はいる。オカルト現象は確かに存在する。今だってこうして誰もいない場所から声が聞こえてくる。一人や二人ではなく、もの凄く沢山。
「アタシは今、アンタの目の前にいるよ。もし視えたんなら次は触ってごらん」
 もし自分にも小夏の声が聞こえたなら。彼女の口から手毬歌が聴けたなら。
 もし自分にも小夏の姿が見えたなら。彼女の表情や仕草を視られたなら。
 もっと親身になって力になれそうな気がする。もっと楽しい時間が過ごせそうな気がする。あの、東雲昴ように――
(おっぱいですわ)
 見えた。
(たゆんたゆんですわ)
 まだぼんやりとしか映らないが、確かに自分の目の前で二つの大きなバルーンがゆらゆらと……。
「――ってちょっとあなた! 少しは隠しなさい!」
 慌てて視線を逸らし、菊華は大声で叫び上げながら顔を赤くした。
「どうやら視えるようになったみたいだねぇ。なかなか順応力があるじゃないか」
 長い脚を組み、両腕で胸を持ち上げてセクシーポーズをとりながら、水着として殆ど機能していないビキニ姿を見せつけてくる。
(まったく! これだから最近の幽霊は……!)
「アタシは通天閣。アンタらが今世話してる雛守って子に殺された女さ」
「……え?」
 突然彼女の口から飛び出した物騒な言葉に、菊華の頭から血が一気に下りてくる。
 今、何と……? 殺された? 小梅に?
「っていうのはさすがに大袈裟かぁ。まぁあの子にここの院長が心酔しきってた時期があってねぇ。その時にアタシが入院してたんだけど、どーもお粗末な治療ばっかりされてたみたいでさ。なにせ四六時中あの子に掛かりっきりだったからねぇ。他の患者なんか別にどーでも良かったんだろうさ。ま、死んでこんな風になった後で分かったんだけど。とにかくここに集まってるのは、大抵似たような事情を抱え込んだ奴等さ。だから気が合う。だから一緒にいて面白い」
「“時期があった”?」
 通天閣の零した一言にひっかかりを覚え、菊華は彼女の言葉をそのまま聞き返した。
 まるで今は違うとでも言いたげなニュアンスだ。小梅から聞いていたイメージだと、入院している間の五十年、ずっと何らかの処置を施されいるようだったが……。
「そうさ。ったくあのジジイ。この病院はテメーの研究所じゃないって話だよ」
「それはいつまでですの? 院長は今、小梅さんに何もしていませんの?」
「いつまでって……まぁそんなはっきりと覚えてるわけじゃないけどさ、ここ二十年くらいはパッタリだねぇ」
「二十年……」
 どういうことだ。院長の目的は小梅の体を調べることで不老の秘密を解明し、自分自身に適応することではなかったのか。なのに少なくとも二十年間は放置している……。
 だが小梅に興味がなくなったワケではない。小梅のことが周囲にバレないよう、ちゃんと人避けをし続けてきた。そのことは婦長が調べてくれたデータから明らかだ。
(婦長……)
 二十年前といえば、その婦長のおかげで病院の経営が少し回復し始めた頃だ。何か関係があるのか? 例えば、二十年前に婦長のような人間を育てようとしたのは、経営の傾きが致命的になったからではなく、何か他の要因でそうせざるを得なくなった? 小梅の秘密を勘ぐられるかもしれないというリスクを犯してでも、信頼できる人間を作らなければならなかった? 婦長と経営立て直しに直接的な繋がりはない?
 あるいは、何かの要因のせいで小梅に対する興味が大きく削がれてしまい、あとは婦長に任せて一応人避けだけは続けている? 実は婦長と院長は同じ目的で動いていて、婦長が院長を嫌っているように見えるのは単なるパフォーマンス? 真実から目を逸らさせるためのカムフラージュ?
 可能性は色々考えられる。しかしどれもいまいちピンとこない。
 その『何かの要因』というのがハッキリしない以上、まともな仮説も立てられない。
 そもそも本当に『何かの要因』が存在するのかどうかも怪しい。
 自分が前もって婦長のデータを見ているから、経営回復の時期と院長が小梅に手を出さなくなった時期を結びつけているだけで、単なる偶然ということも十分考えられるんだ。むしろそちらの方が自然……。
「まぁそん時に何があったのかなんて知らないし興味もないけどさ、とにかくハッキリしてるのはイケ好かないジジイだってことだよ。なんかアタシ達のことも視えてるみたいな感じだしねぇ」
「……へ?」
 通天閣の発言に、菊華の思考が強制終了する。
「そう、なんですの……?」
 そして目を大きく見開き、間の抜けた声で聞き返した。
「ああ。たまーに手術室とか覗いてると、こっち睨んで来るんだよ。他の奴等もあのジジイによくガンくれられるって言ってる。とにかくムカツク野郎だよ。あいつは」
 視えている。院長も自分や昴と同じく、幽霊の存在が視えている。
 ということは、小夏のことも見えている? もしかすると小梅の不老の理由が小夏であることまで知っている? 知っていてあえて何もせずに放置している?
「それは、いつから、ですの……?」
「さぁ? そこまではねぇ」
 どういうことだ。
 さっきの通天閣の言葉を借りるとすれば、幽霊を視るためには強い思いが必要なはず。この世には幽霊が存在しているということをきちんと受け入れて、なおかつ幽霊を視たいと強く念じなければならない。
 仮にも医学を極めんとした人間が、そう簡単にオカルトを肯定するとは思えない。
 ……いや、病院という場所はそういう話題には事欠かない。逆に受け入れやすい環境にあるのか? だから初めて会った時、七不思議などいう話題を持ち出してきた?
 自分の中ではすでに当たり前のことだから。実際に視て確認したことだから。確実に恐怖させられると確信しているから。
 とにかく七不思議に関しては、もっと本腰を入れて調べる必要がある。仮に院長がこのことでオカルトを信じたのだとすれば、小夏に手出ししない理由が隠されているかもしれない。
 例えば、霊と接触すると寿命を持っていかれてしまう等のデメリットを知っているとか。
 何にせよそれが分かれば小梅や小夏を助けることにも繋がる。きっと七不思議には何かのヒントが隠されている。
 なら、まずは目の前のこれから――
「ああああぁぁぁぁ……おっぱいなのでブ!」
「少し、お話を伺いたいのですが。よろしいでしょうか?」
 いつの間にか復活した昴のこめかみにヒールを埋め込み、菊華は鋭い視線を通天閣の方に向けた。
「ああいいよ。元々そのつもりだったしねぇ。ただし――」
 長く艶やかな黒髪を梳き上げ、通天閣は胸元の昴を抱き直す。そしてどこからともなく一升瓶を取り出し、
「しらふじゃあ、面白い情報は聞き出せないかもねぇ」
 挑発的な眼差しでこちらを射抜く。
 情報料を払えということか……。
「……分かりましたわ」
 菊華は少し考え、視線をさらに鋭くして通天閣を見返した。
 つい最近二十歳になったばかりだか、見識を広めるために、早い段階でアルコールという物を経験するのもいいかもしれない。皆は美味い美味いと言うが、果たしてどれほどの物か。
「おっ、いいねぇ。堅物だと思ってたけど、意外に話せるじゃないか」
「春日グループを継ぐ者として、ある程度の柔軟性は必要ですわ。それに今後、お付き合いで飲まなければならないこともあるでしょうし」
「いいねぇいいねぇ、その前向きな考え方。この子といいアンタといい、アタシはそういうの大好きだよ」
 その脳天腐敗臭ゴキブリと一緒にされるのは癪だが、とりあえず褒め言葉として受け取っておこう。
「じゃあ、まずはおちょこで行こうかぁ」
 そして、幽霊を相手にした大宴会が始まった。




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