間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第七話『これが手毬歌の意味、小夏の過去……』

◆黒岩菊華の『このまま終わらせるワケには行きませんわ!』◆
 思ったより時間が掛かってしまった。
 役人に見付かったせいだ。
 事前に飛行計画書を出さなかった時に限ってこういうトラブルが発生する。昴と夜水月がぶつかり合った際の振動共鳴で、近くのビルの窓ガラスが数十枚割れてしまったのが事の発端らしい。
 それを通報されて、運悪く見付かって、ヘリチェイスを強いられることになって……。
 全く国土交通省の連中め。いつからそんな些細なことをチマチマと気にするような奴等になったんだ。今度春日グループの総力を結集して、都内の高速道路全域を千キロの超渋滞にしてやる。
 取り合えず追い掛けごっこは心斎橋に任せて、自分はパラシュートで脱出してきたのだが……。
(大丈夫かしら)
 飛び降りる直前、『現役時代の血が騒ぎますなァ!』とか言って、いつになくハイテンションだったのが気がかりなところだが……。
(まぁいいですわ)
 そんな枝葉末節なこと。
 死人が出るようなことはないだろう。……多分。
 とにかく今はそんな下らないことよりも、目の前の重大な問題に集中しなければ。
 自分が早急にしなければならないことは、小梅を夜水月から守ること。そして昴の暴走を止めることだ。
(見えましたわ!)
 小梅がいるはずの七〇五室。廊下の丁度真ん中に位置する部屋。
 昴は間違いなくあの中にいるはず。そして小梅と夜水月も。
 だがこの静けさは何だ。
 まるで全てが終わってしまった後のような。もう全てが手遅れであるかのような。
 嫌な予感がする。果てしなく嫌な感じがする。
 何が。あの中で一体何が――
「そこまでですわ!」
 ダッシュの勢いで扉を横にスライドさせ、菊華はそのまま流されそうになる体を何とか両手で押しとどめる。そして腕を自分の方に引き寄せ、覗き込むようにして室内に顔を入れて――
「……あら?」
 誰もいなかった。
 電気も付いておらず、しーんと静まり返った部屋には自分以外に誰も――
「黒岩さん」
「ぎニャぁ!?」
 後ろから掛かった声に菊華は文字通り跳び上がり、ばっくんばっくんとやかましく鳴り響く鼓動を抑え付けながら振り向いた。
「ひ、雛守さん……!?」
 そこに立っていたのは小柄なセミロングの少女。自分の胸辺りまでしかない低い視点から、上目遣いにこちらを見つめている。両腕でB6サイズのスケッチブックを抱き締め、何か物悲しそうな気配を纏っていた。
「どっ、どビックリしましたわっ……。そ、そんな所で、何を……」
「……聞こえとるんじゃね。ワラシの、声……」
 小梅の言葉に菊華は息を呑み、唾液を嚥下して口を結んだ。
 言われてみればその通りだ。目の前にいるのは小梅。だが彼女は喋れないはず。以前だって、そのスケッチブックで筆談をしていた。なら、今こうして話しているのは――
「いつからじゃ? いつから、聞こえとった?」
 小夏の方か。
 六十年前に死に、小梅の体に同居している幽霊……。そして恐らく、小梅が不老体質になった原因。
「最初っからけ? 始めっから、聞こえとるのに聞こえとらんフリしとったんかの?」
 こちらに一歩近寄り、小梅は語調を強めて言ってくる。
 のし掛かってくるかのようなプレッシャー。小柄な小梅が発しているとはとても思えない……。
(視え、ますわ……)
 違う。
 小梅ではない。これは紛れもなく小夏自身の圧力なんだ。その証拠に、視える。
 小梅の体と重なって。頭二つ分くらい高い背丈を持つ、似た顔の女性が。うっすらと。
 しっかりとした体格と勝ち気な眼差し。部分的な雰囲気は小梅に通じる物があるものの、全体的な印象は全く違う。遙かに攻撃的だ。
 彼女が、雛守小夏。小梅の実の姉。
「あんたも、最初っからワラシ達のこと、騙しとったんか?」
「ま、待って下さいまし。確かに今は声が聞こえますわ。け、けどそれは昨日からです。今までは本当に何も聞こえませんでしたわ」
 威圧的な言葉で凄んでくる小夏に、菊華は声を上擦らせながらも何とか返す。 
「本当じゃろうな」
「ほ、本当ですわっ。春日グループのっ、名に、誓って」
 純白のスーツドレスの下に大量の冷汗をかきながら、菊華はそれでも小夏から目を逸らすことなく言い切った。
 小夏の冷たい線が突き刺さる。まるで蛇にでも睨み付けられたかのような錯覚。全身を拘束され、身動き一つとれないよう自由を奪われた――
「……すまん」
 急に、力が抜け落ちた。
 さっきまで感じていた息苦しいほどの重圧は消え去り、夜の落ち着いた空気と入れ替わっていく。
「そうじゃったな……。黒岩さんは、ええ人じゃもんな。そんな嘘、付くわけないもんな」
 別人のように沈みきった声。憑き物が落ちてしまったようにすら感じる。
 何だ。さっきから一体何が。全てのことが突然すぎて、頭がさっぱり追い付かない。
「院長はな、ずっと隠しとったんじゃ……。ワラシが視えても視えんフリして、ずっと小梅とだけ話すフリして……。ほんで、夜水月とも知り合いで……。ずっと前から知り合いで……。そんで……東雲さんで、ワラシと、取り引きを……」
「ちょ、ちょっと待って下さいまし。あの、できれば順を追って話していただけますか? まず、東雲さんがここに来たと思うんですが」
「東雲さん……」
 菊華の言葉に小夏は呆けた声で呟き、
「ああ、来た。来てくれたんじゃ……。ワラシなんかのために、東雲さんは来てくれた……。けど、無理なんじゃ……。ワラシじゃあの人と釣り合わん……。あんなええ人と、ワラシなんかじゃ、無理なんじゃ……。けども……」
 うわごとのように繰り返すだけで、まともな返事は返って来ない。そしてまるで夢遊病者のようにふらふらと体を揺らしている。
(だ、ダメですわ……)
 一体何があったのかは知らないが、普通に会話できる状態ではない。こちらも混乱して何が何やらよく分からないというのに、小夏がこれでは……。しかし他に現状を説明してくれる人など……。
「……え?」
 タイトスカートの裾を下から引っ張られ、菊華はそちらに顔を向けた。
 B6サイズのスケッチブック。一瞬、目の前にそれが現れたかと思うとすぐにどこかへ行ってしまう。そして探そうとした時には部屋の中が明るくなっていた。
 白いシーツの敷かれたパイプベッド、数個のお手玉が乗ったサイドテーブル。壁際のローボードに乗せられた小型のテレビ、出窓に飾られたシクラメンの花。
 こざっぱりとした簡素な内装が明るみに晒され、視界が一気に開けた。
《私から説明します》
 そしてまた目の前に持ってこられたスケッチブックには、丁寧な文字でそう書かれていた。
「小梅、さん……」
 頭の上に掲げたスケッチブックを脇に抱え直し、小梅はベッドの隅に腰掛ける。そして丸椅子をこちらの目の前に持ってきて、座るように勧めてきた。
「ど、どうも……ですわ……」
 ぎこちない喋りで返し、菊華は出された椅子に腰を下ろして小梅と対面する。
 本当に妙な感じだった。
 ハッキリとした輪郭を持って存在している小梅を、殆ど色の付いていないおぼろげな小夏が覆っている。まるで小梅が、自分にソックリで二周りは大きな半透明の着ぐるみを身に付けているかのような……。
《私と姉のことについては、大体把握していると思ってよろしいでしょうか》
 スケッチブックを向けられ、菊華はそこに書かれた文字を目で追った。
「え、えぇ……まぁ……」
 そしてあまり考えることなく、曖昧な口調で返す。
《東雲さんからお聞きになったのですか?》
 が、次に示された文章で、頭の中がクリアになった。
 小梅と小夏のことは昴からも聞きはした。そのことで今までの推論が全て裏付けられ、確信へと変わった。だが昴が喋ったのは派手に酔っ払っていた時だ。あれは殆ど無意識に口を突いて出たもの。だから――
「違いますわ」
 そんなことで昴の株を下げてしまうのは忍びない。
「申し訳ないとは思いましたが、雛守さんのことはワタクシの方で調べさせて頂きました。少し、疑問があったものですから。小夏さんのことはその過程で知りました。彼女のことが視えるようになったのは、昨夜この病院の七不思議を調べていて……その、色々あったからですわ」
 こちらの返答に小梅は微笑しながら頷き、スケッチブックにペンを走らせる。
《黒岩さんは本当に良い方でいらっしゃいますね。本当に正直で、気遣いが行き届いていて。私も見習うところが大変多いです》
 ……文章とは、ここまで気持ちをさらけ出せる物なのだろうか。そういう風に言われてしまうと、聞きたいことも聞けなくなってしまうではないか。
《東雲さんは、さっき院長先生と一緒に出て行かれました。夜水月さんを院長先生が説得して下さったので、その方法を聞いているんだと思います》
 極めて端的かつ簡潔に纏められた現状描写。
 文字数は少ないのに、そこに込められた情報の濃さに喉が詰まりそうになる。
「な、チょ……ハ? え……?」
 とても理解が間に合わず、短音を並べて何度も読み返すことしかできない。
 院長? なぜここで院長が出てくる。しかも夜水月を説得? 一体どんな話術で。いやそれ以前に、院長には夜水月が視えていて、話せて、歌って踊れてダジャレて……?
 で、昴は? 院長大嫌いだったのに仲良しコヨシでまた明日ー、デンデンでんぐりがえしでパイのぱいのパイ?
 は? な、ぁ?
《正直、私も混乱しているんです。ですから今は起こったことをそのままお伝えすることしかできません。すいません》
 目を赤青白黒させる菊華に、はにかむような笑みを向けながら、小梅は申し訳なさそうに新しい文章を書き加える。
「ぁ……い、いいぇ! 大変ご丁寧な説明、誠にいたみいりますわ!」
 いつの間にかスケッチブックに密接していた顔を慌てて戻し、菊華は両手を大きく振り回しながら体勢を戻した。
 とにかく小梅も小夏も無事だったんだ。それに前の部屋みたいに破壊跡はないみたいだから、昴が夜水月とぶつかり合って無茶をしたというワケでもなさそうだ。
 まだ安心するには早すぎるが、ここで焦っても何も始まらない。昴が院長と、夜水月についてどんな話をしているのかは知らないが、彼が戻ってくるのを待つか、もしくは時間を見てこちらから連絡を入れるしか……。
《一つ、お聞きしてもよろしいですか?》
 考え込む菊華の前にまた新しい文章が出される。
「はい? 何ですの?」
《黒岩さんは、私のことが疑わしいから色々と調べられたんですよね》
「え、えぇ……」
 『疑わしい』……。改めて文字に直されると、このうさん臭い漢字の造形が引き立つ……。
《なのに、どうしてまだ力を貸してくださるんですか? 今していることは病院の経営とは何の関係もないんじゃないですか?》
(う……)
 ストレートに書かれて菊華は返答を呑み込む。
 確かに関係ないかもしれない。七不思議や手毬歌、夜水月がらみの問題を解決したところで、直接は経営好転には繋がらないだろう。というより経営悪化の原因はすでにハッキリしているのだから、それを改善すれば恐らく立て直せるんだ。
 だが――
「そ、そーんなことありませんわ。幽霊退治は古来より舞踏家の勤め。恐がる患者さんが減ればそれだけ来院しやすくなりますし、ワタクシのダンスの腕前も上がって一石二鳥ですわ。あと院長への個人的な怨みも晴らしてませんし。まだまだワタクシがしなければならないことは残ってますわ」
 それに、あの便所ゴキブリバカに聞きたいこともあるし……。
《ありがとうございます。いつの間にかこんな面倒なことに巻き込んでしまって。黒岩さんには一方的にご迷惑をおかけしてばっかりで。無理なお願いばかりしてしまって。本当に申し訳なく思っています》
 小梅が書いた内容に、菊華の体から余計な力が抜ける。そして軽く息を吐きながら笑みを浮かべ、
「まぁ、こういうことはもう慣れっこですわ」
 落ち着いた口調で言った。
「ワタクシ、弟や妹が沢山いますの。大きくて食いしん坊の春牙、超能力オタクの夜鈴、体は小さいけど負けん気だけは一番強い御剣、その御剣の後をいっつも付いて回る鞘菜。まだまだ甘えたい盛り、何をするのも一緒の三つ子ちゃん、朝霧と真昼と夕凪。幼稚園生の四人組は、インドアライフ大好きな朱乃介、食べられる草が分かる黒魅、女の先生のお尻が大好きなおませさん蒼吹、まだ幼稚園に通い始めたばっかりの白砂ちゃん。十一人も。それだけいたら、もう毎日毎日が大騒動。定期考査前の春牙に勉強を教え終わったかと思ったら、夜鈴がワタクシを実験台にしようとするし。御剣の気が済むまで腕相撲に付き合ったかと思えば、鞘菜にやきもち焼かれますし。朝霧と真昼と夕凪を寝かしつけたかと思えば、三人でワタクシの体にしがみついて離してくれませんし。朱乃介とテレビゲームをしていると、蒼吹がワタクシのお尻を撫でて邪魔してきますし。白砂ちゃんのおやつにクッキーを作ってあげようかと思ったら、材料を黒魅が全部野草にすり替えてますし。……結局それで七草がゆ作りましたけど」
 沢山の弟や妹達の顔を一人一人思い浮かべていきながら、菊華は苦労話のほんの氷山の一削りを話す。
「まぁとにかく、いつもこんな感じですから別にこのくらい。あの子達全員を一度に相手することを考えると、どーってことありませんわ」
 腕を組み、少し照れくさそうに顔を逸らしながら菊華は付け加えた。
 結局、そういう性格なんだろう。
 乗りかかった船というか、一蓮托生というか、棺桶に片足を突っ込んだというか。
 とにかく世話好きなんだ。
 物心付いた時にはすでに春牙という弟ができていて、姉としての自覚も芽生えていないのに夜鈴ができて、開き直ろうとしたら御剣ができて鞘菜ができて。ようやく覚悟が決まったと思ったら朝霧、真昼、夕凪と一気に三人増えて。手が回っていないのに朱乃介ができて。春牙も世話役として教育しようと思ったら黒魅ができて。もう全部一人でやってやると腹をくくったら蒼吹ができて。さすがに打ち止めだろうとたかをくくっていたら白砂ちゃんができて……。
 心斎橋に任せるという発想は、殆ど慣れきった後に出てきたんだ。
 しかしよくもまぁ飽きもせずにぽこぽこぽこぽこと……。この前聞いたら子供達“だけ”でサッカーの“試合”をするのが夢だそうだから、弟妹はまだまだ増えそうだ。
 まぁ、慣れてからは世話をするのが楽しいから別に良いが……。
《分かります。黒岩さんって、初めてお会いした時から“お姉さん”って感じでしたから。凄くしっかりしてそうな印象でしたから》
 小梅の文章に、菊華はまたむず痒いモノを覚えた。
《私も、姉には凄く可愛がって頂いておりました》
 それが一気に微笑ましさへと昇華する。
 自分が調べた範囲でも、昴から聞かされた内容の中でも、小夏と小梅はおとぎ話にでも出てきそうなほどに理想的な姉妹だった。
《昔から体の弱かった私を姉はいつも気遣ってくれて。遊び道具も、布団も、食事も。何でも私に譲ってくれました》
 初めてできた妹が可愛かったんだろう。
 自分のことは二の次、三の次で、小夏は小梅に沢山の愛情を注いでいた。いつも小梅のことを優先して物事を考えていた。
《姉はしっかり者で、頼りがいがあって、優しくて。あまり学校に行けない私に勉強を教えてくれたり、母親がいない時は代わりに美味しい料理を作ってくれたり、お手玉を使った遊びを沢山教えてくれたり》
 いつも小梅の体のことを気に掛けて、いつも小梅が楽しそうに笑ってくれるように努力して、いつも小梅の幸せばかり考えて。
 分かる。よく分かる。
 世話のしがいのある妹や弟は本当に可愛いんだ。まるで自分の子供のように。
《だから姉さんが亡くなった時は私も死のうかと思ったくらいに悲しかった》
 もし、そんな彼らが一人でもいなくなってしまったら――
 一瞬想像しただけで胸の奥が痛くなった。
 ありえない。そんなことは絶対にあってはならない。この先何人増えようとも、彼らの中の誰かと一生会えなくなるなどということは起こってはならない。
《ですけど、今は凄く幸せです。ずっと姉さんと一緒にいられるから》
 幸せ……。
 その形は人それぞれだが、小梅と小夏の関係は少し悲しいかもしれない。
 だがそれでも会えないよりはずっといいだろう。姿が見えないよりは、話せないよりは、笑い掛けてくれないよりは。
 本人が幸せだと感じているのなら。
《姉さんは、本当に私にとって理想の姉さんなんです》
 理想だと思って――
《すいません。取り留めもない話を》
 違和感。
「い、いえ……とんでもないですわ。お二人の仲の良さがとても伝わって来ましたわ」
 何だろう。今、妙な引っかかりを覚えた。
 少し前にも全く同じ感情を抱いたことがある。
 作為的で、都合が良すぎる感覚。あの時はその正体が何なのかよく分からなかったが……。
「あの、小梅さんはお姉さんとケンカとかしたことは、ございますか?」
 突然菊華が言った言葉に、小梅は愛嬌のある目を大きくして口を半開きにした。しばらくその状態で固まっていたが、やがて束縛から解放されると、首を大きく左右に振って否定する。
「一度も、ですの……? どんな小さな揉めごとも……?」
 続けて尋ねる菊華に、小梅は不審気に首を傾げて見つめてくる。質問の意図が分からず、そんなことを言われること自体が不快だと言わんばかりに。
「あ、あぁ。申し訳ありませんですわ。ほ、ほら。ワタクシの所は大家族ですから。小さなトラブルがわりとちょくちょく起こるんですのよ、オホホホホホ。お二人が羨ましいですわ。ずっと仲良くする秘訣でもあるんですの?」
 言われて小梅は少し考え、
《私達の場合は、姉が何でも譲ってくれましたから》
 それだ。
 それが少し妙なんだ。
 小梅と小夏の年の差はせいぜい二、三年。自分と長男の春牙と同じくらいの開きだ。
 正直、いくら相手が年下だからとはいえ“全て”を譲る気にはなれない。ケンカを“全く”しないということはありえない。
 どれだけ仲が良くても。どれだけ相手のことを知っていても。互いに譲れない部分はあるし、それについて争うこともある。勝つこともある。負けることもある。数分で決着することもある。何週間も掛かる時もある。自分達だけで解決できない時は、周りの助けを借りることもある。
 こういう小さないさかいを何度も繰り返して、仲というのは深まっていくのではないのか? 相手のことが分かるんじゃないのか? 機械ではないのだから、生まれた時から相手のことを全て知るなど不可能だ。
 むしろ知らないからこそ、これからももっと相手のことを知ろうと努力して、それが絆や友情という物に発展していくのではないのか?
 少なくとも自分はそう思っている。
 だが小夏と小梅の場合、最初からお互いのことを知り尽くしているかのような間柄だ。まるで何十年も連れ添った夫婦のような……。
 そして最も引っかかったのが『理想』という言葉だ。
 ――理想の姉。
 もしこういう表現をするのであれば、それは本当の姉ではなく、“姉になって貰いたい人物”に対して使うのが自然なのではないのか?
 理想というからには、何か比較対象がなければならない。何かと比べて勝っていなければ、理想――すなわち自分の中での“完全なる存在”とはなりえない。
 多くの場合、その比較対象の部分に“本当の姉”がくる。なぜなら沢山の欠点を見てきているから。血の繋がりがない者達よりも遙かに長い時間を共に過ごす以上、それは避けては通れないことだから。
 だから理想の偶像を追い求める。良いところだけしか知らず、欠点など一つもないように見える者に理想を押しつける。
 それはすれ違うだけで話したこともない女性だったり、雑誌の中のモデルだったり、芸能人だったり。
 だが小梅は何のためらいもなく、小夏のことを“理想”だと表現した。自分にとって非の打ち所のない、完全な存在だと……。
「小夏さんは、最初から大人だったんですのね。自分がどれだけ未熟なのかがよく分かりますわ」
 何とか誤魔化し笑いを浮かべ、菊華は柔らかい物腰で返した。
 小夏が大人……。聞き分けのよい、俯瞰的な視野を持った大人の女性。
 小夏には悪いが、先程の不安定な言動を見せられてはとてもそうは思えない。今だってどこか虚ろな表情で、自分達の会話もろくに聞き取れていない状態だろう。
 きっと小夏は自分の感情をそのまま表に出す性格なんだ。頭に血が上りやすく、すぐにカッとなってしまうタイプ。
 本来ならば。
 だが、小梅に対してだけは違ったのかもしれない。
 自分を押し殺して、無理にでも“理想の姉”を演じていたのかもしれない。
 本当は小夏も同じ年代の子達と遊びたかったのではないのか? 家の中で小梅の相手をしているのではなく、もっと外で元気良く駆け回ってみたかったのではないのか? 自分勝手に好きなことを好きなだけやりたかったんじゃないのか?
 わがままを言って親を困らせてみたり、小梅を押しのけてでも親に甘えてみたり、親からの愛情を独り占めしたくなったり。
 小梅と言い争ったり、一つの物を奪い合ったり、姉として偉そうにしてみたり。
 それが普通だと思う。十代の女性として、当たり前の反応だと思う。
 しかし小夏は“理想”であり続けた。
 それが違和感の正体だ。
 あまりに作為的で出来すぎている。おとぎ話のように都合が良すぎる。
 もっと直接的な言葉で言ってしまえば、まるで作り物の姉妹のようにすら思える。
 そんな関係……可哀想だ。どうしてそんな風になってしまったのかは知らないが、そんな歪な状態ではいつ亀裂が入っても……。
「あれ?」
 部屋の出入り口の方で声がして、菊華はそちらに顔を向けた。
「菊華さん。こんなトコで何やってるのですか?」
 湿った音。
「そ・れ・は・こッッッちの台詞ですわ、東雲さん」
 昴を後ろから床に叩き付け、後頭部にヒールを埋め込みながら菊華は凄む。
 何をやっているのか、だと?
「あ・な・た・を・待っ・て・た・ん・で・す・わ! しの――」
 電気を流されたような強烈な痺れ。脚の感覚が一瞬にして消え失せ、勝手に腰が折れて座り込んだ。
「東雲さんに……乱暴すんじゃね……」
 呪詛でも吐くかのような低い声。
 顔を上げる。小夏が強烈な殺気を孕んだ視線でこちらを見下ろしていた。
「こ、小夏さん! やりすぎなのです! 僕は全然平気なのです! いつものことなのです!」
 昴が焦った声を上げて間に割って入り、庇うように両腕を広げる。
(え……)
 そして小夏の表情が一変した。
 激しい怒気を湛えた形相から、今にも泣き出しそうな童女の容貌へと。
 怒りと哀しみが同居し、小夏の顔付きが不安定に変わり続ける。まるでどうすればいいのか分からず、何かに助けを……いや、許しを求めているかのような――
「あんたもか……」
 小さく、消え入りそうな声。
「東雲さん……あんたも、同じことするんじゃな……」
(同じ、こと……?)
 腕の力だけで体を支え、菊華は痛みにも似た掻痒感に耐えながら小梅の言葉を繰り返した。
「いやじゃ……もぅいやじゃ……。そうやって言われるんは、もう沢山じゃ……」
「こ、小夏さん……? 一体何を……」
「いやじゃ……。もう、渡さん……。渡さんぞ……」
 小夏は自分の頭を抱え込み、上半身を不気味に揺らしながら焦点の合わない視線を投げ出して、
「東雲さんは……ワラシのもんじゃぁ!」
(な……)
 叫声と同時に室内の空気が変わった。
 自重に潰されるかと思うほどの重圧感。脚だけではなく全身の自由が消え失せ、縫い止められたかのように動けなくなる。
「こ、小夏さん! どうして……!」
 絡め取られる。心を。喰らい尽くされる。精神を。
 体の内側に直接舌を這わされ、魂をそのまま持って行かれそうな感覚。
 何だ……一体何が……。この部屋は、どうなって……。
「そこどきぃ! 東雲さん!」
 ベッドから跳ね起きて床に着地し、小夏が叫ぶ。
「どかないのです! お願いだから落ち着いてくれなのです! ワケを聞かせて欲しいのです!」
 空気が低い声を上げている。昴と小夏の間で見えない何かがぶつかり合っている。
「もう渡さん! 誰にも渡さん! 東雲さんはワラシが……!」
「僕はどこにも行かないのです! 小夏さんがよろしければずっと一緒にいるのです!」
「嘘じゃ! そんな嘘で騙されん!」
 いや違う。うっすらとだが視える。
 これは……蛇? 蛇が……蛇の牙が……。それを素手で受け止めて……。これが昴の言っていた、小夏の力……?
「小夏さん!」
「騙されるか! 渡すか! その女を! 殺す!」
 殺す。
 誰に向けられた言葉なのかすぐには理解できず、菊華はおぞましい悪寒を体内にわだかまらせたまま放心する。
「殺してやる! その女も! 殺してやる! 殺してやる!」
 大声で何度も連呼される同じ言葉。その一つ一つが黒い刃となって、心の奥底を深々と抉っていった。
「小夏さん! 頼むから話を聞いて欲しいのです! どうして急に……!」
 蛇の顎が閉じようとするのを両手で押さえ付けて防ぎながら、昴は声に力を込めて叫ぶ。
 そうだ。その通りだ。どうしていきなりこんなことになっているんだ? ほんの少し前までは落ち着いて静まりかえっていた病室だったのに……。いったい何がキッカケでこんなことに……。
「もう嫌じゃ! 我慢は沢山じゃ! 渡すか! 絶対に渡すか! 殺す! 殺してやる!」
 脚が痺れて、昴に庇われて、それで小夏の様子がおかしく――
 “我慢”……? 今、“我慢”と言ったか……?
「駄目なのです! そんなことはさせないのです!」
「なんでじゃ! なんで庇う! その女はあんたを……! あんたを……!」
 小夏の怒声に呼応して立て続けに鳴り響く破砕音。空気が弾け、その余波が部屋を軋ませ、振動させて視界を大きく揺さぶる。
「だから僕は平気なのです! 全然何てことないのです! こんなのいつものことなのです!」
「いつも――じゃとォ!」
 小夏の声が一際大きくなり、部屋の上げる悲鳴がより鮮明な物となる。天井の蛍光灯は引き千切られんばかりに振れ回り、額に入れて壁に飾られていた花の写真が落ち割れた。空の鳥かごは床に吸い込まれて派手な音を上げ、窓ガラスは内圧に耐えきれなくなって細かく飛散する。
「またか! あんたまでワラシを……!」
 “また”……? “また”って何だ……? さっきから彼女は一体何を……。
「小夏さん!」
 一体何と重ね合わせて――
「小夏さんはこんなことする人じゃなかったはずなのです!」
 止んだ。
(え……)
 全ての音が消え失せた。
 小夏の怒声も、昴の叫び声も、部屋の泣き声も。
 ついさっきまで複雑に入り交じり、ぶつかり合い、膨大な共震動を生み出していた音が全てなくなった。
 まるで停電にでも見舞われたかのように唐突に、あまりにも不自然に――
「こんな、こと……?」
 その静寂に入り込むようにして小声が紡がれる。
「また、それか……」
 “また”。
 小夏の口から零れた言葉に感じる、胸騒ぎにも似た違和感。
「じゃあ、何じゃ……。ホントのワラシは、どんな……」
 危なげに体をふらつかせ、小夏は視線を虚空に投げ出したまま声を漏らす。
「本当の、ワラシ……?」
 雰囲気が変わった。
 曖昧で掴み所のない物から、鮮明に象られた物へと移り変わっていく。
 それは夢の中での出来事を思い出したかのような――
「小夏、さん……?」
 昴の声にも何も反応しない。
 小夏はただ自分の両手を見つめたまま、必死に焦点を合わせようと頭を揺らしている。
「……本当、の」
 自分で口にした言葉を咀嚼し、燕下し、反芻してまた咀嚼する。
 そんな作業を何度も繰り返し、小夏は奥にしまい込んでしまった古い記憶をたぐり寄せて――
「本当は……」
 顔を上げた。
「ワラシ、は――」
 掠れ、途切れ、泣き出しそうな声。
 目は何かに怯えるように大きく見開かれ、下顎は力なく落ちている。両腕は幽鬼のごとく垂れ下がり、重力に抗うことを忘れてしまったかのように全身を脱力させていた。一瞬にして酷く老け込んだようにも見える。
 もし、絶望というものを目の当たりにしたとすれば、きっとこうなってしまうのではないか。
 そんな想像を容易に掻き立てるほどに、小夏は別人へと変貌してしまっていた。
「あ……」
 一歩下がる。
 小夏は昴から目を逸らし、自分からも目を逸らし、視界に映る物全てから逃げ出すように不審に顔を動かしながら後ずさっていく。
「あ、ぁ……」
 身をよろめかせ、今にも倒れ込みそうになりながら、ベッドの隅に体をぶつけて――
「あああああぁぁぁぁぁああぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁ!」
 金切り声が部屋を激震させた。
「小夏さん!」
 昴の叫び声が聞こえ、続けて響く甲高い破砕音。ワンテンポ遅れてガラスが床に足音を残していった。
 そしてまた静寂。蛍光灯が数回明滅したかと思うと、部屋は完全な黒一色に呑み込まれてしまった。
「は、ははは……」
 すぐそばでする情けない笑い声。それが自分の物だと気付いた時、ようやく二人が窓から出て行ってしまったのだと理解した。
「何、ですの……」
 突然何が起こったというんだ。さっきから立て続けに色んなことが襲ってくるものだから、もう笑うしかないではないか。笑って自分を誤魔化すことくらいしか……。
(……違いますわ)
 いや、そうじゃない。そういうことではない。そんな都合の良い現実逃避をしている場合ではない。
 自分がここにいるのはどうしてだ。何のためにこんなことをしているんだ。
 病院の経営を立て直すため。オカルトを克服するため。真宮寺太郎のことを知るため。院長の本当の狙いを暴くため。手毬歌の正しい解釈を行うため。そして――
(雛守さんの力になるため、ですわ)
 どういう経緯だったのか、もう詳しいことは覚えていないが、その意志だけはしっかりと心に根付いている。
 小梅と小夏の力になり、彼女達の望む生活を実現させてやること。
 それが今の自分が成し遂げなければならないことだ。だからこんな所で呆けている時間はない。今すぐに追わなければ。
 だが――
(『殺す』……)
 足が動かない。もう痺れは残っていないのに力が入らない。立ち上がることができない。
 あの時の半狂乱となった小夏を思い出しただけで体中に震えが走る。怯えが伝播しきる。
 本気だった。
 間違いなく本気だった。本当に殺そうとしていた。もし昴がいなければ、自分は今頃……。
(いなけれ、ば……)
 いなければ――
(こんなことにはなってなかっ、た……?)
 よくよく思い出してみれば、あのゴキブリKYがそもそもの元凶なんじゃないか。あいつが『何やってんの?』とか言いながら入って来るから、自分の嗜虐心に火が付いて、それが小夏の怒りを買って、蛇が出てきて、部屋中をボロボロにして……。
「何てことですの!」
 一人叫びながら菊華は勢いよく立ち上がった。
 よくよく考えてみれば何と腹の立つ。あいつさえ入って来なければ。入って来るにしても、もっと気遣って入って来さえすれば、こんな大惨事にはならなかったのではないか。
 アンビリーバボー。とっとと追って色んな場所に風穴を開けなければ。それにここにももうすぐ人が来るかもしれない。
 何にせよ部屋を出なければ。そして昴と小夏を見付けなければ。しっかりと話を聞かなければ。
 とにかく小夏のあの豹変ぶりはおかしい。異常だ。
 いくら昴のことが好きで、自分の暴力行為に反感を覚え、間違った嫉妬心をつのらせたとしても、にわかには理解しがたい行動だ。きっと他に何か要因があるはず。
 それに彼女は昴が来る前からすでにどこか変だった。心ここにあらずといった様子で、精神状態が不安定だった。
 何だ。小夏に何があったというんだ。
 さっき言っていた“我慢”や“また”に関係が――
「どうやら全部思い出したようデスねぇ」
 ドアに手を掛けた時、背後から声が掛かった。
「自分の犯してしまった過ちを。五十年前、ボクと交わした契約を」
 聞き覚えのある高い声に、菊華は慌てて振り返る。
 出窓に腰掛け、足を揺らしながらこちらを見ていたのは黒い少年。肩に黒い鳥を乗せ、窓から差し込む月明かりを背に受けて静かに佇んでいた。
「夜水月……」
「再びお目に掛かれて光栄デス。黒岩菊華様」
 音もなく床に降り立ち、夜水月は胸に手を当てて慇懃に頭を下げる。
「ワタクシはあなたなどに会いたくありませんでしたわ」
「酷いお言葉デスね。こう見えて意外と繊細なんデスよ?」
「本当に意外ですわ。そんなことでは死神は務まらないのではなくて?」
「死神とは魂が迷わぬよう保護する旅先案内人。皆様の輪廻転生をお助けするのがボク達の仕事でございますデス」
「では自分から魂を狩ろうとする者は何と言いますの?」
「驚かれないデスねー。動じないデスねー。さすがでございますデス」
 黒いシルクハットを目深に被り直し、夜水月は楽しそうな口調で言った。
「どこかの立派なダメ人間ゴキブリのおかげで、すっかり慣れっこですわ」
「それはそれは」
 体ごと向き直り、毅然とした態度で見下ろす菊華に、夜水月はおどけたように肩をすくめて見せる。
「小梅さんも小夏さんも、あなたなんかには絶対に渡しませんわ」
「勇ましいことデス。もし黒岩様がお亡くなりになられたら、さぞかし霊格の高い存在になられることでしょう」
「そんな先のことなんて知りませんわ」
「彼女達の助けになる。それが黒岩様の望みでしたデスね」
 語調を低い物に変え、夜水月は言葉に含みを持たせながら続ける。
「雛守小梅様と小夏様。彼女達の望みとは何なのデスかね」
 答えを知っていながら聞いている。こちらが正解を知っているのか、それを探るために尋ねてきている。
「黒岩様が本当に叶えられることなんデスかね」
 本当に嫌いなタイプだ。吐き気がする。
「あなたをここから出すわけには参りませんわ」
 言いながら菊華はタイトスカートのポケットに手を入れ、手探りだけで携帯を操作した。
「ボクを足止めするつもりデスか?」
「その通りですわ」
「クッ……」
 菊華の返答に夜水月は小さく笑い、指をパチンと鳴らす。それに応えて黒い鳥は飛び立ち、窓から外に出ていってしまった。
「さぁ、残すところはクライマックスのみ。最後は、あなたにも舞台に御足労頂きましょうか」

◆東雲昴の『久しぶりに心の底から腹が立った』◆
 熱を帯びた頬に夜風が吹き付ける。それが滲んだ汗を撫で上げ、悪寒にも似た寒気を体に落としていた。
 この汗は激しく体を動かしたことによるものか。あるいは、果てしない不安に起因するものなのか……。
 多分、両方だ。
 そして両方とも、今目の前にいる女性が生み出しているものだ。
「東雲さん……覚えとるか……?」
 白地に桃色の水玉模様が描かれた少し大きめのパジャマに身を包み、小夏は弱々しい声で呟いた。
「初めて会った、時のこと……」
 屋上の高いフェンスに背中を預け、小夏は体を脱力させたまま言葉を紡ぐ。
「あん時は、ホンマにびっくりした……。ワラシが見えて、ワラシと喋れて……。そんな人、おったんかって……。ほんに、たまげた……」
 まるで魂が抜け落ちたかのように、虚ろな視線を投げ出して続ける。
「あんたはワラシのこと、まんざらでもなさそうじゃったし……ワラシも、別に、そんな……。なんせ、五十年ぶりじゃ……。五十年ぶりに、誰かと話したんじゃ……。人間らしいこと、したんじゃ……。一気に、あんたに惹かれてもうた……」
 乾いた笑みを張り付かせ、小夏は後ろで煌めく街のネオンに顔を向けた。
「けどもな、ずーっと思っとったんじゃ」
 そして声から更に力が抜け、
「ワラシには、そんな資格ない、ってな……」
 遙か下から聞こえてくる車のクラクション音にすら負けそうな声量で言う。
「なんでかはよー分からんけど……ずっと、そう思ーとった……。あんたのこと、好きじゃけど、好きにはなれん……。なったらあかんけぇ……。そない、思ーとった……」
「どうして、なのですか」
 拳を固く握り込み、絞り出すような声で昴は聞く。
 分からない。理解できない。
 自分も小夏のことが好きで、小夏も自分のことを好きでいてくれているのに、どうして結ばれてはいけないんだ。
「ワラシなぁ、人殺しなんよ……」
 一瞬、息が止まるかと思った。
 冗談にしては悪質すぎる。本気にしては真実味がなさ過ぎる。
 生気を感じさせない瞳を向け、どこか自虐的に言う小夏は、こちらをからかっているようでもあり、受け入れきれない真実を茶化しているようでもあった。
「な、何を……急に……」
「それ、やっと思い出したんじゃ……。今まで、ずーっと思い出せんかった……。やっぱりじゃ。やっぱりなんかあった、あの歌……あの、手毬歌」
 小夏がこうなってしまった理由。小梅の体の中にいるワケ。小夏がしなければならないこと。それらを知る手掛かりとなるだろう手毬歌。
「やっと、分かったんよ。意味が……」
 その正しい解釈。
「あの歌はな、手毬歌でもなーんでもなかった。夜水月のゆーてた通り、呪い歌じゃったんよ」
 自分も考えた。菊華も知恵を絞ってくれた。
 そして院長も――
「あれは、殺したいモンの名前、紙に書いて……。そいつを夢ん中で殺す。そのための方法を歌っとったんじゃ……」
 誰かを呪い殺す方法。
 そんな物はいつの時代にも伝わっている。表面上の形を変えて。中身は全く変わらずに。
 だから病院の七不思議にも同じような内容がある。院長はそう言っていた。
「うーしみーつどーきにーはめぇさーませー」
 丑三つ時には目を覚ませ。
(午前二時から三時の間に起きなさい)
「わしがひーだり、すーみがみぎー」
 和紙が左、墨が右。
(そして左手に紙、右手に筆を持ちなさい)
「はーしらーせ、はーしらーせ、のーろうのなー」
 走らせ走らせ呪うの名。
(紙に呪いたい者の名前を書きなさい)
「ふーせるーな、ふーせるーな、ひーのわーがでーるまーで」
 伏せるな伏せるな日の輪が出るまで。
(日の出まで寝ずに起きていなさい)
「すーずめーがなーいたーら、わーしとーばそー」
 雀が鳴いたら和紙飛ばそ。
(午前五時から六時の間に紙を折って空に飛ばしなさい)
「あーさめーしまーえにーは、ねんさーらせー」
 朝飯前には寝んさらせ。
(午前七時になる前に眠りに就きなさい)
「ゆめーがうーつつに、おーもいーがかーなうー」
 夢が現に思いが叶う。
(夢の中で相手を殺しなさい。そうすればそれが現実となる)
「いいこーのとーこにーはふーくきーたるー」
 良い子のとこには福来る。
(すべてを、きちんと成し遂げた者の所には……)
「どうじゃ……?」
 歌い終え、小夏は薄ら笑いを浮かべながらこちらを朧気に見る。その表情は投げやりで、自傷的で、そして満足げですらあった。
「意味、分かってくれたかの……? 東雲さん……」
 ゆらゆらと年経た柳のように体を揺らしながら、小夏はまるで力のこもっていない声で聞いてくる。
 昴は何も返さない。ただ小夏からは寸分も目を逸らすことなく、下唇をきつく噛みしめて苦しそうに低く呻いている。
「なんも言わんのは、もぅ大体は知っとるからじゃろ……? さすがじゃあ、東雲さん……」
 ――七つ、『呪い殺したい相手の名前を紙飛行機に書き、三階の窓から飛ばせば夢の中で殺せるようになる』
 和紙を飛ばし、夢の中でその相手を殺せばそれが現実となる。これが手毬歌を正しく解釈するための、“一つ目”の七不思議。
「ほんなら、なんでワラシがこんなんなったかも、知っとるんじゃろ……?」
 そして二つ目は――
「ワラシが、ええ子やなかったからじゃよ……」
 ――五つ、『夜勤明けに病院の入口の前で願い事を言うと、必ずその逆のことが叶う』
「当然じゃぁ……。人殺しが……“自分の妹”殺そうゆう奴が、ええ子なワケないもんなぁ……」
 だから逆流した。呪いが小夏自身に降りかかってしまった。
「小梅、ばっかりじゃった……。体が弱いって、あの子ばっかり構われて……お父ちゃんも、お母ちゃんも、小梅、小梅って……。ワラシはいっつも、『お姉ちゃんなんじゃから――』、『丈夫なんじゃけぇ――』。こればっかりじゃった……。馬鹿みたいに、毎日毎日、おんなじことばっかり……」
 膝が折れ、その場に座り込み、しかしまたおぼつかない動きで脚に力を込めて、小夏はフェンスにもたれ掛かりながらも体を支える。
「小梅から目ぇ離すと怒られた……小梅の面倒見ると褒められた……。全部、小梅が真ん中におって、その周りを、ワラシらがぐるぐる回っとって……。ちょっとゴネたら、『我慢せぇ――』、『あんたはそんな子違うじゃろ――』、『お姉ちゃんなんじゃから――』……。お姉ちゃんなんじゃから、お姉ちゃんなんじゃから、お姉ちゃんなんじゃから……。最後はいっつもこれじゃ……。それ言われるたんびに、胸苦しなって、しんどなって、辛なって……。そんなん、嫌じゃったから……我慢しとった……。ワラシも褒められたかったから、ずっと我慢しとった……。我慢して、小梅の世話して、小梅のこと一杯考えて、ずっと小梅のことだけ見とった……。ほしたら、まだ楽じゃったから……。『お前はエライ子じゃ』て、褒めてくれた……」
 体が大きくて丈夫な姉と、小柄で病弱な妹。どちらに神経を割くべきかと聞かれれば、大多数の人間は妹の方を優先的に見ると答えるだろう。それは決して間違った選択ではない。しかしそれだけに集中するのは正しい選択とは言えない。
 外見の強さと内面の強さが一致するわけではない。子には親が必要なんだ。特に幼い頃は。子が誤った方向に行こうとするのを正す道標として。
「小梅は可愛かった……。ちっさくて、素直で、よーなついてくれて。いっつもワラシの後を付いてきてくれた……。物あげたら喜んでくれて、勉強教えたら喜んでくれて、小梅が喜んだら、お父ちゃんもお母ちゃんも喜んでくれて、ワラシもそれが嬉しくて……。小梅とは、ずっと仲良うしよ、そう思っとったんじゃ。小梅と仲良うしとるうちは、みんなニコニコしてくれるけぇ……。けど――」
 言葉を切り、小夏はまた危ない笑みで頬を引きつらせて続ける。
「けどな……これがずっと続く思ったら、ぞっとした……。一生、小梅のそばで小梅のことだけ考えとらんといかん思うただけで、体が震えてきた……。いやじゃ思うた……。そんなん絶対いやじゃ思うた……。いやじゃ思うたら……すぐにでも出たなった。ここから、逃げたなった……。けど出られん、逃げられん……他に行くとこなんぞないけぇ……。ほしたらどうしたらええ……どうしたら……」
 頭を押さえ、髪を掴み、小夏は何かから顔を背けるように辺りを見回す。が、すぐに動きを止め、遠くの景色を写し込んだ視線をこちらに向けて――
「簡単じゃ……小梅がおらんようになったらええ……小梅が出ていってくれたらええんじゃ……」
 老婆のようにしゃがれた声で言った。
「小梅さえおらんようなったら……小梅さえ生まれてこんかったら……。そう思って、試してみたんじゃ……」
 口を三日月の形に曲げ、小夏はまるで何かに取り憑かれたように喋る。
「昔、誰かに教えてもろーた、呪い殺し。うーしみーつどーきにーはめぇさーませー……」
 そしてまたあの手毬歌を口ずさみ、体を左右に振り始める。それは舞いでも踊るかのようで、しかし不気味に、そして荒々しく――
「ゆめーがうーつつに、おーもいーがかーなうー。いいこーのとーこにーは……」
 哀しく、儚げに。
「ワラシは……小梅を殺した……。夢ん中で……なんも迷わず……首を、絞め殺した……。小梅もなんも暴れんと、絞め殺された……あは……あははははは……」
 壊れた笑いが小夏の口から漏れ零れる。
 そのまま彼女は崩れ落ち、捨てられた木偶人形のように四肢を投げ出した。
「殺した……殺したんじゃー……ひっ……。ワラシ、小梅を、殺した……殺した、小梅を……あふ、うふふふふふふふ……」
 そして何度もうわごとを繰り返す。気が触れてしまったように、何度も、何度も……。
「もぅ、いいのです……」
 震える声で呟きながら昴は小夏の方に歩を進めた。
「もぅ、十分なのです……」
 一歩、一歩。小夏を気遣いながら、小夏のことを想いながら。
「小夏さん……あなたは、誰も殺してなんかいないのです……。あなたは、何も悪くないのです……」
 小夏がしたことは肯定されるべきことではない。だが決して否定されるべきことでもない。小夏は両親からの愛情に飢えていた。もっと自分を見て貰いたがっていた。
 甘えたかった。好きなことをしたかった。自分らしく生きたかった。
 その不満が積もり、爆発してしまったのは小夏のせいではない。勿論、小梅のせいでも両親のせいでもない。誰の責任でもない。
 ただしょうがなかった。
 こうなってしまったのは事故だ。だから――
「そんなに、自分を責めないで欲しいのです……」
 小夏のそばで片膝を付き、昴は彼女を両腕で抱きかかえる。そして胸元に引き寄せ、柔らかいセミロングの黒髪を優しく撫でた。
「……め…、…梅……。ご……じゃ、小梅……。…、め……」
 か細く、途切れ途切れに聞こえてくる小夏の声。昴はその言葉へと耳を近付け、
「ごめん、な、小梅……。ごめん……。ごめん、小梅……。ごめん、ごめん……」
 腕の中で何度も繰り返し続けていた。完全に自失し、乾ききった表情に涙を浮かべ、小夏は赤子が親に許しを請うように、何度も、何度も……。
「小夏さん……」
 彼女の名を呼び、昴は一層強く抱き締めて――
「望みは果たされたようデスね」
 落雷に射抜かれたような緊張が走った。
「忘れ去られていた記憶が強い精神ショックによって蘇り、五十年越しの思いを遂げられたということデスか。いやはや、人の力というのは凄いものデスね。感動いたしましたデス」
 小夏を抱きかかえたまま、昴は肩越しに後ろを振り向いた。
「夜水月……」
 そして吐き捨てるようにそいつの名前を口にする。
「さすがですね、東雲様。まさか無意識に雛守小夏様の記憶を刺激してくださるとは。てっきり、あの男から聞いた呪い歌の意味が、思い出すキッカケになるのかと思っていましたデスよ」
 肩で羽を休める黒い九官鳥に目配せしながら、夜水月はイヤらしくほくそ笑む。
(西九条……)
 やはり聞かれていたのか。院長室での会話。
「まぁボクとしてはどっちでも良いデス。思い出していただければ」
「小夏さんは絶対に渡さない。お前なんかには何があっても渡さない」
「そう意気込まれるのは東雲様の勝手デスが、雛守様のご都合も聞かず一方的に守ろうとするのは迷惑というものデスよ?」
「そんなの聞くまでもな――」
「夜水……月……」
 虚ろな声がすぐそばで聞こえ、昴はそちらに顔を向けて視線を落とす。
「もぅ、ええ……。もぅ、十分じゃ……」
 小夏が怠そうにこちらの腕を振りほどき、危なげな足取りで立ち上がっていた。
「こ、小夏さん……!」
「あんたんとこ……連れてってくれ……」
「な――」
 彼女の口から出た言葉に、昴は目眩にも似た喪失感に包まれる。そして目の前を、何かに吸い寄せられるようにして通り過ぎていく小夏の姿――
「小夏さん!」
 反射的に彼女の両肩を押さえつけ、昴は喉の奥から叫び上げた。
「何言ってるのです! そんな馬鹿なこと――」
「東雲様、女性を乱暴に扱うのは無粋ですよ?」
 耳の裏から聞こえる声。
「――ッ!」
 続けて脇腹に熱が走り、内臓が圧迫されて視界が飛ぶ。
「ここから先はボクと雛守様の“契約”デス。部外者は少しお静かに願いましょうか」
 背中からフェンスに叩き付けられ、昴は咳き込みながら夜水月を睨み付けた。
「契約、だと……!?」
「そう」
 宙に体を固定し、小夏と同じ高さの目線から夜水月は言ってくる。
「雛守小夏様が儀式に失敗され、幽霊界に旅立たれようとした時、担当になったボクと交わした取り引きデス。すなわち、『雛守小梅に憑依することの代償として、彼女への本心を全て忘れてしまう』。そういう契約デス」
 小夏が小梅に抱いていた本心……両親を奪われたことへの――自由を奪われたことへの――自分の心を殺さざるを得なかったことへの――憎しみ。
「雛守小夏様は小梅様に謝りたかったのデスよ。だから肝心の記憶を失ってでもそばにいたいと仰った。必ず思い出してみせるからと。何十年掛かっても小梅様のことを思い出して、絶対に謝罪してみせるからと言われたのデス。だからボクは小夏様と契約した。小梅様の『声』だけをダミーとして幽霊界に送り、特例として小夏様が現世に留まることを認めた。そして五十年の時を経て、小夏様は見事悲願を成し遂げられたということデス。素晴らしい精神力ではございませんか。霊格としては申し分ないレベルでございますデス」
(霊、格――)
 夜水月が最後に付け加えた言葉に、昴の頭の中でバラバラだった物が繋がっていく。
 小夏が夜水月と交わした契約。
 小夏は記憶をなくすことで、小梅と一緒にいられる権利が得られる。だがこの契約は小夏だけにメリットとデメリットがあるだけで、夜水月には何のフィードバックもない。
 一見そう見える。
 だが違う。そうじゃない。“本当の契約”はその先にある。
 小夏が記憶を取り戻せば、自責の念に駆られて今のような精神状態に追い込まれる。気持ちを落ち着けて自分と向き合う時間がなければ、贖罪のために安直な選択をしてしまったとしてもおかしくはない。そして小夏を慕っている小梅は小夏に付いて行こうと――
 つまり、『記憶を取り戻す』ということは、『幽霊界の門戸を叩く』ということとほぼ同義なんだ。契約の内容を直接的な物にして警戒されるよりも、曖昧な物にして小夏が即決してくれた方が夜水月にとっても好都合だった。
 それに時間も必要だった。
 夜水月が望んでいる霊格に小梅の肉体を押し上げるには、小夏が憑依して不老となり、できるだけ長生きさせる必要があった。
 院長も言っていた。

『年経た動物には普通とは違う力が宿るらしいね。人間の言葉を話したり、おかしな妖術を使ったり――』

 通天閣も言っていた。
 
『ほら、聞いたことあるだろ? 猫又だとか九尾の狐だとかさ。みょーに長生きした動物は、ごくたまーにああなっちまうのさ。妖怪ってヤツ? 多分この子も似たような部類だよ――』

『人があんな風に長生きするとどうなるか知ってるかい? 幽霊界との繋がりが強くなっちまうんだよ。霊格ってヤツが上がるんだよ。それで生きながらにして妙な力持っちまう』

 だから夜水月にとっては、小夏の記憶ができるだけ長く戻らない方が望ましかったんだ。
 しかし自分が現れた。
 小夏と普通に会話のできる人間が出てきてしまった。そして状況が変わった。
 もしかすると小夏が記憶を取り戻した時、精神的な支えとなってしまうかもしれない。ショックが分散して、すぐ冷静になってしまうかもしれない。
 親しい間柄にするワケにはいかない。その前に小夏には思い出して貰わなければならない。
 だから沢山のヒントを与えてきた。
 手毬歌が鍵となっていること。その手毬歌を解くのに七不思議が手掛かりとなっていること。
 全て夜水月が与えてきた情報だ。
 小夏に全てを思い出させるために。そのキッカケを与えさせるために。
 夜水月が小夏に直接言ったところで絶対に信じないだろう。例え真実だとしても、憎んでいる相手からの言い分など受け入れるはずがない。自分だって、院長から手毬歌の解釈を聞かされても全く信じなかった。 
 そこで別の人間を利用することにしたんだ。
 小夏と五十年ぶりにまともな会話をした自分を。
 全てはこいつの計画通りだった。こんな奴に踊らされて、自分は……。
 もし、小夏がこいつに出会っていなければ……。五十年前のあの時、こいつが小夏の前に現れさえしなければ――
「そうか……」
 そんな都合の良い話、あるはずがない。
 “偶然”、妹を呪い殺そうとして自らが死んでしまい、自分のしてしまったことを悔いている者に出会うなど。その後の綿密な計画を実行するため、練られた契約を“すぐその場で思い付く”など。
 つまり――
「全部、最初からお前が仕組んでいたって、ことか……」
 そもそも同じ家で育っていたのに、小梅が小夏と一緒になるまで手毬歌を知らなかったこと自体妙だったんだ。
 あの手毬歌は五十年前に歌われていた物じゃない。
 夜水月が小夏に教えたんだ。
 小夏の家庭環境を見て、最初から彼女に目を付けていたんだ。もしかするとその家庭環境も、夜水月が作り上げた物である可能性すらある。
「東雲様、あなたは追い込まれると力を発揮できるタイプのようデスね。その感性、決して悪くないデスよ。雛守様と東雲様、お二人を守護霊として献上すれば、ボクも元の課に返り咲けそうデス」
「僕を、守護霊に……?」
 その場に身を起こし、昴は自分でも不思議なくらい静かな声で言う。
「ちっとも笑えないジョークだ」
 何だろう。頭の奥がスーっとしている。あまりに刺激の強い場面に晒されて、感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
「お前は粉々にして幽霊に送り返す。小夏さんと小梅さんは取り戻す。それだけ」
 ボロボロになったカッターシャツの左袖を引き千切り、ジーンズに付いた屋上庭園の土を払い落としながら昴は夜水月に近付く。
「勇ましいことデス。ご立派デス、東雲様。守護霊としての資質は十分デス」
 もう何も聞こえない。聞く耳を持たない。このクソチビをボコボコにする。それだけしか考えられない。
「では、その勇者様は――」
 シンプルな思考しか浮かばない。浮かべようという気にならない。この手を伸ばして、小生意気な黒ガキの首を締め上げることしか――
「こういう時、どうするデスか?」
 脚が止まった。
 夜水月が取ったシルクハットの中から、安物のマジックショーのように飛び出してきた女性の姿に。
「東雲様。ボクと取り引きをしましょう。あなたが守護霊になるか、それともこちらの黒岩様を守護霊として差し出すか。さぁ、お選び下さい」
 両腕を広げ、自らの髪の毛で拘束した菊華に横目を向けて、夜水月は慇懃に礼をした。




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