間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第八話『無理だった。一人では、絶対に』

◆東雲昴の『頭がスーっとするのです』◆
 全てが繋がったからなのだろうか。
 あるいは自分の中である意味納得できてしまったから?
 それとも、あまりに腹が立ちすぎて頭がおかしくなってしまったから――
「夜水月……」
 そういうことだ。
 もし真面目に受け止めて考えていたら、気がふれてしまいそうなくらいの憤りを覚えているから、こんなにもスッキリしているんだ。
 こいつが。目の前の黒いチビが。あまりに姑息で卑怯な手ばかり使って、チョロチョロと鬱陶しく動いてくれるから、逆に清々しい気分になってしまったんだ。
 憎さ余って可愛さ百倍。
 ふと、そんな滑稽な造語が頭をよぎる。
「分かった。取り引きをしよう」
 僅かに目を細めながら言い、昴は片手を腰に当てて姿勢を楽にした。
「それは東雲様がボクと一緒に来ていただける、と解釈してよろしいのデスか?」
「あぁ」
「何を言ってますの!」
 即答した昴に、夜水月の髪で後ろ手に縛られた菊華が叫声を上げる。
「そんな自己犠牲ちっとも格好良くなんてありませんわ! それは自己犠牲じゃなくて自己満足ですわ! そんなことして貰っても全く嬉しくなんかないですわよ!」
 身をよじらせ、夜水月の髪を引きちぎらんばかりに暴れながら菊華は語調を荒げた。
「黒岩様、そんなに心配なさらなくとも大丈夫デスよ」
 菊華の上半身にも髪を巻き付け、さらに拘束を強めて夜水月が続ける。
「東雲様はボクと取り引きをするつもりなど、全くございませんデスから」
 静かに述べられた言葉に、菊華はきょとんとした表情になり、
「え……?」
 高い声を漏らした。
 当たり前だ。こんなクズ同然の奴とまともに会話する気など更々ない。
 小夏は説得して思い留まらせる。菊華は取り戻す。夜水月は消し去る。最悪でも幽霊界とやらに押し返して、二度と戻って来られないようにする。
 ただそれだけ。
 “取り引き”なんかじゃない。一方的な“片取り”だ。こいつ相手にはそれで十分。
「力ずくでいらっしゃるおつもりデスか? 差は歴然かと思いますデスが。それとも、まだ何かとっておきの秘策を隠し持っておいでデスか?」
「さぁ」
 適当な喋りで返し、昴は夜水月の方へと歩を出した。
「『さぁ』? いけませんデスね、そんな無計画な行動。身を滅ぼすことになりますデスよ?」
「かもな」
 取り合わず、淡々と脚を前に出し続ける。
「……少し、痛みが足らなかったようデスね」
 夜水月の声が剣呑なモノとなり、低く耳に届いた。
 だが何も気にならない。何も頭に浮かばない。こいつが無様に這いつくばる映像以外、何も受け付けない。
「女性にとって顔はその人の人生その物。だからこそ美しい。だからこそ――」
 夜水月の髪が更に長く伸び、数本が菊華の頬に触れて、
「壊しがいがある」
 千切れ飛んだ。
「な……」
 目の前を舞う黒い線に夜水月の口から吃音が漏れ、
「ガキが危ない刃物振り回すんじゃないよ!」
 景気のいい烈声が夜の空気を叩く。
「女の顔に触ってもいいのは指先と唇だけさ。覚えときな」
 そして純粋な怒りを孕んだ女性の声が、夜水月の頭上から響いた。
 長い黒髪、真紅のイブニングドレス、妖艶で挑発的な雰囲気。
 口の端に美笑を浮かべた通天閣が、夜水月の真上に浮かびながらハサミを弄んでいた。
「それとも、お子様に早すぎたかい?」
「地縛霊風情が」
 忌々しそうに言った夜水月の注意が通天閣の方に向く。ほんの一瞬の間。一呼吸ほどの空白。
 だがそれだけで十分だった。十分すぎた。
「捕まえた」
 夜水月との間合いを一気に詰め、その細い首を締め上げるには。
 片腕で小さな体を持ち上げ、昴は指先に力を込める。
「東雲様、これは以前試されたかと思いますが?」
 だが気にした様子もなく、余裕の表情でこちらを見下ろしてくる夜水月。
 確かに前にも同じことをした気がする。こいつと初めて出会った時。小夏の病室で。
 あの時はこの脆く弱々しそうな首が、鉄芯でも通されたかのように硬かったが――
「同じ行為を二度やるのは、愚か……者、の……」
 夜水月の声に苦しげな物が混じり始めた。
「く……」
 そしてこちらの手を掴んでくる。
「そりゃ疲れもたまるさ」
 昴は逆の手でその小さな手を包み込み、両手で夜水月の首を圧迫していった。
 小夏のおかげだ。小夏がこの屋上に来るのに、階段を使わなかったから。窓から飛び出して、その後を追わなければならなかったから。病院の壁でフリークライミングを強いられたから、両手に過剰な負荷がかかった。『疲れ』がたまった。力が蓄積された。
「さぁ取り引きをしよう、夜水月。このまま息の根を止められるか、それとも幽霊界に帰って二度とこっちには来ないと約束するか。選べ」
 両手に込める力を強くし続けて行きながら、昴は夜水月を睨み付ける。
 が、夜水月は何も言わない。無言のまま苦悶の表情を張り付かせ、目を逸らさずにじっと見据えて、
「東雲様」
 静かに言葉が漏れた。
「やはり、あなたを見限らないで正解でした」
 体を弛緩させ、吊り下げられるような格好で夜水月は顔だけをこちらに向けてくる。
「あなたのポテンシャルはまだまだこんな物ではない。叩けば叩いただけ大きく返ってくる。価値がどんどん上がっていく。ボクはそれを限界まで引き出してみたくなった。最高の素材に仕立て上げてみたくなった」
 そして面白そうな視線を左下に――菊華の方に向け、
「ボクはどうしてもあなたが欲しくなった」
 腹部に熱が走った。
「か……」
 真下から伸び上がってきた黒い塊に押し上げられ、昴の体が宙を舞う。
 視界が反転し、上下が逆転し、そのまま重力に引かれて落ちる。屋上の様子を空から遠望し、何か手掛かりを求めて腕が無意識に泳いで、
「大丈夫かい!?」
 不意に自由落下が止まった。
 目の前には柔らかそうな二つの塊。
「大丈夫なのです!」
 受け止めてくれた通天閣に力の籠もった声で返し、昴は眼下に夜水月を探す。
「菊華さん!」
 そして彼女の姿が目に飛びこんで来た時、昴は反射に叫び上げて通天閣の腕の中から飛び降りた。
「ちょ……! 昴!」
「菊華さん!」
 狼狽する通天閣の声を背中で聞きながら、昴は三階ほどの高さから屋上へと着地する。そのまま夜水月の方へ倒れ込むような姿勢で地面を蹴り、
「――っ!」
 彼の眼前で足が止まった。
「さぁ東雲様。この窮地、いかにして脱しますか?」
 何千本もの髪を束ね、五メートルほどの長さとなった槍を片手で軽々と扱い、その切っ先を菊華に向けながら夜水月は言ってくる。
 同じく髪で形作られた、X字型の張り付け台に束縛された彼女の喉元に押し当てながら。
「この変態野郎……」
 奥歯をきつく噛み締め、昴は怒りに滾らせた両目を大きく見開く。
 どうする。どうすればいい。菊華を助けるには。彼女を傷付けることなく救うには。
 どうすれば――
(く……)
 なぜだ。なぜ何も思い浮かばない。
 まるで考えることなど最初から放棄してしまっているかのように、頭が応答しない。何も方策を生み出そうとしない。どうして、さっきから――
「東雲様、まさか見捨てるおつもりデスか? ご冗談を。これからが本番だというのに。ピンチはまだまだ始まったばかりなのデスよ? それとも、もう少し強い刺激の方がお好みデスか?」
 にぃ、と口の端を歪め、夜水月は槍を持つ手を動かす。
「っ……」
 菊華の口から小さな悲鳴。夜風に呑まれ、何かが宙に舞った。それはすぐに散り散りとなり、月明かりを受けて金糸のように――
「おっと手元が。頬をと思ったのデスが。まぁ、ボクがそこの地縛霊にされたことのお返しと思えば……」
「夜水月いいいいいぃぃぃぃぃ!」
 激情が脚を突き動かす。黒チビ以外視界に映らなくなる。
「また強引なゴリ押しデスか?」
 呆れたような口調。そして黒い槍がこちらに向けられる。
 そうだ。自分を狙え。他の人を巻き込むな。そんな陰湿な方法でいつまでも――
「――ッァ!」
 真後ろから悲痛な声が上がった。
 自分の方に向かって伸びて来ていたはずの槍は、途中で僅かに進路を変え、そのまま背後へと抜けて……。
「え……」
 足が止まり、声のした方に顔が向けられる。
 腹部を貫かれていた。
 黒い槍は光沢のあるイブニングドレスの中へと消え、彼女の背中から生えていた。
「いい加減目障りデスよ。大人しくして頂きましょうデスか」
 槍が引き抜かれ、支えを失った体が地面に吸い込まれていく。
「通天閣さん!」
 叫びながら駆け寄り、昴は彼女の体を抱き留めた。
 激痛に顔を歪ませ、しかし通天閣はこちらの首に腕を回して何とか上体を保つ。
「心配いらないさ……なにせ、アタシはもう……死んでるんだからね……」
 言葉とは裏腹に、今にも消え去ってしまいそうな危うい雰囲気。だが通天閣は気丈な顔付きで続ける。
「けど、その一回死んでるってのが……なかなか厄介でね……。恐怖症、みたいなモンさ……。踏ん切りがつきやしない……。ちょっと前だってそうさ……。ヘリの時にケリ付けとけば、こんな面倒なことにはならなかったのにねぇ……」
 傷口にはぽっかりと穴が空いているだけで血は出てない。だが塞がる気配もない。声にいつもの勢いが戻る様子もない。
「けどさ、やっぱ放っておけないよねぇ……。アンタ達もそうだけど、あの、小夏って、子がさ……」
 苦しそうに声を途切れさせながらも、通天閣は小さく笑いながら小夏の名前を口にした。
 通天閣が死んだ原因は治療の不行き届き。そしてそうなってしまった理由は、院長が小梅と小夏に没頭していたから。
 だから通天閣は今まで小夏のことを毛嫌いしていた。理屈ではなく感情で。しかし――
「そうだよねぇ……死ぬのも恐いけど、殺しちまうのは、もっと恐いかもねぇ……」
 小夏の乱れ方を見て考えが変わった。自分と同じなのだと。自分と同じ、個人の勝手な思想に振り回され続けた被害者なのだと。望んでもいない運命を受け入れざるを得なかった……。
「ま、そのためにアンタみたいなのがいるんだろうけどねぇ……」
 息を吐きながら言い、通天閣は昴から腕を放して地面に身を横たえた。そのまま辛そうに目を閉じる。
「通……!」
「アタシは、大丈夫さ……。アイツらも、やっとヤル気になってくれたみたいだし……ちょっと……休ませて貰おうかねぇ……」
「“アイツら”……」
 自分の言葉に思い当たり、昴は顔を後ろに向けた。
 そこには何十人もの幽霊達。夜水月を取り囲み、メスやら酒瓶やら将棋の駒やら十二単を着た日本人形やら、思い思いの武器を手に睨みを利かせている。皆、通天閣と一緒に盛り上がり、酒を飲み交わし、意志の通じ合った仲間達だ。
「早くしな……あの子が、壊れちまう前にさ……」
 腕に掛かっていた重みが急に増す。通天閣は浅い呼吸を繰り返しながも、完全に手足を脱力させ、気を失っていた。殆ど気力で喋っていたんだろう。そして限界が……。
「分かったのです」
 確かな決意を込めて言い、昴は通天閣を地面に寝かせて立ち上がった。そして改めて気合いを入れ直し、夜水月の方に視線を向ける。
「怖気の走るお涙頂戴イベント終わったデスか?」
 大勢に囲まれながらも全く動じることなく、夜水月はスーツの襟元とネクタイの位置を直しながら言った。
「東雲さん! 他の皆さんも! いいから遠慮せずにやっておしまいなさい! こんなにムカつくゴキブリコロリは初めてですわ! とっととよってたかって袋叩きの集団イジメでイチコロにしておしまいなさい!」
 その隣りで菊華が張り付けのまま、口を大きく開けて叫び散らす。
「わ、分かったのです……」
 あまりに凄まじい剣幕と迫力に、昴は危うく怯みそうになりながらも気を持ち直した。
 大切な髪を少し失い、こんな異様な光景を目の当たりにしているにも関わらず、怖じ気づくどころか逆に強気になっている。
 初めて会った時はこんな風じゃ……なかったような、そうでもないような……。
「ま、どっちでもいいのです」
 鼻を鳴らして言い、昴は幽霊達の円陣の中に加わった。
「東雲様、あなたは凄い力を秘めておいでのようだが、あまり頭の方はよろしくないようデス。なのでもう一度現状を説明いたしますデス」
 幽霊の数はざっと二十人。男女の数は半々ずつで、子供の姿なのが三割ほど。その中で夜水月の後ろに居て、尚かつ有効な武器を手にしているのは――
「あなたは確かにこの短期間で力を付けているが、まだまだボクには及ばない。そして周りにいる地縛霊の出来損ない共は論外。さらにこちらには人質が二人もいる。いかがデスか?」
 ……よし。大丈夫だ。きっと上手く行く。
「ヤル気満々デスか。まぁそうやって壁に立ち向かって行こうとする姿勢は、大変高く評価致しますデスよ。守護霊の素材として」
 目配せをして……目から直接考えを送り込んで……よし。頷いた。いいぞ。もう一人にも……大丈夫。問題ない。
「来ないのデスか? なら、今度は黒岩様の爪でも剥いでみましょうか?」
 ――準備は整った。
「来ますデスか?」
「行くぞ!」
『おぅ!』
 昴の掛け声に応え、幽霊達が一斉に飛びかかる。
 二人が後ろから、左右から四人。そして正面は自分が。
「結局これか」
 嘲笑うように鼻を鳴らし、夜水月はシルクハットを指先で飛ばした。黒い円筒形の物体は意思を持ったかのように飛来し、背後の二人が持っていた得物を弾き飛ばす。
「下らない」
 メスとハサミが澄んだ音を立ててコンクリートに落ち、溶けるようにして消え去った。
「どっち見てんだテメェ!」
「おぅおぅおぅ! よくもアネさんを!」
「クタバらんかいワレぇ!」
 側面から同時に肉薄する三人。銀色の光が数本交差するようにして走り抜け、
『グ……』
 くぐもった声がして金属質な音が響いた。体をぐらつかせ、夜水月の方に倒れ込んでいく三人。その中の一人の手が宙を掻き、指先が夜水月の肩に触れて――
「触るな」
 面倒臭そうな声に呼ばれて黒い髪が牙を剥く。
「今度こそ終わらせるのです」
 が、その槍を片手で掴み上げ、昴は夜水月を見下ろした。
 三人が作ってくれた死角を利用し、真っ正面から夜水月を捉えた。そして幽霊の手に狙いを付けていた髪を力任せに引きちぎり、夜水月の両肩をしっかりと押さえ付けて睨む。
「何のおつもりデスか?」
 半眼になり、蔑笑を浮かべる夜水月。
「まさか、これで自由を奪ったとでも?」
 余裕の視線が後ろに向けられ、黒髪が蠢くようにして大量に根を伸ばす。
 菊華と小夏。夜水月は二人の人質を持っているかもしれない。しかしまだ彼女達を本気で人質として使おうとは思っていない。自分をそんなに守護霊として連れて行きたいのか、まだ力を引き出そうとしている。
「ボクの手足は、無限デスよ?」
 そこに付け入る隙がある。
「今だ!」
 黒髪が標的に狙いを付けると同時に昴は叫ぶ。そして夜水月と菊華の間に割って入る少年の幽霊。手には十二単を纏った日本人形。
「な――」
 菊華の救出のために側面から抜けた一人。彼を貫くはずだった槍は、何か大きな力によって進路を変えられ、吸い込まれるようにして日本人形の体内へと潜り込んでいった。
「これは……!?」
 狼狽の色を濃厚に浮かべる夜水月。そこには先程までの余裕など微塵もない。
「早く! 菊華さんと小夏さんを!」
『おう!』
 昴の指示に応じて一斉に動く他の幽霊達。刃物を持った者は菊華を捉えている髪を切りにかかり、それ以外の者は未だ放心している小夏を抱きかかえる。
「こいつら……!」
「おっと! 絶対に放さないのです!」
 直接動こうとする夜水月の体に指を食い込ませ、昴は全神経を両手に集中させた。
 あの人形はただの人形ではない。病院の七不思議に出てきた由緒正しき呪いの日本人形。霊安室の開かずの間に閉じ込められた不死者だ。元はフランス人形だったのが、数々の思いを受けながら今の姿となった。
 そしてそういった扱いを受けた人形には、特別な力が宿る。
 昔。自分がまだ幼かった頃。弁天町という名の腹話術人形がいた。その人形も大変な思いを込めて大切に扱われていた。
 当時、その年の『ケガレ』を祓うために必死に努力していたロリ巫女は、自分の力の足りないところを腹話術人形で補い、酒呑童子という大物を見事に封じ込めたという。
 ……まぁ結局、トドメは魔王がさしたのだが。
(つまり!)
 夜水月のような悪霊を人形の中に封じ込めることができたとしても、何ら不思議はないということ。全ては不可能でも、体の一部であれば。
「放せぇ! 貴様ぁ!」
「っははは! 焦りがモロなのです! これは楽しすぎるのです!」
 もがく夜水月を笑い飛ばしながら、昴は喜々として力を込め直した。
 夜水月の本体は自分が捕まえている。そしてこいつの武器である黒髪はあの人形が封じてくれている。
 小夏はもう離れた場所に移動させ終えた。あとは菊華さえ解放できれば――
「ダメだ!」
 菊華を囲んでいる幽霊達から大声が上がる。
「切れねぇ!」
 そして悔しそうな響きが暗天を突いた。
「頑張るのです!」
 表情を緊張させ、昴は夜水月の背後に視線を向ける。
 菊華の手足に絡みついた無数の黒髪。幽霊達は手にしている刃物で切り付けるが、切った端から伸びてくる。一束断てば二束が覆い、二束千切れは四束が巻き付く。
 切っても切っても後から後から、まるでトカゲの尻尾のように、より頑強になって再生していた。
(クソ……!) 
 舌打ちし、忌々しそうに黒い張り付け台を射抜く昴。
 力が足りないんだ。ちまちまと切っているようではダメなんだ。もっと一気に両断してしまうくらいでないと。
 やはり通天閣か。彼女が持っていたハサミなら綺麗に切れた。
 いや、あれはほんの数本だったからかもしれない。今みたいに何百本も束ね合わさった物は切れないかも……。
 ならどうする。どうすればいい。
 何か良い考えは。夜水月の髪をあっと言う間に切ることのできる武器は。
(く……)
 まただ。また頭が働かなくなった。
 奥の方がスーっとして、心が晴れ渡るような気持ち良さに包まれる。
 何だこれは。一体何が――
「――ッァ!」
 目の前から悲痛な叫び声がして昴の視線がそちらに向けられる。
 人形が壊れていた。
 首はもげ落ち、胴体は真ん中に亀裂が走り、下半身はなくなってしまっていた。
「こ、の……! ゴミ共がああぁぁぁぁ!」
 そして裂帛の叫声が大気を震動させる。
 刹那、黒い線が幾筋も走り、甲高い鞭声を轟かせて景色を切り刻んだ。音はドーム状に膨れ上がり、不快な不協和音を落として夜風に呑まれる。続けて何か重い物が落ちる音。
(え……)
 累々と横たわる十数人の幽霊達。
 抵抗することもできず、声を上げることすらできず、全身に深い裂傷を刻まれて倒れ込んでいた。
「クソ……! 加減できなかったか……」
 辺りを見回しながら悔しそうに毒づく夜水月。
 悔しそうに……? どうして、そんな――
 ――絶命にも似た悪寒。
「菊華さん!」
 壮絶に体温が下がるのを感じながら、昴は夜水月の背後に目を向けた。
 今の……! 今こいつが振り回した髪が……! 刃物のように……! それが生身の人間を……!
「こんなところ、かな? 東雲昴君」
 が、視界に映ったのは血まみれの菊華ではなく、不敵に口元を歪めて佇む白髪の老人だった。
「もう少し頑張って欲しかった、というのが正直なところだが……まぁいいだろう」
 片手を白衣のポケットに入れ、もう片方の手で何かを掲げながら院長は小さく笑う。
 どうして、この男が……。今、一体何を……。
 何をして“菊華を守ったんだ”。
「……どういうつもりだ」
 目線だけを後ろに向け、夜水月は低い声で聞く。
「お前と取り引きの続きをしようかと思ってな。そのための材料を確保しにきた、というワケさ」
 落ち着いた口調で言いながら、院長は手にしていた何かを軽く薙いだ。次の瞬間、菊華を捉えていた髪が――いや、張り付けていた台その物に筋が走り、割れるようにして崩れ去った。
「ほぅ、さすがに良く切れる。大したものだな、巫女というのも。まさかこれほどまでとは思っていなかった」
 感心したように言いながら、院長は手の中の物を改めて見つめた。
 あれは、紙……? いや、お札……?
「取り引き、だと?」
「もう三十年くらいも前か? お前初めて私の前に現れた時のことだよ。覚えてないか?」
「さぁな」
「『雛守小梅を護れ、そうすれば不老不死にしてやる』。お前はあの時こう言ったんだ。そして私はお前に言われた通り、彼女からずっと人払いをしてきた。私は約束を守った。次はお前の番だ」
「どこかのクソ野郎が残したクソ迷言がある。『記録と規則と約束は破るためにある』、だそうだ」
「だろうな」
 夜水月の返答に院長はなぜか納得したように頷き、菊華を庇う形で前に出た。
「なら、お前は手ぶらで幽霊界とやらに帰ることになる。雛守君も東雲君も連れて帰れず、無様に醜態を晒すんだ」
「図に乗るな!」
 夜水月が消えた。
 ついさっきまで手の中にあったはずの感触は消えてなくなり、代わって院長に飛びかかる夜水月の背中が映し出される。
「しまっ……!」
 声が出た時にはすでに遅かった。
 夜水月の右手に寄り集まった髪が大鎌を形成し、それが院長の首を真横に薙ぎ抜いて――
「三十年間だ」
 鎌の刃先は止まっていた。
 いや、止められた。ただ軽く持っただけの紙切れによって。
「三十年もの間、私はこの時を待ち望んでいた。お前と対等な立場で取り引きできる時をな。時間はそれこそ吐いて捨てるほどあったよ。一旦受け入れてしまえば、オカルトに没頭するのも悪くない」
「霊符、だと……? こんな物……!」
 大鎌を持つ手に力を込める。だが動かない。ぴくりともしない。
「結局、最も強力な物は近くの小さな神社にあった。中学生くらいの可愛らしい巫女さんがいてね。年の割にしっかりしていると思ったら、ウデの方も一流だったよ。なかなかいい買い物だった」
(は……)
 夜水月を挑発するように言った院長の言葉に、昴は体から力が抜けていくのを覚えた。
 それは確かに一流だろう。疑う余地もない。
 ……まぁ、中学生くらいに見えないこともないが、あれでも立派な四十代後半だ。
「取り引きした方が利口だということくらい、お前ならすぐに分かりそうなものだが」
「クソッ……!」
 夜水月は大鎌を構え直し、四方八方から立て続けに叩き付ける。だが院長の周りに不可視の壁でも形成されたかのように刃は届かない。無機質な音を虚しく響かせるだけだ。
(さすが、なのです……)
 魔王の幼馴染みという称号はダテではない。
 だがなぜだ。そんな便利な物を持っているのであれば、なぜもっと直接的に攻めない。
 こんな回りくどい手法を取らなくとも、その超強力な霊符を振りかざして強引に……強引に行ったのでは――
(“取り引き”ができない?)
 ただ力ずくで押しただけでは、幽霊界に逃げ帰られてお終いだ。そうなったら次に会えるのがいつになるか分からない。
 だからそんな事態にならないよう、夜水月をこちらの世界に繋ぎ止めておく必要があった。繋ぎ止められるくらいの“餌”を撒く必要があった。
 それは自分であったり、そして小夏であったり……。
 だから院長は手毬歌の解釈を教えたんだ。自分に小夏の記憶を喚び起こさせ、守護霊となることを受け入れさせるために。一見、夜水月の思惑通りに進んでいるように思わせるために。
「……分かった。いいだろう」
「お互い、良いビジネスにしよう」
 そして院長が取り引きするには、夜水月が圧倒的に優勢では困るんだ。互角か、あるいは不利でないと。そうでなければ“救いの手”を差し伸べられない。“取り引き”できない。

『もし君が今まで通り、いや今まで以上に、夜水月を相手取って暴れてくれるというのであれば、私は惜しみなくこの知恵を提供しよう』

 だから院長は自分にもっと暴れて欲しかった。夜水月を圧倒するくらいに。
 つまり、院長の言う『取り引きの材料』というのは――
「と、言うわけだ、東雲君。残念ながら君は守護霊という物になるしかなくなってしまったよ」
 ――夜水月に荷担すること。
 菊華を助けたように見えたのは、単に“良い勝負”に持っていくため。
(こいつ……)
 一瞬でも味方かと思ってしまった自分に絶大な嫌悪感を覚える。やはりこの男は最低のクズ人間だ。
「恥ずかしくないのですか。人間として……そんなことまでして……」
「雛守君のことを調べても不老の秘密が掴めないのでれあれば、雛守君を不老にした奴から教えて貰えばいい。小学生でも分かる単純明快な理論だよ。違うかね?」
 駄目だ……。話にならない。完全に不老という物に魅入られている。
 そんな物のせいで小夏や小梅がどれだけ苦しんでいたのかを、五十年も間近で見ていたというのに……。
「さぁ夜水月、今度は私の方が先だ。まず、不老の身にして貰おうか」
「……いいだろう」
 髪を元に戻しながら言い、夜水月は気分悪そうに辺りを見回す。
 小梅の不老が小夏の憑依によるものなのであれば、院長が不老となるには同じようにして幽体を――
(く……!)
 頭に何か浮かぶより先に体が動いていた。
「誰があなた達の好き勝手に……!」
 それは菊華も同じで――
「――ッ!」
 鼻先を大鎌が通り抜けて行った。一呼吸遅れ、風が同じ軌跡をなぞって過ぎ去る。
 冷たい汗。恐怖と戦慄。
「そのまま少し大人しくしていて頂きましょうか、東雲様。ボクは今他の取り引き中で忙しいんですよ。あなたとのはもう少し後だ」
 地面に尻餅をついたこちらを、夜水月は無慈悲な視線で睥睨する。
 もう余裕も手加減も一切ない。感情を挟まず、自分の仕事を淡々とこなす機械のような挙措。
(クソ……!)
 まだこんなに差があるのか。まだ夜水月は本気を出しきっていないというのか。
「っ痛ー……」
 食いしばるような女性の声に、昴はそちらへ目を向けた。
「菊華さん!」
 院長から離れようと駆けだしたはずの菊華が、自分と同じような体勢で座り込んだまま額を押さえていた。
「大丈夫なのですか!」
「し、心配にはおよびませんわ……。ちょっと、何かが……」
 言いながら菊華は手を前に伸ばし、驚愕に目を見開く。
「な、なんですの、これ……!」
 信じられないと言った様子で声を張り上げ、菊華は何もない場所に向かって力を掛けたり、ヒールの爪先で蹴ったり、体当たりしたりを繰り返した。
 それはまるで、パントマイムでも披露しているかのような……。
「相変わらずのおてんばぶりですな、お嬢様。お母様が悲しまれますよ?」
 そんな菊華を後ろから見下ろし、院長は霊符をチラつかせながら得意げに喋る。
(まさか……結界……?)
 霊体だけではなく、人間までも物理的に閉じ込めてしまうほどの力を持った。
(ありうる……)
 十分過ぎるほどに。あの光速のツッコミ手を持つ、見た目十五歳、実年齢四十八歳のロリ巫女ならば。
 どれだけの礼金をせしめたのかは知らないが、無駄に強力な霊符を作りやがって。あれを何とかしない限り、菊華は院長に捕らわれたままに……。
「あいつがいいな」
 夜水月の声で思考を中断し、昴は顔を上げた。そしてその視線が向いている方に目だけを向け――
(通天閣さん!)
 胸中で大きく舌打ちした。
 通天閣を院長に憑依させるつもりだ。そして院長を不老に……。
 させるか、そんなこと。夜水月が何かアクションを見せたら、一瞬の隙をついて立ち上がって――
「お、おぅおぅ待ちな! アネさんに手ぇ出させるワケにはいかねぇぜ!」
 威勢のいい声が上がった。
 夜水月と通天閣の間。丁度その中間地点。
 額にねじりハチマキを巻いた幽霊が腰を落として構えていた。夜水月に一斉に飛びかかった時、側面から行った三人の中の一人だ。
「て、テメェの悪事もここまでよ!」
 強面ではあるが、腰が引けていて迫力に欠ける。声も震えている。
 夜水月に睨みを利かされ、立っているのがやっとといった様子だ。
「こ、こいつが目に入らねぇか!」
 が、彼は気力を振り絞り、何かを前に突き出した。
「こいつぁテメェの相棒だろうがよ! こいつがどうなってもいいのか!」
 それは黒い九官鳥だった。羽根を激しくバタつかせ、必死になって逃げようと暴れている。
 多分、夜水月に一撃を食らって倒れ込んだ時、肩に手を触れた拍子に偶然掴んだんだろう。抜け目ないというか……ただでは転ばないというか……。
『ワレええ加減放さんかいボケェ! 鼻の穴にクチバシ突っ込んでアヘアヘ言わせんぞゴラァ!』
 そして相変わらずの汚い声で一息にまくし立てる西九条。
『先生ぇ! 早いことこのボケ何とかして下さいよー! さっきから息ぃ詰まってもーて詰まってもーて!』
 の割に最大発声量で声を上げる西九条。
 ダメだこいつ……こんな人質では気を引けない。ましてや相手が夜水月となれば――
「使えない使い魔に用はない」
 やはり……。
『ちょ……! ンな、せーんせぇ! もう二百年も一緒におる仲やないですか!』
「邪魔だどけ」
 非情な響きを孕んだ声。
 こちらに突き付けられている大鎌から数本の髪が派生したかと思うと、西九条の方へと一直線に飛来する。
『なハ!?』
「ぉわ!」
 そして西九条と幽霊の声が同時に上がり、一人と一匹は軽々と横に弾かれた。
(だめか……)
 横目に見ながら苦しげに息を吐く昴。その視界の隅で夜水月の手がゆらりと動き――
「通天閣さん!」
 昴は喉の奥から叫び上げた。
「起きて! 通天閣さん! 通天閣さん! 起きるのです!」
 そのまま通天閣の名前を何度も何度も繰り返す。
 悔しいが夜水月に隙がない。喉元から一ミリほど離れた位置で大鎌は完全に固定され、微動だにしない。しかも他の髪は無数の槍となり、球状に展開して自分を狙っている。
 指一本動かせない。
「通天閣さん! 起きて! 通天閣さん! 通天閣さんっ!」
 起きない。全く反応がない。完璧に落ちている。駄目だ。
 夜水月が何をする気かは知らないが、こうなったら破れかぶれでも……!
「通天か――」
 揺れた。
 危うく舌を噛み切りそうになるくらい激しく縦に。視界が大きく振れ回り、目に映る物全てが何重にもブレて見える。そして大鎌の切っ先が僅かに狙いを外し――
(今だ!)
 座り込んだ体勢から腕の力だけで跳ね上がると、昴は黒槍の包囲の外側へと着地した。そのまま勢いを殺すことなく、一気に通天閣のもとまで駆け寄る。
「もう大丈夫なのです!」
 そして横たわっている通天閣の背中を起こし、腕の中に抱え込んで――
「――ッ!」
 高圧電流を流されたかのような、痛みを伴う痺れが走り抜けた。
 以前にも似たような物を感じたことがある。これは……!
「東雲さんは! 渡さん……! 東雲さんは……!」
 背後でそそり立つ裂帛の怒声。
「ワラシのもんじゃああぁぁぁぁ!」
 振り向きざまその場を蹴り、昴は空中で声の発生源を視認した。
 蛇だった。いや、これは龍と呼ぶべきか?
 以前、病室で見た物とは比較にならないスケールの大蛇が、縦に開いた瞳孔を爛々と輝かせてこちらを俯瞰していた。
「東雲さんは渡さん! 東雲さんは……! 絶対に渡さん……!」
 その大蛇の頭部に埋め込まれるようにして浮遊し、小夏はうわごとのように繰り返しながら殺気を叩き付けてくる。
「ワラシのもんじゃ! ワラシの……! 他は、消えぇ!」
 小夏の声に応えて大蛇の顎が大きく開かれる。その中で金色の塊が見えたかと思うと、一直線に通天閣へと吐き出された。
「あ――」
 動くことも、まばたきすることもできず、目の前で通天閣の体が光に包み込まれて――
「大人しく寝ていればいいものを」
 黒く染まった。
「これは取り引きに使うと決めた素材です。いかに雛守様とはいえ、勝手に傷付けられては困りますね」
 自分の背丈の五倍以上にまで肥大した大鎌を易々と肩に担ぎ、夜水月は冷めた視線を上空の小夏へと向ける。
 今……跳ね返したのか……? あの光を……雷の塊を……。
「夜水、月ぃ……! きさん! どこまでも鬱陶しい奴じゃのぉ!」
「女性の嫉妬とはいえ、ここまで来ると可愛げがありませんよ?」
「死なんけぇ!」
 蛇の口から連続して射出される雷光。それを大鎌の腹ではじき返しながら夜水月が飛ぶ。足場も何もない中空を蹴り、三角飛びの要領で左右に身を振りながら大蛇へと急迫した。
「かあああぁぁぁぁぁぁ!」
 小夏の叫声と共にさらに数を増大させる雷塊。それらが点ではなく面となって夜水月を捉え、覆い被さるようにして襲いかかる。
「馬鹿の一つ覚えですか」
 嘲りの声。そして黒い筋が一閃する。
 夜闇を引き裂いた雷光は再び黒く塗り潰され、細切れとなって霧散した。そのまま突っ切り、夜水月は小夏の眼前へと躍り出て――
「ではまた眠っていただきましょうか」
「きさんがなぁ!」
 膨大な質量が夜水月の後頭部に叩き付けられた。
 黒光りする硬質的な鱗に鎧われた流線型の影。
 それは大蛇の尻尾だった。真下から生えるようにして突出してきた尾が、鞭のようなしなりを利かせて夜水月の背後を取っていた。
「素晴らしい、力ですね……」
 だが落ちない。
 辛うじて間に鎌を挟み、直撃を逃れている。
「改めて見せつけられると――」
 そして鎌を持つ夜水月の両腕がたわみ、
「絶対に連れ帰りたくなる!」
 尻尾を跳ね上げた。
 自重の何十倍もあろうと思われる肉の塊を苦もなく。続けて縦に持ち直した鎌を振り下ろし、大蛇の顎先に埋め込んだ。いや――
「誰がきさんなんぞに!」
 受け止めている。
 頭を傾け、顎を垂直に開いて牙で鎌を固定している。
「おやおや、妹さんを殺そうとした贖罪をするはずだったのでは?」
「きさんとは逝かん! 小梅も渡さん! ワラシだけが違うとこで死んでくれるわぁ!」
 くわえた鎌を力任せに噛み砕き、夜水月を引き寄せて口を裂けるほどに解放した。そして尻尾を伸ばし、前後から同時に一撃を繰り出す。
「わがままはいけませんねぇ」
 夜水月の姿が掻き消える。
「あなたを他の案内人に渡すつもりはありませんよ?」
 次の瞬間、声は小夏の頭上から聞こえた。
「チィ!」
 舌打ちし、小夏がその場から飛び退く。大蛇はその巨体から想像もできないほどの俊敏さで動くと、一旦夜水月から距離を取った。
(す、凄まじいのです……)
 常軌を逸した応酬に昴はただ呆然と立ちつくし、
(は……!?)
 ようやく我に返った。
 しまった。つい見入ってしまっていた。自分がしなければならないことを忘れていた。
 夜水月の力は脅威的だが、小夏はその夜水月と互角に渡り合えている。もし自分が上手く小夏に加勢できれば一気に勝負を付けられるかもしれない。
 だがあんなに激しい戦いの中に入っていくのは至難の技だ。足手まといになるどころか、下手をすれば無駄死にになりかねない。
 なら今は自分のできることをする。菊華を院長の手から救い出す!
(よし!)
 手足から痺れが抜けていることを確認し、昴は通天閣を背負って地面を蹴る。そして一直線に院長へと突進して――
「危ねぇ!」
 視界が大きく横に揺れた。
 直後、目の前に雷光と黒い槍が突き刺さる。
「東雲さんを……! 他の女なんかに……!」
「こちらが片付くまで大人しくできませんか?」
 そして重なり合いながら聞こえる小夏と夜水月の声。
 あのまま突っ込んでいれば直撃していた。瀕死の重傷を負っていた。
(クソっ……)
 二人とも行かせないつもりだ。小夏は自分を菊華から引き剥がすために。夜水月は院長に近寄らせないために。
 自分の脚が止まったのを確認して再びぶつかり合い始めた二人を見ながら、昴は顔をしかめた。
 どうする。このままでは菊華が。何とかしてあの結界から出してやらないと……。
「おい大丈夫か……? ちゃんと生きてるか、ボウズ」
 横手から野太い声。自分の背中から落ちた通天閣を抱え直し、ねじりハチマキの幽霊が声を掛けてきた。
「あ、ありがとうなのです……。助かったのです……」
 よろよろと身を起こし、昴は軽く頭を下げる。
 彼がさっき自分を助けてくれたんだ。もしこの人がいなければ……。
「あのお嬢ちゃんを助けるんだな。よ、よーし……ここは俺ッチに任せな。一発、汚物返済してやっからよー……」
「だ、ダメなのですっ。危なすぎるのですっ」
 恐怖に呑まれ掛けた声で言うねじりハチマキに、昴は慌てて返す。
 かつて魔王に鍛えられた自分なら重傷くらいですむかもしれないが、並の幽霊がさっきのような一撃をまともに食らえば、そのまま昇天してしまってもおかしくない。
 大人数で一斉に掛かれば別かもしれないが、夜水月の髪でほぼ全滅してしまった今では……。
(全滅……?)
 そこまで考えて、昴は何か引っかかりを覚える。
 立っている幽霊はもう殆どいない。大半が夜水月にやられて気を失っている。起きているのはあの時運良く離れた場所にいて、直撃を免れた者だけだ。
 だがこのねじりハチマキの幽霊はどうして無傷でいる? なぜ走り回れる?
 彼は自分と一緒に飛びかかった幽霊達の一人。夜水月の直近にいたはず。なのに、どうして……。
『終わりや……ワシぁ、もうしまいや……』
 何か特別な体質なのか? それこそあのロリ巫女結界のような物で守られているとか。
『今まで、ずっと頑張ってお仕えしてきたゆーのに……こんなんあんまりやぁ……』
 あるいは俊敏性が異常に高いとか? 全てを見切れる? いや、とてもそうは見ないが……。
『はああぁぁぁ……どないしょー……ワシ、これからどないして生計立てよ……』
 一体なぜ――
『こんなんやったら、腹一杯らっきょ食うとくんやったなぁ……』
 どうして――
『ほんで、カレーバスクリンの風呂にゆっくりと……』
「ぃやかましいのです西九条! いい加減酢漬けにしてカレー粉まぶして、カラッと美味しく召し上がってやるのです!」
 目の前でぐだぐだと愚痴り続ける西九条を締め上げ、昴は長く伸びた八重歯で喉元をつつきながら凄んだ。
『ハ……好きにせぇやボケが……』
「じゃあ」
『アーッ! ゴメンナサイ許して殺さないで優しくしてぇ! ボクが悪うございましたからぁ!』
 キツツキのように激しく頭を振りながら、西九条は涙声になって平謝りする。
 ったく……それなら最初からケンカをふっかけ――
(まてよ)
 昴の脳裏にある種の閃き。
 ねじりハチマキはずっと西九条を掴まえていた。手に持っていた。
 もし、彼が無傷でいられたのが西九条のおかげだとすれば。西九条が自分の身を守るためにしていたことだとすれば。
「あ! おいボウズ!」
 考えが纏り切る前に体が動いていた。西九条の両脚を持って右手に構え、院長と菊華の元に走り寄る。
「行かせんわぁ!」
「しつこいですね」
 そして間髪入れずに飛んでくる二人の声。側面から光と熱と風切り音が、ない交ぜになって接近してくる。巨大な力の奔流は、あっさりと昴の体を呑み込み――
「てぇりゃあ!」
 西九条を振り下ろした。
 雷光は真ん中から二つに裂けて左右に着弾し、黒い槍は金属的な音を立てて指向を変える。
(やはり) 
 目を回し、完全に意識を失っている西九条を見下ろしながら、昴は深く頷いた。
 こいつのクチバシだ。このクチバシが夜水月の髪を受け止めてたから、ねじりハチマキは無事だったんだ。
 つまり、この口の悪い焼き鳥決定な九官鳥は、魔を祓う武器となる!
「ならば当然!」
 地面を蹴る。高く跳躍する。そして院長の頭上に舞い出る。
「切り裂ける!」
 振り下ろした。
 両手に持ち直した西九条を力一杯。菊華を幽閉する結界に向かって。
「く……!」
 硬い手応え。
 西九条の頭はスーパーボールよろしく弾かれ、嫌な骨折音を残してダラリとぶら下がった。
 さすがに一撃では無理か。だが何度か繰り返せば必ず――
「後ろですわ!」
 菊華の声に反応し、昴は本能的にその場から飛び退いた。直後、さっきまで自分のいた場所が大きく抉れて煙を上げる。
(く……)
 そんな悠長なことをさせてくれるはずがないか……。
 動けば小夏と夜水月に狙われる。しかし動かないと菊華を助け出せない。この状況を打破できない。なら――
(狙われながら菊華さんを助ける)
 また頭の中からスーっと熱が引いていく。すぐに何も考えられなくなる。
 そして体は直前に考えていたことを勝手に実行し――
「東雲さん離れぇ!」
 怒声と共に放たれた雷撃は、こちらを真っ向から完璧に捉えて――
(右)
 横薙ぎに振るった西九条の頭が雷を掠めた。そして矛先が僅かに変わり、雷は自分の体から逸れて後ろに逃げていく。
「……ち」
 右脇の辺りから漏れる鬱陶しげな声。それを応援歌のように聞きながら昴は蹴り脚に力を込めた。重心を低く保ち、弧を描くようにして回りこんでいく昴。
「なんでじゃ! 東雲さん! なんで……! そんな……!」
 荒ぶる声を吐き出し、小夏は光の塊を乱出させる。その一つ一つを冷静に見極め、昴は円の軌跡で立ち回りながら右腕を振るい続けた。
 一撃一撃に絶大な恐怖が付きまとい、それでも昴は小夏からの烈激を的確にいなしていく。頭部に喰らい付いてきた物を下に叩き落とし、脇腹に潜り込もうとしてきた物を真横に跳ね返す。左から右へ。正面から背後へ。
 まるで踊るかのような軽い身のこなしで、昴は次々と降りかかってくる致命打を避け続けた。
「早よ! その女から……!」
 そして大気の悲鳴が聞こえそうな程の熱量が大蛇の口腔に集結し、
『離れぇ!』
 二重に聞こえる咆吼と共に噴出された。
(これだ!)
 大きく開眼し、膝のバネを爆発させて真横に飛ぶ昴。体を水平に倒して膝を抱え込み、それでも逃げ遅れたスニーカーが一瞬にして蒸発する。
 膨大な光量を帯びた雷は目を灼き、熱風を撒き散らして“壁”と衝突した。
 辺りに響き渡る狂振動。鼓膜の奥が痺れたような痛みにとらわれ、無音の世界へと誘われる。白く染まった視界は何も映さず、ただ必要以上に不安を掻き立てていく。
 静寂。無感。虚失。
「ぅ……」
 肉体と精神が同時に脱力していく中、前からした呻き声で忘我の縁から呼び戻された。
「なんで……」
 それは悲痛の声、訴え、叫び。
「なんで……東雲、さん……」
 掠れ、途切れ、消え入っていく。
「東雲さん……そんな、そんなに……その女のことが……」
 彩りを取り戻していく世界に映し出されたのは、うつ伏せとなった女性の姿。セミロングの黒髪を頬に張り付かせ、白地に桃水玉が刺繍されたパジャマは方々が破れてしまっている。
「小夏さん!」
 這うようにして近付いて来る小夏を抱きかかえ、昴は彼女の名前を呼び叫んだ。
「東雲さん……ワラシは、あんたを……」
 大きな瞳を哀しげに伏せ、震える指先でこちらの首筋に触れる小夏。
 どうしてこんな。小夏がこんなにも弱り切って……。まさか力を使い過ぎたから? 感情に任せて、いつの間にか限界を超えてしまったから?
「絶対に、あんたを……」
 だがそれにしても――
「誰にも、渡さ……」
 違う。
「東雲、さ……」
 夜水月がいない。
「どうもお疲れさまでした、東雲様」
 背後から聞こえる軽い拍手音。
「人形を封印触媒として使ったり、その使えない使い魔を武器としたり、そして雛守様の力を利用して結界を破ったりと。なかなか機転が利きますなぁ。この夜水月、先程から感服し通しでございます」
 首だけを回して肩越しに振り返る。
 そこには倒れ込んだ院長を足の下に敷き、黒い鎌の刃先を菊華の喉元に添えた夜水月が佇んでいた。
「お前を喜ばせるためにやったワケじゃないのです」
 気を失ってしまった小夏を静かに横たえ、昴はゆっくりとした動作で立ち上がる。
 狙い通り、小夏の雷を西九条で跳ね返してぶつけてやることで、厄介な結界を破ることに成功はしたようだ。だがそれは同時に、夜水月にとって最高の状況をもたらす結果となってしまった。
「雛守様は無事お休みになられました。黒岩様は再びボクの拘束下に置かれました。さぁ東雲様、取り引きの続きです。もうお遊びは致しません。油断も致しません。あなたを泳がせることが、いかに危険かということがよく分かった。さすがはあのクソ野郎と関わりを持った者だ。何をしでかすのかサッパリ分からない」
 忌々しそうに言い、夜水月は足蹴にした院長の顔を強く踏みつけた。小さく呻き声が漏れ、夜気に呑まれて消える。
 あの結界は夜水月に取っても邪魔だった。あの結界がある限り菊華は院長の手の中だ。取り引き材料として自由に使えない。だから壊れるのを待った。自分と小夏が壊してくれるのをじっと待った。
 攻撃の手を休めて。
 そして破壊されたのを確認してから小夏の意識を奪った。少しだけ喋る気力は残して。
 小夏の声を聞き、自分の注意が逸れたところで院長を沈めた。結界に拒まれることなく、易々と人質を取り戻した。
(クソっ……!)
 なんという醜態だ。最低だ。
 小夏を傷付け、菊華を捕らわれ、結果的に夜水月に荷担してしまうなど。
「さぁご決断下さい東雲様。黒岩様の安全と引き換えに幽霊界に来ていただくか、あるいはその逆を選択なされるのか」
 菊華を連れ帰ったところで、夜水月にとって何のメリットもない。もはやこれは取り引きなどではない。一方的な脅迫だ。
「さぁ、東雲様」
 無惨になぎ倒された常緑樹、倒れ掛けた貯水塔、下から聞こえる車のクラクション音、遠くの方から届くヘリの羽音。
 目に映る物、耳に入る物、全てが白々しく感じる。
「ご決断を」
 しょうがないのか。これ以上は、もう――
「さっきから聞いていれば好き勝手なことばかり」
 急速に張りつめていく空気を、凛と張った良く通る声が切り裂いた。
「東雲さん、ワタクシは今まで、その気さえあれば何でも一人でできるんだと思っていましたわ。できないなんて言うのは、ただ甘えているだけ。勝手に自分の限界を作ってしまっているだけだって、そう考えてきましたわ」
 全く怯むことなく、一片の恐怖すら見せず、菊華は強い語調で続ける。
「でもそうじゃなかった。あなたと一緒にいて、そのことを嫌と言うほど学ばされましたわ。確かに一人でできることには限界がありますわ。勿論例外も存在するでしょうが、大多数の人間は互いに支え合って生きております。そんなこととっくに分かっていましたのに、ワタクシはそれを認めたくなかった。どうしてだか分かりますか?」
 長い黒髪を夜風に靡かせ、鋭角的に見開かれた双眸で菊華はこちらを見つめた。
「ワタクシが子供だったからですわ」
 そして迷いのない口調で断言する。
 澄み渡り、清々しさに満ちた表情で。
「だからいっつも夢見がちなことを考えていましたわ。サンタクロースとか、スーパーマンとか、キョンシーとか、必ず自分の中にヒーローを持っていましたわ。ずっと上ばかり見て、自分はできるんだって言い聞かせて。ですが、こういうのも悪くないって、ようやく思えるようになって来ましたわ」
 口の端に挑発的な笑みをたたえ、菊華は横目に夜水月を見る。
「この人なら何とかしてくれる。どんな無茶なことでも、この人ならきっとどうにかしてくれるって――」
 そして流れるような動きで両腕を持ち上げ、
「あなたはそういう期待を抱かせてくれるんですわ!」
 鎌を真上に跳ね上げた。
 一瞬、ほんの一瞬だけ菊華の体から離れる大鎌。
(な……)
 しかしそれはすぐに元の位置戻り――
「――ッ!?」
 甲高い音を鳴り響かせて落ちた。
 鎌と柄の結合部が完全に砕かれ、刃は支えを失って地面に転がる。凶器が消え失せ、その隙を逃すことなく菊華は地面を蹴った。
「させるかぁ!」
 叫声と共に伸ばされる小さな黒い腕。
「ッ! っく、ぁ……!」
 そこに何かが立て続けに突き刺さり、夜水月の動きを寸断する。
「こ、のォ! クズカスがぁ!」
 狂声を上げた夜水月の髪が揺れたかと思うと、板状の何かが飛び出した。それは自分の真横を通り抜け、夜の空に消えていき――
 爆音が轟いた。
「心斎橋!」
 隣で菊華が叫び上げる。
 そしてそれに応えるようにして、旧東ドイツの国歌が高々と響き渡った。
「――ッ! こ……っ! が……!」
 さらに夜水月からは苦悶の声が漏れ出す。
「お嬢様、ご報告いたします」
 やけに耳に届く声と、視界の隅で落下していくパラシュート。そこに掴まっているのは迷彩服に身を包み、片手でライフルを構える壮年の男。
「国土交通省の者達は完封いたしました。それにより到着が遅れたことをお詫び申し上げます。なお、ヘリの弁償費及び退魔属性弾薬費につきましては真宮寺様を通じて幽霊界に直接請求いたしますので、予めご了承下さい」
 空中で淡々と述べた後、男は慇懃に礼をして眼下に吸い込まれて行った。
「……あ、そっか……お母様の直属だから、あの方と知り合いでも何の不思議も……」
「まだ、いやがったのか……」
 呪詛でも吐くかようなしゃがれた声。
「あの、クソ野郎の関係者が……」
 撃ち抜かれた左目から黒い体液を流し、右腕をダラリとぶら下げて、夜水月は苦しそうに呟く。
「鬱陶しい……とことん頭にくる野郎どもだ!」
 そして屋上一帯を覆い尽くさんばかりに、髪を長く伸ばしてきた。
 だが恐くはない。微塵の気後れもない。
 こちらには小夏がいる、菊華もすぐそばにいる。
 もう人質はいない。自分を束縛する物は何もない。
 なら――
「夜水月、決着だ」
 あとは思いきり暴れるだけだ。




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