間違いだらけの手毬歌、してくれますか?

第九話『取り合えず大団円ってことで』

◆東雲昴の『今度は僕の番なのです!』◆
「決着、だぁ……?」
 大量に伸ばした自らの髪に身を埋め、夜水月は危ない笑みを張り付かせて呟く。
「このドカスがぁ。身の程ってのを知らねぇのか……」
 そして潰れた声で言いながら、ゆっくりと近付いてきた。
「テメェを殺すことなんざワケねぇんだよ。ちょっと面倒臭い手続きあるけどなぁ……」
 歪み、崩れきった表情。そこには最初の面影など全くない。何かに取り憑かれたように、呪わしい雰囲気をまとわりつかせている。
(完全にキレた、な)
 西九条を持つ手に力を込め、昴は胸中でほくそ笑んだ。
 夜水月はもう余裕がない。お得意の“取り引き”をしようとする気配が一切感じられない。ただ気に入らない物を力でねじ伏せる。そのことしか頭にない。
 底の浅い奴だ。一皮剥けばすぐに野蛮で暴力的な本心が顔を出す。
 なら、話は簡単だ。
「そんなことだからいつまで経っても出世できないのです。お前みたいな肝っ玉の小さな幽霊、使えないに決まっているのです。役立たずの筆頭なのです。給料強盗なのです」
「なん、だと……!」
 こちらの挑発にあっさり嵌り、声を荒げる夜水月。
 当てずっぽうに言ったのだが、どうやら正解だったようだ。
「最初に会った時から分かっていたのです。お前はとんでもない小物なのです。偉そうなのは態度だけなのです。下っ端なのです。パシリがお似合いなのです」
「黙れぇ!」
 夜水月の怒声と共に黒髪が一気に逆立ち、暗天が漆黒へと塗り替えられる。
「お前なんかに何が……! アイツのせいで! あのクソ野郎のせいで!」
 上空で無数の槍へと形を変えた髪は刃を下に向け、自分の方に狙いを定めた。
「言い訳は見苦しいことこの上ないのですー」
 鼻で笑いながら言い、昴は地面を蹴ってその場を離れる。
「黙れぇぇぇぇ!」
 そして槍の雨が降り注いだ。
 全て自分に牙を剥いて。
「あっははははははは! 怒ったのです! 小物が怒ったのです! バカ丸出しなのです!」
 西九条を巧みに振り回し、襲いかかってくる槍を弾き飛ばしていく昴。
 すでに夜水月の視界には自分しか映っていない。小夏や菊華が狙われることは万に一つもない。単純な奴だ。このまま少しずつ距離を詰めて、一突きで本体を――
「下ですわ!」
 横手からした菊華の声に、体が反射的に飛び退く。
 額に熱。僅かに遅れて痛み。
 眼前を通り抜けていった黒い槍を睨み付けながら、昴は崩れかけた体勢をなんとか持ち直した。
「死ねぇ!」
 が、黒い筋が一閃する。
「右!」
 菊華の叫声に突き動かされるようにして、西九条を持つ手を振り上げ――
「ち……」
 痺れるような疼痛と共に、九官鳥が宙を舞った。
 タイミングが少し遅れた。右からの一撃をクチバシで受け止めようとしたが、それよりも早く懐に潜り込まれた。だが、もし菊華の声がなかったら……。
「邪魔だな、お前……」
 夜水月の濁った右目が菊華に向けられる。
(やばい……!)
 そして脚が勝手に飛び出し――
「先に死ね」
 菊華の胸元を狙って槍が空を切り裂き――
(届け!)
 限界まで伸ばした右手を間に差し込んで――
「な……」
 掠れた声。乾いた音。
 菊華を貫くはずだった黒槍は折れ、地面に転がって髪の束に戻った。束はバラけ、一本一本は急速に風化したかのように粉となり、夜気に呑まれて消え去った。
「どう、なりましたの……?」
 近くで菊華が気の抜けた声を漏らす。それはそうだろう。どういうワケか防げてしまったのだから。とっさにやったこととはいえ、自分でも信じられない。
 夜水月の髪で編み上げられた槍を。
 “素手で”。
(そう、か……)
 放心する中、頭が無意識に記憶を遡って映像を映し出す。
 ねじりハチマキの幽霊は、西九条を持っていたおかげで夜水月の髪乱舞から逃れられた。なら、自分はどうしていたんだ? 自分はどうして逃れられたんだ?
 菊華と小梅の会話を聞かせてもらえず、病室の外で待たされていたことがあった。持っていた西九条に苛立ちをぶつけて、ずっと我慢していた時があった。あの時自分は、西九条を締め上げ、羽根を抜き、そして“クチバシにヒビを入れていた”。
 西九条のクチバシで夜水月の髪を弾くことができるのなら。そのおかげでねじりハチマキの幽霊が助かったのなら。同じようにして自分も助かったのなら。
 自分の手が西九条のクチバシよりも固いのだとすれば――
(バチくり回す!)
 その言葉が頭に浮かんだ時、体はすでに夜水月の正面に立っていた。
「お前……!」
「だぁしゃぁ!」
 夜水月の頭を真上から叩き付ける。
 固い手応え。肩まで響く爽快感。
「こ……」
 吃音を吐き、夜水月が目を大きく見開いて後ろずさる。
「も一つドリャしゃぁ!」
 くの字に折れ曲がり、突き出された顎先を狙って拳を打ち抜いた。
「――ッ!」
 声を上げることもできず、体もろとも跳ね上げられる夜水月。
「後ろから来ますわ!」
 菊華の声が終わるよりも速く反応し、両手を後ろに持っていく。刺されたような痛み。だが十分耐えられる。むしろ昂揚する。適度な痛覚が本能を刺激する!
「今までの鬱憤!」
 背後で槍が落ちる音を聞きながら、昴は夜水月の腹に拳を埋め込む。
「たっぷり晴らしてやるのです!」
 そのまま全体重を腕に掛け、夜水月の背中でコンクリートを抉った。
「か、ぁ……」
 口から空気と体液を吐き出し、驚いたような表情で身を沈める夜水月。
 ――どうしても足りなかった。
 決定的なところで押しの強さが欠如していた。
 一度や二度ですぐに諦めてしまい、自分の想いを貫き通す姿勢ができていなかった。ボロボロになるまで意地を張ることができなかった。
 『本当にこれで大丈夫なのか?』
 いつもそんなことばかり考えていた。
 『このまま行っても良いのか? ちゃんと意味のあることなのか?』
 いつもそんな下らない心配ばかりしていた。
 会話にしても、戦いにしても、そして恋愛にしても。
 もう少し押せば倒れていたかもしれないのに、それをしなかった。
 ようは足りなかったんだ。
「のたしゃぁ!」
 自分への自信が。
 何度も失敗して、いつの間にか臆病になってしまっていた。悪い意味で格好付けようとして、本当の意味で格好悪くなっていた。
「調子に、乗るなぁ……!」
 知らない間に相手への気遣いばかりしてしまって、自分の本心をそのままぶつけることをしていなかった。物事を綺麗に片付けようとしてしまっていた。
「効かないのです!」
 だからもう考えるな。
「お前なんかに……!」
 本能のままに行け。
「せぇリャしゃぁ!」
 頭に浮かんだことをそのまましろ。
「こんなモン……! 何発貰ったところで……!」
 もう難しく考えるのは――『疲れた』。
「お、おぃ……」
 地面に押し倒した夜水月の両肩を掴む。動けないようにしっかりと固定する。
「テメ……!」
 そして頭を大きく振り上げ、
「や、やめ……!」
「ゲェらしゃあ!」
 叩き付けた。
「ボルァしゃあ!」
 夜水月の鼻先に。二回、三回、四回と。
「ダァラ! ごぉら! でぇりゃ! もぉらしゃぁ!」
 考えすぎて、脳味噌を使いすぎて、『疲れ』が堪りすぎて。
 色んな力が漲りに漲り切った頭を何度も何度も。色んな想いを込めて何度も何度も。躊躇いなく何度も何度も。
 それを飽きるまで。吐き気がするくらい飽きるまで同じ動作を繰り返し、
「……ぅん」
 どこか呆けたような声を漏らして、
「終わった、のです……」
 昴は夜水月から顔を離した。
「勝ったのです……」
 スーっとした清涼感に満たされた頭を起こし、昴は立ち上がって夜水月を見下ろす。
 白目を剥き、口を半開きにして気絶しているその様は、まさしく幽霊そのものだった。屋上一面を覆っていた髪は気が付くと消え失せ、切り倒された木々や砕けたコンクリートを晒している。そこに横たわる沢山の幽霊達。
 立っているのは自分と菊華、そして――
「まさかこいつを、な……」
 院長。
「私が一番最初、君に持った印象は間違っていなかったようだ。実に面白い人間だよ、君は……」
 フェンスで背中を支えるようにして立ち、院長は含みのある笑みを浮かべる。
「よく生きていたのです。大した執念なのです」
「何……こんなになっても流れ弾を弾くことくらいはできるということさ……」
 言いながら院長は、ボロボロに千切れ去ったお札を胸の高さまで持ち上げた。
 あの状態でまだそんな効力が……。ロリ巫女の霊力はチート級か……。
「色々と、勉強になった……。今回は面白い体験をさせてくれたよ……。礼を言う……」
 そして院長は体をフラつかせながら屋上の出入り口に向かう。
「お待ちなさい! あなたにはまだ聞きたいことが沢山ありますわ!」
 声を張り上げ、院長に待ったを掛ける菊華。
「私には、何もない……。まぁ病院の方は好きにすればいいさ。私がここにいる理由もなくなってしまったことだしな……」
「そういう問題ではありませんわ! 待――」
 聞かずに去ろうとする院長を追おうとした菊華の脚が止まった。
「この……カス、どもが、ぁ……」
 そして地面から怨嗟のような低い声が聞こえてくる。
「まぁ、そいつに固執しなくとも、別の方法があるということさ……」
 肩越しにこちらを振り返り見ながら、院長は嘲るような笑みを張り付かせた。
「お前ら、なんか……に……」
 震える腕を地面に付き、夜水月はゆっくりと体を持ち上げる。そんな様子を院長は後ろから冷たい視線で見下ろし、出入り口に体を半分だけ滑り込ませて、
「真宮寺、か……」
「アイツのせいでえええええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
 ポツリと漏らした一言に、夜水月の顔色が激変した。
 黒髪は月を喰らい尽くさんばかりに天を突き、光源を無視して影が異様に伸びる。
「元はと言えば! アイツが最初に……! ずっとろくな目に……!」
 右目だけが爛々と狂おしい光を帯び、口にはガラス片を突き立てたような牙が突出した。黒いスーツは何か硬質的な物へと置き換わり、革靴は影と一体化して地面に呑み込まれる。
「壊す……! 全部壊してやる……! ここも幽霊界も全部だ!」
 伸び、そして横にも膨らんだ影は厚みを帯び、せり出すようにして立ち上がった。
 それはまさしく黒い巨人。何十メールもの高さを持った異形の物体が、遙か上空からこちらを睥睨していた。
 まさか、これが夜水月の幽霊体を直接使った……? 小夏が呼び出していた大蛇に当たる……。
「ッハハハハハハハ! このクソ野郎が! いいか! 絶対にテメェを喰ってやるからな! 絶対に喰い殺してやるからなぁ!」
 ダメだ。完全にイッてしまっている。きっともう自分で何を言っているのか分かってないんだろう。危険な状態だ。このままでは――
「お前を! お前の血肉をぉ! このクソ野郎が! この――」
(やばい!)
 菊華を庇うように抱き寄せ、昴は全身の『疲れ』を総動員させる。
「真宮寺“太郎”がぁ!」
 そして視界が白く染まった。 
 音がなくなる、色が消え失せる。
 匂いも、感触も、自分がそこにいるという感覚さえも。
 全てが無に帰し、全てが終わりへと向かっていく。
 生まれてきたことを後悔せざるをえない錯覚。ありとあらゆる喜びを奪い去られ、代わりに恐怖と絶望を植え付けられていく。
 意識を持って行かれる。精神が引き裂かれる。魂が蹂躙される。
 肉体が太古まで遡り、まだ原初の海の一部として存在していたころの記憶が浮かび上がって――
「……っ」
 不意に感覚が戻った。誰かに肩を叩かれたような気がした。そっちに行ってはいけないと声を掛けられたような気がした。
 最後に見えた光景。あれは確かに三――
「痛い! 痛いですわ東雲さん!」
「大丈夫、痛いのは最初だけなのです」
 脳天に鋭い痛み。
「で? 突然何をしてくれやがりますの?」
 ヒールを後頭部に深々と埋め込みながら、菊華は底冷えするような声を発した。
「何って……」
 頭の中でぐっちょんぐっちょんと湿った音を聞きながら、昴は意識をたぐり寄せて――
「夜水月は!? 夜水月はどうなったのですか!?」
 そのまま菊華の脚を押し上げながら叫んだ。
「あれ、ですわ。一体全体何があったのか説明してくださいます?」
 純白のスーツドレスの襟元を正し、長い黒髪を梳きながら菊華は言う。
 身を起こし、夜水月がいたはずの場所を見る昴。
「な……」
 そこにあったのはただの黒い塊だった。燃えカスと言ってもいい。とにかく原形など留めていない、ただの物体に成り下がっていた。
(恐ろしい……)
 そんな言葉ではとても形容しきれないが、とにかく恐ろしい。やはりあれは滅びの言葉だ。あれだけしぶとかった夜水月を一瞬にして……。しかも遠距離から。恐らく何兆光年も離れた場所で……。
「で、何がありましたの? もうここまで来たら何を言われても驚かない自信がありますから、遠慮せずに綺麗さっぱりブチまけやがれですわ」
 腕組みし、肩を怒らせながら菊華は攻撃的な口調で言う。
 まさか、菊華には見えなかったのか?
 魔王の放った天誅の雷が。
 ……まぁ、世の中知らない方が幸せなことが多いし。わざわざ破滅の道に誘わなくとも――
「とっとと教えろっつってるんですわ」
 額からヒールを突き刺してトンネルを完成させながら、菊華は更に凄む。
「わ、分かったのです……。だからひとまず落ち着い――」
「東雲さんからー……離れぇー……」
 背後で上がる恨めしい声。
 しまった。まだこちらの問題が片付いていなかった。
 だがもうそれほど恐くない。今は自分に自信がある。難しいことは考えず、本能のままに動けばいいだけだ。
「小夏さん! 僕は――」
『大人しくしなさい。君達は完全に包囲されている。君達には黙秘権がある。無駄な抵抗は止めて、ありのまま投降しなさい』
 昴の言葉を遮り、頭上から拡声器を通した声が聞こえてきた。
「ちぃ! 誰かが自衛隊を呼びやがりましたわ! ややこしいことになる前にずらかりますわよ!」
 早口で言いながら菊華は携帯を取り出し、慣れた手つきで操作していく。
「こっちですわ!」
 そして二つ折りにしてスカートのポケットにしまい、声とは反対側に走り始めた。
『あっ、こ、コラ! 台本にない行動をするんじゃない! え、えっと、犯人が逃げた場合は……』
「小夏さん行くのです!」
 何をするつもりなのかは知らないが、ここは菊華は付いて行くしかない。後のややこしい話は逃げ切ってからだ。
「小夏さん……?」
 が、小夏は来ない。
 その場に立ちつくし、前で合わせた両手をギュッと握り込みながらこちらを見つめている。
「小夏さん早く!」
「選んでくれ、東雲さん……」
 自衛隊のヘリ音に掻き消されてしまいそうな声。
「ワラシと黒岩さん……どっちを取るんか、決めてくれ……」
 顔を俯かせ、全身を力ませ、思い詰めた表情で小夏は言った。
「今はそんなこと言ってる時じゃ……!」
「決めてくれ! ワラシと黒岩さん! どっちが好きなんか!」
 まるで泣き叫ぶかのように、小夏はヒステリックに声を荒げる。
「頼む……。頼むけぇ……」
 しかし一気に消沈すると、肩を落として息を吐いた。
「小夏さん……」
 そんな痛々しい彼女の姿を見ながら、昴は体から力を抜く。そして小夏と向き合うように体を向け、
「最初からずっと変わらないのです」
 自信を持って言い切った。
「もう、小夏さんにどれだけ拒絶されても突っ込んでいく覚悟だったのです。完膚なきまでに玉砕して納得するまでは、絶対に諦めないつもりでいたのです。だから小夏さん――」
 そこまで言って少し間を溜め、
「僕と結婚を前提にお付き合いして欲しいのです」
 全ての想いをその言葉に乗せた。
 そしてまた音が聞こえなくなる。さっきまでしていた上と後ろからのわめき声が止み、まるで自分達だけ世界から取り残されたように静まり返る。
 もしかするとほんの数秒のことかもしれない。だが完全に止まった時間の中では、それは永遠とも思える間で――
「は……」
 小夏の口から力なく短音が零れる。
「はははは……」
 それはすぐに乾いた笑いとなり、気でも触れてしまったかのように繰り返された。
「夢、みたいじゃ……」
 そして目の焦点を合わせぬまま、小夏は呆けた声で続ける。
「これでもぅ、なんも思い残すことない……。なんも、なぃ……。なーんも、なぃ……」
 熱病に浮かされた者がうわ言を繰り返すように、小夏は歌うかのような声を紡いだ。そして足元をふらつかせ、倒れそうになりながら後ずさる。
「小夏さん?」
「ありがとう……ありがとうな、東雲さん……。短い……ほんに、短い間じゃったけど、楽しかった……幸せじゃった……」
 視線を明後日の方に向けたまま、小夏はふらふらと上体を揺らした。
 おかしい。何か変だ。
 どうした。何を言っている。小夏は一体――
「小梅もな、東雲さんのこと好いとるけぇ……可愛い、かわいい、妹じゃけぇ……大切にしたってな……」
 まさか……!
「さよならじゃ、東雲さん……」
 小夏の目元に銀色の光。
「小夏さん!」
 喉の奥から叫び上げ、昴は小夏に駆け寄る。
『最初から、こうするつもりじゃった……』
 どこか遠くの方から聞こえてくる小夏の声。そして彼女の体に後ろの風景が映し出される。
『ごめんな、小梅……。最後の最後まで、わがままな姉ちゃんで……』
「小夏さん!」
 透け通り、輪郭を朧気にしていく小夏。その体が二重にブレて見えたかと思うと、剥がれ落ちるようにして前のめりに崩れる。地面に引かれて落ちたのは、小夏よりも遙かに小柄で華奢な女性。
「危ない!」
 滑り込み、昴は彼女を両腕で支えた。目を瞑り、手足を脱力させているのは小夏と顔立ちのそっくりな少女。
 彼女が、小梅。小夏の妹。
『東雲さん……大事に、したってな……』
 今にも消え去りそうな声が紡がれ、昴は顔を上げた。そこにはもう殆ど見えなくなった小夏の姿。空気に溶け込むようにして、足元から背景と同化し始めている。
「待って小夏さん!」
 小梅を抱きかかえたまま昴は手を伸ばした。
「――ッ!」
 が、手応えはない。何度掴もうとしても、指先は同じ数だけ空を切る。
『ありがとうな、東雲さん……』
 成仏、してしまうのか。満足したから。もう全ての未練を断ち切ったから。
 五十年前のことを思い出せたから。自分がどうして小梅の体にいるのか分かったから。小梅に何をしようとしていたのか分かったから。小梅に謝ることができたから。
 そして――
『一度でええから、誰かを好いてみたかったんじゃ……』
 だから思い残すことはないと……。
「嫌だ!」
 そんなのは嫌だ! 絶対に嫌だ!
 これからじゃないか! これからが始まりなんじゃないか! これから楽しいことを沢山……!
 自分はどうなる! 残されたら自分はどうなる! 自分の未練は……!
 もう嫌だ! 大切に想った人とこれ以上別れるのは嫌だ!
「前に言ったのです! 『僕はどこにも行かない』って! 『ずっと一緒いる』って! 約束したのです!」
 そうさ約束したんだ。一方的で突発的な約束だったけど、約束は約束だ。
 ならば守らなければ。約束は破るためにあるんじゃない。当然、果たすためにあるんだ。
「小夏さん!」
 力を込めて右手を伸ばす。届かない。小梅を置いて左手を伸ばす。両腕で抱きかかえるように。
「絶対一緒に行くのです!」
 もっと思いを込めて。強く思いを込めて。もっと強く願って。
 それが当たり前なんだと思うくらいに。小夏と一緒にいることが使命だと思うくらいに。小夏と一緒になるために生まれてきたんだと思うほどに。
 小夏のこと以外考えられないくらいに!
『さよならじゃ、東雲さん……』
 他の物は全部捨てていい! 小夏以外もう何もいらない!
 だから……! お願いだから!
「小夏さんは僕のものだ!」
 
◆黒岩菊華の『なるようになりやがれですわ』◆
「――と、いうワケで。白雨病院の方はしばらく経時観察とさせていただきますわ。できる限りの処置は施したつもりですので」
 春日邸五階。黒い絨毯の敷かれた円形のダイニングホール。
 シルバークロスの掛けられた丸テーブルを囲み、菊華は良く通る声で簡単に報告した。そして優雅な手つきで朝食として出された白身魚のムニエルを口に運ぶ。
「相変わらず見事な手腕ですわ。たった一ヶ月で原因を突き止めるとは。まさか院長が……。さすがは次期グループオーナー。ワタクシも今から安泰ですわー。ねぇ〜? 剛一狼さ〜ん」
 自分の丁度正面。髪をアップに纏めている特大のバタフライリボンを派手に揺らしながら、亜美は猫撫で声で剛一狼にすり寄った。
「とにかく菊華が無事でなによりッス。病院は潰れても代わりはあるッスけど、誰も菊華の代わりはできないッスから」
 その隣で亜美の頭を優しく撫でてやりながら、剛一狼は落ち着いた口調で言う。
「お言葉ですがお父様。あの病院がなくなれば困る方々は沢山いますわ。それにワタクシも怪我の一つや二つでへこたれるほどヤワにはできていませんから」
 それに淡々と返しながら、菊華はスペイン産イベリコ豚の生ハムをナイフで小さく切り分けた。
「ま、まぁそれはそうッスけど……大切な娘に怪我がないに越したことはないッスから」
「心配のし過ぎですわお父様。あんなのテンデしゃらくせぇですわ。ド楽勝もいいトコですわ」
 ハン、と小さく鼻を鳴らし、菊華は生ハムに自家製の赤ワインドレッシングを和えて口に放り込む。
「な、何だか随分と逞しくなったッスね……。やっぱり病院で何かあったッスか?」
「国土の連中をコキ下ろして、鬱陶しい自衛隊を金と権力でネジ伏せただけですわ。別に特別なことは何もしておりませんから、ご安心あそばせ」
「そ、それであんな法外な請求書が……。ボクのお小遣い向こう一年分が……」
 ただでさえ細い猫目を更に細くし、剛一狼は特注のカジュアルジャケットに包まれた巨体を小さくした。
「菊華」
「はい、お母様」
 厳しい声で名前を呼んできた亜美に、菊華は全く動じることなく返す。
「あなたに一言、言いたいことがあります」
「どこからでも来やがれですわ」
 紅玉りんごのパイ包み焼きを素手で掴み上げ、菊華は口で噛み千切って乱暴に咀嚼し――
「恋をしていますわね?」
「ブべっ!」
 そして全てを吐き出した。
「やっぱりそうでしたのぉ〜。もぉ〜水臭いですわ〜菊華ったら〜。ワタクシ、娘と恋バナで盛り上がるのが夢でしたのにぃ〜」
 純白の手袋をした両手を軽く握り込み、それを顎先に当ててイヤンイヤンと顔を振りながら亜美はピンクオーラを咲かせる。ラメ入りのクイーンドレスと相まって、深夜番組限定のイタいコンパニオンガールのようだ。
「ぉ、お母様……?」
 アンティークのハイバックチェアからずり落ちそうになる体を辛うじて支え、菊華は口元を手の甲で拭った。
「あなたの変わり様を見ていればすぐに分かりましたわ〜。あれは完全に恋する乙女の瞳。獲物を捕獲せんとするハンターの眼差し。ワタクシもかつてはそうでしたから、よく分かるんですのよ〜」
「えっへへへ……照れるッス……」
 顔にまんべんなく付いたパイ生地を取ろうともせず、一人メルヘンワールドに旅立った亜美の横で、剛一狼が猫目をニンマリと曲げて後ろ頭を掻く。
(なん、なんですの……)
 顔を引きつらせながら椅子に座り直し、菊華は乱れた黒髪を梳いて整えた。
「やっぱりお相手は今回の協力者さんなんでしょう? あなたが他の方の助力を仰ぐなんて珍しいから、もしやと思っていましたらやっぱりですわ〜」
 ……心斎橋だな。あの野郎、余計なことまで報告しやがって。
「お言葉ですがお母様。それはとてつもなく莫大で甚大で壮大な勘違いというものですわ」
 咳払いを一つし、白いフレアブラウスの胸元を直して菊華は続ける。
「確かに、今回は外部からの協力を得ましたわ。そうした方が効率的で手っ取り早くてイタブリ甲斐があると判断したからですわ。問題を迅速に解決するために必要なのであれば、手段を出し惜しみ致しません。利用できる物は何でも利用しやがれがワタクシがモットーですわ」
 流れるように淀みなく言い終え、菊華はウェッジウッドのダージリンティーを一口すすった。
「まー菊華ったら、照れてるんですのね〜? 可愛らしいこと。そんなにムキならなくとも、ワタクシ達には全部打ち明けてくださればよろしいのに〜。ねぇ〜? 剛一狼さ〜ん」
「ッスねー」
「遠慮いたしますわ」
 冷たくあしらい、菊華は目を瞑って紅茶を舌の上で転がす。
 まったく、誰があの剛毛鼻毛ゴキブリのことを……。ただでさえ視界に入れざるを得ない状況になって、毎日困り果てているというのに……。
「ところで菊華」
 先程までの浮ついた調子からはうって変わり、亜美は静かな喋りで口を開いた。
「最近、真宮寺のことを口にしなくなりましたわね。どういう心境の変化ですの?」
 目を開ける。顔の前で組んだ両手に顎を乗せ、亜美は試すような視線をこちらに向けて来ていた。
「……別に。そろそろ大人しく諦めようかと思っただけですわ」
「例の協力者さんにきつく抱き締められて諦めがついたんですのね?」
「なんでそうなりますの!?」
 ガタン! とテーブルを大きく揺らして立ち上がり、菊華は声を張り上げて叫ぶ。
「あら? ホントでしたの? ワタクシは冗談で言ってみただけですのにー」
(くっ……)
 わざとらしく言い、好奇に目を輝かせる亜美。
 どこまでだ。どこまで知ってる。どこまで報告しやがったあのボケナス野郎!
「ま、まぁまぁ……。二人とも仲良くするッス。ケンカは良くないッス……」
「ケンカだなんてそんな。ワタクシ達は今まさに、親子の醍醐味を味わっているとこですわー。ねー? 菊華〜」
 醍醐味……醍醐味とかヌカしやがったか、このアマ。ただイジるのが楽しいだけなくせして、何をイケしゃーしゃーと。
「ちょっと前までは、すーぐに素っ気ない態度取っちゃうものだから。扱いが難しくて苦労していましたのよ。ワタクシ達の育て方が悪かったのかしらー、とか。そういうお年頃なのかしらー、とか。色々と気を揉んでいましたのよ?」
 ……まぁ以前は二人のバカップルぶりを見せつけられて、あっと言う間にお腹一杯になってしまっていたのだが……さすがにもう慣れた。
 あの大掃除に開けた換気扇ゴキブリのおかげでな。
「恋愛の素晴らしいところは相手の色に染まれることですわ。ワタクシも剛一狼さんのおかげで随分と丸くなりましたし、何をするにも余裕とゆとりが持てるようになりました。剛一狼さんと出会う前は気ばかりがはやって〜。本当に男を見る目がなくてなくて大変でしたわ〜」
 それは余裕ではなく単にどうでも良いことが多くなっただけでは? 取り合えず二人でイチャついていられれば、少々経営が傾いたところで気に掛けないようになっただけではないのか?
 ……まぁ、こいつらを見ていれば、わざわざ問い正す気力すら起きないのだが。
(ただ……)
 あの最高に最低ゴキブリが自分に多大な影響を与えたことは確かだ。と言うより、あれと出会って価値観が何も変わらない人間などいないだろう。
 最初は本当に些細なことだった。思い出すのもバカバカしい程バカげた出会いだった。
 一番最初は白雨病院のロビーホールにいた不審者だったんだ。
 それを注意しに行って、卑猥な発言を繰り返されて、鉄拳制裁を加えて、それから……そう、真宮寺太郎のことを知っていたんだ。そもそもの始まりはそれだった。彼が真宮寺太郎の知り合いでなければ、あんなにも固執することなど決してなかった。
 あとはまぁ、病院のことを内側から良く知っていそうだったし、オバケとかそう言う類のことに強そうだったから、なんとなく……。
(オバケ、ねぇ……)
 そう言えば一ヶ月前まではオカルトが大の苦手だったんだか。もうすっかり忘れてしまっていた。今では全国の心霊スポット真夜中巡りを、酒ビン片手に一人火の玉鑑賞会で、心の底から楽しめる自信がある。
 はて、これはどうやって克服したんだったか……。確か七不思議の秘密を探るべく、屋上に行った時はまだ震え上がっていたはずだ。扉を開けようとしたらカギが掛かっていて、けどそれが勝手に開いて、恐怖に呑まれそうになった時――
(ああ、そうでしたわ……)
 卑猥に突進してきた昴を半殺しにすることで、一気に落ち着いたんだ。
 その後で通天閣と出会って、彼女の声を聞いて、姿が見えて、小夏や院長の話を聞いて、遅くまで飲み明かして。
 気が付いたら普通に幽霊達と会話していたんだ。彼らと楽しく談笑するのも悪くないなとか思いながら、自分でもビックリするくらい自然に溶け込んでいた。
 だがもし、昴がいなかったら……。
 小夏に『殺す』と言われた時もそうだ。
 嫉妬心で逆上した彼女が自分に純粋な殺意を叩き付けてきた時、体も心もすくみ上がって動けなかった。こんな自己満足でしかない正義ゴッコなんてさっさと止めて、逃げ出したいと思った。
 しかしそもそもの原因が昴にあると分かった瞬間、その怒りが恐怖を凌駕した。とにかくあの変態の脳天にヒールを埋め込みたくて、それ以外のことはどうでもよくなった。
(どうでも、か……)
 父と母が二人で楽しくいられれば、その他はどうでもいいように?
(違いますわ……)
 自分はそんなに単純じゃない。
 ただ……昴のおかげで異常事態をあっさりと受け入れられたのは確かだ。本来なら自分の中で数多の葛藤や自問自答を繰り返して、少しずつ迎え入れる物を、昴というゴムパッキンのかびゴキブリのせいで面倒臭い過程を全部すっ飛ばしてしまった。
 何かそういう不思議な力を持っている、あけすけで、無茶苦茶で、卑猥で変態で野蛮でコンコンチキで――
(何とかしてくれる)
 そんな期待感を抱かせる人間だった。
 そうでなければ、あの最後の屋上での出来事。あの場面を乗り越えることなどできなかった。無理矢理強がることだってできやしなかった。
 ましてや心斎橋が狙いを付けやすいように、夜水月の大鎌を手で跳ね上げるなどと……。
 一種の錯乱状態だったんだろう。正直、あの時のことは断片的にしか覚えていない。
 ちゃんと目を開けて全てを見ていたはずなのに、記憶が途切れ途切れになっている。自分で何を言っていたのかすらも良く覚えていない。
 特に、あの変態に抱き締められてからは――
「まぁ何はともあれ、あなたを別の色に染め上げてくださる殿方がいらっしゃって本当良かっ――」
「あの梅雨時の布団ゴキブリとは何もありませんわ!」
 前からした亜美の言葉に、菊華は声を張り上げて返した。
「大体あれはもうとっくに別の女性とくっついてますわ!」
 顔が途端に熱くなっていくのが分かる。急に昂奮したせいだ。
「ええ、それは勿論知っております」
 クソ……あのゴキブリ・オブ・ゴキブリめ。こんなになってまでまだ迷惑を――
「は……?」
 迷惑、を……?
「ですが気落ちする必要なんて全くありませんわ」
 今、何と……?
「愛とは自らの手でもぎ取る物。相手が幽霊だろうが何だろうが、諦めることなんてありませんわよ。障害が多ければ多いほど、大きければ大きいほど燃え上がるのが恋というもの! 菊華、ワタクシはあなたを応援していますわ!」
 ダン! と亜美も椅子を蹴って勢いよく立ち上がり、固く握り込んだ拳を高々と突き上げて叫ぶ。
「あぁ! 何という悲恋! 何という身と心のすれ違い! そして何というロマンス! こんなにもすぐそばにいるのに手が出せないなんて! こんなにもすぐそばで愛し合う姿を見せつけられるなんて! 菊華、あなた今、もんのすんごく特異な環境に置かれていますわ。ですが決してそれを不幸と思ってはなりません。むしろ至上の幸せだと感じ、女っぷりにより一層の磨きを掛けるのです。ワタクシもあなたくらいの時は色々とありましたわー。あー懐かしい。あの方は今も変わらずバンダナ収集に励んでおられるのかしらぁ」
 頬に両手を添え、再来年の方向に視線を向けながら夢見がちに呟く亜美。
「お母様……まさか、見えて……らっしゃるのですか……?」
 そんな痛々しい姿を呆然と見つめ、菊華は掠れた声で途切れ途切れに漏らした。
「何を今更。あなたがその子を連れてきて一週間後に取り憑かれたのを、はっきりとこの目で見ていますわ」
 椅子に座り直し、亜美はさも当然といった様子で言う。そして何事もなかったかのようにティーカップを持ち上げ、真後ろに待機していた心斎橋に琥珀色の液体を注がせた。
「じゃあ、お父様、も……?」
 亜美から視線を外し、菊華は剛一狼の方を見ながら同じ質問をする。
「まぁ……その、一応ッス……」
 こちらと目を合わせようとはせず、猫目がなくなってしまうんじゃないかと思うくらい目を細くして顔を逸らす剛一狼。
 こいつら……なんでわざわざそんなことを……。
 面白がっていたのか? 自分や昴のことを遠くの方で見ながら、面白おかしく茶シバきでもしていたのか? まるでゴキブリペイントされたピエロではないか。こっちは真剣に悩んでいるというのに……!
「菊華、ワタクシ達は別にあなたをからかうために黙っていたのではありません。あなたが自分の中で気持ちの整理が終わるのを待っていたのです」
 こちらの胸中を見透かしたように、亜美は落ち着いた口調で続ける。
「この短い期間で色んな体験をしたことでしょう。今までは信じていなかった物、受け入れてこなかった物、頭から否定していた物。そういった新しい世界の物に触れて、あなたは大きく変わりました。ですが本当の意味で自分の物にするには、まだ時間がかかりますわ。ワタクシ達はその大切な時間を邪魔したくなかった。あなたが自分の中でちゃんと消化して、自分の言葉で気持ちを言い表せるようになるまで見守っていたかったんですわ。誰の力も借りず、たった一人で。いつもあなたが口癖のように繰り返している言葉でしょう?」
 詰まることなく、朗々と紡がれた亜美の言葉。
 それに菊華は何も返せず、気まずそうに柳眉を顰めて椅子に腰を下ろした。
 ……悔しいが、彼女の言っていることはほぼ当たっている。この一週間、頭の中は怒濤の混乱乱気流だった。受けてきた講義の内容などろくに覚えてない。誰とどこで会ってどんな話をしたのかもよく分からない。何を食べてきたのかすら記憶が曖昧だ。
 それほど色んなことがあった。それほど自分の理解できる範疇から逸脱していた。それほど気持ちの変化が目まぐるしくて――
 ただ、極力顔には出さないように気を付けていたつもりだった。かなり意識してポーカーフェイスを保っていたつもりだった。
 しかしあっさり見抜かれていた。見抜いた上で気遣いまでされていた。
 もし亜美が無神経にも、昴や小夏のことを持ち掛けてきたら、今頃どうなっていたか分からない。きっと自分で何を言っているのかも理解せずに、無様な醜態を晒していただろう。
(さすが、ですわ……)
 知らないと思っていた。自分達がイチャつくことばかりで、こちらのことなど気に掛けていないと思っていた。信頼しているとか、長女らしいとか、適当な言葉を並べて、ていよく使われているだけだと思っていた。
 知らないようで知ってくれていた。そして自分は知っているようで何も知らなかった。
 これが母親という存在なのか。これが――
「ま、ちょっと楽しかったっていうのもありますわ」
「オイコラ」
 ぼそり、と零した亜美の一言に、菊華は声を低くして睨み付ける。
「ワタクシとてあの真宮寺と関わりをもった人間。幽霊となんて寝言でも会話できますし、同居人として一人や二人増えたところで何の問題もありませんわ。ねー? 小梅ちゃーん」
 鼻に付く甘ったるい声で言い、亜美は幸せそうな視線で自分の隣りを見つめた。
「へっ? あ、は、はぃ……」
 突然話をふられ、仔リスのように愛くるしい瞳を白黒させる小梅。呑み込もうとして詰まらせかけたベーコンソテーを、また無理矢理呑み込もうとする仕草がとってもキュートだ。
「ここの料理はお口に合いまして?」
「は、はぃ。とっても、おぃしぃです……」
 ボブカットの黒髪を揺らしてこくこくと頷き、小梅はたどたどしい言葉遣いで返した。
 しかたない。五十年ぶりに声が出るようになって、まだ二週間ほどしか経っていないのだ。口の中の筋肉も相当衰えているだろうし、少しずつ慣れていって貰うしかない。
「そのキュロットワンピース、とってもお似合いですわー。着こなしがお上手ですわねー、小梅ちゃんはー。やっぱり前に着ていたパジャマと同じ柄だからかしらー」
 にへら〜、と表情を緩ませ、幸せそうな視線で小梅を見つめる亜美。そこには愛情以上の何かが確実に読み取れる。白地に桃色の水玉が入ったキュロットワンピースを、小梅がここに来て即オーダーメイドした時から危ないとは思っていたが……。
「そして肩には黒いアホウドリ。このミスマッチがたまりませんわー」
『九官鳥ですからー奥さんー。そこんトコ間違えんといてくださいよー。ホンマたのんますわー』
 亜美が用意させた皿の上の塩こんぶと戦いながら、哀しげな声を漏らす西九条。なんだか日に日に扱いが酷くなってる気がしなくもないが……きっと気のせいだろう。小梅にはちゃんと可愛がられているようだし、小生意気なこいつには丁度良いくらいかもしれない。
 それにしても……。
(懐の広い親で助かりましたわ……)
 小梅と西九条を横目に見ながら、菊華は頬杖をついて息を吐いた。
 ――あの後。
 院長は姿を眩ませた。どこにもいなくなった。
 彼が住んでいた高層マンションを探しても、医師会の登録名簿にある全ての住所を当たってみても、院長は見付からなかった。彼は自分が最後に残した身勝手な言葉通りのことを実行したのだ。
 病院のトップが失踪したとなれば、その下に置かれている組織は当然混乱する。早急に代役を立てる必要があった。しかしそんなに都合の良い人材が、どこにでも転がっている訳ではない。調整するためには、どんなに急いでも一週間は掛かる。その間、一体誰が指揮を取るのか。
 候補となる人物は一人しかいなかった。
(あの婦長……完全に味をしめましたわね……)
 二十五年のキャリアを持つ超ベテラン看護婦。事務から実務まで幅広く何でもこなすスーパーエリート。
 彼女がいてくれたおかけで、病院の機能が麻痺してしまうなどといった事態にはならなかったのだが……新しい院長を尻に敷くという別の問題が発生してしまった。
 ……まぁ、あれだけ我が強ければ素直に人の言うことを聞くとも思えないが。彼女とはどことなく通じる物があるから、何となく分かる。とは言え、お目当ての人間がいなくなってやや消沈気味だから、あの程度ですんでいるんだろうが……。
(まぁ……)
 とにかく不本意な形ではあるが、自分がしようとしていたことは見事に達成された。前院長が敷いていた体制は払拭され、健全な経営に戻った。
 そして小梅は退院することとなった。
 前院長がいなければ白雨病院に籠もって耐えている必要はない。情報を引き出す相手がいないのであれば、そうしている意味がない。
 いや違う。それ以前の話だ。
 なぜなら“小梅は不老でなくなった”のだから。
 小梅が不老になった理由は小夏の憑依。これはもうほぼ間違いない。
 なら小夏が小梅から出ていってしまったのなら、彼女は時間と共に年を重ねることになる。普通の人と同じ時の流れに身を置くことになる。
 もっとも、正確には出ていってしまったわけではないのだが……。
「さぁ小梅ちゃん、お代わりは沢山ありますわー。好きなだけ食べてくださいましねー」
「ぁ、ありがとぅ、ござぃ、ます……」
 亜美の言葉に遠慮がちに返し、小梅は恥ずかしそうに俯いた。
 小梅の不老は治った。しかし彼女には身寄りがない。行く場所がない。
 だから自分の家に招いた。
 戸惑いやひっかかりは特になかった。そうすることが当然だとすら思えた。ここまで深く関わっておいて、事が済んだらハイサヨナラなどという薄情な人間であるつもりはない。
 人は一人で生きているわけじゃない。特別な人種を除いて、多かれ少なかれ誰かの力を借りている。きっとそれが自然なことなんだと思う。
 だからこそ違う世界を体験できるし、違う思考に触れることができるし、違う色に染まることもできるんだ。
 ひょっとすると真宮寺太郎だって、そういう時があったのかもしれない。今は何となくそんな気がする。
 それはきっとあの、ゴキブリ変態だって――
「いやー、今日も幸せ一杯なのですー」
 あの、排水溝の黒い塊ゴキブリだって――
「ワラシもじゃぁ。もう他は何もいらんけぇ」
「僕もなのですー。いくらでも幸せが湧いてくるのですー」
 あの、ラグビー部のロッカールームゴキブリだって――
「東雲さんー、あんたほんまエエ男じゃあー」
「小夏さんだって気絶するくらいイイ女なのですー」
 あの、ゴキブリ世界記録保持者だって――
「東雲さん〜」
「小夏さん〜」
「ぃやかましいですわあああああああぁぁぁぁぁ!」
 弾けるようにして跳び上がり、菊華は右足をテーブルの上に乗せて怒鳴り上げた。
「さっきから人目をはばかる必要がないからって人目もはばからずにいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃとおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ! 親父様とオカン様が見えないと思って我慢していやがりましたが、もう限ッッッ界ですわ!」
 語調を荒げ、長い黒髪を天に舞い上がらせ、菊華は双眸に殺意の光を宿して叫ぶ。
「き、菊華、お、落ち着くッス……」
「黙りやがれですわ!」
「はひ……」
 剛一狼を一蹴し、菊華は目の前で脳天気に浮かびながら身を寄せ合う二人を見据えた。
「朝から晩までそうやって飽きもせずにベタベタベタベタベタベタベタベタとぉ! 少しは離れなさい!」
「いやー、そんなこと言われてもー。僕の意思ではなんともできないのですよー」
「その通りじゃぁー」
 八重歯を覗かせて幸せ笑いを浮かべる昴と、彼にしなだれかかるようにして同意する小夏。
(こ、こいつらぁ……)
 鋭角的に吊り上がった目元を痙攣させ、菊華は握り込んだ両拳をわななかせた。
 ――あれから。
 昴と小夏も消えてしまった。
 院長同様、どこにもいなくなってしまった。
 あの屋上での騒ぎの事後処理をした後、散々探し回ったのだが手掛かりすら掴めなかった。元々幽霊だった小夏はともかくとして、昴までもが、どこにも……。
 ずるいと思った。
 人のことを散々引っかき回しておいて。あれだけ訳の分からないことを丸投げしておいて。信じられないくらい自分を変えておいて。
 後は、一人でゆっくり考えろなどと……。
 絶対に許さないと思った。どんな手を使ってでも見つけ出して、気持ちの整理の責任を取らせるんだと誓った。
 そのためには幽霊界だろうが、悪霊界だろうが、地獄界だろうが、どこへでも行ってやると思っていた。小梅と一緒に思っていた。
 思っていた、のに……。

『あー、菊華さん。こんにちはなのですー』

 二週間ほど前に突然顔を見せたかと思うと、

『今日付けで菊華さんの“守護霊”を勤めることになった東雲昴なのです。改めてよろしくなのですー』

 また訳の分からんことをシレっとヌカしやがってこのギネス認定ゴキブリは!
 しかも!

『同じく、今日付けで小梅の守護霊になった小夏じゃ。またよろしゅうな』

 小夏まで! ちゃっかりウェディングドレスを着込んで!
 ……あれからどうなったのかは知らない。昴と小夏が幽霊界とやらに行ったことは間違いないだろうが、そこで何をしてきたのかまでは知らない。知りたくもない。どうでもいい。
 ただでさえ容量オーバーの頭に、さらなる負荷を掛けるのは自殺行為だ。
 それに、のろけ話が延々と垂れ流されるのは目に見えているし……。
 まずは目の前にある事実を受け止める。
 昴は自分の守護霊になった、小夏は小梅の守護霊になった。
 そして小梅の声が再び出るようになった。
 確か夜水月が言っていた。小夏が現世に留まる代わりに、小梅の声だけをダミーとして幽霊界に送り込んだと。小夏が行くべき所に、小梅の一部を割り当てたと。
 ならば、小夏が本来の場所に戻れば、失われていた小梅の声は戻ってくる。
 ……まぁ、多分そういうことなんだろう。本当に合っているかどうかは、この際別として。取り合えず自分の中で納得できればもうそれでいい。
 最近、細かいことが本当にどうでも良くなってきた。今までは自分が知らなかっただけで、世の中はおかしなことだらけなんだ。いちいち突っ込んで考えていたら、時間と精神力がいくらあっても足りない。
 だから、昴と小夏に関しても極力無視しようと思っていたのに……そう、努力してきたのに……。このゴキブリスト共がぁ……。
「……分かりましたわ」
 目を瞑って息を吐き、菊華は無理矢理気を落ち着けて体の力を抜く。
「あなた方の意思でどうにもできないのであれば、ワタクシの意思で引き剥がしてくれやがりますわ」
 そしてフッと鼻で笑い、テーブルから脚を下ろして身を離した。
「お母様、お父様。それでは本日も学業に励んで参りますわ。小梅さんのお相手を、お願いしてよろしいでしょうか」
「へ……?」
「ぇ……」
 菊華の言葉に昴と小梅から同時に声が漏れる。
(勝った)
 その反応に心の中でガッツポーズを取る菊華。
 小梅がここに来てから、彼女はずっと自分と一緒にいた。この広い家になかなか慣れることができないのか、いつも自分の後ろを付いて歩いていた。食事の時も、ティータイムの時も、レクリエーションの時も、そして大学に行く時も。
 自分達は殆ど離れることなく――例え離れたとしても“二十メートル”以上距離を開けることはまずなかった。だから昴と小夏はイチャつきたい放題だった。しかし――
(ワタクシが何も手を打っていないと思ったら大間違いですわ!)
 非常に腕のいい巫女がいるという噂の水比良神社。
 つい先日、その場所を訪れてみた。そして昴と小夏が自分達だけの世界に入っているのを確認して、社務所にいた女性に相談を持ち掛けた。
 本当はちゃんとした大人の巫女と話したかったのだが、留守番を言い遣ったであろう女の子がいただけだった。だが――

『ああ、守護霊ですね。それなら十メートル・ルールというのがありますから、一度試してみては?』

 即答だった。
 まるで過去に似たような体験をしましたよと言わんばかりの瞬答っぷりだった。
 十メートル・ルール。
 それは守護霊が宿主から十メートル以上離れられないという幽霊ならではの決まりごと。もしそれ以上間が開くと、不自然にならない形で宿主の近くに出現する。
 言われてさりげなく何度か試してみた。
 電車の外に置き去りにしてみたり、車の外に置き去りにしてみたり、ヘリの外に置き去りにしてみたり、空母の外に置き去りにしてみたり。
 確かに、どんなに離れようとしても十メートル以上になると、いつの間にか消えていつの間にかそばに現れている。
 突然花瓶の中から出てきたり、雨と一体化して降り落ちてきたり、テレビの中から飛び出してきたり、空間の割れ目から顔を覗かせたり。
 ごくごく自然な形でそばに立っているのだ。
 それは勿論、小梅と小夏の間でも成り立っている。彼女達も十メートル以上は離れられない。
 つまり――
(ワタクシと小梅ちゃんが二十メートル以上離れれば……!)
 自然と昴と小夏は引き剥がされることになる。
 完璧! 完璧だ! もう弱みを握ったも同然! あの狼狽えた昴の顔を見て、そのことを確信した! これで今日から鬱陶しいラブオーラに苛まれることなく――
「くーろーいーわーさーんー……」
 野太い恨めしげな声。
『ワーラーシーたーちーをー、引ーきー裂ーくーつーもーりーけー……』
 エコー掛かり、四方八方から二重にも三重にも聞こえてくる。
 ヤバい。この感じは本気だ。本気で殺る気だ。血のウェディングドレスにするつもりだ。
「とっ、とーんでもありませんわ。ただ、ワタクシももーちょっと学業に集中したいなーと……。それに小梅さんにも早くここに慣れていただかないといけませんしー。ワタクシがずっと相手できればいいんですけど、そういうわけにはいかない時もあると思うのでー」
 はははー、と乾いた笑みを張り付かせながら、抑揚のない喋りで返す菊華。
 小夏は据わりきった目をこちらに向け、何かを探るようにじっと見つめて……。
「そ、そうじゃよな。すまんの、変に勘ぐったりして。黒岩さんがそんな人やないことは、ワラシ自身、よー知っとるんに……。ほんに、すまんの」
 途端にしおらしい顔付きになったかと思うと、頭を深々と下げて謝罪の言葉を口にした。
「黒岩さんはええ人じゃー。ほんまにええ人じゃー。さすがこんな立派なお家柄を背負ーとるだけのことはあるけぇ。小梅のこともすっかり世話してもーてからに。ワラシ達は居候の身じゃ。身の振り方はわきまえとるつもりじゃけぇ」
 そして胸の前で両手を合わせ、どこか上の空で続ける。
「東雲さん、ほんの少しだけお別れじゃぁ。寂しい、哀しい、辛い……。けんど、ワラシ耐えるけぇ。あんたの帰り、いつまでも待っとるけぇ……」
 夕方になれば会えるというのに、何だこの悲壮感は……。自分が赤紙でも突き付けたみたいじゃないか……。
「そ、それでは行って参りますわ。お父様、お母様」
「ああ、そうそう」
 名残惜しげに抱き合う昴と小夏を横目に見ながら立ち上がった菊華に、剛一狼が何か思い出したかのように声を掛けてきた。
「白雨病院、最近全然“出なく”なったそうッス。何かお祓いでもしたッスか?」
「お祓い?」
 言われて思考を巡らせる。だがすぐには思い当たらない。可能性としては、院長が使っていたお札がそういう効果も持っていたくらいしか……。
(待てよ)
 確か、“よく出る”と騒がれ始めたのが一年前。そして幽霊とは通天閣達のことで、通天閣は昴を凄く気に入っていて、ひょっとして昴があの病院で働き始めたのが……。
(まさか、ですわ)
 だって幽霊騒動がなければあんなおかしな七不思議も生まれなかったわけだし、昴がいなければ小夏の存在を知ることもなかったわけで。院長の興味が彼に向くことも、夜水月が守護霊としてスカウトしようとすることも、自分が恐い思いをすることもなかった。
 国土交通省の連中に目を付けられることも、言葉遣いがおかしくなることも、非常識と常識の境が見分けられなくなることも、押し掛け守護霊にイライラさせられることもなかった。
「東雲さん」
「はいなのです」
 こいつがいなければ。
 こいつが、あそこにいなければ。
「そう言えば、あなたが白雨病院で働き始めたのは、いつ頃からかしら」
 こいつが――
「一年くらい前なのです」
「全部貴様のせいかああああああぁぁぁぁぁぁ!」
 真上に放った踵が昴の脳天をかち割る。
 ああ、ついに霊体に触れられるまでになってしまった……。もう引き返せない。なんて可哀想なワタクシ。しかもこの守護霊ゴキブリとは十メートル以上離れられない……。
(けど……)
 まぁ、それはそれでいいかもしれない。
(一人でいるよりは二人で、ですわ)
 母親の言っていることが何となく分かってきた。
 そんな朝の一時。
「ひええぇ! ハラ減りすぎ!」
「時間ないから朝ご飯パス! じゃアタシ行って来るから! ダウジング部の朝練!」
「おはようございますであります! 隊長殿!」
「たいちょ〜、おはようございます〜ですわ〜」
「頑張って一人で起きたよ? エライ?」
「ちゃんと顔洗ったよ? エライ?」
「元気一杯だよ? エライ?」
「……あたらしぃげーむほしい」
「きょうはげっかびじんがたべられるの?」
「あ! あたらしいおしりだ!」
「ゆうれいの、だけどね」
 今日も楽しくなりそうだ。




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