『月詠』の言の葉、儀紅の片想い

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 嘘から出た誠ってな、こーゆー事を言うんだろーねー。
 オレはスッゲーやる気無く後ろ頭を掻きながら、何年かぶりに戻って来た真田家の屋敷に足を踏み入れた。
 土御門の屋敷よりは見劣りするが、それでも十分広い。
 丸い巨石を積み上げて作られた岩壁には人工の滝が優雅に流れ、滝つぼ付近の岩肌には万年苔が美しく生えている。八畳程の大きさもある池には錦鯉が何十匹も放たれ、鮮やかな彩色を水の中に落としていた。
「おー、これはこれは。よくぞお戻り下さいました儀紅様。この芳鳴、嬉しい限りでございまする」
 玄関口まで続く珠砂の敷き詰められた道の途中で、オレの前に鬱陶しい顔をした中年が揉み手しながら現れる。
 ――真田芳鳴。
 オレの叔父に当たる男だ。
「長旅ご苦労様でした。ささ、お部屋へどうぞ」
 スッゲー血色の悪い顔と、ヤッベーくらい黄ばんだ歯をオレに近づけながら、芳鳴は媚びるような高い声で言った。
 ったく、いつ聞いても虫酸が走る。どうしてこんな薄汚い物がこの世に存在するのか理解できない。
 作り笑いを浮かべ過ぎたせいか頬と目元には幾重にも皺が走り、細く小さな目はいかにも悪事を企んでいますといったふうにドンヨリ曇っている。小さな背中は卑屈に丸まり、武家装束を身につけていても侍のような威厳は全く感じられない。
 ちょんまげでも結えばそれなりにはなるのかも知れないが、残念ながら頭皮で閑古鳥が鳴いているため、したくても出来ない。
 とにかく、下衆と悪巧みとハゲを足して三万で割ったようなスッゲー小男だ。
 コレが自分の血縁者かと思うと情けなさを通り越し、怒りを乗車拒否して、大爆笑したくなる。
「それで、あの、要件の方はすでにご承知かと思いますが……」
 コチラをの顔色を窺いながら、芳鳴はオレの部屋に行く道すがら聞いてきた。
「ああ、大体はな」
 昨日の朝早く、芳鳴が式符で使い鳥をよこしてきた。
 ソイツによると、実家の方でオレについて何やらスッゲーよからぬ噂が立ち始めているらしい。
 なんでもオレが魔人の血に精神を呑まれ、龍閃の手先として動いているとかどうとか。そして『月詠』の力を使って周りの人間を手当たり次第精神支配し、自分の持ち駒にしているとかどうとか。
「儀紅様には絶対服従を誓っている者も多いと聞きます。この屋敷にも何人か居るのも事実。それに儀紅様は、コチラの心を読んでいるのではないかと思われるような発言も多数見受けられるとのこと。どうやら、そういった話が膨らんで今回の根も葉もない噂に繋がったのではないかと思われます」
 やれやれ。人望がありすぎるのと、頭が良すぎるのも考え物だな……。もうちょっと冬摩みたいな馬鹿っぽいトコを取り入れるべきなのかも知れない。
「いえいえ、私は勿論そのような事は信じておりません。ただ、真田家の初代当主として、儀紅様の名誉と威信を傷付けられたまま放置しておくのは忍びなく、無礼とは思ったのですが使い鳥を飛ばせた次第で御座います」
 白々しい。
 お前が噂の発生源のクセに。
「儀紅様はこれまでの葛城の者達と違い、『月詠』を具現化させ続けて自分が他の者の心を読めない事を公知としております。そしてその素晴らしい偉業によって人を惹き付けておられる。今回の噂は、ソレを根底から覆す物。決して見過ごすわけには参りません」
 よくもまぁベラベラと回る口だ。
 そんなに当主の座が欲しいのか。
 オレは屋敷の奥まった場所にある孔雀の描かれた襖を開け、自室へと入った。
 僅か四畳半ほどの狭い部屋には開発途中の霊符や、怪しげな呪具などが所狭しと並べられている。何年か前にココを出た時と変わっていない。やっぱり無駄にだだっぴろい部屋よりも、こぢんまりとした巣のような場所の方が落ち着く。 
「――で? オレは具体的に何をすればいいと思う? オレの片腕たる芳鳴さんなら、もうちゃーんと考えてあるよな?」
 部屋の真ん中に座った『月詠』の膝の上に乗り、オレは烏帽子を取りながら試すような視線を芳鳴に向けた。
「え……ええ! ソレは勿論!」
 オレの正面に正座した芳鳴は、渡りに船といった様子で表情を輝かせた。
 ……あー、オッサンのこういう顔は体に毒だな。脂ギッシュ過ぎて、見てるだけで胸ヤケしてきた。
 ま、使い鳥から話を聞いた時から大体分かっていた。コレは芳鳴がオレを当主の座から蹴落とし、自分が代わって真田家一番の権力者となるための罠だと。
 はっきり言って、オレは権力とかそーゆー堅苦しい物にはスッゲー興味がない。だいたいこの当主の座もオレが魔人の血を引いていて、五歳で『月詠』に覚醒したからという理由で与えられた物だ。別になりたくてなった訳じゃない。
 オレが持って生まれてしまったスッゲー天才性に嫉妬して、芳鳴が自分の卑小さをスッゲー無様にさらけ出すというのなら譲ってやってもいい。コイツはこれでも真田家のナンバー2だ。葛城からの血を濃く受け継いでいるせいか、一応陰陽師としてそれなりの実力は持っている。まぁ、オレには遠く及ばないが。
 だから放って置いても良かったんだが……こんなスッゲーヤな奴が上に立ったら他の奴等があまりに可哀想なのと、なにより『月詠』の事を言われてカチンときた。
 『月詠』は自分の力の事を今までずっと気に病んできた。それこそ何百年も。そんなスッゲー繊細で重大な事を、私利私欲の為に引き合いに出すなど許さない。
 オレの事だけを悪く言って貶めるなら良いが、『月詠』の事を変に言う奴には罰を受けて貰う。
 スッゲー特大の罰を。
「この芳鳴。僭越ながら儀紅様の潔白を証明するために策を練って参りました」
 芳鳴は死んだ魚のような目をギラギラとさせながら、ねちっこく言ってくる。
「儀紅様の才気をもう一度皆の前で示すのです」
「ふーん、どうやって?」
 オレは軽く巻いた自分の前髪をイジりながら気のない返事をした。
「そもそも、この噂の発端は『月詠』の保有する『精神干渉』という特殊な力にあります」
 芳鳴のその言葉に、オレは鋭い眼光で奴を睨みつける。
「あ、あの、何か……」
「続けろよ」
 二周り以上も年の離れたオレに怯えながら、芳鳴は少し声を震わせて続けた。
「儀紅様に流れる魔人の血故に、もしかすると『月詠』を具現化させていても相手の心が読めるのではないかと周りには思われております」
「で?」
「そこで、誰の目に見ても明らかなくらい『月詠』の力を使わず、いつもの通り冴え渡る洞察力を披露していただければよろしいかと」
「具体的には?」
「はい……」
 ソコまで言って芳鳴は目を伏せ、極限まで磨き上げられた鏡のように頭をキラキラとさせながら悪巧みの目を向けてくる。
「実は今、私に関しましてもよからぬ噂が飛び交っておりまして。何でも女癖が悪いだとか、色んな女性に手出ししているとか。全く心外で御座います」
 オモっクソ事実だろーが。
 どーせ、ナンバー2の権力振りかざして、アレやコレやヤッテんだろーがよ。
「私と致しましても、このような噂が流れるのは本意では御座いません」
 今の座から転げ落ちるかも知れないからな。
「噂というのは様々な場所から発生しているように見えて、元を追って行けば必ず一つに辿り着きます。そこで儀紅様には――」
「その噂の主を突き止めろ。『月詠』の力無しで。こう言いたいんだな?」
 オレは芳鳴の言葉に被せるようにして、穏やかな口調で言った。
「左様で」
 言いづらい事を先に言って貰えて話が早いとばかりに、芳鳴は脂でテラテラした頬肉を動かして不気味な笑みを浮かべる。
 ナルホド、そーゆー事か。
 もしオレが噂主を見つけられれば、コイツの座は安泰。逆に見つけられなければ今度はオレの座が揺らぎ、もしかすると芳鳴に委ねられる事になるかもしれない。別に今すぐでなくてもいい。コレをキッカケに少しずつオレへの信頼を周りから取り除いていけばいい。人の心なんて亀裂さえ走れば意外と脆いモノだ。
 ま、どっちに転ぼうとも、このハゲにしてみれば美味しい話。
 しかもテメーは全く動かなくて良い。
 下衆の考えそうな事だ。
「いつもの先見のある発言がコチラの心を読んだ物でないとすれば、それ程聡明な儀紅様でしたらこのような調査、造作もない事と思われます。そして儀紅様の信頼を取り戻すついでに、ほんの少しだけ私めもそのお情けを受けさせていただければと思う所存で御座います。そうさせて頂けるなら、私が儀紅様の潔白を責任持って皆に広めさせて頂きます」
「で? アンタは『月詠』をどーするつもりなんだ?」
 怖気の走る芳鳴の口舌を無視して、オレは一番重要な部分を聞いた。
 こんな低次元のお遊び、その気になれば一日で何とかできる。だがその前に確認しなければならない。
 このタコがどうやって『誰の目に見ても明らかにオレが『月詠』の力を使っていない』と証明するのか。
「私が『月詠』を結界の中に封じ、身動き取れなくいたします」
「却下」
 芳鳴の提案を、オレは速攻で切り捨てた。
「……は?」
「話になんねーよ。何で『月詠』をお前みたいな薄汚ねー奴の結界に預けなきゃなんねーんだよ」
「し、しかし、ソレが一番……」
「他の奴等は。アンタ以外だったら誰でもいい」
「あ、生憎と、私以外の術者は『月詠』を朧気に目視できるくらいでして。そのような者が術を施したとしても、ちゃんと封じられているかどうかの保証は……」
 ウソクセェ……。大体テメーの術も怪しいモンだぜ。
 噂を広めたのは自分。噂を取り除くのも自分。だから自分が封印しないと納得出来ないってトコだろ。どーせよ。
「じゃあダメだ。オレおりるわ」
 吐き捨てるように言ってオレは立ち上がり、芳鳴の横を通り過ぎる。
 このハゲにどうやって特大の罰を与えるかは、後でゆっくり考えよう。精神を幼児にまで退行させて、山奥に捨て去るってのも良いかも知れない。
「ま、待って下さい!」
「待たねーよ」
 そして襖に手を掛けた時、誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 オレは首だけ回して振り返り、
「『月詠』……?」
 先程と変わらぬまま、部屋の真ん中で座っている『月詠』を見た。
「何やってんの。早く戻ろーよ」
 しかし『月詠』は動かない。何か訴えかけるような視線でオレの方を見つめながら、微動だにせず座している。
「『月詠』……」
 翡翠の瞳には玲瓏なる輝き。
 彼女が何を言いたいのか、オレにはハッキリと分かった。分かってしまった。
「芳鳴さんよ」
「は、はぃ……」
「やってやるよ、アンタの出した条件で」
 オレは血反吐でもブチ撒けるように苦々しく言った。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
 『月詠』に頼まれたからな。
「その代わり――」
 オレは片膝を付いてしゃがみ、すがりついてくるような体勢の芳鳴と真っ正面から目線を合わせた。
「『月詠』に指一本でも触れてみろ――」
 そして視線と声に明確な殺気を宿し、
「殺すぞ」
 低く言った。
 冗談でも脅しでもない。
 本気だ。
「は、はひ……」
 芳鳴は壊れた南蛮人形のようにコクコクと何度も頷くと、大きく音を立てて生唾を呑み込んだ。
 オレは立ち上がり、『月詠』の方をジッと見る。彼女も目を逸らす事なく、オレを見返した。
 『月詠』、多分キミはオレの為を思って、このお遊びをやれって言ったんだろうね。オレの変な噂を取り除きたかったから、この下衆に捕らわれる事を選択したんだろうね。
 でも、ホントにそれでいいの?
 キミはオレから離れても平気?
 オレは、キミから離れる事が……。

 とにかく、だ。
 今さらウダウダ言っても始まらない。
 このふざけたゲームをとっとと終わらせて、一秒でも早く『月詠』を解放する。
 そぅ! オレは魔の城に捕らわれたお姫様を助けるナイト!
 そーだ、ソレで行こう! この脳内妄想で行けば少しはテンション上がるかも知れない! オレは今、姫を助けるために情報収集を開始した!
 コマンド、はなす、使用人A。
「儀紅、様……?」
 はっ!?
「あの、何かお心の病ですか?」
「ああ、いや! ダイジョーブ! スッゲー大丈夫!」
 湯浴み場へと続く廊下の途中で、使用人の女の子を呼び止めて色々話を聞いたトコまでは覚えてるんだが、ソコから先の記憶がない。どうやらアッチの世界にイってしまってたらしい。
「あ、アリガトー! スッゲー助かったよ!」
「いえ、そんな。わたしなんかでよければいつでもお手伝いさせて頂きますので。それより、儀紅様はコチラのお屋敷には戻られないのですか?」
「ま、今はまだちょっとね。隠居したらずっと居着く事になるんだろーけど」
「では、その日を心待ちにしておりますね」
 彼女は柔和な笑みを浮かべてそう言ってくれると、軽く頭を下げて仕事に戻ってしまった。
 ……ま、その日が来てしまうのは悲しい事なんだけどね。
 『月詠』を次の世代に渡すって事だから。
 オレは耳の辺りの巻き毛を伸ばしながら、軽く溜息をついた。そして中庭の見える場所に出て空を見上げる。
 太陽が大分西に傾いていた。聞き込みに思ったより時間を食ってしまった。出来れば今日中にケリを付けてしまいたい。
 まぁ『傀儡符』でも使って芳鳴のタコを操っちまえば早いんだろうが、今回そういう反則技は極力無しだからな。それに力ずくで負けを認めさせても面白くない。心の底から敗北感を植え付けないと意味がない。二度とこんな下らないを事しないように。そのためには地味な作業が必要だ。
 オレが今、屋敷の人達に聞いて回った質問の内容は『貴方は芳鳴の噂を知っていますか?』というモノ。
 結果は二十人中九人がハッキリと『女癖が悪い』と答えた。
 意外と少ない。他にも『いびきが甲高い』とか『ハゲが眩しい』とかもあったが、ソイツらはノーカウントだ。
 男女比は男七に対して女二。
 コチラは別に不思議ではない。予想通りだ。
 噂主として一番怪しいのは芳鳴が実際に手を出した女、と考えるのが普通なんだろうが、逆にソレはない。アイツはアレでも一応ナンバー2だ。上に行くのにこういうちょっとした悪評が足枷になる事くらいは知っている。だから手を出した女には、金を掴ませるか権力で脅すかして厳重に口止めしているはず。
 それにそんな分かり易い人物が噂主だとすれば、芳鳴がとっくに見つけている。
 もし仮に芳鳴が無能すぎて見つけられなかったとしても問題ない。ちゃんと次の手で拾える。
 それより、この聞き込みで噂主の人物像がかなりハッキリしてきた。
 まず第一に、この噂主は計画的に噂を広めたのではない。
 もし何か打算があるのなら、本人に気付かれて何か手を打たれる前に、もっと沢山の人に広めているはずだ。
 第二に、噂主は野心家ではない。
 確かに、今みたいな噂でも芳鳴の足枷にはなるが致命傷にはならない。地位が上がる事を阻止できるかも知れないが、引きずり落とす程の効果は期待できない。噂主が芳鳴を今の座から蹴落としたいのであれば、もっと悪意のあるモノを流すはずだ。
 噂主には計画性も無ければ野心もない。
 つまり、ただ自分の不満を垂れ流しているだけだ。噂が広がったのは恐らく偶然だろう。
 そうすると一番怪しいのは芳鳴の身近な人物。それも妾や親族といったかなりの。
 身近に居てある程度親しいからこそ、芳鳴のつまらない悪さを包み隠さずそのまま話す。
 縁遠い者で、計画性も野心もないような者は、目を付けられるかも知れないような事をわざわざしない。 
 そして身近過ぎるからこそ芳鳴もなかなか疑わない。故に気付かない。
 第三に、噂主は小心者だ。
 身近に居るにも関わらず、直接本人に喋る事が出来ないのだから。
 小心者なら絶対に引っかかる。
 今からやる二回目の聞き込みで、間違いなく『自分が噂主です』と言ってくる。
 間違いなく――

 ◆◇◆◇◆

 胸に開いた一つの穴。
 最初は小さく、気に留めるほどの事もなかったが、ソレは徐々に大きくなり、深さを増して行った。
 ――儀紅……。
 何重にも張り巡らされた結界の中、『月詠』は一人彼の事を想う。
 彼と共に過ごしてきた掛け替えのない時間を思い返す。
 四百年前、紫蓬という魔人から離れ、沢山の人間の思考を目の当たりにしてきた。
 力を使いこなせぬ者は皆、自分を忌み嫌い、疎ましく思ってきた。
 葛城の血が徐々に薄まり、一人で複数の使役神を扱えぬ者が出始めてからは、『月詠』は殆ど表に出る事は無くなった。

『どうしてこんな最悪の神鬼を……』
『気持ち悪いだけで何の役にも立たないクセに……』
『俺が他から嫌われるような物を、なぜ……』
『私は何もしていないのに、どうして……』
『隠し通さなければ』
『力を使えない事を、覚醒していない事を伏せていなければ……』

 幾人もの保持者達の中で、『月詠』は自分に対する悪意の感情に苛まれ続けて来た。
 ――魔人の体に戻りたい。
 自分を使いこなし、必要としてくれる者の所へ行きたい。
 『月詠』はこの四百年間の殆どを、そう思って過ごしてきた。
 そして、その願いは叶えられた。
 隔世遺伝により、葛城家初代当主同様、紫蓬の血を体に宿した男――真田儀紅。
 彼なら自分を使ってくれる。
 彼なら自分の力を必要としてくれる。
 そう、思っていた。
 しかし儀紅は『月詠』を具現化し続け、極力『精神干渉』の力を使おうとはしなかった。
 間接的であっても直接的であっても、彼なら力を使いこなせるはずなのに。それだけの才覚は持っているはずなのに。

『『月詠』は普通の女の子で居てくれればそれでいいよ』

 儀紅はそう言って自分を使役神鬼としてではなく、一人の女として扱った。
 分からなかった。儀紅が何を考えているのか。
 どれだけ心を読んでみても、自分について考えている事はいつも同じ。
 ――美しい。綺麗だ。
 今まで魔人にも人間にも寄せられた事の無かった感情を、儀紅は自分に投げかけ続けた。
 最初は何か裏があるのかと思っていた。しかし明るくてあけすけな彼の性格が、その疑念を取り払っていった。
 本当に不思議な人だった。
 自分を使ってくれているわけでもないのに、力を必要としてくれているわけでもないのに、心が満たされていく。
 力とは全く関係の無い部分に自分の存在価値を見出してくれる儀紅に、『月詠』は少しずつ心惹かれていった。
 彼が自分にしてくれる話が面白くて、『月詠』はいつも熱心に耳を傾けていた。
 彼が自分の前でしてくれる仕草が楽しくて、『月詠』はいつの間にか見入っていた。
 彼になら自分をさらけ出してもいいかも知れない。
 彼になら心の底から気を許してもいいかも知れない。
 彼にもっと自分を知って欲しい。
 彼をもっと知りたい。
 そして儀紅に話し掛けようとした時、『月詠』は自分の異変に気が付いた。
 声が出なくなっていた。
 必死になって絞りだそうとしても、一言も発する事が出来ない。一音すら紡ぐ事が出来ない。
 四百年に渡って自分を否定され続けた事が、『月詠』の心を固く閉ざしていた。
 何かを口にする事で今の関係が崩れてしまうかも知れない。
 自分が妙な事を口走ったせいで儀紅に変に思われるかもしれない。
 些細な事が原因で全てが台無しになってしまうかも知れない。
 嫌だ。
 ソレは嫌だ。
 またあの苦しみを味わうのはもう嫌だ。
 ならこのままでいい。
 このままを保ちたい。
 この状況を変化させなければ、自分と儀紅の関係は変わらない。
 無理にコチラから近づかなければ、彼が離れていく事はない。
 このままでいい。例え話せなくとも、儀紅と共に居られればそれでいい。
 ――そう、思っていた。
 なのにどうして、あの時声を出してしまったのだろう。出てしまったのだろう。
 か細く、とても聞き取れるようなモノではなかったが、儀紅が芳鳴という男に良からぬ噂を広められ、絶対にソレを放置しておけないと思った時、喉の奥から声が出た。自分を気遣ったせいで、儀紅が悪く言われ続ける事が我慢できなかった。
 自分の事なら平気だ。
 こんな出来の悪い結界の中で、封じられた振りをしている事くらい訳ない。
 ――そう、思っていた。
 なのにどうして、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。
 どうして、切ない気持ちになるのだろう。
 会いたい。
 無性に会いたい。
 まだ儀紅と離れて半日しか経っていないのに、どうしても彼の声が聞きたい。彼の顔が見たい。
 この薄暗い部屋に一人で居ると、あの時の事を思い出す。
 外にも出られず、力を使っても貰えず、誰にも必要とされない無用の物として扱われていた時の事を。
 今まで儀紅が側にいる事が当たり前だった。
 当たり前のように笑い掛けてくれて、話し掛けてくれて、楽しい気持ちにさせてくれた。
 あまりに当たり前すぎて、ソレがどれほど大切な事だったのか分からなくなってしまっていた。
 自分はいつか儀紅と別れなければならない。
 魔人の血を引いているとはいえ、彼は人間。時の流れには逆らえない。
 その時また、今と同じ思いをしなければならない。
 この苦しい気持ちをまた味あわなければならない。
 このままでいいのか。
 このまま儀紅に何も話し掛けないまま、何一つとして自分の気持ちを伝えないままでいいのか。
 嫌だ。このまま別れの時を迎えれば絶対に後悔する。間違いなく心が壊れる。
 でも、もし今の関係が崩れてしまったら……。

 ◆◇◆◇◆

 夜。
 オレは一人の女性と街に繰り出し、酒の席で盛り上がっていた。
 机が三つあるだけの小さな飲み屋で、かっぽう着を着たおねーさんが一人一人に丁寧な接客をしている。常連客を大切にした人情味溢れる良いお店だ。
「そーなのよ。うちの旦那ほんとーにもー、どーしよーもない女好きで。良い年してんだから、いい加減にしなさいっての。ねー?」
 白身魚を口に運びながら、オレは大きく頭を振って頷く。そして彼女の空いた盃に酒を注いだ。
「まー、確かに。近所の人に愚痴みたいなの零してたかもしんないけどさ……。別にいいじゃない! それくらい! コッチは二十年間も我慢して来たんだからさぁ!」
「いやぁ、ごもっともごもっとも! ささっ、もう一杯。……おおー、スッゲー良い飲みっぷりで」
 オレは大袈裟に拍手しながら、彼女――今回の噂主を褒め称えた。
 小心者だから言いたい事も言えずに自分の中で溜め込んでいる。そんな人ほど酒が入ってタガが外れると、聞いてない事までスッゲーベラベラベーラベラ喋るようになる。
 まぁ、ココに連れてくるまでは色々とゴネられて手こずったけど、一口でも飲み始めればコッチのモンだ。
 余程溜まっていたのだろう。目が据わったかと思うと、オレが何か聞くまでもなく『そーですよ! どーせ私が言いふらしましたよ! 私が悪いんですよ!』と逆ギレ気味に絡まれた。
 まぁ多少手間取るかも知れないが、あとは彼女の話を最後まで聞いてスッキリさせてやれば無事解決だ。
 今回の噂主。それは芳鳴の妻だった。
 ――あの後。
 オレは、最初の聞き込みで芳鳴の噂を知ってると言った者達“以外”を対象に、もう一度質問して回った。噂主は無意識にバレたくないと思うから、絶対に『知っている』とは言わないからだ。
 そして二回目の質問の内容は、

『今さー、芳鳴さんが困っててね。それで“ちょっとした調査”してんだけどさー。“嘘付かないで正直に”答えてねー。芳鳴の“悪いところを一つ”あげるとしたら何?』

 という物だ。
 まず最初に『ちょっとした調査』と言って質問内容をボカす。どんな調査かは普通の人には分からない。しかし噂主だけは『芳鳴』の名前を出しただけで、コレが犯人探しをしているのだという事が分かる。
 二番目に『嘘付かないで正直に』と念を押す。噂主はこう言われると、どうしても嘘を言いたくなる。小心者は犯人候補から逃れる時、とにかく自分を隠そうとする。それにもしココで本当の事が言えるのなら、一回目の聞き込みの時に『知っている』と答えられるはずだ。
 最後に『悪いところを一つ』と言って、回答の方向性をかなり限定してやる。『噂』では分からないとしても、『悪いところ』とまで言われれば普段自分の思っている事を一つくらいは話すはずだ。しかし噂主だけは話せない。
 つまり、この質問に『何も思い当たらない』と答えた者が最も怪しいという事になる。
 その中でさらに、芳鳴の極めて身近な人物。
 この二つの条件を満たせたのは、芳鳴の妻だけだった。
 だがココまではあくまでも推測に過ぎない。最後の仕上げはやはり、本人と直接話して突っ込んで聞く必要がある。
 で、ココに連れてきたのだが……。
「あーもー! 本当に腹の立つ! 女癖だけじゃなくて、ちょっと私がお金使うのにもうるさいし! 料理の味付けには毎回口出すし! 子供の躾がなってないのは全部私のせいにするし!」
 終わんないなぁ……。
「大体あのハゲ何様なのよ! 私がこの二十年! どんだけ尽くしてきてやったと思ってんのよ!」
 つか、ヒートしてきてない?
「アレでも最初の頃は格好良かったのにさ! 偉くなってきたら、人にばっかり恥じらいを持てだの、慎ましくしてろだの、三歩下がって歩けだの、俺の言う事だけ聞いてろだの好き勝手言いたい放題言ってくれちゃって!」
 アンタもね……。
「私だってアンタに言いたい事の十や二十あるわよ! けど我慢してきたんじゃない! 世のため子供のため、夫を立てて来たんじゃない! ちょっと女癖が悪いって愚痴った事の何が悪いってのよ!」
 しょうがないな……。そろそろ店を追い出されそうな雰囲気だ。
「あのさ、奥さん」
「なによ!」
 鬱憤晴らしを止められ、彼女は一層苛立った声でコチラを睨み付けてきた。しかしオレは全く気にせずに続ける。
「オレが良い事教えてあげるよ。明日から奥さんが間違いなく主導権握れる、画期的な方法を」
 意地の悪い笑みを浮かべて一枚の霊符を取り出したオレに、彼女は訝しみながらも静かになった。

 土御門の屋敷への帰り道。
 殆ど獣道に近い寂れた街道を、オレは『月詠』と並んで歩いていた。周りには褐色の落ち葉が降り積もり、朽ちた木が裸になって脇に並んでいる。遠くの方では背の高い竹林が風に靡いて、低い葉擦音を立てていた。
 色気のないちょっと憂鬱な景色。
 だがそんな事は関係ない。側に『月詠』が居て、オレが顔を向けると彼女が笑いかけて――
「…………」
 ……くれないんだよ。
 なんか知んないけど、昨日の夜からずっとこの調子だ。
 芳鳴の嫁さんを大人しくさせた後、あのハゲにこれまでの経緯を全て話し、オレは文字通り『月詠』の元に飛んで帰ったのだが、彼女は何故か俯いて落ち込んでいた。
 何かあったのか聞いても、ダンマリ決め込んで何も答えてくれない。
 いや、まぁ、元々ダンマリだけどさ、表情から何も読み取れないってのはスッゲー悲しい。
 オレ何か悪い事したか? 『月詠』の機嫌スッゲー悪くするような事したか? 結構急いだつもりだったけど、全然遅過ぎたとか? あんだけ釘差しといたから、まさか芳鳴に変な事された訳じゃないと思うけど……。
 んー……女心はよく分かんないなぁ。
 けどまぁ、ハッキリしてるのは、
「出てこいよ。スッゲーバレバレなんだけど」
 今度は芳鳴が逆ギレしたって事か。
「儀紅様……」
 オレの右斜め前にある朽ち木の陰から、この薄暗い中でなお煌々と輝く真珠頭が姿を現す。何だかたった一晩でスッゲーやつれたように見えた。
「この度は大変有り難うございました。おかげで私の噂を流した者も無事見つかり、儀紅様は御自分の潔白を証明できて、めでたい限りで御座います」
「それでこんなスッゲー立派な後夜祭を開いてくれるって訳。嬉しいねー」
「いえいえ、この程度のおもてなししか出来ず、非常に心苦しいのですが……」
 芳鳴の言葉に応えるようにして、竹林や木の陰、そして落ち葉の下からもイカツイ得物を持った男達が現れる。数にしてざっと五十。
 どーせ芳鳴に金で雇われた浪人共だろう。揃いも揃って馬鹿そうなツラしてやがる。
「それで昨日何があったの? ツルピカ君」
「誰がだ!」
 全く動じる事無く平然と聞くオレに、芳鳴は顔を茹で上がらせて激昂した。
「お前のせいで酷い恥をかいた! あの噂を流したのが俺の嫁!? 自爆してどうする!」
「いや、ンな事オレに言われてもなぁ……」
「ソレだけじゃない! お前、『あの事』嫁に喋ったろう!」
「何の事だ?」
「とぼけるな! 俺が子供の頃、『お漏らし君』って呼ばれてた事だ!」
 大声で叫いた芳鳴にオレは哀れみの視線を向けた後、
「だってよ。こんなスッゲー情けない奴に雇われてるお前ら、自分が何かヤッベー間違いしてると思わないか?」
 辺りを見回しながら発したオレの言葉に、ゴロツキ共は互いに顔を見合わせて動揺を漏らし始めた。
「きーさーまー! どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ!」
「全部お前が悪いんじゃん」
 からかってやればドンドンボロが出てきそうだが、何だかヤバいくらい可哀想なのでこのくらいにしておいてやろう。
「しかも妙な霊符まで渡しおって! アレのせいで俺は自由を致命的に奪われた!」
 ……ああ、『傀儡符』のことか。ま、素人でも十分使えるように細工してあるから大した拘束力はないんだけど、いきなり操り人形は精神的にこたえるよなぁ。イツドコで自分が変な事しだすか分かんねーんだもんな。取り合えずコレで浮気はしなくなるだろ。
「お前のおかけで俺は真田としての地位も夫としての地位も危うくなった! この責任は取って貰うぞ!」
「だからお前が悪いだけだってのに」
「だーまーれー! お前らこのチビを殺せ! 最初に首を取った奴には倍の報酬を支払う!」
 芳鳴の言葉で一気に士気の上昇する浪人共。
 ……やっぱやんのか。
 烈声を上げて一気にオレの方へと雪崩れ込んでくる烏合の衆を一瞥し、オレは直衣の袖元から霊符を取り出した。
 まぁヤルならヤルで別にいいさ。コイツのやり口にはオレもいい加減ムカツイてたトコだ。
 しかしま、こういう状況に置かれて血が騒ぐってのは、やっぱりオレの中に流れる魔人の血のせいなんだろう。紅月も近くなってきたせいか、最近イライラする事が増えた。
 『月詠』が居る手前、表向きは一応保守的に振る舞ってはいるが、やはりどこかで好戦的な自分が居る。そしてそのもう一人の自分の存在が、魎の巡らせている策謀をあえて看過している最大の理由でもある。
 魎が裏切り、奴と戦う事になるならソレでも良い。むしろそうなってくれた方が望ましい。死ぬ前に一度で良いから、強い魔人と命のやり取りをしてみたい。龍閃でも、魎でも、冬摩でも。
 もしオレが魎の立場なら、アイツみたいに全員を騙して敵に回していただろう。
 自分の戦闘欲を満たすために。
 ソレが包み隠す事の無いオレの本音だ。
「ま、お前らじゃスッゲー力不足過ぎるけど、取り合えず我慢しといてやるよ」
 小さく言いながら霊符を浪人共に投げ付けようとした時、
「オラァ!」
 聞き覚えのある叫声が頭上から降って来た。直後、轟音が響き渡り、さらに竜巻が巻き起こって地面を上空に舞い上げていく。人外の力によってもたらされた非常識な光景。ソレが収まった時、深く抉られた大地の中央に長い黒髪の男が立っていた。
 あの台詞、この馬鹿力……。
 間違いない。
「……冬摩。お前、何やってんだ?」
 肩で息をし、珍しく疲れた様子の冬摩がオレの方にガンくれながら突っ立っていた。
 服はボロボロになり、草履はとっくに無くなってしまったのか、素足には無数の擦り傷が走っている。
 コイツ、こんなになるまでドコで何してたんだ。
「ウッセーな! テメーの屋敷がなかなか見つからなかったんだよ! ……じゃなくて!」
 ……は? 今何つった?
「ソレよりさっさと片付けちまえよ! テメーの仇なんだろーがよ! ソイツ!」
 オイマテ。
 まさかコイツ……。
「雑魚共は気にすんな! 俺が全員ブッ殺す!」
 一人昂奮気味にまくし立てると、冬摩は穴の中から大きく跳躍して一人の浪人の前に立った。そして高々と振り上げた拳を、まだ理解の追いついていないソイツに向かって振り下ろす。
「んー、冬摩君。青春だねー。オジサン千年ぶりに感動しちゃったよ」
 その拳を、浪人の背後から伸びできた腕が軽々と受け止めた。
 また変なのが一匹増えやがったな……。
「テメー! 放しやがれ!」
「まぁ落ち着くんだ冬摩君。血気盛んなのは若い証拠。素晴らしい事だが、その情熱は女性に向けるべきだと教えたではないか」
「ウッセーんだよ! ブッ殺すぞ!」
 突然現れた魎に凄みを利かせながら、冬摩は目の前の浪人をゴミでも扱うかのよう跳ね飛ばす。ソイツは空中で見事に四回転半の大技を見せると、頭から地面に突っ込んだ。
「はっはっは。よーし、もしソレが出来たらオジサン肩車してあげちゃうぞー」
「クタバレオラアアアアァァァァァァ!」
 そして、魔人二人の常軌を逸した大乱闘が始まった。
 巻き込まれた浪人共は一瞬にしてボロクズと化していく。
「何やってんだ……アイツら……」
 招かれざる二人の客に、オレは半眼になって呆れた視線を向けながら大きく嘆息した。
 なんで冬摩がこんなトコに居るのか……まぁスッゲーよく分かる。要するにオレが言った嘘を全部真に受ける、直情天然単細胞って事だ。
 で、魎がなんで付いてくるのか……まぁコッチもスッゲーよく分かる。早い話が、面白いオモチャをとことんイジって遊ぶ、根っからの極悪人って事だ。
 しかしまぁ、この二人……。
「仲良いですね」
 そうなんだよ。
 ケンカするほど何とやらって言うけど、コイツらホントに――
「はぁ!?」
 オレは隣からした声に目を剥いて大声を上げた。
 今、オレの前では『月詠』が楽しそうに微笑みながら、冬摩と魎の繰り広げるドツキ漫才を見つめている。
「『月詠』……?」
 今のは聞き間違いか? 幻聴か? それとも……。
「何だか、見ているだけで勇気付けられます」
 違う! 聞き間違いでも、幻聴でも、宇宙からのお告げでもない!
 『月詠』が喋っているんだ!
「儀紅」
 『月詠』はオレの方に顔を向けて、いつものとびきりの笑顔を見せてくれた。
「私、今までずっと恐かったんです。喋る事で、貴方に不快な思いをさせてしまうのが。また、昔のように一人になってしまうのが」
 静かな夕凪にたゆたう虫の音のように、雪溶けの平原に流れる鈴蘭の啼き声のように、涼やかな川縁でたわむれる野鳥のさえずりのように。
 美しく、どこまでも透き通った声だった。
「でも、後悔したくない。心を失いたくない。だから、私は想いを言葉にする事にしました」
 オレは頭を真っ白にして、ただただ『月詠』の声に聞き入っていた。
「儀紅、私は貴方にとって必要な存在ですか?」
 何かに操られているかのように、オレはコクコクと何度も頷いた。
「儀紅、私は貴方の力になれていますか?」
 何度も何度も頷く。
「儀紅、私はこうして喋っていてもおかしくないですか?」
 更に何度も何度も何度も頷く。
「儀紅、私は……これからもずっと、貴方の側に居ていいですか?」
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
 首が痛くなっても目が回り始めても意識の遠のきだしても、オレはひたすら頷き続けた。
「ああ……よかった。もし貴方に嫌な顔をされたらと思うと恐くて恐くて。昨日は一睡も出来ませんでした」
 『月詠』は胸に手を当て、心底ホッとしたように息を吐いた。
「でもスッゲービックリしたよ。『月詠』の声聞けるなんて……。ヤバいくらい綺麗でイっちゃいそう」
「貴方の言葉は時々よく分からなくなりますが、気持ちは十分に伝わってきます。やはり言葉というのは凄い物ですね」
 妙なトコで感心されてヤタラ変な気分だけど、まぁいいや。どーでもいい。
「でもさ、何で急に話してくれる気になったの?」
「はい……。昨日、貴方と離れてから、どうしようかずっと迷っていたんです。貴方と離れて初めて、貴方と一緒にいる事の素晴らしさを知りました。けど、やはり恐かった。貴方に拒絶されたらと思うと……」
 まったく……有り得ない事を。
 まぁ『月詠』の気持ちも分からなくもないけど……。
「でもやはり想いは形にしないと伝わらないって、あのお二人を見ていて思いました。水鏡様と荒神様のように肌と肌で語り合う事は出来ませんが、せめて言葉で貴方に伝えなければって、思ったんです。後悔しないために」
 あの二人がキメ手かよ……。
 ちょっと複雑な気分だな……まぁいいけどさ。
「あと、芳鳴様の奥方様にも勇気を分けて頂きました」
「へ? 何で?」
 オレは素っ頓狂な声で聞き返す。
 どんな関係があるってんだ?
「芳鳴様の奥方様も、今までは私と同じく思った事を口に出来ませんでした。でも儀紅のおかげで、これから少しは言いたい事を言えるようになったと思います」
 『少しは』っつか、今まで溜まってた鬱憤考えると、『思っクソ』って感じだろ。
「何か切っ掛けがあれば、人は変われるのだという事を知りました。私は人ではありませんが、せめて貴方の前では一人の女として居たいと思います。ですから、貴方の前だけでは変わってみようと思ったんです」
「そっか……」
 良いね。最高じゃん。
 『オレの前だけ』ってつまり特別扱いって事だろ? 言い換えればオレだけの女。
 素晴らしい! 男の黒い独占欲、完全燃焼って感じじゃん!
 ヤベェ……魎化してる……。
「荒神様も芳鳴様の奥方様も、相手の方を嫌っているように見えて、やはりどこかで特別な想いを持っておられるんでしょうね。そうでなければ長く一緒になど居られません」
「だろーね。ま、どっちも良いコンビだと思うよ」
「やはり、お互いにこれから先もずっと一緒に居たいと思っているのでしょうか」
「さぁ、ねぇ。ソレばっかりは本人に聞いてみないとな」
「私は、居たいです……」
 急に沈んだ声になって、『月詠』は少し俯きながら苦しそうに漏らした。
「儀紅……貴方も、水鏡様や荒神様のように、長い時間を生きられれば……」
「オレはそうは思わないね」
 思い詰めた表情で言葉を紡ぐ『月詠』に、オレは笑顔で即答する。
「アイツらみたいにスッゲー長生きするなんて考えただけでヤバい。ゾッとするよ。時間が決められてるからこそ、その中でスッゲー精一杯やっていける。『月詠』との時間をスッゲー大切にできる。オレはそれでゼッテー良いと思ってる」
 オレだって『月詠』を次の世代に渡すのは辛い。
 でも、コレはオレが人間として生まれて来た以上しょうがない事なんだ。
 それに長い時間を共にし続ければ、オレの『月詠』への想いはきっと薄れていく。終わりの見えない生活に嫌気が差し、本当にこのままでいいのかと疑問に思う日が必ず来る。最悪、心変わりしてしまうかも知れない。
 ソレだけは嫌だ。そんなオレは見たくない。オレの想いは『月詠』だけに捧げたい。
 要するに恐いんだ。自分や周りが変わってしまう事に怯えているのは何も『月詠』だけじゃない。ごく一部を除けば誰だってそうだ。
 オレは冬摩みたいに、いつまでも自分の想いを色褪せさせないで抱き続ける自信がない。最愛の女性へ、非道の仇へ。アイツは四百年前と変わらない濃さで、情愛と憎悪を持ち続けている。恐らく、これから何百年経とうとずっと。
 そういう意味では、アイツは他の誰よりも強いのだろう。だから魎もソコに期待している。ソコにこそ、アイツの未知なる力が秘められている気がするから。
「でも……」
 『月詠』は悲しげな顔付きで、オレの方に翡翠の双眸を向けてくる。
「大丈夫だよ。オレが死んでも『月詠』を心から大切にしてくれる奴はまたすぐに出てくる。そしたら今度はソイツとスッゲー幸せになってくれな。案外オレの息子だったりして」
「そんな事……」
 茶化して言うオレに、『月詠』はますます落ち込んでしまった。
 うーむ、軽はずみに『死んでも』なんて言うモンじゃないな。
「でもさ、『月詠』がそんな事まで言ってくれて嬉しいよ。オレの人生はこの先、間違いなくこの国中の誰よりも充実した物になる。つーか、絶対にしてみせる。オレだけじゃなく、『月詠』の為にもね。だから楽しく行こう! 幸せなら笑わないと損だよ!」
「儀紅……」
 幾分、『月詠』の表情が和らいだ気がした。
「そーだ! ねぇ、今度一緒に飲もうよ! お酒がダメなら他にも美味しい飲み物一杯知ってるからさ! オレ一度で良いから『月詠』と飲みながら話してみたかったんだ!」
「飲みに、ですか……」
 そしてオレはここぞと畳みかける。
「そう言って、芳鳴様の奥方様も誘ったのですか?」
「はぇ?」
 ちょっと声のトーンを変えて言う『月詠』に、オレは思わず間の抜けた吃音を上げてしまった。
「そんなに楽しかったですか? お酒を飲める方とお喋りするのは。残念ながら私は一滴も飲めませんから」
「え、ちょ、『月詠』……?」
「私の記憶は貴方の物。そして貴方の記憶は私の物。互いに心を許しあった保持者と使役神鬼の関係はそういう物です。私には昨日貴方が楽しそうにしている姿がありありと……」
「ま、待ってよ『月詠』! アレは誤解……!」
 狼狽した声を上げるオレの方を、なぜか面白そうに微笑みながら見ている『月詠』。そんな彼女の姿に、オレはハメられた事に気が付いた。
 そう、オレ達は記憶を共有している。という事は当然、オレが途中からイヤイヤ芳鳴の嫁さんに付き合ってた事も知ってるはずだ。
「限られた時間は、楽しまないといけませんからね」
 悪戯っぽく言う『月詠』に、オレは一瞬寒気を感じた。
 おしとやかなだけかと思っていたが、イキナリこのオレを手玉に取るとは……。
 ……いや、それでいい。それでこそ付き合い甲斐があるというもの。したたかさもいい女の条件の一つだ。けど――
「あれー? 『月詠』ひょっとしてヤキモチ焼いちゃったー?」
「そ……! そんなんじゃありません! 別に!」
 お返しとばかりに口にしたオレの言葉に、『月詠』はスッゲームキになって言い返してくる。
 おやおや、やっぱりまだまだウブですねー。
「そっかー。別にかー。そんじゃーオレが他の女と楽しく飲んでても問題ないよねー。いやー、魎の奴に紹介して貰った女とか実は結構居るんだー。今までは、『月詠』がきっとヤキモチ焼いて怒るだろーと思ってたから止めてたけど、ご本人様からお許しが出たんじゃ遠慮する必要もないよねー。べ・つ・に」
 にんまり、とイヤらしい笑みを浮かべて、オレは『月詠』の方に試すような視線を向ける。彼女はオレと目を合わせたり逸らせたりを繰り返しながら、胸の前で両手をモジモジとさせていたが、やがて何かに耐えかねたかのように大きく息を吸い込むと、
「も、もぅ! 儀紅! あまり意地悪しないで下さい!」
 両手をギュッと握り締めて、拗ねたような顔で抗議の声を上げた。
 ヤバい……。スッゲー可愛い。
 『もぅ!』だって……。大人びた外見とのギャップに萌える……。
「『月詠』ってさ。怒った顔もサイコーだね」
「ぎ、儀紅! からかわないで下さい!」
「からかってなんかないよ。やっぱオレには『月詠』だけだ」
 オレは真顔に戻り、『月詠』の目を真っ正面から見つめて続ける。
「『月詠』。オレはキミの事を愛してる。誰よりも」
 一語一語を大切に並べ、これまでの人生の中で感じてきたどんな気持ちよりも真摯に言い切った。
 彼女の顔が驚きと恥ずかしさと戸惑いに染まり、かつて見た事のない表情を浮かべる。堪らず目線を外そうとする『月詠』の肩を押さえ、オレは更に言葉を続けた。
「『月詠』。キミはオレの事どう思ってる? 聞かせてくれ。キミ自身の言葉で」
 ――互いに心を許しあった。
 『月詠』はそう言っていた。これでようやく一方通行ではなくなった。
 だからハッキリと聞かせて欲しい。『月詠』の口から。オレの事をどう思っているのか。
「儀紅……」
 珠のような『月詠』の唇が僅かに動いてオレの名前を呼んだ。
「私は、貴方の事を――」
 そして小さく、それでいてよく通る声が紡がれ、
「あ――」
「オラアアアァァァァァァァ!」
 爆音と怒声でかき消された。
「チョコマカと鬱陶しいんだよ! テメーは!」
「はっはっは。自分の不甲斐なさを人のせいにしてはいけないな、冬摩君」
「ブッ殺す!」
 オレと『月詠』の目の前で拳の弾幕を繰り出す冬摩と、ソレを事もなげにかわし続ける魎。拳圧で風が巻き起こり、地面の土やら落ち葉やらを吹き上げて濁った霧を生み出していった。視界の隅では芳鳴が悲惨な顔でのびている。
「待ちやがれ!」
「さーぁ、冬摩君。私を捕まえられたら頭撫で撫でしてあげよう」
「使役神鬼『鬼蜘蛛』召来!」
 生み出された巨大な顎を持つ蜘蛛と共に、冬摩は大地を強く蹴って魎の後を追った。
 残されたのは無惨な爪痕を穿たれた地面、そして土埃まみれのオレと『月詠』。
「ふ……ふフ……」
 オレの中で、何かが甲高い音を立てて弾け飛んだ。
「『月詠』、この話はまた後でゆっくりしようか。二人きりでね」
「あ、あの、儀紅……?」
「悪い、『月詠』。オレ、今スッゲーどうしてもやんなきゃなんない事できちゃった」
 言いながらオレは、直衣の袖から最高級の霊符を何十枚も鷲掴みにして取りだす。そしてピンと伸ばした中指と人差し指を額に添え、
「じゃ、行ってくる」
「い、行って、らっしゃ……」
「このクソジャリ共がー! シカトぶっこいて勝手にバックレてんじゃねーぞ! 今すぐマトめてカタはめてやっからオージョーせいやー!」
 『月詠』に見送られ、オレは自分でもよく理解できない言葉を吐き捨てながら二人の後を追った。
「儀紅……」

 ――私は貴方の事を、誰よりもお慕い申し上げております。

 周りからのよく分からない音に混じって、後ろからそんな『月詠』の言葉が聞こえてきた……かどうかは定かではない。

 【終】





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