約束の保証、してくれますか?

◆北条一弥の告白◆

『それじゃ、あさっての六時に水比良神社の裏鳥居の前で待ってるから』
 携帯の向こうからした依川の声は少し緊張しているように聞こえた。あまり自惚れたことは考えたくないが、二人きりでお祭りに行くお誘いだ。何が目的かくらいは、いくら鈍感な僕でも察しは付く。
「うん。それじゃおやすみ」
 出来るだけ平静を装って僕は返した。
『おやすみなさい』
 彼女の声を聞き遂げて携帯を切る。
 依川は最近よく話しかけてくるようになった。勉強のこととか、スポーツのこととか。僕なんかよりもずっと出来るヤツが居るのに、何でも僕に聞いてくる。まぁ、まさかとは思っていたけど……。
「僕なんかのどこがいいんだ?」
 ハッキリ言って思い当たる節はない。
 まぁ、女心と秋の空っていうしな。それに単なる思い過ごしかもしれない。どっちにしろ明後日分かることだ。
 溜息をついて、僕は椅子の背もたれに体をあずけた。そして思いっきり伸びをする。変な気を回したから体がダルい。こういう時はコレクションの観賞でもして、寝てしまうに限る。
 僕は部屋の壁にクリップでデコレーションされたバンダナの一つを手に取った。それにペンライトで光を当て、隅々まで目を通す。
「うーん、この『半返し縫い』の刺繍がいつ見ても見事だよな。職人の魂を感じる。安直に『本返し縫い』に走らずに、イバラの道を通ったことには畏怖の念すら抱く。さらには丈夫なポリエステル素材にあえて、ほつれやすい布を縫うための『千鳥がけ』を適応してるところがまたポイント高い。かなり注意しなければ見えない『星止め』の技術は国宝級だ」
 続けて、黄色の地に赤い三つ葉の入ったバンダナを手に取った。
「相変わらず放射線マークがイケてる。ベルベットの優しい肌触りに、あつらえた危険な香り。一見、相反するように見えるこの組み合わせは、制作者が平和を心から願っていることが読みとれる。まさに芸術品だ」
 苦悶の表情に歪む外人の舌に「Go To Hell!」と書かれた写真がプリントされているバンダナを下からすくい上げるように優しく掴む。
「コレにはいつも励まされる。ベースはいかにも安っぽいナイロン生地で出来ているんだが、この舌の部分だけはウェディグドレス級にシルク百パーセントのサテンで出来ているんだ。おなじ化学繊維というカテゴリーの中から選ばれた上位と下位の存在。少数の上に立つモノは、下で支える多くの礎があってこそ成り立ちうる。なるほど、実に高尚なテーマ作品じゃないか、はっはっは」
 一人満足して頷きながら、次のバンダナに手を伸ばした時、突然部屋の扉が乱暴に開かれた。
「ちょっと、おにーちゃん! いい加減、精神病棟にノシ付けて突き出すわよ!」
 その日の夜。明け方近くまで妹に説教され、僕は一睡も出来なかった。

 約束の日の六時。水比良神社の裏鳥居で待っていた依川はまるで別人だった。
 白地に綺麗な水色の花という、清涼感溢れる浴衣に身を包んだ彼女は、学校で見せる快活でボーイッシュな顔とはまた別の側面を僕に見せてくれた。
「おまたせ」
「ぅどわ! だ、誰だ!」
 僕が声を掛けると依川は文字通り飛び上がってこっちを向いた。
 高そうなかんざしでお団子にみたいに纏めた栗色の髪の毛が、尻尾のように動く。
「北条君……。は、早かったわね」
「そう? 六時ピッタリに来たつもりだったんだけど」
 依川は慌てて時計を見て僕の言葉を確認した。
「じゃ、じゃあ行きましょうか」
 どうなる事やら。

 今日は素晴らしい日だ。なんと言っても僕の大切なバンダナ・コレクションが一つ増えたんだ。
 黒地に紅く細い線が数本刺繍されただけのシンプルなデザインがイカす。一見すると安物に見えるが僕の目は誤魔化されない。
 刺繍に使われているこの糸はフィラメント(長繊維)とステープル(短繊維)を、なんと交互につなげてある。フィラメントはツヤがあり、なめらかで丈夫。反面、生地になじまない。それをステープルで見事に補完している。いったいどんな技術を使ったらこんな糸が出来るんだ……。四千二百円も掛けた甲斐があった。
「さて、と。どうする?」
 今は凄く機嫌がいい。気を抜くとどんな頼み事でも、安請負してしまいそうだ。だがソレは僕のポリシーに反する。気を引き締めなければ。
「いいなぁ……」
 依川が羨望の眼差しを送る先には金魚すくいの屋台が。親子連れの意外にも、一組のカップルが楽しそうに盛り上がっている。
 あれは、まさか……。
 カップルの女性。流れるような黒髪を腰まで伸ばし、顔を動かすたびにその隙間から見える白く細いうなじ。男性の方に振り向いたときに見えた横顔。普通の人よりも高く通った鼻筋、まるで熱病にでも浮かされたように紅潮している頬。大きめの瞳に、形の良い唇。
 ……春日亜美、か……?
「金魚すくい、やりたいのか?」
 予想外の邂逅にも、なんとか動揺を押し殺し、僕は声が上擦らないように注意しながら依川に聞く。
「ううん。あの二人が、ね……いいなぁって」
 明らかに亜美と、その彼氏らしき人物のことを言っていた。
 心臓が早鐘を打つ。今、彼女に会うのは非常に気まずい。
 僕は脳をフル回転させ、何とかこの状況を打破する方法を画策し始めた。
 その間、猥談がどーのとか、台風一過や体操隊形について聞かれたような気がするが、全部上の空で返したので、何を言ったのかよく覚えていない。
 そしてようやく考えが纏まり、
「まぁ、せっかくだ。金魚すくいでもやってみるか」
 僕が出した結論は『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だった。
 よく考えてみれば別にオタオタする必要なんて無い。堂々と対面してやればいいだけだ。
 僕は大手を振って夜店に歩き始めた。
 依川も僕の隣に立ち――
「北条君! こっちよ!」
 叫ぶなり、金魚すくいの夜店とは正反対の方向に僕を引きずって行った。
 ま、まぁ、コレはコレでよしだ。

「ぜーはーっ、ぜーはーっ……」
 僕の横で依川は必死になって呼吸を整えている。男の僕を引っ張りながら全力疾走したんだ。当然だろう。
 辺りを見回す。視界一面を覆い尽くすかのように乱立する木々。太鼓の音や、客の賑わう声は遠くの方から聞こえてくる。どうやら祭りが行われている区域からはかなり離れてしまったらしい。
「オノレ……アミ、メ」
 どうやら依川もあのカップルの女性が亜美だと気付いて逃げて来たようだ。
 二人の仲は学校中で有名だ。
 春日亜美は春日財閥のご令嬢。彼女の父親は政界にも顔が書くほどの重鎮だ。当然、PTA等は言うまでもない。しかし親の七光りが娘に与える影響は何も良い物だけではなかった。
 ――刃向かうと退学させられる。
 何の根拠もない噂は、まことしやかに広がり、亜美と他の生徒との間に大きな溝を作った。そんな事を知ってか知らずか、依川だけは亜美に対しても本音で付き合っていた。他の生徒のように言葉をオブラートに包んだりはしない。思ったことをそのまま言葉にしてくれる依川は、亜美にとっても良い刺激になっているようだった。
 以前はよく、そんな話を聞かされたっけ。
「どうしたんだ急に。ビックリするだろ」
 僕は何も知らないフリをして話しかける。
「あ、うん。ゴメン……」
 依川は本当に申し訳なさそうにうなだれ、沈んだ声で返してきた。
 と、思ったら急に何かを発見した時ように目を爛々と輝かせ、まるで獲物を狙う猛禽類のような視線を僕に向けてくる。
「あの、ね。北条君……」
 そして顔を僅かにうつむかせ、下から舐め上げるように僕の体を値踏みした。ギクシャクとした動作で、両手の指を猛獣の牙のように噛み合わせ、虚ろ気な目で僕を捕縛する。
「なんだよ」
 ある種異様な雰囲気に戸惑いながらも、何とか声を出した。
 依川の手が浴衣の帯に伸びる。
 僕は本能的に察した。
 ――殺られる、と。
「あれ?」
 帯に隠した得物を見つけることが出来なかったのだろうか。依川は、素っ頓狂な声を上げて浴衣を引きちぎらんばかりに探し始める。
 内心胸をなで下ろし、僕は冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「どうした? 依川?」
 幾分落ち着きを取り戻し、彼女を諭すように声を掛ける。
 今回は若気の至りと言うことで見逃そう。彼女が取り返しの着かないことをする前で良かった。
 だが依川は僕の声に耳を貸さず、必死に得物を探し続けている。
「お、おい?」
「北条君!」
 突然、裂帛の叫び声と共に、依川の両手が僕の肩を捕らえた。背中に爪が食い込む。僕に向けられた鋭い視線からは確かな決意が汲み取れた。
 ……終わった……。
「は、はい」
 力無い声で返す僕の脳裏で、大切なバンダナのコレクションが一本、また一本、目の前に浮かんでは消える。
 ああ、せめて今日手に入れたバンダナをじっくりと鑑賞したかった……。
「私は……!」 
 死刑宣告の合図が刻一刻と近づく。
 おめでとう依川。コレで前科一犯だね。何があったのかは知らないけど、僕は君を恨んだりはしない。けど、お願いだから自首してくれよ。
「びえええええええぇぇぇぇぇぇ!」
 僕が覚悟を決めたまさにその時、突然後ろから泣き声がした。
 依川の注意がそちらにそれる。集中力を絶たれたせいか、どこか疲れた表情で彼女は視線を僕から外した。
「迷子、かな……?」
 先程までとはうって変わって憔悴した声。不安げな視線を僕に向けて意見を求めてる。
「断定は出来ないが、状況から考えてその可能性は極めて高いな」
 体勢を立て直す絶好のチャンスだ。
 僕はいつも以上に冷静さを装い、自分に平常心を取り戻すように言い聞かせた。
「少年。お父さんとお母さんはどうした?」
 片膝を着いて男の子の目線に合わせ、淡々とした喋りで聞く。
「わっ、わからないのー」
 ずびび、と鼻をすすらせながら、男の子は涙声で言った。
「そうか。なら僕が探すのを手伝ってやろう」
 命の恩人だしな。
 と、胸中で付け加える。
「パパとママ……見つかるの?」
「それはやってみないと分からない」
 至極当然の意見だ。僕は魔法使いじゃないからな。だが――
「びえええぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 何故か少年のボルテージが上昇する。
 子供の思考回路ってヤツはまったくもって理解に苦しむな。
「まぁ、泣くな少年。とりあえず名前を教えてくれ」
 とりあえず男の子のトゲトゲした直毛を撫で、なだめながら聞く。
「よりかわ……ハル……」
「ヨリカワか。よし、分かった。よーし、とりあえず、人が沢山いるところに行くぞ。ヨリカワ君」
「は、はいっ」
 隣で依川が返事をする。しかし、すぐに自分を呼んだわけではないことに気付くと、恥ずかしそうに顔を赤らめ俯いた。そして気まずい雰囲気を誤魔化すように、つま先で地面をつつく。
 うーん、どうやら憑き物は落ちたようだ。よかったよかった。 

「すいませーん! ヨリカワさん、いませんかー! ハル君が迷子ですよー!」
 僕は手を口に当てて大声で叫び、ヨリカワ君の親御さんを捜していた。
 夜店の並ぶ大通り。きつい照明に照らされて、ヨリカワ君のおてもやんの様に紅いほっぺたが妙に映える。亀のように低くい小鼻をひくつかせながら、ヨリカワ君は黙って僕と依川に手を引かれていた。これだけ横に広がって歩くと、さすがにこの人込みは辛い。
「はぁ……」
 依川が溜息をもらす。
 栗色の髪の毛は乱れて、浴衣も少し汚れていたが、なんだかコッチの方が依川らしい気がした。さっき亜美とばったり出会い、いつも通り二人は口論を始めたが、実に微笑ましい光景だった。あそこまで本音で言い合える友達は、僕にはいない。正直、少し羨ましかった。
「ヨリカワさーん!」
 再び叫ぶ。最初の内は気にならなかったが、何度もこの名前を呼び続けているとさすがに恥ずかしくなってくる。偶然とはいえ、同姓の依川を意識せざるを得ない。
 僕が彼女の方を盗み見ようとした時、突然手が後ろに引かれた。
 見ると、ハル君がこの世の終わりを垣間見たかの如き顔で立ちつくしている。
「どーしたの?」
 依川はしゃがんでハル君に優しく声を掛けた。
「……足、痛い……」
 か細い声で弱音を吐くハル君の頭を撫でながら、依川は困ったよう呻く。
「あれ? ハル君、怪我してるじゃない」
 彼女の声に反応して見ると、ハル君の右膝が軽くすりむけて紅く滲んでいた。
「ちょっと待ってて、今ハンカチ出すから」
 依川は応急処置のため、持っていた紅い巾着の中からハンカチを取り出そうとする。しかし、別のモノが沢山詰め込まれているせいで思うようにいかないようだった。
 ――マズい。
 はた、と思い当たる。依川の巾着が元の造形を遙かに逸脱し、今のように前衛的な近未来美術品のオーラを醸し出しているのは、ひとえの僕の責任だ。あの中には、このバンダナを手に入れるために犠牲になった数多くの屍が収納されている。
 僕は自分の左腕に巻き付けているバンダナを右手でそっと掴んだ。
(何やってるんですか。早くソレで手当てしてあげなさいよ)
(冗談やないでー。コレ手に入れるのに、どんだけ苦労したんか分かっとんのか)
 頭の中で天使と悪魔がせめぎ合いを始める。
(目の前に困っている人がいるんですよ? 貴方の力でソレを救えるのです)
(オノレの目は節穴か。もうちょっと待っとったら、このねーちゃんが代わりのモン取り出してくれるヤローが)
 ヤバイ。どっちも正論だ。
(そもそも彼女を困らせているのは貴方の責任なのですよ? 罪の意識は感じないのですか?)
(ッダァホ。自分ほど可愛いモンが他にあるかっちゅー話やで)
 どうする、どうすればいい。とにかく無責任な行動はダメだ。無責任な行動だけは。
(今こそ貴方の責務を果たす時です。さあ、彼女に迷惑を掛けた事への贖罪をしなさい)
(気にすることあらへん。世の中、持ちつ持たれつや。また別の時に借り返したらええやんけ)
 どっちだどっちが正しいんだ分からない分からないぞこんなに激しく葛藤するのはあの時以来だエットエット……。
「ハル君、コレで」
 気が付くと、僕はバンダナをハル君の右膝に巻いていた。
 何とか天使が勝利をおさめたくれたようだ。だが安堵と共に、果てしない虚無感が僕に重くのし掛かる。
「ちょ、ほ、北条君。それって……」
「いいんだ。依川の巾着をそんなにしてしまった責任は僕にあるんだから」
 そうだ。その通りだ。自分でまいた種は自分で刈り取るのが筋。
「それじゃあ二人はどっかで休んでてくれ。僕が一人で探してみる」
 茫漠とする意識の中、殆ど無意識に口から言葉が飛び出した。
 頭では正しいと分かっていても、心が受け入れるのには少し時間が掛かる。今は一人になりたい気分だった。
 僕はポケットから携帯を取り出し、カメラでハル君の顔を写す。これでとりあえず一人で探すことが出来る。一人になれる。
「じゃあ、依川」
『はい』
 依川とハル君の言葉がはもる。
 うーん、何だがまた微妙な雰囲気だ。早く一人になりたいのに。
「この子を連れて別宮の前辺りで待っていてくれ」
「うん、わかった。北条君もあまり無理しないでね」
 僕は口早に言い残すと、その場を離れた。

「はあああああぁぁあああぁぁあぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁーー……」
 裏鳥居の前。まるで人気の無いこの場所は、今の僕の傷心を癒すのにもってこいの場所だ。
 高々とそびえ立つ朱色の太い柱に右手を付き、がっくりと顔を落とした。
 魂が抜けていくのが分かる。精神の密度が希薄なものになり、絶大な喪失感が僕を襲う。体の一部が切り離され、自分の物ではなくなっていく感覚。
 今や継ぎ接ぎだらけとなった僕の体を苛むのは、郷愁に似た慕情。
 コレを満たせるのはあのバンダナだけ……くうぅ……。
「なーに、不景気そうな顔してますの? お金、あげましょうか?」
 突然、頭の上から降ってきた女性の声。それはどこか棘々しく、どこか憂慮に満ちていた。
「亜美……」
 一度聞いたら否が応でも耳から離れない、独特の韻を踏んだような声色。
 亜美は石造りの階段を下り、僕の方に近づいてきていた。
「柚木はどうしましたの?」
 僕は「ああ」と短く言った後、二人には別の場所で休んで貰っていることを告げた。
「そぅ……」
 亜美は僕の側まで来ると、階段の上に腰を下ろす。
「お前こそ、一緒にいた男はどうしたんだ?」
「フラれましたわ」
 キッパリ言い切った後、僕の方を見上げて微笑を浮かべ、悲しげに呟いた。
「コレで二人目ですわ。ワタクシを拒んだのは」
「そうか……」
 それ以上言葉を繋げられない。
 ――なぜなら、亜美を初めてフったのは僕なのだから。
「ま、貴方の時ほどショックは受けませんでしたけどね。免疫が出来ましたから」
 嘘だ、と思った。彼女はそんなに器用な人間じゃない。虚偽で自分を誤魔化せるほど強くもない。だからこそ僕に話しかけたんだと思う。少しでも気を紛らせるために。
「今でもハッキリ覚えていますわ。貴方が最後に言った言葉」
 『これ以上、自分に無責任になれない』
 僕は別れ際にそう言った。
「しばらく意味が分かりませんでしたけど、今の貴方を見ているとよく理解できますわ」
 付き合うきっかけは亜美の何気ない言葉。
 『ワタクシ、貴方に興味がありますの。付き合ってくださらない?』
 非常に軽い言葉だった。
 当時、彼女は沢山の男に次から次へと乗り換えて交際していた。僕もその中の一人でしかなかった。
 だが男心というのは単純だ。僕が恋愛というモノに殆ど無縁だったこともあるが、女の子の方から付き合ってと言われれば、例えこれまで彼女が気にもとめなかった存在だとしても、一瞬にして特別な女性になる。
 僕は亜美の申し出をアッサリと了承した。
「あの時に色々悩んだからな。お前と付き合った三ヶ月は有意義なモノだった」
 付き合い始めて最初の一ヶ月は特に何も思わなかった。金に物をいわせて豪遊する亜美と一緒にいるのは、コレまでの世界観を一変させる物であり、非常に興味深い物だった。
 だが、二ヶ月たった辺りで疑問が生じた。
 ――僕は、亜美を好きになれるのか?
 元々、その気があって付き合った訳じゃない。一緒にいれば徐々に気持ちが傾くだろうという、極めて安直かつ無責任な動機だ。
 その時にはまだ亜美の気持ちも分からなかった。コレまでの彼女の行動を見ていると、すぐに別の男に乗り換えるだろうと思っていたのに、いっこうにその気配は無い。聞いていた彼女の噂とは、ほど遠いほど真面目な付き合いをしていた。
 分からなかった。彼女の気持ちも。そして――僕自身の気持ちも。
 疑念だけが際限なく膨らみ、そして三ヶ月たったある日に弾けた。
「で、相変わらず恋愛には臆病なままですの?」
 僕の心中を見透かしたような亜美の言葉が、鮮明な響きとなって耳に届く。
 亜美の別れたのが二年前。それ以来僕は、自分の無責任な思考、行動を一切排除して来た。だから守り通すことが出来るかどうか分からない、約束や決め事は極力拒んできた。
 当然、相手を好きで居続ける事が求められる恋愛も。
「曖昧な約束はしないことにしてるんだ」
「じゃあ柚木の事も、断る気ですの?」
「依川が僕のことを好きだという保証はどこにもない」
 亜美はハァ、と大袈裟に嘆息して見せ、
「あのねー。女の子がその気もないのに、二人っきりでお祭りに誘ったりはしませんわ」
 呆れたような視線を僕に向けた。
 ……むぅ。やはりそうなのか?
「でも多分、断るよ」
「この先一生、そうするつもりですの?」
「そんなことは無いさ。僕の方から好きになった女性と――」
「でも結局、『この先ずっと想い続けられかどうかは分からない』とか自分に言い聞かせて、諦めるんじゃなくて?」
 僕の声を遮った亜美の言葉は、実に当を得ていた。
 確かにそうかもしけない。いや、ほぼ間違いなくそうなるだろう。人の気持ちなんてあやふやな物だ。何年も先まで同じ気持ちを持ち続けるなんて保証、出来る分けない。
「貴方は真面目すぎるのよ。まぁ、そこが良いところでもあるんですけど。でも、もうちょっと冒険してみようとは思いませんの? 一緒にいないと感じられないことなんて沢山ありますわ。ワタクシの時みたいに、とりあえず付き合ってみるっていうのも一つの恋愛だと思いません?」
「けど、そのせいで僕はお前に迷惑を……」
 僕の言葉に亜美は立ち上がり、艶やかな髪の毛を掻き上げて高圧的な視線をこちらに向けた。
「あーら、あんまり自惚れないで欲しいですわ。男なんて貴方の他にも掃いて捨てるほど居るんですもの。いちいち落ち込んでたら体が持ちませんわ」
 また強がりを、という言葉を呑み込む。僕と別れた後、亜美はしばらく放心状態だった。それを見て初めて理解した。彼女が本気だったということに。
「それに、貴方はあの時とは違うんでしょ? やると決めたら必ずやり通す。それをワタクシとの恋愛で学んだのではなくて?」
「ああ……」
 その通りだ。
 軽はずみな約束はしない。けど、もし約束すれば愚直なまでに遵守する。今ならその自信は、ある。この二年間、何度も確認してきたのだから。
「ワタクシに迷惑を掛けたと思うんでしたら、少しは成長した貴方を見せてくれても良いじゃなくて?」
「それは……。けど、どうしてそこまで僕と依川をくっつけたがるんだ?」
 亜美は顔を真っ赤にし、ビックリしたような表情を見せて、ぼそぼそと口の中で呟いた。
「別に……。ただ、ワタクシが初めて本気になった男を、得体の知れない他の女に取られるくらいならって……思っただけですわ」
 最後の方は、かなり集中しないと聞き取れないくらい小さな声で亜美は言い、拗ねたように僕から顔を逸らした。
 やはり、亜美も依川のことだけは認めているんだろう。
「分かった。真剣に考えてみるよ」
「ええ、自分の気持ちとよく相談なさい」
「で、お前の方はどうなんだ。また、新しい男に貢ぐのか?」
 亜美は何も答えない。けど間違いなくそうするだろう。
 彼女は基本的に寂しがり屋だ。一人でいる時間と空間に長くは耐えられない。だからソレを紛らせるために男の注意を惹く。
 最初はお金で。そして、徐々に彼女自身の魅力をアピールしていく。長く繋ぎ止めておくために。
 だが、殆どの男は彼女のことを金づるだとしか見てくれない。どんなに可愛い仕草をしても、どれだけドレスアップしても、その向こうにある莫大な資産にしか興味がない。そして男の気持ちが変わらないことを知ると、亜美はその男と別れて別の男を探す。
 金銭に関係なく、自分の事を見てくれる男を。
「そ、それじゃあ、ワタクシはこれで帰りますわ」
「ああ。色々、有り難う」
 亜美は僕の横を通り過ぎ、裏鳥居をくぐったところで振り返った。そして、思いっきり舌を出して『あかっんべー』をした後、カランカランと下駄を鳴らして走り去る。
「よし……」
 彼女の後ろ姿に勇気づけられ、僕は石造りの階段を登り始めた。
 もう、バンダナのことはどうでも良くなっていた。 
 ハル君の親御さんのことは……ちょっと置いておこう。鉄は熱い内に打つ必要がある。

 タイミングとしては何故か恐いくらいに良かった。
 依川とハル君の会話を聞いてしまい、依川が僕のことを好きだと言うことが分かってしまった。その理由も。
「いや、まー。その、なんだ……」
 僕は照れ隠しに頭を掻きながら、依川の方に近づく。
 踏みしめた砂利が、足下でどこか白々しい音を立てた。
「別に、盗み聞きするつもりはなかったんだが……。ちょっと疲れて戻ってきたら、丁度、な……」
 依川は僕のこの性格を好きだと言ってくれた。
「あの、な……」
 なら、巧くやっていけるかもしれない。
 僕は目に力を込め、決意した。
 背後で鳴り響く大花火の音。それに後押しされる形で、僕は言葉を紡いだ。
「悪いけど――保証は、出来ないぞ?」

◆依川柚木の幸せ◆

 北条君は今なんて言ったんだろう。イマイチよく聞こえなかった。
 え? 『悪いけど――』? じゃあ何? 私フラれた? これって俗に言うバッドエンドってヤツ? マジで? マジでマジでマジで?
「え?」
 空気の抜けたような声が私の口が出た。自分の声なのに、まるで他人の言葉のような――。どこか遠くの方で自分の知らない誰かが呟いている。
 あ、そーか。コレは夢だ。きっと本当の私は今頃、あったかーいお布団の中にくるまって、『何で真夏に毛布なのよ!』とか突っ込んでるに違いない。
「こ、これから先、僕がずっと依川のことを想っていられる、ほ、保証は出来ないと言ったんだ」
 私のこと重いって? 何で分かっちゃったんだろう。実はスイカ食べ過ぎちゃって体重のインフレが止まらないー……って、へ? 何? 保証できない? それって……どういうこと……?
 彼の回りくどい言い方は、混乱している今の私にはすぐに理解できない。
「で、でも、依川が僕のことを好きだと言ってくれるんなら。僕は最大限それに応えられるように努力する」
 相変わらず回りくどい。でも何となく言いたいことは伝わってきた。
「それじゃ……」
「まぁ、君に電話で誘われた時から、こういう展開になることはある程度予測できたけどな。勿論、確証はなかったが。依川のことは別に特別視してなかったけど、これから一緒にいれば特別になる可能性はある」
 つまり、私が北条君のこと好きだから、北条君も私のこと、ちょっとだけ好きになってくれるって事? 男の子の動機はいつも単純だけど、今はそれでも嬉しい。フラれるよりはずっとましだ。
「じゃ、じゃあ、付き合ってくれるって、事?」
 私は声に期待の色を込めて確認した。
「ああ、付き合おう」
 北条君はそう断言した。彼の言葉に二言は絶対に無い。私は、胸がいっぱいになっていくのをハッキリと感じた。
「やったー!」
 歓喜の声を上げ、私はどさくさに紛れて北条君に抱きついた。
 ちょっとくらい、いいよね。ここまで苦労したんだもん。
「ありがとう! ハル君! 君の……!」
 愛のキューピッドになってくれたハル君にお礼を言おうと隣を見るが、そこにハル君は居なかった。その代わりに、北条君のバンダナとお守りが落ちている。
「これって……」
 北条君から離れ、私は二つを拾い上げた。お守りは無くしたはずの、おばあちゃんのお守りだった。
「ハル君はどこに行った? さっきまでいたはずだろ?」
 ヨリカワ ハル……。私のおばあちゃんの名前、『依川 お春』……。
 そっか、同姓なのは偶然じゃなかったんだ。
「これ、ね。私の大好きだったおばあちゃんがくれた恋愛成就のお守りなんだ」
 私の面倒をよく見てくれて、いつも相談に乗ってくれた、ちょっとお節介なおばあちゃんがくれたお守り。
「『だった』と言うことは、もうこの世には居ない、ということか?」
「うん……」
 私と北条君はしばらく何も言わずに黙っていた。遠くの方で、最後の大花火を見終わった人達の熱気が、さざ波のようにゆっくりと引いていくのが伝わって来る。
 しばらくして、北条君は何か思いついたように携帯を取り出した。
「まぁ、お盆の時期だからな。こういうこともあるか。確証はもてないけどな」
 そう言って、私に携帯のディスプレイを向ける。
 そこには、私の大好きだったおばあちゃんが元気に笑っていた。
「これ……」
「ハル君を撮ったものだ。言っておくが僕は合成写真のスペシャリストじゃないぞ?」
 バッチリ効果あったよ、おばあちゃん。あのお守り。
ありがとう。ちょっと世話焼きすぎだったけど、嬉しかったよ。
「ね、北条君。このバンダナ、私が責任もって綺麗にしてあげるねっ」
「あ、ああ。悪いな」
「それとー」
 私は両手を後ろに回して体を低くし、上目遣いで北条君を見上げた。
「今度、私に似合うバンダナ選んでくれる?」
 子供がおもちゃをねだるような甘い声色に、北条君は少し照れたように頬をかく。
「ああ、別に良いけど。保証は……」
「できないんでしょ?」
 先に言われ、北条君は言おうとした言葉を呑み込んだ。
 いいよ。今はまだ出来なくても。そのうち必ず、北条君が保証できる約束させてみせるからっ。必ず、ね。
 冷たい夜風が火照りを帯びた頬に心地良い。耳元で渦を巻いた風の中に、おばあちゃんの祝福の声が聞こえたような気がした。
 この不思議な体験は、この先ずっと忘れることの出来ない、夏祭りの想い出。 

 〜おしまい〜




空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。
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