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未完の魂、死の予定表

Chapter 1

§ヲレン=ラーザック§

 一日目09:45□冷蔵庫にある「お酢」と「超高純度アルコール」のラベルを貼り替える□
 二日目15:46□中庭に生えているキノコを冷蔵庫に入れておく□
 三日目12:55□窓の外を一時間見続ける□
 四日目18:09□プレイルームで拾った箱を封筒に入れて玄関ホールの花瓶に入れる□
 五日目16:25■暖炉の中に飛び込む■
 六日目14:00□ポケットに手を入れて裏口から保管庫に入る□
 七日目15:02□中庭の木陰で一時間昼寝をする□
 八日目16:58□書庫で一番奥の本棚にある左から五番目の本を読む□
 九日目08:58□冷蔵庫にある調味料を一種類、自室に持ち込む□
 十日目10:30□地下のワインセラーで、ワインの一本に香水をふりかける□

「それでは皆様。内容をご確認いただけましたでしょうか」
 アーニー=メレンシュタインと名乗ったメイド服姿の女性は、コチラを見ながら透き通った声で確認した。
「皆様にお配りしたのは明日からの『死の予定表』で御座います。これから行うゲームには、皆様の命を賭けていただきます。もし生き残る事が出来た場合、招待状にも明記いたしましたように命に見合うだけの金額を送らせていただきます」
 心中を見透かすような蒼い瞳を洋風の大広間に集められた五人に向け、アーニーは抑揚のない口調で淡々と説明する。
(『ゲーム』、か……)
 ヲレンは不愉快そうに顔を歪め、アーニーを見た。
 天井の豪勢なシャンデリアから降り注ぐ光を受けた彼女の肌は、白磁を通り越して病的なまでに白い。肩口で切り揃えられたストレートの黒髪を全く動かす事なく、無表情のまま言葉を紡ぐアーニーは、さながら精巧に造られた人形のようだ。
「皆様にはその予定表に血を一滴垂らしていただき、ある種の契約を交わしていただきます。その契約が成立した瞬間から、予定表に書かれている事には絶対服従となり、皆様の意思とは関係なく内容通りの事を実行してしまうようになります。また、この洋館からも出る事が出来なくなります。よろしいでしょうか」
 ヲレンを含む五人は、皆何も言わない。
 ここまでは招待状に書かれていた通りの内容だ。ソレを承諾したからこそココに集まった。今更念を押して確認されるまでもない。
「この予定表に抗う事なく当洋館で過ごされれば、皆様は間違いなく十日以内に死にます。ですがそれではゲームになりません。最初にお配りしたペンと石をご確認下さい」
 言われてヲレンは、一枚の羊皮紙に纏められた『死の予定表』をテーブルに置き、隣りに添えられている黒いシンプルなデザインのペンと、淡い燐光を放つ石を手に取った。
「石で予定表の内容を消す事が出来ます。ペンで予定表に別の内容を書く事が出来ます。ですがその二つは一度使うと効力が無くなってしまう作りになっています。つまり、一度だけ予定を変更する事が出来ます」
 パチパチと薪をはぜさせて燃える暖炉を背に、アーニーは口のみを動かして、台本に書かれているセリフを棒読みするように喋る。
「その変更により死を回避する事が出来れば皆様の勝ちです。欲を出さなければ、この先一生働かなくてもいいだけの大金を差し上げます。しかし回避できなかった場合は、皆様の負けです。これは勿論、死を意味いたします。よろしいでしょうか」
 静まりかえった大広間では、木製の大きな振り子時計が無機質に時を刻んでいる。水銀を流し込んだかのような、重く粘着質な空気が肌にまとわり付いているかのようだった。
「また、予定表はお互いに見せ合ってはなりません。内容を話し合ってもいけません。これらの事が発覚した時点で、皆様の負けが確定いたします。この場合も、死を意味いたします」
 静かに言いきり、アーニーは少し間を空ける。
 そして二呼吸ほどの静寂が続いた後、アーニーは再び口を開いた。
「コチラからのゲームの説明は以上です。何かご質問は御座いますでしょうか」
「つまり、や。こっから出るには死体になるか大金持ちになるかの二つに一つしかないっちゅーこっちゃな」
 ヲレンの正面に座った男性が、異国的な訛りのある口調で言う。
「その通りで御座います。ベルグ=シード様」
 アーニーは目だけを彼の方に向け、微かに頷いた。
 目の下に掛かるくらいまで長く伸ばした藍色の髪をキザっぽく掻き上げ、ベルグは鼻の頭に乗せた丸レンズ眼鏡の位置を直す。
 体にピッタリとフィットした白いシャツの上に、黒のジャケットと同色のシーンズをラフに着こなした性格の軽そうな男だ。見る者に数多くの女性遍歴を否応なく想像させる。
「ホンマ、エライ酔狂な遊びすんなー。ココの主人殿も。まぁ自分で稼いだ金どー使おーと本人の自由やから別にええけど。ほんで? 肝心の主人殿は挨拶に出てけぇへんのか?」
 自分の招待状を指で挟み、軽く振って見せながらベルグは明るく言った。
(確かに、な……)
 ベルグの言葉にヲレンも胸中で頷く。
 すでにルールの説明を終えたというのに、この招待状の送り主である洋館の当主はまだ顔を見せていない。
「アクディ様は非常にご多忙で御座いますので、主な進行はすべで私が仰せつかっております」
「そーかー。せっかく世紀の天才錬生術師に会える思ーて来たんやけどなぁ。残念やわ」
 ベルグは真横に細く伸びた猫目を更に細くして、どこか揶揄するような口調で言う。
 錬生術――それは特殊な技法を用いて魂を練り上げ、無から生を産み出す術。
 この洋館の主であり、元天才医術師でもあったアクディ=エレ=ドートが開発し、彼にしか使う事が出来ないとされている秘術だ。
 だが人工的な創生を快く思わない人達も多く、世間からの風当たりは強い。それ故にアクディは医術界から追放され、この洋館に追い込まれたとされている。
「ほんで一つだけ確認したいんやけどな。この予定表に書かれてる事以外は何してもええんか?」
「結構です。常識の範囲で皆様にお任せいたします」
「ほんならメンドさんのスリーサイズとか聞いてもええんか?」
「基本的にゲームに関係の無い質問には答えないよう仰せつかっております」
 ベルグの問い掛けに、アーニーは全く表情を崩す事なく冷静に答える。
 ベルグは大袈裟に肩をすくめて溜息をつくと、縦長のテーブルの上に片肘を付き、目の前に置かれた銀の燭台を指先でもてあそんだ。
「そんな暗い顔して、暗い声で喋ってたらモテへんでー。せっかく美人やのに」
「ここでの仕事に支障はありません」
「そう言いきれんのは、メイドさんがアクディの創った『ソウル・パペット』やからか?」
 猫目を薄く開き、ベルグは声のトーンを少し低くして言った。
 錬生術で生を受けた者は『ソウル・パペット』と呼ばれる。文字通り『魂の人形』という意味だ。その完成度が上がれば上がるほど人間に近くなる。
 しかし錬生術は扱いが非常に難しく、完全に成功したという話は未だに聞かない。そして不完全な形で産み出されたソウル・パペットは、外見は人間に似ているが内面は大きくかけ離れている場合が多い。
 例えば、言動が人形を連想させるアーニーのように。
「その質問には答えられません」
「やろな」
 最初から答えは分かっていた、といった様子でベルグは口の端を歪めて微笑する。
「俺からの質問はしまいや。ルールも単純で分かり易いから、別に聞く事無いわ。他の奴らは何か聞かんでええんか? 命賭けたゲームやで」
 他の四人を順番に見ながら、ベルグはおどけたような口調で言った。
「それじゃあアタシからも一つだけ、いいかしら?」
「どうぞ。ローアネット=シルフィード様」
 深いスリットの入った紫色のイブニングドレスから覗く長い足を組み替え、ローアネットと呼ばれた女性は厚い唇の上に艶笑を浮かべる。
「もし生き残る事が出来た場合、お金はどういう形で渡されるの?」
「即金でお渡しします。その準備はすでに整っています。重すぎで持ちきれない場合は、コチラで人を雇ってローアネットの様のご自宅に運ばせます」
「そぅ」
 アーニーの答えにローアネットは腰まである長い髪を梳き、満足げに頷いた。ウェイブ掛かった薄紅色の髪の毛から、芳醇なフレグランスの香りが立つ。
 恐らく水商売系の仕事をしているのだろう。均整の取れた妖艶な肢体と、彫りが深く整った顔立ち。少し下がり目のアイラインの下には泣きぼくろがある。細長い指先にある爪は丁寧に手入れされ、複雑なネイルアートが施されていた。
 もし人間もフェロモンを発せるならば、今彼女が纏っているモノがまさにソレだろう。隣りに座っているヲレンは、気を抜けば大きく開いた彼女の胸元に目が行ってしまいそうになる。
「他に、質問は御座いますか?」
「はーいはいはい! 小生も聞きたい事があるでござるよ!」
 ヲレンの斜め前から子供の声が上がった。グレイの子供用スーツに身を包み、首に蝶ネクタイを巻いた少年が元気一杯手を上げている。
「どうぞ。ユレフ=ユアン様」
「アクディ様は元気でござるか!?」
 椅子の上に立ち、ユレフは足をバタつかせながら甲高い声で訊ねた。その言葉に皆の視線が集中する。
 アクディの名前に敬称を付ける者は数少ない。それはアクディの錬生術が忌み嫌われた物だからだ。ましてや堂々と『様』を付ける者など極々一握り。この洋館で働くアーニーを除けば、世界中で十人居るかどうかだろう。
 そして彼らはアクディを敬う者として、世間からは冷たい目で見られる。それ程までにアクディの研究は異端視されていた。
「ご多忙ではありますが、健康状態に問題ありません」
「良かったでこざる! ソレを聞いて安心したでござる!」
 ユレフは無邪気に笑いながら言うと、ブロンドの柔らかそうな髪の毛をフワフワと浮かせて座り直した。他の人からの目など全く気にした様子はない。
(相変わらずだな、ユレフ……)
 ヲレンは目を細め、鼻歌を歌ってるユレフを忌々しげに睨み付けた。
「おいガキ。自分、ホンマにゲームの意味分かっとんのか? アクディ信者で会いたいんか何か知らんけど、負けたら死ぬんやぞ。まさかとは思うけど、死ぬっちゅー意味も分かってへんのとちゃうか?」
 ユレフの隣りに座っているベルグが、少し心配そうな目を向けて言う。
「小生は賢いでござるよ。少なくともお前よりはな」
「お、『お前』て……。ガキのクセに生意気なやっちゃな。けったいな喋り方やし」
「貴様に言われたくないでござるよ」
「なんやとー!」
「ベー!」
 怒声と共に掴みかかろうとするベルグを、ユレフは軽い身のこなしで椅子から飛び退いてかわした。
「他に、質問は御座いませんか?」
 大広間の中で追い掛けゴッコを始めたユレフとベルグを無視して、アーニーは残った三人に顔を向ける。
「……タバコ」
「はい。何で御座いましょう、ノア=リースリーフ様」
 ベルグの居なくなった椅子に両足を乗せ、ノアと呼ばれた女性は気怠そうに頭を掻いた。
「……ココでタバコは吸っても、大丈夫なのか?」
 女性にしては低い声だった。ユレフの甲高い声の後だから余計にそう聞こえるのかも知れない。
 背中の中程まである少しくすんだ緑色の髪をいじりながら、ノアは白いカッターシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出した。
 上着はそのシャツは一枚だけで地肌に直接着ているせいか、体のラインがハッキリ見える。しかしローアネットのように艶麗な雰囲気は微塵もなく、むしろ退廃的で無気力な印象を受けた。
「問題ありません。ですが火の不始末にはくれぐれもお気をつけ下さい」
「……死ぬなら一人で死ね、という事だな」
 どこか自虐的な笑みを浮かべながら、ノアはタバコを一本くわえた。そして左腕に巻いたリストバンドからライターを取り出して火を付ける。
「……聞きたかったのはそれだけだ」
 まだ二十を少し過ぎたくらいだろうが、達観しきった表情のノアは、五人の中では一番落ち着いて見えた。
 半分だけ開かれた碧眼は曇り、光を灯していない。化粧など全くしておらず、アーニー程ではないが肌の色も不健康そうに青白かった。サイズの合っていない男物のジーンズは方々が破け、やせ細った華奢な足を晒している。機械的に紫煙を吐き出すその様子は、完全に荒みきっていた。
「他に質問は御座いますか? ヲレン=ラーザック様はよろしいしょうか」
「ああ」
 ヲレンは短く答えると、腕を組んで俯いた。
 質問も何も自分はこの洋館の関係者だ。このゲームの主旨は熟知している。気を配るのはユレフのみ。あとの人間はどうでもいい。
「それでは契約を交わしていただきます。皆様、目の前に御座います細い針で指を軽く刺し、血を一滴予定表の上に垂らして下さい」
 ヲレンはアーニーの指示通り、針を取り上げて指を刺す。痛みはなかった。
 針を抜き、程なくしてぷくっと膨れあがってきた紅い玉を羊皮紙に押しつける。
 体の内側に手を這わされたような悪寒。一瞬目の前が暗くなり、奇妙な睡魔に襲われた。しかしそれもすぐに払拭される。恐らく、コレが契約の成立した証なのだろう。
「契約を済ませられた方からお部屋にご案内いたします。今日はもう遅いので明日からの十日間に備えて、ごゆっくりお休み下さい」
 アーニーは両手を前で合わせて深々と頭を下げる。

 死のゲームの開始だった。

 †一日目 【自室 08:55】†
 アーニーに案内された自室のベッドで横になり、ヲレンは天井を見つめて思索に耽っていた。クリスタルに包み込まれた魔術光が、美しい明かりを室内に広げている。
 ゆうに二人分の広さを持つ室内にはレッドカーペットが敷かれ、窓際にダブルサイズのベッドが置かれていた。ちょっとしたキッチンや冷蔵庫、シャワーも完備され、部屋の隅にあるソファーの近くには疲れを癒すヒーリングライトが備え付けられている。 
 ヲレンが今考えている事は昨日から同じだった。
(アクディの狙いが分からん……)
 このゲームの主旨は熟知している。だからそれだけに不気味だった。アクディが何を考えているのかさっぱり分からない。彼は人の命を弄ぶような人間ではなかったはずだ。
 死のゲームへの招待状が届いたのは一週間ほど前の事だった。
 アクディの呼び出しはいつも突然だ。だからその事に関しては別に驚かなかった。
 しかし招待されたのが自分とユレフだけではなく、他に三人も居たのは予想外だった。
(しかもユレフは本名のまま……)
 ヲレンに送られてきた招待状には、自分の正体を伏せて来るようにとの指示があった。最初どういう意味があるのか分からなかったが、他にも招待客が居るという事を知って納得した。確かに部外者に自分の正体がバレるのはマズい。
 だから『ヲレン』という名前も偽名だ。他の四人の招待状にどう書かれているのかは知らないが、もしかしたら皆偽名を使っているのかも知れない。特にノアという女性は怪しい。彼女にも偽名を使わなければならない必要性はある。
 だが少なくともユレフは本名だ。ソレは間違いない。
(指示を無視した……?)
 可能性は色々考えられる。
 自分へプレッシャーなのか、アクディの趣向なのか、単に指示が行っていないだけなのか。それとも――
(余裕、か?)
 本名を明かしても正体がバレないという自信がある?
 確かに『ユレフ』という名前が世の中に出回っている訳ではない。だからすぐにはバレる事はない。
(アイツが、ソウル・パペットだという事は……)
 ユレフは完全なソウル・パペットだ。アクディの生み出した最高傑作。ありとあらゆる能力に秀でている。だからこそ、偽名を使ったり姿を変えたりして正体を隠す必要がある。
 ソウル・パペットは世間的に忌み嫌われている錬生術で生み出された存在だ。確固たる肉体を持たないため、身体機能の停止――すなわち『死』を向かえたとしても、蘇る事が出来る。錬生術を施す事で。
 しかしその行為は魂の輪廻に重きを置く教会の考えに、真っ正面から反発する。
 教会は世界で唯一にして最大の宗教機関だ。簡単な病気なら無償で治療してくれたり、貧しい者には金銭的な援助もしてくれるため、信者は多くいる。
 もしユレフがソウル・パペットだとバレれば、世界中の人間を敵に回しかねない。いくらユレフでも彼らから逃げ続けるのは不可能だ。
 この洋館に部外者を招いた事はかつて一度もない。彼らからアクディの研究データが漏れ、ユレフの正体がバレる可能性がある。
 それに勘の良い男もいた。
(ベルグ=シード、か……)
 アーニーの事をソウル・パペットではないかと指摘した男だ。金に飢えた遊び人かと思っていたが、なかなか鋭い。
 しかし完全に当たっているわけではない。アーニーはソウル・パペットではない。だがこの調子では、いつユレフもソウル・パペットではないかと疑われてもおかしくない。
 アクディに確認しなければならない。どうしてユレフは偽名を使っていないのか。そしてどうしていつもとは違い、こんなゲームをする必要があるのか。
 アーニーの話ではアクディは忙しくして顔を出せないと言っていた。洋館の中には居るだろうが、どの部屋に居るかまでは分からない。ここにはヲレンも知らない隠し部屋が沢山ある。アクディの世話役であるアーニーにも教えていない部屋もあるだろう。
「ん……」
 どうやってアクディに会うかを思案していると、ヲレンの体が勝手に動き出した。
 部屋に置かれている、水晶球に埋め込まれた時計の針に目をやる。
 九時四十五分。
 最初の予定の時間だった。ヲレンはこれから一階のキッチンにある冷蔵庫に行き、『お酢』と『超高純度アルコール』のラベルを貼り替えなければならない。
 この行為にどういう意味があるのかは分からない。
 五日目の予定に書かれた露骨に死を匂わせる『暖炉の中に飛び込む』という行為。
 もしかしたらソレを目隠しするための、全く意味のない行為かも知れない。
(まぁ、ソレもアクディに聞けばわかる、か……)
 十日もあれば何とか見つかるだろう。例え見つからなかったとしても、最終日には顔を出すはずだ。その時に聞けばいい。
 ヲレンは自分の意志とは関係なく部屋の出入り口まで歩き、金色のドアノブに手を掛ける。ドアのすぐ横には、ヲレンの方を向いた大きな姿鏡。
 そこに映っていたのは、ユレフと同じ位の少年だった。 

 キッチンに行くと紫色のイブニングドレスを着た女性が、冷蔵庫から星形の果物を取り出していた。
 確か名前はローアネットといったはずだ。
「あ、あら、ヲレンさん。変なトコ見られちゃったわね」
 高さ四メートルはある巨大な冷蔵庫から離れ、ローアネットは気まずそうに髪を掻き上げた。つまみ食いをしているところを目撃されてたせいか、顔が少し紅い。
「貴方も朝ごはん食べ足りなかったのかしら?」
「まぁ、そんなところですよ」
 予定表の内容を他人に喋ってはならない。ソレはルールの一つだ。
 ヲレンの体はローアネットを押しのけるようにして冷蔵庫の前まで行き、右手を扉に当てる。扉は音もなく消えて無くなり、中にある豊富な食材をさらけ出した。ヲレンはローアネットからは中が見えないよう大きな体で壁を作ると、肉と果物に挟まれたお酢の瓶を迷う事なく探し当てる。シールで出来たそのラベルに手を掛けると、ゲル状になってアッサリと剥がれ落ちた。
「ねぇ、ヲレンさん」
 冷蔵庫の奥にしまい込れていた超高純度アルコールの瓶に手を掛けたところで、ローアネットに話し掛けられた。
「貴方はどうしてココに来たの?」
「どういう、意味ですか?」
 言われた内容がすぐに理解できず、ヲレンはさっきと同じ要領で超高純度アルコールのラベルを剥がしながら聞き返した。
「貴方がココに来た理由。命を張ってまでお金が欲しいの?」
 ああ、そう言う事か。
 ゲル状になったお酢のラベルを超高純度アルコールの瓶に貼り付けると、再びシールになって固定化される。
「教会からの命令なんですよ。生を冒涜する狂医術師、アクディ=エレ=ドートを捕まえて大司教様の前に引きずり出さないといけないんです」
 二つの瓶のラベルを交換し終えると、ヲレンは体の自由を取り戻した。
「貴方、教会の人? なんかイメージと違うわ。もっとヒョロっとした人達ばっかりだと思ってた」
 身長二メートル近くある巨漢のヲレンを見上げながら、ローアネットは意外そうに呟く。
「それは偏見というものですよ」
「じゃあエライ人の命令で死ぬかも知れないゲームに参加させられてるの? 『生を冒涜する』とか言っといて自分は高みの見物って訳?」
「まぁ大司教様にはお世話になっていますからね。せめてもの恩返しですよ」
 ヲレンが冷蔵庫の前から離れると、消失したはずの扉が自然に復元された。
 ローアネットは納得のいかない表情で、銀色の無機質な直方体をしたクッキングスペースに体を預ける。そして星形の果物に小さくかぶりつきながら、高いヒールで床を鳴らした。
「お役所仕事も大変ねぇ。アタシだったらそんな命令されたら絶対に辞めてるわ」
「それじゃあ貴女はどうしてココに来たんですか?」
「アタシ?」
 自分の理由を聞き返され、ローアネットは何か考えるように視線を上に向ける。
「……アタシは、お金が欲しいのよ。どうしてもね」
 瞳の奥に強い決意の光を灯し、ローアネットはどこか思い詰めたような顔で言った。
「そう、ですか」
 ヲレンは気圧されたように、言葉を少し詰まらせる。
 彼女の表情は真剣そのものだ。何があったのかは知らないが、少なくとも遊び金欲しさでココに来ているわけではなさそうだ。
「ま、お互い頑張りましょ。あの予定表見た感じじゃこのゲームに勝つのって結構簡単っぽいからね」
 急に明るい声になって、ローアネットは陽気に笑いながら手をヒラヒラと振った。そのままキッチンから出て行く。
(簡単、か……)
 ヲレンが予定表を見た時に抱いた印象と同じだ。
 ならばローアネットの予定表もヲレンの物と同じく、露骨に分かる死の予定が書き込まれているのだろうか。
 その点も腑に落ちなかった。
 アーニーの話ではペンと石を使って、一度だけ予定を書き換えられる。つまりヲレンの場合であれば、五日目の『暖炉に飛び込む』という予定を書き換えてしまえば、死を回避出来る。残りの予定には、死に繋がるような物は一つもない。
(とにかく、ソレもアクディを見つけて聞かないとな……)
 アクディを探すため、ヲレンはキッチンを後にした。

 洋館は五階建ての構造になっている。
 玄関ホール部分は一階から三階まで吹き抜けになっているため、二階と三階の敷地面積は狭いが、それでも部屋数は二十を越える。一階は大広間やキッチン、大浴場があるために部屋数は十程度しかないが、四階と五階には四十近い部屋が用意されていた。
 この巨大な洋館に居るのは招待された五人とメイドのアーニー、そしてどこかに居るであろうアクディの七人だけだ。さらに招待された五人の部屋は全ての階に分かれているため、洋館を歩き回らない限り他の誰かに会う事は希だった。
(この階には居ない、か……?)
 自分の部屋がある三階の隠し部屋を全て探し終え、ヲレンは軽い落胆と共に長い廊下を歩いていた。
 天井の近くを光輝蝶が羽を光らせて舞い、柔らかい光と星のように輝く鱗粉を落としていた。自浄機能の備わったクリアガラス製の窓の外は、すでに暗くなっている。三階を探すだけで半日も費やしてしまった。
「ヲレン=ラーザック様」
 突然、後ろから自分の名前を呼ばれる。
 振り向くとアーニーが背筋を伸ばして立っていた。いや、立ちつくしていた、という表現の方がしっくりくるかも知れない。それ程までに生気を感じさせなかった。
「夕食の準備が整いました。大広間にいらして下さい」
 朝食、昼食の時と同じく、いきなり呼びに現れたアーニーは、無機的な気配を纏わせながら言う。
(聞いて、みるか……)
 ヲレンは少し考えた後、アクディの事を訊ねるためにアーニーに近づいた。
 招待状には正体を隠してココに来るように書かれていた。誰にも自分の事をさとられようにと。恐らく、そこにはアーニーやユレフも含まれているのだろう。今からアーニーとしようとしている会話を、他の人間に聞かれれば自分とアクディの繋がりがバレる。それはユレフが相手でも同じ事だ。
 だが少々の危険を冒してでも聞き出さなければならない。
 この狂行の意味を知るために。
「アーニー。アクディはどこに居る」
 ヲレンはアーニーの前に立ち、なるべく小さな声で聞いた。
「アクディ様はご多忙のため、自室に籠もっていらっしゃいます」
「その部屋はどこにある」
「その質問にはお答えできません」
 やはりな。
 この返答は予想していた。
 ヲレンは一度目を瞑って軽く深呼吸し、少し違った語調で聞き直した。
「アーニー。僕はアクディ様の事が心配なんだ。アクディ様は生まれつき体が弱い。寿命も常人より遙かに短い。ひょっとして、病に倒れているんじゃないのか?」
 アクディは医術師として、そして錬生術師として天才的な能力を誇っていたが、体は脆弱だった。もう五年も前から浮遊車椅子での生活を余儀なくされている。
 その事はユレフとアーニー、そしてヲレンしか知らない。
 先程の言葉でアーニーはヲレンの正体に気付いたはず。ならば教えてくれるかも知れない。アクディの居場所を。
「その質問にはお答えできません」
 しかし、返答は変わらなかった。
 アーニーは基本的にアクディに言われた事しか実行しない。例えヲレンの正体が分かったとしてもイレギュラーな事はしないし、その事を皆に吹聴したりもしないだろう。
「そうか……」
 彼女が答えられないと言った以上、絶対にアクディの居場所を喋る事はない。これ以上詰問しても結果は変わらない。やはり、自分で探すしかない。
「夕食は後で食べる。私の部屋まで運んで置いてくれ」
「かしこまりました」
 アーニーは慇懃に礼をすると、無表情のままヲレンの前から姿を消した。

 †二日目 【中庭 15:50】†
 昨日の夜から今日の午前中に掛けて、二階部分の部屋を見て回った。しかし、ヲレンが知っているどの隠し部屋にもアクディの姿はなかった。
(どうするか、な……)
 ヲレンは予定表の内容に従い、中庭でキノコを採りながら難しい顔をしていた。そこは洋館の敷地内にある、色鮮やかな緑が生い茂る空間。
 夜になると発光する千枚葉を持った高い樹が、外壁に沿って等間隔に植え込まれ、大量に飼育されている光輝蝶の巣となっている。真ん中には時間によって色を変える彩虹噴水が備え付けられ、その周りには風で揺れるたびに涼やかな音色を奏でるサウンド・フラワーが美しい花を咲かせていた。
 そしてヲレンが採っているキノコは、彩虹噴水の水で適度な湿り気を帯びた土の上に生えていた。
(このままじゃマズい、か……)
 直感ではあるが、このまましらみ潰しに探し続けていてもアクディは見つからないような気がする。それに急がなければならない理由が一つ浮上した。
 今ヲレンが集めている、指先程の大きさしかない小さなキノコ。
 コレは確か鬼茸という毒キノコだったはずだ。
 どういう症状を引き起こすのかまでは知らないが、ほんの僅かで致死量に至る強力な毒素を持っていたはず。
 予定表に従うならば、今からこのキノコを冷蔵庫に入れなければならない。食べれば死んでしまう、この毒キノコを。
 だがこの鬼茸は赤地に黒の歪な斑点が散りばめられており、かなりグロテスクな外見をしている。
 例え名前や効果を知らなくても、コレを食べようという気にはならないだろう。
 だが、もし予定表に食べるように書かれていたとすれば……?
「こーんな所にいたでござるか、ヲレン殿」
 甲高い子供の声を背中に掛けられ、ヲレンは思考を中断せざるを得なかった。
「いやー、探したでござるよ。ヲレン殿は食事を部屋で摂っているから、話をする機会がなかなか無かったでござる」
 鬼茸をロングコートのポケットに入れ、ヲレンは立ち上がった。そしてキッチンに向かって歩き始める。
「ああー、待つでござるー」
 ユレフはヲレンを追い掛けながら、少し悲しげな声を発した。
「ユレフさん、でしたね……。それは申し訳ない事をしました。私、人と話すのがあまり得意ではないもので……」
「いやいや、気にする事はないでござる。人間誰でも得手不得手があるものでござる」
 ユレフは小さな胸の前で腕組みして歩きながら、コクコクと可愛らしく首を縦に振る。
「それで、私にどのようなご用ですか?」
 出来れば長話はしたくない。コイツの顔を見ていると気分が悪くなってくる。
「ヲレン殿はこのゲームをどう考えているでござるか?」
「どう、とは……?」
「アクディ様がどのような意図を持って小生達に命のやり取りをさせているのか、と言う事でござる」
 ほんの僅かだがユレフの語調が変わった。
 先程までの無邪気で子供っぽい雰囲気はなりを潜め、コチラを試すような狡猾な視線を投げかけてくる。
「……私には決して許せる行為ではありません。教会の代表者として必ず生き残り、アクディを粛清しなければならないと思っています」
「質問の答えになっていないでござるよ」
 建前上の意見を述べたヲレンに、ユレフは間髪入れずに鋭く言い放った。
「小生が聞きたいのは、アクディ様がどうしてゲームの中に死を取り入れたのか、という事でござる」
 ユレフが自分に何を聞きたいのかよく分からず、ヲレンは眉を顰めながら答える。
「……それは、ゲームに緊張感を持たせるためでは」
「なるほど。ソレもあるかも知れないでござるな。でも小生の考えは違うでござるよ」
 そこまで言って、ユレフは口の端を不敵につり上げた。
「誰がいつどこで死んでもおかしくない状況を作り出してくれた。小生はそう考えているでござるよ」
 ユレフはすっ、と目を細めて得意げに続ける。
「もっと言えば、アクディ様が小生に『殺しても良い』という許可を与えてくれたのだと解釈しているでござる」
 すでにユレフには外見から想像できる幼さは微塵もない。
 あるのは狂気的な瞳の輝き、誰かの死への渇望、底知れない殺意。
「小生はある人物を探しているでござる。ソイツは必ず招待客の中にいるはず。小生の目的はソイツを見つけだし、この手で殺す事でござるよ」
 アッサリと言ってのけるユレフに、ヲレンは背中に氷柱を差し込まれたかのような怖気を覚えた。
「小生以外の者を全員殺してしまえばソレが一番てっとり早いのでござるが、それはさすがにアクディ様に怒られるでござる。せっかくアクディ様が趣向を凝らしてくれたゲームを台無しにしてしまうでござる。アクディ様も楽しんでいただかないと意味がないでござる。きっとアクディ様は、いかに小生がソイツを探し出し、どれだけ早く殺せるかを見ているでござるよ。きっとコレがアクディ様の意図しているところでござる。間違いないでござる」
 ここに来て、ヲレンもようやくアクディの意図が理解できた。
 アクディが自分に正体を隠すように仕向けた理由。それは他の三人に自分の事がバレるのを恐れたからではなく、『ユレフ』にバレる事を恐れたからだ。
 アクディがユレフに正体を隠させなかった理由。それはヲレンにだけユレフの事を認知させるため。そしてユレフを警戒させるため。
 ユレフは自分の正体を知れば殺すつもりだ。
 恐らく、今と似たような事を他の三人にも言って探りを入れているのだろう。ユレフが探し出そうとしている人物らしい反応を示すかどうかを見るために。
「ず、随分と極端な思考をお持ちなんですね。ですが人を殺めるという行為は大罪です。アクディのしようとしている事と同じく、決して許される行為ではありません。貴方がどうしてココに招かれたのか、どのような過去を背負っておられるのかは存じ上げませんが、まだ幼い身。先の長い人生をまっとうに歩むためにも、どうかお考えをお改め下さい」
 震えそうになる声を強引に押さえ込み、ヲレンはなるべく教会からの使者として自然な言葉を選んで口にした。
「アクディ様を理解していない者の言葉は聞かない事にしているでござる」
「し、しかし……自ら手を下すというのはルールに沿わないのでは?」
「やってはいけないとは言われなかったでござる」
 悪びれた様子もなく、ユレフは揺らぎのない自信に満ちた言葉で言い切る。
 ユレフは一度『やる』と言った以上、必ず実行する。それは今まで何度もこの身で味わって来た。
 完全なソウル・パペットとしての実力を。
「そんな暗い顔する事ないでござるよ。多分、ヲレン殿は白ではないかと考えているでござる」
 ユレフは柔らかそうなブロンドをいじりながら、子供っぽい顔に戻ってにこやかに言う。
 その言葉にヲレンは僅かな安堵を覚えるが、同時に別の恐怖を感じた。
「それでは、すでに……?」
「怪しいヤツが居るでござる。もう少しソイツと話をしてみるでござるよ」
 やはり。すでにユレフが疑っている者が居る。
「それれじゃあ時間を取らせてしまって悪かったでござる。どうも有り難うでござる」
「あ……!」
 ユレフは一方的に言うと、小走りに中庭から去って行った。
(誰の、事なんだ……)
 又一つ、問題事が増えた。

 昨日と同じように自室で夕食を取り終え、シャワーを浴びた後、ヲレンはヒーリングライトを浴びながらソファーに深く腰掛けていた。
(まいった、な……)
 溜息を付き、ヲレンは目を閉じる。
 結局、アクディの居る部屋は見つからなかった。鬼茸という死を匂わせる要素も浮上した。しかも冷蔵庫から取り出す事も出来ない。出しても体が勝手に中に戻してしまうのだ。どうやら予定表に『入れる』と書かれていると、その状態を維持するようになっているらしい。
 さらにユレフの恐ろしい目的を知ってしまった。
 そして――自分と間違えられた誰かが殺されようとしている。
 頭を悩ませる問題が次々に降りかかってくる。
 ますますもってアクディの狙いが分からなくなって来た。ユレフの言うとおり、本当に自分を殺す事を許可したのではないかとさえ思えてくる。
 自分はユレフを憎んでいる。それは向こうも同じ事だ。
 アクディの開催するゲームは、何もコレが初めてではなかった。不定期的にではあるが、これまでこの洋館で何度も行っている。
 ゲームの内容は種々様々だ。
 隠れんぼや宝探しといった幼稚な物から、一階から五階までの最も効率的な歩き方、この洋館に生えている植物の暗記や、陽の光が最も強い場所と時間の特定といった知的な物、そして剣技や格闘術といった肉体的な物まで。
 色んな事について競い合った。
 ユレフと二人だけで。
 そしてそれら全てに置いて、ユレフは勝利をおさめてきた。ヲレンが勝った事は一度もない。そして絶対的な劣等感を刷り込まれた。何をやってもユレフには――ソウル・パペットには勝てないという暗示に掛かってしまった。
 自信を失い、招待状が届くたびに憂鬱な気持ちにさせられた。
 だからヲレンはアクディを憎んだ。
 どうしてこれ程までに自分を貶めるのか理解できなかった。何度理由を聞いても、アクディからは曖昧な答えしか返ってこなかった。
 ――お前達のため。そして私のため。
 納得のいかないまま、敗北感だけがどんどん積もって行った。
 ゲームに勝利したユレフはいつもアクディに褒められ、多大な寵愛を受けていた。
 ヲレンにとってはソレが最も許せなかった。
 自分に掛けてくれるのは上辺だけの慰めの言葉と、次は頑張れという無責任なねぎらい。
 自分はユレフの成長のために利用されているだけなんだ。
 いつしか根拠も無くそう思い込むようになっていた。
 アクディを憎み、ユレフを疎み、洋館からは出来るだけ遠ざかって生きていこうと思っていた。
 しかし、今回の招待状が届いた。
 そこには正体を隠して来る事と、今回のゲームが最後であり、死を取り入れた真剣勝負であるという事が明記されていた。
 『最後』。
 ヲレンの目には『死』というフレーズよりも、そちらの方が大きく目に付いた。そしてすぐにアクディの身に何かあったのだと思った。彼の体が弱い事は十分すぎる程に知っていたから。
 そう思うとすぐにでも洋館に行きたいという気持ちで一杯になった。
 アクディの事は憎んでいた。しかしどこかで慕わしい想いもあった。自分もユレフと同じように褒められたいと思っていた。
 新しい命を与えてくれたアクディに。
 指定の日、指定の時間に洋館に来た時、そこにいたのはユレフだけではなかった。部外者が三人もいた。しかし一人は完全な部外者ではないと察知できた。
 ノア=リースリーフ。
 彼女からはユレフと同じ雰囲気を感じた。
 新しいソウル・パペット? 自分の知らないところで、アクディが創り出していた?
 その考えはヲレンに果てしない悲壮感をもたらした。
 今日の昼間、ユレフが言った事はもしかすると当を得ているのかも知れない。
(廃棄処分、か……)
 要らなくなった物は捨てられる。より優良で、より完全で、より新しい種を残す。
 そのためにアクディは、間接的にユレフに自分を殺すように指示した。
 それがこの『死のゲーム』が『最後』だという意味?
(僕は、ここで死ぬ……?)
 自分はソウル・パペットではないが、例え肉体的に死んだとしても、恐らく生き返る事は出来るだろう。
 アクディにその意思があるならば。
 だが、もしアクディが自分を必要としていないのであれば――
(潮時、か……)
 自嘲めいた笑みを浮かべ、ヲレンは窓に映った少年の姿の自分を見つめていた。

 †三日目 【書庫 16:45】†
 洋館の四階にある膨大な蔵書量を誇る書庫。
 ここには医術書を初め、黒魔術、白魔術といった魔法書や、物理、化学、生物などの自然書、果てには惑星学、光闇学が纏められた天地書まで揃えられている。
 だが、ヲレンが用があるのはそんな書物ではない。
 天井にまで届きそうなほどの高さを持つ、黒鋼石で作られた本棚が、さながら訓練を受けた軍隊のように整然と立ち並ぶ書庫内。左から十二列目と十三列目の本棚の間を抜け、ヲレンは書庫の一番奥まで足を踏み入れた。
 そして白く塗られた無機質な壁に手を当てる。口の中で小さく何かを呟くと、壁だった場所は黒く抜け落ち、人一人がようやく通れるくらいの穴を開けた。
 その中に入り、ヲレンは暗い隠し通路を躊躇う事なく進んで行く。
 そして数分後。丸く象られた燐光がヲレンの視界に入った。淡い光に照らされ、浮かび上がるようにして存在しているのは、複雑に入り組んだガラスの管、縦長の太いリアクター、呼吸するかのように明滅を繰り返す操作パネル。
 ここはアクディの研究部屋の一つ。
 数多くのソウル・パペットの試作品を生み出してきた場所。
 部屋の中央には頑丈な合板で作られた薄汚れた机が、主の帰りを待って鎮座していた。
 ヲレンはその机の上に置いてある、茶色く変色した分厚い背表紙のノートを手に取る。そして中を確認した。
 几帳面な文字でびっしりと書き込まれた研究成果。所々に図や表が挟まれ、中には暗号のように意味を為さない文字の羅列も含まれていた。
 ヲレンはその研究日誌を持って、来た通路を引き返した。あまり長く居ると出入り口が閉まり、閉じ込められてしまう。
 自分の力では、あの出入り口を外から開く事は出来ても、中から開く事は出来ない。ソレが出来るのはマスターキーワードを知るアクディだけだ。
 ヲレンは書庫の隅にある読書用の机に腰掛け、持って来た研究日誌に改めて目を通した。
 錬生術の事、コレまで生み出してきたソウル・パペットの事、そしてアクディ自身の体の事も書き記されていた。
 ――人形ではなく、人間を創りたい。
 それはアクディがいつも口癖のように言っていた言葉。
 アクディは魂の冒涜という、教会からの大反感を買う研究を行っている。一部の人間には、不老不死の体を得るために死者の肉体を弄んでいるとの曲解までされている。ソウル・パペットという仮初めの人工生命体を使って、人体実験を繰り返していると。
 だがそうではない。
 アクディは生の重さ、死の深さをよく分かっている。ヲレンはその事を、アクディとの触れ合い学んだ。
 だから理解できない。このゲームを行う意味が。
 先程、予定表に従って窓の外を一時間眺めていた。
 中庭でベルグとローアネットが二人、自分達の事について話をしていた。
 ベルグは生きるという事にはあまり興味がなさそうだった。自分の命を冷め切った気持ちで見つめていた。
 しかしローアネットは違った。
 一日目、彼女と会話した時に感じたように、何としても生き延びたいという強い意志を持っていた。
 そんな人間をお金で釣り、アクディはこの死のゲームに参加させた。正直、信じられなかった。
(『最後』のゲーム、か……)
 ヲレンはその意味をもう一度考える。
 ユレフと自分のバカげた競い合いに終止符を打つという意味なのか、研究に見切りが付いたという意味なのか、それとも……すでにアクディの命が尽き掛けているという意味なのか。
(目新しい情報はない、か……)
 軽く息を吐きながら、ヲレンは分厚いノートを閉じた。
 この研究日誌は以前に読んだ時のまま変わっていない。何か最近のアクディの事について書かれていればと思っていたのだが、どうやら期待はずれだったようだ。
 ヲレンが研究日誌を持って立ち上がり、元の場所に戻そうとした時――
「――!」
 書庫の出入り口。その隣りにある申し訳程度の大きさの窓ガラス。
「アクディ様!」
 ヲレンはそこに映っていた人物の顔を見て、思わず叫んでいた。
 見つけた。ついに見つけた。
 この洋館の中に居た。まだちゃんと生きていた!
 ヲレンは慌てて席を立ち上がり、アクディを追って書庫の出入り口に向かって走る。そして荒っぽく扉を開けた。
「……ッ!」
 だが、外には誰も居なかった。
(そんなバカな!)
 首を大きく左右に振って辺りを見回す。
 長い廊下の曲がり角。その影に見慣れた黒いローブの裾が吸い込まれて行くのが見えた。
「待って下さい!」
 ヲレンは叫びながら廊下を走り、アクディの消えた曲がり角に飛び出す。
 しかし、左右の壁に開いた三階と五階に続く階段と、その真ん中を通る長い通路があるだけで、アクディの姿はどこにも見あたらなかった。
「くそ!」
 どこかの部屋に入ったのか。それとも別の階に行ったのか。
 その後、夕食も取らずに、夜遅くまでアクディを探したが、再び彼の姿を見る事はなかった。

 †四日目 【書庫 10:31】†
(無い……)
 ヲレンは書庫の奥まった場所にある、読書用の机の前で一人呆然と立ちつくしていた。
 昨日、遅くまでアクディを探していたヲレンは、九時を少し回った頃にようやく目を覚ました。誰も居ない大広間で一人、遅めの朝食を取った後、昨日出したままにしていたアクディの研究日誌の事を思い出した。
 慌てて書庫に行ったが、確かに置いていたはずの研究日誌はどこにも無かった。
 アーニーが気を利かせて直してくれたのかと思い、アクディの研究部屋も見てみたがどこにも無かった。
(誰かに、読まれた……)
 そう考えて間違いないだろう。
 あの日誌には自分の事、アーニーの事、そしてユレフの事も書かれている。
 とんでもない失態だ。あれだけ気を付けなければならないと自分に言い聞かせておきながら、アクディの姿を見て忘我し、取り返しの付かない事をしてしまった。
(どうする、か……)
 招待客一人一人に聞いて回るか?
 だが逆に、どうして自分がその本の事を知っているのか聞かれたらどうする。勘の良い者なら、すぐにアクディとの繋がりを看破するかも知れない。
 持って行った者がユレフ以外なら、自分も偶然興味深い本を見つけて読んでいたとでも言えば言い逃れ出来るだろう。
 しかし、もしもユレフだったら。
 ユレフはすぐにヲレンの正体に気付くだろう。そうなればユレフは間違いなく自分を殺す。
 あまりにもリスクが大きすぎる。
 まだ死にたくない。アクディに貰った命をこんな所で失いたくない。
 それならばこのまま黙って知らない顔をしていた方がまだましかも知れない。あそこには『ユレフ』の名前は明記してあっても『ヲレン』という名前は書かれていない。
 ユレフに自分の正体がバレない限り、他の人間にもバレる事はない。
(最低だ、な……)
 結局、どれだけもっともらしくソウル・パペットを擁護する言葉を並べ立てたところで、自分が可愛いだけだ。自分の生活と命を最優先に考え、後のどうにもならない事は目を瞑って放棄する。自分でまいた種なのに、自分で刈り取る事すらしない。
 ユレフの事を残酷で冷酷だと思っていたが、やっている事は自分も変わらない。
 違いと言えば直接的か、間接的か。それだけだ。
(『最後』のゲーム、か……)
 本当に最後だ。こんな最低な事は最初で最後にしなければならない。
 ようやく湧いてきた『最後』という言葉に対する実感を、喉の奥に溜まった生暖かい唾液と共に嚥下し、ヲレンは書庫を後にした。

 午後六時十分。
 部屋から持ち出したどこにでもある封筒を手に、ヲレンは五階にあるプレイルームに向かっていた。
 予定表に書かれた事に従い、体が勝って動いていく。
 これからプレイルームにあるはずの箱をこの封筒に入れて、玄関ホールにある花瓶に入れなければならない。
(それにしても……)
 すでに四日が過ぎたが、この予定表に書かれている事の意味不明な内容が理解できない。
 初めて昼食を皆と一緒に取ったが、まだ誰も死んではいなかった。特にベルグとユレフは緊張感のない様子で、互いの肉の取り合いをしていた。
 すでに死を回避してしまったのか。それともまだ訪れていないのか。彼らの予定表を見ない限りは何とも言えない。
 だが少なくとも自分の死は明日に迫っている。
 大広間にあった暖炉。
 明日の午後四時二十五分に、ヲレンはあの中に飛び込む事になっている。あそこの暖炉は特殊な耐火シールドで覆われ、火が外に出る事はない。だから半永久的に火種を供給し続ける炎烈宝玉を入れて、夜でも燃え続けている。
 そんなところに飛び込めば間違いなく焼死だ。
 だからすでに予定表を修正するペンを使って手は打ってある。これで間違いなく死は回避できる。
(死にたくない、な……)
 四階から五階に続く階段を一段一段確かめるようにして上って行きながら、ヲレンは胸中でその言葉を呟いた。
 何としても生き残らなければならない。
 そうしなければ元の生活に戻る事も、アクディに会う事も、ユレフに謝る事も出来ない。
 それに最後まで生き残る事が出来れば、少なくともユレフとの勝負は引き分けという事になる。勝ったわけではないが、初めて負けなかった事になる。
 もしかしたらアクディも褒めてくれるかも知れない。
 ユレフも少しは自分の事を認めてくれるかも知れない。
 生き残る事が出来れば――
「……ん」
 階段を上りきって五階の長い廊下に出た時、誰かの声が聞こえた。それ程大きいわけではないが、耳の奥まで届く。独特の波長を持った透き通るような声だった。
 ヲレンが予定表に従って歩を進めると、声はだんだんと大きくなっていった。
 誰かがプレイルームの中で歌っている。女性の声だ。
 アーニー? 違う。彼女はそんな事をするようには命令にされていないはずだ。
 ではローアネットか? 外見からはあまり想像できないが、商売上そういう特技を身に付けていたとしても不思議ではない。
 ヲレンは扉の前に立ち、緩やかに湾曲した白い軟体金属の扉に触れた。そして扉の中央に開いたかと思った小さな穴は、波紋が広がるように大きくなり、ヲレンが通れるくらいになったところで固定化される。
「あ……」
 ヲレンの姿を歌声の主が見つけたのか、心を優しく包み込むような柔らかく温かい声はピタリと止んでしまった。
 ちょっとしたダンスホールほどの広さを誇るプレイルームには、部屋の一番奥にグランドピアノが置かれているだけで、他には何もない。フローリングの広大な床が、有り余るスペースを持てあましている。
 グランドピアノのすぐ隣り。
 忌々しそうにコチラを睨み付けているのは、ヲレンの予想をどちらも裏切った女性、ノア=リースリーフだった。
 今の彼女には、最初に見た時に感じた退廃的で大人びた印象は微塵もない。
 年相応の若い女性に見える。
「……何の用だ」
 ヲレンに聞こえるくらいにハッキリと舌打ちし、ノアは低い声で言った。
「スイマセン。お邪魔でしたね。ちょっとした用事がありまして。すぐに退散しますよ」
 ヲレンはノアの方に近付きながら、愛想笑いを浮かべる。どうやら目的の箱は、グランドピアノの中にあるらしい。
「……ふん。お前の予定って訳か」
 肩に掛かったくすんだ緑色の髪の毛を鬱陶しそうに手で振り払い、ノアは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
 ヲレンは何も答えないまま無言で歩く。予定表の内容は他人に喋ってはならない。それはこのゲームのルールだ。
(彼女もソウル・パペット、か……?)
 ノアを横目に見ながら、ヲレンはグランドピアノの真横まで来る。
 やはり、どこかユレフと同じ雰囲気を感じる。口では上手く説明できないが、内面から発せられる何かが似ている。
「……お前、死にたくないって顔してるな」
 ノアは胸ポケットから取り出したタバコを一本口にくわえ、左腕のリストバンドからライターを取り出して火を付けた。そして紫煙を吐き出しながら、挑発的な笑みを浮かべる。
「そりゃあ誰だって死にたくはありませんよ。いくら神に仕える身とは言え、私だって命は惜しい」
「そうじゃない。お前、誰かに追い掛けられてるだろ。ソイツに殺されたくなくて逃げ出したい、助かりたいって顔してるぞ」
 何だ、この女。まるでコチラの心を見透かしたように。
 ヲレンは表情を変えないように気を付けながら、グランドピアノの中を覗き見る。そして弦の間に挟まっている、拳大の小さな紙箱を取り出した。
「そんな物が挟まっていたのか。どうりで……」
 ノアはピアノの上に置いた灰皿でタバコの灰を落としながら、安堵の表情を見せて呟く。
「それでは私はこれで。どうも失礼しました」
「お前といいユレフってガキといい分かり易いな。似たもの同士か?」
 紙箱を封筒の中に入れ、帰ろうとしたヲレンの背中にノアの声が突き刺さった。ユレフの名前を出されて、自分でも分かるくらい顔の筋肉が引きつる。ノアに背中を向けていなければ、無様なくらい動揺の色を見せていただろう。
「……仰ってる意味が分かりませんが」
 後ろを向いたまま、ヲレンは小さい声で言う。
「どっちも臆病者って事だよ」
 嘲るような声が聞こえた。
 臆病者? 自分はともかくユレフが? どういう事だ?
 気になりはしたが、ヲレンはそれ以上何も言わずにプレイルームから出る。彼女と話していると、自分の恥部を無理矢理露呈させられているような嫌な気分に陥る。
昔、ユレフにも自分の考えている事をかなり言い当てられていたが、ノアはそれ以上だ。まだ会ってろくに話をした事もない相手に、ここまで的確に内面を読まれるのは初めてだ。
 これもソウル・パペットとしての能力なのだろうか。
 たださえ暗い気分が、更に暗くなった。

 †五日目 【大広間 16:20】†
 あと五分。
 あと五分でヲレンは今、目の前で激しく燃えさかっている暖炉に飛び込まなければならない。
 今、自分の周りに人は誰も居ない。他の人の助けは期待できない。
 しかし大丈夫だ。すでに対処してある。
 昨日の夜は殆ど眠れなかった。朝から何も喉を通らない。
 最初あれだけ気になっていたアクディやユレフの事は頭の隅に追いやられ、予定表に書かれた事以外考えられなくなった。

 『五日目16:25■暖炉の中に飛び込む■』
 
 わざわざ目立つように黒い四角で両側を挟んで書かれている。明らかに他の予定とは異質な雰囲気だ。
 あと二分。
 体の中からは心臓の鼓動がうるさいくらいに響いている。自分の荒い息づかいがやけに鮮明に聞こえ、口の中は乾ききっているのに何度も唾を飲み込もうとする。
 指先の震えが止まらなくなってきた。目の焦点が朧気になり、足下がおぼつかなくなってくる。
 あと一分。
 もう自分が今どこで何をしているのかすら曖昧になって来た。現実と虚構の区別が無くなり始め、耳の奥で不愉快な金属音が鳴り響いている。吐き気がピークに近くなって来た。
 あと十秒。九、八、七……。
 何度も心の中で大丈夫だと繰り返す。
 四、三、二……。
 駄目だ。もう何も考えられない。
 一……。
 体が動き始めた。
 自分の意志とは関係なく、激しく燃えさかる暖炉の前まで歩き、ヲレンは身を屈める。そして躊躇う事なく炎の中に身を投げ出した。
「――!」
 悲鳴すら声にならない。
 肌にまとわりつく暖気。それはすぐに灼熱の如き業火へと変貌し……。
「……は」
 いや違う。『暖かい』事は確かだが『熱く』はない。
 自分の周りを見ると、いつの間にか消えないはずの暖炉の炎は見事に消えていた。
「……は、はは……はははっ」
 極限まで高まった緊張感が一気に弛緩し、ヲレンは暖炉の中で乾いた笑みを浮かべた。
「ははははは!」
 回避した。無事死を回避できた。
 予定表に書かれている訳ではないのに、笑いが止まらない。あまりの喜びに心が壊れてしまったかのようだ。
「……自分、ンなトコで何しとんのや? ヤバいクスリでもヤッとるんか?」
 暖炉の外から呆れた声を掛けられた。
 異国的な訛りのある口調。
「い、いや。これは、ベルグさん……」
 鼻の頭に乗せた丸いレンズの眼鏡を少しずらし、ベルグは見てはいけない物を見てしまったかのような表情をコチラに向けていた。
「ちょ、ちょっと暖炉の中に大事な指輪を落としてしまいまして。それを、探していたんですよ、はい。ははは……」
「ふーん。指輪、ねぇ……」
 不審気な視線を向けてくるベルグに、作り笑いを浮かべながら即席の言い訳をして、ヲレンは急いで暖炉から出る。
 予定表の内容を喋ってはいけないというルールが有ろうと無かろうと、詳しい事は言いたくない。
「まぁ、趣味は人それぞれやし。自分のやりたい事やったらええ思うけど……。ココ集まった奴ら、けったいなんばっかしやなー、ホンマ。まだローアが一番まともに見えるで」
 猫目を平和そうに細めながら、ベルグは呆れたような口調で言った。
「そ、それでは、私はコレで」
 ヲレンは暖炉の中で体にこびり付いたススや埃を払い落としながら、足早に大広間の出入り口に駆け寄る。
「ちょい待ちーな。この暖炉の火ぃどーすんねん。自分、この何ちゃらって宝玉の点火方法知らんの?」
 逃げるようにして去ろうとするヲレンの背中に、ベルグは不満そうな声をぶつけてきた。
「い、いや。多分、アーニーさんに聞けば分かるんじゃないでしょうか」
「無責任なやっちゃなー。ソレできたら苦労せんわ。あのメイドちゃん、メシ呼びに来る時以外殆ど見ぃひんねん。メンド業舐めとるで、絶対」
「ま、まぁ忙しいんじゃないですか? アクディの手伝いをしているのかも知れませんし」
 自分の言葉でヲレンはようやく冷静になり始める。
 必要がない限り部屋から出歩かないせいもあるだろうが、確かにアーニーに会う回数は少ない。ベルグの言うとおり、ヲレン自身も食事に呼びに来る時以外見ていない。
(アクディの側に居ると考えるのが自然、か……)
 誤魔化し笑いを浮かべる顔の裏で、二人の事を考える。
 死を無事回避できて、心に余裕が戻り始めていた。
 ヲレンはまだ何か言いたそうなベルグを振り切り、大広間から出た。そしてポケットから『死の予定表』を取り出す。

 『五日目16:25■火の消えた暖炉の中に飛び込む■』

 予定表にはそう書かれていた。
 ヲレンが使ったのはペンだけだ。ペンだけで『火の消えた』という一文を書き加えた。だからまだ、文章を消すための石は残っている。
 コレで恐らく、他の四人よりは半歩ほど優位に立てたはずだ。
(よし……)
 もう一度気合いを入れ直し、ヲレンはアクディの居る部屋を探して洋館内を歩き回り始めた。

 †六日目 【玄関ホール前 13:50】†
 二階から上はすべて探し終えた。
 あとは一階部分だけだ。だがもし、ここにもアクディが居ないとすれば……。
(いや、居る……)
 この洋館に居る事は間違いない。三日目に書庫の窓の外で見た懐かしい姿。実に一年ぶりの再開。
 不定期的にこの洋館に招集される時以外は、ヲレンもユレフもこの洋館に入る事を許されていない。外界に出て、世の中を勉強してこいというのがアクディの意向だ。
 だからアクディの世話役として、常に彼の側にいる事の出来るアーニーを、たまに羨ましく思う。しかしそれは言ってもしょうがない事だ。
 アクディの命令はヲレンにとってほぼ絶対。
 逆らって嫌われるくらいなら、多少の不満があっても素直に従う。
 憎悪と愛情は相反する物のように見えて、表裏一体。
 ユレフと比べられ、自分に惨めな思いをさせるアクディを嫌いつつも、彼に捨てられたくないという想いは強く根付いている。
「……ん」
 また体が勝手に動き出した。
 予定の時間だ。

 『六日目14:00□ポケットに手を入れて裏口から保管庫に入る□』

 相変わらず訳の分からない指示。
 本当に意味がある事なのかどうかすらも分からない。だが逆らう事は出来ない。それはこのゲームのルール。
(どうせすぐに終わる、さ……)
 これが終わったらゆっくり一階を調べよう。
 今はもう、このゲームをやる意味を聞くためではなく、ただ純粋にアクディに会いたい。会って話をしたい。そして出来れば聞きたい。
 僕は貴方に必要とされていますか、と。
 ヲレンはコートのポケットに手を入れ、玄関ドアから続くレッドカーペットの上を歩く。そして二階に導こうとする幅広の階段の横を通り抜け、壁に付き当たったところで左に折れた。
 そのまま壁に沿い、頭上にせり出した中二階部に位置する屋内テラスの下を歩いて、ドンドン細くなっていく通路を進んで行く。
 めったに使わない保管庫。その裏口に繋がる通路なだけあって、ここを通る者は殆ど居ない。床には何も敷かれて居らず、無機質な硬質タイルを剥き出しにしていた。
 数分後、硬いブーツの底を鳴らしながら、ヲレンは裏口にたどり着く。飾り気のない材質不明の扉は、ヲレンを自動感知して音もなく真横にスライドした。
 中には乱雑に詰め込まれた様々な日用品や長期保存用の食材。床には埃が積もり、何かの衝撃で落ちてしまったのか、割れた瓶が方々に散乱していた。
(このゲームが終わったら掃除でもする、か……)
 ふと、そんな事を思いながら、ヲレンは保管庫内に入ろうと更に一歩を踏み出す。
「――!」
 直後、突然視界が急下降した。
 足が浮き、体が大きく前のめりになって地面に吸い込まれていく。
 何かに足を取られ、激しく滑ったのだと思った時には手遅れだった。
 ヲレンの体が落下していく先。そこには狙いすましたかのように、割れた瓶の鋭利な断面が牙を剥いている。
 だがポケットに手を入れているため、それを回避する手段は持ち合わせていない。
「な……」
 掠れた声。喉に感じる熱い塊。
 一瞬、何が起こったのか理解できない。
 視界に映るのは、ついさっきまで遙か下にあった汚い床、瓶の破片、そして少しずつ広がっていく真紅の液体。
(何だ、これ……)
 全身から力が吸い取られるように抜けていく。
 睡魔にも似た脱力感。絶望を伴う虚無感。だんだん瞼が重くなり、視界が茫漠とした物になっていく。
 薄い空気を求めるように口を何度か開閉した後、ヲレンは声を発する事すら出来ずに、意識を暗転させた。

 † † †  

 薄暗い空間。
 窓もない狭い室内に、数匹の光輝蝶だけが舞っている。その中央にある浮遊車椅子に、体をスッポリと包み込む大きめのローブを着た男性が座っていた。
 髪の毛は完全に白くなり、顔には深い皺が刻まれている。頬は痩け、唇は油を失って萎縮し、腫れぼったい目は閉ざされていた。
「アクディ様」
 その男に後ろから女性の声が掛かる。
「アーニー……」
 男はその呼び掛けに、しゃがれた声で答えた。
「ヲレン=ラーザック様が死亡いたしました」
 機械のように淡々と報告するアーニー。
 しかし男は何も返さない。重苦しい沈黙が室内に訪れる。
「アクディ様」
 アーニーはもう一度男の名前を呼んだ。
「後は……お前に任せる……」
 彼は疲れた声で言い終えると、口を閉ざす。
「承知いたしました」
 アーニーは深く頭を下げ、闇に溶け込むようにして部屋を後にした。





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