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未完の魂、死の予定表

Chapter 2

§ローアネット=シルフィード§

 一日目12:05□玄関ホールの花瓶にいけられている花をしばらく観賞する□
 二日目11:21□冷蔵庫のお酢をカプセルに詰め、治療箱に入れる□
 三日目10:05□冷蔵庫に入っていたキノコを粉末化して戻す□
 四日目16:54□書庫にて、窓際の真ん中の席に座って一時間本を読み続ける□
 五日目19:05□保管庫で食事を摂る□
 六日目11:03■胸にナイフを突き刺す■
 七日目12:28□黒い扉の部屋に入る□
 八日目10:22□プレイルームで片手でピアノを弾く□
 九日目18:55□大浴場に服を着たまま入る□
 十日目09:45□四階で五分間自由に歩いた後、最も近い部屋に入る□

 †一日目 【キッチン 09:26】†
 始まってしまった。自分の命を賭けた『死のゲーム』が。
 すでに覚悟は出来ていたはずだった。だが実際に始まってみると、あっけなく揺らぎ始めた。我ながら滑稽に思えてくる。
 決意が鈍り、気を抜くと死の恐怖に押しつぶされそうになる。まだ午前中だというのに、お酒でも飲んでいないと不安でふさぎ込んでしまいそうだ。
「あらあら、結構色々揃ってるのねー」
 少しでも気を紛らせるために、わざと明るい声で独り言を言いながら、ローアネットは冷蔵庫の中身を物色する。
 思わず見上げてしまう程の高さもある冷蔵庫内には、凝った意匠の瓶が雑多に押し込められていた。ローアネットはその中から、底が扁平で上に螺旋状の管が取り付けられている瓶を取り出す。そして直接口を付けて一口胃に流し込んだ。度数の高いアルコールが熱を伴って体内に入り込み、すぐに心地よい酩酊をもたらしてくれる。
(頑張らないと……アタシが頑張らないと……)
 部屋に置いてきた『死の予定表』の内容を思い返しながら、ローアネットは自分に言い聞かせるように何度も胸中で呟いた。
 目を背けてはいけないと分かっていながらも、アレを肌身離さず持ち歩く気にはなれない。持っているだけで死と接している気がする。
 六日目の予定に書かれていた『胸にナイフを突き刺す』という内容。
 恐らくアレを書き換えれば取りあえずの死は免れるのだろう。だが、死のキッカケがこの予定表だけとは限らない。
 実はこの『死の予定表』はダミーで、全く関係のないところから死が迫ってくるかも知れないのだ。
(例えば……)
 今飲んでいるお酒が毒入りであるとか。
「――!」
 そこまで考えて、ローアネットは酒瓶から口を離した。急に気分が悪くなり、銀製のシンクに手を付いて飲んだ物を全て吐き出してしまう。
「く……」
 荒くなった呼吸を整えながら、ローアネットは大きく深呼吸をした。
 それはない。そんなはずはない。
 単純に招待客を殺したいだけならもっとストレートな方法があるはずだ。
 アクディは楽しんでいる。だからこの狂行を『ゲーム』と称した。きっとどこかで自分達が苦しみ悩んでいる姿を見て、ほくそ笑んでいるんだ。
 ソウル・パペットという人造人間を創りだし、怪しい研究に没頭しているような奴だ。そのくらいの事はしても何の不思議もない。
 だから簡単には殺さない。回りくどい方法でじわじわと嬲りながら殺す。
(けど、そんな奴が生み出した治療法に頼らないといけないなんてね)
 自分がこの洋館に来た理由を思い返し、ローアネットは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 ローアネットにどうしても大金が必要だった。
 『コールド・エッジ』と呼ばれる致死性の病に冒された、たった一人肉親である弟を救うために。
 治療法はあるにはある。だが成功確率は非常に低い。しかもその治療法は現代魔術医療に沿った物ではなく、オカルト的な要素を多分に孕んでいる。
 言ってみれば、今アクディが行っているソウル・パペットの研究の前身とも言える内容だ。そして治療に必要な多額の費用と相まって、世間での浸透率は非常に低い。
 だが、それでもローアネットはそれにすがるしかなかった。
「ふん」
 小さく鼻を鳴らし、ローアネットは再びアルコールを喉に流し込む。
 もうさっきまでのような不愉快なモノはない。少し酔いが回ってきたせいか、大分腹が据わった。
(生き残ってやる……! 絶対に!)
 もう一度固く誓い、ローアネットが冷蔵庫の中から星形の果物を取り出した時、後ろに誰かの気配が生まれる。
 ローアネットはお酒の瓶を背中に隠し、慌てて振り返ると、二メートル近い大男がコチラを見下ろしていた。
 形の良い頭は綺麗なスキンヘッドで、着ているベージュのロングコートは、下から盛り上がった分厚い筋肉のせいで一段と大きく見える。しかしその厳つい体躯とは裏腹に、まるで小動物を思わせる優しい瞳と、子供のような柔らかい笑みを浮かべていた。
「あ、あら、ヲレンさん。変なトコ見られちゃったわね」
 ローアネットは髪を掻き上げながら、誤魔化し笑いをしてヲレン=ラーザックを見上げた。まさかこんな不細工なところを見られるとは思っていなかった。お酒のせいで少し顔が紅くなっているかも知れない。
「貴方も朝ごはん食べ足りなかったのかしら?」
 ローアネットは自分の事を言及される前に、ヲレンに話を振る。
「まぁ、そんなところですよ」
 ヲレンは少し眉を上げ、曖昧な答えを返しながら自分の前を通り過ぎた。そしてさっき自分がしたように冷蔵庫に手を当てて扉を消し、中を見始める。どうやら探し物をしているようだが、大きな背中が壁のように立ちふさがっているため、何をやっているかまでは見えない。
「ねぇ、ヲレンさん……。貴方はどうしてココに来たの?」
 どうしても聞いてみたい衝動に駆られ、ローアネットはヲレンがこの死のゲームに参加した理由を尋ねた。
「どういう、意味ですか?」
「貴方がココに来た理由。命を張ってまでお金が欲しいの?」
 最初の言い方では伝わらなかったらしいが、言い直したローアネットの言葉に、ヲレンは得心したような顔になってコチラに体を向けた。
「教会からの命令なんですよ。生を冒涜する狂医術師、アクディ=エレ=ドートを捕まえて大司教様の前に引きずり出さないといけないんです」
「貴方、教会の人? なんかイメージと違うわ。もっとヒョロっとした人達ばっかりだと思ってた」
 ローアネットは少し間の抜けたような声を上げて目を丸くした。
 教会は世界で唯一にして最大の宗教機関だ。生の美徳、死の安寧、魂の輪廻を説き、国家規模での支援を受けているところもある。そういう地域では政治への干渉力も強く、信者の数も多い。
 アクディの行っているソウル・パペットの研究は、まさに教会の教えに反する物。関係者が動き出したとしても不思議ではない。
「それは偏見というものですよ」
 ヲレンは肩をすくめて苦笑しながら言った。
「じゃあエライ人の命令で死ぬかも知れないゲームに参加させられてるの? 『生を冒涜する』とか言っといて自分は高みの見物って訳?」
「まぁ大司教様にはお世話になっていますからね。せめてもの恩返しですよ」
 事も無げに言うヲレンにローアネットは眉を顰めて、冷たい銀色の直方体をしたクッキングスペースに体を預ける。
(いくら恩返しだからって……)
 ヲレンにとっての大司教という人物は、自分にとっての弟のように大切な存在なのだろうか。
 ローアネットは片手に持った星形の果物を、歯先で小さく噛み切って口に入れながら、踵を床に打ち付けた。
「お役所仕事も大変ねぇ。アタシだったらそんな命令されたら絶対に辞めてるわ」
 弟の事を考えながら、ローアネットは溜息混じりに細く息を吐く。
「それじゃあ貴女はどうしてココに来たんですか?」
「アタシ?」
 急に自分の方に話をふられ、ローアネットは天井に目を向ける。そこには宝石で外側を覆われた照明が吊されていてた。
 昨日から色々と見て回っているが、この洋館にある物は全てが高級品だ。
 アクディがまだ天才医術師として名を馳せていた頃に築き上げた、莫大な資産に物を言わせているのだろう。
 アーニーの説明では、このゲームの勝者には大金が送られると言っていた。それも即金で。この洋館の内装を見れば、その言葉に偽りがない事がよく分かる。
 だからどうしても生き残らなければならない。弟のために。
「……アタシは、お金が欲しいのよ。どうしてもね」
「そう、ですか」
 無意識に低くなってしまった声のトーンに、ヲレンは少し驚いたように目を大きくした。
「ま、お互い頑張りましょ。あの予定表見た感じじゃこのゲームに勝つのって結構簡単っぽいからね」
 今度は意識して明るい声を出し、ローアネットは脳天気に笑いながら手を振る。
(簡単……そう、簡単な事よ。たった十日でしょ? 今まで生きてきた三十年に比べたら一瞬よ、一瞬。すぐに終わるわ。その間だけ、いつもよりちょっと気を付けてればいいのよ)
 ローアネットは自分にそう言い聞かせながら、キッチンを後にした。

 十二時になる少し前、アーニーが昼食の準備が出来たと言って部屋に来てくれた。
 だが今は要らないと断った。
 全く食欲がなかったからだ。
 部屋に持ち帰ったお酒を飲み過ぎたというのもある。だがそれ以上に、これから起こるであろう怪奇現象の事を考えると、何か別の事をしようという気にはなれなかった。
(き、た……)
 十二時五分。
 ベッドの上で膝を抱きかかえていたはずの腕が、自分の意思とは無関係に解かれる。左足が床に下ろされ、続いて右足も。そして体は自然な動きで扉の前まで歩いていく。
 右手が勝手に持ち上がり、ドアノブに手を掛けて扉を開けた。そのまま廊下に出て、ローアネットはレッドカーペットの上を進んでいく。
(気持ち、悪い……)
 まるで全身麻酔を打たれた後、見えない誰かに手足を動かされているような不快感に、ローアネットは頭痛と吐き気を覚えた。

『その契約が成立した瞬間から、予定表に書かれている事には絶対服従となり、皆様の意思とは関係なく内容通りの事を実行してしまうようになります』

 昨日アーニーから言われた事を思い出す。
 正直、半信半疑だった。
 誰かを操る類の黒魔術で『マリオネット』というのがある。しかしそれを行使するには術者がかなり近くにいなければならない。それも対象が眠っているか気絶しているか、あるいは死んでいるか。どちらにしろ抵抗意識のない者に限定される。
 だが、今ローアネットは抵抗していないわけでも、誰かが側に居るわけでもない。
 にもかかわらず、体は完全に自分の支配から離れて動いている。だが他人から見れば普通に歩いているとしか思わないだろう。それほどこの『契約』がもたらす束縛は、普段のローアネットの動きを忠実に再現していた。
 階段を下りて一階へ。そして玄関ホールのほぼ中央に置かれている、巨大な花瓶の前で足を止める。
 予定表通りの事を実行するのであれば、ローアネットはこの花瓶にいけられている花をしばらく観賞する事になる。
 金の装飾が為された木製の台。その上に置かれているのは、円錐を逆さにしたフォルムのクリスタル製の花瓶。微小な一点で胴体を支えているにもかかわらず、傾く事も揺れる事もなく、八分くらいまで満たされた蒼色の水をたたえている。
 その花瓶には茎に直接花弁のついた花が何本もいけられており、時間と共に花の透明度を変えていた。
「おおー、ようやく二人目発見でござる!」
 花をじっと見ているローアネットの横手から、子供特有の高い声が飛んでくる。
「ココは無駄に広いからなかなか見つからないでござるよ。まったく」
 視界の隅に声の主を映し出すと、子供用のスーツに蝶ネクタイをしたブロンドの少年が立っていた。
 確かユレフという名前だったか。この『死のゲーム』への参加者の中で、間違いなく最年少の男の子だ。
「この花、そんなに珍しいでござるか?」
 ユレフは花とローアネットの顔を見比べながら、可愛らしく小首を傾げた。
「まぁ、ね……」
 花から目を離す事なく、ローアネットは曖昧に返す。
(声は出るみたいね……)
 自分の声を聞いて少し安堵しながら、ローアネットはゲームのルールを思い出した。
 予定表の内容を誰かに喋ってはならない。もし発覚した場合は失格となり、死がもたらされる。
(犬死にだけはごめんだわ……)
 体の動きが止まった事で、少しだけ精神的余裕が出始めた。それに『花を鑑賞する』という行為は止められないが、手足を動かす事は出来るようだ。
「この花は『ルナティック・ムーン』という亜熱帯地方に咲く花で、酸度の高い水を栄養源にするでござるよ。花びらの透明度は茎から抜き取った時点で固定化されて、透明であればあるほど価値が高いでござる。魔術の触媒や、薬草の材料、部屋のインテリアにも使われるでござるよ。花言葉は『人間らしい人間』。コレをプレゼントとして渡す時は、『仲直りがしたい』という意味が込められているでござる」
 淀みなく喋るユレフに、ローアネットは感心したように眉を上げて見せた。
「良く知ってるわね、ボーヤ。どこで習ったの?」
「本で読んだでござる」
 言いながらユレフは、小さな胸を自慢げに張る。
 天才少年、というやつなのだろうか。
 まぁこんな狂ったゲームに参加するくらいだ。常人ではないのだろう。それでも普段なら説得して、こんなゲーム止めさせているところだが、残念ながらそこまでの余裕はない。今は自分の事だけで精一杯だ。
 それに彼自身も覚悟が出来たからこそ、このゲームに参加しているのだろう。
「ところでローアネット殿。貴女に聞きたい事があるでござるよ」
「何かしら」
「アクディ様をどう思うでござるか?」
 あまりに唐突な質問に、ローアネットは眉間に皺を寄せた。
「この洋館の主、よね……。まだ出て来ないみたいだけど。彼がどうかしたの?」
「質問しているのは小生の方でござる」
 ローアネットの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ユレフは早口で言い放つ。
 表情は全く変わっていない。花の説明をしていた時と同じように、無邪気な笑みを浮かべている。
 しかし――明らかに雰囲気が違っていた。
 反論を許さない圧迫感。猛獣に睨まれたかのような重圧感。
 嘘を言ってもすぐに見破られる。なぜかローアネットにはそう思えた。
「アクディ、ね……。そうね……あまり良い印象はないわ。招待して貰ってるのに何だけど」
 幸か不幸か、自分は今この『ルナティック・ムーン』という花から目を離す事が出来ない。だからユレフと目を合わせる事も出来ない。
 もし目を見て話しをしていたら、もっと別の事を口走っていたかも知れない。
「どうしてでござるか」
「世間一般で思われてるのと同じ事を思ってる、って言ったら分かるかしら?」
「分かるでござる」
 短く言ってユレフは言葉を区切った。
「ローアネット殿はこのゲームに勝ちたいでござるか?」
「そりゃあ、ね……。まだやり残した事が沢山あるわ」
「小生も勝ちたいでござる」
 そしてまた、ユレフは言葉を切る。
 しばらく沈黙が続いた後、ユレフはローアネットの前に回りこんで口を開いた。
「もし小生がここでローアネット殿を殺せば、競争相手が一人減るでござる」
 冷たい光を双眸に宿し、ユレフは酷薄に言う。
「それ、本気で言ってるの……?」
「勿論でござる」
 まるで絶対的な後ろ盾に護られているかのような、自信に満ち満ちた口調。
 本気だ。根拠は無いが間違いないと言い切れる。
 子供のような外見をしてるが中身は悪魔だ。アクディの信者なだけあって、この少年も狂っている。
「もしそんな事したら、アタシは絶対にボーヤを道連れにしてやるわ。どんな事をしてもね」
 しかしローアネットは臆する事なく、強く言いきった。
 自分はこんな所で死ぬわけにはいかない。弟の病気を治すという使命がある。そのためには何としても生き残り、治療費を手に入れて戻らなければならない。
 ――絶対に。
「冗談でござるよ。いくら何でもそんな不細工な事はしないでござる」
 ユレフはローアネットの横手に回ると、声に笑いを混ぜながら言った。
「ではではー。また会おうでござるー」
 そして軽い足音を立てながら、玄関ホールから姿を消す。
「……っく」
 上に向けていた首を下ろし、ローアネットは苦しそうに息を吐いた。
 予定表の拘束力はすでに無くなっていた。だが、下を向く事は出来なかった。ユレフと目を合わせる事は出来なかった。
 彼の目を見た瞬間、弱い自分をさらけ出してしまいそうで。
 一気に弛緩した空気の中、ローアネットは深く息を吸い込んで呼吸を整える。まるで限界を遙かに超えて水の中に潜っていた気分だ。冷たい汗が思い出したかのように噴き出してくる。
(アタシの方は、もう二度と会いたくないわね……)
 胸中で苦々しく呟きながら、ローアネットは花瓶の前を離れた。

 †二日目 【キッチン 11:25】†
 昨日はあれから何事もなく終わった。
 夕食まで自室に閉じこもり、誰にも会わずにヒーリングライトを浴びていた。しかし、ユレフから植え付けられた得体の知れない恐怖が癒える事はなかった。
 体力を落とさないために夕食はちゃんと摂った。それも大広間で。あのまま引き籠もっていたら気が触れてしまいそうだったので。
 そこで再会したユレフは驚くほど子供っぽかった。食事の邪魔をされていちいちリアクションするベルグをからかいながら、楽しそうに笑っていた。数時間前に見せたあの冷たい雰囲気は微塵も感じなかった。
 ノアとヲレンは来ていなかった。二人とも自室での食事を希望したと、アーニーに言われた。
 一夜明け、目覚めと共に自室で熱いシャワーを浴び、少し読書をした後ローアネットは予定表に従ってキッチンに来ていた。勝手に動いてしまう体も、さすがに二回目となると少しは違和感も和らいだ。
(あと九日……)
 これほど一日が長かったのは久しぶりだ。
 お金を稼ぐため、今の仕事に就いた最初の日に匹敵する長さだった。
(あと九日で……)
 胸中で同じ言葉を繰り返しながら、ローアネットは予定表の内容に従って、冷蔵庫から『お酢』と書かれた瓶を取り出す。そして真後ろにある、五段に重ねられた白銀製の引き出しの一番下を開けた。
 中にはいくつものアンプルに包帯、注射器などが揃えられていた。そして奥の方に片手で持てるくらいの小箱が置かれている。箱に触れると真ん中から二つに分かれ、中から無数の小棚が立体的にせり出してきた。
(何も起こりませんように……)
 いつどんな形で死の瞬間が襲って来るのか分からない。
 ローアネットは気を緩めれば呑み込まれそうになる恐怖と戦いながら、小棚の一つから無色透明のカプセルを取り出した。ソレを二つに割って中の粉末を捨て、さっき冷蔵庫から持って来た『お酢』を代わりに注ぐ。カプセルは液体に触れても溶ける事なく、まるで吸い付くようにして元の形へと再生した。
 ソレを治療箱に戻し、引き出しの奥にしまい終えたところでローアネットは体の自由を取り戻した。
「っはぁ……」
 安堵とも落胆ともつかない溜息をローアネットは漏らす。
 何も起こらなかった。無事、予定をこなす事が出来た。
 今やった事にどんな意味があるのかは分からない。しかしそんな事はどうでもいい。単なるゲームの一環に過ぎないと笑い飛ばして、気にしなければそれでいい。
 気にしなければ……。
 ――だが、なかなか簡単に割り切れる物ではない。
 気にしないでおこうと思えば思うほど、この予定への意味を求める気持ちは強くなる。アクディへの猜疑心と共に。
(戻ろう……)
 部屋に戻ってヒーリングライトでも浴びながら本を読もう。別の事をしていれば少しは気が紛れる。
 そう思って立ち上がり、ローアネットはキッチンから大広間に続く扉をくぐった。
「お、なんや。先客がおったんかい」
 俯きながら歩いていたローアネットに、異国訛りのある特徴的な声が掛けられる。
「ベルグ、さん……」
 顔を上げると、縦長のテーブルに腰掛けてくつろぐ猫目の男、ベルグ=シードがコチラを見ていた。
「なんや。自分も昼飯待ちきれんよーになったんか?」
 ケラケラと陽気に笑いながら、ベルグはリラックスしきった表情で言ってくる。
 壁に掛けられた木製の大きな振り子時計を見ると、もうすぐ十二時になろうかというところだった。
「ここのメシは美味いからなー。あーもー、思い出しただけでよだれ出てくるわ。そない思わへんか?」
 座っている椅子を前後逆にし、背もたれに体重を預けてベルグは人なつっこい笑みを浮かべる。
「ま、まぁ、確かにね。美味しいわ」
 正直、味など全く覚えていなかったが、ローアネットは平静を取り繕い、崩れかけている内面を晒さないように気丈に返した。
「はよけーへんかなー、あのメイドちゃん。さっきから腹の虫が『メシくれメシくれ』てうるさいんやけど」
 鼻の頭に乗せた眼鏡の位置を直しながら、ベルグは足を落ちつきなく揺すってアーニーが来るのを待ち遠しそうにしている。
(変な人ね)
 ローアネットは小さく笑いながら、ベルグの隣りに腰掛けた。
 いつの間にか肩に入っていた力が抜けている。全身にのし掛かっていた不愉快な重圧感も消えていた。
「おー、間近で見るとやっぱ色っぽいなー、ネーチャン。メイドちゃんみたいな影のある女もええけど、自分みたいにお色気ムンムンの女の方が俺の好みやわ」
「ローアネットよ。ローアネット=シルフィード」
 ウェイブ掛かった薄紅色の髪の毛を妖艶な仕草で梳きながら、ローアネットは微笑する。
 今までローアネットが相手にしてきた男が言えば下品で愚劣な言葉も、ベルグが言うとなぜか爽やかに聞こえる。この洋館自体が放つ重苦しい空気も、ベルグの周りだけには漂っていないように見えた。
「名前も色っぽいなー。ローアって呼んでええか? 俺の事もベルグでええから」
「いいわ、ベルグ」
「おおー、そーやって名前呼んで貰うと、ズキューン! ってくんなー。ええ感じや」
 不思議だった。
 ベルグの明るい声を聞いていると、本当に体が軽くなった気かする。なんだかさっきまで真剣に悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
 そして本当に不思議だった。どうしてこんな人がココにいるのか。
「ベルグ、貴方はどうしてココに来たの? お金?」
 ベルグはヲレンのように誰かからの命令を聞くようにも、ユレフのように狂っているようにも、ノアのように暗い過去を持っているようにも見えない。
 ならばどうしてこの『死のゲーム』に参加したのだろう。まさか遊び金を手っ取り早く稼ぐため、とでも言うつもりなのだろうか。
「俺か? 俺はな、もういつ死んでもおかしないねん。せやから最後におもろい事しよかー思ーてココ来たんや。どや、カッコエエやろ」
 目に掛かった藍色の髪の毛をキザっぽく掻き上げながら、ベルグは自慢げに言った。
「いつ死んでも……? どういう事?」
 意味が分からずにローアネットは聞き返す。
 暗殺者に狙われていて、ココに隠れ家を求めて来たとでも言うつもりだろうか。
「コールド・エッジって病気あるやろ。なんか魂抜けて行くとか言う、訳の分からん病気や。俺な、それやねん。三年前くらいに背中に痣あんの見つけてな、一応医者行ったんやけど、治すのにどえらい金額ふっかけられるわ、胡散臭い治療法説明されるわで、何かメンドなってな。別に死んでもええわ思ーてほっといたんやけど、なかなか死なんからココ来たんや。どや、いさぎええやろ」
 底抜けに明るく話し終えて、ベルグはケラケラと笑った。
(コールド・エッジ……)
 その言葉でローアネットの胸が、焼けた杭を打ち込まれたような灼熱を伴う苦痛に押しつぶされる。
 コールド・エッジ――それは無痛性の死の病。潜伏期間は不明であるが、約二年と言われている。この病気に掛かると背中に青白いひし形の痣生まれ、発症すると例外なく死亡。痛みを感じる事なく、全身が麻痺するようにして死んでいく。
 この病気が発見されてから二十年以上も経っているというのに、現代魔術医療ではその原因は未だ特定できておらず、一部のオカルト集団で仮説が唱えられているのみ。
 その仮説とは、体から魂が抜けていくというもの。
 そしてコールド・エッジを治療する方法はただ一つ。
 アクディの開発した『人工ソウル』と呼ばれる物を、発症する前に体に埋め込み、魂の抜け穴である青白いひし形の痣に蓋をしてしまうという方法。
 だが方法自体が非医学的で、その手法を適応するのに掛かる費用は法外な額となる。
 だからコールド・エッジに掛かってしまった患者は、ベルグのように最初から諦めてしまう者も少なくない。
 しかし――
「それしては……やけに明るいのね」
 ベルグほど明るい患者も珍しい。
 アクディのオカルト的な解釈を適応するなら、コールド・エッジに掛かった者は発症前であっても少しずつ魂が抜けていく。だから、だんだんと無気力になっていく。
(アタシの弟みたいに……)
 ローアネットの弟は、コールド・エッジに掛かってもうすぐ二年だ。病気の進行度合いとしては殆ど末期。だからコチラが何を話しかけても上の空で、目の焦点もあっていない。最近では実の姉であるローアネットの存在自体、認識していないのではないかと思える時もある。
 しかしベルグはすでに三年経っていると言っていた。
 なのにどうして……。
「ま、俺にも色々事情っちゅーもんがあるからな。こんなモンは気の持ちようや」
「……羨ましいわ」
 自然と、その言葉が口をついて出た。
 弟もベルグのように明るく暮らす事が出来れば。開き直って日常を過ごす事が出来れば。そして自分もベルグのようにこの洋館で笑う事が出来れば、どれだけ気が楽だろう。
(アタシには無理、かな……)
 笑う事は出来る。だがソレは本当の笑顔ではない。
 強がる事は出来る。だがソレは本当の強さではない。
 ただ今の状況に押しつぶされないように、ひたすら自分を偽って、なけなしの勇気を絞っているだけ。
 この洋館での生活については勿論の事、弟の病気の治療費を稼ぐ為に躰を売る商売をしなければならない事についても。
「なんやなんや、そんな暗い顔しなや。せっかくの美人が台無――」
「ベルグ=シード様、ローアネット=シルフィード様。昼食の準備が整いました」
 いつの間に来ていたのか、アーニーがベルグの言葉を遮って後ろから声を掛けた。
 振り返り見ると湯気の立つ沢山の料理が、銀の台車に乗せられて運ばれて来ている。
 エッセルキノコの塩菜炒め。海若葉のロートスガーリック・ソテー。鮫喰い鳥の丸焼き。チェルソーフラワーのオニオンミックス・スープ。
 どれも高級食材をふんだんに使った料理ばかりだ。香ばしい匂いが湯気に乗って鼻腔をくすぐる。 
「おおー! 待ってましたメイドちゃーん! 俺もう腹ぺこやー!」
 ベルグは文字通り椅子から飛び上がると、目の色を変えてアーニーに飛びついた。
「どうぞ先に召し上がってらして下さい。私は他の方をお呼びして参りますので」
 アーニーはベルグの突進を軽くかわすと、料理の皿を淡々と並べながらローアネットに言う。
「……あ、ありがとう」
 床に敷かれたレッドカーペットと熱烈なキスを交わすベルグに視線を落としながら、ローアネットは溜息混じりにナイフとフォークを手に取った。

 †三日目 【一階廊下 10:30】†
 予定表の内容に従って冷蔵庫に入っていたキノコを粉末化した後、ローアネットはベルグを探して洋館内を歩き回っていた。
 キノコは乾燥しきって固くなっており、手で押し潰すだけで簡単に粉になった。アーニーが料理にでも使うために仕入れて来たのだろうか。赤地に黒い斑点という、かなり気持ち悪い色をしていた。
 しかしあれ程目立つ物があればすぐに気付く。確か昨日までは無かったはずだが。
(ま、出されたとしても、あんまり食べたくないわね……)
 もっとも、自分が粉末にしてしまったため、料理の中に混ぜられていたとしても分からないのだが。
「あ……」
 中庭に目を向けた時、ベルグが木陰で休んでいるのが見えた。何をするでもなくただ視線を宙に投げだし、眠そうにあくびをしている。
 ローアネットは一階廊下の突き当たりまで歩き、裏口を開けて中庭に出た。そして横手からベルグに近寄り話し掛ける。
「探したわ、ベルグ。ちょっとお話、いいかしら?」
「へ?」
 ローアネットの声に、ベルグは首だけを動かしてコチラを向いた。
「昨日のお昼にした話しの続き、してもいい?」
「昨日の昼っちゅーたら……ぁあ、コールド・エッジの事か?」
「そうよ」
 ローアネットはベルグの隣りに腰を下ろし、太い木の幹に背中を預ける。
 昨日の昼食時、ベルグと二人だけならその時に聞こうと思っていた。しかしすぐにユレフが大広間にやって来た。子供の前でする話ではないし、なにより彼には聞かれたくない。
 ユレフがあまり好きではないという事もあるが、ベルグと二人きりの時にゆっくり話したかった。
 昼食後もベルグはすぐにどこかへ行ってしまい、夕食にも姿を見せなかった。だから今日の今まで彼を捕まえる事が出来なかった。
「言いたくなかったら遠慮なくそう言って。ひょっとしたら貴方を傷付ける事になるかも知れないから。別に無理に聞き出そうなんて思ってないわ」
「なんやなんや、エライもったいぶった言い方やな。別に何でも話したるでー。どーせもーすぐ死ぬしな」
 明るく笑いながらベルグは言う。とても死を間近に控えた人間の言葉とは思えない。
「それはコールド・エッジで? それともこのゲームで?」
「どっちでもええ。ま、出来たら痛ない方がええけどな」
 相変わらずベルグに悲壮感は見えない。『死ぬ』という事を、まるで買い物にでも行く事のように日常的な物として受け入れている。
「……ねぇ、どうしてそんなに笑っていられるの?」
 ローアネットにはそこが理解出来なかった。
 死ぬ事が分かっているから今を精一杯楽しんで明るく生きたい。それは辛うじて理解できる。しかしベルグはコールド・エッジに冒されている。魂が抜けていけば、生きる気力も失われていく。自分の弟のように。
 にもかかわらず、どうしてこんなにも笑っていられるのか。そこが理解できない。
「笑ってな失礼やからな」
 零れるように口から出たベルグの言葉。
「失、礼……?」
 意味が分からずローアネットは聞き返した。 
「俺なー、昔ごっつ美人の婚約者がおったんや。キザったらしい言葉でゆーたら、『野に咲く可憐な一輪の花』って感じやった。ホンマ……俺なんかには勿体ない、ええ女やった」
 猫目を薄く開き、ベルグは左手の人差し指にはめた指輪を見せながら続ける。恐らく婚約指輪なのだろう。
「けどな、死んでもーたんや。俺と同じコールド・エッジでな。それが四年くらい前や。潜伏期間は二年言われとったけど、アイツの場合はたった一ヶ月やった。治療費何とかする暇もなかったわ」
 心地よい風に乗って耳に届く、サウンド・フラワーからの小さな音色。普段なら涼やかで綺麗な歌声も、今はどこか悲しげに聞こえる。
「けどな、アイツは絶対に悲しそうな顔はせーへんかった。周りに心配かけんよーに、いっつもニコニコしとったんや。多分、辛かった思うで。相当無理しとるんが見え見えやった」
 分かる。胸が痛い程に。
 自分の弟もコールド・エッジに掛かったとたん、どんどん元気が無くなって行った。ベルグの婚約者はその辛さに耐えるだけではなく、さらに明るく振る舞っていた。精神的な負担は計り知れない。
「アイツが死んで殆どすぐやなー。俺もコールド・エッジに掛かったんは。正直嬉しかったなー、あん時は」
「嬉、しい?」
 信じられない言葉に、ローアネットは声を高くした。
「そうや。これでアイツのトコ行ける思ーたら嬉しかったわ。しかも同じ病気でな。ま、周りに言われて医者には行ったけど、別に治そーとも思わんかった。アイツが受けとった苦しみ、俺もたっぷり味ってあの世に行けるんや。これ程めでたい事はないやろ。せやから俺は暗い顔なんかせーへんねん。絶対にな。俺だけ苦しい時に苦しい顔してたらアイツに失礼やろ? あんなに頑張っとったアイツに」
 ローアネットはすぐに掛けるべき言葉が見つからなかった。
 まさか脳天気な顔の裏側で、そんな深い事を考えていたなんて思いもしなかった。
 ベルグは強い。自分などとは比べ物にならないくらいに。
 婚約者と同じ苦しみを味わうために笑い続ける。日に日に無気力になっていく自分を奮い立たせ、明るい顔のまま死を迎えようとしている。
「けどま、すぐ逝ける思ーとったけど、これがなかなか上手い事行かんもんでなー。三年経ってんのにまだ死なん。さすがの俺も最近ちょっとしんどなって来てなー。せめて笑ってるウチに死にたいからココ来たんや。最後の最後におもろい事体験して、みやげ話作っとこか思ーてな」
 言い終えてベルグはまたケラケラと陽気に笑った。こうしている間も、ベルグは自分と戦い続けているのだろう。コールド・エッジに呑み込まれないように。
「話はこれでしまいや。どや、満足したか?」
「……ええ。どうも有り難う」
 今のローアネットには消え去りそうなほどの掠れた声で、そう言うしかなかった。
「そら良かった。ほんならコッチこそ出来ればーでええんやけどな。ローアがなんでココ来たんか教えてもろーてええか? 昨日、エライ思い詰めた顔しとったから、ちょっと気になっとったんや」
「アタシ、は……」
 話さなくてはならないだろう。相手の事だけ聞いて自分は何も喋らないというのは、さすがに気が引ける。
「弟が居てね……。貴方と同じ病気なの」
 ローアネットは呟くような口調で喋り始めた。
 幼い頃に両親を亡くし、唯一の肉親となってしまった弟がコールド・エッジに掛かっている事。すでに二年が経っている事。そしてその治療費を稼ぐため、自分の躰を売る商売をしている事。
「だからね……アタシは絶対にこのゲームで生き残って、弟を治せるだけのお金が欲しいの」
 ローアネットが全てを話し終えた直後、ベルグは突然体をコチラに向け、額を地面にこすりつけて頭を下げた。
「スマン! 我ながら無神経な事聞いてしもーた! 悪気があったわけやないねん! 俺アホやから細かいトコまで気ぃ回らんねん! 勘弁してくれ!」
 そして土下座の体勢のまま、ベルグは一方的に謝罪の言葉を述べる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。別にそんな……。元はと言えばアタシの方から聞いたんだし、貴方が謝る事なんてないわ」
 突然の事にローアネットは戸惑いながら、ベルグに顔を上げるように言った。
「いいや! 俺が悪かった! こういう事はキッチリケジメ付けとかなあかん! 逃げも隠れも開き直りもせえへんから、煮るなり焼くなり揚げるなり好きなようにしてくれ!」
 しかしベルグは頭を下げたままソレに応じない。
(まったく……ホントに変な人ね)
 微笑混じりの溜息をつきながら、ローアネットはベルグの頭に手を乗せる。
「はいはい。それじゃもう気にしてないからこの頭を上げて。そうしたら許してあげる」
「へ? そんな事でええんか? 例えば予定表書き換えるペンと石よこせとかでもええんやで? どーせ俺はいらんし」
 間の抜けた声で言いながら、ベルグはようやく顔を上げた。
「いいわよ、そんなの。ソレはちゃんと貴方が使いなさい。それでこのゲームに勝って長生きして、もっと沢山みやげ話を作りなさいよ」
「けど、なぁ……」
 言い淀むベルグに、ローアネットは少し怒った顔になる。
「簡単に死ぬなんて言わないの。貴方が辛いのは、分かってるけど……」
 生きて欲しい。きっとベルグの婚約者も、彼が死ぬ事など望んではいないはずだ。最後まで生き残ってお金を貰って、弟と一緒にコールド・エッジの治療を受けて欲しい。
「まぁ、気が向いたらな」
「アタシが向かせてあげるわ」
 彼のように素敵な人には、死んで欲しくない。
「貴方が三年経っても生きていられるのは、貴方の婚約者さんが命を分け与えてくれてるからかも知れないわね。自分の分まで強く生きてっていうメッセージなんじゃない?」
「……かもな」
 ベルグは少し戸惑ったような顔つきで、照れくさそうに後ろ頭を掻いた。

 †四日目 【書庫 09:25】†
 ベルグと楽しくお喋りをしながら朝食を食べたかったが、彼は今日も出てこなかった。朝に弱いのだろうか。そう言えば朝食時には一度も姿を見ていない。
 ローアネットと静かに食事を済ませたユレフも、ベルグが居ないと張り合いがないのか、少し元気が無いようにも見えた。
 朝食の後、ローアネットは書庫に向かった。予定表に『書庫にて、窓際の真ん中の席に座って一時間本を読み続ける』と書かれていたからだ。
 本の種類は特に指定されていなかったが、ローアネットは迷う事なく医術書を選んだ。そして病名の頭文字で五十音順に大別された中から、『こ』で始まる病気について纏められた本を取り出す。
 勿論、コールド・エッジについて調べるためだ。
 二年前、弟がこの病気の掛かってからというもの、何度も王都図書館に足を運んで調べ上げた。そして暗記してしまうくらいに症状と治療法を読み返した。色々な本に様々な言葉で書かれていたが、本質的な部分は何も変わらない。
 だが、ココにある本ならばあるいは……。
 ローアネットは本を持ち、丸いクリアガラス製の窓の側にある読書机に座った。そして僅かな期待を込めて本を開く。

『コールド・エッジ。
 発病から約二年の潜伏期間を経て発症する先天性の病気。無痛ではあるが精神的な鬱状態となり、発症すると確実に死に至る。発病理由不明。発病により背中に青白いひし形の痣が確認される。粘膜感染、母子感染、空気感染でうつる事は無い。
 本病気のメカニズムは未だに不明であるが、精神の急激な老化によるショック死であるとの見方が強い。

 BN五〇四年にアクディ=エレ=ドートが治療法を確立。『人工ソウル』と呼ばれる霊的物質を用いて、本病気の治療に成功。しかし成功率は約五%と非常に低い。また治療法も現代魔術医療では解釈できず、オカルト的な要素を多分に孕んでいるため、医学界では問題視されている』
 
「…………」
 ローアネットは落胆と共に本を閉じた。
 内容は今まで見てきた物と変わらなかった。
 コールド・エッジの治療法を生み出したアクディ。彼の洋館にある膨大な蔵書量を誇る書庫。そこにある医術書ならば、もかして世間で言われているのとは全く違う治療法が書き記されているのではないかと思っていたのだが……。
 コールド・エッジの治療法は確かに、一般に普及している現代魔術医療とは大きくかけ離れている。
 現代魔術医療は新陳代謝を激的に高めたり、ウィルスを物理的に排除したり、麻酔無しでも痛みのない手術をしたりする事を可能とする。それらは全て科学的な解釈が成立し、おとぎ話の中の魔法のように、死者を蘇らせたり、無から有を生み出したりする事は出来ない。
 だからアクディの開発した治療法は世間的に異端視されている。
 しかしいくらオカルト的だと言われていようと、ローアネットにはそれにすがるしか道がない。治療を受けた後、周りから冷たい目を向けられようと構わない。たった一人の肉親を失うくらいならば。
(あら……)
 あと五十分程どうやって時間を潰そうかと頭を上げた時、向かいにある読書机に分厚い背表紙の本が置かれているのが目に入った。綺麗に製本されている他の物とは違い、表紙は角がボロボロになって茶色く変色している。
 タイトルなどは書かれておらず、無地の表面が不気味に晒されていた。
 ローアネットは席を立ち、その本を取り上げた。そして一ページ目を捲ってみる。

『錬生術とはコールド・エッジの症状を逆転させた、魂からの創生である』

 一瞬、体が感電したような痺れを覚えた。
 ローアネットは震える手でページを捲っていく。そこには錬生術について、事細かに記されていた。
(これってアクディの……)
 間違いない。研究日誌だ。
 錬生術の仕組みや、ソレを使った実験の研究データが几帳面な字で書き連ねられている。

『コールド・エッジは発病すると背中にソウルの抜け道が出来る。形状の小さい精神系のソウルはそこから徐々に漏れて行き、心的疾患をもたらす。そして発症と共にソウルの抜け道は全開となり、形状の大きい身体系のソウルが大量に漏出する事によって肉体は死に至る』

(ソウル……ソウルって?)
 ローアネットは椅子に座る事も忘れ、『ソウル』という言葉の説明が書かれているページを探した。

『ソウルとは神経、感覚など肉体という表面上の機能を維持するために必要な霊的物質である。例えば喜びの感情を司るソウルが抜けると悲観的になり、味覚を司るソウルが抜けると味を感じなくなる。運動を司るソウルがなくなると動けなくなり、内臓の筋肉の動きも止まってしまうため死亡する。これがコールド・エッジが発症した時の症状である。
 ソウルは大きく精神系と身体系に分けられ、前者は小さく後者は大きい。おそらく肉体の機能を維持するための重要度合いで大きさが決まっているのだと思われる』

(内臓を動かすためのソウルが無くなるから死ぬ……? これがコールド・エッジが発症した時の症状?)
 予定表に書かれている訳でもないのに、ローアネットの指は勝手に動いて研究日誌を捲り続ける。

『今日もコールド・エッジの治療ため、二人の患者が来た。だが私にはどうする事も出来ない。カウセリングをして、心の病を和らげてやる事くらいしか。根本的な治療法が見つからない。医術師に就いてから、これ程の無力感を味わった事は無い』

 本の後ろ半分はアクディの日記になっているようだった。医術師としてコールド・エッジの治療にあたっている時の苦悩が書きつづられている。

『コールド・エッジに掛かった患者が目の前で死んだ。これで十人目だ。なのに症状が全く分からない。体はどこも悪くないのに突然死んでいく。まるで魂でも抜けて行くかのように』

『私は考えを変える事にした。コールド・エッジは現代魔術医療に則った常識的な考えでは解決できない。物の見方を四次元的にし、直感を信じるしかない』

『非常識であるが、私は何の根拠もない一つの仮説を立てた。人の肉体は目に見える物だけで支えられているのではない。その更に奥に別の要素が絡んでいる。私はそれを『ソウル』と仮称した。コールド・エッジはこのソウルが抜けていく病である物として、治療法を模索していく』

『オカルトの分野でよく用いられいる、悪魔召喚のための道具。召喚された悪魔を捕縛するという筒状のリアクターを使って、私はソウルのトラップを試みた。コールド・エッジに掛かった患者の体に、あらゆる角度からリアクターをかざしてみた。患者からは奇異の視線を投げかけられた。トラップは成功しなかった』

『オカルトに関する知識をかなり身に付けた。どうやら道具だけでは駄目のようだ。魔法陣や呪文も必要になる。周りから、私の事をおかしくなったと言う連中が出始めた』

『ついにソウルのトラップに成功した。私の仮説は間違っていなかった。リアクターの中には霧のような物が溜まっていた。後はコレを元の体に戻す事が出来れば……』

(ホント、天才と何とやらは紙一重ってヤツね……)
 医術師とは思えないあまりに異常な行動の数々に、ローアネットは眉間に皺を寄せてページを捲る。
 それからソウルを体に定着させる研究が進む。一応の成功は見せるが、コールド・エッジの症状を緩和できても完治する事までは出来なかった。どうやらすでに出て行ってしまったソウルを、何らかの形で補完する必要があるらしい。
 そしてアクディは人工ソウルの研究に没頭し、医術に更なるオカルトを取り入れていく。
 三年の歳月を掛け、アクディはソウルを構成している要素の特定に成功。それらを含む物質を集めた。
 不死鳥の角、双頭龍の鱗、牙ヤシの果肉、黄金虫の羽、アエレウス・ピラニーの目玉。
 どれも一つで家が一軒建てられる程、高価な物ばかりだ。
 これまで天才医術師として名を馳せてきたアクディ。知らず知らず築き上げて来た莫大な財産に物を言わせて、彼は『人工ソウル』を生み出す事に成功した。
 そして――

『ついにコールド・エッジを完治する事が出来た! 『人工ソウル』を使って失われたソウルを補完すると共に、ソウルの抜け道を塞ぐ事が出来た! これで彼女はもう普通の生活を送る事が出来る! 記念すべきと言っては不謹慎だが、最初の患者はまだ年端もいかない少女だった。名前はノア=リースリーフ。彼女の名前は一生忘れないだろう』

(ノア……)
 知っている名前だ。自分と同じく、この『死のゲーム』への参加者。退廃的な雰囲気を纏う若い女性。
(同姓同名?)
 分からない。それ程珍しい名前というわけではない。単なる偶然かも知れない。
 いつか本人に聞いてみなければ。コールド・エッジに関する情報は多いに越した事はない。

『コールド・エッジの治療法を確立したというのに、世間からの風当たりは強い。どうやら私が研究に没頭している間に、狂医術師としてのレッテルを貼られてしまったらしい。自分達がコレまで考えの拠り所にしていた現代魔術医療の理論で解釈出来ない物は全て拒絶する。今の医学界は頭の固い愚かな連中ばかりだ。私に賛同してくれる者は、ほんの一握りだけだった』

 それから、アクディの嘆きが続く。
 治療の成功率がどうしても上げられない事。『人工ソウル』を生み出すための材料費が非常に高く、治療費が思うように下げられない事。そして、アクディの体に死期が近づきつつある事。

『私は医術師だ。自分の体の事は誰よりも熟知している。後十年、持つか持たないと言ったところだろう。だから私は残したい。自分が存在した事の証を。たった十年足らずでやり遂げられるかどうか分からないが、何としても完成させたい。錬生術を』

 アクディは生まれつき体が弱く、生殖機能に異常があった。
 彼は子供を作る事が出来ない体だった。しかし自分の子孫を残したい。養子や人工授精などではなく、“自分の手で”子供を創りたい。
 生きて来た軌跡を残すために。
 そこでアクディはソウルに目を付けた。
 体からソウルが抜ける事で死に至るのならば、逆にソウルを集める事で生を為す事も出来るはず。
 そう考え、錬生術の研究を立ち上げた。
 アクディは医学界を去り、自分の為の研究に集中するために人里離れた場所に洋館を建てた。そしてソウル・パペットと呼ばれる人工生命体を生み出していった。

『私の理論は間違っていなかった。『人工ソウル』を用いてソウル・パペットを生み出す事に成功した。素晴らしい事に、ソウルという霊的物質をある程度安定させれば、ソレを受け入れる肉体は自然に構成されるようだ。やはり生命の根元はソウルだ。肉体などソレに付随する入れ物に過ぎない。最初のソウル・パペットを仮に“タイプA”と命名。後でちゃんとした名前を考えよう。しかし一応人の形は為したが、まだまだ人間性には乏しい。更なる研究が必要だ』

『今日、タイプAが階段から落ちて首の骨を折った。一瞬、自分の愛娘が死んだような悲しみに襲われた。しかしソウル・パペットは、ソウルのみから生み出された生命体だ。例え肉体が破損していてもソウルさえ無事な形で残っていれば、再度錬生術で安定化させる事で生き返らせられるらしい。本当に良かった』

 それからしばらく、錬生術は失敗続きのまま一年が過ぎた。
 絶好の滑り出しかと思われた研究に、早くも陰りが差してきた。そして――

『私は取り返しの付かない事をしてしまった。死者の冒涜。元自分の患者に何と言う事をを……。絶対にしてはならないと思っていた事に手を出してしまった。最初に生み出したソウル・パペット以降、人の形にすらならずに苛立っていたせいかもしれない。私自身が子を成せない体だと知った時から、生の重さ、死の深さは常に考え続けて来た。だから医術者を目指した。しかし、自分の手で生み出した子を持ちたいという欲求に、どうしても逆らえなかった。私はもうおかしくなってしまっているのかも知れない。果てしない罪悪感を感じつつも、すこぶる出来の良いソウル・パペットに胸の高鳴りを押さえられない。最初のソウル・パペットから数えて彼はタイプGに当たる。“ギーナ”と命名しよう』

『ギーナは非常に人間的だ。表情も豊かで、喜怒哀楽を表に出してくれる。ただ言語機能に多少の障害がある。また情緒も若干不安定な傾向にある。しかし些細な事だ。外界に触れて他の人間と接すれば、きっとより人間に近付くに違いない。私の子供が王都で歩いて、会話をして、食事をしている。考えただけで昂奮を禁じえない』

(狂ってるわ……)
 気分が悪くなり、ノアは研究日誌を閉じた。
 コレを読んでいるとアクディが堕ちていく様子がよく分かる。天才と呼ばれる人間は、何かちょっとしたキッカケで、これ程までに変わってしまうものなのだろうか。
 そして自分は今、この狂った元天才医術師が生み出した治療法に救いを求めている。ならば自分も一歩、狂気へと足を踏み入れている事になるのだろうか。
(それならそれで、しかたないわ……)
 目を瞑り、軽く頭を振りながらローアネットは自嘲めいた笑みを浮かべた。
 この本に書かれている情報は貴重だ。この洋館を出てしまっては決して手に入らない。一気に読む事は出来ないが少しずつなら。心の整理をしながら、ゆっくり読んでいこう。そしてアクディを受け入れていこう。
 彼の狂気に当てられて、気がふれてしまわないように。

 †五日目 【五階廊下 13:51】†
 アクディの研究日誌を自室に持ち帰りはしたが、昨日はあれから続きを読む気にはなれなかった。
 『死の予定表』と『狂気の日誌』。
 二つの災厄をなんとか現実の物として受け入れ、気持ちを落ち着けるので精一杯だった。
 食事をしている時、ベルグが掛けてくれた心配そうな声で少し落ち着いた。ユレフがベルグの肉を狙ってはしゃいでいるのを見て少し和んだ。初めて皆と一緒に夕食を食べたヲレンが見せた完璧なナイフさばきや、ノアが食事をしながらタバコを吸っている姿に、少なからず安堵を覚えた。日常を感じる事が出来た。
 そして一晩寝て、ようやく平静を取り戻せた気がした。
 今日、ベルグと談笑しながら昼食を摂った後、ローアネットは洋館の中を散策していた。気分転換した後、アクディの研究日誌を読むつもりだった。
「ん」
 五階の高い位置から中庭を見下ろしながら、長い廊下を歩いていると、他とは明らかに異質な雰囲気を放つ扉が目に留まった。
 黒塗りの金属製の扉に、細い針金のような物が縦横無尽に走っている。針金の中には光が通り、幻想的な幾何学模様を浮かび上がらせていた。自分達の部屋にある綺麗な木目調の扉とは似ても似つかない。
(何かしら……)
 妙に興味を引かれて、ローアネットはその扉のドアノブに手を掛ける。しかし扉は押しても引いても開く事はなく、時間と共に消失するわけでも、真上にスライドするわけでもなかった。
 少しの間色々試してみて、ローアネットは自分の予定表に書かれていた事に思い当たる。

『七日目12:28□黒い扉の部屋に入る□』

(これじゃ入れないじゃない……)
 それともココ以外に黒い扉の部屋があるのだろうか。
「う、うぉ! なんでンな事まで分かるんや!」
 突然響いた叫びに、ローアネットは無意識に声の方へと顔を向けた。
 声の主はすぐに分かった。異国訛りのある特徴的な喋り。間違いなくベルグだ。誰かと話をしているのだろうか。
(お昼食べた後すぐに居なくなったと思ったら……)
 ローアネットは少し不満顔で、声が聞こえた方に歩を進める。
 自分より優先して話をしたい人が居るという事なのだろうか。
 少し歩き、ローアネットはプレイルームの前で足を止めた。緩やかに湾曲した白い軟体金属の扉が彼女を迎える。その扉に手を触れると真ん中に小さな穴が開き、無数の同心円を生み出しながら広がっていった。
 そして自分の体が通るくらいの大きさになったのを確認して、ローアネットはプレイルームへと足を踏み入れる。
「あら……」
 意外な組み合わせにローアネットは思わず声を上げた。
 中に居たのはベルグ、そしてノアだった。部屋の一番奥にあるグランドピアノの隣でベルグは硬直して、ノアは面倒臭そうにタバコをふかしながら、コチラに視線を向けている。
「ロ、ローア! どないしたんや、自分!」
 ローアネットの姿を見て、何故か上擦った声を上げるベルグ。あからさまに何かやましい事をしていましたと自己主張していた。
(やっぱり、若い子には勝てないのかしらね……)
 薄紅色のロングヘアーを梳きながら、ローアネットは優美な足取りで二人に近づく。
「お邪魔、だったかしら?」
 そして悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ベルグの隣りに立った。
「い、いやぁ! ンな事あらへん! お話は大勢でした方が楽しいに決まっとる! なぁ、ノアちゃん!」
「……さぁな」
 ノアは半眼になって気怠そうにそっぽを向く。まるで自分が邪魔者だと言わんばかりの仕草だ。
 『せっかく二人きりだったのに』
 そんなノアの心の声が聞こえてきそうだった。
「あ、そ、そーや! ローア! ノアちゃん、ごっつ歌上手いんやで! こぅ、なんちゅーか心が洗われるみたいな感じや! なぁノアちゃん! も一回歌ってくれへんか?」
「……断る」
 『私が歌うのはベルグにだけだ』
 ローアネットにはそう聞こえた。
「はいはい、どーもアタシはお呼びじゃないみたいね。二人の邪魔して悪かったわ。どうぞごゆっくり」
 ローアネットは大袈裟に肩をすくめて見せ、立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょー待てやローア! 自分、何か変な勘違いしとるやろ! 俺は予定表に書かれとったから仕方なく……!」
 しかしベルグの言葉にすぐにハッとなり、慌てて振り向いた。
 ――予定表の内容を他の人に喋ってはならない。
 このルールを破った者はゲームに負けたと見なされ、死が訪れる。
「ベルグ!」
「う……!」
 ベルグは苦しそうに胸を押さえて、その場にうずくまった。
「馬鹿! 何て事するのよ!」
 ローアネットはベルグの顔を胸に抱き入れながら、悲痛な叫び声を上げる。
 死んでしまう。ベルグが死んでしまう。こんな、こんな些細な事で!
「芝居だ。下らん」
 頭上から冷め切ったノアの声が聞こえてきた。
「え……?」
「ノアちゃーん、ネタバレすんの早いでー。もーちょっと、このふくよかな胸の中で……」
 ベルグは幸せそうな顔でローアネットの胸に頬をすり寄せている。
「ベルグ!」
 平手で思いきり頬を叩き、ローアネットは乱暴にベルグの頭を放り出した。
「本気で心配したじゃないの! この馬鹿!」
「っつー……。いやいやスマンスマン、悪気は無かったんや。俺自身、ホンマにアカンか思ーたからな」
「悪気が無かったら何しても良いって訳じゃないでしょ!」
 痛そうに頬をさするベルグに、ローアネットは柳眉を逆立てて激昂する。
「……バレなければルール違反でも問題ない、という事か」
 二人のやり取りを見ながら、ノアは冷静な口調で言った。
「そーみたいやな。ま、時間差で来るかもしれんし、ルール違反の度合いによるんかもしれんけど、取りあえず今は平気みたいや」
 ベルグも少し真剣な表情になり、猫目を薄く開いて思慮深げな光を見せる。
「アクディはただ単純に俺らを殺したいわけやない。このゲームには何か意味があるんや」
 単純に殺したいわけではない。それはローアネットも考えていた事だ。
「意味っ、て……?」
 どこか遠慮がちな声でローアネットは聞き返した。
 さっきまで軽かった空気が、一瞬のうちに圧迫感のある物へと変貌している。息苦しさを覚えるほどに。
「例えば、や。俺らに届いた招待状。あれかてちょっと考えたらおかしいで。あんな物騒な内容の手紙、テキトーにバラまいとったら大混乱や。それこそ教会の連中の目に止まってみー、こんな洋館イチコロやで」
 確かに。
 招待状にはこの『死のゲーム』の内容が、それなりに詳しく書かれていた。
 アクディの洋館で行う事。何もしなければ十日以内に死ぬ事。生き残る事が出来れば大金を受け取れる事。ルール違反をしたり、洋館を出たりすれば自動的に死が訪れる事。
 受け取った人が酔狂な遊びだと流してくれればそれで良いが、中には正義感の強い者も居るだろう。国や教会に知らされでもすれば、大挙してこの洋館に押し寄せて来てもおかしくない。
 狂医術師、アクディ=エレ=ドートを処罰するための絶好の機会になるだろうから。
「でも待って。確かヲレンさんは教会の関係者だって言ってたわ。このゲームに生き残ってアクディを大司教の前に連れ出すんだって」
「教会の関係者ぁ? ホンマかぁ?」
 ベルグは首筋を掻きながら、胡散臭気な視線を向けて来る。
「まぁ……本人から聞いただけだけど」
「もしそーやとしたら教会もエライ回りくどいマネすんなー。立派な物的証拠もあるーゆーのに。ソイツ偽モンちゃうんか」
「どーして嘘なんか付く必要があるのよ」
 まるで自分が責められているようで、ローアネットは少しにムキになって返した。
「……つまり、お前は私達五人に何か共通点でもあると言いたいのか? ヲレンとか言う奴はソレを隠している、とでも?」
「そー! まさしくその通りやノアちゃん! さすが鋭いなー!」
 ノアの呟きにベルグが歓声を上げる。
「悪かったわね。鈍感で」
 ソレが何だか気に入らなくて、ローアネットはふてくされたような顔になった。
「さっきから何スネとんねん。ま、ちょっと怒った顔も色っぽいけどな」
「う、うるさいわねっ」
 顔を紅く染めて、ローアネットはベルグから視線を逸らす。
「……で、その共通点って言うのは?」
「いやまぁ、単なる憶測なんやけどな。もしかしたら、コールド・エッジ絡みなんちゃうかなーって。アクディゆーたら、錬生術かコールド・エッジやろ? 例えば、俺ら全員コールド・エッジに関わってるとしたら、アクディとの繋がりも無いこた無いなぁ思ーて。少なくとも俺は自分が掛かっとるし」
「……コールド・エッジ、ねぇ」
 ノアは新しいタバコに火を付けながら、どこか馬鹿にしたような視線を向けた。
「なぁノアちゃん。自分、ひょっとして親戚とかにコールド・エッジになった人とかおるんちゃうん」
「……さぁな」
 しかしノアはベルグの問い掛けに答える事なく、曖昧な返事を返す。
(そういう、事か……)
 『コールド・エッジ』
 その単語に触発されて、ローアネットの中に確証に近いモノが生まれた。
 恐らく、アクディはコールド・エッジに掛かった事がある者に招待状を送りつけている。
 ベルグは自分自身がコールド・エッジ。
 ノアは直接聞いたわけではないが、アクディの研究日誌に書かれていた人物と同一ならば、過去に掛かっていた事になる。
 そして自分は……。
(ダメよ……)
 何か言おうとしてローアネットは口を閉ざした。
 コレを言ってはいけない。自分にはこのゲームに参加する資格がない事がバレてしまう。
 アクディの研究日誌の事は伏せておこう。変な事を口走ってボロが出てしまっては元も子もない。
 自分は書庫で研究日誌など読まなかったし、そこにノアの名前が書かれていた事など当然知らない。
「話の途中で悪いんだけど、アタシはちょっと席を外すわ」
 残念そうな声を出して、ローアネットはプレイルームの出入り口に歩き始める。
「どないしたんや、腹でも痛いんか?」
「まぁ、ちょっと、ね……」
 歯切れ悪そうに言うローアネットに、ベルグはすぐに「ああ」と何かを察してくれた。
 こういうポーズを見せれば、勘の良い彼ならすぐに予定表の事を思い浮かべるだろう。そして詳しい事を言えない理由も分かってくれる。
 今はとにかく一人になりたい。
 一人で落ち着いて考えて、何を喋っても良いのか、何が自分に不都合をもたらすのか、ソレを頭の中で整理しなければ。

 昼間はココのルールを上手く使って、危ない場面を切り抜ける事が出来た。だからあの時は少なからず感謝した。しかし今は……。
(サイテー……)
 薄暗く、埃っぽい保管庫。
 殆ど使われた形跡はなく、もう何年も前に押し込められたまま放置されているだろう雑品が、山のように積まれていた。
 綿の抜けたヌイグルミや、弦の切れたバイオリン、針のない置き時計など、すでにゴミと化している物も沢山ある。
 そして保管庫の隅の方には、一人用の古い木製のテーブルが置かれていた。側には保管庫の裏口らしき扉も見える。テーブルの端には危なっかしく、ワインの瓶が何本も並べられていた。ほんの少しの衝撃でも落ちてしまいそうだ。
 すぐにでも出て行きたくなる陰湿な空間。
 だがローアネットは予定表に従い、ココで夕食を摂らなければならない。
(ホントに、何の意味があるって言うのよ……)
 もはや単なる嫌がらせにしか見えない。
 ワインの瓶が置かれたテーブルには、すでにアーニーが豪勢な食事を運んで来てくれている。いつもならば美味しそうな食事も、ココで見ると動物の餌に見えてしまうから不思議だ。
「まったく……」
 ブツブツと文句を言いながら、ローアネットはテーブルに腰掛けた。
「いただきまーす」
 そして白々しく手を合わせてから、ナイフとフォークを両手に持つ。
 皿に盛られた野菜をナイフでフォークに乗せ、口に運ぼうとした時――
「ひぃぁ!」
 何か小さい物が目の前を走って行ったのを見て、ローアネットは悲鳴を上げた。口に入るはずの野菜はフォークから抜け落ち、埃の積もった床へとこぼれ落ちる。
 一瞬だがハッキリ見えた。アレは、自分の嫌いな……。
 小さなソレは甲高い泣き声を響かせながら、床に落ちた野菜に飛びついた。
「ネズミー!」
 ソレの正体を口に出して叫び、ローアネットは慌ててイスから立ち上がる。その拍子に足が激しくテーブルにぶつかった。
「あ」
 短く声を上げるが、時すでに遅し。
 ローアネットの見ている前で、机の隅に置かれたワインの瓶はバランスを崩し、床へと吸い込まれていく。そしてけたたましい破砕音を響かせて、床の上に散乱した。
「あーあ……」
 疲れた声を出すローアネットの視界に、割れた瓶の破片が床から生えた牙の如く映る。
 まったく踏んだり蹴ったりとはこの事だ。
 片付けるにしても掃除道具の場所をアーニーに聞かなければならない。下手に自分で拾って、指でも切ったらさらに憂鬱になる。
 体の自由はすでに戻っていた。最後までではなくとも、『食事を摂る』という行為をすればそれで良いらしい。
 ローアネットはネズミの居る保管庫から一刻でも早く外に出るため、早足で出入り口へと向かった。そして自動スライド式の扉を抜けて外に出た時、視界の隅に見知らぬ人影が映った。
 やせ細った体。痩けた頬。腫れぼったい両目。曲がった背中。全身をスッポリと覆う、大きめの黒いローブ。
「貴方、ひょっとして……」
 直接見た事はないが、本で何度も目にした事がある。その時の写真とは随分人相が違っているが間違いない。
「アクディ……」
 ローアネットの呟きを合図にしたかのように、老人は背中を向けて歩き始めた。そしてすぐに二階への階段を上がり、姿を消してしまう。
「あ、ちょっと……!」
 思いも寄らないの人物との突然の邂逅に、ローアネットは動揺の色を隠せないままアクディを追った。

 †六日目 【自室 14:45】†
(なんだったのかしら……)
 結局、昨日はあれからアクディには会う事が出来なかった。いや、ローアネット自身、本気で探そうとしていなかっただけかも知れない。
 アクディを見て反射的に追い掛けてしまったが、今会ってもまともな会話など出来そうもない。まだあの研究日誌を読む前なら、コールド・エッジについてもっと詳しい事を聞き出そうとしていたかも知れない。
 しかし、自分はすでに彼の狂気の一端に触れてしまった。
 コールド・エッジの症状を逆転させた錬生術。ソレによって生み出されたソウル・パペット。不死の人工生命体。彼らに注ぐ親としての愛情。
 ローアネットには理解できない部分が多すぎる。
 それに自分が今最も優先させるべき事は、アクディとの会話でも彼の思考の理解でもない。
 このゲームに最後まで生き残る事だ。弟をコールド・エッジを治すために。
(ま、取りあえず第一段階は突破、ってところかしらね)
 ベッドに横になり、書き換えた自分の予定表を満足げに見ながら、ローアネットは嬉しそうに笑った。
今日の十一時三分。ローアネットは自分の胸にナイフを突き刺す予定だった。しかし、その時間はとっくに過ぎている。無事、死の予定は回避した。
(あと四日。あと四日何も起こらなければ、アタシの勝ち……。そうすればコールド・エッジの治療費だって手に入るし、ベルグも……)
 考えただけで頬が緩んでくる。
 死を無事回避してからというもの、今日はずっとこの調子だ。気持ち悪いほど気分が浮かれている。最初に構えすぎたのかも知れない。
 何もしなければ死ぬ、などと言われたものだから過剰な反応を示してしまった。まさかこんなにあっけなく回避できるとは思っていなかった。
 もしかしたらアクディも、簡単にお金を渡すと有り難みがないから、こんな凝った演出をしているのかも知れない。
「ローア、おるか?」
 そんな楽天的な事を考えていると、部屋のドアがノックされた。すぐにベルグだと分かり、慌てて予定表をサイドテーブルの引き出しの中に隠す。
「え、ええ、居るわ。どうかしたの?」
 ローアネットは上擦りそうになる声を何とか抑えながら、ドアの近くまで行き、ロックを外した。そして部屋の内側へと扉を開ける。
 外には予想通りベルグが立っていた。
 だが、心なしか表情が暗い。
「ローア、落ち着いて聞いてくれ」
 そして沈んだ声で、ベルグは絞り出すように続けた。
「ヲレンが死んだ」
「……え?」
 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。
 死んだ? ヲレンが? 何故? ナゼナゼナゼ?
「保管庫でな、倒れとったんをアーニーが見つけたそうや」
「保、管庫……?」
 その言葉に全身の温度が一気に下がる。下顎が震えだし、歯の根が噛み合わなくなった。口の中の水分が一気に乾ききり、喉の奥が痛い程に張り付くのが分かる。
「ひょっとして……死んだのって……ガラス、が……?」
「あ、あぁ。けど何で知って……」
 ベルグの言葉が終わらないうちにローアネットは部屋を飛び出し、彼の体を押しのけて廊下を駆けた。
 後ろからベルグが呼ぶ声が聞こえるが、足は止まらない。まるで予定表の内容に従うかのように勝手に走り続ける。
(嘘でしょ! 嘘よ! そんなの嘘よ!)
 何度も何度も心の中で叫びながら、ローアネットは保管庫に向かった。

 ローアネットが着いた時、丁度アーニーが保管庫の床に白いシーツを掛けているところだった。しかしシーツは平坦になる事はなく、大きな人の形に盛り上がっている。
 ローアネットはその隣りに力無く座り込み、恐る恐るシーツを持ち上げた。
「ひ……」
 最初に目に飛び込んできたのはヲレンの瞳だった。丸い瞳を更に大きく見開いて、何か信じられない物でも見たような視線を宙に投げ出している。
 そして彼の顔の下には、まだ出来て間もない血溜まり。床に降り積もった綿埃を紅く染め上げ、少しずつ広がってきている。
 鮮血が流れ出している源。その場所に刺さっている物を見て、ローアネットは全身からありとあらゆる力が抜けて行くのを感じた。
「は……あはは……あははははは……」
 乾いた笑い声が無意識に口の端から漏れる。
 ヲレンの喉に刺さっていたのは、ワインの瓶が割れた破片。
 昨日、ローアネットがココで食事をしていた時、誤って割ってしまったワインの。
(殺した……アタシが、殺したんだ……)
 あの時、ちゃんと片付けていれば。アクディになど気を取られず、もう遅いからと言って次の日に持ち越したりせず、自分の死の回避で頭を一杯にせず、もっと気を回していればこんな事にはならなかった。
「……喉元を一撃、か。苦しむ暇もなかったな」
 後ろからノアの声が聞こえた。彼女の声は驚くほど落ち着いていて、どこか冷淡だ。
「ついに一人目の脱落者が出たでござるか」
 続いてユレフの声も聞こえる。彼も別に動揺した様子はない。
 この二人はおかしい。狂ってる。人が一人死んだというのに、どうしてこんなにも普通にしていられるんだ。
「ヲレン=ラーザック様の処理は私が行っておきます。皆様はゲームを続けて下さい」
 淡々として口調でアーニーが言った。そしてヲレンの体にシーツを巻き付け、隣りに持ってきていた浮遊台車に体を乗せていく。
 おかしい。みんなおかしい。
 こんな物なのか? 人の命とはこんなにも軽い物だったのか? 死というのはこんなにも浅い物だったのか?
 焦燥に似た疑念が胸中で渦巻き、ローアネットは吐き気を伴う震えに耐えるかのように体を抱きしめた。
 いや、一番おかしいのは自分だ。あんな下らない事で、誰かの命を奪ってしまった自分が一番おかしい。
 アクディの事を狂っているなどと罵っておきながら、自分はそれ以上に狂っている。一般人の皮をかぶった異常者だ。
 許されない。許されるはずがない。人の命を奪っておいて、自分だけのうのうと生きているなど……!
「ローア!」
 自分を呼ぶ声と共に、背中に温もりを感じた。そして逞しい腕が体の前に回される。
 ああ、誰だろう。こんな薄汚れた自分を抱きしめてくれるのは。何だか、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
「落ち着け、ローア。何があったんか知らんけど、お前は何も悪ない。せやから自殺なんかアホな事すんなや」
 自殺? 何の事だ? 自分は自殺など……。
 彼の手が自分の右手に添えられる。そして無機質な音を響かせて、右手から何かガラスのような物が落ちた。
「アイツは運が悪かった。ただそれだけや。予定表の内容通り行動して、死んだ。その事はアイツかて承知しとったはずや。覚悟は出来とったはずや。死の回避に失敗したんはアイツの責任や。お前は何も悪い事ない」
 彼は必死になって自分を励まし続けてくれる。
「どうして……」
 口から掠れた言葉が出た。
「どうして、アタシはこんな事を……」
 何故自分はココにいる? 何故自分はこんな所で人殺しをしている?
 分からない。思い出せない。どうしてこんな事をしているのか。
「弟助けるためやろ! 金貰って、弟のコールド・エッジ治すんちゃうんかい! しっかりせーや!」
 ああ……。そうか。そうだ……。
 そのために私はココに来た。最後まで生き残って、お金を貰って、そしてベルグも一緒に……。
 私がしっかりしないと。私がちゃんとやらないと……。
「ベルグ……」
 後ろから抱きしめてくれている彼の名前を呼ぶ。
「ちょっとだけ、我が儘言ってもいい……?」
「おぉ! 何でも来いや!」
 ベルグの頼もしい言葉を聞いて、ローアネットは力無く笑った。

 ローアネットは自分の部屋で、ベルグと一緒のベッドに入っていた。
 窓の外はもう暗い。あれから二人で時間を忘れて愛し合った。
 ローアネットはベルグの温もりを確かめるように肌を寄せ、彼の逞しい胸板に顔を埋める。生の証である心臓の鼓動音がハッキリと聞こえてきた。
「……ごめんなさいね。変なお願いしちゃって……」
 少し悲しげな声で言いながら、ローアネットはベルグの顔を見る。
「貴方の婚約者さんに悪いって思ったんだけど、こうでもしないと、おかしくなっちゃいそうで……」
 ずるい女だと思われただろうか。計算高い女だと思われただろうか。
 だがそれも仕方がない。自分はそう思われて当然の事をしてしまった。
「今更謝んなや。元々俺が自分から買って出た事や。これでローアが元気になってくれるんやったら安いもんやで。何やったらもう一回しよか?」
「ばか……」
 彼の明るい言葉に胸の中が暖かくなる。
 ベルグには何度も助けて貰った。何度も励まして貰った。そのたびに自分が強くなっていく事を実感できた。
 弟のコールド・エッジを治すため、自分の躰を売る事を決意した時、弱い物は全て捨て去ったつもりだった。感情を押し殺し、理性だけで自我を保ち、妖艶な娼婦になりきった。
 ――アタシは男日照りの色情狂。
 自分にそう言い聞かせる事で、気が狂ってしまう事から何とか逃れる事が出来た。好きでもない男に抱かれている自分を冷静に客観視する事で、辛うじて精神を繋ぎ止める事が出来た。
 だが、今はもう駄目だ。
 こうしてベルグに寄り添っていないと、あっけなく壊れてしまう。
 自分は人殺しなのだという罪の意識に押しつぶされてしまう。
 自己暗示で誤魔化しただけの脆弱な外殻を、『強さ』と勘違いしていた自分には、これ以上気丈に振る舞う事は出来ない。
「ねぇ、ベルグ……」
 ローアネットは少し甘えたような声でベルグに話し掛けた。
 もぅ、彼には全てをさらけ出してしまいたい。
「アタシね、ホントはココに招待されたわけじゃないの」
そして楽になりたい。彼に自分を委ねてしまいたい。
「アレはね、弟に来た招待状。代理人は不可って書かれてなかったから、ダメ元で来てみたの……」
「そうか……」
 ベルグは別に驚くでもなく、ローアネットの長い髪の毛を優しく撫でてやりながら聞いている。
「それでアタシね、書庫で面白い本見つけたのよ。アクディの研究日誌」
「アクディの……?」
 ベルグは少し目を大きくして聞き返した。
「そぅ。錬生術についても色々書かれてたわ。途中で気分が悪くなって読むの止めちゃったけど。それでね、そこにノア=リースリーフって女の子が昔、コールド・エッジの治療を受けた事があるって書いてあったのよ」
「ノアって……あのノアか?」
「多分……」
 ローアネットの言葉に、ベルグは面白そうな顔になって頷いた。
「つまり、少なくとも俺ら三人には強い接点があるゆーこっちゃな」
「そうよ」
 コールド・エッジの患者としての接点が。
 アクディは恐らく、コールド・エッジの患者のカルテから今回の招待客を選んだ。それにどんな意味があるのかは分からないが、可能性としては高いだろう。
「ほんならヲレンっちゅー大男も、ユレフってガキもコールド・エッジの患者なんか」
「多分、ね……」
 確証はない。二人とも、コールド・エッジに掛かっているにしては元気すぎる。アクディの理論で解釈するならば、精神系のソウルが徐々に抜けていっているはずなのだから、鬱状態になっていてもおかしくないはずだ。
 だが、自分のすぐ隣りに例外が居る。
 ヲレンは教会で特殊な訓練を受けていたのかも知れない、ユレフは明らかに普通の子供とは違う。
「ま、今日はもー難しい事考えんのやめにしよ。明日に備えてグッスリ寝た方がええ」
「ん……」
 確かにベルグの言うとおりだ。
 招待客の共通点が分かったところで、この死のゲームに生き残れるわけではない。どんな不測の事態にも対処できるように、体力を温存して置いた方がよほど建設的だ。
「今夜は、ずっと一緒に居てくれる?」
「遠慮せんでも俺は別に毎晩でもええでー。ローアネットお嬢様のご指名とあらば」
「ふふ……よきにはからえ」
 こうして、夜は更けていった。

 †七日目 【五階廊下 12:31】†
 昨日の夜は体力の温存どころか、かなり激しく消耗してしまった。
 しかし心の方は満ち満ちている。
(きっと愛の力ね)
 そんな事を考えながら、ローアネットは上機嫌で五階の廊下を歩いていた。
 お昼近くまで寝ていたローアネットが目を覚ますと、ベルグはすでにベッドの中に居なかった。何か用事があったのかも知れない。恐らく予定表に何か書かれていたのだろう。
 それに関してはローアネットも同じだった。
 これから自分は黒い扉の部屋に入らなければならない。だが、あれから時間を見つけて他の場所も探してみたが、黒い扉はどこにもなかった。五階のココだけだ。
 一昨日確認した時には鍵が掛かっていた。中には入れないはずだ。それとも夕食を保管庫で摂った時のように、『入る』というモーションをすれば予定をこなした事になるのだろうか。
 まぁどちらにせよこんな簡単な事で今日の予定は終わる。
 これであと三日だ。三日耐え抜けば、大金を得てこの洋館から出られる。
(きっと、ベルグと一緒に)
 ローアネットは根拠もなくそう考えながら、廊下を進んだ。
 視界の中で黒塗りの扉が少しずつ大きくなっていく。レッドカーペットの敷かれた床を確かめるように一歩ずつ歩を進め、ローアネットは黒い扉の部屋の前に立つた。そしてドアノブに手を掛ける。
「あら……」
 思わず間の抜けた声が漏れた。
 一昨日、あれだけ色々やってもビクともしなかったドアノブはあっけなく下り、黒塗りの扉は室内に呑み込まれるようにしてローアネットを招き入れた。
「え……」
 部屋の中に一歩を踏み出したローアネットの口から、乾いた声が漏れる。
 そこには本来あるべきはずの物が無かった。
(床、が……)
 抵抗する暇もなく、ローアネットは足下に空虚な口を開けた室内へと吸い込まれる。
 直後、全身を包み込む無重力感。
 内臓が持ち上がり、意識が裏返りそうになる。
 ――そして、足下に重い衝撃が走った。

 † † †

「アクディ様」
 アーニーは薄暗い部屋で、浮遊車椅子に身を沈ませている男に声を掛けた。
「ローアネット=シルフィード様が死亡いたしました」
 そして人間味を感じさせない淡々とした喋りで、事務的に報告する。
「アーニー……」
 男は彼女の声に、空気の抜けたような声で返した。
「後は……お前に任せる……」
 男はそれ以上何も言わず、沈黙を守り続けた。
「承知いたしました」
 これ以上命令が無い事が分かると、アーニーは深く頭を下げ、闇と同化するようにして部屋から出て行った。





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