BACK | NEXT | INDEX

未完の魂、死の予定表

Chapter 3

§ベルグ=シード§

 一日目09:05□大浴場でゆっくりする□
 二日目13:15□自室で仮眠を取る□
 三日目21:09□保管庫の裏口の前で油をこぼす□
 四日目10:05□五階廊下で今考えている事を大声で言う□
 五日目13:20□治療箱の液体カプセルを精神安定剤の袋に入れ、プレイルームに持って行く□
 六日目13:42□玄関ホールの花瓶にある鍵を使って扉を開け、自室に戻る□
 七日目14:54■五階の窓から飛び降りる■
 八日目09:05□最初の五分間だけ朝食を食べて席を立つ□
 九日目15:36□キッチンでつまみ食いをする□
 十日目23:09□深夜に一人で大浴場に行く□

 †一日目 【大浴場 09:10】†
 辛くない、と言えば勿論嘘になる。
 コールド・エッジに冒されてすでに三年。精神的にはかなり参って来ている。
 早く発症して死んでしまいたい。楽になりたい。
 もう、二年ほど前から毎日のように考え続けてきた。
 だが許されない。一般的に言われている潜伏期間から一年以上もオーバーしているのに、まだ死神は自分の前に姿を現さない。
 この世で最も大切な婚約者を助けてやれなかった罰を受けているのかも知れない。まだまだ苦しみ足りないと神がのたまっているのかも知れない。
(ま、別にええけど……)
 洋館の一階にある大浴場。その脱衣場で服を脱ぎながら、ベルグは壁一面の鏡に映った自分に冷めた視線を向けた。
 長く伸びた藍色の前髪。その奥で薄く開かれた双眸。決して筋肉質ではないが、均整の取れた体つき。そして左手の人差し指にはめられた、シンプルなデザインの婚約指輪。
 銀色に光り輝くソレを見るたびに、彼女の事を鮮明に思い出す。
 婚約者は熱心な教会のシスターだった。しかし教会の教えでは、指輪などの貴金属の類は悪魔との交渉に使われる物として非常に気嫌いされている。そしてシスターとして神に身を捧げている以上、結婚も出来ない。
 だから彼女は脱会した。
 教会よりも信仰心よりも、ベルグと一緒に居る事を選んだ。
 この指輪は彼女が最初にプレゼントしてくれた物だ。教会を抜けた証として、これからはベルグに身を捧げる誓いの印として。そして将来の幸せな生活への祝福として。
(年取ると昔の事よー思い出すわ……)
 やれやれ、と軽く嘆息して、ベルグは脱衣場と大浴場の間に張られている暖気遮断シールドを抜けた。マジックミラーとなっているシールドを抜けると、天然石を敷き詰めて作られた和風の大浴場が迎えてくれた。
 ヒーリングハーブを浮かべた浴槽、立方体をとったガラス張りの空間に精神安定作用のある霧を吹き込んだ箱浴槽、水中呼吸の出来る魔術が施された全身浴槽、バンダナタイプの脳感応装置を付けて水との一体感を楽しむ娯楽浴槽など、種々様々な湯浴が用意されている。
「っほー、さっすが大金持ちやなー。スケールデカイわ」
 感嘆の声を上げながら、ベルグは取り合えず一番オーソドックスな普通の浴槽に向かった。体を包み込む暖かい空気と、足下から伝わる冷たい石の感触が心地よい。
「そぼ品ぼない声ばベルグべごさるば」
 突然、浴槽が話しかけて来た。
「おぉ、お喋りするモンもあるんかい。こら珍しい」
「お前は馬鹿でごさるか。小生でござるよ」
 湯船の中央が持ち上がり、中からブロンドの少年が姿を現す。
 確か初日にケンカを売ってきた、ユレフとかいう生意気な子供だ。潜水からご挨拶とは、なかなかに凝った趣向を取る。
「知っとるわい。ボケただけや。もっと気の利いたツッコミ入れんかい、このダァホ」
 言いながらベルグは高く飛び上がって、派手に浴槽へとダイブした。大きく舞い上がったお湯が、ユレフの小さな頭をあっけなく呑み込んで行く。
「っだー! 何するでござるか! この無礼者!」
「やかましいわ。どーせ濡れてんねんからおんなじやろ。細かい事ゴチャゴチャぬかすな」
「貴様の教養を疑うでござる」
 不満そうに唇を尖らせて、ユレフはブツブツと口の中で文句を言った。
「ほんで、何でお前がこんなトコおんねん。ガキのクセに朝風呂か」
「年齢は関係ないでござる。大体見かけで人を判断するのは愚か者のやる事でござる」
 可愛いクマが刺繍されているピンク色のタオルで顔を拭きながら、ユレフは憮然とした表情で返す。
「おいガキ。自分がどんだけ偉いんか知らんけどな、なんでこんなイカれたゲームに参加しとるんや。親は何も言わんかったんかい」
「その親に言われてココに来たでござるよ」
「はぁ?」
 予想外すぎる答えに、ベルグは素っ頓狂な声を上げた。
「親にって……。お前嘘つくんやったらもっとマシな嘘つかんかい。ありえへんぞ」
「本当でござる。だから小生は何としてでもこのゲームに勝たなければならないでござるよ」
 ベルグはユレフの目をじっと見る。
 子供特有の丸く大きな瞳が、髪の毛と同じ金色の輝きを放っていた。
「……ホンマか」
「ホンマでござる」
 瞳には揺れも鈍りも無い。この目を見る限り嘘を言っているようには見えない。
 だとすればユレフは捨てられたのだろうか。食いぶちを減らすために。そして運が良ければ大金を手に入れるために。
 ユレフの家庭の事情は知らないが有り得ない話ではない。しかし身に付けていた物からして貧乏なようには見えない。他に何か深い理由があるのだろうか。
(……ま、ええわ。こーゆーのはあんま触れん方がお互いのためやな)
「おぃガキ」
「ユレフでござる」
「ほんならユレフ。絶対に死ぬなよ」
 ベルグは真剣な顔になって低い声で言った。
 見たところこの少年は、十歳に届くかどうかといった年齢だ。大切な人や物との出会いがこれから先沢山待っている。ソレをこんな下らないところで放棄してしまうなんて哀れすぎる。
「それはあり得ないでござるよ。小生は絶対に死なない自信があるでござるよ」
「っほー、エライ大きー出たな。その自信はどっから来るんや?」
「小生が天才だからでござる」
 小さい胸を張って言い切るユレフの顔に、ベルグは両手を器用に使ってお湯を細く飛ばした。
「っだー! だから何するでござるか!」
「水鉄砲」
「そんな事聞いてないでござる!」
「おお、スマンスマン。湯鉄砲やったな」
「殺すでござるー!」
 叫びながらユレフは、ピンクのタオルを横薙ぎに振るう。水を吸ったタオルは、痛快な音を立ててベルグの頬にヒットした。
「……の、ガキぃ! 人がおだてたったら調子乗りクサリおってー!」
「いつおだてたでござるかー!」
 そして、大浴場での格闘戦が始まった。

 二時間後。
 お互いに疲れ果て、二人とも石の床の上で大の字になって寝そべっていた。
「……な、なかなかヤルやんけ。ガキ……」
「ゅ、ユレフで……ござる……。貴様も、思った以上に出来るでござるな……」
「ベルグや……。そのチンケな脳味噌にしっかり叩きこんどけや、ユレフ……」
「了解でござる……。ベルグ……」
 荒い呼吸を繰り返しながら、二人は相手の健闘をたたえ合った。ベルグもユレフも憔悴しきっているが、どこか満足げな表情を浮かべている。
「と、ところで、ベルグ……。お前、ギーナって名前に心当たりあるでござるか?」
「銀杏? 俺、アレ臭いから嫌いやねん……」
「……もぅいいでござる。最初からお前は違うと思っていたでござる」
 何の事かよく分からないがユレフは一人で納得したような声を出すと、よろよろと立ち上がった。そして笑う膝を押さえつけながら、弱々しい足取りで脱衣場へと向かう。
「おぃ……ユレフ。もーちょっと休んでいった方がええんとちゃうか」
「しょ、小生には色々とやる事があるでござるよ。まったく……まだ一人目なのに大きく体力を消耗してしまったでござる……」
「一人目? さっきから何のこっちゃ……」
「お前はもぅ気にしなくていいでござるよ。容疑者からは外れたでござる」
 言っている事がサッパリ理解できないが、いつの間に掛けられていたかも知らない疑いは晴れたらしい。
(俺も……のぼせる前に出んとなー……)
 そんな事を考えながら、ベルグは心地よい気怠さに身を任せて目を閉じた。

 †三日目 【一階廊下 21:13】†
 生活のリズムが狂ってしまっている。
 一日目は大浴場で一人、夕食の前まで眠ってしまっていたし、二日目は昼食の直後に『自室で仮眠を取る』などという予定が入っていたものだから、九時くらいまで起きられなかった。だから夕食も逃してしまった。
(まぁ、その分は今日でガッツリ取り返したけどなー)
 膨れたお腹を満足げにさすりながら、ベルグは予定表の内容に従って保管庫の裏口に向かっていた。
 手にはキッチンから持って来た調理用の油。これからこの油を、裏口の前でこぼさなければならない。
 まさしく意味不明の行動だが、そんな事はどうでもいい。別にこのゲームに生き残って洋館を出ようなどとは考えていない。婚約者の居るあの世に行った時に、面白いみやげ話が出来ればソレで良い。
 少なくとも、今日ローアネットと話をするまではそう考えていた。
 コールド・エッジのもたらす影響は深刻だ。日に日に無気力になっていく自分に必死に抗おうとするが、最近抵抗しきれなくなってきた。例えばいったん眠りに落ちるとなかなか目が覚めない。だから朝は苦手だ。
 精神的に鬱状態なのは勿論の事、肉体的にも疲労の蓄積が早い。あと一年もすれば、間違いなく寝たきりになっているだろう。大多数のコールド・エッジ患者がそうであるように。
 せめてそうなる前には死にたい。そんな死体同然で生きていても楽しいわけがない。
 そう、考えていた。しかし――

『貴方が三年たっても生きていられるのは、貴方の婚約者さんが命を分け与えてくれてるからかも知れないわね。自分の分まで強く生きてっていうメッセージなんじゃない?』 

 昼間、中庭でローアネットに言われた言葉。
 今までそんな考え方をした事など一度もなかった。
 じわじわと黒く塗りつぶされていく精神からの苦痛。ソレを受け入れる事で、婚約者のために何もしてやれなかった自分への罰になればと思っていた。 
 全てを否定的に考え、心は負の感情で浸食されていった。

『簡単に死ぬなんて言わないの。貴方が辛いのは、分かってるけど……』

 ローアネットの弟も自分と同じくコールド・エッジらしい。だから痛いほどに分かるのだろう。
 病魔に精神を犯され、生きる事を諦めてしまう事の悲しさを。
(ホンマ……どないしょーかなー……)
 ここに来て迷いが生じてしまった。自分に生きて欲しいと思ってくれる人と出会ってしまった。
 コールド・エッジが発病して以来、ベルグは周囲から冷たい目で見られ続けてきた。
 タイミングがあまりにも悪すぎたのだ。
 婚約者がコールド・エッジで死んだ直後に、ベルグもコールド・エッジに掛かった。だから周りの人間は疑念を抱いてしまった。
 コールド・エッジで死んだ者の体から、その病原菌が他の人へ感染するのではないか、と。
 今までにそのような事例は報告されていない。コールド・エッジは先天性の病気だ。生まれた時に、その要素が有るか無いかが決められている。
 しかし例外も十分に考えられる。
 コールド・エッジが見つかってから二十年以上も立つというのに、確立している治療法と言えば、成功率の非常に低いオカルト的な物だけ。つまりそれだけ謎が多い病気という事だ。だから今新しい事例が報告されたとしても、何の不思議もない。
 ――死ぬならどこか遠くで死んでくれ。
 皆、口に出して明言はしないが、目がハッキリとそう言っていた。婚約者を亡くしたベルグに掛けられる慰めの言葉が嘘か本当かなど、目を見ればすぐに分かる。
 人に疎まれ、邪険にされ、上辺だけの下らない付き合いに嫌気が差してベルグは死を選んだ。
 だからいつどこで、どのような形で死のうと後悔などしない。
 そう、心に決めていたつもりだった。
(ローアネット、か……)
 出会ってたった三日しか経っていないのに、無性に気になる。彼女の事が頭の中から離れない。こんな気持ちになるのは三年ぶりだ。
(まさか、な……)
 力無く笑いながら、ベルグは保管庫の裏口の前で足を止めた。そして油のボトルの蓋を外し、無造作に傾ける。
 粘性を帯びた無色透明の液体が床に降り積もるようにして落下し、緩慢な動きで広がっていった。
(今日はもー寝よ。俺ちょー、おかしなって来てるわ……)
 空になってしまったボトルを指先で弄びながら、ベルグは自室に引き返した。

 †四日目 【五階廊下 10:10】†
(しかしまー、なんやなー……)
 まだ寝癖が付いたままの髪の毛をダルそうに掻きながら、ベルグは五階の廊下を歩いていた。
 今日も起きたのはついさっき。やはり朝は苦手だ。おまけに今からやろうとしてる事を考えると、頭が痛くなってくる。

 『五階廊下で今考えている事を大声で言う』

「そんなテンション上がらんっちゅーねん……」
 ブツブツと文句を言うベルグを余所に足は勝手に動き、白く丸いフォルムの扉の前で立ち止まった。
 自分の意思とは関係なく肺に空気が送り込まれ、ベルグは拡声するために両手を口元へと持って行く。そして――
「いっぺんでええから牛丼特盛り腹一杯食ってみたいー!」
 万感の思いを込めて、胸の内をさらけ出した。長い廊下に自分の声がエコー掛かって響き渡る。大声を出したせいか目もしっかりと醒め、鬱憤も少し晴れたような気がした。
「よっしゃ。コレでええやろ」
 自由を取り戻した体で大きく伸びをし、関節を小気味よく鳴らす。
 これで今日の予定は終了。
(腹、減った……)
 束縛から解放されると同時に胃が活動を始めたらしい。
 ここでの朝食はバイキングだ。まだ残っているかも知れないと、ベルグが踵を返して階下に向かおうとした時、
「朝から汚い声をバラまくな!」
 ベルグの横手にある部屋の中から、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「な、なんや……」
 あまりに鋭い声に気後れしながらも、ベルグは声の主を確かめるため、緩やかに湾曲した白い扉を抜けて部屋の中に入る。
「自分……」
 そこに居た人物を見て、ベルグは訝しげに眉を顰めた。
「今の声、自分のか……?」
 部屋の奥に置かれているグランドピアノにもたれながら、苛立たしげにタバコを吹かしている女性――ノア=リースリーフを指さしながら、ベルグは間の抜けた声を発する。
「……それはこちらのセリフだ」
 女性にしては低い声で言いながら、ノアはピアノの上に置かれている灰皿でタバコをもみ消した。肩に掛かった淡い緑色の髪の毛を邪魔くさそうに払いのけながら、ノアは鋭角的な目線でベルグを睨み付ける。
「なんや自分、デカイ声出せるんやんけ」
 先程の大声を思い出しながら、ベルグはどこか面白そうな顔つきでノアの方に近づいた。
 意外だった。
 初日に感じた物静かで落ち着いた雰囲気も悪くないが、今のように感情を剥き出しにしている方が人間味溢れていて何故かホッとする。
「俺はベルグ=シードや。まぁ短い付き合いやろーけど、ヨロシクな」
「……聞いてない」
 軽薄そうに話し掛けて来たベルグから目を逸らし、ノアは新しいタバコに火を付けた。
「なんやキッツイねーちゃんやなー。生きとるウチは楽しーしてた方がお得やでー」
「……一人でやってろ」
「あん? その首どないしたんや? 怪我でもしたんか?」
「……お前に関係ない」
 言いながらノアは紅い痣のような物が出来た首筋を隠し、出て行けとばかりに手を振ってベルグを拒絶する。
「あのな……俺は犬コロやないで」
「心配するな。お前に家畜程の価値があるとは思っていない」
「お! 『家畜』と『価値』掛けたんやな! なかなかやるやんけ! ほんなら俺は『今までヘーキやったのに、こんな僻地まで来たせいで風邪引いてもーたで、ヘッキチ!』って感じでどや!?」
「…………」
 ノアはまるで汚物を見るかのような視線をコチラに向けて来た。
「渾身のネタやってんけどなぁ……」
「……帰れ」
 大袈裟に肩を落として見せるベルグに、ノアは冷徹に言い放つ。
「へいへい、邪魔者はとっとと退散するわ。ところで自分、こんなトコで何しとんのや? 昼寝か?」
「……お前には関係ない」
 今、ベルグとノアが居るプレイルームにはグランドピアノ以外何もない。ただ無意味と思えるほどに広大な空間があるだけだ。
 こんな場所で出来る事と言えば、一人芝居でもしているか、何もしないで放心しているか、それとも――
「まーほんなら風邪引かんよーにな」
 ベルグはおどけたように肩をすくめ、ノアに背中を向ける。
「あーそうそう」
 そして立ち去り際、何か思い出したような声をわざとらしく上げた。
「さっきの自分の怒鳴り声、結構綺麗やったで。なんでこんなゲームに参加したんか知らんけど、もっと自分大切にした方がええんちゃうか?」
「……帰れ」
 一層低くなったノアの声。しかしそこからは、僅かに動揺の色が垣間見えた。

 夕食に出された料理の奪い合いでユレフと互角の勝負を演じた後、ベルグは腹ごなしに洋館内を散策していた。ローアネットに元気が無かったのが気になったが、一人にして欲しいと言われたので、それ以上は声を掛けなかった。きっと彼女も弟の病気について色々と考える事があるのだろう。
(『他の誰かのために』、か……)
 それは熱心な教会のシスターであった婚約者が、口癖のように言っていた言葉。彼女はコールド・エッジに冒されながらも、周りに心配を掛けないために明るく振る舞い続けた。自分の事よりまず、他の人の事を優先して考えていた。
(いっしょやな……)
 窓の外で青白い光を放ち、朧に浮かぶ双子月の片割れ。ソレを見上げながら、ベルグはローアネットがしている事を思い返した。
 弟のコールド・エッジを治すために人生を犠牲にし、躰を売り、そして今は命を掛けてこのゲームに臨んでいる。
 彼女は強い女性だ。自分などよりも遙かに。
 もし婚約者がもっと長く生きていたとして、果たしてそこまでしてやれただろうか。
 こんな生きる事を早々に諦めてしまうような自分勝手な人間に、他の誰かのために身を捧げる事など出来ただろうか。
 ローアネットは自分とはあまりに対照的だ。
 死ぬ事で全てに片を付けようとしている自分とは。
(アイツがくれた命、ね……)
 コールド・エッジに掛かっている事が分かった後、たった一ヶ月で逝ってしまった婚約者の事を思い浮かべる。
 ローアネットは言っていた。自分が三年以上の潜伏期間を経てなお生きていられるのは、婚約者が命を分け与えてくれているせいかもしれないと。彼女の潜伏期間がたった一ヶ月だった分、自分の方は延長されているのではないかと。
 そうかも知れない。そう解釈する事も出来る。
 しかし――
(ん……?)
 どこからか聞こえてくる歌声に、ベルグは思考を中断した。
 きつく張られた金属紙を爪弾いたかのように高く澄みわたり、そして力強さを感じさせる声。聞く者を魅了し、慈母のような包容力を伴って心に染み込んでくる。
(ノア、やな……)
 すぐに分かった。
 思った通りだ。彼女はあのプレイルームで歌を歌おうとしていたのだ。
 怒鳴り声の中に微かに混じっていたソプラノボイス。感情的な言葉にさえそんな物を混じらせられる者と言えば、特殊なトレーニングを受けた者くらいだ。
 ベルグはノアの声に誘われるように階段を上った。そして五階廊下に出た時、プレイルームの前に大きな人影を見かける。
(ヲレン……)
 先程、初めて夕食に姿を見せたかと思ったら、華麗なナイフさばきを見せた大男だ。外見に似合わず繊細な技能を身に付けているらしい。
 ヲレンは躊躇う事なくプレイルームの扉を開けると、部屋の中に足を踏み入れた。ひょっとして彼もノアの歌声に惹かれてここまで来たのだろうか。素性は知れないが、それなりに教養の身に付いた人物のようだ。
「……ふん。お前の予定って訳か」
 中から聞こえてくるノアの声。盗み聞きするつもりなどなかったのだが、自然と言葉が耳に入ってくる。
「……お前、死にたくないって顔してるな」
 ノアが嘲るような口調で言った。
「そうじゃない。お前、誰かに追い掛けられてるだろ。ソイツに殺されたくなくて逃げ出したい、助かりたいって顔してるぞ」
 少し間を置いてノアの声が続く。
 ノアと違いヲレンの声はくぐもっていて小さく、聞き取り辛いせいか会話の流れがサッパリ掴めない。
(死にたくない顔、か……)
 ノアが口にした言葉を、ベルグは無意識に胸中で反芻した。
 彼女は例え初対面であっても発言に遠慮はない。言われた方が不快に感じようと関係ない。それは朝方の会話でよく分かった。思った事、言いたい事は包み隠さずそのまま喋る。それが鬱陶しいと感じている相手であればなおの事。
 ヲレンは少なくとも自分よりは物腰が穏やかだ。恐らく、ノアに失礼な事は言っていないだろう。にもかかわらずノアは彼に辛辣な言葉を浴びせた。
 『死にたくない』『殺されたくない』『逃げ出したい』
 もしノアがベルグの顔を見て同じ事を感じたのなら、迷う事なく非難の言葉として使っているはずだ。
 しかし、それをしなかったという事は――
(俺は死にたそうな顔、してたんやろな……)
 思いながらベルグは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「お前といいユレフってガキといい分かり易いな。似た者同士か?」
 突然、あの生意気な子供の名前が上がる。
「どっちも臆病者って事だよ」
 臆病者。
 死にたくないから臆病者? 殺されたくないから臆病者? 逃げ出したいから臆病者?
 確かにそうかも知れない。だが、それは本来当たり前の事ではないか?
 生きたい。楽しみたい。幸せになりたい。
 そう思うのは人として当然の事だ
 ヲレンだって、ノアだって、そして婚約者だって。
 しかし、自分は違う。死を願っている。死にたいと思っている。
 今の自分には人として当然の事が欠けている。
 壊れてしまっている。精神的に。

『簡単に死ぬなんて言わないの』

 また、ローアネットの言葉を思い出した。
(本格的に末期、やな……)
 やる気なさそうに後ろ頭を掻きながら、ベルグはプレイルームの前を離れた。

 †五日目 【五階廊下 13:30】†
 昼食を済ませて少し休んだ後、ベルグはまたプレイルームへと向かっていた。本当はゆっくりローアネットとお喋りでもしていたかったのだが、予定表の内容がソレを許さなかった。
(メンド……)
 右手の上で『精神安定剤』と書かれた紙袋をもてあそびながら、ベルグはあくびを噛み殺す。
 キッチンの治療箱の中にあった液体カプセル。この袋の中にはソレが入っている。だが恐らくあのカプセルは精神安定剤などではないだろう。それどころか毒薬の可能性だってあり得る。
 誰かを殺すために。
(まー俺には……)
 関係ない。
 そう思いかけてベルグは顔をしかめた。
 少なくともローアネットだけには飲んで欲しくない。彼女は無事、この洋館から出て欲しい。そして弟のコールド・エッジを治して幸せに暮らして欲しい。
 だから自分の心配などせず、生き残る事だけに専念して欲しい。
(俺かて出来る範囲で手伝いさせて貰わんとなー)
 予定表にはこの紙袋をプレイルームに持って行くとだけ書かれていた。どこに置くかまでは指定されていない。ならばもの凄く怪しい場所に置いておけば、そんな所の薬など飲もうとは思わないだろう。
 ――勿論、予定表で指定されていれば話は別だが。
 取り合えずどこが最も怪しいか考えなら廊下を歩いていると、ノアの歌声が耳に入ってきた。また一人、プレイルームで歌っているらしい。
 出来れば隠れてコッソリと聞いていたかったが、予定表に書かれている以上そうも行かない。
(しゃーない。不可抗力っちゅーやっちゃ)
 自分に言い訳しながら、ベルグは白い前衛的なデザインの扉を開けた。そしてプレイルームへと足を踏み入れた瞬間、先程まで聞こえていた高音質のフルートのような声がぴたりと止む。
「……またお前か。何の用だ」
 ノアは半眼になり、露骨に不機嫌そうな視線をベルグに向けてきた。
「いやー、ちょっとした野暮用でなー。けどまーコレも何かの縁や。せっかくやから色々お喋りせーへんかー?」
「断る。出て行け」
 軽い口調で言いながら近寄るベルグを、ノアはにべ無くはねつける。
「つれへんなー。歌っとる時は、あーんな綺麗な声で、罪の無さそーな顔してんのに」
 眉を少し上げ、ベルグは紙袋を持っていない方の手を広げながら、おどけたように言った。その言葉にノアは眉を顰めて不愉快そうな顔になる。
「……お前には関係ない」
「まーまー、そー言わんと。出来たらもっかい歌ってくれへんかー?」
「断る」
「老い先短い俺に冥土のみやげ話持たすー思ーて」
「そんな気の利いた事をしてやる義理はない」
 ノアはタバコに火を付けながら、グランドピアノを挟んで反対側に立ったベルグを睨み付けた。
「ホンマつれへんなー。まーこれは単なる俺の直感なんやけどな。ひょっとしてノアちゃんがココ来たのって、その歌と何か関係あるんちゃうか?」
 ノアの気を逸らすため何気なく口にした言葉に、彼女の顔色が変わる。
 コチラを嘲るような固い表情が僅かに緩み、瞳の奥にほんの少しだけ好奇の色が浮かんだように見えた。
(アタリ、か……?)
 思いがけずノアの別な顔を見られた事に若干の戸惑いを覚えながらも、ベルグは彼女の目を盗んで、グランドピアノの弦が張ってある部分に紙袋を入れた。
 斜めに立てられた大きな蓋が邪魔になり、ノアからは死角になっているはずだ。一連の動きを彼女から視線を逸らさないまま行えば、怪しまれるような事はないはず。
「……ふん。勘のいい男だな」
 口の端をつり上げ、ノアは面白そうな顔つきでタバコを吹かした。
「なら私からも一つ言い当ててやろう。お前、迷いが出始めてるな」
 吸い込まれそうな輝きを放つ碧眼を細めながら、ノアはベルグを値踏みするような粘着質な目線を向けてくる。
「昨日見た時はもっといい顔をしていた。今のお前は臆病者だ。まぁ私の価値観で言えば、の話しだが」
 背筋に得体の知れない悪寒が走った。見る者を震撼させ、聞く者に恭順を植え付ける威圧的な雰囲気。胸中で澱のように鎮座する、ある種の感情。コレは畏怖の念だ。
 まるで何百年も生きてきたかのような老練な風格をノアは放っていた。心の中を丸裸にされたような錯覚さえ覚える。
「ひょっとしてお前、ココに来た事を少し後悔し始めてるんじゃないのか?」
「う、うぉ! なんでンな事まで分かるんや!」
 ベルグは彼女の纏う冷たい空気に呑まれまいと、わざと大きな声を出して自分を鼓舞した。
「さぁな……」
 ノアはタバコを灰皿でもみ消し、いったんベルグから視線を外す。
 金縛りが解けた後のような嫌な倦怠感が体にのし掛かった。
「実はなー、ちょっと気になる女がおってなー。なんかホンマ、どないしょーかなーって、正直迷っとるんや」
 彼女のペースで喋らせないため、ベルグは芝居がかったような仕草で肩を落として素っ頓狂な声を出す。
「ココ来るまでは別にどこでのたれ死んでもええ思ーとってんけどなー。なんか、今はちょっと、なー……」
 喋りながら、すぐにローアネットの事で頭が一杯になった。そして彼女が自分に掛けてくれた言葉を思い出す。
 ――生きて欲しい。
 ローアネットはベルグにそう言っていた。
 周りからも、そして自分からも見放された、このコールド・エッジに冒されている体を心配してくれた。だから、もう少しだけ生きてみようかという気持ちになってしまった。
(『他の誰かのために』……)
 自分のためではなく、ローアネットのために。
 そうする事で、今のローアネットの気持ちが多少なりとも分かるかも知れない。彼女の強さの一端に触れられるかも知れない。
「なぁノアちゃん。どないしたらええ思う?」
「知るか。一人で悩め。私には関係ない」
 元気のない喋りで言うベルグに、ノアは容赦なく厳しい言葉をぶつける。
「ココまで言わしといて、そら殺生やでー」
「お前が勝手に喋っただけだ」
「そんなー」
 情けない声を出すベルグ。
 と、不意にノアの視線が出入り口の方に向けられた。
「今日は客が多いな」
 つられてベルグもそちらに振り向くと、今まさに頭の中を占有していた女性が立っていた。
「ロ、ローア! どないしたんや、自分!」
 自分でも驚くくらい無様な声が出る。これでは怪しんで下さいと言っているようなものだ。
「お邪魔、だったかしら?」
 そんなベルグに呆れたような視線を向けながら、ローアネットは優しい笑みを浮かべて近づく。しかし目が全く笑っていないように見えるのは気のせいだろうか。
「い、いやぁ! ンな事あらへん! お話は大勢でした方が楽しいに決まっとる! なぁ、ノアちゃん!」
「……さぁな」
 一応ノアにフォローを求めてみるが、予想通り冷たくあしらわれた。ノアはローアネットから顔を背け、面倒臭そうに溜息をつく。
 元々一人で居る事を好む彼女だ。部屋に二人も入ってこられると、機嫌を損ねるのは自然な反応と言える。そして――
(あ、アカン……。最初に変な声出してもーたからか……)
 ローアネットが変に勘ぐるような視線を向けてくるのも自然な反応と言えた。
 ここは何とかして場の雰囲気を和ませなければならない。
「あ、そ、そーや! ローア! ノアちゃん、ごっつ歌上手いんやで! こぅ、なんちゅーか心が洗われるみたいな感じや! なぁノアちゃん! も一回歌ってくれへんか?」
「……断る」
 一層重苦しい空気が立ちこめた。
「はいはい、どーもアタシはお呼びじゃないみたいね。二人の邪魔して悪かったわ。どうぞごゆっくり」
 ローアネットは大袈裟に肩をすくめて見せると、ベルグに背中を向ける。
「ちょ、ちょー待てやローア! 自分、何か変な勘違いしとるやろ! 俺は予定表に書かれとったから仕方なく……!」
「ベルグ!」
 しかしベルグの言葉は、ローアネットが振り向くと同時に発した叫び声でかき消された。そしてすぐに自分の失態に気付く。
 ――予定表の内容を他の人に喋ってはならない。
(しま……!)
 ――ルールを破った者には死が訪れる。
(あれ……?)
 だが意識が遠のく事も、体に激痛が走る事もない。いたって普通だ。
 一瞬の安堵感。そしてこの状況を受けたベルグの頭は、全く別の方向へと思考を働かせた。
「う……!」
 ベルグは苦しそうな顔になり、胸を押さえてその場にうずくまる。
「馬鹿! 何て事するのよ!」
 すぐにローアネットがベルグのそばにしゃがみ込み、顔を胸の中へと抱き入れる。
(ウホッ)
 頬に当たる柔らかい感触。ベルグは緩みそうになる顔の筋肉を必死になって引き締め、苦悶の表情を浮かべ続けた。
「芝居だ。下らん」
「え……?」
 しかしノアの冷めた言葉に、ベルグを抱き寄せるローアネットの力が弱まる。
「ノアちゃーん、ネタバレすんの早いでー。もーちょっと、このふくよかな胸の中で……」
 幸せな感触を少しでも長く楽しもうと、ベルグは自らローアネットの胸に顔をすり寄せた。
「ベルグ!」
 怒声と共に、頬で感じていた男の悦びは消え失せ、代わりに鋭い痛みが走る。ソレはすぐに熱へと転化し、疼痛だけがわだかまった。
「本気で心配したじゃないの! この馬鹿!」
 目に涙すら浮かべ、ローアネットは体を強ばらせて叫ぶ。
「っつー……。いやいやスマンスマン、悪気は無かったんや。俺自身、ホンマにアカンか思ーたからな」
「悪気が無かったら何しても良いって訳じゃないでしょ!」
 心にまで響く彼女の叫声。
 本当に心配してくれているからこそ出せる声。
(アンタには、かなわんなぁ……)
 また少し、生きたいと思う気持ちが強くなった。これ程自分の事を想ってくれる女性を失望させたくないという気持ちが増してきた。
(他の誰かのために、か……)
 いつの間にかベルグは、ローアネットと婚約者を重ね合わせていた。
(アイツからも無神経やーゆーて、よー怒られたなー)
 その事を鬱陶しく思った時もある。意見が噛み合わず、何日も喧嘩した時もある。だが、それは全てベルグのためを思って言ってくれていた事。
 彼女を失った時、それがよく分かった。もう二度と怒って貰えない、自分の間違いを正して貰えない。ソレを知って初めて彼女の献身に気が付いた。コールド・エッジに掛かって以来、彼女程ベルグの事を想ってくれた人は居なかった。
 しかしローアネットは――
「……バレなければルール違反でも問題ない、という事か」
 ノアの冷静な意見に、ベルグは思考を現実に戻した。
「そーみたいやな。ま、時間差で来るかもしれんし、ルール違反の度合いによるんかもしれんけど、取りあえず今は平気みたいや。アクディはただ単純に俺らを殺したいわけやない。このゲームには何か意味があるんや」
 そう。必ず何か意味がある。今はまだそれに気付いていないだけ。
 だから真剣に考えなければならない。大切な物を失ってからでは手遅れなのだから。
「意味っ、て……?」
 どこか遠慮がちにローアネットは聞いて来た。
 どうやらもう怒ってはいないようだ。その事にベルグは心底ホッとする。
「例えば、や。俺らに届いた招待状。あれかてちょっと考えたらおかしいで。あんな物騒な内容の手紙、テキトーにバラまいとったら大混乱や。それこそ教会の連中の目に止まってみー、こんな洋館イチコロやで」
 だからそうならないためにも、アクディは何らかの基準に基づいて招待客を絞り込んでいるはずなのだ。
「でも待って。確かヲレンさんは教会の関係者だって言ってたわ。このゲームに生き残ってアクディを大司教の前に連れ出すんだって」
「教会の関係者ぁ? ホンマかぁ?」
 いきなり自分の推測を揺るがせる情報に、ベルグは思わず不審気な視線をローアネットに向けた。
「まぁ……本人から聞いただけだけど」
「もしそーやとしたら教会もエライ回りくどいマネすんなー。立派な物的証拠もあるーゆーのに。ソイツ偽モンちゃうんか」
「どーして嘘なんか付く必要があるのよ」
 ローアネットの声に不満げなモノが混じり始める。
 彼女を救うために真剣に考えるのは良いが、その彼女を怒らせるのはあまり得策ではない。
(もーちょっと言葉選ばんとなー)
 せっかく婚約者が『無神経だ』と指摘してくれたのに、全く活かせていない。 
「……つまり、お前は私達五人に何か共通点でもあると言いたいのか? ヲレンとか言う奴はソレを隠している、とでも?」
「そー! まさしくその通りやノアちゃん! さすが鋭いなー!」
「悪かったわね。鈍感で」
 まだまだ反省すべき点は多いようだ。
「さっきから何スネとんねん。ま、ちょっと怒った顔も色っぽいけどな」
「う、うるさいわねっ」
 自分なりのフォローに、ローアネットは顔を紅くしてそっぽを向く。その子供っぽい仕草に、ベルグは一瞬婚約者の面影を垣間見た。
「……で、その共通点って言うのは?」
 横手から入り込んできたノアの声に、ベルグは腕組みして難しそうな表情を浮かべる。
「いやまぁ、単なる憶測なんやけどな。もしかしたら、コールド・エッジ絡みなんちゃうかなーって。アクディゆーたら、錬生術かコールド・エッジやろ? 例えば、俺ら全員コールド・エッジに関わってるとしたら、アクディとの繋がりも無いこた無いなぁ思ーて。少なくとも俺は自分が掛かっとるし」
「……コールド・エッジ、ねぇ」
 ノアは新しいタバコに火を付けながら、どこか馬鹿にしたような視線を向けた。まるでコールド・エッジに掛かった者を嘲るような顔つき。
 その反応を見てベルグは確信する。やはりノアも何らかの形で関わっている、と。
「なぁノアちゃん。自分、ひょっとして親戚とかにコールド・エッジになった人とかおるんちゃうん」
「……さぁな」
 しかしノアはベルグの問い掛けに答える事なく、曖昧な返事をするだけだった。
(まぁ、そう来るやろな……)
 彼女の性格からして、すんなり行くとは思っていない。かといって問い詰めたところで彼女が素直に話すはずもない。
 どうしようかと考えていると、ローアネットが一歩後ろに下がった。心なしか顔が青ざめているように見える。
「話の途中で悪いんだけど、アタシはちょっと席を外すわ」
 か細い声で言い残すと、ローアネットはプレイルームの出入り口に歩き始めた。
「どないしたんや、腹でも痛いんか?」
「まぁ、ちょっと、ね……」
 途切れ途切れに言いながら、ローアネットは少し気まずそうな顔を肩越しに向けてくる。
 その表情を見てベルグはすぐに察した。
(予定、か……)
 ローアネットの予定表の中に、これから行わなければならない何かが書かれているのだろう。そうであれば止める事は出来ないし、詳しい事情を聞くわけにもいかない。
「フラれた、な……」
 くっくと喉を震わせて低く笑いながら、ノアは紫煙をくゆらせた。
「うるへー。ほんで、自分の周りにコールド・エッジに掛かった奴おらんのかい」
「居るじゃないか。目の前にアホ面下げたフラれ男が」
「……アホでえらいスンマヘンなー」
 面白そうにからかうノアに、ベルグはげんなりとした表情で返す。
「……で、ホンマのとこどうなんや? 出来たら話して欲しいんやけど」
「お前がどうしてピアノの中に怪しげな袋を入れたのか、それを言ったら私も喋ってやるよ」
 本当に色々とやりにくい女だと思った。

 結局、ノアの口からはっきりした事は聞き出せなかった。
 しかしほぼ間違いない。コールド・エッジという言葉を出した時、彼女が見せたあの表情。まったくの無関係ならば、あんな顔はしない。過去に何かあったからこそ嘲笑を浮かべた。
 これで五人のうち少なくとも三人はコールド・エッジに関わっていた事になる。
(あとはヲレンとユレフか……)
 キッチンに向かって伸びているレッドカーぺットの上を歩きながら、ベルグは鼻の頭に乗せた眼鏡の位置を直した。
 ユレフは夕食時に大広間で会えるだろう。わざわざこの広い洋館内を探し回る事はない。しかしヲレンは別だ。食事も昨日の夕方初めて来ただけで、他の日はいっさい顔を見ていない。
 さっきヲレンの部屋に行ってみたが誰も居なかった。彼もまた、予定か何かで出歩いているのだろうか。
 一日でも早く知らなければならない。この死のゲームの意味を。そしてローアネットに教えなければならい。死を回避する手段を。
(まぁ、それはそうなんやけど)
 先程からしきりに空腹を訴えてくる腹を押さえながら、ベルグは歩くスピードを上げた。
 珍しく頭を使ったせいかエネルギーの消耗が激しい。夕食まで持ちそうになかった。
(『小腹が減っては、い草も編めん』やったかな……。まー、何かあるやろ)
 自分の国の格言を思い浮かべながら、ベルグは大広間の扉に手を掛ける。
「……は、はは……はははっ」
(あん?)
 部屋の中から突然聞こえてきた誰かの声に、ベルグは不審気に眉を顰めた。
「ははははは!」
(な、何や何や何や!)
 まるで弾けたように室内から轟く笑い声に、ベルグは思わず後ずさる。
 『さわれぬ髪に“た、足りん”なし』
 確か髪の毛が無くなっても嘆くな、という意味合いだったと思う。
(違ったかな……?)
 出来れば部屋の中の人物とは関わり合いになりたくなかったが、この声には聞き覚えがある。
 ヲレン=ラーザック。今まさにベルグが探している人物だ。
(自分のスキンヘッドが気に入らんでおかしなったんかな?)
 とにかく幸か不幸か向こうから自分の前に現れてくれた。ここで会わない手はない。
 ベルグはなるべく音を立てないように扉を開け、中を盗み見るように視線を忍ばせた。
 思った通り、ヲレンが一人で高笑いを上げていた。
 ――暖炉の中で。
「……自分、ンなトコで何しとんのや? ヤバいクスリでもヤッとるんか?」
 ずり落ちそうになる眼鏡を直す事も忘れて、ベルグは掠れた声で言う。
「い、いや。これは、ベルグさん……」
 ベルグの声にヲレンは体を大きく震わせた後、気まずそうな顔をコチラに向けた。
「ちょ、ちょっと暖炉の中に大事な指輪を落としてしまいまして。それを、探していたんですよ、はい。ははは……」
「ふーん。指輪、ねぇ……」
 嘘だ。
 ヲレンの言葉を聞いて、すぐにソレが偽りである事が分かった。
 ローアネットの言う通り彼が教会の関係者であるならば、指輪を身に付ける事は禁止されているはずだ。なぜなら指輪などの貴金属の類は、悪魔との交渉に使われる物とされているのだから。
 とすれば指輪を落としたというのが嘘なのか、あるいは――
(コイツが教会のモンやないかや)
 恐らくは後者だ。ベルグの推測では、招待状が教会に出回っているはずがないのだ。
(まぁ、そんなんはどっちでもええわ)
 重要なのはヲレンがとっさに嘘を付いたという事実。当然、何か隠したい事があるはず。
(聞くか、コールド・エッジの事……)
 暖炉の中から慌てて出てくるヲレンの広い背中に、ベルグは薄く開けた猫目を向けた。
 ただ単に何気なく聞けば良いだけの事だ。
 『あなたの周りにコールド・エッジに掛かった人は居ますか?』と。
 しかし、今はタイミングが悪い。
 ヲレンが暖炉の中に入って大声で笑っていたという状況。どれだけ大目に見ても異常な事には変わりない。それにこの暖炉。名前は忘れたが、特殊な宝玉によって半永久的に燃え続ける代物のはずだ。それが今は消えている。となれば――
(予定表が何かかんでるんやろな)
 そう考えるが自然だ。というより、それ以外に理由が思い浮かばない。
 だとすれば予定表に書かれた行動を見られたヲレンは、ベルグの事を警戒している。予定表の内容を喋ってはいけないという思いを強く抱いている。
 コールド・エッジの話は予定表には全く関係無いだろうが、話題としては唐突だ。もしかすると、何か探りを入れられていると思い込むかも知れない。失言を誘い出す罠だと。
 そう取られてしまえば致命的だ。予定表の内容だけではなく、『コールド・エッジ』という単語そのものまで警戒されてしまう。
 もしそんな事になってしまえば、今後例え自然な会話の流れでヲレンにコールド・エッジの事を聞いたとしても、答えてくれなくなるだろう。
「まぁ、趣味は人それぞれやし。自分のやりたい事やったらええ思うけど……。ココ集まった奴ら、けったいなんばっかしやなー、ホンマ。まだローアが一番まともに見えるで」
(まぁええわ。焦る事ない。また別の時に見つけて聞いたらええんや)
 ベルグは自分の中でそう結論付けると、普段通りのどこか惚けたような口調で言った。
「そ、それでは、私はコレで」
「ちょい待ちーな。この暖炉の火ぃどーすんねん。自分、この何ちゃらって宝玉の点火方法知らんの?」
 ヲレンはベルグの呼び止めにも足を止める事なく、落ち着かない動きで大広間の出入り口へと駆け寄る。
「い、いや。多分、アーニーさんに聞けば分かるんじゃないでしょうか」
 やはり、ヲレンは自分で暖炉の火を消したのではない。
「無責任なやっちゃなー。ソレできたら苦労せんわ。あのメイドちゃん、メシ呼びに来る時以外殆ど見ぃひんねん。メンド業舐めとるで、絶対」
「ま、まぁ忙しいんじゃないですか? アクディの手伝いをしているのかも知れませんし」
 ヲレンは一方的に言い終えると、大広間から出て行ってしまった。
(ホンマ、気の小さそうなやっちゃ)
 ノアが彼の事を『臆病者』と称していた事を思い出す。そして今日、自分もそう呼ばれた。
(ひょっとしたら、俺も端から見たらあんなんなんか?)
 皮肉めいた笑みを浮かべながら、ベルグはヲレンの出て行った扉をしばらく見つめる。そして空腹だった事を思い出してキッチンに行こうとした時、
「ぉわ!」
 急に煌々と燃え始めた暖炉に驚き、二、三歩後ずさった。
「ベルグ=シード様」
「ぉおぅ!」
 更に後ろから聞こえてきた言葉に、ベルグは派手なリアクションで飛び上がる。
「な、なんや、メイドちゃんかい。ビックリさせんといてーな」
「それは大変失礼いたしました。ベルグ=シード様が私の業務に関して不満をお持ちのようでしたので、謝罪しようかと思いまして」
 アーニーは無表情のまま言った後、ベルグに深々と頭を下げた。
「あー、その、なんや……。アレはまぁ言葉の弾みっちゅーやつでな。別に悪気があったわけやないんや」
「悪気、ですか」
「ぁう……」
 痛い部分を繰り返されて、ベルグは情けない声を上げる。
 
『悪気が無かったら何しても良いって訳じゃないでしょ!』

 昼間、ローアネットに言われた言葉。
(ホンマ、俺っちゅーやつは無神経やなー……)
 胸中で深く反省しながら、ベルグもアーニーに頭を下げたのだった。

 †六日目 【五階廊下 13:55】†
(またココかい……)
 ベルグはヒリヒリとする手をさすりながら、五階廊下に敷かれたレッドカーペットの上を歩いていた。
 昨日の夕食時、結局ヲレンは姿を見せなかった。さらにはローアネットまで。まさか昼間の事で本当に怒ってしまったのだろうか。
 小さな体全部を使って食べるユレフにもコールド・エッジの事を聞いてみたが、『小生の周りにはそんな軟弱者は居ないでござる』と言われただけで、有益な情報は得られなかった。
(……ま、すぐにはハッキリせんか)
 疲れた顔になり、ベルグは先程玄関ホールの花瓶の中から手に入れた鍵に目を落とす。
 いや、ソレは『鍵』と呼べるような代物ではなかった。単なる棒だ。
 非常に屈折率の高い透明な素材で作られた棒は、窓から差し込む陽光を無数に乱反射させている。予定表に書かれていなければ、コレを鍵などとは思ったりしない。
(しっかしこんなモン、あん中にあったかなー)
 これだけ光を四方八方に散乱させる棒なら、クリスタル製の花瓶に入っていればすぐに気付くだろう。事実、かなり目立ってくれていたおかげで、ベルグは酸度の高い花瓶の水に長く手を入れずに済んだ。しかし今日、予定表の内容に従って取りに行くまでは全く目に入らなかった。
 今日の朝、誰かが入れたのか。それとも、この日のこの時間になって初めて姿を現すような仕掛けがしてあったのか。
 それは分からない。 
 さらに言うなら、自分が今どこに向かっているのかさえ分からない。
 予定表にはこの鍵を使って扉を開けるとしか書いていなかった。足が勝手に動いてくれているので、その扉の場所に向かっているのだとは思うが……。
(ノアちゃん今日はお休みか……)
 プレイルームの前を通り過ぎ、ベルグはノアの歌声が聞こえてこない事に、少なからず物足りなさを覚えた。
「お……」
 溜息をつきながらしばらく歩いていると、黒い金属製の扉の前で足が止まる。
 扉の表面には光る針金で、複雑な幾何学模様が描かれていた。
(鍵閉まってるトコやんけ……)
 洋館内をブラブラしていた時に見かけた怪しげな部屋だ。しかし常に解放されている他の部屋とは違い、鍵が掛かっていて中には入れなかった。
 鍵を持っているベルグの右腕が勝手に動き出したかと思うと、丁度扉の中央まで持ち上がって固定される。そしてどういう仕掛けになっているのか、鍵は自ら黒い扉に吸い付き、中へと呑み込まれて行った。
(開いた、んか……?)
 ソレを確かめるためにドアノブに手を掛けようとするが、体はベルグの意志に反して来た道を引き返して行く。これから自室に戻るのだろう。そこまでやり終えて、ようやく予定が終了する。
(ま、後でもっぺん来たらええか……)
 自分の部屋がある一階から五階までの道のりは遠いが、あの部屋に何があるのか非常に興味がある。少々の労力を払ってでも来る価値はあるだろう。それにその時にはノアの歌声も聞けるかも知れない。
「へ……」
 廊下の角を曲がろうとした時、その影から意外な人物が姿を現した。
「ベルグ=シード様」
 突然現れたアーニーは、いつも通りの淡々とした喋りでベルグに話しかける。
「ヲレン=ラーザック様が一階保管庫にて死亡いたしました」
「は……?」

 湿気を含んだカビ臭い埃と、それに混じる鉄錆の匂い。
 ベルグの眼下で二メートル近い巨漢を誇る大男が、体を小刻みに痙攣させながら倒れ込んでいた。
 ガラス玉のように虚ろな瞳には何も映し出されていない。喉元から溢れ出る鮮血に身を沈め、ヲレンは絶命していた。
(死んどる、な……)
 ヲレンの死体を見下ろしながら、ベルグは自分でも驚くほど冷静に今の状況を受け入れていた。
 死体を見たのは初めてではない。
 ベルグが初めて人の死を目の当たりにしたのは、婚約者がコールド・エッジを発症させた時。まるで眠っているようで……呼べばすぐにでも目を覚まして、不機嫌そうに目を擦りながら文句を言ってきそうだった。
 彼女の死は綺麗だった。
 言われなければ――いや、言われても死んでいるなどとは思えなかった。生きていた時と同じく、染み一つない透き通るような白い肌。
 そんな綺麗な体だったからこそ、ベルグは彼女の死を受け入れられなかった。
 しかし、ヲレンは違う。
 一目で死んでいると分かる。誰が見ても、死因は喉に突き刺さったガラスの破片。
 彼は死んでいる。間違いない。疑う余地など無い。
 ならば、受け入れられる。
(運が悪かったんか……)
 ベルグは観察でもするかのように、冷めた視線をヲレンに落とした。
 運悪く転んだところに、たまたまガラスの破片があった……。
(ちゃうな……)
 いや、そうではない。それでは説明の付かない事がある。
 どうしてヲレンは手を付いてガラスから逃れようとしなかった? それに一体何につまづいたというのだ?
(俺、か……)
 ヲレンのブーツの底に付いている粘性を持った液体を見て、ベルグは大きく目を見開いた。
 ここに来て三日目の夜。予定表に従い、ベルグはこの場所に油をこぼした。ヲレンはそれに足を取られて転んでしまった。そしてその先にガラスがあった。
(偶然……やないやろな、多分……)
 間接的にとは言え、自分も彼の死に荷担してしまった。
 一見無意味に思えたあの行動。アレはヲレンを死に至らしめるための伏線だった。
 しかし、それはヲレンがわざわざ裏口から保管庫に入り、なおかつガラスの破片が散乱しているという前提の元にのみ成り立つ事。
 あまりに不確定の要素が多すぎる。
 アクディはこんな偶然性に頼った方法で自分達を殺そうというのか?
(あん?)
 ヲレンの体を見ていたベルグの視界に、彼の着ているコートのポケットから一枚の羊皮紙が顔を覗かせているのが映った。
 見覚えがある。
 ソックリだ。自分の持っている予定表に。
(まさか……)
 ヲレンの予定表?
 伸ばし掛けた手を一瞬引っ込める。
 ルールでは予定表をお互いに見せ合ったり、内容を口に出したりしてはいけない事になっている。
 しかし、誰かの予定表をコチラが『一方的に』見た場合はどうなる? 『見せ合う』わけでも、『口に出す』わけでもない。
 屁理屈だと言われればそれまでだが、ぎりぎりルール違反ではないかも知れない。
 それに違反だとしても、バレなければ問題ないという事は身を持って確認済みだ。
 ベルグは周りに誰も居ないのを確認すると、ヲレンの予定表に手を伸ばしてゆっくりと取り上げる。そして二つに折られていた羊皮紙を広げ、内容に目を通した。
(……そう言う、事かい)
 なるほど。納得がいった。
 彼の予定表の六日目にかかれている予定。

 『ポケットに手を入れて裏口から保管庫に入る』
 
 ポケットに手を入れさせる事で両手を封じ、普段誰も使わない保管庫に裏口から入らせる事で彼のみに死をもたらす。
 自分がヲレンの足を取る油を用意したのならば、ガラスの破片も他の誰かが用意したのだろう。予定表に従って。
「ベルグ=シード様」
 急に後ろから声を掛けられ、ベルグは跳ね上がりそうになる心臓を何とか押さえつけて振り向いた。そして立ち上がりながら、ジーンズの尻ポケットにヲレンの予定表を押し込む。
「な、なんや、メイドちゃん。他の奴らは?」
 突然現れたアーニーに、ベルグは少し声をどもらせて言った。普段なら致命的な反応だが、今は死体を前にしている。少々の動揺を見せたところで不自然には映らないだろう。
 アーニーは先程、他の三人にも知らせると言ってベルグと別れた。しかしまだ誰も姿を見せていない。
「ノア=リースリーフ様とユレフ=ユアン様にはすでに声をおかけしました」
「ほ、ほんなら、ローアは?」
「ローアネット=シルフィード様には、ベルグ=シード様からお知らせ下さい。自室にいらっしゃると思います」
「は……? な、なんでや」
 意外な提案に、ベルグの声が更に高くなる。
「そちらの方が、良いと思いましたので」
 相変わらず淡々と喋るアーニーからは、全く内面が読みとれない。何を考えているのかは分からないが、確かにローアネットが受けるショックの事を考えると、今のような非人間的な口調で報告されるよりも、自分の口から言った方が幾分ましかも知れない。気休め程度にしかならないだろうが。
「わ、わーった。ほんならちょっと行ってくるわ」
 それに、ヲレンの予定表を彼の部屋に戻しておく時間も出来る。ルール違反を示す事になるかも知れない証拠を、いつまでも持ち歩きたくはない。

 ヲレンの死を知ったローアネットの反応は悲惨だった。
 自分を責め、自暴自棄になり、放っておけば確実に自殺していた。
 彼女がガラスの破片を用意したのは間違いないだろう。だがまさかこんな事になるとは思わなかったはずだ。それは自分も同じ気持ちだったからよく分かる。
 しかし、自分は彼女ほど崩れなかった。
 仕方のない事としてすんなり受け入れた。
 客観的に見れば、どう考えてもローアネットの反応の方が自然だ。
 もうすでにおかしくなってしまっている?
 自分の命さえ見捨ててしまうような人間だ。他人がどうなろうと知った事ではないのかも知れない。その場限りの思考や言葉で適当にやり過ごしているだけかも知れない。
 ローアネットを生き残らせるために招待客の共通点を推測し、このゲームの意味を考えようとしていたのも単なるポーズに過ぎないのではないか? 昨日の夕方、ヲレンにコールド・エッジの事を聞かなかったのも、面倒臭かっただけではないか? 夕食時、ユレフに『自分の周りには居ない』と言われてすぐに引き下がってのも、本当はどうでもいいと考えていたからではないのか?
 ――他の誰かのために。
 ベルグはローアネットに触れる事で、婚約者が残してくれた言葉の意味を深く理解する事が出来た。出来たつもりだった。
 しかし、所詮は上辺だけの自己満足だったのかも知れない。
(俺ぁ、無神経やからなぁ……)
 自分の隣で安らかな寝息を立てているローアネットの髪の毛を、ベルグは優しく撫でた。
 ヲレンの死の重さに耐えきれず、彼女の方から自分を求めてきた。彼女を慰めるため、少しでも力になるためにベルグはソレを受け入れた。
 彼女のため。他の誰かのために。
 だがソレは本心からなのか? 男の下劣な欲望に従順になっただけではないのか?
(なんかもー、何もかもがよー分からんわ)
 自分は元々、ココに死に場所を求めてやって来た。その時は思い悩んだりする事はなかった。全てを悟りきり、いつどこで死んでも悔いなどないと思っていた。
 しかし今は、ソレとは真逆の事を考えて始めている。
(まーええ……)
 溜息をつきながら、ベルグは自分の腕を枕代わりにしているローアネットの顔を横目に見た。
 自分の考え方の変化については一時保留だ。今はまだ漠然とし過ぎている。それよりもハッキリしている事を先に片付けよう。
(ローアは絶対に生きたままこっから出したる)
 彼女は自分とは違い、生きたいという思いに迷いはない。生きる事に価値を見出している。もし自分の命などで彼女を救う事が出来るならば、コールド・エッジに苦しみ続けたこの三年間もそれ程悪くなかったと思える。自分の命にも価値を見出せる。
(よし……)
 強い決意と共に、ベルグはローアネットを起こさないように細心の注意を払いながらベッドを出た。
 彼女を救う方法。それは招待客の共通点を暴く事でも、このゲームの意味を知る事でもない。
 もっと単純で、効果的な方法。
(予定表、全部書き換えたったらええんや……)
 ローアネットの予定表がどこにあるのか彼女自身に聞く事なく、ベルグが『一方的に』見つけてしまえばぎりぎりルール違反にはならないはずだ。
 そしてベルグはまだペンも石も使っていない。ヲレンがしたのと同じ手法を使えば、これで二日分は書き換えられる。さらにヲレンはまだ石を使っていないはず。ソレを見つけ出せば三日分。
 残り四日のうち、少なくとも三日を安全に出来る。もしローアネットがまだ書き換えていないのならば、間違いなく生き残る事が出来る。
(まずはヲレンの部屋から、やな……)
 石がある可能性が高いのはヲレンの部屋か、それとも彼の死体か。まずは探しやすい方からだ。それに彼の予定表も別の紙に書き写してゆっくり見てみたい。もしかしたら、ソコからローアネットの死の予定が予測できるかも知れないのだから。
 ベルグは服を着ながら、ローアネットの寝顔をもう一度見る。
(弟さんと、幸せにな……)
 そして足音を立てないように注意しながら部屋を出た。
 急がなければならない。時間はあまり無い。少なくとも自分は、間違いなく明日死んでしまうのだから。

 †七日目 【ヲレン自室 12:25】†
(あった……)
 昼を少し過ぎた時間になってようやく、ベルグはヲレンの持っていた石を見つけた。
 バスルームのすぐ隣りにあるクローゼットの中。沢山の衣類に遮られ、奥まった場所に置かれた小物入れ。その中に予定表の内容を消すための石がしまわれていた。
 小物入れに鍵が掛かっていたために、壊すのに時間が掛かってしまった。
 しかしコレで苦労も報われる。
 今からローアネットの予定表を見つけ出す事が出来ればベストだが、ソレが出来なかったとしても彼女の部屋にコレを置いておくだけでもいい。勿論、自分が持っているペンと石を合わせて。
 自分が生きている時に渡しても、ローアネットは使おうとしないだろう。ベルグを殺してまで生きたいとは思わないと言うはず。彼女はそういう人間だ。
 だが、すでに使い道が無くなってしまったとなれば話しは別だ。きっとローアネットはベルグの遺志を汲んでくれる。
(ま、やれるとこまでやってみよか)
 ベルグはローアネットの部屋に向かうため、ヲレンの部屋を出る。そして廊下を突き当たりまで歩き、階段を下りようとした時、
「ベルグ=シード様」
 階下から声を掛けられた。
 声の方に視線をやると、青白い肌をした無表情のメイドが立っている。
「な、なんや、メイドちゃん」
 出来るだけ動揺を表に出さないように気を付けながら、ベルグは返した。
 五人の招待客の部屋は、綺麗に各階に分けられている。つまり、それぞれの階には一人しか居ない。今居る三階はヲレンの階だ。彼が死んでしまった以上、ココにベルグが居るのは不自然だ。
「お、おー、そーか! 昼飯か! そろそろそんな時間やったな! 散歩しとったから丁度腹減ってきたとこや!」
 睡眠不足なせいか、我ながら無様な言い訳しか思い浮かばない。
「ベルグ=シード様」
 アーニーは顔色を全く変える事なく、もう一度ベルグの名前を呼んだ。
「ローアネット=シルフィード様が中庭で死亡いたしました」
 彼女の言葉が何故か遠くの方から聞こえてくる。
「……は?」
 今、アーニーは何と言った? 睡眠不足というのは聴覚にも重大な悪影響を及ぼすモノなのか?
「すでにノア=リースリーフ様にはお知らせしてあります。私はユレフ=ユアン様を探して参りますので」
「ちょっと待たんかい!」
 感情を表に出さない口調で言い終え、去ろうとするアーニーにベルグは怒声を浴びせる。
「ワレコラァ! あんまふざけた事言ってんちゃうぞ! ゆーてええ冗談と悪い冗談の区別もつかんのかい!」
 ベルグはアーニーに掴みかかり、彼女の両肩を強く握りしめると目を鋭く見開いて睨み付けた。
「冗談を言うようには命令されておりません」
 しかしアーニーは臆する事なく、いつも通りの淡々とした喋りで返す。
「ほんなら嘘付くようにでも言われてんのか!」
「そのような命令も受けておりません」
 ベルグの凄絶な形相にも、顔色一つ変える事なくアーニーは対応する。
「もぉええ! 話しにならんわボケェ!」
 ベルグは彼女を乱暴に放り出すと、転げ落ちるような勢いで階段を下りた。

 出来の悪いマネキン人形。
 それが中庭で見た物に対して、最初に抱いた印象だった。
 長く美しかった薄紅色の髪の毛は、頭や口、鼻から出た血で顔に張り付き、海岸にうち捨てられた藻のようにほつれて地面に根を下ろしている。細くしなやかな肢体には方々に紫色の痣ができ、両足は歪な方向へとねじ曲げられて、そして――少しだけ短くなっていた。
「……どこかの窓から飛び降りたのか?」
 視界の隅で、ノアが洋館を見上げながら言う。
 ――うるさい。
「……ソレにしては妙だな。この位置に落下するとなると、かなり横に飛ばなければならない」
 ――黙れ。
「……予定表に書かれている事は、肉体的な制限も関係なくするのか?」
「やかましいんじゃワレェ!」
 聞こえが良しに解説するノアに、ベルグは激昂して大声を上げた。
「そんなにおもろいんかい! ローアが死んだんがそんなに嬉しいんかい!」
 ベルグの怒声にノアは少し驚いたような表情をしたが、すぐに冷めた顔つきになると、胸ポケットからタバコを取り出して火を付けた。
「……お前には、そう聞こえたのか?」
 そして紫煙を吐き出しながら、薄く開いた眼をコチラに向ける。
「いくら私でも死者を蔑むような事は言わんさ。少しは頭を冷やせ」
「これが落ち着いてられるかい! ローアが! ローアが……! 何で……!」
 ベルグは変わり果てたローアネットの前に跪き、悔しそうに拳を地面に叩き付けた。
 目の奥に熱いモノが生まれる。それは三年も前に枯れ果ててしまったと思っていた物。もう二度と流さないと誓った物。
「……随分と変わったな、お前。最初に見た時とはまるで別人だ。お前は、私と同類だと思っていたんだがな」
 頭上からノアの静かな声が振ってくる。
「お前もそこらの一般人と同じだ。こんな所に居るべきじゃない」 
 ――こんな所に居るべきじゃない。
 それはベルグがローアネットに対して思っていた事。
 彼女は自分と違って生きようとしていた。だから何としてもこの洋館から無事に出してやりたかった。この命と引き替えにしてでも。
 しかし、結果は――
「その女は運が悪かったんだよ。予定表の内容通り行動して死んだ。死の回避に失敗したのはその女の責任だ。お前が気にする事はない」
「何やとぉ!」
「お前がその女に言った言葉だかな」
 顔を灼怒に染めてノアを睨むベルグに、彼女は間髪入れずに返す。
(俺、が……)
 確かに、ヲレンが死んだ時ベルグはローアネットにそう言った。そう言葉を掛けて慰めた。慰めたつもりだった。
 だが、逆の立場になってみるとよく分かる。いかに無神経な発言かという事が。
 ローアネットはこんな気持ちだったのか? 予定表の内容で仕方なくとは言え、ヲレンが死ぬ原因を作ってしまった。その罪悪感に苛まれ、自分を責め続け、自殺までしようとした。
 まるで今の自分と同じだ。
 心底思う。どうして自分が先に死ななかったのかと。そうすれば、ローアネットは三回も予定を書き換える事が出来たのに。
(今の俺と同じ……)
 自分で思った言葉に、ベルグは体温が一気に低下するような錯覚を覚えた。
(まさ、か……)
 ベルグは焦点の定まらない目で、ローアネットの躰の真上を見上げる。そこには小部屋が出窓のようにせり出していた。
 その小部屋の位置。洋館の五階部分から不自然に出っ張っている部分。
 あそこは、確か――
「クソ!」
 考えが終わるより早く、ベルグは洋館の中に飛び込んだ。

 悪い予感ほど的中する。
 思った通りだった。
「ウソ、やろ……」
 五階にあった黒い扉の部屋。昨日、自分が鍵を開けた部屋。
 その部屋には、床がなかった。眼下ではアーニーがローアネットの遺体を浮遊台車の上に乗せているのが見える。
 下から見た時には確かに床があった。しかし、上からは何も見えない。手で触れてみても何の感触も返ってこない。恐らく、特殊なシールドか何かが施されているのだろう。
(俺が、殺したんや……)
 自分がこの部屋の鍵を開けてしまったから。だからローアネットは死んだ。
 ヲレンの死因をローアネットが偶然作ってしまったように。今度はローアネットの死因をベルグが作ってしまった。
(なんや、コレ……)
 ベルグは放心したまま廊下を歩く。
 彼女を救う救うと言っておきながら、自分がこの手で殺した。
 言っている事とやっている事が正反対だ。滑稽だ。所詮、自分もアクディのゲームの中で踊らされているに過ぎない。
(もぅ、終わりにしよか……)
 放っておけば自分も五階の窓から飛び降りて死ぬ。予定表に書かれている内容の通り。
 ローアネットと同じ死に方だ。それでいい、それで何とか罪を償えるかも知れない。彼女と同じ死に方をする事で――
(いっしょや……)
 同じだ。三年前と。
 全く変わっていない。
 婚約者がコールド・エッジで死んで、すぐに自分もコールド・エッジに掛かって、そして同じ苦しみを味わって死ぬ。
 あの時の考え方と全く変わっていない。

『……随分と変わったな、お前。最初に見た時とはまるで別人だ』

 ついさっき、ノアに言われた言葉。
(俺は変わった……)
 自分でもそう思う。ローアネットと触れ合う事で、これまでとは考え方が変わった。

『簡単に死ぬなんて言わないの。貴方が辛いのは、分かってるけど……』

(ローア……)
 もう自分には、死という選択を安易に取る事は出来ない。絶対に――しない。
(そんなんは……『臆病者』のする事や)
 生きる。何としてでも生きる。
 自分のためだけではなく、ローアネットのためにも。

『他の誰かのために』

 笑顔のまま死んでいった婚約者のためにも。
(絶対に生き残って、アクディのドアホに引導突きつけたる!)
 生き残るためにまずしなければならない事。それは自分の予定表の書き換え。
 ベルグはジーンズのポケットに乱暴に入れていた予定表と、そこに文字を書き加えるペンを取り出す。
 そして予定表に書かれている『七日目14:54■五階の窓から飛び降りる■』という一文の最後に『フリをする』と書き足した。これで本当に飛び降りなくても良い。
 ヲレンも同じような事をして死を回避していた。この加筆は有効なはずだ。
 取り合えずこれで、『露骨な死』は免れた。
(次は……)
 ローアネットの予定表を探す。そして自分の推測を確かめなければならない。

(あった……)
 夕方。
 ローアネットの部屋でベルグは彼女を予定表を見つけた。
 ベッドの横にあるサイドテーブルの中。彼女はヲレンのように持ち歩いていたわけではなかった。
 ローアネットはすでにアーニーによって手厚く葬られた。血を拭き、髪の毛を整え、手足を伸ばして永冷シェルターに収められた。コレで彼女はシェルターのエネルギーが切れない限り、今の姿のまま永久に冷凍保存される。
 シェルターをどこに保管するのかまでは教えてくれなかったが、無事ゲームに生き残れば会わせると約束してくれた。恐らく、ヲレンも同じ場所にいるのだろう。
(ローア……)
 頭に彼女の笑顔を思い浮かべながら、ベルグは四つ折りにされた予定表を取り出して広げた。そして一日目から順番に目を通して行き……。
「――!」
 六日目に書かれた予定に目が縫い止められる。そこには明らかにペンと石で修正したと分かる一文が書かれていた。

『ベルグが生きたいと思うようになる』

 丁寧な文字で、そう書かれていた。
(アホ、か……アイツ……)
 たった一度だけの貴重な機会を、こんな下らない事に。
 いや、無理もないかも知れない。
 この気の緩みを誘う事。それがアクディの狙いなのだから。そして死を恐れれば恐れるほど、彼の術中に嵌る。
 ヲレンは『暖炉に飛び込む』という『露骨な死』を回避した後に死んだ。そしてローアネットがこの部分書き換えたと言う事は、間違いなくこの場所にも『露骨な死』が書かれていたのだ。彼女もまた、その後に死んだ。
 つまり、一見してすぐに分かる『露骨な死』は書き換える機会を浪費させるダミーであると共に、その後に訪れる『本当の死』へのカモフラージュなのだ。
 『露骨な死』を恐れれば恐れるほど、ソレを回避した時の安堵感は大きくなる。だからその後の『本当の死』に対しては無防備になる。もうこれで終わったという暗示に掛かってしまう。
 死を回避する手段を与える事で、あたかも予定に逆らっているかのように思わせておいて、実はソレすらも予定の範疇。最初から選択の余地など無かったのだ。
 ヲレンとローアネットは、アクディの巧妙な策略にまんまと嵌ってしまった。
(もっと、早よ気付いとったら……)
 ヲレンの予定表を見た時点でもっと真剣に考えていれば、ローアネットは助かったかも知れない。七日目の予定に書かれた『黒い扉の部屋に入る』という『本当の死』を回避させられたかも知れない。
 だが今は後悔をしている時ではない。とにかく生き残らなければならない。
 自分のため、婚約者のため、そしてローアネットのために。
 今、ベルグの手元には三枚の予定表、そして二つの石がある。
 残りはあと三日。
 二つの石で二日分の予定は消す事が出来る。問題はどれを残すか。

 『八日目09:05□最初の五分間だけ朝食を食べて席を立つ□』
 『九日目15:36□キッチンでつまみ食いをする□』
 『十日目23:09□深夜に一人で大浴場に行く□』

 こうして見ると、どの予定も怪しく思えてくる。
 二人の予定表を見る限り、『露骨な死』の直後に『本当の死』が来ていた。ならばまず消すべきは明日の予定か。そして二人の行動を見る限り冷蔵庫に関連する物が多い。二人の行動のどれかが、自分の死の伏線となっているとすれば、キッチンにはあまり近寄らない方がいい。
 残ったのは十日目の大浴場。
 だが普通に考えて、深夜に一人という状況は危険すぎる。罠を仕掛ける方も周りの目を気にしなくて良い分、行動が極めて楽になる。しかもゲーム終了まで一時間足らず。無意識の気の緩みを誘っているのかも知れない。しかし、そう考えている事自体、すでにアクディの策に嵌っているかも……。
 考えれば考えるほど分からなくなる。
(ノアちゃんとユレフの予定表を見れれば……)
 出来ればノアとユレフの予定表も盗み見たい。五枚の予定表が揃えば、かなり高い確率で『本当の死』が予測できる。だが、今やっている事でもルール違反ギリギリのはずだ。もし下手を踏んでルール違反が発覚し、それで死亡となったら目も当てられない。
(選ぶしか、ないな……)
 ベルグは意を決して、二つの石を取り上げた。

 †八日目 【大広間 09:00】†
 朝の大広間。
 昨日までは隣にいてくれたはずのローアネットの姿はもう無い。
 ベルグがこの洋館に来て初めて摂る朝食。いつもはコールド・エッジから来る脱力感で、朝早く起きる事が出来なかった。
 しかし、今朝は八時前に目が覚めた。予定表に書かれていたからではなく、自分の意思で起きる事が出来た。
 生きる事を決意したから。コールド・エッジに抗う事を心に決めたから。
(ちゃんと、お前の予定表通りになったで)
 ローアネットが予定表にペンで書いた内容を思い出す。一日遅れだったが効果はあった。死の予定表は、あんな突拍子もない事も実現してしまうのだろうか。
 ――単なる偶然。
 そう考えるのは簡単だ。だがそんな風には思いたくない。ローアネットのおかげで自分は心変わり出来た。それは紛れもない事実。
 たった一度だけの貴重な機会を費やして、彼女が込めた願い。もっと大切にしたい。もっと重く受け止めたい。肉体にも精神にも染みついて、この先一生離れないくらいに。
「……少しは元気が出たみたいだな」
 自分の向かいの席に座ったノアが、紫煙をくゆらせながら話しかけてくる。
「正直言って昨日は見てられなかったぞ」
 そして口の端をつり上げ、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ぁあ、ノアちゃんにも八つ当たりしてスマンかったな。けどま、もう大丈夫や」
「心の整理はついたでごさるか?」
 ノアの隣で、ユレフが少し元気のなさそうな表情で言う。
「まーな。一晩色々考えて大分落ち着いたわ」
「それは良かったでござる」
 もう、昨日までの自分とは違う。生まれ変わった気分だ。
 『なんとしてでも生きる』という強い意思を持つ事が出来た。
 絶対にこの狂ったゲームに生き残らなければならない。ローアネットの死を無駄にしないためにも。
「ご朝食をお持ちいたしました」
(来た、な……)
 アーニーが銀の台車に乗せて運んできた料理を、ベルグは鋭い眼差しで見つめる。
 結局、ベルグが消した予定は九日目と十日目だった。
 その二つの予定はあまりに曖昧すぎて対策を立てづらかったからだ。ヲレンとローアネットは『露骨な死』を回避して安心し、それ以降の予定を軽視しすぎだ。
 しかし自分は違う。これから起こる『本当の死』に対して、過剰なまでに警戒心を持っている。
 八日目の予定は五分間だけ朝食を食べる事。
 出来る事ならこの洋館で出される飲食物は一切口にしたくない。しかし予定表に書かれている以上、逆らう事は出来ない。
 だが、前もって対策を講じておく事は出来る。
 例えば、食器やナイフ、フォークに毒が付いていないかの確認だ。ヲレンとローアネットの予定にあった『キノコ』は鬼茸という毒キノコだった。それはすでに昨日のうちに中庭で実際に見て調べてある。だから念のため、十分ほど前に目に付く物は全て洗って置いた。 
 粉末化してあるので料理に直接入っているかも知れないが、もしそうならノアとユレフも死んでしまう事になる。前例が二つしかないので確実な事は言えないが、死ぬのは一人ずつだった。しかも一人で居る時だ。恐らく、他の人間が一緒に居ると助けてしまうかも知れないからだろう。
 そういう事も考えて八日目の予定を残した。この予定だけは他の二つと違って、皆が周りに居る時に起こる。
(後は、五分間だけコイツらとおんなじモン食べとったらええ……)
 予定表には何を食べるかまでは指定されていなかった。詳しく書かれていない部分は、自分で好きに出来るという事はプレイルームですでに確認済みだ。
 つまり、毒を回避するためには自分だけ特別な物を食べなければいい。幸いな事に、ここでの朝食はバイキング。確実とは言えないが、ノアやユレフが口にした物ならば恐らく大丈夫だ。アクディは三人一緒に殺すような事はしない。一度に沢山殺したいのなら、五人一斉に死んだ方が派手だからだ。
 それにアクディは、誰か一人を殺すための死の伏線を、わざわざ他の人間に用意させたりするような奴だ。そんな手の込んだ事をする人間が、終幕を雑に下ろしたりはしない。
 アクディは心から楽しんでいる。このゲームを。一人一人殺して、残った者が苦悩する様をどこかで見てほくそ笑んでいる。ローアネットのように、自分で自分を責める様子を見て狂笑を浮かべている。
 ソレが、このゲームの意味だ。
(狂人めが……)
 ベルグは鼻に皺を寄せて舌打ちした。
「……アクディが憎いか」
 テーブルの中央に置かれた大きなボウルから、ドレッシングの掛かったサラダを小皿に取り、ノアは低い声で言う。
「当たり前や」
 彼女がサラダを口に運ぶのを確認して、ベルグも自分の小皿に盛りつけた。
「アクディ様は、偉大でござる。これは……間違いないでござるよ」
 ユレフはポットに入ってる香草スープを皿に移しながら、少し自信なさ気な口調で反論する。
「間違いないんやったらボソボソ喋ってんと、もっとハッキリ言わんかい」
 ベルグも同じポットから香草スープを取り、ユレフが口に含んだのを見てスプーンですくった。
(あと三分や……)
 壁に掛けられた木製の大きな振り子時計を見ながら、ベルグはゆっくりとしたペースで朝食を進めていく。
「……まぁ、コイツにも色々と思うところがあるんだろ」
 ノアは意味ありげに言いながら、ユレフに視線を向けた。
 二人の間で何かあったのだろうか。
 だが今はそんな事はどうでも良い。自分が考えるべきは生き残る事だけ。その事だけに集中しなければならない。
(あと二分……)
 ノアが分厚いローストハムを薄く切って、そのまま口に入れる。ユレフは火喰い鳥のゆで卵にかぶりついた。
(あと一分……)
 ノアは香草スープを音も立てずにスプーンですくい、口に運ぶ。ユレフが赤宝樹の木の実をフォークで突き刺して噛まずに呑み込んだ。
 二人が食べた物と全く同じ物を選んで口に運びながら、ベルグは視線で射殺す程に振り子時計を睨み付ける。
 そして――
「……どうかしたのか?」
 急に立ち上がったベルグを見て、ノアが怪訝そうな視線を向けて来た。
「ぁあ、悪い。俺、もう腹一杯やわ」
「……そうか」
 ノアはそれ以上何も言ってこなかった。
 ローアネットの事で食欲が無いとでも思ってくれたのだろう。
(勝った……)
 自分はまだ生きている。『本当の死』はこの予定ではなかった。そしてこの後の予定は二つとも消し去った。アクディがあそこに何を用意していようと関係ない。もう予定表には束縛されない。
「本当にもういいでござるか。今日のデザートはきっと美味しいでござるよ」
「お前にやるわ。俺の分まで食って早よデカなれよ」
 それだけ言い残すと、ベルグは大広間を出た。
 報告に行こう。ローアネットに。
 ちゃんと、生き残ったと。

 ローアネットの部屋。
 そこにはまだ、微かに彼女の匂いが残っている。ベッドの上には、僅かに彼女の温もりが感じられる。
(俺、生き残ったで。お前のおかげや……)
 ベッドの上に腰を下ろし、ベルグは細く息を吐いた。
 一昨日はこの場所で愛し合った。三年ぶりに触れた女性の肌は、柔らかくて、温かくて、心地よくて……。
(ホンマ、どっちが慰められてたんか分からんわ……)
 まるで、婚約者と一緒に居るようだった。 
(あと二日や。二日したら、会えるで……)
 永冷シェルターで眠っているローアネットに。
ベルグはジーンズのポケットから三枚の予定表を取り出した。そしてもう一度自分の予定表を見る。九日目と十日目には確かに何も書かれていなかった。
(大丈夫やで……ローア。俺はもう大丈夫や) 
 もう一度見たい。彼女の顔を。そして網膜に焼き付けたい。鮮明に。
 もう二度と、死にたいなどという馬鹿な考えをしないために。
「あーあ……」
 ベルグは大きく体を伸ばし、大の字になってベッドに横になった。
「ん?」
 背中に当たる僅かな異物感。丁度背中の真ん中当たりに、ベッドの柔らかい感触以外の物を感じる。一昨日は、ローアネットが寝ていた場所だったので気付かなかった。
 ベルグは体を起こし、ベッドに敷かれたスプリングシーツの下に手を入れる。そして指先に当たった固い物を取り出した。
 それは黒い表紙の本だった。タイトルは何も書かれていない。
 最初のページを捲り、書かれている内容を見てベルグは思い当たった。
(アクディの研究日誌か……)
 確かローアネットが書庫で見つけた本だ。気分が悪くなって途中で読むのを止めてしまったと言っていたが。
 ベルグは流し読みで、大雑把に目を通していく。
(確かに、な……)
 書かれている内容を見て、ローアネットの気持ちが良く分かった。
 ここには医術師から錬生術師になったアクディの、自己満足とも言える研究成果が書き記されている。
(けどココに書かれとる『ギーナ』って名前、どっかで……)
 記憶を掘り起こし、ベルグはこのゲームが始まった初日にユレフが言っていた事を思いだした。

『お前、ギーナって名前に心当たりあるでござるか?』

(確かにゆーとった。けどなんでアイツが……)
 ユレフは熱狂的なアクディの信者だ。研究成果を教えて貰っていたとも考えられるが……。
 何か腑に落ちない物を感じながら、ベルグは先を読み進めていく。

『ギーナ以降、また人間としての形すら為さない失敗作が続く。あんな事をしてしまった罰なのだろうか。一番最初、思いも掛けずにあっさり形になったのは、ビギナーズラックだったのだろうか。ギーナは少しずつだが成長している。しかし彼女に関しては諦めた。やはり、人工ソウルだけから生み出したソウル・パペットは人間らしさを持てないのだろうか』

『タイプTまで全てが失敗に終わってしまった。だが、ギーナのように“型”を使うわけにはいかない。彼と失敗作との違いは何だ。本当に型だけなのか? もし他にあるとすれば……』

『成功した! 思った通りだ! 人工ソウルだけでは無理だったが、人間の体から取り出したソウルを混ぜる事で安定化に成功した! 彼女のソウルを保管しておいて正解だった! 素晴らしい! このタイプUは完璧なソウル・パペットだ! ギーナと違い最初からある程度人間味が備わっている! コイツは“ユレフ”と名付けよう! アルア言語で“始まり”と言う意味だ! きっと素晴らしい人間に成長するに違いない!』

「な……」
 その文章を見て、ベルグは思わず声を上げた。
「ユ、ユレフ……」
 さっきまで一緒に朝食を食べていた子供。彼がソウル・パペット?
 偶然か、それとも……。
「が……!」
 突然、喉の奥に熱いモノを感じでベルグは堪らず吐き出した。
 口から出た物が本に掛かり、紅く染め上げていく。
(なん、でや……)
 全身から力が抜けていく。足下で重い音を聞いて初めて、持っていた本を落としたのだと気付いた。
 平衡感覚を失い、ベルグはベッドの上から転げ落ちる。立ち上がろうとして再び口から大量の血が舞い、重力に引かれて床に叩き付けられた。
「残念だったわね」
 部屋の出入り口の方から声が聞こえる。
 その主を見て、ベルグは驚愕に目を見開いた。
「ロ、ローア……」
 湿っぽいモノが混じった声で、ベルグはそこに立っていた人物の名前を呼ぶ。
「毒を警戒したのは正解だったわ。でも、ちょっと詰めが甘かったわね」
「なんで、や……。何でお前が……」
 ローアネットはベルグの顔の側に座り込み、優しく微笑みかけてきた。
「貴方が死ぬ前に、会わせてあげようと思って」
 そして細長い指先でベルグの頬を撫でる。
「この姿で来たでござるよ」
「ユ……」
 ベルグの目の前でローアネットの姿がボヤけたかと思うと、良く知った少年の姿へと変化していった。
「ユレ、フ……」
「ベルグが飲んだ香草スープ。あそこに鬼茸の粉が混ぜられていたでござるよ」
 こちらの混乱をよそにユレフは淀みなく喋る。
「確かに小生もノア殿も同じ物を飲んだでござる。でもこうしてピンピンしているでござる。ベルグは朝食を途中で止めたから死ぬでござるよ」
(そういう、事かい……)
 口の中に広がる鉄錆の味を忌々しげに噛み締めながら、ベルグは激しく咳き込んだ。
「ベルグ」
 ユレフの体がぼやけ、ローアネットの姿になる。
「死ぬのは恐い?」
 そして彼女と全く同じ声で聞いてきた。
「そ、やな……。お前との約束、破ってまうんは、恐いわ……。あの世で……何言われる、か……分からん……」
 断続的に口から飛び出す血で言葉を途切れさせながらも、ベルグは張り付いた笑みを浮かべながら言う。
「死ぬって他にどんな気持ち? どの本を見ても書いてなかったわ」
「あたり、前や……」
  一度死んだ後、生き返った人間にでも聞かない限りは。
「ベルグでも、分からないでござるか……」
 再びユレフの姿へと戻り、彼は気落ちした表情で呟いた。
「変な、ヤツやな……」
 薄ら笑いと共にそれだけ言ってベルグは目を閉じる。
 もう何も考えられない。
 体がダルい。
 眠い。
(ローア、すまん……)
 そしてベルグは静かに体を横たえた。

 † † †

「アクディ様。ベルグ=シード様が死亡いたしました」
 アーニーは薄暗い部屋で、相変わらず微動だにしない男に声を掛けた。光輝蝶が彼の肩に止まって羽を休めている。
「アーニー……」
 男は彼女に背を向けたまま、いつもと変わらない声を発した。
「後は……お前に任せる……」
 そして同じ言葉を口にする。
 闇の胎動が聞こえてきそうな程の静寂。
「アクディ様」
 しばらく立ちつくしていたアーニーは、もう一度彼に声を掛けた。
「私はこのままで、本当に良いのでしょうか」
 手を胸に当て、彼女は僅かに躊躇うような仕草で言葉を紡ぐ。
「アーニー……」
 しばらく間をおいて、彼は最初と同じ声で彼女の名前を呼んだ。
「後は……お前に任せる……」
 言葉が終わると同時に訪れる、空気が凍てつくような静謐。
 それに身を晒しながら、アーニーは黙って彼を見つめた。
「承知いたしました」
 そして内面を消したような無表情に戻り、アーニーは慇懃に礼をして部屋を後にした。





空メールでも送れますが、一言添えていただけると大変嬉しいです。
BACK | NEXT | INDEX
Copyright (c) 2007 飛乃剣弥 All rights reserved.

-Powered by 小説HTMLの小人さん-

inserted by FC2 system