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未完の魂、死の予定表

Chapter 4

§ノア=リースリーフ§

 一日目13:20□ワインのビンを保管庫のテーブルの端に並べる□
 二日目16:28□自室のサイドテーブルにある透明の棒を包み紙でくるみ、書庫の本に挟む□
 三日目14:25□キッチンで沢山の調味料を使って料理をする□
 四日目15:30□五階のテラスで外を眺める□
 五日目22:56□メイドから渡された入浴剤を使ってお風呂に入る□
 六日目19:11□自室で読書をする□
 七日目20:05□冷蔵庫にある赤黒い粉末を、香草の入っている瓶に混ぜる□
 八日目15:42■自室で首をつる■
 九日目20:15□大浴場で入浴する□
 十日目13:09□大広間の時計の振り子が三十往復するのを見る□

 †一日目 【大広間 14:13】†
 人が生きるのに理由など要らない。ただ生きたいから生きる。
 だから死ぬのにも理由など要らない。死にたいから死ぬ。
 今、ノアの頭の中にあるのはそれだけ。
 死にたいと思うキッカケは確かにあった。自分が生きる意味を取り上げられ、目に映る物、耳に入る物全てに絶望し、完全に壊れてしまう前に死を望んだ。
 しかし、もうそんな物はどうでもいい。愚にも付かない下らない言い訳だ。結局、自分には湧かなかった。
 生への執着が。 
 自殺未遂などそれこそ数え切れない。薬物、リストカット、入水、飛び降り、ガス中毒。種類も豊富だ。
 しかし、いずれも成功しなかった。結局、自分には足りなかった。
 死への渇望が。
 だから途中で勇気が無くなって止めてしまう。しかし死にたい。でも死ねない。ソレの繰り返し。
 生きる事も死ぬ事もせず、ただ漫然と無意味な日々を送っていた。
 そんな時だった。アクディからの招待状が届いたのは。
「三人目発見でござーる」
 材質の良いクッションのソファーに身を沈め、中空に視線を投げ出しながら紫煙をくゆらせていた時、大広間の出入り口から子供特有の甲高い声が響いた。
 ノアは少しだけそちらに目をやり、すぐに興味なさそうな顔つきになって視線を外す。
「こんな所で何をやっているでござるか」
 ユレフの問い掛けにノアは何も返す事なく、クリスタル製の灰皿でタバコをもみ消した。そして機械的に新しい一本に火を付ける。
「何とか言うでござる」
「……消えろ」
 小走りに寄って来て自分の隣りに腰掛けたユレフに、ノアは不機嫌そうに言った。
「分かったでござる。小生の質問に答えてくれたらすぐにでも居なくなるでござるよ」
(鬱陶しい……)
 溜息をついて脚を組み、ノアはユレフから顔を背けるようにして窓の外を見る。
「アクディ様の開発した錬生術についてどう思うでござるか?」
「……どうでもいい」
 ノアは間髪入れず、思った事をそのまま口にした。
「興味ないでござるか?」
「……無い」
 気怠そうに言いながらくすんだ緑色の髪を掻き上げ、ノアは大広間を出ようと立ち上がる。何を聞きたいのかは知らないが、子供の暇つぶしにいちいち付き合ってやる義理はない。
 死の予定表だかなんだか知らないが、早く自分を殺して欲しい。
 さっきもソレを期待して保管庫に行ったのに、地下のワインセラーからワインを何本か持って来て、小さなテーブルの上に並べるだけで終わってしまった。期待外れもいいところだ。
「では質問を変えるでござる。ノア殿はどうしてココに来たでござるか?」
 ユレフは自分の後ろを付いてまわりながら、しつこく聞いてくる。一瞬、力ずくでそのうるさい口を塞いでやろうかとも考えたが、すぐに面倒臭くなって止めた。
「……死ぬためだよ」
 適度な暖気を室内にもたらしてくれる暖炉の前で立ち止まり、ノアはその中に吸いかけのタバコを放り捨てながら答える。
「最初からこのゲームに負けるつもりでござるか」
「……だったら?」
 そして初めてユレフの方に体を向け、自嘲めいた笑みを浮かべながら言った。
 ゲームだとか大金だとか、そんな物には最初から興味はない。ノアが欲しいのは確実な死。抗いようのない、絶対的な。
「小生には理解できないでござる」
 ユレフは金色の瞳を困惑に染めながら、眉間に皺を寄せて口を尖らせた。
「……ガキは難しい事考えなくていいんだよ」
「でも一つだけ言える事があるでござる」
 ノアの言葉に重ねるようにして、ユレフはどこか不敵な口調で喋る。
「最初から諦めてるようなクズに存在価値は無いでござるよ」
 包み隠す事のないストレートな物言いに、ノアは僅かに目を細めた。
「例えば、アクディ様の生み出したソウル・パペットの中にも優秀な奴とそうでない奴が居るでござる。優良種だけを残すために、出来の悪いクズは淘汰されるべきでござる。廃棄処分が似合ってるでござるよ」
「……く」
 自然と、口の端から小さな笑いが漏れる。
「……クククッ、あはは」
 乾いた笑みを口の中に含ませるノアに、ユレフは怪訝そうな目を向けた。
「何がそんなに可笑しいでござるか。普通、ココはムキになって怒るところでござるよ」
「そうだな。その通りだと思う。いや、全くもってお前の言うとおりだ。クズは所詮クズ。並以下の才能しか持たない奴に生きる価値なんか無い。死んで当然だ」
 目を瞑り、頭を軽く振りながら同意するノアに、ユレフは驚いたように目を丸くする。
「へぇ。気が合うでござるな」
「だが私はお前みたいな奴が一番嫌いだ」
 彼の言葉が終わらないうちに、ノアは低い声で言い放った。
 ソレに表情を固まらせたユレフは、追いつかない思考で必死に何かを理解しようとしているのか、焦点の合わない瞳を白黒させている。
「……質問には答えた。もう付いて来るなよ」
 吐き捨てるように言うと、ノアは小さく鼻を鳴らして大広間を後にした。

 †二日目 【自室 16:35】†
 今日の予定にも死は含まれていなかった。
 ただ得体の知れない透明の棒を紙で包んで書庫に持って行き、適当な本に挟んだだけだ。
 本当にそれだけ。全く意味のない行動。
 まるで、自分の人生のように。
(早くしてくれ……)
 ノアは自室のベッドに寝そべり、タバコを吹かしながら予定表に目を這わした。
 八日目に書かれた『自室で首をつる』という予定。恐らくコレはダミーだ。
 もし自分が罠を仕掛ける立場なら、こんな誰が見てもすぐに分かるような死に効果を期待したりはしない。
 何気ない日常。死を連想させるにはほど遠い予定。
 そこに罠を仕掛ける。
 だからこそいつ死んでもおかしくない。予想だにしない突然死。理不尽なまでの終幕。
 出来る限り早く訪れて欲しい。
 自分の決意が鈍らないうちに。やはり死にたくないなどと、無様な醜態を晒す前に。
「ノア殿。居るでござるか」
 ただでさえ不愉快な気分を、さらに加速させようとする人物が訊ねて来た。
「もし居るなら、そのまま黙っているでござるよ」
 そしてドアの向こうで訳の分からない事を言う。
「返事が無いので入るでござるー」
 頭痛と一緒に吐き気がしてきた。
 無遠慮に入って来たユレフを露骨に不愉快そうな表情で睨み付け、ノアはベッドの上に体を起こす。
「……今度は何だ」
「また聞きたい事が出来たでござるよ」
 ノアはユレフに聞こえるように大きな音で舌打ちをした。
「ノア殿は死ぬのが恐くないでござるか?」
 コチラが全力でユレフの事を拒絶しているのに、彼は全く意に介した様子もなく、平然と聞いてくる。コレが子供にのみ与えられた、図太い神経というヤツなのだろうか。
「頭が悪いようだからもう一度言ってやる。私はお前が嫌いだ」
「知ってるでござる。ソレは昨日聞いたでござる。小生は頭が良いから一度聞けば十分でござるよ」
 本気で子供を殴りたいと思ったのはコレが初めてかも知れない。
「けど天才で優秀な小生でも理解できない事をノア殿が言うから、やむなく聞きに来ているでござるよ」
 わざとなのか? コイツはわざと自分を挑発しているのか?
 リアクションに乏しい自分から何か目的の事を聞き出す為に、わざと感情的になるように仕向けているのか?
「ノア殿は死ぬのが恐くないでござるか? どうして死にたいでござるか? どうしてわざわざ負けためにゲームに参加するでござるか?」
 ああ鬱陶しい。これほど耳障りな声は久しぶりかも知れない。
「……自分で考えろ」
 ベッドの上に直接置いた灰皿でタバコをもみ消しながら、ノアは苛立たしげに言う。
「小生は今、お前が一番怪しいと思っているでござるよ」
 ノアを下から見上げながら、ユレフは語調を変えて静かに言う。
 さっきまでのように、どこか浮ついた雰囲気はもう無い。ただ純粋な思いを双眸に宿し、獲物を品定めするかのような視線を向けて来た。
 ――金色の両目に、鮮烈な殺意を込めて。
「……何の事だ」
 新しいタバコに火を付けながら、ノアはユレフの目を真っ正面から見据えて言う。
 絶対に揺れる事のない決意。
 彼の目からは強靱な意志を感じる。しかし、ソレと同時に繊細で儚い部分も垣間見えた。まるで脆い足場の上に立っている振り子のようだ。天才的なバランス感覚と資質を持ち、外乱さえ混じらなければ永続的に強さを保ち続けられるが、ほんの僅かな衝撃で足下が崩れて行く。
 ソレはどこか、かつての自分を彷彿とさせた。
「他の三人とも話をして来たでござるよ。ベルグは良い奴でござる。本気で小生の事を心配してくれていた。ローアネットは強い女性でござる。自分の弱い部分を熟知して、いざとなればそれを克服できる勇気を持っている。ヲレンは生に飢えているでござる。絶対に死にたくないという思いを感じた。どれもこれも、小生がかつてギーナにした事のない評価でござる。ギーナはただ小生の事を恐れ、無様に怯えて、心の底から嫌っていたでござるよ」
 ユレフは途中で息継ぎする事さえなく一気に言い切る。そして挑発的な視線でコチラを射抜き、楽しそうに口を開いた。
「お前だけが小生の事を『嫌いだ』とハッキリ言ったでござる」
「……ああ。確かに言ったな。『大嫌いだ』と」
「つまり、お前がギーナでござるよ」
 勝ち誇ったように宣言するユレフに、ノアは瞑目して溜息混じりに肩を落とす。
「……で? 言いたい事は沢山あるが、仮に私がそのギーナとか言う奴だったらお前はどうするんだ?」
「こうするでござる!」
 叫ぶと同時に、ユレフは床を蹴ってノアに飛びかかった。そして自重で沈み込むベッドの上を流れるような足運びで移動し、一瞬のうちにノアの背後を取る。
「命乞いをするがいいでござるよ」
 喉元に当たる冷たい感触。
 目だけを動かして下を見ると、リッパー・ナイフが視界に映った。
 ユレフのような子供でも、簡単に扱えるくらい軽い素材で出来たナイフだ。通常、刃はグリップにしまい込まれ、外圧によって飛び出す仕組みになっている。だからポケットに忍ばせ、出すと同時にグリップを強く握りしめる事でナイフにするのが普通の使い方だ。今、ユレフが実演して見せたように。
 刃の厚みは薄いが強度は充分あり、それ程力を入れなくても人の肉くらい簡単に引き裂く事が出来る。
 ノア自身、何度も自殺に使っていたからこのナイフの事は良く知っている。
「……どうした。いくら切れ味の良いナイフでも引かなければナマクラと変わらないぞ?」
 いつまでたっても手を動かそうとしないユレフに、ノアは馬鹿にしたような口調で話しかけた。
「なぜ抵抗しないでござるか。どうして助けてくれと叫ばないでござるか」
 後ろからのユレフの声に、ノアは溜息をついて紫煙を細く吐き出す。
「……やはり、お前は頭が悪い。昨日言われた事も覚えていないなんてな」
「あんな物はハッタリでござる! 小生を混乱させるためのデマカセでござる! 心の中では惨めったらしく怯えてるでござる!」
「……なら早く確かめればいい。この手をもう少し自分の方に引き寄せて、軽く横にずらすだけで答えが出る」
 ノアはリッパー・ナイフを持ったユレフの手を無造作に掴むと、刃をより深く喉に食い込ませた。しかし、そこで手が止まる。横に引く事は出来ない。やはり、自分で最後を締めくくる勇気はない。
「……後は任せる」
 それだけ言ってノアは手を下ろした。
 リッパー・ナイフが小刻みに震えだす。その微弱な振動だけでも、刃は確実にノアの喉に食い込んでいった。
「何をそんなに怯えているんだ」
 ノアの煽るような問い掛けにも、ユレフはすぐ返事をしない。そのまま二呼吸ほどの間があき――
「……ちょっと、分からなくなったでござる」
 力無いユレフの言葉と同時に、ナイフはゆっくりと下ろされた。
「絶対に、お前がギーナだと思っていたでござる。小生の経験からして、確信を揺るがされたのは初めてでござる」
「……そうか」
 ノアはつまらなそうに言いながらタバコを灰皿でもみ消す。
 また死に損なった。後に残るのはいつもと同じ。中途半端な傷跡と、死ぬ事すら満足に出来ない自分への憐憫。
 さっきまでナイフの触れていた部分に手を添え、そっと離す。手の平に付いた細く紅い線から想像される傷口は、致命傷にはほど遠かった。
「また、来るでござるよ」
「……その時はもう迷うなよ」
 肩を落として部屋から出ていくユレフの背中は、一段と小さく見えた。

 †四日目 【プレイルーム 10:02】†
 昨日の予定にも死は含まれていなかった。
 沢山の調味料を使うと書いてあったから、その中に毒でも仕込まれているのかと期待していたのだが、当てが外れた。
 出来た料理は単に『死ぬほど不味い』だけだった。
 自分に料理の才能がない事を、ハッキリと告げられてしまった。どうやら天は二物を賜うる程あまくはないらしい。
(ま、今となっては二物どころか一つも無くなってしまったが……)
 やる気無さそうに薄く目を開けながら、ノアはプレイルームの一番奥にあるグランドピアノにもたれかかった。
(まぁいいさ……)
 黒い鍵盤を適当に押して、でたらめな音を出す。フラット掛かった半音低い音の羅列は、暗い音階を組み上げていった。
(今日か、明日か、明後日か……。死ねばどうでも良くなる)
 昨日、ユレフは部屋に来なかった。彼の存在こそが自分の死の予定なのかと思っていたのに、残念でしょうがない。
 彼はあの時、明らかに崩れていた。今まで築き上げてきた物が完璧であればあるほど、それが崩壊した時のショックは大きい。恐らくユレフはこれまでの経験則に当てはまらない事に直面して、何か下らない事で悩んでいるのだろう。
(失敗したな……)
 あの時、無様に泣き叫べば良かった。
 そんな事を考えながら、ノアは胸ポケットからタバコを取り出した。そして火を付け、浅く煙を吸い込んだ時、
「いっぺんでええから牛丼特盛り腹一杯食ってみたいー!」
 鼓膜を揺るがす大音声が響き渡った。
 纏まりも磨きも何もない、ただ濁音を並べ立てただけの極めて無節操な声。
 虫酸が走る。怖気を覚える。生理的に受け付けない。この世に存在する『音』として認めたくない。
「朝から汚い声をバラまくな!」
 気が付けば、ノアは自分でも驚くくらいの声で叫んでいた。
 直後、喉に鋭い痛みが走る。まるで同じ傷口を何度も抉られるような激痛。肉体的にだけではなく、精神的にも。
(くそ……)
 喉を押さえながら舌打ちした時、プレイルームの出入り口が音もなく開いた。そして先程の悪声の主らしき人物が入ってくる。
「自分……。今の声、自分のか……?」
 異国訛りのある特徴的な喋り。
 ノアは紫煙を吐き出しながら、彼を横目に見た。確かベルグとかいう名前だったか。どういう理由かは知らないが、ユレフが『良い奴』と評価していた人物だ。
「……それはこちらのセリフだ」
 痛む喉に気を遣いながら低い声で言い、ノアはピアノの上に置いた灰皿でタバコをもみ消した。そして面倒臭そうにベルグを睨み付ける。
「なんや自分、デカイ声出せるんやんけ。俺はベルグ=シードや。まぁ短い付き合いやろーけど、ヨロシクな」
 ベルグは軽い調子で言いながらノアに近づいた。
「……聞いてない」
 新しいタバコに火を付け、ノアは彼から視線を外す。
 別に彼になど興味は無い。短かろうが長かろうが、こういう軽薄な輩と親しくするつもりはない。もっとも、ユレフのように自分を殺してくれるというなら話は別だが。
「なんやキッツイねーちゃんやなー。生きとるウチは楽しーしてた方がお得やでー」
「……一人でやってろ」
 もう、楽しく生きる事など出来ない。二年前にその手段を取り上げられてしまった。後はいかにして死ぬか。ただそれだけ。
「あん? その首どないしたんや? 怪我でもしたんか?」
 一昨日、ユレフにリッパー・ナイフで付けられた傷跡を覗き込みながら、ベルグは聞いてくる。出血はすでに止まっていたが、まだ完治したわけではなかった。
「……お前に関係ない」
 首筋を隠しながら、ノアはベルグの方にかざした手を振って『消えろ』と意思表示する。
「あのな……俺は犬コロやないで」
「心配するな。お前に家畜程の価値があるとは思っていない」
 自分もそうだが。
「お! 『家畜』と『価値』掛けたんやな! なかなかやるやんけ! ほんなら俺は『今までヘーキやったのに、こんな僻地まで来たせいで風邪引いてもーたで、ヘッキチ!』って感じでどや!?」
「…………」
 こういうノリには付いていけない。無意味にテンションの高い奴と話をしていると本当に疲れる。
「渾身のネタやってんけどなぁ……」
「……帰れ」
「へいへい、邪魔者はとっとと退散するわ。ところで自分、こんなトコで何しとんのや? 昼寝か?」
 ベルグの言葉の中に何か異質な物が混じった。ほんの僅かな変化だが、はっきりと分かる。
 探りを入れているわけではない。コレは確認だ。
 ベルグは自分がココで何をしようとしていたか、分かっていて聞いている。
「……お前には関係ない」
 低い声で言い、ノアはベルグから目を逸らしてタバコを吹かした。
(コイツも、私と同じか……)
 ある程度研ぎ澄まされた感性を持っている。確たる根拠など無くても、直感だけで物事を見分け、判断出来る能力がある。
 ならば、ココに来た理由も……?
(死にたがり、か……)
 命を賭けたゲームに参加しているにもかかわらず、明るい顔が出来るのはそれなりの理由があるからなのだろう。
 ユレフのように極端な思考を持っているからなのか、それとも自分のように最初から生き残るつもりが無いからなのか。
 恐らく後者だ。ベルグは言動と同じく、自分の命も軽く見ている。だから死が張り付いていても笑っていられる。そういう目をしている。
「まーほんなら風邪ひかんよーにな」
 ようやく自分が拒絶されていると感じてくれたのか、ベルグは諦めたように肩をすくめてノアに背中を向けた。そして出入り口へと歩を進める。
(やれやれ……)
 やっとうるさいのが居なくなる。
 そう思いながらグランドピアノに目を落とした時、
「あーそうそう」
 ベルグは立ち止まって、再びコチラに顔を向けた。
「さっきの自分の怒鳴り声、結構綺麗やったで。なんでこんなゲームに参加したんか知らんけど、もっと自分大切にした方がええんちゃうか?」
(コイツ……)
 どこまで読んでいる。どこまで自分の内側に入り込んだ。
 ノアは彼の胸中を探るかのように、鋭い視線でベルグを射抜いた。
「……帰れ」
 絞り出すようにしてノアはもう一度拒絶の言葉を発する。そこに混じる僅かな動揺。常人なら気付かないだろうが、ベルグならあるいは……。
(まぁいいさ……)
 彼がどこまで自分を知ろうと関係ない。どうせあと数日でお別れする体だ。どうなろうと知った事ではない。
 ノアはベルグがプレイルームから出て行ったのを確認して、グランドピアノの椅子に腰掛けた。白く細長い指を鍵盤に乗せ、僅かに力を込めて下に押し込む。
 重い手応えと共に、澄み切った高い音と厚みのある重低音が、絶妙なバランスで室内に響き渡った。そして流れるような指運びで、深さのある音律を次々と紡いで行く。
 慣れた手つきで透明感のある曲を奏でながら、ノアはゆっくりと口を開いた。
 ピアノの音色に美しいソプラノボイスが混ざり合う。
 それは声と言うよりも、一つの音楽だった。ピアノが発する音階の中に、ノアの生み出した音楽が自然な形で溶け込み、単体では到底成し得ない超高域まで音楽の完成度を高めていく。
 体が音律と一体化していくような錯覚。頭の中に次々と湧いてくるイメージを音で表現しているうちに、ノアの気持ちは徐々に昂ぶって行った。
 しかし――
「……っ」
 突然、音楽に綻びが生じる。
 自分の思い描いたモノとはあまりにかけ離れた譜面をピアノが読み上げた。そして喉の奥に生じる冷たい塊。鈍い痛み。
(やはり、ダメか……!)
 苦々しい顔つきになってノアは両手を鍵盤に叩き付けた。
 耳をつんざくバラバラの雑音。室内を一気に支配したソレが、空気に溶け込むようにして尻窄みに消えていく。
「……く」
 自嘲めいた笑みが口の端から漏れた。
「クククッ……」
 何を今更。何度も確認して来たではないか。
 もう自分は歌えない。長く歌声を出す事が出来ない。大声で怒鳴りつける事も、感情的になる事も許されない。
(私は、自分で自分を潰したんだ……)
 このピアノも言っていた。
 もう歌うな、と。
 そんな事は分かっている。自分はもう二度と、満足のいく歌を歌う事は出来ない。
 分かっている。十分すぎるほどに理解している。数え切れないくらいこの身に刷り込まれた。だから死を選んだ。
 なのに――
(未練たらしいぞ。ノア=リースリーフ)
 呆れたような顔つきになってノアは立ち上がった。そしてタバコを取り出して火を付け、深く吸い込む。
 自分の喉を完全に潰すために二年前から吸い始め、日に日に量を多くしていったタバコ。フィルターなど当然ない。
 しかし声が出なくなる事はなかった。まるで自分の努力を嘲笑うかのように、歌声は僅かに出続けた。そして儚い希望を残し続けた。
 もしかしたら喉が治るかも知れない、と――
(馬鹿馬鹿しい……)
 そんな事起こるはず無い。叶わない願いを抱き続けるほど辛いモノはない。
 だからココに来た。確実に死を迎えるために。死を持って歌と決別するために。
(あと数日、だな……)
 カッターシャツの胸ポケットに詰め込んだ死の予定表を取り出して、暗い視線を這わす。
 そしてタバコを灰皿でもみ消し、ノアは再び口を開いた。

 予定表に従い五階のテラスで外を眺めた後、ノアは再びプレイルームに戻って歌を歌っていた。喉の痛みを覚えて歌うのを止め、しばらく休んでまた歌う。
 それの繰り返し。
 どうせあと数日で死んでしまうのだ。最後に好きなだけ歌うのも悪くない。歌で完全に喉を潰してしまうというのも一興だ。
 午後六時過ぎ。今歌っている曲で自分のレパートリーを終えようかという時、プレイルームの扉が開いた。
 性懲りもなくベルグが来たのかと思ったが、入って来たのは二メートル近い大男だった。
 ヲレン=ラーザック。ベルグとは対照的に物静かな雰囲気を持つ男だ。
「……何の用だ」
 だが邪魔者である事には変わりない。
 ノアはヲレンに聞こえるように大きく舌打ちし、低い声で言った。
「スイマセン。お邪魔でしたね。ちょっとした用事がありまして。すぐに退散しますよ」
 ヲレンはわざとらしい愛想笑いを浮かべながら、コチラに近づいてくる。しかし自分に用事がある訳ではないようだ。だとすれば――
「……ふん。お前の予定って訳か」
 ノアは緑色の髪の毛を荒っぽく梳きながら、鼻を鳴らして言った。
 彼の動き方におかしいところはない。しかし、自分の意思で行動している顔ではない。決して望んでいないが仕方なくやっている。そんな表情をしている。
 ヲレンは言葉を返す事なく、無言のままグランドピアノの横に来た。
 黙っているところを見ると図星だったようだ。
 別に彼の予定が気になったわけではない。ただ歌を中断させられ、不愉快な思いをもたらした報いは当然受けて貰わなければならない。
「……お前、死にたくないって顔してるな」
 ノアは新しいタバコを一本口にくわえて火を付ける。そしてヲレンの表情から内面を読み取っていった。
 彼の場合、ベルグと違って実に分かり易い。考えている事が全て顔に出ている。
(まぁ、人間的と言えば人間的か……)
 紫煙をくゆらせながら、ノアは目を細くした。
「そりゃあ誰だって死にたくはありませんよ。いくら神に仕える身とは言え、私だって命は惜しい」
 不自然な作り笑い。
 聞かれたくない事にこれ以上踏み込まれまいと、何とかして話を逸らそうとしている。
「そうじゃない。お前、誰かに追い掛けられてるだろ。ソイツに殺されたくなくて逃げ出したい、助かりたいって顔してるぞ」
 彼の顔には常に怯えの色が混じっている。そして焦燥と切迫。
 ユレフがヲレンを『生に飢えている』と評した理由がよく分かった。彼は何かから逃れようとしている。
 ヲレンは固い表情のまま、グランドピアノの中を覗き込んだ。そして弦の張られているところに手を差し入れる。その手を引き上げた時、彼が持っていたのは小さな紙箱だった。
「そんな物が挟まっていたのか。どうりで……」
 どうりでピアノの音がおかしかったはずだ。
 あの音は自分に、もう歌うなと言ったわけではなかった。異物が入り込んでいたから、出るべくして出た音だったのだ。
 その事に、ノアは少なからず安堵を覚える。
「それでは私はこれで。どうも失礼しました」
 用事を終え、足早に去ろうとするヲレン。大きいはずの彼の背中が、猛獣に追われている手負いの小動物のように小さく見えた。
「お前といいユレフってガキといい分かり易いな。似たもの同士か?」
 ノアの言葉にヲレンは少し体を震わせて足を止める。
「……仰ってる意味が分かりませんが」
 そして背中を向けたまま小声で言った。
「どっちも臆病者って事だよ」
 それはヲレンとユレフだけではなく、自分にも向けられた言葉。
 ヲレンはノアに何も返す事なく、部屋から出て行った。
(私は、臆病者だ……)
 歌も諦められない、自分の命を絶つ勇気すら出ない。醜態を晒したまま愚鈍に生き続けている。
 人任せで、周りに流されるだけのどうしようもない臆病者。
 人生の絶頂期から一気に堕落し、精神の弱さを痛烈に感じて、過去の自分から来る言葉に怯えながら毎日を送るだけの存在。
(それが……私だ)
 もう居なくなったヲレンと自分を重ね合わせながら、ノアはグランドピアノの椅子に腰掛けた。
 そしてお気に入りのメロディーを奏でる。
 午前中に弾いた時のような雑音は、もう出なかった。

 †五日目 【プレイルーム 19:51】†
 昼間、ベルグとローアネットがココに来た。
 ローアネットの方は分からないが、少なくともベルグは予定表に従って来たようだった。弦の間に下らない物を挟むというのが、最近の流行なのだろうか? 『精神安定剤』と書かれた怪しげな袋は、適当に放って置いた。
(それにしても……)
 ユレフの評価はなかなかに当を得ている。
 ローアネットは確かに強い女性だった。内面から発せられる輝きが自分などとは比べ物にならない。
 ベルグはあれで良い奴なのかもしれない。ユレフが仕掛けてくる悪戯に、文句を言いながらもいちいち構ってあげている。昼間の自分の推測を確かめるために、ユレフにコールド・エッジの事も聞いていた。恐らく、ローアネットのために。
(コールド・エッジ、ね……)
 その話しを出された時は思わず笑ってしまった。あんな物の治療など受けなければ良かった。あれだけの大金を支払って治したのに、今の自分の精神はコールド・エッジの患者そのものだ。生きる希望も気力もなくし、ただ死を望んでいる。ベルグもコールド・エッジに掛かっているらしいが、とてもそうは見えない。
(アイツも変わったな……)
 最初に見た時のような諦観した表情はなりを潜め、代わりにローアネットへの想いが伝わって来た。彼女を護ってやりたいという強い意思が。
 あの二人はお似合いだ。一緒になれば間違いなく上手く行く。勿論根拠など無いが、確信できる。
(フラれるなよ……)
 昼間の二人の寸劇を思い出しながら、ノアは微笑した。
 先程の夕食時、ローアネットの姿が見えなかったが、まさかもう愛想を尽かされたわけではあるまい。
 ベルグは言葉選びは下手だが悪意があるわけではない。そしてその事はローアネットも分かっているはずだ。ただお互いに少しだけ素直ではないだけ。
(まぁ、頑張れ……)
 タバコを灰皿でもみ消し、ノアは鍵盤に手を置いた。そして自分の演奏に合わせて歌を歌う。
 あと何日、こうしていられるか分からない。歌い納めだ。時間と喉の許す限り歌っていこう。
 そう思いながら一曲目を歌い終えようとした時、プレイルームの扉が開かれた。
(今度は誰だ……)
 ノアは演奏と歌を止め、本日三人目の来客に目を細める。
「約束通り来たでござる」
 入ってきたのは柔らかそうなブロンドの少年だった。
「どうしたでござるか。歌わないでござるか?」
 ユレフは不思議そうに言いながらノアに駆け寄る。そして真横に立って大きな目で見上げてきた。
「私は誰かに聞かせるために歌ってるんじゃない」
 機嫌悪そうに息を吐き、ノアはシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。
「タバコは喉に悪いでござるよ。せっかくの綺麗な歌声が出なくなるでござる」
「知っている」
 そんな事は。だから吸っている。自分の喉を潰すために。
(ま、その必要もなくなったが……)
 彼がここに来たという事は考えが纏まったのだろう。そして迷いを断ち切ってきたはずだ。
「で、ちゃんと決心してきたんだろうな」
 タバコをくわえたまま、ノアはユレフを見下ろして言う。
「何がでござるか?」
「私を殺しに来たんだろ」
「ああー」
 言われて初めて気付いたように、ユレフはポンと手の平を打って目を大きくした。
「あれは一時保留でござる。ノア殿よりも怪しい人物が見つかったでござるよ」
 ユレフの答えにノアは面倒臭そうな表情になり、肩に掛かった緑色の髪の毛を払う。
 本当に嫌な子供だ。自分を不快にする能力に長けている。おあずけでも食らった気分だ。
「じゃあ何しに来たんだ」
「用がなければ来てはいけないでござるか?」
「当たり前だ」
 基本的に自分は一人で居たい。なのに、どうしてこんな生意気な子供と同じ空間に居なければならない? 
「小生はノア殿の事を知りたいでござるよ。もっと色々お喋りするでござる」
「私はお前なんかに興味は無い」
 突き放すような口調で言うと、ノアはユレフから視線を外して立ち上がった。
 ユレフは口で言っても簡単には出て行かないだろう。なら自分がどこかへ行った方が早い。
「アクディ様やソウル・パペットの事、詳しく知りたくないでごさるか」
「どうでもいい」
 自分の後ろを付いて歩きながら、ユレフは甲高い声で聞いてくる。
「ホンマつれへんなー。せっかくの美人が台無しやで」
 突然後ろから聞こえた異国訛りの声に、ノアは顔を驚愕に染めて振り向いた。さっきまでユレフの居た場所にベルグが肩をすくめて立っている。
(馬鹿な……)
 そんなはずはない。この部屋には自分とユレフしか居なかった。なのにどうして。
「驚いたでござるか? ソウル・パペットには変身能力があるでござるよ」
 ベルグの姿が一瞬ブレたかと思うと、ノアの見ている前でユレフに戻った。
「な……な……」
「ソウル・パペットはソウルを安定化させて創り上げた人工生命体でござる。最初から肉体を持っていないから外見を変える事も出来るでござるよ」
 ノアの反応が楽しいのか、ユレフは満面の笑みを浮かべながら説明する。
「小生が探しているギーナも同じくソウル・パペットでござる。けどアイツは小生と違って完全なソウル・パペットではござらん。特殊加工を施した人間がベースになっているでごさる。言ってみればソウル・パペットもどきでござる。だから変身は小生よりずっと下手クソでござるよ。時間は掛かるし、変身できる相手も少ないでござる」
 得意げな顔で喋るユレフ。
 しかしあまりに常軌を逸した事態に、さすがのノアも思考が付いていかない。
「小生とギーナはアクディ様の気まぐれでココに呼び出されて、何回も勝負してるでござるよ。アクディ様は勝負の理由を教えてくれないでござるが、きっとどっちが優秀なソウル・パペットか見極めようとしているでござる。今のところ小生が全勝しているでござるよ。だから今回も絶対に勝つでござる。そのためにはギーナが四人のうち誰に化けているかを見極めて殺してしまうのが一番手っ取り早いでござる。ギーナが居なくなればアクディ様も悩む事なくなるでござるよ。今まではそんな事すると怒られそうだったからしなかったでござるが、今回のゲームはこれまでとは違うでござる。死ぬ事が前提でござるよ。だから殺してもいいでござる。問題無いでござる」
「ちょ、ちょっと待て……」
 全く言葉を詰まらせる事なく喋り続けるユレフに、ノアは手をかざして待ったを掛けた。
 一度に訳の分からない事を言われても混乱するだけだ。頭の中でまったく整理できない。
 それでも辛うじて理解できた事と言えば――
「じゃあ何か? お前はソウル・パペットなのか? アクディの生み出した?」
「だからさっきからそう言ってるでござる」
 嘘――ではない。今のユレフの目は嘘を言っている目ではない。
 それにノア自身、彼が変身するところを見たのだ。その事を受け入れるには、取り合えずユレフの喋った内容を正しいとせざるを得ない。
(コイツがソウル・パペット? 変身能力? ギーナとゲーム?)
 無意識に髪の毛を梳きながら、ノアはユレフの言葉を咀嚼し直す。
「ちょっとは興味が出て来たでござるか?」
 考え込むノアを見て、ユレフは嬉しそうに言った。
 その言葉でノアは我に返る。
 いつの間にかユレフのペースに巻き込まれている。しかし、悔しいが少しだけ聞きたい事が出てしまった。
 ソウル・パペットやアクディについてではない。もっと根本的な事だ。
「お前、そんな事喋っても良いのか?」
 ソウル・パペットの存在は教会の教えに反する物として、世界中で忌み嫌われている。もしユレフがソウル・パペットだという事が公になった場合、住む場所も食べる場所もなくなり、世界中が敵に回る。
 だからアクディは、まだソウル・パペットが未完成だという事にしているのだろう。なのにユレフは今、自分がソウル・パペットだとはっきり言った。
 こちらの精神を揺さぶるのが目的か? そとれも自分が最初からそんな話し信じないと決めつけているのだろうか?
「ノア殿にしか言ってないでござる。だから他の人には内緒にしておいて欲しいでござるよ」
 訝しむノアに、ユレフは立てた人差し指を口の前に添えながら言ってくる。
「ぷ……」
 その仕草があまりに可愛らしくて、ノアは思わず吹き出してしまった。
「あー、分かった分かった。誰にも言わない。約束してやるよ」
 すっかり毒気を抜かれてしまい、ノアは半笑いになりながらタバコに火を付ける。
「で? ソレを私に喋って何がしたかったんだ? そのギーナって奴を見つける手伝いでもして欲しいのか?」
「ノア殿の気を惹きたかったでござるよ。色々と聞きたい事があるでござる」
 ユレフの子供っぽい答えに、ノアは背中に何かこそばゆいモノを覚えた。
「何だ?」
 まぁ、答えられる範囲なら答えてやっても良いかも知れない。
 今は何となくそんな気分だ。
「ノア殿は死をどう考えているでござるか」
「随分と高尚な質問じゃないか。教会の連中に聞いた方が良いんじゃないのか?」
「違うでござる。小生はノア殿の価値観を知りたいでござるよ。ノア殿は小生が殺そうとしても抵抗しなかったでござる。死ぬためにこのゲームに参加してるって言ったでござる。小生が生まれて七年間、色んな人に会ってきたでござるがそんな考え方の人は居なかったでござるよ」
 ユレフは昂奮したように顔を紅くして、一気にまくし立てた。
「そりゃあそうさ。私みたいな考えの奴は、そもそも誰かと喋ろうなんて思わない。一人で暗い部屋に閉じこもって、心がカビて行くのをじっと待ってるだけだ」
「どうしてそう考えるようになったでござるか」
「どして、か……。ま、聞けば下らない事なんだがな……」
 ユレフは自分の事を喋った。だったら少しくらいコチラも話しても良いかも知れない。
 この世間知らずでアカ抜けていない、極端な思考を持った自称天才おぼっちゃまに。
「私はな、歌が好きだったんだ……」
 小さな頃からノアは音楽に囲まれて育った。
 父親が音楽を、母親が美術を職業としていたから、家はいつも音と色に溢れかえっていた。幼い時から質の高い芸術に触れ、ノアの感性はみるみる磨き上げられていった。
 絵から音楽が聞こえてきた事もあったし、音色を色彩で表現する事もあった。自分の感情は殆ど歌で表す事が出来たし、ちょっとした表情の変化や声色の違いからその人が何を考えているかも何となく分かった。
 ノアは感受性豊かな少女に育ち、どんな音楽でも一度聴けば譜面に起こす事が出来た。小鳥のさえずりや葉の擦れ合う音、風が通り抜ける音や雨が降り落ちる音。あらゆる自然の音さえも音楽に聞こえた。そしてソレにすぐ歌を付けた。
 絵画や音楽鑑賞も好きだったが、自分で歌を歌う事が一番好きだった。
 歌っている時は、どんな嫌な事があっても全部忘れられた。
 歌で慰められ、励まされ、歌で、やる気を出して、新しい自分を見つけていった。
 ノアの成長は常に歌と共にあった。
 しかし、ノアが六歳の時。重病に冒されている事が発覚した。
 コールド・エッジ。
 原因不明の死の病。放っておけば約二年後に死ぬ事を医者から宣告された。治療するには莫大な費用がかかる。しかも確実ではない。
 だが、ノアの両親は財産を殆ど全てなげうってノアにコールド・エッジの治療を受けさせた。
 治療は成功。
 僅か五パーセントと言われている低い確率をノアは物にした。
 そしてコールド・エッジの治療をキッカケに、ノアの感受性に更に磨きが掛かる。
 絶対音感が身に付き、毎日のように新しい譜面が頭に浮かんだ。口と喉で別々の音域を出す事が出来るようになり、歌に厚みが増した。視覚、聴覚からだけではなく、味覚、触覚、嗅覚、五感全てが音楽に繋がった。
 そして人の内面を読み取る事に関しては、より微細な表情の変化から察せるようになり、例え全く変化が無くとも眼の光の動きだけで大体の事が分かった。
 ノアは現状に満足する事なく、自分の歌をより高めるために様々な場所で歌い続けた。
 ライブハウスだけではなく、ボランティアで学校や養護施設に通ったりもした。とにかく歌う事が楽しくてしょうがなかった。
 そしてノアが十八の時、プロからの誘いを受けた。
 ソレは昔から思い描いていた夢。好きな歌を大勢の人に聴かせる事が出来て、尚かつそれで食べていけるのならこれ程嬉しい事はない。
 しかし、両親はノアのプロデビューに好意的ではなかった。
 口では好きな事をやるのが一番良いと言ってくれていたが、目が反対していた。
 歌手は流行り廃りの激しい業界だ。もっと安定した普通の職業に就いて、普通の幸せを掴んで欲しい。そんな両親の心の声が、ノアにはハッキリ聞こえた。
 ノアのコールド・エッジを治療したために、家の蓄えは無きに等しい。もしノアが失敗したとしても金銭的なフォローはしてやれない。だが成功すれば――
 迷った末、ノアはプロ歌手になる事を決めた。
 やはり歌を歌っていたい。この先ずっと。売れない間は苦しいかも知れないが、好きな事が出来るなら頑張れる。そして一花咲かせる事が出来れば両親を楽にしてやれる。
 絶対に歌手としての成功を収める。
 堅く心に誓って、ノアはプロとしての一歩を踏み出した。
 しかし、歌手の業界はノアが思っていた程あまい物ではなかった。
 自分の好きな歌を思いのまま歌えると思っていた。だが、プロデューサー達は『売れる』歌を作らなければならない。どれだけ歌手としての完成度が高く、歌唱力があったとしても、実際に歌う歌が流行から外れていれば『売れない』。
 『売れる』ためにノアは様々な矯正を強いられた。自分の自然な歌い方を否定され続けた。
 ノアが受けたボイストレーニングは緻密で理論的で計算高くて、これまでノアが行ってきた感性のまま歌う手法とは真逆の物だった。
 だが、『売れる』ためにはしょうがない。ある程度の妥協と方向修正は必要だ。そうする事で、大勢の人を喜ばせられるのであれば。
 ノアは、昔のように『楽しく』歌う事は出来なくなった。
 自分を否定され、喉に無理をして、ノアは『売れる』歌を歌い続けた。常に何か違うという疑念を抱きながらも、自分の歌がどんどん駄目になっていくのを痛切に感じながらも、ノアは歌い続けた。
 日々積み重なっていくストレス。喉への過剰な負担。
 プロデビューから一年が経ったある日の朝。ノアは自分の声が出なくなっている事を知った。どうやっても、しゃがれて掠れた声しか出ない。かつての透き通った声は影もなかった。
 喉が度重なる無理に耐えきれなくなり、ついに潰れてしまったのだ。
 そして、ノアに商品価値は無くなった。
 『売れない』歌手には、用意するステージも掛けるお金も無い。
 プロデューサーはノアに解雇処分を言い渡した。
 それはまさに死刑を宣告されたに等しかった。
 幼い頃からの夢だった歌手としてのプロデビュー。それによって自分の歌を否定され、喉を潰し、路頭に迷う事になった。
 家に戻る事など出来ない。これ以上両親を迷惑を掛ける訳には行かない。  
 それに覚悟は出来ていた。
 他の誰でもない、自分でした決断だ。責任は自分で取るのが筋。
 もう歌えなくなった喉と、精神を覆い尽くす暗い失意を抱えて、ノアは当てもなく街を彷徨った。生活するお金を得るために、道徳から外れた事も沢山した。
 喉は少しずつ良くなっていったが前のような声は出ず、耳障りだとさえ感じた時もあった。長い時間は歌えなかった。歌いたいという気持ちも弱くなっていった。昔のように心から楽しいと思えなくなった。

『ねぇ! パパ、ママ! ノアね、今日も沢山お歌うたったよ!』

 時々、小さい頃の自分の声が聞こえるようになった。記憶の中の自分の歌声は澄んでいて、力強くて、楽しそうで。

『みんな聞いて聞いて! ノア、また新しいお歌思い付いたんだ!』

 純粋で、輝いていて、今の自分とはあまりにかけ離れていて。

『歌を歌ってるとねー、なんこう……ほわほわした気分になれるの。幸せってこういう事なのかな』

 恐くなった。歌っているだけで幸せだったあの頃の自分が、哀れみの視線を向けているようで。
 逃げたくなった。日に日に荒んでいく自分から。果てしなく堕ちていく自分から。
 そんな状態で二年が経った時には、すでに生きる事に意味を見出せなくなっていた。

『それじゃあ死んじゃえば?』

 分かってる。出来る事ならそうしたい。しかし、最後まで自分の命を絶ちきる勇気もなかった。

『それはきっとまだ歌えるからだよ。だから未練が残ってるんだよ』

 喉を完全に潰そうと思った。生まれて初めて吸ったタバコは死の味がした。一日に何十本も吸った。それでも喉は完全には壊れなかった。まるで、まだ歌いたいと言っているかのように……。

『臆病者』

 そう。私は臆病者だ。
 愚かしい言い訳をして、ゴミほどの価値もない自分の命を繋ぎ止めようとしている。
 しかし、それももうお終いだ。
 薄汚れたアパートに届いた一通の招待状。死のゲームへの参加チケット。
 これが全てを終わらせてくれる。どんな言い訳も勇気の無さも関係なく、確実な死をもたらしてくれる。
「……ま、そう言うわけさ。要するに疲れたんだよ。何もかもに。だから死にたい。ただそれだけ。どうだ? 面白くも何ともない自分勝手で腹の立つ暗い話だっただろ?」
 口の端に自分を皮肉るような笑みを浮かべながら、ノアは短くなったタバコを携帯灰皿でもみ消した。
「そんな事ないでござる。大変興味深い話だったでござるよ。そんな事はどの専門書にも書いてなかったでござる」
 ユレフは金色の目でノアをじっと見つめながら、昂奮したような熱っぽい声で言う。
「そりゃどーも……」
 ノアは照れくさそうに頭を掻きながら、新しいタバコに火を付けた。
「でも、やっぱり分からないでござるよ。死ぬのは恐い物だって聞いたでござる。それにノア殿もそう言ったでござる。でも死にたいんでござろう? 矛盾しているでござるよ」
「確かに、な……」
 ユレフは意見はもっともだ。論理的に考えるならば確かに矛盾している。
 しかし人間は理屈だけで動くものではない。感情も多分に混じる。ソウル・パペットであるユレフには、そこが理解できないのだろう。
「ま、お前もそのうち分かるようになるさ」
「そのうちでは困るでござる。こんなモヤモヤした気持ちで居たくないでござるよ。今すぐにでも解決したいでござる。どうすればいいでござるか」
 真剣な顔で聞いてくるユレフに、ノアは肩を軽くすくめて見せた。
「じゃあ、軽はずみに『殺す』なんて言わない事だな」
 人の命の重さを理解できないうちは、分かるはずもない。
「でもノア殿は小生に殺して欲しいって言ったでござる。また矛盾してるでござる」
「そうだな。矛盾してるな……」
 それは恐らく、自分にもまだ生きる事の大切さが理解できていないからだろう。
「分からないでござる」
 頭を抱えるユレフを見下ろしながら、ノアは苦笑した。

 †六日目 【自室 19:35】†
 ヲレンが死んだ。 
 ガラスの破片で喉を一突き。殆ど苦しむ事もなく、即死だっただろう。
 彼は死ぬ瞬間に何を考えていたのだろうか。何を感じていたのだろうか。結局、自分を追い掛けて来ていた死の手から逃げ延びる事が出来ず、絶望だけに埋め尽くされて逝ってしまったのだろうか。
 ローアネットが彼の死を見てかなり動揺していた。普通の反応ではなかった。まるで自分が殺してしまったかのような顔つき。ベルグが居なければ、彼女は間違いなく自殺していた。
(いや……)
 案外アレが普通の反応なのかも知れない。自分やユレフ、そしてベルグもどこかおかしい。ヲレンとローアネット。この二人が招待客の中では一番まともだ。そして、一番似つかわしくない。ココに居るべきではない。
 このゲームに参加するには壊れていなければならない。
 例えば、ヲレンの死を見ても恐怖するどころか、羨ましいとさえ思ってしまう自分のように。
(私がアイツの代わりになれていれば……)
 心の底からそう思う。
 喉を潰されて死ぬ。まさに理想的ではないか。下らない未練や、歌への執着を全て断ち切ってあの世に逝ける。楽になれる。
(早く来い)
 自分の死の予定よ。勇気の無い臆病な自分には、それにすがるしかない。
 左腕に巻いたリストバンドを外して、ソコに刻まれた無数の切り傷を見る。
 それは今まで何度も試みてきた自殺の証。そして決して成し遂げられなかった自分の薄弱な意思の印。
 予定表に従って読んでいた本を置き、ノアはソファーから立ち上がった。もう束縛は解けていた。
 部屋の窓を開け、窓枠に腕を乗せて体を預け、ノアはゆっくりと口を開く。
 冷たい夜風と混じり合い、か細く儚げな歌声が闇に溶け出した。
 ヲレンの死体を見た時、自然と頭に浮かんだメロディー。これは彼への鎮魂歌。人の死を見た時ですら、まず最初に頭に浮かぶのは無数の音階。
 もう取り憑かれてしまっていると言っても良い。この歌の束縛から解放されるには、死しか残されていない。
 と、不意に背後で気配を感じてノアは歌うのを止めた。
「一人目が死んだでござる」
 振り返り見たノアの視界に映ったのはユレフだった。心なしか元気が無いようにも見える。
「……そうだな」
 それがどうかしたか? と言わんばかりの口調でノアは言った。
「ノア殿はこんな時、どう感じるでござるか?」
「……別に何も。ただ、私の番ではなかった。それだけだ」
「それは安心でござるか? それとも――」
「落胆だよ」
 ユレフの言葉が終わる前に、ノアは冷たい視線を向けながら言う。
「そうで、ござるか……」
「お前の方はどうなんだ? 目新しい発見はあったか?」
「……分からないでござる。いつもみたいな達成感がないでござるよ」
「達成感、ね……」
 ライバルが一人減った事への達成感。自分が生き残り、一人出し抜いた事への達成感。
 ヲレンの死を見ても、ユレフはゲームの事が全く頭から離れていない。自分の歌と同じように。
 似たもの同士。
 自分とユレフは色々と似ている。精神的に壊れてしまっているのは元より、臆病なところや、『死』の本質を理解していない事に関しても。
「ノア殿はどうして死にたいでござるか?」
 昨日と同じ質問に、ノアは疲れたような表情を向ける。
「お前、天才なんだろ? 二度同じ事を言わせるな」
「そうでござるな……。すまなかったでござる」
 何か考えるように視線を上に向けながら、ユレフは元気の無い声で言った。そして足音も立てずに部屋の出入り口に向かい、扉の前で立ち止まってコチラに振り向く。
「次は誰の番でござろうな」
 ユレフは顔に笑顔を浮かべて聞いてきた。
「私である事を願ってるよ」
 ノアもそれに微笑して返す。
 やはり、自分達は壊れている。

 †七日目 【中庭 13:12】†
 次の犠牲者はローアネットだった。
 死因は転落死。こちらもヲレンと同じく即死だ。
 そして、ヲレンの時と同じく何の感慨も湧かない。悲壮も恐怖も、愉悦も快楽も。
 ただ、死んでいる。
 それしか感想が思い浮かんでこない。
 彼女は死ぬ間際、いったいどんな事を思い浮かべたのだろうか。やはり、ベルグの事なのだろうか。
 綺麗な人だった。外見だけではなく、内面も輝いていた。生きる事に一生懸命で、あらゆる事に前向きで。かつての自分も、歌う事が楽しくてしょうがなかった頃の自分も、彼女のように輝いていたのだろうか。
 今となってはもう、確かめる事は出来ないが。
「ノア=リースリーフ様」
 ローアネットの死体を浮遊台車に乗せながら、アーニーが話しかけてきた。
「ベルグ様はどうして、あれ程お怒りになられていたのでしょうか」
 珍しい事もある物だ。機械のように無表情で無感動だった彼女が、そんな言葉を口にするなど。
「その女の事を好きだったからだろ」
「好きだと怒るのですか?」
 アーニーは作業の手を休める事なく、ノアに再び聞いてくる。
「大切な物を失ったら、ああいう風になってもおかしくない」
 自分が声を奪われた時も、似たような精神状態になった。訳もなく苛立って、目に映る物全てに腹が立った。
 あの時はまだ壊れる前だった。腹が立ち、全てを壊したいと思い、自分まで壊してしまう前だった。ならばそれは普通の、一般人の反応なのだろう。
 ベルグは変わってしまった。最初に見た時は自分やユレフと同じく、病んだ精神を持った男だった。しかしどういう事情かは知らないが、今は普通になってしまった。
 ならば自分も変われるのだろうか。元に戻れるのだろうか。何かキッカケさえあれば。ただ歌っているだけで満足できていた頃の自分に、歌っているだけで幸せになれた頃の自分に。
「よく分かりません」
「そうか……」
 もう自分にも、それ以上掛ける言葉が見つからない。
 今の自分にはベルグの気持ちがよく分からない。彼とは住む世界が違ってしまった。
 ただ一つだけ言える事は――
「お前も変わったな」
「……よく、分かりません」

 夜、八時過ぎ。
 ノアは予定表に従ってキッチンに来ていた。そして冷蔵庫を開ける。
 自分の意思とは関係なく手が動き、赤黒い粉末が乗せられているトレイを取り出した。さらにもう片方の手で、奥まった場所にある小さな円柱形の瓶を掴む。瓶には赤茶けた葉っぱが、二センチ角程の小さな切片状に切り刻まれて入れられていた。
 予定表の内容によるとコレが香草なのだろう。
 ノアは瓶の口にねじ込まれたコルク栓を片手で器用に外し、中に赤黒い粉末を注いでいく。そして全て入れ終えたところで、束縛から解放された。
(コレが毒だと良いな……)
 一瞬、食べてみようかと思った。もし本当に毒ならばココで死ぬ事が出来る。
(……止めた)
 服毒自殺も過去に何度か試みた事がある。しかし当然ながら一度も成功していない。最初から毒だと意識して食べると、どうしても胃が拒絶して吐き出してしまうのだ。毒で死ぬならソレと分からぬよう、そっと食事の中にでも混ぜておいて欲しい。
 それに何も焦る事はない。
 明日の午後三時四十二分。
 自分は自室で首をつる事になっている。疑いようもない確実な死が待っている。
(今夜が、歌い納めだ……)
 自嘲気味に笑いながら、ノアは瓶とトレイを冷蔵庫に戻して扉を閉じた。
「こんな所で会うなんて奇遇でござる」
 そしてキッチンを出ようとした時、後ろから声を掛けられた。
「……お前とは何か不思議な縁でもあるのかもな」
 乾いた笑みを浮かべて言いながら、ノアはタバコを取り出して火を付ける。
「今までどこに行ってたんだ?」
 ユレフはローアネットが死んだ時にも姿を見せなかったし、夕食にも顔を出さなかった。
「色々と見たり調べたり考えたりしていたでござるよ」
「それで、何か面白い物は見つかったのか?」
 どこかからかうような口調で言って、ノアは紫煙をくゆらせる。
「見つかったり、見つからなかったりでござるよ。小生なりに大分考えたでござるが、やっぱり死ぬってどういう事なのか分からないでござる。医術書には生命機能の停止としか書かれていないでござる。宗教書は内容が抽象的すぎてピンとこないでござるよ。死んだらどんな気分になるだとか、どう考えるから死ぬだとか、小生が知りたい事はどこにも書いてないでござる」
「……くっ」
 ユレフの答えに、ノアは思わず小さく笑いを零した。
「なるほど。実にお前らしい。頭でっかちの天才少年が考えそうな事だ」
「小生らしい?」
 ユレフはきょとんとした顔つきで、ノアの言った言葉を繰り返す。
「小生らしいってどういう事でござるか? そんなのアクディ様にも言われた事ないからよく分からないでござるよ」
「まぁ、つまり、だ……」
 ノアは頭の中で適切な単語を探すかのように視線を上げ、緑色の髪の毛を軽く梳いた。
「ガキっぽいって事だよ」
「ガキっぽい……」
 そしてユレフはまたノアの言葉を繰り返す。
「それも、初めて言われたでござるよ。小生をそんな風に見下したのはノア殿が初めてでござる」
「バーカ。これは褒め言葉だよ褒め言葉。ガキはガキらしくしてるのが一番って事だ。何でも分かったようなフリして生意気な事言うよりは、今のお前の方がずっと良い」 
 ずっと、自然に見える。
 自然に……。
(そうか……)
 コイツも変わりつつある。普通の一般人に近づきつつある。
 自分だけだ。何も変わらないのは。何も成長しないのは。ただ自暴自棄になって、死ぬ事だけ考えている。つらい事から目を背けて、生きる努力を放棄している。
 駄目だ。それでは。何も考えようとしていない分、自分はこんな子供もよりも劣る。偉そうに講釈する権利などない。
 本来なら、自分もユレフのようにもっと頭を使ってよく考えるべきなのだ。生の重さを。死の深さを。
(……もうちょっと早く、お前みたいな変な奴に会えてたら、な)
 だが――もう遅い。明日で終わり。明日が最終地点。
「ノア殿は、どうして死にたいでござるか?」
 ユレフはコチラを見上げながら、また同じ質問をして来た。
「だから……!」
「今のノア殿は死にたそうには見えないでござるよ」
「……っ!」
 死にたくない? 自分が? 全てを諦め、全てを捨て去ってきたはずの自分が死にたくない? この期に及んで? 冗談ではない。今更そんな、今更……。
「小生はノア殿のように人生経験が豊富ではないからよく分からんでござるが……ノア殿の歌声はとっても綺麗だったでござる。死にたくないんなら生きて、また聞かせて欲しいでござるよ」
 綺麗? 私の歌声が? 楽しく歌っていた頃の声には遠く及ばない、今の薄汚れたこの声が? 綺麗?
「……また、そのうちな」
「楽しみにしてるでござる」
 嬉しそうに言ってユレフは屈託無く笑う。かつての自分が、恐らくそうしていたように。
 すっかり短くなってしまったタバコをシンクに投げ捨て、ノアはキッチンを後にした。

 †八日目 【大広間 09:05】†
 朝食に姿を見せたベルグは、大分落ち着いたように見えた。少なくとも昨日感じていた、何をするか分からないような危うさはもう無い。
 まだ疲れは残っているようだが、少しは心の整理が出来たようだ。自分の口からもそう言っていた。 
 今のベルグにもう迷いはない。
 瞳に力強い光を宿し、懸命に生きようとしている。自分のため、ローアネットのため、そして――
「……アクディが憎いか」
 アクディに会うため。
「当たり前や」
 ベルグは自分やユレフの方を見ながら、少しずつ料理を口にしていく。食欲は無いだろうが、体力を付けなければと思っているのだろう。生き残るために。
「アクディ様は、偉大でござる。これは……間違いないでござるよ」
 ユレフはポットに入ってる赤茶色のスープを皿に移しながら、小さな声で言った。
(あれは……)
 恐らく、昨日自分が得体の知れない粉末を入れた香草のスープだ。葉の大きさといい、色といい昨日目にした物とソックリだ。ユレフはソレを音を立てて飲み干している。
(毒ではなかったのか)
 軽い落胆を覚えながら、ノアはサラダを黙々と口に運んだ。
「間違いないんやったらボソボソ喋ってんと、もっとハッキリ言わんかい」
 ベルグも香草スープをスプーンですくって飲みながら、気の立った様子で言う。
 彼が苛立つ気持ちもよく分かる。ローアネットを失ってまだ一日しか経っていない。いくら心の整理が出来たとは言え、完全ではないだろう。
 そしてユレフの気持ちもよく分かった。
 彼は今揺れ動いている。自分の生みの親として絶対的な存在であったアクディに疑問を感じ始めている。二人の人間の死を目の当たりにした事で。
「……まぁ、コイツにも色々と思うところがあるんだろ」
 フォローのつもりで言ったノアの言葉が、ベルグには気に入らなかったらしい。
 彼がかつて見せた事のないような、鋭く冷徹な視線で部屋の一点を見据えている。
(時計……?)
 横目に彼の視線の先を追うと、そこには壁に掛けられた大きな振り子時計があった。あそこに何かあるのだろうか。
 ノアはローストハムを薄く切って口に入れた後、香草スープを静かに飲みながらベルグを見た。彼は手を動かして少しずつ食べてはいるものの、意識は全く食事に向いていない。
 何故そんなに時間を気にしているのか聞こうと思った時、突然ベルグが立ち上がった。
「……どうかしたのか?」
「ぁあ、悪い。俺、もう腹一杯やわ」
 はにかむように笑う彼からは、さっきまでの厳つい雰囲気は消え失せ、まるで何か大きな事を成し遂げた後のように満足げな表情をしていた。
「……そうか」
 彼は今、精神が不安定になっている。ローアネットの死を受け入れるには、まだまだ時間が掛かる。そっとしておくのが得策という物だろう。彼にとっても、自分にとっても。
「本当にもういいでござるか。今日のデザートはきっと美味しいでござるよ」
 ユレフがトーストを頬張りながら言った。
 だが妙な言葉遣いだ。どうしてまだ出てきてもいないデザートの事が分かる?
「お前にやるわ。俺の分まで食って早よデカなれよ」
 ノアが覚えた違和感をベルグは全く感じないのか、足早に大広間から出て行ってしまった。
「……馬鹿な奴でござる」
 そう言うユレフの顔はどこか寂しげで、困惑の色が濃く出ていた。
「ノア殿は絶対に食べた方が良いでござるよ」
「……あ、ああ。そうだな」
 妙な感じはするが取り合えず頷いておく。そのデザートに毒が盛られていたとしても別に構わない。死ぬのがちょっと早くなるだけだ。

 ユレフの言った通り、今日のデザートのヨーグルトは仄かな甘味とハーブの香りがよくきいていて、確かに美味しかった。
 そのデザートを食べ終えて、三十分程たってからだった。
 アーニーから、ベルグが死んだと知らされたのは。

 ベルグはローアネットの部屋で死んでいた。
 口からは大量の血が迸っている。見たところ外傷はない。だとすれば……。
「毒死でござる」
 ベルグのそばに座り込んでいたユレフがゆっくりと立ち上がり、独り言のように呟いた。
「毒死……?」
「そうでござる。今朝、小生達が飲んだ香草スープ。あそこには毒キノコの一種である鬼茸を粉末にした物が入れられていたでござるよ。鬼茸の毒素の主成分はラーカルジーンというウィルス性の毒でござる。胃の粘膜から血管に入り込み、赤血球と結合して過剰なエネルギー産生を促すでござる。その時に生じた膨大な熱量で血管を灼き、体を内側から破壊するでござるよ。ただし遅効性で全身に回るまで大体三十分くらい掛かるでござる」
 淀みない喋りでユレフは毒の説明をする。
 その毒のせいでベルグは今死んだ? しかしおかしいではないか。あの香草スープは自分やユレフも飲んだはず。なのにどうしてベルグだけが……。
「そうか……」
 ようやく、あの時ユレフから感じた違和感の正体が分かった。
「お前、知っていたんだな。今日のデザートにその毒の解毒剤が混じっている事を」
「さすがノア殿。勘が良いでござる」
 ユレフは目を細めて、静かにコチラを見る。
「今日のデザートには小生が予め解毒剤を仕込んでおいたでござるよ。だからソレを食べた小生とノア殿は死なずにすんだでござる」
 もしあの時、ベルグも最後まで食事をしていれば死なずにすんだ。
 いや、それ以前に朝食を食べたりしなければ……。
「毒は昨日、私が香草に混ぜた物だな。どうしてあの時に止めなかった?」
「あれはノア殿の予定でござるよ。いくら小生でも止めさせる事は出来ないでござる」
「また随分と色々知ってるんだな、この天才少年は……」
 くっく、と喉を低く鳴らして笑いながらノアはタバコに火を付けた。
 この際、どうしてユレフが自分の予定表の内容を知っているのかなどどうでもいい。コイツがソウル・パペットである時点でアクディの身内だ。そのアクディが用意したゲームの裏を知っていたとしても何の不思議もない。
 今はそんな事よりも――
「どうして私に解毒剤を食べさせた」
 もし食べなければ、自分はベルグと一緒に死んでいた。そうすればユレフはこのゲームの最後の生き残りだ。勝利が確定していたはず。ギーナとかいう奴にも勝って、アクディに褒められるのではないのか。
「ノア殿には……死んで欲しくなかったからでござるよ」
 ユレフは戸惑いと僅かな悲壮を浮かべながら、小さな声で言った。
「まだ色々と教えて欲しい事があるでござるよ」
「ならベルグは死んでもよかったのか?」
「食事を途中で止めたのもベルグの予定でござる」
 ユレフはまるで許しでも請うように弱々しく言いながら、ベルグの躰のまわりに散乱している紙を拾い上げてノアに手渡す。
 それはベルグの予定表だった。八日目の予定に『□最初の五分間だけ朝食を食べて席を立つ□』と書かれている。
「それに、ベルグはベルグで聞きたい事があったでござるよ。結局、答えて貰えなかったでござるが……」
 死について。
 恐らく、ユレフは死にかけているベルグに聞きたかった。死とは一体どういう物なのか。どんな気持ちになるのか。何を思って死んで行くのか。
 この少年の心の破綻も相当の物だ。簡単に治るものではない。
 しかし、兆しはある。
 ユレフはちゃんと警告した。ベルグにデザートを食べなくて良いのか聞いた。ベルグの予定表には『席を立つ』とまでしか書かれていない。その後は自由だ。ユレフの言う通り、デザートを食べる事だって出来た。
 食べなかったのはベルグの意思。言ってみれば、彼はアクディの思惑通り死んだ。そして、直接死の原因を与えたのは自分自身だ。
(私の方がずっと酷い事をしているじゃないか)
 自嘲めいた笑みを浮かべながら、ノアは他にも落ちている二枚の紙を拾い上げる。それはヲレンとローアネットの予定表だった。
 ユレフが持って来てわざわざばらまいた? いや違う。ベルグの予定表は八日目に加筆された跡があり、九日目と十日目が消されている。ならばベルグは石を二つ持っていた事になる。他の二人の予定表を見ると、ヲレンがまだ石を使っていない。ベルグはヲレンの石で自分の予定を一つ消した。ベルグはヲレンがまだ石を使っていない事を知っていた。そうでなければどこに隠してあるかも分からない小さな石を探そうという気にはなれない。
 つまり、ベルグはヲレンの予定表を前もって見ていた事になる。そしてローアネットの予定表も合わせて見たからこそ、この『死の予定表』の一つ目の法則に気が付いた。
(なるほど、ね……)
 文字を読んだだけですぐに分かる『露骨な死』。しかしソレは自分の推測通り単なる目くらましで『本当の死』はその後にある。ベルグはソレを知ったからこそ、こうして『露骨な死』の後の予定を重点的に書き換えた。
 そして二つ目の法則は各人が一回ずつ、誰かの死の伏線を作り出しているという事。死への繋がりに遠い近いはあるものの、全員が何らかの形でかかわっている。
 さらに三つ目。恐らくベルグも薄々気付いていただろうが、確認は出来なかった。自分やユレフの予定表を見ない限りは。
 ヲレンの直接の死因はローアネットが、ローアネットの直接の死因はベルグが、そしてベルグの直接の死因は自分が作り出している。
 つまり、この流れで行くと自分の直接の死因を作り出すのは――
「ユレフ」
「はいでござる」
 ノアはシャツの胸ポケットから自分の予定表を取り出し、ユレフに声を掛けた。
「お前、『死』がどういう物なのか知りたいんだよな」
「そうでござる」
 そしてペンを使って、今日の予定に一つだけ小さな文字を加筆する。

 『八日目15:42■自室で手首をつる■』

 これでまず死ぬ事はない。
「だったら、お前が私を殺すんだ。私の死を見届けろ。その時に思いつく限りの感想を言ってやる」
「え……」
「予定の順番からして今度はお前が私を殺す番だ。そんな事はとっくに知っていただろ?」
 言われてユレフは、息苦しそうな表情になって俯いた。
「私は一人で死にたかったんだが気が変わった。お前に殺されたくなった。私を殺せば、多分お前は自分に欠けている物が分かる」
 そして普通の一般人になれる。
 自分はもう手遅れだが、ユレフはまだ十分に方向修正がきく。
「ノア殿は……どうしてそんなに死にたいでござるか?」
 また同じ質問。
「さぁな」
 しかし、ノアは曖昧な言葉を返す。
 もぅ自分でもよく分からなくなってきた。ただ――
(お前の糧になって死ぬんなら、ソレも悪くないと思っただけだ)
 力無い笑みを浮かべて、ノアはユレフに背中を向ける。
「ま、待つでごさるよ! ノア殿!」
 ユレフは走ってノアの前に回りこむと、切羽詰まった表情で見上げてきた。
「どうした。ベルグには出来て私には出来ないのか? 死を理解したいんだろ?」
「そ、それは……そうでござるが……」
 ユレフは下唇をぎゅっと噛み締めて眉間に皺を寄せる。そしてまた走って自分の前から消えたかと思うと、何かを持ってすぐに戻って来た。
 ユレフの脇には黒い表紙の本が抱えられている。ソレを両手でもって自分の方に差し出してきた。
「コレは?」
「アクディ様の研究日誌でござる。小生やギーナ、アーニーの事が書かれているでござるよ」
「アーニー? あのメイドか。やっぱりアイツもソウル・パペットだったんだな」
 ユレフは固い表情のまま首を縦に振る。
 どうりで人間離れしていると思った。
「それにしても、どうしてコレを私に? 読んでも良い物なのか? アクディの研究は極秘なんだろ?」
「小生にも、よく分からないでござる……」
「は?」
 ユレフの言葉にノアは甲高い声で返す。
「小生にも自分がどうしてこんな事をするか分からないでござる。アクディ様の研究は誰にも知られてはいけないでござる。小生がソウル・パペットである事も絶対に喋ってはいけないときつく言われていたでござる。でも……」
 ユレフはそこでいったん言葉を句切り、泣き出しそうな顔になって続けた。
「ノア殿には小生の事を……小生がどうして生まれて、どんな人生を歩んできたのか、知って欲しいって思ったでござる……」
 それだけ言い終えると、ユレフは本を突き出したまま頭を深く下ろし、完全にノアからは視線を外す。自分が今、どんな顔をしているのか見られたくないのだろう。
「そっか……お前もなかなか可愛いとこあるじゃないか」
 言いながらノアは、ユレフの柔らかいブロンドをほぐすように優しく頭を撫でた。
「それじゃあゆっくり読ませて貰うよ」
 そしてユレフの手から本を受け取り、出入り口に向かう。
「お前が来るのを楽しみにしてる」
 ノアはそれだけ言い残し、部屋を後にした。





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