人形は啼く、主のそばでいつまでも

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  Level.13 『大嫌い。けど――大好き』  

 ハウェッツを肩に乗せたリヒエルが、口の端に嘲笑を浮かべて悠然と歩み寄ってくる。盾化させていた腕はすでに戻ってしまっていた。
 構えも何もない極めて無防備な格好。だらしなく胸元を開けたカッターシャツ、皺の寄ったスラックス、大きく出っ張った腹。
 どう見てもヴァイグルのように素早い動きができるとは思えない。だがソレは幻想だ。リヒエルはコチラの油断を誘っている。撃ってこいとでも言っているつもりなんだろう。だが向こうのペースで戦ってはダメだ。確実にやられる。
「ルッシェ、飛ぶぞ」
 私は短く言って波動砲型ドールを元の二挺拳銃に戻し、大鷲型ドールの背中に乗った。
「え……? でも……」
「いいから!」
 レヴァーナを乱暴に引っ張ってドールの上に乗せ、私は大声で叫ぶ。
「あ、はい!」
 その声で私の内情を察してくれたのか、ルッシェは深く頷いて自分も飛び乗ると、大鷲型ドールを上空へと舞い上がらせた。
「ヲイヲイ! 嬢ちゃん! いきなりケツ巻くって逃げるってのはどういうことなんだぁ!? 馬鹿の上に腰抜けって訳かい!」
 罵声に笑いを含ませ、リヒエルは下から挑発する。
 何とでも言うがいいさ。とにかく今の戦力だけではリヒエルには勝てない。ヴァイグルのような異常な身体能力に対抗するためにはコチラにも強力な武器がいる。
 そう、ハウェッツのような強力なドールが。
 ……ハウェッツ。一体、どうしてしまったんだ……。 
 私はコチラを見上げて腕組みしているリヒエルを見下ろしながら、その肩の上で騒ぎ立てるでも暴れるでもなくじっとしているハウェッツを見つめる。

『なーに。ちょっと裏の世界を覗いて貰っただけさ』

 裏の世界……? つまり、逆裏世界……?
 ドールを喰う能力のあるドール。そしてだんだん人間に近付いているとリヒエルは言っていた。
 教会の下に棲み着いた超巨大ドール。アレが人間に近付くっていうのはどういう意味なんだ? ハウェッツのように人間みたいな感情を持つということなのか? それとも、器官が人間と同じくらい発達しているということなのか?
 多分、ミリアムが外界を見ていたあの『穴』は逆裏世界の『眼』なんだろう。そして教会の敷地全体が『口』。大勢のドールやドールマスターが混在して死闘を繰り広げていた場所。封印体に戻ったドール達が地面に吸い込まれていったのは逆裏世界に喰われていたから。もうコレは間違いない。
 じゃあ他に……逆裏世界にはドールを喰う以外に何か別の能力があるのか? ハウェッツはソレでおかしくなった? 裏の世界を見る……。逆裏世界……。逆のこと……。
 逆の性質?
 ハウェッツの性質を逆転? 
 ……分からない。もし仮にそうだとして、一体どうやって? できたとして、元に戻す方法は……?
「先輩! それでどうするんですか!?」
 耳元でしたルッシェの声に、私はぼやけていた焦点を合わせ直した。
 そうだ。今はそんな仮の話をしている時ではない。目の前にある紛れもない事実から、現状を打破する方策を考えるのが先だ。
「……ジェグが創ったプロテクトの掛かっていないドールを探す。他との見分け方は、外見が崩れているドールだ。グロテスクだったり、生態的に有り得ない構造をしていたらソレだと思って間違いない」
 逆裏世界。アイツはきっとドールらしいドールしか喰えない。そして恐らく、封印体しか自分の糧にはできない。真実体を喰えるなら戦いが始まった直後に全部喰わせてしまえばいいんだ。そうすれば教会とジャイロダイン派閥の両方を潰すというリヒエルの目的はあっさりと達成される。
 ドールを失ったドールマスターなど一般人と変わらない。王宮の鎧兵を使えばすぐに血祭りに上げられる。
 けどソレをしなかったということは、喰うためにはきっとドールが素材の状態でなければならないんだ。逆に言えば、真実体でいる間は喰われなくてすむ。
 私が自分で生み出したドールが見つかればソレがベストなんだが、この状態ではあまりに絶望的だ。ラミスが自分の身を守るのに全員使い切ってしまっただろうし、いたとしても間違いなく封印体に戻っているだろうから、逆裏世界に喰われてしまったと考えるのが自然だ。
 だからジェグが王宮とのパイプを太くするために創った軍事用のドールを探す。アレならプロテクトは掛かっていないから、私でも使えるはずだ。
 真実体のまま残ってくれていればいいが……。
「分かりました!」
 ルッシェは事情を聞き返すこともなく、私に言われた通りドールを探し始める。とにかく私も自分で操れる武器を持たないことには話しにならな――
「――!」
 体の内側に直接手を這わされたような悪寒。
 いない。さっきまで真下にいたはずのリヒエルの姿が消えている。いったいどこ――
「作戦会議は終わったかい?」
 声は後ろからした。
「な……!」
 振り向くとほぼ同時に視界が大きく変動する。
 一瞬、体が浮いたかと思った時には、私の足元には何もなかった。ただ拳くらいの大きさになったドールやドールマスター達がコチラを見上げている。
 あまりに現実離れした光景。
 そして、内臓が浮き上がるような不快感が全身を襲った。
「先輩!」
 ルッシェの叫声が耳に突き刺さる。
 落ち――
「大丈夫か」
 失墜からの恐怖で意識が飛びそうになった時、腕を強く引かれて落下の速度が急激に弱まった。片手で大鷲型ドールの首筋を、もう片方の手で私の腕を掴んでレヴァーナが私をじっと見つめている。
 お前……。
「ヲハハハハハ! なかなかやりますなぁ坊ちゃん! まぁこのくらいで死んじまったら拍子抜けもイイトコなんだけどよ!」
 私の前で高笑いを上げるリヒエルの背中には、二枚の大翼が生えていた。体の一部を変形できるんなら空を飛ぶことくらい訳ないということか。
 そしてリヒエルの片手が長大な剣となり――視界が一気に降下した。
「先輩さっきの! さっきの大砲!」
 大鷲型ドールを急な角度で地面へと向かわせながらルッシェが叫ぶ。
「ダメだ! 避けられる!」
 私はレヴァーナの腕をしっかりと握り、放り出されないように力を込めながら叫び返した。
 最初のは不意を突いたから何とか直撃した。しかしそれでも盾で防がれた。二回目で、しかもクリーンヒットさせるには何か仕掛けが必要だ。
「じゃあわたしが囮になりますから!」
「ソレもダメだ! お前のドールに固定化させないと撃てない!」
 耳元で渦を巻く風の激しい呻り声にかき消されないように、私は腹の底から声を上げた。
 アレは確かにドールではあるが、所詮は本体のオプションに過ぎない。ソレ単体では効果を発揮しない。どうしても本体からの力が必要になってくる。
 ルッシェのドールは昔の私と同じように、誰かのためになることを目的として創られていた。だから辛うじて融合させることができた。しかし融合率は私が生み出したドールとは別物だった。出力もソレ相応の物だった。
 しかし贅沢は言ってられない。私だけではなく、レヴァーナの感情も込めることができれば。ソレでリヒエルを完全に捕らえられれば、あるいは……。
「要するに大砲の台と囮が別々になっていればいいわけですよね! 任せてください!」
 ルッシェは大鷲型ドールを地面に滑り込ませるように着地させると、私の返事も待たずに駆け出した。
「お、おぃ!」
 どうするつもりだ。この大鷲型ドール以外にもまだドールを? いや、ソレはない。封印体で保有していれば確実に喰われているはずだ。だったら……。
「みんな! あのデブをブッ飛ばすのよ! ドールを使える人はわたしに付いてきて!」
 ルッシェは目立つように両手を振りながら叫び散らし、いまだ教会の敷地内で呆然としているドールマスター達に声を掛けていった。
 私達以外に戦力を求めるつもりか……。確かにソレができれば有り難いが……。
「無理か……」
 私の隣でレヴァーナが苦々しく呟く。
 もう、ドールとドールマスターを合わせても二十いるかいないかになってしまっていた。そして彼らの中に、ルッシェの呼びかけに応える者は一人もいない。
 当然だ。ヴァイグルのあの敵も味方もない狂った戦いぶりを見て、ほとんどの者は戦意を失ってしまった。そして集中を欠き、自分のドールが封印体に戻った途端消えてなくなってしまう。そこに逆裏世界などという得体の知れないドールの話をされ、実質教会側の指揮権を握っているリヒエルの行動原理が極めて個人的な物であることを知り、さらにそのリヒエルがあのヴァイグルと同じような存在であることを知った。
 恐怖に駆られて逃げていく者、この戦いに意味を見出せずに去っていく者、周りがいなくなるのに同調して消えていく者。
 二十という数はもしかすると奇跡かもしれない。そしてその中にジェグの創った軍事用のドールがいることを期待するのは、砂漠の中で一粒のダイアを探り当てるような行為かもしれない。
 だが、それでも……!
「やーれやれ。結局、お前らは一人じゃなんにもできないんだな」
 後ろから届くリヒエルの声。振り向くと同時に、光の筋が真横に走った。
「え……」
 ルッシェの呟き。重い物が落ちる音。
「こんだけの数になりゃ、後は俺一人でも十分掃除できるってモンだ」
 リヒエルの声がさっきとは真逆の方向から聞こえた。慌てて体を元に戻す。
 両手から滴る鮮血を舐め取りながら、不気味な笑みを浮かべているリヒエルが尻餅を付いたルッシェの前に立っていた。そして彼の両脇には首のない体が二つ。一呼吸ほど間が空いた後、物言わぬ肉体となったソレらは地面に引かれるようにして倒れこんだ。
 首の付け根から、壊れた蛇口のように体液が吹き出して大地を黒く染めていく。その返り血を浴びたルッシェは全身を硬直させ、まるで魅入られたようにリヒエルを見上げていた。
「まずはお前から行くか。俺をデブサンタ呼ばわりしてくれた罪は重いぜ?」
 リヒエルは舌を伸ばして顔に付いた血を舐め取り、目の前に持ってきた手を剣化させる。そして腕を後ろに引き、ルッシェの胸元目掛けて突き刺して――
「ち……」
 剣先は黄色い物体で阻まれた。
「ハウェッ……ツ……」
 いつの間にか筋が引きつるくらいに強ばらせていた体の緊張が、安堵によって解けていく。そして私の口から自然に言葉が零れた。
 防いでいた。リヒエルの剣撃をハウェッツがクロスさせた両翼で止めていた。いや違う。リヒエルが途中で剣を引いている。剣先はハウェッツに触れる数ミリ手前で止まっていた。
「テメーは邪魔なんだよ」
 面倒臭そうに言ってリヒエルはハウェッツの首を鷲掴み、改めてルッシェに狙いを定めなおして、
「とぅあ!」
 レヴァーナの声が轟いた。
 さっきまで私の隣にいたはずのレヴァーナは瞬時にしてルッシェの近くまで走り寄ると、固まったままの彼女の体を抱きかかえて戻ってくる。
「ルッシェ君なら心配ない。ショックで意識が飛びかけてはいるが外傷はない」
 私の隣でレヴァーナが冷静な声で説明した。
「あ……」
 レヴァーナの腕の中にいるルッシェを見つめながら私は呟き、
「よかっ、た……」
 冷たい汗が噴き出してくるのをはっきりと感じた。心臓が痛いくらいに体の内側を叩いている。
「そのくらいで安心するのは早いんじゃねーのか?」
 耳元で悪魔の声がした。
 ――ダメだ。動けない。レヴァーナの両腕も塞がっている。
 早すぎる。何もできない。仲間を救うことも、自分の身を守ることもできないのか。ドールがなければ私は一人で何もできない、この程度の取るに足らない――
「な……!?」
 顔のすぐ隣を駆け抜けていく細長い風の塊。真後ろでリヒエルの狼狽した声が上がった。
 なん……だ……? 今、何か起こった……?
 更に間髪入れずレヴァーナの真後ろから同じ物体が無数に飛来し、私達を避けて後方へと姿を消していく。
「鬱陶しいんだよ!」
 苛立ったリヒエルの声に触発されるようにして、止まっていた私の周りの時間が動き出した。
 後ろを振り向く。触手のように伸びた細長い槍状の物体が、複雑な網目模様を描きながらリヒエルの体を捕らえようと追撃を重ねていた。リヒエルに届く前に剣で切られるが、その切り口からまた新たな槍を生み出して変わらぬスピードで攻撃を繰り出している。
 コレは、このドールは……まさか……。
『ガアアアアアァァァァァァ!』
 リヒエルから獣じみた咆吼が上がった。
 十本の指に生み出した鎌状の武器で触手を寸断すると、大きく跳んでその戦域から逃れる。そして私から一気に十メートル以上距離を取ったところで、体を元に戻して着地した。
 触手はそれ以上はリヒエルに追いすがらず、私の方に引き返してきたかと思うと力無く大地に横たわった。そして見る見る姿を小さくしていく。
「――っ!」
 私はそのドールを慌てて拾い上げた。
 手の中には、こぶし大の白い球体。
「ジェグ……」
 彼のドールだ。ヴァイグルを倒す決定打となった、体の中に埋め込まれていたドール。
 体の中にあったから、このドールだけは地面に触れずにすんだ。そして逆裏世界に喰われずにすんだんだ。
 ソレを、もう一度真実体にして……リヒエルを……。
 どこにそんな力が……。執念なのか、精神力なのか。それとも、ミリアムへの想いなのか……。
 分かったよ、ジェグ。もう十分に伝わったから。ミリアムは私に任せろ。お前がそこまでして救いたいんなら、そこまで私に期待するんなら、応えてやるさ。
 意地でもな!
「ルッシェ! 目を覚ませ! ドールをしっかり保て! 喰われるぞ!」
 私はリヒエルを睨み付けながら叫び、両手に亜空文字を展開させる。直後、私の手の中で白い球体が弾け飛んだかと思うと、爆発的な勢いで触手を伸ばしていった。
 行ける! コレなら私でも使える! 
「レヴァーナ! 気合い入れろ! あのデブをブッ潰すぞ!」
「おぅ!」
 レヴァーナの掛け声と共に触手の太さが倍加した。表面は磨き上げられた金属のように眩い光沢を放ち、力強い胎動と共にリヒエルへと突進する。
「ちぃ!」
 真っ正面から壁のようになって押し寄せる触手の塊に舌打ちし、リヒエルは顔をしかませながら上に飛んだ。しかし一瞬にして触手は矛先を直角に変えると、真下からリヒエルを貫かんと槍の刃を光らせる。
「調子に――」
 リヒエルの右腕が自分の身長の倍以上もある鉤爪へと変貌した。
「乗るなああああああぁぁぁぁぁ!」
 下をすくうようにして放たれた鉤爪は弧を描く軌道で触手を刈り取り、ブチブチと嫌な音を立てて残渣を撒き散らせる。
「ふざけるな!」
 私の声に応えて千切れた触手の断面から新しい槍が生み出される。ソレは曲線的に飛び上がってリヒエルの頭上まで一気に這い上がると、真上から散弾のように降り注いだ。
「母上を愚弄した貴様だけは絶対に許さん!」
 隣で響くレヴァーナからの裂帛の怒声。地面近くにあった触手の一部に亀裂が走ったかと思うと、そこから新しい槍が伸び上がり、再びリヒエルに追い迫った。
 上と下。
 空中に飛び上がって自由に身動きの取れない体勢のリヒエルに、巨大な顎となった白い触手が槍の牙を突き立てる。リヒエルは両手を巨大な盾に変えて上下から襲いかかる槍撃を受け止め、
『ウオオオオオォォォォォォ!』
 獣吼を上げながら顎が噛み合わされるのを防いだ。もうどれだけ感情を注いでも侵攻は進まない。それどころか徐々に押し返されていく。
 だが――動きは止まった。
「ルッシェ!」
「も、もう大丈夫です!」
 私の声にルッシェが大声で返す。
 まだカラ元気かもしれない。自分に吹っ切ったと言い聞かせているだけかもしれない。けどソレでもいい。『台』を作ってくれれば十分だ。あとは――
 私はガンホルダーから銃を一つ抜き取って亜空文字を展開させ、真実体化させる。そしてルッシェの大鷲型ドールと融合させた。
「行くぞぉ! レヴァーナ!」
「いつでもこい!」
 ――私達が。
『食らええええええぇぇぇぇぇぇ!』
 声も、そして想いも一体化させ、私とレヴァーナは波動砲型ドールに激情を込める。
 鼓膜をつんざく破壊音。辺りを白く染め上げる圧倒的な光量。至る所から上がる大気の悲鳴。
 私が一人で放った時とは比べ物にならない程の力の塊が、闇を切り裂く白刃となってリヒエルの体に急迫する。
 何かに怒りをぶつけるように顔を歪ませるリヒエル。そこにはもう余裕など微塵もない。目の前の強大に力に抗うために両足を前に出し、
『な――』
 私とレヴァーナ、ルッシェ、それにリヒエルまでもが驚愕に顔を染めた。
 どこから来たのかハウェッツが横手から割って入り、波動のエネルギー塊を受け止めるように羽根を広げる。
 アイツ……! まさかリヒエルを庇って……!
 いくらハウェッツでもアレを真っ正面から受ければただでは済まない。最悪、死んでしまう……! どうする! どうすればいい!? もう力は打ち出してしまった! これ以上はコチラで制御できない!
「ハウェッツ避けろぉ!」
 無意識に私の口から絶叫が上がる。ソレに反応したのか、虚ろ気な瞳を投げ出していたハウェッツの体が一瞬痙攣したように見えた。
 だが、ソレだけだった。ソレ以上は何の反応も示さない。間に合わない。もう無理だ。白い光は容赦なくハウェッツを呑み込み――
「え……」
 盾化したリヒエルの両腕で覆われた。
 直後、天を突く土柱が立ち上ったかと思うと、竜巻のような狂風がとぐろを撒いて周囲を呑み込んでいく。もはや瓦礫となった四本の小塔は、その身に宿していた炎ごと引き込まれ、天高く舞い上げられて竜巻の一部と化した。
 悲鳴のようにも嗤い声のようにも聞こえる大気の雄叫び。空気の断層すら生じさせ、不可視の刃を地面や尖塔の外壁に突き立てていった。
 周りにいたドールマスター達は悲鳴を上げながら身を低くし、私達も大鷲型ドールの体にしがみついて狂風の鎌から身を逃がす。
 そして――唐突に静寂が訪れた。
 私はすぐに触手型ドールで頭上を覆い、上空から振ってくる建物の一部から二人を守る。音も風も完全に止んだのを確認した後、ゆっくりと顔を上げた。
「へっ……へへっ……」
 そこには、全身を鮮血で染め上げたリヒエルが薄ら笑いを浮かべていた。
「や、やってくれるじゃねぇか。嬢ちゃん……」
 肩で激しく息をしながら、リヒエルは胸の前でクロスさせていた腕を解く。その中にいたハウェッツは、全くの無傷のままだった。
「お前……」
 どうして。全く理解できない。なぜハウェッツを庇った。
 リヒエルは自分の足を盾化して波動を受け止めるつもりだった。ソレによって被害を最小限に留めるつもりだった。なのに自分を庇ったハウェッツを守るため、触手の顎から強引に逃れて飛び出した。そして牙で噛み砕かれ、おまけに不自然な体勢からハウェッツを抱き入れたからあの様だ。
「どうした、嬢ちゃん……。チャンスだぜ……。さっきのヤツ、もう一発撃たないのか?」
 口の端を不敵につり上げ、リヒエルは太い眉毛を片方だけ上げながら挑発的な口調で言った。
 撃てば、きっとまたハウェッツはリヒエルを庇おうとする。だがリヒエルにはそのハウェッツを庇い返すだけの力は残っていない。撃てるはずがない。大切な物を自分の手で傷付けるようなまね、できるはずがない。
「そんな行動を取れば……そんなことを言えば、情けを掛けてくれるとでも思ったのか? それとも、私が油断するとでも?」
 私は先端に刃のついた無数の触手をリヒエルに向け、できるだけ平静を装って静かに声を出す。
 アイツがどんなことをしようと関係ない。アイツは間違いなく敵だ。全てを裏で操り、騙し、利用して私の大切な物を沢山奪った。傷付けた。ソレが事実だ。そしてコイツを葬ることが私にとっての真実だ。疑いや迷いなど微塵も混じることのない、純然たる目的なんだ。
「らしくない行動はやめておくんだったな」
 今のリヒエルなど、波動砲を撃たずともコッチで十分だ!
「行けぇ!」
 私の声に応えて、触手がリヒエルの頭部に狙いを定める。
 ハウェッツを避けて確実にリヒエルだけを潰す!
「忘れんなよ、嬢ちゃん……」
 大気を焦がすほどのスピードで肉薄する触手に全く動じることなく、リヒエルは呟きながら鼻を小さく鳴らし、
「俺は、ヴァイグルと同じ力持ってんだぜ……?」
 リヒエルの体が消えた。
「ぐ……!」
 隣で上がるレヴァーナの苦悶の声。
「ひッ……」
 さらにルッシェから吃音のような悲鳴が漏れた。
 視線を横に向ける。
 レヴァーナの右肩が大きく抉れて血にまみれ、大鷲型ドールの頭部が潰されていた。
『ギャハハハハハハハハハハ!』
 そして、人外の哄笑が暗天を突く。
 崩れ掛けた尖塔の頂点に立ち、リヒエルは鉤状に曲げた両手を真横に突き出して口を弧月の形に曲げていた。そして左手を自分の口元に持っていって滴る血を舐め取り、さらに甲高い狂笑を上げる。
 暴、走……。
「知ってんだろエぇ!? 俺らは力使うと腐るんだよ! もう二度と戻らねぇ! だから抑えてたのさ! けど――もうやめだ!」
 冴え渡る月明かりを背に負い、リヒエルの姿が変わっていった。
 髪は金色に染まって異様に長く伸び、針金でも通したかのように鋭利で攻撃的なシルエットを浮かび上がらせる。顔は大きく、そして縦に長くなり、前面に突き出た口には凶悪に反り返った鋭い牙が無数に生えた。瞳孔は縦に開いて緋色の輝きを宿し、三メートル以上ある巨躯から伸びた四肢は長い獣毛に覆われていった。
 一瞬にして巨大な百獣の王と化したリヒエルは、黄金のたてがみを靡かせながらコチラを睨み付ける。そして獣吼を上げて飛んだ。
「クソッ!」
 私は触手を操り、下からリヒエルの腹に狙いを付ける。だが、その切っ先がリヒエルに届くより早く前足の爪が真横に薙ぎ切られる。
「な――」
 まるで見えない爪が伸びたかのように、触手は縦に裂けてその勢いを殺された。
「まだまだぁ!」
 流血する肩を押さえながらレヴァーナは大声で叫ぶ。ソレに応えて厚みを半分にした触手が再び力を取り戻した。自ら更に深くその身を割り、数の倍加した触手が四方八方からリヒエルの体に襲いかかる。
 そして脚、胴体、頭部を絡め取り――
 ――炎に包まれた。
「くっ……!」
 紅い舌は一瞬にして根元まで伝播し、反射的に手を離した私の白衣の袖口を黒く焦げ付かせて収まる。
「メルム!」
 横手からレヴァーナの声がしたかと思うと、視界が大きく振られた。直後、さっきまで私の立っていた場所が、悪夢のように大きく陥没していた。
『諦めて死んで餌になっちまいな! そいつで完成だ!』
 クレーターの中からリヒエルが顔を覗かせ、牙を剥きながら不気味に笑ったかと思うと直線的な動きで突っ込んでくる。
 餌? 逆裏世界の、餌だと? ふざけるな。私はそんなことのために生まれてきたんじゃない。私はドールじゃない。ドールとドールから産まれた――
「人間だ!」
 叫んでガンホルダーから残った一挺の銃を抜き放ち、亜空文字を展開させて強大化させる。
「レヴァーナ!」
 隣りにいるレヴァーナに声を掛け、私は波動砲型ドールを盾代わりにしてリヒエルの突進を受け止めた。が――
「ぐ、ぁ……!」
 ソレを介してなお衰えを知らない衝撃に跳ね飛ばされ、レヴァーナと共に大きく後ろに弾かれる。そして地面で何度かバウンドし、ようやく勢いを止めた。
 やはり、ダメ、か……。
『ッハハ! 何をするかと思えば! 悪あがきだな!』
 エコー掛かった声で叫び、リヒエルは大地を蹴って大きく飛び上がり、
『キシェラアアァァ!』
 怪吼を発して頭上から爪を繰り出してくる。
 ――殺られる。
 本能的な何かが私の頭の中で囁き、周りの世界が白と黒だけに塗り分けられて――
『どすこいオンドリャバリアー!』
 どこかで聞いたことのある技名が近くで叫ばれたかと思うと、巨大な波動砲型ドールが私とレヴァーナの真上へと掲げられた。そしてリヒエルの爪撃に合わせてしっかりと固定化される。
『ぬ、ううううううぅぅぅぅんんんんん!』
 周囲で撒き起こる裂帛の気合い声。
 いつの間にか私達を取り囲んでいた何人のも白スーツの男達が、全員で波動砲型ドールを支えてリヒエルの凶撃を受け止めていた。
「坊ちゃん! ようやく助太刀できやすぜ!」
「若! 俺達にできることと言えばこのくらいですから!」
「姉御! ドールマスターじゃなくてもコレなら足手まといにはなりませんよね!?」
 コイツら……まさか逃げずにずっと……。
 そうか。自分達でも役に立てる機会をずっと待ってたのか。巻き添えを食って、死ぬかもしれないというのに……。
「お前ら……」
 横目に見たレヴァーナから驚きと感嘆の声が漏れる。
 お前の人望も大したもんだな。ことあるごとに努力だ友情だと叫ぶ理由が分かった気がするよ。
『クッ……! ゲハハハハハハハハハハハハ!』
 リヒエルの口から迸るけたたましい嘲笑。白スーツ達が持ち上げた波動砲型ドールに乗ったまま、爪の連撃を力任せに叩き付けていく。重い一撃が放たれるたび、白スーツ達の脚が地面へと呑み込まれていった。
 このまま押し潰す気だ。リヒエルから理性が失われてきている。攻撃の効率性ではなく、己の獣欲を満たすことが優先されている。
「メルム! さっきのドール! まだ持ってるな!」
 私の隣でレヴァーナが叫んで立ち上がった。
「え……?」
 言われて私はいつの間にか握り込んでいた拳を開く。そこには黒い炭となった触手型ドールの成れ果て。いや、断片が僅かにこびり付いているだけだった。
「コレは、もぅ……」
「ソレでいい! 十分だ! 早く真実体にしろ!」
 肩を抉られた方とは逆の腕を伸ばして白スーツ達と一緒に波動砲型ドールを支えながら、レヴァーナは怒声に近い声を上げる。
「だから無理……」
「いいからヤレ!」
「でも……」
「このない胸男女!」
 な……い、男……だと?
「こぉ、の……」
 私は両腕が覆い隠されるほどに、白く縁取られた紅文字を無数に展開させ、
「非常識プッツン浮気野郎がああああああぁぁぁぁ!」
 触手型ドールの燃えカスにありったけの力を込めて叫んだ。
「よぉし! 後は任せろ!」
 レヴァーナの双眸がカッと大きく見開かれたかと思うと、私の手の中で何かが反応した。ソレは小刻みな振動を経て大きく揺れる確かな胎動となり、
「行くぞお前らぁ! 俺に合わせて叫べぇ!」
『応!』
 ただの黒い炭は一瞬にして白い球体へと生まれ変わり、
「気合いいいいぃぃぃぃ!」
『気合いいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!』
 ソコから突起のような物が無数に盛り上がったかと思うと、
「根性おおおおぉぉぉぉ!」
『根性おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!』
 炸裂したように太い管が飛び散る。
『熱ッッ血ううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!』
 ソレらはレヴァーナと白スーツ達の声に応え、波動砲型ドールの向こう側にいるリヒエルの巨躯へと降り注いだ。
 夜闇に轟くリヒエルの苦痛の叫声。鞭のようにしなる槍で全身を貫かれ、巨大な百獣の王は地面へと叩き付けられた。
 し、信じられない……。完璧に死んでいたはずのドールが、蘇った……? しかも体の一部だけから……。ありえない。こんなこと、ドールの常識を覆すだけじゃない。逆さまにして裏返しにして、挙げ句に壊してしまうようなことよ……。
 そういえば、このバカは以前にも一度似たようなことをやって見せた。
 『エッグ・コロシアム』というゲームで対戦した時、死んだはずのキャラクターを壮絶な連打で生き返らせた。アレは多分、制作者も意図してなかったアクシデントだと思うんだ。アイツだからこそできたこと。アイツ以外には決してできないこと。
 だからきっとコレも理論的に証明したり、他の人で再現性をとったりすることはできないと思う。
 コイツだけなんだ。コイツだからできてしまうんだ。気合いだか根性だか訳の分からないモノを堂々と掲げて、不可能の壁を打ち砕いてしまうんだ……。
 最初から無理だとかできないだとか諦めてしまう前に、取り合えず何でもやってみればいいんだ。
 前例がないことに怯える必要はない。やってみなければ分からない。見たことのないモノに戸惑う必要もない。そういうモノなのだと受け入れればいい。
 だって目の前に、その手のことを得意技とするような男がいるのだから。
「一気にたたみかける! 母上を罵った罰を受けよ! 天誅!」
 レヴァーナは更に熱い声を上げ、触手を編み上げて太い槍へと変える。そして横たわっているリヒエルの頭部へと狙いを定め――
 槍が真っ二つに割れた。
『グィヘッ……! グェラハアアアアアァァァァ!』
 自分の躰ほどもある長大な角を額から生やし、リヒエルはゆっくりとその身を起こす。
 そして涎を口の端から滴らせながら、血走った瞳でコチラを睨み付けた。
 もうダメだ。完全に理性が飛んでしまっている。精神の腐食が進みきった。
『ゲォルゥァアアアアアァァァァァ!』
 何も考えずに真っ正面から突撃してくるリヒエルの体が更に変貌していく。
 たてがみは一本一本が長く伸びて針先のように鋭くなり、太い四肢には反り返った諸刃の鎌が生まれる。尻尾は九つに割れて槍の矛先に似た狂刃を先端に宿し、体からは無数の剣が巨大な剣山にように生えた。
 まさに全身を刃の塊に変え、リヒエルは大地を蹴って跳躍する。そして牙と爪を突き出し、獣吼を上げて襲いかかって来た。
「怯むなぁ!」
 レヴァーナの声と同時に、触手の傷口から新たに生まれた触手がリヒエルの侵攻を阻まんと柵のように縫い合わさる。更にその後ろで白スーツ達が波動砲型ドールを抱えて、強固なバリケードを作り上げた。
『おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!』
 硬質的な音を立てて激突する二つの力。接触点で火花が飛び散り、リヒエルの体から生えていた刃が数本折れる。しかし、押し負けたのはコチラだった。
 止まらない。どれだけ刃を折られようとも、突っ込んだ頭から血が吹き出そうと全く止まらない。強引に押し切ってくる。
 白スーツの一人が飛ばされた。意思を持ったかのように伸びてきた剣で切られ、壁となった触手型ドールがその密度を急激に薄くしていく。
 白スーツがまた一人飛ばされ、そして刃に体を切り刻まれて二人が大地に横たわる。支えを失い、片方が大きく沈み込む波動砲型ドール。そして射出された剣の一本が私の眉間を捕らえて――
 弾かれた。
「ハ、ウェッツ……」
 突然目の前に現れた黄色の角オウムを呆然と見ながら、私の口から言葉が漏れた。
 元に戻ったのか……? いつものハウェッツに戻ったのか……?
 だがハウェッツは虚ろな視線を私の方に向けると、今度は白スーツの一人に体当たりを掛けて体勢を崩し、波動砲型ドールの支えを弱くした。
 揺れている。裏の世界を覗いて、リヒエルを庇うようになって、私から心が離れてしまったように見えたけどそうじゃない。
 ハウェッツは自分と戦っているんだ。そうだ。庇ったのはリヒエルだけじゃない。そのリヒエルに殺されそうになったルッシェも庇ってくれた。そして今は私を庇ってくれた。
 大丈夫。きっと大丈夫だ。ハウェッツが言ってたじゃないか。
 もう、誰も私を裏切ったりしない。ハウェッツは――絶対に私を裏切らない。
 ハウェッツは昔からずっと、私と一緒にいた。ずっとそばにいてくれたんだ。コイツのことなら何だって知っている。コイツも私のことなら何だって知ってる。私達はそういう関係なんだ。
「ハウェッツ」
 私は頼りなく飛んでいるハウェッツを捕まえて胸元に引き寄せた。
 できるかどうかなんて分からない。やってみないと分からない。ひょっとしたらとんでもないことになるかもしれない。
 私は両手に亜空文字を展開させる。
 けど、絶対に大丈夫だ。コイツなら、アタシの期待に応えてくれる。アタシの声を聞き遂げてくれる。だってお前は私が特別な想いを込めて生み出した、最初で、最強で、最高な――親友なんだから。
 目の前でハウェッツが姿を変えていく。
 長く伸びた角。精悍な面長の顔立ち。猛々しい体躯。艶やかな四肢。雄々しい尻尾。そして白く輝く二枚の大翼。
 金色の輝きを全身に纏わせ、麒麟の真実体となったハウェッツは宝石のように澄んだ蒼い瞳をアタシの方に向けた。
「ハウェッツ、私の声が聞こえるな」
 私の呼び掛けに麒麟はくすぐったそうに頭を振り、一瞬だけ放電させる。
「もう随分と昔から聞いてきたからな」
 そして小さく鼻を鳴らして、いつもとは違う大人びた声で返した。
 そうだ。コレが私の大切な親友だ。
 例え封印体でおかしくなったとしても、真の姿にしてやればソコにあるのは本当の気持ちだけだ。
「やることは分かってるな」
「潰す」
 短く答えてハウェッツはリヒエルを一瞥する。次の瞬間、リヒエルの周囲に落雷が白光を伴って突き刺さった。その衝撃を受けてリヒエルは一瞬たじろぎ、白スーツとレヴァーナは逆の方向に跳ね飛ばされる。そしてできた間に、ハウェッツは悠然と進み出た。
「行けえええええぇぇぇぇぇ!」
 私の声に応え、ハウェッツは頭からリヒエルに突っ込む。角と角とを交差させ、額と額を押しつけ、四肢にあらん限りの力を込めて体を前に出していく。そして先に体が持ち上がったのは――リヒエルの方だった。
 ハウェッツの角でかち上げられ、腹を無防備に晒す。そこに前脚での蹴りが押し込まれた。できの悪い合成写真のように不自然なほど腹を沈ませ、リヒエルは口から体液を吐き出した。そして真上に開かれた口を狙って雷光が差し込まれる。
 ビクン、と全身を大きく痙攣させて硬直するリヒエル。それはほんの僅かな時間。だが、追撃を仕掛けるには十分な時間。
「食らわせろ!」
 私は右手を真横に薙ぎ払い、ハウェッツに激情を叩き付けた。
 コイツのせいで危険な目に晒された孤児院のみんなのため、レヴァーナのため、ルッシェのため。死んでいったラミス、ヴァイグル、ジェグのため。そして、自分が利用されているだけだと言うことに気付いてすらいない――ミリアムのために。
 ハウェッツは長い角をリヒエルの腹に突き刺すと、そのまま顔を押し上げてリヒエルの巨躯を上空へと跳ね飛ばす。そして自らも飛び上がり、水平に寝かせた翼を刃のように使ってリヒエルの全身を切り刻んでいった。更に後ろ足で一層高く跳ね上げた後、ソレを上回る速さでリヒエルの頭上へと回り込み、前脚で背中を強打する。
 上下の力に挟み込まれて身を潰し、直後に激しく地面へと叩き付けられるリヒエル。震える四肢で立ち上がろうとしたソコに、極大の白い柱が突き立てられた。
 大気を灼き、大地を焦土と化し、全てを無に帰す浄化の雷。
 光が収まった時、その圧倒的な力に呑み込まれて躰を黒く染めたリヒエルが力なく横たわっていた。
「やったか……」
 レヴァーナの口から言葉が漏れる。
 が――
『グヘァ……グヘヘッ……強……なぁ』
 しゃがれた老婆のような声が二重にブレて聞こえてきた。
『勝て、ば……ゲフッフヘヘッ……俺の、が……ギャハハッ……完、ペキ……証明――』
 リヒエルの体が小さくなっていく。百獣の王を模した巨躯は見る影もなくなり、元の人間の姿へと戻った。肉の焦げた異臭をまとわりつかせながら、リヒエルは不敵な笑みを浮かべて右腕を高々と掲げる。
 そして――
「な……!?」
 突然低くなり始めた視界。私は反射的に足元へと目をやる。
 呑み込まれていた。私の体が地面の中に。もう腰まで沈んでいる。
「メルム!」
「先輩!」
 伸ばしてきたレヴァーナとルッシェの手を掴んで何とか体を引き上げようとるすが、下から引っ張る力の方が強い。
 逆裏世界……! クソ! また閉じ込めるつもりか!? また私とハウェッツを離して……!
 だが、レヴァーナは残って……!
「後はお前に任せるからな! 私が戻るまで絶対……!」
「メル――」
 レヴァーナの上げた叫び声を最後に、私の視界は完全に闇の中へと埋没した。

 全く見通しの利かない闇の中。だが不思議と恐怖はない。
 あるのは使命感と義務感、そして――
「いいところだったのに、残念ね。姉さん」
 同情だけ。
 私が初めてミリアムと会った時も、同じことを考えていた。そしてあの時は、レヴァーナが私に初めて声を掛けたのもそんな後ろ向きな感情からかと思っていた。
 だが違う。
 勿論、少なからずそういう思いもあっただろう。しかし決してソレだけではない。
「お前のそばにも、レヴァーナみたいなバカがいれば良かったのにな」
 暗い世界の中で浮かび上がるようにして存在しているミリアムの上半身に、私は諭すような口調で話し掛けた。
 ミリアムは一瞬、私が何を言ったのか分からないといったような表情を浮かべるが、すぐにソレは嘲りへと変わって私を見下ろす。
「あの男のことがよっぽと大事なのね、姉さん」
「ああ、大事だね」
「でももうすぐ死ぬわよ? リヒエルに殺されるわ」
「死なないさ。アイツのそばにはハウェッツがいる。ハウェッツの扱いなら私よりアイツの方が上だ。そしてこの逆裏世界は真実体は喰えない。だから死なない」
「ふーん、リヒエルに聞いたんだ。アタシのドールのこと。いいでしょ。リヒエルが教えてくれたの。使い方。でも勘違いしてない? この子は真実体だって人間だって食べられるの。ただちょっと時間が掛かるだけ」
 ハッタリ、か……?
 いや、確かにレヴァーナと孤児院のみんなはココに入れられていた。けど殺すことはおろか、傷付けることさえできなかった。だが、時間を掛ければ喰える? 数時間では無理だが何日も閉じ込め続ければ……?
「でも姉さんはあっと言う間に食べられた。つまり姉さんはドールで封印体ってこと。ようやく受け入れる気になった? アタシが最初に言ったこと」
 ――違う。恐らく、ミリアムが言ってる『食べる』というのは『口に入れる』ということなんだ。真実体でも人間でも、時間さえ掛ければこの暗い場所に閉じ込められる。その先の『消化』までできるのなら、ルッシェの言うとおり見せしめとして私の目の前でやっているはずだ。例え完全に『消化』するまでに時間が掛かったとしても、兆候くらいは見せられるはず。ソレだけでもタイムリミットを示すことができる。私を焦らせて絶望に突き落とすには十分だ。
 だがしなかった。いや、できなかったんだ。人間や真実体は『口に入れる』ことはできても『消化』まではできない。
「黙ってないでもっとお喋りしましょうよ。アタシ達血の繋がった姉妹じゃない。そうだ姉さん、せっかくだから外のお話聞かせてよ。アタシね、この抗争が終わったらココから出られるの。リヒエルが出してくれるって言ってた。凄いと思わない? もう一生ココにいるんだと思ってたのに。彼は本当に何でも知ってるわ。それにアタシの為だったら何でもしてくれる」
 ミリアムは紫色の長い髪の毛を触りながら言って、子供のように顔を輝かせる。ソレは人を疑うということを全く知らない無垢な表情。心の裏側を読もうともしない純粋な気持ち。
 ココからではリヒエルの言ったことは聞こえていない。自分が最後の生け贄として閉じ込められていることを、『終わりの聖黒女』の意味を知らない。ただ利用されているだけだということを全く自覚していない。
 リヒエルはもう完璧なドールになることは諦め、逆裏世界を完成させて表の世界を終わらせるつもりだ。教会もジャイロダイン派閥も王宮も全部潰して、幼稚な憂さ晴らしをやり遂げるつもりなんだ。
 自分で殺した教総主のように。
 私を餌にできなければ、次は間違いなくミリアムを選ぶ。
 そんなことは――させない。
「私は死なない。死ぬのはリヒエルだ」
 強い意志を言葉に乗せ、私はミリアムから目を逸らさずに言い切る。
「随分と自信たっぷりなのね。でもお生憎様。リヒエルは勝てない戦いをするほど愚かじゃないの。合図したら姉さんだけを呑み込めって言われたわ。きっともう、勝算が立ったんでしょうね。それにジェグだってまだいるわ」
「ジェグ、だと……?」
 ミリアムの言葉に果てしない違和感を感じて、私は聞き返した。
 ジェグは……もう死んだんだ。私に触手型ドールを送り届けたのが、本当に最後の力だった。あんなことができたこと自体、奇跡だった。
 しかしミリアムは……。
「お前、ジェグの戦いを見てなかったのか」
「勿論見てたわ。アタシ達の父さんと戦ってちゃーんと勝った。ジェグは強いもの。当然の結果よ。それにアタシの言うことは殆ど聞いてくれた。ま、リヒエルほどじゃないけどね」
「ジェグは死んだ。ヴァイグルと相打ちになったんだ」
 私の言葉にミリアムは少し驚いたように目を丸くして返した。
「姉さん馬鹿? ソッチこそよく見てなかったの? ジェグは何回でも立つわ。父さんと戦ってる時だって死んだフリしてただけだったじゃない。まぁ、頭から沢山血が出てたけど……。でもそれだけよ。ちゃんと起きあがってラミスも父さんも殺したじゃない。その後でまた倒れたちゃったけど……でもきっとソレも演技よ。そうに決まってるわ。みんなが油断したところに出てきて不意打ちするつもりなのよ……」
 ミリアムの言葉がだんだんと自信のないモノに変わっていく。顔が引きつり、声に震えが混じり始めた。
「ジェグは死んだ」
 そんな彼女を真っ正面から見据え、私は同じ言葉を口にした。
「ウソよ……」
「嘘なんかじゃない。もうジェグは二度と立ち上がらない」
「いい加減なこと言わないで! アタシは『邪魔者を全部始末して“戻って来なさい”』って言ってあるのよ! ジェグはアタシの言うことなら何だって聞いてくれたわ! 絶対に生きて戻ってくるに決まってるでしょ!」
 ミリアムの顔からさっきまでの余裕は一瞬にして消え、代わって焦燥と灼怒で埋め尽くされる。歯を剥き、髪を振り乱し、身に纏った黒いローブの胸元をきつく握り締めて、ミリアムはダダをこねる子供のように喚き散らした。
 短絡的で直情的な思考。ドールの特徴。ミリアムはまだ、人間よりもドールに近い。
「だが、何度か言うことを聞いてくれないこともあったんだろう?」
 ジェグはミリアムの命令を無視して、私や孤児院のみんなを助けてくれた。ソレは言ってみればミリアムへの忠誠心の現れ。そして恐らく、彼女に向けられた愛情。
「うるさい! 黙れ! あんなのは関係ない!」
 ミリアムにもジェグからの気持ちは伝わっていたんだろう。そして少なからず受け入れていた。だから――
「ジェグ絶対に生きてる!」
 こんなにも怒ってるんだ。
 信じたくない事実を必死になって拒絶しているんだ。
「なら見てみればいい。その目で。逆裏世界の『眼』を介して」
 私の言葉にミリアムは顔を歪ませて舌打ちし、顔を背けた。そして彼女が向いた方向に『穴』が現れる。
 そこには頭と腹をどす黒い色に染め、植物の根のように手足を大地に這わしているジェグの姿があった。体は全く動かない。私が閉ざしたはずの両目は開かれ、全く光を宿していないソレは虚空を見つめている。しかし、彼の口元にはどこか満足そうな笑みが浮かんでいた。
「ジェグ!」
 ミリアムは『穴』に向かって大声で叫んだ。だが、ジェグは反応しない。
「何してるの起きなさい! コレは命令よ! アタシの言うことが聞けないの!?」
 それでもミリアムは声を出し続ける。『穴』から外に届いているかも分からないのに、ミリアムはジェグの名前を何度も呼んだ。
「ジェグ! ジェグ!」
 何度も。
「ジェグ! 起きなさい! 早く! ジェグ!」
 何度も、何度も……。 
「ジェグ……!」
 声が掠れて咳き込むまで叫び続け、ミリアムは顔を青くして壁にもたれ掛かった。
「戻って来なさいって、言ったのに……。どうして、貴方はアタシの言うことを……」
「ジェグは最後までお前のことを気に掛けていたよ。ずっと、お前のことばかり考えてたんだ。お前が外に出て自由になれるように、お前が幸せになれるようにってな。アイツは、最期に私のことをお前だと思って話してくれた。笑ってたよ。満足そうに笑ってた」
 そして私にもミリアムにも、笑ってくれって言っていた……。
「そぅ……」
 ミリアムは胡乱気な視線で私を見つめ、力なく呟いた。
「また、姉さんなのね……」
 そして不気味な薄ら笑いを張り付かせ、喉を震わせて低く笑う。
「いっつもそうよね……。姉さんだけが、楽しい思いをしてる……。アタシはこんな暗いところで置き去りにされてるのに……姉さんだけがいつも知らないところで幸せになってる」
「幸せ、だと……?」
 私は眉間に皺を寄せ、ミリアムの言葉に低く返した。
「ジェグがあんなになったところを見て、ジェグのあんな言葉を聞いて、私が楽しくて幸せだと言うのか! お前は!」
「そうよ! アタシに比べたらずっとずっといい思いしてるわよ! どうして姉さんだけだったの!? どうして父さんはアタシも逃がしてくれなかったの!? どうしてアタシだけが連れ戻されたのよ! 姉さんばっかりずるいじゃない!」
「お前……」
 ヴァイグルは私だけを連れ出そうとしたんじゃない。ミリアムも一緒だったはずだ。そして私を外で育てて観察しようと決めたのは教会。ヴァイグルは関係ない。そのことは私なんかよりミリアム自身の方がよく知っているはず。私はミリアムからそう聞かされたんだ。なのに……。
「まさか、それで……ヴァイグルを父親と知っていて……」
「そうよ! 殺してやったのよ! ジェグに言ってね! アタシを見捨てたんだから当然でしょ!」
「それは違うだろう!」
「うるさい! もうどうだっていいのよ! 父さんもジェグもアタシを裏切った! でもアタシにはリヒエルがいる! 彼がアタシを救ってくれる! だってそう言ってたモン!」
 ミリアムの叫び声と共に『穴』の中の風景が変わった。
 レヴァーナとルッシェ。そしてその後ろで待機している白スーツ達を映し出す。さらに画面はレヴァーナの視線が向けられている方へと移動し、
「リヒエルはアタシを裏切らない! ずっとずっと昔から味方だった! だから絶対に――」
 ハウェッツとリヒエルの姿を捕らえて――ミリアムの表情が硬直した。
 圧倒的に優勢だった。
 ハウェッツの方が。
 その金色の体に剣で斬り付けられたような跡はあるものの、致命傷にはほど遠い。血を流してはいるが動きに支障が出るくらい深い物ではない。
 それよりもリヒエルの傷の方が絶望的だった。いや、アレは傷などと言う生易しいモノではない。悲惨、そして凄惨だ。
 腕はすでに両方とも落とされ、肩口は黒く焼けただれている。右脚は厚みを半分くらいにし、辛うじて原形を留めている左足は不自然に曲がっていた。体は右脇腹を大きく抉られ、顔の左半分は強酸で溶かされたように崩れていた。
 ハウェッツの攻撃を受け、ソレを防ぐために力を使い、攻勢に転じて斬り掛かるために力を使い、そのたびに体を腐らせていった。すでにリヒエルは、人としての原形を失いつつあった。
 ソレでもなお戦意を衰えさせることなくハウェッツと対峙しているのは、完全に暴走しているからなのだろうか……。口を大きく開けてリヒエルが跳躍したところで、『穴』は暗くなって何も映し出さなくなった。
「誰も……いない……。もぅ、アタシのそばに、誰もいない……」
 独り言のように弱々しく言いながら、ミリアムは焦点の合わない目を中空に泳がせる。
「誰、も……アタシを救ってくれない……ココから、出られない……」
 そして体を揺らしながら呟き、精神が壊れたように乾いた笑みを浮かべた。
「ミリアム! 私が救ってやる! 私がお前をココから助け出してやる!」
 ソレが、ジェグの言葉だから。彼が命を賭けて私に託したことだから!
「姉さんが……アタシを……?」
「そうだ! 私がこのイカれたドールを何とかしてやる! ブッ壊してやる! だからココから出せ! ハウェッツのところに連れて行け!」
「ふ、ふふ……うふふっ……」
 しかしミリアムは危ない微笑を漏らし、
「ダメよ、姉さん。そんなこと言って姉さんまでアタシから逃げる気なんでしょ? アタシを見捨てるつもりなんてしょ? それでまた、姉さんだけ幸せになるんでしょ? そんなの絶対に――許さない」
 明確な殺意を孕んだ声を発した。
「リヒエルが教えてくれたの、このドールの使い方……。姉さんの絶望のさせ方。リヒエルは合図するまで待てって言ってたけど……もぅ、いいよね。あの人も、すぐにいなくなるし……」
「ミリアム!」
「さようなら、姉さん。この子に、食べられちゃってね……。姉さんを食べれば……きっとこの子は何でも食べられるようになるから、孤児院の子達も姉さんの大切な人も、みーんな後から食べてあげるわ……」
「よせ! ミリアム!」
「バイバイ、姉さん」
 荒んだミリアムの笑みが暗いモヤで覆われたかと思うと、私の視界は暗転した。
 
 一切の視界がきかない真闇。どちらが上で下かすら分からない。体の感覚が全くない。五感が全て奪われてしまったかのようにも思える。
 まるで光の届かない深海の中を漂っているようだった。
《嫌いだ》
 足元から声がした。
 視線を下げる。黒い空間に穴が開いたかのように、白い光点が私の足の下で漂っていた。光はすぐに大きくなると、一瞬にして人の形を取る。
 頭の上でお団子に纏めた紫色の髪。子供っぽい顔立ち。左目にしたモノクル。小さな体を包み込む大きめの白衣。
 ソレは――『私』だった。
 『私』が私と足の裏を合わせ、逆さまになって立っていた。
《あんな奴、大嫌いだ》
 『私』は私と全く同じ声で独り言のよう呟く。
《園長先生なんか大嫌いだ。死んでしまえばいい》
 その声は耳のすぐ近くで鳴り響き、やまびこのように何度も何度もこだました。 
《孤児院の奴らなんて皆おちこぼれのクズばかりだ。助ける価値なんてない。ドールにでも何でも殺されてしまえ》
 何だ、コレは……。コレが逆裏世界の能力? 私を喰う力のなのか……?
 『私』は下を向いて私と目を合わせ、モノクルの位置を直しながら冷笑を浮かべた。
《ジェグの奴は無様な死に方だったな。あんな訳の分からない行動で私が同情するとでも思ったのか? 馬鹿馬鹿しい。ま、裏切り者の末路にふさわしい死に方ではあったがな。実に情けない》
 『私』はおどけたように肩をすくめて見せながら小さく鼻を鳴らす。
 なん……だ……。
 突然、睡魔にも似た浮遊感に襲われたかと思うと、頭の中が茫漠としてきた。考えることを放棄させられ、言われたことを無条件に受け入れてしまいそうな……。
 コレは……裏の、私……? 逆の、考え……?
《見たか? ラミスの最期を。あの女、権力を得るためだけにレヴァーナの両親を殺して、沢山のドールマスターを犠牲にして、結局教会を潰せずじまいだ。所詮、リヒエルとは役者が二枚も三枚も違ってたってことか。しかしアレでは今まで散々尽くしてきたヴァイグルが浮かばれないな》
 そう、なのか……? やはりラミスはレヴァーナの両親を……。
 ち、違う。そうじゃない。ラミスはきっと……。
 私は『私』の声に流されそうになる思考を辛うじて繋ぎ止め―― 

『なーに。ちょっと裏の世界を覗いて貰っただけさ』

 そうか……ハウェッツはきっとコレでおかしく……。
 逆裏世界が喰うというのは、ドールの精神……。ソレを栄養にして大きく、そして人間に近く……。
《ヴァイグルと言えばアイツは結局何がしたかったんだろうな。自分の子供をモルモットにされた恨みを晴らす? おいおい、そんなことのために体腐らせてまで力使って最後はあの無様なドールマスターと相打ち? 下らない。実に下らない。愚の骨頂だな。子供の喧嘩じゃないんだ。抗争に私情だけで挑むなど殺してくれと言っているようなモノ。死んで当然だったな》
 言われてみればその通りだ……。ヴァイグルはラミスにこき使われるだけ使われて、何も報われず……誰にも救われないまま死んでいったのか……。
《ハウェッツは私の最初の裏切り者だったな。それから数多くの裏切り行為を受けてきたが、アイツほど酷いことをした奴はいなかった。全く最悪のドールだよ。生意気で、口が悪くて、私が嫌がることばかりする上に、まるで命令を聞かないときている。マスターの言うことを聞けないドールになど存在価値はない。アイツが感情を持ったのは私に反発するためだったんだ。ハウェッツは私の人生最大の汚点だよ。ゴミ以下だ。売れない上に素材にもなりはしない》
 そうだったな……。ハウェッツは肝心な所で命令を無視するんだ。そんな使えないドール、いない方がマシだ……。
《不思議なのはルッシェだ。アイツどうしてまだ生きてるんだ? あんなにグズでのろまで猫を被るしか能のない奴が。こんなことならあの時、私が殺しておくんだったな。ほら、あの時だよ。アイツがジェグのドールに襲われているところを成り行きで助けてしまったあの時。全く、久しぶりに会ったかと思ったら昔のことを持ち出して遠回しに愚弄して。ああいう慰めや励ましが一番傷付くってこと理解してないんだろうな。どうせ自分がジャイロダイン賞を取ったことを自慢したかっただけなんだろう、あの世間知らずのお嬢様は。全く実に不愉快だ。今度会ったら笑顔で近付いて何も知らせないままに殺してしまおう》
 そうだ……ルッシェは私のことを馬鹿にして……。いつも先輩、先輩って鬱陶しく付きまとって……周りを自分のペースに巻き込んで、引っかき回して……それに、アタシの好きな人を奪って……。
《しかし一番憎たらしいのは何と言ってもレヴァーナの奴だな。コイツだけは飛び抜けている。理解不能な思考、発言、行動。この馬鹿が現れなければ私は静かに暮らすことができたんだ。誰にも邪魔されることなく、誰からも関与されないで。抗争に巻き込まれることもなければ、家を壊されることもなかった。大切なドール達を失うこともなければ、教会の奴等に会うこともない。大嫌いなラミスと手を組むことも、教会に攻め込むなんて面倒臭い行為をすることもなかった。コイツだけは許せない。諸悪の根元だ。私から大切なモノを全部奪い去った極悪人だ。絶対に生かしてはおけない》
 ええ、そう……その通りよ……。アタシはレヴァーナが嫌い。あんな奴、大っ嫌い……。どうしようもなくバカで非常識で鈍感で脳味噌バグってて……。
 ……そう、そうよ。だからアタシは、レヴァーナのことなんか大嫌いなの。
 アタシは、私は――
「レヴァーナが大嫌いだ」
 自然と私の口から言葉が飛び出した。
 それと共に混濁していた意識が、急激に鮮明な輪郭を帯びていく。まるで新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ時のような爽快感に溢れていた。
「そうさ。私はレヴァーナの奴が大嫌いだ。あんな自分勝手で我が儘で強引で電波垂れ流しの奴なんか大嫌いだ」
 そう。大嫌いだ。
 あのバカのせいで私の人生は滅茶苦茶だ。全てを狂わされてしまった。アイツがいなければ良かったのにと思ったこともある。けど――
「私はアイツが好きなんだよ」
 大嫌い。けど――大好き。
 全く逆の二つの感情は、裏表で絶対に相容れないモノだと思っていたがそうじゃない。この二つは一組なんだ。切り離せないモノなんだ。
 私は最初、レヴァーナが大嫌いだった。けどその大嫌いがなければアイツのことなんて何も思わなかったし、何も考えなかった。きっとどこにでもいる無個性な奴で終わってた。
 けど、大嫌いだからこそ色々と考えて、無意識にコイツのことを理解しようとして、慰められたり、励まされたり、共感されたりしているうちに、いつの間にか大好きになってたんだ。
 ソレがいつなのかなんて私にも分からない。でも大嫌いがあったからこそ、今の大好きがあるんだ。
 他の人にしてもそうだ。ハウェッツやルッシェについては、実際にそんな感情を持っていた。殺したいくらい憎んでいた時もあった。けど、今はそんなこと全く思ってない。二人とも大切な存在だ。
 ジェグもラミスもヴァイグルも、ひょっとしたら園長先生や孤児院のみんなにも暗い思いを向けていたことがあったかもしれない。けどそこを通って今の私がいる。ちゃんと彼らを受け入れている私がいるんだ。
 裏の『私』は逆なんかじゃない。全くの別人じゃない。
 ソレも私なんだ。
 だから拒む必要なんかない。否定することもない。ありのまま迎えてやればいい。
 『私』は私だ。
 私は『私』なんだ。
 二人で一つ。一見矛盾する二つの感情を一つの体に宿している。
 ソレが私だ。メルム=シフォニーという人格なんだ。
 ジェグもそうだった。ミリアムの幸せのために私を憎んで、しかし私を憎むが故に彼はミリアムを傷付けているのだと思い込んでいった。そして彼の中で私とミリアムの同一視が加速し、最も好意を寄せている存在を絶望させなければならないという矛盾に突き当たった。
 ソレは彼が抱いていた優しさ故。ジェグは私とミリアムを切り離して捕らえることができなかった。だが、ジェグはソレを否定しなかった。自分の中でちゃんと受け入れて、その上で最良の方法を選択した。なぜなら、ソレがジェグ=ドロイトという人格なのだから。
 ラミスだってそうだ。彼女は教会を潰したかった。そのためには強大な戦力が必要だった。だからヴァイグルという兵器を使った。しかしラミスは彼に特別な想いを寄せていた。過去の自分を乗り切るために教会を潰すことは大切だ。だがヴァイグルも大切な存在なんだ。一方を手に入れるために、もう一方を諦めなければならない。大切なモノを手に入れるために大切なモノを失わなければならないという矛盾に突き当たった。
 ソレは彼女が抱いていた純粋さ故。ラミスは完璧を追い求めすぎたがために、結局どちらも選ぶことができなかった。しかし、後悔はしていないはずだ。二つの道のどちらでもない、三番目の選択肢を手に入れたのだから。そしてソレこそが、ラミス=ジャイロダインという本当の人格なんだ。
 真逆の感情を一つの体に宿し、その中でもがき苦しみながらもたった一つの答えを探し出していく。
 きっとソレが――『人間』なんだ。

「……え?」
 気が付くと、視界が大きく開けていた。
 辺りは暗い。が、さっきまでいた場所に比べると比較にならないくらい明るい。
 暗天に浮かぶ真円の月。焼け落ちた建物の残骸。抉れ、爆ぜ、焦げた大地。
 ココは、まさか……。
「先輩!」
 後ろから声を掛けられて私は一度大きく体を震わせた後、ゆっくり振り向く。
「ルッシェ……」
 ソコには銀髪を靡かせて両手を振っているルッシェの姿。
 と、言うことは……。
「素晴らしいタイミングだな。どうやって抜け出したのかは後でゆっり聞くとしよう。今、この長い長い戦いに決着が付くところだ」
 私の方に攻撃的な逆三角形の目だけを向け、レヴァーナは口の端をつり上げて見せる。
 何だ……。一体、何がどうなったんだ……? 私は確か逆裏世界に喰われて、裏の自分を見せられて……ソレを受け入れて……。
「クッ……ッハハハッ……ハハハハハハハハッ……」
 弱々しい笑い声がどこからか聞こえてきた。
「しぶとい野郎だな」
 舌打ちして呟いたハウェッツが睨み付けている先に視線を向ける。
 他からは僅かに低くなった地面の中。まるで大地と一体化するようにしてリヒエルが薄ら笑いを浮かべていた。
 下半身はもうすでにないのか、それとも埋まっているだけなのか、胸から上だけを夜気に晒しながらリヒエルは“半分”になった顔をコチラに向けてくる。腐食が進みすぎたのか両手は水分を失ったように痩せ細り、肉づきの良かった体は骨が大きく浮かび上がっていた。
「まさか……ホントに自力で出てくるとはな……ククッ……。こりゃぁ、ちっと嬢ちゃんを、見くびりすぎてたようだ……」
 老人のようにしゃがれて掠れた声で言いながら、それでもリヒエルは不敵な笑みを浮かべてみせる。
「いいねぇ……随分と……人間らしいツラ、構えに、なったじゃねぇか……ヲハハ……」
 人間……。
 まさか――
「メルム、耳を貸さない方がいい。コイツのことだ。何を隠していてもおかしくない。今すぐにとどめを刺す。ソレで終わりだ。いいな」
 レヴァーナは険しい表情で言いながら私に同意を求めてくる。
 ラミスを罵倒されたことが余程悔しいのだろう。少し前まであんなに嫌っていたのに……。やっぱり、コイツも……。
「レヴァーナ。悪いが少しだけ私に話をさせてくれ」
「メルム……?」
 レヴァーナは驚いた表情を私の方に向け、すぐに首を横に振った。
「駄目だ。危険すぎる」
「頼むよ、レヴァーナ」
 私はレヴァーナの両目をジッと見つめ、胸の中の思いを丁寧に並べるように言葉を紡ぐ。
「守らなければならない約束があるんだ」
 ジェグをとの約束を。
「救いたい人がいるんだ」
 閉じ込められているミリアムを。
 レヴァーナも目を逸らすことなく私の言葉を静かに聞き入り、
「……分かった」
 短く言って少し身を引いた。
 ありがとう。きっとこの借りは返すよ。
 私はハウェッツの横を通り過ぎてリヒエルに近付き、片膝を付いてしゃがむ。なぜだか分からないが、彼はもう攻撃してこないような気がした。
「教えろ、リヒエル。ミリアムをあの中から助け出すにはどうすればいい」
 私の言葉にリヒエルは息を吐きながら小さく笑みを零し、 
「そりゃあ……嬢ちゃんが、一番よく……知ってんじゃ、ねーのか……?」
 ――やはり、そういうことか。

『この子は真実体だって人間だって食べられるの。ただちょっと時間が掛かるだけ』

 私が、人間に近くなったから……。『私』を受け入れたことで……。
 ソレで逆裏世界は私を吐き出さざるをえなくなった。だったらミリアムも……? でもどうやって。
「だから……俺が、合図するまで……待てって、言っといた、のによ……。あの姫さんは……」
 苦しそうに、だがどこか楽しそうにリヒエルは微笑した。
 リヒエルは私が逆裏世界の『消化』を乗り越えることを予測していた? だから殺してから喰わせようとしていた? 完成、させるために……。
「アイツは、コレできっと……もう、分かっちまった。どうすれば、いいのかってな……」
「何の話だ」
 しかしリヒエルは答えず、俯いて低く笑う。
「アイツも……嬢ちゃんと、おんなじさ……。完全な……人間に、なりたいんだよ……。教総主、は……そのために創ったんだ……から、な……」
 アイツ……? ミリアムのことか……?
 いや――
「おわ!?」
 横手からハウェッツの声が上がる。
「貴様何をした!」
 全身を襲う激しい揺れに呑まれないよう何とかバランスを取りながら、レヴァーナはリヒエルを睨み付けて叫んだ。
「あーあ、だな……やっぱり、こうなっちまったか……」
 しかしリヒエルは答えることなく、視界に映る物が二重になって見えるほどの激震の中にあっても余裕の笑みすら浮かべながら目を瞑る。
 そして――足元が黒く染まった。
「レヴァーナ、ルッシェ!」
 私は絶大な怖気を感じ、二人の手を引っ張ってハウェッツの背中に飛び乗る。
「嬢ちゃん……俺と違って、姫さんは……時間が、掛かる……。ミリアムを、助けて、やってくれ……頼む……」
 消えかかりそうな声で呟いたかと思うと、リヒエルの全身から力が抜けていった。そして彼の体を、夜の闇よりもなお深い真闇が呑み込んでいく。
「ハウェッツ! 飛べ!」
「待てメルム! アイツらが!」
 レヴァーナは叫びながらハウェッツの背中から飛び降りようとして――
「坊ちゃん! 行ってください!」
「姉御! 若を頼みやしたぜ!」
「殿! どうかご無事で!」
 白スーツ達自身に押し返された。
「落ちんなよ!」
 ハウェッツは背中を揺すってよろめくレヴァーナを抱えなおし、二枚の大翼を羽ばたかせる。一瞬、地面に脚を取られてバランスを崩すが、強引に振り切って上空へと舞い上がった。
「コレ、は……」
 大きく広がる漆黒の大地。
 ソコにはまるで満月を落とし込んだかのように、一部だけ白く切り取られた場所があった。そしてその奥に見えたのは、放心して脱力するミリアムの姿。
 まさか、アレは……『眼』……?
 だとすれば、今私の下にあるのは――
「逆裏、世界……」
 大きく開けられた『口』が、私に向かって何か呼び掛けたような気がした。
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