人形は啼く、主のそばでいつまでも
Level.9 『お前は何が言いたいんだ』
「孤児院の、地下……?」
私がこの館に来て一番最初に通された大広間。そこで朝食を食べながら言った私の言葉に、リヒエルは無精髭を撫で上げて眉を顰めた。
「ああ、そうだ。もしかすると、孤児院に隠し地下室があってそこにみんなが避難しているかもしれない」
「そりゃあどっからの情報で?」
言われて私は小さく呻いた後、ホットミルクの注がれたティーカップをソーサーの上に置いて続ける。
「……ジェグだ」
「は?」
素っ頓狂なリヒエルの声。口にくわえていたパンが音もなくスープの上に着地した。
「そりゃあ……」
「罠だろうな」
盛られたサラダからグリーンピースをフォークでよけていきながら、私は即答する。
昨日、ジェグに妙なことを吹き込まれてからずっと一人で考えていた。
どうしてそんなことを教えるのか。本当は私に何をさせたいのか。メリットは何なのか。そもそもソレはミリアムの命令なのか。
『ミリアム様を、助けてくれ……』
あの言葉。
ジェグが最後に残したあの言葉がやたらと引っかかる。
ミリアムは『穴』から私のことを観察している。ソレは間違いない。だからジェグとの会話も見ているはずなんだ。ということはやはり、彼女は『見る』ことはできても『聞く』ことはできないのだろう。そうでなければジェグは私にあんなことを漏らしたりはしない。ミリアムに知れれば強く追及されるようなことを。
「嬢ちゃん、罠だって分かってんなら……」
「お前は何か手掛かりになるような情報を見つけたのか?」
おいおい、と呆れた表情で返してくるリヒエルの言葉を遮って私は聞いた。
「いや……」
気まずそうに言って太い眉毛をいじるリヒエル。
当然だろう。捜査を始めてまだ一日しか経っていないのだ。しかも半日はジェグから受けた被害の補修作業に当てられた。リヒエルがどれだけ優秀かは知らないが、そんな短時間でこの広い街の隠れ場所を全て網羅するなど不可能だ。
「なら覗いてみる価値はある。昨日、ココの調合釜を借りてドールを何体か作っておいた。プロテクトは掛かってない。私以外のドールマスターでも扱えるはずだ」
無意識に掛けていなければな。
「危なくなったらすぐに逃げ出してくれればいい。望遠鏡か何かを使って、遠くから地下室らしき物があるかないかを確認するだけでもいいんだ。頼むよ、リヒエル」
「まぁ、そこまで言われちゃあなぁ……」
後ろ頭を掻きながら、リヒエルは判断を仰ぐように一番奥に座っているラミスの方を見た。
「敵がその情報を流したっていうんなら、『何か』はあるんでしょうね。罠かもしれないけど闇雲に探し回って偶然敵に遭遇するよりはマシかもしれないわ。心の準備ができている分ね。試してみる価値はあるかもしれないわ。まぁ、最終的な判断は実際に指揮する貴方に任せるけど」
ナプキンで口周りを拭きながら、ラミスは落ち着いた口調で返す。
ソコで待ちかまえているかもしれない。いや、ココから孤児院に行く道に潜んでいるのかもしれない。そこまで分かっているのに、あえて行くなど愚の骨頂だろう。
だが、やはり気になるんだ。どうしても確認せずにはいらない。
それにジェグが最後に口にしたミリアムを助けてくれという言葉。真意は図りかねるが、アレだけは姑息な打算を裏に隠して言った物じゃないような気がする。
「あー、分かったよ、嬢ちゃん。やってみてやるよ。けど今は王宮の奴等が見張ってやがるからなぁ。こう表だって教会の味方されたんじゃあ、一筋縄じゃいかねーぞ……」
「だったらその状況を利用すればいいのよ」
ナイフとフォークを揃えて皿の上に置き、ラミスは涼しげな表情で言った。
「リヒエル。貴方教会員の証、持ってるわね?」
「へ? あの翡翠の? まぁ、そりゃあ……」
「ソレを付けていれば取り合えず教会員になりすませる。末端の鎧兵が味方の顔全部を把握してるとは思えないわ」
「けどさすがに敵の顔は覚えてるでしょう。リストが出回ってるくらいですから」
「なら変装すればいいだけのことよ。まぁこの場合、変身って言うのかしらね」
「変、身……?」
突然妙なことを言い出したラミスに、私は眉間に皺を寄せて聞き返す。
「忘れたの? ヴァイグルの力。体の一部を真実体にできる能力。腕を剣や銃にできるんですもの。顔を少し変えるくらい訳ないわ」
なるほど。そういうことか。確かにそれなら何とかなりそうだ。
「ただし、ヴァイグルは戦えないから。と言うより戦わせないで。ルッシェさん、貴女にヴァイグルのブレーキを預けるから。戦いが始まりそうだと思ったらすぐにヴァイグルを止めるのよ」
「わ、わたしがですか?」
言いながらラミスは胸に付けていたブローチを外し、テーブルの上を滑らせてルッシェに渡す。白金素材で作られた台の上に、穏やかな湖畔を思わせる蒼い宝石がはめ込まれた大きめのアクセサリーだった。
「そ、そんな大役。リヒエルさんの方が……」
「あら、貴女は行かないの? しょうがないわね。じゃあ他の人に……」
「い、行きます! やります!」
突然ルッシェは立ち上がると、声を張り上げて叫んだ。
その拍子に私の持っていたフォークが大きく震え、よけていたはずのグリーンピースがまたサラダの中に混ざってしまう。心臓がうるさいくらいに早鐘を打ち始め、自分の体が自分の物ではないかのような錯覚さえ覚えた。
な、なんだ……。どうして、ルッシェの大声を聞いただけで私はこんなにも……。私はどうしてしまったんだ。もう、ルッシェの顔を見ることすらできない……。
「それからリヒエル。分かってると思うけど、相手からあんなにも簡単に攻め込まれるようなガードの配置はしないでよ。捜索に人員を割きすぎでココを手薄にしないでね。メルムさんが動けないうちはまだ貴方に指揮を任せてるんだから」
「ええ、そりゃ勿論……」
頭を浅く垂れ、へっへと曖昧な声で返すリヒエル。
んー? アレ? 情報収集だけじゃなくて兵の指揮もコイツ任せ? なんだかんだで信頼されてる? でもヴァイグルのブレーキはルッシェで……。そう、ルッシェで、ルッシェで……ルッシェが主導権を握ってい、て……?
「あら、メルムさん。どうしたの? 顔赤くして。熱? 具合、悪くなった?」
気が付けば、私はラミスを無理矢理凝視してルッシェには完全に背中を向けていた。
「い、いや、何でもない……」
ダメだ。目の前が揺れる。すぐにでもココから出なければ。
「じゃ、じゃあリヒエル、頼んだぞ」
「お、ぉ……?」
掠れた声で言い残すと、私はフォークをサラダに突き刺して席を立った。
「あ、あの先輩! わたし、また何か変なこと言いましたか!?」
そしてルッシェから顔を逸らしたまま足早に去ろうとした時、悲鳴混じりの声が上がる。
「わたし、またあの時みたいに……知らない内に先輩が傷付くようなこと言っちゃいましたか!?」
耳と胸。両方に突き刺さるルッシェの言葉。
違う。そんなんじゃないんだ。私も、よく分からないんだよ……。
「先輩、昨日から全然口きいてくれなくなったから、わたし、何か気に障るようなこと……」
だから違うんだルッシェ。そうじゃなくて。私は単に――
「べーつに気にするこたねーよ、ルッシェちゃん。コイツは単にヤキモ……」
足の下に柔らかい感触が生まれた。
「ルッシェ……」
そして息を止めてルッシェの方を見る。
「応援、してるからな」
それだけ言い残し、何か言葉を返される前に大広間を出た。
館の三階にある私に割り当てられた部屋。
借りた調合釜の中をぼーっと見ながら、私はもう数えるのも馬鹿らしくなるくらい溜息をつき続けていた。そのたびに魂が抜けていく気がする。
「いってええぇぇぇぇぇ!」
本当に、どうしてしまったんだ……私は。また、ルッシェに酷いことをしてしまった。あの子は何も悪くないのに、私がそばにいるせいで苦しんでいる。理にかなわない私の突発的な言動のせいで、変な誤解をしている。
「のおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
何て言えばいいのだろう。どうすれば誤解が解けるのだろう。あの時のように、ただ謝ってもだめだ。何のために謝っているのか私自身が理解していない以上、全くもって無意味な行動だ。下手をすればさらなる誤解を招く。
「やめてええええぇぇぇぇぇぇぇ!」
ルッシェはもう孤児院に行ってしまっただろうか。それとも、朝食をレヴァーナに食べさせ――
「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
おっと、これでは生体系の素材が多すぎるじゃないか。バランスが悪いにも程がある。こんな配合でドールを生み出してもろくなのができないぞ。
「何やってんだか……」
「コッチが聞きてぇよ!」
自嘲気味に笑った私に、ハウェッツは凄まじい剣幕で抗議の声を上げた。
「テメーは俺の羽根で占いでもやるつもりか! 好きか嫌いかなんてもう決まってん――」
「グリーンピースの好き嫌いがどうしたって?」
「いえ、大変高尚なご嗜好をされておられるなと当方感服の極みで御座りまする」
額に突きつけられた銃口を寄り目になって見つめながら、ハウェッツは声を震わせて言った。
全く、口の減らない馬鹿鳥だ。こんなヤツの生体系素材を使っても良い仕上がりは期待できんな。没だ。
私は爪先で床を小刻みに叩きながら、スチールワイヤーで逆さ吊りにしたハウェッツを解放する。ヴァイグルのいた隔離施設を囲っていたのと同じ物だ。リヒエルに言って用意させた。
「あー、死ぬかと思った」
「心配するな。そう簡単に楽にはしないさ」
私はモノクルの位置を直しながら口の端に酷薄な笑みを浮かべる。
「コレに懲りたら二度とあんな下らないことは言うなよ」
吐き捨てるように言って、私は天蓋付きのベッドに腰を下ろした。純白のシーツで覆われた材質の良いクッションが、私の体を優しく包み込むように受け止めてくれる。
「お前、なに拗ねてんだよ。ツンデレとやらもそこまで行くと可愛くねーぞ」
……どうやらお灸が足りないようだな。
「ハッキリ言ってやっけどよ、レヴァーナとルッシェちゃんは別に恋人同士でも何でもねーよ。単なる『仲の良いお友達』ってヤツだ」
ハウェッツは私の手が届かないように、天井すれすれで滞空しながら続けた。
「病人に飯食わしてたからって何でソレがいきなり恋人同士の関係になるんだよ。飛躍しすぎだぞ」
「短絡思考は私の得意技でね」
「だーかーらー。違うっつってんだろー。なんならレヴァーナかルッシェちゃん本人に聞いてみろよ。一瞬で否定してくれるからよ」
……そんなこと、聞けるか。
もし肯定されたらどうするんだ。
……どうするんだ?
肯定されて、確定したら私は……。
あークソ! イライラする! 別にあのバカとルッシェが付き合おうが何をしようが関係ないじゃないか!
そう! ドコでナニをしようと――
「うがーーーーー!」
いったい何を考えているんだ! 私は思春期を迎えたばかりのジュニア・ハイスクールか! ロリにも程があるぞ! ……じゃなくて!
「ま、まぁ、落ち着けよメルム。な? ん?」
「ジェグみたいな喋り方するな!」
私が投げ付けたフリル付きの枕を受けとめて、ハウェッツはなだめるような口調で言った。ソレが余計に神経を逆撫でする。
大体どうして私がこんな制御不能に陥らないといけないんだ! 全部あのバカのせいだ! あのバカはいつも私の調子を狂わせる! 契約して、抗争に巻き込んで、自称私の妹とかいうミリアムに出会わせて、あまつさえあの憎たらしいラミスの肩を持たせやがって!
だいたい自分の親のことなんだから自分で……!
……親?
『俺は、メルムを母の前に連れて行こうと思っている』
……自分の、母親?
『男性が自分の母親の前に女性を連れて行きました。この後やることといえば?』
○おしくらまんじゅう。
○異世界との交信。
⇒○結こ――
「ちがあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁう!」
ホントに何考えてんのよ! アタシは! だいたい頭の中がほんのちょっとでもソッチに傾くこと自体どうかしてるわ!
アタシはメルム=シフォニー! 大天才の美少女ドールマスターで、ドール界の頂点を極めた女! ソレがあのバカで変態で電波で脳味噌カラでムダ熱血でイタイ勘違い野郎に気を許すはずがない! アタシから見たアイツって言ったら――
『レヴァーナ=ジャイロダインとメルム=シフォニーの関係は?』
○友達。
○恋人。
⇒○高貴なご主人様と下賎な奴隷。
コレよ! コレしかないわ! コレがあるべき姿なのよ!
「っあー……お取り込み中悪いんだが……」
頭上から降ってきたハウェッツの言葉で私は我に返る。
「それ以上行くと落ちるから」
いつの間にか私は窓枠に上り、両腕を天高く掲げて中指をおっ立てていた。
あ、危ない。もう少しで命綱なしでバンジージャンプをするところだった……。
「ま、お前が色々と思い悩む気持ちも分かるけどよ」
「だから誰が……!」
「ルッシェちゃん、落ち込んでたぜ?」
「……ッ!」
脳髄に直接氷のうを押し当てられたような錯覚。痛みすら伴う氷結が、熱くなった私の頭と言わず体と言わず存在自体を冷やしていく。
私が最後に大広間で見たルッシェの表情。殆ど逃げるようにして彼女の前から立ち去ってしまったが、あの顔は……私が以前に酷いことを言ってしまった時の……。
謝らないと。こういうことはできるだけ早く謝っておかないと。
でも何に……? 一体、何に対して謝ればいいんだ? どう説明すれば分かって貰える?
私は怒っているわけでも避けているわけでもないから、とにかく気にしないでくれとでも言うつもりか? そんなこと言ったら余計気にするのは目に見えている。
お前は何も悪くない、悪いのは私の方だから少しだけ待っていてくれとでも言って時間稼ぎをするつもりか? そんなことしたらルッシェが変な気を回すのは明白だ。
もっと大局的な物の見方をするんだ。
一時しのぎなどではなく根本から解決する策。ソレを見つけだせ。
私は部屋の中をうろうろと動き回りながら頭をフル回転させる。そしてイライラを鎮めるためにハウェッツの羽根を何十枚か抜いたところで、私は目の前が明るくなるような天啓を受けた。
そうだ。簡単なことじゃないか。と、いうより自分で気付いていたことじゃないか。
「祝ってやればいいんだよ」
「……俺の忍耐力をか?」
私の腕の中でぜぃぜぃと悶えながら恨めしそうな視線を向けてくるハウェッツを無視してさらに思考を走らせた。
ルッシェを応援すればいいんだ。心の底から。仮に今付き合っていなければ付き合うように仕向ければいい。あの二人ならきっと上手くやっていける。そして二人がより親密な仲になれば私も変なことを考えずに済むし、疑いようもない確定だからルッシェを避ける必要もなくなる。そしてこの抗争を終わらせれば私は元の一人の生活に戻れる。金銭的な問題はレヴァーナから謝礼金をたっぷりふんだくれば解決できる。
コレだ! コレこそ完璧な現状打開策だ! 凄いぞ私! さすが天才ドールマスター!
「いや、カンケーねーだろ」
「焼き鳥でも差し入れて、まずはレヴァーナの方から行くか」
よし、まずはさり気なく聞きだそう。で、付き合ってなかったらルッシェの良いところを手当たり次第並べ立ててやればいい。この場合は特別に捏造も許可だ。
悲痛な啼き声を上げるハウェッツの首根っこをつまみ上げて、私はスキップしながら部屋を出た。
レヴァーナの部屋に入るのに、昨日のような躊躇いはなかった。
理由の一つは扉がなくなっていて中が丸見えであったこと。そして二つ目に、丸見えになったレヴァーナが寝息を立てていたことだ。
クソ、つまらん……。せっかく私がわざわざ足を運んでやったというのに。うるさいハウェッツをわざわざ調理室にあった圧力鍋の中に閉じ込めてきてやったというのに。全く、実に不愉快だ。
――なのに……。
なのにどうして、私はこんなにもホッとしてるんだ? クソッ……。
まぁいい、ついでにバカのツラでも拝んでいくか。
私は足音を立てないように気を付けながら、ゆっくりとレヴァーナの元に歩み寄る。
相変わらずトゲトゲしい黒の直毛を逆立てたまま、レヴァーナはシーツを腰まで下ろして眠っていた。胸の辺りまで上げると包帯が擦れて痛いのだろうか。
ベッドのすぐ隣にあるサイドテーブルには少し大きめのシチュー皿が置かれている。きっとルッシェが食べさせたのだろう。
…………。
……べ、別にイラついてなんかないぞ!
それにしても下品な寝顔だ。頬の筋肉が緩みきっているじゃないか。口も半開きになって、よだれが垂れている。実にみっともない。包帯だって所々解けて……。
解けて?
私が見た時にはしっかり巻かれていたのに。
……ああ、巻きなおしたのか。コレもきっとルッシェにやって貰ったんだな。
…………。
……だ、だからイライラなんかしてない!
あー、おかしい。さっきからおかしい。雰囲気がおかしい。頭の中がおかしい。目に映る物全てがおかしい!
とにかく、だ。コイツが眠っている以上、ココにいてもしょうがない。時間の無駄だ。ルッシェの方は……もう孤児院に行ってしまったんだろうな。いざという時、集中力に乱れが出なけばいいが。
クソ! こんな傷もう痛くも何ともない! 今からでもルッシェの所に……!
「メルム……」
部屋を出ていこうとした時、不意に誰かに呼び止められて私は足を止めた。
「レヴァーナ……?」
私は呟きながら恐る恐る後ろを振り返り、もう一度ベッドの上に視線を向ける。
まさか、起きてしまったのか……? ちょ、ちょっと待て! まだ心の準備が……!
「どうして……」
いや、様子がおかしい。起きそうな気配はない。ただうわ言のように呟いている。
寝言、か……?
私は足音を殺してレヴァーナに近寄り、
「――!」
頬に引かれた雫の跡を見つけた。
コイツ、泣いているのか?
私はかつて見たことのないレヴァーナの表情に、閉塞感さえ覚えて大きく息を吸い込む。いつの間にか呼吸を止めてしまっていた。あの無駄に元気で生命力の塊のような男が初めて見せる弱い一面に、私は言葉を失って見入ってしまっていた。
「そんな、意味のない……」
声を震わせながらレヴァーナの言葉は続く。
『メルム……』『どうして……』『そんな、意味のない……』
私の、夢を見て泣いているのか? 私のことを想って……?
顔が熱くなっていくのが分かる。胸が押し潰されるような圧迫感。目の前が白くなり、気を抜けば声を上げてしまいそうな衝動が足元から這い上がって来た。しかしソレはどこか心地よくて……。
「むね――」
レヴァーナの顔面が陥没した。
「『意味のない胸』で悪かったな!」
拳を顔から乱暴に引き抜き、私は肩で荒く息をしながら怒声を上げる。
ああクソ! 私は何を期待していたんだ! 全くバカバカしい! 実に言語道断だ! そんなの寝言で言うことじゃないだろ! しかも涙まで流して! コイツの思考回路だけは理解できん!
私はレヴァーナに背を向け、大股でズカズカと出口の方に歩いて行き、
「あ! 先輩! こんな所にいた!」
いきなりルッシェの顔が視界を占有した。
「な、な、な……」
「先輩やりましたよ! やりました!」
「ま、まだ殺ってはいないぞ! 単に鼻を潰しただけで……!」
「本当に見つかったんですよ! 地下室! 孤児院の!」
ルッシェは柔らかそうな銀髪を揺らして跳びはねながら、体全部で喜びを表現してみせる。
「……何?」
一瞬、何を言われたのかよく分からなかったが、頭の中でこだまのように繰り返し鳴り響くルッシェの声に、だんだん思考が鮮明になっていった。
「ほ、本当か……?」
孤児院に地下室があった? ジェグの言っていたことは本当だった?
「本当です! ヴァイグルさんが上手くやってくれて、一人で孤児院の中調べてくれて、キッチンの冷蔵庫の下に扉があって! その中にみんないたって!」
ルッシェは顔を紅くして昂奮気味にまくし立てる。ソレが本当ならこれほど嬉しいことはない。だが、何かが引っかかる。
しかしヴァイグルが嘘を言うとも思えない。そんなことをしても何のメリットもない。あそこまでラミスと親密なヴァイグルが教会と繋がっているとは考えにくい。
それでも、何かが……。
「それでヴァイグルは無事なのか。何の罠もなかったのか」
「はい!」
本当に、何もないのか?
「今はどうなってるんだ? もうみんな助けたのか?」
「いえ、確認しただけでまだそこまでは。リヒエルさんの話では昼間は目立ちすぎるから夜に仕掛けようって。対策はその時までに考えておくからって」
まぁ、そうだろうな。あれだけの大所帯を誰の目にも触れることもなく移動させるなど簡単にできることではない。見つかれば取り調べは免れないだろう。中立だったころの王宮ならともかく、教会と裏で結託しているような奴等に渡すわけにはいかない。
リヒエルの対策、か……。何をやらかすつもりだ? てっり早く、見張りの鎧兵を全員殺すのか? それともこっそりと一人一人助けていくのか?
「で、リヒエルとヴァイグルは?」
「リヒエルさんはヴァイグルさんから話を聞いた後、すぐどこかに行っちゃいました。ヴァイグルさんは多分、いつもの場所にいるんじゃないかと」
例の隔離施設か。
「少し話をしてくる。本当に孤児院の人達がいたのかどうか、確認したいんだ」
「あ、はい。あ、でも今は……!」
「心配ない。入り方ならラミスから教わった」
「なら、いいんですけど……」
嘘だけどな。
「私の心配はいいから、お前はそこのバカの面倒でも看ててやってくれ」
きっとレヴァーナも喜ぶ。
「それは、別にいいですけど……。でも先輩、その前に一つ聞かせてください」
ルッシェは思い詰めた表情を私の方に向け、怯えているような、それでいて明確な意思を宿した瞳で見つめてきた。
「わたし、また先輩を傷付けてしまいましたか?」
そして一言も濁らせることなく、ハッキリとした滑舌で淀みなく言う。そこには以前のルッシェが持っていた、気の迷いや弱さといった物は一切含まれていなかった。自分が悪いのなら謝る。そうでないのなら原因を明らかにしたい。ルッシェの双眸に宿っているのは、ただただ純粋で純然たる思いだけ。
短い期間に色々とあって変わったのは私だけではないということか。多分、この子もレヴァーナから影響を受けているんだろうな。
「ソレはない。ソレだけは絶対にない」
だから私もルッシェの気持ちに応えてやらなければならない。安心させてやらなければならない。
「ならどうして、わたしを避けようとするんですか?」
けど、つまらない虚栄心か羞恥心か自尊心か。それとも、単なる意地なのか。肝心な言葉だけはどうしても口にできない。なぜか喉の奥で詰まってしまって吐き出せない。
「ルッシェ……レヴァーナとのこと、応援してるから」
私は本当に、ハウェッツの言うとおり――
「先輩! ちょっと待って下さい!」
いつの間にか駆け出していた私の背中にルッシェの言葉が刺さる。
「どうしてレヴァーナさんが出てくるんですか!」
すまない、ルッシェ。
「ちょっとレヴァ……ああ! 誰がこんな酷いことを!」
すまないルッシェ! 後は任せた!
スチールワイヤーにエーテル・エナジーを供給している元は、土の中からアッサリと見つけ出すことができた。バイト先から壊れた電化製品を持ち帰り、修理していた時に養ったスキルも意外と役に立つものだ。
亜空文字を使って扉を開け、私は埃の堆積した部屋の中へと足を踏み入れる。そして隅の方にある他よりも埃が薄い場所に行き、片膝を付いてしゃがみ込んだ。この床にも扉と同じく同心円の模様が刻まれている。
隠し扉……。教会の地下に入る時あったやつと同じか。ラミスは元教会員。似たような仕掛けを施していたとしても不思議はない。
私は黒文字に白の輪郭を帯びた亜空文字を展開させ、床に押し当てた。直後、埃を押しのけて丸い金の軌跡が走ったかと思うと、床は白い燐光を残して消失する。
演出まで全く同じか。なら、中に入った時は……?
私は足元に現れた直線階段をゆっくりと下りながら、肌で感じるモノに神経を集中させる。だが教会の地下で覚えた昂揚感や安心感といったものは沸き上がってこなかった。上よりも更にかび臭い匂いを不快に感じるだけだ。
教会の地下。ジェグの言っていた逆裏世界。一目見てただの空間でないことは分かるが、いったいどういう構造になってるんだ。
私は明かりも何もない階段を手探りだけで進みながら、今もハッキリと覚えている教会の地下での体感に思索を巡らせる。あの母胎にでも包まれたかのような充足感、満足感、そして言いようのない安寧と昂奮。初めて来たはずの場所なのに、まるで何十年も慣れ親しんだ空間にすら思えた。
そして私は手すりも何もない螺旋階段を下りて、最下部でミリアムに出会った。
『久しぶりね。会いたかったわ――姉さん』
そこで色んなことを言われた。殺してくれだとか、モルモットだとか、ドールだとか、
『姉さんを絶望させるために』
そんなことはさせない。絶対に絶望などしない。大切な物は自分で守る。そのためにラミスと手を組んだんだ。
もうすぐだミリアム。もうすぐまた会いに行ってやる。そして全てにケリを付ける。
白衣のポケットに手を突っ込む。指先に当たるのは【カイ】の封印体と、ボロボロになった翡翠の正八面体。私が教会で生まれた証拠。
私はいったい、何なんだろうな。
ふと、そんなことをが頭をよぎった時、前に出した足が残した足と同じ高さの床を叩いた。どうやら階段を下りきったらしい。
にしても暗い。何も見えない。本当にヴァイグルの奴はいるんだろうな。もしかして庭で草むしりでもして……なわけないか。
とにかくラミスとヴァイグルの会話が上まで聞こえてきたのだから、それほど広い地下室ではないはず。このまま左手を壁に当てて歩いていれば、すぐに部屋の構造が把握でき――
「何の用だ」
背後から低い男の声が掛かったかと思うと固い物が後頭部に当てられる。
そして突然飛び込んできた明かりが目を灼き、私は思わず片目を閉じながら両手を上げた。
「不法侵入は大罪だ。殺されても文句は言えないぞ」
「なるほど、飛蚊が嫌われるわけだな」
冗談交じりに零した私の言葉に、背後の殺気が僅かに和らぐ。
「さすがはラミスのお気に入り。なかなかの度胸だ」
苦笑混じりに紡がれた後、頭を押していた固い感触が消えた。私は両手を下ろし、後ろを向こうとして――
「そのままだ。コッチを見るんじゃない」
「なぜだ」
「さぁ、どうしてかな。とにかくお前には見せたくないんだ」
「傷が酷いのか」
「そういう次元じゃない」
「できれば目を見て話をしたいんだがな」
「ソレがどれだけ意味のないことかは知ってるだろ?」
短い言葉のやり取りを終え、私は小さく嘆息して肩をすくめる。
だんだん目が慣れてきた。コンクリートが剥き出しになった無骨な灰色の壁で囲まれた小さな部屋だった。部屋、と言うよりは牢屋に近い。凝った内装などは一切なく、ただひたすらに頑強性を重視した飾り気のない閉鎖空間。私の視界に映っている物と言えば、ねじ曲げられたパイプと雑多に積み上げられたコードの山くらいの物だ。
「分かった。聞きたいことは一つだけだ。孤児院の人達のことを確認したい」
ヴァイグルから放たれる重苦しい雰囲気に耐えながら、私は端的に訊ねる。
「ああ、さっき俺が見てきた奴等のことか。アレがどうした」
「本当にいたんだな。ちゃんと生きていたんだな」
「いたぜ。孤児院の奴等かどうかは分からないが、何十人もうじゃうじゃとな」
「その中に、年輩の女性はいなかったか。年は多分、六十くらいだ。紺色の修道服を着ている」
「いたな。真っ先に出て来やがった。俺を敵だと思ったんだろうな。ご立派にもガキ共庇ってやがったぜ」
間違いない……園長先生だ……。本当に、本当に生きてくれていた。
相変わらず子供想いで、立派で、誠意があって。本当に、本当によかった……。
「聞きたい、ことは、それだけだ。それから、有り難う。心から、礼を言う」
私は涙声にならないように気を付けながら、一言一言を細かく区切って言う。
「ラミスに言われたからやっただけだ。お前に頭を下げられる覚えはない」
そう返してきたヴァイグルの語調が、少し和らいだように感じた。
「……ラミスとは、かなり長いみたいだな」
「お前の知ったことじゃない」
しかしすぐに警戒を強くする。不要な会話は極力避けたいのだろう。まるで殺し屋の気質だな。まぁやっていることはそんな生易しいモノじゃないんだが……。
「用事は済んだ。帰らせて貰っていいか?」
私は後ろの気配に注意を払いながら言う。コイツとの会話は疲れるな。ある意味レヴァーナ以上だ。
ヴァイグルから放たれる殺気が緩くなり、私から一歩距離を取る音がして、
「お前、ラミスから俺のことを何か聞いたか」
予想外にもヴァイグルの方から質問が飛んできた。
「何か、とは?」
「俺がラミスに拾われる前、どこにいたかだ」
本当に記憶を失っているらしい。
ヴァイグルは教会でドールから生み出されたドール。そして僅かに持った感情を激しく刺激され、今のような極めて人間に近いドールとなった。感性があり情念があり、そして痛みを感じるドールへと。
「俺は教会にいたのか? そこで何かおかしなことをされたのか? だからこんなにも、教会の奴等が憎いのか?」
どうする。何と答えればいい。ラミスが言いたくなかったことを私が言っていいはずがない。あの女なりに何か考えがあってのことなんだろうから。
「だんまり、か……。自分の質問には答えさせて、人の話を立ち聞きまでして、なのに聞かれたことには答えない」
呆れたような嘲るような声。
やはり気付かれていた。私がラミスとヴァイグルのやり取りを聞いていたことをすでに知られていた。
「まぁいいさ。知ったところで俺のやることは変わらない。ラミスが狩れという奴らを片っ端から殺していくだけだ。お前はせいぜい俺の暴走に巻き込まれないように離れておくんだな。この前みたいに運良く助かるとは思わないことだ」
この前……。ジェグが直接ココに攻め込んできた時のことか。確かにあの時、私は暴走したヴァイグルに殺されそうになった。だがアレは運が良かったと言うより、コイツが自分で……。
「ソッチこそ、私のことを何か知ってるんじゃないのか?」
私もヴァイグルと同じだ。教会にいた頃の記憶がない。物心付いた時には孤児院だった。
ヴァイグルはラミスに拾われるまでは教会にいたはず。その時に私と何か接点があった? ラミスがドールの研究に没頭していたのが私と同じ学生の頃だとすれば、少なくとも二十年以上は前。となればヴァイグルの記憶があるのはそれ以降か……。
私がまだ生まれるか生まれないかの頃だから、コイツが私のことを覚えているはずがな――
『どんな事情があったのかは知らないけど、彼は教会から逃げてた』
『昔むかーしのことよ。まだ姉さんが物心付く前のお話――けど、アタシ達を連れ去った人がいたのよ――教会は男を探したけど、見つからなかった』
まさ、か……。
「俺がお前を? ああ、そりゃ良く知ってるさ。ラミスのお気に入りだからな。アカデミーの名簿から初めてお前の名前を見つけた時のラミスの顔は傑作だった」
「名前?」
顔じゃなく、名前? 何千人といるアカデミーの生徒の中から私の名前を見つけたからいって何を驚くというのだ。飛び級の学生なら他にも沢山いる。メルム=シフォニーという名前だってありふれた物だ。それとも、ラミスにとっては何か特別な響きが込められていたのか?
聞いてみるか……。ヴァイグルを拾った時のことも含めて。だがあの女のことだ。もし答えたくないことなら真っ正面からいってもはぐらかされるのがオチ……。聞き方を考える必要がある。
「下らない話をしたな」
チッ、と舌打ちし、ヴァイグルは忌々しそうな口調で言った。
「お前を見ると調子が狂う。とっとと失せろ」
奇遇だな。私もレヴァーナに対してはそんな感じだ。
「ヴァイグル、最後に一つだけ聞かせてくれ。お前はどうして戦うんだ」
「知りたがりは寿命を短くするそ」
「大切なモノを守るためか」
私の言葉に後ろから嘲笑うような声が聞こえてくる。
「俺は殺したいから戦う。戦いのための殺し合いなんだよ」
「どうしてラミスにそこまで仕える。自分の体を腐らせてまで」
「あの女のために戦ってるんじゃない。たまたま利害が一致しているだけだ。ラミスは俺に戦場を与えてくれる。俺はアイツに勝利をもたらす。そうすればもっと凄い舞台が用意される。ソレだけだ」
――違うな。
吐き捨てるように言ったヴァイグルを、私は胸中で即否定した。
ラミスとヴァイグルが二人で話していた時、ラミスはただひたすら謝罪し、ヴァイグルはそんなラミスを慰めるような言葉を掛けていた。この二人は、もっと深いところで繋がり合っているんだ。
「そうか……」
「もう二度とココに来るな。俺はお前の顔など見たくない」
「分かった。お前も表に出てくる時は、私に見られてもいいような格好をしてくるんだな」
「口の減らないガキだ」
私はヴァイグルに背を向けたまま、来た道を引き返す。所々に穴の穿たれた灰色の壁で視界を埋め尽くし、私は階段を上っていった。一足踏み出すたびに響く硬質的な音が、やたらと耳に残る。そして最上段まで登り切り、地上に顔を出した時、階下から呻き声のようなモノが聞こえてきた。
それは私がアカデミーでレヴァーナと初めて会った時、彼から掛けられた言葉によく似ていた。
午前二時。
街には夜の帳が下り、静寂に包まれていた。皆が寝静まり、夜光虫の啼き声だけが草むらから聞こえてくる。
人気など欠片もない第三ストリート。その太い通りから一本路地裏に入った道を、私はルッシェ、ハウェッツと一緒に走っていた。体に纏っているのは黒装束。少しでも上手く暗闇に乗じるためだ。
これからするのは戦闘ではない。救出だ。戦力の高さよりも、目立たないことを優先させる。
だから参加者は、今回の作戦の要である、見張りの鎧兵をどこかへやってくれるリヒエル、どうしても私の手伝いがしたいというルッシェ、そして当事者である私となぜか衰弱しきったハウェッツの四人だ。コレだけは怪我がどうであろうと譲れない。もし自分の知らないところで失敗したらと思うと、じっとなどしていられない。
だが正直、ルッシェにはあまり来て欲しくなかった。もしコレが予想通り罠だった場合、当然強行突破ということになる。その時はハウェッツを使うことになるだろう。しかし使いこなせずに暴走させてしまった場合、ルッシェに被害が及ぶかもしれない。チビデブはともかくルッシェを私の手で傷付けるなどあってはならないことだ。
だから私はそのことを言って説得したのだが……
『ダメって言っても隠れて付いて行きますから!』
昔は言うことを良く聞く大人しい子だったのになぁ……。レヴァーナ化が今より深刻になる前に何とかしなくては。
そんなことを考えながら走っていると、視界の隅に痛々しい外観を晒した何かが映った。ソレは私がよく知っていて、全く知らない建物。
孤児院はあの時と変わらないまま、棟を半壊させて静かに佇んでいた。私達は近くにある家の裏手に身を潜め、様子を窺う。
確かに、見張りに立っていた鎧兵の姿はドコにもなかった。今まで使えない奴だとばかり思っていたが、リヒエルがちゃんと仕事をしてくれたらしい。
「お、嬢ちゃん。コッチだコッチ」
先に来ていたリヒエルが、露天の樽の中から顔だけを出して小声で私を呼ぶ。なにもそんなジャストフィットしそうな所に隠れなくても……。
リヒエルは親指を立ててオッケーサインを出すと、続けて孤児院の方を指さしてゴーの合図を送ってきた。
本当に大丈夫なんだろうな。急なことだったから具体的に何をどうやったのかは知らされていないが……今はそんなことを議論している時ではない。ヤバくなったらアイツを肉壁にして逃げよう。
私はルッシェとハウェッツに視線を送って互いに頷くと、誰もいない孤児院に向かって一直線に走った。薄暗い視界の中、私の身長と同じくらいの高さの塀が激的に大きさを増していく。さらに壊れた遊具が散乱している敷地内に足を踏み入れ、壁の影に身を隠して一旦止まった。
人の気配はない。いるのは私達だけだ。外から誰かが近づいてくる様子もない。
よし、順調だ。
私達は再び走り始め、焼け落ちた壁の中から孤児院の中に入った。煤と埃、そして僅かに血と肉の焦げたような匂いが鼻腔を突く。
ヴァイグルからの情報だとキッチンにある冷蔵庫の下に、地下室への扉があったと言っていた。孤児院の構造は私がいた時と何も変わっていない。この廊下を真っ直ぐ行って、突き当たったところで左に曲がればそこがキッチンのはずだ。
期待と不安が一気に膨れあがる。目の前が狭くなって正面しか映し出さなくなった。走る足が自然と前に前に行き、気を抜けば自分の足につまづいてしまいそうになる。
早く。もっと早く! もう二度と走れなくなってもいいから、今までで一番速く走って!
会える! もうすぐ会える……! 園長先生に会える……!
最初に何を言おう。どんなことを喋ろう。まずは謝らないと。ずっと顔を見せなかったことと、こんな危険な抗争に巻き込んでしまったことに。
それから他の子供達とも喋って。ああその前に安全な所に連れて行かないと。それから一緒に美味しい物を食べて、お風呂に入れていあげて、同じ布団で寝て、それから楽しく遊んで。
それから、それから、それから……!
頭の中を幸せな想像だけが埋め尽くしていく。いや、想像なんかじゃない。もうすぐ現実になるんだ。もうすぐこの手で掴めるんだ。
ココを真っ直ぐ行って、キッチンに出れば……!
「――ッ!」
闇の中で何かが動いたような気がして、私は慌てて足を止めた。しかし踏ん張りがきかず、大きく前につんのめる。
「っぶねぇ」
ソレをハウェッツが前から支えてくれて、辛うじて体勢を立て直した。
「どうかしたんですか?」
荒く呼吸しながら後ろから聞いてくるルッシェを手で制し、私は目を細めて前を凝視する。
「やはり罠だった」
短く言って私は両手に亜空文字を展開させた。
「なかなか、いい目、だな? ん? ん……?」
聞き覚えるあるイヤらしい声。
「脇腹の傷はもう治ったのか?」
「さぁ、な?」
そして闇がのっそりの立ち上がる。亜空文字の放つ淡い光に照らし出された顔を睨み付けて、私は大きく舌打ちする。
コイツはいつも私の邪魔をする。館の屋上でココのことを言ったのも全部私をおびき寄せるためか。
だが、地下に孤児院の人達がいるのは事実。コイツを何とかすれば……。
「メルム、シフォニー。おかしなことを、考えない方が良い、な? 僕の足元にあるのが何か、勿論、知ってるよな? な?」
背中を曲げ、長い腕をだらりと垂らしてジェグは不気味な笑みを浮かべながら言った。
足元? コイツの足元……まさか……。
「ココには元々冷蔵庫があった。そう、言えば、分かるな? ん?」
視線だけを下げてジェグが立っている所を見る。そこには取っ手のような物が二つ、床から不自然に生えていた。
「例えば、僕がココで重さのあるドールを真実体にする。ん? こんなボロい床なんか、一瞬で踏み抜けるような、デカいやつを、な? な……? するとどうなるか。賢いメルム、シフォニーなら、すぐにわかるな? ん?」
コイツ……どこまでも下衆な考えを……。
だが自制心を失ってはダメだ。孤児院のみんなだけではなく、ルッシェまで失うことになりかねない。同じ過ちは二度と犯さない。
私は自分に言い聞かせ、頭に上りそうになった血を何とか降下させる。
なるべく平静を保って、孤児院の人達を助けることだけを考えるんだ。そうすればハウェッツも言うことを聞いてくれる。
「何が目的だ。私の命か」
「ソレはミリアム様の最後の望み。今はまだ、お前が立ち直れないくらいに絶望する顔を見たいそうだ」
口の端をつり上げ、ジェグは私の両手に展開している亜空文字を見つめる。
消せ、ということだろう。
クソ……。どうする。どうすればいい。私がハウェッツを真実体にしてジェグを何とかするよりも、ジェグが自分のドールを真実体にして地下室を潰す方が早い。私の体を壁にしてルッシェに不意を突いて貰うか。しかしアイコンタクトもなしでそんな微妙なタイミングは計れない。かといってココではヴァイグルの乱入も期待できない。
完全に私のミスだ。罠だと知りながらそれでも感情を優先してしまった私の失態だ。
「ルッシェは関係ない。彼女だけは逃がしてやってくれ」
私は亜空文字を消し、溜息混じりに言った。
「せ、先輩! わたしなら大丈夫です! 元々わたしが我が儘言って付いて来たんですから!」
「ジェグ、いいな。お前が用があるのは私だろう」
「先輩!」
悪いな、ルッシェ。もう見たくないんだよ。ミリアムの復讐に巻き込まれて酷い目に遭う人を。大切なモノを傷付けられたくないんだよ。
「メルム、シフォニー。僕がドールを使って、お前に伝えたこと、覚えてるか?」
しかしジェグは私の要求には応えず、全く別の話をふる。
「ああ。お前が教えてくれたからな。ココに孤児院のみんながいるって。予想通り、罠だったけどな」
「その後、だ……」
後? その後に言ったのは……。
「ミリアムを、助けて……」
「そうだ」
私の言葉にジェグは闇の中で頷いた。
「アレはどういう罠だったんだ? 私の精神を揺さぶるためか?」
「ミリアム様を、助けて欲しい」
茶化すような口調で言った私に、ジェグは真剣な声で返してきた。そこにはさっきまでのイヤらしさなどは微塵もない。真摯で真っ直ぐな態度。
だが、コイツのことだ。演技だということも十分にあり得る。いや、九割方演技と見て間違いないだろう。騙されるものか。裏の狙いを読むんだ。そして何とかしてこの状況を切り抜ける。
「メルム、シフォニー。お前は今、僕が演技ででたらめなことを言っている、そう考えているな? ん?」
私は何も返さない。だんだん暗闇に目が慣れてきた。この気持ちの悪い男の表情くらいは読み取れる。言葉と顔を見比べて真意を探るんだ。
「例えば、単純にお前を絶望させたい場合、こんな会話は不要だ。事実、ミリアム様が僕に命じたのは、お前の目の前で、この下にいる奴等を潰せ、ということだけ。な?」
「どうだかな。本当は時間を掛けて私をいたぶれとでも言われたんじゃないのか?」
「時間を掛ければ、お前が何か打開策を、閃くかもしれない。味方が助けに来てくれるかも、しれない。リスクの方が大きい、な? ん? 違うか?」
……確かに。外にはリヒエルがいる。私が戻るのがあまりに遅ければ、様子を見に来るだろう。そして予想外のことが起こったと分かれば増援を呼ぶはずだ。
「だからコレはミリアム様の命令じゃ、ない。納得、か?」
「ミリアムの命令に逆らえばお前は罰せられる。きっと今もミリアムは私とお前のやり取りを見ているんだろうな。そしてなかなか命令を実行しないお前にイライラしてるんじゃないのか?」
「……だろうな」
苦しそうな表情を浮かべながらも、ジェグは私から目を逸らすことなく言った。いつになく口元は引き締まり、何かに耐えるように真一文字に結ばれている。
この決意は、演技じゃないのか? コイツ、本気なのか……?
「仮に。もし仮にだ。私がお前の言うことを受け入れれば、お前はどうするつもりなんだ?」
「何もせず、大人しく帰る。交換条件、なんだからな」
「『ミリアムを助けろ』とは具体的にどういうことなんだ」
「……それは、分からない」
「分からない?」
眉間に皺を寄せ、私は聞き返した。
「けど、少なくとも僕では、一時的に楽しませることはできても、ミリアム様を救えはしない。根本的な解決には、ならない。いや、僕だけじゃない。多分、お前以外の奴では、誰もミリアム様を救えない」
「……それは、私がミリアムの姉だからか」
「ソレもある」
ソレ『も』?
「ミリアム様の幸福は、お前の絶望。お前の幸福は、ミリアム様の絶望。それじゃ、ダメだということ、だ」
何が言いたいんだコイツ。
「だから、頼んだ……」
静かに言ってジェグは一歩身を引き、地下室への扉から体をどかせる。
「おい、私はまだ承諾してないぞ」
「お前に断ることなど、できない。孤児院の奴等は、大切、だろう? ん?」
「私がミリアムの所に行くという保証はどこにもない」
「来るさ。もう、来ざるを得ない状況に、陥っている。な?」
本来あるべきガラス窓がなくなってしまった枠から身を逃がし、ジェグはまたイヤらしい喋り方で言ってくる。
何、だと……?
「オイどういうことだ!」
私は声を張り上げてジェグが消えていった場所に駆け寄る。だが、すでにジェグは蝙蝠型ドールで上空へと飛び去った後だった。
クソッ……! アイツ、何が狙いだったんだ!
「あの、先輩。とにかく今は……」
後ろから掛かったルッシェの声に、私は振り返って小さく頷いた。
そうだ。ジェグが何を考えているかなんてのは後回しだ。ココで私達を待ちかまえていたアイツがいなくなった。ソレこそが最も重要な事実だ。
私はさっきまでジェグが立っていた場所に走り寄り、床から飛び出ている取っ手を掴んで力一杯後ろに引いた。しかし重くてなかなか持ち上がらない。
「先輩、手伝います」
ルッシェは私の隣りに立って一緒に取っ手を持ち、呻き声と共に体重を後ろに掛ける。錆び付いた金属が擦れるような鈍い音を立て、床がゆっくりと持ち上がっていった。そして中から漏れてきた頼りない明かりが私の顔を照らし――
「あ、なた……」
女性の声が下から届いた。
直後、一気に扉からの抵抗が弱まる。内側から押さえつけていた力がなくなったせいだろう。支えを失った私とルッシェは自分達の力で大きく後ろに飛ばされ、無様に尻餅を付いて勢いを止めた。
「あら、あらあらあらあらあら!」
地下室への扉は完全に開ききり、中から顔に深い皺の刻まれた女性が頭だけを覗かせる。しかしすぐに全身を表に出し、地下室から漏れてくる光をスポットライトのように浴びながら喜びの表情を浮かべた。
ソレは古い修道服に身を包んだ六十くらいの女性だった。かなり昔から着用しているのか生地は色褪せ、所々に綻びが見られる。分厚い眼鏡も少し曇りが入り、首から下げているロザリオもくすんでいた。しかし、殆ど変わらない姿だった。
――私がココにいた、あの頃と。
「園長先生……」
無意識に呟きが漏れる。
「メルム、さん……? あら、あらあら。本当に、貴女なの……?」
この声、この喋り方。
間違いない。生きていてくれた。ちゃんと地下室で、生きていてくれた。
しかも、私のことを……。
「あの、あの、先生……」
どうしてだろう。言葉が出てこない。ココに来る前にあれだけ沢山話したいことを考えていたはずなのに。いざ園長先生を前にすると、まるで出てこない。何とか絞り出そうとしても頭の中で纏まってくれない。
何を、アタシは一番最初に何を言おうとしたんだっけ……。
「ごめ、んなさい……」
そして口を突いて出る謝罪の言葉。
「ゴメン、なさい……」
目元が締め付けられて痛くなって熱くなって。
「ごめんな、さ、い……」
もう何に謝っているのかすら分からず、アタシはただひたすらその言葉を繰り返した。
沢山、謝らなければならなかったような気がする。そのどれもこれもが、謝って済むようなことじゃないけど、それでもアタシは謝らずにはいられなかった。
「メルムさん。大きく、なりましたね」
園長先生は床に座り込んだままのアタシを優しく抱きしめ、そして頭を撫でてくれた。
この声、この匂い、この感触。間違いない。園長先生だ。アタシの大好きだった園長先生だ。よかった……本当によかった……。
「おいメルム。感動に浸ってるトコ悪いんだけどよ。とっとと引き上げようぜ。罠はこれからってのはあの陰険野郎の性格考えると十分にあることだ」
頭上からしたハウェッツの言葉に、私は一気に現実へと引き戻された。
そうだ。こんな所でのんびりしている場合ではない。ラミスの所に連れて帰るまで決して安全とは言い切れない。積もる話をするのはその後だ。
「園長先生、今からみんなを連れてジャイロダイン派閥の館に移動します。敵に見つからないよう何組かに別れて行きますから、小さな子供達が騒がないような措置をお願いします」
「分かりました」
園長先生が頷いたのを確認して私は立ち上がった。
ルッシェの鷲型ドールで空から運べれば楽なんだが、あまりに目立ち過ぎる。ここは面倒でも私達が通ってきた道を引き返していった方が良いな。
「おお、大丈夫だったか嬢ちゃん。あんまり遅いからよ……って、ヲイ……」
それに、そういうのが得意そうな奴が丁度良いところに来た。
「何で、どういう――」
ん? 何だ、コイツ……。
「どうかしたのか」
「いや、何で泣いてんのかなー、ってよ」
リヒエルの言葉に私は慌てて黒装束の袖で涙を拭った。
「うっ、ウルサイ! 下らないこと言ってないでココにいる子達をさっさとラミスの所に連れて行け! 絶対に見つかるんじゃないぞ。お前の対策とやらが不十分だったせいでジェグがいやがったんだからな」
「ウゲ……マジかよ……」
全く、肝心なところで役に立たない奴だ。やはり使えない。
「じゃあイツまでもココにいんのはマズいな。取り合えず手分けして連れて帰るか。俺がコイツら小分けにして館まで案内するから、二人で残った奴を守るってのはどうだ?」
そうだな……それが良い。チビデブじゃあいざという時、お荷物にしかならんからな。それに街の裏通りならコイツの方が私達よりずっと詳しそうだ。
「いいな、もう一度言うが絶対に見つかるなよ。もしヤバくなったらとにかく声を上げろ。私かルッシェのどちらかがすぐに行くから」
「へいへい、信用ねーな」
「当たり前だ」
万が一見つかった時のことを考えると付いて行きたいところだが、ココをルッシェだけに任せるというのもな……。かといってルッシェに付いて行かせても、街中で見つかった時に守り通せるかどうかは正直不安だ。ルッシェには悪いがこの子は戦闘には向いてない。優しすぎるからな。
結局、中途半端に戦力を二分するよりは、リヒエルの言うとおり私達二人でココを固めた方が良い。悔しいがリヒエルの誘導の腕を信用するしかない。あまり信用したくはないが……コイツは一応、鎧兵に斬り掛かられそうになったハウェッツを助けてくれたことがあるからな。それにココでジェグは待ち伏せていたが、見張りの鎧兵はちゃんといなくなっていた。つかみ所のない性格だが、できない奴じゃないと思う……多分。
「よし、じゃあ行ってくれ」
「はいよ。そんじゃちょっくら第一陣を見繕わせて貰うぜ」
リヒエルは丸いシルエットの体を揺すりながら、地下室の扉へと近づく。
「どうかよろしくお願いします」
「あぁ、任せときなってバーさん」
園長先生の横を通り抜け、リヒエルは無造作に地下室へと入っていった。すぐに中から子供達の悲鳴じみた声が聞こえるが、園長先生が二言三言、言い聞かせるとすぐに静かになる。相変わらずみんなからの信頼度は高いようだ。
「上手く行くと良いですね」
「行かせてみせるさ。絶対にな」
そして、救出作戦が始まった。
事は極めて順調だった。
リヒエルが五往復する頃には地下室の子供達は三分の一くらいになり、さらに二往復もすると園長先生を除いた全員がリヒエルに連れられてこの孤児院を出ていった。
その間、敵からの干渉もなければ怪しげな物音一つすることもない。リヒエルの方も、途中で誰にも出会っていないらしい。
本当に順調だった。
――恐いくらいに。
初めは皆を助けることしか頭になかったから、そういった余計な不安を感じている余裕などなかったが、作戦が終わりに掛かってくると、どういう訳か焦りとも怖れともつかない奇妙な感覚が体を支配し始めた。
杞憂。取り越し苦労。
そんな言葉で片付けられればいいのだが、
『もう、来ざるを得ない状況に、陥っている。な?』
ジェグが最後に残した言葉が頭から離れない。
確かに、この下らない抗争を終わらせるために私はミリアムに会うつもりでいた。そういう意味ではすでに、ミリアムの所に行かざるを得ない状況には陥っている。
だが、ジェグが言ったのはそう言うことだったのか? もっと何か、別の意味が――
「それじゃ先輩、私達もそろそろ行きましょうか」
隣からルッシェに声を掛けられ、私は思考を中断した。
リヒエルが最後の集団を連れて出ていって大分経ったか。後は、私とルッシェが園長先生を連れて行けば全てが無事終了する。そう、これで大切なモノが、またちゃんと私の所に戻って来た……。
「ああ、行こうか」
私は後ろにいる園長先生に一度目配せして頷き、付いて来るように言うと歩き出した。孤児院の廊下を抜け、真っ暗な外に出て、敷地外に行き、そして来る時に通ってきた路地裏に差し掛かった時、
「先っ輩」
ルッシェが嬉しそうな声で話し掛けてきた。
「ん?」
私はちゃんと後ろから園長先生が付いて来ていることを確認して、ルッシェの方に顔を向ける。
「わたし、分かっちゃいました」
「何がだ?」
周囲への警戒を弱めることなく辺りを見回して進みながら、私は短く返した。
最後まで絶対に油断はできない。気の緩みは即、園長先生を失うことに繋がってしまうかもしれないのだから。
「先輩が、昨日から冷たい理由」
「……へ?」
何の前触れもなくふられた今とは全く無関係の話題に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「あの、完全な勘違いですから。わたし、レヴァーナさんのこと面白くて頼りがいのある人だなとは思いますけど、別に好きとかそういうのじゃないですから」
「ちょ、な……」
顔に熱が集中していく。頭の中がクラクラして足元がおぼつかなくなってきた。
「あーら、あらあらあらああらあらあら。なになになになになに? 面白そうな話題ね。先生も混ぜて貰っていーい?」
後ろを歩いていたはずの園長先生が突然私とルッシェの間に割り込んできて黄色い声を上げる。
「せ、先生まで……。今はそんなこと話している時じゃ……」
「いやいやいやいやいや。大丈夫よ、メルムさん。どう見ても恋話に花を咲かせている乙女三人組にしか見えないわ」
どう見たら『乙女』三人組に見えるんだ。
「そうですよ先輩。変にコソコソしてたら逆に怪しまれます。それに、わたしはこの話をするために付いて来たんですから」
「この話って……お前そんなことのために……」
「先輩にとっては『そんなこと』かもしれませんけど、わたしにとってはもの凄く重大なことなんです。このままギスギスした関係でいるなんてイヤですよ。それにこういう機会でもないと先輩、まともに話してくれないじゃないですか」
言いながらどんどん声を沈ませていくルッシェ。
まぁ……確かに、そう言われると何も言い返せないのだが……。
私は少し考え、
「……分かったよ」
溜息混じりに言った。
ま、もし見つかったとしても、守る人が園長先生一人だけなら私とルッシェでどうとでもなるか。
「で、な、何の話だったかな……?」
「先輩がわたしに的外れなヤキモチを焼いてたって話です」
「何でだ!」
い、いかん……さすがに大声を出すのはまずい……。落ち着け、落ち着くんだメルム=シフォニー。こういう時は――
「ほーらみろ、やっぱり俺の言った通りじゃねーか」
ハウェッツの全身脱羽毛に没頭するに限る。
「レヴァーナさんとのこと応援してるからとか言われて、最初は何言ってるのか全然分からなかったんですけど、もしかしてって思って……それで今の先輩の反応見て、ああやっぱりそうなんだなって確信しました」
何だソレは……。じゃあ私はルッシェにはめられたのか? クソ、昔はそんなカマ掛けみたいなことをする子じゃなかったのに……。全部あのバカのせいだ! あのバカが自分のやりたいことをやりたい放題している姿をルッシェに見せすぎたから、この子まで変な度胸と勇気を……!
「先輩、レヴァーナさんのこと、好きなんですね?」
「違う!」
手の中から聞こえるブチブチという小気味良い音を更に加速させながら、私は全力で否定した。
私がレヴァーナのことを――だと?
寝言はこの星が生まれ変わってから言ってくれ!
「じゃあ、ちょっとだけ好きなんですか?」
「度合いは関係ない!」
「だったら凄く好きってことですよねー」
「何でそうなる!」
左手で固いクチバシを押さえつけ、右手を長い尾羽根の方に伸ばす。
「わ、私のことばかり言っているがお前はどうなんだっ。レヴァーナのこと、好きなんじゃないのか。スープを飲ませてやったり、包帯を巻き直してやったり……」
「うーん、確かにスープは飲ませましたけど病人に優しくするのは当たり前ですしー、別に私はレヴァーナさんの包帯なんて替えてませんよ?」
包帯を替えてない? じゃあ、まさかアレは自分で? でもどうして……私に頼んだんだからルッシェにも頼めばいいのに……。
「し、しかしだな。お前も結構あのバカには興味があるんだろう? い、色々と知りたいんじゃないのか?」
『そうですね。わたしもレヴァーナさんのこと知りたいですし』
二人で買い物に行った時、ルッシェは確かにレヴァーナにそう言っていた。アレはどう考えてもレヴァーナのことが気になっているとしか解釈できないだろう。
「んー、まぁ勿論レヴァーナさんには興味はありますよ」
ほら見ろ。
「どういう経緯で今みたいにちょっとおかしくなっちゃったのか、とか」
……は?
「ほら、恐い物見たさとかあるじゃないですか。偉人と変態は紙一重って言いますけどレヴァーナさんの場合はどう考えても変態さんですよね。だからどこで道を踏み外しちゃったのかなーって。んー、何て言うのか無駄に元気ペット、みたいな感じですかね。まぁ主従の関係くらい距離をおいて接する分にはコッチも元気になりますけど、あまり近すぎると逆にドン引きしちゃうっていうか、ごっそり生命力持っていかれるっていうか」
……お前、可愛い顔してさっきから色々とえげつないこと口走ってるぞ。
「ですから恋愛感情とかそーゆーのは全然ないですよ? だから先輩もわたしなんかに遠慮しないで下さい」
「誰が遠慮しとるか!」
「じゃあもう戻ったらラブラブですねっ」
「ちがああああああぁぁぁぁぁう!」
な、なんだこの噛み合わない感じ……。まるでレヴァーナと会話しているみたいだ。
酔っぱらいは自分のこと酔っ払ってないと言い張るらしいが、ルッシェも気付かないうちにレヴァーナ菌が手遅れなほどに……。まさか、私もすでに……。
「先輩も素直じゃないですねー」
「生まれつきだ」
「じゃあ、先輩はホントにレヴァーナさんのこと何とも思ってないんですね?」
「当たり前だ。誰があんなバカ……」
「やったー。それじゃわたしが遠慮なく頂いちゃいますねっ」
……へ?
満面の笑みを浮かべてはしゃぎ回るルッシェを、私は思わず足を止めて呆然と見つめた。
「お前、さっき、恋愛感情とかないって……」
「ああ、アレ」
そしてルッシェは立てた人差し指を口元に添えて、
「ウソです」
悪びれた様子もなく平然と言った。
「ウ、ソ……?」
「そう、ウソ。だって後輩としては尊敬する先輩を立てたいじゃないですか。ですからー先輩がレヴァーナさんのこと好きならわたしは身を引こうと思ってたんです。でも先輩にまるでその気がないみたいなので……。別にいいですよね? わたしがレヴァーナさんと二人でお食事したり買い物したりサーカス見に行ったり――一緒に夜を過ごしたりしても」
よ、夜……?
「い、いや、それは、ちょっと……ま、マヅいんぢゃないのか?」
「どうしてですか? 先輩から見たらレヴァーナさんてどうしようもないバカで変態さんなんでしょ? そんな人がどーなろーと知ったことじゃないですよね?」
コイツは本当にさっきから……。
「あのな、ルッシェ……。お前さっきからレヴァーナのこと気軽に変態変態って言ってるけど、アイツはお前が言うほど変態じゃないぞ。励ましてくれたり、気を回してくれたり、危ないところに駆けつけてくれたりと、色々良いところも……」
――って、オイ! 私は何を……!
「ですよねー。わたしには先輩みたいにレヴァーナさんの良いところ沢山上げられませんからやっぱり身を引きます」
してやったり、といった様子でニヤニヤしながら、ルッシェは立ち止まっていた私の手を引いて歩き出した。
て、手玉に取られとる……。私がルッシェにいいように扱われている……。恐るべし、ダブルフェイスのルッシェ……。とにかくコレも全部みんな丸ごとひっくるめて、あの大バカ野郎のせいだ!
「あーら、あらあらあらあらあら、まぁまぁまぁまぁまぁ。メルムさんもいつの間にか大人の女性になっていたのね。先生とっても嬉しいわ。出産のお祝いは何がいいかしら」
「超絶に飛躍するな!」
私のツッコミが、深夜の街中に虚しく溶け込んでいった。
実に最悪な気分だ。
当初の予定では私がルッシェとレヴァーナをくっつけて、気持ちをスッキリさせるはずだったのに。どうしてあんな展開になってしまったんだ……。
確か事の発端は私がルッシェに妙な態度を――
そうか、まぁ言ってみれば自業自得か……。ルッシェはルッシェで自分の気持ちをスッキリさせたかったんだろうな。
私の方にモヤモヤを押しつけて。
クソ……。どうしてくれようか。
ラミスの館の中庭を歩きながら、私は深く溜息をついた。
あれから誰にも見つかることなく何のトラブルもなく、私達はジャイロダイン派閥の敷地内にたどり着くことができた。あれだけ騒いでいたにも関わらずだ。例え抗争が起きていない時であっても、鎧兵に呼び止められて根ほり葉ほり聞かれそうなものなのに……。
運が良かったのか、それともリヒエルが予め根回しでもしてくれていたのか。どちらにせよ無傷でみんなを助け出すことができた。結果だけ見ればこれほど嬉しいことはない。
「ただ今帰りましたーっ」
館正面の扉を勢いよく外側に開き、ルッシェは元気な声を中に掛け入れた。
私も気を取り直して明かりが差し込んでくる方を見る。
まぁいい。取り合えず色々考えるのは……考えること自体するかどうか決めるのは後だ。中では今頃、孤児院のみんなが大広間で食事を摂っているかもしれない、大浴場ではしゃいでいるかもしれない、柔らかいベッドの上で跳びはねているかもしれない。まずは彼らの無事を祝うのが先だ。
……まぁ、その後で万が一……億が一気が向けばあのバカの容態を見に行ってやってもいいかもしれないが。
「あれ……?」
しかし、館の中は不気味なほどに静まりかえっていた。
いくらココが異常に広いとは言ってもあれだけ大勢いた孤児院の人達を全員収容したのだ。その大半はまだ小さい子供達。一人や二人、甲高い声を上げながら走り回っていてもおかしくないんだが……。
「お帰りなさい、メルムさん。待っていたわ」
正面にある大広間の扉が開き、中から白いフォーマルスーツに身を包んだラミスが表れた。ブロンドのショートシャギーを揺らしながら、紅いヒールで床を叩いて近づいてくる。そして彼女の後ろには見たこともない顔ぶれのドールマスター達。その数、五十以上。
「待って、いた?」
何かただならぬ物を感じて私はルッシェと園長先生を庇う形で前に出る。
「パーティーの主賓にでもしてくれるのか?」
「まぁ、そんなところね」
皮肉るように発した私の言葉を、ラミスは高圧的な視線で受け止めて返す。
「レヴァーナさんが連れて行かれたわ。教会にね」
「な――」
あまりに唐突なラミスの言葉に、私は大きく目を見開いた。
レヴァーナが、連れて行かれた? どうして、どうしてそんなことが……。どうして今になって……。
『もう、来ざるを得ない状況に、陥っている。な?』
頭の中でジェグの言葉が蘇る。
あれはこういうこと……。じゃあ、あの時にはもう……
「リヒエルはどうしたの? 一緒に行ったんでしょう?」
「も、戻って来てないんですか? コッチに」
私の隣りに立ち、早口で言うルッシェにラミスは腕組みして嘆息した。
「やっぱりね。警備は厳重だったはずなのに……。こんなことができるのは彼くらいのものだと思っていたわ」
「ど、どういうことですか?」
「リヒエルはレヴァーナさんと孤児院の人達を連れて行ったのよ。教会にね。人質として、メルムさんへの当てつけとして」
『姉さんを絶望させるために』
ミリアム……。あの女……!
「どうあっても貴女が邪魔みたいね」
口の端をつり上げながら、ラミスは一枚の羊皮紙を胸元から取り出して私に差し出した。私はソレを取り上げ、内容に目を通す。
『レヴァーナ=ジャイロダインとメルム=シフォニー、交換だ』
乱雑な文字でそう書き殴ってあった。
そういう、ことか。それでこの大所帯という訳か。
孤児院の人達はミリアムの予定ではジェグが殺すはずだった。私の目の前で。そして帰ったところにレヴァーナの連れ去りとラミスの裏切りを味あわせる。
ミリアムはこの三つの絶望を同時に起こしたかった。だから、レヴァーナを連れ去るタイミングをはかっていた。
「ふざ、けるな……」
私は羊皮紙を投げ捨て、下からラミスを睨み付ける。
「大人しく捕まってやると思うなよ!」
そして、両手に亜空文字を展開させた。
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