ひらきなおりのド天然、してくれますか?

“楓の失敗とても不思議。最初は大らか、妙にほがらか、次第に苛立ち、徐々に腹立ち、ちょっとブチギレ、だんだんマジギレ、血管切れて、体温下がって、ドン引きすぎたら――”

 陽光を反射し、光り輝くほどに磨き上げられた肌。優美な曲線を持った肢体は見ているだけでため息が出る。
 完璧なまでのプロポーションを誇る体が、まるでスロー再生されたデジタル画像のように、ゆっくりとその姿を小さくしていく。
 ――なぜ、なぜ、なぜ?
 頭を埋め尽くすのは、ただただ疑問の言葉。ほんの数秒前まで、確かに自分の手の中にあったはずの女性の感触はもうない。半端に開かれた指がつかんでいるのは、何も返さない無色透明の空気だけ。
 魂が抜け落ちたように呆然と見守る自分の目の前で、彼女は重力に引かれて落下し、そしてアスファルトに叩き付けられて――

 ――粉々に砕け散った。

「お……」
 無意識に言葉が口から零れる。
「俺、の……」
 そして激情をともなって一気に吹き出した。
「俺の『水晶ボンデージガール』があああああぁぁぁぁぁ!」 
 秋葉原の中心を走る大通りのド真ん中で、クセの強い紅髪をもった男が人目も気にせずに大声を張り上げていた。
「計算されつくした屈折率がかもし出すエロチシズム……透明感あふれる美胸、美腰、美くるぶし……水晶にもかかわらず柔肌を感じさせる神かがりな質感……極めつけは清純派の制服ではなくボンデージを選んだアダルト性……心技一体の極地へと達した匠のみが生み出すことを許された奇跡の産物……まさしくメマジネーション・ドラッグ……」
 サンタバニー姿の女の子キャラクターがプリントされたTシャツに身を包み、穴開きのジーンズを着こなしているのは、百八十以上の長身を持つ均整の取れた体つきの男。
「完成の……一年も前から、麗子に別れを告げて、心の準備をしていたのに……」
 自宅に飾られているバニーフィギュアのことを思い出しながら、彫りの深いどこか異国的な顔付きの男は、がっくりと地面に膝を付いた。
「あ、あのー、たーく……」
 後ろから遠慮がちに掛けられた女性の声をかき消すようにして、男の頭上でクラクションが鳴り響く。
「どかんかぃクソガキ! ヒっ殺すぞ!」
 続けてドスの利いた低い声が降ってきた。
 彼が今、四つんばいになっているのは横断歩道のちょうど中央。さっきまで青だった信号は、なげいている間に赤へと変わっていた。
 男は焦点の合わない目つきのまま顔を上げる。そして震える手で『水晶ボンデージガール』のなれ果てを握りしめ、日陰のヒマワリのように力なく立ち上がった。
「早よドケゆーとんねん!」
 車の中から、いっそう激しく轟く声。その主の腕には観音様の刺青。どう見てもカタギではない。
 しかし体をゆらせながら立ちつくす男は、怯むどころかただでさえ鋭い眼光をさらにキツく研ぎ澄ましてヤクザに叩き付ける。
「何やワレ。ヤルつるもりかい」
 ヤクザは鼻を鳴らして車から降り、木刀片手にすごみを利かせた。
「オモロイ。ヤッ“たろう”やないかぃ!」
 そして血だるまになった。
「愚か者には……等しく死を」
 一瞬にしてアスファルトと一体化したヤクザを無慈悲に見下ろしながら、男――真宮寺太郎は冷たい声で言い放つ。そして危険な輝きを持つ瞳が、ヤクザの乗っていた黒い車の上を滑った。
 次の瞬間、何の前触れもなく車がはじけ飛んだかと思うと、部品レベルにまで分解されてヤクザの周りに突き刺さる。それはまばたきする間に再構築すると、堅牢なオリとなってヤクザを閉じ込めた。
「あ、あのー、たーくん……ごめんなさいー……」
 『自衛隊を呼べ!』『核の使用許可を!』と周囲ががなり立てる中、大きめのリボンで長い栗色の髪をポニーテールに纏めた女性が太郎の前に歩み出た。
「わ、私がバナナの皮ですべったばかりにー……」
 彼女は長い睫毛を伏せて申し訳なさそうにうつむき、間延びした声を出す。
 胸の辺りを強調したデザインのメイド服を着たその女性は、銀のトレイを脇で挟み、紺色のフレアスカートのすそをギュッと握りながら上目遣いで太郎の方を見た。
 ソレは心の底から自分の過ちを悔い、必死に許しを請う姿。猛省し、もう二度としないと誓う恭順の表情。
 潤んだ瞳が痛いほどに訴えかけてくる。
 保護欲をくすぐる小動物のような顔立ちをした彼女の――色葉楓のこんな姿を見せられては、男なら誰だって許したくなるだろう。
 ――コレが九十九回目のミスでなければ。
 ハッキリ言って普通なら、男であれ女であれ中間であれ、息の根の半止めにしてのたうち回らせているところだ。少し前の太郎なら間違いなくそうしていた。
 だが――
「いや、いいんだ……楓」
 重い息を吐き、太郎は楓の肩に優しく手を置いた。
 起こってしまったことはもうしょうがない。思い返せば実に些細なことだった。
 たまたまよそ見をしながら歩いていた楓が、たまたま地面に落ちていたバナナの皮を踏み、たまたま後ろに滑って、たまたま伸ばした手が太郎の腕を掴んだ。
 そしてたまたま『水晶ボンデージガール』が太郎の手から放れて、たまたま落ち、たまたま壊れてしまった。
 そう。すべてはたまたま起こった悲しい出来事。偶然の連鎖が引き起こした無体。
 形ある物はいつか滅する。それが少し早まっただけのことだ。
 ただあまりに早すぎて、混乱した頭が勝手に地球の公転周期を狂わせそうになったが。
「道ばたにバナナの皮があれば誰だってすべりたくなる。萌えがなければ全人類の半分以上が死に絶えるのと同じこと。そうならないヤツの方が異常なんだ。それに、お前を置いて人前で『水晶ボンデージガール』と手を繋いでいた俺にも落ち度はある。あまりに突然のことに時間を止めるのも忘れてしまっていた。麗子がヤキモチ焼いたのかな、あっはっは」
 引きつった顔でムリヤリ言いながら、太郎は目から紫色の液体を流して痛恨の笑みを浮かべる。
「あのー、時間を戻すことはできないんですかー……?」
「それは可能だ……が、空気の成分が変わってしまう恐れがあるので、できればやりたくない」
 沈痛な面もちで太郎は呻いた。
「あぅ〜……。たーくん、ホントにごめんなさいー。今度からはちゃんと前見て歩きますからー……」
 だーっ、と涙を流しながら、楓は鼻をすすらせる。
「ああ、もう分かったから。そうやって一つずつ学習していってくれ」
「私がたーくんの運気吸ってなければー、きっとこんなことにはー……」
 楓は太郎の元守護霊。昔に色々あって、今は太郎の非常識極まりない甚大な運気を吸い続けることで実体化している。
 そう、常人であればすでに七代先の子孫まで、マフィアの手による内臓の売買が確定していてもおかしくないほどの運気を。
「だからもういいって。お前がヘコむと俺までヘコむから、勘弁してくれ」
 半径一キロ以内、すでに誰もいなくなった交差点の中央で楓の頭をポンポンと軽く叩きながら、太郎は紅髪をかき上げた。
 太郎と楓は被守護者と守護霊の関係。精神と肉体が中途半端に繋がっている。だから楓の感情や痛みが太郎に、太郎の妄想や肉体改造が楓にフィードバックすることがある。
「はいー……。次は絶対にガンバリますからー……」
「ほーかほーか」
 何をどうガンバるのかはよく分からないが、太郎は楓に合わせてウンウンと頷いた。そしてジーンズのポケットからタバコを取り出し、年代物のジッポで火を付けながら上を向く。
(やれやれ……)
 雲一つない青空に向かって、ため息混じりに紫煙を吐き出す。そんな太郎の胸の中に、表現しにくい何か温かなモノが生まれた。
(俺も変わったな……)
 楓との同居を始めてはや二年。本当に丸くなった。さっきのヤクザをあの程度ですませたのが何よりの証拠。昔の自分なら単細胞生物に転生させていたところだ。
 まだ気持ちに若干の違和感はあるが、別に嫌な物ではない。これから時間を掛けてゆっくりと消化していけばいい。
 タバコをくわえたまま視線を下ろし、太郎は砕けた『水晶ボンデージガール』に目を落とす。
 また、あの匠がコレだけの傑作を生み出すのに、どれだけかかるか分からないが、何十年でも何百年でも待てばいい。それだけのことだ。
(……ん?)
 と、視界の端に一瞬映った黒い影を、太郎の片目が素早く追った。
(ふん……)
 そして小さく鼻を鳴らし、二本目のタバコに火を付ける。
(招かざる客人のお出まし、か)
「たーくん、左と右の目が別々に動いてますよー」
 そんな楓の言葉を聞きながら、太郎は嬉しそうに口の端をつり上げた。

“楓の失敗とても不思議。最初は大らか、妙にほがらか、次第に苛立ち、徐々に腹立ち、ちょっとブチギレ、だんだんマジギレ、血管切れて、体温下がって、ドン引きすぎたら――

 ――喜びさんハロー” by 真宮寺太郎

★真宮寺太郎の『最近、俺はマゾなのかと思うことが多くなってきた』★
 ぽかぽかと温かい平日の昼下がり。
 一般人があくせくと働く時間帯。
 都内、二階建ての一軒家。その一階にある中庭に面した日当たりのいいリビング。春の陽気に誘われて、太郎はソファーで片手倒立しながら鼻でタバコをふかしてた。
「それが依頼主を前にしてとる態度かしら?」
「それが人に物を頼むときの態度なのかな?」
 ファー付きのゴージャスな扇で顔の下半分を隠し、小バカにしたような視線を送ってくる女性の言葉に太郎は即答する。
「何度も言うようだけど、ワタシは依頼主よ?」
「何度も言うようだが、タワシは意外と塩が合う」
 鼻から吸い込んだ煙を耳の穴から出しながら、太郎は間髪入れずに返した。
「アナタの偏食になんて興味ないわ」
「あ、ナタの変色を今日見ないな」
 思い出したように言いながら、太郎はどこからか取り出した小振りのナタを、足の親指の先でもてあそぶ。
「いつもならこの時間には七色に輝いているはずなんだが」
「それはアナタの頭の中だけで充分よ」
 長く、整った柳眉を伏せ、肩と胸元を大きく露出させた黒のパーティードレスを着た女性はハーブティーを一すすりした。ソレに合わせて、うなじの辺りで切り揃えた黒いセミロングの髪が小さく揺れる。
「あー、おいしいわ色ちゃん。アリガト。こんなドブネズミの穴ぐらみたいなトコいないで、ワタシの屋敷にこない? 一生遊んで暮らせるわよ」
 両手にはめた巨大ダイアの指輪を見せびらかしながら扇を下ろし、彼女はブラック・ルージュを引いた口元を妖しく歪めた。
「あー、いえー。私はたーくんと一緒にいる方がいいですからー」
 ニコニコー、と太陽のような笑顔を浮かべ、太郎のすぐ隣りに座った楓がネコ耳をピンと立てて言う。
 外ではファミレス風メイド服、家ではネコビキニというのが太郎の現在のブームだ。上下セパレートのヘソ出しファッションだか、楓が着ると不思議とイヤラシさを感じない。
「所員の引き抜きは所長を介してもらわんと困るな」 
「二人しかいないくせに……」
「二人で十分なんだよ」
 ソファーに座り直し、太郎はガラステーブルに置かれた灰皿でタバコをもみ消しながら返す。

 『真宮寺“最強”探偵事務所』

 それが太郎の住んでいる家の名前だ。
 大学を卒業し、普通に働くなど考えられなかった太郎は、持ち前の異常に研ぎ澄まされ勘を最大限に活かして探偵事務所を始めた。初期の名前は『真宮寺探偵事務所』だったのだが、楓のセンスが炸裂して現在に至る。
 このうさん臭さ彗星爆発の探偵事務所は、太郎の幼馴染みである憂子の口コミ、オタク心を根こそぎ掴み上げる楓の宣伝、そして所長である太郎が発する怪念波によって、設立一ヶ月にして軌道に乗った。
 客層は子供から老人、外人から異星人まで様々だが、どんな失せ物をも探し出せるとあってリピート率はかなり高い。
 その中でもこの探偵事務所を最も多く利用している大お得意さまが、今目の前に座っている高飛車な雰囲気の女、小鳥遊 蘭乱(たかなし らんらん)だ。
 大富豪の妻だったのだが、数年前に夫が他界して未亡人となり、莫大な財産が自分だけの物となった。おかげで暇と金を持てあまし、退屈しのぎにと毎回毎回太郎に無理難題をふっかけてきている。
「で、さっきから話が前に進まんな。一分やるから要点を完結に述べろ」
 熟睡し、寝言で言いながら太郎は楓の肩にもたれ掛かった。 
「アナタの挑発は毎回趣向に富んでて楽しいんだけど、最近本気で埋めてやろうかと思うことがあるわ」
「胸の谷間なら間に合っている」
 頭の後ろから声を発して、太郎はネコの毛皮ブラを付けた楓の胸元に顔を埋める。
「今回の依頼の説明をするわ」
 突き放すように言って白い足を組み替え、蘭乱は胸元のシルバー・クロスをいじりながら続けた。
「探して欲しいのはワタシの飼ってるネコちゃんよ。期限は今日中。報酬は百万円」
 淡々とした口調で言い終え、蘭乱は太郎の方に試すような視線を向ける。
「で?」
 それ以上何も言おうとしない蘭乱に、太郎は楓から離れて顔を向け、新しいタバコに火を付けた。
「そのネコの写真は?」
「ないわ」
「種類は?」
「さぁ」
「特徴は?」
「ネコっぽいトコ」
「いついなくなった?」
「いつの間にか」
「行きそうな場所に心当たりは?」
「知らない」
 短い言葉のやり取りを交わし終えた後、太郎は深く吸い込んだ紫煙を細く吐き出し、
「分かった。その依頼、受けよう」
 蘭乱の目を真っ正面から見据えて言った。その返答に彼女は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「アナタならそう言ってくれると思っていたわ」
「ただし――」
 蘭乱の言葉に被せるようにして、太郎は片眉を上げながら付け加えた。
「もし三十分以内に見つけだすことができれば、報酬は倍の二百万にしてくれ」
「できなければ?」
「金はいらん」
「ネコちゃんは?」
「引き続き無償で探してやろう」
 太郎の言葉に蘭乱は目を細め、何か新しいおもちゃでも見つけたかのような楽しげな表情を浮かべる。
「だ、大丈夫なんですかー……?」
 隣で楓が大きなネコ手を口元に当てながら心配そうな声を発した。
「なーに、俺様の話術を持ってすれば造作もないことさ」
 ソファーの背もたれに体を預け、太郎は自信に満ちた表情で言う。
「話術? アナタ、ちゃんと依頼の内容聞いてたの?」
「勿論。そして依頼はすでに半分以上達成できている」
 眉間にシワをよせて扇で口元を隠す蘭乱に、太郎は挑発的な笑みを返した。
「なぁ小鳥遊。お前、楓のこの格好を見て何を連想する?」
 いきなり意図の掴めない質問をする太郎に、蘭乱はシワをさらに深める。
「……ネコ、かしら」
「だよな」
 その答えに満足そうに頷く太郎。
「小鳥遊。ココにいる楓が、お前の探しているネコだ」
 あまりに突拍子もない太郎の言葉に楓は目を丸くし、そして蘭乱は嘲笑を口の端に浮かべた。
「随分と程度の低い冗談ね。ちっとも笑えないわ」
「お前は元々ネコなんか飼ってないんだよ。本当に飼っていて可愛がってるんなら普通は名前で呼ぶ。だがお前が言ったのは『ネコちゃん』だ。飼ってないから写真もない、種類も分からない、いついなくなったのかも見当付かない、行きそうな場所も分からない。お前は架空のネコを適当にでっち上げて、俺が困り果てる姿を見たかった。違うか?」
「もの凄い決めつけね。で? 仮にそうだとして、色ちゃんが私の探してるネコだなんて無茶苦茶な理論がまかり通るとでも思ってるの?」
「最初から全部無茶苦茶なんだよ。お前がわけの分からん依頼してきた時点でな」
 腕組みし、ガラステーブルに両足を投げ出して太郎は続ける。
「お前がどんなネコかを指定しなかった以上、この依頼を達成するにはお前自身に『コレが自分の探しているネコです』と認めさせるしかない」
「そうね」
「お前は楓のこと、随分と気に入ってるよな。欲しくないか?」
 『欲しい』と『探している』は殆ど同じ意味。欲しいから探す、探している物は欲しい物。蘭乱に楓が欲しいと言わせればコチラの勝ちだ。
「たーくーん……」
 頼りない声を上げる楓から戸惑いの感情が伝わってくる。だがそれ以上は何も言わない。
 それは太郎のことを信頼しているから。絶対にそんなことはしないと信じているから。
「それが、アナタの切り札なの?」
 蘭乱は不敵に笑って目を細めると、テーブルの上のハーブティーを一口すすった。
「いらないわ。それに色ちゃんはネコじゃない。人間よ」
「忘れたのか? 俺がネコの特徴を聞いた時、お前は『ネコっぽい』って言ったよな。で、楓の姿を見てどう思うって聞いた時も『ネコ』って答えた。つまり、楓はお前が探している『ネコ』になりうるというわけだ」
 筋が通ったような通らないような理屈に顔をしかめ、蘭乱はティーカップを静かに置く。そしてセミロングの黒髪を優美に掻き上げ、太郎の目を見据えた。
「それで? ワタシが色ちゃんを欲しがってないことには変わりないわ」
 ソレはウソだ。蘭乱は楓のことをやたらと気に掛けている。
 いや、楓だけではない。たまに遊びに来る憂子と顔を合わせた時も、瞳を潤ませ、熱い視線を送っていた。まるで愛おしい者を見るような――いや、快楽の対象に送るような欲情した視線を。
 つまり――
「レズ、というヤツだな」
「真剣な顔で唐突に卑猥なこと言うのやめてくれないかしら」
 否定しないところを見ると、どうやらその通りらしい。
「くだらない妄想に時間さいてる余裕あるの? もう十分はたったわよ」
「卓越した想像力と言って貰おうか」
「どっちでもいいわ」
 蘭乱は退屈そうにあくびしながら視線を太郎に、そして一瞬楓に移したかと思うとまたすぐに太郎に戻す。
 さっきの『楓が欲しくないか?』という言葉。少なからず気にはなっているらしい。
 確かに、本音とは違うにせよ蘭乱は当然『いらない』と言うだろう。でなければ二百万を持って行かれてしまうのだから。
 そう、蘭乱が自分の心にウソを付いて拒否するのは分かっていた。嫌っている太郎の口から出た言葉になど従うはずがない。
 だが、例え同じ言葉でも別の人間から出た物であれば――
「楓」
 太郎は短く言って楓の耳元に口を寄せ、『切り札』を吹き込んだ。聞かされた楓は頬を紅くして太郎の方を見ながら、本当に言うのかどうかを何回も目で確認してくる。
 恥じらい、戸惑いの色を濃く見せる楓。
 コレは別に狙ったモノではないが、演出としては最高だ。間違いなく蘭乱は落ちる。
「あのー……」
 楓は二重の大きな目で許しを請うような視線を蘭乱の方に向け、ためらいがちに口を開く。
「私をー、蘭乱様のペットにしてくれませんかー?」
 白いカーペットが蘭乱の周りだけ紅く染まった。
「コイツは……」
 予想以上の破壊力だ。
 目の前で起こっている異常事態に、太郎は果てしない戦慄を覚えた。
 自分の鼻から吹き出した鮮血に身を沈め、びくんびくんとアブナイ痙攣を繰り返す蘭乱に、楓が取り乱して「はわわー」と声を上げる。
「だ、大丈夫ですかー?」
 蘭乱の背中をさすってやりながら、気遣いの言葉を掛ける楓。
「は、鼻血を止めるにはー、確か頭を高くしてー……」
 言いながら楓は、蘭乱の頭を正座した自分の太腿の上に乗せる。次の瞬間、流血の勢いが倍加した。
「ひぇー……!」
(お、面白い……)
 紅い水芸を繰り広げる蘭乱を、太郎は目を大きくして食い入るように凝視する。
 どんどん紅くなっていく室内とは裏腹に、悲惨なほどに青くなっていく蘭乱の顔色。さすがに生命の危機を感じ、太郎は蘭乱から楓を引き離した。
「す、凄かったわ……」
 ソファーの肘置きに手を伸ばして体を起こし、蘭乱は逆の手で鼻を押さえながら弱々しく言う。その顔はどこか、偉業を成し遂げた後の凄まじい達成感で満たされているようにも見えた。
「そんな状態のお前に今更確認するのも何だが……楓はお前の探しているネコだな」
「なに分かり切ったこと言ってんのよ」
 即答し、蘭乱は血染めのソファーに座り直す。そして胸の谷間から小切手とペンを取り出し、さらさらと二百万の数字を書き込むとガラステーブルの上に置いた。
「二百万くらいで色ちゃんがワタシのモノになるんなら安い買い物だわ」
 鼻をズーッ! っと大きくすすって男前に血を止めると、蘭乱は壮絶なモノを瞳に宿して太郎を見る。
「何言ってんだ。冗談は鼻血だけにしてくれ」
「ちょ……だってさっき……!」
 小切手を受け取り、見せびらかすようにヒラヒラとさせる太郎に、蘭乱は目を血走らせて抗議の声を上げた。
「俺は『欲しくないか?』と言っただけで『やる』とは一言も言ってないぞ」
「で、でも! 色ちゃんはペットにしてって……!」
「アレはウソですー」
 悪びれた様子もなく平然と返す色葉。
 『記録と規則と約束は破るためにある』
 日頃の教育のたまものだ。
「じゃ、じゃあ無効よ! 依頼達成にはならないわ!」
「俺は『ネコを探してくれ』とは頼まれたが、『見つけたネコを渡してくれ』とまでは言われてないぞ」
「な――」
 ソコまで言われて、蘭乱は大きく顔を引きつらせる。
「そんなの詭弁よ! 『探して』って言ったら普通は『受け取る』ってのも含まれるでしょ!」
「俺が普通じゃないことはお前も良く知ってるじゃないか。ゲーラゲラゲラ」
 言いながら何もない空間に手を突っ込み、ソコからエクスカリバー型のライターを取り出して新しいタバコに火を付けた。 
「こ、の……!」
 立ち上がり、怒りで顔を紅くしていく蘭乱。しかし先程の大道芸で血を流しすぎたのか、すぐにめまいを起こしてソファーに座り込んでしまう。
「く……」
 蘭乱はしばらく太郎を睨み付けていたが、やがて諦めた顔付きになると冷めた声を発した。
「……分かったわよ。今回はワタシの負けってことに――」
 そこまで言って蘭乱の言葉が止まる。
「どうした? 今回“は”じゃなくて、今回“も”ってことに気付いたのか?」
 蘭乱からは数多くの嫌がらせに近い依頼を受けてきたが、達成できなかったことは一度たりともない。全て太郎の勝利に終わっている。
 ソレのことを言い直そうとして喋るのを止めた――わけではなさそうだ。
 蘭乱の目はなぜか楓の頭部に集中している。
「なん……」
 つられるようにして見た太郎の言葉が途中で止まった。さっきまで楓の頭にあったはずのモノがない。
「ど、どうかしたんですかー……?」
 二人に見つめられ、楓は怯えたような声を出す。
「お前……ネコ耳は?」
「へ?」
 呟きにも似た太郎の言葉に、楓は慌てて両手を頭にやった。そして当然あるべきはずの感触を確かめようと、ペタペタと色んな場所を触る。
 だが――
「ない、ですー……」
 泣きそうな顔になって頼りない声を漏らした。
「じゃ、じゃあ出せ。早く」
「それが……出ないんですー」
 今の楓の体は人間と幽霊の間のようなモノ。だから衣装などは自分の意思だけで変えたりできる。今身に付けているネコビキニも、太郎がオタク雑誌を見せて指定した物だ。
「出ないってお前……そりゃどういう……」
 衣装の一部を消したりすることは楓の意思を持ってしかできない。逆に言えば楓の意思さえあれば、どんな時でも出すことができる。例えどこかに落としてなくしてしまったとしても。
 しかし、なぜか今はソレができない。
「ふ、ふふふ……」
 楓をじっと見ていたはず蘭乱はいつの間にかうつむき、低く不気味な笑い声を発した。
「うふふふふふ! 残念だったわね真宮寺! コレでどう見ても色ちゃんは『ネコっぽく』ないわ! つまり! ワタシが探しているネコにはなりえない!」
「おいおい、何を今更。もうお前の負けは……」
「確定してないわ! ワタシはまだ負けを認めていなかった!」
「ち……」
 確かに、負けを認める直前で蘭乱は言葉を切った。
「そして約束の三十分はとっくに過ぎた! コレがどういうことか、聡明な真宮寺様ならお分かりですわよねー?」
 干涸らびたミミズのように目を細くし、蘭乱は勝ち誇った笑みを浮かべる。
(……しょうがない、な)
 悔しいが蘭乱の言うとおりだ。
 元々この勝負は言葉の揚げ足とりのような物。
 楓が『ネコっぽい』という大前提を覆され、蘭乱が負けの言葉を最後まで言っていない以上、反論の余地はない。
「分かったよ。今回は俺の負けってことにしといてやる」
「素直なのはいいことよ。あと、『ワタシが探してるネコ』はちゃんと見つけておいてね。ま、色ちゃんをくれるっていうんなら、ソレでもいいけど」
「バカ言うな。見つけりゃいいんだろ、見つけりゃ」
 投げやりな態度になって、太郎は適当に返す。
 いざとなれば蘭乱の記憶を消し飛ばしてしまえばいいだけの話だ。
 ……体に何らかの障害は残るだろうが。
「それじゃあね。今日はどうもごちそうさま。また来るわ」
 機嫌よさそうに言って蘭乱は立ち上がり、太郎から小切手をひったくってリビングの出入り口へと向かう。そして扉を開けたところで立ち止まり、
「勝負に勝つって、ホント気分いいわ」
 コチラを横目に見ながら付け加えた。
 太郎が初めて依頼不達成になったのが、よほど愉快らしい。
「バァーイ」
 爽快感に満ち満ちた表情で言い残し、蘭乱はリビングを後にした。
「たーくーん……ごめんなさいですー……」
「あん?」
 しゅん、と体を小さくして、楓は申し訳なさそうな声を出す。
「なんで謝るんだよ」
「だってー、せっかく上手くいきそうだったのに私のせいでー……」
「別にお前のせいじゃねーよ。それに、途中まで上手くいったのはお前のおかげだしな。むしろ感謝してる」
「でもー……」
 どんどん暗い顔になっていく楓の頭を撫でてやりながら、太郎はタバコを灰皿で揉み消した。
「だーから気にすんなって。お前がヘコむと俺までヘコむっつったろ。それよりやっぱ耳出ねーのか? アレがないと俺的にえげつなく悲しいんだが」
「それがまだー……」
 小さな声で言いながら楓は自分の頭を見るように視線を上げる。
 と、ポンッというコミカルな音と共に、楓の頭から柔らかそうな毛皮を持ったネコ耳が姿を現した。
「あれあれー?」
「何だよ、出るんじゃねーか」
 顔を明るくして、太郎はまばゆい後光を放つ。
「ごめんなさいー、たーくーん……。私、ホントにドジばっかりでー……」
「だから別にお前を責めてるわけじゃねーって」
 半笑いになりながらに、太郎は楓の頭をポンポンと軽く叩いた。
 それよりも本当に感謝している。これで確信が持てた。
(退屈しのぎにはなりそうだ)
 新しいタバコを取り出し、太郎は好戦的に口の端をつり上げる。
「さて、今日はお祝いパーティーだな」
「ふぇー? 何のですかー?」
「そりゃ決まってんだろ」
 太郎は満面の笑みを浮かべ、復活した楓のネコ耳をイジリながら続けた。
「お前の天然ボケ、記念すべき百回目のだよ」
「たーくん、ホントはすんごく怒ってませんかー……?」
 今にも泣き出しそうな表情になる楓のネコ耳を、太郎はしばらく幸せそうに触っていた。

★小鳥遊蘭乱の『ワタシにもプライドって物があるわ』★
 勝った。
 ついに勝った。
 あのオゲレツ非常識男に。不死身の宇宙外生命体に。ヤローテメー真夜中に堂々と光合成してんじゃねード変態に。
 勝ったのだ。
「うふふふふふふ……」
 自然と笑みが零れてくる。さっきから顔が緩んで緩んでしょうがない。
「奥様、いかがなされましたか?」
「なんでもないわ阿部野橋。運転に集中しなさい」
「は」
 リムジンの運転席から声を掛けてくる使用人に厳しい口調で言い、蘭乱はサイドテーブルに置かれたキャビアをスプーンですくって口に入れた。そしてクリスタル製のグラスに注がれたワインを口に含む。車から伝わってくる適度な揺れが、すぐに心地よい酩酊をもたらしてくれた。
(真宮寺太郎……)
 初めて彼を知ったのは二年くらい前だろうか。会食パーティーでたまたま話をする機会があった春日財閥のお嬢様、春日亜美から彼のことを聞かされたのが全ての始まりだった。
 素手で地面をかち割る。
 目から怪光線を放つ。
 空中浮遊できる。
 光速で移動することができる。
 時間を止められる。
 最初はなんて面白いことをいうお嬢さんなのだろうと思っていた。
 もし本当にそんなことができたら楽しそうね、それだけ愉快な人がそばにいてくれたらきっと退屈しないわね、などと軽く流していた。しかし、亜美の顔は全く笑っていなかった。

『おばさま。一度実際に見られることをオススメいたしますわ。きっと人生観変わりますわよ』

 亜美は何か含みのある笑いを浮かべ、蘭乱に太郎の家の住所を教えてくれた。
 それから先はほんの気まぐれだった。夫を亡くし、その悲しさを紛らせる物が欲しかった。だから別に何でもよかった。際限なく沈んでいく気分を拭い去ってくれる物であれば何でも。
 ――真宮寺最強探偵事務所。
 教えられた住所の場所には、そう書かれた文字が“浮かんで”いた。何かにつり下げられているわけではない。正真正銘、“宙に浮かんでいる”のだ。
 戸惑いつつも厚みを持たない文字の下をくぐり、ステンレス素材の門を内側に押し開けたと思った直後、蘭乱は見たこともないリビングにいた。

『これはマダム。我が探偵事務所にようこそ。本日はどのようなご相談で?』

 そしてくわえタバコの紅髪の男性が、低い声で話しかけてきた。
 すぐに彼が真宮寺太郎だと分かった。亜美から教えられた特徴にソックリだったから。
 炎のように紅い髪の毛。彫りが深く鼻筋の通った顔立ち。猛禽類のように鋭い目つき。自信に満ちた表情。モデルのように均整の取れた体つき。
 間違いない。一見、全てに置いて完璧に見えるこの男こそが非常識の権化、真宮寺太郎。

『驚かせてしまって申し訳ない。初めて探偵事務所という場所に足を踏み入れるのは勇気がいるもの。だから少しだけ背中を押させていただいた』

 先程の異常現象を『少しだけ』の一言で片付けてしまう目の前の男に、蘭乱は不思議な胸の高鳴りを覚えた。
 ――本物だ。
 直感とも呼ぶべき得体の知れない何かが、自分自身にはっきりと告げた。

『ココに初めて来られた方には特別に一つだけ悩みを解決して差し上げています。ほぅ、貴女は首筋にある大きなホクロがコンプレックスになってるようですね』
 
 コチラからは何も言っていない。何も言っていないのに、一番の悩みを言い当てられた。まるで心の中を読まれたかのように。

『ではソレを取って差し上げましょう。なに、手術跡のようなものは全く残りませんからご心配なく』

 太郎はそう言うとコチラに近寄り、無造作に首へと手を伸ばした。そして虫でもつかみ取るかのように、ホクロをつまみ上げた。
 彼の手の中には丸く、黒い物体が一つ。そしてドコから取り出したのか鏡を渡され、ソレで首筋を確認するように言われた。
 なくなっていた。
 今朝、化粧をしていた時には確かにあったはずのホクロが、キレイサッパリなくなっていた。
 どうやったのかなど分からない。しかし、疑いようもない事実がココにある。
 ――神か、それとも悪魔か。
 蘭乱の中で太郎という男の存在が急速に大きくなり、

『しかしこんな立派なホクロを捨てるのは勿体ない。そうだ、代わりに胸の谷間に移して差し上げましょう。きっと妖しくなられますよ』

 二度と消えない負の烙印となった。
 それからだ。蘭乱が太郎に嫌がらせ混じりの依頼を何度もするようになったのは。
 真冬にスイカを食べたいという依頼をした時には、ビーチボールのスイカを本物のスイカにされた。聞いたこともない音楽を聞かせて欲しいと依頼した時には、人間の声帯では発音不可能な歌声を聞かされた。都内で地平線を見たいと依頼した時には、数分だけ視界に映る物全てを消し去ってしまった。
 どんな無理難題をも、太郎はその非常識力でこなしてきた。
 忌々しいほど完璧に。
(まったく。今思い出しても腹の立つ……)
 胸の谷間に入り込んだシルバー・クロスの下で、しっかり息づく大きなホクロを一瞥して、蘭乱はグラスに残ったワインを一気に飲み干した。
 あれ以来、蘭乱は太郎を不幸にすることだけを考えて生きてきた。
 太郎は常軌を逸した力を持った男だ。これまで失敗らしい失敗、不幸らしい不幸など味わったことなどないだろう。
 だからこそやり甲斐がある。打たれ弱く、逆境に脆い人間は些細なことで破綻をきたす。絶頂期からどん底へと一気に転がり落ちる。その時の顔が見物だ。
 今日、太郎は初めて依頼をしくじった。
 一回や二回ではへこたれないかもしれないが、同じようなミスを何度か繰り返せば、いつか必ず崩れるはず。いつか必ず――
「いやー、貴女様も真宮寺様にイタイ目を見せられた口デスかー」
 突然、隣で声がした。
「まぁあの方は偉大デスからねー」
 見ると黒い物体がキャビアをつまみ食いしている。
 黒のシルクハット、黒のカッターシャツ、黒のネクタイ、黒のスーツ、黒の革靴。頭の上から爪先まで黒一色に染め上げられた五歳くらいの幼児が、屈託のない笑顔を浮かべて革張りの座席にちょこんと座っていた。
「アンタ誰。ドコから入ったのよ」
 ドアポケットに挟んでおいた大理石のケースの中から煙管を取り出し、蘭乱はメンドくさそうに聞く。
 太郎と関わってからは、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなった。それに今はアルコールからくる酔いも手伝っている。まったくもって慌てる気がしなかった。
「これは申し遅れましたデス。ボク、夜水月といいますデス。楓君の元上司、といえば分かり易いでしょうか」
「色ちゃんの? バカなこと言わないで。アンタの方がずっと年下じゃない」
 煙管の先にある火皿にきざんだタバコを詰め込み、蘭乱はシガレットライターを近づけて火を付ける。そして管を通ってきた煙を肺一杯に吸い込み、夜水月と名乗った子供の顔に吹きかけた。
「えほっえほっ。こ、こう見えて百年以上は生きてますデス。幽霊界では肉体が死んだ時点で外見が固定されますデスから」
「幽霊ー?」
 うさんくさそうな視線を夜水月に向けながら、蘭乱はグラスにワインを注ぐ。
「あのー、奥様。先程からどなた様と話されているのでしょうか」
 バックミラーでコチラを見ながら、運転手の阿倍野橋が声を掛けてきた。どうやら阿部野橋には夜水月の姿は見えていないらしい。
(幽霊、ね……)
 だとすれば楓も幽霊なのだろうか。それにしては普通の人間と変わらないように見えたが……。まぁ仮にそうだとしても楓の可愛らしいドジっぷりが損なわれるわけではない。それにあの太郎のそばにいるのだ。普通の人間と考える方が間違っているのかもしれない。
「なんでもないわ、阿部野橋。独り言よ。ちゃんと前見て運転してなさい」
「は」
 阿部野橋がバックミラーから視線を外したのを確認して、蘭乱は夜水月に目を戻す。
「で、その幽霊さんがワタシに何の用なの?」
 声を小さくして喋りながら、蘭乱はワインの入ったグラスを揺らしてもてあそんだ。どういう仕掛けなのかは知らないが、自分だけに見えるようにして現れたのだ。当然、何か特別な用事があるのだろう。太郎と同じく、退屈な日常を壊してくれるのなら大歓迎だ。
「真宮寺様への復讐、と言えば分かって頂けますデスか」
「手を貸せっていうわけね」
「話が早くて助かりますデス」
 言いながら夜水月は顔をスッポリと覆うほどのシルクハットに手を掛け、深々と頭を下げる。
 まったく、以前に何をしでかしたのかは知らないが、幽霊にまで恨みを買うなど実にあの男らしい。
 蘭乱は少し楽しそうに笑いながら、煙管をくゆらせた。
「悪いけど、他当たってくれるかしら」
 そして冷たい口調で言い捨てる。
「それはまたどうしてデスか? 二人で協力した方がてっとり早いデスよ」
 意外そうな声を上げて、夜水月は聞き返した。
「ワタシは自分一人であの変態を追いつめたいのよ。だから邪魔しないでちょうだい」
 そう、真宮寺太郎は自分の獲物だ。自分だけで不幸のどん底に突き落とさないと意味がない。夜水月も太郎を狙っているというのなら、味方どころか敵同士ということになる。
「でも、ボクの力はきっと役に立つデスよ」
「かもね。けど遠慮しとくわ。ワタシ一人でも何とかなりそうだってこと分かったから」
 先程、太郎が初めて負けを認めた時の顔を思い出しながら、蘭乱は上機嫌でグラスを傾けた。
「あの失態、実はボクの功績デスよ」
 得意げに笑いながら、夜水月は聞き捨てならないセリフを口にする。
「楓君のネコ耳を消したのはボクデス。落ちぶれたとはいえ元上司。外見に干渉する力くらいは残っていますデス」
 落ちぶれた? 外見に干渉? 
 気になるセリフは色々とあるが、今はまだどうでもいい。そんなことよりも、もっと重大なことを確認しなければならない。
「色ちゃんのネコ耳を消したのがアンタ? ちょっと、人がせっかく気持ちよくなってるのに、いい加減なこと言わないでくれる」
「いい加減ではないデスよ。大体あまりにタイミングがよすぎると思わなかったんデスか? 約束の時間が過ぎてから突然、真宮寺様に不利な状況が発生するなど。それに半霊体である楓君の衣装は体の一部のような物。上からの権限で抑え込まない限り、ソレがなくなるということは起こり得ないのデスよ」
 そう言えば楓のネコ耳がなくなった後、太郎が『早く出せ』と言っていた。あの時は焦って、とっさに口から出てしまったモノだとばかり思っていたが……。
「例えばボクは完全な霊体ですが、体のつくりは楓君と似たようなものデス。だからこういう風に……」
 蘭乱の見ている前で、夜水月のシルクハットが消えてなくなる。そして中にしまい込まれていた長い髪の毛が垂れたかと思うと、またすぐに現れたシルクハットが覆ってしまった。
「いかがデスか? ご納得していただけましたデスか?」
 シルクハットの位置を直しながら、夜水月は子供っぽく笑って聞いてくる。
(そういうこと……)
 おぼろげではあるが楓の正体や夜水月との関係も含めて、だんだんと事情が飲み込めてきた。
「いかがですか? お気持ちは変わられましたか?」
 変わった。確かに変わった。
「そうね」
 ――腹が立つくらいに。
 せっかくこの手で太郎を追い込んだと思っていたのに。不幸への第一歩を進ませたと思っていたのに。全てはこの夜水月とかいう幽霊が、自分への手みやげに仕組んだことだった。
「それでは、協力していただけますね」
 夜水月は確認するように言いながら、非の打ち所がない完璧な笑みを浮かべた。ソレが逆にコチラの神経を逆撫でする。
(このクロスケは……)
 いや待て。別に悲観することはない。いい考えが浮かんだ。
 コレで大丈夫。不幸にする対象が少し変わっただけだ。
「分かったわ。確かにアンタは使えそうね。それで? 具体的に何をすればいいわけ?」
「はいデス。理想を言うなら真宮寺様に直接復讐できればソレが一番いいのですが、残念ながらあの方の力は強すぎます。今度ボクの存在がバレれは抹消されるかもしれません」
 夜水月は真剣な顔付きになって、何かに怯えるように声を震わせる。昔、よほど酷い目にあわされたらしい。
「デスので間接的に復讐をするデス」
「間接的?」
「楓君デスよ。楓君は今や真宮寺様にとってなくてはならない大切な存在。その彼女を取り上げることができれば、真宮寺様は大いに悲しむはずデス。それに楓君を幽霊界に連れ戻せば、昔のポジションに戻れるかもしれないデス。取り合えずはそれでボクの気は晴れるデスよ」
「ふぅん」
 気のない返事をしながら、蘭乱は煙管をくゆらせる。
 まったく、つくづく呆れた子供だ。太郎を恐れるあまり、真っ正面から仕返しもできないとは。しかも楓を利用し、あげくに自分の手柄のことを考えているなど。コイツはどうしようもなく性根が腐っている。
「で? どうやって色ちゃんを取り上げる気?」
「はいデス。ココからがご相談なのデスが……」

★色葉楓の『あのー。私、一生懸命ガンバリますからー』★
「はわー!」
 何かにつまずき、持っていた皿がいきなり宙を舞う。フライングソーサーのように飛んだ皿はそのまま自由落下し、派手な音を立てて床に叩き付けられた。
「どうした!? 今度は何した!?」
 そしてすぐに太郎がキッチンへと光速移動してくる。
「あーうー……。たーくん、ごめんなさいですー……」
 だーっ、と滝のように涙を流しながら、楓はしゃがんで割れた皿の破片を拾い集め始めた。しかしすぐに太郎がその手を握り、破片から遠ざける。
「危ないからどいてろ。それよりケガしてないだろうな」
「はいー、私は大丈夫ですー……」 
「ならいい」
 短く言って立ち上がり、太郎はパチンと指を鳴らした。ソレに応じて、突然何もないところに暗い口が開いたかと思うと、強力な吸引力で割れた皿の破片だけを呑み込んで姿を消す。同じスペースにあるテーブルやら小型のテレビやらは一ミリたりとも動いた形跡はない。
「ふわー、たーくんスゴイですー」
 一瞬にしてキレイになった床を、力なくへたり込んだまま見つめながら、楓は感嘆の声を漏らした。
 太郎のそばにいるようになってから二年。今のような光景は何度も見ているが、そのたび驚かされる。本当にすごい。
「そんじゃ昼飯の準備は俺がしといてやっから、楓は皿買ってきてくれ。カレー用のデカイヤツはアレしかないんでな」
「はいー……。すいませんでしたー……」
 ネコビキニの上に直接着たフリル付きのエプロンを脱ぎながら、楓はヨロヨロと立ち上がる。
 これでまた余計な出費が……。太郎には迷惑を掛けてばかりだ。最近は特にその回数が多い気がする。
 一週間前に蘭乱の依頼で失敗してからというモノ、浮気調査で張り込みをすれば、なぜか依頼主の不倫現場に出くわしてドロドロの人間関係を作り上げてしまうし、五年前に突然いなくなった夫を捜して欲しいという依頼では、残留思念を探っていた太郎の隣で大きなくしゃみをしたせいで、周りにいた人の精神年齢を後退させてしまうし、とある企業からの『絶対に売れる商品を作るにはどうすればいいか!』という質問には、楓が寝ながら呟いた一言のせいで、太郎がその企業の本社をアマゾンの奥地に移転させてしまった。
 日常生活では、散歩途中に拾った犬が太郎の凶気に触れてケルベロスになってしまうし、適当に歌っていた鼻歌が鏡の中からトランプの兵士を召喚してしまうし、道ばたでたまたま拾った何かの種を庭に植えると食人植物が育ってしまうし。
 これらのミスは全て太郎のフォローのおかげでことなきを得ているが、一歩間違えれば大惨事だ。太郎にはどれだけ感謝してもし足りない。
「どうした楓? 一人じゃ心細いか?」
 ぼーっとしていた楓の顔を覗き込むようにして、太郎が声を掛けてきた。
「へ? ぁ、いいえ! か、買い物くらい、ちゃんと一人でできますからー!」
「ほーかほーか」
 これ以上、太郎に迷惑を掛けるわけにはいかない。自分の失敗は自分で何とかしないと。
「にしても。何につまづいたんだろーな」
 地肌にレインコートを羽織った女性キャラのプリントされたカッターシャツの胸ポケットからタバコを取り出し、太郎は指先に灯した炎で火を付ける。
 言われて楓も自分が転んだ辺りを見回してみるが、平坦なフローリングがあるだけで、歩くのに邪魔になりそうな物は何もない。
「何もないところでつまづくとは……お前もかなりレベルアップしたな。次はブロンドのウィッグでも用意しとくか」
「はいー?」
 感心したように何度も頷く太郎に、楓は小首をかしげて甲高い声を発する。
「ああ、いや。独り言だ。気にするな」
「はぁ……」
「じゃあ、ちゃっちゃと買い物行ってこい。カレーは俺が引き継いでおくから」
「あ、わかりましたー」
 なぜか照れくさそうに後ろ頭を掻く太郎を見ながら、楓はメイド服へと衣装を変えてキッチンを後にした。
 
 いつも行く駅前のデパートへの道をとぼとぼと歩きながら、楓はさっき太郎が見せた表情を思い出していた。
 常に自信に満ちあふれている太郎が、極々たまに見せる恥ずかしそうな顔。それは憂子や蘭乱の前では決して見せない、もう一人の太郎。
(私ってば、知らない間にまた何か変なことしてるのかしらー……)
 ファーストフードにブックストア、喫茶店やペットショップの立ち並ぶ人通りの多い歩道を、楓は銀のトレイを胸の前で抱いて俯いたまま進む。大きなリボンでまとめたポニーテールが、尻尾のように左右に揺れた。
(たーくん、怒ってても優しいからなー……)
 守護霊から降格され、初めて太郎の目の前に出てきた時にはよく頭を殴られて、無数のたんこぶを作ったりもしていたが、あの一件が解決してからというもの、太郎は本当に優しくなった。
 それでも最初のウチは失敗のたびに色々と怒られたりしていたが、その回数も徐々に減り、最近では笑ってすませてくれるようになった。

『まぁ、次ガンバレ』

 どんなミスをしても、その一言で片付けてくれる。
 怒られずにすむのは嬉しいし、優しくなった太郎を見ているとますます好きになってしまうし、太郎に迷惑かけないようにガンバろうと思うのだが――たまに不安になることもある。
 ひょっとしてあまりに迷惑をかけすぎて、見放されてしまったのではないか。
 失敗した後の太郎の笑顔を見るたびに、そんな思いにかられる。
(違う違う。たーくんは絶対そんなことしないモン)
 楓は自分にそう言い聞かせ、邪念を払うように頭を軽く左右にふった。
(早くかーえろ)
 さっさと買い物をすませて太郎のところに戻ろう。そしてカレーを食べながら、いっぱいお話しよう。そうしたら幸せな気分になれる。変なこともすぐに忘れられる。
 そうやって気持ちに区切りをつけ、楓が顔を上げた時、歩道に面した大通りを黒いリムジンが走ってくるのが見えた。縦長で重厚な造りの車は楓のすぐそばに止まると、後ろの窓を開ける。
「ハァーイ」
 窓から顔を出し、ガードレールを挟んでハスキーな声を掛けてきたのは、よく知った女性だった。
「小鳥遊さんー」
「もー、蘭ちゃんでいいって言ってるのに」
 ファー付きの高そうな扇で口元を隠しながら、蘭乱は目元を緩ませて言う。
「どこかお出かけ?」
「はいー、ちょっと駅前のデパートまでー」
「あら、ちょうどよかった。ワタシも今から行こうと思ってたところなのよ。乗ってかない?」
 言いながら車の後部ドアを開け、蘭乱は扇を優雅に揺らしながら楓を誘った。
「え? でもー、今、アッチに行こうとしてたんじゃないんですかー?」
 小首をかしげて楓は自分の後ろを指さす。
 蘭乱の乗った車は前からコチラに向かってきた。駅の方向とは逆だ。
「ああ、細かいことは気にしないで。コッチの方に抜け道があるのよ」
「そうなんですかー」
 楓は少し考えるが、すぐにそうなのかもしれないと納得すると、軽く頷いて見せた。
「さ、乗って」
「でもー、申し訳ないですよー」
「あらあら、色ちゃんとワタシの間で遠慮なんていらないわ」
「でもー……」
 確かに遠慮、というのも理由の一つだが、太郎から蘭乱には気を付けるようにとキツク言われている。あまり詳しいことは聞かされていないが、

『ヤバくなったら、鼻、目、みぞおちの順でたたき込め』

 とだけ言付けされていた。
(こんなに上品なお得意さまなのにー)
 たまに鼻血を噴出する病気を持っているようだが、ソレに目を瞑れば蘭乱は普通の人だ。どうして太郎がそこまで警戒するのかは分からないが、きっと何か深い考えがあるのだろう。頭の悪い自分では理解できない何かが。
「やっぱり私ー……」
「帰るのがあんまり遅いと、真宮寺に役立たずって思われちゃうかもね」
 目を細め、扇ごしに発した蘭乱の言葉に楓は得体の知れない寒気を覚えた。
 ――役立たず。
 もし、こんな簡単な買い物なんかで時間をくってしまったら。もし、帰る途中で皿を割ってしまったら。もし、太郎の負担を不必要に増やしてしまったら。
「色ちゃんの買い物が終わったら、ワタシが責任持ってお家まで送ってあげるわ」
 できない。そんなミスは許さない。
 太郎はまた笑って許してくれるかもしれないが、何か――イヤだ。心の中にまたモヤモヤとした塊が増える。ソレは、イヤだ。
「さ、乗って」
「は、い……」
 楓はまるで蘭乱の言葉に吸い寄せられるようにして、リムジンへと乗り込んだ。

 リムジンに揺られながら、楓は下を向いて心の中のモヤモヤを探っていた。
 何だろう。不安とも、焦りとも、恐怖ともつかない、捕らえどころのないイヤな気持ち。
 太郎のことを考えると、失敗しないようにと思うと、ソレがドンドン大きくなってくる。
「色ちゃん、何か飲む?」
 グラスを差し出してくる蘭乱に、楓は首だけ横に振って返した。
「どーしたの、なんかヘコんじゃって。色ちゃんらしくもない」
 サイドテーブルの横に内蔵された引き出しからワインの瓶を取り出して、蘭乱は聞いてくる。
「いや、そのー、ちょっと色々と考え事をー……」
「ふぅん」
 ワインオープナーでコルク栓を抜き、中身をグラスへと注ぎながら蘭乱は気のない声を出した。
「真宮寺のことね」
「え? あ、はいー。まぁ……」
 ズバリ言い当てられ、一瞬ドキッとするが、自分が考えることと言えば殆どが太郎についてだとすぐに思い当たる。
「仕事、上手くいってないの?」
「まぁ、そのー……」
 蘭乱はグラスを傾け、一口含んで続けた。
「そう言えば色ちゃん、最近失敗続きだもんねー」
 その言葉に楓は驚いて顔を上げ、蘭乱の方を見る。
「あらあら、図星だったの? テキトーに言ってみただけなんだけど」
 意地悪く笑って返す蘭乱に、楓はほっぺたを膨らませて拗ねたような顔をした。
「色ちゃんのそーゆートコ、ホントに可愛いわー。食べちゃいたいくらい」
(は、鼻、目、みぞおち……!)
 とっさに身構えた楓に、蘭乱はコチラに伸ばした手を残念そうに引く。
「ねぇ色ちゃん。今、真宮寺に必要とされてないんじゃないかって、そう思ってたでしょ」
「ふぇ!?」
 唐突に核心を突かれ、楓は素っ頓狂な声を上げた。
「まぁ、確かにねー。真宮寺はイヤなヤツだけど、一人で何でもできちゃうからねー」
「た、小鳥遊さんもそう思われますかー……?」
 涙声で言いながら、楓は大きく溜息をついて俯く。
 そんなことは最初から分かっていた。太郎の役に立とう立とうという気持ちだけが先走りして、いつでもやることは空回り。それどころか何回も失敗して太郎の足を引っ張っている。
 自分が手を出さない方が、どんなことでも間違いなく楽に運ぶのに。なのに太郎はいつも一緒にやろうとする。それは期待されているからだと思っていた。ねばり強く続けていれば、いつか自分も太郎の右腕になれる時が来ると思っていた。
 ――太郎の期待に応えなければならない。
 そう心に決めて一生懸命やってきた。しかし強い思いとは裏腹に、やることなすこと全てが失敗へと向かっていく。そしてドンドン太郎の負担だけが増えていく。
 でも、太郎はいつも笑ってばかり。

『まぁ、次ガンバレ』

 ソレだけ言って許してくれる。そしてまた失敗する。けど許してくれる。さらに失敗する。でも許してくれる。
 ずっとソレの繰り返し。 
 まるで、もう自分には成長を期待していないかのように。
「そう言えば、さ。色ちゃんって元先生だったんでしょ?」
「はぇ!?」
 限られた人しか知らないはずの話題へといきなり変えられ、楓は間抜けな声を上げた。
 楓は太郎や憂子の通っていた小学校の教師。しかしソレは十年以上も前の話で、その時に守護霊となった自分の年齢はあの日から止まっている。だから例え楓の過去を知っていたとしても、今の楓とあの時の楓が同一人物で元教師などということは、普通の人は考えたりはしないはずだ。
「真宮寺に聞いたのよ。色ちゃんが“大学の”先生だったって。キャンパス・ラブっていうヤツ? 若いっていいわねー」
 ああ、なんだ。そういうことか。
 蘭乱の言葉に楓はホッと胸をなで下ろす。太郎が教えたのなら別に問題ない。しかもちゃんと不自然ではない形で伝えてくれている。
 てっきり、変なところから自分の情報が漏れたのかと思ってしまった。例えば、守護霊をやっていた時の上司とか……。
「先生だった時と今と、どっちが楽しい?」
「そ、そりゃー、今に決まってますよー。たーくんと一緒にいる方がずっと楽しいですー」
「それはよかったわ。色ちゃんが幸せな方が、ワタシも幸せだもの」
 言いながら蘭乱は煙管をくゆらせる。
 太郎と一緒にいるのは楽しい。それは間違いない。教師をやっていた時よりも、守護霊をやっていた時よりもずっと満たされている。
 けど、あの頃には考えもしなかったことで悩んでいるのも事実だ。
 あの頃は失敗など恐くはなかった。失敗しても失敗しても、それでもひたすらガンバって行けた。だが、今はちょっとしたミスが恐い。太郎のお荷物になってしまうかと思うと、またモヤモヤとしたイヤな気持ちが広がっていく。
「でも、人って適正ってのがあるのよねー。いくら楽しくても、それだけじゃ仕事はできないわよね。今の仕事と昔の仕事、色ちゃんはどっちが自分に向いてると思う?」
 グラスを揺らしながら蘭乱は艶笑を浮かべて聞いてくる。
「どっちが、ですかー……」
 人差し指をあご先にあて、楓は視線を上げて考えを巡らせた。
 今の方が楽しいことは間違いない。しかし、本当に探偵業が自分に合っているかと言われると……。
「昔の仕事、もう一回やってみたいとか思わない? このまま真宮寺のトコにいて、変な失敗続けるよりも」
「……それは、全然ちっとも思わないですよー」
 少しずつ小声になりながら楓はか細い声で返した。
 昔の仕事。それは小学校の教師、そして太郎の守護霊。
 太郎とは一緒にいたい。この体のまま一緒にいたい。その気持ちに間違いはない。しかし、その思いが太郎の負担になってしまっているのなら……。
「色ちゃんが、もし仮に真宮寺に必要とされていないとすれば、どうすればいいと思う?」
 必要とされていない?
 自分は太郎に必要とされていない?
 なら、どうすればいい。どうすれば――
「ガンバリます。一生懸命ガンバリますっ」
 殆ど考えることなく、楓は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
 そう、昔も今も変わらない。それだけが自分の取り柄。とにかくひたすらガンバリ続けること。諦めずに、なんでも前向きに取り込んでいくこと。
 でも何をガンバればいい。どうガンバればいい。太郎が自分を必要としてくれるには何をすれば。
 今の自分に足りていない物を身に付けるしかない。今の自分は持っていなくて、太郎の役に立つ物。太郎が喜んでくれそうな物。
「あ……」
 脳裏に蘇る、ついさっきの光景。

『何もないところでつまづくとは……お前もかなりレベルアップしたな。次はブロンドのウィッグでも用意しとくか』

 自分の失敗に対する、よく分からない太郎のコメント。

『ああ、いや。独り言だ。気にするな』

 そして照れた表情。
「そっかー!」
 楓は何か閃いたように勢いよく立ち上がり、そして鈍い音を立ててリムジンの天井に頭をぶつけた。
「だ、大丈夫? 色ちゃん……」
「たたた……だ、ダイジョブです」
 頭を押さえてうずくまる楓を、蘭乱はグラスを置いて心配そうに覗き込む。
「そ、それより止めてくださいー! 私、今すぐに行かなきゃならないトコがあるんですー!」
「阿部野橋!」
 鞭声のように鋭く飛んだ蘭乱の声で、リムジンがその場で急停止した。直後、いくつものクラクションの音と共に軽い衝撃が伝わってくる。
「あ、あのー! 小鳥遊さんどうもありがとうございましたー! このご恩は絶対に忘れませんからー!」
「いいのよー、いつか体で返してくれれば」
 つーっ、と片方の鼻の穴から血を流し始めた蘭乱に頭を下げ、楓はリムジンを飛びだした。

★小鳥遊蘭乱の『ちょっとは面白くなってきたようね』★
「惜しかったデスね」
 楓がリムジンから出ていった直後、すぐ隣の空間が暗くなったかと思うと、ソレは人型を取って安定した。
「阿部野橋、出しなさい」
「は」
 夜水月の声に答えることなく、蘭乱は車を走らせるように言う。後ろに車が何台か突っ込んだようだが、戦車並の強度を誇るこのリムジンはビクともしない。
「貴女様はなかなか口が達者でいらっしゃいますデスね。正直、感服いたしましたデス」
「それはどうも」
 不機嫌そうに言って、蘭乱は煙管から吸い込んだ煙を夜水月の顔に吹きかけた。
「えほっえほっ。し、しかし、あともう一押しと言ったところデスね。楓君は今、真宮寺様に必要とされていないのではないかという疑心暗鬼でいっぱいになって焦っているはずデス。このまま失敗を続ければ、きっと守護霊の方がましと思ってくれるデスよ」
(あの子がいつまでもそんなイジイジしてるはずないでしょ)
 蔑んだ視線を夜水月の方に送りながら、蘭乱は黒いセミロングの髪を艶やかに梳く。
 夜水月が太郎に復讐するため画策したのは、楓を太郎から引き離し、幽霊界に連れ戻すこと。
 そのための手段としてまず、夜水月が楓の周りに小細工を仕掛けて人為的に失敗を誘発させる。そして楓が落ち込んでいるところに蘭乱が現れ、心の傷をさらに深く抉ることで、自分は太郎にとってお荷物にしかなっていないと思い込ませる。
 楓は太郎を思うがゆえに太郎の元から離れ、守護霊として見守り続ける。そして楓という大切な者を失った太郎は消沈する。
 夜水月は裏方に徹しているから太郎にその存在がバレることはない。太郎からの仕返しを恐れることなく、自分の復讐だけを成し遂げられる。
 コレが夜水月の描いたシナリオだ。
 実に姑息で、実にチンケな。
「さぁーて、もうひとガンバリするデスよ」
 それだけ言い残すと、夜水月は空気に溶け込むようにして姿を消した。楓の後を追ったのだろう。
「ガンバルのはアンタじゃなく、色ちゃんよ」
 誰に言うでもなく独り言のように呟き、蘭乱は胸のシルバー・クロスをいじりながらぼんやりと窓の外を見た。さっき元気良く飛び出して行った楓の背中が、まだうっすらと視界の隅に残っている。
(ホント、いい子ね……。真宮寺なんかにはもったいない……)
 何を思いついたのかは知らないが、夜水月が期待しているようなモノではないことだけは確かだ。さっきのあの顔は焦って自暴自棄になったのではなく、明るい活路を見出した時の表情だった。
 自分の知っている楓は、真面目で、根が明るくて、可愛らしくて、そして天然で。
 とにかく後ろ向きな考えはめったにしない子だ。
 太郎も楓のそんなところに惹かれているはず。見ているだけで心を和ませ、癒してくれる天然のドジっぷりに。普通の人がやれば狙いすぎと思われ、かえって反感を買いそうなるドジも、楓がやると自然に見えるから不思議だ。まるでそのドジが、楓のために生み出されたかのように。
 さっきリムジンの天井に頭をぶつけた時のことなど、思い返しただけでまた鼻血が出てきそうになる。
(でもあの様子だと、もうちょっとだけイジワルしてあげた方がいいかしら?)
 夜水月の言葉を借りるわけではないが、あともう一押しだ。もう一押しで楓は自分に足りない部分を知り、ポジションを明確することができる。
(ど・ん・な・イ・ジ・ワ・ル・にしよーかしらー) 
「うふふふふふふふー……」
 顔の下半分を紅く染め上げながら、蘭乱の妄想は加速していった。





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