ちょっとだけ成仏、してくれますか?

 心霊写真としては駄作。
 合成写真としては傑作。
 ソレが初めてデジカメで取った写真の評価だった。
「ほぅ……」
 自室。
 長年使い込んでクッションの弱くなったソファーベッドに腰掛け、俺は取りあえずタバコに火を付けた。紫煙をくゆらせながら、改めてデジカメのディスプレイを見つめ直す。
 そこに映し出されているのは、白い壁に貼られたポスター。B0サイズの巨大なアート紙に描かれているのは、セーラー服に身を包み、ネコ耳とネコ尻尾をはやした巨眼、微乳の女の子。
 そのすぐ隣りには燃えるような紅い髪のクールガイ。彫りが深く、小さめの顔立ちはどこか異国的で、不敵な笑みを浮かべながら鋭い眼光を飛ばしていた。着ているTシャツには、スク水姿の女の子が照れたような表情でプリントされている。
 自分で自分を写すのは難しいかと思ったが、なかなか良い出来だ。 
 そう。ココまでは良い。ココまでは完璧だ。お気に入りのアニメキャラとツーショット。
 写真の上半分だけは。
 問題は写真の下。丁度、俺の腰辺りに被って写っているのは、白いブラウスと水色のフレアスカートを着た女性。うつぶせの体勢で宙に浮かびながら、ポニーテールに纏めた長い黒髪と両の手足をダラリと下げている。さしずめ空中遊泳する水死体、と言った感じだ。
「ううむ」
 低く唸り声を上げて、俺は今足下に転がっている女に視線を移す。うつぶせでノビているところまでは写真と全く同じだ。脳天に無数のコブがある点だけが唯一違うのだが……。
 まぁ、いきなり何の前触れもなく目の前にこんなモンが現れたら誰だって手が出てしまうだろう。
「うぅ……」
 か細い声を上げて、女の体が僅かに動いた。
 俺はデジカメをベッドの上に放り投げ、タバコをもみ消していつでも迎撃できるように拳を構える。
「うー頭がガンガンするー……どうしてかしらー……?」
 スローテンポな喋りで言いながら、女はゆっくりと体を起こした。顔を隠していた長い髪がこぼれ落ちて、容貌が露わになっていく。
「よーし、そのままストップだ。変な動きはするなよ」
 タダでさえ低い声を更に低くして、俺は女に声を掛けた。
「あら、あらー? ひょっとして私の姿、見えて、るー……?」
 四つん這いの体勢で顔だけをぎこちなくコチラに向けながら、女は引きつった笑みを浮かべる。
 二重で輪郭のハッキリした目。瞳を伏せれば影が落ちそうなほど長い睫毛。ほんのりと薄紅に染まった健康そうな頬と、厚めの唇。かなりハイレベルな大人の女性であることは間違いない。
 俺は全く興味ないが。
「いい年して電波全開の言動は賞賛に値するが、狙い過ぎは反感を買うだけだ。そういうのは二次元の世界だけにしてくれ」
「え、えーっとぉ……」
「おっと、勝手に喋ることは許可しない。それ以上動くことも許可しない。『この格好ってちょっとエッチかも』とかピンクの妄想を描くのもダメだ。生まれたての仔馬のモノマネして、場を和まそうとするのは逆効果。まばたきもせずに俺の質問にだけに答えろ。いいな」
 力を込めた人差し指の先を女に向けながら、俺は有無を言わせず一方的に指示した。
「返事は?」
 女は答えない。
「返事は?」
 もう一度聞く。
「わ、分かり……」
「誰が喋って良いと言った!」
 理不尽な罵倒に女は少し泣き出しそうになる。
 フ……恐怖は人の心を支配する上で、最も効果的で即効性がある。何より安上がりだ。
 俺の声でこれだけ恫喝されれば、大抵の人間は素直になってくれる。選ばれた者にのみ行使の許される特別権限というヤツだな。
「一つ目の質問だ。お前は誰だ」
「た、太郎君の守護霊ですぅー……」
 女の頭が鈍い音を立てて床にめり込んだ。
 おおっと、いかんいかん。つい反射的に。しかしコイツはあの短いフレーズの中で、ふざけたことを二回も言いやがった。自業自得だ。
「い、痛いですぅー……」
「百個が百一個になったところで大差ない」
 どつかれた頭をさすりながら、女は自分の頭の状態を知って大声を上げた。
「ああ! こんなにもたんこぶが! いつの間に!」
「質問二!」
 涙目になり、何か訴えかけるような視線を向けてくる女を、怒声で一喝する。そんな顔をしても、お前が三次元である以上俺様の鋼鉄の意志は微塵も動かない。
「なんで俺の名前を知ってる」
「ですから、私は太郎君の……」
 百二個目が追加された。
「お前が俺の守護霊だとか自縛霊だとか物の怪だとか出来損ないの透明人間だとか役に立たないボウフラだとか、五万歩譲って信じてやってもいい。そんなことは所詮些細なことだ。けどな、俺を下の名前で呼ぶのだけは止めろ。いいな」
「わ、分かりましたー……」
 反論を許さない俺の強い命令に、女は渋々と言った様子で頷く。
 真宮寺(しんぐうじ)という名字で呼ばれるのは良い。全く持って問題ない。だが太郎という名前はダメだ。『た』と『ろ』と『う』を会話中に繋げるのもダメだ。『だからそう言ったろーが!』なんて俺の前で言いやがったヤツは、自分の記憶違いを泣いて謝るまでドツキ回してやった経験がある。勿論、俺の記憶違いであったとしても、だ。
 まったく……こんなシンプルで分かり易すぎる名前を付けやがった親を何度恨んだことか。
 なのにコイツは、人のトラウマに剣山で上がり込むような真似しやがって。
「で、自称俺の守護霊とやら。目的は何だ。金か? 命か? 言っとくがレアモノの同人誌は死んでも渡さんぞ」
 不愉快な気分が、深く考えることを放棄させていく。タバコに火を付けながら、俺は投げやりな口調で言った。
 コイツが誰か、どうして俺の名前を知っているのか、もーンなこたどーだっていい。適当に話し合わせて、とっとと追い出そう。で、アニメDVDでも見て二次元の世界にドップリ浸ろう。今の気分を癒すにはコレしかない。
「自称じゃないですー。五年前に異動になって、た……真宮寺君の担当になった守護霊課の幽霊公務員ですー」
 本当にどこまでも毒電波まき散らすヤツだな。あれだけ優秀なステルス迷彩と無重力発生装置作れるくらいだから、線の一本や二本切れてても不思議はないが……。
 とにかく、この手の危ない妄想女は真面目に相手するだけ時間の無駄だ。
「はいはい。じゃあコレまで通り消えて遠くから見守ってて下さいよ。二度と俺の前に現れんじゃねーぞ」
 警察に突き出してやってもいいが、逆恨みされたら面倒だしな。それに責任能力がないといかいう訳の分からん理由で、大した罪にもならなそーだし。
 俺は肺の奥まで吸い込んだ紫煙を、溜息と共にゆっくり吐き出した。
「ソレが無理なんですー。どーも私、幽霊から人間に降格されたみたいでー……」
 人間に降格? 何言ってんだ。
 まぁ取りあえずコイツが、頭の可愛そうな寂しがり屋だということは分かった。言いたいこと言わせた方が早く消えるかもしれん。急がば回り込んで刺せ、というヤツだ。
「私、ドジばっかりで……。聞いてくださいよー。せっかく人が一生懸命ガンバって、妄想好きな女の子とバンダナマニアな男の子をくっつけようとしてたのに、横から急に一時帰還霊が割って入ってきて……その子に全部良いトコ持って行かれちゃって……。ソレが原因で真宮寺君の所に左遷……ああいや、異動になってしまって。うぅぅ……」
 妄想好きな女とバンダナマニアな男? また濃い組み合わせだな。見てみたい気はするが。
「お前、守護霊ってヤツなんだろ? なんでそんなことで降格になるんだよ」
「あ、それはですねー。私が守護霊課と恋愛霊課を兼務してるからなんですよー。今の幽霊界って団塊の世代の人がみんないなくなっちゃって、すんごく幽霊不足なんですよー。なんで私にも沢山仕事が回って来ちゃって……、貧乏霊課とか天然不幸霊課からもオファーが……」
 なんか話がどんどん訳の分からん方向に飛んでるな。
 何もこんなに凝ったエピソード用意してこなくても良いのに。
「ソレで私! 真宮寺君の所でどーしても功績上げないとダメなんですよ! だからお願いします! 協力して下さい!」
「イヤだ」
 とりつく島もなくはねつけた俺に女は一瞬硬直した後、半べそかいてすがりついてくる。
「そんなぁ〜……お願いしますよぉ〜……」
「これだけ話聞いてやったんだ。十分だろ。さっさと出て行けよ。これ以上はマジで警察呼ぶぞ」
 いつまでも電波な女と話している程ヒマじゃない。そろそろ会話にトドメを刺そう。
「真宮寺君……ひょっとして、まだ私のこと信じてませんねー?」
 あたりめーだろ。
「仕方ないなぁー。じゃあとっておき」
 指を立ててなぜか嬉しそうに言いながら、女はスカートのポケットから手の平サイズの小さな手帳を取り出した。そして中身を読み上げる。
「貴方はこれから二分後に、部屋に現れたゴキブリをシャーペンの芯で串刺しにします……って、コレ本当なんですか?」
 何で俺に聞くんだよ。
「その手帳は?」
「あ、これは『過去未来手帳』って言って、守護霊課に配属された時支給された物ですー。守護対象者の将来が分かるんですよー、便利でしょー。この内容見て、どうやって守るか決めるんですよー。まぁ、せいぜい一時間くらい先までしか分からないんですけどねー」
 『過去未来手帳』? なんだそのダサいネーミングセンスは。こんな小道具まで用意しやがって。泥棒以外になんか別に目的があんのか?
「お前さー……」
 何か言おうとした俺の視界の隅で黒い物体が蠢く。ソレが命より大切な巨大ポスターに歩み寄るのを見た時、考えるよりも早く体が動いていた。ここからターゲットまで最速で飛来できる物質を視界が捕らえる。
 目の前のガラステーブルに散乱していたシャー芯を一本つまみ上げ、指先に全神経を集中させた。極限まで空気抵抗を減らす為、ターゲットに対して完璧に垂直な角度でシャー芯を打ち出す。音を立てることなく壁に吸い込まれた黒い槍は、そのままターゲットの墓石となって固定化された。
「ったく、油断も隙も……」
 思わずハッとする。
 言い当てた。この女、俺の行動を言い当てやがった。
「ちょっとその手帳見せろ!」
 口を半開きにして、呆然としている女から手帳を奪い取るのは簡単だった。

『この手帳を真宮寺太郎に奪われる』

 次のページにでかでかと書かれていた。
 コイツ……まさか本当に。
 更にページを捲る。

『フィギュア模型にデジカメが落下する』

「――な!」
 慌ててさっきデジカメを置いたベッドの上に視線を突き刺した。ベッドの端という不安定な足場に放り投げられたデジカメは、その真下にあるバニーフィギュアに狙いを定めている。
「麗子おおぉぉぉぉぉ!」
 雄叫びを上げながらヘッドスライディングの要領でフィギュアに飛び込み、彼女の頭上を手で庇った。直後に堅い衝撃が手の甲に伝わる。間一髪で危機を脱した麗子像を、俺は心の底から労りながら優しく包み込んだ。そして危険のないスチールラックに戻し、上からクリアケースを被せる。
 昨日の夜、麗子の夢を見れますようにと願を掛けて枕元に置いたことが裏目に出るとは……不覚。
「す、すごーい、真宮寺君……。恐いくらいの運動神経ですねー……」
 感心したような、呆れたような声で女は呟いた。手にはさっきの過去未来手帳。どうやら麗子を助けた時に投げ出してしまったらしい。もっとよく調べたかったが、あの手帳が未来を予知している可能性は極めて高いようだ。
 デジカメはたまたまベッドに放り投げただけだ。麗子がベッドの下にいることはともかく、そこにデジカメが落下することを下調べで予測できたとは考えにくい。
 オカルトと電波の融合体、か……。コイツただ者じゃない。守護霊を現代風に解釈すれば、すなわちストーカー。だとすればコレは由々しき事態だ。俺様の順風満帆な二次元ワールドに支障をきたす恐れがある。余計な不安因子は速やかに排除せねば。
 そのためにはまず敵を知らなければならない。
「もう少し、詳しい話を聞こうか」


 ――人はあまりに笑撃的な事実を突きつけられると殺意を覚える by 真宮寺太郎

「じゃあ何か? 俺はお前のステップアップの踏み台にされてる訳か?」
 ベッドの端に腰掛け、タバコをくゆらせながら俺は苛立ちを隠すことなく低い声で聞いた。
「ま、平たく言えばそうですねー」
 色葉 楓(いろは かえで)と名乗った目の前の脳天気女は、ポテチを頬張りながら緊張感のない様子で部屋を漂っている。どうやら空気を読むという言葉とは無縁のようだ。空気に浮かぶことは出来るようだが。
「今すぐ俺の目の前から消えろ。さあ消えろ、パッと消えろ。今ならまだクーリングオフがきくはずだ」
「ですからー、さっきも言いましたようにー、私は真宮寺君の守護霊なので基本的に離れられないんですー」
 正確には半径十メートル以内。ソレはさっき実験した。
 百メートルを四秒台で走れる俺だが、どれだけ逃げ回ってもコイツは何事もなかったかのように物陰から出てきやがる。俺との距離が一定以上開くと、不自然にならない形で現れる仕組みになっているらしい。その距離が大体十メートルだ。
 シュレディンガーの猫をマタタビ風呂に突き落とすような現象により、俺は取りあえず『守護霊』とかいう異界生物の存在を、鼻毛の先ほどは信じざるを得なくなった。
「クソッ……」
 どうすればいい。どうすればこの異常事態を回避できる。大学生活最後の夏休みを、こんな不幸に見初められたような女と過ごすのだけは嫌だ。二次元から派生した擬似三次元体のフィギュアならともかく、自称守護霊のリアル三次元体なんぞ痛すぎる!
「真宮寺君ー、ですから素直に恋愛しましょ? ねー?」
「断る」
 俺の表情から考えていることを読みとったのか、色葉は悩みのなさそうな晴れやかな顔で再提案してきた。
 色葉が俺の目の前から消える方法。ソレは大きく分けて二つ。
 一つは俺が甚大に持っているらしい運気を吸い取り、守護霊として格を上げることで幽霊に昇格すること。そしてもう一つが俺の恋愛を成就させ、恋愛霊としての株を上げることで幽霊に昇格すること。
 二つ目は論外。俺はこの先ずっと誰かに頼るつもりはない。一生一人で暮らしていく。それはもうガキの頃に決めたことだ。
 で、一つ目の提案。最初、この女が目の前から消えてくれるならばある程度は仕方ないと思っていた。俺を守護するために、俺の運気を使うというのであれば辛うじて納得できる。
 だが、コイツの仕事っぷりを聞いて考えが変わった。
 コイツは俺に憑いてから五年間。昼寝しかしてねーとかぬかしやがった。そんなモン降格させられて当然だ。しかも寝相が悪くて何度か迷惑を掛けたことがある? 
 じゃあ何か? 俺が頭の寂しい化学の教師のテストで『ハロゲン』を『ハゲロン』って書き間違えたのも、百メートル走で脚に加速装置埋め込んでたことがバレたのも全部コイツのせいって訳か?
 この調子だと守護霊に戻られても、ろくなことにならないのは目に見えている。
 両方とも却下だ。
「色葉、ホントにそれ以外に方法はないんだな」
「はいー、恋愛する気になってくれましたー? きっと幸せにしてあげますよー」
 なら、しょうがない、な……。
「真宮寺君?」
 立ち上がり、レザー製のジャケットを着た俺に色葉が不思議そうに小首を傾げる。
「色葉、今から俺は幸せになりに行く」
「恋愛するんですねー」
「お前を不幸にするからだ」
 “他人の不幸こそ我が幸せ”
 ソレが俺の座右の銘。
 色葉は言われたことがよく分からないのか、相変わらずとぼけた顔でポテチを頬張り続けていた。

 神社の境内へと続く長い石階段。両脇の雑木林から聞こえる蝉の声が、暑さを増幅させる。太陽に灼かれた石畳から立ち上る陽炎が、更に拍車を掛けた。
「どこ行くんですかー?」
 汗一つかくことなく、色葉は俺の後ろを付いて……憑いてくる。外で飛ぶのだけは止めろと言ってあるのでコイツも歩きだ。靴は母親が残した紅のパンプスをくれてやった。
「お祓い場」
「えー、守護霊祓っちゃうんですかー? 不幸になりますよー?」
 お前が言うな、不幸の塊。
 胸中でツッコミを入れたところで俺は階段を登り終えた。きつい陽光を受けて白く染め上げられた砂の上を、ひび割れた石畳が社まで長く続いている。
 門番の如く屹立している灯籠の間を通り抜け、俺は目的の人物を見つけた。祭りの時か年の始め以外、特に用のないこの場所にはソイツしかいない。
 可哀想なくらい身長の低い少女が、巫女服姿で境内を掃除していた。俺に背を向けて、せっせと竹箒を動かしている。このクソ暑い日に感心なことだ。
 俺は物音一つ立てることなく、流れるような足運びで彼女の背後に近づいた。
「よぉ、憂子。今日も相変わらずちっさいな」
 俺の声に彼女はビクッ、と小さく体を震わせて振り向く。そして座敷ワラシのような剣幕で、竹箒を振り上げた。
「気配を絶ってアタシの後ろに立つな!」
 言われて仕方なく俺は三角座りを決め込み、彼女を見上げる。
「これでどうだ?」
「余計おかしいわ!」
 やれやれ、我が儘なことだ。まだまだ子供だな。
 デニム製のジーンズについた砂埃を払い落としながら立ち上がり、俺は嘆息した。
「珍しくアンタの方から顔見せたかと思ったら人をバカにして。で、何か用?」
 頬をぷくっと膨らまして子供っぽい仕草でふてくされながら、天深(あまみ) 憂子は腕組みしてコチラを見上げる。身長百八十ある俺とは三十センチ以上も落差があるため、自然と優越感に浸れるところがグッドだ。
 体や仕草だけではなく顔の輪郭も丸くて童顔なので、ぱっと見小学生だが、実は俺より二つも年上だったりする。今年で二十四になる女の髪型がオカッパというのは社会的にどうかと思うが、まるで違和感がないのでここは華麗にスルーだ。二次元世界でもこういう女は、意外と萌えキャラとして支持率は高いしな。
 ゆくゆくはココの神主になる跡取り娘らしいが、賽銭だけで食っていくような仙人みたいな退屈な生活をよく受け入れたもんだ。
「うむ、実はお前に折り入って頼みたいことがあってな」
「ふぅん、アンタが頼み事なんて意外ね。いつも一人で何でも出来るって言い張ってるのに」
 面白そうに眉を上げ、憂子は竹箒を近くの灯籠に立てかける。
 確かに俺が誰かを頼るなど滅多にない。コイツともガキの頃からの近所付き合いが無ければ、頼ろうなどとは思わなかっただろう。
「大抵のことは出来る。だがお前にしかできんこともある」
「へぇ、何?」
「例えば、紺のブレザーにミニスカート、黒のハイソックスを履いて僅かに覗く白いフトモモ――絶対領域を強調しながら口元に手を持っていき、上目遣いで恥じらいながら『センパイ……』と儚げに呟いた挙げ句に、憂いを含んだ視線で流し目を送りつつ、けなげな仕草で立ち去りながら何もないところで転んでみせること、とか」
「死んでもやらないわよ」
「心配するな。俺は二次元にしか興味ない」
「……どっちしても問題発言なことに変わりないわ」
 半眼になって言いながら憂子は竹箒を取り、社の方に向かった。
 話が長くなるなら日陰で、ということだろう。
「で、頼みたいことって何?」
 気温が高くても湿度が低いせいか、賽銭箱の前に出来た影の中はそれなりに快適だった。
「うむ、実はな。お前にちょっとお祓いをして貰いたいんだ」
「お祓い?」
 怪訝そうに眉をひそめて返す憂子に、俺はさっきまでのことを手短に説明した。
「守護霊と恋愛霊の兼務? それって、ひょっとしてあの人のこと?」
 憂子が指さした先には、鳩にポテチを配って喜んでいる色葉がいた。これから痛い目を見るというのにお気楽なことだ。
「どう思う。アイツはやっぱり霊なのか?」
 どうやっても半径十メート以内に現れること。空中浮遊できること。過去未来手帳を持っていること。人間でない可能性は極めて高いが……。
「そうね。人とは波長がちょっと違うみたい。彼女が守護霊って言ってるんなら多分その通りだと思うわ。まぁ、アンタ程はおかしくないけど」
 憂子が言うには俺の波長は七色らしい。黒っぽい赤、黒っぽい橙、黒っぽい黄、黒っぽい緑、黒っぽい青、黒っぽい藍、黒っぽい紫の七色。それがどんな意味を持つのかはよく知らんが。
「そうか、じゃあ綺麗サッパリ祓ってくれ」
「別にやってあげなくはないけど……結構痛いわよ?」
「アイツが、だろ? 俺は痛くないから全くもって問題ないぞ」
「アンタも痛いのよ」
 な、なぬ?
「当たり前でしょ。霊的にくっついてるのを無理矢理引き剥がすんだから。痛みは両方に行くわ」
 それは予定外だ。
「……ちなみに、どのくらい痛いんだ?」
「そうね、深爪した小指をタンスの角にぶつけた後、偶然父親のエロ本見つけてしまった時くらいかしら」
 そ、それは色んな意味で痛そうだ。
 だが背に腹は代えられん。痛みと言っても所詮一時的な物。俺の明るい未来のために耐えるしかない。
「いいのね?」
「ああ。ひと思いにやってくれ」
 覚悟は、出来た。深爪したことも、小指をタンスの角にぶつけたことも、オヤジのエロ本を見つけたこともある。まさかソレが合わせ技で来るとは思っていなかったが。
 俺はこの決意が揺るがない内にと、色葉を呼んだ。ぽやぽやと脳天気オーラをまき散らせながら、ナメクジのような足取りで近寄ってくる。
「なんでしょー」
「これからお前を祓う」
「あらあらー」
 分かってんのかコイツ。
「初めまして。この神社で巫女をやっている天深憂子です」
 憂子は巫女服の乱れを正し、畏まった様子で頭を垂れる。さっきまでのふざけた気配は微塵もなく、どこか思い詰めた表情で色葉を観察していた。
 さては久しぶりのお祓いで緊張してるな。それはいかん。リラックスさせねば。
「捕捉すると、言うに事欠いて(憂に子と書いて)『憂子』だ。漢字は『憂鬱な面子(めんつ)』から『鬱な面(つら)』を除けばいい。なかなか前向きな覚え方だろ」
「太郎、死にたいの?」
 竹箒の持ち手がいつの間にか俺の顎先に突きつけられていた。
 さすがだ。低い身長を最大限に活かして、見事に俺の死角から不意を突いている。
「人がせっかく集中してるってのに、二度と下らないこと言うんじゃないわよ」
「オーケー、俺が悪かった」
 人差し指と中指で竹箒をずらし、火線上から慎重に顔を外した。
「真宮寺君、下の名前で呼ばれても怒らないんですかー?」
 色葉に指摘されて初めて、憂子が俺を『太郎』と呼んでいたことに気付く。
「ぁあ、コイツとは長いからな。ガキの頃にはコイツの母親――つまり人妻にも世話になったしな。特別だよ。言っとくけどお前は呼ぶなよ」
「特別ですかー、羨ましいですー」
「そもそも憂子の母親――つまり人妻が『太郎ちゃん』なんてお気軽に言うモンだから、コイツも平気な顔して言うようになったんだよなー。迷惑な話だ」
「ところで真宮寺君はどうして下の名前で呼ばれるのが嫌なんですかー?」
「そりゃあコイツの母親――つまり人妻が『シンプルで可愛い』なんて言……って、どーでも良いだろ、ンなこと」
「どーでも良いついでに言わせて貰うけど、アタシの母さんを『人妻』って呼ばないと気が済まないわけ?」
「なんだ、違うのか?」
「いや、違わないけど……」
 何故か疲れた様子で憂子は頭を抱えた。まぁこの暑いのに巫女服じゃあバテるわな。
「で、始めちゃっていいの?」
 袖長白衣を少しまくり上げ、憂子はげんなりとした表情で言った。
「おう、やってくれ」
「本当にやるんですかー?」
 色葉がようやく不安げな視線を俺に向けてくる。
 そうだ。その顔だ。その怯えた顔を見たかったんだ。言っておくが泣いても許してやらんからな。
「やれ! 憂子!」
 得意満面になり、俺は完全勝利を確信して憂子にゴーサインを送った。
 それに応えて憂子は両の手の平を合わせると、目線の高さまで持っていく。瞑目して精神を集中させた後、カッと大きく両目を見開いて声高に叫ぶ。
「アブドノレダムラノレ オムニスノムニス ベノレエスホリマク!」
「……それって著作権的にヤバくないか?」
「細かいこと気にしないの。一部修正してあるからきっと大丈夫よ」
 本当に仏に仕える身なのか怪しかったが、呪文によって憂子の両手が青白い燐光を放ち始めた。ソレはすぐに巨大な二つの手となって、俺と色葉の体を包み込む。
「――!」
 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃。目の奥で大規模なハレーションが起こり、視界を白く染めていく。
 俺が降り立った純白の世界に僅かな染みが一点落ちた。それは弾けたように四方八方に広がり、やがてピンクのレオタードとなって安定する。その衣装を身に纏い、一人連想ゲームに興じているのは、脳味噌にまで筋肉が詰まっていそうな毛むくじゃらの大男。
 精神を根底から蝕まれるような錯覚。底の見えない奈落への失墜。痛い、などという生易しい言葉では到底表現できない光景が、次々と映し出されていった。
 視界が元に戻った直後、指先の毛細血管が暴発したような熱と激痛が走った。危うく飛びそうになる意識を気合いで繋ぎ止める。
 耐えろ、耐えるんだ。コレに耐えれば完全無比の自由が……。
 それに色葉も俺と同じだけの苦痛に耐えているはず。あんなヘタレ女が声一つ出してないのに、俺が先に音を上げてたまるか。
 視線だけを動かして色葉の様子を見る。
「――な」
 そこには不安そうな顔で俺の方を心配している色葉の姿。痛がっている様子は微塵もない。
 ばか、な……。何かおかしいぞ。憂子は同じだけの苦痛があるって……。
「ちょ、ゆ、憂……子。ストッ……プ」
「え? なに? よく聞こえない」
 やば、い。意識が……。
「あ、あの憂子さんー。そろそろ止めた方が、いいのではー?」
 そうだ。色葉の言うとおりだ。止め、ろ……。
「あれ? あなた全然平気みたいねー。こんなんじゃ効かないのかしら。それじゃ、出力アーップ!」
 体の締め付けが一段と強い物になる。
 全身に高圧電流でも流されたように、冷たい痺れが俺の残り少ない意識を根こそぎ刈り取っていった。
 おのれ色葉……この不幸の塊……。何で俺がこんな目に。
「たーくん!」
 悲鳴じみた色葉の叫び声。
 その呼び名が一瞬意識を繋ぎ止めたが、抵抗しきれずに暗い世界へと埋没して行った。
 こんにちは、三途の川さん。


『俺、絶対に先生をお嫁さんにする!』
『あらあらー、ソレは楽しみねー。でも、ちょーっと年が離れすぎてなーい?』
『大丈夫! 十年くらいたったら先生に追いつくから!』
『そうねー、それじゃ先生、楽しみにしてるわねー。

 たーくん』


 目覚めた場所は固い石畳の上だった。
 俺を覗き込むようにして見つめているのはオカッパ頭の座敷ワラシと、ポニーテールの女。その後ろには賽銭箱の上に付いている、でかい鈴に繋がった極太の紐。
 どうやら場所はさっきと変わっていないらしい。
「……く」
 悲鳴を上げる関節を無理矢理動かし、俺は上半身だけを何とか起こした。
「大丈夫ですかー?」
「大丈夫よ。コイツ不死身だから」
 いたわりの声を掛ける色葉とは逆に、俺をこんな目に遭わせた張本人はいたって平然と言ってのける。
「……で、結局成功したのか?」
 痛む頭を押さえ付けながら、俺は一応憂子に聞いてみた。
 憂子は肩をすくめ半笑いになり、首を軽く左右に振る。失敗したというのに、このふてぶてしい態度はどうだ。
「くそっ……何で、色葉は何ともないんだ」
 悪態を付きながら、両手を握ったり開いたりしてみる。動かすたびに、体の中でギシギシと異音が聞こえる気がした。
「それはー、私が真宮寺君の守護霊だからですよー」
 答えになっていない答えを返す色葉。
「どういうことだ」
「今、私は真宮寺君と守護霊鎖っていう見えない鎖で繋がっているのでー、ソレを無理矢理ちぎろうとすると痛いことになりますー。あと守護霊鎖を通じてー、たまに幸せな気分とか落ち込んだ気分とかも共有することがありますー」
「だったら何で俺だけが痛くて不幸な思いしてんだ」
「人間に降格したのはついさっきですからねー。まだ、ちょっとだけ私の方が霊格が上なんですよー。高いところから低いところに流れていくのは何でも同じですねー」
 何なんだその設定は。理不尽この上ないぞ。
 だいたい霊格か何か知らんが、なんで俺がコイツよりも下なんだ。納得いかん。
「で、同じくらいまで落ちるのはいつなんだ」
「さぁー?」
 ダメだ、話しにならん。
 くそぅ、何かいい手はないのか……。もっと画期的で即効性のある打開策は。かくなる上は数ある俺の嫌がらせ――もとい、必殺技の一つで……。
「太郎。先に言っておくけど、足の小指で鼻をほじるのだけは止めた方がいいと思うわ」
 ……こいつエスパーか。
「アンタの考えそうなことなんて、顔見てれば分かるわよ」
 こんな小娘にまで手玉に……。あー、イライラする。
 くそっ、ダメだダメだダメだ。こんな時こそ冷静にならなければ。落ち着け真宮寺太郎。クールダウンだ。俺は天才。一人で何でも出来る。ちょっとやそっとの逆境なんざ万倍にして返せるはずだろ。
 俺に不愉快な思いをさせたヤツは、コレまで例外なく不幸にしてやった。どんな手を使ってでもだ。男だろーが女だろーが関係ない。俺様の平穏無事な日常を壊す輩は、絶対に叩きつぶしてやる。
 催眠術を掛けて懐かしのゲームソフト『ロードランナー』無しでは生きられない体にしてやったり、五年後にハードディスクの中身を無性に全消去したくなる秘孔を突いてやったり、呪いで自分の恥部を公衆の面前で暴露させて社会的に再起不能にしてやったり。まぁ、色々やった。
「……帰る」
 一度大きく深呼吸をして頭を冷やした気分になった後、俺は短く言って憂子に背を向けた。
 憂子が使えない以上、ココにいても仕方ない。いつも通り一人で部屋にこもって、解決策を考えるだけだ。まぁ、残念ながら完全に一人になれるわけじゃないが。
「邪魔したな」
 低い声で言い残して、俺は鳥居の方に歩き出した。
「ま、頑張んなさいよ。何とか出来るんでしょ?」
 当たり前だ。俺に出来ないことはない。
「ですから恋愛しましょーよー」
「お前は付いてくるな」
 と言っても憑いているんだから付いてきてしまうのだが。ああクソ、自分でも何言ってるのかよく分からん。
 とにかく、だ。頭の中を整理してそれから、だな。

 色葉楓。見た目、二十五くらい。
 俺の守護霊であり恋愛霊でもある。能力は不幸の押し売り。特技は寝返り。
 五年前に俺に憑いてから昼寝ばっかしてたので人間に降格。でもちょっとだけ人間より霊格とやらが高いらしい。
 元の幽霊に戻るには、俺の運気を吸い取るか、俺の恋愛を成就させなければならない。
 恋愛は論外として、守護霊に戻ってもまた昼寝ばっかりして、寝返りで俺を不幸にするのは目に見えている。かといってこのまま一緒にいられては、近い内に俺の気が狂う。
「真宮寺君ー」
 だが強引にひっぺがそうとすれば、痛みは全部俺に流れ込み、死の危険さえある。
「真宮寺君ー」
 さて、この絶望的な状況を打破するには……。
「真宮寺君ー」
「なんだよ、うるさいな。今取り込み中だ」
 黒い合板を四本の足で支えただけのシンプルな机に脚を投げ出し、俺は椅子の背もたれに体を預けた。机の上に置かれたガラスの灰皿には、タバコの吸い殻が山のように盛られている。
「このお家って真宮寺君の他に誰かいないんですかー?」
 部屋の真ん中にちょこんと座って、色葉が不思議そうに訊ねてきた。
 俺が住んでいるところはマンションでもアパートでもない。二階建ての一軒家だ。勿論俺が買ったわけではない。親から譲り受けた物だ。
「いねーよ。親は二人ともアメリカ。俺は一人っ子。したがってこの家には俺一人。オーケー? ドゥーユー、アンダスタン? まぁ、今は訳の分からん居候がいるけどな」
 皮肉たっぷりに最後の言葉を強調してやる。
 高校に上がってすぐ親父が海外の本社に栄転になった。けど俺は付いていかなかった。好都合だったからだ。もしあの時二人がいなくならなければ、俺は都外の大学に行って一人暮らしをしていただろう。
「そうなんですかー。でも一人だと寂しくないですかー?」
 俺は何も言わずに鼻を鳴らした。
 何をバカなことを。一人でいられる時間と空間ほど素晴らしい物はない。そういや二年くらい前に、春日亜美って強がりで寂しがりやなお嬢様と、旧友の剛一狼を成り行きでくっつけちまったけど、未だにアイツらの心理はよく分からん。
 大学で見かけてもいつもセットだし、二人だけの世界に入り浸ってるし、休みの日は必ず一緒にどっか行ってるみたいだし。絵に描いたようなバカップルだ。あれだけ他人と一緒にして疲れんのかね。俺にしてみりゃ拷問に近いけどな。
「きっとみんなと一緒にいた方が楽しいですよー」
 誰が決めたんだよ、そんなこと。
「恋愛しましょーよー。あ、さっきの天深憂子さんなんてどうですかー? あの人になら下の名前で呼ばれても怒らないんでしょー?」
 寝言は成仏してから言ってくれ。
 アイツとはお隣さんってだけで、それ以上でもそれ以下でもないんだよ。
「それじゃ、取りあえず外にでましょーよー。せっかくの夏休みなんですから、ずっと家の中にいるのは勿体ないですよー」
 何か悲しくて、炎天下の中を散歩せねばならんのだ。
「真宮寺君ー」
「だー! るせー! 考え事してんだから静かにしてろ! つーか隣の部屋行け! 十メートル以内なら離れられるんだーろーが!」
 ダン! と机に脚を叩き付け、跳ね返った反動で宙に浮くと、華麗にバク宙を決めて床に降り立った。
「わー、すごーい。たーくん、よくできましたー」
 ぱちぱちと手を叩きながら色葉は屈託のない笑みを浮かべる。と同時に少しだけ幸せな気分が訪れた。
 そうか、色葉の幸せが流れ込んで来やがったんだな。コッチがイライラしてるときにコイツの幸せを感じさせられると、余計イライラしてくる。クソ……完全に逆効果じゃねーか。
「いいか、絶対付いてくんなよ」
 コイツが出ていかないんなら俺が出ていくだけだ。
「一人じゃ退屈ですよー」
「だったらゲームでもしてろ。そこに色々揃ってるから」
 四十型のプラズマテレビの下には、四種類のハードと無数のソフトが綺麗に整頓されて並べられている。ギャルゲーがメインだが、格闘やアクション、ロープレ等色々ある。
「やったことないから、やり方分からないですよー」
「自分で考えろ。すぐ人に頼ろうとすんな」
「はーい……」
 元気のない色葉の声を背中で聞いて部屋の扉を開けようとした時、妙な違和感を覚えた。
 待て、待て待て待て。さっきコイツ、俺のこと変な風に呼ばなかったか?
 『たーくん』? そういや神社でも……。何だソレ。あだ名か? 馴れ馴れしい。『太郎』って呼ぶなって言ったから『たーくん』?
 さっき会ったばかりのこの俺様に、そこまで言うヤツなんざ……。
 そこまで考えた時、突然思考から彩りが消える。そして次の瞬間には透明になって、何を考えていたのかすらあやふやになった。
 ……あれ?
 言うヤツなんざ……言うヤツ……。コイツが初めて、だよな。
 振り返り、がさごそとゲームソフトをあさっている色葉に視線を戻す。
 既視感。
 『たーくん』『色葉楓』
 単体では何も感じなかったが、組み合わさることで妙な引っかかりを覚える。何だコレは?
「おい」
 気が付いたら声を掛けていた。
 出ていったと思っていたのか、色葉がビックリした顔でコチラに振り向く。
「お前、今、俺のこと『たーくん』って……」
「あ、あー! あー! そのことですかー! べ、別に不思議じゃないですよー。ちゃんと説明できますよー。ほ、ほら、前に見せた過去未来手帳ってあるじゃないですかー。あそこに昔そう呼ばれてたことがあるって書かれてたんですよー。確か小学校くらいかなー。可愛らしいあだ名だなーって思って。い、嫌ならすぐにでも言うの止めますからー。ダメですかー? 怒りましたー?」
 聞かれてもないことをベラベラと。
 何か後ろ暗いことを隠してるヤツがする、恐いくらいに典型的な反応だ。
「……その手帳に、俺がそう呼ばれていたことが書かれてるんだな?」
 探りを入れるように、ゆっくりと静かな口調で話しかける。
「そ、そうですよー。別に私が元々知ってたとか、そんなことは絶対にあり得ませんからー」
 八割方、コイツは俺が『たーくん』と呼ばれていたことを最初から知ってた。いや、九割くらいか? だが何故。俺自身もあやふやになってるようなことを。
 俺にはゼロ歳の時からの記憶がある。俺が忘れて色葉が知ってるなんてことはまず無い。コイツ、偶然俺の守護霊になったわけじゃないな。
 だか取りあえずそんなことは二の次だ。今はそれ以上に気になることがある。
「……ところでその手帳。過去に関してはどのくらい記録されてるんだ?」
 未来に関しては一時間くらいと言っていた。過去もその程度だと思っていたが、十パーセントの確率で、少なくとも小学校の時まで記されている可能性がある。
「えーっと、過去のことは多分全部書いてあると思いますよー」
 戦慄が全身を駆けめぐる。
 もはや『たーくん』の件はどうでもいい。今重要なのは、その手帳に俺様の人生最大の汚点が書かれているということ。
「念のため聞くが、お前はその手帳全部に目を通したのか?」
「えーっと、本当はしなければならないんですけどー。私、寝てたもんですからー」
 この時だけはコイツの昼寝能力に万雷の拍手と、絶大な賞賛を浴びせてやりたい。
「……そうか。で、ゲームのやり方が分からないんだったな」
 この話はコレで終わったとばかりに、俺は全く別の話題を振る。色葉が、何とかしのいだといった様子で胸をなで下ろすのを見て、俺は内心ほくそ笑んだ。
 取り上げねばならない。過去未来手帳を。何としてでも。今すぐに。
「どれがやりたい。教えてやるよ」
 色葉のすぐ隣りに腰を下ろし、俺はキラリと光る白い歯を覗かせながら声を掛けた。
「本当ですかー。ありがとうございますー」
 過去未来手帳は確かスカートのポケットに入れていたはずだ。ちょっと注意を逸らせれば、あとは俺の黄金の右腕が芸術的なスリ能力を披露してくれる。
「何かオススメのとかありますかー?」
 画面に神経を集中させるにはアクションゲームが良いだろう。
「コレなんかどうだ」
 俺が差し出しのは『悪魔城ラドキュラ』。昔からシリーズ化されているアクションゲームだ。固定ファンも多い。
「へー、色んなアイテム使って敵を倒すんですねー。面白そーですー」
 マニュアルに目を通しながら、色葉は何かに納得したようにうんうんと頷いた。
「やってみるか?」
「はいー。あ、でも、このアイテムの種類……。『鞭』とか『蝋燭』とか……キャー、『聖水』なんてのもあるんですかー!? これってひょっとしてエッチなゲームー!?」
 想像力の逞しい奴だな。硬派なゲームに対して失礼だろ。
 対応するハードの電源を入れ、DVDをセットする。しばらくしてメーカーロゴが流れた後、中世ヨーロッパで行われた魔女狩りを描いたオープニングが始まった。
「綺麗な絵ー。最近のゲームって凄いんですねー」
「だろう? まぁ、ゆっくり楽しんでてくれ。ちょっとトイレに行って来るから」
 過去未来手帳はすでにジーンズのポケットに入っている。
 あまりに隙だらけだったので、メーカーロゴの時点で奪ってしまった。コレなら別にアクションゲームでなくても良かったか。
「はーい、どうぞごゆっくりー」
 色葉は全く気付くことなく、六ボタンのコントローラーとテレビを交互に見ながら、忙しそうにプレイしている。
 そんな彼女を後目に俺は自室を後にした。 

 俺が小学校の時に残した汚点。それは異性への告白。
 誰かを好きになり、素直な気持ちをうち明けたのは後にも先にもそれっきりだった。どこで誰に告白したのか、今とはなってはハッキリ思い出せない。記憶力には自信があったが、黒歴史を抹消するために無意識に忘却の彼方へと葬り去ったのかもしれない。
 だが、『告白した』という事実だけは覚えている。
 俺が告白? おいおい勘弁してくれ。何の冗談だ? シーラカンスが養殖場で大ブレイクしてるくらいありえないだろ。ガキの頃のこととはいえ、『ちょっと火遊びが過ぎたみたいだな』の一言では片付けられない。火のない所にのろしは上がらない。過去の汚点はこの手で確実に抹消させて貰う。
 俺は一人洋式トイレに座り、過去未来手帳を開いた。

『特殊相対性理論の矛盾を指摘。亜光速での移動が可能となる』
『二十七番目のアルファベットを発見。常人では不可能な発音が可能となる』
『レオナルド・ダ・ヴィンチ作【ウィトルウィウス的人間】の四次元的解釈に成功。分身の術が可能となる』

 この辺は高校の時だな。もっと前か。

『必殺技、《目から怪光線》を習得』
『超必殺技、《貴様の力などブタに等しい》を習得』
『秘奥義、《時よ止まれ!》を習得』

 これは中学の時か。懐かしいな。

『父親に《シャラップ》の意味を聞くが、何度聞いても《黙れ》と突っぱねられる。反抗期のキッカケとなる』
『一週間で大きくなるシーモンキーに感動する。寿命が三日だと知り絶望する』
『《恋人募集中》というテレビのテロップを見る。連絡先に電話をするが断られる。しばらくして《恋》を《変》と読んでいたことに気付く』

 この辺りか。そういや、ガキの頃から自分は周りと違うって自覚はあったんだっけか。
 かつての自分に懐古の念を這わせながら、俺はその近くのページを一枚一枚捲っていった。

『    に告白する。遠回しに断られる』

 あった! コレだ!
 名前が書いてないのが少し気になるが、今はどーでも良い。多分俺の知らないルールか何かあるんだろ。それに、俺に恥ずかしい思いをさせた相手の名前など知りたくもない。むしろ好都合だ。後は『告白する』という文字をこの世から消し去るだけ。
 俺は迷うことなくそのページを破り捨て、トイレに捨てる。速攻で水を流して、大きく息を吐いた。
 コレで一安心だ。
「ん?」
 破り捨てることで現れた、奥のページに書かれた文章。その文字の羅列を何となくなぞっていた俺の目が驚愕に見開かれた。

『アルコールランプの不始末により理科準備室で火災発生。その場に居合わせた真宮寺太郎は炎に囲まれて逃げ場を失うが、焼け死ぬことなく無事生還』

 何だコレ。俺が火事で死にかけた? コレこそ何の冗談だ?
 理科準備室が火事になった。ソレは知ってる。ソレは確かに覚えている。
 けど……ソイツに俺が巻き込まれたことまでは覚えていない。
 おかしい。絶対におかしいぞ。何でこんな大事件覚えてないんだ。いくら何でも自分が死にかけたこと忘れるはずないだろ。
 あまりの恐怖に記憶障害になったってんなら、火事そのものを忘れるはずだ。けど、火事のことはハッキリ覚えてる。
 俺しか知り得ない過去を、ここまで正確に書き記しているこの過去未来手帳に嘘が書かれているとは思えない。
 なんだ、何なんだ。なんで俺は死にかけたようなことを……。
 大体火に囲まれてんのに、どうやって逃げ出せたんだ。この手帳には結果だけしか書いてないから、詳しいことがサッパリ分からん。
 ――いや、待て。落ち着け。そうじゃないだろ。今重要なのは、済んだ過去の事故じゃない。これからも色葉が付きまとうかもしれないという、未来への不安だ。
 取りあえず過去の汚点に関する記録は抹消した。これであの女に弱みを握られることもない。後はアイツを引き剥がす方法を閃けば……。
 …………。
 貧乏揺すりしながらしばらく頭を捻る。だが名案は浮かばない。
 それどころかさっきの事件が気になってしょうがない。コッチはまだ裏をとる方法はある。単純な話だ。憂子に聞けばいい。
 火事が起きたのは俺が小三の時。憂子は同じ学校の五年。絶対に覚えているはずだ。
「クソッ」
 鼻に皺を寄せ、俺は忌々しげに言葉を吐く。
 まぁテストの問題も解法が分かっているものから先に手を付けるのは定石。それに全く無関係なことをしていても、問題を常に頭のどこかに置いていれば突破口を思いつくこともある。
 そう。時間を無駄にしないためにはコレが最良の選択なんだ。俺はただ効率的な行動をとっているだけ。
 自分にそう言い聞かせ、俺は自室へと戻った。

 部屋の中では色葉がゲームに熱中していた。
 コントローラーを体ごと上下左右に振りながら、必死にプレイヤーキャラを操ろうとしている。背中まで伸びたポニーテールが、色葉が動くのとは逆の方向に尻尾を振っていた。
「あ、お帰りなさいー」
「おう」
 無愛想に返して、俺は色葉の隣りに腰を下ろす。勿論、過去未来手帳を返すためだ。用が済んだ以上、盗まれたことに気付かない内に戻すのが盗みの常道だ。それにコイツのヌルいガードなら必要な時にいつでもスレるだろうし、思い出したくもない過去や、知りたくもない未来を肌身離さず持ち歩きたくはない。
「あーうー。またやられたー」
 がっくりと大袈裟に肩を落として、色葉はうなだれた。その絶好の機会を逃すことなく、俺はスカートのポケットに過去未来手帳を忍ばせる。
「よーし、もう一回」
 色葉が再び顔を上げた時には、俺は何事もなかったかのように手を戻して画面を見ていた。我ながら完璧だ。
 用事を終え、憂子の神社に行こうと立ち上がった時、目の前で色葉のプレイヤーキャラが悲鳴と共に力つきる。元々苛立っていたのもあるが、犯罪級の下手さ加減に目元が痙攣した。
「ちょっと貸してみろ」
 そして俺の手は勝手に色葉からコントローラーを奪い取っていた。
 座り込み、慣れた手つきで華麗なテクニックを披露する。蒼い退魔服を着たプレイヤーキャラは、攻撃と防御を無駄なく行い、あっと言う間にそのステージのボスキャラを倒した。
「わー、たーくん、すごーい」
 色葉は、ぱちぱちと子供っぽい仕草さで手を叩きながら、感嘆の声を上げる。
「その『たーくん』ってのも禁止だ。次から二度と使うな」
 言われてようやく気付いたのか、色葉は慌てて口に両手を当て、しまったという表情を浮かべた。
「はいー、すいませんー」
「ったく……」
 余計な時間を食ってしまった。
 俺が改めて立ち上がった時、色葉は不思議そうな顔つきで見上げてきた。
「どこ行くんですかー?」
「別にどこでも良いだろ」
「でもー、真宮寺君の行く場所は私の行く場所でもあるのでー」
 ……くそぅ。仕方ない。チョロチョロされるより、最初から言って大人しく付いてこさせた方がまだマシか。
「神社だよ、神社。さっき行ったろ」
「天深さんに会いに行くんですかー?」
「ああ」
「よかったー、やっと恋愛する気になってくれたんですねー? 私でよければ何でもお手伝いしますー」
「話聞きに行くだけだ。お前はさっきみたいに離れて鳩とでも遊んでろ。近づくんじゃねーぞ」
 俺の言葉に色葉はしゅん、と小さくなり、口先を尖らせる。
 ジャケットを羽織りながら色葉の横顔に視線だけを向け、俺は胸中で嘆息した。
 『たーくん』、ね……。
 そこに含まれていたのは『太郎』と呼ばれた時の不愉快な響きではなく、どこか安心感をもたらしてくれる懐かしい余韻だった。




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