ちょっとだけ成仏、してくれますか?

「あら、太郎。また来たの。明日は槍の雨でも降るのかしら」
 境内の隅にある花壇に水をあげながら、憂子は近づいてきた俺に顔を向けた。将来的に自分の物になる神社を可愛がっているのか、まめに手入れをしてるようだ。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
 色葉が十分離れてぼーっとしているのを確認し、俺は口を開いた。アイツがそばにいるとペースが狂うし、俺と憂子しか知らないことを話す可能性が高いので聞かれたくない。
「俺らが小学校の時、結構デカい火事があったろ」
「火事?」
 憂子は視線を上げ、何かを思い出しながら続けた。
「ああ、そう言えば理科準備室が燃えたことあったわね。アタシが小五くらいの時だったかしら。それがどうかしたの?」
「詳しく覚えてるか」
「まぁニュースにもなったくらいだからね。確か地震が原因でコンセントが漏電して、出た火がほったらかしにしてた古いアルコールランプに燃え移ったんだっけ。隣の理科室が生物部の部室だったのに、ススで真っ黒になって……アンタが動物の避難場所、必死になって探してたわ。あの時はまだ生き物好きの少年だったのに、どこでどう間違ったらこんな、オタクで根拠のない自信に溢れてて、傍若無人で自分のこと棚上げして人を責めるようなごうつくばりになるのかしら……」
 溜息混じりに言いながら、憂子は哀れむような視線を向けてくる。
 うるせーな。そこまで言うことねーだろ、ったく。
 否定はせんが。
 しかしまぁ、憂子はあの時のことを結構しっかり覚えてるみたいだな。
「で、だな。その火事があった時、俺がどうしてたか覚えてないか?」
「アンタが? みんなと一緒に逃げたんじゃないの?」
「いや、多分そうだとは思うんだが……ちょっとその辺り微妙でな。もし覚えてたらで良いんだが、俺が理科準備室にいたってことないよな」
「はぁ?」
 眉間に皺を寄せ、憂子は『頭大丈夫?』と目で言いながらオカッパを掻き上げた。
「変なこと言ってるのは分かってる。しかし、だ。とある情報筋によると、どーも俺が理科準備室にいた可能性が高いらしいのだ。で、今その裏付けを取ってるんだが……」
「アンタ探偵業でも始めたの?」
 くそぅ、バカにして。話が進まんではないか。
「そんなトコいたらとっくに焼け死んでるじゃない。運が良くて大火傷よね。それに何でアタシがアンタのことそこまで知ってるのよ。ストーカーじゃあるまいし」
 むぅ、確かにその通りだが……。
「それとも何? 自分が不死身だってことわざわざアピールしに来たわけ?」
「俺がそんな下らないことに時間を割く人間かどうかは、お前も良く知ってるだろう」
「……そりゃそうよね」
 ダメだ。もしかしたらと思ったが肝心のところは全然覚えてない。
 いや、当然か。わざわざ火事の現場に行くようなヤツは消防隊くらいしかいない。
 ったく、過去未来手帳の内容が本当だとして、何で俺は理科準備室なんかに行ったんだよ。その辺りのことがスッポリ抜け落ちてやがる。
「そういえば、さ」
 俺の思考を中断するかのように、憂子がどこか遠慮がちに声を発した。
「丁度その頃だよね、アンタが変わったのって。前はもっとみんなと一緒にいて明るかったのに」
 何を言い出すかと思えば。下らん。
「フ……俺はその時すでに悟りを開いてたのさ。周りの奴らなんぞザコ以下。俺の足下にも及ばん。だったら一人で何でもやってやるってな」
「そうよねぇ……。あの時のアンタってば口癖みたいに同じこと言って。なんか話しかけづらいオーラ纏っちゃったもんね」
「一人でいるのが楽しくてしょうがなかったからな」
「本当に?」
 ジョウロを地面に置き、名前も知らない常緑樹の太い幹に背中を預けて、憂子は試すような視線を向けてきた。木陰に入ったせいか、憂子の顔から表情が消えたように見える。
 なんだよ、その目は。
「今のアンタならともかく、あの時のアンタは正直見てられなかったわ。無理してるのが痛いほど分かったから」
 やれやれ、何か変な方向に話が飛んでるな。悪いがそういう話ならパスだ。今の俺には何の関係もないことだからな。
「邪魔したな。変なこと聞いて悪かった」
 俺は憂子の言葉に何も答えることなく、色葉の方に体を向けた。
「ちょ、ちょっと太郎! アタシなんか変なこと言った!?」
 背中に憂子の声が掛かるが、俺は構わず歩を進める。何を言うつもりかは大体予想できた。別にさっきの言葉に対して謝る必要もないし、俺を気遣う必要もない。人に優しくされるのは嫌いだ。
 まったく、とんだ一日だな。色葉が出てきてから嫌な思いしかしてない気がするぞ。
「はいはーい。コンニチハですデス、真宮寺太郎様」
 激しく鬱な気分に陥りかけている俺にトドメを刺そうというのか、足下からいきなり陽気な声がした。色葉の時と同じく、何もない空間から幼稚園児くらいのガキンチョが姿を現す。
 黒のカッターシャツに、同色の蝶ネクタイ。ダークスーツを着こなし、顔を飲み込みそうなほどデカいシルクハットを身につけていた。上から下まで完全に黒一色のガキは、小さな口から八重歯を覗かせて、ニッコリと笑った。
「初めましてー、ボクは夜水月(よみづき)と言いますデス。今後ともヨロシクデス」
 俺の太腿くらいまでしか身長のないソイツは、短い手を折り畳んで慇懃に礼をする。
 まーた変なのが出てきたな。どうやら色葉と会ったことで妙なフラグが立ったらしい。迷惑な話だ。
「あれー、驚きませんデスねー。さっすが真宮寺様。度胸が据わって……って、あ、ちょ、ちょっと待って、無視しないで……!」
 こういう輩は色葉だけで間に合ってる。もうお腹一杯で吐きそうだ。血反吐も一緒に。
「あれー、夜水月さんー。こんな所で会うなんて奇遇ですねー」
 鳥居の日陰でぼーっとしていた色葉が、俺達の姿を見て小走りに寄ってきた。
 やっぱり知り合いか。
 夜水月とかいう謎のガキは俺の隣りに並んで歩きながら、半眼になって呆れたような視線を色葉に向けた。
「楓君……キミの出来の悪さには何度も感心させられますデスよ」
「いやー、それ程でもー」
 褒めてねーよ。
「あ、真宮寺君。紹介が遅れましたー。こちら、私の上司の夜水月と申しますー」
 上司? このガキが?
 色葉からの紹介に、俺は鳥居の前で足を止めた。
「ほぅ、じゃあ何か。お前の監督不行届のせいで俺はこんな不幸の肥溜めに突き落とされるような目に遭ってるわけだな」
 部下の失態は上司の失態。キッチリ責任とってもらおーか。
 俺は片手で小僧の胸ぐらを掴み上げると、ドスを利かせた声で言い放った。
「今すぐコイツを俺から離せ」
「え、ええ……。デスからソレも踏まえましてデスね。これからお話ししようかと……」
 なかなか話が分かるじゃないか。
 俺は夜水月を投げ捨てるように解放すると、鋭い視線で睨み付けて先を促した。
「え、えーっと、まず楓君。キミは今朝、降格処分になったばかりだというのに、いきなり大失態をやってしまったようデスね」
 軽く咳き込みながら蝶ネクタイを直し、夜水月はシルクハットをかぶり直しながら色葉の方を見る。そしてスーツの内ポケットから小さく折り畳まれた紙切れを一枚取り出し、丁寧に広げていった。
「はいー? 私なにかしましたかー?」
「キミが持っている真宮寺様の過去未来手帳。その一部破損が先程確認されました」
 紙の内容を確認して、夜水月は冷めた口調で言う。
「えー!?」
 目を大きくして大袈裟に驚き、色葉はスカートのポケットから過去未来手帳を取り出した。そしてパラパラとページを捲って中身を確かめる。
「あー! ココのページ破けてるー! なんでー!? どうしてー!?」
 俺が破り捨てたからに決まっているだろう。
「楓君。過去未来手帳は幽霊界でも貴重な物デス。デスから常に大切に、肌身離さずに持っていなければなりません。その破損が確認されたのはついさっき。いったいどういう経緯で破ってしまったのか、説明して貰いましょうか」
 夜水月は偉そうに腕組みしながら、色葉を言及する。
 色葉は眉をハの字に曲げて戸惑いの表情を浮かべながらも、顎先に人差し指を当てて視線を宙に投げ出した。
「すいませんー、分かりませんー。私はずっとこのポケットの中に入れておいたんですー」
「じゃあひとりでに破けたとでも言うつもりデスか」
「そうとしかー」
 色葉のとぼけた返事に、夜水月は大きく肩を落として嘆息する。
「キミの知らないところで破けたということは、誰かに過去未来手帳を取られた可能性がありますデスね。心当たりは?」
「私が降格された後お会いしたのはー、真宮寺君と天深さんだけですー」
 色葉は俺と、後ろでこの唐突な展開に驚きを隠せない様子の憂子に視線を一回ずつ預けて、夜水月を見た。
「おい憂子、ダメじゃないか。人の物勝手に見ちゃ」
 間髪入れず俺は憂子に注意する。
「ちょ……! 何でアタシなのよ! 大体そんな手帳見たこともないわよ! アタシじゃないわ! 勝手に犯人扱いしないで!」
 憂子は濡れ衣を着せられて、もの凄い剣幕で言い返してくる。
 分かってないな。そんなにムキになったらまるで『見苦しい言い訳』をしているみたいじゃないか。
「まぁまぁお二人ともケンカしないで下さい。確かに過去未来手帳が楓君のポケットから露出した時間帯には、そこの天深さんという方とは接触していないようデス」
 紙と俺の顔を交互に見ながら、夜水月は探るような視線を送ってくる。
 コイツ……最初から知ってて。あの紙に何が書かれているかは知らんが、色葉と過去未来手帳の監視記録のような物なのだろうか。そんな都合の良い物が……。
 いや待て、カマ掛けの可能性もあるな。単純に考えて、色葉の守護対象者である俺が一番の容疑者。自白とまでは行かないまでも、確信を持てるだけのボロを俺に出させる気かもしれん。ここは冷静に対処する。
「で、結局お前は何が言いたいんだ?」
「ああ、スイマセンデス。別に真宮寺様を疑っていたわけではないのデスが」
 よくもまぁ、いけしゃーしゃーと。
「ただ、幽霊界にも色々と規則がありましてね。特に過去未来手帳に関しては厳重なんですよ。破損しただけならまだしも、その内容を人に見られたり、守護霊の口から喋ったりすればソレ相応の罰則が用意されていますデス。守護霊にも、守護対象者にもね」
「守護対象者への罰則ってのは、内容を見たり聞いたりしたのが対象者だった場合だろ? でないと理不尽すぎるぞ」
「ああそうデス。その通りデス。いやはや、さすがは真宮寺様。鋭いデスね」
 もうお前の中では、俺が犯人決定ってわけか。まぁ大当たりだけどよ。
 とくかくこのガキは俺に罰則ってヤツを食らわせたいらしいな。面白い。そっちから勝手に役に立たない守護霊押しつけといて、俺の知らない規則を破ったら罰? 冗談じゃねーぞ。俺にケンカ売ったヤツは例外なく不幸になって貰うってのが、俺の中での規則だからな。幽霊だろうと何だろうと、その規則は適応させて貰うぜ。
「楓君。まさかとは思いますが、手帳の内容を真宮寺様に言ったりしてないでしょうね」
 ダメ押しか。
 色葉は顔を青くして立ちつくしている。肯定と解釈するには十分すぎる反応だ。コイツは今朝、俺に内容を喋ってるからな。
「……喋ったのデスか。そうデスか。仕方ありませんデスね」
 夜水月は紙を折り畳んで内ポケットにしまい込み、残念そうな顔で俺の方を見た。
 やる気か。
「真宮寺様。見ての通り、楓君はまるで使えない守護霊デス。近い内にクビになるでしょう」
「えー、そんなー」
 だーっ、と滝のように涙を流しながら、色葉は顔を歪めた。
 それに呼応して俺の胸も締め付けられる。
 クソ……そうか。色葉がヘコんだから、そのとばっちりが俺のところに来たんだな。コイツが幸せになってもイライラするし、落ち込んでも嫌な思いをする。良いこと無しじゃねーか。この不幸超人めが。
「しかし幽霊界も幽霊不足。こんな使えない幽霊でも、守護霊と恋愛霊を兼務しているくらいデスから。楓君をクビにする以上、新しい幽霊を補充しなければなりません」
 そんな俺の思いを知ってか知らずか、夜水月の話が妙な方向に進んでいく。
「そこで、デス。真宮寺様。貴方様をぜひ幽霊としてスカウトしたいのデスが」
「……は?」
 今何つった。
「実は、真宮寺様の持って生まれた溢れんばかりの知性と、どんな逆境をもはねのける精神力。そしてイカサマのような剛運は幽霊界にも広く届いておりまして」
 知性と精神力はともかく、最後のイカサマってのは何だ。
「貴方様のように、守護霊など付けなくとも自力で何とかしてしまうようなデタラメ力の持ち主の元でなら、いくら能力ゾウリムシ以下の楓君でも霊格が上がるだろうと言う趣旨の元、異動させたほどデスから。幽霊界で真宮寺様の名前を知らない者はおりませんデス。はい」
 何だかよく分からんが、俺様も有名になったモンだ。
「いかがデスか。真宮寺様なら幽霊に昇格したとたん、リーダークラスのお仕事を割り振らせていただきますが」
 背中を丸めて嫌らしく手揉みしながら、夜水月は上目遣いで媚びて来る。
 何考えてんだこのガキ。
「馬鹿かお前は。俺が幽霊になって何のメリットがあるってんだ。そんなことより、お前が今やるのはこの役に立たない自称守護霊を持って帰ることだろーが」
 いつの間にか話が置き換わってやがる。コイツ官僚か。
「メリット、デスか。ソレは当然ございますデス。まず幽霊になり、功績を上げて霊格を高めれば幸せになれます。それはもー、コカインとモルヒネとMDMAを高純度で摂取した時くらいに」
 ソッチ系の『幸せ』かよ。
「幽霊になればその時点で時間が止まり、年を取らなくなります。永遠の若さを保ち続けられますデスよ」
 ナイスミドルな俺を見られないなんてゴメンだ。
「それに何より、真宮寺様がこれまで行って来た悪いことを完全に不問と致しますデス。勿論、ごく最近のことも含めて」
 最初からソレが狙いだろ? まどろっこしい。
 よーするに、過去未来手帳の件に関しては目を瞑るから、お仲間になれってことだ。最初からそう言えよ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! さっきから聞いてたら変なことばっかり! 太郎が幽霊にスカウト!? 冗談じゃないわよ! それって死んじゃうってことなんじゃないの!?」
 憂子が俺と夜水月の間に割って入り、袖長白衣をぶんぶんと大袈裟に振りながら大声でまくし立てる。
 まぁ冷静に考えればそうなるだろうな。
「ああ、心配には及びませんデスよ。真宮寺様が幽霊になれば、周りの人達から真宮寺様に関する記憶は消えますデス。当然、貴女からも。誰も悲しんだりはしませんデスよ」
 つまり俺は最初から『いなかった』ことになる訳だ。
「それに正確には『死ぬ』のではなくて『幽霊に昇格する』のですから生者と死者の中間地点に行くわけデス。まぁ感覚的には、ちょっとだけ成仏する……みたいな感じデスかね」
「と、言うことらしいぜ」
「言うことらしいぜって……そんな他人事みたいに! 太郎! アンタまさか……!」
「なるわけねーだろ」
 幽霊界に秋葉原は無いだろうからな。
 迷いのない俺の言葉に憂子はホッと胸をなで下ろす。
「……そうデスか。まぁ今すぐ決めるのは難しいデスね。また日を改めて来ますデスよ。しばらくはコチラにいるつもりデスので」
「何回来ても同じよ!」
 隣で憂子が、べーと舌を出しながら、夜水月に向かってシッシッ、と手で払う。
 何でお前がそんなにムキになるんだよ。
「ああ、そうそう。少し楓君を借りていきますデスよ。ちょっと彼女に大切なことを言わなければなりませんので。その間、守護霊鎖は切っておきますデス。いくらでも遠くに離れられますので、しばらく自由時間を満喫しておいてください」
 言いながら夜水月は俺と色葉の間に立ち、人差し指と中指でハサミを形作って何かを切る仕草をした。
 頼むからそのいい加減な設定何とかしてくれ。
「あ、あのー。私、今ので真宮寺君の守護霊クビなったんでしょうかー」
 色葉がおろおろしながら、不安げな声で聞いてくる。
「まだ大丈夫デスよ。一時的なものデスから。さ、行きましょうか」
 柔和な笑みを色葉に返した後、夜水月は鳥居の方に向かった。
 『まだ』、ね……。
「あ、そ、それじゃあ真宮寺君ー。ちょっとだけサヨナラですー」
「一生サヨナラしてくれ」
 俺の辛辣な言葉に色葉はだーっ、と涙を流した後、渋々といった様子で夜水月の背中を追った。守護霊鎖を切ったせいで、色葉の感情は俺にフィードバックしてこない。さらに名残惜しそうに何度も振り返る仕草が、俺の嗜虐心を満たしてくれる。
 いい感じだ。
「さて、と……」
 二人の後ろ姿が石階段の下に消えたのを確認して、俺はクセの強い短髪を掻きながら鳥居の方に向かった。
「どこ行くの?」
「付けるんだよ」
「付ける? あの二人を? なんで?」
「なんでって……。あの夜水月ってガキが言ってたじゃねーか。『付いてこい』って」
 あれだけわざとらしい前フリをしてくれたってのに、憂子は気付かなかったらしい。
 ――色葉と大事な話をする。だから付いてこい。
 そう言ってた。少なからず俺に関係あることなんだろーよ。
 無視してもいいんだが、色葉を根本的に何とかする方法は見つかってないしな。
 近い内にクビになるって言ってたけど、守護霊だけで恋愛霊ってのは継続される訳だろ? 俺から離れてくれる保証なんざどこにもないんだ。手っ取り早く厄介払いできるような、『決め手』を教えて貰いたいモンだな。

 ……で。
「あ、左に曲がったわ。太郎、急ぐわよっ」
 ……なーんでコイツまで付いてくるかなー。 
 郊外から都心へ向かって歩くこと三十分。車が激しく行き交う大通りに面した歩道を歩きながら、俺は隣でやる気マンマンになっている憂子にジト目を向けた。
 わざわざ隠れなくても溢れかえる人が壁になってくれているのに、電柱の影や店の置き看板に身を隠しながら尾行する憂子。『私は今誰かを付けています!』と全力で主張している。岩戸景気バリに怪しさ大高騰だ。
 しかも巫女服のまま。
 ロリ属性と巫女属性を兼ね備えた彼女は、行くところに行けば大人気を博することは間違いない。俺も草葉の陰から応援したいところだ。
 ……まぁ今は目立ってしょうがないだけだが。
「ちょっと太郎っ、なに堂々と歩いてんのよっ。ちゃんと隠れなさいよっ」
 ひそひそ声で憂子がまくし立てる。
 もう見つかってるっつーの。お前のせいでな。
 俺はタバコを携帯灰皿に押しつけて消し、新しい一本に火を付けた。
 元々、夜水月は付けられていることを前提に歩いているはずだ。出来ればどの角度から追っているのかくらい隠しておきたかったが、見つかったところで大した問題じゃない。色葉の方はどうか知らんがな。
「あっ、止まったわ。太郎っ、コッチよっ」
 俺達から三十メートル程離れた位置で、夜水月と色葉が足を止めていた。ソレを見た憂子が俺の腕を強引に引っ張って、ガードレールに寄り添り沿う形で身を隠させる。
 だから余計怪しいだろーが。
 憂子は俺の頭を押さえつけながら、なぜか目を輝かせている。どうやらすっかりその気になってしまったようだ。
「いい、太郎。尾行の鉄則は忍耐力。今は静観する時よ」
「性感するって……お前こんな公衆の面前で何言ってんだ」
「……今、アンタが何を考えてるのか分かってしまう自分が嫌だわ」
 悲観的な女だ。 
 夜水月と色葉の前には、石造りの灯籠に挟まれた小さな社が一つあった。高層ビルの乱立するこんな都会のど真ん中では浮いた光景だ。
「ビルの谷間に祠が一つ、か……怪しいわね」
「胸の谷間にホクロが一つ、ね……確かに妖しいな。どの女だ」
「太郎、今度良い耳鼻科紹介してあげるわ」
 冗談の通じん女だ。
「あの二人……何やってるのかしら」
 夜水月が祠に向かって何か呟いている。色葉はただ、ぼーっとソレを見ているだけだが。
 しばらくそのままの状態で、タバコを三本吸い終えるくらいの時間が経過する。やがて夜水月が右手をそっと祠にかざした。
「う、動いた……」
「産まれそうか?」
「殺すわよ」
 心にゆとりのない女だ。
 憂子の手刀を片手白刃取りしながら、音もなく後ろにずれていく祠を観察した。この異常な光景に、周りの奴らは何も気にすることなく往来している。もしかしたら見えていないのかもしれない。夜水月や色葉の姿さえも。幽霊と元幽霊の組み合わせだ。何が起こっても不思議ではない。
 祠がずれた下には暗い穴がポッカリと開いていた。二人はその中へ迷うことなく飛び降りる。
「太郎、行くわよ」
「そうか。ついに絶ちょ……」
「逝きたい?」
「ゴメンナサイ」
 二人の姿が完全に消えたのを確認して、俺と憂子はガードレールの影から飛び出した。

 迷宮。
 穴の中の様子を一言で表現するなら、その言葉がぴったりだった。まさか3Dダンジョンに現実の世界で挑戦することなるとは思わなかった。
 緑色の燐光を放つ壁で囲まれた、無機質で代わり映えのない空間を歩きながら、俺は憂子に視線を落とした。
「憂子、やっぱり帰った方がいいんじゃないのか?」
 隣で息を荒くして、憂子は凄絶な視線をこちらに向けてくる。ストレートのオカッパ頭はところどころ焼けてくすぶり、巫女服はススで黒ずんでしまっていた。
 ついさっき、爆発トラップに引っかかったのだ。
 まぁお約束というヤツだな。
「街の下に……何でこんなデカイ空洞があるのよ……」
 ぜぃぜぃと肩で息をしながら、幽霊のように両腕をだらりと垂らして、憂子は前を見つめ直す。
「確かにな。地盤沈下が起こったら大変だ」
「……アンタ、空気って読んだことないでしょ?」
「見えない物をどうやって読むんだ。馬鹿かお前は」
「……アタシが悪かったわ」
 軽く憂子をあしらいながら、俺は夜水月達を追って奥へと進む。
「本当にこの道であってるんでしょうね」
 もう二時間も前に二人を見失っていた。オマケに陰湿なトラップの嵐だ。憂子が不安になるのも無理はない。
「大丈夫だ。俺の勘は外れたことがない」
「か……!? アンタまさか勘でココまで!?」
 俺の発言に憂子は顔を青くして食い下がる。
「ああ、先に言っておくが、その床を踏むと……」
 俺に詰め寄ってきた憂子の足下が、暗い口を大きく開けた。間髪入れずに俺は憂子の腕に手を伸ばす。
「落とし穴が作動するから気を付けろよ」
 軽い憂子の体を片腕一本で支えながら、俺はゆっくりと諭すような口調で言った。恐怖で顔を引きつらせ、全身を硬直させている憂子を緑色の床へと運ぶ。
「そ、そーゆー大事なことは早く言いなさいよ!」
 腰が抜けたのか、床にへたり込んだ体勢で憂子は叫んだ。
 なんで助けてやったのに怒られねばならんのだ。
「分かった分かった。それじゃ、夏やせしてお前のバストが二センチ減ったことや、毎朝水をあげてる家の裏の花が『オオイヌノフグリ』だと最近知ったことや、父親がロリータ嗜好でガキの頃のお前の写真引っ張り出して身悶えしてることとかも言っといた方がいいんだな?」
「ちょーっと! 何でそんなことまで知ってんのよ!」
 いや、最後のは冗談だったんだが……。
「まさか監視カメラとか付けてんじゃないでしょーね」
「フ……盗聴器もセットでな」
 髪を掻き上げてキザっぽく言う俺に、憂子は疲れた表情になって溜息をついた。
「あーもー……。アンタと話してると疲れるわ」
「更年期障害か?」
「……なんでアンタはいつもいつもその調子なのよ。ちょっとは焦るとかないの? さっきのだって一歩間違えたら……」
 死に直面したことで急に不安になったのか、同意を求めるように憂子は視線を向けて来る。
「焦っているさ。ココにくるまでに三機も失ってしまった。あと二機しか残っていない」
「……それってコンティニューとかあるわけ?」
「難易度が『ベリーハード』だからな。残念ながら無い」
「あ、そ……」
 諦めたような表情になり、憂子はよろよろと力無く立ち上がった。
「大体なんで付いてくるんだよ。ココまで来たらもう帰る方が疲れるじゃねーか」
 クセの強い髪の毛を掻きながら、俺はぶっきらぼうに言った。
 ココに来るまで何度も憂子に帰れと言ってきた。だが聞く耳持たずといった様子で、憂子は強引に付いて来たのだ。まぁ、まさかこんな目に遭うとは予想してなかっただろーが。
「うっさいわねー、アンタ一人にしたらどーせまたロクなことしないんだから。アタシが監視してやってるのよ。ありがたく思いなさい」
 服の埃を払いながら、拗ねたような仕草で目をそらす。
 なんだその当てつけがましい理由は。
「あんまり一人で突っ走ってると疲れるわよ。たまには誰かに相談するとか、協力して貰うとかした方が楽なんじゃない?」
 相談に協力、か……俺が嫌い言葉の中でもかなり上位にランクしてるな。
「一人で出来ることなんて、たかが知れてるんだしさ」
 誰が決めたんだよ、そんなこと。それにお前は今、俺の足手まといにしかなってねーじゃねーか。
「それに、みんなでいた方がきっと楽しいよ」
 取って付けたみたいに、色葉と似たようなことぬかしやがって。それは一人で何も出来ねーヤツが、他人の力を借りる時に自分を正当化するための言い訳だろ? それか、一人は寂しくて孤独に耐えきれないヤツが、自分の精神を守るためにする防衛反応ってヤツだ。
 俺は一人で何でも出来るし、『寂しい』なんて感情、十年以上前に忘れたから、憂子の言うことが限りなく薄っぺらに聞こえる。
 まさかとは思うが、コレを言うために付いて来たんじゃねーだろーな。
「くだんねーこと言ってないで、とっとと先行くぞ」
「え? あ、ちょ、ちょっと太郎!」
 憂子を置いて、俺は夜水月の気配のする方へと歩を進めた。
 まったく……コイツといい、色葉といい、なんでこー頼まれてもない世話やきたがるかねー。理解できんな。

 気配をたどって行き着いた先は、四方を壁で囲まれた個室だった。壁に人が一人通れるくらいの穴が開き、中に立方体の空間が広がっている。その部屋の中央にある巨大な鏡の前に、夜水月と色葉はいた。丁度二人とも、俺達のいる出入り口に背を向けている。
「何やってるのかしら」
 俺達は部屋の外の壁に背中を付け、視線だけを中に向けて様子を窺っていた。
「いやー、ようやく着きましたデスね。幽霊界と人間界を繋ぐトンネルも、もう少し気の利いた場所にあってくれればボクも楽なのデスが」
 中で夜水月がわざとらしく説明する。これから大切な会話が始まることを強調でもしてるつもりか。
「それで、あのー。お話ってー?」
 随分と待っていたのか、色葉の声はどこか眠たげだ。
「あーそうそう。分かっているとは思うのデスが、一応キミに確認しなければならないことがありましてデスね」
「何でしょー」
「キミの今の状態のことデスよ。今朝降格処分が下り、キミはもう一度人間という器に戻りました。とはいえあくまでも仮の体。完全な人間体ではないことは理解していますデスね?」
「はいー。勿論ー」
 完全な人間体じゃない? ああ、あれか。まだ降格したてで、ちょっとだけ霊格が人間よりも上ってヤツか。
「では、その状態でいられるのがせいぜい二週間程度だということも、当然理解していますデスね?」
「はいー」
 二週間? 二週間たつとどうなるんだ?
「では二週間以内に昇格条件を満たせなかった場合、存在ごと抹消されることも、知っていますね?」
 一言一言しっかり区切って、夜水月は色葉に確認する。
 じゃあ何か? あと二週間我慢すれば色葉は自然消滅するって訳か?
「知ってますー。知ってますけどぉー、難しいんですよぉー」
 すぐに弱音を吐く色葉に、夜水月の小さな背中が上下に動いた。溜息をついたのだろう。
「まったく……キミがしつこく真宮寺様に憑きたいと異動届を出し続けたから、ボクが便宜を図ってあげたんじゃないデスか。なのに怠けてばっかりで……。コレじゃボクの面子丸つぶれデスよ。ちゃんと何とかして下さいね」
 何? 色葉が異動届を出し続けた。
 話が随分と違うじゃないか。色葉は難しい仕事が出来ないから、何もしなくても大丈夫な俺に憑かされたんじゃないのか?
 そこまで考えた俺の脳裏に、最悪の可能性が一つ浮かぶ。
 ……まさか、な。
「楓君、ずっと真宮寺様のおそばにいたいのでしょう?」
「……はい」
 おいおい。
「真宮寺様に幸せになって欲しいんでしょう?」
「……はい」
 冗談だろ。
「では、もう一度ちゃんと言っておきますよ。キミが二週間以内にしなければならないことは、真宮寺様の運気を吸うか、恋愛を成就させるかして昇格すること。そうすればクビの話はなかったことにしてあげます」
「本当ですか!?」
 迷惑な話だ。
「そしてもう一つ」
 もう一つ?
「真宮寺様にキミの後継幽霊になると納得させ、完全な人間体を手に入れるかデス」
 ……ああ、そう言うことか。
 とりあえず夜水月が俺に言いたかったことの方は分かった。要するに、だ。揺さぶりを掛けたかった訳だ。
 ――この二週間で俺が色葉に情を移せば、遠慮なくソレを利用させて貰う、ってな。
 心理戦でよく使う手法だ。何かをしてはいけないと思えば思うほど、その何かってヤツをやりたくなる。拒絶しているとはいえ、四六時中ソレを意識してるわけだからな。心の弱いヤツほど流されやすい。
 わざわざこんな場所に呼び出したのは、色葉の本音を俺に聞かせるためか? くだらん。そんなモン聞いたからって、俺が揺れ動くとでも思ったのか? だとしたら随分甘く見られたモンだ。
 二週間、ね……。結構長期戦だな。丁度夏休みが終わる頃か。ま、それで釈放されるんなら万々歳だが。
「と、言う訳なんデスよ、真宮寺様。何とかその辺りに、ご配慮頂けませんデスかね」
 コチラに呼びかける夜水月の声に、憂子が隣で体を震わせる。
「た、太郎、気付かれてるわよっ」
 何言ってんだ、今更。
「え、えー!? 真宮寺君、そこにいるんですかー!?」
 ま、色葉は気付いてないと確信していたが。
「二週間、ね。やっぱ何でもゴールがないとつまんねーよな」
 ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、俺は夜水月と色葉の前に出た。二人ともすでにコチラを向いている。
 ま、夜水月だけが言ったんならともかく、色葉も認めてたんだ。その数字に間違いはないだろ。
「わざわざスイマセンデスね。こんな所まで御足労頂いて。それにしてもあのトラップをいとも簡単にくぐり抜けてくるとは。流石デス」
 夜水月はシルクハットの鍔に指をかけて、恭しく頭を下げる。
 どーせ力試しってトコだろ。俺でなかったら死んでるぞ。
「察しの良い真宮寺様のことですから、ボクの意図しているところは全て汲み取っていただけたかと思います」
 言いながら顔を上げて、俺と視線を合わせた。
 ――違和感。
 目があった時、何か怖気のような物を感じた。
 何だ。コイツ、何かが違う。
「今日はこのままお引き取りいただいて結構デスよ。楓君との守護霊鎖は元に戻しておきましたので」
 夜水月が子供っぽい笑みを浮かべたところで、さっき感じた違和感は消えた。
 何だったんだ? 気のせいか?
「それではまた、お会いしましょう」
 一方的に言い残すと、夜水月は後ろにある大鏡に体をめり込ませた。そのまま呑み込まれるようにして姿を消す。
「コレが幽霊界に続くトンネル、か……」
 俺は言いながら、金の縁を持った一抱えもある楕円形の鏡に歩み寄った。そして無造作に脚を振り上げる。
「あ。だ、ダメですー!」
 俺が何をしようとしているか察したのか、色葉は鏡を庇うように割って入った。
「冗談だ。そんなことはせん」
「そ、そうだったんですかー。よかったー」
 今はな。
 抑揚のない口調で言った俺の言葉に、色葉は安堵して胸をなで下ろす。
 今晩にでも壊しに来よう。二度とこんなことが起きないように。
「じゃ戻るか。いつまでもこんな辛気くさいトコにしてもしょうがないだろ」
 俺は近くでホッとしている色葉と、部屋の出入り口付近でコチラを窺っている憂子を見ながら、気の抜けた声で言った。
 取りあえず打開策は見つかった。何もせずに待つだけというのが少々気にくわんが、まぁいいだろう。
「そうですねー。詳しい話は後で聞くとしてー、おウチに戻りましょー。お腹もすきましたしー」
 それに関しては同感だ。昼飯もろくに食ってないからな。
「戻るのは良いけど……またあの道通るのよね」
 憂子が顔色を悪くして呟く。
「大丈夫ですー。私、トラップの位置は全部覚えてますからー」
 じゃあ、色葉がトラップだと言ったところを通っていけば安全だな。
「よし、帰るぞ」
 そして、俺達は地下迷宮を後にした。

 外に出てきた時には、すでに辺りは暗くなっていた。入る時にはまだ明るかったから、かなり長い間地下に潜っていたらしい。色葉のデタラメな道案内のおかげで、魔獣と出くわしたり、自分の分身と戦ったり、体が小さくなったり、性転換したりしたが、なんとか無事脱出できた。
 まぁ、憂子は大理石みたいな顔になって自分の家に戻って行ったが。
「美味しいですー、真宮寺君ー」
 自宅。
 カウンター付きのシステムキッチンで、俺は夕食の準備を終えた。
 冷蔵庫にあったあり合わせでチャーハンと野菜炒め、すき焼き風肉じゃがを作り、ガラステーブルに並べた時にはすでに、色葉が食べ始めていた。
 長い黒髪を邪魔にならないようにアップに纏め、どこから持ってきたのか割り箸で豚肉を口に運んでいる。コップとウーロン茶は自分で用意したのか、俺の分も注がれていた。
 誰も食べて良いとは言ってないが……まぁいい。あと二週間の辛抱だ。そう割り切れば少しくらいのことは我慢できる気がしてきた。
 嫌な予感さえ当たってなければな。
「食べないんですかー? 真宮寺君。美味しいですよー」
「当たり前だ。俺が作ったんだからな」
 メイド服姿の女の子がプリントされたエプロンを外して、色葉から一番離れた場所に腰掛ける。
「そー言えば真宮寺君。どーしてあの場所に来たんですかー?」
 色葉が自分の食器を持って、俺の正面に移動して来た。まったく鬱陶しい。
「お前を追っ払うヒントが聞ければって思ったんだよ」
 野菜炒めをチャーハンと一緒に食べながら、冷たく返す。
「はぅー、そうなんですかー」
 大袈裟に肩を落として、色葉はスリッパを履いた脚をパタパタと前後に揺すった。
 ったく、ガキじゃあるまいし。テーブルがガラス製なので、見えなくて良いところまで見える。まぁ、コレもあと二週間だ。
「真宮寺君、私のこと嫌いですかー?」
「嫌いだ」
 俺の即答に色葉の箸が止まった。そしていじけたようにジャガイモをつつく。
「何回も同じこと言わすな。俺は基本的に一人でいたいんだよ。四六時中一緒にいられたら憂子だって嫌いになる」
 なんでフォローしてんだ。俺は。
 ああ、そうか。こいつがヘコむと俺まで暗い気分になるからな。
「……でも、今は一緒にいてくれてます」
「ちょっとくらい離れてもどーせまたお前の方からくっついてくるんだろーが。だったら労力の無駄だ」
「……そうですかー」
「いいから飯、食っちまえよ。片付かねーだろ」
 落ち込んだまま箸を勧めない色葉に、俺は語調を強めて言った。こうしている間も、黒い感情はどんどん俺の中で面積を大きくしていく。
 いくら俺の精神力でも限界があるぞ。
「……あと、二週間しかないんですよぉー」
 割り箸を一本ずつ両手に持ち、色葉は半球状に盛られたチャーハンを小分けにしていく。食い物で遊ぶなって、ガキの頃に教わらなかったのか?
「俺にしたら、二週間『も』だけどな」
 淡々と色葉の言葉に返しながら、俺は次々と皿を平らげていった。
「……私、たーくんと離れたくないですー」
 色葉の消えそうな呟きで、突然飯の味がしなくなる。
 まただ。また出た。
 『たーくん』
 色葉が時々、無意識的に発する俺の呼び名。
「『たーくん』は止めろって言っただろ」
「あ、ご、ゴメンナサイ」
 不愉快ではない。不愉快ではないが、コイツにそう呼ばれると妙な気分になる。まるで、俺が俺でなくなるような……。
「そういやお前、俺の守護霊になりたくって異動届出し続けてたんだって? 最初と話が違わないか?」
 強引に肉じゃがを口に詰め込んで夕食を終え、俺は気になっていたことを切り出した。
「え、と……。そうでしたっけ?」
 ははは、と誤魔化し笑いを浮かべながら、色葉は小分けにしたチャーハンを気まずそうに口へと運ぶ。
 嫌な反応をしてくれるもんだな。
 夜水月の話では俺は幽霊界でも有名らしい。色葉が俺を手頃なステップアップの材料として選んだと言っても筋は通る。だが、コイツは言葉を詰まらせた。ソレが意味するところは――
「お前、まさかとは思うけど。憑く前から俺のこと知ってた、なんてことないよな?」
「ま、まさかー。憑いてから初めて知りましたよー」
 分かり易い反応だ。
 憑いてから初めて知ったわけないだろ。少なくともお前は、俺の噂くらいは幽霊界で聞いてたはずだ。
 もし――もし本当に、上司に無理矢理憑けさせられたのでも、損得勘定で選んだのでもなければ……。
「笑い話にもなんねーけど、お前が昔の俺と直接面識があったなんてこと、ありえねーよな?」
 だが、色葉は押し黙ったまま箸を動かし続けた。
 否定してくれ。頼むから。
「もし本当だったら天変地異の前触れモンだけど、俺が小学校の時に会ってるなんてこと、絶対にありえねーよな」
 そんなわけないと言え。ウソでも何でも良いから。
「小学校の火事を詳しく知ってるなんて言ったら、マジでブッ殺すぞ」
 そうやって黙ってたら、俺の推測が当たってるみてーだろ!
「色葉、お前は幽霊界にいた時に俺の噂を知った。で、美味しい蜜を吸おうと思って異動届を出し続けた。それがめでたく叶って今ココにいる。ソレで間違いないな?」
「……真宮寺君。過去未来手帳を見たんですね?」
「間違いないな」
 俺は一方的に決めつけると、椅子を蹴り倒すくらいの勢いで立ち上がった。
「今日は疲れた。もう寝る。飯は食ったら適当に洗うなり、そのまま放っておくなりしておいてくれ」
 自分でもビックリするほど力のない声で言い残すと、俺は自室に向かった。
 色葉は何も言わず、追いかけても来なかった。
 ただ、暗い思いだけが、俺の中で澱のように沈殿していった。




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